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映画 『食堂かたつむり』

11月6日(日)
immm.jpg 食べることは人間の本源的欲求である。美味しいもの食べたい。料理人が考え、工夫し丁寧に調理された料理を味わう楽しみは生きていく意味を限りなく豊かにする。また自分で創意工夫して手によりをかけて料理したものを自分で楽しみ、人にも味わってもらって感動させることが出来れば作ったことの意義はさらに増すことになる。

料理を作ること、食べることは生きている事を実感させてくれる極めて貴重なものである。料理を作りそれを食べてもらうという行為が心からのものであればあるほど、その真摯な行為は作り手と食べる人との間の心のコミュニュケーションを作り出していく。

がん患者にとって、食事とは病状と切り離せない関係にある。特に抗がん剤の副作用で、長い間吐気に悩まされ続けまともに食事が取れなかったり、口内炎になったり、味覚がなかなか正常に戻らなかったり、食べることに関する様々な障害に直面する。また免疫力が衰えているので生もの食べることが禁止または制限されたりする。

そういった経験を何度も繰り返しているからこそ、食事のことについては、一般の人よりもより一層興味もあるし感心もある。食べることの意義について痛感ぜざるを得ない。おまけに玄米菜食を信奉する人が周辺にいてそういった食事を推奨するなどということもありうるとなるとますます食事の問題は重要である。毎日何を食べるかという極めて日常的な営みは、どのように生きていこうかということと切り離せない関係にある。

『食堂かたつむり』という映画を見た。主人公倫子(柴咲コウ)がアルバイト先の料理店から戻ると恋人の姿はどこにもなく、部屋は空っぽだった。失恋のショックで声を失った倫子は、母・ルリコ(余貴美子)が暮らす田舎へ戻り、小さな食堂を開いた。お客様は一日一組だけ。メニューはなく、お客様との事前のやりとりからイメージを膨らませて料理を作る。

この映画は、料理を作るという行為とはどういった意味持つのだろうかということを明らかにしている。倫子の料理は、客たちに不思議な変化をもたらしていった。倫子が料理で人々の心を癒していく。倫子の料理は、数十年間、喪服を脱がなかった未亡人さえも幸せにする特別な力があった。訪れるお客様の想いを大切にして作る料理は、食べた人の人生に小さな奇跡を起こしていく。「食堂かたつむり」で食事をすると願いが叶うという噂が広まっていった。

「人々に幸せをもたらす不思議な食堂をファンタジックなタッチで描いたヒューマン・ドラマ。じんわりと心にしみる人生賛歌。食堂を開いて人々を料理で癒やしていく様を描く。」といった映画評があった。

料理関係の映画を見ていると、調理の過程に引き込まれる。どのような材料をつかっているのか、どのようなレシピなのか、味付けはどうだなど興味は尽きない。きれいに盛り付けられた完成品だけでなく、料理人が包丁を振るって料理を作る行程が最も見応えがある場面だ。そういった調理場面を見ていると、普段、料理をしない人までも厨房に立って料理をしたいと思わせてしまうものだ。柴咲コウは自分でも料理が好きでご飯は土鍋でを炊くという凝り方だ。彼女の包丁裁きを見ているのも楽しい。

毎日の夕食作りは私の役割だ。毎日メニューを考え調理するが、ともすればマンネリ化してくる。時間に追われているわけではないが、毎日必ずしも心のこもった料理をしている訳ではない。丁寧に心をこめて料理するということは、自分自身の生き方につながってくるのではないかと思う。

人生で極めて重要な、食べるという事をなおざりにしがちになった時に、その人の生きることへの積極性が減退してきているのではないか。心をこめて料理を作るという行為や、食事を味わって美味しく食べるという行為は人生をもっと丁寧に生きていこうとすること、一時一時を大切にしようとすることにつながるのではないだろうか。

『食堂かたつむり』は、美味しい料理を食べる事を通して作られる人間関係、料理を通した人と人との触れ合いを描きながら、食べるという行為が食欲を満たすだけのものではない、人の心を癒してくれる力を持つものだという事を明らかにしようとしているのだろう。

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テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

