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ルベルディ『線と形象』とモンドリアン

2月29日(金)
ニコライ堂の屋根
nicolai_do_01.jpgお茶の水駅に向かう時、聖橋の上からニコライ堂の丸屋根が眺望できた。この建物は1861年に函館のロシア領事館司祭として来日したギリシア正教会大主教イワン=デミトロヴィチ=カサーツキン(修道名=ニコライ)が、1884年に駿河台火消屋敷跡に建設を始め、1891年に完成させた。

ロシア人シチュールポクの設計で、日本における西洋建築の草分けといわれるイギリス人コンドルの工事監督になるものであったが、関東大震災で被災し、1929年に修復された。

ルヴェルディの詩「線と形象」

この丸屋根を見ながら、昔読んだキュビスムの詩人ピエール・ルヴェルディ(1889-1960)の「線と形象]という詩を思い浮かべた。一つの風景を線と形象の中に置きながら、一旦その風景を解体しながらもそのことを通してかえってその風景の本質的様相を浮き上がらせていくその手法に感心したものだ。

 空には青い雲の切れ目
 森には緑こい空き地
 だがデッサンがぼくを閉じ込める
 町にはポーチの円い弓形
 窓々の正方形と屋根の菱形
 線ただ線のみだ
 人間の建物の役立つのは。
 ぼくの頭の中にも
 線ただ線のみ―
 もしぼくがそれに多少秩序だけでも与えることが出来るのなら。
 (『フランス詩体系』青土社刊より)

キュビスム
ルヴェルディに影響を与えたキュビスムとは最初は美術の分野から始まった。それは視覚上の革命的な美術動向で、今まで絵画は一箇所の視点から描かれていたのに対し、色々な角度から見た物の形を、一つの画面に描き、立体的な物全体を平面上に表現しようとする試みであった。そこには時間的経過の記録や、対象となる物体を原型に近い形でキャンバスに落とし込もうという意図も込められていた。ルネサンス以来の「単一焦点による遠近法」の放棄、形態上の極端な解体・単純化・抽象化を主な特徴とする。 フォーヴィスムが色彩の革命であるのに対して、キュビスムは形態の革命であると言われる。

キュビスムの語源
ブラック展(1908年)のカタログの序文にルイ・ヴォークセルが寄稿したもののなかに、「キュビスム」の語源があるとされている。「彼はひどく単純化され、デフォルメされた、メテリックな人間を構成する。彼は形態を軽蔑し、場所も人物も建物も、何もかも幾何学的な図式に、キューブ(Cube・立方体)に還元している。」 

新造形主義
mondrian_blue_plane[1]11ロベルティの詩を読むと、キュビスムの画家ピカソやブラックの作品を思い浮かべるのではなく、ピエト・モンドリアン(Piet Mondrian, 1872年~ 1944年)の絵を思い浮かべる。彼はキュビスムを出発点としてしながらも、宇宙の調和を表現するためには完全に抽象的な芸術が必要であると主張し「新造形主義」を唱えた。

絵画作品は水平線・垂直線・直角・正方形・長方形・三原色・非装飾性・単純性などを特徴とする。垂直と水平の直線、三原色と無彩色の組み合わせから「純粋な線と色彩の純粋な関係」を作り出し、すべての形態を造形し、幾何学的に純粋抽象造形にいたることを主張した。

(上絵、モンドリアン作 コンポジション:大きな青地、赤、黒、黄色、灰色)

モンドリアンとルベルディ
モンドリアンの絵の矩形のコンポジション群を構成する垂直線と水平線には、分離・分断・交錯の「対立」があり、この対立を最終的に「均衡」の関係へ導くところに、モンドリアン的抽象がある。この対立から均衡へのプロセスによって、抽象とはぎっしり詰まった内容をただ簡略化、単純化するのではなく、複雑さをすべて含んだものとなるのである。

ルヴェルディの詩に書かれた風景は、まさに具象と抽象との葛藤の中で、対立から均衡の過程を辿りながらあるがままの自然・昇華されたリアリズムに接近しようとする試みである。
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テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

小石川植物園

2月28日(木)
小石川植物園入口付近
病院での定期検診の後、小石川植物園に向かった。風は強かったが気温は10度を越えていただろう、風が止むとコートが要らないほどであった。小石川植物園の梅が見頃だと聞いた。というか今は梅のあるところ何処でもそうだろう。南北線本駒込から後楽園まで行って、丸の内線で茗荷谷まで行く。そこから歩いて10分位で植物園だ。

入り口の左側にビルの3,4階の高さがあるだろうか、コーカサスサワグルミの巨木が、4,5本聳え立っている。イラン北部からウクライナにかけてのコーカサス地方が原産で成長が早く、高さは20~30メートルになるそうだ。

その奥にメタセコイアという100万年前に絶滅したと言われた化石樹が20本ばかり杉の様に真っ直ぐ20メートル以上の高さで佇立している。化石としては日本各地からも発見されていたが、1941年に中国四川省で発見されるまでは生きているものは知られていなかった。日本にも300万年から100万年前頃まではたくさん生えていたらしい。その頃からあまり進化していないらしく、生きている化石として有名である。樹形は針葉樹の仲間らしく端正で、秋には紅葉し、短枝ごと落下する。落葉性の針葉樹である。

この2種類の木はまさに度肝を抜かれるという程の高さなのだ。植物園にはかなりの巨木がひしめいている。それはこの植物園の歴史の古さを示している。区指定の保護樹木など比較にならない程の巨大さだ。クスノキもあったがかなり大きい、この植物園のスズカケは日本で一番古いと言われている。梅は最後にとっておいって、最初は桜の広場の方に向かった。桜はもちろんまだ咲いてはいなかったが、一本だけ寒桜が見事に咲いていた。丁度満開といったところだ。

菩提樹の並木道
菩提樹の並木道があった。冬枯れの葉を完全に落とした木々がさびしく並んでいる。枯葉の並木道を歩くと思い出すのは、シューベルトの『冬の旅』だ。昔よく聞いたものだ。D・フィッシャー=ディースカウのバリトン、ジェラルド・ムーアのピアノの『冬の旅』は心の拠り所として、絶望的な精神状態を支えてくれていたのだ。『冬の旅』の中には「菩提樹」という歌もありよく知られているが、やはりこの曲は冒頭がいい。

“Fremd bin ich eingezogen, Fremd zieh’ich wieder aus・・・”「私はよそ者としてこの町に来た、いままたよそ者として町を離れる・・・」で始まる『冬の旅』は青春の心の彷徨をあまりにも適確に表現している。感情移入してしまう。枯葉の並木道を歩きながらついこの歌の歌詞を口ずさんでしまう。しかし実際には今日の天候は『冬の旅』の情景としてはふさわしくない。2月末の気候は春の暖かさを中に含み所々に顔をのぞかせる。12月、1月の絶望的寒さ、底なしの寒さとは訳が違う。『冬の旅』は出口のない凍えそうな寒さがふさわしい。

シマサルスベリの木が面白い。白くてつるつるしていて、枝がくにゃくにゃと仙人の杖のように曲がっている。サルスベリが10本ばかりある一角は不思議な国のアリスの魔法の国のような奇妙な雰囲気を漂わせている。カリンの林も変わった雰囲気をかもし出している。木がパッチワークのようにまだら模様に彩られているのだ。おとぎの宮殿の柱が林立しているようで楽しい。

植物園の梅林
梅カリン林から坂を下ると日本庭園だ。梅林は日本庭園の隣接している。は満開と言っていいほど見事に咲いていた。しばらく前どこもまだ咲いていなかったので、こんな短期間に咲き誇るとは予想していなかった。白、ピンク、赤の3種だが、その3色が互いに色を補合いながら、コントラストを作り出し、より一層それぞれの色を引き出しているのだ。

一本一本種類が違いその名を辿るだけでも面白い。よくつけたものだ。寒紅梅 古今集 紅冬至 扇流し 大盃 佐橋紅 楊貴妃 緋の司 花香実 八重の松島 月影枝垂れ 遠州糸枝垂れ 五節の舞さらに何十種類もある。それぞれ色も形も微妙に違うのだろうがなかなかそこまで区別は着かない。

10人近くのカメラマンが梅の写真を熱心に撮っている。もちろんほとんどがアマチュアだろうがなかなかいいカメラを持っている。当然一眼レフ、望遠レンズ付き三脚持参と格好だけは一人前だ。コンパクトなデジカメを持っている人などはいない。趣味も徹底すればなかなか醍醐味のある面白いものになるのだろう。その道を極めようとすれば、それはプロも素人も関係ない。

何やかや1時間ばかり歩いてかなり足が疲れてきていた。帰り道は茗荷谷まで歩いて行くのが大変そうだったので、植物園前から丁度来た大塚駅行きのバスを利用した。以前は2,3時間歩いても全く問題なかったが、ベルケードの影響で末梢神経障害が生じ足の裏が痺れることに伴って、長時間歩くと腿やふくらはぎが疲れてくるのだ。こういった状態で歩かなくなると余計筋力を減退させることになるので徐々にでも運動していきたい。

小石川植物園の由来(「東京の庭園」より)
小石川植物園の前身は徳川幕府直轄の小石川御薬園。徳川幕府は三代将軍家光の時代寛永15年(1638)に薬用の植物を栽培するための場を麻布と大塚に開設するが、貞享元年(1684)現在地に移設し小石川御薬園となった。

八代将軍吉宗の時代にほぼ現在と同じ規模に拡大され、享保7年(1722)には小石川療養所が付属施設として開設された。小石川療養所は貧民のための医療施設として開設されたもので山本周五郎の小説「赤ひげ診療譚」の舞台となっている。明治十年(1877)東京大学の設置に伴いその付属施設とされ今日に至っている。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

定期検診の日

2月27日(水)
定期外来診療
定期外来診察だった。血液検査の結果、血小板4.4、白血球5.0、ヘモグロビン11.4という状態だった。血小板数が少ないので怪我への注意が必要だ。この血小板の回復を待って、ベルケード療法第5サイクルに入る。次回の定期外来診察が3月12日でその時の血液の状態との兼ね合いで、次の日程を決める。

ステロイドの影響か、再び中性脂肪値(TG)が上昇している。ベルケード療法を始める前には186であった中性脂肪値が224(11/9)、 283(12/28)、293(1/11)、そして今日の結果では342まで上昇して来ている。今まで高脂血症薬ベザトールを1錠しか飲んでいなかったが、明日からは2錠に増やすということになった。

相変わらず足の裏の痺れは続いている。これは治療の仕様がない。ベルケードを続けていく限り収まることはない。あまりひどいようだとベルケード療法を中断するほかない。今日は割合早く終わり血液内科の病室に知り合いのお見舞いに行った。知り合いの看護師さんはいなかったが、長期入院の患者さんが2名まだいてしばらく病状について話した。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

抗がん剤による体力消耗

2月27日(水)
2005年発病から、移殖以降の半年間以外、抗がん剤を投与し続け、体からその影響が抜けたことがない。移殖以降の半年間は移殖の前処置に使った致死量に近いと言われた大量抗がん剤投与の影響で、長い期間極端な体力消耗にさいなまれていた。

移殖時の大量抗がん剤の影響が徐々に薄れていく頃、再びMP療法を始めることによって、抗がん剤メルファランを投与することになった。そしてその後がベルケード療法の開始だ。

抗がん剤はステロイド剤と併用することによって体力消耗を少しは抑えることが出来るが、それも限界がある。ステロイドが強すぎると覚醒効果で眠れなくなり、それで体力が消耗するし、糖尿病、骨粗しょう症、中性脂肪の増加などの副作用の恐れがある。ステロイドが少ないと倦怠感を味わうことになる。今副作用予防のために飲んでいる薬は

ボナロン(骨粗しょう症の薬)、ベザトール(中性脂肪を抑える薬)、バクタ(カリニ肺炎の予防薬)、フルゴナゾール(抗真菌剤)、ムコスタ、オメプラール(胃薬)、コートリル(ステロイド剤)である。

ということで、この病気になってからは、疲れやすく、完全に元気だと思える時はあまりないという状態だ。日常生活は普通に送ることは出来るが、仕事に就いたり、スポーツをしたりするまでなかなか体力が回復することがない。ウォーキングでも急な上り坂や階段だと息が切れてしまい、休み休み上ることになる。

かってはテニスコートを走り回ったり、スキーをしたりしたこともあるが、そういったことが今では不可能に思える。少しはチャレンジしてみようとは思うのだがなかなか体がついていかない。こういった中で日々どう生きていくか模索していく他ない。体の状態は、状態としてそれに合った生き方を見つけていくほかない。

ガンの体験記より
「ガンを宣告されてもそれは絶望ではないし、終りでもない。死を意識した時から新しい生が始まる。」(浜中和子)
「死を意識した瞬間に生を意識する。・・視線を死にではなく、生に向けると一日一日が光を放って見えるんだ。」(佐藤健)
「どの人生も円を描くように完全だ。」(R・ヴェルス)

ガン体験記の中には生に対する力強い決意が満ちている。死を見つめることによって生の重みを改めて見直し、受け取り直す。しかしこれはどのような自らの思考回路の中で可能なのであろうか。これはいわば一つの芸術作品を作り上げることに類似しているのではないか。

サマセット・モームが人生を1枚の絨毯に例え、人の一生はその絨毯の意匠を自ら満足のいくまで織り続けていくようなものだと言っているように、どのような人生でも、それが死に対峙している人生であっても、納得のいくように織り上げていくことが人生を輝かせていくだろう。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

イヴ・ボヌフォワの詩 『ほんとうの名称』

2月27日(水)
ボヌフォアの詩(1923~)
イヴイヴ・ボヌフォア(右写真)は、人生・作品の製作における自己自身あるいは自己と対象との緊張関係を次のような詩で表現している。

 光が現れるためには 夜の
 ずる賢く はげしく軋む大地が必要だ。
 暗い薪からこそ 炎は立ちのぼる。
 ことばにも素材は必要だ、
 あらゆる歌の彼方の生気のない岸辺が。
 おまえが生きるためには死を超えなければなるまい、
 もっとも純粋な現存とは流された血だ。

 
(イヴ・ボヌフォワ「ほんとうの名称」・双書・20世紀の詩人『イヴ・ボヌフォア詩集』小沢書店)

ボヌフォアはジャコメッティについて語りながら「哲学することが死に方を学ぶことだとすれば、描くこと、あるいは彫ることは、愛し方、生き方を学ぶことだ」と述べている。描くこと、彫ることは、対象として地上的な、個別の諸存在の衷に、あの「現存」を看て採り、それを時間の作用から救い出そうとする行為だからである。この作品の製作のあり方こそ「生き方」の方法を指し示している。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

羽柴 整 『天国から届いた年賀状』

2月26日(火)
図書館で書棚を見ていたらふと目に留まった本がある。図書館で本を借りる時は借りたい本を決めてから行くのと、書棚を眺めていて面白そうな本を借りるという2通りあるが、『天国から届いた年賀状』(羽柴整著・中日新聞社)という本がたまたま目に入った。臓器ガンの闘病記で自分の病気との関連性はあまりないないが、度重なる転移と手術のすさまじさに引き付けられた。どのように耐え克服して行ったのだろうか。

本の冒頭に死後届いた年賀状が載っている。
・・超鈍行”Cancer(がん)X号”の乗客になって今年3月1日で満10年。その「終着駅」ももう間近。ターミナル到着までに「銀河鉄道999」、となりのトトロ専用の「猫バス」に乗り換え、ひと楽しみしたかったのですが、それも所詮許されません。文字通り1分1秒の重みを噛締めて、新しい年を迎え入れたいと思います。』1999年1月1日

手術の経過―本の巻末にある闘病年表に手術内容を書き加えたもの
1989年3月 46歳 検査で大腸の腫瘍発見
第1回入院 1989年3月 大腸30cm切除手術
            7月 職場復帰

