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同じ職場にいた友人宅訪問

4月21日(木)
 昨日は血液内科の診療はかなり早かった。9時15分頃採血をして、9時半に口腔外科の診療を受け、10時半に血液内科の診療を受けることが出来た。診療が終るとすぐ外来治療センターに呼ばれベッドに案内された。

点滴薬は15分位で届いた。医者も結構早く来てくれて、点滴は11時半に始まり12時には終った。その後会計をし、薬を受けとって12時過ぎには病院を出られた。同じ事をやっても前回は15時近くまでかかった。同じ水曜日なのにかなり混む日とそうでない日があるのは不思議なものだ。

時間が早かったが帯状疱疹神経痛の痛みがあったので、どこかを回るという気分ではなかった。同じ職場で働いていた同僚が昨年4月定年退職している。家にいるかもしれないと思い電話してみた。運よくいたので訪ねてみる事にした。その前に駅の近くで昼食をとった。食後に医者から処方された帯状疱疹神経痛の薬リリカを飲んだ。どれ程の効果があるのか期待がふくらむ。

 元の職場の同僚のH氏とは入社時期もほぼ同じで35~6年同じ会社で働いていた。その内H氏が営業社員として7,8年浜町の本社勤めをしていた時期を除いて、流通センター業務を一緒に担ってきた間柄であった。

彼は40歳位の時から腰痛を患うようになった。仕事の関係でどうしても重いものを持ったりしなければならないので腰を痛めやすい。腰痛という持病を抱えながら仕事をこなすというのはかなり辛いことだったろう。腰痛の悪化で職場を休む事も何度かあった。1ケ月位入院していた事もあった。

私が入院すると聞いて見舞いに行くつもりだったが持病の腰痛が悪化して医者だけにはどうにか通っていたが、それ以外外出できるような状態ではなかった。そういったことで見舞いにこれなったので、退院したらこちらから訪ねると言っておいたのだ。その約束を果たすのに天気も穏やかだし、時間的にも訪問するのに丁度いい。

 彼の家は西日暮里から千代田線に乗れば30分位で着く。駅前のスーパーで飲み物とつまみを買って訪問した。昼間から飲みながら四方山話をするといういつものパターンだ。H氏は昨年4月に退職して、半年間失業保険をもらっていた。その時に職安で仕事を探したが、紹介された仕事の多くが肉体労働でどうしても腰を使わざるを得ないので無理だと判断し、事務仕事を探したが中々見つからなかった。

結局働く事をあきらめて私と同じように悠々自適の生活をしているというわけだ。今は年金の報酬比例部分を受けとって生活している。貯金もあるし、マンションのローンは既に払い終えているので、どうにかそれで生活することが出来るそうだ。

腰痛の根治を目指して様々な病院に行ったが、年齢的に手術をしてもそれ程効果が見られない、対処療法しかないと言われた。病名は腰部脊柱管狭窄症で、「神経根が圧迫されるタイプ」などで、症状の軽い場合は、「姿勢の改善」「運動」を心がけ、痛みがある場合は、「安静」を心がけながら、下記の保存療法を中心に治療を進める。

薬物療法(非ステロイド性消炎鎮痛薬や内服薬、貼付薬、塗り薬)、理学療法(温熱療法、超音波療法)、装具療法(腰部コルセットを装着)、神経ブロック(血流改善、炎症を鎮める「局所麻酔薬」を注射)

 H氏は、こういった療法を使いながら腰痛に対処している。また彼は10年ほど前、引越しの最中つまずいて顔面を床に打ちつけ、その時首をかなり強く捻ったようだ。鞭打症の状態だ。頚椎の神経が麻痺し全身の神経が機能せず体が全く動かない。声も出せない。

倒れた場所が玄関で、入口の扉が開いていたので、通りがかった人が救急車を呼んでくれて病院に運ばれた。その後頚椎の手術をした。その手術は成功し体の何処にも痺れなどの後遺症が残ることはなかった。このアクシデントで彼は2ケ月職場を休まざるを得なかった。

