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終末期医療

12月31日(月)
死に至る病としての骨髄腫
 原発性マクログロブリン血症について調べている時に、関連で多発性骨髄腫について調べていたら、『メルクマニュアル医学百科(家庭版)』の多発性骨髄腫のところで衝撃的な表現に出会った。分かってることとはいえ、ここまではっきりと言われると覚悟しなければならない。

 (マクログロブリン血症と多発性骨髄腫は、両者とも形質細胞が腫瘍化しM蛋白を過剰に作り出す。そのM蛋白の種類がIgMかIgAまたはIgGの違いがある。前者は血液の粘着化、後者は骨の劣化・骨病変といった症状の違いがあるが、治療法を含めて究めて類似性が強い。)

 「現在のところ、多発性骨髄腫を治す方法はない。しかし、治療をすれば60%以上の率で病気の進行を遅らせることができる。診断されてからの平均生存期間は3年を超えるが、個々の生存期間は異なる。多発性骨髄腫は最終的に死に至る病気であるため、終末期のケアについて、主治医や家族、友人を交えて話し合っておくことが大切だ。

事前指示書(アドバンス・ディレクティブともいい、意思決定ができなくなった場合に備えて治療方針をあらかじめ指示しておくこと)の作成、栄養チューブの使用、痛みの緩和などをどうするかが話し合いのポイントとなりる。」

多発性骨髄腫の痛みの緩和

 重度の骨の痛みがある場合は、その骨に対して強い鎮痛薬と放射線療法を使用することで、痛みを軽減できます。放射線療法には骨折を予防する効果もあります。パミドロン酸(ビスホスホネート系の薬)やさらに強力なゾレドロン酸を1カ月に1回静脈投与すると、骨合併症の発生を抑えることができる。血球の産生を促して赤血球や白血球を増加させる物質(増殖因子)、新しい鎮痛薬などによって、患者の生活の質が大幅に向上している。(マクログロブリン血症の場合は骨の痛みはない。)

死と終末期
 死と終末期研究の先駆者、エリザベス・キューブラー・ロス氏は語る。「死期を迎えた人は典型的に、拒絶、怒り、交渉、うつ、受容の5つの感情段階をこの順番で経験します。拒絶期の人は、自分が死ぬことはないかのように行動し、話し、考えます。拒絶の感情は、コントロールを失くすこと、愛する者から別れねばならないこと、未来が不確かなこと、苦悩することを恐れるために生じます。

 医師や医療専門家と話し合うことにより、コントロールはまだ自分の手の中にあり、痛みや症状もコントロール可能なことを理解できます。怒りは、「なぜ私が?」と不公平を感じる気持ちとして現れます。交渉は死を論理的に考えているしるしで、患者は時間を求めるようになります。交渉などの対応がうまくいっていないことがわかると、うつが生じます。受容の感情は、運命との直面と表現されることもありますが、家族、友人、ケア提供者と話し合った後に現れます。」

終末期医療(ターミナルケア)
 ターミナルケア(Terminal Care)とは、末期がんなどに罹患した患者に対する看護のこと。主に延命を目的とするものではなく、身体的苦痛や精神的苦痛を軽減することによって、人生の質(QOL)を向上することに主眼が置かれ、医療的処置(緩和医療)に加え、精神的側面を重視した総合的な措置がとられる。
 
 終末期のケアに対する患者の希望を、患者と医師の間で、正直かつオープンに話し合えば、致死的な病気の患者としての生活の質を、可能な限り高めることができる。医師は、回復の見込み、さまざまな治療をさらに行った場合に生じる不自由について、率直な評価を伝え、患者は、自分が望むことと望まないことを、医師と家族にはっきりと伝える。

 患者が選択できるものには、医師とケアシステムの選択、希望する治療と、その治療に加えたい制限の意思表示、どこで死にたいか、死が近づいたときに何をしたいかといった希望、死んだ後に臓器を提供するか否かの意思表示などがある。

 死期を迎えているということは、合併症や副作用に苦しみつつ、長い間に病気が悪化していく中で明らかになる。末期癌の患者は、死ぬ1~2カ月前になるとエネルギー、機能、快適感が確実に低下し、その後患者は見た目にも衰弱していき、誰の目にも死が間近であることが明らかになる。その間に終末期医療に関する意思表示をする。

 病院が自動的に提供する唯一の治療である蘇生を行うかどうかは、蘇生を行ってほしくないという希望について、死が予想されている人ならほとんどが納得できることで、家族が重圧を感じることはない。心臓の拍動と呼吸が止まる(心肺停止)直前の患者には、蘇生を試みてもほとんど効果はない。

終末期の意思表示の留意点
  ◆ 各段階で「自分がどう生きたいか」について医師だけでなく全ての関係者と十分な協議を何度も行う。
  ◆ 「する」「しない」の意思表示は何度でも変更できる。
 
 選択肢  1、口から食べられなくなってきた・経管栄養→する・しない
        2、呼吸が難しくなってきた・気管切開人工呼吸→する・しない
        3、心肺の動き停止・心臓マッサージ→する・しない

1、積極的な治療を希望:「私には寿命を可能な限り引き延ばす意思があり、自身の状態、回復の見込み、治療による負担、治療にかかる費用は問わない」と文書で示す。

2、延命努力を拒否する時:「私には延命の意思はなく、友人や愛する人を認識することができなくなり、回復して独立した生活を取り戻す見込みがなくなった場合には、延命治療(チューブでの栄養、水分補給を含む)の実施、継続を拒否する」と文書で示す。しかし、苦痛を緩和する処置は保証されている場合がほとんど。

3、中間的な治療を希望する時:「私には寿命を引き延ばす意思があり、昏睡状態または植物状態から回復不能であると主治医が判断した場合を除き、延命治療を希望する。私が回復不能であると主治医が判断したら、延命治療(人工栄養や輸液を含む)の実施、継続を拒否する」と文書で示される。

尊厳死
 尊厳死協会は、治る見込みのない病気にかかり、死期が迫ったときに「尊厳死の宣言書」(リビング・ウイル)を医師に提示して、人間らしく安らかに、自然な死をとげる権利を確立する運動を展開している。

 リビング・ウイルとは、自然な死を求めるために自発的意思で明示した「生前発効の遺言」だ。その主な内容は
   ▼ 不治かつ末期になった場合、無意味な延命措置を拒否する
  ▼ 苦痛を最大限に和らげる治療をしてほしい
  ▼ 植物状態に陥った場合、生命維持措置をとりやめてください、というものです。

 米国オレゴン州では1998年に尊厳死法が制定された。また、他の州でも同様の法案が審議されている。この法律により、オレゴン州の医師は、死を望む終末期患者に安楽死の薬を処方しても、合法と認められるようになった。
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テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

病院での出来事

12月30日(日)
 宿命というものは石ころのように往来に転がっているものではない。人間がそれに対して挑戦するものでもなければ、それが人間に対し支配権を持つものでもない。吾々の灰白色の脳細胞が壊滅し再生すると共に、吾々の脳髄中に壊滅し再生するあるものの様である。(小林秀雄『考えるヒント』ランボーより)

 10月24日から10日間の一時退院はあるが約2ケ月入院生活を送った。移殖の時は移殖病棟で個室であった。それ以前の一般病棟においても体調が万全でないこともあって、病室内での患者同士のお喋りはあまりしていなかった。しかし今回は体調には全く問題がなかったし、一人率先しておしゃべりをする人がいてそれに釣られ皆和気藹々とお喋りに興じていた。どちらにしてもテレビを見ている以外暇な人ばかりだ。そういった話の中で患者の人となりと病気に対する受け止め方が分かってくるというものだ。

皆何時終わるか分からない病との闘いを継続しているのだ。選択の余地のない過酷な運命を背負っている。その現実を正面きって受け止めるにはあまりにも過酷でありだからこそ、自分の現状を深く内省することなく、医者に全てを任せ身をゆだねている感じだ。確か考えたからといって悲惨な状況が変わるわけではない。

昨年入院した時には、全く気がつかなかったが、今回2ケ月の間に血液内科病棟で4人死んでいる(と思う)。3人は個室の患者で、ほかの一人は、84,5歳の再生不良性貧血で同じ病室の患者だった。私が退院していた時に、朝喀血し、病室から集中治療室に運ばれそのままも戻ってこなかったそうだ。

また昨日まで廊下を元気に歩いていた患者が個室に移り、寝たきりになってしまっている例もある。完解となり退院する前には10階までの階段を歩いて上り下りしているぐらい元気だった人が3週間位たって再発し、げっそりやせて戻ってきたりもしている。

 確かに血液ガンの生存率は上がっている。しかし、今でも年間7000人が白血病で命を落としている。60歳過ぎた人が入院し治療しているのを見るのは今までの疲れが一気に出たのかなという位にしか思えないが、30代、40代の人が長期入院しているのは見るに忍びない。

 42,3歳の元板前の人が8月から急性骨髄性白血病で入院している。化学療法は既に5回目だ。なかなかがん細胞は減少してくれない。最初からの3回は殆ど効果がなかったという。化学療法後の白血球の上昇が遅く、1回の治療で1ケ月半以上かかかってしまう。子供がいないので妻はアパートでずっと一人暮らしだったので寂しさを紛らわすためにアルコールに依存し、依存症治療のために入院してしまった。夫婦2人とも長期入院という状態だ。収入は全くなく、荷物を倉庫に預けアパートも引き払ってしまった。

 36歳の元公務員は、31歳の時急性骨髄性白血病になり、3回移殖したが再発、再発で5年間入退院を繰り返し、治る見込みがあるわけではない。健康保険は共済年金関連なので色々便利なところはあるが、収入の道はなく「障害共済年金」の申請中のだということだ。人生これからだという時にどうやって生きる展望を切り開くことができるのだろうか。
 
 74歳の患者は、O病院にリュウマチで入院していたが、白血球値が下がりだした。最初はリウマチの薬の影響かと思ったが検査の結果、白血病とわかりこちらの病院に転院してきた。最初から白血球が少なく500前後ということでクリーンメイトという空気清浄機をつけたベットで過ごしていた。そこからとトイレ以外出てはいけないと言われているのに勝手に2階の売店に行ったり外にある喫煙所に行って煙草を吸ったりしている。

また杖をついていて歩行が困難であり、身体も抗がん剤の影響でふらふらし、血小板も少いので「転ばれでもしたら大変だからトイレの時は看護師を呼んでくれ」と言っても無視している。ナースセンター直通のマットを敷いてベッドを降りるとブザーが鳴るようにしたがかわされ病棟から脱出する。

本人に看護師も、医者も、同室の人も注意するとそんなことは聞いてないといってとぼける。本当の認知症か芝居なのかは分からない。結局化学療法を1サイクルだけやって、もといたO病院にリュウマチの治療継続のため転院して行った。

 病院という特殊な限られた空間の中で、生か死かを問いながら生きている人間群像は鋭く研ぎ澄まされた神経のようにその鼓動が低く重く伝わってくる。「純粋単一な宿命の主調低音」が全編に流れる曲のように、静かに、激しく、しかも虚しく響く。その響きの中に全く普通の個々人の特異で特殊な生き様が込められているのだ。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

退院して

12月29日(土)

ベルケード療法第2サイクルを終えて
 昨日夕方約2ケ月の入院生活を終え退院することが出来た。後は通院で治療を続ける。10月26日、IgM2269からはじめたベルケード第1サイクルは11月5日に終わり、ベルケード療法第2サイクルを12月11,14,18,21日と行った。12月24日の血液検査の結果、血小板数が4.5、白血球が3.8、ヘモグロビンが10.4であった。そして28日(昨日)の検査結果では血小板数5.3、白血球3.6、ヘモグロビン9.7であった。またIgMは405まで下がった

MP療法では

 5月から始めたMP療法は5ケ月続け、その間、増減はあったが結局IgMは2269まで上昇してしまった。それに対してベルケードは第1サイクルだけで457まで減らすことが出来た。副作用に関しても、MP療法ではメルファランによる体力消耗と、正常細胞値の低下があり、プレドニン(ステロイド剤)によって中性脂肪が一時586まで増加し、また骨密度の低下の可能性があった。これに対しては高脂血症の薬・ベザトールSR、骨粗しょう症の薬・ボナロンを服用してきた。

ベルケード療法、通院で
 ベルケードは血小板数に影響を与え、末梢神経の若干の痺れなどあるが体力的には全く影響を受けることなく病院生活を送ることが出来た。次は来年1月9日の外来診察で、血液検査をして問題がなければベルケード第3サイクル第1回目を開始する。

 ベルケード療法は最初の2サイクルに関して、新薬なのでどの様な副作用があるか不明だということで病院での入院加療が義務づけられている。実際に個人輸入で治療していた人が間質性肺炎にかかり死亡した例が報告されており、厚生省としてはベルケードを認可した時に使用に関し厳しい制限を設けたのである。

抗がん剤と肺炎
 これからは通院での加療を行うことになる。病院にいれば暖房が効き、少しでも体調が悪ければ色々フォローする体制は万全だ。しかし通院となると様々な感染の恐れがある。特に風邪を引かないようにしなければならない。風邪を引くと肺炎になる可能性が非常に高いそうだ。

 感染症を引き起こす細菌の入り口は口であり、口に近い肺は直接細菌を吸い込む器官なのだ。抗がん剤で免疫力が弱った身体はその菌を殺すことが出来ない。化学療法と感染症としての肺炎は車も両輪のように密接に結びついている。

 元の会社の部長の奥さんの話を聞いた。乳がんで治療をして退院になったが、その冬風邪を引いて肺炎になり1ケ月入院したという。さらに翌年も風邪を引き肺炎になり入院したという。風邪を引かないようにしなければ。人ごみ厳禁。買い物は昼間のすいている時間にやるしかない。

感染症に対して
 日和見感染
 外から来る細菌の防御は必要であり、マスク、手洗い、うがいが3原則だが、最も恐ろしいのは自分の身体の中の細菌が活性化してくるという日和見感染である。通常であれば免疫力によって増殖が抑えられている病原性の低い常在細菌が増殖し、その結果として病気を引き起こすことがある。正常な免疫能力を持つ場合発症することは希であり、化学療法やステロイド長期内服、AIDS(後天性免疫不全症候群)などによる免疫低下時に発症する。

 すなわち日和見感染とは、宿主と病原体との間で保たれていたバランスが宿主側の抵抗力低下により崩れ、宿主の発病につながるものである。この感染症で注意しなければならないのがサイトメガロウイルスとカリニ肺炎である。

 サイトメガロウイルス感染症
 ヘルペスウイルスの1種であるサイトメガロウイルス(CMV)による感染症は、非常によくみられるもので、血液検査をすると、成人の60~90%は過去にCMV感染症にかかったことがあるといわれている。普通は感染しても症状は出ないが、このウィルスが問題になるのは、血液疾患、骨髄移植、エイズ、抗ガン治療を受けている時など、免疫機能が低下している場合である。移植の過程で免疫抑制薬の投与を受けている場合は、特にCMVに感染しやすい傾向がある。

 免疫力が低下し感染状態になると、潜伏感染していたCMVが再活性化して、ほとんどの人に症状が現れる。発熱、白血球減少、血小板減少、肝炎、関節炎、大腸炎、網膜炎、間質性肺炎などの症状が現れると重症になる。

 カリニ肺炎(ニューモシスチス肺炎)
 ニューモシスチス=カリニは、正常な肺の中では害を及ぼすことなく生存しているありふれた微生物で、この微生物が肺炎を起こすのは、癌(がん)や癌の治療、エイズなどのために体の防御機能が低下した場合だけである。ニューモシスチス肺炎は、酵母様真菌であるニューモシスチス・ジロヴェチ よって引き起こされる肺炎である。

 カリニは先天性免疫不全や免疫抑制剤の投与を受けた患者に発症する肺炎の主原因であることが判明した。1980年代から、カリニ肺炎はAIDS、癌の治療や臓器移植の患者の増加と共に爆発的に増加して典型的は日和見感染症として注目されるようになった。(現在バクタ服用中)

 間質性肺炎
 通常の肺炎は酸素と二酸化炭素を交換する肺胞という部分に炎症が起きるものだが、間質性肺炎は肺胞と肺胞の間の襞(間質)に炎症が起きる。原因は身体の免疫機能の異常、ウィルス感染などで起きる。急激に症状が悪化するもの、薬物治療で治り難く予後不良なものなどがある。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

文京区散歩-10 本駒込駅周辺

12月28日(金)
 いよいよ今日退院だ。退院の前に周辺探訪の最後になるが本駒込駅の向こう側に行ってみた。本郷通りと白山通りの間だ。定泉寺→天栄寺→龍光寺→潮泉寺→一音寺→大円寺と回った。

 入院中、当初は病院の敷地内の遊歩道を朝昼15分ずつ散歩しようとしたが、1日最低30分のウォーキングの確保は難しく、また同じところを回るのは飽きてしまい続かない。そこで周辺探訪・寺めぐりを始めたというわけだ。運動確保のために始めたウォーキングも退院ということで最後になる。外来で病院に来ることはあるが、その時の帰りのウォーキングは別の目的を持って建て直したい。