第2回入院
 1991年5月 後腹膜腫瘍(切除した大腸の腫瘍の残りが成長)切除手術
            7月 職場復帰

第3回入院 1995年4月 腎臓摘出、腹部大動脈リンパ節とその周辺のリンパ節切除。大腸30cm切除手術
            6月 職場復帰 白峰三山縦走

第4回入院 1996年1月 下腹部と左足付け根の間のリンパ節腫瘍と頚部左鎖骨下のリンパ節腫瘍の同時切除手術。  3月 職場復帰 スイスへ家族旅行

第5回入院 1996年12月 すい臓の半分と脾臓摘出、胃の5分の3を切除手術
         1997年3月 職場復帰 北アルプス雲ノ平登山    

第6回入院 1997年8月 左肺下葉部と大動脈横隔膜脚周辺のリンパ節腫瘍切除。上腸間膜動脈リンパ節腫瘍、左副腎切除手術。  11月 職場復帰

第7回入院 1998年2月 肝臓に直径2cmの転移巣、下大動脈内腫瘍が血管の80%を塞ぐ-肺塞栓、肺梗塞防止の血管内フィルター設置。
          
1998年3月 通院で抗がん剤(5FU・フルオロウラシル1g)治療始める。

第8回入院 1998年3月 腰痛の原因が腰椎への侵潤、転移と確定。痛みをとるため放射線治療を受ける。  3月 沖縄への家族旅行 5月 職場復帰(週3日出社)

第9回入院 1998年8月 後腹膜リンパ節から下大動脈、腰椎骨へと浸潤する腫瘍。肝臓への転移。肝臓がんの治療として動注化学療法(肝動脈にカテーテルを挿入留置し、直接肝臓に抗がん剤を注入)のための「リザーバー」という装置を埋め込む。モルヒネ液を24時間の皮下持続注射できるダイヤル式自動輸液ポンプが取り付けられる。

第10回入院 1998年11月 後腹膜リンパ節腫瘍が肥大し脊髄から出ている骨盤内の大体神経を圧迫、腰、左大腿部の激痛。終末期医療、ペイント・コントロール。モルヒネの静脈点滴。硬膜外神経ブロック(脊髄にモルヒネを注入して神経を遮断する)での痛みの緩和、それに伴い意識が弱くなり、内蔵機能が衰える。
1998年12月28日永眠 56歳

摘出、切除した臓器・リンパ節
 頚部左鎖骨下のリンパ節腫瘍
 左肺下葉部
 腹部大動脈リンパ節
 大動脈横隔膜脚周辺のリンパ節腫瘍
 腎臓
 左副腎
 すい臓の半分
 脾臓
 胃の5分の3
 大腸30cm・2回
 後腹膜腫瘍
 上腸間膜動脈リンパ節腫瘍
 下腹部と左足付け根の間のリンパ節腫瘍

6回の手術によって、首から肺、内臓、足の付け根まで次々とがん細胞がリンパ系を介し転移していく。臓器ガンの場合、腫瘍部の切除によって転移・再発がなければ、かなり早い時期に社会復帰が出来る。

スーパーモーニングで解説をやっている毎日新聞特別編集委員の岸井さんがしばらく出演していなかったが、一昨日3ケ月ぶりに登場した。大腸がんで入院していたという。3ケ月で復帰出来るという今の医学には驚かされるが、血液ガンだと社会復帰まで半年や1年は通常かかってしまう。抗がん剤による体力消耗からの回復がなかなか思うように行かないからだ。

しかし一方、切除すれば治ると考えられている臓器ガンが次々と全身に転移していく様はまさにがん細胞の悪魔的な恐ろしさを感じさせる。

羽柴さんの生き方
『天国から届いた年賀状』の羽柴さんの闘病記が終わりなき絶望の記録ではないのは、職場、家族、自然との関係、登山といった入院、手術の間にある時間と空間のあり方にあるのだろう。その広さが一種の救いをもたらしてくれるのだと思う。とりわけ中日新聞社に職を持ち、その職場環境の中で職場復帰が可能であり、社会の中での自分の存在を確認できるということが大きな生きがいになっていたことだろう。

彼の生き方の基本にある「ガンと闘うなんて言っちゃダメですよ。闘うと、ガンにはかないませんから。ガンと仲良くして、共に生きる位の気持ちでいるのがいいですよ」「まっ、いいか、生きられるだけ生きるさ」という自然体の生き方を基調としながら、闘病記を執筆し続けることによって心の癒しを得てきていると言う。

また執筆の意味について「物質的繁栄という状況の中で、ややもすれば忘れていた人生の意味とか、自分が生きた証といったものを、必死になって確認しようと思うようになったことの現われではないか。」(柳田邦男)といった言葉を引用している。

「人体を構成する60兆の細胞。その中のたった一つの反乱から始まり、体内に根を下ろしてしまった私のがんのルーツは大腸がん。切っても切っても、所を変えては暴れ出す忌まわしいがん細胞は、回り回って、何処へ行き着こうとしているのか。終着駅は次なのか、それとも次の次なのだろうか。”私ターミナル”を見届けるまで、戦いの奇跡をしっかりと追い続けたい。」と言いながら死の直前まで「ガンと生きる」10年間の軌跡を書き続けてきたのである。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

アフリカの悲劇・2-戦争

2月25日(月)
アフリカを巡る2本の映画
nairobi_poster.jpg『ナイロビの蜂』-アフリカ人を使った人体実験
あらすじ:
 アフリカのナイロビで働くの実直なイギリス人外交官ジャスティン(レイフ・ファインズ)の妻で救援活動家のテッサ(レイチェル・ワイズ)が赴任先のケニアの湖の近くで死体として発見された。彼女は大手製薬会社が結核の新薬発売のために人体実験的な投薬治療を大規模に行っている事に気付き、世界に糾弾するつもりで動いていた。彼女の死に疑いを持ったジャスティンは、自らその真意を確かめるために行動を起こす。

 彼女はヨーロッパの製薬会社が、アフリカ人を人体実験に使っている事実を知った。副作用で多くの人が死んでいる。服用する前に同意書にサインをさせ、製薬会社は 免責を得ている。アフリカの貧しい人の命は、極端に安い。誰も人体実験を止めようとしない。そこで彼女は敢然と立ち上がった。このアフリカで行われているエイズや結核の危険な新薬をアフリカ人を使って非人道的な人体実験していることを、レポートにしてマスコミに発表しようとする。しかし、それを阻止しようとするイギリス政府と製薬会社によって彼女は抹殺されてしまう。

 製薬会社と大物政治家の金を巡る巨悪の癒着、それにいかにに立ち向かうか、握りつぶされようとする真実をいかに暴いていくのか。日本での薬害エイズにおいて製薬会社と官僚と政治家との癒着の中で多くの犠牲者を出してきたように、アフリカにおいても先進国のエゴによって巨大な売り上げ確保のためにアフリカ人を実験動物・モルモットとしてしか見ていない製薬会社と政治家が鋭く糾弾されている。

『ブラッド・ダイアモンド』―アフリカにおけるダイヤの意味
あらすじ:
 激しい内戦が続く90年代のアフリカ、シエラレオネ。愛する家族とつましくも満ち足りた生活を送る漁師ソロモン。しかしある日、反政府軍RUFが襲撃、ソロモンは家族と引き離され、ダイヤモンド採掘場で強制労働を強いられる。そんな中、彼は大粒のピンク・ダイヤを発見、その直後に起きた政府軍による来襲の混乱に紛れてダイヤを秘密の場所に隠すのだった。

一方、ダイヤの密輸に手を染める元傭兵ダニーはある時、密輸に失敗し投獄される羽目に。すると、その刑務所にはソロモンも収容されていた。そして、彼が巨大ピンク・ダイヤを見つけ隠していることを耳にしたダニーは釈放後、ソロモンも出所させ、家族捜しに協力する代わりにダイヤの隠し場所を明かすよう迫る。

また、アメリカ人女性ジャーナリスト、マディーに対しても、彼女が追っている武装組織の資金源“ブラッド・ダイヤモンド”の実態に関する情報をエサに、自分たちへの協力を取り付ける。こうして3人は、それぞれの思惑を胸に、ピンク・ダイヤを目指す危険な道へと進んで行く。
(注:ブラッド・ダイヤモンド=紛争(戦争)の資金調達のため不法に取引されるダイヤモンド、いわゆる紛争ダイヤモンド)

 求めるものは愛する息子か、沢山の血に塗れたダイヤモンドか、この物語ではダイヤ争いによって家族と離れ離れになり、凶悪部隊から息子を救おうとする漁師のソロモンと、ソロモンが見つけた争いの元となったピンク・ダイヤを命懸けで追う売人アーチャーが大きく対比される。そしてその2人の背景に広がる、血塗られたダイヤ戦争が生々しく描かれる。暴力 少年兵 難民 ダイヤ 隠蔽される真実 騙し合いが交錯し物語りは展開する。最後にダイヤを売るソロモンが何にもまして確認したのは家族の安全と身柄の確保だった。それは何にも変えられない絶対条件だった。

資源を巡る戦争
 ピークオイルが現実的なものとして存在している。2010年頃、石油の発見や埋蔵量は1975年以降減っており石油の消費量が生産量を超える。需要が生産に追いつかなくなる。これに対し先進国は石油確保のための戦争を行っている。

これからの戦争は、いろんな種類のグローバル化が進んだ結果、地球上の資源の寡占化が進み、争奪戦が、極めて露骨になり、その結果、大義名分の無い、なりふり構わぬ戦争になる。 資源と言っても石油、食糧、水が主要な獲得目標となる。温暖化で耕地面積がどんどん減っていくアフリカがその焦点となっている。

世界の戦争地域は5つに分類することが出来る。
1、石油がある地域―イラン、イラク、東チモール、スーダン、その他アフリカ諸国
2、天然ガスが採れる地域―新疆ウイグル自治区
3、そのパイプラインが通る国-アフガニスタン、チェチェン
4、水が豊かな地域-アフリカ諸国(農耕民と遊牧民の武装衝突が起きている)
5、鉱物資源が採れる地域―フィリッピンのミンダナオ島、アフリカ諸国

 ブッシュがはじめたイラク戦争も、石油資源を確保したい、また石油の代金決済をドル以外の通貨にさせないためのものだった、と言われている。日本においても自衛隊のイラク派遣の目的について政府答弁で石油の利権確保のものであることを表明している。

「最も重要なエネルギーセキュリティーとは、自分の地域で作ったエネルギーを利用することだ。決して軍事でよその国を制圧することではないし、その海峡を抑えることではない。」とドイツの元首相、シュナイダー氏は発言する。

 世界の紛争地は資源とその通り道を中止として動いている。将来のエネルギー確保やテロや戦争のない社会を望むのであれば自然エネルギーに変えるほかない。世界の総軍事費は石油の奪い合いが起きて以降明らかに増えている。これを自然エネルギー開発のため使えば、枯渇しつつある化石燃料を奪い合う戦争は必要なくなる。

温暖化との関係で言えば、軍事行動で石油によって排出した二酸化炭素総量は世界6位になる。これは軍事による爆破や破壊によって排出されるニ酸化炭素は含まれていない。温暖化を防いで人類の破滅を回避するためには軍事に頼らない世界を作っていく必要がある。(参考:鶴瀬俊介著『気象大異変』リヨン社)

アフリカにおける戦争の現状-先進国の利益のために
 南アフリカの黒人差別が廃止されたため、鉱山業への濃く新の進出がゆるされようになった。これまで完全な独占を続けてきた白人支配層にとって、金鉱の利権が黒人に奪われることは許されない事態であった。そこで大手鉱山会社は、金の採算コストを大幅に下げる価格戦争を挑んだ。それによって、中小の鉱山を苦しめて自分の傘下におさめ、ロスチャイルド財閥の鉱山だけが生き残れるようにした。

 ローデシアは、80年になってようやく白人政権が屈服して国名をジンバエブに変えた。ところが、現在も人口で数%の白人が経済の大半を握って準奴隷社会を維持している。こうしたアフリカにおける民族の生存を掛けた葛藤が、欧米の上流社会における妖しいダイアモンドの輝きと、金価格の裏に潜む壮絶な闘いを反映しているのである。

 アフリカのルアンダに大量の武器が輸出され、80万人虐殺という悲劇が展開された裏で虐殺の責任者である過激派政権にフランスの軍事支援が行われて来たのである。ここは昔からヨーロッパの金属財閥にとってタンガニーカ湖とビクトリア湖に至る最重要ルートを形成している。この地域のツチ族とフツ族の民族対立はベルギーが委任統治をし、少数民族のツチ族には王位と武器を与え、農民のフツ族を奴隷階級として支配しようとしとたことに原因があった。そのためベルギー領コンゴを支配した鉱山会社ウニオン・ミニエールが誕生してから、金銀とダイヤとウランという鉱物資源を巡って知られざる百年戦争が今日まで続いている。

 アンゴラはアメリカとヨーロッパの財閥によって広大な鉱区のダイヤとゴールドが収奪され、ナイジェリア、南ア、ジンバエブと共に石油も銅山もコバルトも、ウランも、皆一つの資本で動かされてきた。97年にゲリラの勢力のカビラ大統領が登場すると、北米大陸の企業群が新たに現地に入り込んで代理戦争を展開しているのである。

 アフリカには世界の産業を支える膨大な鉱物資源が領土の地底に眠っている。その豊かな富の量に比例して、人間が殺され、そこにIMFの資金が不思議な形で流れこんなでいる。これらの紛争がアフリカ人のための闘いであるはずがない。(広瀬隆著『パンドラの箱』NHK出版より)

 結局世界の金融資本が「アフリカをくいもの」にして肥え太っていく構造になっている。それは奴隷制度の流れの中にあり植民地時代から続いている支配の延長線であり、人類がいまだ人種差別の構造から全く抜け出られていないという現実を突きつけているものである。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

アフリカの悲劇・1-砂漠化・温暖化

2月24日(日)
1、アフリカの砂漠化
sabaku2.jpg◆気候的要因
気候的要因として、まず干ばつがあげられる。1968~1973年に起きたサハラ(西アフリカ)周辺の干ばつでは大地が干からびて、2,500万人もの人が被災した。地球温暖化も、砂漠化の 原因になっていると考えられる。

温暖化が進めば、地面からの水分の蒸発が激しくなり、また、海からの水分蒸発量が増えると、台風やハリケーンが大規模化して、植物に被害を及ぼしたり、土壌を押し流すと考えられている、そして、砂漠の拡大が温暖化の原因になり、悪循環が起きる。(写真:砂漠化が進むサヘル-サハラの南側地域・地球環境キーワード事典)

◆人為的要因
人為的要因として過放牧や過耕作、塩害、森林伐採などがある。肉や乳製品を手に入れるための過剰な家畜の放牧は、自然のバランスを崩し、不毛の大地を増やしてしまう。こうして植物が少なくなると風で土が飛ばされる“風食”や水で土が流される“水食”などが起こり、大地は荒れ果ててしまう。ひとつの土地で連続して同じ作物を作り続けると(過耕作)、養分(地力)が減り、最後には、ほとんど収穫できなくなる。

◆人為的要因2
森林伐採で木材を売るためや、薪や炭にするために木を切り過ぎると、森林は元の姿に戻れなくなるばかりか、荒れ果てて、砂漠化してしまう。さらには、感慨によって地下水をくみ上げて農業に使うことが、地面が塩だらけになる“塩害”などになっていくと考えられる。また、砂漠化の根本的な原因を作っている、そこに住んでいる人々の貧困および急激な人口増加といった社会・経済的な問題があげらる。

◆貧困問題
貧困は、砂漠化のもっとも大きな原因。貧しい人々は飢えに苦しみ、無理な方法で食糧を生産しなければ、生き延びることができない。そして、砂漠化が貧困をさらに加速する。砂漠化のため農村を見捨て、都市のひどいの環境のスラムに流れ込む。

◆人口問題
地球上の人口は、人口爆発と言われるほど急激に増え続け、条件の悪い地域への農地の拡大をもたらし、その結果、土地の細分化、森林伐採、そして砂漠化が生じる。殺虫剤やその他の化学物質の過剰使用も土壌の肥沃さの損失、劣化、そしてやはり砂漠化に結びつく。砂漠化によって食糧を増産できなくなるなってきている。

2、アフリカの砂漠化をもたらした先進国の責任
■国際競争力に打ち勝つための安い商品の生産→農業の破壊
あらゆる農産品も世界市場の中で取引されるようになり、特に発展途上国の多くでは外貨獲得のための農産品生産が急増しており、世界市場の中で競争力のある=低価格で高品質の農産物を生産するためには、伝統的な焼畑以上の速度で森林を食い潰すことになる。