H氏は思わぬ所で思わぬ事故に遭遇した。また持病を抱えて思い通りの仕事が出来ない。私も持病を抱えているといえば言えなくもない。似たもの同士という訳だ。飲みながらの話はまずはお互いの病気の状態の報告からだ。その後はどうしても原発事故の話になってしまう。原発の問題点と原発事故に対する東電の対応に対する批判を互いに言い合うことになった。2時間ばかり話をしたので帰る事になった。

 気がつくと大分前から帯状疱疹神経痛の痛みは全く感じられなくなっていた。リリカという鎮痛剤がかくも神経痛の痛みに効果的だとは信じられないことだ。普通の鎮痛剤は大体痛みが和らぐことはあっても全くなくなることはない。しかしリリカは全く痛みを感じなくなる程の効果を発揮しているのだ。このような鎮痛剤を経験したことがない。リリカは薬を飲んでから徐々に効き始め2時間位で全く痛みを感じなくなる程の効果的な薬なのだ。

リリカ75mgを朝晩服用しているが、20日の15時頃H氏の家で帯状疱疹神経痛の痛みが消えて以降、一切痛みを感じることがない状態が続いている。痛みがないというのはどんなに解放された気分であるのか。体の消耗感もなくなり、痛みがひどい時にはすぐ横になりたくなったが、そういった事もなくなった。痛みは消耗感をも生み出していくものなのだ。
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テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

組合活動から管理職へ

12月10日(木)
『沈まぬ太陽』を見て自分の人生を嫌が応でも振り替えざるを得なかった。管理職になった時には、会社の組合潰しの意図をそれ程はっきり認識しきれず、そういった攻撃に屈服したという自覚はなかった。しかしその後組合がまたたくまに潰されていった時に、嫌でも会社の意図を知るはめになった。

元勤めていた会社はマネキン・ディスプレイ業界で、仕事は内装、ディスプレイ什器の売却、リースを行っていた。そのためのデザイン室や、什器の製作修理を扱う工場、什器の運搬のための流通センターなどがあった。

1987年8月同じ身分で同じ業務内容に携わっていた5人と共に正社員になった。それまでは契約社員的、請負的な勤務形態で展示会やイベントの設営を主に仕事としていた。契約社員といっても年金、健康保険、失業保険は社員並みに保障されていた。こういった身分の方が気楽だったが、その頃会社が経営危機に陥り、いざとなった時社員の方が発言権があるだろうということで社員になったようなものだ。会社は親会社のてこ入れで持ち直した。

社員になってすぐに組合の役員になった。組合はユニオンショップ(新規に雇用された労働者は一定期間内に労働組合に加入するこが義務づけられる)で、またチェックオフ(使用者が組合員である労働者の賃金から組合費を天引きし、一括して労働組合に渡す制度)の体制もあり非常にやり易かった。こういった体制を足場にして今までの組合とは全く違う労働者の権利を正当に主張していくものとして作り変えていった。

94年には全国一般北部地域支部に加盟した。社長はかなりこれに対して怒り、上部団体との団交をあくまでも拒否した。春闘の時期には全国7ケ所の営業所の組合員を集め本社で総会を行った。社員の4分の1位が集まった。地方営業所からは代表が参加した。全国一般北部支部の委員長や書記長を招いて講演を行ってもらった事もある。また各地の営業所に出向き春闘の経過報告なども行った。ほぼ10年間組合を担ってきた。

97年、組合の役員であった私を社長は課長になるよう説得した。「年齢的にも現在の業務内容から行っても課長がふさわしい」という訳だ。この時は組合の委員長も書記長も若い人が担っていた。私も50歳になろうとしており組合は若い人が積極的にやってくれた方がいいだろうと思った。私がいる限り頼り切って自立できないので身を引いた方かいいかもしれないと思った。しかし一方で私が管理職になり組合を担えなくなれば、組合が弱体化するだろうとは思ったが、まさか潰されるとは思いもしなかった。