 午前中の検温が早く済んだので10時過ぎに出かけた。風は冷たかったが日差しが暖かく散歩にはもってこいであった。いつものように道坂上から本駒込駅方向に向かう。団子坂通と道坂通りは道幅は同じ位でも雰囲気が違う。

 道坂通りは歩道があるが団子坂通りは歩道がない、並んでいる商店街も団子坂通のほうが古い、しかしどちらかというとか活気がある。昔からのなじみの小売店が通常に経営できる素地があるのだろう。本郷通りに行くと商店は全く違った様相を呈する。最近建った高層マンションの低層階が店舗のテナントになっていて小奇麗な飲食店や事務所が入っている。

天栄寺(地久山 浄土宗) 
 本郷通と道坂通りの交差するところに天栄寺がある。その天栄寺を覆い隠すように15階建ての新築間マンションが建築中であった。寺の景観もあったものではない。あえてことさら古いものを押し隠すように作ろうとしているとしか思えない。

 天栄寺が経営難のため土地を売ってそこにマンションを建てているなら止むをえないという面もあるがそうでなかったなら、これは歴史的文化財に対する冒涜でしかないと思わせるほどひどい建て方だ。誰も反対しなかったのだろうか。

駒込寺院016_edited_convert_20100414190008 天栄寺本堂
 
 門前の標識に「駒込土物店跡」(注1)とあり、これは青物市場(江戸3大青物市場の一つ)があったことを示す。入ると、正面が葬祭場の雰囲気をした庫裏で左に墓所がある。右に上部に何かを意味するのだろうと思うが円形のオブジェをあしらった近代的なスマートな鉄筋コンクリートの本堂があり、外階段で上がるようになっている。

駒込寺院018_edited_convert_20100414190055 駒込土物店縁起を記す石碑

(注1)駒込青果市場:
 豊島市場の前身である駒込青果市場・「駒込土物店」の起源は、元亀、天正(西暦1570~1591年)の頃、駒込付近の農民が江戸へ青物をかつぎ売りの途次、駒込天栄寺の境内の「さいかち」の大樹の下に憩い、分荷したのが始まりで、都内最古の市場であると伝えられている。江戸時代には、神田及び千住の両市場とともに青物の三大市場の一つで幕府の御用市場であった。野菜を泥付きのまま売っていたので「土物店」とよばれた。

定泉寺(東光山 浄土宗)
 本郷通りを駒込駅方面に2,3分行くと定泉寺に着いた。入口左に夢現地蔵尊堂がある。江戸33観音の9番、十一面観音菩薩があるというが公開されていないようなので見ることは出来なかった。右は鉄筋コンクリート3階建の庫裏がそびえている感じだ。

駒込寺院019_edited_convert_20100414190147 定泉寺本堂

駒込寺院020_edited_convert_20100414190237 夢現地蔵尊堂

龍光寺(臨済宗 東福寺派)
 本郷通りから少し奥まった所、住宅街の真只中に龍光寺がある。かなり面積が広く、そこに大きく立派な鉄筋コンクリート造りの本堂だけが浮き上がった感じで建てられている。「早春賦」の作詞家吉丸一昌の菩提寺であり、歌詞の石碑が立てられている。近くに寺の管理の児童公園もある。

駒込寺院021_edited_convert_20100414190316 龍光寺本堂

駒込寺院022_edited_convert_20100414190402 早春賦の歌詞を刻んだ石碑

潮泉寺 (増上山 浄土宗)
 細い商店街通りの中にあった。入口右に縁引地蔵尊の赤い幟がはためいている。正面に鉄筋コンクリートの本堂があり、左に庫裏、右に墓所。柱に金字で「光明遍照 念仏衆生 摂取不捨」と記されていた。

駒込寺院024_edited_convert_20100414211209 潮泉寺本堂 

駒込寺院025_edited_convert_20100414190549 縁引地蔵尊

一音寺(浄土真宗本願寺派)
 本郷通りと白山通りを結ぶ広い通りに面して、まさに繁華街の中にある。本堂は誰が見てもお寺とは思えない鉄筋コンクリート製の会館だ。右に同じような造りの鉄筋コンクリートの庫裏がある。入り口に法話会の案内が掲示されている。特に12月は大根焚きの行事があるらしい。

白山神社001_convert_20101126203020 一音寺本堂

大円寺(金竜山 曹洞宗)
 本郷通りを東大方面に少し行くと向丘高校のグランドがあり、その裏の住宅街の中に大円寺がある。本郷通りと白山通りの高層マンションに挟まれ、墓所だけがだだっ広い平坦な空間を作っている。鉄筋コンクリートの鮮やかな赤い山門は目立つ。八百屋お七との縁のあるお寺(八百屋お七火事の出火元・八百屋お七火事・1683年)で山門真正面にある「焙烙(ほうらく)地蔵」(焙烙=あぶり焼く)は、八百屋お七ゆかりの地蔵である。追分一里塚の庚申塔が移築されている。 参道は左に曲がり、本堂となる。本堂の右に庫裏。左は墓所がある。

白山神社003ed_convert_20101126204649 大円寺山門

白山神社004_convert_20101126203310 大円寺本堂

大円寺略歴:慶長2年(1597)開創 はじめ神田柳原にあったが、慶安2年現在地に移り久しく「駒込の大円寺」と呼ばれた。墓域には、幕末の先覚者であり砲術家の高島秋帆・小説家であり樋口一葉を終生助けた斉藤緑雨が眠っている。

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藤原 智美 『暴走老人』

12月27日(木)
 『暴走老人!』藤原智美・著について

BPbookCoverImage.jpg 待てない、我慢できない、止まらない―「新」老人は、若者よりもキレやすい。現代社会に大量に生み出される孤独な老人たち「暴走」の底に隠されているものとは?老人たちの抱えた、かつてない生きづらさを浮き彫りにする。 (本の紹介文より)

 何が老人を暴走化させるのか。携帯の普及などで加速化する「時間」、独居の増加などで孤立化する「空間」、そしてマニュアル化された笑顔など商品化される「感情」、という三つの次元での変化と、老人が長年培ってきた感覚とのギャップという視点から、掘り下げていく。

尋常でない怒りによる暴言・暴力のきっかけは些細なことだが、背後には孤独感や社会へのストレスが蓄積されている。ストレスは全て人間関係から生じ、人間関係で解消する他ない。キレるかどうかの境目は老人を支える人間関係の輪しかない。
 
 個人を律するはずの常識や規範さえも、日々更新され続けており、加速度的に拡大していく過剰な情報化社会が逆説的に孤立を生み、暴走状況を作り出している。ケータイやインターネットの普及は時間の感覚を変容させた。社会の情報化へスムーズに適応できないことが彼らを暴走させる。

こういった現代社会の生活様式の急激な変化についていけない高齢者が、今まで人生で経験し培ってきたことが役に立たず、自信を失い、焦りや苛立ち、孤立感や息苦しさを感じ、キレやすくなっているという。

高齢化が進む郊外に象徴されるように、外界と隔てられた住環境は独居老人を精神的にも孤立させる。人と人との関係も、コンビニやファミレスのようにマニュアル化され、透明なルールが至る所に張り巡らされている。高齢者を疎外する要素には事欠かない。

つまり、今の社会は高齢者には生き難く、そういった社会と高齢者の間で軋轢が生じている。しかし新老人の暴走も、変化を無意識に感じとり苛立(いらだ)っているがゆえの防御なのかもしれない。

老人犯罪検挙数
 若者より老人の方がキレている。若者の凶悪犯罪は統計的にはむしろ減っているのである。65歳以上の検挙数は2005年には約4万7000人に達した。1989年から16年で約5倍、高齢者人口の増加率が2倍であることを考えても異常な伸び率である。この背景に何があるのか。
 
統計で見る高齢者の現状
高齢者人口比
昭和30年(1955年)の65歳以上の人口は4,786(千)人、総人口比率 5.3%。
平成12年(2000年)は8,885(千)人、総人口比率 17.2%
平成42年(2030年)には32,768(千)人、総人口比率 28.0%になると予想されている。
日本人の平均寿命は女性が85歳、男性が78歳を超えた。

高齢者独居所帯 
 厚生労働省の平成18年度国民生活基礎調査の概況によると、「65歳以上の高齢者独居世帯数」が約8,418,000世帯で、全世帯の約17.8%を占めるようになった。

高齢者の自殺
 自殺した人が平成10年以来毎年3万人を超えている。そのうちの35パーセント近い人が60歳以上である。高齢者の自殺率をみると3世代同居の場合が一番高く、一番低いのは一人暮らし。自殺理由の多くは「病苦」となっているが、実際は「家族関係のもつれ」。人は1人暮らしの寂しさよりも、家族の中にいて居場所を失う孤独感に耐えられない。

『暴走老人』目次
序章 なぜ「新」老人は暴走するのか
第1章 「時間」(暴走する老人たち/待つことをめぐる考察/変容する時間感覚/ネットワーク)
第2章 「空間」(凶器の選択/独居する空間/膨張するテリトリー感覚)
第3章 「感情」(透明なルール/丁寧化する社会/警笛としての新老人)

1、時間
「待つこと」の耐性に欠ける大人の増加。待つことが苦手、せっかちで先を急ごうとする。待つことのトラブルの増加。待つことが当然だった社会が「待たされることに苛立つ社会」になった。暴走する老人たちも、待つことが苦手だ。

会社勤めなどで、規則正しい生活を強いられた彼らにとって、リタイア後に自分で時間をコントロールすることが、どれほど困難なことかを思い知るのである。このため、人が自分の時間を侵略してくるのが許せなくなるのであるという。

2、空間 
リタイアした後の生活範囲はせいぜい自宅から数百メートルで日常の行動パターンも限定され、新老人たちの暮らしはネット社会の恩恵からほど遠い。現代のコミュニュケーションの標準はずれていく疎外感を味わっている。地域社会が非地域社会となり、個人を支える力はなく、人間関係は疎遠で、リタイア後は職場の人間関係からも遠ざかる。

住まいから家族が消えた老人世帯は、家そのものが個室化しているという現実がある。その中で暮らす老人たちの心には孤独の闇が広がっている。根底には荒涼とした風景が見えてくる。家族の姿や親しいものの存在がどこにも感じられないというのだ。

「ゴミ屋敷」の問題を取り上げる。その住人は独り暮らしの老人が多いといわれる。「私には家という空間から家族が欠けていくなかで、空洞化した心の隙間を埋めるように、家の空間をゴミによって充たそうとしているようにも思える。」と書いている。

3、感情
社会のマナー、常識のコードが日々更新され、順応できない老人は情動を爆発させる。客の自尊心まで奉仕することが求められる「感情労働」が今の社会。心からではなく、表層的に笑顔を装う労働、バカ丁寧化するサービスなど、これらの感情労働が蔓延していることを老人暴走の一つの原因としている。

ファミレスからはじまり、カフェ、スーパー、コンビニ、居酒屋、タクシー、テーマパークとマニュアル化された笑顔とサービスが流入してからおかしくなってきたのではないか。そこにはかっての商店街に見られた地域社会の人間同士のコミュニュケーションが不在である。

高齢者問題
老人に対する見方は、歳をとって丸くなったという言い方と、年寄りは頑固だといった二通りの言い方がある。今でも昔でもその二通りがあるのだが、何故生き方に確信を持っている頑固老人があまり評価されないのだろうか。そしてともすれば、頑固老人の今の社会に対する怒りを「暴走老人」とダブらせてみる傾向があるのではないか。

キレるというのは社会に対する過剰な反応なのだ。しかしその反応は今の社会の病理現象に対する反応でもある。企画化されマニュアル化され個人の存在がますます希薄化される中で自らの存在根拠を失っていく老人の叫びなのだ。

地域社会、共同体的関係の中で存在位置を持っていた老人たちは、地域共同体の崩壊、核家族化、生産と消費の社会の中で自らの位置を失う。それは人間を生産能力優先で評価し、弱者を切り捨てる社会の価値観の反映なのだ。

社会の高齢化が進行している。この中で、どのようにして老人たちは自らの存在根拠を確認していくのだろうか。高齢者問題は一つの大きな社会問題だ。定年を迎え職を失った人の雇用確保どこまで可能なのか、老後の住宅、老人の介護、年金や医療保険、生活保護はどうするのか問題は多岐にわたり山済みされている。こういった問題に正面きって立ち向かわない限り、「暴走老人」の叫びは押しつぶされてしまうだろう。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

映画『誰も知らない』

12月26日(水)
『誰も知らない』
 1988年に発生した巣鴨子供置き去り事件を題材として、是枝裕和監督が15年の構想の末、満を持して映像化した作品である。母の失踪後、過酷な状況の中幼い弟妹の面倒を見る長男の姿を通じて家族や周辺の社会のあり方を聴衆に問いかけた。

あらすじ:
 あるアパートに暮らす母(YOU)と4人の子供たち。母はそれぞれ父親の違う子供たちを世間の目から隠すように、学校にも行かせず部屋に閉じこめ、仕事に出かけていく。家事や弟妹の面倒は12歳の長男・明(柳楽優弥)の仕事だ。そんなある日、母は現金20万円と「しばらく頼むね」という書置きを明に残し、姿を消してしまう。それでも明の働きで、4人兄弟は子供だけの楽しい生活を送るのだが、やがてお金が底をつきはじめ…

「誰も知らない」の世界
 物語は残された子供たちの日常の情景を遠景のカメラで傍観するように感情移入を交えずノンフィクション的に追っていく。学校に行きたいとか友達と遊びたいとかう子供たちの感情もあきらめに似て控えめで抑えられて表現されている。ここは善悪の彼岸だ。そういった価値判断でなく、あるがままの日常が淡々が推移していく。

 屈託のない母親をYOUは好演している。「私が幸せになっちゃいけないの!」と叫ぶ姿はまるで子供のようだ。彼女のしたことは、明らかに悪いことだけど、ただの悪者にならなかったのは、彼女の大人になりきれない子供っぽさが感じられるといった彼女本来の自分を表現できているからだろう。

 わざとらしい演出を極力排し、無理矢理盛上げたり、メッセージを押しつけたせず、現実をしつこいほど丹念にし描写し、子供たちの素の魅力、子供のたくましさと脆さを自然な表情で引き出し、静謐な空間描写によって、それがかえって過酷な事実の重さをずっしりと感じさせている。

 この映画の元になった「巣鴨子供置き去り事件」といった悲惨な現実を、ドキュメンタリータッチで突き放して撮ることで、今の社会状況の問題点を訴えることも出来たろう。しかし敢えてそれを回避している。そのことによってこの映画は実に巧みに「現実らしさ」を装っている。劇的な要素を拝しながらも、実は全編に亘って周到に計算されたつくしたリアリズム持ち続けている。

 それは劇的でないことが現代では劇的である(非日常である)というアイロニーもあるが、後半の次男・茂の行動がたまらなくスリリングで目が離せなくなる演出は妹の死よりも日常性の中の非日常性を感じさせる。周囲の「知っていた」人たちが何も行動を起こさない、ということ自体この日本の子供たちの現実を取り巻く闇の深さをひしひしと感じさせるものである。そういった意味で残酷だがさわやかな映像を提供している。

誰も_convert_20100507193849「誰も知らない」に寄せる 谷川俊太郎
  生まれてきて限りない青空に見つめられたから
  きみたちは生きる
  生まれてきて手をつなぐことを覚えたから
  君たちは寄り添う
  生まれてきて失うことを知ったから
  それでも明日があると知ったから
  君は誰も知らない自分を生きる。

巣鴨子供置き去り事件
 東京都豊島区で1988年に発生した保護責任者遺棄事件。 父親が蒸発後、母親も4人の子供を置いて家を出たが、母親は完全に育児放棄をしていたわけではなく、金銭的な援助を続け、不定期にではあるが子供たちの様子を見ていた。7月17日、大家からの不良の溜まり場になっているとの通報を受け巣鴨署員がマンションの一室を調べ、Aちゃん(推定14歳。以下同)、Bちゃん(7 歳)、Dちゃん(3歳)の三人の子供と白骨化した乳児の遺体(Cちゃんの遺体)が発見された。親の姿は無かった。

*三女の死
 「4月21日昼頃、遊びに来ていた友達2人のうちの1人が前日に買っておいたカップめんがなくなっているのに気づいた。三女(2歳)の口元にのりが付いていたため、三女が食べたと思い3人で殴りはじめた。三女が死亡する致命傷は、友人が押し入れから何回も落としたことによる。
 
 長男は死なせた三女を含め3人の妹の面倒を一人でみていたが、言うことをきかない幼い妹たちに困り果て、そそうをしたりすると体罰を加えていたようだ。三女は翌22日午前8時半ごろ死亡。26日、長男は三女の遺体を友人2人とともにビニール袋に包み、さらにボストンバッグに詰めて、3人で電車に乗り、夜11時頃秩父市大宮の公園わきの雑木林に捨てた。」(ブログiFinder雑読乱文より)

児童の虐待について
要因
* 望まない出産や望まれない子供への苛立ち
* 配偶者の出産や子育てへの不協力や無理解に対する怒り
* 育児に対するストレス
* 再婚者の連れ子に対する嫉妬・憎悪 、などが挙げられる。

 「虐待を行う親の多くが、自らも虐待を受けた経験がある」ことについては「虐待の連鎖」ともいえる現象ある。子供のうちに虐待を受けて成長しやがて大人となって家庭を設けると、子供に対する教育やしつけが虐待によるものしか経験しなかったがゆえ、虐待を虐待と認識せずに(あるいは虐待が心の傷となって気持ちとしてはしたくないが意思に反して)虐待を行うことが多いのである。
 
近年までは全ての肉体的な苦痛を与え得る体罰が有効な教育方針として考えられていた背景があり、特に躾の名の下に単なる暴行を行う保護者の存在が、事態を悪化させる要因になっている。日本では「子供は親が育てるもの」という意識が根強いため、問題が潜行し、発覚した時には重大な事態に陥っている場合が少なくない。

最近発覚した児童虐待
* 長岡京市幼児殺人事件(2006年9月)
 長岡京市に住む28才の父親と39才の同居の女が、3才の長男に対して、残暑の残る9月の約1ヶ月間、食事どころか、水分すら与えず、加えて、殴るなどの暴行を加えて餓死させた事件が起きた。

* 苫小牧市乳幼児放置殺人事件(2006年末)
 苫小牧市に住む21才の無職の母親が、4歳の長男と1歳の三男の養育を放置して家を去り、家に取り残された乳幼児たちは、1歳の乳児は餓死で亡くなり、4歳の幼児は生ゴミを食べて1ヶ月間以上飢えをしのでいたという、痛ましい事件がおきた。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

昔は良かったか

12月25日(火)
何故、いつの時代も人は昔はよかったと言うのか?

