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桜見物・大泉学園通り~栄緑道

3月30日(日)
梅澤充医師のブログ「現在のガン治療の功罪」 より
「私の1年はまさにアット言う間に通り過ぎていきます。ゆっくり、のんびりと流れていく時間、今の私には、とても味わうことができませんが、人として極めて貴重な大切な時間であるように思います。(明日の日曜日も終日仕事です。)

かつて、”ガンになってよかった”と言われた患者さんのことを紹介したことがありますが、今の現代社会では、病気にでもならなければ、この貴重な時間は経験できないのかも知れません。

満開の綺麗な桜を見てフト、現代社会の惨めな味気ない生活を感じました。また、のんびりと美しい満開の桜を眺めていることは、下手な抗癌剤より、余程、ガンに効くのではないかと感じます。」

がん患者の日常
梅澤氏のブログを見たからではないが、今日は朝から桜見物に出掛けた。確かに病気になって、初めて自分の時間を持つことができた気がする。作ろうと思えば仕事をしていた時も時間は作れたかもしれない。しかし、時間とはそういったものではない。仕事に追いまくられている日常の中で、たとえ半日位時間が出来たとしても、それは仕事への待機時間であって、その時間を自由に使うことは出来ない。

精神的に仕事に飼いならされてしまって、そこから脱却する思考回路が機能しなくなってしまっているのだ。だから自由な発想法など出てくるはずがない。時間を自分のものとして、自分の支配下で取り扱うことが出来ない。時間は仕事の従属物でしかなくなってしまっている。病気になり仕事から解放され、時間は始めて自分のものとなることが出来た。

病気になって、入院したり抗がん剤治療の副作用で苦しんだり、体調に問題がない時間は限られているかもしれない。しかし、効果と副作用のバランスの中でと生活の質を維持しながら、少しでも自分の時間を、有意義に過ごせる期間を長く保てるようにしていくほかない。限られた時間を自分のものとして、体調を可能な限り維持しながら、悔いのない人生を送って行くことが問われている。

千川通りの桜
桜が都内至る所満開だ。何処へ行っても咲き誇った桜に出会える。新座のテニスクラブに所属している友人が「クラブに行くついでに新座周辺の桜の名所を案内しよう」と言ってくれたのでドライブに出掛けた。池袋方面から千川通りを下り、西武池袋線の踏切を渡り、目白通りに出る少し前、南長崎6丁目の信号を左に曲がる。

すると突然、道路の両側から桜の枝が張り出しアーチが作られ、それが目の前に飛び出して来るように現れる。そのアーチは所どころ途切れるが、江古田、桜台へと続いている。運転をしているとゆっくり楽しむ暇はないだろうが、助手席でカメラを構えているだけだから、気楽なものだ。

新座桜005_convert_20101125102021 千川通り沿い

この千川通りの桜アーチより、大泉学園通りの桜のアーチの方が凄いと言われた。日曜日の朝、道は空いていた。千川通りから目白通りを行き30分もしないうちに北園のT字路にぶつかる。そこが大泉学園通りだ。

大泉学園通りの桜
西武線の大泉学園駅から、市場坂通りにぶつかるまで道路の両側に途切れることなく密集して桜の木が植えられそれが花のアーチとなって、路上に枝を張り、空をピンクの布で覆っているかのようだ。車は北園のT字路を右に曲がり延々と桜並木の中を走らせていく。大泉学園通りは市場坂通りにT字路でぶつかる。そこまで桜のアーチが3km以上も続いているのだ。

新座桜010_convert_20101125101118 大泉学園通り沿い

栄緑道公園の桜・川べりの桜
市場坂通にぶつかってから2,3分で栄緑道公園に至る。ここは新座市民のお花見の場所だそうだ。入り口に駐車場がある。そこに車を置き歩いて桜見物とする。細長い公園に沿って桜並木がずっと続いている。公園のそこかしこでお花見客がブルーシートを敷きで場所取りをしている。公園を突っ切ると隣が新座市営墓園でここにも桜がある。

新座桜013_convert_20101125102353 栄緑道公園

墓園の前を通り過ぎると川があり、川に沿って第4小学校があって、そこの敷地に植わっている桜が川に向かって伸び、川沿いの桜並木を作っている。川沿いに遊歩道があり人もいない中でゆったりとした気分で桜見物が出来た。川の穏やかに流れ、川面に映る桃色の淡い色彩と、桜の花びらがはらはらと水の上に舞い散る様は絵の中の一こまのように心に焼き付けられる。

もと来た道を引き返し再び桜の洪水を浴びながら大泉学園通りを駅に向かって車を進める。バス通りで若干渋滞していたが桜見物にはかえって都合がいい。西武線の大泉学園駅まで送ってもらい、友人はまた同じ道を引き返し新座のテニスクラブに向かった。当分桜は見なくて済むほど堪能できた。
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テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

サリドマイドはどの程度効果的なのか

3月29日(土)
サリドマイドはどの程度効果的なのか
 現在サリドマイド100mg28ケース入りを2パック、2ケ月分を個人輸入代行業者を通して購入している。10日位して薬が到着すれば、担当医と相談しながらサリドマイド単独で行くのか、化学療法を併用して行うのか決め治療に入っていく。サリドマイド療法を行うにあたって、その効果について検討して見たい。参考文献は「日本骨髄腫患者の会」ホーム・ページからの以下の2点である。

▼「多発性骨髄腫に対するサリドマイド適正使用ガイドライン (平成15・16年度厚生労働省関係学会医薬品等適正事業推進事業)」
▼「多発性骨髄腫のサリドマイド療法

なぜ、サリドマイドが骨髄腫に効くのか?
現在ではサリドマイドのもつ血管新生抑制作用を含め以下のようなさまざまな機序が総合的に作用していると考えられている。
1. 骨髄腫細胞および骨髄間質細胞に直接作用して、増殖抑制、細胞死をもたらす。
2. 骨髄腫細胞の間質細胞への接着を阻害し、結果として骨髄腫細胞の増殖抑制をもたらす。
3. 骨髄腫細胞の増殖に必要な骨髄間質細胞および骨髄腫細胞からのサイトカインの分泌抑制。
4. 骨髄間質細胞および骨髄腫細胞からのサイトカイン分泌を抑制し、骨髄の血管新生を抑制する機序。
5. 免疫調整作用。

サリドマイドの骨髄腫に対する有効性
1999年アーカンサスがんセンターより、治療抵抗性骨髄腫患者89人にサリドマイドを投与したところ、1/3に有効であると報告された。同グループは、その後も症例数と観察期間を拡大して検討を続け、2001年Barlogieらの報告によると169人の進行性ないし治療抵抗性患者にサリドマイドを投与したところ、CR(完全寛解)ないしそれに近い結果が14%に、PR(部分寛解)以上30%の成績が得られた。
日本国内では、26人の患者にサリドマイドを投与した慶応病院からの報告によると、評価可能であった22人のうち、36%(8例)に50%以上のM蛋白の減少を認めた。

サリドマイドとステロイド剤の併用療法
MDアンダーソンのグループの報告によると、サリドマイドに抵抗性の患者に対しデキサメサゾンを併用したところ、52%の患者にM蛋白の減少が認められた。
サリドマイドとデキサメタゾンの併用(TD療法)は症候性骨髄腫を対象に検討されている。デキサメタゾンの投与量は40mgあるいは20mg/mと大量が間欠的に投与されている。奏効率は64 ~ 72%と高く、10~20%の完全寛解(complete response)が得られている。
低用量サリドマイドとデキサメタゾン及びクラリスロマイシンとの併用も行われ、80%の奏効率が得られた。

サリドマイドと化学療法の併用療法
 サリドマイドと化学療法併用の代表的な報告は以下の表のとおり。現在のところ、生存期間延長についてはさらなる観察が必要である。

HYPER-CDT: サリドマイド、シクロフォスファミド(アルキルカ剤系)、デキサメサゾン(ステロイド)-奏効率86%
TCED: サリドマイド、シクロフォスファミド、エドポシド(アルカロイド系)、デキサメサゾン-奏効率78%
TCD: pulsedサリドマイド、シクロフォスファミド、デキサメサゾン -奏効率50%
TVAD: サリドマイド、ビンクリスチン(アルカロイド系)、アドリアマイシン(抗生物質系)、デキサメサゾン-奏効率100%
MPT: メルファラン(アルキルカ剤系)、プレドニゾロン(ステロイド)、デキサメサゾン-奏効率38%
BLT-D: 低容量サリドマイド、デキサメサゾン、クラリスロマイシン(抗生物質)-奏効率93%
Guideline Thalidomide in Multiple Myeloma : Current Status and Future Prospects より

化学療法との併用に関しItalian Multiple Myeloma Study GroupではMP療法にサリドマイド100mgを併用(MP-THAL)し、評価可能31例中90%に部分寛解以上の効果を認め、22%に完全寛解を得ている。奏効率は他の化学療法より高く、完全寛解率は大量化学療法に匹敵する。ビンクリスチン、リポソーマルドキソルビシン、デキサメタゾンとサリドマイドの併用(T-VAD Doxil)でも、74%に部分寛解以上の効果がみられる。深在性静脈血栓症の発症は10%程度である。

難治性骨髄腫に対するサリドマイド単独療法
投与期間中央値は80日であった。部分寛解(partial response:PR)を24%、ミニマルレスポンス・最小の反応(minimal response :MR) 以上を32%の症例に得ており、治療開始後1年で生存率58%、無イベント生存期間(event-free survival)は22%であった。その後、Barlogieらが169例の追加報告をしているが、治療開始後2年で生存率48%、無イベント生存期間は20%と良好であった。他の報告でも、ほぼ30%前後の部分寛解を得ている。

日本骨髄腫研究会の調査では、2000年8月から2003年7月の間に73例がサリドマイド治療を受けていた。このうち、サリドマイド単独治療群は34例(47%)、ステロイド併用群は27例(37%)、化学療法併用群は12例(16%)であった

サリドマイド単独群の奏功率は、部分寛解以上が29%、ミニマルレスポンス(MR)以上が50%であり、進行のない生存率(Progression Free Survival)中央値は10.3月、全体的生存率(Overall Survival)中央値は24.1月と良好であった。以上より、サリドマイド単独療法では約30%の奏功率が得られた。

再発及び治療抵抗性多発性骨髄腫に対するサリドマイドと他剤の併用療法
▲ サリドマイドと化学療法の併用によって、治療抵抗性多発性骨髄腫において40%-100%の部分寛解[50%<M蛋白減少]以上の効果が報告されている。患者背景は必ずしも一致していないが、サリドマイド単独投与の成績との単純比較では、併用療法の治療効果が勝る可能性が示唆される。

▲ サリドマイドとデキサメタゾン(+その他の化学療法)の併用療法が、サリドマイド単剤治療での再発・治療抵抗例においても有効である事が報告されており、この点からも併用療法の有用性が示唆される。

▲ サリドマイド単剤と比較してサリドマイドとデキサメタゾンの併用によって、有意に高い完全寛解率が得られる事が自家移植後の再発を対象としたPhase III studyで明らかにされている。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

「モディリアーニ展」国立新美術館

3月28日(金)
画期的な「モディリアーニ展」
20080325_489043.jpg今回の「モディリアーニ展」は正真正銘の「モディリアーニ展」で、今までの「モディリアーニと誰々展」とか「モディリアーニとその時代展」とかいったものでなく、出展作品の全てがモディリアーニ作である。総数約150点という混じりっ気なしの「モディリアーニ展」である。

今回の出展リスト見ると所蔵先のほとんどが「個人蔵」となっている。9割方は個人コレクターのもので、ひとつの美術館所蔵作品をそのまま丸ごと借りてきて構成しただけの展覧会などと比べると出展作品の豊富さ、バラエティーさは歴然である。これが今回の「モディリアーニ展」の凄い所だ。

展覧会の構成
1章:プリミティヴィスムの発見
(パリ到着、ポール・アレクサンドルとの出会い)
2章:実験的段階への移行
(カリアティッドの人物像―前衛画家への道)
3章:過渡期の時代
(カリアティッドからの変遷―不特定の人物像から実際の人物肖像画へ)
4章:仮面からトーテム風の肖像画へ
(プリミティヴな人物像と古典的肖像画との融合) 

展覧会概要
20世紀初頭にパリのモンパルナスで活躍したアメデオ・モディリアーニ(1884-1920)は、エコール・ド・パリを代表する画家として知られています。しかし、モディリアーニが自らの創造の源泉として、原初的な力にあふれるアフリカやオセアニア、東南アジアなどの芸術に深い関心を寄せていたことは、あまり注目されてきませんでした。

プリミティヴ美術(原始美術)の素朴で純粋な造形は、当時ピカソやマティス、ドランといった前衛的な芸術家たちが新しい表現を探求する過程で、重要な指針となりました。モディリアーニもまた、プリミティヴ美術を理知的に分析し、それを革新的な表現に結びつけた画家であったことが明らかになってきています。

本展では、プリミティヴ美術の影響を色濃く示す初期のカリアティッドの作品群から独自の様式を確立した肖像画にいたるまで、幅広い作品を紹介し、プリミティヴィスムに根ざしたモディリアーニの芸術がいかなる変遷をとげたのかを探ります。
(「モディリアーニ展」案内より)

アメデオ・モディリアーニ(Amedeo Modigliani, 1884年7月12日 - 1920年1月24日)
モディリアーニは1884年、イタリアの港町リヴォルノに生まれた。彼は画家を目指し、22歳の時にパリの異邦人となる。1920年頃の「エコール・ド・パリ」には、野心と希望に溢れた無名の前衛画家が集まっていた。モイズ・キスリング、マルク・シャガール、藤田嗣治、そしてパブロ・ピカソ。友情と嫉妬の中、彼らは毎晩のように酒を酌み交わして鬱屈を吐き出していた。

その中で浴びるほど酒を呷り、麻薬に溺れ、醜態と狂態を晒していたのがモディリアーニだった。モディリアーニの絵画のほとんどは油彩の肖像画であり(風景画はわずか3点)、顔と首が異様に長いプロポーションで目には瞳を描き込まないことが多いなど、特異な表現をとっている。(「美の巨人たち」より)

モディリアーニの芸術
彼は、エジプトやアフリカなどの原始美術と、故郷イタリアに息衝くシエナ派など古典芸術の厳格性を融合させ、縦に引き伸ばされたかのような面長の顔とアーモンド形の瞳による独自の人物画を確立した。類稀な造形性と抒情的で画家自身と同調するかのような独特な人物表現は以降の現代芸術に多大な影響を与えている。

モディリアーニの描く人物は、ルネサンス絵画に登場する人物たちに類似している。首を長くし、全体をS字にしならせるのは優美な体の形をつくるためであり、蛇行曲線(serpentine line)というのが「美の線」(The Line of Beauty)で、優美な造形は、かならずこの曲線で形が構成されている。これはルネサンス以来の古い伝統につらなる表現なのだ。彼の作品が晩年になるほど、首が長くなって顔を傾けているのは、人体を抽象化するというより、古典的美への回帰だったと言えるのではないか。

