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道路特定財源・暫定税率について

1月31日(木)
 社会保障制度の縮小
 福田政権は、来年度予算案でも、社会保障予算の自然増分を2200億円も圧縮し、医療、年金、介護、障害者福祉などあらゆる社会保障制度を縮小しようとしている。一方で大企業と、大資本家への大減税と、軍事費には一切手を触れようとしない。

 国民健康保険の料金が高すぎて払えず、保険証が取り上げられた世帯が全国で34万世帯に達している。「お金がない人は医療にかかれない」という「命の格差」を生みだしているのだ。

 北九州市に見られる非情な生活保護行政で市民が餓死や自殺に追い込まれている。これは憲法二五条の生存権を保障するはずの生活保護制度が、人の命を奪うものになっているといえるだろう。生活保護を打ち切った北九州市への告発がなされた。告発状は、死の原因として生活保護行政に携わる公務員が、生活保護を受ける権利を奪い、保護責任を放棄した義務違反があるとしている。

 4月から始められようとしている75歳以上の高齢者を別制度に囲い込んで過酷な保険料徴収を行う「後期高齢者医療制度」は扶養家族となっていて保険料を負担していない人を含めて全員から保険料(平均月額六千二百円、厚労省試算)をとりたてるものである。

 年金から保険料を天引きし、払えない人からは保険証を取り上げ、必要な医療さえ制限する内容で、70歳から74歳の高齢者の窓口負担の医療費2割への引き上げとともに、高齢者医療の切捨て政策である。

 行政改革の頓挫
 このような福祉の一方的な切捨てが次々と計画されている。日本は本当に財政的に厳しいのか。確かに現在の国債の発行残高は2006年(平成18年)3月末現在に於いて670兆5794億円であり、日本の財政赤字は約1200兆円に上る。しかし税金の無駄遣いも半端なものではない。

 行政改革によって財政赤字を少しでも減らしていこうとする試み、とりわけ行革の目玉として掲げられた独立行政法人の民営化と統廃合は行政担当大臣の熱意にもかかわらず、官僚の強大な利権を巡る力の前に頓挫させられた。

 日本経済新聞社説(2007年12月6日)は次のように書いている「独法は国家公務員の天下り先であるばかりか、親元の官庁から補助金を受けるところが多く、官製談合の舞台にもなった。各閣僚は官僚のいいなりにならず、組織の廃止や民営化に自ら道筋をつけるべきだ。有識者会議は廃止や民営化の対象として都市再生機構、住宅金融支援機構など少なくとも11法人を例示した。しかし報告書は首相官邸の横やりで土壇場で腰砕けになった。」と。

 高級官僚は、日本の将来や国民の生活よりも、自分の将来や生活の方が重大なのだろう。

 また前防衛事務次官や防衛大臣経験者らの軍事産業との癒着、「防衛利権」疑惑などが取りざたされたが、ここで動いた何億もの金が税金の無駄遣いを生み出しているのも確かなのだ。その一部でも福祉に回していれば餓死者も出さずに済んだのだろう。

 道路特定財源について
 今国会で道路特定財源の暫定税率が問題となっている。政府・与党の案はガソリン税などの暫定税率を、08年度から10年間延長し、「道路の中期計画」を策定して道路整備を進めるというのが柱で、総額59兆円、年間約6兆円もの財源を十年間にわたって道路だけで使い切る計画だ。

 国土交通省と道路族議員が自分たちの利権、既得権を守ろうと必死になっている。苦しい財政事情の中で市町村が一般財政から予算を捻出して道路を作らなければならないとすれば、絶対に必要な道路だけを安く作ろうとするはずだ。しかし地元では議員の名前で呼ばれている道路があるように、議員には票を、地元の建設業者には利権をといった癒着関係の中で膨大な税金が無駄に使われていくのだ。

 道路特定財源が道路以外に使われていたということがマスコミで騒がれている。国交省職員の官舎(家賃は破格の3万円台)、駐車場、テニスコート、リクレーション用具(テニスのラケット・ボール、野球のグローブ・ボール等、72万円)、リクライニングチェアー(23万×20)、クーラー・ボックス(60万円)、トロフィー(30万円)、カラオケセット(97万円)などにも使用されていたのだ。

 道路特定財源から作られた駐車場からの収益が4000万円だそうだがそれは国庫に入るのではなく、駐車場の管理会社に入る。その会社は国交省の天下りの会社で役員は年間1600万円の給料をもらっているということだ。このような官僚社会の弊害を一掃し、議員や、官僚の利権や既得権をなくしていくような社会を作っていかない限り格差はどんどん広がっていくだろう。
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テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

刑罰制度について

1月30日(水)
 2009年5月から裁判員制度が始まろうとしている。この状況の中で、裁判員に予断を与えかねないマスコミの報道の仕方について、日本新聞協会が新たな取材・報道の指針をまとめた。報道の自由を損なわず、公正な裁判の実現を目指すための自主的な規範でもある。

 指針ではまず「公正な裁判と報道の自由の調和を図り、知る権利に応えていく」と宣言。事件報道では真相解明のほか、社会不安の解消、再発防止策の追求、捜査や裁判のチェックという使命についても言及している。その上で、容疑者の供述内容がすべて真実との印象を与えないように十分注意する―などと具体策を挙げた。裁判員に予断を与えないためである。

 しかし大事件や事故の当事者や関係者に多数のメディアが殺到し、プライバシーを不当に侵害するなどの集団的過熱取材の弊害が指摘されながら、一向に改まらない現状もある。こうした中で指針にどこまで説得力を持たせられるのか。

◆ 裁判員制度によって何処まで公正な裁判を期待できるのか。被害者寄りの報道と報復感情を煽り立てる今のマスコミの報道が改まることはないだろう。これが一般市民の求めるものであり、それに迎合することによって保たれている報道番組だからだ。

 今の裁判においても重罰化、重刑化が進行している。福岡の飲酒運転による事故で危険運転致死傷罪の適応が可能かどうか争われた時も市民の反応は法的判断ではなく、被害者の遺族感情に従うものであった。裁判員になったからといってこのような感情押さえ、冷静な判断を下せるようになるとは思えない。

◆ そもそも刑罰制度について一般的にはどのように考えているのだろうか。現在の支配的な刑法理論では、刑罰は(1)人間の本性の要求として、応報、正義、贖罪があり、(2)人道的配慮として教育刑があり、(3)社会秩序維持のため一般予防(威嚇としての刑罰)と特別予防(抹殺、隔離、矯正、改善)がある。

 しかし当たり前のように行われているこれらの刑罰は果たして効果を挙げているのだろうか。その結果としての拘禁制度は意味を持っているのだろうか。

◆ ミシェル・フーコーは『監獄の誕生』の中で「監獄のおかげで犯罪発生率が減少するわけではない。・・・拘禁が犯罪を生み出すのであり、監獄を出た後の人間のほうが、その経験のない者よりもそこに舞い戻る機会が多い、必ずと言っていいほど監獄は非行者を作り出す。」(田村俶訳・新潮社)という。

◆ N・モーリス、G・ホーキンスは『犯罪と現代社会』において述べている。「全ての刑罰手段は等しく無駄で効果がない。」「矯正処遇のプログラムの大半は有益どころか害になる。」「刑務所は人間集団からの放逐であり、そこでの生活は、文化的な根を切断し、その社会復帰を社気的に時には心理的に不可能にしかねない。」(長島敦訳・東大出版会)

◆ 今日の世界的な行刑理論の主流は消極行刑の立場あり、「ジャスティス(正義)モデル」として提唱されている。それは「刑務所に拘禁するという判決は自由剥奪を意味するのみで、その他の諸権利は刑務所生活においては収容者に保障されるべきである。」という主張であり、「自由刑は自由のみを奪うのであってそれ以外何も奪ってはならない。」というものである。

 こういった刑罰制度、拘禁制度についての考え方がどのような形で生かされていくのか。裁判員制度はむしろ逆行していく道でしかないのかもしれない。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

豊島区散歩-4 神社・寺院を廻るご利益コース

1月29日(火)
朝からどんより曇り今にも雨が降りそうだ。天気予報では豊島区の降水確率は20%であった。観光協会のコース案内では歩いて一時間とあったが、地図から見てそれぞれの寺院はかなり距離があるので到底一時間では無理だと思いウォーキングに違反して、自転車で出掛けることにした。今日のコースは浅間神社と富士塚→高松柳稲荷神社→御嶽神社→功雲院→洞雲寺→祥雲寺となっている。

浅間神社と富士塚は住宅に囲まれた児童公園の横にあった。公園入り口の狭い通路以外入り口がなく住所から見てあっているのだがなかなか見つからなかった。浅間神社は背丈ほどの小さな社しかなくみすぼらしい感じがしたが、その横にある富士塚は堂々と聳えているといった感じだった。周りは金網が張られ「危険につき」ということで入れなかった。

富士塚は上半分位がごつごつした溶岩の岩で作られ、下半分に立ち木が植えられきれいに剪定されていた。ところどころに奉納された石碑が建てられている。この溶岩は富士山から運ばれてきたものだと言う。かなりの量になるだろう。江戸時代にどうやって運んだのだろう。信仰のなせる業なのだろう。富士塚は色々な所にあるが製作当時の状況がよく保存されているということで国の重要有形民俗文化財に指定されている。金網越しにしか見られないのが残念だった。

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 浅間神社社殿                        富士塚

高松柳稲荷神社は住宅街の中にぽつんと立っている感じだ。入り口を入って左に子育て地蔵があり、こじんまりした社がある。昔、高松は3割が森で7割が畑だったそうだ。きれいな小川が流れていて子供たちが遊んでいたといった掲示板がたてられていた。今ではすっかり住宅街になり、神社仏閣以外空き地などは全くない。住宅街の形成が豊島区で一番と言われている。

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 子育地蔵                          高松柳稲荷神社社殿

高松から次の御嶽神社に向かう。環状6号線を横切り、池袋3丁目に入る。突然衣町並みが変わる。細い道がくねくねと曲がり、時々商店街が2,30メートルほど続きまた途切れる。谷端川南緑道を北東に向かって進む。かって川だった所を埋め立て遊歩道として整備し四季折々の植物を植えて市民の目を楽しませようとしているのだろう。迷路のような道を辿り住所を頼ってやっと御嶽神社にたどり着いた。自転車でなければかなり歩いてあきらめていたかもしれない位分かりにくい道だ。

御嶽神社はフクロウが有名でフクロウグッズ(お守りや張子)を売っている。節分の豆まきの掲示が貼られている。本殿の横に稲荷神社があり赤い鳥居が10本ほど並んでいて、その奥の社には瀬戸物の狐が飾ってあった。

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 御嶽神社社殿                       子育稲荷社

「ふくろ祭り」では池袋駅西口一帯の町会のこども神輿など30近くの神輿が参加し、西口駅前に集合し1時より御嶽神社に連合渡御を行った。神輿の中にはメトロポリタンプラザの神輿も参加していた。御嶽神社は、池袋駅西口一帯の氏神である。

御嶽神社から再び曲がりくねった細い道を行きながら2度ばかり環状6号にぶつかり、訂正しながら功雲寺に向かう。谷端川緑地が目印だ。この道は分かりやすくこの道のどちらにあるか判断すればいい。突然功雲寺にたどり着いた。

功雲院の入り口には寺名の表示はあったし、寺の由緒を書いた掲示板もあったが、入り口から見えるのは3階建て位の白いシートで囲われた建築中の建物だった。これは檀信徒会館建築中で寺院の様相も何もない。裏に墓所があり寺院だということがかろうじて分かる位だ。

この建物は市民のための集会場として機能することによって寺院経営の一環となろうとしているのだろう。貸し集会場、貸し駐車場など寺院を見るたびにその経営の難しさを感じさせる。確かに檀家からの寄付や墓を持っている人たちからの維持費などの収入もあるだろうが、到底それだけではやって行けないのだろう。

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 功雲院山門、会館                     功雲院本堂

洞雲寺は功雲寺の隣にある。ひっそりとしたたたずまいで、池袋の中心地にある場所とは思えない。寺院の中には木が茂り、木造建物がしっとりとした味をかもし出している。最近の寺院が鉄筋コンクリート製の機能重視の会館的様相を呈しているのを見慣れているせいか懐かしい気がする。この寺に南側の細い道を入ると、右側は墓所であり、それが終わったところに竜泉庵なる洞雲寺の庵がある。関係者の宿舎なのか禅の道場なのか。

この寺院は黄檗宗(おうばくしゅう)であり、臨済宗、曹洞宗に次ぐ禅宗の一つである。唐の僧黄檗希運(臨済義玄の師)の名に由来する。臨済宗、曹洞宗が日本風に姿を変えた現在でも、黄檗宗は明朝風様式を伝えている。 本山は隠元の開いた、京都府宇治市の黄檗山萬福寺である。

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 洞雲寺山門                         洞雲寺本堂

祥雲寺は功雲院、洞雲寺と背中合わせになっていて、池袋から要町、千川に向かう千川通りに面していて、千川通りと環状6号との交差点から池袋駅に少し行った所にある。門前にフクロウの置物がある。これはおうる工房製作「福寿福郎」である。

池袋は近くに「すすきみみずく」で知られた雑司が谷の鬼子母神があり、また「いけぶくろ」の名が「ふくろう」に通じることもあり,フクロウと馴染のある所だという。豊島区制施行70周年を記念して、世界中の若い美術家のデザインした梟(ふくろう)像を48体作ることを目標としているのが「梟の樹を創る会」。池袋には現在、会によるモニュメントや像などの梟が10体設置されている。ほかにも、みみずくのベンチや、梟のオブジェなどがあちこちに点在している。

祥雲寺のお墓の案内には次のように書かれている。「都内では貴重な大木を残し、多くの野鳥や昆虫が訪れます。春にはサクラがそして、ケヤキ、カエデなどの落葉樹の季節の彩りをお楽しみ頂けます。境内に太陽光発電パネルを設置いたしました。自然の恵みを少しでも還元したいと思っています。また、災害時に1次避難所として機能できるように発電機と燃料を備蓄しています」と。

池袋から5分の葬祭場、墓所といったキャンペーンでこの寺院は経営しているのだろう。山門から中に入って最初に見たものはまさに葬祭場の会館であった。奥へ行けば由緒ある本堂や仏像があるのかもしれないが、丁度葬儀の準備で人が出入りしていたので全てを見たわけではないが今の寺院の実情を見た気がする。
                  
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 祥雲寺山門                         祥雲寺本堂 

神社・寺院の略歴
浅間神社・富士塚:浅間神社には、文久2年に築いた直径約21メートル、高さ約8メートルの富士塚があります。富士講のひとつ、長崎村の「月三講」が、富士山から運んだ溶岩を使い、富士山の五合目以上を真似て築造したといわれています。※富士講とは、富士山を神の宿る地として信仰する人々の集まり。富士塚は、各地の「講」によって、富士登拝ができない人のために富士山に模して築かれたものです。

高松柳稲荷神社:元は個人の屋敷稲荷でしたが、その後、共同の所有となり高松の鎮守となりました。1747年に長崎村字高松の講中13人が建てたという子育地蔵があります。

御嶽神社:池袋西口一帯の氏神様。ご祭神、倭建命(やまとたけるのみこと)の草薙の剣の話により、古くから災難除・防火・厄除けの神徳があるとのこと。また池袋の袋と梟にちなみ、苦労を除き(不苦労)福を呼ぶ神、知恵の神様ともいわれています。

鳩峰山・曹洞宗・功雲院:鳩にまつわる不思議な言い伝えから、別名・鳩寺とも呼ばれています。堀直廣の妻である功雲院が原因不明の病いに倒れた折、三晩続けて鳩が夢枕に立ちました。そのお告げどおりに、ある薬を煎じて飲むと病いが全快したそうです。その鳩の供養として、慶長18年、泉岳寺の境内に観音堂を建立。その後、明治43年に当地に移転されました。

竜泉山・黄檗宗・洞雲寺:大正3年に文京区関口より移転。松尾芭蕉の木像や、後世の門人が作った芭蕉の位牌などがあり、芭蕉ゆかりの寺として有名です。庭には、大きな葉の茂った芭蕉の木も植えられています。

瑞鳳山・曹洞宗・祥雲寺:明治39年、小石川より移転された曹洞宗のお寺で、本尊は薬師如来。境内には、首斬り浅右衛門の名で知られる山田浅右衛門の碑があります。山田家の本業は、徳川家刀剣類御試し御用でしたが、罪人の首を斬る同心の代役も勤めていたとか。本堂の奥には、漫画家の石ノ森章太郎のお墓もあります。
(豊島区観光案内より)

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

豊島区散歩-3 金剛院・長崎神社・八幡神社

1月28日(月)
 豊島区の観光案内には豊島区の散歩コースとして12のルートが紹介されている。それぞれ1~2時間位の散歩コースとなっている。これを自由に組み合わせながら周辺探訪をやって行こうと思う。長年住んでいながら地元のことをほとんど知らないことが分かった。まさに「燈台下暗し」というわけだ。