■砂漠化の要因の外部的要素

例えば、世界経済の情勢、物価、利子率、エネルギー輸入、文化様式、および条件付援助事業などが含まれる。これらの外部的要素は内部的要素、例えば、不適切な政治・政策体制、低い環境投資水準、および高い人口増加率などと複合して、適切な土地管理を妨げ、砂漠化の悪化をもたらす。

■現在の世界経済のシステムの問題

自給生産に基づいていた先住民の経済システムを急速に大量商品生産の世界経済に巻き込み、先住民にしばしば土地の過剰耕作を強いています。貿易と構造調整計画、そして不適切な技術移転がさらに問題を悪化させています。多くの開発途上国の経済が、自ら制御不可能な世界市場への第1次産品、例えば換金作物の輸出にひどく依存しています。

■先進国の責任
先進国が経済的な強さを利用して、安い牛肉や安い木材などを開発途上国から買いつけることで、それらの国々の土地を荒らす結果となっている。熱帯の森林を切り開いて牛を放牧し、ハンバーガー1個につき4~5円安くすることができたと言われている。
しかしそのために伐採した森林の面積は、ハンバーガー1個につき5平方メートルで、そのことによる実際の損失は、数万円分に相当します(ワールドウォッチ研究所)。私たちが安価なハンバーガーを食べることで、そのつけが途上国に大きなダメージを与えている。

3、アフリカが抱えている問題
▲「アフリカは21世紀に生き残れるか」と題する世界銀行報告書
アフリカの開発問題の課題について4点を指摘している。即ち、
 (1)紛争の頻発と弱い統治制度。
 (2)脆弱な人的資源-教育問題、年間2万人を超える頭脳流出、エイズ等の感染症など。
 (3)モノカルチャー依存経済の脆弱さ-交易条件は悪化し、対外債務は97年末で2200億ドルに上っている。
 (4)外国からの援助資金低下。

▲アフリカで繰り返される内戦
部族対立、資源争奪、貧困、冷戦時代の代理戦争、宗教対立、権力闘争、国境紛争、解放・独立闘争と様々な要因があるが、これに利権をむさぼる先進国列強がからみ戦争を拡大させ、より一層の貧困と人口集中をアフリカ人にもたらしている。

▲エイズ
エイズ等の感染症問題は近年ますます深刻化している。国連(UNAIDS)の発表では、99年末での世界のエイズ罹患者3400万人のうち、なんと3分の2に当たる2500万人がアフリカ人である。

温暖化の影響で2025年までに世界の人口の3分の2が水不足に苦しめられる。世界の人口は現在66億人、1分に140人、1日で20万人、1年で8千万人増えている。その中で毎日の食事ができるのは、約8%の人々。8億人が栄養失調状態であり、年間900万人が餓死している。この状態が集中的にアフリカで生じている。

こういった中で日本人の残飯による食生活の損失が11.1兆円であり、日本の農業・水産業の総生産額が12.4兆円で、ほぼ同じ金額である。食糧自給率が低下し、輸入食料が増える一方で生産額と同じ食料が捨てられているというのがまさに実情なのだ。この国は本当に滅びの道を選んで歩んでいるのではないか。

生物は100年前、10年間での絶滅は一種だった。最近では1日に40種の生物が絶滅している。地球は加速度的に破滅に向かっている。人類は生き延びられるのか。それはこれから何をするかにかかっている。

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医療費について

2月23日(土)
ベルケード療法の費用について
昨日ベルケード療法第4サイクル4回目をやった。ベルケード療法は8サイクルを行うことによって一工程を終了する。ベルケード療法を一工程するのに幾ら位かかるのかとふと思った。入院中とかでは他の出費もあるのでベルケード療法自体の支払額が分からない。

第4サイクルのそれぞれの自己負担支払額は
  1回目は34,130円
  2回目は28,780円
  3回目は27,190円
  4回目は27,230円
    合計117,330円


1回目の金額は服用している薬代が含まれているので多い。一回平均27,000円で1サイクルはその4倍で108,000円の自己負担が生ずるというわけだ。健康保険によって自己負担が3割だから、残りの7割は健康保険組合が支払う。総額360,000円となる。これを8回行うと288万円となる。

医者がベルケードが保険適用を受けられないで使用した場合300万円位かかるといったのは決して大げさでなかったことが良く分かる。ベルケードが厚生省によって承認されたのが2006年12月でそれまでは多くの患者は自費購入で300万円の金を薬代として支払っていたわけだ。

高額医療費の返還
医療費が高額になった場合、健康保険での3割負担以外に高額医療費払い戻し請求が出来る。国民健康保険の例を挙げてみる。

払い戻しの対象は、基本的に同一人が、同じ病院や診療所で(総合病院はそれぞれの診療科ごとに)、1か月間に(1日~月末の間)、入院と外来は別々に下表の金額を超える医療費を支払ったときに、手続きを行う事により、戻ってくる。(ただし、部屋代や、食事療養費代金は、対象外。)
 
 区分        対象となる医療費の額
  一般           72,300円
  上位所得者(*1)   139,800円
  低所得者(*2)     35,400円
(*2)低所得者=療養のあった月の属する年度(療養のあった月が4月または5月の場合にあっては前年度)分の市町村民税の非課税世帯または生活保護世帯の者 。

 例:一般サラリーマンの場合
  病院に支払う額 30万円(3割負担)
  実質的な自己負担 7万2300円+(100万円-24万1000円)×1%=7万9890円
  払い戻される金額 30万円-7万9890円=22万110円

組合健保でのメリット
私の勤めていた会社はマネキン・ティスプレイ業界と言われている職種で、この業界関係をまとめている健康保険組合(組合管掌健康保険・組合健保-企業や企業グループ・単一組合、同種同業の企業・総合組合、一部の地方自治体・都市健保で構成される健康保険組合が運営)があったので、以前は政府管掌健康保険だったが、こちらの健康保険組合に加盟した。業界の平均年齢が若いということもあって、病気になる人が少ないのか、高額医療費返還額が国民健康保険と比べてはるかに良かった。

国民健康保険だと1ケ月の医療費の自己負担額が8万以上でないと戻らない。しかし加入した健康保険組合では2万5000円以上の自己負担分が戻ってくる。移植手術など行えば支払額は1ケ月60~70万円はかかる。一旦は自己負担せざるを得なかったとしても、2,3ケ月後に2万5000円以上が高額医療費として戻ってくる。

2006年の4月から変わったのか、以前は自己負担分の3割を支払っていたが、入院時に「健康保険限度額認定証」というものも健康保険組合から発行してもらうと、国民健康保険の限度額である8万円のみ払えばいいという制度になった。医療費がかなり高額であったとしても、病院窓口で支払う額が8万円で済むというのはかなり楽だ。

この健康保険組合による高額医療費支払いによって、どんなに医療費がかかったとしても25,000円×12=30,000円以上はかからない。これによって医療費の問題に関しては精神的負担がかなり軽減される。

傷病手当金制度(病欠中無給時支給制度)
組合保険のもう一つ大きなメリットは傷病手当金の支給だ。病気やケガの療養のために会社を休み、給料が支払われないか、6割未満になった場合に、4日目から最長1年6か月の間、標準報酬日額の6割が支給される。この制度は国民健康保険にはない。給料の6割というのがどれ程重要かつくづくと思う。これで既に1年半世話になった。働いていれば付き合いとかでそれなりに金を使う。付き合いも出来なく、外に出ることもあまりない入院生活や病気療養生活中での給料の6割は医療費を支払っておつりが来るほどの額であるのは確かだ。

市町村税の医療費控除
市町村税に対する医療費控除という制度がある。1年間に支払った医療費が10万円または年間所得(給与所得控除後の金額)の5%を超えた場合、確定申告で医療費控除(200万円を限度とする)すれば税金が還付される。病院の治療代だけでなく、通院にかかった交通費や、治療目的のための市販薬、マッサージの費用も医療費控除の対象となる。申告には支払った領収書が必要。 

 ガンという長期で高額な医療費が要求される病気にかかった場合、金銭的心配が病状の不安に追い討ちを掛け、将来に対する見通しが全く立たなくなる。日本の福祉には色々問題を感じたとしても今ある制度をどれだけ利用し活用できるかが、どのようなながん治療を行っていくかにとってきわめて重要である。

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ベルケード第4サイクル4回目

2月22日(金)
10時に病院に着いた。いつものように最初に血液検査をやった。診察予約は11時だった。医者が血液検査の結果を見てベルケードをやれるかどうか判断するのだ。12時になっても呼び出しがなかった。いつもは予約時間前に声がかかった。

12時しばらく過ぎてから看護師が呼びに来た。担当のO医師が朝は出勤していたのだが熱が出て早退したので代わりの医師が診るということだった。

2月12日にO医師が医者も病気になるといった不吉な予言が実現してしまった感じだ。O医師は2005年11月24日に最初にこの病院に来た時に担当し、それ以降ずっと担当医師として面倒を見てもらっていた。

彼の発想法は、血液ガンという病気を人生最大時の深刻事項といって考えすぎるのでなく、人生の一つの出来事としてありのままさらりと受け止め受け入れていく、そういったように患者に対応し、そのことが患者にそれとない安心感を与えてきた。

O医師の代わり医師の診断で行われた。血小板は7.2でありその他のデーターも許容配意だったのでベルケードは予定通り、前回と同じ量投与することになった。

今日はかなり外来治療室(通院治療センター)が混んでいて、20ばかりあるベッドは一杯だった。点滴薬も、処方が遅かったこともあって、来るのに1時間以上かかった。点滴を始めたのが1時30分頃、終わったのが14時過ぎであった。

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自分探しの旅

2月22日(金)
 自分探しの旅
人生とは生きる意味を見つけるためにさまよい歩く永遠に続く旅のようである。多くの人は日常生活の繁忙さに追いまくられながらそれを理由として考えないで過ごすことが出来るし、むしろ考えようとしない、その問いに蓋をしてしまっている。ゆっくり出来るようになったら考えればいいと答えを先伸ばしにしている。

しかし、限られた時間しか残されていない者にとって日々その問いかけと格闘する他ない。そういった意味で日々自分探しの旅を続けているともいえるだろう。自分とは何か、何が出来るのか、何がしたいのか、模索し続ける。答えが見つかることも見つからないこともある。しかし重要なのはその格闘の過程だろう、恐らくそこから何かが見えてくるだろう。

黒沢明監督の『生きる』という映画が問いかけているものは「人間いかに生きるか」であった。監督はこの映画の趣旨を「あの映画で僕が自分に問いかけたのは『どうしたら心安らかに死ぬことが出来るか』だった。答えは『いつもベストを尽くして生きていく』ということだった。死を思うことは生を問うことなのだ。」と言っている。

この映画の主人公は死に直面して初めて自分の無意味な生き方に気づく。いやこれまでに自分がまるで生きていなかったことに気づくのである。

人生とはどういうものであるのか。まじめで家族子供のためと、黙々と自分の欲を殺し、それがいいと生きてきた男。また、役所のために生きてきた人生。主人公は市役所に勤める日々を無気力に過ごしていたが、ある日自分が胃ガンで余命が少ないことを知る。絶望の果てに自分の無意味な人生に愕然するが、死を見つめることによって、何をすべきか考え「生きる」ことの意味を見出す。

何時死ぬか分からないという人生を限りあるものとして考えれば、日々一日一日の大切さを知ることになりまた違った人生が開けてくる。そこから生きることの意味を見出していけるだろう。

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ジャンル : 日記

湯島天神、神田明神、湯島聖堂

2月21日(木)
湯島天神-梅はまだだった。
l_00001558IMG1.jpg湯島天神は梅の名所ということだ。まだ2,3分咲きであると見頃情報にはあったが、病院に行った帰り道に近かったということもあって足を伸ばした。千代田線の湯島駅を根津方面に降り地上に出ると、不忍通りと春日通りの交差点に出る。

春日通を本郷方面に向かって100m程坂を上がって行くと崖沿いのゆるやかな石段がありそれが女坂であり、春日通を神田方面に少し行くと右側・境内東側に急な石段がありそれが男坂である。

湯島天神は江戸時代初期から梅の名所で、行楽を兼ねた参詣人でにぎわい、その周辺には岡場所かあった。また、幕府公認の富くじが江戸時代の中頃からの境内で興行されるようになると、神田・日本橋に近いこともあって一年中かなりの賑わいぶりであったという。

平日の昼下がりだというのに境内は屋台が立ち並びかなりの人手で賑わっていた。「学問の神様」への合格祈願に受験生が来ているのだろうかと思ったが、若い人はあまりおらず、梅見見物の高齢者が多かった。しかし、ここの梅は残念ながら白梅が咲いている木が何本かある位で、ほとんどが蕾のままでまだ花をつけていなかった。

例年梅祭りは2月8日から3月8日だという。今年の冬は寒かったせいで開花時期が遅れているのだろう。そういったことで梅を見るということがないので、境内をぶらっと一周して湯島天神を後にした。帰りは御茶ノ水駅に出ようと坂を下っていった。坂下の天神下界隈は関東大震災・大平洋戦争の戦災の被害を免れた一角で、木造の古い家並みが残っており、下町の雰囲気を漂わせている。

湯島天神の歴史
雄略天皇の勅命により御宇2年(458)創建と伝わる古社。天手力雄命(あめのたぢからをのみこと)と菅原道具公を祀る。のちに太田道濯が再建、徳川家康が江戸城に入る時、泰平永き世 が続き文教大いに賑わうようにと豊島郡湯島郷内に5石の朱印地を寄進し信仰した。以後林道春・松永尺五・堀杏庵・僧堯恵・新井白石などの学者・文人の参拝がたえることなかったという。

湯島天満宮の由来
道真が亡くなった後、平安京で雷などの天変が相次ぎ、清涼殿への落雷で大納言の藤原清貴が亡くなったことから、道真は雷の神である天神(火雷天神)と同一視されるようになった。「天満」の名は、道真が死後に送られた神号の「天満(そらみつ)大自在天神」から来たといわれ、「道真の怨霊が雷神となり、それが天に満ちた」ことがその由来という。道真が生前優れた学者であったことから天神は「学問の神様」ともされ、今なお多くの受験生が合格祈願に詣でる。

菅原道真と梅
道真は延喜元年(901年)、従二位に叙せられたが、斉世親王を皇位に就け醍醐天皇から簒奪を謀ったと誣告され、罪を得て大宰権帥(だざいごんのそち)に左遷される。道真は延喜3年(903年)、大宰府で没し同地に葬られた(現在の太宰府天満宮)。道真が京の都を去る時に「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」と和歌を詠み、その梅が大宰府に移動したという飛梅伝説ができたことから、梅がシンボルになっていることが多い。 


神田明神
不忍通りを蔵前通り方面に向かっていき、通りを渡ると高台への坂があり、そこが神田明神だった。

「創建は730(天平2)年といわれる。祭神は大己貴命であるが、12世紀初頭に、現在の皇居に居館を設けた江戸氏の氏神と伝えられる江戸大明神を合祀した。さらに朝敵の汚名をきせられながらも坂東の民衆に敬愛されてきた平将門(?~940)の霊を、いつしか 境内鎮守の明神として祀るようになり、江戸の産土神・氏神として代々の領主や民衆に信仰されるようになった。」という由緒ある神社だ。

東京に長年住んでいながら、湯島聖堂もそうだが、御茶ノ水駅は何度も利用しているのに全く立ち寄ったことがない。逆に東京に住みの東京知らずということになるのだろう。何時でも行けると思うと結局は行けない。境内をざっと見学した。神田祭りはさぞ盛大だろう。パネル写真がいろいろ飾られていた。

湯島聖堂
聖橋に着くとその手前が湯島聖堂((国史跡)だった。御茶ノ水駅の目の前歩いて1分、しかし行ったことがない。そういったものなのだろう。初めて見る古色蒼然とした建物、階段が工事中で下から登ってはいけなかったし、建物の中は土日しか公開されないということで見ることは出来なかったが、江戸時代からの学問所の建物がそのまま残っているという貴重なものだ。かって全国から学問を究めるために集まった若者がどういった夢を抱きながらこの門をくぐったかと思うと感慨深いものがある。