画家の特徴的な表現のひとつであるアーモンド型の瞳の視線は、観者に向けられているのではなく、モデルと対峙することによる画家の自己反映とも解釈することができる。彼の絵には瞳のある表情豊な肖像もあるが、瞳のない肖像は、そのことによってかえって、モデルの内面と、感情を顔の中に閉じ込め、その人の全人格、人間性を余す所なく浮き上がらせる事に成功している。

彼の絵は、モデルの外見だけでなく、内面までも描き出している。しかし場合によっては、隠しておきたかった自己の内面が見抜かれ、肖像画に現れてしまったのではないか。瞳がない、そのことは、モデルの内面に深く踏み込み表現するための方法ではなかったのか。我々は彼の肖像画の微妙な表情と奥深さの中に、人物の内面を感じ読み取ることに通して、彼の絵に感動するのである。

「顔」とは見ようとするとたちまち遠くへいってしまうという現象なのではないか、そこに表現されているのはその人の人生であり、生き様であり、歴史であり、こだわりでありそして全てである。だからこそ、モディリアーニたち画家が生涯をかけて描こうとしたものではないか。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

国立新美術館・東京ミッドタウン・赤坂サカス

3月28日(金)
国立新美術館
国立新美術館で「モディリアーニ展」をやっていると知った。モディリアーニは最も気にいった画家だ。彼のモデルとなった人物の個性と人間性を溢れるばかりの表現力で描写した絵は、人を見るということはどういうことなのかを鋭く示唆するのである。同時に35歳で夭折した彼の数奇な運命に惹かれるものがある。ジェラ-ル・フィリップ主演の「モンパルナスの灯」やアンディ・ガルシアの「モディリアーニ 真実の愛」の映画も何回か見た。今回の展示会は、彼の絵の原点を探るということで今までとは別の視点の試みだということで特に興味深いものがあった。

朝は寒く曇っていたが、しばらくすると晴れ間が出て、春のうららかな陽気になってきた。落合長崎駅まで行き大江戸線で六本木に向かった。今日は国立新美術館に行き、その後新しい都市開発の現状を見てみたいと思った。東京ミッドタウンと赤坂サカスまで行って見ることにした。

連日の外出だが、サリドマイド療法が始まれば体調がどうなるか分からないので行きたい所には今のうちに行っておこうと思った。サリドマイド自身はそれほど副作用がないといわれるが、組み合わせの抗がん剤によっては体力消耗をもたらすものもある。幸い抹消神経障害の薬ガバペンが利いているのだろう、足の痺れがかなり緩和されている。1時間位歩いてもそれほど疲れない。症状が治まっている機会をとらえて出掛けなければまた何時症状が悪くなるかもしれない。

国立新美術館が出来たという事は全く知らなかった。「2007年1月開館。周辺の緑と調和した、波打つような巨大な壁が目をひく日本で5番目の国立美術館」ということだ。国内最大級の展示スペース(14,000m2)を生かし、近現代美術を中心に多彩な展覧会を開催している。展示室が7つあり屋外展示場が3ケ所ある。コレクションを持たず、美術に関する情報や資料の収集・公開・提供、教育普及など、アートセンターとしての役割を果たしている。

変容する六本木
六本木は、三角形を描くように位置する、国立新美術館、サントリー美術館(東京ミッドタウン)、森美術館(六本木ヒルズ)の3つの美術館を中心としながら、新しい魅力=アートの散歩を楽しめる街を作っていこうとしている。美術館の集中する上野に対抗し、アートのもう一つの求心点としての位置を確保しようとしているのだろう。六本木、赤坂は急激な変容を遂げている。次々と高層ビルが立ち並び、中でも東京ミッドタウン、国立新美術館、そして先ごろオープンした赤坂サカスと東京の新名所が生まれている。

大江戸線の六本木を下車すると地下鉄の上が東京ミッドタウンだった。ミッドタウンは「モディリアーニ展」を見てから帰りに行くことにした。ミッドタウンの脇を乃木坂方面に向かい、表示にしたがって左に曲がると美術館に向かう遊歩道がある。桜並木になっていて、色々な植物や花が植えられている。国立新美術館の波打つ壁はユニークだ。黒川紀章の設計だ。建物は広い敷地の中に佇み、中に入っても展示会場前のスペースがゆったりと取ってある。(「モディリアーニ展」の感想は次回に)

03_pic02.jpg東京ミッドタウン
東京ミッドタウン(右写真)は2007年3月にオープンした。防衛庁跡地複合再開発に基づき計画され、「都心の上質な日常」を提供する商業施設130店舗を抱えている。

周辺に広い公園や庭園を配置し、緑豊かで、開放感溢れる施設は、ファッション、インテリア&デザイン、フード&カフェ、レストラン&バー、サービスなど、日常生活の中に上質な物を取り入れ、快適な生活を送る都心型ライフスタイルに対応する店舗で構成されている。4haの広大な緑地とともに、オフィス、商業施設、賃貸住宅、ホテル、デザイン関連施設、メディカルセンター、ホール&カンファレンスからなる複合施設である。

東京ミッドタウンの乃木坂寄りが公園になっていて、桜が今と盛りに咲き誇っている。公園をしばらく行くとサントリー美術館の入り口がある。美術館の建物の裏手から芝生の広場と日本庭園が続いている。暖かい昼下がり、お年寄りが散歩していたり、近く会社のサラリ-マンやOLが休憩をしたり、昼食をとったりしていた。また広場ではイベントの準備が進められていた。公園の中に赤坂サカス行きの無料送迎バスの停留所があった。

赤坂サカス
赤坂サカスは東京ミッドタウンから歩いて10分くらいの所にある。赤坂サカスの『サカス』は、桜を咲かすという意味であると同時に、赤坂にたくさんある坂=坂s=『サカス』の意味もある。「TBS赤坂5丁目再開発計画」は、TBS放送センターへ本社演奏所が移転した後のTBS旧社屋跡地の再開発し、複合施設建設を目的としたものである。2008年3月20日にグランドオープンした。一時閉館していた赤坂BLITZや、赤坂ACTシアターも全面リニューアルオープンした。

TBSの建物の脇を通り、メイン会場に行くと、春休みだということもあって家族連れでかなり賑わっていった。テレビのスタッフの体験ゾーンには列を作って子供たちが並んでいた。テレビ番組を紹介するブースや各地の放送局が地元も食べ物を提供する屋台が立ち並びそこにも人が溢れていた。これらのブースや屋台はオープン記念イベントのための一時的なものだろう。通路に並べられた作られたブースや屋台は通路を狭くし、人が多かったせいもあるがごった返し、ゆっくりとACTシアターなどで演劇を鑑賞するなどといった雰囲気ではない。

人ごみの中で、赤坂サカスの本来の雰囲気は良く分からなかった。後楽園遊園地に行ったのと雰囲気は変わらなかった。「文化が息づく坂の町に根を下ろした赤坂サカス、訪れる人の思いを咲かす場所」といった様相は残念ながら微塵も感じられなかった。オープンイベントが終わり静かになったら本来の雰囲気も分かるかもしれない。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

豊島区散歩-8 レトロに浸る・街道筋をゆく

3月27日(木)
朝は曇っていって気温は低く、天気予報だと最高気温は10度だったが、10時過ぎる頃から暖かくなってきた。桜の見頃は恐らく今週一杯だろう、ということで今日も出かけることにした。豊島区観光案内散歩コースの9番目、巣鴨・西巣鴨コース=「レトロに浸る・街道筋をゆく」を巡ることにした。昔の面影を残すどこか懐かしい町、旧中山道を地蔵通りから庚申塚通りを抜けて掘割まで行く。

巣鴨駅→染井吉野の碑→眞性寺→巣鴨地蔵通り商店街・高岩寺・とげぬき地蔵→庚申塚・猿田彦大神→種子屋→千川上水公園→掘割バス停

巣鴨の桜並木・染井吉野の碑
巣鴨駅の改札口を抜ける。すると中仙道を越えた山手線沿いに大塚駅に向かって数百メートルにわたって桜並木が連なっている。桜並木の線路沿いには遊歩道があり、お花見客とか、近所の犬の散歩の人とかゆったりと歩いている。昨日の都内の気温が20度を超えたということで一挙に花が開いたのだろう、ほぼ満開だった。桜祭り用のピンクの提灯が桜の木々に吊るされ夜はライトアップされるのだろう。

山手線沿いの桜並木の入口に「染井吉野の碑」がある。昭和48年に染井吉野が豊島区の木に指定され、昭和55年に近隣の人たちによってこの碑が建てられたそうだ。巣鴨・駒込はソメイヨシノの発祥の地だ。桜が見事に咲いているのもうなずける。

以前会社に通勤していた時、毎日山手線を池袋から西日暮里まで利用していた。当然巣鴨は毎日通る。桜の季節になると、列車から咲き誇る桜の花がよく見える。毎年1週間位は楽しませてもらっていった。そしてこの桜並木を列車の窓からでなく実際に見ることが出来たということは何か感慨深いものがある。仕事を辞めたから経験できる世界がある。好んで選択したわけではないが「がんになったということはそんなに悪いことではない」とも言えそうな気分だった。

巣鴨地蔵通り商店街

桜並木を大塚に向かい散策しながら、又中山道に戻ってきて、巣鴨地蔵通り商店街に向かう。この商店街通りが昔の中仙道だ。「お年寄りの竹下通り」と言われるように、衣類、雑貨、食料品店などは年寄り向けの品物で溢れかえっている。また煎餅や和菓子、団子屋なども古い店構えで軒を連ね多くの年寄りが品物を吟味しながら、買い物をしている。何時からこんなに賑わうことになったのだろう。平日の午前中だというのに、店によってはデパートのバーゲン売り場並みの人混みがあったりする。

眞性寺・江戸六地蔵
地蔵通り商店街の入り口にあるのが真言宗豊山派醫王山東光院眞性寺だ。中仙道口にあり、中山道を旅する人は道中の無事を祈るため必ず参拝したという。この寺院に、江戸六地蔵の一つがある。1706年深川の僧侶・地蔵坊正元が15年掛けて青銅の坐像を街道口6ケ所に作った。

地蔵は本堂の前にあり、高さ2m68cm、蓮花台を含めると3m45cmの大きなものである。真性寺の地蔵尊は東京都指定有形文化財で、造立年代順第4番目、巡拝順第3番目である。あとの五体とは、東海道・品川寺、奥州街道・東禅寺、甲州街道・太宗寺、水戸街道・霊巌寺、千葉街道・永代寺(現存せず)である。

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 眞生寺本堂と江戸六地蔵尊 (参拝客の線香であたり一面煙っている。) 

高岩寺・とげぬき地蔵尊
巣鴨地蔵通り商店街の中央にあるのがとげぬき地蔵だ。曹洞宗萬頂山高岩寺は、約400年前(慶長元年=1596年)江戸湯島に開かれ、約60年後下谷屏風坂に移り、明治24年現在地に移転した。霊験あらたかな「とげぬき地蔵」として知られる延命地蔵尊が安置されている。

境内には土産物屋が並び、お札や厄除け、お団子など売っている。本堂前の広場には椅子が並べられ、多くのお年寄りが休憩している。病気の回復を祈りからだの悪い所を洗う「洗い観音」もあって、50~60人が列を作って洗い観音の順番を待っている。長年に渡ってタワシで洗っていた聖観世音菩薩の顔などもしだいにすりへってきたので、平成4年11月27日、この仏像は隠退し、新しい聖観世音菩薩を開眼し、同時にタワシを廃止し布で洗うことにしたという。

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 高石寺本堂                         洗い観音

巣鴨庚申塚
江戸時代中山道の立場(宿場町と宿場町との距離が長い箇所の途中や、峠といった難所に、休憩施設として設けられたもので、茶屋や売店が設けられていた)として栄え、板橋宿に入る前の旅人の休憩所として簡単な茶店もあり、人足や馬の世話もしていた。江戸名所図会ではそれらの様子がにぎやかに描かれている。

ここは中山道板橋の宿場にも近く、右に向かえば花の名所「飛鳥山」、紅葉の王子にでる王子道の道しるべを兼ねた庚申塔が建っていた。

現在は庚申堂に猿田彦大神を合祀している。猿田彦大神とは日本神話に登場する神様で、天孫降臨の際に道案内をしたということから、道の神、旅人の神とされるようになり道祖神と同一視された。

種子屋(たねや)
江戸時代から巣鴨⇔滝野川の中山道沿いには、野菜の種を商う種子屋が軒を連ねていた。幕末に滝野川から分家した榎本家がここに店を構え種子屋を営んでいた。現在も昔の面影を残している。

千川上水公園
旧中仙道を庚申塚の駅の所で都電の線路を突っ切り、さらに5分ばかり歩くと明治通りにぶつかる。それを左の曲がるとすぐ千川上水公園である。何の変哲もない面白みもない公園で、ブランコが一つあるぐらいだ。公園の真ん中辺に六義園給水用沈殿池と表示された囲いがひとつあり中に水門のバルブがある。

公園の入り口には千川上水の由来が記されている。徳川家康が江戸に幕府を開いた当初(1603年)は、江戸府内の飲料水は神田上水といくつかの溜池からの給水でまかなえていた。しかし開幕後、江戸の人口と府域は急膨張を続け、1700年代には世界有数の巨大都市に発展する。幕府は膨張し続ける人口と拡大する府域への新たな給水に迫られ、次々と人工の水路(上水)を開設していく。

「江戸六上水」の一つである千川上水は、現在の西東京市新町から玉川上水の水を分水し、豊島区西巣鴨の「千川上水公園」内「六義園給水用千川上水沈殿池」まで「五里五拾四町」(約22.3㎞)を開さくして設けた人工の水路である。ここから中山道の地下を木樋(もくひ)で江戸の中心まで給水していた。(練馬区ホームページ・練馬の歴史と文化財)

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

豊島区散歩-7 目白不動尊~面影橋

3月26日(水)
風は強かったが、天気は良く、サクラが至る所に咲き始めている。気温は19度位まで上がってきている。風薫るといったすがすがしさがある。久しぶりに周辺探訪に行こうと思い立った。ラジオ体操はしていてもこれといった運動はしていない。目白周辺まで自転車で15分位だ。椎名町から裏通りで目 白駅まで出て、駅を右、高田馬場方面に曲がり線路沿いに坂を下り、学習院下を明治通りに向かう、明治通りを都電の学習院下で突っ切ってしばらく行くとそこからが今日のコースだ。

豊島区12の散歩コース7番目の「古き坂道と寺社を巡る山吹の里コース」を巡った。ここは目白通りから、寺と坂道が集まった高田の町を中心に面影橋まで歩くコースで坂の上がり下りが多い。このコース周辺の坂だけでも豊坂、のぞき坂、宿坂、稲荷坂、富士見坂、日無坂などありそれぞれ曰くがあるらしい。