映画 『オーケストラ』

1月15日(土)
51Ued_convert_20110115231210.jpg ブルジネフ政権下の1980年、ロシア・ボリショイ交響楽団の天才指揮者のアンドレイは、楽団員のユダヤ人の迫害に反対し、とりわけユダヤ人の天才バイオリニスト・レアをかばう。KGBはアンドレイが指揮をし、レアがバイオリンを弾くチャイコフスキーバイオリン協奏曲が始まってから、舞台に登場し指揮棒を折り演奏を中止させてしまう。

アンデレイは翼を奪われたようだと言う。それ以降楽団を解雇されてしまう。アンドレイはいつか復職する日を夢見て、30年にもわたり劇場清掃員として働いていた。ある日パリのシャトレ座から送られてきた出演依頼のファックスを見つけ、偽のオーケストラを結成することを思いつく。

ソ連時代の圧政で地位を奪われたロシアの元天才指揮者が、30年後の今、共に音楽界を追われた演奏家たちを集め、ボリショイ交響楽団に成り済ましてパリ公演を行おうとする。そのためにアンドレイが昔の仲間を尋ね回るシーンは、他の映画でも良くあるが、段々と人が集まり、楽団を形成していくというパズルの抜けたところを埋めていくような面白さがある。

元の楽団員は、今では救急車やタクシーの運転手、蚤の市の業者、ポルノ映画のアフレコなど様々な職業で生業を立てている。しかし皆楽器を手放すことはなく、何らかの形で趣味としてでも演奏している。

楽団員60名分の偽造パスポートを使ったり、パリ行きの航空券は後払いだということで、その金を調達するために下手な金持ちのチェリストに参加を条件にスポンサーとして金を出させたりして、パリ行きの障害をクリアしていく。パリで足りないが楽器や演奏会用の服を闇の業者に頼んで集めたりして物理的な問題は解決するが、今度は、楽団員たちがパリでの自由を謳歌して行方をくらましリハーサル会場にも来ない。

どうにか演奏会本番までこぎつける。指揮者がタクトを取り上げ振ろうとするその時にも楽団員2名が到着していない。少し間をおいている間に2人が到着し演奏が始まる。チャイコフスキーのバイオリン協奏曲である。まさにリハーサルなしのぶっつけ本番だ。こういったはらはらどきどきといったコメディタッチの描写も映画の緊張をほぐしてくれる。

最初は楽器の調子が揃わずこのまままともな演奏は不可能ではなかと思われた。しかし、ソリストであるアンヌ=マリー・ジャンが協奏曲の主旋律を引き始めると、楽団員にチャイコフスキーの魂が乗り移ったように協奏曲が一体となったハーモニーを奏で始めるのであった。この映画の最後の協奏曲の1楽章の演奏はまさに圧巻であり、この映画の全てがここに収斂していく。

このようなパリのシャトレ座での演奏の成功への道のりと、同時にもう一つの謎が横糸として貫かれている。演奏会を通して自らの復活と楽団の再建以外に、アンドレイがパリ公演で人気のスターバイオリンニスト、アンヌ=マリー・ジャンをソリストとして指名した理由が演奏会のもう一つの大きな目的でもあったのだ。2人には深い因縁があったのである。それを知る事によってアンドレイが彼女のバイオリンでチャイコフスキーの協奏曲を演奏するということの重要な意味が浮かび上がってくる。そして最後にその謎が解かれる。

アンドレイは元KGBのマネージャーにいう、オーケストラは自由な心が集まって生まれる、各人が自分の力を最大限発揮し、それがハーモニーとなって一つの楽曲を作り上げていくものだ。むしろコミュニズムとはそういったものではないか。

圧制で楽団員としての職を奪われ、さまざまな困難を経験してきたのだろう。そして30年の年月を経てもなおかつ1つになりえる演奏家達の思いがあった。共に奏でた者のみが知る心の絆である。彼らをそこに導いたのは、音楽への深い愛情なのだろう。彼らの逆境を笑顔で力強く生きていく姿、そのしたたかさと強靭さには学ぶべきものがある。それは音楽が支えているのだろう。同時に人はいくつになっても情熱と勇気さえあれば、人生をやり直す事が出来るということを我々に強く訴えかけるている。