湯島聖堂の歴史
1790(寛政2)年、武士の学問を重視した老中松平定信は、儒学のなかで朱子学を正学とし、他の学派を異学とする寛政異学の禁を定めて、朱子学の振興 をはかった。柴野栗山・岡田寒泉ら林家の系統以外の学者を教官に登用し、1797(寛政9)年には聖堂西隣の学寮・宿舎を建てるなど、施設の整備拡充をはかり、幕府の正式の学校とした。やがて昌平坂学問所と名づけられ、直参の弟子のほか、諸藩の俊才が青雲の志を抱いて集まる最高の学府となった。

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ベルケード第4サイクル、IgMの上昇

2月20日(火)
ベルケード療法第4サイクル3回目
昨日、19日ベルケード療法第4サイクル3回目を行う。事前の血液検査で血小板が8.6、白血球が4.8、ヘモグロビンが11ということでベルケード投与は可能だという判断をした。
IgMの検査に関しても同時に行った。健康保健適用の関係でIgMの検査は2週間に1度しかできない。

その結果、IgM値はまたもや上昇して848となり、1月31日の検査結果622から226も昇してしまった。今回はベルケード1.5mg、デカドロン20mgを静注するが、次回からはベルケードの量を少し増やした方がいいという話を医者とした。しかし増やして血小板が減り途中で治療を中断せざるを得なくなったら同じことだ。また倦怠感が強まったり、手足の痺れが強くなったりする恐れもある。

指先の痺れはベルケードを始めてからしばらくしてから、かなり早い時期に感じた。足に関しては最初はつま先だけだったが、そこから足の裏全体が痺れてきたのは今回の第4サイクルになってからだ。足の裏の痺れはそれだけに止まらず長い時間歩いていると腿やふくらはぎにかなりの疲労感をもたらしている。末梢神経障害が激しくなると歩いている感覚が足に感じられなくなり転んでしまうそうだ。薬の蓄積により副作用が強まってきているのだろう。

薬の作用が蓄積によって強まっていくのなら、IgMにも影響し、減って当然だと思う。抗がん剤として効果が薄れてきて、副作用が強まるというのはどうも納得いかない。効果があれば少し位辛い治療も我慢できるが、効果がなければ何のためにやっているのか分からない。確かにベルケードによって本来もっと急激に上昇してくるIgM値を抑えているともいえるだろう。

今回デカドロンをベルケードと同時に投与した。それがどういう風に影響するか見る必要がある。また2月22日の第4サイクル第4回目でベルケードを増やした場合どうなるかも見なければならない。色々試行錯誤を繰り返し効いて行く道筋を探していかなければならない。薬物耐性なのかどうか。ベルケード療法は10月26日から始めてまだ4ケ月しか経っていない。薬物耐性が出来てきているとは思えないが、考えてみる一つの要素ではある。

ベルケード療法によるIgMの推移
ベルケード療法第1サイクル―10/26、10/29、11/2、11/5の4回投与
べルケード療法第2サイクル―12/11、12/14、12/18、12/21の4回投与
ベルケード療法第3サイクル―1/1、1/15、1/18の3回投与
ベルケード療法第4サイクル―2/12、2/15、2/19まで

採血日時   10,3  10,17  10,26  11,9  11,26  12,10 12,28  1,11  1,31  2,19
IgM      1892  1955   2269  1368  617   457  405   496  622   848

無題

薬物耐性
薬物の反復投与により、最初は著明な効果があった薬物が、連用することによって徐々に高濃度でも効果が低下していく現象を言う。薬剤耐性の病原体が、どのような生化学的メカニズムで、化学療法剤による排除から逃れるかについて、以下のように大別できる。

薬剤の分解や修飾機構の獲得-化学療法剤として用いられる薬剤を分解したり化学的に修飾する酵素を作り出し、それによって薬剤を不活性化することでその作用から逃れる。細菌やがん細胞の薬剤耐性機構として見られる。

薬剤作用点の変異-化学療法剤の標的になる病原体側の分子を変異させ、その薬剤が効かないものにすることで薬剤の作用から逃れる。微生物やがん細胞などに全般に見られる方法であり、ウイルスの薬剤耐性はほとんどこの機構によるものである。

薬剤の細胞内蓄積の阻害-薬剤が病原体の細胞内に入り込むときに利用する分子の変異によって取り込みを阻害したり、薬物を輸送する分子を獲得して細胞外に排出することで、細胞内の薬物濃度を下げる。細菌やがん細胞など、細胞からなる病原体の耐性機構に見られる。(Wikipediaより)

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

ランス・アームストロング 『ただマイヨ・ジョーヌのためでなく』

2月19日(火)
ランス・アームストロング(1971年生まれ)-ガンからの生還
水泳、トライアスロンを経て自転車ロードレースの世界へ。92年のバルセロナオリンピック出場後にプロに転向し(当時のオリンピックはアマチュアのみの大会だった)、翌年のプロ初シーズン、ツール・ド・フランスでステージ1勝、世界選手権プロ・ロードレース優勝。95年にもツール・ド・フランスでステージ優勝している。

96年のアトランタオリンピック後に睾丸がんが発見され、命もあやぶまれたが、98年に復帰、翌99年にツール・ド・フランスで初の総合優勝、以来、歴代のチャンピオンに並ぶ5連勝、そして2004年には誰も過去になしえなかった、前人未踏の6勝を6連覇でマーク、2005年のツール・ド・フランスで圧倒的な力の差で7連覇を達成し、サイクルロード・レーサーとしての大記録を残し、2005年7月に現役を引退した。

1996年10月、アームストロングは医師から自身が精巣腫瘍(睾丸がん)に侵され、既に肺と脳にも転移しており、生存確率は20~50%であることを告げられる。精巣腫瘍にはブレオマイシンなどを使用した化学療法を施すのが一般的だが、ブレオマイシンには肺毒性があり、間質性肺炎を引き起こすなど、心肺機能を低減してしまう副作用があり、プロの自転車選手として復帰することは不可能になると判断したランスはこれを拒否した。

結局インディアナ大学医学部で心肺機能へのダメージは少ないがより過酷な化学療法を施し、さらに脳の浸潤部を切除することでどうにか回復した。小康状態となったという診断を受けて、トレーニングを再開した。

挫折と喪失感に満ちたどん底から這い上がり、勝利の栄光をつかむ。それも23日間、4000キロにわたってアルプスやピレネーを走破するもっとも過酷なツール・ド・フランスで。その数か月後には、精子バンクに預けておいた最後の精子で子供も授かった。

死と向かい合ってはじめて、彼は気づくことができた。周囲の人たちの優しさに、人を愛することに、そして、生命の素晴らしさに。仕事でしかなかった自転車は、限りある生命を燃やす「生きがい」へと変わっていった。

ランスは1987年にランス・アームストロング財団(LAF)を 設立した。この財団は、癌(ガン)を抱えながらも、“live strong”強く生きていくため に役立つさまざまな情報やツールを提供している。設立の趣旨は「あなたの癌(ガン)との戦いにおいて、団結して取り組むことは強さをもたらし、知識は闘病生活の力となり、その戦いに 望む姿勢こそがすべてである。」としている。

ランスランス・アームストロングの言葉-『ただマイヨ・ジョーヌのためでなく』より
(安次嶺佳子訳 講談社刊)
「本当の話ツール・ド・フランスでの優勝とガンのどらかを選ぶかと訊かれたら僕はガンを選ぶ。奇妙に聞こえるかもしれないが、僕はツール・ド・フランスの優勝者といわれるよりは、ガン生還者の肩書きの方を選ぶ。それはガンが人間として、男として、夫として、息子として、父親としての僕にかけがえのないものを与えてくれたからだ。」

「病気が僕に教えてくれたことの中で、確信を持っていえることは、僕たちは自分が思っているよりずっと素晴らしい人間だということだ。危機に陥らなければ現れないような自分でも意識しないような能力があるのだ。」

「断言していい、癌(ガン)は僕の人生に起こった最良のことだ。」 

注:ツール・ド・フランス
毎年7月に3週間以上かけて行われるステージレース(自転車耐久レース)で、距離にして3500km前後、高低差2000m以上という起伏に富んだコースを走りぬく。フランス国内でのレースが中心だがイギリス、イタリア、スペイン、ベルギー、モナコなど周辺国が舞台になるステージもある。

黄色のジャージ「マイヨ・ジョーヌ (maillot jaune) 」
個人総合成績1位の選手に与えられる。各ステージの所要時間を加算し、合計所要時間が最も少なかった選手が「マイヨ・ジョーヌ」着用の権利を得る。

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ジャンル : 日記

哲学堂公園-梅

2月18日(月)
 朝から快晴だった。しかし午前中は北風が強く吹き、かなり寒く表に出る気はしなかった。しかし昼前に風はぴったりと止み気温も上昇し、春めいた暖かい日差しが辺りを包んでいった。寒い日は一歩も外に出ない日が何日かあった。そんなことを続けていると体が鈍ってしまう。

ume3.jpeg 梅の開花情報が目に付くようになって大分経つ。かなり咲いているだろう。梅の見頃情報でも都内で3,4分咲きということだ。近くで梅を見られるということで哲学堂公園に出掛けた。暖かい陽だまりの中で、日向ぼっこをする人、本を読む人、将棋をしている人が穏やかな日差しの中でのんびりとした雰囲気を作っている。

ほとんどの人が老人だ。退職して家にいてもしょうがないから公園でぶらぶらしているのかもしれない。働く気があっても高齢者の就職は難しい。

 発病から既に2年と3ケ月。その間仕事は全くしていない。このうち1年間は入院生活だ。一体この間何が出来たのだろうか。何をしたのだろうか。仕事をしていた間は、仕事以外何もしていなかった。仕事に追いまくられていた。家に帰っても寝るだけのような生活だった。

しかし今はすべてが自分の時間だ。あこがれた悠々自適の生活であるのは違いない。近くに図書館もあり、ブックオフもあり、池袋まで行けばジュンク堂やブック・リベロ等の大きな書店があり欲しい本は読むことができるし、情報はインターネットでも手に入る。読みたい本を読み,書きたいことを書いて、テレビドラマや映画は見たいだけ見ることが出来、行きたい所に行き、後は家事をこなすだけだ。

しかしそれで満足なのだろうか。充実した生活なのだろうか。その問いは絶えず発せられる。確かに治療は続けなければならない。だるさにぐったりしてしまうこともある。今は末梢神経障害で手や足の先が痺れている。3,4日前からひどくなってきている。

以前植物アルカロイド系の抗がん剤ヴィンクリスチンを使用していた時も末梢神経障害はあったが今回はそれとは比較にならない程痺れは強い。まだ包丁を持てなくなるとか、歩行に困難をきたすほどではないが、これ以降のベルケードの投与で痺れが強まっていく可能性はかなりあるだろう。

 哲学堂公園の梅林は妙正寺川を挟んで桜の広場と向かい合っている。梅はまだ十分咲いているとはいえない。冬至という白梅と八重寒紅という紅梅が静かに花を咲かせている。

早咲きの八重寒江の紅梅は既に満開近く花開いている。桜の華やかさはないが、厳しい冬の寒さから春を迎え、心の重荷を開放するかのような暖かさと優しさを表現しながら花を咲かせている。赤と白のコントラストが他の植物が枯れ果てた中に佇み自己表現している様は生命の循環を深く印象づけるものである。

    「梅一輪 一輪ほどの あたたかさ」 服部嵐雪

 仕事をしていた時には梅も桜もなかった。花をめでるなどという心の余裕はなかった。今は自然をありのまますんなりと受容することが出来る。自然の流れのままに生き、死んで行く。がむしゃらに運命に逆らったり、立ち向かったりするのではなく運命を受け入れそこから何かを始めようとする、そういった穏やかな心構えが必要ではないか。

「宿命転機」という言葉がある。自らに科せられた運命を見つめ、受け入れそこから新たな自分を見出していくそういった生き方が問われているのではないか。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

地球温暖化の問題

2月17日(日)
『インディペンデント』の記事
「地球の気温が現在から2.4度上昇した場合、北アメリカでは新しく発生した埃の塊が、アメリカ中心部、ネブラスカ州を中心とした高原を砂漠化する。南はテキサス州から北はモンタナ州まで北米の5つの州に渡って砂丘が出現することで、農業や牧畜が消滅する。

グリーンランドの氷床の溶解が止まらず海面上昇が加速、珊瑚礁や低地デルタ地帯を海に沈めることになる。ペルーとアンデス山脈の氷河が消え、1000万人が水不足に直面する。海水の温暖化はグレート・バリア・リーフを消し去り、熱帯から珊瑚礁が実質的に消滅することになる、世界中で3分の1の生物種が絶滅する。」

この記事は2006年2月3日付「インディペンデント」紙の記事の冒頭である。この記事の後3.4度、4.4度、5.4度、6.4度上昇した場合、地球はどうなっていくのかが書かれている。

地球温暖化は止まることを知らない。全米科学振興会会長のジョン・ホルドレン教授は「既に世界は危険な気候変化の状態に入った。管理不能なほどの気候変動を回避することはもはや不可能ではあるが、しかし今こそ行動を起こすべき時である。」と警告した。NASAゴッダード宇宙研究所のジェームス・ハンセン所長も「この10年に大きな変化を起こさなければ人類は滅亡しかねない」と言う。人類が生き残るには、楽観的に見てこの10年が勝負だというわけだ。

2003年10月米国国防総省による報告書が出された。「地球温暖化によって2020年まで続く未曾有の異常気象こそ今後の我が国、更には世界各国を苦しめる深刻な問題となるだろう。温暖化によりヨーロッパ主要都市は水没、アジアは大干ばつで砂漠化し、世界はパニックに陥り、無政府状態となり、気象災害と戦乱(水、食糧、エネルギーの争奪戦)で数百万人が犠牲になる。」「テロよりも温暖化のほうがアメリカにとって国内外の安定でははるかに国家的脅威である。」

地球温暖化の現象i_0203_01.jpg
地球温暖化は人間活動の拡大で、二酸化炭素・メタン・亜鉛化窒素などの温室効果ガスの濃度が増加することで、地球の表面温度が上昇し以下のような現象が起きる。

1、海面水位が上昇することで、領土がなくなる。水没の危険。
2、豪雨・干ばつなどの、異常気象の増加。
3、生態系への影響・貴重な遺伝子の減少。
4、森林伐採や異常気象による砂漠化の進行。
5、水資源などへの影響、水不足の発生。
6、熱帯性感染症発生の増加(マラリヤ・コレラなど)
7、気温上昇による穀物生産の低下。食糧不足問題。

トロント大学の研究グループが50年後の地球のシュミレーターを出した。「北極地方では海水面が拡大し、白夜の夜は熱帯のように感じるようになる。南アジア一帯はモンスーンによる豪雨が荒れ狂う。南極北極の氷が溶け、アジア沿岸地帯は水没し、田畑も水を被る。夏の猛暑が地表から水分を奪い、耕作地は荒地と化す。北半球のカナダ、北欧等高緯度の国ほどダメージは大きい。平均気温2,3度の上昇でも北極圏の近くでは10度も上昇する。」

ポジティブ・フィードバック
このような進行しつつある事態が、ある現象を引き金として連鎖的に次の脅威を生み出して、それよって温暖化を加速度的に進行させてしまう。このポジティブ・フィードバック(悪循環)の例を5つ挙げて見よう。

1、凍土の溶解
シベリアの森林伐採によってむき出しになった永久凍土が溶け池が出来、更にそれが太陽熱を受け広がり湖となる。この湖の底からメタンガスが湧いてくる。このメタンガスが地球温暖化を二酸化炭素の20倍以上進めてしまう。シベリアではこの30年間で平均気温が2度も上がり、メタンを放出する湖の面積は2000年には1974年に比べて58%も増えている。

2、森の衰退
急速な温暖化では木は成長できなくなる。森が二酸化炭素を吸収する場から、排出する場になってしまう。「10年間の間に0.13度の気温の上昇がある」という。すると木が生長する間に、10年間で距離にして85km南に植物分布が移動することになる。それによって木が次々と枯れ、微生物に分解され二酸化炭素を排出し、温暖化を加速する。