金乗院→根生院→南蔵院→氷川神社→山吹の里の碑→面影橋→神田川沿い桜並木

金乗院・目白不動尊
mejirofudou.jpg学習院下からすぐ高南小学校がありその隣が金乗院だ。この寺院は16世紀の創立で、目白の地名の由来でもある目白不動尊(右写真)がある。この不動尊は江戸五色不動の一つである。

不動明王
右手に剣を持ち、左手に羂索(けんさく)という縄を持ち、頭上に蓮華を載せ、弁髪と呼ぶ髪を左肩にたらし、左目を半眼、右目は見開き、下歯で右の上唇をかみ、口の両端に牙を出して、忿怒の顔をもって火炎を背に上半身裸で立っている。この姿で全ての障害や悩みを打ち砕き、人々を救いとるということで、密教系の寺院で、家内安全、交通安全、商売繁盛の神として祭られている。(「日本の仏様がわかる本」日本文芸社)

江戸五色不動
天海僧正が家光の命により左青竜、右白虎、前朱雀、後玄武の四不動を持って江戸の守護とし、家光がこれに目黄不動を加えて五不動としたと伝えられる。五色とは青・黄・赤・白・黒で梵語で言う地・水・火・風・空をあらわし、家光がこの五色不動の目として東西南北中央の五方眼で江戸を守るために五色不動を設定したという説がある(夏山雑談)。(「東京の地名がわかる事典」鈴木理生・日本実業出版社)

五行説
万物を構成する要素として五つの元素を想定した。すなわち、木と火、土と金属と水である。
 色  方位  元素  神獣
 青   東    木   青龍(せいりゅう)
 赤   南    火   朱雀(すざく・(おおとり))
 黄   中央   土  (天位)
 白   西    金   白虎(びゃっこ)
 黒   北    水   玄武(げんぶ・(かめ))


この寺院の裏手にはかなり広い墓地があり、宿坂の途中にあるため見晴らしが良く、池袋周辺の高層ビルが一望できる。墓所には丸橋忠弥の墓がある。彼は由井正雪とともに幕府転覆を計った人物で1651年に鈴が森で磔刑にされた(慶安事件)。
また青柳文蔵の墓もある。青柳文蔵は仙台の人で、1831年、仙台に「青柳館文庫」を作った。これが日本最初の公共図書館と言われている。

根生院
赤い山門を入ると、正面に本堂があり、新築の鉄筋コンクリート2階建、外階段、ガラス張りでモダンなデザインだ。右に鉄筋コンクリート3階建の庫裏がある。古い赤門が由緒正しさを感じさせる。元々は田川徳川家の下屋敷だという。本尊の薬師如来立像(秘仏)は春日仏師の作と言われている。

南蔵院
根生院から面影橋に向かう途中に南蔵院がある。入り口の所に「怪談乳房榎」ゆかりの地という看板が立っている。これは三遊亭円朝が旧本堂天井の絵を見て講談を創作したことから来ている。「死んだ絵師が幽霊となって竜の絵の目を入れ完成させた」という言い伝えがある。又この近くで死に絶えた上野彰義隊の隊士9人の首を埋めて葬られた首塚や太田道灌の「山吹の里」の伝説を伝えた「山吹の里弁財天の供養碑」もある。

南蔵院の前に氷川神社があり、さらに面影橋に向かうと、橋の袂に「山吹の里の碑」がある。太田道灌の故事、「七重八重花は咲けども山吹の身のひとつだになきぞ悲しき」という歌でも知られている。

面影橋
omokage.jpg面影橋は神田川にかけられた小さな橋である。この橋には「美貌ゆえ次々と災難に遭うのを苦にして髪を切ったお戸姫が変わり果てた姿を川面に映して身投げした」といういわれがある。何ということもない橋だが、地名には深い歴史が刻まれているのだなと感じさせる。

この橋にたどり着いて驚いた。何と幸運なことに、全く予想もしていなかったことだが、面影橋を中心として神田川の上流、下流にわたって、川にトンネルを作るように左右から桜の木が張り出しそれが見事に満開の花を咲かせていた。ここに来る間にもかなり桜が花を咲かせていたが、7、8分咲きであった。この面影橋の桜はまさに日当たりの加減か満開だったのだ。川に沿って遊歩道があり、ゆっくりと桜見物をしながら散策した。期待してなかっただけに得をしたような気分だった。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

監獄人権セミナー「長期受刑者の仮釈放を考える」(続き)

3月26日(水)
 「監獄人権センターよりの提言」

監獄人権セミナーは最初に、監獄人権センターの事務局長である海渡雄一弁護士より「監獄人権センター・政策シリーズvol.6、無期懲役受刑者の仮釈放制度の改革と重無期刑(終身刑)の導入に対する提言~仮釈放の可能性のない刑は非人道的刑罰である~」の内容に沿っての説明が行われた。

無期受刑者の増加
日本における無期懲役受刑者の数は、平成元年には888人だったのが18年には1596人と倍増し、新規無期確定者数は平成8年では34人だったのが18年には135人と大幅に増大した。この中で無期懲役受刑者の仮釈放数が減少傾向にあり1995年以降は執行済み刑期20年以上、2005年及び2006年は25年を越える長期受刑者でなければ、仮釈放が認められていない。しかも長期の昼夜間独居拘禁とされている多くが無期懲役受刑者である。こういった説明の後、死刑廃止国における最高刑とその運用状況が語られた。

無期懲役と仮釈放
現在死刑を廃止するためのステップとして、無期懲役と死刑の溝を埋めるものとして仮釈放のない終身刑導入が提案されている。国連人権基準は仮釈放の可能性のない終身刑を許容していない。「諸研究は、終身刑を宣告された受刑者は、非社会化と依存性を引き起こしうる心理学的・社会学的諸問題に苦しむ可能性があると結論付けているが、これらは受刑者個人の健康にとっても有害であるゆえに、仮に釈放がなされた場合に社会全体にとっても有害である。」(国連終身刑ハンドブック)ということなのである。

最低基準規則では
国連被拘禁者最低基準規則は、受刑者をひとたび社会にとってもはや危険な存在でないとみなすことが出来れば、犯罪の深刻さや当該犯罪の被害者を含め、正義の理由のため必要とみなされる期間を超える長期の拘禁には疑問があり、特別の精査に服するべきだと考えている。

監獄人権センターは、こういった国際的流れを踏まえて、無期懲役受刑者の仮釈放、及び仮釈放の可能性のない終身刑の提案に対して、提言を行っている。

 「長期受刑者の仮釈放について」講師:土井政和教授

処遇概念の転換
人格的変容から生活再建への援助へ-自らの犯罪行為に伴う法的、社会的結果であるとはいえ、本人のみの個人責任として放置されるべきものではない。すでに施設内において、生活再建のための準備として、これらの問題に対処できるような社会的援助が提供される必要がある。

更生保護法が目指すべき改革の方向性
刑事被収容者処遇法で規定された基本的人権の尊重と社会復帰の促進をさらに推進し、対象者が人間としての誇りと自身を持って更生を果たし、再び社会の担い手となれるように、生活再建に向けた援助を提供すること。

仮釈放制度の位置づけ
恩恵ではなく、身体拘束がもたらす弊害を除去し、生活を再建するための援助措置ととらえるべき。必要的仮釈放または権利的仮釈放(善時制)の制度を設けることが望ましい。一抹の不安を理由に仮釈放不適格者が増加すれば、仮釈放によって保護観察処遇を受ければ更生が可能なものにその機会を与えないことになる。

自由刑純化の要請
刑の終了後、その弊害の除去のための措置がとられなければならない。刑の執行に伴って生ずる様々なハンデイが是正され、刑罰を受けなかったと同じスタートラインに立って社会生活が再開されることが必要なはず。自由刑が純化されるためには、社会において生活再建の準備をするための仮釈放が保障されなければならない。仮釈放は自由刑執行に伴う弊害を除去しなければならないという国家の義務である。そのようにとらえることによって初めて、受刑者は仮釈放を求める権利を持ち、審査結果および理由の告知を受け、又不服申し立て権を保障されることになる。

 「イギリスにおける終身刑」ヴィヴィアン・スターン氏

イギリスの終身刑
1956年イギリスでは死刑制度が廃止され、その代替刑として終身刑が導入された。殺人罪には必要的無期刑、傷害致死や強盗などには裁量的無期刑が適用される。無期刑は本当に終身刑なのか。無期刑に関しては最低拘禁期間(タリフ)が定められ、タリフが終了するまでは仮釈放の可能性はない。実際に設定されたタリフを見ると、必要的無期刑については11年以上16年未満、裁量的無期刑については6年から11年未満が過半数を占めている。(1998年時点)

終身刑受刑者の増加
現在の問題は終身刑受刑者の数の増大である。1970年-730人、1999年-4200人、2006年―7300人、現在8000人となっている。フランスでは557人、ポーランドでは185人、ドイツでは2000人以下、スペインは0である。服役期間も長くなっている。1950年の頃は8年、2004年は14年である。54年服役している人もいる。

不定期刑の導入
2003年に「公共の安全を根拠とした不定期刑」が導入された。150の罪名の犯罪に科すことが出来る。通常の量刑を決めその人物が危険だと判断したら、2年間のタリフを科す。その後危険が除去されたと判断されるまで仮釈放は不可となる。受刑者は自分が社会にとって安全であると証明しなければならない。「反犯罪的思考」プログラムを受けなければならない。しかしプログラムは順番待ち、保護監察官は不足し、仮釈放審査委員会も不足しここでも順番待ちとなっている。この不定期刑は「公平な裁判による以外自由を奪われない」という刑事司法の原則を逸脱する危険な動向である。

終身刑の問題
人権派弁護士は終身刑に対して「多くの権利を受刑者から奪う、釈放されるのはどうしたらいいか不明確だ」と訴え、終身刑の意思決定が今までの政治家(内務大臣)から、裁判官に与えられるようになった。最高裁判所は必要的無期刑のタリフについて何年か無期受刑者に知らせるべきという判断をした。2002年には仮釈放審査委員会に代理人をつけることが可能になった。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
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監獄人権セミナー「長期受刑者の仮釈放を考える」

3月26日(水)
監獄人権セミナー
友人に誘われて、NPO法人監獄人権センター主催の監獄人権セミナーに行ってきた。3月23日の日曜日に明治大学リバティータワー7階で行われた。

集会の趣旨説明には次のように書かれている。「ほとんどの受刑者が、最も望んでいるのが一日も早い出所であり、最も不安なことが、出所後の生活がうまくやっていけるかという問題ではないでしょうか。とりわけ、無期を含む長期受刑者にとっては切実な関心事でしょう。残念ながら、仮釈放の門はより狭まっており、また、出所後、再犯に至ってしまうケースも少なくはない現実があります。監獄人権センターでは、日本の刑務所の問題を「出口」から見直すセミナーを開催します。」

監獄人権センター
cprlogo_convert_20080326095158.gifこの集会を主催した監獄人権センター(CPR)は、刑事拘禁施設及び出入国管理施設の人権状況を国際水準に合致するよう改善していくこと、死刑制度を廃止すること等を目的として1995年3月に結成された。主な活動は、

1、拘禁施設内の人権侵害の事実を調査し、国内外に公表する。
2、必要なケースについては弁護士による助言、訴訟提起などにより個別的な救済を図る。
3、刑事拘禁に関する国際人権諸基準を研究し、紹介しながら人権条約の批准を求める、等。

2002年にNPO法人の資格を得た。折に触れ開催するセミナーの報告や、監獄をめぐる裁判事例の紹介、海外の施設の視察結果などを紹介したニューズレターを発行している。

講師:土井政和九州大学大学院法学研究院教授
①行刑に関しては、「社会的援助」をキーワードに犯罪者処遇を再構成する基礎理論の構築に努めてきた。その成果は、研究者による監獄法改正案である「刑事立法研究会『刑事拘禁法要綱案』」およびその『改訂版』の処遇論として導入されている。これは、行刑のみで「完結」する被収容者の人格変容を目指す処遇ではなく、社会復帰する彼らの生活関係の再建を目指した、更生保護との「一貫した社会的援助」を軸としている。この構想は、行刑と福祉との相互関係や犯罪者処遇への市民参加の問題へと射程を広げ、刑務所改革のあり方について問題提起している。

②更生保護に関しては、刑事政策と社会福祉政策の関係についての研究、更生保護関係法に関する立法学的研究、そして、最近は、更生保護が福祉援助的活動から社会防衛的コントロールへと転換しつつあることを指摘して、社会的援助と社会的コントロールとを対抗軸に「社会内刑罰」の動向などを研究している。

特別ゲスト:ヴィヴィアン・スターン氏 (Vivien Stern)
英国上院議員、ロンドン大学キングズカレッジ国際刑務所研究センター研究員。刑事司法活動及びNGOにおける幅広い経験を持つ。40か国で刑務所改革プロジェクトを行っているPenal Reform Internationalの名誉事務総長を1989年から務めている。ブリストル大学及びオックスフォード・ブルックス大学から名誉博士号を取得。ロンドン大学経済大学院(LSE)名誉研究員。刑務所改革に関し40か国以上を訪問し、アドバイスを行い、刑務所の代替手段に関する専門家として知られる。

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ジャンル : 日記

ベルケード療法終了・サリドマイド療法へ

3月25日(火)
ベルケード療法終了
昨日ベルケード療法第5サイクル4回目、最終回を行った。これでベルケード療法を終了する。もはやベルケードはIgMを抑える力を失ってきた。原発性マクログロブリン血症の症状にも色々あって、IgMの上昇が緩慢で、投薬と、休薬を繰り返しながら様子を見ていっている人も多い。半年休薬してもIgMの上昇が200~300位という例もある。しかし私の場合は、IgMは放っておくとどんどん上昇してくる。次々と抗がん剤を投与し続けなければならない。

IgMの推移
1回目の移殖おいて、401(8/30)まで下がったIgMは、2月で1240(10/11)にまで至り、2回目の移殖後78(12/20)まで下がったが、半年と持たずに1150(5/30)まで上昇した。かなり効果的だといわれる2回の連続移殖(タンデム移殖)においてもIgM上昇を抑え続けることは出来なかった。

その後のMP療法においても数値を上げることを抑えることは出来ても下げることは出来なかった。そこでベルケード療法に変更し治療を始めた。最初は驚くべき効果をもたらした。1サイクル目の治療でIgM2269(10/26)だったのが、第2サイクル開始前日の検査では457(12/10)まで下がっていた。そして第2サイクルが終わった12月28日には405となった。

しかしそれ以降、第3、第4、第5サイクルとベルケード療法を続けてきたが、IgMはもはや下がることなく、3月17日の血液検査でついに1000を越えてしまった。ベルケードをこれ以降続けていっても効果はないと判断し、次の薬の選択にかかった。以前から提案されていたサリドマイドを使っていくことに決めた