30年前に中断されたチャイコフスキーの協奏曲を再び演奏したい、これはアンドレイにとってあきらめようにもあきらめきれない想いである。これはある意味でレアへの鎮魂曲でもあるのだ。楽団員はそれぞれの30年間の思いをこの曲を演奏しながら解き放っていく。そしてその思いは一体となってチャイコフスキーのバイオリン協奏曲は飛翔する。

この映画の主旋律はチャイコフスキーのバイオリン協奏曲である。CDで持っているのはアイザック・スターンの演奏で素晴らしいものであるが、この映画で最後にそれまでの歴史が集約され、凝縮された形で奏でられる演奏を聴いた感動はまったく別ものであった。

また映画の随所にクラシック音楽が取り入れられている。モーツァルト、パガニーニ、バッハ、シューマン、ハチャトゥリアンなどの曲が演奏されている。クラシック・ファンにはかなり興味を引かれる映画に違いない。
(製作:2009年フランス映画、原題:Le Concert、劇場公開日:2010年4月17日)

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

映画 『赦し』 その遥かなる道

10月11日(月)
被害者感情と死刑
死刑制度について考える時、一番の問題は被害者遺族の感情だろう。死刑制度に賛成する人の多くは被害者の報復感情をあげている。 被害者の気持ちを思えば、犯人を極刑にするのは当然だ、という論点だ。しかし犯人を死刑にすることで憎しみは消えるのだろうか、何かが解決できる問題なのか。本当に被害者家族の心はそれによって癒されるのか。

遺族の中には「犯人が死んでも娘は帰ってこない。犯人には一生償いの日を送ってもらいたい。」と応える人もいる。犯人の処刑を望んでいるわけではない被害者遺族もいる。しかしそれはマスコミで放映さない。マスコミは被害者遺族の報復感情をことさら煽り立てそれを前面に押し出して、センセーショナルに「犯人を極刑に」という世論を作り上げる。死刑存置の流れは被害者感情を理由に形成されていく。

『デッドマン・ウォーキング』という映画の中で、死刑執行に家族が立会い執行を見届ける。しかしそれによって何かが変わるものではない。犯人に対する憎しみが消えるわけでもない。加害者の死刑は何も解決しなかった。そこに救いはなかった。映画の最後に、娘を殺された父親が、それまでは加害者の味方として排除されていたシスター・へレンの所に来て、「赦す」という心境に一緒になって向かいたいと言ってきた。救いはそこにしかなかった。

被害者感情と死刑制度は別問題だ
死刑廃止議員連盟の亀井氏は語る。「被害者の報復感情を満足させるという考えは大昔からあります。人間ですから。しかし、報復感情を個人としてもっているということと、国家としてそれを認めるということは別の問題です。私たちは、国家が否応なしに、被害者に代わって報復するということと決別すべきです。

国家は人の命を大事にするのが原点で、殺人をしてはならない。長い間拘置され、もはや社会に危害を与えないものを殺すのは国家による殺人のほかならない。」

映画 『赦し』 その遥かなる道

0ced_convert_20101011180023.jpg被害者遺族が抱える問題を真正面から取り上げた映画がある。韓国の代表的な民間放送局であるSBSが一般劇場公開用として制作し、2008年の秋に上映された。その日本語版をFORUM90が製作し各地で上映運動を行なっている。その映画は死刑廃止を訴える映画ではない。死刑について考える時避けては通れない被害者遺族の救済を扱ったものである。

FORUM90の映画説明には次のように書かれていた。
「 無惨な犯罪の犠牲となった被害者遺族の方々、愛する者を殺された人々の想像を絶する苦痛と喪失感、殺人者と社会に対する憎悪、また反対に、殺した者の許されることのない痛恨。誰しも耐えることができない大きすぎる苦痛に打ちのめされ、それに身悶えし、のたうち回りながらも、それぞれが究極の選択で乗り越えようとする人々。この作品は、死刑という人間の作ったひとつの社会制度に関するものではなく、人間と人間性そのものに関する映画なのです。」