3、海の酸化
海は現在二酸化炭素を吸い込んでいる。大気中の二酸化炭素が増えると、酸性化した海水に珊瑚礁などが溶け出してくる。珊瑚の中には炭酸カルシウムの形で固められていた二酸化炭素が大量に溶け出し、海は二酸化炭素を吸収しきれなくなり、逆に排出する側になる。

4、メタン・ハイドレードの脅威
これは海の底の大陸棚に雪のように白く積もったメタンガスで、「燃えるシャーベット」と呼ばれている。地球の歴史の中でこのメタン・ハイドレードが溶けたことがある。解けたとき何が起こるのか。地球の海がすべて蒸発し、水蒸気になり生き物は全て絶滅した。

海が二酸化炭素を排出する程酸性化する頃には、メタン・ハイグレードも溶け出し、地球上の生命が絶滅してしまうこともありえなくはない。

5、氷河の溶解
極地の氷河は太陽の熱を反射して宇宙に戻していた。しかし今世界中で氷が溶け出している。すると地表面や海水面に直接太陽が当たり熱を反射するどころか吸収し、更に周辺の氷河を溶かしていく。むき出しになった黒い表土は今度は熱を吸収する。北極海やグリーンランドでは2005年から2006年の一年間で60k㎡、日本の面積の1.6倍の氷が消失してしまっている。

何が出来るのか
2007年2月「気候変動に関する政府間パネル」(IPCC)が地球温暖化に対する第4次報告を発表した。「気候システムの温暖化には疑う余地がない。このことは大気や大洋の世界的平均温度の上昇、雪氷の広範囲にわたる溶解、融解、世界平均海面水位の上昇が観測されていることから今や明白である。」と断言した。

こういった状況の中で我々は何が出来るか。田中優著「地球温暖化」の中に次のような提言がある。

1、社会の仕組みを変えてニ酸化炭素排出量を減らす―電力消費のピークを下げれば捨てる電力も減る。フロンガスの回収。
2、家庭からニ酸化炭素を減らす―省エネ家電の利用、待機電力のカット。
3、熱の省エネ―緑のカーテン、町の緑化、エコ住宅
4、自然エネルギーの活用-太陽光発電、風力発電、洋上(オフショア)風力発電、バイオマス発電、燃料電池。
5、石油は決して安くない・石油エネルギーからの決別-石油獲得のための軍需費、温暖化による災害復旧費、化石燃料に対する補助金を上乗せすると実際の価格の20倍になる。
6、食べ物を国産に変える-現在の膨大なフード・マイレージ-食物輸送距離がかかっている(日本9002億800万、一人当たり7093、単位t×km)。輸送にかかる運搬に伴うCO2の削減。

鶴瀬俊介著『気象大異変』の中の「今なら間に合う生き残り10ケ条」に次のように書かれている。

1、東海大地震の被害を食い止めるため浜岡原発(地震による爆発で800万人の死亡予想)を即時止めよ。
2、自然エネルギーにシフトせよ。
3、自動車産業をEV(スーパー・エレクシード-電気自動車)に大転換せよ。(CO2の20%削減)
4、鉄道、船舶輸送にシフトせよ。
5、オール電化住宅を規制せよ。
6、断熱材、断熱サッシに補助金を。(冷暖房エネルギーの大幅削減)
7、屋上・壁面緑化の推進。(原発25基が不要になる)
8、コンクリートから木造都市へ。
9、和食ベジタリアン国家へ。(牛肉半減でCO2は20%削減できる)
10、モミ米備蓄サイロを大量建設。(食糧自給率を高める)

温暖化の現状への理解を深めよう
個人の力では限界はあるが出来ることがないわけではない。例えば世の中からレジ袋をなくすだけで「温暖化防止」「化石燃料の節約」の効果がある。日本で消費されるレジ袋の数は300億枚。これを製造するのに原油約56万klが使われる。これは東京ドーム約450杯分になる。更にこれがゴミとして焼却される際に原油にして約18万klの石油が必要となる。

生産から焼却までの間に排出される二酸化炭素の量は120万トンとなる。確かにこれは日本のニ酸化炭素排出量の0.1%に過ぎない。しかし問題はこういったことへの自覚を通しながら地球環境への関心を深めていくことが重要だと思う。

参考文献:『地球温暖化/人類滅亡のシナリオは回避できるのか』 田中優著・扶桑社新書
       『気象大異変』 鶴瀬俊介著・リヨン社
       『レジ袋がなくなる日』 環境問題を考える編集者の会・マイクロマガジン社
  

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

新型インフルエンザの危機

2月16日(土)
ベルケード療法第4サイクル第2回目
昨日はベルケード療法第4サイクル第2回目で、血液検査もなく、11時に医師の診断を受け外来治療室に入り15分ばかり待って、点滴薬が到着し、点滴針を刺し点滴管を繋ぎ最初にベルケードと生理食塩水を静注、その後デカドロン20mgを点滴で30分落とし終了。かなりスムーズにいって12時30分には終わった。

前回はデカドロンを40mgに使用したが、今回は20mgに減らした。12日のベルケード療法をやった日の夜は2時間位しか寝られなかった、それにもかかわらず次の日はまったく眠くならなかった。覚醒作用が強かったので今回は半分に減らした。前回はベルケードの影響でかなり体力の消耗を感じたが、今回はデカドロン(ステロイド)の影響でそういったことはないが、かえって強すぎたようだ。なかなか調整が難しい。13日の続きで新型インフルエンザの脅威についてアプローチしていきたい。

新型インフルエンザの脅威
近年、鳥インフルエンザ(H5N1)が鳥から人に感染する事例が数多く報告されている。この鳥のインフルエンザウイルスが変異し、新型インフルエンザが発生する可能性が危惧されている。新型インフルエンザとは、人類のほとんどが免疫を持っていないために、容易に人から人へ感染するものであり、世界的な大流行(パンデミック)が引き起こされ、大きな健康被害とこれに伴う社会的影響が懸念されている。

過去の例
新型インフルエンザは、過去にも人類に襲いかかっている。過去の歴史を振り返ると、1918年の新型インフルエンザ(スペイン風邪H1N1):4000 ~ 8000万人死亡、日本は45万人死亡、1957年新型インフルエンザ(アジア風邪H2H2):200万人死亡、1968年新型インフルエンザ(香港風邪 H3H2):100万人死亡している。特に強毒性のH5N1が近年発生し、鳥から鳥以外に鳥から人への感染が認められ、人から人への変異は秒読み段階に 入っている。

新型鳥インフルエンザ・H5N1とはどういったものか
鳥から人へ感染しているH5N1のインフルエンザは、2007年4月1日現在 291例、その内171例死亡で、特に免疫力が高いとされる若年層に死亡が集中している。これはサイトカインストームともいわれ、過剰免疫による多臓器不全と考えられている。

インフルエンザウイルスの増殖速度は速く、1個のウイルスは1日で100万個以上に達する。また突然変異の起こりやすさも人の1000倍に達し、増殖速度と突然変異の起こりやすさを併せると、ウイルスは人が100万年かかった進化をたった1年間でやり遂げてしまう。突然変異した ウイルスのほとんどは生き残ることができずに死ぬが、中には、増殖できるものも現れて、このウイルスに人の免疫機能が対応することは極めて困難になる。

H5N1の世界的感染状況
このH5N1型鳥インフルエンザがヒトに感染したという例が2006年1月にトルコで報告された。さらに2006年5月にはインドネシアでは、「ヒト→ヒト→ヒト」というように人から人への感染が連続して起こったことが報告されている。ルーマニアにおいて、鳥インフルエンザに感染した鳥からH5N1型のウイルスが検出されており、人にも感染をする同ウイルスが欧州で初めて確認された。ロシアのモスクワ南方の州で鳥インフルエンザの発生が確認され、死んだ鳥から、アジアで多くの死者を出したH5N1型ウイルスも検出された。

中国の内モンゴル自治区にて、H5N1型ウイルスが確認され、これを受けて香港は、「流行が拡大した場合には、中国大陸との境界閉鎖もあり得る」といった発表をしている。完全に世界規模で、人間にも感染するH5N1型のウイルスが広まりつつあるという状況になってきた。

アメリカ政府は、欧州への感染拡大が始まる少し前に、「アジアで発生する新型インフルエンザの小さな流行が、人の動きを通じて数週間から2~3カ月で米国に達する」と推定するとともに、新型インフルエンザが米国で流行したら、最悪の場合、人口の3%近い約850万人が入院、死者は190万人を超える恐れがあるとする被害想定をまとめている。

新型インフルエンザが流行したら
国連では新型インフルエンザが出現した場合、全世界で1億5千万人が死亡するという試算を行っているが、アメリカ・ミネソタ大学の感染疫学専門家であるオスターホルム教授はその数字をさらに上回る1億8千万~3億6千万人という死亡者が出ると発表しいる。

WHO(世界保健機関)のイ・ジョンウク事務局長(2006年5月死去)は「もはや新型インフルエンザが出現する可能性を議論する時期ではなく、時間の問題である」と述べた。強毒性新型インフルエンザの危機はもうそこまで来ている。

インフル日本の場合
日本政府は人口の約1/4の人が感染し、医療機関を受診する患者数は最大で2500万人と仮定して、対策を講じている。また、過去に流行したアジアインフルエンザやスペインインフルエンザのデータに基づき推計すると、入院患者は53万人~200万人、死亡者は17万人~64万人と推定されている。

東京に限って言えば、人工が密集しているので、都民の30%が感染すると想定され、死者は1万4000人にのぼると予測されるという発表があった。しかし、これらはあくまでも過去の流行状況に基づいて推計されたものであり、今後発生するかも知れない新型インフルエンザが、どの程度の感染力や病原性を持つかどうかは不明であるということだが、これはまさに「今そこにある危機」であることは確かである。

参考文献
厚生労働省ホーム・ページ「感染症情報・新型インフルエンザ」
ウエブリブログ「Vivid Assosiation」新型ウイルスの恐怖

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ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』における「生をめぐる考察」

2月15日(金)
witt.jpg「世界は論理的空間における事実の総和である」
この言葉で始まる『論理哲学論考』は言語論理学の本であるといえる。しかし論理学と倫理学が哲学の双璧であるように、ヴィトゲンシュタインもこの本のごく一部(論考5・6、6・4、6・5番台)に「生の思想」を表現している。これを彼は倫理の問題として考えている。彼は第1次世界大戦に参戦し、そこで生死の狭間を垣間見ることによって、生きることの意味を探り始めたのである。

『論理哲学論考』の全体について語ることはその難解さゆえ不可能だ。しかしその中に書かれている生についての言葉の数々は、我々が世界との関係でどのような存在であり、どのような生を形成しえるのかを示唆するものである。

「科学上のありとあらゆる問題に解決が与えられたとしてもなお、人生(生)の問題はいささか も片付かないことを我々は感じている。」(論考6・52)といったところから思考は出発する。

世界と生
「世界の意味は世界を超えた所に求められるに違いない。世界の中のすべてはあるがままにあり生起するがままに生起する。」(論考6・41)
「世界とは私の世界である、という事実は、私が理解する唯一の言語の限界がとりもなおさず私の世界の限界を意味するという、その点に現れる。」
世界と生は一である。
「私とはわたくしの世界にほかならない。」(論考5・62)

 ここで語られているのは、生と世界が一つとなるような特別な生のあり方、すなわちそれは、生きることに意味があるような生のあり方であり、世界に意味があるような世界のあり方である。。そしてこの特別な生、特別な世界が成立する条件が倫理である。そしてその倫理については次のように語る。「倫理は世界に関わらない。倫理は論理と同じく、世界の条件でなければならない。」(草稿p261)

自我について
「私は運命から独立しうる。2つの神的なもの、すなわち世界と私の独立した自我が存在する。」(草稿p257)
「自我とは深い秘密に満ちたものである。」(草稿1916.8.6)

 独立した自由な私とは、圧倒的な世界と運命の力の前で、全く無力でありながらも自己の独立を保ち続ける存在である。そしてそのことが生と世界を意味あるものとする。同時にそのように生きることを通しながら、自分に対して確固たる自我の確立を図っていくのである。その時、自らを絶対的唯一者として自覚するのである。

唯一無二の自分の生
「もっぱら私の生は比類ないものであるという意識から、宗教、学問、そして芸術が生じる。」
「そしてこの意識が生そのものである。」(草稿p265)
「芸術作品とは永遠の相の下に見られた対象である。そして良い生とは永遠の相の下に見られた世界である。ここに芸術と倫理の連関がある。」(草稿p273)
「“永遠の相の下に”世界を直感するとは、世界を―限られた―全体として直視することにほかならない。」(論考6・45)
「倫理は先験的だ。(倫理と美的感覚とは一体である。)」(論考6・42)

 自分の生が比類のないものであると自覚することは、他者との比較を通して見出していくものではなく、自ら唯一無二なものとして生きることに他ならない。我々はたった一つの生を一回しか生きられない、その限りにおいて自分の生は唯一無二のものである。自分の生をありのまま見るということとは、事物、存在を単なる道具や対象としてではなく、一個の芸術作品として見る見方と共通するものを持っている。それはあるものを多くのものの一つとしてではなく、一つの世界として唯一のものとして見る見方である。

現在を生きる
「同時に死に際しても世界は変化せず。終息する。」
「死は人生の出来事にあらず。人は死を体験せぬ。永遠が時間の無限の持続のことではなく、無時間性のことと解されるなら、現在のうちに生きる者は、永遠に生きる。」(論考6・431)

 死は生の対極ではない。死は認識しえぬものとして人間の意識の中には存在しえない。存在し得ないものについて語ることも出来ないし、恐れたりすることもない。知りえぬ彼岸の世界などに惑わされるのではなく、きっぱりと語りえぬものとして決別し、今をいかに生きるかを追及すべきなのだ。生と世界に意味があると考え、そのように生きることを徹底的に追求していくことを通して今という時間を「永遠に生きる」ことが可能となるのだ。瞬間の中に永遠は瞬き現れる。

語りえないこと
「時間・空間のうちに生きる生の謎の解決は、時間空間の彼方に求められるのだ。」(論考6・431)
「言い表すすべのない答えに対しは、また問いを言い表す術を知らぬ。”これが謎だ“といえるものは存在しない。そもそもある問いが立てられるものなら、それに答えを与えることも可能である。」(論考6・5)
語りえぬものについては、沈黙しなければならない。」(論考6・54)

 結局ヴィトゲンシュタインは「生に対する考察」の結論として「倫理を言葉にしえぬことは明らかである」(論考6・421)と語り、多くの問題提起をしながらも語りえぬこととして封印してしまうのだ。そして「言い表せぬものが存在することは確かである。それは自ずと現れ出でる。それは神秘である。」(論考6・522)と締めくくっている。生きる意味は人に教えることも、人から教わることも出来ない。人はそれを自らの生において発見しなければならない。それを発見した時「生の問い」そのものは消滅する。

参考文献
『ウィトゲンシュタインはこう考えた』鬼界彰夫著・講談社現代新書
『草稿1914-1916年』の引用は上記文献より
『論理哲学論考』からの引用は坂井秀寿訳・法政大学出版局より

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豊島区散歩-6 雑司が谷鬼子母神

2月14日(木)
 「小ぬか雨降る 御堂筋 心変わりな・・・」という欧陽 菲菲の『雨の御堂筋』という歌があったが、小ぬか雨降る鬼子母神というわけだ。都電を大塚から乗って鬼子母神前で降り2,3分でケヤキが並木が見える。古いもので樹齢400年。昔から残っているケヤキの巨木は4本だけで東京都指定の天然記念物だが、現在では若木を補いながら江戸の旧観維持に努めている。大分成長した木やまだ細い木も取り混ぜて計20本位がケヤキ並木道を作っている。

境内を巡る
境内に入って石畳を進むと左右に石の仁王像がお堂を護っている。この二像は丈と幅が同寸といわれる珍しい姿で、盛南山という寺の観音堂にあったものが寄 進されたと伝えられている。