サリドマイド使用に関する手続き
昨日の診療の際、担当医がサリドマイド使用に関する書類を用意してくれた。
最初に医者からサリドマイドの薬の特性、個人輸入の方法などの説明を受けた。
この説明を受けたということにまず署名する書類がある。
1、サリドマイド使用についての説明の要約」への署名
2、サリドマイド使用についての説明」への署名

この署名が終わってから、サリドマイド輸入代行業者の説明が行われた。輸入を希望すると輸入代行業者から医師宛に幾つかの書類が送られてくる。
1、サリドマイドご注文の流れ
2、ご注文に際して
-請求書の送付について、未承認医薬品の輸入に必要な書類について
3、サリドマイド注文に必要な書類、書類の作成に当たり各種の連絡事項

輸入代行業者は医師宛に、サリドマイド使用に関する厚生省の通達などの書類を送って確認を求める。医者はこの内容に沿ってサリドマイドの使用と管理を徹底するよう指導される。
1、医師等のサリドマイド個人使用の取り扱いについて
-厚生労働省医薬食品局・監査指導・麻薬対策課長から各地方厚生局長への通達。
2、サリドマイドを個人輸入しようとする医師への文書配布について(依頼)
-厚生労働省医薬食品局安全対策課長及び監査指導・麻薬対策課長から各地方厚生局長への通達。
3、これからサリドマイドを個人輸入使用とする医師各位へ、個人輸入されるサリドマイドの管理について
-労働省医薬食品局安全対策課長及び監査指導・麻薬対策課長より
4、今までにサリドマイドを個人輸入した事のある医者各位へ、個人輸入されたサリドマイドの管理について
-生労働省医薬食品局安全対策課長及び監査指導・麻薬対策課長より

輸入代行業者に送る書類
1、必要理由
-担当医の厚生労働大臣宛書類。①治療上必要な理由、②患者に必要な理由、③有効性・安全性、④医師の責任、⑤販売・譲渡に禁止、⑥厳重管理と適性使用、担当医の上記内容への誓約書。
2、サリドマイド服用に関する同意書
-サリドマイドによる胎児おける重篤な先天性欠陥症回避のための避妊に関する同意書、患者、医師の共同署名書類。
3、サリドマイドFAX用紙注文書
-製品名、容量、注文数量を記載し、銀行振り込みかクレジット決済を選択して、上記2つの書類と共に輸入代行業者にFAXする。銀行振込み、クレジット決済は患者が行い、品物は病院の担当医宛に届く。

注文内容
以上の手続きを医者と話し、注文することになった。サリドマイドは英国製で100mgのもの28カプセル/パック、1パック196ポンド(1ポンド198円、3/25)、これを2パック注文することにした。英国出荷1回の輸入につき手数料が26,000円かかる。かなり煩雑な手続きに思えるが2回目以降は必要書類も減り輸入手続きも簡素化される。ともかく次の治療はサリドマイドでやっていくほかない。サリドマイド単独でやるか他の抗がん剤と組み合わせてやるかは次回の診療の際決めることになった。

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自然・仕事

3月25日(火)
自然と対峙する
pho135c.jpg昨日雨が降りラジオ体操は休みだった。中1日置いて公園に行った。たった1日で、オオシマザクラ(右写真)の白い花は8割方開き、ソメイヨシノは5割位咲き始めていた。急速に春は訪れている。その鮮やかの光の中で、自分の置かれた状態を嫌でも噛締めざるを得ない。

自然との対峙の仕方には二つの意味があるようだ。1つはいつ命が絶たれるか分からない病に犯された体の私に対して、自然はあくまでも自らの循環を淡々と貫いている。その永遠に繰り返す営みに崇拝の念を抱きながら自らの限られた状態を照射する。

2つ目は仕事を離れ、日々追いまくられる生活から離れて自然を鑑賞することが出来る精神的余裕があり、それによって自然の営みを感じられ、ゆったりと感受出来る時間があるということだ。残りある人生でも、生き方によっては、仕事に追いまくられ自分を見失ってしまっている人生よりよっぽど充実した人生を送ることが出来るのだと思う。

職場での仕事の状況
マネキン・ディスプレイ業界の流通センターの仕事についていた時、仕事の前にラジオ体操にでも行けばすっきりと余裕を持って、仕事に向かうことが出来たのかもしれない。しかし夜遅く帰ってきて、酒でも飲んで寝るだけの人生の中で、睡眠時間を確保するだけでも精一杯だった。夜1時、2時まで仕事があった時は会社に当然泊まってしまう。

確かに会社は、流通センター建設の時、宿泊設備を整えた。6畳の日本間と、シャワー設備、洗濯機の設置などそれはあたかも従業員の福利厚生のために見えるかもしれないが、実は24時間働かせるためのタコ部屋的設備でしかないのだ。

仕事の動きの中でどうしても月5,6日は泊まらざるを得なかった、ブライダルの催事が重なる1、2月、7、8月は2、3日連続して泊まることもある。2時か3時頃仕事が終わり一杯飲んで寝て、朝8時には起きコーヒー一杯飲んですぐ仕事に入る。生きることのメリハリがない。やはり遅くなったとしても家に帰って風呂にでも入り食事をし、朝は起きて通勤をすることによって新たに仕事に向かっていく日々を送れるのだ。

タコ部屋は期間限定だから耐えられるのかもしれない。一生続くとなるとのは刑務所生活のようなものだ。次の日土日で、遅い出勤でいい時はタクシーを利用して帰宅していたが、家に帰って出勤まで2,3時間しかない日はさすが泊まってしまう。

加速する忙しさ
顧客であるデパートの営業時間の延長によって催事場の入れ替え時間が遅くなり、またホテル催事や展示会場催事でも、昔は18時頃から入れ替えが出来ていたが、会場費節減のため、展示会場が使用していない21時以降の什器の入れ替えになりそれが終わってからの流通センターでの積み下ろしになるので、流通センター業務の終了時間がどんどん遅くなりしたがって泊まりも増えていった。

どのような意味のある仕事でも、最初は生きがいを持って就いた仕事でも、あまりにも忙しさが続くと仕事の意味を見失ってしまうことになり、仕事はこなしていくものになってしまう。確かに大きな仕事をやり遂げた後は、その時どんなに忙しくても達成感を感じることが出来るだろう。

しかし、忙しさが続くとそれを感じる感受性が摩滅し重圧しか感じなくなってしまうものだ。「忙しい」という言葉は心を失うという意味だ。そして今一切の仕事から解きはなれた。自分の心を取り戻す時間なのだろう。

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「後期高齢者医療制度」が始まろうとしている

3月24日(月)
高齢者受難の時代
今日の毎日新聞朝刊に次のような記事が載っていった。「4月から75歳以上の後期高齢者医療制度が始まるのに伴い、国民健康保険の保険料を滞納している人に発行する「資格証明書」の対象外だった75歳以上の人も、新たに交付対象となる。交付されると、本来は1割の負担で済む医療費を、いったんは全額自己負担しなければならなくなる。」

既に国保では、証明書を受けた人が治療を受けず、重症化してから病院に運ばれる事例が一部で社会問題化している。開業医ら10万人が加入する全国保険医団体連合会は「お金のない人は受診できず、健康面でも格差が広がる。滞納対策とは別次元で、国民皆保険制度を崩す」と批判している。

世界最長寿を誇る日本人の平均寿命は、男性79歳、女性86歳(06年)。日本の総人口に占める65歳以上の高齢者の割合は、20・6%に達した。「老人がニコニコしている国が、きっと幸福な国だと思う。そうであれば、若者も、将来への不安を抱くことなく、毎日の生活を送ることができる。」戦後、わが国は、人生50年の時代から、80年、90年の時代へと、平均寿命が長足の伸びを示し、超高齢社会を迎える。が、老人は、本当に幸せそうな顔つきをしているのだろうか。

小泉改革以降の問題-福祉切捨て
小泉政権は、財政再建の当面の目標として2011年に基礎的財政収支(プライマリーバランス)の黒字化を目指した。そのため社会保障費の自然増を5年間で1・1兆円圧縮することにした。単年度当たり2200億円。財務省は厚生労働省に対し、毎年予算編成時に自然増の伸びを2200億円抑制するようノルマを課してきた。

小泉の財政再建方針からすべての福祉圧縮・切捨ての政策が始まった。しかし日本の財政は本当に危機なのか、もはや削減すべきものは皆無なのか。毎日のニュースを見てくると出てくるは出てくるは税金の考えられないような無駄な使われ方が堰を切ったように溢れ出てくる。

行政が自らの権益、利権を手放そうとせず下記のような税金の無駄遣いをして、その付けをもっとも弱いものにしわ寄せしているのが今の日本の現状である。後期高齢者医療制度は、「老人は早く死ね」と言っているそういった弱者切捨ての制度改革の極めて分かり易い攻撃なのである。

税金の無駄遣いのほんの一例
§ イージス艦問題:北朝鮮のありもしない架空の日本へのミサイルの危機扇動による1400億のイージス艦の配備、しかしその実態は漁船も探知できぬ「高性能レーダーシステム」の実態を明らかにした過ぎない。また防衛庁幹部への接待攻勢による入札ではなく指定業者への高額受注など。

§ 道路特定財源の使われ方:無駄な道路の建設、従業員宿舎建設費に使用、不採算の駐車場の建設・天下り会社の管理委託。従業員の慰安旅行の代金の流用など。

§行政改革の行方:渡辺行政改革担当大臣発言-した天下りが税金の無駄遣いにつながっている。行政システムに無駄な税金が使われていってしまっている。したがって、こういったものを改革していくやり方として、川下から改革していくやり方もあります。例えば、公益法人改革とか特殊法人改革とか独法改革とか。一方、川上から改革をしていくというやり方もありますね。それは公務員制度改革ではないかと思います。」しかし結局彼の行政改革方針は、各省庁の担当大臣に足蹴にされ、官僚組織の圧力で頓挫する。

to-99giin.jpg§ 衆議院議員宿舎(写真):従来の議員宿舎が老朽化しているといっても立て直す必要などあったのか、それも138億をかけてあれほど豪華なものにする必要があったのかという点が第1にある。さらに都心の一等地にありながら、民間相場からあまりにもかけ離れすぎた家賃の安さ(月額9万2000円で入れる新赤坂宿舎の場合、近隣で同じ広さの賃貸住宅の民間相場は月額約65万円である)が問題。

§ 日本の国会議員には、一人あたり①歳費(平均で2400万円)、②立法調査費(780万円)、③文書交通費(1200万円)、④公設秘書費(2000万円)が支払われている。いずれも年単位である。合計6380万円となる。当然これらはすべて税金から支出されている。各種役職者には手当が上乗せされる。さらに政党助成金が創設され、議員一人あたり1億円以上の税金が毎年使われていることになる。この一部でもお年寄りにという気がないのだろうか。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

ペインコントロール・緩和医療

3月23日(日)
 ペイン・コントロールは医療にとって極めて重要だ。痛みは生活の質(QOL)を著しく減退させるものである。痛みのために寝られないとか、日常生活においても、いつも気になって、何かに集中して取り組むことが出来ない。痛みの緩和は日常生活を普通に送るために決定的に重要な課題である。

3月14日の駒込病院の患者・家族交流会「おしゃべり会」があった。その時に来た人で多発性骨髄腫の治療としてベルケードを使用し、末梢神経障害に苦しんでいる人がいた。彼女は足の痺れが激しく、氷水の中に足を入れているように冷たく、痛く、痺(しび)れている。そのため夜も寝られず、一日中痛みが気になって何も手がつかないでいる。医者は末梢神経症障害の痛みをとる薬はないといって薬を出してくれない。このように訴えていた。私も医者や看護師からは痺れの薬はないといわれたことがある。

 3月21日のベルケード療法の診療の時、私は足の裏の末梢神経の痺れが強くなっており夜寝るのにも差し支える旨訴えた所、担当医は抗てんかん薬として使用されているが、痛みに効くいい薬があるといって紹介されたのがガバペンという薬だった。

まだ3日分しか飲んでいないがかなり効いていて、痺れは殆ど感じられなくなった。昨夜は珍しく8時間一度も目が覚めず寝られた。こんなことは何年ぶりだろう。この薬が「おしゃべり会」に来た患者に効くかどうかは何ともいえないが試して見る価値は十分あると思われる。一般の医師が「痛み」の治療に積極的でないので患者の方から強く訴えない限り薬の処方はしてくれない。そういう時はペインクリニックなどに相談して見た方がいいと思う。

また、私が帯状疱疹神経痛の痛みで苦しんでいた時に、抗うつ剤として使われているテグレトールパシキルを処方してもらっていた。これによって少しは痛みが緩和されたような気がする。ただしかなり痛かったので神経ブロックを毎日行っていた。痛みを何もしないで放っておくのは良くない。あらゆる場面で「痛みをコントロールすること」は、治療を速やかにしたり、患者自身の闘病生活を快適なものにしたり、病気や術後の回復を早めたりする上で非常に重要な因子となる。

 ターミナルケア(終末期医療)の中でのペインコントロールの重要性が認識され、現在ではモルヒネなどの鎮痛剤を使用したペインコントロールがかなり一般的になって来きている。それ以前は「治療のためには患者は少々の痛みを我慢するのが当たり前」という考え方が一般的だったが、今では、緩和医療の考え方がかなり広まってきている。

緩和医療(緩和ケア)とは、治療を目的とした医療ではなく、症状(特に悪性腫瘍・がんによる症状をさす場合が多い)を和らげることを目標とした医療のことである。オピオイド(モルヒネなど)をはじめとした鎮痛剤や神経ブロックなどの処置を初めとした疼痛管理、呼吸困難、吐き気、腹部膨満感、その他多種多様な症状管理や姑息的手術を用いて、QOLを最大限高めることを目標としている。終末期医療に限らず、診断初期から重視すべきとされている。

確かに薬には副作用があり、私も帯状疱疹神経痛での痛みに抗うつ剤のテグレトールを飲んでいたが、痛みは抑えられるが、体がだるく、ぼーっとし、ふらふらした感じで気分がはっきりしない。ということで、もう少し副作用の少ないパシキルという薬に変えてもらった。効果と副作用のバランスの中で、「生活の質」を維持するため薬を選択していくほかない。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

早朝の公園散散

3月22日(土)
昨日、ベルケード療法第5サイクル第3回目を、血小板は7.2と下がっていたが、許容量だということで予定通り行った。同時にデカドロン(ステロイ剤)も投与する。その影響からか、昨晩は覚醒作用が強く、なかなか眠れず早く目が覚めてしまった。いつもデカドロン投与の当日は、なかなか眠れず何回も目を覚ましてしまうので、入院中は睡眠導入剤の世話になっていたが自宅では服用していない。