5189510.jpg 「昔はよかったね~」つい言いがちなこの言葉。たしかに『ALWAYS 3丁目の夕日』や『タイムスリップグリコ』など、昭和30年代を題材にした作品も多い。

 人はなぜ「昔はよかった」と言いたがるのか?「年齢を重ねると、今の時代や若者についていけなくなるのではないかと不安になります。価値観や好みに違いがあると、それを否定したい感情と若さを失っていく不安が入り交じると思うんです。そこで自分が若かった時代の文化などを振り返って『あっちの方がよかった』とか『人間味があった』と肯定することで、不安から逃避しようしているんじゃないでしょうか。

 あとは、年輩者が若い人に対して絶対的に優位に立てるのは、彼らが知らない時代を体験しているということ。だから『昔はよかった』の一言で『オレはお前らが知らないいい時代や大変な時代を知ってるんだ』と優越感を感じる一面もあるかもしれません」 (精神科医の香山リカ)

 ちなみに、F・デーヴィス著『ノスタルジアの社会学』によると、これはどちらも「アイデンティティの連続の確保」にも関わることだという。簡単に言うと、人は、今の自分を肯定するために、過去の自分を肯定しようとする心理が働くのだとか。(「R-25」・コージー林田より)

幼児期の体験
 自分自身の体験で昔の何処が良かったのだろうか考えてみたい。生まれたのは足立区西新井の農家で、父は銀行員で西新井から通勤していた。銀行の事務員であった母は、西新井に来て祖父と祖母と百姓をやることになった。母親は男のやる水車踏み(田んぼと水の高低差があり水を汲み上げる)までやっていたそうだ。

 私がお腹にいる時、水車から落ちたが私は無事だった。又隣の家の井戸に水を汲みにいっていて、最初の頃は肩を腫らしたそうだ。私は皆が農作業をやっている時は畑の真ん中に寝かされていて、おなか空こうがおしめが濡れようが、休憩時間以外はかまってくれない状態で放置されていた。

 もちろんその時、暑かったか寒かったか気持ち悪かったか空腹感を感じていたかなどの記憶はない。太陽が顔の上に照りつけ暑かったような気がするだけだ。祖父は日暮里に住んでいて、時々百姓をやりに西新井にきていたそうだ。百姓はほとんど祖母と母親でやっていた。そして時々祖父と一緒にリヤカーに私を乗せて日暮里の長兄の家族の元に野菜や米を届けたそうだ。

少年期の体験
 その後、新宿区の銀行の社宅に引っ越した。その頃の新宿区はまだ焼け跡が原っぱとして残っているところが多く、背丈ほどの草がぼうぼうに生い茂っていた。社宅の裏に戦前は畑だったのだろう、一面の原っぱの広い土地がありそこがメインの遊び場だった。大木を中心にして掘っ立て小屋を作ったり、草をむしって土俵を作り相撲したり、最後には人を集め何日もかけて草むしりをし野球場まで作ってしまった。

 遊びはベーゴマ、面子、おはじきなどがあった。定期的に来る紙芝居も楽しみの一つだった。近所の竹林から竹を取ってきて弓矢や剣を作ったりもした。材木を切り舟を作り池に浮かべた。殆どの遊び道具は手作りだった。遊びが土や川や池といった自然環境とそこからの素材であるという一体のものとして存在していた。

 靖国神社のお祭りを見に行ったことがある。そこではオートバイの曲乗りや、ブランコ乗り、力自慢、お化け屋敷等おどろおどろしい見世物小屋が並んだ。異質な違った世界を体験したような奇妙な錯覚に陥った。

自然との関わり
 あの頃は新宿区でも昆虫採集が出来た。母親の実家である府中や、親戚のいた浦和などはほとんど未開拓で、森や山に囲まれているといった感じだった。府中や浦和の親戚のうちに行って昆虫採集をした。

 親戚では客が来ると肉を振舞うということで、鳥をさばく。首をきり、鳥は首のないまま走り回る。それを逆さまにし血抜きをし、羽をむしり内臓を取り出す。その一部始終を見た後に、親子丼でも食うわけだ。都会の子には少し刺激が強すぎたようだが肉を食うということはこういう過程をたどるんだという実地教育なのだ。

 このように子供たちは自然の中で五感を研ぎ澄まし鍛えていく。こういった遊びのあり方は都会の中から自然が減っていき、テレビが普及していくにしたがって減っていったのだろう。自然との直接的対決ではなく、映像を通した擬似体験世界に徐々にのめり込んでいってしまったのである。

今を生きる
 懐かしきよき時代。人は情に厚く、あくせくせず静かに時が流れていた。といった風に昔のことは思い出せる。しかし子供がどう感じたかは別として大人たちは今とは比べ物にならない位経済的は逼迫していたのだろう。日々食うことに追われていたのだろう。何時の時代にもいいことも悪いことも優れていることも劣っていることもある。あるがままの現実をしっかりと見据えその中を生きていかなければならない。

 「昔を懐かしむのはいいけれど、それが今の自分の否定になると不健康な状態です。今生きてるこの瞬間を大事に、たまに人生のスパイスとして昔を思い出す位が丁度いいでしょう。」(香山リカ・精神科医)

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

アン・リンドバーク 『海からの贈物』

12月24日(月)
アン・リンドバーク著『海からの贈物』について
 

アン・モロウ・リンドバーク経歴:
 大西洋単独横断飛行の成功者チャールズ・リンドバーグと知り合い、結婚。自身も飛行機を操り、夫と共に飛行した時の記録やリンド・バーグ家の資料として貴重な日記・書簡集を発表している。20世紀という時代を、彼女は駆け抜けた。知性と勇気、家族への愛情、創造的な生き方、ほぼ一世紀を生き抜いた。

『海からの贈物』本の紹介文より
 「私はやどかりになりたい。背負ったものをさっぱり捨てたい。」
¶ 女はいつも自分をこぼしている。そして、子供、男、また社会を養うために与え続けるのが女の役目であるならば、女はどうすれば満たされるのだろうか。居心地よさそうに掌に納まり、美しい螺旋を描く、この小さなつめた貝が答えてくれる。
¶ どれだけ多くではなくて、どれだけ少ないもので暮らすか。            
¶ 私たちは結局、みな孤独である。ひとりでいるということを、もう一度はじめから学びなおさなくてはならない。
¶ この世にたったひとつのものなど存在しない。あるのは、たったひとつの瞬間だけだ。
¶ 中年は、ほんとうに自分自身でいられる年代なのかもしれない。

『海からの贈物』から何を学ぶのか
2005年12月よりがん治療を始め、入退院と自宅療養の中で、今まで職場を含めた人間関係はほぼ切断状態である。仕事もしておらず極端に狭い世界の中で生きている。体調が悪く寝ていることが多い時期にはもちろん何かできるというわけではないが、体調が回復しそれなりに動けるようになると社会との関係が必要となってくる。自らの存在根拠を問い直すために。

 今まで会社にいたときの肩書きやしがらみ、仕事に追われた日々、こういったことはすべて過去の出来事で、自ら新たに自分の人生を切り開き獲得し作り上げていかなければならない。ここには給料が上がったとか下がったかとか、競争に勝つたか負けたかこととか、得意先を説得できたか出来ないとかいったことがは全く意味を持たなくなる。ただ自らどう生きていくかを深く問いながら生きていく他ないのだ。

 そういった意味で病気になる前はがむしゃらに仕事仕事で生きてきた第1の人生を終え、穏やかで自分に忠実な第2の人生を始めていく心構えを持たなければならない。追われるような人生から、こつこつと道を開いていくような人生を作り上げていかなければならない。

『海からの贈物』より
 この本の中で、世間や家族、社会のしがらみからいかに自由に生きていくことが大切か、そして可能かについて書いている。少し引用してみる。

 「中年というのは野心の貝殻や、各種の物質的蓄積の貝殻や、自我の貝殻など色々な貝殻を捨てる時期であるとも考えられる。この段階に達して、我々は浜辺での生活と同様に、我々の誇りや見当違いの野心や仮面や甲冑を捨てることが出来るのではないだろうか。我々が甲冑を着けていたのは競争相手が多い世の中で我々を守るためだったはずであり、競争するのをやめれば甲冑も必要ではなくなる。それで我々は少なくとも中年になれば本当に自分であることが赦されるかもしれない。そしてそれはなんと大きな大きな自由を我々に約束することだろう。

 人生の黎明や40歳あるいは50歳前の壮年期に属する、原始的で肉体的な仕事本位の生き方はもう中年にはない。しかし人生の午後が始まるのはそれからで我々はそれを今までのものすごい速度ではなしに、それまでは考える暇もなかった知的な、また精神的な活動に時間を割いて過ごすことができる。
 
 それまでの活動的な生活に伴う苦労や、世俗的野心や物質上の邪魔の多くら解放されて、自分の今まで無視し続けた面を充実させる時が来たのである。それは自分の精神の、そしてまた心のそれからまた才能の成長ということにもなって、こうして我々は日の出貝の狭い世界から抜け出すことが出来る。」(吉田健一訳・新潮社)

アン・リンドバークの生き方・考え方
 絶えず色々な方向に関心と気力と向けていなければならず、自分自身を思いやる時間がないといった1950年代の女性が抱える困難の核心について、アンは語る-「女性であるということは、車軸から車輪に伸びるスポークのように、あらゆる方向に関心や義務が広がっているということだ。毎日の生活は同じことの繰り返しで、どの方向にもすぐ対処できるようにしていなくてはならない。

 夫、子供、友人、地域社会、これらがすべて、そよ風が吹くたびに揺れる繊細な蜘蛛の糸のように張り巡らされている。つながりのない事柄に同時に関心を向けなければならない時、その均衡を保つのは非常に難しい。たとえそれが日常を問題なく送るのに必要であっても。聖者や芸術家のように、不変の心の目が本当に欲しいと思うが、それはかなわない。」

 こういった中でアンはロングアイランドやハワイに暮すようになる。娘はアンについて語る。「海がアンに力を与えたように感じられる。ひとつは、街では見られない、どこまでも続く海と空の景色。もうひとつは、ゆったりとした生活のリズムだと思う。そのリズムはあわただしく暮らす人間ではなく、潮の満ち干きによって作られている。母はいつも夫や子供の世界中心に過ごしてきた。でも、この本を書いたとき、初めて自分自身の心の世界を中心に考え、そして他の女性たちにその気持ちを伝えようとしたのだと思う。」
 
『人生百年私の工夫』日野原重明著(幻冬舎)を読んで

 病気で中断された人生、あるいは定年退職でこれからどう生きるか考えている人、人生には様々な転機がある。それを宿命として、しっかり受け止め新たな人生を選択していく勇気が必要だ。、病気や定年といった状況を否定的に捕らえるのではなく新たなことを始めるチャンスとして捕らえトライしてゆく勇気が必要だ。

 日野原重明氏の本が病院の図書館にあった。「皆さん(定年後の人達)の多くは前半の人生を夢中で暮してこられられた方々だろうと思います。それがやっと現役の重荷を解かれたことになります。そしてこの年齢を超えた後半の人生こそあなた方が自由にデザインできる希望のある人生であることに気がついて欲しい。」と書いている。

 人生の折り返しに入った年齢の人にとってこれからどう自由に生きるかは難しくしかしスリリングなものだろう。どのような時期でもどのような状況でも、人生はそこが始まりなのだ。「ここがロドスだここで飛べ」。

日野原氏の本の中にある箴言
◆長く豊かな「人生の午後」の時間が始まる。
◆常に上がり坂を登っている気持ちで、自分で自分を育てていく季節。人生の「折り返し地点」を考える。
◆年とともに、自分の人生を自由にデザインできる人
◆老いは生き方の選択が自由になるチャンス
◆生きるということはアートである。
◆60歳だからこそ20年、30年の夢を目標にして生きる。
◆肩書きを失うことで得られるものも沢山ある。
◆新しいことを創められる人は幾つになっても老いることはない。
◆ライフワークを持つことが若さの秘訣。
◆好奇心を持ち続ければ,余生を惰性で生きることはない。
◆「どう死ぬか」を考えるのは「どう生きるか」を考えること。
◆死を意識してこそ、充実した老いの人生計画も立てられる。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

文京区散歩-9 虫の詩人の館/ファーブル昆虫館

12月23日(日)
 昨日、団子坂上から道坂上にむかう途中に変わった5階建ての建物が目に入った。白銀に、南仏独特のイエローペイントをアクセントにしたデザインの建物で(繭をイメージしたそうです)、ファーブルのシルエットが看板になっている。

 白銀の建物に黄色い入口。何だろうと思って近づいてみると、「虫の詩人の館/ファーブル昆虫館」と書かれていた。このような住宅街にどのようなものがあるか興味を持って入った。昔小学校時代昆虫採集をしていた者として昆虫と聞くとどうしても見たくなってしまう。

駒込周辺001_edited_convert_20100603000827  駒込周辺004_edited_convert_20100603000927
 入口の表示                          昆虫館の白銀の建物

虫の詩人の館/ファーブル昆虫館
 1階はファーブルの直筆ノートを始めファーブル関連本に資料類、スカラベなど昆虫記に登場する昆虫標本、日仏の美しい蝶たち。ファーブルの仕事机、その上にあの有名なフェルト帽! そこを過ぎて奥(入口から見て左側)のコーナーに回ると、カブトムシなど様々な甲虫類、蝉や擬態する昆虫など、様々な昆虫標本が壁一面に。

さらに子供たちに大人気のヘラクレスオオカブトをはじめとした生きた昆虫の観察まで楽しめる。世界各国の珍しい蝶や蛾、くわがた、ナナフシ、カミキリムシ、カブトムシが展示されている。昔自分で採集した事のあるものは懐かしく、始めて見る物は珍しく興味は尽きることはない。 

 反対側、右のコーナーにはファーブルの生涯を放映、ファーブルが作詞作曲した小曲を聴けるブースも。一番奥のテーブルにはファーブルが観察して水彩で描いたきのこの本がある。

 地下1階には、ここで飼われている生きた昆虫たちのケースが壁に並び、中央には南フランス・ルーエルグ山地の古い村サン・レオンの家具や調度もごく少なく、貧しかった南仏の昔の農家ファーブルの生家が再現されている。

 この『虫の詩人の館』は「ファーブル昆虫記」の翻訳者奥本大三郎氏が、自分の住居地を提供し寄付を集め建てたもので、展示されている標本も長い間こつこつと集めたものだそうだ。そしてNPO日本アンリ・ファーブル会を作りボランティアで運営されている。

奥本大三郎の講演
 彼は『ファーブル昆虫館』の設立趣旨について東京新聞主催のファーラムで講演した。
 「子供はわれわれの未来そのものです。その子供たちが、今置かれている環境は、正直言って決していいとは思えません。学校から帰るとすぐ塾に行って受験テクニックを磨くのに毎日忙しく、その憂さ晴らしにテレビゲームでピコピコと仮想殺人にふける、というようなことで健全な大人になれるのでしょうか。