この映画は、殺人者に対する怒り・憎しみと赦しをめぐる実在の被害者遺族への取材の記録である。残虐な殺人犯罪の犠牲者たちの心情がむき出しの形で表現されている。愛する妻と母親と一人息子のすべてを殺され、絶望に悶え苦しむ父親コ・ジョンウォンさんの心の葛藤を中心に進められる。また一人の殺人者のために3人の兄弟を次々と失いひとり残された弟は、消えることのない憎悪を糧に、一日一日を生き延びる。

生きるために赦すことを選択した者と、憎しみを糧に生き延びる者、この対極の2人を対比しながら、映画は進行していく。残された者は、自らが生きるため、殺人犯を赦す道を選択する以外になかった。愛する家族を殺した殺人犯を赦すことにより、悶え苦しむひとりの人間、コ・ジョンウォンさんの凄絶な物語である。

彼の被害者遺族として生きてきた過程は、迷いと苦しみ、死を考えるほどの絶望と消えることのない憎しみ、究極的な人間の強さとその対極の脆弱さが揺れ動きながら、次第に赦しの境地に近付いていくものであった。その過程の中で、我々は彼の崇高な人間性を感じる事が出来るのである。

被害者遺族の本当の意味での救済を

『赦し』の日本語版ナレーションを担当した竹下恵子さんは完成記念試写会で次のようには発言した「愛する者を亡くすというのは、何ものにも代えがたい大変深く大きな哀しみであり、苦しみです。哀しみの中にあってもやはり人は生きなくてはいけない。主人公コ・ジョンウォンさんご自身は生きていくために殺人犯を赦している。誰にでも出来るものではない。

・・・殺人事件の被害者、そして遺族の皆さんの本当の意味の救済がなされない限り、真の解決はないように思います。私は被害者家族の方たちの生活上の問題、それに伴う精神的な救い両方が解決されていかなければ、本当の意味での死刑廃止の意味はないものと思います。」

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映画 『告白』

8月12日(金)
315x210_convert_20100813114140.jpg『告白』は湊かなえの同名小説を、『嫌われ松子の一生』の中島哲也監督が映画化したものである。映画を見る前に小説を読んだ。小説では、何人かの主要人物の独白を中心とした表現様式によって事件の真相を、徐々に外堀を埋めていくように明らかにしていく手法の斬新さに感心した。

独白を通しながら、1つの殺人事件をそれぞれの価値観で回想していく中で、各人が全く違った見方をしている事が明らかになっていく。それは個人的価値観の相違であり、社会的「悪」も、個人的な「正義」にいつでも転化できることの意味を鋭く問うことになる。もともと各人の価値基準と社会的善悪の判断は別の所に存在する。自分が価値を置いているものを蹂躙されたことへの怒りと憎しみの表現は「復讐」という社会的モラルを踏み越えた形で表現され、それは善悪の彼岸にあるのだ。

小説を読んでから映画を見るか、映画を見てから原作を読むか、判断は別れる。小説を読んでから、その小説が面白かった場合それがどのように映像化されるかに興味ある。小説を凌駕するような映画にはめったに出会うことはない。しかしこの『告白』は小説をかなり忠実になぞりながら映像化しているが、監督独自の映像表現の中で、かなり見応えのある作品として仕上がっている。

STORY:女教師・森口悠子の3歳の一人娘・愛美が、森口の勤務する中学校のプールで溺死体で発見された。数ヵ月後、森口は終業式後の1年B組のホームルームで、37人の前に立ち「警察は事故死と判断しましたが、娘は事故で死んだのではありません。このクラスの生徒2人に殺されたのです。」と衝撃の告白をし、ある方法でその2人の生徒に復讐をしたことを明らかにする。

13歳の中学生の殺人事件、彼らの中に潜む心の闇が1つの形となって表出した事件である。この中に3組の母親と子供が登場する。娘を殺された母と娘の関係、犯人Bと過保護な母親との関係、犯人Aの母親への渇望、この子供と母親の関係性が横軸となり、学校という閉鎖社会を縦軸とし、現代社会における子供達の生き辛さをも絡ませながら物語は進行していく。