 1.昼も夜も充実の東池袋遊々コース      2.閑静な街と芸術散歩コース
 3.不思議発見ミステリーコース1         4.不思議発見ミステリーコース2
 5.歴史薫る雑司が谷1周コース         6.池袋モンパルナスコース
 7.古き坂道と寺社を巡る山吹の里コース     8.桜・ツツジの花香る町散策コース
 9.レトロに浸る、街道筋をゆくコース      10.阿波踊りの町、大塚周辺コース
 11.招福!神社やお寺を廻るご利益コース  12.鉄道のまち探訪コース 


 今日は一番身近なコース11の「神社やお寺を巡るコース」を巡って見る事にした。
椎名町駅→金剛院→長崎神社→八幡神社→浅間神社と富士塚→高松柳稲荷神社→功雲院→洞雲寺→祥雲寺→御嶽神社→池袋駅西口というのがコースの全体だ。

 椎名町駅は何度も利用したことがある。しかし、駅前、環状6号沿いに墓所も含めかなり大きな寺院があるということには気がつかなかった。

金剛院という寺院で色々見所のあるところだ、ここだけで30分以上かかってしまった。

船形浮彫地蔵尊が最初に目に入る。道標地蔵尊(道しるべ地蔵尊)と呼ばれている。

長崎不動尊がその隣にある。不動明王は、病気平癒や安産、災害の除去など、人々の苦しみを必死に救おうとしているところから、火焔を背負い、両牙を咬み、剣を持った恐ろしい表情をしている。

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 金剛院山門                         金剛院本堂

山門 その後、豊島区より有形文化財の指定を受けた山門をくぐる。この山門は将軍家から朱塗(しゅぬ)りの山門を建ててもよい、というお許しが出て作られたものである。この時代、赤い門を作るということは、将軍家と縁のある家などにだけ許されるものであった。ここから金剛院は村民から赤門寺(あかもんでら)の名でしたわれるようになった。

修行中の弘法大師像が山門入って参道を進むと右側にがあり、それを囲むように、地名が記された石柱が4本立っている。 これらの柱は弘法大師が修行の場とされた四国八十八か所の霊場(れいじょう=神聖な場所)を
 • 阿波(あわ):発心(ほっしん=)の道場(どうじょう)
 • 土佐(とさ):修業(しゅぎょう)の道場
 • 伊予(いよ):菩提(ぼだい)の道場
 • 讃岐(さぬき):涅槃(ねはん)の道場
この四国にわけて表したもので、石柱の下には、それぞれの霊場のお砂がおさめられている。

大師堂がその右隣にあり、弘法大師:真言宗の宗祖、興教大師:中興の祖、専誉僧正:豊山派の派祖の三尊が祭られている。

六地蔵尊ほか三体の地蔵尊が金剛院の墓地の入り口に安置されている。この地蔵尊は、一蓮托生(いちれんたくしょう)地蔵尊ともよばれ1736年に造立された。六体の地蔵尊は、六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)のどこにでもいて救済の手をさしのべてくれるという。
板碑(いたび)が2枚あり、これはなくなった人への追善供養(ついぜんくよう)として造られていたが、しだいに墓石(ぼせき)の意味をもつようになった。また生前に極楽への後生(ごしょう)を願って建てられたものもある。

庚申供養塔が建てられていた。金剛院では、元禄末期ころから「庚申講(こうしんこう)」が盛んになった。「庚申講」は、庚申信仰の信者たちがあつまってつくる集団で、庚申信仰は、60日に一度めぐってくる庚申(かのえさる)の日に、その夜はねむらずに言行を慎み、健康長寿を祈る信仰で、この集まりを守庚申あるいは庚申待という。

智観比丘尼の碑がある。150年ほど前、宝仙寺(ほうせんじ)から金剛院へやってきた智観比丘尼(ちかんびくに)は、金剛院へ村の子供たちを集め、子供たちに礼儀作法や読み書きを教えて、この辺りではまだめずらしかった寺子屋を始めた。長崎における庶民教育(しょみんきょういく)の創始者と言える。

 さらに馬頭観音碑 宝篋印塔 仏舎利塔 本堂 木石などがあり見所満載と言った感じだ。

長崎神社は、昔は5の日に縁日として屋台が出ていたが、今は秋のお祭りの時にしか見られない。例祭日は9月の第2日曜日でこの日は境内だけではなく周辺道路、椎名町駅周辺、商店街にまで屋台が繰り出し、神輿や山車が出て町内会の一大イベントとなっている。また初詣には行列を作るほどの賑わいを見せる。かなり地元に根付いた神社と言えるだろう。

 境内奥にある、嘉永2年建造と言われている本殿には精緻な彫刻物を有している。本殿の右には長崎招魂碑といわれる小さな社がある。左には農業と商売の神様をおまつりしてある稲荷神社があるのだが、そこの狐さんは空をとんでいるようで面白い。また境内には、門前の西武椎名町駅開業を記念した「椎名町駅開設記念碑」がある。長崎神社は元禄時代に始まったという獅子舞が毎年10月に行われることで知られる。神社額を書いたのは、幕末を代表する幕臣であった山岡鉄舟だ。

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 長崎神社入口鳥居                     長崎神社拝殿

八幡神社は長崎神社から5分位の椎名町商店街から外れた住宅街にある。最初に目に入ったのは、広い貸し駐車場で神社はその影にあるといった感じだった。駐車場の奥の倉庫に神輿などが収納されているのだろう。秋には神社の御祭りがあるという。神社自体はこじんまりして、境内も狭いし、本殿も小さい。しかしそれはそれで地元の人にとっては何かの折にはお参りの対象となっているのだろう。

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 八幡神社入口鳥居                      八幡神社拝殿  

 最初の金剛院でかなり時間がたってしまった。全ルートを回ろうとと思っていたが、残りの場所から時間と距離を考えると回ったとしても夕方遅くなってしまうので次の日に伸ばすことにした。

寺院略歴
金剛院
:聖弁和尚により1522年に開創された真言宗豊山派の寺院です。安永9年に建立された山門は、区内最古の建造物。装飾の彫りが深く意匠的にもすぐれているため、平成6年6月に、区の有形文化財に指定されました。朱塗りであったことから「赤門寺」と呼ばれています。

長崎神社:元来、櫛名田比売命(くしなだひめのみこと)を祀り、武州豊島群長崎村の鎮守でしたが、江戸時代中期には、十羅刹女社(じゅうらせつにょどう)とも称されていました。明治7年、須佐之男命(すさのおのみこと)と合祀として長崎神社と改称。元禄年間(1700年頃)から伝わる獅子舞は、豊島区に残る郷土芸能として、平成4年に区の無形民俗文化財第1号に指定されました

八幡神社:鎌倉八幡宮から分霊した御宮です。江戸時代の創建で、武州豊島群長崎村の鎮守として村人の信仰を集めていました。(豊島区観光案内より)

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

映画 『ジャケット』

1月27日(日)
WOWOWで『ジャケット』(拘束衣)という映画を見た。なんとなく見始めていたらエイドリアン・ブロディが出てきたのでこれは奥深い映画ではないかと思っても見出した。彼は、巻き込まれ不幸になっていく時の演技が素晴らしい、あの顔が同情を引き、見る者を映画に引き込んでいく。今回の役は彼にはまり役で演技が光っている。ブロディの現実の常軌を逸した事態に翻弄され苦悩する、その様子からは目が離せない。

あらすじ:
D112235041.jpg1992年、湾岸戦争で重傷を負い、その後遺症で記憶障害に悩むジャックは、ある時殺人事件に巻き込まれ、精神病院に送られる。ベッカー医師による矯正治療を受けることになった彼は、拘束衣を着せられ狭い引き出し棚に閉じ込められてしまう。暗闇の中で意識を失ったジャックが目を覚ますと、彼は15年後の2007年にタイムスリップしていた…。1992年と2007年の2つの時を往き来しながら自らの死の謎を探る青年と、そんな彼と恋に落ちる孤独な女性の悲愴な運命を描く。(DVD解説より)

湾岸戦争の兵士ジャック・スタークス(エイドリアン・ブロディ)が頭を負傷し、記憶喪失となって時間をさ迷っている。ある日ジャックは警官殺しの罪で逮捕され、施設(精神病院)に収容後、治療の一環(自傷他害の防止)として拘束衣を着せられて死体安置用のロッカーに隔離される(担当するのはクリス・クリストファーソン演じる医師)。
 
そのロッカーの中でジャックはタイムスリップし未来へ行き、15年前まだ少女であった頃助けたウエートレス(キーラ・ナイトレイ)と出会う。そして自分が既に死んでいることを知る。過去が見え始めるが、自分は何故死んだのか、死ぬ日まで4日しかない。この謎を4日以内に解かなければならない。過去と未来を行き来しながら知り合ったウエートレスと一緒にその謎を追っていく。

精神病院で知り合う妻殺し未遂男が集会場で叫ぶ、自分は「組織化された人間」の組織に属していると、それにジャックも一緒になって騒ぐ、これは精神病院とその治療のあり方への批判ではなかろうか、薬漬け・向精神薬の大量投与でおとなしくさせ、懲罰的な拘束衣を着せての遺体安置所のロッカーへの収容といった管理、監視の体制への反発なのだろう。良心的精神科医の病院経営との葛藤も描かれている。

 自分が誰か分からなくなった時のために認識票を持っていて、本当に自分が誰か分からなくなってしまっている現実、自分が誰かも分からないまま、一生を送ってしまうかもしれない。残されている時間も少ない、この映画はそういう危惧を現代人に与える問題意識を持って迫ってくる。

時空を越えた「自分探しの旅」と言えよう。精神病院に閉じ込められそこから出ることが出来ない主人公を通して、逼塞した現代人の置かれた状況を表現し、そこからいかに自分を本当の姿を見出し回復していくか、そういった模索と格闘を表現しているのだろう。

サイコスリラー的な味付けになっているが、実際には精神病院の中で自己を失っていく患者が現在と未来を行き来する中で、死の真相を究明しながら、自己を取り戻そうそうともがきながら少しずつ自分の本当の姿を見出していく。

 結局主人公の取った行動は自らの死を回避するということではなかった。おそらく彼自身の中で、未来へ行く目的が変わっていったのだろう。自らを犠牲にしてでも愛するものの運命を変える・導くという普遍的な愛がそこには描かれているのではないか。だが彼の愛によって変えられた未来に彼は永住の地を見つけられるのかどうかそれは疑問のまま映画は終わる。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

豊島区散歩-2 熊谷守一美術館

1月25日(金)
 ベルケード療法第3回目をやったのが18日で、それ以降1週間経っているので少しずつ薬が切れ体調は回復に向かっているが、まだ長時間歩くことは難しい。そこで往復30分位のところで散歩に丁度いい場所はないかと思った。探せばあるもので、入院中は文京区の観光案内で探し病院周辺を探索したが、今度は自宅周辺で幾つかの観光名所を豊島区の観光案内で探した。

 近所にいながら全く気がつかなかった。仕事が忙しかった頃は当然だが、退院後1年間の自宅療養の時も、西武線沿線の緑地保全地域を中心に回り、池袋周辺の名所旧跡に行くことはなかった。体調の関係で長距離を歩くのは無理だが近所ならどうにかなる。体調に従っていると一日中家の中にいて一歩も外に出ないということになってしまう。すると余計体調に影響してくる。

 ということで池袋周辺探訪を始めようと思う。周辺探訪シリーズ2というわけだ。第1回目は1月22日の「長崎アトリエ村」ということで今日2回目は「熊谷守一美術館」である。
 
熊谷守一美術館
 熊谷守一美術館は椎名町駅から10分くらいの所にあり、散歩の時近くを通ったことは何度かあるが全くその存在を知らなかった。熊谷守一はという名前は聞いたことがある位で、白猫の絵はどこかで見たことがあるその位の知識しかなかった。

 この美術館は、守一氏が45年間住み続けた豊島区千早の旧宅跡に、1985年(昭和60年)5月、次女の榧(かや)氏により個人美術館として開設された。2007年(平成19年)11月、榧氏より守一作品153点の寄贈を受け、豊島区立熊谷守一美術館としてなった。

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 美術館建物                         美術館入口

 美術館はコンクリート打ちっぱなしの3階建ての建物で、正面の壁には熊谷守一の蟻の絵がレリーフとして彫られている。1階が喫茶店になっていて次女榧(かや)さんの陶芸作品が飾られ、守一の書籍、画集が売られている。展示場は1階が油絵関係で絶筆「アゲ羽蝶」や守一の「自画像」、よく知られている「白猫」等が展示され、2階には墨絵と書が飾られている。3階は誰でも展示できる貸しギャラリーになっている。

 風が強く寒く曇っていて、冷たいコンクリートの壁に囲まれ、落ち葉が吹き寄せられ建物の中にまで進入していたせいでどんよりとした雰囲気が漂っていた。入り口にあるけやきとつげは旧居宅にあったものを残してあるということだ。入館者は普段の日なのもあって私一人だ。但し1階の喫茶店に店員(美術館の受付兼任)と客と合わせて3人いたので閑散とした感じではなかった。

熊谷守一の作品
 彼の絵は「写実画から出発し、表現主義的な画風を挟み、やがて洋画の世界で『熊谷様式』ともいわれる独特な様式-極端なまでに単純化された形、それらを囲む輪郭線、平面的な画面の構成をもった抽象度の高い具象画スタイル-を確立した。」ものである。
 
 彼が好んで描いていた題材は、子ども、小さな虫、庭に咲く花、猫など普段の何気ない風景が多い。これらを見つめ続けることにより創り出された「かたち」と、持って生まれたまなざしが決定する「いろ」。この二つを駆使しては独自の様式を展開し、ぎりぎりまでそぎ落とした線で描きだされたかたちと明快な色彩が、絶妙な調和を作り出している。。

 轢死体を目にしたことをきっかけに、人の死や重い題材も扱った。4歳で死んだ息子の死に顔を描いたもの、戦後、結核の病で失った長女の野辺の送りの帰り「ヤキバノカエリ」といった作品も残している。

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 美術館の壁に書かれた作品                白猫

熊谷守一(1880年 - 1977年)の略歴:
1880年4月2日 岐阜県恵那郡付知村(現在の中津川市付知町)に岐阜市の初代市長熊谷孫六郎の三男として生まれる。
1900年 東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画家選科に入学。長原孝太郎、黒田清輝らの指導をうける。
1905-1906年 樺太調査隊に参加。北海の島々を廻り、各地の風光、地形の記録やスケッチなどをする。
1909年 第三回文展に「ローソク」を出品し、褒状を受ける。
1910年-1915年 実母の死を機に帰郷。裏木曽の山中生活を営む。
1916年 才を惜しむ友人の説得により再び上京。第2回二科展に「女」出展。後に二科展が解散されるまで毎年出品。
1932年 豊島区長崎町(現在のの千早)に移り住み、生涯にわたりここで生活する。
1938年 日動画廊で野間仁根と二人展を、藤田嗣治と野間仁根と日本画三人展を開く。名古屋丸善において、熊谷守一新作毛筆画展を開く。
1944年 軍の圧力により二科会は解散させられる。
1964年 パリのダヴィット・エ・ガルニエ画廊主催で熊谷守一大個展が開かれ、好評を博す。
1968年 文化勲章受章者に内定したが辞退する。
1972年 勲三等叙勲の内示があるが辞退する。
1976年 郷里の岐阜県恵那郡付知町に熊谷守一記念館が設立される。洋画商展出品の「アゲ羽蝶」が絶筆となる。
1977年8月1日 肺炎で死去。享年97。
 
能谷守一の言葉:
 川には川にあった生き物が住む。上流には上流の下流には下流の生き物がいる。自分の分際を忘れるより、自分の分際を守って生きた方が、世の中によいと私は思うのです。自分自身を失っては何にもなりません。自分にできないことを世の中にあわせたってどうしようもない。川に落ちて流されるのと同じ事で何にもならない。

 気にいらぬことがあっても、それに逆らわず、退き退き生きてきました。時には枯木も生きているんです。若木だけが生きているんじゃないんです。

エピソード1:
 守一が晩年を過ごした千早町の家(今の美術館)は伝説的な存在である。約80坪ほどの敷地で、南側半分が庭になっており、草木がのび放題にのびた野生の王国これこそが守一の生き方を表していた。守一はこの庭をよく歩き回った。庭の木陰で昼寝をしたり、日なたぼっこを楽しんだ。ただ自由に自分の時間を楽しむことだけを望んで生き、絵は観察という遊びの延長であった。名声やお金に対する欲はおろか、”すばらしい芸術を描こう”という気持ちもなかった。

 守一は貧しさすらも受け入れた。闘う意志がないのだから、黙って受け入れるしかなかった。こうした受け身の生き方は、彼のものの考え方や見方と無関係ではないだろう。

 人生は望むものではなく、様々な因果の重なりで与えられるものと・・・そうした考えを絵に表すには長い時間が必要だった。守一がそれを達成できたのは、人生が終わりに近づいたころである。生きることと描くことが、そのときようやく重なりあったのだった。(熊谷守一記念館ホームページより)