 昔の人は自然の中で思い切り遊んでいます。ものはなくとも自然環境には恵まれていますから、遊び場には困らなかったでしょう。海や川で泳いだり、魚を掬(すく)ったり、カニを捕ったり、雑木林でカブトムシやクワガタムシを捕まえたりと、夏の子供は遊ぶのに忙しかったでしょう。こんな状況が、戦後の、いわゆる高度経済成長の時期まで続いたわけです。

 それ以後はしかし、農業は機械化され、田や畑に農薬が撒(ま)かれて、虫をはじめ、小動物が農地からいなくなってしまいました。エネルギー革命とか言って薪(まき)や炭も使われなくなったために、里山も不要になりました。山林、原野といわれたような土地は開発されて工場や宅地になりました。

ゴルフ場の数も大変なものです。川にはダムが造られ、コンクリートの三面張りになって、魚も虫も減り、泳げるところもほとんどなくなってしまいました。要するに、都会はもちろん、田舎でも子供や大人が自然の中で遊ぼうとしても、その場所がないのです。

 ところで、日本人の美意識の基本となるものは花鳥風月を賞(め)でる心です。そしてそのまた基礎となるのは、子供の時に小動物と遊んだ経験なのです。」このように語り、ファーブル館を作ろうとしたということです。

昆虫館設立の意味
 アンリ・ファーブル会の趣旨説明には次のように書かれています。「日本人は昔から故郷の自然に護られ、小動物、主に虫を相手にその姿や形の多様さ、美しさ、行動の面白さを知り、命の貴さ、その不思議さに触れて来ました。昆虫が棲み、それを餌として野鳥が群れる。ファーブル会では、それが本当の自然再生であることを広く知ってもらい、昆虫と植物の専門家のノウハウを活かして、自由に子供たちが昆虫に触れ、自然と遊び・自然から学ぶ環境を作ります。」

36.gifファーブルの精神
 虫の行動を辛抱づよく観察し、心を澄ましてその意味を考え、あらゆる場合を想定して仮説をたて、実験の工夫をする。その自在な心、自分の目で見たことしか信じない精神の強靱さ、何よりも、美しいものに驚く感受性の鋭さ。ファーブルは虫の観察から人生の真理というものに到達する。

 「虫という最も小さなものに最大の驚きが隠されている。」という言葉に表されるように昆虫を観察することによって自然の偉大さを知ることが出来、またそこから人間の進むべき道が自ずから開けて来る。「虫とは何か」が分かってくると[自分とは何か」が分かってくる。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

文京区散歩-8 団子坂周辺

12月22日(土)
▼ 道坂から団子坂へ
 朝からどんよりと曇った日だ。昨日の夜雨が降ったのだろう地面が濡れている。病棟内は暖かく冬だということを忘れてしまう。部屋ではTシャツ一枚で過ごしている位だ。しかし一歩外に出ると真冬の気温だ。寒空に枯葉のざわめきがよりいっそう寒さを感じさせる。

 午後少し気温が上がったので出かけた。周辺探訪も病院から歩いていけるところが段々遠くなり、徒歩で1時間往復が難しくなってきた。病院に置いてある放置自転車を使えれば丁度良いんだがそうもいかない。

 道坂を不忍通りまで下りずに途中から団子坂の上に出る道を行った。この道は千駄木・団子坂上・道坂上・富士見神社・六義園・駒込駅方面、文京シビックセンター循環の路線マイクロバスが運行している。今、不忍通り沿いや本郷通り沿いに13,4階建ての高層マンションの建設ラッシュが起こっているようだ。そこら中新しいマンションが建てられようとしている。

 道坂から団子坂に向かう高台に、警察庁の千駄木宿舎が建築中だった。財政危機の折、こういった都会の一等地に巨大な建築物が国民の税金で建てられるということにはいささか疑問が残る。

この建築中の宿舎の前に東京都名勝指定文化財である旧安田邸がある。改築中であったが、土曜日のみ一般公開されているということで改築の募金を払って入ってみた。

ボランティアの人が案内し説明を受けた。最近多くの観光地でもボランティアのガイド付きでかなり便利になっている。さらに2件ばかりのマンションが建築中であり、団子坂上ではかなり広い場所に東洋大学の外国人宿舎が建築中であった。瀟洒なマンションの狭間の中で古いものが着実に埋もれていく。

駒込周辺009_edited_convert_20100603001030  駒込周辺007_edited_convert_20100603000959
 旧安田邸入口                        旧安田邸玄関

旧安田邸由来: 大正7年、豊島園の開園者として知られる藤田好三郎がこの地を取得し、邸宅を建設した。その後、大正12年、安田財閥の創始者安田善次郎の娘婿善四郎が購入し、昭和12年に長男楠雄が相続した。建物は、伝統的な和風建築の書院造や数寄屋造を継承しながらも、内部に洋風の応接間を設けるなど、和洋折衷のスタイルも取り入れた造りである。大正時代の大規模で質の高い近代和風建築が震災や大戦の被災を免れて、ほぼ完全に良好な状態で保存されている。

▼ 団子坂の由来
 文京区千駄木二丁目と三丁目の境を東へ下る坂が団子坂だ。下りきった先は谷中へと続いている。名前の由来は、昔は坂の下に団子屋があったからという説と、急な坂なので雨降りの日に転ぶと泥まみれの団子のようになるからという説があるが、おそらく前者ではないか。

 「千駄木坂(団子坂)は千駄木御林跡の側、千駄木町にあり、里俗団子坂と唱ぶ、此坂の傍に昔より団子を鬻(ひさ)ぎて茶店ある故の名なり、今は団子のみならず、種々の食物をも商ぶ繁昌の地となれりと。」(『御府内備考』)、「又坂上より佃が海見えし故。古くは潮見坂とも呼べり。今も坂上民家の庭前より樹間に海上見えて風景よし。」(『新編武蔵風土記稿』)

 また、『御府内備考』 には、七面堂が団子坂下に往来から九尺程(約三米)引きこんであるとの記事がある。この七面堂から七面坂の名が生れている。いろいろの名前を持った坂道だ。幕末から明治末にかけは、菊人形で有名だった。菊人形は文化年間(1804~18)に巣鴨の染井の植木屋が始めたのがおこりで、安政3年(1856)から団子坂に始まっている。
 
 明治期には二間半・5m弱の狭い坂道だったようだが、現在は20m近くの道幅で、ひっきりなしにクルマが行き来している。坂の途中には観潮楼跡の残る鴎外記念本郷図書館があり、近くには古道具屋や老舗のお菓子屋などが点在している。坂の下には地下鉄千代田線の千駄木駅があって、その上を不忍通りが走る。

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 団子坂の由来を記した看板                団子坂の様子

▼ 文芸作品に描かれた団子坂
 団子坂ほど多くの文芸作品に登場する坂はないだろう。江戸川乱歩の「D坂殺人事件」、団子坂の上に住んでいた森鴎外の「青年」、二葉亭四迷の「浮雲」などの他、正岡子規は『自雷也もがまも枯れたり団子坂』と団子坂の菊人形の様子を詠んでいる。鴎外と同じくこの地に住んでいた夏目漱石の作品「猫」の中にも、しばしば団子坂の名前が出てくる。

 永井荷風は、当時の団子坂を次のように書いている。「絶壁の頂に添うて、根津権現の方から団子坂の上へと通ずる一条の路がある。私は東京中の往来のうちで、この道ほど興味ある処はないと思っている。片側は樹と竹薮に蔽われて昼なお暗く、片側はわが歩む道さえ崩れ落ちはせぬかと危ぶまれるばかり、足下を覗くと崖の中腹に生えた樹木の梢を透して谷底のような低い処にある人家の屋根が小さく見える」(「日和下駄」)

▼ 団子坂の周辺
 この「団子坂」の名を有名にしたのが、明治の文豪森鴎外だ。鴎外はこの団子坂の坂上に住居を構えた。この東京湾を遠望出来る住居を「観潮楼」と自ら名付け、ここで雁や山椒大夫などの小説を書いた。鴎外の作法説の中にこの団子坂の事はしばしば登場している。「観潮楼」跡は、現在、文京区立鴎外記念本郷図書館となる 館内の1階の一角に鴎外記念室があり、幼少の写真からデスマスクまで鴎外の足跡をたどる大変興味深い資料が、展示されいる。   

 また、すぐ近くには、平塚雷鳥らによって1911年に結成され、のちに婦人解放運動へ発展していった青鞜社発祥の地がある。    
   
 日本医科大学同窓会館敷地内には、夏目漱石の住んだ旧居跡と川端康成書の立派な石碑がある。ここで「我が輩は猫である」を書いたのでこの旧居は、「猫の家」と呼ばれた。また、森鴎外も観潮楼に移り住む前の1年ほどこの住居で文学活動に励んだ。この家屋は現在、愛知県犬山市の明治村へ移築保存され公開されている。

seitou.jpg 青鞜
 1911年(明治44年)9月から1916年(大正5年)2月にかけて発行された女性だけによる文学誌。当時の家父長制度から女性を解放するという思想のもとに、生田長江、森田草平らの講座「閨秀文学会」に参加し文学に関心を持った平塚らいてうの首唱で生田長江のすすめと母からの資金援助を受けて創刊。

誌名は生田長江の命名。当時のヨーロッパで知的な女性達がはいていた靴下が青かったことからブルーストッキングと呼ばれたことに由来する。

 平塚らいてう(当時26歳)を中心に、保持研子(やすもち よしこ、当時25歳)、中野初子(当時25歳)、木内錠子(きうち ていこ、当時25歳)、物集和子(当時24歳)らが参加した。同誌第1巻第1号に平塚が著した「元始、女性は太陽であつた-青鞜発刊に際して」という創刊の辞は、日本における婦人解放の宣言として注目され、多大な影響を及ぼした。当初は詩歌が中心の女流文学集団であったが、やがて伊藤野枝が中心になり婦人解放運動に発展していった。当初、東京市本郷区駒込千駄木林町(現在の東京都文京区千駄木)の物集和子の自室に編集局を置いた。

 1913年4月、文部省の提唱する良妻賢母の理念にそぐわないとの理由により、発禁処分を受けた。1915年1月号より、発行人が平塚から伊藤野枝に交替した。野枝は雑誌『青鞜』の編集・発行を受けつぐと「無主義、無規則、無方針」をモットーにエリート女性だけでなく一般女性にも誌面を解放。情熱的に創作・評論・編集に活躍し、『青鞜』を文芸雑誌から女性評論誌、あるいは女性論争誌と呼ぶべきものに変えていった。1916年2月に無期休刊となる。       

▼ 参考:大杉栄と伊藤野枝
 関東大震災が起こり、約14万人が死亡した。その折、さまざまなデマが流され、その混乱時に在日朝鮮人の虐殺が起こった。また、そのどさくさにまぎ れて憲兵大尉甘粕正彦と部下5名によって、無政府主義者の大杉栄と、「青鞜」で活躍した妻伊藤野枝と、彼らの甥の橘宗一(6歳)が虐殺されるという事件が 起こった。瀬戸内寂聴氏は伊藤野枝の生涯を描いた作品『美は乱調にあり』の冒頭でこの事件のことに触れている。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

映画『手紙』

12月21日(金)
 昨日の血液検査で、血小板数が7.4とベルケード投与中にもかかわらず増加していた。白血球は9.4とデカドロンの影響で上昇している。ヘモグロビンは10.1と増加していた。正常細胞がベルケードの影響に対抗出来ているという事だ。この状態で続けばベルケード療法の長期継続は可能だろう。今日ベルケード療法第2サイクル4回目の加療を行う。

『手紙』(原作・東野圭吾、監督・生野滋朗、主演・山田孝之、玉山鉄二、沢尻エリカ)をDVDで見た。

D111880598.jpg 罪を犯すということ、罪を償うということとはどういうことか。犯罪者、犯罪者の家族、被害者の家族が、もう起きてしまった犯罪という事実を、どう受け止め、格闘していけばいいのか。それぞれの立場でのそれぞれの苦悩が交錯しながら抉り出されている。一つの強盗殺人事件が引き起こす不幸と、犯罪者の家族を襲う闇の深さをとことんまで掘り下げている映画だった。

 社会と家族、そして自分自身の立場について深く考えさせる。人を殺してしまった罪は決して消えることはない。どんなに加害者が悔い改めても、被害者の家族の傷が癒えることはない。しかも加害者の家族にも、人殺しのレッテルが貼られてしまう。

 殺意が全くなくても、偶然の事故であっても、どんなにいい人間だったとしても、「殺人」という行為によって全てが変わってしまう。その罪によって、たった一人の肉親の大好きだった兄貴も憎んでしまわなければならない。その心の葛藤がひしひしと伝わってくる。

 事件から6年経って被害者の息子に加害者の弟が謝罪に行った時、その間毎月欠かさず被害者への謝罪の手紙を獄中の兄が送り続けていた事実を知る。その時 弟の直貴は気付く、兄なりに償いというものを6年間真剣に考え続けてきたことを。しかし、兄は謝罪の手紙などでは償いならないということを弟からの決別の手紙の中で知る。
 
 どのような償いが本当の償いなのか迷い深い苦しみにとらわれる。自らの行為によって被害者の死ということ以上に被害者家族、弟の家族の苦悩をどうやって引き受けるのかを考えなければ罪の償いにならないということを悟るのである。だからこそ、最後の場面での弟が言う「兄弟であり、血がつながっている」という言葉の重みに祈りと、涙の重さがのしかかってくる。

 被害者の息子にとって母親を殺害された事実は許しがたい事ではあるが加害者の家族も同様に苦しんで来た事を知り「もうこの辺で終わりにしましょう」と告げる場面があったが、この被害者の息子の言葉に泣き崩れる直貴の心情は、申し訳ないという気持ちだけではなく、これまで兄への恨みがましい気持ちを抱えて、自分だけ苦しんできたと思い込んできた呵責の念ではないだろうか。自分だけでなく、兄も、被害者家族も皆自分以上に苦しんできたのではないかという思いがこみ上げてきたのだろう。

 親と子の関係も大きなテーマになっている。直貴が好きだった社長令嬢と別れる場面、父親が金を渡して娘と別れてくれと言う。「理不尽な願いをする父親の気持ちを、君も私と同じ親になった時にわかる日が来る。」結婚して一見幸せそうな直貴の家族、しかしやはり兄の事で公園でも阻害される自分の娘、家族を守るために兄を捨てると覚悟せざるをえない。しかし親子と兄弟どちらかを選択することなど出来ないと最後には気づくのだ。
 
 人生とは沢山の人との繋がりにおいて、それぞれの立場や気持ちを理解していかなければならない。家電販売会社の会長が「どうしたらいいのか。ここからはじめるのだ。この場所から君と社会の場所を増やしていくのだ。君はもう始めている。君はこの手紙の主と心が繋がっている。後はつながりを2本、3本と増やしていけばいいんだ。差別のない国を探すのではない、君はここで生きていくんだ。」という。逃げずに現状に立ち向かう勇気は必要だということだ。

 「人は一人では生きていけない、優しさを失った現代社会の希望を失った全ての人々に贈る魂の人間賛歌。」と映画の紹介に書かれていた。殺人を犯したことで、被害者だけでなく、身内である弟、その妻、その子をも被害者にしてしまったことに気がついた兄、剛志が、深い悔悟と、それでも自分を兄として見てくれる弟への感謝の念で涙にくれる。この最後の場面で、今まで屈折しながら表現できなかった感情が一挙に噴出する。

 人が生きるということは、決して自分ひとりの問題ではないということだから赦し、赦されながら共存していくほかない。でも、どんなに悔いても罪は罪そして、兄弟は兄弟どちらも、消せるものでは無い。

あらすじ:強盗殺人の罪で服役中の兄、剛志。弟・直貴のもとには、獄中から月に一度、手紙が届く……。しかし、進学、恋愛、就職と、直貴が幸せをつかもうとするたびに、「強盗殺人犯の弟」という運命が立ちはだかる苛酷な現実。人の絆とは何か。いつか罪は償えるのだろうか。犯罪加害者の家族を真正面から描き切った作品。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

アルベルト・ジャコメッティ

12月20日(木)
 ジャコメッティの画集を見る機会があった。彼はリアリズムを極限まで追求しようとして、その結果、共同体的慰めを失った現代人の深い孤独と不安感を比喩的に表現した。彼の作品は、巨大で複雑な社会的政治的機構の中で人間性を剥奪され、心理的に孤独状態にある大衆社会の都会人の苦悩を鋭く反映している。
 
略歴:
 アルバート・ジャコメッティ(ALBERT GIACOMETTI 1901-1966)はスイスに生まれ、おもにパリを舞台に活躍した20世紀の彫刻家です。人体彫刻の制作を通して「目に見えるものを見えるとおりに表す」という、単純にして困難な命題に挑戦します。