境内に入るとすぐ左に大公孫樹(おおいちょう)が聳えている。樹齢約600年といわれ、今も樹勢は止まってはいない。このイチョウの木の大きさは、色々な所で保護樹林のイチョウを見たが比べ物にならない位の大樹だ。今は枯れて葉は落ちているが、写真で見ると夏には境内を覆うような緑の葉が生い茂っており、涼を取るには最高の場所だろう。

鬼子母尊神が祀られる本殿、妙見堂、金剛不動尊を安置した法不動(のりふどう)堂、元禄12年(1699年)建立の帝釈天王の石像、また寛政3年(1791年)に茶・俳諧をよくした川上不白自筆の69,384の一字一石の法華経を納めた一字一石妙経塔などもある。

境内南東には、何十かの奉納された朱色の鳥居をくぐっていくと倉稲魂命(うけみたまのみこと)を祀った古社武芳稲荷があり、今は新築されているが、古来この地が稲荷の森と称されていた頃の幾百年の名残を伝えている。さらに本堂北側には、山岡鉄舟の雄渾な書体で描かれた碑もある。

aB080_convert_20100228211101.jpg 鬼子母神堂

鬼子母神堂の成り立ち
1561年、現在の文京区目白台付近の「清戸(せいど)」の畑から、鬼子母神像が発見され、武芳稲荷(ぶほういなり)の森を切り開いて像を安置し、鎮守(ちんじゅ)としたのがはじまりだった。

今の本堂は寛文六年(1666)の春に、前田利常の三女 満姫(浅野光晃の妻、自澄院殿)が、天下安全・子孫繁栄の祈願として造られた宝殿であるといわれ、豊島区内最古の建造物とされている。もちろんこの堂も何度か改修されているが使われている建材などはそのままだということだ。
 
雑司が谷鬼子母神は宝殿がつくられた江戸初期から多くの人がお参りに集まった。門前には茶屋(ちゃや)や料亭(りょうてい)が建ち並んでだ。お参りのおみやげには、「すすきみみずく」「麦藁細工の角兵衛獅子」「風車」などの子供のおもちゃが売られていた。麦藁(むぎわら)でつくった“さんだわら”または“べんけい”とも呼ばれるものに、これらのおもちゃをさし込んで売っていた。鬼子母神の前にあった料亭を描いた浮世絵もあり、このような料亭では、お金持ちの町人が集まって俳句を詠んだりして交流していた。

鬼子母神の由来
kisimojin_new.jpg その昔、鬼子母神はインドで訶梨帝母(カリテイモ)とよばれ、王舎城(オウシャジョウ)の夜叉神の娘で、嫁して多くの子供を産みました。しかしその性質は暴虐この上なく、近隣の幼児をとって食べるので、人々から恐れ憎まれました。

お釈迦様は、その過ちから帝母を救うことを考えられ、その末の子を隠してしまいました。その時の帝母の嘆き悲しむ様は限りなく、お釈迦様が戒めたところ、帝母ははじめて今までの過ちを悟り、お釈迦様に帰依し、その後安産・子育の神となることを誓い、人々に尊崇されるようになったとされています。

鬼子母神像は、鬼形ではなく、羽衣・櫻洛をつけ、吉祥果を持ち幼児を抱いた菩薩形の美しいお姿をしているので、とくに角(つの)のつかない鬼の字を使用している。

鬼子母神から池袋駅へ
小雨がぱらつく中人っ子一人いない境内を散策する。本堂の階段を上がると左側の隅にお守りなどのみやげ物を売っていたが店員はいなかった。雨が降ってなくても大銀杏だけでなく大樹が至る所にあり森閑とした雰囲気をかもしだしている。近くに住んでいたら、のんびりするのもいいだろう。池袋から程近いのに、何となく下町とか私鉄沿線の雰囲気がする。

大黒屋という団子屋がある。おせん団子の名前は、鬼子母神に千人の子供がいたことにあやかり、たくさんの子宝に恵まれるようにという願いに由来している。江戸時代には参詣の人々が境内で休むとき、また鬼子母神詣での土産として親しまれた。しかしこの団小屋も平日はやっておらず次の開店日は2月16日と張り紙がしてあった。

「上川口屋」という境内にある江戸時代から続く老舗の駄菓子屋がある。駄菓子屋のおばちゃんはなんと13代目だという。日本で一番古い駄菓子屋と言われている。古びたたたずまいがなんとも言えぬ味をだしていて心を癒す。鬼子母神のお告げがあって作られるようになったと言われている“すすきみみずく”はここで売っている。魔除けに効果ありとの事。ここも雨天休業ということで閉まっていた。

鬼子母神本堂を回って裏に出ると妙見堂がある。そこから外に出ると西参道商店街があり、2,3分歩くと明治通りに出る。地図では見ていたが明治通りがこんな近くにあるとは思わなかった。池袋の繁華街がすぐ傍にある。西参道の入り口から池袋駅まで歩いても10分もかからない。

都電から来た時は静かな町並みがあり、田舎町を思わせる雰囲気があった。ケヤキ並木の参道や鬼子母神の境内の静かさが都会を忘れさせてくれる空間を作り上げていた。それが明治通り方面に出ると都会の雑踏の中だというこのアンバランスが何故かスリリングな気分にさせてくれる。明治通りの車と人の波を10分ほど歩いて池袋駅に到着した。雨はひたすら降り続いている。

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ジャンル : 日記

ベルケード療法第4サイクル開始

2月13日(水)
ベルケード療法第4サイクル
昨日はベルケード療法第4サイクルの第1回目を行った。今回はデカドロン(ステロイド)が追加になる。11時に診療があるので、それまでに血液検査と、レントゲンの結果を出しておかなければいけないので、10前には病院に行き採血し、胸部レントゲンの撮影をした。11時に今日は全く待たされず診察室に呼ばれた。

血液検査の結果血小板数は10.7と順調に上昇している。白血球は3.2、ヘモグロビンは10・4であった。肺のレントゲンは異常なかった。ベルケードの副作用としての間質性肺炎の罹患の調査である。

新型ウイルスの脅威
薬を出すにあたって医者が恐ろしい話をしていた。「次に来られるかどうか分からないので2週間ぶり出しておきましょう。」と。実際には19日と22日にベルケード療法の3回4回目のため通院するのに何故か。「新型ウイルスの脅威が現実のものとなりつつあるのだ。病院ではその時のことを考え、色々シュミレーションをしている。

新型ウイルスが流行し始めたら、病院はその患者で一杯になり、廊下にも患者があふれ出してくるかもしれない。そうなると一般患者は感染の恐れがあって病院には近づけなくなるだろう。だから薬は先の分まで出しておくのだ。医者にも感染するのは当然だから、次に会えるかあるかどうかは分からない。」と冗談とも本気とも思えない調子で、パソコンに薬を入力しながら話していた。

しばらく前にNHKで2回に渡り、ドラマとノンフィクションによって新型ウイルスの脅威について放送していた。脅威が現実となる可能性は極めて高いのだということを医者の話で思い知った感じがした。病院では既にその対策が行われているとは脅威の現実性を肌で感ぜざるを得ない。

外来治療室で
外来治療室で、血圧、体温、血液中の酸素、脈拍を測り、点滴薬が来るのを待つ。30分ばかりして点滴薬が来て医師が呼ばれる。点滴針の差込だ。血液検査は看護師がやるのに、何故か点滴針を刺すのは医者でしか出来ない。右腕の方が太い血管があるのでそちらでとることにした。

上腕を締めるとかなり太い血管が出てきた。点滴針をそこに刺したが、何故か血液が流れ出してこないぐりぐりとかき回しても一向に出てこない、不思議なこともあるものだ、あんなに採りやすそうないい血管だったのに。仕方なく別の所をまた刺して採った。今度はうまく血が流れ出てきた。

点滴針を点滴の管に繋いで点滴を開始したが繋ぎ方が甘かったのか、漏れてきて、そこら中が血だらけになってしまった。服につかなくて良かった。帰り道血だらけの服を着て、黒のスキー帽を深々とかぶり、大きめのマスクをし、めがねをかけている人物が街なかを歩いていたらかなり怪しまれるのではないか。通報でもされかねない、といったようなことを思っているうちに、強く差し込み直して点滴が始まった。

最初にベルケード1・5mgと生理食塩水を点滴管から注射器で入れ、その後デカドロン40mgを30分に渡って点滴で落としていく。点滴が終わった後はまた血圧、体温、酸素、脈拍を測り、点滴針を抜き5分間抑えて止血し、その後バンドエイトを張ってお終いとなる。今日は採血と、点滴針を2回刺し、3ケ所に注射針の穴を開けられた。

入院中看護師が採血した時に3ケ所刺しても取れなかったことがある。しばらくして別の看護師でやったらうまく取れた。後に来た看護師がベテランで採血がうまいから取れたというわけでは必ずしもない。運がいいか悪いか、血管がうまく出ているかどうかなど幾つかの条件があるので、採血を失敗した看護師を責めることは出来ない。しかし4ケ所も体に穴をあけられるのは気分のいいものではない。

診療・治療を終えて
会計を終え、薬を受け取り1時頃には病院を出た。今日はかなりスムースに行ったが30分位の点滴のために3時間はかかるのだ。往復を含めるとほとんど1日仕事である。ベルケードを月4回行い、そのほかに定期外来が2回ある。月6回は会社勤めだとしたら休まならない。この状況では、たとえ体調が回復したとしてもパート労働なら出来るが、普通の仕事には就けない。

帰りは雨だった。いつもは駅まで歩いていくのだがバスで駅まで行って、昼食をとり、山手線に乗った。雨だったので少し迷ったが、大塚から都電に乗って雑司が谷鬼子母神に行ってみることにした。大塚に行く機会がないので通り道だからということもあった。都電で行くというのがまた気分的にいい。東京都では都電はもうここだけしか残っていない。早稲田と三ノ輪を結ぶ線だ。雨の日、都電に乗ってゆったりとした気分で、雨にぬれそぼる静かで誰もいないだろう神社を散策するというシュチュエイションが気に入った。雑司が谷鬼子母神については明日のブログで続きを書くことにしたい。
 

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

ベートーヴェン『交響曲第7番』

2月12日(火)
『のだめカンタービレ』から交響曲第7番へ
 『のだめカンタービレ』の漫画を友人がその時までに出ていた15冊を面白いからといって貸してくれた。それを読んでから半年ばかりたってテレビドラマとして放映された。連続ドラマは仕事をやっている時には絶対に連続して見られなかったので、療養生活に入ってもその習慣から見ることはなかったが、『のだめカンタービレ』だけは9割方見た。おまけに1月に2時間半の海外もの2回放映したのも見てしまった。『のだめ』のドラマで最初に出てきたのがベートーヴェンの交響曲第7番イ長調であった。

 交響曲第7番は、躍動感あふれるリズムの交響曲で、各楽章にそれぞれを統率する特徴的なリズムが配置されていて、それを基盤に音楽が展開していく。第1楽章は勇壮で立派な序奏がたっぷりと置かれ、それに続き舞曲風で熱気のあるリズミックな音楽が始まる。喜びに解き放たれたように、明るい昂揚感があふれている。第2楽章は、「不滅のアレグレット」と呼ばれ非常に美しい楽章で、第4楽章はリズム感に溢れ、最終楽章では高弦群の小さい回転運動の中、狂乱にも似た陶酔感をかもし出してゆき、壮絶な盛り上がりの中、圧倒的なフィナーレで終わる。

交響曲第7番の聞き始め
 昔、ひたすらこの曲を聞き込んでいた時期があった。どんな曲を聴きたいかはその時の心情の反映なのだろう。第5番や、第9番の曲は、彼の言う”druch raiden freude”「苦悩を通して歓喜へ」を主題にしているように、1楽章の重苦しい雰囲気が、次第に晴れて最後には喜びに満ちながら終わっていく。絶望が深ければ深いほどそこから抜けた時の喜びは大きい。ブラームスの交響曲第1番も同じような構造になっている。
 こういった重苦しいベートーヴェンをがむしゃらに聞きたくなることもあるが、あるときは第7番の華やかさ明るさやヴァイオリン協奏曲ニ短調の安らぎを与える甘く優しい調べにあこがれることもある。

 昔聞いたのはブルー・ワルター指揮のコロンビア交響楽団の演奏だ。ベートヴェンといえばウイルヘルム・フルトヴェングラー指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏がずば抜けていると評価されていた。昔聞いた時にはカセットテープもCDもなくLPのレコード盤だ。そっと針を置き、ささっというようなレコード盤をこする音がしておもむろに曲が始まる。今から考えると何という優雅な仕草だろうかと思う。レコードを聞くという無上の快感をテープやCDはその機能性で奪って行ったのではないだろうか。音質の良さでは補えない大切なものを失って行ったような気がする。
 
 フルトヴェングラーの演奏は戦後すぐの時期のものが多く今でこそ昔のテープをCDに写し、そこそこの音質を維持できているし、それよりもフルトヴェングラーの演奏を聴けるというだけで素晴らしいことだ。昔は彼のレコードはなかったように思う。その頃のベートベンの演奏で秀でていたのはブルーノ・ワルターだった。

ワルターの演奏
 ワルターの演奏は微笑に例えられ、モーツァルトの交響曲やベートーヴェンの交響曲第6番『田園』のように夢のような幸福感に満ちた美しい演奏、感情を露にしない演奏をする指揮者として知られている。全体的にテンポは速めだが、ところどころでテンポの変化を自然な形でつけ、オーケストラを豊かに響かせながらたっぷりと歌わせるのが特徴である。

カラヤン 彼の指揮によるコロンビア交響楽団による、モーツァルトの交響曲40番や41番、ブラームスの交響曲第1番の素晴らしい演奏を聴いていた。これらの曲は彼以外の演奏は全く聴く気はしないというほどの入れ込みようだった。そういった流れの中で第7番を買った。ある時期聞き入っていた。しかし興味を持つ曲はやがては変わる。そしてずっと聞かなかった。『のだめカンタービレ』のドラマで聞いて懐かしくなり早速買いに行った。

 昔聞いてたワルター指揮のCDはなく、結局、指揮はカラヤンのベルリンフィルの演奏のCDを買った。カラヤン指揮による曲は流れるようにゆったりとした演奏で、気がつかないうちに曲に引き込まれてしまう。どうも肌が合わず曲を台無しにしてしまっていると思わせる指揮者もいるが、彼の指揮の曲は失敗がない。買って損したということがない。そのくらい安定しているということだ。フルトヴェグラーやワルターと違った新鮮さを感じさせることもある。そしてまた第7番を聞いて感動が戻った。

交響曲第7番の特殊性
 第7番はベートーヴェンの交響曲中でも最もリズミカルな作品であり、明るく軽快な曲想で、第5番や第6番におけるさまざまな新たな試みの後に、再び正統的な手法による交響曲に回帰した作品であり、9つの交響曲中最もバランス感覚に優れた作品といえる。至って質素な楽器編成でありながらそこから出てくる力強い響きが従来のそれとは明らかに違う。通常交響曲の第1楽章は短調が多いが、この曲は長調であり、第2楽章は短調で始まるが途中で長調に変調している。第3、第4楽章も長調という構成によって曲想を鮮やかに明るくしている。

 第7番にはアイルランド民謡やオーストリー・ハンガリーなどの古い民族舞曲からの引用を随所に盛り込み、全曲を通してベートーヴェン特有の重さ・暗さは抑えて明るく快活なサウンドと強烈なリズムを前面に出した、当時としては非常に斬新な交響曲が出来上がった。彼はこの曲で、最小限のオーケストラから実に多彩でリズミックなサウンドを最大限に引き出すことに成功した。

 ベートーヴェンといえどもいつも生真面目に生活していたわけでもないし、『運命』『英雄』『第九合唱』などの厳しい音楽ばかりを書いていたわけではない。交響曲第6番『田園』やヴァイオリン協奏曲などの聴いていて心落ち着くやさしい気持ちになれる曲や、この交響曲第7番のように楽しくて心躍る曲もたくさん書いている。

交響曲第7番についての賛辞
 この曲は初演以降、さまざまな賛辞が残されている。ワーグナーは各楽章におけるリズム動機の活用を指して、この交響曲を「舞踏の聖化」と評した。そして同時に、グイグイと押し寄せる「リズムの洪水」に満ちた最も熱い第4楽章を「ディオニソスの乱舞」と評している。「ディオニソス」とは酒の神様。ひたすら熱狂の度を増していくこの楽章には「しかめっ面」の「真面目な」ベートーヴェンはいない。そこには、こよなく愛したというドイツワインを飲みながらの「笑い顔」で「楽しげな」ベートヴェンの内面が表現されている。