エピソード2:
 彼は「雑草園」のように草の茂った庭にでて蟻やカマキリを観察し、草や花に見入っていた。そのために彼は手製の腰掛けを20個作って踏み石のように庭に配置し、それに順番に腰を下ろしながらあくことなく虫けらどもを眺め続けた。有名なエピソードがある。彼は蟻を観察しているうちに、蟻が左側の二番目の足から歩き始め、どうのような順序で足を動かして歩行するか「発見」したというのだ・・・・。

 生き物たちは、長年の観察に裏付けられ、固有の相を正確に描き取られている。初めて、熊谷守一の絵を見たときに感じたのも、生き物たちの生態的な動きが、一種の瞬間像として実に正確に捉えられていることへの驚きだった。(静かな生活より)

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自殺について

1月24日(木)
 最近自殺の記事が目に付く。年間3万人以上が自殺している日本の現状の中で、毎日100人の人が命を絶っている状況だ。もちろん新聞に載っているのはそのほんの一部ではある。しかし毎日のように目にしている感じだ。最近の新聞から少し引用してみる。

自殺>26歳双子の姉妹がマンションから飛び降り 埼玉
 20日午後3時ごろ、埼玉県坂戸市本町のマンションで、住民が「ドスン」という音を聞き、外に出たところ敷地内の路上に女性2人(26)が倒れていた。2人は頭などを打っており、病院で死亡が確認された。マンションは12階建てで、9階の非常階段の手すりに乗り越えた跡があり、飛び降り自殺を図ったとみられる。遺書は見つかっていない。(1月21日0時30分配信 毎日新聞)

自殺:中3女子、電車に飛び込み 自宅に遺書?残す--愛知・豊川
 18日午後3時ごろ、愛知県豊川市一宮町のJR飯田線下り線で、線路上にいた近くの中学3年の女子生徒(14)が、豊橋発天竜峡行き普通電車にはねられ、死亡した。生徒は自宅に遺書めいたメモを残しており、県警豊川署は自殺とみて調べている。(毎日新聞 2008年1月19日 中部朝刊)

練炭自殺?:車内で3人死亡--愛知・南知多
 18日午後2時半ごろ、愛知県南知多町内海の町道で、布などで車内を見えなくし、異臭がする軽乗用車が止まっているのを、通りがかりの釣り客が見つけ110番した。県警半田署が車内で男性2人と女性1人の遺体を発見。車内に練炭入りの七輪があったことから、心中とみて調べている。死因は一酸化炭素中毒。(毎日新聞 2008年1月19日 中部朝刊)

鉄道事故:JR京浜東北線に侵入、男性死亡--東京・蒲田-大森間
 20日午後5時35分ごろ、東京都大田区大森西4のJR京浜東北線蒲田-大森駅間の線路で、男性が大船発南浦和行き北行電車(10両編成)にはねられ、間もなく死亡した。警視庁蒲田署の調べでは、男性は40代とみられ、現場近くの踏切から線路に入り込み自殺したとみられる。(毎日新聞 2008年1月21日 東京朝刊)

鉄道自殺:部員に全裸ランニングさせた教諭 大阪
 17日午前5時55分ごろ、大阪市住吉区帝塚山中5の南海高野線帝塚山4号踏切(遮断機、警報機付き)で、男性が、三日市町発難波行き普通電車にはねられ、死亡した。男性は市立中学の教諭(48)で、顧問を務めるサッカー部員を全裸でランニングさせたとして問題になり、市教委から07年、停職2カ月の懲戒処分を受けた。遮断機をくぐって線路内に入り、線路上でうつぶせになったといい、同署は自殺とみて調べている。 (毎日新聞 2008年1月17日 15時00分) 
 
自殺死亡数の年次推移
 自殺死亡数の年次推移をみると、明治32年の5,932人から昭和11年の15,423人までは増加傾向を示しているが、昭和12年から戦時中まで減少傾向となっている。

 戦後は、再び増加傾向となるが、戦前と異なり、増減を繰り返し、過去2回の高い山があり最近も1つの山を形成している。1番目の山は毎年2万人を超えた昭和29年~35年であり、2番目の山は毎年2万3千人を超えた昭和58~62年である。最近の山は3万人前後で推移している。(厚生労働省・統計情報部・人口動態・保健統計課作成資料より) 別の統計では1998年には32,826人、2003年には34,427人の自殺者があったとなっている。

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自殺対策基本法
 昨年十月、自殺対策基本法が施行された。自殺を個人の問題としてではなく「社会の問題」と位置づけ、国や自治体に自殺防止の責務があることを明確にした。これに基づき、政府は今月、「二〇一六年までに自殺死亡率を20%以上減少させる」との数値目標を盛り込んだ自殺総合対策大綱を決めた。「自殺予防は社会的要因と心の健康問題について総合的に取り組むことが必要」と指摘している。

 ストレス過多の社会の中で、失業、倒産、多重債務など経済生活の問題への対策強化や、病気の悩みなど健康問題、介護・看病疲れなど家庭の問題、精神疾患などの心の健康問題など、負荷がかかり、性格や家族の状況なども影響してくる状況の中で、個別的にしかも全体の中で判断し、うつ病の早期発見・治療、精神疾患への偏見をなくす総合的な取り組みが求められている。

 フィンランドや米国、スウェーデンなどでは医師や心理学者、ソーシャルワーカーなどへの研修や「自殺学講座」の開設、自殺につながる「うつ病」の診断・治療の促進、自殺未遂者の支援プロジェクトなどを展開し、自殺率の低下に確実な効果を挙げている。

 自殺につながる絶望感・孤立無援感、無価値感、怒り、無力感、どん詰まりという心理的な狭窄(きょうさく)から、どう解き放つかが問われている。これは社会的環境や地域共同体の人間関係のあり方を考えることなしには解決できない。
 
学生・生徒・児童の自殺の増加
 警察庁がまとめた昨年の自殺統計で「学生・生徒・児童」の自殺が1978年の集計開始以来、最多の886人に上ったということに注目しなければならない。

 「学生」は20歳以上の大学生や専門学校生も含むため、大学までの幅広い学齢期にわたる区分である。この青少年層の新たな兆候には、注意を払う必要がある。

 ただ、幅広い年代層の細部を見れば、ひとくくりにできない。小学生は前年の2倍の14人だが、小中学生の枠では、ここ数年目立った増減はない。19歳以下を見ても、同じく600人前後で推移している。これらのことから、「学生・生徒・児童」を過去最多に押し上げたのは、20代の「学生」の増加が原因と読み取れる。

 原因・動機は、いじめや成績など「学校問題」と判断されたのが242人で、この10年で最も多かった。学齢期のおよそ4人に1人にも相当する。昨年来、小中学生らのいじめを理由にした自殺が大きな社会問題となった。いじめに象徴される「学校問題」の増加は、教育現場にとって、見過ごすことのできない傾向だろう。いじめから自殺といった回路を何処で断ち切るのか、どのようにしていじめをなくしていくのか。

 自殺について考えるということは、社会矛盾の全てを凝縮したものとして投げかけられてくることなのだ。個人の弱さや資質で解決できる余地がない程社会矛盾は膨らみ続けてきている。子供から老人まで全ての年代に満遍なく広がっている心の暗闇にいかに光を当てていくのか。

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ベルケード第3サイクル、新薬・レブリミド

1月23日(水)
 朝から雪が降っている。雪が降るとこういった中を出勤するのはどんなに大変かと思う。また昔の職場での仕事を思い出す。雪の日、藤沢を夕方5時に出た車が足立区の倉庫に帰ってきたのが朝に4時ということもあった。

 また土曜日に雪が降って丁度ブライダルの展示会が重なっている日で、どの車も時間通り着けず、本来朝10時に着く品物が夕方になったりしたこととか、雪で悩まされた記憶がよみがえってくる。雪は物流にとって最大の敵なのだ。特に東京では車は雪に備えていなので必ず事故渋滞で物流が停滞してしまう。今は雪が降ってもただ眺めているだけで何の心配も苦労もない、これもある意味で虚しいものだ。

ベルケード療法第3サイクル第4回目中止
 昨日はベルケード第3サイクル4回目の静注のため病院に出掛けた。しかし、加療の前の採血の結果血小板が4.5と減少しておりこの状態でベルケードを投与した場合血小板が何処まで下がるか分からないので、第4回目は中止となった。

 また白血球も1.7とかなり低くなっている。ヘモグロビンは10.6だが網状赤血球が9であり、1月11日には22あったのがやはり減少している。正常細胞が全体的に減少している。ということもあって、ベルケード第3サイクルは3回の投与で終わらせ、15~20日位の間をおいて第4サイクルに入る。

多発性骨髄腫の新治療
 1月20日の朝日新聞の「患者を生きる」・情報編ということで多発性骨髄腫について掲載してあった。患者団体「国際骨髄腫団体」の清水一之氏が多発性骨髄腫の治療法を3世代に分類する。

第1世代:MP療法。高齢だったり合併症があり移殖を出来ない患者を対象。VAD療法。
第2世代:自家造血幹細胞移殖。大量抗がん剤を使用するため臓器への負担と感染症などのリスクがある。
第3世代:骨髄腫細胞の増殖メカニズムに作用する薬
     
     サリドマイド・承認審査中。
     ベルケード・06年承認、再発事例のみに適用。
     レブリミド・治験で安全性を確認中。


 「現在ある最善の治療法で病気を出来るだけ長く抑え込み、今この病気と闘っている人が将来、医療の進歩の恩恵を受けられるよう医師は努めなければならない」(国立国際医療センター三輪哲義医長)

 完全寛解のためには医学の進歩を待たなければならない。それまでは延命治療しかないということなのだろう。

レブリミド・revlimid(レナリドミド・lenalidomide)について
▼ サリドマイドの誘導体でイミッド(IMiD)と呼ばれる薬の1つであるレブリミドは、サリドマイドと同様に骨髄腫細胞やストローマ細胞、骨髄間質細胞にも作用するという薬で、その特徴としては、サリドマイドと同様の構造をしているにもかかわらず、眠気とか便秘とか神経障害ははるかに少ないということがわかっている。

 逆に、骨髄抑制は強くて白血球や血小板の減少をきたす例もある。大規模な研究では,デキサメサゾンと併用すると奏功率、つまり反応例は50%を超えて認められた。

▼ 現在、わが国において標準治療が確立しておらず、また根治が極めて困難である 多発性骨髄腫の患者にとって、本薬剤は生活の質の改善を含め、多大な利益をもたらすことが期待される。我が国における早期の治験開始が強く望まれる。

 その際、米国では本剤がサリドマイドと構造が類似していることから、妊婦及び妊娠可能な女性には禁忌とされ、特別に制限された供給プログラムの下でのみ使用が可能となっている。

▼ 07年6月29日、米国FDAが多発性骨髄腫でのレナリドミドとステロイド剤「デキサメタゾン」の併用療法を承認した。サリドマイドの誘導体であるレナリドミドは、血管新生抑制作用、抗サイトカイン作用を含む多様な免疫修飾作用を持つ分子標的治療薬。

 サリドマイドと同等の効果を有しながら、サリドマイドとは非交叉耐性と考えられており、サリドマイド耐性が発生した患者、またはサリドマイドが奏効しない患者に残された数少ない治療選択肢である。

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豊島区散歩-1 長崎アトリエ村跡

1月22日(火)
nagasaki2.jpg 椎名町駅から10分ほど歩いた住宅街の真ん中の四辻に一本の古い今にも倒れそうな桜の木が立っている。ほとんど枯れているのかなと思われるが春になると桜の花が咲く。その桜の木が去年倒れ掛かったのかもしれない、横にあるミラーの鉄柱に繰りつけられやっと立っている有様だ。

 以前そこを通りかかったところ、5,6人の団体がその桜の木をしげしげと眺め中心的な人がなにやら説明していた。きっといわくのある桜の木だろうと思った。その傍に児童公園があり、その公園に「長崎アトリエ村」といった看板がありそこに桜の木に関する由来が説明されていた。

長崎アトリエ村の由来
 かって長崎2丁目25,26,30番にかけてアトリエ貸家群があり「さくらが丘パルテノン」と呼ばれていたそうだ。ここは1936年から40年にかけて、資産家、初見六蔵が立てたもので、当時は60件以上の借家があったという。家の道路沿いに一本ずつ桜の木が植えられたためこの名称で呼ばれた。ということであの桜の古木は70年間の歴史を見て来たのだろう。

 1930年代に豊島区の西部にあたる旧長崎町(きゅうながさきちょう)を中心として、絵や彫刻を勉強する若い芸術家の卵たちに貸しだす住宅が多く建てられたアトリエ村と呼ばれた。要町一丁目には「すずめが丘アトリエ村」、千早町2丁目には「つつじヶ丘アトリエ村」がありこの3箇所が主要なものであった。

 「すずめが丘アトリエ村」は1930年に奈良慶が孫のために建てたアトリエが始まりで、竹藪があり雀が踊っていたのでこの名がついた。有名な培風荘や共同研究グルーブ「赤豊会」のアトリエがあった。画家の鶴田吾郎氏が藤田嗣治らとともに、1946年にアトリエを開放して「アカデミー46アートスタヂオ」という研究所をつくり、藤田がフランスに渡るまでの3,4年間続いたそうだ。

 このアトリエ村の借家は、赤いセメント瓦に木の壁の平屋で、北側が15畳ぐらいのアトリエになっていて、大きな窓と天窓があり、石炭ストーブやシャンデリアがついていたという。しかし居室部分は狭く、多くは3畳から4畳半で、それに便所と台所を兼ねた入口が付いている簡素な住居だった。家賃は13~22円位ということだった。彼らは集団で住み、創作活動に励み、議論をたたかわせともに遊びもした。ここでの活動を足がかりとして後に多くの芸術家が巣立っていった。

nagasaki.gif 昭和の始めから戦争頃まで、豊島区西池袋(椎名町)周辺に画家、音楽家などさまざまな種類の芸術家が集い、いくつものアトリエ村が誕生した様を池袋モンパルナスと称した。「池袋モンパルナス」という表現は、詩人の小熊秀雄が言い出したものとされている。

 しかし多くの芸術家が戦争で召集され芸術運動としては終末を迎えた。軍国主義の政治環境の中で退廃的・不健全と評価されたことが影響している。

 現在では熊谷守一美術館があり、目白文化村に続く一連の昭和モダニズムを知ることができる。熊谷守一は池袋モンパルナスの只中に居を構え制作活動をしていた。次女の熊谷榧が父親の旧居に美術館を設立した。(参考文献:豊島区郷土マップ・ホームページ)
 

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「障害者」の問題

1月21日(月)
「親たちの世代が作り出している一元的価値観の呪縛。カナシバリのように子供たちを一本の軌道に押し込めようとする圧力。その圧力に無意識にでも開放を求める子供の生命のエネルギーがぶつかって、その壁を突き破る時、衝撃的事件は起きる。」

「管理主義教育は今川焼きかタイ焼き、同じ材料をこねて、校則という焼き板の上で同じあんこを詰め一定時間焼くと出来る・・・そんな教育であっていい訳はない。その体制に反抗したりついていけない子供は裁かれる。」(斉藤茂男『死角からの報告』より)

「障害者」の問題
 「障害者」が隔離政策によって通常の教育体制(普通学級)から排除され隔離されてきている。1979年に実施された養護学校義務化によって、障害児が養護学校で学ぶ制度が確立した。これに対して、障害者による全国的な反対運動が進められ、各地域の学校への就学を求める闘いがおこなわれてきた。

教育の場における隔離と能力主義に反対する障害者の運動は、障害児と健常児が共に学び、共に育つことの意味を訴えてきた。この義務化によって「障害者」の隔離収容、健常者との分断の中で教育における社会的弱者との共生、共存の回路を切断し、より一層の差別構造を作り出してきた。

「障害者」が隔離され切捨てられていくということは、普通児の目に触れなくなるため「障害者」もまた同じ人間であるという認識を健常者が子供のうちから肌で知ることが出来なくなり、人間の多様性知り、教育体制の中の一元的価値観を越えていくものを見出していくことを不可能にしていくのである。

「障害児」を隔離すればまず健常者の子供たちが誤った道を歩んでしまうのである。教師が勉強の出来ない子やテストの悪い子に向かって「いつもそうだと特殊学級にやってしまうよ」と言うと聞いた。教育が能力主義、能率主義に落ち込むとき、人間をその尺度でしか見えない子供たちを作り出していく。競争と競争意識の結晶過程に派生する「低能力者」排除2意識を根底的に変えていかなければならない。

 普通学級で「障害児」を受け入れたことによって授業が遅れたとしても、「障害児」との共生が子供たちに与える影響は計り知れないだろう。『長谷川くんきらいや』(長谷川集平・スバル書房)の中にあるような日常的ふれあい関係が大切だと思う。