 同時代の優れた思想家であるベケットやジュネ、サルトルらと交友しながら自らの哲学的思考を深め、モデルとそれを取り巻く空間をありのままに現出させようと追求した結果、肉体が極限まで削ぎ落とされ、人間の本質だけが残されたような細長い彫刻に到達しました。(川村記念美術館展示会案内より)

ジャコメッティの格闘
aruku.jpg ジャコメッティは人物を「見えるがままに」表そうという、単純なようで実は不可能に近い試みを追求した。それにしても「見えるがままに」表すとは、一体どういうことなのか、ある人物を「見る」とはどういうことなのか。多数の一を、無限に唯一であるひとつの一に引き戻したいという欲求に駆られながら。

 彼は語る「私が 見たものを記憶によって作ろうとすると、怖しいことに、彫刻は次第次第に小さくなった。それらは小さくなければ現実に似ないのだった」「私は倦むことなく何度も新たにはじめたが、数カ月後にはいつも同じ地点に達するのだった」「それでも、頭部や人物像は微小なものだけがいくらか真実だと私には思われた」

 そして叫ぶ「もう少し、ほんのもう少しの勇気さえあったならもう少し、ほんのもう少し!欠けているのは勇気だけだ。消すことだ。すでに描いた一切の細部を消す勇気だ、その勇気が必要なのだ。しかし細部を消せばなにも残らなくなってしまう、それが恐ろしいのだ、畜生!壊すことによってのみ前進する。どうにも仕方がない。」

ジャコメッティの言葉
 「リアリズムは終ったなどと言う者はレアリテを見ることを知らないのだ。自然は無限に豊かだ、それは見るたびに新しい姿であらわれる。現実を再現した作品を創ることが不可能であっても、現実を素晴らしい未知の世界と感じる以上、それをよく見、理解するためには、何も考えず、対象を忠実に模写しなくてはならぬ。」

 「作品も進歩するが、ヴィジョンはさらに先へ進み、作品と現実の開きはますます大きくなる。制作は決して終らない。中断された失敗作のみが残る。完成された作品はできない。」

 「対象を忠実に眼に見えるとおりに描く仕事は、何の基準も持たず、人間の理解を超えた巨大な自然に向うことであり、不条理な状態に留まることだ。こんな不条理な仕事は果たして試みるに値するだろうか」

 「確かに私はこの冒険を生きている。してみれば、成果があろうとなかろうと、それが何だというのだ、いずれにしてもそれらは私にとっては失敗なのだから、私は何一つ求めない。死にものぐるいで仕事を続けることのほかは。」「可能か不可能か、これを知るためにも仕事を続けなければならない」
(芸術誌オリヴィア「エステティカ・オリヴィア刊」より掲載)

ジャン・ジュネ(Jean Genet 1910~1986)の言葉
 美には傷以外の起源はない。 どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷,独異な,人によって異なる,隠れた,あるいは眼に見える傷,その人が世界を離れたくなったとき,短い,だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。
 だから,この芸術は,悲惨主義と呼ばれるものからは遠い。ジャコメッティの芸術は,私には,どんな人にも,どんな物にさえあるこの秘密の傷を発見しようとしているように思われる,その傷が,それらの人や物を,光輝かせるように。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

ワーキングプアと正規社員

12月19日(水)
NHKスペシャル「ワーキングプアⅢ」
 12月16日のNHKスペシャルで『ワーキングプアⅢ(解決への道)』が放映された。「世界の働く貧困層の実態、解決と模索、新たな雇用の創出・アメリカ、手厚い保護の網・イギリス」といった内容で行われた。この中で日本の貧困層が15.3%、アメリカが17%、韓国が13%であるといった統計の報告があった。また非正規雇用者の数は、日本33%、韓国55%となっている。

 韓国では非正規雇用が急速に拡大し、低賃金に耐え切れず自殺者が出ている。そういった状況に対し非正規雇用保護法が施行されたが、そのことによって百貨店非正規女性労働者が大量に解雇されるという現状が報告され、アメリカではグローバル化によってIT企業のエリートまでもが海外との競争に敗れ職を失う状況にまで至っている。アメリカ、イギリスでの貧困層の実態と、それに対する対策が紹介された。

graph1.jpg ワーキングプアにあたる所得の世帯数は、日本全国で2002年700万、2007年1100万と推定される。統計としては、総務省の就業構造基本調査が数字の根拠となる。これに基づいて(推計的に)試算すると、ワーキングプアの量は1997年 514万世帯 14.4%、2002年 656万世帯 18.7% と言われている。民間企業で働く労働者の平均年収は1998年以降右肩下がりに推移しており、2006年の平均年収は435万円と9年連続で減少した。

「働く貧困層」の増加の背景
 何故このような貧困層の増大がもたらされたのか。それは小泉政権、安部政権を貫く新保守主義の経済政策によるものなのだ。これは、国家によるサービスの縮小(小さな政府、民営化)と、大幅な規制緩和、市場原理主義の重視を特徴とする新自由主義と呼ばれるものである。地方を基盤とし安定的な経済を与える従来の保守とは異なり、大都市市民を基盤にして台頭した。

 経済的には政府による介入を極力排し、市場や企業の活動への規制を無くす傾向が強く、大企業や富裕層への減税と間接税増税、福祉削減、規制緩和などによって特徴づけられる。新自由主義とは弱肉強食の理論であり、市場原理主義による「効率化と成果主義」を柱としながら、構造的に強者と弱者の二極化を促進させ格差社会を生み出す。深夜のコンビニ業に代表される過酷かつ低賃金の非正規社員の労働人口は増加の一途を辿る。
 
 こういった市場原理主義と自由放任主義の破壊性、非論理性を佐和隆光は指摘する。「効率をひたすら追求する市場機構のふるう暴力がもたらす災禍の事例としては極度の貧困と格差、短期資本の頻繁な流出入による資本市場の撹乱、公的教育、医療の荒廃、資産価値の暴騰、暴落の影響としての金融危機などが挙げられる。自然環境、地球環境の破壊も市場暴力の一つに数えてしかるべきだろう。」

正規社員の現状
 ワーキングプアと対極にあるのが正規社員の労働の現状だ。正規と非正規の現状は一つの根で繋がっている。両者にかけられている過酷な労働現状は大企業の高利益を生み出しているのである。

 漫画やテレビドラマでおなじみの『働きマン』に関してのアンケートがあった。「働きすぎだと思うか」に何通ものコメントが寄せられていた。少し紹介してみる。

■月曜~金曜までは9時~23時まで仕事、忙しいときは土日出勤当たり前、時には徹夜も・・・、残業代は50時間までしか計算されていない、給料は上がったが税金も上がり結果手取りは3年まえから一緒、正直疲れました。

■夜中にも呼び出されるので飲みにいけません。今日は土曜日なので久しぶりに5時間ほど寝ました。あー疲れが取れたぜ。ウチの会社では毎年何人か精神病で入院しますし、数年に1度自殺者が出ます。あなたの会社はどうですか?

■毎日が家と会社の往復で・・・なんて人、少なくないのでは?私生活に潤いがないのではなく多分なんらかの形で責任のある仕事をまかされてたりして、生活=仕事みたいな感じですかね。自分ではそう思ってなくても人に言われます。「そんなに頑張っても所詮会社なんてあなたの代わりはいるよ」ってね。

■仕事ばかりの生活で人生なにが楽しいのか、幸せなのか、この時代余裕のなさに心が寂しい。

■食事の時間が10分しかなく、一人で、週休1日で、8時30から19時30まで毎日、座ることなく働いた時。辞めてやろうかと思った!!そして、ボーナスも出ない・・・

 「忙しい」という表現は「心が亡びる」と書く。自らの存在根拠を失いただ日々仕事をこなしていくだけになってしまう。過酷な労働は仕事から意義も価値も奪い、仕事への意欲も創造性も削り取られていく過程なのだ。企業の利潤追及の歯車として効率よく機能する使い捨て労働力の大量産出こそが今の社会を動かしている。しかしそれで社会の活性化が本当に図れるのだろうか。社会を動かすエネルギーが衰退していく過程を歩んでいるのではないか。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

病棟の風景

12月18日(火)
病棟の風景
 病院の敷地内の落葉樹は殆ど葉を落とし終わった。サクラから始まり、ポプラ、ケヤキ、イチョウと大量の落ち葉が遊歩道の通路を覆っている。歩くと靴が沈むほどの量だ。ふかふかとする感覚に心地よさを感じながら、散歩をする。冬のからっとした快晴の日が続く。

 裏庭のシラカシ(ブナ科)が並木になっており、その間にもみじが植えられている。そのもみじの赤い葉がシラカシの濃い緑の葉と調和を保っている。それに平行にフェンスに沿って山茶花の垣根が続き、今は盛りと白の大輪の花を咲かせ、それにアクセントをつけるように濃いピンクの花を所々に配置している。病棟内は午後のまどろみのごとく静かで、窓からはひたすら透明な青い空が、昼下がりの温かな日差しを浴びながら広がっている。
 
  空は屋根のかなたに
    かくも静かにかくも青し。
  樹は屋根のかなたに
    青き葉をゆする。
  打仰ぐ御寺の鐘は  
    やわらかに鳴る。
  打仰ぐ樹の上に鳥は
    かなしく歌ふ。・・・(ヴェルレーヌ『偶成』永井荷風訳)


 病院の中庭では寺院の鐘の音も聞こえず、、鳥の鳴き声もなく、既に木々は青さを失ったが、病棟周辺の空気と情景はヴェルレーヌの詩の静かで穏やかな心情とあいまって心の中に静謐さを与えてくれる。彼が心の中で求めた一瞬の平穏への憧れが痛いほど伝わり心が苦しくなる。

がん患者の生活
 今回の抗がん剤投与、ベルケード療法は殆ど副作用もなく苦しかったり痛かったり辛かったりすることは全くと言ってなかった。静かな病棟の中で、平穏な大気に包まれで、穏やかな毎日(一週間の一時退院はあったが)を既に2ケ月近く過ごしてきている。この2ケ月間に何が出来たのか、またさらに2005年11月24日にガンが判明し、それから入退院の2年間一体何をしていたのだろうか。

 あるがん患者が書いていた。「普通の生活をして死ぬならいいと考える。普通の生活さえ出来ればどうなってもいいと思う。普通の生活、普通の生活、普通の生活。同じ年の人がやっているような病気とは無縁の生活。病気のことを考えないですむ生活がしたい。(西田英史『ではまた明日』草思社)」と。

 もちろんこの言葉は観念であり、存在しえないことへの限りない願望である。ガンには完解はあっても完治はない。身体の中に絶えずがんの再発という爆弾を抱えての生活である。そして体力的に昔と同じ仕事をするということはきわめて困難である。

どのような仕事が可能か
 自分に当てはめてみて、仮に体力的に可能であっても昔と同じ仕事を、同じ心構えで出来るだろうか。あの精神力は何だったのだろうか。「企業戦士」の一員としての自覚なのだろうか。家族のためだろうか、家のローンのためだろうか、社会への奉仕の精神だろうか。どれも当てはまらない。

 「仕事だから」というのが適切な答えだろう。与えられたものをこなすという社会成員の一人としての義務を果たしていたに過ぎない。それは習慣であり、惰性であり、帰趨本能のように職場に引き寄せられていたに過ぎない。そしてその勢いを失った今もはや同じように仕事は出来ないだろう。

 まさに「どんな経験も出会う前と全く同じ人生を人に戻すことはしない。(岸本葉子)」なのである。惰性的、習慣的労働のあり方を捨て、自分の立脚点を定めそこから出発するような仕事を求めなければならない。しかしそれは現代社会において不可能に近いほど困難な課題だ。

 昨日の血液検査の結果、血小板数は6.8、白血球は3.2、ヘモグロビンは9.6であった。血小板数から判断し、今日ベルケード療法第2サイクル3回目を行った。 

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

日本の家

12月17日(月)
◆ 日本の家の変様
『監獄の誕生』の中で監獄の囚人管理システムが、学校、兵舎、病院に敷衍して適応されていることが記述されていた。しかしそれは日本の高度経済成長時代にあって監視、管理、隷属の労働力を生み出し、効率よく働かせるための住居の構造にまで適用されて来ていたのである。人々は奴隷労働の宿舎としての住居の中に幽閉され、呪縛され、ベルトコンベアーで職場に搬送される。

◆ 森鴎外記念館
 団子坂上に森鴎外記念館がある。この記念館の地に鴎外は長年暮していた。入り口を入るとガラスケースがあり、森鴎外が住んでいた邸宅の模型があった。かなり広く、庭や縁側もある。記念館の中に入ると鴎外の直筆の文書や、当時の雑誌などが飾られている。鴎外の家のすぐ傍に高村光太郎が住んでいた。かなり密接な交流があったという。

鴎外が住んでいた千駄木町の57番地の家には森鴎外が去ること11年目、明治36年(1903)イギリスから帰朝した夏目漱石が住み、この家で「吾輩は猫である」が執筆されたことから、現在通称『猫の家』と呼ばれている。
 
kan3.jpg 鴎外の家の建て増しした2階からは遠く東京湾 品川沖の白帆がながめられたことから、鴎外はこの家を「潮を観る楼閣」=「観潮楼」と名づけた。観潮楼は文学サロンとしても大きな役割を果たした。明治40~43年にかけて観潮楼歌会が開かれ、明星派・アララギ派等々短歌界の各流派の調和を図り、また、若手新人も歓迎され、新しい試みの場ともなっていた。

与謝野鉄幹、伊藤左千夫、佐佐木信綱、平野万理、齋藤茂吉、上田敏、石川啄木などがこの地に集った。このように人が集う際に使われていたのが海の見える2階の部屋だった。
     
◆ 昔の家屋
 記念館の古色蒼然とした展示物、希成色になった雑誌、セピア色の写真、何故かいわゆる「古きよき時代」を思わせる。それを感じさせるのは、家の構造とそれに伴う人間関係に在ったともいえるだろう。もちろんその頃生きていれば、日清戦争や日露戦争など明治時代の厳しさに苦しんでいた人たちも多くいただろうし、経済的には今と比較にならない位貧しい生活を送っていただろう。しかし、住宅費は貨幣価値的に今と比較にならない位安かったようだ。夏目漱石の小説に良く出てくるが、収入に対してそこそこの家は借りることが出来たようだ。      

 もちろん貧困層のいわゆるどぶ板長屋もあったろうが、そこのおける人間関係は、今のように互いによそよそしく切り離されたものではなく、相互扶助的な関係があったと思う。開放的な家で他者と自己との関係が濃密なものとして存在していた。

 夏の夕方縁台で将棋をしたり、スイカを食べたりといった風景は明治といわず、何十年か前まで、下町のおなじみの風景だったようだ。豊かな人間関係を象徴するようなそういった情景は今でも残っているかもしれない。しかしこういった光景は確実に減少し、消滅に向かっている。時代は「家」や「土地」に対する人間の確執から「人間対人間」の確執へと移行し始めたのである。

何処から日本的な家の崩壊が始まったのか。藤原新也が『東京漂流』(1983年刊)の中で書いている。

◆ 『東京漂流』
 「1956年団地第1号が作られた。これは牢獄の建築システムから採用した、「牢獄」の人間管理システムである。時代はこの時点において「人間管理」へ向かう。集合住とは60年代という経済成長時代、つまり経済の「戦争」を戦う為の新しい日本の兵舎であった。

 家はシステム量産型の[冷たい]機能に変質した。変質以前の日本の家屋構造は機能的ではなかったが世間に向かって開放されており、自然環境の中で呼吸している「生き物」であった。

 家の構造が開放から閉鎖に向かった。人々の家はそのお互いが交流するものから、お互いを遮蔽するものへと変容していったのである。その遮蔽とは人間関係の遮蔽にとどまらない。かっての日本の家の構造は他人に向かって開放されていたとともに縁側、神棚、床の間など自然に向かって交流する非合理な機能を備えていた。

 高度成長期の人間が生産と拡大に奉仕する目的適性を持ち始めた時、それは無駄の多い効率的でない家として排除された。家はこのように世間や自に向かってより没交渉になり、自閉し、非合理や無駄を排した無機物に変化していった。」


 「生産と能率の拡大」を至上価値とする社会では人間と人間生活を生産のための一機能として捉えた、そしてそれを妨げる「人間的なる感情や行為」を徹底的に抑圧していく中で、日本的家の崩壊は、加速度的に進行していったのである。家はくつろぎや安らぎ家族との関係の場ではなく、生産のための備蓄基地でしかなくなったのだ。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

がんとの闘い

12月16日(日)
 がんとの闘い
 雨の寒い日は過ぎ、この3日間は晴天が続いている。朝の短い時間だが朝日の鮮やかな橙色が窓を染めている。病棟の窓から見る景色は穏やかに晴れ渡り、雪を被った富士山が雄姿を窓に映し出している。日曜日特有の静かで落ち着いた雰囲気が漂っている。 