今日は6時前に目が覚めた。快晴で、昨日の雨のせいか空気は瑞々しくすがすがしい。久しぶりに近くの公園で町内会の老人たちが中心となって、雨の日以外、正月もやっているラジオ体操に出掛けることにした。10月24日にベルケード療法で入院するまで毎日行っていたが、12月28日退院以降体調が十分でないのと寒さのため全く足を運んでいなかった。

体調の浮き沈みの中で、一日中家から出ない日も何日もあった。家事万端をやっていればそれなりに運動になっているだろうと思うが、ウォーキングもコンスタントに行くことは出来ない。運動不足は否めないだろう。体重も58kgと入院時の54kgから上昇しているし胴回りも増えている。定期的な運動が必要だとは思っていた。

6時30分に外に出て見た。気温はかなり上昇していてオーバーはいらない。公園に出掛けた。去年の10月頃は120名位集まっていたが、まだ寒いせいか人数は70名位だった。体を動かすのは気持ちいい。運動してなかったので体がぎしぎしいう感じだ。歩くことはしたとしても他の体の動きは全くしていない。体がじわじわとほぐれていく感じだ。これから毎日続けていこう。

長崎村009朝一つ決まったことをやると一日がメリハリを持って進行して行く感じがする。スケージュールをもって生きている訳でないので、生活の核を作っていく必要がある。そうでないとただ流される日々を無駄に過ごしてしまうことになるだろう。

折角自分で自由に使える有り余った時間があるのだから一瞬、一瞬を大事にしていこう。体調と相談しながらというのが大きなネックであるのは確かだが。

早朝の公園は、日中の公園と雰囲気が違う。花や木が生き生きとしている感じだ。シデコブシ(写真左)が白い花を満開に咲かせている。紅梅、白梅は共に9割がた花を散らせている。カンピ桜が濃いピンクの花を咲かせこれも満開だ。花壇にはパンジーが何色もの色を競いながら鮮やかに咲いている。

薔薇の葉が一斉に出てきており、こげ茶と黄緑で春の到来を告げているようだ。既に赤い薔薇の蕾が2つだが出ている。桜(オオシマザクラ、サトザクラ、ヤマザクラ、ソメイヨシノなど)が小さな蕾を所狭しとつけていて、やがて来る日を待っているようだ。他の木も黄緑色の葉が芽を出している。早朝の公園は一日を始めるのにふさわしい場所だと思った。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

辺見庸 『もの食う人びと』

3月21日(金)
食うことと生きること
辺見庸の『もの食う人々』を読んだ。今の日本に生きているということはどういうことなのかを考えさせる本であった。ガンで余命を宣告されその中でどのように生きるかを考えながらも、毎日食っていくことは厳然と遂行している。「生きるために食う、食うために生きる」という世界とは一線を画して。だがそれ俺で終わらしていいのだろうか。

世界の多くの人々は、明日の食糧をいかに得るか、そのことのためにだけ生きている。生きる意味は、食うため、生きるために食う。この現実は生きる意味を別の角度から照射してくる。そしてその毎日毎日強制されている彼らの絶望的格闘から目をそらすことは出来ない。今まさにそこにある現実として。

世界では8億人以上の人々が飢餓状態にあり、栄養失調で苦しんでいる。中でも子どもたちについては、3秒に1人が、餓死していると言われている。こういった中での「飽食の日本」。日本人の残飯による食生活の損失が11.1兆円であり、日本の農業・水産業の総生産額が12.4兆円で、ほぼ同じ金額である。食糧自給率が40%と低下し、穀物の自給率は24%となっている。輸入食料が増える一方で生産額と同じ食料が捨てられているというのがまさに実情なのだ。

『もの食う人びと』の中からの引用
2197T6PFFAL.jpg「東京では日々、50万人分の1日の食事量に匹敵する残飯が無感動に捨てられているというではないか。ダッカでは残飯が人間の食料として売られていた。紙をも恐れぬ贅沢の果てに、彼我のありようがいつか逆転はしないか。東京で残飯を食らう日・・・。」(残飯を食らう)

「ダッカ: 富者のハレ(祭礼、儀式)に日は貧者にとって食の流通の時でもあるのだ。式主催者は残り物を喜捨し、何処からともなく現れた女たちがそれをビニール袋に入れ持ち帰り、残飯4大市場で小売か卸売りをする。ウエーターが事前に連絡して残飯仲買人に売ることもある。残飯の主な消費者はスラムの住人か、20万人以上いると言われるリキシャの運転手らの一部なのだそうだ。」(残飯を食らう)

「バングラデシュ最南端難民キャンプ: 竹の柱に、竹の壁。土間にはろくに敷物もなし。電気もガスもベッドも無論ラジオもない、何もない、ないないづくし。まだ10ケ月という赤ちゃんが裸の全身を土まみれにして土間に転がっている。3畳ほどの空間に4,5人の同居はざらだ。キャンプ内では、92年末までの10ケ月間だけで幼児を中心に3200人以上が栄養不足や病気で死んでいる。」(食いものの恨み)

「ソマリア:93年度分のソマリアの復興・人道援助は1億6600万ドル、これに伴う国連の軍事活動には15億ドル以上かかると言う。食糧1ドルにつき、軍事費10ドル。どこかおかしい。米軍の面子をかけた軍事行動が国連平和維持活動の名を借りてすべてに優先している。」(モガディシオ灼熱日誌)


日本における餓死

浅田次郎の『天切り松闇がたり』の中に、大正時代のどぶ板長屋のことが書かれていたのを思い出した。兵舎や寄宿生の学校から残飯を集めて長屋で売っていたということが書いてあった気がする。日本でもそういった時代があった。というかさらに歴史をさかのぼれば飢饉で餓死者が出るということはあまりにも日常的な出来事だったのだろう。今のこの飽食時代にあって何を自らに問いかければいいのか。

北九州市をはじめ各地で生活苦から餓死する人が相次ぎ、貧困の深刻さを示している。日本では毎年、百人近くが餓死している。背景には雇用破壊、生活保護抑制があるのだろう。餓死者は1995年以降急増している。厚生労働省の直近の調査では、2003年には97人(男性77人、女性21人)、2004年には71人(男性57人、女性14人)、2005年には82人(男性70人、女性12人)が餓死している。

世界の現実をどう捉えるのか
ソマリアやルワンダの内戦が悪化したのには様々な原因があるのは確かだ。一見民族紛争に見えるが、何故彼らが最新の武器を大量に持っているか疑問に思わなかったろうか。この有り余る武器によって戦争が行われているのだ。これはアフリカの鉱物資源・ダイアモンドや金などの利権に群がる欧米のアフリカ支配の戦略の一環として行われているいわば代理戦争でしかない。まさにアフリカは「食いもの」にされているのだ。

ソマリアでは200万人が餓死寸前まで追い込まれた。ルアンダの内戦で、ツチ族の約80万人~100万人が殺されるという未曾有の大虐殺が行われた。マザー・テレサは「愛の反対は憎しみではなく無関心」と語った。この言葉は、最悪の状態にならないと気づかない(興味を持たない)世界の無関心に対する批判だろう。もっと早く世界が関心を持って、市民自らの加害者なのだということを自覚し、注目していれば、最悪の状態に至らなかったのかもしれない。

食糧のリサイクル
昔、早朝、街を歩いていると、豆腐屋の店の前にはおからが積み上げられ、魚屋の前には魚をさばいた残りがポリバケツに入れられ置いてあった。養豚所か何かと契約して毎朝引取りに来るようになっていたのだろう。今はそういった光景は見られない。残飯はどこに行ってしまったのだろうか。リサイクルは出来ているのだろうか。

『もの食う人々』の「胃袋の連帯」の中に残飯のリサイクルについて書いてあった。このようなリサイクルを日本でもやるべきだと思う。もちろん部分的にはやっているのだろうが、本格的にやれば儲かることなのだから、食糧消費者の発想法の転換が必要だということだ。

「バンコク郊外の「ローヤル・ドラゴン・レストラン」ギネスブックが「世界一大きいレストラン』と認定したこのレストランの経営者の一人ソムチャイ氏にここの残飯はどこに行くのか問うた。一日200リットル容器10個分の残飯が出るのだが、「養殖魚の飼料として業者に売っている」という。残飯を食った魚を又人が食う。その残飯をまたぞろ魚が食う。・・食は止む事を得ずして限りなく続く。」

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

映画 『永遠のマリア・カラス』

3月20日(木)
昨夜、ムービー・プラスというチャンネルで『永遠のマリア・カラス』という映画をやっていた。何気なく見ていたが、カラスの代表的な歌、「蝶々夫人」「トスカ」「カルメン」、そして「ノルマ」等が次々と出てきて段々と引き込まれていった。歌の一つ一つが効果的に使われており、カラスの歌声をふんだんに聞けるというだけでもこの映画の魅力となっているだろう。

STORY: 歌に生き、恋に生きた、20世紀オペラ界の伝説的なディーバ(歌姫)マリア・カラスの晩年を描いた作品。けれど伝記映画ではなく、生前のカラスと親交があったフランコ・ゼフィレッリ監督が、もしこの時のカラスがこうだったらと想像したフィクション。

21005YQ179L__AA115_.jpg映画は、1976年、かつてマリア・カラスの仕事仲間であり、今はロックバンドのプロモーターとして世界中を飛び回っているラリー・ケリーが、パリの自宅で引きこもり生活をしているマリア・カラスを訪問するところから始まる。ラリーは一つの企画書を持ってくる。

それは、カラスの全盛期に録音した声を使い、今のカラスでオペラ映画「カルメン」を作るという企画だった。日本での公演の失敗で自信を失い、歌うことを拒絶しながら、夜になると自分のレコードを聴きながら泣いていたカラスは、迷った末にこの仕事を引き受ける。

映画を作るうちに、カラスの中に、再び創作することの、そして歌うことの喜びが、芽生えてくる。映画は素晴らしい仕上がりだった。しかし、試写でカラスは最後まで観る事ができない。本当にあれは自分なのか。「私のオペラ人生は幻想じゃなかった。真実だった。」とカラスは語り、ラリーに映画の廃棄を求める。そしての言葉を、唯一理解したのが、この企画を持ってきたラリーだった。

次の企画「椿姫」持ち込まれる。カラスは「椿姫」は出来ない、「トスカ」ならいい、その代わり自分の過去の声の吹き替えでなく実際に自分の声で歌いたいと言う。しかしその企画は通らなかった。聴衆はカラスの絶頂期の歌声を聞きたいのだ。それが幻想であっても、人々はそれを求める。

カラスがあれほどの美声を人々に与えるために、どれだけの代償を払ってきたのか。その苦悩、歌への信念、プライドを持つことの大切さ、プロフェッショナル意識、強く生きていくことなど、迷い、試行錯誤しながら、自分を見失なうことを潔しとしない彼女の生き方は、現代を生きる女性たちへのメッセージとなるだろう。

最後ラリーとベンチで話すことが印象に残る。「普通の女であれば幸せだったのに」というセリフには、一人の女性としての素直な心情が吐露されている。カラスの人間性が伝わってくる。しかし、普通の人生、一般的な生などはどこにもない。すべて人の人生はそれぞれに個別的であり特殊的である。

問題は自らの生の何処に自分の核心的部分を置いているかによるのだ。その確固たるものがあれば人生は輝かしいものになるだろう。声を失ったオペラ歌手がどのように残りの人生を生きていくのか、これはカラスだけの問題ではなく、我々がこれからの人生をどう生きていくのかを考えさせるものである。

マリア・カラス(Maria Callas、1923年12月2日 - 1977年9月16日)
ニューヨークで生まれパリで没し、20世紀最高のソプラノ歌手とまで言われた。特にルチア(ランメルモールのルチア)、ノルマ、ヴィオレッタ(椿姫)、トスカなどの歌唱は、技術もさることながら役の内面に深く踏み込んだ表現で極だっており、多くの聴衆を魅了するとともにその後の歌手にも強い影響を及ぼした。カラスの傑出した点は、ベルカントオペラに見られる様式的な登場人物に抜きん出た心理描写力と演技力で血肉を与え、作品の真価を多くの聴衆に知らしめたことにある。(Wikipediaより)

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

ベルケード療法第5サイクル2回目

3月19日(水)
ベルケード療法第5サイクル2回目
3月17日ベルケード療法のため病院に行った。治療前の血液検査で血小板9.2、白血球3.7、ヘモグロビン11.2という状態だったので、予定通り通院治療センターでのベルケード点滴を行うことになった。今回はIgMを検査する予定ではなかったが、検査項目に入っていたのか結果が出されていた。前回3月12日の検査で982だったのが、一週間も経たないうちに1043と61増えていた。IgMの増加をもはやベルケードによって抑えるのは不可能だろうという結論をだすしかないようだ。下図は12月28日以降のIgMの増加である。12月28日に405と減少したIgMはそれ以降止まることなくコンスタントに上昇している。

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次の治療法として医者から提案されたのは、サリドマイドとエンドキサン(シクロフォスファミド)の組み合わせによる治療だ。サリドマイドより副作用が少ないレブリミド(レナリドマイド)はどうかと聞いたが、サリドマイドもそうだが、レブリミドついても個人輸入しかなく、サリドマイドより高いし、輸入実績が豊富ではない。一方サリドマイドの個人輸入は急増している。2001年度が15万6600錠だったのに対し、2004年度は53万錠で個人輸入の薬としては最も多い。輸入実績が豊富である。どちらでも選択できるが効果はそれほど変わらないのではないか。

サリドマイドとは
催眠鎮静剤として使用されていたサリドマイドは、約40年前に四肢欠損の奇形児の誕生を引き起こす「サリドマイド事件」を起こしたため販売中止になっていた。しかし最近、サリドマイドには炎症やがんに伴って起こる 血管新生 (新たに血管が増生すること)をブロックするという「 血管新生阻害作用 」や、がん性悪液質を引き起こす腫瘍壊死因子-アルファ(TNF-α)の産生を抑える作用が発見された。これらの薬理作用がサリドマイドの催奇形性と関連しているが、炎症性疾患やがんの治療における有効性が指摘されている。

腫瘍血管の新生を阻害する作用は、がん細胞を直接殺す抗がん剤に比べて副作用が少なく、「がんとの共存を目指す治療」や「体にやさしいがん治療」において有効な手段と思われる。使用に関しては厚生省からのガイドラインが出されている。

使用についてのガイドライン
「多発性骨髄腫に対するサリドマイドの適正使用ガイドライン」の概要
1.使用施設・使用医師の限定
再発性・難治性多発性骨髄腫に対するサリドマイド治療は、原則として、日本血液学会が認定する日本血液学会研修施設(529施設・平成16年7月現在)において、ガイドラインを熟知する日本血液学会認定血液専門医(1,935名・平成16年7月現在)の指導の下に実施する。

2.医療機関における管理の徹底
日本血液学会認定血液専門医が、サリドマイド責任医師として、医療機関内のサリドマイド治療の管理を担当する。
医療機関の薬局に、サリドマイド責任薬剤師を置き、医療機関内のサリドマイドの薬剤管理を担当する。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