この競争社会の中で受験という一元的価値観に絶えず引き込まれていこうとする状況の中で、「障害者」の存在意義を、彼らとの共生の中で見出していけたならば、生産第一主義に裏打ちされた労働力商品としての価値で人間を識別していく、そういった呪縛から子供たちを解き放つ大きな力となるのではないだろうか。

「勉強が出来る子、大人にとって素直な子」のための教育ではない。子供の多様性と困難性と、不可解性と正面から対決することが一元化された価値観を突破する道である。健常者は「障害者」と関係を強めていくことを通して生産力万能主義的な価値体系を根底から批判していく力を得ることができるだろう。

精神「病者」の一人は「・・・言うならば、(健常者の言う)主体的人間とは自然や他者と全く対立し、それらを支配し、それから収奪しようとする者であり、自然の抑圧と人間(他者)の物格化をもたらし、それこそが人間の疎外形態といえるでしょう。」と現実社会での人間の主体的行動についての疎外された状態について語っている。

知とは本来共生の手段であった。しかし今日では排除の手段となっている。共生に向けた知の獲得を目指していかなければならない。

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「異端」の排除

1月20日(日)
「自然に近いものを汚物、異端視する現代人固有の感性―汚物排除の感性。」

「人々の環境や家が自閉化し、ブンカ的に整備され、滅菌浄化にされていくにつけ、断罪すべき「醜」と「悪」のイメージは蝿からやがて人間へと拡大されていくのであるかもしれない。」

「自然主義―万物自然の中にある道徳律に順応した社会生活をするための方法、人とは犬に食われるほど自由な生き物なのである。」

「コマーシャルの世界では、人間とその生活のネガティブな要素は一切削除される。それが社会に蔓延してきている。」(藤原新也『東京漂流』より)

「異端が許容されにくい世の中になってきている。」

「進学校としては“むだ”な生徒を異端視する。」(本多勝一『子供たちの復讐』より)

『異端』の排除

異端が今日ほど許容されにくい世の中はない。横浜浮浪者殺人事件(1983年・3名が死亡13名が重軽傷)の加害者である少年たちは自ら落ちこぼれでありながら、その抑圧のはけ口を抑圧者自身に向けるのではなく、より一層の弱者を「いけにえ」にすることによって解消しようとしてきた。

こういった浮浪者(ホームレス)襲撃事件は後を絶たない。この現象はかって浮浪者狩りを行いユダヤ人をアウシュビッツのガス室に送り込んだファシズムの時代を思い起こさせる。

弱い者、脱落した者、汚い者、醜い者、能力の劣るもの、障害を持つ者、協調性のない者、対話が苦手な者、多数派に歩調を合わせない者、付和雷同しない者、個を主張する者、貧乏な人など要するにこの世の中の価値観にそぐわないものを「異端」として残酷に平然と抹殺してしまおうとする衝動が少年たちの内面に渦巻いているとしたら、少年たちをその衝動に駆り立てている土壌をこそ突き止めなければならない。

現在の教育体制から排除され生産万能主義の価値観の中で、その価値観をあがめる物神崇拝の網の目に排除されてきた少年たちが絡み取られその操り人形となって行動してしまうという構造こそ、今日の支配の本質である。

今日の学校教育が主体性や個性を否定し、創造力も、想像力も発揮することが出来ない人間の生産工場である時、その生産ラインからドロップアウトすることが非行の始まりでる。非行とは現状の価値観に対して“否”という一つの表現である。しかしそれは体制に対する消極的批判であって容易に体制の沈め石として機能させられていくのである。

確かに非行は「学力」遅れの劣等感、欲求不満を別の世界の快感、優越感で補完しようとすることによって起こる。これは「学力」という価値観の重圧に彼ら自体も押しつぶされ、他に自尊心を満足させるもの、自己実現の機会が学校という場で全く存在しないことに起因している。

落ちこぼれ=非行という流れを如何に断ち切るか、個々の人間が一様序列的な価値体系を打ち破って、個性的に多様な価値観を確立することが必要であり、教育とはそのことに生徒を覚醒させることにある。 

 人間の存在価値は学校教育における「知識」によって推し量られるものではなく、「出来る」「出来ない」を価値基準とするのではない人間観が生産万能主義や能力主義をとっぱするものだ。インドでは犬が死人の肉を食うことがあるといいます。人間が生きていき死んでゆく、そして川に流され、犬にも食われ、大地に帰っていくという全過程をありのまま容認して行く考え方が今むしろ必要ではないだろうか。

人間は自然の一部であり、子供の成長も植物が本来無駄なく調和の取れた姿に育っていくのと同じだ。果樹は一度剪定のはさみを入れると次から次へと手を加えない限り病害虫にやられてしまう。作られた種子は生産性は良くとも害虫や病気に弱いので農薬漬け、肥料漬けにしないと実を結ばないそうだ。

子供もあるがままに全体性を開花させ、多様な可能性(存在のあり方)を引き出すことができればいいと思う。今一の子供の姿は農薬漬け、肥料漬けの植物を見ているようだ。

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「落ちこぼれ」について

1月19日(土)
「非行、登校拒否、家庭内暴力、こうした現象で今たくさんの少年少女たちが社会に突き出している人間としての歪み、崩れ、荒廃、彼らはその心と身体全体の表現で何を大人に訴えかけようとしているだろうか。彼らをそうさせている魔物の正体は何であるのか。」

「日本の教育が内側から衰退していく兆候なのではなかろうか。」
「今もたくさん”授業についていけない子”がうつろな目で時間が過ぎるのを待っている。」(斉藤茂男『父よ、母よ』より)

「親といい、教師といい、世間という他者が与えた枠や目標に縛り付けられた存在は奴隷の別名ではなかろうか。プラトンが与えた奴隷の定義とは”主体的に事故の目的を設定するのを妨げられて主人の賦課した目的に従属させられる存在である”・・・他人が設けた人生街道のレールの上をおとなしく進行するものは精神的には奴隷の一種である。」(本多勝一『子供たちの復讐』より)

落ちこぼれについて
 落ちこぼれとは端的に言って、学歴社会の偏見に染まった親や教師や世間が決めた枠からはじきだされたものではないだろうか。エジソンが小学校で1+1=2ということが何故そうなるのかについて教師にしつこく説明を求め、そんなことも分からないのかといわれ、何時でも邪魔者扱いにされていて、成績も一向に上がらなかった。


それを母親が引き取って教育したと言う話があるが、今日の教育体制では疑問を持つことは、すなわち落ちこぼれであるとなってしまう。

決められたカリキュラムに従ってすいすいと停滞することのない子が良い子とされているのである。今の教育は落ちこぼしていく教育でありそれを教師に強制しているのである。現状に疑問を持つ人間は落伍者としてのレッテルをはられるのだ。

 開成高校生殺人事件(父親が家庭内暴力の息子を殺した)に関連して開成高校生どうしで座談会をやった。その席での発言で「自分に課した絶対命題というものは悩んじゃいけない、迷っちゃいけない、疑問を持ったらいけない、ということです。考えたら絶対負けだという訳です。

考え出したら途端に成績が急降下する」また別の生徒は「受験戦争がどんなにおかしいものだとしても、今は乗り切らなくてはならない。ドロップアウトして外の道を選んでいけるほど自信がないから。」という。これが現実なのだ。

落ちこぼれると言うことは、社会のエスカレーターから落ちこぼれることである。疑問を持つこと試行錯誤を繰り返すことそのことが落ちこぼれることに繋がる。また勉強についていけないということもある。このことについて遠山啓は「落ちこぼれなどはない。それは教師の落ちこぼしなのだ」と言う。

教育学者ルーフィは「教師はロウソクの炎のように自らを燃やして生徒を啓発する。生徒が燃えないのは濡れたり、湿ったりしているからではなく私たちの燃やし方に工夫が足りないからではないでしょうか。私たちが夢(ロマン)と展望(道筋)を持って焚きつければ必ず燃えあがるはずです」と言っている。

 何故今の子供が勉強しないのか、勉強が面白くないからである。強制された勉強など誰だって面白くない。カリキュラムをこなせないから宿題を出す教師の勉強に誰だってついていく気はしない。親がもし教育に目的意識性を持つとすれば、子供たちを落ちこぼれさせまいとして宿題をするようにはっぱをかけるのではなく、カリキュラムにがんじがらめに縛られ、それをこなすことを目的として授業を進めようとしている教師に対してその誤りを指摘し正していくことに力を注ぐべきである。

「宿題を出しテストをする先生ばかりで、子供たちと遊ぶ先生がいないんですもの、先生に心を開く子供のいようはずがありません」という感想こそ母親の実感だろう。

教師の中にはカリキュラムを無視して、一つの教材を1,2ケ月かけてやったり、稲を作ったり、鉄まで作ったりしている教師もいる。確かにそれではカリキュラムに追いつけないし、学年が終わっても教材の半分までも行っていないこともあるだろう。しかしそのことを通して知るということの面白さと意味をわかりさえすれば、自発的に勉強に取り組んでいく力を与えるであろう。

知識とは自らの必然性と必要性(他から強制されたものでない内発性)があれば大地に水が染みわたるように自分のものとなるのだろう。

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ベルケード第3サイクル3回目

1月18日(金)
 今日はベルケード第3サイクル3回目だ。採血結果で血小板が8.9ということで予定通り行った。11日、15日とベルケードを静注してきたわけだが。入院中、第1サイクルではベルケード2.1mg、生理食塩水、デカドロン40mg(30分で点滴)を行った。第2サイクルでは血小板数が下がってきたので、通常は10日間第1サイクルとの間を置くのだが延期となった。
 
 第1サイクルが終わったのが11月5日で第2サイクルが始まったのが、12月11日と1ケ月以上間を置き血小板が増えるのを待つということになった。第2サイクルでは血小板のこともありベルケードの量を減らし、1.5mgにして、そのほかデカドロン、生理食塩水は同様に静注した。第3サイクルも、第2サイクルが12月21日に終わったのだが、第3サイクルが始まったのが1月11日で、20日間間を空けた。

外来での治療は、外来治療室という所で行われる。ベットとリクライニングチェアーが20ばかり置かれ外来で点滴治療を行う場所だ。ベルケードの場合は点滴といっても1分ぐらいで終わる。デカドロンの処方はなく30分の点滴がないので始めればあっというまに終わる。

今回外来ではデカドロンをベルケードと一緒に静注しないことにした。確かにステロイドは様々な副作用を及ぼすのでなるべく使いたくないだが、11日から15日、そして18日と日を重ねるにつれて、全身の倦怠感が強くなってきている。夜は9時頃には眠くなってしまい、昼間でも本を読んででいても眠くなって2時間ばかり昼寝をせざるをえない。
 
抗がん剤の影響で全身倦怠感があった時期と全く同じように身体が思うように動かない。朝は8時頃まで寝ていて、早く起きる気力がなくラジオ体操も行かなくなってしまったし、買い物に行くのもおっくうになってあり合わせのもので間に合わせてしまうこともある。
 
 病院だけは頑張っていくが、普段の日常生活は、移植後の退院時とあまり変わらない。病院の時はデカドロンを投与されていた関係で体調的には全く変わりなかったが、ベルケード単独だとこれほど体力を消耗させるものかと改めて思う。抗がん剤だからそれは止むをえないのだろう。ベルケードの影響が薄れれば元に戻るとは思うが、2週間は辛抱しなければならない。
 
デカドロンを頼むことも出来るがステロイドの大量投与はそれは、それとして副作用の問題が残る。元気で日常を過ごすのか、ステロイドの副作用の危険を犯すのかの選択だ。ステロイドの副作用のために今でも高脂血症の薬ベザトールや、骨粗しょう症の薬ボナロンを服用している。また糖尿病の恐れや、免疫抑制の作用も持つ。

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少年による親への殺人

1月17日(木)
1月15日の朝日新聞の朝刊に「徳島で37歳の長女が母親と弟妹を刺し、自殺を図った」という内容の記事が載っていた。動機や詳細は不明だが親殺しの記事は後を絶たない。1月11日の朝日新聞に次のような記事があった。「青森県八戸市で9日夜火事が起きたアパートの一室から親子3人の遺体が見つかった事件で、長男(18)が3人の殺害を認めた上で「油を使って火をつけた」と供述していることが分かった。

・・・司法解剖の結果、死因は全て首を切られたことによる出血死だった。母親には腹部にも深い傷があった。」とりわけこのような少年の親殺しは大きくニュースに取り上げられ、連日のように新聞に記事が掲載されている。

少し前になるが新聞やテレビのワイドショウを賑わしたのは会津若松頭部切断事件(2007.5.16)で「2007年5月15日朝、会津若松市内の高校3年生17歳の男子生徒が、母親を殺害したと警察に自首してきた。彼は、切断した母親の頭部をバックに入れて持参してきた。

少年は、県内でも有数の進学校の生徒。中学時代は、スポーツでも活躍していた。現在は、弟とともに通学のため実家を離れ、アパート暮らしをしていた。母親は、掃除洗濯などのために、しばしば息子の部屋を訪問していた。」といった事件であった。そのほか奈良家族3人放火殺人事件(2006.6.26)、母親毒殺未遂事件(2005.11.7)、板橋両親殺害事件(2005.6.22~7.13)などが話題に上った。

犯罪心理学からの捕らえ方
 こういった少年犯罪の心理について新潟青陵大学ホームページの犯罪心理学『心の闇と光』の中で、色々な視点で分析している。それを紹介したい。

 関係が薄いだけでは殺人は起きないでしょう。愛を実感できないのと同時に、少年は心の底では、強烈に愛を求めていたでしょう。ある意味濃すぎる親子関係の中で、少年は父親に馬鹿にされ軽蔑されることが許せず、しかし、親から離れて自立していくこともできず、殺害を選んでしまったのかもしれません。

ただ、子どもによる親殺しの場合、父親だけが中心的な殺人のターゲットだとしても、他の家族も皆殺しにすることは良くあることです。自分に優しくしてくれる母や、祖母にしても、父親側の仲間であると考えてしまうと、両親、祖父母皆殺しを実行してしまいます。

母親を殺害するとき、包丁で何十箇所も刺しています。両親殺しの場合、母親への加害のしかたが激しいことがある。母親との親子関係のほうが深いから。それだけのことをしないと、母親殺しが達成できないからだろう。

もし彼が、もっと乱暴で「悪い子」であれば、この事件は起きなかったかもしれません。親への文句を直接言えるようなことあれば、犯行はなかったかもしれません。感情を抑えすぎ、ため込んでしまうことが、様々な心の問題を生みます。

 親殺しはむしろ中流以上の家庭で起きます。犯人はしばしば「良い子」達です。良い家庭、立派な家庭で、親がよかれと思って努力している教育やしつけが、子どもから見れば束縛となってしまったとき、幼い頃は従順に従っていても、思春期になれば子どもの心は爆発します。

普通は、親とケンカしたり、グレたりして、親に反発をしますが、そのようなことができる柔軟性を持っていないことがあります。また、その程度のことでは親から自由になれないと思ってしまうことがあります。親に飲み込まれるような不安を、少年達は感じます。もう最後の手段として親を殺すしか自由になれないと思ってしまうことがあるのです。

自立しようともがいている少年は、自立する勇気も力もなく、また素直に甘えることもできず、親から干渉されたり、邪魔されると、飲み込まれるような強い不安を感じ、時には暴力的な行為に走る。親殺しは、単に親を殺すと言う意味だけではなく、自分が親から解放されたいという思いの現われです。心理的に自分にまとわりつく母親を、何回も何回も刺しながら、心の中の親殺しを達成し、親から逃げ出そうとしていたのかもしれません。

教育の問題
以前読んだ笹沢佐保の『崩壊の家庭』という本には、家庭内暴力をテーマに親と子の関係のあり方、親の子供に対する教育のあり方など、彼の教育問題に対する主張や男と女の関係のあり方についての見解がいたるところに展開され、単なる殺人事件の犯人探しに止まらない面白さがあった。少し引用してみる。

「親が子供に責任、義務、規律というものを教え込んだ上での自由放任ではなく、何も教えない、親らしいことをしていないそれは野放しでしかない。過保護とは親の一方的感情だけで子供を甘やかすことだ。親が子供を人間教育するから子供は人間になる。子供がどうしようもなくなるのは親が人間教育を怠ったから結果です。

1、2歳から8、9歳までの間子供には人間形成の基礎が出来てしまう。その時期における親の人間教育が何よりも重要になってくるのです。していいことと悪い事があるという規律を幼児に教え込むのが躾です。そのあたりまえのことを親がやらなくなってしまった。

一番肝心な幼児期に躾という人間教育を怠る親が多い。手抜きをすればいつかそのツケが回ってくる。野放しにしておいた子供に小学校高学年から中学になった頃に、親は急に厳しい注文をつけたり規律を要求する。子供は当然牙をむいて反抗する。それが非行や家庭内暴力の始まりとなる例が多い。