もし社長の要請を拒否していたら、地方営業への転勤を命ぜられるか、降格・配転・出向などの処置を取るだろう。そういった攻撃を恐れていたわけではないが、そろそろ組合からの引き際だろうと思ったのは確かだ。

結局、私はその管理職になれといった社長の要請に応じた。このことは自分の中では止むを得ないことして受け止めたが、従業員全員に対する裏切りであるのは確かだった。予想以上にすばやく組合潰しが始まった。半年位のうちに社長の工作で組合はまず全国一般から脱退し、その後チェックオフで集まった組合費を分けて解散してしまった。こんなにまで露骨にスピーディに事が行われるとは予想もしていなかった。

私を管理職にした意図がこれでもかといった形で突きつけられた思いだった。たった一人の人間を切り崩すだけで、長年積み重ねてきた組合の体制があっという間に崩壊してしまった。今まで10年近くどのように組織を打ち固めてきたのだろう、どのように後進を育ててきたのだろうといった反省が強く胸に刻み付けられた。

その後、労働条件は全て社長の一存で決められていった。リストラを始め、残業代カット、就業時間延長等考えられない労働条件の悪化が何の抵抗勢力もないまま行われていった。これは大きな後悔として私の心の中に残り続けた。結局意識せずとも自己保身のため課長になったのではないかといった敗北感が強く心を打ちのめした。

『沈まぬ太陽』をみて主人公・恩地の姿勢に自分のやってきたことを映し出さざるを得なかった。彼は徹底的な報復人事に迷い迷いながらも、本社に帰りたければ、組合から脱退し、謝罪せよといった会社の恫喝に屈服することなく、10年間最初の2年間は家族も一緒だったがその後は単身赴任で海外勤務を強いられた。本社に戻ってからも閑職に追いやられ、御巣鷹山墜落事故の遺族の窓口といった困難な誰もやりたくない仕事に回されたが、彼は誠心誠意その仕事に取り組んだ。

何が彼をそうさせたか。それは一緒に闘った仲間の存在だろうと思う。仲間が賃金格差による低賃金で働かされ、昇格差別を受け、閑職に追いやられ、劣悪な勤務場所に配転させられ、第2組合の上司に徹底的にいじめられるなどの現状を見て、自分だけ転職したり、会社に屈服するわけには行かないと思ったのだろう。

元の組合の役員が常務の命令で不正を働かざるを得ない状況に追い込まれたが、結局最後に仲間と闘った時の思い出の写真を胸に死を決意し、検察庁宛に常務の不正を告発する書類を送った。この行為の持つ意味が恩地の行動をより一層理解させる。組合を、仲間を裏切った自分の選ぶ道は死しかないという、仲間にたする感情が共通のものとして存在していたのだろう。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
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退職金問題・労働審判申立

9月14日(月)
16時から人形町にある弁護士事務所での打ち合わせがあった。退職金の減額・就業規則の不利益変更に対する会社側を相手どっての「労働審判手続申立書」の内容検討を行う。

弁護士事務所は日比谷線の人形町と半蔵門線の水天宮の中間にある。今回は水天宮から行ってみる事にした。早めに駅に着いたので今まで行ったことが水天宮に寄ってみる事にした。水天宮駅を上がればそこが水天宮だ。急な階段を上るとそこが境内になっている。

oozei_convert_20090916211738.jpg最近大改築をしたのではないかと思われるほど建物の色彩が華やかだ。全てがコンクリート製で、神社特有の朱色を基調とした色彩が鮮やかに映え、恐らく立て替えてから2、30年は経っているのだろうが、真新しい感じを与えている。

1階全体が駐車場になっていて、その上に境内があるという何とも神社としては不似合いな合理的な造りになっている。古くからある神社なので古色蒼然としたイメージだったが、全く違っていて驚いた。それでも安産祈願、子育ての神社として戌の日には大勢の参拝客が詰めかけるらしい。

水天宮は、福岡県久留米市の水天宮を総本社とし、日本全国に30ケ所近くある神社である。水と子供を守護し、水難除け、農業、漁業、海運、水商売、また安産、子授け、子育てについて信仰が厚い。天御中主神(あめのみなかぬしのおおかみ)、安徳天皇、高倉平中宮(建礼門院、平徳子)、二位の尼(平時子)を祀っている。