 空調が効き、快適な空間の中で書きたいことを書き、読みたい本を読み、見たいテレビを見ている。外はかなり冷え込んできているのだろう。もう12月半ばだ。風が強く冷たく、だから空が澄み富士山がよく見えるのだ。この状態をどう捉えればいいのだ。

 がんで入院することなどなければ、何の抵抗もなく当然のこととして、今日もたとえ日曜日だとはいえ出勤することになっていただろう。年末の一番忙しい時期だ。恒例のビックサイドでの催事も重なっているだろう。寒さに震えながら朝から出勤し、1日中夜遅くまで仕事だろう。

 病院にいれば快適な空間で好きなことができる。このあまりにもかけ離れた2つの現実の違いは何なのだろうか。埋めることも広げることも出来ない空間が横たわっているだけだ。

 このような空間に安住していると自らの立脚点が曖昧になっていってしまいそうになる。あくまでもがん細胞と死闘を繰り返しているという自らの立脚点を。病院での治療はあくまでもがんとの闘いの継続であり、一時も気を抜けない、どちらかが敗れるまで続く闘いなのだ。

 我々がん患者にとってはがんとの闘いが、自らの一生をかけた、最後の闘いとなるのだ。一切の妥協も許さず、後退すれば敗北するという苛烈な闘いのだ、そしてそれは選択の余地のない自らの運命として科せられてきているものなのだ。

 『詩人トロッキー』
 1969年3月、栗田勇が三一書房から『詩人トロッキー』という本を出した。この本はコヨアカンを舞台とした戯曲で巻末に筆者による「詩人トロッキー」と題した比較的長い解説がある。本を整理していた時偶然この古い本が出てきた。 
 
 この中に政治的に闘おうとしている女性の台詞がある。この内容はあくまでも政治的闘いに対する彼女の心構えや意思を表明したものだが、闘いは政治にのみあるのではない。ここに書かれた表現ががん患者の現状と心構え表すものとつながるものであると思うので引用してみたい。自らのがん患者としての在り方に沿って少し文書を付け加えてみようと思う。
 
 「いつも一番卑しいものが現実主義の仮面をかぶって出てくるのだ。現実は主義なんてもんじゃない。主義とは意見を持つことなんだ。意見とは現実を違う方向(ガンからの生還)に向けようとする人間の祈りなのだよ。

 私は未来のために闘っている。しかしそれは現実をよりよく生きるためなのだ。未来は一人の人間によって生きられた真実しか信じない。あたしたちの闘い(がんとの闘い)は、ただきれいな夢で現実を覆うことではないわ。たとえ悲惨な現実でもそれを見つめて、その中に人間らしく生きる力の源を汲み取ること・・・。
 
 政治というのは(がんとの闘い)、確かに我々にとってあの冷酷で無慈悲でどんな手段も選ばない、殺すか殺されるかの闘いだ。しかしそれも本当は巨大な運命の流れの中で宿命に屈しないで少しでも宿命を変えていこうとする人生の努力のうちの一こまなんだよ。」


 政治的闘い、革命のための戦い、未来のための闘い、これらの闘いへの意思は、我々のガンとの闘いへの意思と全く別物ではない。世界を変革する意思と、自らの命を救おうとする意思とどちらが優れていか等比較することは出来ない。我々ガン患者にとってはガンと闘う以外に選択の余地は全く存在していない。ただ全力を挙げて闘う以外ないのである。あくまでも自らの生命を守るために、そして人々の生命を救うために。

 『死者との誓い』
 ローレンス・ブロック『死者との誓い』の中に、「困難な時を体験すれば、そのことから何かしら得る所があるものだ。続けなければならない。続けよう。続けよう。」とあった。困難な体験から、何かを得なければとは思う。逆境は人を強くする。それに立ち向かう意思と力を蓄えガンを克服していく、そういった生き方を前向きに選択していこう。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

がんを生きる

12月15日(土)
 ベルケード療法が確実に効果を挙げているのは嬉しい。10月26日ベルケード療法開始時からIgMは確実に下がってきている。10月26日-2269、11月9日-1368、11月26日-617、12月10日-457となっている。第2サイクルを開始する前の段階でここまで減らすことが出来た。

 12月11日のベルケード第2サイクル1回目がどのように正常細胞に影響するのか、昨日の血液検査の結果が気がかりだったが、ベルケードと一緒に投与したデカドロンの影響だろう、白血球は5900と2500から大幅に増えた。血小板数は減り方によっては治療を中断せざるをえなくなる可能性もあったが、6.6から7.7と上昇した。ヘモグロビンは9.2から8.6に減った。血小板数が7.7ということで、昨日予定通りベルケード第2サイクル第2回目を行った。

 アフラックというがん保険を主要に扱う保険会社のホームページに、がん体験者の言葉がインタビューや本からの引用という形で掲載されている。我々がん患者に励みになる言葉も多く含まれているので転載してみたい。

 鳥越俊太郎
 がんと向き合うコツはがんから逃げないことです。逃げたら何でも怖くなる。・・・それを確かめようとすると好奇心が出てくる。どんながんなのか、共存するにはどうしたらいいのか。どういう療法があるか、そういう好奇心を持って向き合うのが一番いいと思う。向き合うのは自分を守るため、自己防衛本能です。 
 向き合うことで今まで何気なく見ていたものに意味を見出しますね。やはり人生の残りの時間というものを考えるわけです。切実に限りがある、じゃ何をしたらいいか、そういうことです。(インタビュー)

 重兼芳子
 病気だった故に、残された時間が限られていたが故に、虚飾を取り去り、建前を捨てた生き方を究めていくことが出来るようになった。母はどうせ何かの病気で死ななければならないのであれば癌もなかなか悪くないと言った。(『たとえ病むとも』岩波現代文庫)

 西田英史
 しかし悲しく辛い苦しい世界にいることのなんと素晴らしいことか。生きるということはそれ自体がとても楽しいことだ。(『ではまた明日』草思社)

 岸本葉子
 生きるとは人生が絶えず私たちに出す問いに答えていくこと。現在はその瞬間瞬間に新しい問いを含んでいる。
 どんな経験も出会う前と全く同じ人生に人を戻すことはない。がんもそのひとつ。生きる上で遭遇するあまたの人や出来事のひとつ。その総体が「自分」を形づくっている。(『がんから始まる』晶文社)
 

テーマ : 思ったこと・感じたこと
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病院とフーコー

12月14日(金)
 フーコー『監獄の誕生』第三部規律・訓練の最後を次のように締めくくっている。「監獄が工場や学校や兵舎や病院に似通い、こうした全てが監獄に似通っても何にも不思議はないのである。(『監獄の誕生』田村俶訳・新潮社版227p)」

 病院生活における規律秩序とは何か。これは監獄の規則と極めてよく似ている。起床6時、就寝22時、8時、12時、18時に食事。食後の投薬、飲んだ薬のチェック、決まった曜日の風呂、面会時間の制限、移殖病棟の個室に入れば、ガラス越しで電話での面会、風呂以外 部屋から出ることはない。規則に従うことが病気を早く治すということで厳格なスケジュールの元に管理されている。

 歩行に不安な状態を持っている人が勝手に立ち上がりトイレに一人で行こうすることを防止するために、足元にマットを敷きベッドから離れようとすると、そのマットのセンサーが働きナース室につながり看護師が駆けつけてくるという仕組みになっている。患者本人はトイレ位看護師の手を借りなくても大丈夫だと思って勝手に行こうとする。しかし看護師にとっては転ばれでもすれば大怪我をし、さらに血小板や白血球が少ない状態でそうなると命にかかわりかねないということでのケアーなのである。

 こういった病院における秩序維持、規律、管理の強化は患者の病気を治すという共通の目的の下、病院(医者、看護師)と患者の利害の一致が見られる中で成立している。いわば患者は管理される側、客体であると同時に自己管理する主体でもあるのだ。自らに規律秩序を強制する主体なのだ。

180px-Panopticon.jpg フーコーはこういった病院における秩序・管理システムもまた監獄のシステムから来ているという。そもそも身体刑からいかにして近代的監獄制度が生まれたか、フーコーはベンサムの一望監視装置(パノプティコン)から言及する。

 「ベンサムの一望監視施設は、周囲には円環状の建物、中心に塔を配して、塔には円環状にそれを取り巻く建物の内側に面して大きい窓がいくつもつけられる。周囲の建物は独房に区分けされ、その一つ一つが建物の奥行をそっくり占める。独房には窓二つ、塔の窓に対応する位置に、内側に向かって一つあり、外側に面するもう一つの窓から光が独房を貫くようにさしこむ。それ故中央の塔の中に監視人を一名配置し手、各独房内には狂人なり病人なり受刑者なり労働者なり生徒なりを一人ずつ閉じ込めるだけで十分である。(同上202p)」

 「一望監視装置は見る=見られるという一対の事態を切り離す機械仕掛けであって、その円周上の建物の内部では人は完全に見られるが、決して見るわけにいかず、中央部の塔の中からは人は一切を見るが決して見られはしないのである。これは権力を自動的なものにし、権力を没個人化する。(同上204p)」

 「ある現実的な服従強制が虚構的な「権力」関連から機械的に生じる。従って、受刑者に善行を、狂人に穏やかさを、労働者に仕事を、生徒に熱心さを、病人に処方の厳守を強制しようとして暴力的手段に訴える必要はない。(同上204p)」

 このような形で成立した監獄制度は権力支配の方法として敷衍化されていくのである。囚人は2重の存在となるのである。一つは、自己を監視し、自己に対し命令する主体であり、もう一つは、自分に監視され、命令され、行為する主体――「従順な身体」――である。それ故、常に自らを監視し、厳しい「規律・訓練」を自身に課すようになる。

 かくして近代的主体は、権力に対して大人しく従順であるのみならず、強制されることがなくとも、「自己への配慮」を欠かさずに自主的に権力にとって都合の良い行為に勤しむ。このようなものとしての主体が出来上がると、人間は、最大限の経済的利用が可能な身体に生まれ変わる。

 フーコーはこんな風に言っている。「身体は生産する身体であると同時に服従せる身体である場合にのみ有効な力となるわけである」。我々は自らの「主体」や「個性」を主張する時、自らの存在が実は権力に「服従な身体」であるということを自己対象化し、そこからの脱却を試みない限り、権力機構の歯車に容易に絡め取られてしまうのである。

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文京区散歩-7 本郷通り寺巡り

12月13日(木)
 東京の紅葉の見頃は今週一杯だと言う。それまでにもう少し紅葉を楽しもうと思った。ここら辺で紅葉があるといえば寺院に限る。前回は団子坂通りを本駒込に向かって右側を見て回った。昨日は天気もよく暖かだったので午前中に出かけた。団子坂通の左側を回ろうと思った。

常瑞寺
団子坂を本駒込の方に歩いていくと殆ど目立たない質素で寂れた建物があった。それが常瑞寺(真宗大谷派)で入口右に庫裏。左に本堂、裏は墓所である。全体的に暗くどうやって経営しているのだろうと考えてしまう。ただし山門右手の建物は常瑞寺の集会所で、一般の人も町会、選挙演説会等に貸しだしされているそうだ。

駒込寺院027_edited_convert_20100414190626 本堂

十方寺
団子坂通りと道坂通りの交差点を左に曲がると十方寺がある。ビルの谷間に挟まれ気がつかなかった。真新しいコンクリートの角柱に寺院名が書かれていた。正面に鉄筋コンクリート製の本堂があり、建物の形も寺院というのには程遠く市民化会館的雰囲気であった。左は庫裏。庫裏の奥が墓所となっていた。

駒込寺院040_edited_convert_20100414191449 本堂

大林寺
更に本郷通を上って行くと長元寺(高耀山 日蓮宗 )と大林寺(福寿山 曹洞宗)が隣接してあった。両寺院とも林の中に囲まれ最初は公園かと思った位だ。文京区保護樹に指定された大樹が茂り、イチョウ、ケヤキが見事に紅葉し、一方楠木の大木を始め常緑樹が多数あり、また長元寺にはもみじが2本ありその赤とイチョウの黄色、ケヤキの茶色、常緑樹の緑が絶妙なバランスを保ち、イチョウの枯葉が墓石に舞い散り通路を黄色の絨毯と化していた。大林寺は参道の左右に墓所があり、70m程行くと鐘楼で、そこを左折すると、正面に鉄筋コンクリート製の本堂、右に庫裏がある。

駒込寺院043_edited_convert_20100414191625 本堂
 
専西寺

長元寺から少し戻り十方寺の横の道を曲がると専西寺がある。掲示板に「地獄も極楽の私の心の中にあるのです」と書いてあった。入口入ると右も左も奥もすべて墓所。参道からすぐ鉄筋コンクリート製の本堂があり、その左に庫裏。 浄土真宗、大谷派本堂の屋根に特徴ある。イタリヤのキリスト教寺院のように丸屋根で天辺に尖塔が着いている。変わった作りだ。最近立て替えた寺院は昔の寺院のイメージとはほど遠く、自由なデザインで古いイメージをむしろ払拭することを目的に設計されているようにも思える。

駒込寺院041_edited_convert_20100414191531 本堂

真浄寺
大林寺と道を挟んで真浄寺と海蔵寺がある。両寺院とも縦に長く山門を入ると50~60mの参道がまっすぐ伸び正面に本堂がある。真浄寺の本堂も変わった作りだ。神道の建物のようで正面のこげ茶色の鉄扉の上には金色で大きな紋章が貼り付けられている。周りにお墓がなければとてもお寺とは思えない。

駒込寺院045_edited_convert_20100414191745 山門

駒込寺院046_edited_convert_20100414191826 本堂

海蔵寺

身禄行者(1676~1733)が中興の祖。彼は富士信仰の篤い人として知られている。墓所の中央に墓というより碑があり。溶岩を思わせるごつごつした岩を積み上げその上に石碑が立てられ身禄行者の墓碑銘が刻まれている。
駒込寺院048_edited_convert_20100414191938 本堂

駒込寺院049_edited_convert_20100414192015 身禄行者の墓

略歴
十方寺 浄土山 浄土宗 :円誉上人(1569~1642年)により創立された。円誉上人は慶長9年(1604)、35才の頃に湯島(上野の浅草)に源空寺を創建した。又、元和元年(1615)、46才の折り根津(現在のどの辺か不明)に十方寺も建立し、そこの住職も兼任した。十方寺はその後、(円誉上人が亡くなってから20年後の)寛文2年(1662)に現在の駒込の地へ移転して来た。

海蔵寺 曹洞宗 大智山 :天文年間(1532-1554)勝庵宗最禅師を開山として現在の和田蔵門内に創建され、その後明暦年間(1655-1657)に現在地に移転してきた。 著名な墓碑等は、江戸庶民に富士信仰を広めた富士行者身禄の墓、江戸後期の儒学者立原翠軒夫婦の墓がある。

真浄寺 泥えん山 真宗大谷派 :境内には、朝鮮開化派の先覚者で「甲申政変」を起こし上海で暗殺され、京城(ソウル)で放置された金玉均(1851~94)の遺体の一部を甲斐軍治が密かに持ち帰り埋葬した墓や、明治の哲学者 桑木巌翼(明治7年~昭和21年)、宗教家 高島米峰(明治8年~昭和24年)の墓などがある。

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クリスマスコンサート

12月12日(水)
 昨日17時から、病院の一階外来待合室でクリスマスコンサートが行われた。1時間ばかりの演奏会だったが100名以上の患者さんが集まった。Brilliant Harmonyという女声合唱団の演奏だ。指揮は松下耕、ピアノ伴奏田中葵というメンバーだ。国際合唱コンクールで幾つかの賞を取っているそこそこ著名な合唱団らしい。合唱団のメンバーの一人がこの病院に3年前、乳がんで入院し今も通院している。その関係で今日の演奏会が開催されることになったといった話があった。

 クリスマスにちなんでということで、最初の4曲は宗教曲であった。「キリストの祭典より」「今日キリストはお生まれになった」「詩篇150番」「天使のパン」が続けて歌われた。歌っている人も観客の大部分も決してキリスト教徒ではないのに何故聞いて時には心地よい気分を味わうことが出来るのだろうか。

 シロス修道院合唱団が歌った「グレゴリアン・チャント」は世界的にヒットした。今はやりのヒーリング、癒し系の音楽の中にも宗教曲は多く含まれている。歌詞を知るとキリスト賛美でがっかりする事もあるが、曲自体は確かに心を癒してくれる安らかさを持っているのも事実だ。
 
 次はガラッと趣向を変え、秩父と和歌山のわらべ歌2曲、指揮者松本耕作曲の「ゆめ売り」、喜納昌吉の「花」、さだまさしの「道化師のソネット」、「花」にはリフレインの部分に振付けが付けられ手だけだが皆で踊った。クリスマスソングとして「もろびとこぞりて」「きよしこの夜」が歌われ、「きよしこの夜」は皆で合唱した。
 