「これは復讐譚ではない。学校崩壊の状況下、それでも教師としての性を全うしようとする女性が、子供の目線に降り命の尊さを過激に諭す残酷寓話である。人間臭いゆえ泥沼にはまった者が抱える痛みと哀しみ。憎悪は反転し慈愛へと向かい、生きづらい時代の大きな物語に昇華する。」(清水節)(eiga.com)と解説にあった。

娘を殺された森口悠子が、ホームルームでの告白の途中黒板一杯に「命」と書く。この映画の中では、「命」とは何かを考えさせられる場面が様々な形で表現されている。最愛の娘の命を奪った犯人に対して殺したいほど恨み憎しみを抱くのは当然だろう。それも大した動機がある訳でなく、遊び半分、または自らのプライドのため娘を殺されたのだ。

その意味で彼女の復讐は、「命」の重みを自覚させるためにといった方法になった。自らの死を望む犯人Aに対しては、勝手に死なせないという手段をとった。復讐は綿密に組み立てられ進行していく。しかし復讐が完遂したとしても娘は戻らない。時々その空しさに打ちのめされる事もあるが、復讐は最後まで行われる。少年法で刑事罰の対象にならない13歳の犯人A、犯人Bは自らの犯罪によって自壊していく。

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ジャンル : 日記

映画 『BOX 袴田事件 命とは』

6月14日(月)
T00_convert_20100612231909.jpg 袴田事件の再審運動を担っている知人から、是非見て欲しいと紹介された映画が『BOX 袴田事件 命とは』だった。5月29日から、渋谷ユーロスペースと銀座シネパトスで上映されている。先週の金曜日ユーロスペースに見に行った。平日の午後ということもあってか、テーマが重いからか観客は10人位しかいなかった。

袴田事件は、事件経過、裁判での争点、再審での争点など基本的な知識は持っていた。それをどのように映画化するのかの興味もあった。映画は裁判官と被告という2人の存在が交錯する。袴田巌が無罪だと信じていながら、多数決で主任判事として死刑の判決文を書かざるを得なかった熊本裁判官の苦悩が中心的に描かれている。

彼は裁判官退任後、控訴審の弁護士宛に自分で実験した様々な資料を送り、袴田の無罪に向けて努力するが、一旦一審で有罪と確定した判決を覆すのはかなり困難なことだった。それだけ一審判決は重く、それだけ熊本の苦悩は増す。

映画は、事件の発生から取り調べ過程など、時間に従って淡々と細かく丁寧に描き、虚偽の自白が生まれる構造や、冤罪が作られる過程が克明に描写されている。熊本が検察側証拠の問題点を指摘するための実験の様子は、袴田無罪をますます確信させる。

* そもそも事件後徹底的に捜索した味噌樽から1年後に、犯行時の着衣が発見されること事態がおかしいが、実験の結果、味噌の中に1週間でも衣類を漬けておくと、どす黒く染まってきてしまう。それが1年以上漬けてあったという検察側が新証拠として提出した衣類がほとんど黒ずんでいないといった問題点を確認する事が出来、検察側の捏造である疑いを強くするものであった。

* 被害者の刺し傷、計44ケ所をくり小刀で刺した場合刃はどうなるか、豚を吊るし、そこにくり小刀で刺すという実験を行なった時の刃の損傷状態は、検察側が証拠として提出している袴田が使用したとされるくり小刀の状態とはあまりにも違う事が分った。

* 裏木戸から逃げる時、下のかんぬきだけ外して狭い隙間から逃げたと供述しているが、実際に裏木戸と同じ模型を作り、下のかんぬきだけを外して外に出ようとしても体が入らなかった。

* さらに44通の警察での供述調書の内容の変化について、深層心理学の教授に話を聴く。「人は狭い場所に閉じ込められ抑圧状態に置かれると、本能的に今の状態から逃れる行動をとる。相手の意のままに従い、相手の希望する言葉を作り出し今の状態から逃げたいと考えることしか出来なくなる。たとえ嘘の自白によって死刑になるという事が分っていたとしても、ともかく今の苦痛から逃れたいと思うのは人間の本能だ。」