授業での話(案)-4

3月19日(水)
「いのちの授業」での話(案)-4・続き

13、死とはなにか
人は死を経験できないし、死とは何かを語ることは出来ません。しかし生を語ることは出来ます。その生の中で死に向かい合うことは出来ます。全ての人にとって生とは死への限られた時間でしかありません。その限られた時間の中で、自らが生まれてきた意味を問い続けながら死を迎えるのです。回答が出るか出ないか分からない問いを発しながら、日々答えを模索し続けながらやがて最後の時を迎えていくのです。人生の目標とは何でしょう。こう考える時思い浮かべるのが、ドイツの哲学者イマニュエル・カントが死の間際に言った言葉「Es ist Gud=これでよい」という言葉です。

220px-Immanuel_Kant_(portrait).jpgカント(写真左)は一生独身で、毎日同じ時間に家を出て大学で授業を行い、同じ時間に帰ってきていました。カントが通る時間にあわせて町の人は時計を合わせたというくらい正確だったらしい。一見面白みのない生活のように思えるが彼の頭脳の中は輝くばかりの思想に満ち溢れていたのです。生きる意味は千差万別です。状況に流されない確固たるものを自らの中に打ち立てられれば生きる意味はおのずとあふれ出てくるでしょう。

人は何故山に登るのか、その登山が厳しければ厳しいほど、頂上に着いたときの感動は大きい。人生も又同じで人は目標に向かっての達成感を得るために苦労しているのでしょう。そしてその達成感の中で死は意味を持ってくるのです。そのとき死は自分自身にとっての、今までよく頑張ったねといった勲章に変わるのです。そのときもはや死は恐怖でも、未知なる物でもなく、自分を迎え入れる揺りかごとなるのでしょう。

現実としての死、それはどんな人にもいつか平等に訪れる現実です。人や生き物たちがこの世に生をうけ、その生をまっとうした後に訪れる死について少しでも理解した時何が見えるでしょうか。自分の命はもちろん、自分の愛する人や隣人、身近な動物や植物たちの命がとてもかけがえのない尊いものとして見えてくるのだと思います。自らの生について考えると、必然的に他人の生に対する配慮が生まれてくるものなのです。

14、限られた人生をいかに生きるか
余命が 限られているということはどういうことでしょう。限られた命をどのように生きたらいいのでしょう。私は余命が限られています。しかし余命が限られているのは私だけではありません。死は突然誰にでも偶然に、しかい宿命として襲ってくるのです。統計的には3人に一人がガンで死んでいます。誰でも何時がんになるか分からないし、交通事故や不慮の死に見舞われるかもしれません。その限りでは誰でも命には限りがあり何時死ぬのか分かりません。

命が限られているということを知ることは、嫌が応でも今をいかに生きていくかを問うことになるのです。それを知れば悔いのない人生を送りたいと思うのです。漫然と生きてきた自分の生き方を見つめ直す事になります。死があるからこそ生の輝きを見出すことが出来るのでしょう。そういった意味で、命を語ることは、死を見つめることであり、そのことを通して生の意味を再認識することだと思います。

余命を宣告されたがん患者にとって、死とは何か、生とは何か、どのようにしたら生を全うできるのか、どのように死を受け入れるのか、限られた命をどのように燃焼させていくのか、生きるということは時間の長さでは測れないものです。人は今を生きることが出来るだけです。未来は今になることによって経験できる時間です。その今をいかに生きるかが問われているのです。

死は生きているもの全てに訪れる自然であたりまえのことです。それぞれのなすべきことを終えて迎える死は、穏やかであり、恐れることではないものでしょう。「死」について思いを馳せる時、あたりまえのようにそこにあった自分の生が再び鮮やかによみがえってきて、それがとても尊いものであることに気づかせてくれます。がん患者にとってはこのことの認識は生きる希望をあたえてくれるものでしょう。

15、今の社会の中で命についてどう考えるのか
先ほど申し上げたとおり「命の問題」それは当然のことながら私たちがん患者だけの問題ではありません。現代社会はまさに、争いや疑惑や不信に満ちた暗闇の中に漂っていえるでしょう。

国内では我が子に虐待を繰り返し、無抵抗な子どもを死に追いやる親や、親を殺す子供たち、いじめなどによる自殺や、小さな子供が被害を受けてしまう事件、利己的で身勝手な行動としての殺人、年間3万位を超える自殺者、次々と死者が生み出されてきています。

somali10.jpg今の国際社会に起こっている人の間にある限りない格差とそれに伴う悲劇はさらに過酷なものです。日々食事も与えられず、そして誰からも看取られずに死んでいく多くの貧窮のどん底にいるも人々がいます。日本では毎年11兆円の食糧が残飯として廃棄されています。その一方で世界では毎日2万3千人が餓死し、8億人が飢えています。戦争による「人と人との争いによる死」が繰り返され、「犠牲となり失われていく一般市民の膨大ないのちの死」が大国の利害とエゴイズムにより強制されています。(写真・ソマリアの子供・1992年)

いのちには限界があることを知りながら自然に死を迎え入れて静かに旅立っていく命と、様々な要因で不本意に奪われていく命があります。現代社会がこういった状態だからこそむしろ命の重大さについて考えてみなければならないのではないでしょうか。今のこの世の中に生きている一員としての責務として考えることが求められているのです。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

授業での話(案)-3

3月18日(火)
「いのちの授業」での話(案)-3・続き

10、ガンと生きる
7times.jpgツール・ド・フランスの自転車競技で、がんの闘病生活を挟んで、前人未到の7連覇を達成したランス・アームストロング(写真右)がこう言いました「断言していい、ガンは僕の人生に起こった最良のことだ。」死と向かい合ってはじめて、彼は気づくことができたのです。周囲の人たちの優しさに、人を愛すること。そして、生命の素晴らしさに。仕事でしかなかった自転車は、限りある生命を燃やす「生きがい」へと変わっていきました。(『ただマイヨ・ジョーヌのためでなく』)

皆さんも命を燃やせる仕事に出会っているかも知れない。しかしそれに踏み込めないでいるのかもしれない。人生に限りがあると気付く前に皆さんが命を燃やせる仕事を出来ているかどうか気付いて欲しい。

ガン体験者が語る次のような言葉は自分が置かれた現実を見つめなおす時の励ましの言葉だ。
「人の命は明日をも知れないと実感してからは一日一日が密度の濃い時間に変わりました。」(小林茂登子『あたりまえの日に帰りたい』)
「病によって以前全く想像していなかった世界の中に導き入れられた。私は毎日のように今日も生きていて良かったと思う。」(阿部幸子『病棟の光と翳』)
「がんのおかげで今日という日のやり直しのきかないことを嫌というほど思い知った。だから時間を自分の手の中にしっかりと握って生きる。」(ワット隆子『がん患者に送る87の勇気』)
今日1日が実は想いということに気付かせてくれる。そして私を励ましてくれる。

黒沢明監督がガンで余命を宣告された公務員の残りの人生を描きました『生きる』という映画です。この映画が問いかけているものは「人間いかに生きるか」でした。監督はこの映画の趣旨を「あの映画で僕が自分に問いかけたのは『どうしたら心安らかに死ぬことが出来るか』だった。答えは『いつもベストを尽くして生きていく』ということだった。死を思うことは生を問うことなのだ。」と言っています。ベストを尽くすことが心安らかに死ぬために必要なのかもしれません。

何時死ぬか分からないという人生を限りあるものとして考えれば、日々一日一日の大切さを知ることになります。それによりまた違った人生が開けてきます。そこから生きることの意味を見出していけるでしょう。

11、生きることの意味をかみしめる時間
今の社会の中で労働者は病気にでもならなければ休むことも出来ないほど働かされています。その状態に対していいか悪いか考える余裕もなく日々追いまくられるような人生を送らされているのです。家と会社の往復以外どこかに出掛けることもなく、家には寝るだけに帰るような生活を強いられています。四季の移り変わりや自然の恵みを 味わうこともなく働き詰めの人生でしかありません。

病気になるということは、そういった日常性から突然自分の意思とは全く無関係に強引に切断されてしまうことなのです。特にガンなどのように長期治療を必要とし、死と隣り合わせの病にかかった場合特にそうなります。これは宿命として受けとめるほかありません。この状態をどう受け止め自らの生き方として転換できるかが問われているのです。

病気になって始めて今まで何気なく送っていた自分の人生を振り返る機会を得ることが出来るのです。生きていることの意味を実感できるようになっていきます。それは惰性で生きている時間でもなく、外部から強制される時間でもなく、時間に追い立てられることもない自分だけの時間なのです。

その中で何を見出していけるのか。いのちとは何かを否が応でも思い起こさせるものなのです。生きていることの一瞬一瞬が意味を持ってきます。感性が外界に対して研ぎ澄まされ、かっては何気なく素通りし、見過ごしてきた事物が生きたものとして立ち現れてくる。

IMG00001854.jpg私は入院中早朝、毎日病院の外壁沿いの遊歩道を散歩していました。歩きながら思うのは毎日毎日大気の状態が違うということです。香りやにおいの違いを感じられるのです。新鮮な形で大気が味わえる。時々海の匂いが混じったりしていると感動します。病院に収容されているという束縛感の中で外の空気は特別な味を与えてくれるのかもしれません。感受性を豊かにしてくれるのでしょう。

花を愛でる心、木々の葉の移り変わり、雲の形、空の色すべてが鮮やかに感性に反響してくるのです。仕事をしていた時には見過ごしていた自然の移り変わり、空気の味に変化が感じられるようになって来るのです。仕事に翻弄され鈍磨しきっていた感受性が、病気での入院の中で再びよみがえってきました。ガンを経験した人達も自然との感動的ふれあいについて次のように書いています。

「森の中はモミの木の芳香に満ちていて、山を吹き抜ける風にススキがなびいている。名もなくひっそりと遠慮深く咲いている野草たち、何て自然は美しいのだろう。私は生きている喜びを体で感じていた。」(カットバッサー俊子『私は肝移植で救われた』)
「まぶしいほどの太陽の光、あふれる緑、流れる雲、小さなクローバーを踏みしめながらさわやかな風を頬に感じ、中庭にたたずんでいると、とめどなく涙が溢れ出て来ました。この気持ちは生きてこそ味わえるもの、人生に生きる意味や価値を求めてきた私ですが、すべての前に生きるということの意味の深さを知りました。」(小林茂登子・前掲書)
「日常生活のさりげない暮らしが光のシャワーを浴びたようにきらきらしています。」(イデア・フォー編『再発後を生きる』)

12、抗がん剤治療とQOL(生活の質)とのバランス
どのように生きるかで問題となるのは、抗がん剤治療とQOL(生活の質)の兼ね合いです。がん治療というのは如何に生きるかを根底的に問うものである。自分で自らの生き方との兼ね合いで治療法も選択していくほかありません。抗がん剤で体力を消耗しふらふらになりながら5年生きるのか、抗がん剤を使わず2年で死ぬのか。そういった判断が問われることもあるのです。

「薬」は、一般に「効果」と「薬物有害反応(副作用)」の2つの作用があります。通常、私たちが薬として使っているものは、効果のほうがずっと強くて、薬物有害反応がほとんどないか、軽度です。しかし抗がん剤の場合は、効果と薬物有害反応が同じくらいという場合もありますし、また効果よりも薬物有害反応のほうが多い場合もあります。したがって、普通の薬と違って非常に使いにくいものです。こういった薬・抗がん剤を使わざるを得ない状態にいながらどのようにして生活の質を保っていけるのでしょうか。

がん細胞を抑制しながら、しかも生活の質を落とさず通常に近い生活を送れるようにするにはどうしたらいいのか。それには医者と相談し意見を交換し合い、治療方針をその話し合いの中で決めるしかない。そのような関係を医者とどう作っていけるかが重要です。確かに医療知識を盾に強引に 標準医療を進めて行く医者もいるかも知れません。しかし大部分の医者はむしろ患者に納得してもらった医療を施したいものだと思います。

医者任せにならないためには、患者は自己防衛策ではありませんが、一定の自分の病気に対する知識が必要となると思います。そうでなければ医者と対等の話が出来ないことになりかねません。もちろん医者によりますが。同時に選択した結果の責任はご自身で背負うという覚悟が無ければ、自分の望む治療は受けることは出来ません。選択には責任が伴います。自分の生き方に自分で責任を取るそういった生き方が問われているのです。

抗がん剤による体力消耗に対してはステロイド剤を使います。それによって普通の日常生活を送れる体力を維持することが出来ます。しかし一方でステロイドによって高血糖、高脂血症、骨粗しょう症などの副作用の恐れがあります。抗がん剤やステロイド剤の量を体調に合わせて微妙に調節し、生活の質を維持しながら治療を続けるという綱渡りのような日々を過ごしていかなければなりません。これができるのは自らの生への執着でしかないでしょう。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

授業での話(案)-2

3月17日(月)
「いのちの授業」での話(案)-2・続き

6、治療経過
2005年11月に発病し、今までフルダラビン療法、VAD療法などの化学療法を行い、2回の自己抹消血幹細胞移殖もしました。そして退院後、MP療法という抗がん剤とステロイド剤を組み合わせ月4日間錠剤を服薬するという治療を行う等、色々な方法を試してきました。しかし一時的にはがん細胞は減少するのですが治療をやめると又 増えてきました。

始めは再発と思っていましたが、一時的にがん細胞は減少したがそれが元に戻ったに過ぎなかったのです。抗がん剤は人によって効果が全く異なってきます。私の場合はフルダラビンやエドポシドという抗がん剤は全く効果がなく副作用で辛い目にあっただけでした。

今継続している治療では、2006年12月に保険適用になったベルケードという新薬を使用しています。月4回注射する治療を続け、がん細胞の増加を抑えています。がんの治療薬は目覚しい進歩を遂げています。今は私の病気を治す薬はありませんが、その薬が出るまで延命治療を続ける他ありません。

こういった状態をどう受け止めていけばいいのでしょうか。病気になることは人生にとって一般的にはマイナスのことであるのは間違いないでしょう。しかしその宿命をチャンスだと思えるのか。つまり新たな生き方を見出していくチャンスに変えることが出来るかどうかが問われていると思います。

与えられた運命を、その過酷さを力強いバネとして利用出来るか。運命を強靭に跳ね返していけるか、武器として、バネとしていけるか、これは本人の心構えによるものでしかありません。通常の人生は、日々全く同じ仕事の繰り返しで波風も立たず平々凡々と何の疑問もなく、何の変化もなく 告ぎ去っていくものです。がんの発病という過酷な運命はそのささやかな日常性を根こそぎ奪い、本人の意志とは全く無関係に全く違った人生の生き方を、強制してくるのです。