 最後は松下耕作曲の「信じる」という曲だった。乳がん患者だったメンバーの一人が入院中励まされた曲だと紹介された。アンコールとしてポップ調の明るい曲ガーシュウィンのI got rhythmが賑やかに歌われた。

 やはり素人とプロの違いは大きい。曲の選び方、司会進行、まとめ方、どれをとっても決まっている。一言で言えば場慣れしている。たとえ名曲を聴きなれ肥えた耳を持っていなくてもやはりうまいものはうまいと感じてしまうだろう。

クリスマスについてアメリカの現状や日本のクリスマスの捉え方について書いた興味深いブログがあった。紹介してみる。 (「人間 その他 呑んだくれ」schaumlosより)

ブッシュのクリスマス
 自ら国民に向けて“Merry Christmas!“の代わりに"Happy Holidays!"と言ってみせたブッシュ大統領だが、実際、ブッシュのキリスト教右派への揺るぎない信仰を物語るエピソードは腐るほどあるし、彼の政治家としてのキャリアは、共和党の中心的な支持基盤であるキリスト教右派の票を確実に取り込んでいくことで築かれて来た。キリスト教の信仰なしにして、ブッシュ大統領は存在し得なかったといっても過言ではない。そんなブッシュが突然、"Happy Holidays!" である。「何かおかしい」と疑ってかかるべきだろう。
 
 私が考えるに、ブッシュは〈クリスマス〉に再びキリスト教の息吹を吹き込もうとしているのではないだろうか。〈クリスマス〉の再-神聖化とでもいおうか。公共の場、つまり学校や役所などで徐々にクリスマスが排除されていけばいくほど、クリスチャンの家庭や教会において、クリスマスというものの神聖さがより一層浮き立つのではないだろうか。「世俗世界は〈サンタクロース〉だのなんだの言って、年末行事としての〈クリスマス〉を楽しんでいるが、われわれは「キリストの生誕を祝福する行事」としての「本物の神聖なる」クリスマスを祝おう」と。

 そして、いささか大胆な仮説になるが、ブッシュ政権は、アメリカという国の理念としては「自由」「平等」「民主主義」などといった非宗教的理念を掲げておき、その一方で、個人的なレヴェルにおいては、キリスト教保守派の価値観や倫理観でもって人びとを徹底的に支配しようとしているのではないだろうか。そうなれば、率先して「悪の枢軸」と戦おうとする、従順な国民が生産されてゆくことだろう。

日本のクリスマス 
 アメリカで作られたクリスマスは〈記号〉と化したことによって正に、非キリスト教国に「輸出」することが可能になり、これほどまでの威光を非キリスト教者にまで放つようになったのだ。サンタクロースとクリスマスのイメージが重なり合ったその時から、クリスマスの〈記号化〉は始まっているのであって、初めから消費対象として差し出された〈記号〉としての〈クリスマス〉しか日本人は知らない。
 
 日本における〈クリスマス〉の雰囲気は並ならぬ強制力を持つ。〈クリスマス・プレゼント〉という形で生活必需品や日用品以外の商品の大量消費をあおり、デパート包装紙や紙袋をクリスマス調のものにしたり、また、スーパーでは、「クリスマスの特別メニュー」としてチキンの丸焼きを売り、至る所で〈クリスマス〉ケーキが売られている。
 
 例えクリスマスについて何一つ知らなくても、クリスマスという記号で大量の商品を売ろうとするいわばイベントなのだ。完全に記号と化した、商業主義丸出しの非キリスト教的な日本のクリスマスだからこそ宗教的意味合いを完全に消し去り継続しているのだろう。

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ベルケード療法第2サイクル開始

12月11日(火)
 朝の起床時間6時では外は真っ暗だ。10日間の退院の間に、日の出時間は急激に遅くなった。退院前の11月末6時には日の出はまだだったが、薄明かりが空を白く染めていた。 6時前に目が覚め外を見ていると暗い空のかなたに斜めにさっと星が掠めた。誰の作品か忘れたが一つの詩が思い浮かんだ。
  
  ことに暗い夜は、
  かすかな流星群が長い光の糸を曳いて、
  虚空を斜めに
  ほの白い水平線のかなたに堕ちていった。
  その光は消えがたい残傷となって
  星星の間に記憶をとどめた。

 
 今日からベルケード療法第2サイクルの開始だ。加療と言ってもデカドロン40mgの点滴を約30分で行い、ベルケード1.5mgは注射で点滴管に直接注入する。それを薄めるため生理食塩水を注射。その後フラッシュ(血液が固まらないようにする注射)をして今日の点滴は終わり。点滴針はそのままで管を丸めて腕に固定する。次の金曜日まで何もない。

 昨日の採血結果でIgM値はまだ下がり続け457にまでなった。まだ効いているとは何と効果的な薬なのだろう。血小板はほんの少し上がり6.4から6.6になった。白血球は2.5、ヘモグロビンは9.2と若干の上昇が見られた。

 血小板の状態から判断し、べルケードの量を前回の2.1mgから1.5mgに減らした。前回は血小板数5.7から始めベルケード第1サイクル終了時1.1まで下がった。今回も同量だとそこまで下がる可能性がある。あまり下がると1月初めから予定されている第3サイクルを開始することが出来ない。

 ベルケード療法は細く長く継続することが重要だということだ。もう少しIgM値が下がれば維持療法として今の3週間サイクから5週間サイクルに変わることもあるだろう。そうなると週1度病院に通えばいいのでかなり楽になる。

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文京区散歩-6 団子坂通り寺巡り

12月10日(月)
今日から再入院だ。6日の検査で血小板が6.4と上昇したということで、治療の再開が可能になった。ベルケード療法第2サイクルの開始だ。入院時はいつもと同じように、血液検査、尿検査、身長体重測定、レントゲン、心電図検査を行った。午後は検査が終わり、明日から治療が始まり、点滴の管を差し込まれるので今日中に散歩にでも行こうかと思って出かけた。
 
 病院から道坂を本駒込駅の方に向かい養源寺と蓮光寺との間を団子坂の方面に行く。団子坂にぶつかるとその角が「駒込大観音」で知られている光源寺だ。この団子坂通りは通称大観音(おおかんのん)通りと呼ばれている。

寺院の境内には子供の遊園地が開放され、鉄棒、ブランコ、滑り台、砂場があり、幼稚園を経営していると思ったがそうでもなさそうだ。この光源寺から清林寺、栄光院、瑞泰寺と四つのお寺が並んでいる。江戸時代は四軒寺町といわれていた。
 
光源寺の大観音が安置されている堂は先のとがった白い建物でどちらかと言うと教会を思わせる作りになっている。中の観音は真新しく金色に輝いている。平成5年に6mの高さで建立されたものだそうだ。

光源寺 光源寺本堂

駒込寺院038_edited_convert_20100414191329 駒込大観音

駒込寺院039_edited_convert_20100414191409 観音堂

 光源寺の隣が清林寺で、江戸33札所の8番目だという。札所の本尊の十一面観世音菩薩は、本堂の接する住居の入り口の横に無造作に置かれているといった感じだった。建築中の大きな建物が境内の奥にあり、この寺の住職が三重塔建設に情熱を燃やし5年かかりで取り組んでいるものだそうだ。建築費は数億円かかるという。

駒込寺院033_edited_convert_20100414191038 清林寺本堂 

駒込寺院035_edited_convert_20100414191115 境内にある花陽稲荷神社 

 栄松院に入ると、包丁塚があり、立像と坐像のリリーフの観音像があり、地蔵菩薩が安置されていると多彩なのだが、庭がきれいに手入れされもみじもあり落ち着いた雰囲気を漂わせている。ここには初代松本幸四郎(1730没)が眠っている。幸四郎は下総の生まれで屋号は初代のみ大和屋.二代目市川団十郎と並ぶ歌舞伎界の名優のひとりと評された。またお美津地蔵というのがある。お美津は幼い子供で、海で亡くなったので両親がこのお寺にお地蔵様を作って供養したのだという。

駒込寺院030_edited_convert_20100414190813 栄松院本堂

駒込寺院031_edited_convert_20100414190942 お美津地蔵

 瑞泰寺は「始めの六地蔵」(注)の第一番地蔵が安置されている。江戸六地蔵というものはあるが、歴史的に「始めの(東都)六地蔵」の方が古い。地蔵は地獄でも衆生を救うとか。六地蔵とは六道輪廻の仏教思想から来ており、六道のそれぞれを六種の地蔵が救うと言うものだ。この考えは日本独自のもので、六地蔵は、地獄道には大定智悲(だいじょうちひ)地蔵が、餓鬼道には大徳清浄(だいとくしょうじょう)地蔵が、畜生道には大光明地蔵が、修羅道には清浄無垢地蔵が、人道には大清浄地蔵が、天道には大堅固地蔵がいてそれぞれの六道を守る。そういったことから京都や江戸など都市の入り口の街道に六地像を配置した。

駒込寺院028_edited_convert_20100414190712 瑞泰寺本堂 

:第1番瑞泰寺(向丘)、第2番専念精舎(千駄木)、第3番浄光寺(西日暮里)、第4番心行寺(上野池之端に在ったが今は府中)、第5番福聚院(上野、現存せず)、第六番正智院(浅草、現存せず)

略歴:
浄土宗 天昌山 光源寺:天生17年(1589)に神田に創建され、慶安元年(1648)に現在地に移転した。境内には元禄10年(1697)造立の御丈約8mの十一面観音像があり、惜しくも東京大空襲で焼失したが、平成5年御丈6m余の御像として建立。<駒込大観音>である。

浄土宗 東梅山 花陽院 清林寺:御本尊は阿弥陀如来、札所御本尊は十一面観世音菩薩。江戸三十三札所第八番。文明十五年(1483年)、観誉祐崇上人が開山。 慶安元年(1648年)に当地に移る。また、寺院再建に力を注がれた二祖臺蓮社光誉上人は、徳川家康公、御入国のおり、その祝表として松竹梅の鉢植一鉢ずつを拝授した。これを、天下栄の松、相生の東梅と称したことから、花陽院東梅山清林寺と山寺号を命名した。

浄土宗 桂芳山 瑞泰寺:天正17年(1589)神田明神下に起立。開基の死後その法号により瑞泰寺とする。慶安元年(1648)に現在地に移る。門を入って左手に銅造八尺の地蔵尊を安置するが大正の関東大震災で破損。その後再建したものも戦災で焼失する。現在の像は昭和61年(1986)再建したものである。

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今の生活は

12月9日(日)
明日から入院だ。入院前に何かしたいかというと特にあるわけではない。やることいったらいつもと同じせいぜい近所の散歩ぐらいである。近所の公園でもきれいな紅葉は見られる。専門の庭師が木々の配置をしているのだろう。

季節に応じて途切れることなく木々の見所を提供してくれる。秋薔薇がまだ咲いている。気温が高いせいもあるのだろう。真冬以外途切れることなく華麗な花を咲かせ続ける。もみじと薔薇の取り合わせが不思議な感じがする。

「サンデー・モーニング」の「風を読む」の特集で格差社会についてやっていた。
 79年には総中流社会と言われていた。それから30年、今、この近代化された社会の中で餓死する人が出たり、医療を受けられず死んでゆく人たち存在している。

年収200万円以下のワーキングプアーという層が昨年度1000万人を越えた。それは前年比4.2%増である。一方年収1000万円以上の人は440万人で昨年比4.2%増で格差はますます広がっている。

一方で企業減税を行いながら、庶民には物価値上げ、福祉切捨て、高齢者への医療費値上げといった負担の増大が進行している。生活保護の不適用や打ち切りなど続いているが、生活保護の対象者の6割が高齢者と障害者だ、働こうにも働けない人達を切り捨てていく社会なのだ。また35万人の人が健康保険証を持っておらず、医者にかかることをあきらめなければならない状態にある。
 
 小泉「改革」が掲げた骨太方針の「聖域なき構造改革」の「聖域」とは、憲法が保障している生存権と庶民の生活であり、最低限の経済ルールとモラルだ。いま、負担が数倍から十数倍にもなる住民税が、国民健康保険料や介護保険料の値上がりにも連動して、多くの高齢者を襲っている。この大もとになった年金・高齢者課税の強化も、〇二年の骨太方針に明記された計画だ。

かって日本人を評した外国人が「日本人は貧しい。しかし精神的に貧しい人はいない」と言ったという。日本は大きく変わってしまった。経済の大きな歯車の中で人間関係は引き裂かれ他人を競争的敵対者としてしか見られず、他人への思いやりや、心の余裕など何処にも見られなくなってしまってきている。何処でこの社会を変えることができるのか。

資料
 財務省が発表した2006年度の法人企業統計調査によると、資本金10億円以上の大企業の経常利益は、前年度比11・6%増の32兆8342億円となった。大企業の経常利益が前年を上回るのは5年連続。バブル期の1990年度と比べると約1.75倍に増加している。しかし民間企業のサラリーマンの平均給与は9年連続で減少している。

 国税庁が公表した2006年度の民間給与実態統計調査によると、一年を通じて勤務した給与所得者のうち、年収200万円以下の給与所得者は、前年度と比べ41万6000人増の1022万人となった。年収200万円以下の給与所得者が1000万人を超えるのは、1985年以来21年ぶりとなる。

 大企業減税で最も大きいのは、法人税・法人住民税・法人事業税(法人3税)の減税だ。97年度に37・5%だった法人税率が、98年度には34・5%に、99年度には30%に引き下げられた。12%だった法人事業税率も、11%、9・6%と引き下げられた。03年度には、研究開発費の10~12%相当分を法人税から控除する制度も新設された。これらによる大企業への減税は、平年度ベースで3・3兆円にものぼる。

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死刑制度について

12月7日(金)
 今日の夕刊記事に3名の死刑執行の記事があった。この機会に死刑制度について考えてみたい。

12月7日 11時49分配信 毎日新聞
<死刑執行>氏名を公表…東京・大阪で3人 法務省方針転換

 法務省は7日、東京、大阪両拘置所で計3人の死刑を執行し、執行された死刑囚の氏名や犯罪事実を公表した。法改正の必要はないが、これまでは死刑囚の家族や、ほかの死刑囚への配慮を理由に実施しておらず、大きな方針転換となる。執行が適切に行われていることを国民に周知することで、死刑制度への理解を進める狙いもあるとみられる。

 死刑が執行されたのは、▽藤間静波(ふじませいは)(47)=東京拘置所収容▽府川博樹(42)=同▽池本登(74)=大阪拘置所収容=の各死刑囚。死刑は8月23日以来で鳩山邦夫法相の下では初の執行命令。

9月28日 東京新聞
 2007年9月に鳩山邦夫法務大臣が、「法務大臣による署名」を廃止して死刑を自動化できないかと発言。法務大臣を死刑執行の責任から開放し、かつ刑執行の効率化を図り、未執行者が増加している現状に対応する事を意図して提言をおこなったが、死刑廃止を推進する議員連盟会長亀井静香衆議院議員(国民新党)は「人命を虫けら以下に考えている。人の命を守る役所のトップが、人命を軽視するなんて大きな矛盾だ」と強く批判した。

死刑制度に賛成の根拠
1、犯罪の抑止力
 死刑がなかったら、凶悪な犯罪が増えるのではないか。死刑があるから社会の秩序は保たれているのではないかという視点である。しかし死刑があるからといって犯罪が減少するわけでも、死刑がないからといって犯罪が増えるわけでもない。死刑と犯罪の発生との関係はない。このことは死刑廃止国の犯罪発生率が上昇している例がないという事からも明らかだろう。

 テロリストに対してはどうか。テロリストは自分の理念のために死ぬのであり死の恐怖などは何の抑止にもならない。テロリストの処刑は処刑された者に英雄的価値を与える。

2、凶悪犯罪は増えているのか
 最近、凶悪犯罪が増加しており、そのため死刑や重罰化が必要だといわれている。近年の犯罪白書や警察白書は「治安の悪化」という観点からまとめられることが多く、マスメディアにおいても、「外国人犯罪の急増」「少年犯罪の悪化」などといった「体感治安」を悪く感じさせる報道が意図的にされている。しかし殺人等の凶悪事件の発生件数そのものは減少傾向にある。平成18年度犯罪白書によれば、凶悪犯も含めた犯罪発生率は平成15年(2003年)をピークに下がり続けている。
 
3、被害者の報復感情
  被害者の気持ちを思えば、犯人を極刑にしなければならないのはあたり前だ、という論点だ。それは犯人を死刑にすることで解決できる問題なのか。本当に被害者家族の心はそれによって癒されるのか。悔い改め一生贖罪の日を送らす方が被害者家族にとって有意義ではないのか。

  日本においても、犯人の処刑を望んでいるわけではない被害者遺族もいる。また、犯罪被害者や遺族への具体的なケアを充実させることはもちろん必要だが、それは犯人を死刑にすることで解消される問題ではない。