ほとんど寝られない状態で朦朧としていて、さらにいつ終るとも知れない暴行がひたすら繰り返される。このままではなぶり殺されてしまうという恐怖感の中で、袴田は嘘の自白をしてしまう。

* 熊本はこういった実験を繰り返し、専門家の鑑定を聴く事によって、ますます袴田無罪への確信を強めていく。しかし、控訴審も上告審も棄却され袴田死刑が確定していった。

* こういった過程を映画は丹念に描き、それによって観客は袴田無罪の心象をより一層強くしていく。事実の積み重ねこそが真実を明らかにしていくのである。

 映画の紹介
あなたなら、裁けますか?「俺は殺人犯と一緒っちゃ…。俺を死刑にしてくれんね」
平成19年、元担当裁判官・熊本典道が発した告白。「袴田巌は、無罪である」。この苦悩に満ちた40年目の告白が、マスコミに、世論に衝撃を与えた。これは1966年6月30日未明、静岡県清水市で実際に起きた≪袴田事件≫を基にした元裁判官の物語である。

裁判官を辞職し、苦悩する典道は、巌の無罪を実証しようと動き始める…。人は人を裁くことができるのだろうか?人を裁くことは、同時に自分も裁かれることではないか?死刑確定後の現在もなお、冤罪を叫び、再審請求が続けられている<袴田事件>。苦悩する裁判官の姿を通し、人を裁くことの困難と命の尊さを描いた。(公式HPより)

 袴田事件の経過
静岡県中部、静岡市の東に隣接する旧清水市で、1966年(昭和41年)6月30日未明、味噌製造会社の(橋本)専務宅から出火、全焼した現場から、刃物による多数の傷を受けた一家4人の死体が発見された。

メッタ刺しにされた死体の刺し傷はあまりに多く、正確な数はわからない。4人の傷の総計は、少なくとも45ヵ所。警察は、焼け跡から発見されたクリ小刀一本を凶器としたが、先端がわずかに折れていただけだった。刃こぼれもしていない。また、警察の調査によると、約8万円のカネが奪われたというが、多額の金品は、手つかずに残されていた。

「こがね味噌」の従業員だった袴田巌さん(30)は、仕事が終って夕食の後、橋本家に近接した工場の2階にある寮の自室に帰った。同僚と将棋をさした後、テレビドラマを見た。午後11時過ぎ、パジャマに着替え、消灯し寝た。

消防車のサイレンの音で目がさめた。グッスリ寝こんでいたので、しばらくの間ウトウトした。「店が火事だ」という隣の部屋にいた同僚の叫び声に飛び起き、パジャマのまま自室を出て駆け降りた。同僚が「消化器、消化器」と大声で駆けてきたので、一緒に探したが見つからない。

やっと消火栓に取り付けるホースを見つけ、同僚たちとホースの束を持って、事務室の前にある消火栓に走った。火事は20分程で鎮火した。消火作業中に水をかけられズブ濡れになった。これが事件当夜の袴田さんの取った行動のすべてである。アリバイは完ぺきで、袴田さんと事件との関係は皆無だった。(「無実の死刑囚・元プロボクサー袴田巌さんを救う会」文書より)

 袴田事件の問題点・裁判での争点
§ 取調べ過程
袴田への取調べは過酷をきわめ、炎天下で平均12時間、最長17時間にも及んだ。さらに取調べ室に便器を持ち込み、取調官の前で垂れ流しにさせる等した。

睡眠時も酒浸りの泥酔者の隣の部屋にわざと収容させ、その泥酔者にわざと大声を上げさせる等して一切の安眠もさせなかった。そして勾留期限がせまってくると取調べはさらに過酷をきわめ、朝、昼、深夜問わず、2、3人がかりで棍棒で殴る蹴るの取調べになっていき、袴田は勾留期限3日前に自供した。