 他には「リズムの神化」とフランツ・リストが語り、そして「酔った勢いで書いた曲?」と言った作家ロマン・ロランの言葉がある。ロマン・ロランはベートーヴェンをモデルとして『ジャン・クリストフ』を書いたほどベートーヴェンに心酔していた。

テーマ : 雑記
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豊島区散歩-5 豊島区立郷土資料館

2月11日(月)
 池袋の書店に買い物に行った機会に勤労福祉会館の7階にある「豊島区立郷土資料館」に寄ってみた。昔、勤労福祉会館の会議室を何回か利用したことがあるが、7階に展示場があるということには全く気がつかなかった。というより仕事が忙しく、郷土史などに興味をもてるような精神的余裕など全く持ち合わせていなかった。今になって病気療養中で時間がありだからこそ様々なものに興味を持って接することが出来るようになった。

郷土資料館
 ここでは豊島区の歴史や民俗に関することがパネルで紹介されており、資料や収集品などを通し4つのテーマで展示している。雑司が谷鬼子母神、駒込・巣鴨の園芸、長崎アトリエ村、池袋ヤミ市を常設展で公開している。
 福祉会館のエレベーターで7階まで上がり、扉が開くとすぐ目の前に雑司が谷鬼子母神の境内を模して作られた、茶屋の床机が並べられ、土産のおもちゃを差した“さんだわら”も置いてあった。

駒込・巣鴨の園芸
 展示室に入ると最初に目に入るのは「巣鴨駒込の園芸」に関する展示物である。江戸中期から明治にかけて、駒込・巣鴨あたりは大名屋敷が多かったため、植木・園芸が盛んであったという。植木屋の活躍と園芸文化の興隆は巣鴨・駒込一帯の土質が植栽に適したこともあり、江戸の園芸熱の高まりと共に、園芸の里として知られるようになった。

 植木屋たちは研究熱心で、それぞれ花卉や植木の種類別に専門化して多くの品種を生み出した。桜のソメイヨシノも当地の染井で売り出された品種だった。椿・つつじ・牡丹・菊など、多種類の植木や花卉を扱い、それらで趣向を凝らした庭園を造り、江戸っ子の花見遊覧に供した。菊の形造りも当地で始められた。

長崎アトリエ村
 豊島区は明治以降も永らく近郊農村に留まっていたが1930年代には、要町、長崎周辺に美術家が多数集まり、池袋モンパルナスと呼ばれ、「長崎アトリエ村」としてさくらが丘パルテノンやすずめが丘アトリエ村などの一大芸術村ができあがっていた。

 資料館ではこのアトリエ村とその生活を物語る写真や地図などとともにアトリエ村とその室内を10分の1の縮尺で再現した模型(ジオラマ)が展示されている。jyosetu4-1.jpg この模型側面にはアトリエ内部がのぞける窓があり、路地からは見える風景は当時のアトリエ村から池袋方面を眺めた風景を再現し描かれている。そして路地には一匹の猫が置かれている。

池袋東口ヤミ市
 しかし、これらも第二次大戦の空襲によりほとんどが焼け野原となり、そして戦後、現在の池袋駅周辺に、ヤミ取引のため木造バラックの市場が誕生した。資料館では関係資料と東口闇市の南側部分を縮尺20分の1で復元した模型が展示してある。

東池袋横丁めぐり          
 戦後の闇市に繋がるものとして東池袋に幾つかの横丁がある。しばらく前に豊島区役所で書類を受け取り、それを池袋社会保険事務所に持っていったことがあった。明治通りを行くと遠回りになるので、区役所の裏口から出て豊島区民センターの前を通り、南池袋公園を抜けて社会保険事務所に向かった。
 
 サンシャイン60通りを突っ切ってしばらく行くと、昼間だから森閑としていたがふと昔懐かしい雰囲気の横丁が目に入った。昭和30~40年代の面影を残す路地裏に、今も懐かしい佇まいの飲み屋が軒を並べている。豊島区観光案内の中の「12の散歩コース」にある「昼も夜も充実東池袋遊々コース」の中で紹介されていた横丁だと気がついた。

 「人生横丁」と書いてあるアーケードから中に入っていった。この横丁の風情は、戦後当時からの古い街並みが手付かずのまま残されており、道はくねくねと蛇行して舗装がしっかりされておらず、新しい建物も2,3軒あるがほとんどは今にも朽ち果てんばかりの木造建築で、それがずらりと並んでいる。しかしそこには「失われていく昭和」が残されていた。

jinseiyokocho.jpg  昼間と夜の通りの景色は全く違って見えるのだろう。現世からひとときタイムスリップしたような気分にさせてくれる。この飲み屋街は戦後の闇市に起源をもち大都会の中とは思えないほどレトロな雰囲気を残している。このあたりは戦後、池袋駅前にあった闇市の露店が、1949年の区画整理で分散移転されてできた飲食街なのだそうだ。

 池袋駅を東口側に抜けてサンシャイン60方面に歩くと途中を右に曲がるとあるのが「栄町通り」「美久仁小路」「人生横丁」であり、その反対側にある「ひかり町通り」(現在工事中)という4つの横丁がある。

 新宿のゴールデン街やしょんべん横丁、渋谷の飲んべぇ横丁とかにはかって行ったことがあるが、池袋にも負けず劣らず古い歴史を持つ飲み屋街があるということに始めて気がついたというわけだ。サンシャイン通りは何度も歩いているのにそこから2,3分入った所にあるこういった横丁などの歴史的な場所は意識しない限り素通りしてしまうものなのだろう。 
(挿絵・『人生横丁』藤原ヒロユキ)

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

「考える」ということ

2月9日(土)
パンセ パスカルの『パンセ』の中の有名な一説がある。「人間はひとくきの葦に過ぎない。自然のなかで最も弱いものである。だがそれは考える葦である。彼を押しつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。

だがたとえ宇宙が彼を押しつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。・・・だからわれわれの尊厳のすべては、考えることの中にある。」
(前田陽一他訳・中公文庫)

 考えることは人間固有のものである。確かにそれは他の生物と人間を区別する最も重大なものだろう。しかし考えるということによって生み出された思想が逆に人間の尊厳を奪っていくことも事実である。人間がひたすら戦争を繰り返し、互いに殺しあうのも、宗教の違いによって争いを繰り返すのも、イデオロギーや観念の相違という思想的なものを根拠にしている。

経済的な理由である場合でも、それを正当化する思想を背景としながら戦いの正当性を主張する。思想家、哲学者が多くの場合、戦争に加担し、人々を戦争に駆り立てていく役割をしているのが歴史的事実としてある。

ルカーチはドイツの実存主義哲学者ハイデッカーを前ファシズム的と規定する。ハイデッカーの問題提起の核心が、ドイツの知識人の一部を「熱狂的にヒットラーの仲間入り」させ、他の一部を「ヒットラー主義に対する精神的抵抗に際しほとんど無化」したような精神的雰囲気の醸成に深く寄与した。

つまりハイデッカーの影響を受けた青年たちは「死に直面して」「原初的思惟」を実現し、存在者という非本質的な次元においてのみ虐殺し、略奪し、陵辱したに過ぎないというわけなのだ。

 日本においても多くの思想家、哲学者が前の戦争で、その精神的支柱を作り出すために積極的に貢献していった。自らの思想を戦争遂行のための手段として改変し喧伝していったのだ。日本で最も著名な二人の哲学者もまた戦争を肯定し、戦争の意味を思想的に確立して行ったのだ。

田辺元は言う。「仰々天皇の御位置は単に民族の支配者、種族の首長に止まっていらせられるのではない。一君万民、君民一体という言葉が表しているように、個人は国家の統一の中で自発的な生命を発揮するように不可分的に組織されている。・・・そして国家の理念を御体現あらせられているのが天皇であると解釈する。」(『歴史的事実』)ここでは、日本の天皇制国家の神的絶対的性格を疑いない大前提として語っている。

西田幾多郎も同様に「我が国の歴史において皇室は何処までも無の有であった、矛盾的自己同一であった。」(『日本文化の問題』)「皇室は過去未来を包む絶対的現在として、我々は之において生まれ、働き、死して行くのである。」(『国家理由の問題』)と語っている。

 天皇制についてどういった思想を持とうがそれは自由だ。しかし戦争の真只中「天皇の赤子として戦って死ね」といった時代に彼らの思想は、天皇制国家の絶対的定立を通し、自由な個人を国家の下に従属させ埋没させ、天皇のために殉ずる安心立命の境地を青年与え安んじて戦地に赴かせたのである。多くの学徒が御用哲学者の「思想」にたぶらかされ死んでいったのだろう。

観念論者の語る絶対こそ危険なのである。観念の世界で作った「絶対」のイデオロギーを現実に適用しようとする。永遠、絶対のベールによって歴史を固定化し、個人を否定していくのである。絶対者の下への従属的個人を定立するのである。

「彼らの哲学は人間の経済的、政治的奴隷状態の上に築かれ、これを受け入れこれを維持するのに貢献している。この哲学の教えるもの書くものは、実際隷属状態にあるものを失望させ道を踏み誤らせて、彼らの反抗を散り散りにしている。」(ポール・ニザン『番犬たち』)

「観念論は実在する客観的な私の外部にある鎖を、純粋に主観的な私の内に存在する鎖に変形し、一切の外的感覚世界の闘争を、単なる観念の闘争に変質させる技術を教えるのである。」(マルクス『聖家族』)

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

「偽装」について

2月7日(木)
 第一生命保険は毎年恒例の「サラリーマン川柳」の入選作100句を発表した。特に去年の風潮としては年金と偽装問題が主流であったことを反映し、それに関する川柳が多かった。幾つか紹介してみたい。
 
 夢に見た 年金生活 今悪夢
 減っていく… ボーナス・年金 髪・愛情
 年金は 賭けるつもりで 掛けている
 国民の 年金、損なの 関係ねえ
 衣食住 すべてそろった 偽装品
 日替の 謝罪会見 今日はどこ?  
 社長業 今や問われる 謝罪力


偽装が何故起こるのか
 昨年の世相を反映する一文字として「偽」という文字が選ばれたが偽装商品が話題に上らない日はないほどだった。2005年10月にイ-ホームズが姉歯一級建築士の耐震構造計算書が偽装であることを国土交通省に訴えてから大々的に偽装問題が報道された。それ以降「偽装」という言葉は枯葉を襲う野火のごとく広がっていった。

 耐震偽装から食品の偽装、建築資材の偽装と後を絶たず繰り返し発見される。もちろん偽装は昔からあっただろう。しかし何故これほど発見されるのだろう。大部分は内部告発だという。年功序列型賃金清華崩れ、企業は営利中心になり従業員は使い捨て労働力としてしか扱われなくなった。

 その結果、企業に対する忠誠心などは当然のことながらもてない。また今の若者は職を選ばなければそれなりに職はあり、偽装に手を染めてまで会社に残るメリットがない。そういった中で告発は行われる。
 
 利潤を追及しない経営者はいない。しかし今の経営者は手段を選ばず採算を追及する。それがモラルの低下となって現れてきている。見つからなければ何をしてもいいという心情と、皆同じことをしているのだという共犯意識の中で違法な手段を使った利潤追求がまかり通っている。

 客の喜ぶ顔が見たいといって採算を抜きに商売している昔気質の経営者はいなくなったのだろう。「安心な物を安く作るというのは不可能だ」と言い切る経営者がいる。安いには安いなりの理由がある。安くても安全でない物が全く売れなかったら自然生滅してしまう。何を流通させるかは消費者の選択によって決まってくるのだ。

食の安全への疑問 
 読売新聞社が1月12~13日に実施した全国世論調査(面接方式)によると、食品の安全性に不安を感じている人は計83%に達した。

 不安を感じている人に複数回答で理由を聞いたところ、「食品表示の偽装が相次いでいる」が71%で最も多かった。「輸入食品が増えている」の57%、「残留農薬などが気になる」「添加物などが気になる」の各50%が続いた。 

 食品表示の偽装が相次いだ原因(複数回答)では、85%が「経営者や幹部のモラルが低い」ことを挙げた。「行政による食品の監視体制や検査が不十分」(50%)、「法律に違反した場合の罰則が軽い」(37%)などの順となった。

 三菱総合研究所(東京)の調査で、異物混入や不適正表示などを理由に回収するための新聞広告を出した食品は2007年一年間で計570品に上ることがわかった。掲載日数は延べ186日で、2日に1日のペースだ。570品の内訳は、菓子が最も多く全体の33%。総菜などの調理食品18%、サプリメント(栄養補助食品)11%、魚製品8%などと続いた。回収の理由は、異物混入や風味不良などの「品質不良」が58%、「誤表示」が35%。

食品偽装
 2007年は食品偽装の報道がなかった日がないくらい次々と出てきた。1月11日最初に問題となったのは不二家の偽装だ。「不二家」が前年の11月、消費期限を過ぎた牛乳を使ったシュークリーム約2000個を出荷していたことがわかった。老舗であり子供たちにとってはペコちゃんは人気のキャラクターだった。それがあっという間に地に落ちてしまった。
 
 次に問題となったのが食肉製造加工会社「ミートホープ」(北海道苫小牧市)が牛肉ミンチに豚肉などを混ぜて出荷していた問題で、農林水産省はミート社の本社や工場、原料を仕入れてコロッケを製造していた北海道加ト吉など道内5か所で立ち入り検査を始めた。(6/22)
 
 チョコレート菓子「白い恋人」の「石屋製菓」は14日、本社工場で製造したアイスクリーム類やバウムクーヘンから、体調によっては食中毒を誘発する恐れのある大腸菌群や黄色ブドウ球菌が検出されたことを発表した。一部の「白い恋人」で賞味期限を1か月長く改ざんして販売していたことも明らかにし、同社はこれらの商品の自主回収を始めた。(8月)
 
 老舗和菓子メーカー「赤福」による消費期限などの偽装。製造後に冷凍し、最大で14日間保管した後、解凍して出荷していた。その際、出荷日を「製造年月日」と偽り、消費期限もずらしていた。不正表示は30年以上も続いていた。売れ残りの再利用も行われていた。店頭で売れ残った商品を工場に戻し、冷凍した後、製造年月日を書き換えて再包装、再出荷するやり方である。(10月)

 船場吉兆は昨年11月、牛肉の産地偽装などが発覚し、不正競争防止法違反容疑で大阪府警の捜索を受けた。同社の贈答用商品をめぐっては、九州産の牛を「但馬牛」、ブロイラーを「地鶏」と偽り、兵庫・高砂産の穴子を使用していないのに「高砂 穴子山椒(さんしょう)煮」として販売していたことなどが既に判明している。(11月)

 不二家、赤福、石屋製菓、船場吉兆など老舗として地元から親しまれ安心して利用していた店が偽装を行うということはまさに老舗の名に対する裏切りであり、長い間利用してきたなじみ客への冒涜だ。

その他の食品偽装-報道されたごく一部。
 外国産を混入させたワカメを徳島県の鳴門産と表示し販売したとして「鳴門海藻食品」など3社に対し、是正を命じた。

 香川県丸亀市の「ふじや精肉店」が豪州産牛肉を国産と偽って市学校給食会に納入していた事件で、県警生活環境課などは4日、新たにブラジル産鶏肉を国産と偽っていたことを発表。

 「オリジン東秀」(オリジン弁当)が首都圏20店舗で社内基準の消費期限を1日過ぎたコロッケなど4品目を販売していた問題で、同社は28日、消費期限切れの商品や食材がほかに19点あったとする調査結果を発表した。

 「平成17年産福井県産コシヒカリ100%」と表示した袋に、2003~04年産の千葉県産コシヒカリやくず米などを詰めて650袋を商品化した。

 中国製そうめんを数トン輸入したうえ、「MADE IN CHINA」と書かれたラベルの一部を「三輪」の名が記されたラベルに張り替えて販売した。

 食品メーカー「モランボン」(東京)は4日、肉まんなど3商品について、1個あたり「100グラム」と表示しながら、それに満たない重さで出荷していたとして、約32万個を回収すると発表した。