それは入院、治療という病院生活を強制されるだけでなく、家族関係、職場関係、友人関係、社会関係などあらゆる領域での変化を伴ってきます。そしてこれらは 全て本人の意向などとは無関係に進行してくるのです。それは全く独自の論理を持って動き、希望や、要望や、願望や、欲求などは全く無視される。だからこそ「宿命」と呼ばれるのです。

人生を変えたいと思っている人にとっては、課せられた「宿命」は一つの人生の大きなチャンスになりうるでしょう。しかし我々にとってのチャンスは若干違った意味になります。まず与えられた運命を受け入れることからです。そしてそれを跳ね返す力が必要なのです。それはがんであるという現実といかに向き合うかから始まるのです。「ガンと闘うなんて言っちゃダメですよ。闘うと、ガンにはかないませんから。ガンと仲良くして、共に生きる位の気持ちでいるのがいいですよ」という気持ちで。

7、がんを宣告されるということ
ガンを宣告された時、ガン関係の本を読み、その中の言葉は大きな発想法の転換となりました。「ガン=絶望的な人生」という発想ではなく全く別の見方が生まれたのです。次の2つの言葉を引用させて下さい。

病気は神様がくれた休日。まさにその通り、大人は皆大人であり続けることにくたびれている。」(ワット隆子『ガンからの出発』)
がんという病気が立ち止まる機会を与えてくれた。この先の時間を実感として意識させてくれたのです。」(影山和子『がんのある日常』)

私が入院する前に勤めていた会社はマネキンディスプレイ業界と言われているもので、そこの流通センターの管理職として勤務していました。不景気の中で、商売相手であるデパート、量販店が不振で、ディスプレイ什器のリース単価が半分以下になっていく現状の中で「今の給料を貰おうと思うならば、今の倍働け」という会社の方針(資本の論理)によって倉庫を増設し、大量の什器を買い込み倍の量のものを貸し出していったのです。

このことは倉庫要員の負担から言って、入出庫やメンテナンスを考えれば4倍の仕事量になります。仕事は増えても増員は当然なく、管理職として多くの仕事を一手に引き受け、休みは月1日取れればいい方で、百貨店の入れ替え日に翌日の積み込みがある時は、終わりは1 時、2時となりました。毎日20時21時まで仕事、家に帰れば22時23時となり、早い日でも19時過ぎまでは確実に仕事があるから家に帰るのは21時過ぎ、これが毎日続いていました。

こういった労働実態はサラリーマンにとって一般的なのかもしれません。過労死、過労自殺ということをよく耳にします。しかし私はこういった現状に何の疑問もなくがむしゃらに働いていく毎日を送っていました。無意味だと思うこともありました。しかしそれでも今の労働に縛りつけられてしまう。

私には仕事以外にやりたいことがありました。しかし忙しさが続くにつれそれからも遠ざかっていくことになりました。仕事中毒になってしまい空いている時間も仕事のことばかり考えてしまう人間になり、そのことで人生の意味を奪われていってしまったのです。

こういった状況の中で起きた青天の霹靂。がんの宣告をされました。最初の診断書では6ケ月で社会復帰というものでした。丁度いい休息の機会と思ったほどです。しかし実は半年で終わる病気ではありませんでした。一生続くものです。ガンと共にどう生きるかが問われる長い道のりが待っていました。

8、人生の転機
324.jpgアン・リンドバーク(左写真)が中高年になってからの生き方を提言しています。私はガンになって職場に戻ることが出来なくなりました。そんな私がこの提言からヒントを得ました。がんでない人もこれがヒントになると思います。紹介させてください

「それまでの活動的な生活に伴う苦労や、世俗的野心や物質上の邪魔の多くら解放されて、自分の今まで無視し続けた面を充実させる時が来たのである。それは自分の精神の、そしてまた心のそれからまた才能の成長ということにもなって、こうして我々は日の出貝の狭い世界から抜け出すことが出来る。」(「海からの贈物」)この言葉は、病気になり今までの仕事から解放され自分がしたいことが出来る時間を持てようになった時、我々がどのように人生を生きるかを問うています。

今まで会社にいたときの肩書きやしがらみ、仕事に追われた日々、こういったことはすべて過去の出来事です。自ら新たに自分の人生を切り開き、獲得し、作り上げていかなければなりません。ここには給料が上がったとか下がったかとか、競争に勝つたか負けたかとか、得意先を説得できたか出来ないとかいったことが全く意味を持たなくなります。

ただ自ら今本当に何をしたいのか、どう生きていくかを深く問う。本当の自分が誰なのかを問いながら生きていく他ないのです。だから皆さんにこれだけは覚えておいて欲しい。がんにならずとも人生の終盤にはこんな場面が訪れる。社会から[お前はこうだ]と言われなくなる日が来る。その時に備えて「本当の自分は誰なのか」時々自分に問いかけて下さい。

9、自分の存在理由とは
以前読んだ『ガン病棟』の中で、次のように書かれていました。この言葉は仕事と、自らの存在理由を深く問いかけるものです。「一般にすべての人間の存在理由というものは、決して仕事の中にあるのではないように思われるのだった。人は明けても暮れても仕事にのみ打ち込み、仕事にのみ関心を示し、他人は仕事によってその人を判断するものである。だが存在理由はそこにあるのではなく、一人一人の背後に投げかけられた永遠の姿かたちを、どこまで乱さず、揺らめかさず、歪めずに保存しえたかという点にこそあるのではなかろうか。

仕事を一生懸命こなしている間は自らの存在理由への問いは忙しさの中に埋もれ、仕事を自らの存在理由として自分を騙し続けることができました。しかし仕事を離れ、仕事が自らの 存在理由とはなりえないことを思い知らされ、仕事というベールを奪われた今、むき出しの形でその答えを出すことを突きつけられてきているのです。

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授業での話(案)-1

3月16日(日)
血液ガンの患者家族で作るNPO法人「血液患者コミュニティ-ももの木」という団体があります。この団体の活動の一つに「いのちの授業」という企画があります。ガンを宣告され、苦しい抗がん剤治療や移植手術を受け、死と向き合いながら生還した人の生死の問題や命の重さについて考えてきたことを小学校高学年を中心に授業で発表していくものです。

落合第5小学校では始めて1年生の授業ででも行いました。学校だけでなく社会人の団体での発表もあります。患者体験者が要請された学校にいって話をし、それを聞いて生徒間でいのちの問題について討論するという主に道徳の授業の一環として行っている催しです。

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3月14日の見学に行った荒川区立第6瑞光小学校での「いのちの授業」で突然指名されてまとまった話が出来ませんでした。その反省で、がんになってから考えてきたことをまとめて見ました。これは「いのちの授業」で話す内容に繋がることと思います。

まとめておけばいざという時にどうにか話が出来ると思いました。色々な人の意見を聞いて訂正しようと思っていますが、その原案として書いたものです。子供向けまでは難しいです。とりあえず大人向けの内容として書いて見ました。と言うかそれ以上は書けませんでした。以下4回にわたってこのブログに案文の段階ではありますが掲載いしていきます。内容的には殆どブログの中で展開したもので、それをまとめたものです。

「いのちの授業」での話(案)-1

はじめに
2005年11月私はガンを宣告され、病気の説明の時、医者から不治の病で余命5年程度(統計的に)と言われました。ガンは圧倒的な数を占め死亡率で1位です。3人に一人がガンで死んでいます。以前は4人に1人といわれてきましたが、1996年頃から確実に増えています。これは“ガン年齢”に該当する老齢人口が増えているためですが、年齢調整死亡率でもやはりガンが死亡率の1位になっています。そして60%が3大疾病(がん、心筋梗塞、脳卒中)で死亡しています。

一定の年齢なれば残りの人生のことや死について考えるようになるでしょう。私はがん治療を行いながら、残りの人生をどうしていくのかということを考えざるを得ませんでした。その経過を聞いていただき、これからの人生を生きるための参考にしていただければ幸いと思います。

1、原発性マクログロブリン血症
私の病名は原発性マクログロブリン血症、別の言い方としてリンパ形質細胞性白血病ともいいます。この血液ガンは、白血球の中にあって免疫細胞を作っていくはずの形質細胞というものが腫瘍(ガン)化してしまうものです。そしてガン化した形質細胞が血液中に大量のタンパク質を作り出すのです。その異常に増えたタンパク質が血液の粘着性を高め、毛細血管内の血液の流れを妨げ多くの疾患を引き起こしますものです。

2、入院に至る経過
2005年11月7日、勤めていた会社の流通センターで荷物を降ろしている最中、足の親指の上に物を落とし大量に出血したので、近くの整形外科医に行って治療しました。

怪我をしてから1週間位経っても出血がなかなか止まらないので血液に異常がある可能性があると言われ採血しました。11月21日血液検査の結果が出て血液中の蛋白に異常値があることがわかり、専門病院に紹介されました。11月24日、都立駒込病院に紹介状を持って行き、そこで「多発性骨髄腫の疑い」の診断を受けました(病名は後の精密検査の結果マクログロブリン血症と変更になりました)。即入院だということでしたが、引継ぎなどあるので12月1日を入院日としました。 

毎年健康診断(成人病検診)を受け血液検査をしていながら血液中の蛋白をはからなかったので病気(ガン発症)には気がつかなかったし、一般的には疲労、頭痛、めまい、痺れなどの症状が出るそうですが、そういった自覚症状は全くありませんでした。むしろ仕事が忙しく土日祭日の出勤も多く、毎日20時前後まで、遅いときには1時過ぎまでの仕事をこなしていました。それが出来る体力があったということです。

3、ガンの宣告・入院
私の場合2005年11月24日の最初の外来診断の時、血液中のタンパクの量を示すIgM値が7000ありました。4000以下であれば身体変調をきたす事はない。放置しておいても大丈夫なのですが、7000以上という数値は放置すれば命に危険があるということでした。血液の粘り気が強まり、毛細血管が詰まって、眼底、脳、心臓の毛細血管に悪影響を与えかねない、放っておくと血管が詰まり狭心症・心筋梗塞や脳内出血・脳梗塞にまでなってしまうというので、直ちに入院となった訳です。

怪我したり、風邪をひいたりしても治療をすればやがては完全に治るというのが普通の病気です。また臓器ガンに関しては外科的な治療で処置するため血液ガンとの違いはかなりあります。統計では、胃がんの場合5年以上の生存率はⅠ期の場合98%でⅣ期の場合6.2%となっています。肺がんの場合Ⅰ期であれば76%、Ⅳ期の場合は3.1%となっています(全がん協生存率・1997年~1999年)。これらの場合は早期に発見すれば治癒する可能性はかなり高いものです。もちろん手術後の転移ということもあるのは確かです。

しかし血液がんには治療が効果を奏しても「完治」と言う言葉は使いません。これを「寛解」といいます。それはがん細胞が一定の量以下に抑えられているという意味で、何時それが暴れだすか分からない、再発の危機をいつも抱えている病気なのです。確かに治療せず寛解状態が何年も続き、「完治」と言われる人も多くいます。しかしその人たちもいつ再発するかの不安を抱えているのは確かです。

4、血液ガンの治療
血液ガンの治療はほぼ同じですが、白血病の治療を例に取ると、まず抗がん剤を組み合わせ、点滴で静脈注入する化学療法による寛解導入療法を行います。化学療法により大量の白血病細胞が減少しますと、正常の白血球、赤血球、血小板が回復してきます。血球が正常値になり、他の臓器への影響も消失すると完全寛解とよびます。治った (治癒) と言わないのは、完全寛解になっても患者さん体内にはまだ白血病細胞が残存しており、放っておけば必ず再発してくるためです。

その後治癒を得るためには、3-4コースの地固め療法と1-2年の維持・強化療法が必須であることが経験的に判っています。また造血幹細胞移植療法は最強力の寛解後療法と言えます。しかし、移殖はその前に使用する致死量に近いといわれる抗がん剤の大量投与を行うこともあって、その副作用の強烈さゆえ体力的にすべての人に行うことが出来ません。

白血病では完全寛解状態が3年以上続けば、まず再発しませんので、完全寛解が5年以上続けば治癒したとみなしています。このように血液ガン治療はかなり長期間の入院を必要とします。又退院しても抗がん剤の影響で体力の消耗、弱った内臓や低下した免疫力の回復に半年以上の時間がかかります。発病から社会復帰まで1年2年かかるものなのです。

5、余命宣告
このような治癒の展望のある白血病などの多くの血液ガンと違って私の病気が治る見込みは殆どありません。あるのは生存率の統計だけです。国立がんセンターの統計は「予後は治療効果によって異なります。半数以上の人が生存できる期間は治療による有効例(血液中のタンパク質が半分以下に減ること)で5~7年、無効例で3~4年と言われています。」こういった病を抱えながら、抗がん剤を定期的に点滴しながら、がん細胞の増殖を抑えることによって寿命を伸ばしているのです。治療をやめたら血液が粘着化し、血管が詰まり、やがて死に至るのです。

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吉野梅郷・梅の公園

3月15日(土)
 昨夜雨が降りすがすがしい空気が体を包んでくれる。快晴だった。気温は日中19度まで上がるという。このような日に家にじっとしている訳にはいかない。以前から行きたかった吉野梅郷に行こうと思い立った。吉野梅郷の梅の見頃は3月中旬以降と聞いていた。「青梅市梅の公園」の開花情報では東側が7分咲き、正門付近は3分咲ということだった。7分咲きならいいだろうと、西武新宿線で拝島まで行き青梅線に乗り換え日向和田で降りる。そこから15分位歩くと吉野梅郷のメイン・スポット「青梅市梅の公園」に到着する。

15s.jpg吉野梅郷とは、JR青梅線日向和田駅から二俣尾駅までの多摩川南側、東西4キロメートルに広がる地域で、青梅市梅の公園をはじめ、地元農家の梅園や吉川英治記念館、青梅きもの博物館などの観光スポットが点在している。その中でも「青梅市梅の公園」は、吉野梅郷の中心にあり、120品種、1,500本の梅がある山の斜面を利用した自然公園で、市が昭和47年に整備し、「吉野梅郷のシンボル」となっている。

東門から入る
公園の正門の方に行こうとすると、東門のほうが見頃だからそちら側から入場した方がいいという看板があった。そこで東門に回る。入場料を200円払い公園案内地図を貰い入場する。10時を少し回った所だがかなり多くの人で賑わっている。

「毎年2月下旬から3月31日まで、吉野梅郷梅まつりが行われ、紅梅・白梅合わせて2万5千本もの梅が花をつけ、ほのかな香りをあたり一面にただよわせます。期間中は、全国から30万人以上が訪れる関東一の梅の里です」とパンフレットあるようにかなりの観光客が来るのだろう。満開になるのはお彼岸の頃だそうだ。桜の開花時期に梅が満開になるという。都内とは大分時期がずれている。

東門から入り、なだらかな坂を上って行くと左の南斜面がほぼ満開で紅白の花を咲かせている。日当たりのいい南・東斜面の梅はほぼ満開だが、窪地や北・西の斜面の梅はまだ蕾の状態のものも多い。しだれ梅も殆ど咲いていない。なだらかな坂を上がり見晴らしいい東屋に着く。そこで公園全体が俯瞰できる。