§ 自白は強要されたものか。
任意性に関する争点 : 自白調書全45通のうち、裁判所は44通を強制的・威圧的な影響下での取調べによるもの等の理由で任意性を認めず証拠から排除したが、証拠として採用されたのは、たった一通だけである。しかし他の44通の内容と異なった特別の内容があったわけではない。即ちこの一通の自白調書を採用した論理的根拠は何もなかった。

信用性に関する争点 : 自白によれば犯行着衣はパジャマだったが、1年後に現場付近で発見され、裁判所が犯行着衣と認定した「5点の衣類」については自白では全く触れられていない。

§ 凶器とされている栗小刀で犯行は可能か。
つばの付いていない栗小刀で44回に及ぶ刺突があったとされているが、彼の手の平には切傷がついていなかった。またクリ小刀は、先端がわずか1cm程度折れた程度で、あとは原形をとどめたままである。刃こぼれもない。

§ 逃走ルートとされた裏木戸からの逃走は可能か。
消火に駆けつけた住民の一人は、裏戸は「押しても引いても、びくともしなかった、そのため消防士らが体当りで裏戸を押し開けた。」と証言している。

§ 「5点の衣類」は袴田さんの着衣か
事件から1年2ケ月後、工場内の味噌タンクから発見されたということで、大量の血痕が付着した五点の衣類が証拠として提出された。しかし警察側の唯一の物証である着衣は、サイズから見て被告人の着用は不可能である。血液の付着状況は経験則に明らかに反しているのである。

 映画を見た人の感想
「人が人を裁くことの難しさについて考えさせられた」
「裁判員制度が始まり、人を裁くことがあり得る今の時代だからこそ、未来をになう若者に観て欲しい」
「ひとりの人間の人生を終わらせてしまう社会制度を見直すべきではないかと考えさせられた」
「正義を貫くことの難しさと、人を裁く立場にいる人も、裁かれていることを知った」

 監督は語る
「裁判員制度が始まって、まず思ったのは人を裁くことの重さというおことです。」「もし間違いが冤罪につながり、ひとりの人生を奪ったとしたら、それは取り返しのつかない罪であり、科した刑以上の量刑をその人は負うべきでしょう。そんな思いを<袴田事件>を借りて映画にしたいのです。」

 映画に込められた主張
裁判では犯行を全面的に否認。裁判官の熊本は警察の捜査に疑問を抱き始める。乏しい物証の中での、強制の疑いのある自白…。しかし熊本は、無罪を確信しながらも他2名の裁判官の合議に負けてしまう。昭和41年に発生した、いわゆる「袴田事件」。死刑確定後の現在もなお、冤罪を叫び再審請求が続けられている事件だ。

無罪を確信しながらも、死刑の判決文を書かなければならない判事の苦しみ…人が人を裁く事の重さは、裁判員制度が導入された今日、現実に私たち自身が抱える問題となった事を思うと、決して他人事ではない。

2009年5月21日、一般国民が審判を下す裁判員制度制度が導入され、『BOX 袴田事件 命とは』に描かれた熊本典道の苦悩、人が人を裁くことの重さは、同時に現実の我々自身が抱える問題となった。

 裁判員制度の問題点
「裁判員制度はいらない!大運動」は裁判員制度の問題点について次のように主張している。
裁判員制度に対する現段階における世論にあらためて注目してください。2009年5月3日の新聞は、「裁判員裁判に参加したくない」が過去最高の79.2%になり、「裁判員制度の導入に反対」が62%と「導入賛成」の34%の2倍近くになったことを報じました。(読売))5月10日のテレビも、「参加したくない」が84.4%に達したと報道しています。(日本テレビ系)

これが、政府・最高裁が野党、日弁連、マスコミを巻き込み、莫大な血税をつぎ込み5年間の歳月をかけて展開した宣伝に対し、国民が下した「最後の審判」です。国民は、裁判員制度が「市民の司法参加」ではなく、被告人を処罰するという国家作用への強制動員であることを見抜いています。そして、わずか数日で重大な刑事事件を審理し、有罪か無罪かを判断し、死刑をも含む刑罰を決定することの無謀さを危惧しています。

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yosimine

Author:yosimine
がん治療とは長く細い道を辿ら
なければならない。その先に希
望があると信じながら。

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