建材偽装
 国土交通省は18日、富山市のメーカー「大沢工業」が製造したエレベーター計152基に、設計よりも強度の弱い鋼材が使用されていたと発表した。強度の弱い鋼材が使用されていたのは、2002年4月~今年12月に製造され、15都府県に設置されたエレベーター計152基。 
 
 建材メーカーのフジモリ産業(東京都品川区)が高速道路などの橋に使う鉄製の円筒型枠(パイプ)の強度試験データを偽装していた。
 
 防耐火用建材のメーカーが製品の大臣認定を受けた後に勝手に仕様を変更するなどしていた問題で、国土交通省は25日、不正な建材の使用が住宅や工場など約3200棟で確認されたと発表。

再生紙偽装
 再生紙に含まれる古紙配合率を製紙会社が偽装していた問題で、日本製紙連合会(東京都中央区)は25日、コピー用紙や印刷用紙など「洋紙」を生産している会員企業24社のうち、7割にあたる17社で配合率の偽装があったとする調査結果を発表した。

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ジャンル : 日記

食の安全について

2月5日(火)
 中国で作らせていた餃子に毒物(殺虫剤・メタミドホス)が混入されていた。ダンボール肉マン報道がやらせだったとしても、ありえないと言い切れなかった中国の食の安全性に関する疑問があったことは確かだ。

 少し前に抗菌剤が基準値を超えたウナギのかば焼きやサバ、二酸化硫黄がオーバーしたナメコの水煮や乾燥ナシ、犬や猫が死んだペットフード、発ガン物質を含んだ塗料で塗られたおもちゃ、毒性のある残留農薬を含んだほうれん草やしょうがなど次々と問題が浮上してきた。この状況を見ると何十年か前までの日本の状況を思い起こす。そしてそれは抜本的に改善されたのだろうか。

25年前の食の状況
 25年前に朝日新聞経済部から出版された『食糧』という本に食品の安全性に関しての記述がある。
魚介類
うなぎ:重油でビニールハウス内の水温を真夏並みに保ち、成長するのに天然もので5年、露地養殖で1年半かかるものを半年で出荷できるようにする。通常の10倍の密度で飼育するので水温変化や振動で死ぬ。そのため合成抗菌剤、サルファ剤などを日頃から養殖池にまいたり餌に加えたりする。その薬代で何百万円もかけている。
あわび:採取時に付く傷ですぐ死んでしまうので、傷口に刷毛でサルファ剤を塗ったり噴霧器でかける。直接注射して出荷する。
はまち:はまちの餌とフンや海藻類、ふじつぼが網に繁殖、10日か2週間おきに網を代えるかわりに、有機スズを使った魚網防汚剤を使用し半年間持たせる。有機スズの毒によって奇形ハマチが発生した。

野菜類
なす:重油をたいて夜中でも室温を10度以上にする。見栄えを高める競居合いから高価格が形成。
かんきつ類:へた落ちを防ぐため除草剤の24Dという劇薬を筆で1個づつへたに塗りつける。
みかん:砒酸鉛(砒素)を塗るとみかんが甘くなる。
いちご:ハウスいちごも発芽から収穫出荷まで各種の農薬の力で美しい大粒にする。今の果物は味よりも見栄えが優先される。化学肥料を多用して作った果実は腐るのも早い。遠隔地に運ぶため梱包材料に強力な毒性物質(防腐剤)を含ませておく。
稲:カメムシに稲の汁を吸われると針先ほどの黒班ができる。米千粒の中に含まれるその数によって米の等級が決まり値段も決まる。米の等級制度が農薬の大量散布を強いている。

 しかし問題なのは化学肥料、殺虫剤、防虫剤、土壌消毒剤-土壌の生物を無差別に殺すクロールピクリンの大量投与だ。これらの散布には防毒マスクが必要となる。こういった有害な農薬が惜しげもなく投与された食物が食卓に供給され続けているのだ。

食肉類
豚:丹毒にかかった豚は82年には80年の4倍、81年の2倍になった。81年には病変で500頭廃棄している。肺炎にかかった豚は55年には0.5%だったのが80年には63%となった、80年には81%の豚が部分廃棄された。胃潰瘍になっていない豚は皆無。効率重視の密飼い(畳3分の一畳)と給餌、百種にも及ぶ大量の栄養剤投与、無理を重ねた品質開発。
牛:等級があり、特上と並の差は2.6倍となっていて、霜降りを作るため草食動物の生理も無視して濃厚飼料、カロリーが高く脂肪を作りやすい飼料穀物を大量投与。
にわとり:ジャパンファーム(三菱商事)では畳一畳に46羽押し込められ、口ばしの先端を切断し、羽を取り除く。一切運動させないブロイラーとして飼育。

 こういった食の状況の中で80年8月10年ぶりの身体障害者実態調査が行われた。先天異常や異常分娩による障害者が10年間で2・8倍となり、妊娠満8週から、生後1週間未満の死亡児の割合は2.8倍となっている。

現在の食の問題点・食品添加物
 こういった25年前の日本の食に対する安全基準は確かに改善されているだろう。しかしそれでもまだ日本の食は安全なのかという問題は残る。食品添加物の国内での生産量から判断すると、平均的日本人は1日約11g、これを積み重ねると1年間で約4kgの食品添加物を摂っている。日本で使用されている食品添加物は1400種類以上もある。

 どのようなものに食品添加物が入っているのか。甘味料、着色料、保存料、贈粘安定剤、糊料、酸化防止剤、発色剤、防カビ剤等がありほとんどの食物に含まれている。食品添加物の摂取によって、その蓄積と複合化によって、遺伝毒性、変異原性(突然変異)、発ガン促進性、アレルギー性、染色体異常、成長抑制、急性毒性などの体の細胞への悪影響は計り知れない。

 また遺伝子組み換え食物の問題もある。組み込んだ遺伝子が、もともとその生物が持っていた性質の中で機能していなかった部分を活性化させてしまい、全く予想もしなかった毒性物質ができ、死亡者を出した例や、アレルギー物質を生成してしまった事例も起きている。また、逆に必要な栄養素などを生み出さなくなる可能性もある。

 しばらく前に問題となった“環境ホルモン”(内分泌撹乱物質)の問題も遺伝子組み換え食物と関連している。現在8万種類の化学物質があり、70種類以上の物質が環境ホルモンとされている。すでに、20才の男性の精子数は、40才の男性の約半分となってしまっている。

日本の食の安全はどうなるのか。
 日本の農業においても有機農法といったものが徐々に浸透してきているが、やはりまだ多くの農家において手間と採算との関係で農薬は必需品となっている。米、野菜、果物は農薬で汚染され、多くの食物には食品添加物が使われている。漬物屋さんは自分の所で作った着色料と防腐剤たっぷりの漬物は食べないという。農家の人も自分で食べる分は別に作るという。
 
 中国の農家の取材でも、殺虫剤メタミドホスを散布した野菜は自分では食べないという。中国の家庭は野菜洗いの洗剤で野菜を洗ったり、水に30分以上浸しておいてそれから調理するという。農薬が危険だということは分かっているがそういった野菜を買わざるを得ない。富裕層は安全だとされている日本製品を中国製品の何倍もの料金を払って購入する。

中国 日本の農業においては、昔ほど残留農薬は多くはなくなっているだろうし、致死性の農薬などは使われなくなっているだろう。しかしわずかな残留農薬でもそれと食品添加物や遺伝子組み換え植物が複合して体に摂取された時どういった化学変化が起こるのか。致死性のものになりかねない危険性を絶えず含んでいる。

『中国の危ない食品』内容紹介
 中国食品が世界の食卓を脅かしている。だが、国内の食品汚染はもっと深刻だ。ホルモン剤を添加した養殖水産物が原因で性早熟児があらわれた。喘息治療薬で赤身化したブタ肉による中毒事件の多発。発癌性のある合成染料で卵の黄身を鮮やかにする。下水のゴミ油を加工して屋台の食用油や安いサラダ油に。

 農地には水銀がしみ込み、水道管の八割に鉛塩が使われている。不衛生、利益優先・安全無視。

 一体中国では何を食べたらいいのか。4年にわたり、食品の安全問題を取材してきた中国人ジャーナリストが、恐るべき実態とその社会的背景に鋭く迫り、2006年度のドイツ「ユリシーズ国際ルポルタージュ文学賞」佳作となった衝撃の報告。 (アマゾン紹介文より)

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

がんと如何に生きるのか

2月3日(日)
ガンとの闘い、生きる目的を求めて
 がん保険のコマーシャルに、「東大のがん治療医ががんになって」の本を出した加藤大基さんが出演していてこう語っていた。「何歳まで生きるかはコントロールできない。一日一日を密度濃くすることは出来る」と。また別の所では「単に生きているだけで本当にありがたいことなんだと分かったんです。生きていることは決して“当たり前”のことではないんです」と。

 金曜日の夕方のニュース番組で、37歳でがんによってなくなった女性カメラマンの特集をやっていた。彼女は乳がんで手術をして、一時治ったと思っていたが、ある時思い立って検査に行ったところ肺に転移していると診断された。更に脳にまでがん細胞が広がり、視力にまで影響していった。脳の手術をしても余命1年と宣告された。

 「限られた時間をどう生きるか」と問いながら自分には写真しかないということで、それまで芸能人の写真を撮っていたが、「いのち」をテーマにした写真を撮っていきたいと思った。彼女は空と大地、そしてそこに咲く花を撮り続け、個展を開き、写真集を出版した。彼女の写真を見た人が生きる勇気を与えてくれる写真だとインタビューに答えた。

 がんで胃を摘出した鹿児島短期大学講師(図書館学)の種村エイ子さん(52)は、手術から五年後の生存率は20%と宣告され、死を真正面から見つめて知った生命の重みを伝えるために鹿児島県内の小中学校で「いのちの尊さについての授業」を続けている。

 ガンによって死に直面した人たちがこれからの人生をどう生きるのか、何時再発するか分からない状態の中でどのように日々を送っていくのか。限られた時間を凝縮して生きることが出来ればそれは素晴らしいことだ。

「ガンは決して安静にしていれば治る病気ではなく、むしろ患者が使命感や生きがいを持って立ち向かうことが大切である。」(関原健夫『ガン6回、人生全快』)

「日々の生命を良く生きることが死に対する第一の武器である。」(岸本英夫『死を見つめる心』)こういった積極的に社会にかかわり自らの存在をその中で確認していく姿勢も大切だとは思うし、そのポジティブな生き方にあこがれる面もないことはない。

生きているそのことの意味
 生きていることの実感をかみしめながら日々の日常生活をゆったりと過ごしていくそういった生き方もあるのだろう。日常性の中に今まで何気なくやっていた行動の中に生きていることの意味を見出すことも出来るだろう。時間の流れに逆らわず、死を見つめながらもそれ故日々の生の意味を味わいつくすことが出来るのだろう。

病気は神様がくれた休日。まさにその通り、大人は皆大人であり続けることにくたびれている」(ワット隆子『ガンからの出発』)

 今の社会の中で労働者は病気にでもならなければ休むことも出来ないほど働かされ、その状態に対していいか悪いか考える余裕もなく日々追いまくられるような人生を送っている。家と会社の往復以外どこかに出掛けることもなく、家には寝るだけに帰るような生活を強いられている。四季の移り変わりや自然の恵みを味わうこともなく働き詰めの人生だ。 

 病気になるということは、そういった日常性から突然自分の意思とは全く無関係に強引に切断されてしまうことなのだ。特にガンなどのように長期治療を必要とし、死と隣り合わせの病にかかった場合特にそうである。これは宿命でしかない。この状態をどう受け止め自らの生き方として転換できるかが重要である。

「がんという病気が立ち止まる機会を与えてくれた。この先の時間を実感として意識させてくれたのです。」(影山和子『がんのある日常』)

「人の命は明日をも知れないと実感してからは一日一日が密度の濃い時間に変わりました。」(小林茂登子『あたりまえの日に帰りたい』)

「病によって以前全く想像していなかった世界の中に導き入れられた。私は毎日のように“今日”も生きていて良かったと思う。」(阿部幸子『病棟の光と翳』)

「がんのおかげで今日という日のやり直しのきかないことを嫌というほど思い知った。だから時間を自分の手の中にしっかりと握って生きる。」(ワット隆子『がん患者に送る87の勇気』)

見えなかった世界を見る
 このように病気になって今まで何気なく送っていた自分の人生を振り返る機会を得て、生きていることの意味を実感できるようになっていく。それは惰性で生きている時間でもなく、外部から強制される時間でもなく、時間に追い立てられることもない自分だけの時間なのだ。

 その中で何を見出して生けるのか。いのちとは何かを否が応でも思い起こさせるものなのだ。生きていることの一瞬一瞬が意味を持ってくる。感性が外界に対して研ぎ澄まされ、かっては何気なく素通りし、見過ごしてきた事物が生きたものとして立ち現れてくる。

「森の中はモミの木の芳香に満ちていて、山を吹き抜ける風にススキがなびいている。名もなくひっそりと遠慮深く咲いている野草たち、何て自然は美しいのだろう。私は生きている喜びを体で感じていた。」(カットバッサー俊子『私は肝移植で救われた』)

「まぶしいほどの太陽の光、あふれる緑、流れる雲、小さなクローバーを踏みしめながらさわやかな風を頬に感じ、中庭にたたずんでいると、とめどなく涙が溢れ出て来ました。この気持ちは生きてこそ味わえるもの、人生に生きる意味や価値を求めてきた私ですが、すべての前に生きるということの意味の深さを知りました。」(小林茂登子・前掲書)

「日常生活のさりげない暮らしが光のシャワーを浴びたようにきらきらしています。」(イデア・フォー編『再発後を生きる』)

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定期検診の日

2月1日(金)
 昨日定期外来で診察を受けた。血液検査の結果、白血球が2.7、ヘモグロビンが10.1、血小板が10.2だった。血小板数が上がったので、ベルケード第4サイクルを始める事が可能になった。少し間をおいた方が血小板がもう少し増えるだろうと思って、第4サイクルは2月12日、15日、19日、22日に行うことになった。前回は血小板が9・6から始めたが3回終わった時点で4.5まで下がってしまったので、今回はもう少し増えてから始めたほうがいいということになった。
 
 しかし問題が起こっている。IgM値が620と上昇してきているということだ。12月28日には405まで下がったが1月11日には496と上昇し、昨日の1月31日は620と上がってしまった。ベルケード第1回目では2269から一挙に457まで下がったが、第2回目では405と若干下がり、それ以降は上がっている。確かに1回目はベルケードを2.1mgという基準量で行った、デカドロンも同時に投与した。

 何故IgM がまた増えてきているのか。マニュアルだと1,4,8,11日にベルケードを1・3mg×対表面積を静注し、10日間休薬し、また次のサイクルを開始するということになっている。

 しかし血小板が減少し、なかなか正常値に戻らないということで、第2サイクル以降はベルケードを1.5mgに減量し(1サイクル目は2.1mg=1.3mg×体表面積1.6)、休薬期間を10日以上にした。1回目終了から2回目を開始するまでの期間は35日間であり、2回目終了から3回目開始の期間は20日間であった。マニュアルの2倍3倍の休薬期間を置いている。さらに3回目は本来4回行う治療を3回にしたこと、3回目からの外来治療ではデカドロンの投与を行わなかった。

 これらがIgM増加の原因であるかどうかは分からないが影響しているのは確かだろう。マニュアル通りやれば効くかもしれないが、ベルケードによる血小板減少と回復に時間がかかるという状態との兼ね合いでどういった治療が可能なのだろうか。

 確かにマニュアルにも「副作用がひどい時には治療を中止し、副作用が弱まればベルケードの量を1mg×体表面積に減量して再開しますが、最低0.7mg×体表面積までの減量は許可されました。」とあるように副作用との兼ね合いでかなり柔軟に投与方法や量を調節できるものであることは確かだ。しかし効いてもらわなければ意味がない。どういった方法でやれば効果があるのか検討していかなければならない。

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がん治療とは長く細い道を辿ら
なければならない。その先に希
望があると信じながら。

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