弁護士事務所での会議では「申立書」の最終検討を行った。特に強調しておきたい点として提案したことがある。H氏が退職の際、退職金の金額が少ない事に気がつき、会社に問いあわせたが退職金規定の改定については一切明らかにしなかった。

H氏が退職金規定の一方的改定を始めて知ったのは、労基署が会社に改定された退職金規定の提出を要請し、労基署から新退職金規定を見せられた事によってである。

このことから、会社側は就業規則の不利益変更に関して労働者に徹底させる所ではなく、むしろひたすら隠蔽しようとしていたことが明らかである。これはまさに労働基準法の90条、106条に違反する重大な不当労働行為と言える。

こういった内容を盛り込みながら最終的に「申立書」を確定し、裁判所に今週中に提出する。それに対する反対意見を、会社側は答弁書として裁判所に提出する。それが届いた段階で、会議を持って答弁書への反論を検討しなければならない。

そして労働審判の日が決まった段階で最終の打ち合わせをして審判に望む。第1回審判でどのような主張をしたらいいかの検討を行い必要資料を審判の日まで揃える必要がある。第1回労働審判でこちら側の主張は全て出さなければいけないので、遺漏がないように準備しなければならない。

労働審判手続は,労働審判官(裁判官)1人と労働関係に関する専門的な知識と経験を有する労働審判員2人で組織された労働審判委員会が,個別労働紛争を、原則として3回以内の期日で審理するというのだから、第1回審判で原告、被告双方の主張は全て出し尽くさなければならない。それだけ準備が大変だということだ。

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退職金問題

8月12日(水)
しばらく前に、職場の同僚H氏から電話があった。彼は年齢も同じで、同じ年社員になった。今年の3月31日付けで定年退職になった。私の場合病気休職1年後の退職ということで2006年12月20付で退職している。

彼が言うには、退職金の額が少ないと思って会社に問い合わせたが、退職金算定の根拠が会社側からはっきりと示されないので、労働基準監督署から会社側に問い合わせてもらった所、会社側は2005年4月、就業規則の退職金規定を役員会で勝手に変更し、退職金額をほぼ4分の1に減額したということが分った。この就業規則の不利益変更が、全く従業員に知らされないまま隠密裏に行なわれていたのである。

私の場合、退職金が少ないなとは思ったが、退職した時、移植が終わったばかりであり、療養中の身であり、まさか退職金規定が変更されているとは露ほどにも思わず、会社が振り込んだ額をそのまま受け取るだけであった。

H氏は、知り合いの弁護士に頼んで、会社側に内容証明郵便を送った。その通知書の内容は以下のようなものである。1、総論、旧規定と改悪後の退職金の差額について、2、旧規定適用の根拠、(1)手続的瑕疵、ア、労働者の意見聴取義務違反(労働基準法90条1項)―就業規則の不利益変更に関しては労働者の過半数を代表する者の意見聴取義務。イ、周治義務違反(106条1項)、(2)変更内容の不合理性、3、結語、旧規定による退職金支払いを求める。

これに対して、会社側からは「退職金規定変更後4年経過しているのもかかわらず、変更実施以前の就業規則に基づく退職金規定の適用を請求をしているのは理解しがたい。」との返事であった。

今日は、この会社側の対応に対してどうして行くかを相談するために、弁護士事務所を訪ねた。H氏に指摘され、計算すると退職金は旧規定と新規定では1.5倍近くの差がある。

長年会社に貢献してきた者に対して、その退職後の生活を支えるための退職金に対して、最後にその労をねぎらうのでなく追い払うような扱いを感じさせる退職金規定の引き下げは許しがたい思いがする。14年連続して経常利益を上げ続けている会社が従業員に対してどういう対応を取ってきているのか、それがこの不利益変更に如実に現れている。