死刑制度に反対の根拠
1、人道上の問題
 なぜ死刑制度に反対するのか、生命はすべての人権の前提であり根幹だ。死刑と人権尊重とは全く相容れない。死刑という残忍で非人間的で、堕落させる刑罰は廃止すべきであると世界人権宣言やヨーロッパ人権条約は強く訴えている。死刑は殺人に他ならない。それも国家という圧倒的な力を背景とした無抵抗な囚人への殺人だ。

2、冤罪の問題
 「冤罪」が仮にあったとしても、それは例外的な問題ではない。「自白」しない限り釈放を認めないシステムの中で、冤罪事件は制度的に生まれている。そして、一度「自白」してしまえば、裁判の中でどんなにその「自白」が強要されたものだと否定しようと、判決がそれを認めることはほとんどないのが実情だ。冤罪が晴れたとき、他の刑罰であればまだ救いがあるかもしないが死刑に処してしまった人には償いようもない。再審請求で無実が明らかになった人が戦後4人いる。

3、重罰を求めてどうなるのか
 アメリカは重罰化によって犯罪を抑止しようとしてきた。しかしそれによって犯罪は減ることはなく、死刑や終身刑を乱発したことによって「犯罪大国」「刑務所大国」「死刑大国」という国際社会からの批判を受けることになった。

4、死刑囚と向き合うこと
 死刑判決が確定するまでは、拘置所で死刑を求刑・宣告された方と面会や文通をすることができる。そうして、なぜ、この人が処刑されなければならないのかを考える。「この人は冤罪ではないのだろうか?」とか、あるいは、「こんなに罪を悔いている人をなぜ改めて処刑しなければいけないのだろうか?」と。しかし、その交流も、最高裁で死刑が確定するや断ち切られる。日本の死刑囚処遇は死刑囚を隔離する姿勢で貫かれている。

5、世界各国の状況 (死刑廃止国 計133ケ国)
  2007年9月19日現在あらゆる犯罪に対して死刑を廃止している国:90カ国
  通常の犯罪に対してのみ死刑を廃止している国:11カ国
  10年以上死刑の執行を停止している国:32カ国 
  過去10年の間に死刑を執行したことのある国:64カ国
  2006年に死刑を執行した国は、日本を含む25カ国。

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入院日決まる

12月6日(木)
外来での診療だ。今日の血液検査によって入院日が決まる。検査の結果、血小板数は6.4に上昇し、ベルケイド療法第2クールを行うことが可能になった。白血球は1900、ヘモグロビンは8.7とあまり変化は見られない。入院日は12月10日、月曜日となった。3週間の入院となる。但し正月があるので30日あたりに退院となるだろう。医者の診察受け、入院手続きをした。

ベルケイドは驚くべき効果を発揮している。MP療法が効果を失いベルケイドを始める前の10月26日には
IgMが2269だった。それがベルケイドの1クールを終った11月26日には617まで劇的に減少している。第2クールでさらに下降するのだろうか。長期的に効果を発揮し続けるのかそれはやって見なければ分らないということだ。

秋晴れの上天気で、朝は寒かったが12時近くになって気温が上がり、ウォーキングに最適な陽気だ。病院裏から天租神社の境内を突っ切り富士神社の前を通り本郷通りに出て、六義園に向かう。天租神社のイチョウが紅葉しあたり一面黄色の洪水といった感じだ。スタジイと楠木の深緑色の葉が黄色にアクセントを付けている。本郷通の銀杏並木も黄色く色着き町並みを明るくしている。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

老子の思想・2

12月5日(水)
相対を超える無為自然の思想(続き)

180px-Lao_Tzu_-_Project_Gutenberg_eText_15250.jpg 「自らを知る者は明知なり」(33章)というように、天命を知るには自己を凝視することから始まる。自己を知りさらに高いものへの到達が老子の願望である。そこではもはや知すらも超えている状態、現象の奥底を見極める目を持つこと、そしてそれが道への絶対認識なのである。それは外界に頼るのではなく、内なる声に耳を澄ませるということであり外面はその時霧がかかったように漠然としている(56章)。

 結局は人間を含めて万物は、道から生じたものであるから、人は自己に含まれる道なるものを、内面のかすかな光を見極めそれに従うようにしなくてはならない。耳目の欲をふさぎ、万物の根源、道への復帰、全身の没入へと自己の心身をその方向へ導こうと努めなければならない。

 その具体的方法として自己の自然性に帰れということなのであり、無為自然の心境を保ち続けよということになる。道への回帰こそ、人間の最大の欲求なのであり、それは人間の究極の満足となりうるし、それは個人に止まるのではなく万物の掟ともなっているのである。それ故世界の秩序を形成することにもなるのである。
(参考文献 阿部吉雄、山本敏夫著『老子』明治書院 文中の章は『道徳経』から)

『道徳経』第4章 道の性格(道徳経の中から道の性格を表している分を引用してみる)
 
 道冲、而用之或不盈。淵兮似萬物之宗。
 挫其鋭、解其紛、和其光、同其塵。
 湛兮似或存。
 吾不知誰之子、象帝之先。

 道(タオ)は空(から)の器であり,
 その用は,汲めども尽きない!
 底なしである!
 万物の“泉の頂”に似て,
 その鋭い刃先(へり)は丸められ,
 もつれは解きほぐされ,
 光は和らげられ,
 騒ぎは鎮められる。
 深い淵のようにほの暗く,そこにあるようだ。
 (私は)それが何者の子かは知らないが,
 神の前に存在する“あるもの”のようである。

老子の思想と西洋哲学

 道の性質を無限定と老子は言うが、物の根源を‘to apeiron’ つまり無限定といったギリシャの哲人アナクシマンドロスがいる。物の根源を全く同じ言葉で表現している。プロチノスの流出説も類似点を持っている。つまり神という存在の根拠から水が流れ落ちるごとく、まず理性が生じ、万物が生じてくる。

この考えは『道徳経』8章の「上善(じょうぜん)は水の若(ごと)し。水は善(よ)く万物を利して而(しか)も争わず。衆人の悪(にく)む所に処(お)る。故に道に幾(ちか)し。」に通ずるものがある。

スピノザの「即自然にして物の原因たる神から物と精神との2つの実態が生じ、そこから様々な様態が現れそれが現象となる」この考えは「人は地に法(のっと)り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る」(25章)と本質は同じだ。自然としての道から天、地、人が生まれ出ずる。

まさに諸現象の根拠たるものとしての道を表現している。また老子の有と無の思想は物の生成の存在論的根拠たる弁証法を思い出させる。こういった思想的類似点は全く別のところで相互に影響を受けることもなく発生したのである。

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老子の思想・1

12月4日(火)
 『求めない』という加島祥造の詩について触れ、老子について若干言及した。今回は2回にわたり老子の思想について書いてみようと思う。

相対を超えた無為自然の思想

 美と醜、善と不善これらの相対の差別はこの世の中にあまねく存在している(『道徳経』2章)。一切の現象界における認識は相対によって成り立っているとも言える。例えば光は光のみでは我々の認識領域には入らない。闇という媒介を経て始めて明暗関係により認識が成立するのである。だが更に重要なことは、現象界における差別相を離れることである。光と闇の奥にある漠然としたものが重要なのである。

 現象の奥にあるありのままの「おのずから」の世界に従うのである。「相対域を超越し、絶対の道を体する聖人は、人為を去って自然に随順する」(3章)とあるように嬰児のごとく生きるのである。つまり嬰児のごとく外界ではなく、自らの心情の発露に何の妨げもなく従うのである。そこに人間の道への復帰ということが考えられる。

 人は道から生じ、嬰児の時はまだそこに従っているが、次第にそれを忘れていってしまい、再び成人になって真知を求め、道に復帰しようとする。いかにして人はありのままの自己、無為自然の絶対的満足、自由なる自己へ至るのであるか。

 「虚を致すこと極まり、静を守ること篤ければ、万物並び作るも、吾以って其の復るを観る」(16章)心を虚しくしきり、心を静かに保つことが、自然の理法を観取する方法だというのである。「天なれば乃ち道」(16章)とあるように天にかなった行為をする者が道に達するということだ。それではいかにして天の理法を知るのであろうか。問題はその知り方である。

 老子は人間の本性に従えという。虚飾を拝しありのままの姿を表せという。「仁を絶ち義を棄つれば、民考慈に復す」や「素をあらわし撲を抱き、私を少なくし欲を寡くせよ」(19章)とあるように、人間の本来性、自然性を大きく肯定している。老子のいう人間の本来性とは虚心であり、無私であり、無為であり、自然に従順であり、心の平静であり、耳目から離れた状態である(5,7,12章)。

 そしてそれが自ら然りといって肯定されているあるがままの人間であり、差別的な、相対的な人間の見方がそれを損ない、人間を自然の道から離れさせてしまったのである。その心情に到るために、仁義や礼楽やその他世俗的な相対的知や支配者側の覇者流の知、つまり俗知を捨て、物の差別相を超克する絶対知、真知を獲得する必要がある(18章)。続く。

(参考文献 阿部吉雄、山本敏夫著『老子』明治書院 文中の章は『道徳経』から)

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加島 祥造 『求めない』

12月3日(月)
 加島祥造の『求めない』という本の新聞広告に以下のような詩が掲載されていた。
  
  ほんの3分でも求めないでごらん。
  不思議なことが起こるから―。
  求めない―すると心が広くなる
  求めない―すると恐怖感が消えていく
  求めない―すると人との調和が起こる
  求めない―すると待つことを知るようになる
  迷った時、苦しくなった時、自分にささやいてみる。「求めない」と。

 この言葉はがん患者、あるいは不治の病を抱えた人にとって一つの生きる指針を示すものだろう。病や死への恐怖は生きることへの執着から来る。しかし生きることへの執着を断ち切れば死への恐怖心はなくなる。死を受け入れ、死を静かに待つ心境になるのだろう。

 自らの 現状、苦しい身体の状況への不安や絶望の中で、人との関係も崩れていく。しかし自らの現状をありのまま受け入れ、それ以上の自らを求めなければ、現状への不満やいらいらはなくなり、また他人に様々な要求をしたり、期待したりしなければ、人との調和が図れるだろう。

迷いや苦しみは、様々な欲求や願望、期待と現状とのギャップが生み出すものである。自らの行為に見返りや代償を求めないそういった澄み切った心情の中で自らの自己完結性、自立を体感出来るのかもしれない。

 あるがままの自らの現状を受け入れ自然の摂理に従い、宿命に逆らわず流れのままに身をゆだねていくそういった心情こそ『求めない』という境地なのだろう。

諦念とはあきらめの意味だがそれは消極的、否定的なものではなく、物事の道理を悟り、迷いを去る(あきらめの境地に達する)こと、もろもろの執着からの解脱、つまり悟りの境地に達することでもあるのだ。『求めない』ということの究極の到達点はそこら辺にありそうだ。

 『老子』の現代語訳をした著者が老子の「足ルヲ知ルコトハ富ナリ」という思想を「求めない」という詩集につなげていった、と書いている。

 『老子』は、『論語』とならぶ中国の代表的な古典である。その思想は、人間はその背後に広がる自然世界の万物のなかの一つであるという自然思想の立場をつらぬくことにある。したがって老子は、人間の知識と欲望が作りあげた文化や文明にたいして懐疑をいだき、鋭く批判する。無知無欲であれ、無為であれ、そして自然に帰って本来の自己を発見せよ、という。(「BOOK」データベースより)

 『老子』には「自然を観察すると、生命は循環しており、何か不足すれば、余っているところから補われて全体のバランスをとっている。ところが人間社会の制度は正反対をやっている。」とある。このような老子の思想を底流にして『求めない』は書かれている。

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介護について

12月2日(日)
 今年の5月、東村山の北山公園で花菖蒲が咲いているということでカメラを持って出かけた。若干遠い気がしたが、西武線で一本だと思うとあまり距離を感じない。駅から20分ばかり歩いて菖蒲園に到着しひたすら写真を撮った。

 近くに老人ホームでもあるのか、そこの遠足のようで車椅子が30台ばかりいた。部屋の中ばかりでは滅入ってしまうだろう。たまには皆で遠足に出かけるのは気分転換に絶対に必要なことだと思う。但し、出かけるのには車椅子一台に介護者が一人つかなければならない。出かけるときにはボランティアの人を要請し体制を整わなければならない。こういった体制が出来ているこの地域の老人ホームの人たちは幸運だと思う。

 地域で介護の体制が出来ていなければ老人たちは、皆で出かけることも出来ず、外出は近くの公園で済ませ、それも短時間で、変わりばんこに行くほかない。老人介護の難しさを感じる。介護にとって地域の協力体制がどれほど必要かつくづく思う。

 定年して退職し、退職金や年金で暮していて時間のある人、パートで働いている人なら月3,4回ならボランティアをしてもいいと思っている人はそれなりにいるだろう。それをどうやって掘り起こしていくかが重要なのだ。誰だって社会に必要とされることを望んでいるのだ。

 自宅のそばの公園で毎朝100人以上の老人たちが集まってラジオ体操をしている。60歳以上の人が殆どだろうが皆元気で運動している。この中に何十人かボランティアとして介護をしてもいいと思っている人はいるだろう。

 公園の隣が老人ホームで恐らく介護者を必要としているだろう。日常介護とは別に、どこか遠足に行ったりする時に介護者を募集しているのだろうか。介護のボランティアの登録制度のような地域の体制が必要だろう。

 以前かなり昔の話しだが2週間に1度の日曜日車椅子の友人を都内の名所、旧跡など色々なところに連れて行く介護をしていたが、働いていると2週間1度でもなかなか時間が取れない。今団塊の世代の退職者たちはNPO法人として地域の活性化のために動き始めているということを聞いた。

 そういった力を介護や、様々なボランティアとして生かせる地域の体制が必要だ。人の需要と供給が共にありながらそれを噛み合わせる歯車がなければ両者とも役立てることが出来ない。

 歩くことも出来ず、介護者の世話にならないとどこにも行けない人たち、それでも楽しい老後を過ごす権利はあるのだ。それには地域の介護体制が何よりも必要だろう。人は寿命がある限りそれを全うする外ないのだ。100歳の人へのインタビューで「何のために生きているのか」と質問した。彼は答える「生きるために生きている」確かにそれ以上答えられないだろう。

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一時退院、アフターサービス

12月1日(土)
 29日の採血結果、血小板数は4.4で確かに21日の3.3、26日の3.9と徐々に上がっているが、5以上ないとベルケード再開は難しいということで、少し時間を置き血小板数が増えるのを待ち治療を始めるということで今日から一時退院ということになった。

 来週木曜日に外来で病院に行って血液検査をし血小板数が増加し5以上になっていれば金曜日に入院し、ベルケード療法第2サイクルを開始する。木曜日に血小板数が上昇してなければ更に退院期間は長引く。

 ベルケード第1サイクルを始めた時には血小板数は5.7であった。そして終わった時には1.1まで下がった。ベルケードは血小板にかなりの影響を与える。ということで上がるのを待つほかない。

アフターサービスについて
 病院では剃刀式の髭剃りは使えないので(血小板が減る可能性のある治療をするため)、電気剃刀を使用している。蓋を開け中を洗っている時、蓋を止める金具が外れ紛失してしまった。そこでフィリップス電気シェーバーの輸入元メーカーに問い合わせたら、着払いで今日送ってくれたら明日送り返すと言われたので宅急便で送った。

 そして驚くべき事に送ってから2日後の午前中には修理されクロネコヤマトの宅急便で届けられた。驚いていてはいけない外資系会社のアフターサービスの良さを日本の企業も見習うべきだ。アフターサービスがいい所だとまた買う気になる。

 ダイソンの掃除機のアフターサービスも凄い。ここの製品は5,6種類しかなく掃除機の色で区別する。製品番号などは必要としない。サービスセンターに電話すると色を聞かれ故障場所を聞かれる。何時買ったものだとか、保障期間中かどうかなど一切聞かれず全て無償だ。吸い込み口の所だというと、その部分を送って来て今使っているものは廃棄してくれという。

 故障場所が分からないと、運送会社が掃除機にぴったり収まる箱を届けるのでそこに入れ運送会社に渡せば、4,5日で修理されたものが届く仕組みになっている。宛名入りの送り状も運送会社が用意してくれる。技術者を派遣する必要はない。

 こういった外資系会社を見習ったのだろうか、東芝のパソコンが壊れた時も同じような対応だった。運送会社が機種にあうダンボールを持ってきてそこに入れて送る。次の日に電話があり修理の見積もりを告げる。中古で買った物だったので、修理代の方が高くかかってしまうので修理はやめにした。すると2,3日後に返却されてきた。

 今は人件費が高いので運送会社との連携でうまく対応することが出来る。技術者が来てもその場での直せるとは限らない。むしろ直せない方が多い。そんな時でも技術料を取られる。ユーザーにとっては無駄で、納得できない支出だ。冷蔵庫や洗濯機などの大物でない限り、運送会社を利用するのはいい方法だと思う。

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プロフィール

yosimine

Author:yosimine
がん治療とは長く細い道を辿ら
なければならない。その先に希
望があると信じながら。

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