拘束されること、命令されること、我慢することを教えられていない狼には、ガタガタうるさく文句ばかりつけられるのに絶えられず暴力を振るようになるのだ。」

 家庭内暴力や非行という形で反抗する少年は自らのエネルギーをそこで爆発させることが出来る。しかし自らのを表現できず表面的には従順である少年こそが、親殺しという形での感情の爆発を引き起こしてしまうことがある。このような少年たちに、いのちを大切にせよと説教したり、重い刑罰を予告しても効果はない。

彼らの殺意を止めるのは、「社会的絆(ソーシャルボンド)」だ。社会的絆とは、愛し愛される家族や友人がいることや、失いたくない夢や希望があること、つまり犯罪によって失うには惜しいと考えられるものの存在があるということだ。

人は自分のいのち、自分の存在を人間関係の中で活かしたいと願い、自己実現を目指す存在だ。人は自分らしく生きたいと願い、社会に貢献できる自分の役割を求めている、それを如何にして引き出していくか非常に難しい課題だ。

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子供への虐待・殺人

1月16日(水)
 「朝ズバッ!」で家庭内の殺人について放送していた。昨年殺人と殺人未遂の件数が1155件ありその中で家庭内のものが542件と46%ある。親が子を虐待し殺し、子が親を殺すこれが常態化されていってしまっている。

今年になってからでも既に親の子供に対する殺人を含めた虐待は15件に上っている。これは警察に逮捕された事件件数だが、実際には数え切れないほどの事件が起こっているのだろう。

抵抗できない幼児への虐待は何を意味するのだろうか。確かに子供に対するしつけが行き過ぎたということはあるかもしれない、しかし殺人にまで至ると言うことはそれをはるかに越えた親子の関係をみせつけるのだ。そこには愛情のかけらもなく物としてしか子供を見ることが出来ない親がいるということなのだ。

バイクのヘルメット入れに子供を入れパチンコをしていて子供を窒息死させた親がいた。これはまさに子供は生きた実態あるものではなく一個の物体でしかないと言うことだ。

1月14日の朝日新聞に「父親が突き飛ばし1歳の長男重体」という記事があった。「なつかないので腹が立ち、突き飛ばしてしまった」と容疑を認めている。長男の胸を手で突き飛ばし、頭を柱に打ち付けた。「先月ごろから突き倒したりつねったりした」と供述している。

「泣き止まないから」と言って折檻している例は限りないほどある。これらは救急車を呼ぶような事態にならない限り、家庭内の問題として表ざたになることはない。どれだけの幼児や児童が親に虐待され辛い目にあっているのかわからない。

31TV5.jpg 幼児虐待の記事やニュースに触れると、『カラマーゾフの兄弟』のイワンのアリョーシャへの話を思い出す。「大審問官」の導入部的会話の中に出てくる「何故世界を許容しないのか」についてのイワンの話である。

 「五つになる女の子を教養ある両親がありとあらゆる拷問(ごうもん)にかけるのだ。自分でも何のためやらわからないで、ただむしょうに打つ、たたく、蹴(け)る、しまいには、いたいけな子供の体が一面、紫色になってしまった。

しかるに、やがてそれにもいや気がさしてきて、もっとひどい技巧を弄(ろう)するようになった。というのは、実に寒々とした厳寒の季節に、その子を一晩じゅう便所の中へ閉じこめるのだ。それもただ、その子が夜なかに用便を教えなかったというだけの理由にすぎないのだ。そうして、もらしたきたない物をその子の顔に塗りつけたり、むりやりに食べさせたりするのだ。

しかも、これが現在の生みの母親のしわざなんだからね!まだ自分がどんな目に会わされているかも理解することができない、小っちゃな子供が、暗い寒い便所の中でいたいけな拳(こぶし)を固めながら、痙攣(けいれん)に引きむしられたような胸をたたいたり、邪気のないすなおな涙を流しながら、『神ちゃま』に助けを祈ったりするんだよ――」

 「いったい何の必要があってこんな不合理が創られたものか、説明できるかい!この不合理がなくては人間は地上に生きて行かれない、なぜなら、善悪を認識することができないから――などと、人はよく言うけれど、そんな代価を払ってまで、ろくでもない善悪を認識する必要がどこにあるんだ? 認識の世界全体をあげても、この子供が『神ちゃま』に流した涙だけの価もないではないか。」

「より高き調和などは平に御辞退申し上げるよ。そんな調和は、あの臭い牢屋の中で小さな拳を固めて、われとわが胸をたたきながら、あがなわれることのない涙を流して、『神ちゃま』と祈った哀れな女の子の一滴の涙にすら値しないからだ!なぜ値しないかといえば、それはこの涙があがなわれることなしに打ちすてられているからだ。」

「世界の人間が、いたいけな受難者のなんのいわれもない血潮の上に打ち建てられたような幸福に甘んじて、永久に幸福を享受するだろうなんかというような考えを、おまえは平気で認めることができるかい」

 「もしも子供の苦悩が真理のあがないに必要なだけの苦悶の定量を満たすために必要だというのなら、僕は前もってきっぱり断言しておく――いっさいの真理もそれだけの代償に値しないと。」

「僕は神を承認しないわけではない、ただ『調和』の入場券をつつしんでお返しするだけのことだよ。」(第五編 Pro et contra・四 謀叛 中山省三郎訳・角川文庫)
 
 イワンはこう言って無垢な子供たちが悲惨な目に会い続けている現実の中で神への信仰を拒絶するのだ。子供への虐待や殺人未遂、殺人、これはまさに無抵抗で、何の罪も負っていない無垢な魂を大人の一方的都合で葬り去ってしまうという最も残酷で非人間的行為だろう。こういったことが面々と続いている現実の中で「神は死んだ」と叫びたくなるのは当然かもしれない。

イワンは声を強めて言う。「大人は禁断の木の実を食ったんだから、どうとも勝手にするがいい。みんな悪魔の餌食にただなってしまったってかまいはしない、僕がいうのは子供だけのことだ、子供だけのことだ。」子供への虐待、殺人がどういった意味を持つのか『カラマーゾフの兄弟』の中からも改めて考えなければならない。

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原子力発電所と放射性廃棄物

1月13日(日)
パソコンの有効性
10月に入院した時に、パソコンを病室に持っていった。病院内ではせいぜいワードで文章を書いたり、エクセルで表を作成したり、DVDを見たりする以外には使えないと思っていた。実際一昨年移殖病棟の隔離室にいたとき、ワイアレス・ネットワークは全く機能しなかった。

しかし昨年の10月24日からの入院のときは10階の窓際だということもあって、無線中継基地が幾つかあり、そことつながって無線ランが出来た。確かに1日のうち何時間かは無線が弱くインターネットに接続できなかったが、おおむねネットやメールに利用できた。

病院に「医療相談室・医療図書室」があり、そこにはパソコンが置いてあり、同時に、パソコンの端末があって自分のパソコンを持ち込んで利用できる仕組みになっていた。その端末を利用しなければインターネットやメールは無理だと思っていが、持ってきたパソコンの無線ランでそれが可能だということが分かった。だからブログも毎日更新できた。

入院生活・病状・治療経過をブログやメールで逐一報告することが出来た。インターネットも使えるのでニュースも読めるし、調べごとをすることも出来る。本も電子書籍を取り寄せてほとんどの本も買って読めるし、映画も有料だがYahooDVDで配信してもらうことが出来る。パソコン一つでどんな情報も手に入れられるという便利さを有効に利用させてもらった。

原子力発電所について
まさにパソコンの普及が科学万能主義に拍車をかけたのだろうか。しかしこの文明の発展が同時に、地球温暖化のように文明を滅ぼす道を掃き清めているのも事実である。特にパソコンとの関係で言えば電気の問題がある。日本で暮す多くの人は冷暖房や掃除機、洗濯機、冷蔵庫、テレビ等ありとあらゆる電化製品の恩恵を受け快適な生活を満喫している。このことは原子力発電所を否定することと矛盾するのだろうか。一言で言えば矛盾しない。

原子力発電所から電力を得るための経費は発電所を作るだけではない。とりわけ廃棄物の処理には考えられない膨大な経費をかけてきたし、これからもかけざるをえない。それを考えると危険度を抜きにして経費面からだけでも代替えエネルギー、太陽光発電、風力発電等の開発に力を入れるべきだろう。

103基原子力発電所があるアメリカで放射性廃棄物の処理に必要な費用を試算した所46兆8000億円かかるという数値がはじき出された。

jiko_002.jpg原子力発電所の危険
原子力発電所による電力供給が火力発電についで総電力量の30%を占めている。この原子力発電こそが人類の生死を分けるほどの危険な代物なのである。日本の原発は平均して100万キロワット級のものであり、1日に広島の原爆の3発分のエネルギーが熱として放出される。

最近では新潟中越沖地震で柏崎刈羽原子力発電所の安全性が問題になったが、毎年何回となく原発事故が報告され、また内部告発によって、事故の隠蔽工作も明らかにされている。これらの事故は、下手をするとチェルノブイリの原発事故に匹敵するような大事故になる可能性を持っている。

1986年4月に起こったチェルノブイリの事故(写真参照・爆発後の発電所)で91年までに7000人が死亡し、400万人が被害者として報告されている。圧倒的に人口密度の多い日本で原発事故が起きたらどうなるか想像に難くない。

放射性廃棄物
原子力発電所の一般的寿命は30年と言われている。こういった中で材料が老朽化し、痛み、破損し、出力暴走による事故発生の可能性がますます高まってきている。同時に「トイレのないマンション」といわれるように放射性廃棄物の処理能力のない段階で毎日のように放射性廃棄物を算出している現状がある。

日本には原子力発電所が54基、計画中が13基(2005年集計)あり、この発電所が毎日放射性廃棄物を出しておりその処理の展望は立っていない。

平成18年12月末までの原子力発電の運転により生じた使用済燃料から換算されるガラス固化体の本数は、約20,400本となる。六ヶ所村の高レベル放射性廃棄物貯蔵管理センターの貯蔵容量は、現在1440本分でしかない。1440本分増設することになっているが焼石に水である。

放射性廃棄物についての解説がある。それを引用してみる。

消せない放射能
使用済み燃料棒はいわば燃えかすですが、そのゴミの始末のために、中間貯蔵施設、高レベル放射性廃棄物貯蔵管理センター、地層処分場などの施設が必要で、さらにそこでは、常に放射能汚染、被ばくの危険がつきまといます。

使用前の燃料の放射能はウランによるものだけですが、使用済みの燃料には、核分裂生成物と超ウラン元素の放射能が加わります。原子炉から取り出した直後の燃料棒の放射能は、使用前の一億倍にもなります。時間とともに、放射能は低下していきますが、再処理される時点でも、(使用前の)十万倍以上とされています。ガラス固化体にしても核分裂生成物・超ウラン元素の壊変は続きます。安定な原子核になるまで、壊変は続きます。壊変を人は止めることはできません。

ガラス固化体は、人類史上、自然界にあった放射性物質と比べると、桁違いに高密度の放射性物質の塊です。この放射能の害から人体を守るには、人間から隔離するしかありません。ガラス固化体の放射能が使用前の燃料棒と同程度になるには、少なくとも100万年はかかると考えられています。

このままガラス固化体を高レベル放射性廃棄物貯蔵管理センターに置いておくと、いつかキャニスター(外側の金属部分)が腐食して、放射性物質が出てきてしまうと考えられます。キャニスターが破損する前に、ガラス固化体を作り直す(包み直す)か、破損しても人間の生活圏に影響を与えないと考えられるくらい離れた所(例えば、地下深く)に捨てるしかないと考えられています。(「原子力教育を考える会」ホームページより)

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ジャンル : 日記

院内患者交流会

1月11日(金)
院内患者交流会
14時から、ももの木(NPO血液患者コミュニティ)呼びかけの院内患者交流会が行われた。ベルケードの注射の後、体温や血圧を測り異常がないということで外来治療室から出られた。ぎりぎり14時に間に合った。会場のカンファレンス・ルームを医者のグループが少し使用したいというということがあったので30分ばかり遅れて始まった。

出席者について、外からは3人しか来られなかったが、患者さんが誘い合って4人来てくれた。途中心理療法士の人が顔を見せた。その4人の中の一人が「ももの木」のことを知っていて、掲示板に書き込みをしたこともある人で、彼女の紹介で同じ病室の3人を誘ってきてくれた。おしゃべり会に始めてきてくれた人から全くこの会の存在を全く知らなかったと言われた。このことについての討論がはじめに行われた。

確かに院内患者交流会(おしゃべり会)のポスターは、内科外来2ケ所の掲示板と、血液内科病棟、化学療法科病棟、移殖病棟の入り口の掲示板に貼られているが、外で「ももの木」の交流会に参加したことがある人や「ももの木」のことを知っている人ならそのポスターを見てどういう団体でどういうことをやるのかを理解できる。

そういう人なら交流会を何時やるのかと、ちょくちょく掲示板を気にして見る様にすると思うが、それ以外の患者にとってはおしゃべり会を主催する「ももの木」がどういった団体で何の目的で何をやるのかわからず、また気に留めてポスターを見る人もいない。

つまりほとんどの患者にとって「おしゃべり会」をやることを知らないし、知ったとしても何をやるのかわからないから興味を持つこともない、従って参加しようとは思わない。といったことで事前に情報を持たない限り出席することは難しいのではないか、といった意見が出された。

コンサートなどの院内イベントに関しては放送がありそれを聞いて参加する人がほとんどだそうだ。ポスターは貼ってあってもそれを見て参加する人はあまりいないということだ。ポスターは気に留めていない限り見ることはない。

どのような効果的な人集めの方法があるのか、患者の多くは自分の病気の現状や、これからのことへの不安を抱えている。実際に経験した人の話しを聞けば不安の多くは取り越し苦労であったりすることを理解して不安解消に役に立つだろう。患者交流会はそういった意味で役に立つはずなのだがその存在をどうやって患者間に浸透させるかが問題だ。

そのほか移殖について、退院後の社会復帰の方法などについて討論があり、アドバイスがなされた。病院の医療相談室の利用などについても話された。退院後1,2年たってもなかなか体力は元にも戻らない、昔と同じようには働けない。リハビリ勤務から初めて徐々に出勤日数を増やしていけばいいのだがそういったことを受け入れてくれる所は全くといっていいほどないだろう。

最初はボランティアから、パート、正規といったような流れで身体を慣らしていくほかない。ともかく身体と相談しながら徐々にあせらず社会との接点を増やし、勤務体制を整えていく以外ない。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

ベルケード第3サイクルの開始

1月11日(金)
ベルケード療法第3サイクル開始
今日からベルケード療法第3サイクルが開始される。ベルケード静注の予約が11時だった。その前に血液検査とレントゲン検査があるので10時には病院に着いた。

採血は15分待ち位 で終わり、レントゲンをとり、後はひたすら待つ。採血結果として白血球が2.8、ヘモグロビンが10、血小板が9.6であり一応順調に数値は上昇している。

IgMが496と前回12月28日の検査で405であったのがまた増加している。医者に言わせるとこういった上下はあるし低レベルでの幅で維持されていけば問題ないということであった。IgGが370(正常値・870~1700)、IgAは20(正常値・110~410)と少ない。免疫グロブリンの値が全体的に低下している。

白血球が2.8と正常値から1.0も落ちていて、免疫グロブリンも低下しているということで免疫機能がかなり衰えているので感染には十分注意しなければならない。

中性脂肪値は12月28日には283あり、今日の結果では293へと若干上昇していたがそもそも300近いということはかなり問題だ。高脂血症の薬ベザトールを毎日飲んでいるが段々と効果がなくなってきているのだろうか。

薬が届くのを待ったり、外来治療室の空きを待ったり、医者の来るのを待ったりという具合で、結局ベルケード注射とその前後にやる生理食塩水の注射が行われたのが1時30分となってしまった。注射は1分もかからない。そのために4時間待たなければならないというのが今の病院の現状なのだ。

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『葉っぱのフレディ』-いのちの旅-

1月10日(木)
【ストーリー】
 春の訪れとともに大きな木の梢に近い、太い枝の葉っぱとして生まれたフレディ。物知りの親友ダニエルから、目の前にある木や公園や小鳥のこと、めぐる季節と空の上の月や太陽や星について教わるうちに、生きていることの素晴らしさを感じるようになる。また、葉っぱである自分にはたくさんの仲間がいるし、夏には大勢の人に涼しい木陰を作ってあげられること知って、とても嬉しくなった。

 そして秋の紅葉の季節には、ダニエルは美しく深い紫色に、フレディは赤と青と金色の見事な三色に輝いた。しかし、冬が近づき冷たい風が吹くようになると、フレディと仲間たちは木の枝からはなれ、ひとり残らず引っ越すことになる…。 (DVDの紹介文より)

編集者、作者からのメッセージ
 わたしたちはどこから来て、どこへ行くのだろう。生きるとはどういうことだろう。死とは何だろう。人は生きているかぎりこうした問いを問いつづけます。(編集者からのメッセージ)