弁護士から労働審判という制度があると説明された。 裁判所ホームページには次のように書いてあった。「労働審判手続は,労働審判官(裁判官)1人と労働関係に関する専門的な知識と経験を有する労働審判員2人で組織された労働審判委員会が,個別労働紛争を,原則として3回以内の期日で審理し,適宜調停を試み,調停による解決に至らない場合には,事案の実情に即した柔軟な解決を図るための労働審判を行うという新しい紛争解決手続です。」

今日の弁護士との話でH氏と私ともう1人の3人で、労働審判手続きに進む事にした。早急に訴状を作成し、裁判所への提訴を準備していくことにした。

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病気と仕事と年金

5月18日(月)
 仕事と自分の時間
病気にならなければ何の矛盾も感ぜずそのまま仕事を続けていたとは思う。会社は64歳まで身分は嘱託だが働くことは出来る。しかし定年になったら退社しようとは思っていた。それまで耐えて頑張って行こうとは思っていた。

確かに在庫管理、出庫準備に関するトラブルは仕事の苦労の多くの部位分を占めていたが、土日も出勤し深夜まで続く不規則な勤務形態に対しても、自覚はしていなかったが年齢的なことも含めてやはりきつくなってきていたのかもしれない。こういった仕事では自分の時間は全く持つことが出来なかった。日曜でも夜仕事が入っていると昼間何かまとまったことをやるという意欲が湧いてこない。仕事以外自分の人生は存在しなかった。

仕事中の怪我で血が止まらず専門病院での検査の結果、医者からガンの宣告を受けた。その時渡された診断書には「血液ガンの疑いあり。一般的には3ケ月から6ケ月の治療期間後、社会復帰が可能と考えられております」と書かれていたので3ケ月~6ケ月の治療で職場復帰できると思い、仕事が忙しく疲れ気味だったということもあり、これで少しは休めると楽観的に思い込んで将来への不安は感じなかった。

 職場復帰
病気はそれまでの人生を大きく変えることになった。よきにつけ、悪しきにつけ。入院した最初の頃は職場復帰が何時出来るか、化学療法での抗がん剤がなかなか効かずあせっていたが、1度目の移植による体力の消耗と、その後のIgMの増加によって2度目の移植をせざるを得なくなって職場復帰に関してはもはや不可能と諦めた。

そのうち1年の休職期間が終わり退職となった。どの道職場に籍があっても給料は保証されず傷病手当金で給料の6割が支給されることには代わりがなかった。籍があれば、早く職場復帰しようと無理しても職場に戻り、リハビリ勤務など到底出来る職場ではなかったので通常勤務に就かざるを得なかっただろう。また塗装場があり有機溶剤を扱っており、荷物の出入りが激しく埃っぽく労働環境としては感染症の問題からいえば最悪だった。1日中マスクをかけて仕事が出来るわけはない。

職場復帰し給料をもらうようになると傷病手当金は打ち切られる。また病気が悪化してもその時は傷病手当金は支給されない。そういった意味で休職1年目での退職については会社と争うことはしなかった。どの道定年退職が2年近く早まったようなものだ。

 障害厚生年金
がん診断から1年半で障害者厚生年金が申請できる。血液がんで障害年金がもらえるかどうか色々調べてみた。なかなか支給されない狭き門だ。社会保険事務所に申請書類を取りに行った所、無理ですよと門前払いを食らいそうになった。社会保険労務士事務所のホームページにある血液ガンで障害厚生年金3級を取った例を幾つかコピーして持っていって説明したら書類を渡してくれた。

個人で申請しても中々通らないらしい。個人で申請して不許可になり、社会保険労務士事務所に頼んで許可になった例が掲載されていたのだ。障害厚生年金の申請書類が非常に複雑で、病状経過を事細かに記載しなければならない。日記をつけていたのでそれは何とかクリアーできた。医者の書く項目も多岐にわたる。医者も慣れていないと大変だと思う。

厚生年金に加入していてよかったと思った。障害国民年金だと2級までしかない。2級だと例えば多発性骨髄腫での圧迫骨折などで歩行困難などの症状がない限り、一般的に血液ガンで日常生活を普通に送れ外来治療をしているような人は当てはまらない。ただ倦怠感や、感染症の恐れだけでは無理だろう。ただ障害厚生年金の場合は3級があり、かなり広い範囲で認定の対象になる。おかげでどうにか申請は受理され、障害等級3級に認定され、毎月年金の報酬比例分が支払われるようになった。

 老齢厚生年金
丁度、傷病手当金が終了になった月の翌月に60歳の誕生日だったので、特別支給の老齢厚生年金の報酬比例部分が支給されるようになった。60歳から支給されるのはS28.4.1生まれまでで、それ以降は徐々に支給年齢が引き上げられ、S36以降は老齢厚生年金の報酬比例部分の支給はなくなり65歳になって老齢基礎年金(定額部分)と一緒に支払われる事になる。

老齢厚生年金と障害厚生年金を共に受け取ることは出来ない。どちらかを選ぶほかないが、金額は全く同じだ。ただ親切にも社会保険事務所の人が、教えてくれたのは老齢年金の場合は配偶者加算や障害者加算があるということで、金額からいうと老齢年金と障害年金を足した位にはなる。これで生活はどうにかなる。

 高額な医療費
今サリドマイドの個人輸入やゾメタの点滴、支持療法の薬などで、医療費が月8万近くかかっている。収入の半分近くが治療費に持っていかれる。サリドマイドが保険適用になっても、医療費総額は変わりない。今より1万円位高くなる。サリドマイド100mgでの月の支払いは5万9千円になる。国民健康保険で8万以上は高額医療費で戻ってくるが実際にかかる金額は9万円程度だろう。ただ3ケ月8万以上の高額医療費請求をした場合、4ケ月目からは4万4千円以上が高額医療費の対象となるのでかなり楽になる。その意味でサリドマイドの保険適用は医療費負担の削減になるのは確かだ。

 老齢厚生年金と老齢基礎年金
64歳になれば老齢厚生年金の報酬比例部分(在職中の給与に比例)にプラスして老齢基礎年金の定額部分(定額単価×加入月数)が支給されることになる。また障害厚生年金も支給されるようになる。S24以降に生まれた人への支給は65歳からになる。

何十年も給料から何万円も何でこんなに取られるんだと憤慨しながら払い続けてきたのだから、何としても64歳以上生きて貰わないと損だというつくづく思う。ただ老齢基礎年金の定額部分の繰り上げ支給という制度があるようだから、あまり長生きできそうもないのでそれを利用する手もある。ただし繰上げにするとその期間にもよるが64歳からの支給が大幅に減額される。

公園であったお爺さんが嘆いていたが、何時死ぬか分らないからと息子に言われて、実際には65歳まで働いていたのでその必要はなかったのだが、繰上げ請求をしたら86歳の現在まだ元気で生きている。しかし繰り上げ請求をしたため大幅に年金は減らされている。むしろ65歳からの繰り下げにすればかなりの額がもらえたはずだ。

ただこの年齢の人だったら60歳から報酬比例部分と定額部分が同時に支給されていたはずである。繰り上げ支給という意味が違うとは思うが。人の寿命は予測できない。このような事もあるらしいから判断は難しい点はあるが、私の場合は繰上げ請求をしても絶対に損にはならないはずだ。

 こういう事を考えていて、ふと老齢年金関係の書類を見ていたら、「障害等級3級以上の障害の状態にあって、かつ退職している方は、60歳から報酬比例部分と定額部分をあわせた年金額が支給されます」と書いてあった。年金ダイヤルに電話して確かめてもらったら、「障害者加算」というのは、「老齢基礎年金の定額部分の支給」ということだったのだ。つまり、既に60歳から年金は満額出ていたということになる。つまり64歳まで待たなくてもいいということだ。これを今頃になって知るとは、公的文書の理解はなかなか難しく、知らないと損することばかりだ。

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Author:yosimine
がん治療とは長く細い道を辿ら
なければならない。その先に希
望があると信じながら。

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