 この絵本を死別の悲しみに直面した子供たちと、死について適確な説明が出来ない大人たち、死と無縁のように青春を謳歌している若者たちへ送ります。(作者からのメッセージ)

『葉っぱのフレディ』から
「世界は変化しつづけているんだ。変化しないものは ひとつもないんだよ。春が来て夏になり秋になる。葉っぱは緑から紅葉して散る。変化するって自然なことなんだ。きみは春が夏になるときこわかったかい? 緑から紅葉するとキこわくなかったろう? ぼくたちも変化しつづけているんだ。死ぬというのも 変わることの一つなのだよ。」

「”いのち”は土や根や木の中の目には見えないところで新しい葉っぱを生み出そうと準備をしています。大自然の設計図は 寸分の狂いもなく”いのち”を変化させつづけているのです。」(みらい なな訳・童話屋刊)


『葉っぱのフレディ』について
1、現代社会における命
 現代社会はまさに、争いや疑惑や不信に満ちた暗闇の中に漂っている。そのことは今の国際社会に起こっている人の間にある落差と悲劇として存在している。

日々の食事も与えられず、求めても誰からも与えられず、そして誰からも看取られずに死んでいく多くの貧窮のどん底にいるも人々、毎日2万3千人が餓死し、8億人が飢えているこの世界、戦争による「人と人との争いによる死」が繰り返され、それ以上に「犠牲となり失われていく一般市民の膨大ないのちの死」が大国の利害とエゴイズムにより強制されている。

 我が子に虐待を繰り返し、無抵抗な子どもを死に追いやる親や、親を殺す子供たち、いじめなどによる自殺や、小さな子供が被害を受けてしまう事件、利己的で身勝手な行動としての殺人、年間3万位を超える自殺者、次々と死者が生み出されていく。

いのちには限界があることを知りながら自然に死を迎え入れて静かに旅立っていく命と、様々な要因で不本意に奪われていく命がある。現代社会がこういった状態だからこそむしろ命の重大さについて考えてみなければならない。

2、一つの変化としての死
 「生まれること」「変化すること」が「永遠の命」。この本では死をひとつの変化としてとらえている。すべてのものが刻々と変化しているのであれば、今この時をもっと大切に生きなければならない。「変化するって自然な事なんだ…死ぬというのも 変わることの1つなのだよ」と語りかけている。

 余命を宣告されたがん患者にとって、死とは何か、生とは何か、どのようにしたら生を全うできるのか、どのように死を受け入れるのか、限られた命をどのように燃焼させていくのか、生きるということは時間の長さでは測れない、全ての人にとって生とは死への限られた時間でしかない。

その限られた時間の中で、自らが生まれてきた意味を問い続けながら死を迎えるのだ。回答の出ない問いを発し、日々答えを模索し続けながら。そして死の間際にカントが言った言葉「Es ist Gud=これでよい」と言えさえすればいいのだ。

 話しは少しそれるがカントは一生独身で、毎日同じ時間に家を出て大学で授業を行い、同じ時間に帰ってくる。カントが通る時間にあわせて町の人は時計を合わせたというくらい正確だったらしい。一見面白みのない生活のように思えるが彼の頭脳の中は輝くばかりの思想に満ち溢れていたのだ。生きる意味は千差万別だ。状況に流されない確固たるものを自らの中に打ち立てられれば生きる意味はおのずとあふれ出てくるだろう。
 
3、生と死の相関性
 現実としての死、それはどんな人にもいつか平等に訪れる、とても辛い現実だろう。人や生き物たちがこの世に生をうけ、その生をまっとうした後に訪れる死について少しでも理解した時、自分の命はもちろん、自分の愛する人や隣人、身近な動物や植物たちの命がとてもかけがえのない尊いものとして見えてくるだろう。

 死は生きているもの全てに訪れる自然であたりまえのことである。それぞれのなすべきことを終えて迎える死は、穏やかであり、恐れることではないという。「死」について思いを馳せる時、あたりまえのようにそこにあった自分の生が再び鮮やかによみがえってきて、それがとても尊いものであることに気づかせてくれる。がん患者にとってはこのことの認識は生きる希望をあたえてくれるものだろう。

4、かけがいのない命
 春に生まれたフレディは、数えきれないほどの葉っぱにとりまかれていた。はじめは、葉っぱはどれも自分と同じ形をしていると思っていたが、やがてひとつとして同じ葉っぱはないことに気がつく。秋が来ると、緑色の葉っぱたちは一気に紅葉し、みなそれぞれ違う色に色づいていく。

 全ての生き物は同じものがない、固有の存在意義と存在価値がある。自然は循環し、その循環の輪の中で、それぞれ重大な役割を果たしているのだ。害虫といわれる虫も外の無視を津辺そういったことによって自然はバランスを保ちうまく回っていくものである。

人間はその自然の営みに従って生きることによって自然から多くの恵みを受けてきたのである。しかし人間が科学という力を過信し無理やり自然の連関、生態系を捻じ曲げようとしてきたことによって、現在問題となっている温暖化の現象もまた起きてきているのだ。

 紅葉に染まった街路を歩くとき、紅や、黄色が緑の葉の中に鮮やかに入り込み、色を変化させていくという、当たり前に訪れる変わらない日常の中にも、大切なことがきらめいていて、たくさんあっても同じものは一つもないということ、変わっていくことをおそれず、前に進んでいかなければならないという励ましの言葉を与えてくれる。
 
5、生きることの意味
 葉っぱも死ぬ、木も死ぬ。そうなると春に生まれて冬に死んでしまうフレディの一生にはどういう意味があるのか「ぼくは生まれてきてよかったのだろうか。」と問う。葉は、葉としての役割と意義を持っている、一枚の葉っぱの命は地面に落ちてしまった時点で終わってしまうが、葉っぱは土に溶け込んで肥料となり、また新しい葉を生み出していく。そういった存在意義をもっているのだ。

 人々は生きていく過程で、様々な経験を積み重ねてきたそのことによって、各人固有の存在価値を生み出している。だからこそ、どのような命も重大な意味がある。かけがいのない命なのだ。

fredy1.jpgミュージカル『葉っぱのフレディ・いのちの旅』より
 ある日ぼくがこの世からいなくなっても
 きっといのちは残るだろう 誰かの中に
 それは思い出 それは愛 ぼくの分まで 生きる力
 雨が川に 川が海に 海から雲が 雲が雨に
 生まれ変わり めぐりつづける 終わりのない いのちの旅
 
 ぼくのいのちも残るかな 誰かの中に
 パパやママや 友だちに 生き続けるさ
 それは思い出 それは愛 ぼくの分まで 生きる力
 春が夏に 夏が秋に 秋が冬を越え
 生まれ変わり めぐりつづける 終わりのない いのちの旅

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

都立庭園-5 小石川後楽園

1月9日(水)
小石川後楽園
outline03002.gif 病院の外来の帰り小石川後楽園に行く。水戸偕楽園や水戸黄門とゆかりが深いらしい。2月になれば梅祭が行われ満開の梅が楽しめるのだろう。梅は一本だけ紅梅が咲いていただけだった。

 梅林は広く、梅棚もあちこちにしつらえてあり偕楽園の向こうを張ったかどうかかなりの面積がある。咲いている梅が一本というのは淋しい限りだがもう咲いているということは、それだけ今年の冬は暖かかったのだろうか、それとも早咲きの種類なのだろうか。

 中央に池が有り、蓬莱島が突き出ており、典型的な庭作りの構造だ。菖蒲田が有り5月にはここが見所になるだろう。色々見るところがあってぐるりとコースを通って一周すると小一時間かかった。多くの建造物が焼失し土台だけしかなく残念だった。

 石造りの円月橋はよく出来ていた。20、30年前一度行った事がある気がするが全く覚えていない。今日は1月とは思えない暖かい日でコートを着て歩いていると汗ばむほどだ。時代劇の衣装を着けたクイズ番組の撮影をやっていた。
 
 入り口に水戸黄門の羽織と、杖と印籠が置かれていてそれを身に付け記念撮影に使ってくれということだ。しだれ桜の大木が池をバックに聳えていた。桜が咲いたらさぞ見ものだろう。後楽園は、梅、桜、菖蒲、紅葉と四季折々楽しめるようだ。

歴史:江戸時代初期、寛永6年(1629年)に水戸徳川家の祖である頼房が、江戸の中屋敷(後に上屋敷となる。)の庭として造ったもので、二代藩主の光圀の代に完成した庭園です。光圀は作庭に際し、明の儒学者である朱舜水の意見をとり入れ、中国の教え「(士はまさに)天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から「後楽園」と名づけられました。

 庭園は池を中心にした「回遊式泉水庭園」になっており、随所に中国の名所の名前をつけた景観を配し、中国趣味豊かなものになっています。また、本庭園の特徴として各地の景勝を模した湖・山・川・田園などの景観が巧みに表現されています。(「公園に行こう」より)

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

定期検診の日

1月9日(水)
定期外来の日だ。今日は正月明け最初の血液内科関連の外来診察日だということもあってかなり混んでいた。病院には9時に着いたが、採血で1時間以上待たされ、10時30分予約の診察が1時近くになってしまった。そして診断が10分位で終わった。採血結果で血小板が9.1まで上がっているのでベルケード療法第3サイクルを開始することになった。11日、15日、18日、22日にベルケードを点滴静注する。

会計、薬の処方など結局病院を出たのが1時30分だった。4時間半もかかってしまった。医者が不足しているのだろうか。町医者で間に合う病気でも大病院にかかりたがる人が多いのだろうか。何処の病院でもこのような混雑はあたりまえとなっている。一方、街の古くからの病院はつぶれたり、経営がかなり厳しい状況になっている。

椎名町の駅前の橋本病院が、ある日張り紙を出して、管財人の管理になったと表示してあった。患者はいつの間にか外の病院に移動したのだろう。また5,6階建てのかなり大きな病院で、救急病院でもあった敬愛病院がある日突然取り壊され、その跡地の建物は「共同住宅」と建築確認表に記載されていた。つまり病院を改築したのではなくやはりつぶれたのだろう。

病院経営は難しい、評判のいい病院には人が集まり一般的病院はすたれていく。情報化社会の中で名医のいる病院や、評判のいい病院ランキングなどの情報に振り回されてどどっとそちらの方に人が流れていくのだろう。医者が不足している中で、町に根付いた病院が活性化していく方策はないのだろうか。

「2007年1月から12月までに発生した病院・診療所・歯科診療所など医療機関の倒産が計48件に達することが1月17日、帝国データバンクの集計で分かった。前年の30件と比較すると、1.5倍以上増えたことになる。」(1月17日 医療介護情報CBニュース)

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

『モモ』 ミヒャエル・エンデ作

1月8日(火)
『モモ』を読んで

1106870.gifあらすじ
 町はずれの円形劇場跡の迷い込んだ不思議な少女モモ。町の人たちはモモに話を聞いてもらうと、幸福な気もちになるのでした。そこへ、「時間どろぼう」の男たちの魔の手が 忍び寄ります…。時間どろぼうと、ぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子モモのふしぎな物語。人間本来の生き方を忘れてしまっている現代の人々に〈時間〉の真の意味を問う。(本の紹介分より)

『モモ』から
「仕事が楽しいとか、仕事への愛情を持って働いているかなどという事は、問題ではなくなりました-むしろそんな考え方は仕事の妨げになります。大事なことはただひとつ、出来るだけ短期間に、出来るだけたくさんの仕事をすることです。

 大都会の北部には広大な新住宅街が出来上がりました。どの家も全部同じに作ってしまうほうが、ずっと安上がりですし、時間も節約できます。そこにはまるっきり見分けのつかない同じ形の高層住宅が見渡す限りえんえんとつらなっています。時間をけちけちすることで、・・・自分たちの生活が日ごと貧しくなり、日ごと画一的になり、日ごと冷たくなっていくことを、誰一人として認めようとはしませんでした。

 でもそれをはっきりと感じ始めていたのは、子供たちでしたというのは子供と遊んでくれる時間のある大人が、もうひとりもいなくなってしまったからです。

 けれど時間とはすなわち生活なのです。そして生活とは人間の心の中にあるのです。人間が時間を節約しようとすればするほど、生活はやせ細ってなくなってしまうのです。」(『モモ』p94~95より 大島かおり訳)


時間とは生活
 時間に関していえば、金持だろうと貧乏だろうと1日24時間という条件は平等であり、その24時間をどのように過ごすかを決定することは、すなわち自分の生活(生き方、人生観)を決定することなのである。

 しかし現在の多くの人の生活は「余分なものの一切ついていない」ものになってしまっている。一般受けするような同一住居だけを作って、それを売りさばいてゆくのが「効率的な」方法ではあるが、それでは各自の望む居住生活は達成できない。時間の節約にむきになるあまり、自分の生活を節約してしまった結果として、どんどん貧弱なものとなっていってしまう。時間の奴隷としてこき使われていることに気がつかないまま日々過ごしている。

子供たちにとって
 子どもたちの中でも異変が起きる。「自分で空想を働かせる余地がまったくない」子どもたちが増えてくる。彼らの持っているおもちゃは、確かに高価なものではあるが、「遠隔操作ではしらせることのできる戦車-でも、それ以上のことにはまるで役に立ちません」「細長い棒の先でぐるぐる円をかいて飛ぶ宇宙ロケット-これも、そのほかのことには使えません」「目から火花をちらして歩いたり頭をまわしたりする小さなロボット-これも、それだけのことです」であり、どれにしても創意、工夫の入り込む余地がない。
 
 彼らはやがて自分が実際にしていることは踊らされること、すなわちおもちゃに遊ばれていることを発見し、退屈してしまうのだ。前より収入は増えたものの時間がない親は、子どもたちのためと思っておもちゃを買い与えているのだが、これこそが逆に子どもたちから自由な想像力を奪い、ただの社会のあやつり人形にさせられてゆく過程なのだ。
 
 子供にとっては贅沢をさせるのではなく、本当に命のある食べ物、暖かい愛情、心の自由さ、一生宝となるような美しい自然、絵、音楽、話などに触れる機会などが何よりも必要なのだ。子供の頃にこういった人間の基礎となるもとのものを、可能なかぎり与えなければならない。子供の頃の嬉しかった思い出はそれ自体、お金で買えるものではなく、将来困難なことに出会ったとき生きる励みになるものだ。

生活の便利さと時間の価値
 現在の科学技術のおかげで、家庭は電化され、移動や通信に時間が短縮し、調べ物をするにも図書館ではなくインターネットでたやすく間に合わせることが出来る。それが当たり前になってしまうとそれで節約したはずの時間の意味を忘れて、本当に自分のためになる時間の使い方がどういったものか忘れてしまう。

 そして自分の生活を本当に豊かにするには何をすればいいか考えることも出来なくなってしまい、マスメディアに踊らされ時間の中を右往左往するだけになってしまう。結局そういった人間の態度が、自分のために使えるはずの時間を他人に使われてしまっているのではないだろうか。

 時間とお金に呪縛され、美味しい食事をゆっくりと味わったり、人との会話を楽しんだり、自分の体と心が満足することに時間を割けなくなってきている。人間や食べ物、自然、己の人生についてゆっくりと考える余裕がなくなってしまう。

 自分で考えるという面倒なプロセスを踏むことを放棄し、現在社会のシステムの中で働き、家を買い、買い物をし、食事をし、余暇をすごすことで、ほとんど奴隷かもしくは牧場の中の動物のようになっているのではないか。なにが幸せかということを対象化せず、おしつけの幸せ像を植えつけられ、それにしたがって人生を選択していってしまう。

現在社会の情景
 現代人にとって「時間がない」が合言葉のようである。慌しい毎日。仕事の誇りをも捨て、不正が横行する社会。生気を失う人々があふれている。

 ある少年が言った「夜、電車の中で、生気のない目をして、疲れきった人たちを見た。ゾンビの集団のようで、怖くなった。初めてみた光景だった。朝、通勤電車の内。死傷者を伴う接触事故が起こり、電車が遅れると、周りの人たちは、イライラしながら腕時計に目をやっていた。自分はそんな大人になりたくない、と思った。」

 現代社会の生産第一主義、効率主義の労働過程は、正社員、下請け労働者ともに使い捨て労働としてとことん働かせ、過労死、過労自殺に追い込んでいる。時間の節約を強制され、時間に心を入れることができない大人達は作業効率に縛られながら追いまくられる日々をようやっとこなしている。

 その結果、イライラし、周りに目を向ける余裕もなくなり、そして生きる実感が持てなくなってしまう。自分の子供とさえも、関心を持つ時間、一緒に過ごし一緒に遊ぶ時間を奪われていってしまっている。

 気が付いたら時間がない。不思議だ、一日は同じ24時間のはずなのになんでこうも時がはやく過ぎ去っていくのだろう。多くの人がこう感じているのではないか。どうやって自分の時間を取り戻すのか。それは自分の置かれた状況を捉え返し再認識する所から始まるのだろう。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

諸行無常

1月7日(月)

 行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
 よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しく止まる事なし。(方丈記)
 
 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり
 紗羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。(平家物語)


『涅槃経』における諸行無常
 諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅爲樂
 
 この言葉は涅槃経にあり、これを諸行無常偈と呼ぶ。
 「諸行は無常であってこれは生滅の法であり、生滅の法は苦である。この生と滅とを滅しおわって、生なく滅なきを寂滅とす。寂滅は即ち涅槃、是れ楽なり。」「為楽」というのは、涅槃楽を受けるというのではない。有為の苦に対して寂滅を楽といっているだけである。

 生滅の法は苦であるとされているが、生滅するから苦なのではない。生滅する存在であるにもかかわらず、それを常住なものであると観るから苦が生じるのである。

 涅槃経では、この諸行無常の理念をベースとしつつ、涅槃の世界こそ「常楽我浄」であると説いている

『般若心教』における諸行無常
 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色
 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 


訳: 形あるものは実体がないことと同じことであり、実体がないからこそ一時的な形あるものとして存在するものである。したがって、形あるものはそのままで実体なきものであり、実体がないことがそのまま形あるものとなっているのだ。         

 残りの、心の四つの働きの場合も、まったく同じことなのである。この世の中のあらゆる存在や現象には、実体がない、という性質があるから、もともと、生じたということもなく、滅したということもなく、よごれたものでもなく、浄らかものでもなく、増えることもなく、減ることもないのである。

 『般若心経』が「空」である、「無い」と否定しているのは、「五蘊」、「十二処」、「十二縁起」、「四諦」など、「法(ダルマ)」と呼ばれるものです。瞑想によって「法」を見極め、我々が一般に存在していると思っているものは観念でしかなく、しかも、真に存在しているこの世の「法」は無常なもので、したがって執着することは苦であり、どこにも私はない。というものである。

『方丈記』の諸行無常
 『方丈記』の冒頭は諸行無常の考え方を明確に示しており同時に、作者が何故都を離れたのかの根拠になっている。当時次から次へと起こる天変地異、安元の大火、治承の辻風、養和の飢饉、元暦の大地震が続く中で福原遷都という状況にあって、鴨長明が都を離れ、日野山に方丈を構え閑居の思いを綴った方丈記は、都での官職や地位名誉など全て虚しく、天変地異や社会の移り変わりと同じように不変な物はなく移り行くものであると考え、この世の諸行無常を感じながら都を去ったことが書かれている。

諸行無常について
 全て無であり空であるといった考え方においては、物事への執着を断ち切り、無我の境に達することである。ついには老と死もなく、老と死がなくなることもないことになる。生への執着も死への執着もない、全て空であり無である。

 こういった発想法はいわば虚無主義的な色彩を帯びる。しかし虚無主義においてはこの世界、特に過去および現在における人間の存在には意義、目的、理解できるような真理、本質的な価値などがないと主張することにおいて真理が存在しないということを真理とすることになり、全てのものが空であり無であるといった主張とは根底的に異なる。

 虚無主義には2通りある。一つは、すべてが無価値、偽り、仮象ということに対し、自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を一生懸命生きるという態度(強さのニヒリズム)、もう一つは、何も信じられない事態に絶望し、状況に身を任せ、流れるように生きるという態度(弱さのニヒリズム)がある。

 諸行無常という言葉をどう捕らえどう受け止めていくかは、各人の生き方における選択だろう。しかしむしろ諸行無常を前提として生きればそれはそれで生も死も彼岸のものとして葬り去り、ありのままの現実に向き合うことが出来るのだろう。

 生に固執するからこそ死を恐れるのだ。個我を捨て、執着を捨てればそこから見えてくる生というものもあるだろう。生の限られた時間をどのように安らかに過ごしていくかの答えはここら辺にあるのではないか。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

天童温泉・3日目-オルゴール博物館

1月5日(土)
 1月4日の天童温泉3日目からの続き。広重美術館から10分ぐらい歩き、「わくわくランド天童温泉」というリゾートセンターのような施設に隣接し、オルゴール館はある。東北パイオニアガ作ったというもので、音響効果はいい。

天童オルゴール博物館とは
04-01.gif オルゴール博物館に展示されている作品は、オルゴールの歴史を語る19世紀初頭から20世紀初頭にかけて製作されたシリンダー・オルゴールやディスクオルゴール。19世紀後半に親しまれたオートマタ(音楽付からくり人形)、ヨーロッパの街角で人気を呼んだストリートオルガン。

 20世紀初頭に大流行した、ピアニストのタッチをそのまま再現するスタインウェイ社製自動演奏ピアノ。世界の名機がそろった蓄音機。そして現代のオーディオ。単なる陳列ではなく、まさに音楽の記録と再生の歴史を解説とともに体験できる。

オルゴールの種類
シリンダーオルゴール
音楽信号としてのピンを円筒(シリンダー)に打ち込み、このピンが鋼鉄の歯を弾いて音楽を演奏します。1830年に製品化され、1880年代に最盛期を向かえました。

ディスク・オルゴール(右の写真)
1880年代に考案され1台の機械があればディスクを交換するだけで沢山の曲を聞くことが出来、機械での量産化が可能な画期的なオルゴールです。

オートマタ  (カラクリ人形)
時計技術と自動人形は古くから密接な関係にあり、18世紀には精巧なものが出来、20世紀初頭には主にフランスに沢山の工房ができました。

ストリート・オルガン
オルガンを演奏させる仕組みはオルゴールの歴史より古く、18世紀の初頭に音楽時計などに組み込まれていました。江戸時代の末期に日本にも渡来し、オランダ語でオルガンを意味するオルゲルが日本語のオルゴールの語源となりました。

自動ピアノ
穿孔した紙ロールを曲譜にし、空気の吸引力でピアノのハンマーを作動させる自動ピアノは1890年代から作られ、ホロビッツ、サン・サーンスなどの名ピアニストがロールに演奏を残しています。

蓄音機
1877年にエジソンによって発明され、人類が初めて手にした音楽や人の声を録音し再生する事の出来る画期的な装置です。1887年に円盤レコードが考案され、急速に発展しオルゴールの市場を脅かすようになりました。(入館パンフレットより)

解説と実演
 オルゴール博物館に入ると10分位で、オルゴールの解説と演奏が始まった。時代順から、シリンダー・オルゴール、ディスク・オルゴール、ストリートオルガンのそれぞれの解説と演奏が行われた。紹介されたオートマタは、フランスで20年前くらいに作られたという新しいもので、貴婦人の姿でオルゴールの曲を流しながら、手紙を書く。実際に紙に文字を書き、人形は書くときには目を伏せ、文字の移動につれ顔を動かす。胸が上下し呼吸している雰囲気が良く出ている。

 次に別の展示場で自動ピアノの演奏が行われた。演奏家がピアノを弾き紙ロールにその演奏を刻み、そのロールを使って演奏を再現する。演奏家にそのロールでの自動演奏を聞いてもらい、微調整しながら、演奏家が承認したら、その名前をロールに記載することが出来るというものだそうだ。

 ピアノはスタインウエイ・デュオアート・1920年アメリカ製のもので、昔の著名なピアニストの演奏でシュトラウスの曲が紹介された。さすがスタインウエイのピアノだけあって音色はいいし演奏も良かった。鍵盤も曲に合わせて動くので面白い。演奏が終わり、オルゴールの歴史を表現したジオラマ、数百種類ある様々な時代のオルゴール、初期の蓄音機の展示物を見て回った。
 
将棋店
 「武内王将堂」という将棋駒の製作過程を見学出来、将棋関連グッズの土産店もやっている店があったので入ってみる。天童が将棋の名産地になった初めは吉田大八が天童藩の家老に就くと、藩士の生活がとても貧しかったため、対応策として藩士の将棋駒製造を奨励したことからである。武士が手内職を営むことについては、他の執政の反対もあった。

 しかし吉田大八は将棋は兵法戦術にも通じるとの考えから、これを遊ぶこともまた駒を製作することも武士の面目を傷つけるものではないとして、その製造法を広く紹介した。

hidari.gif左馬の由来
 「馬」の字が逆さに書かれている「左馬」(ひだりうま)は、天童で生まれた天童独自の将棋駒で福を招く商売繁盛の守り駒とされている。その理由は色々ある。

 左馬は「馬」の字が逆さに書いてあります。「うま」を逆から読むと「まう」と読めます。「まう」という音は、昔からめでたい席で踊られる「舞い」を思い起こさせるため、「左馬」は福を招く縁起のよい駒とされています。

 「馬」の字の下の部分が財布のきんちゃくの形に似ています。きんちゃくは口がよく締まって入れたお金が逃げていかないため、古来から富のシンボルとされています。
 馬は人がひいていくものですが、その馬が逆になっているため、普通とは逆に馬が人をひいてくる(=招き入れる)ということから商売繁盛に繋がるとされています。
 馬は左側から乗るもので、右側から乗ると落ちてしまいます。そのようなことから、左馬を持つ人は競馬に強いといわれています。

 旅行の最後に天童駅に隣接する天童ターミナルビル「パルテ」の2階の天童市観光情報センターと物産センターにいってみやげ物を物色して、16時37分天童発の列車で東京に戻った。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

天童温泉・3日目-広重美術館

1月4日(金)
 天童温泉3日目、特にどこかを見学しなければならないといったスケジュールにしばられた旅行ではなく、1日中旅館でゆったりとしてもいいし、ふらっと出掛けてもいいといった旅だから、朝は食事時間の8時近くまで寝ていられるし、出掛けるのは何時でもいい。
 特に天童はこれといって名所があるわけでもなく、雪が降っているということもあって自由に行動が選択できるのは気が楽だ。大体旅行というのは1泊で次の日は別の所で観光するという過密な日程で移動するというものだ。同じところで2泊するのはかなり落ち着いた気分だ。しかし最後の日はチェックアウトが10時だからそれまでに出発しなくてはならない。
 雪がかなり強く降って来ている。旅館から5分くらいの所に広重美術館がある。そこが一番近いということもあって出掛けた。何故天童で広重の美術館があるのか、それはパンフレットに書いてあった。

広重美術館の成り立ち
hirosige1.jpg 江戸時代後期、江戸詰の天童藩士と狂歌を通じた仲間で親しい関係にあり、天童藩医田野文仲とも交遊があったのが歌川広重でした。当時、天童織田藩は度重なる出費で深刻な財政難に陥っていました。藩内外の裕福な商人や農民に献金を募ったり借金をしたりしたもののなかなか改善されない状態でした。
 そこで、江戸で有名な絵師広重に依頼して藩のために肉筆画を大量に描いてもらい、献金に対しての褒美や借金返済の代わりとして藩民に与えたのです。この一連の作品群が「天童広重」と呼ばれています。当時は200~300幅くらい描かれた。現在天童市近郊で確認できる数は19幅までに減っており、貴重な作品となっています。

 浮世絵史上において、大名から町絵師に作画依頼されることは大変珍しく、明治時代に入り浮世絵が外国人や愛好家から珍重されるようになると作品の多くは都市や海外へと渡り、この地を離れました。この一連の作品群が「天童もの」「天童広重」などと呼ばれ、今日に至っています。
 しかし、度重なる震災や戦災によって多くは消失したといわれ、現在国内外あわせて80幅程度が確認されています。こうした天童とゆかりの深い広重の画業を記念して生誕200年にあたる平成9年4月、広重美術館が誕生しました。(入館パンフレットより)

安藤(歌川)広重について
 安藤広重は15歳の時歌川派豊広の門人となり、南宗画・四条派の絵も習得し、はじめ美人画・役者絵を描いていたが、1833年「東海道五十三次」を板行。一躍名声を得て風景版画家の第一人者となった。
 初代広重は武士の出身で本名を安藤重右衛門といった。広重という名は豊広の広と重右衛門の重をとった雅号で、歌川派といわれる一門の絵師としての名前なので、現在では歌川広重として広く紹介されている。代表作に木曾街道六十九次・江戸名所・京都名所などがある。

美術館の展示
 美術館の1階には、木版画の工程のビデオを放映していた。現代の彫師が歌麿の「ビードロの女」の下絵を木版に貼って彫っていく過程と、彫り上がった木版に摺師が色を調合し着色し、何枚も版を重ね摺っていく過程が紹介された。今でも日本画家の中には現在の名匠、彫師と摺師の力を借りて木版画を製作している画家がいる。  

 錦絵は共同作業で完成される版画で、版元(現在の出版社)が企画した内容にそって絵師が描き、彫師が何枚もの色板を彫り、摺師が一気に摺り上げる。一枚の版画ができるまで何人もの人の手がかけられている、いわば総合芸術作品で、歌川派のように何人もの絵師、彫師、摺師を抱えた工房のような所で製作していたのだろう。

 美術館の2階には、広重の版画の製作過程が展示されていた。展示されていた版画の場合、17枚の木版が使用され、17色がそれぞれには配色され摺られていた過程が再現されている。さらに空を紺から青へとグラデーションしていく色使いの技術も使われている。

 また2階の広間には江戸時代の様々な遊び道具が置かれていた。百人一首はテープで短歌が詠まれ、そこでゲームをすることが出来る。また江戸時代に使われた双六やかるた、なぞなぞ、独楽などがあってそこで実際に遊べるようになっている。また刀剣資料コーナーでは月山の銘刀が展示され、図書資料コーナーもある。

広重の作品について
 広重の浮世絵に見られる江戸の暮らしや人々の表情は、人々が季節の移ろいを大切にし、自然と共に生きてきたのかを感じさせる。季節にまつわる七夕や祭りなどの行事は身近な常にそこにある暮らしそのものだったのだろう。無理をせず、一つ一つを丁寧に作り、大切に使い、再利用し、無駄のない社会だったのだろう。現在の大量消費社会の中で、その見返りで得られたのは過酷な生産競争の中で歯車の一つとして使い捨てられる労働力として働かせられている生活なのだ。江戸時代は封建社会、身分制度の中で庶民の生活は貧しかっただろう。しかし、そこには現在にはないゆとりと豊かさがあったことを広重の浮世絵は様々な角度で描いている。

 コーヒーショップはなかなか凝っていって壁一面には広重の浮世絵のタペストリーが掛けられ、椅子の背もたれにも広重の浮世絵が描かれた生地が貼られている。器も古い感じの陶器を使用している。
 
 この美術館に入場する際、オルゴール博物館とのセット券だと割引になり、更にコーヒーショップで100円引きになるということで、それを購入した。ということで、次にオルゴール館に向かった。丁度雪は止んで、10分ばかり雪道を歩きオルゴール館に到着した。(天童温泉3日目続く)

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

天童温泉・2日目-舞鶴山

1月3日(木)
天童という地名の由来
 今から千数百年もの前、舞鶴山の山頂で、行基という高僧が一心に念仏を唱えていた。すると突然何処からか、笛や太鼓の音色が聞こえてきた。その美しい音楽にのって、天から二人の童子が行基の前に舞い降りたという。行基はその後、二人が舞い降りた霊峰を天童山と名付け、それ以降天童山の四方の里は、天童と呼ばれるようになったのだという・・・。

 南北朝時代に南朝方の北畠天童丸が、山寺立石寺と提携して当地での南朝勢力の挽回に努め舞鶴山に居を構えた。そこから天童という名で呼ばれるようになった。

天童公園
 昨日の夜から降り続いている雪は今朝も降っている。朝風呂に入り朝食をとり、10時頃雪が降り続く中を出掛ける。旅館から歩いて10分位の天童公園に向かう。この公園には舞鶴山を中心に天童城址や、愛宕神社、建勲神社などがある。舞鶴山は出羽三森の一つで北畠天童丸が築いた城山で、近年になって公園として整備された。

 毎年、桜の季節に、2000本の桜の花が咲く舞鶴山で人間将棋が開催される。桜吹雪の中、戦国絵巻さながらの武士の衣装を着た人が駒になりプロ騎士が対局する華麗で勇壮なイベントで、全国の将棋駒の95%を生産する天童ならではのお祭りだ。(人間将棋は、太閤秀吉が関白秀次を相手に桜花爛漫の伏見城で、小姓と腰元を将棋駒に見立てて、将棋野試合を楽しんだという故事にならったもの。)
 
 天童における将棋の歴史は織田家が天童に入部して始まる。窮乏した天童藩では生活苦にあえぐ下級武士たちが将棋の駒づくりを内職とし始めたのである。幕末には家老の吉田大八が藩士に将棋の駒づくりを奨励した。

 公園入り口から車道を登っていく。入り口からすぐの所に身代わり地蔵がある。その頃雪が止み太陽が出てきて青空が広がってきた。15分ばかりで山頂に着き、展望台がある。晴れ間が広がり眼下には愛宕沼と雪化粧された天童市が見渡せ、遠く雪をかぶった月山や朝日連邦、最上川など雄大な景色を見ることが出来た。ほんの一瞬の晴れ間の時に展望台にいたというのは運のいいことだ。曇っていれば朝日連峰など遠くの山は見えない。

tendoo_convert_20100228185426.jpg 展望台より天童温泉街

 頂上の広場には人間将棋のための巨大な将棋盤と将棋塔がある。春のイベントの会場だ。展望台から更に雪道を15分ばかり登る。ひたすら上りでかなりきつかったが、上りきったところが241mの舞鶴山の頂上で、ここに愛宕神社と天童城址がある。
 
天童城址、愛宕神社
 天童城は舞鶴城とも呼ばれ、天童市舞鶴山に建てられた山城である。登るには急坂を登り、北は沼、山頂の本丸付近は断崖で囲まれた天然の要害であった。舞鶴山に最初に城が築かれたのは、南北町時代の頃、南朝方の忠臣、北畠親房の後えい北畠天童丸が、吉野朝興隆のため、村山盆地を一望するこの地に居を構えたのが始まりと言われている。その後、北朝方の勢力が強まり、天授元年(1375年)に、北朝方の成生荘の荘官、里見頼直が、成生からこの地に城を移し、更に堅固な山城にした。

 この城は、全山を自然の城塞としたもので、周壁は、自然の侵触に任せた典型的な山城であった。山頂に本丸を構え、これを中心にして、西方の峰々には八森楯、小松楯などの補助楯を設け、重臣を配し守備させた。大手門は山の東方、溺手門は西方にあって、北目や小路にはそれぞれ武家屋敷が建ち並び、門前には市が建つなど、活気ある城下町を形成していた。しかし、1584年、舞鶴山上の天童城は、最上義光によって攻略され、城主天童頼久は仙台領に逃れた。義光は直ちに城址の山頂に愛宕神社を造営し、社領1370石を寄進し、祭神として勝軍地蔵を安置した。社殿全体(慶長八年再建)は市指定文化財である。
 
 舞鶴山の山頂には天童古城の跡が残っており、主郭(本城)跡、物見やぐら跡、四輪(郭)群があり、これは本城(主郭)をめぐり細長く帯状にまわるもの、ゆるい斜面に階段状に何段かにわたって配置されるものなどがある。主郭から北側にむかって設けられた部分の曲輪群は10段にわたって連なる。天童古城は、多くの上下に階段状に連なる曲輪群が特色である。

  愛宕神社は改装中で白いシートで覆われている所もあったが中には入ることは出来た。細い登山道のような雪道を滑りそうになりながら展望台の方に戻っていった。

03_convert_20100228193205.jpg 愛宕神社社殿
 
文学の森、建勲神社
 下りでしばらく行くと、「文学の森」がある。これは天童市市制施行45周年記念事業としてスタートしたもので、イザベラバード、田山花袋、志賀直哉、田宮虎彦の天童ゆかりの4文化人の文学碑を2年ごとに設置していく計画で、2005年10月に、イザベラバードと田山花袋の文学碑が建立された。

 更に3、4分歩くと建勲神社がある。この神社は織田信長を祀る神社である。天童知藩事織田信敏が建織田社の称号を賜り、後に建勲社と改称して明治3年山頂に社殿を造営し、明治17年現在地に移転したという。

 織田家は信長の死後、次男織田信雄の系統が継ぐことになり、上州小幡で二万石を領していた。・・・十代織田信美は天童への居城移転を願い出て文政11年(1828年)これが許可され、天童の田鶴町で陣屋の造営が始まり、1831年に天童に移った。こうして天童織田藩が成立し、天童は織田家ゆかりの地となったのである。正月だというので初詣の人もいるからだろう境内は賑わっていて破魔矢や熊手などが売られ、緑豆の甘くしたものが配られ、甘酒が振舞われていた。

天童公園の史跡
 春には一面に花を咲かせるだろうつつじ公園、護国神社、小路喜太郎稲荷など天童公園には史跡が詰まっている感じだ。更にだらだらと道を下り5分程で天童駅から東へ下るメインストリートに出た。昨日旅館に向かう途中で目をつけていた山形名産ラ・フランスのシフォンケーキがあるという店に行って、その珍しいケーキを買った。ケーキ屋の2階がそば屋だったので遅い昼食を取った。昨日今日とそばを食った。おいしいそばなら毎日でも飽きないだろう。      
 病院ではそばはのびてしまうということでだろうかめったに出ない。出たとして麺は柔らかくなってしまっている。病院にいるとおいしいそばが食いたくなる。病院食は生ものと脂っこいもの刺激の強いものはメニューにない。そこで食べたくなるのはラーメン、カレー、寿司そしてそばというわけだ。

 やんでいた雪は食堂を出る頃にはまた降り始めた。早々と旅館に戻り温泉三昧の時間を過ごした。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

天童温泉-1日目・山寺

1月2日(水)
 2ヶ月の病院生活を終えて、休息だけは十分に取っていたのだから骨休みというわけでは ないが、気分転換というつもりで東北の雪の深い所で温泉がいいと思って出かけた。雪見酒と雪の東北での温泉を目的として、山形の将棋で有名な天童温泉2泊3日の旅行に出掛けた。

 暮れから正月にかけて東北地方は寒波に襲われ、今まで雪が降っていなかった所も雪が降り、大雪注意報も発令されている所もある。7時22分上野発10時17分天童着の山形新幹線で出発した。郡山に近づくにつれ周りは雪景色になり、郡山を過ぎると吹雪いてきた。進むにつれ雪が深くなってくる。
 
 天童に着いた。天童は山形の中でも雪が少なく、積もっても膝位までと聞いていた。列車を降りると雪が舞い散っていた。車道には雪はなかったが、屋根や木や歩道には積もっていた。駅前に観光馬車乗り場があり年中無休で市内の名所を回って山寺まで行き、また駅に戻ってくるコースで1日6回運行しているはずだった。観光馬車といっても9人の乗りのマイクロバスだということだ。10時40分発があり丁度いいと思ってしばらく待ったがなかなか来ないので電話したら正月期間は運休しているということだった。

 駅に隣接している将棋資料館も休みだし、美術館も休みの可能性もあり、旅館のチェックインまでかなり時間がある。雪も降っているし、市内観光といってもあまり見るところもない。そこで2日目に行こうと思っていた芭蕉の句で有名な山寺までタクシーで行った。

山寺(宝珠山阿所川院立石寺)
清和天皇の勅願によって天台宗の僧、慈覚大師円仁が貞観2年(860年)に開山した。日本3ケ寺、日本3山寺、日本7薬師、奥州3霊寺の一つとして、古来比叡山延暦寺と並ぶ名刹で、僧坊300を持つほどの強い勢力があった。

 正面階段を20段ばかりの上がると根本中堂が目の前に古色蒼然と聳えている。本堂の階段を上がると木彫りの布袋様が置かれ、それに触りながら願い事をするとかなうと書いてあった。

天童温泉030_convert_20100228181023 根本中堂正面の布袋像

 立石寺は一山の総称でその名の堂宇はなく、この根本中堂が立石寺の本堂且つ中心道場である。堂内には大師自作の薬師如来のほか伝教大師や文珠毘沙門の諸像が安置されている。国の重要文化財であり、東北唯一の宗門修行道場で、ブナ材の建造物としては日本最古ともいわれる。

 山寺には見所がいくつもある。本堂から山門に向かう途中に、清和天皇の宝塔がある。立石寺は清和天皇の勅願により開山され、三百八十町の寺領を免租地として下賜されるなど、手厚く保護されたことから、死後、その徳を慕って根本中堂の北西側の隅に宝塔を建てて供養した。

 日枝神社は慈覚大師が立石寺一山の守護神として比叡山延暦寺から山王権現、すなわち大山咋神(おおやまくいのかみ)を勧請して祭ったのに始まる。秘宝館の向かい側に、1972年建立の芭蕉像と「奥の細道」紀行300年を記念し、1989年に建てられた曽良の像、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」を刻む芭蕉句碑がある。

天童温泉034_convert_20100301214250 芭蕉像

 その先に常行念仏堂、鐘楼、多宝塔がある。それらを見ながら山門に着く。「山寺宝珠山立石寺」と彫られた2mを越す石柱があり、その先に、鎌倉時代末期の建立と伝えられ、「開北霊窟」の扁額を掲ぐ山門がある。奥の院までの石段がここから始まる。寺務所で雪の具合を聞くと奥の院まで上がれるということで入山し、石段を登り始めた、石段は1015段あるという。
 
 急な石段を息を切らせながら登っていくと途中次々と色々な物に出会う。姥堂は、これを境にした極楽(上方)と地獄(下方)との分かれ目とされ、極楽浄土への入口と説かれている。進んでいくと笠岩、慈覚大師お手掛岩がある。また2つの大きな岩石が登山道の両側から迫り出し、道幅を極端に狭くしているところがあり、これが四寸道(四寸は約12cm)で、親が踏んだ箇所を子孫も踏むことになることから親子道、子孫道の言い方もある。

天童温泉048_convert_20100228181212 仁王門

 左側に垂直に切り立った絶壁が見える。百丈岩という。周辺の岩は第三紀層の凝灰岩が侵蝕され、自然の造形とは思われない奇岩が露呈し長い歳月の風雨が岩を削って作られたものである。信心のある人が見ると阿弥陀様に見えるという岩もその一つである。竜吻岩、護摩壇を見ながら、観音院を通り、仁王門に行き着く。左右に大きな仁王尊・十三尊像があり運慶の弟子たちが作ったと言われている。その奥に閻魔が置かれている。建物の材料もそうだが、このような大きな仁王像をどうやって運んだのだろうと思ってしまう。人がやっと一人通れる位道が細くなっている所もある。信仰の力だろうか、膨大な建築資材を全て担いで登ったのだろう。

 仁王門をくぐって、しばらく上がると性相院、金乗院がある。そこから左に曲がると、帝釈天堂があり、そこは四面が2.1mの小堂で、慈覚大師の創建と伝えられる。天保4年(1833年)に立石寺第六十四世慈舜和尚が再建した。雷除けとして有名である。
 開山堂は、慈覚大師の廟所で、立石寺第六十五世情田和尚が嘉永4年(1851年)に再建した。堂内には、大師の座像が安置され、また、千百年以上にわたって香煙をゆらし続ける不滅の「常香」がある。

天童温泉054_convert_20100228185234 五大堂からの眺め

五大堂は正徳4年(1714年)に再建された舞台造りの御堂で、宝珠山を守る五大明王が安置され、天下泰平を祈る道場である。この五大堂は岩の先端に作られ展望台の役割をしているようだ。堂の舞台からの景色の眺めは素晴らしく山寺随一とされ、ここからは山寺の町が一望できる。百丈岩の絶壁の頂に建つ納経堂は重要文化財で、立石寺一山の衆徒が奥の院(加法堂)で書写した経文を安置するところであり、岩の先端に長い歴史を刻みながら佇んでいる。

tendo1_convert_20100301215257.jpg 納経堂

 ここまで来てどっと疲れが出た。退院してまだ数日しかたっていなのにこの登りはかなりきつかった。病院で1日30分くらいの散歩をしていたが。やはり心肺機能が十分でないのだろう登りはすぐ息切れしてしまう。ということで奥の院までまだ少しあるがここで引き返すことにした。下りは息も切らすことなくスムーズに降りることが出来た。山門を出て、蛙岩、立石寺本坊、神楽岩などを見ながら山寺の中心街の方に向かった。そこで昼食をとり、チェックインの時間には少し早かったが旅館に向かった。
 
 2時頃旅館に着いた。宿泊場所は純和風旅館で、中庭が日本庭園になっていてその庭園を囲むように建物が建っている。大名廊下といって一段高くなっている廊下がありそこから庭園が見渡せるようになっている。雪がまだしんしんと降り続いており、中庭は雪に覆われ静かで穏やかな雰囲気を漂わせている。

 早速温泉に入りに行く。雪を見ながらの温泉という人生一度は味わってみたかったことが経験できる。風呂は檜風呂で露天風呂はないが、風呂からは雪に覆われた庭が見え、雪がひたすら降り続く。湯はかなり熱かったが寒い時期でもありあまり長く入っていることは出来ないが身体が温まりそれなりにいいのかもしれない。夕食をとりながら一杯飲んで、部屋に戻れば後は何もやることはない。持ってきた本を読んでもいい、テレビを見てもいい。そして雪の降る庭をぼんやりと見ながらなにもしなくてもいい。

 やることがなくてもイラつく事がない。これは年齢のせいなのかどうか分からないが、何時も何かをしてなければ落ち着かないという昔の性格が長い入院生活の中でかわってしまったのかもしれない。時間というものの考え方、時間の受け止め方が変わってしまったのだろう。時間の流れにがむしゃらに抵抗していた時代から遠く離れて、川の流れのように、時間の流れの中に身を任せ、たゆたっていくのもまた人生である。
 
 生きることは 旅すること 終わりのない この道
 雨に降られて ぬかるんだ道でも いつかは また 晴れる日が来るから
 ああ 川の流れのように おだやかに この身を まかせていたい
                          (「川の流れのように」美空ひばりの曲)

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

言葉・生と死の狭間で

2008年1月1日(火)
 12月31日が年の終わりということで終末期医療について書いたけれど、1月1日はどうしたってそれとの対比でいくならばさしずめ「再生への道」ということになるだろう。生きる希望に結びつくような何かの人の言葉を寄せ集めて、羅列するだけになってしまうが今日はそれでいこうと思う。

風が立つ!・・・今こそ生きねばならぬ!
大気は わたしの本を開き また閉ざす、
波は しぶきに砕け 岩々から ほとばしる!
飛べ、目くるめく 本の頁よ!
破れ、波よ! よろこびの水で 破れ
白い帆の すなどる この 静かな屋根を!(ヴァレリー『蛇の素描』白井健三郎訳)

耐え忍べ、耐え忍べ
青空高く耐え忍べ!
この沈黙の微粒子の一つ一つは
実るべき顆粒へのそれぞれの機会と知りて!
よろこびの不意打ちぞ すでに間近に迫りたれ。(ヴァレリー『檳榔(ビンロウ)樹』堀口大学訳)

いっさいは往き、いっさいは帰る。存在の車輪は永遠に回転する。いっさいは死滅し、いっさいは再び花咲く。存在の年暦は永遠に循環する。(ニーチェ『ツァラトストラ』Ⅲ・秋山英夫訳)

生きるとは何のことか-生きるとは-死にかけているようなものを、絶えず自分から突き放して行くことだ。
生きるとは-わが身において一切の弱く老いたものに対して、残酷で情け容赦しなくなることだ。(ニーチェ『楽しい知識』26番・訳同)

人間は深淵にかけ渡された一条の綱である。渡るも危険、後ろを顧みるも危険、身震いして立ち止まるのも危険。人間において偉大な点は、それが橋であって目的ではないことだ。
(ニーチェ『ツァラトストラ』序・訳同)

-それにしても何故、永遠の太陽を惜しむのか、俺たちはきよらかな光の発見に心ざす身ではないか-季節の上に死滅する人々から遠く離れて。(ランボー『別れ』小林秀雄訳)

メメント・モリ(Memento mori)「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」
-死の瞬間が命の標準時。(藤原新也)

人生万事塞翁が馬。
禍福はあざなえる縄の如し。
明日は明日の風が吹く。(故事・ことわざ辞典)

諸行無常、是れ生滅の法なり。
あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ち去らで・・・。
明日に紅顔ありて、夕べに白骨となる。
明日ありと思う心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは。(故事、ことわざ辞典)

ガン体験者の言葉
むしろ今何をするか考えた方がいい。やはり人生の残りの時間ということを考えるわけです。切実に限りがある。じゃあ何をしたらいいか。家族との付き合い、友人との付き合いもそう、細かいことに気をわずらわせず楽しいことをやる。(鳥越俊太郎)

前に進むための負け方というのがある、いつも努力していて今日は負けたのであればそれは勝ち続けていることと一緒だと思う。ガンは絶望と紙一重というイメージがあるが、ガンから始まる人生もあるのではないでしょうか。(ますい志保)

生きるとは人生が絶えず私たちに出す問いに答えていくこと。現在はその瞬間瞬間に新しい問いを含んでいる。(岸本葉子『ガンから始まる』)

しかし悲しく辛い苦しい世界にいることの何と素晴らしいことか。生きるというのはそれ自体とても楽しいことだ。(西田英史『ではまた明日』)

死の不安を抱えたままの丸ごとのわたしを自分で肯定していく姿勢、それは宗教的楽観性というべきか。自分では暗闇の中を彷徨しているつもりでも、暗闇の彼方に私を招き入れる一条の光を見出すのである。(重兼芳子『たとえ病むとも』)

ベッドに安静にしていても、心は孤独や再発の恐怖ばかり考えて安静ではありません。限られた命を必死に生きて燃焼させることが一番の薬です。人間というものは厳しい現実をちゃんと理解し受け入れて強くたくましくなることが出来ます。人生は絶望だけでは生きていくことは出来ません。どんな小さな希望や光でもそこにあれば人生の力になってくれるものです。(関原健夫)

テーマ : 雑記
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Author:yosimine
がん治療とは長く細い道を辿ら
なければならない。その先に希
望があると信じながら。

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