濃い赤、桃色、白の3色という色彩的には限られているが、この3種類の色の組み合わせが幻想的で幽玄な淡い穏やかな雰囲気を作り出している。百合や薔薇の庭園とは全く違った世界に誘ってくれる。公園の斜面のそって鮮やかなグラデーション創り出していた。ただ、人があまりにも大勢いるので、幻想的雰囲気にゆったりと浸っているといった状況ではない。

白梅の中に月影というしゃれた名前の梅が何本かあった。通常白梅の蕾はピンクで、花芯も赤系統だ。しかしこの梅は蕾も、花芯も黄緑色で、清冽ですがすがしい雰囲気をかもし出していた。

公園の周辺の遊歩道を歩きながら色々な種類の梅の花を楽しむ。白とピンクが主流だが、多様な種類があり一見同じように見える花の色も形のそれぞれ特徴を持っている。1時間位の公園周遊だったが、十分堪能できるものだった。正面入り口について驚いた。

正門周辺・吉野の梅郷
東門のほうもかなり人がいたが、正門はまさに団体客が列を成しているといった感じだった。まだ満開でない状態でこんなに混んでいるのだったら来週辺りは公園の遊歩道は列を連ねる状態になるのかもしれない。正門入り口付近の土産物屋もかなり混んでいて、盆栽や青梅の特産品、梅干などが売られていた。

正門を出て裏山に上り、そこから公園を一望する。正門と反対側に山を降りる「青梅きもの博物館」がある。入場料は800円と高かったが折角来たので見学した。ここは日本の伝統文化財でもある着物の博物館で、近代の着物を中心にした収集で、大名や公家、元皇族の衣裳が保存されている。きもの博物館の入り口にある「しだれ梅」が見事に咲いていて目を楽しませてくれた。

きもの博物館の周辺にはオープンガーデンとして、個人所有の庭を一般に開放している所が幾つかある。由緒ある銘木として「鎌倉の梅」があるが、これは旧鎌倉街道のかたわらにあり、樹齢約400年といわれる古木で、個人梅園である梅花園の中にある。その隣にかなり大きな中道梅園がある。

ここには土産物屋があり簡単な食事も出来るようになっている。梅林の下にござを敷きテーブルが置いてあって花見気分で食事をしたり酒を飲んだり出来る。そこから観梅通りと言う道を行く。名前の通り、道路の左右には個人所有の梅園が並んでいる。まだ3分咲き位だが、この地域が梅郷と呼ばれている雰囲気はしっかりと感じることが出来た。

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院内患者家族交流会・おしゃべり会

3月14日(金)
2時から血液内科病棟のカンファレンスルームで、患者家族交流会、「おしゃべり会」が行われた。最初に自己紹介をした。白血病経験者が3人、白血病で移植を待っている人、息子が白血病で入院している母親、多発性骨髄腫治療中の人とその家族、原発性マクログロブリン血症治療中の人とその家族、計9名で話し合いが行われた。

患者家族交流会の必要性
新しく参加した人は口々に、自分の抱えている問題をざっくばらんに話し合える場が欲しかった。ここで何かが解決出来なくても病気について分かっている人に言いたい放題話なせる場があるということがどれ程ストレス解消になるか、ぜひこういった会を持って欲しいという訴えが交互になされた。この熱い想いはぐっと胸に応えるものがあった。医者や看護師や家族にも話せない悩みを患者や家族は抱えているのだということを痛切に感じた。

知っていれば来たのにといった声もあった。血液ガン関連診断室の扉、血液内科病棟の掲示板などにポスターは張り出されているが、一度来た人ならポスターに注意するがそういった会があることを知らない人は気がつかないのかもしれない。この会の存在をもう少し広報活動した方がいいのだろう。

再発し入院した白血病患者の場合
昨年12月に退院し、3月に再発し今度移殖のため入院した白血病の患者さんの悩みは、以前発病した時には仕事が忙しくストレスを抱えていた。しかし今回はゆっくりと静養していたそれなのに何故再発したのだろう。そもそも何が悪くて白血病になったのだろうというものだった。

医者に聞いても分からない。病気の原因は例えば煙草を吸うから肺がんになりやすいとはいえるが、煙草を吸ってもならない人もいる。すべての人はがん細胞を体の中に持っている。免疫力がそれを殺していっているのだ。それが何らかの拍子で、がん細胞が増殖してくる。そしてそのメカニズムは解明されていない。

何故自分だけこんな病気にかかったのだろう、誰でも抱く疑問である。そしてそれに対する回答は今の医学では存在しない。この患者さんお悩みは何処でも解決は出来ない。しかしこういった場で自分の生活や家族、自分の病状、移殖を抱えた不安など言いたいことを腹蔵なく語れることに意味がある。語ることによっての悩みに対するカタルシスを得ることになるのだろう。またそのことによって自分を見つめなおし、自分の悩みを整理することにもなるのだ。

白血病で入院している息子の母親の場合
息子が白血病で入院した。家は広島にあるが、息子は東京で仕事を持ち、がんになった時東京で診療を受けた。最高の病院で治療をしたいということで、ここの病院に入院した。息子が入院してその看病のために、広島に夫を残し、東京にマンションを借りて、2週間は東京、1週間は広島という2重生活をすることになった。

東京にいる時は、朝病院に来て夕方帰る生活をしている。息子にたまには銀座でも行って買い物でもしてきたらと言われたりもする。それで銀座に行ったが少しも楽しくもない。息子は28歳でまだ若い、まだやりたいこともあるだろう、何としての治したいという思いがある。

一時病状がかなり悪化し、個室に移された。こういったこともありストレスがたまり夫に文句を言った「何故私だけが」と。そしたら夫は「すぐ仕事をやめて東京に行くから帰って来い」と言われた。そうはならなかったが夫に文句を言ったことですっきりした。

移殖病棟にいた時には、付き添いの同じ境遇の何人かの母親と仲良くなり色々お喋り視することが出来たが、一般病棟ではそういった人とも出会えない。だからこういった場があるのは非常に有難い。広島では知り合いがいるが、東京でのマンション暮らしでは知り合いもなかなか作れない。息子は毎日来なくてもいいよ。もっと好きなことをすれば、と言ってくれる。しかし付き添っていたい気持ちが強い。こういった矛盾がストレスを生むのだろう。

息子は迷惑がっているわけではない。しかし自分のために母親が自分の生活を捨てただ自己犠牲的に付き添ってくれることに限りない負担を感じていることは確かだ。母親には自分の生き方があり、自分の従属物などではあって欲しくない。

自分の生活を持ち自分の楽しみを持ち自分の人間関係を東京でも作り上げ、そういった中での息子との関係を築いて欲しいと思っているのだろう。自己犠牲に耐えている母親の姿を見るのは辛いのだろう。自立した人間同士の関係を求めているのだろう。

今日の交流会で出された話を2例紹介した。話は多岐にわたったがこの2例から分かるように,患者家族交流会の意義を改めて確認するものであった。

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ベルケード療法第5サイクル開始

3月14日(金)
 3月12日定期外来診療があった。このときの血液検査では血小板数が9.1、白血球が2.4、ヘモグロビンが11であった。血小板数が一定以上の量に達していたので、ベルケード療法第5サイクルを3月14日から開始することになった。

しかし問題はIgMが 2月19日には848であったのが、今回計って982と増加している。12月18日405まで下がったIgMは徐々にではあるが増加し、1000近くまで至っているということだ。最初の2サイクルで2269を一挙に405まで落とした極めて効果的な薬が効かなくなって来ているのだろうか。ともかく増加への抑止効果はあると思われるので、もう一度やって見ようということになった。というか他になす術がないというのが正確だろう。

■  3月14日ベルケード療法第5サイクルのため病院に行く。血液検査は12日に行っていたのでレントゲン検査を行い、その結果を診て医師が異常なしと判断し、通院治療センターでのベルケード1・5mgとデカドロン20mgの静注を行った。11時診断予約で、その前のレントゲン検査のため10時30分には着いていたが、結局2時過ぎまでかかってしまった。

本来通院でのベルケード投与に関しては「投与後急性の副作用が認められることがあますので1,2時間程度は、病院で様子を見ることになります。」と製薬会社(厚生省)からの注意事項の中で指示されている。病院内にいればいいのだが、2時間さらにいることになると本当に1日仕事になってしまう。なかなかこの待機までは守るのは仕事を持っている人だと難しいだろう。

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竹久夢二 『宵待草』

3月12日(水)
旭080犬吠埼の灯台に向かう途中、愛宕山の「地球の円く見える丘展望館」に行った。この展望台に隣接す るふれあい広場に竹久夢二の「宵待草」の詩碑があった。夢二の「宵待草」とこの地がどういった関係があるかを調べて見た。夢二がここの展望台から見える犬吠埼灯台の近くの海鹿島の海岸に滞在し、そこでの失恋を詩にしたのが「宵待草」であることが分かった。

待てど暮らせどこぬ人を  
宵待草のやるせなさ  
今宵は月も出ぬそうな


夕暮れどきに鮮やかな黄色い花を開き、翌朝にはしぼむ月見草(「宵待草」は夢二の造語)、一夜花と恋しい人を待ちわびるやるせなさとを結びつけたところは、詩人としての竹久夢二ならではのものといえるだろう。

多感な夢二の生涯には多くの女性が登場する。『宵待草』も、避暑地で出会った長谷川賢という 女性への想いをうたったものだといわれる。彼女への見果てぬ夢、断ち切れぬ想い。 そこから生まれたのがこの歌なのである。恋する者のときめき、切なさ、やるせなさ・・・心に染み入る切ない調べがつづられている。

明治43年、夢二は千葉県・銚子の海鹿(あしか)島で一夏を過ごす。その際に、宵待草の人、長谷川 賢(はせがわ かた)という女性と恋に落ち、月見草の生い茂る海岸で二人は逢瀬を楽しみますが、再びこの地を訪れた夢二は彼女が他家に嫁いだことを知る。失恋の悲しみに暮れた夢二は、月のない海鹿島の海岸で、もう来ることがない彼女の思い出にふけったといわれている。この時の経験を元にして、『宵待草』は作られた。

面白いエピソードとして、何十年も立ってから、賢さんの息子の奥さんが夢二のことについて賢さんに「どんな人だった」と訊ねたら「今で言えば不良ね」と答えたと言う。何といっても、前年話し合って離婚し、また寄りを戻した岸たまきと2歳の息子虹之助を伴い、房総方面に避暑旅行し、海鹿島の宮下旅館というところに滞在していた状態での、他の女性への恋だったのだから、賢さんにああ言われたとしてもうなずける。

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総武本線の朝

3月10日(月)
 朝から雨が激しく降っていた。昨日とは打って変わって寒さも厳しい。今日は東京に戻る。行きはバスだったので、帰りは列車でゆっくりと帰ろうと思った。各駅停車の列車の旅の方が旅行気分を味わえるのではないかと思った。友人はサラリーマンなので朝8時に会社に出発する。それに合わせて、8時28分旭発の総武本線で東京に向かうことにした。雨だったこともあって駅まで車で送ってくれた。
 
 列車到着の10分位前に駅に着いた。待合室に10人程、ホームには5,6人待っていた。到着した電車には3分の1位しか乗客はいなかった。乗客の半分位学生で、通学にこの列車を使っているのだろう。確かに列車の方がバスより時間は正確だから通学には便利だろう。しかし1時間に一本しかないので乗り遅れたら次ぎの列車まで4,50分待たなければならないし大幅に遅刻してしまうことになる。よくローカル列車の番組があるがやはり学生の利用が中心となっているのを目にするが、この列車もそうだ。

列車は通学通勤のためでボックス席の列車ではないのが旅行者としては物足りない。しかし総武本線は実は通勤列車であることにやがて気がつく。4,5駅過ぎ、学生がそこでどっと降りる。列車は段々と混んでくる。

東金線と接続する成東で、乗客は一挙に4,5倍に増えた。9時30分近くなので通勤時間のピークは過ぎているのだろうが、東京のラッシュ時間を少しはずした9時過ぎの列車位の混みようだ。この混み方が佐倉まで続いた。佐倉で成田線と合流する。ここで東京行きの快速電車と待ち合わせる。3,4分待って快速電車か来る。

快速電車はすいていたので、総武本線に乗っていた半分くらいが快速電車に乗り換える。千葉駅まで徐々に乗客が増え、千葉駅でドット乗ってきてかなり混んで来る。

佐倉からは東京までは1時間位で十分通勤圏内だ。朝はものすごいラッシュなのだろう。この快速は大船まで行く。東京駅で3分の1くらいの乗客が降りその後は下り列車となるので空いているだろう。

結局2時間位(10時33分東京着)の帰り時間だったが2時間遅れの通勤列車に乗った感じで少しも旅行気分は味わえなかった。高速バスのほうがその点ゆったりとしているのかもしれない。丸の内線に乗り換えた。地下鉄がお茶の水で地上に出ると雨は上がっていて日が照ってきていた。

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旭市周辺探訪・かんぽの宿旭

3月9日(日)
今日もいい天気だ。散歩にはもってこいだ。犬の散歩に行くついでに旭市の周辺探訪ということで出掛けた。いつもの犬の散歩コースを中心にまわる。総武本線の旭駅を大きく回る感じで1時間ばかり散策した。

今日のコース
旭銀座通り―金比羅神社―西の宮神社―成田山・真福寺―神翔閣―旭楼旅館―竹下稲荷神社―旭駅前シャター商店街―旭駅


旭銀座通り
友人の家は、バスの通る国道と平行に走るJRの線路の間にある。駅まで直線距離にすれば5分もかからないが、改札口が反対側にあり、踏切が駅の左右にあるため駅の改札口まで行くには15分位かかる。総武本線は上り下りとも通常1時間に1本、朝夕でも2本しか出ない。東京行きの特急も1日5本とかなり不便である。不便だと利用者が減る、利用者が減ると列車の本数も減る。するとまた利用者が減る。といった具合に駅の利用者が減り、駅前商店街が寂れていく。市の中心・繁華街が国道沿いにどんどん移動してきている。

家からは、家の前の雑木林をくぐり、その林は造園業者の敷地に繋がっている。そこを抜けしばらくすると、旭銀座通りにぶつかる。かってはここが旭市のメインストリートだったのだろう。確かに商店街ではあるが、日曜日だからか殆ど人通りはない。この銀座通りを突っ切って、しばらく行くと、金比羅神社がある。こういった敷地は犬が勝手に遊ぶには丁度いい感じだ。綱を離れた犬はそこら中を無作為に走り回っている。

成田山真福寺
踏切を渡ると、かなり広い公園とそこに隣接する西の宮神社がある。鳥居のそばに10mは越えるだろう楠木が神木として祭られていた。そしてその隣に、成田山真福寺と神翔閣がある。神翔閣は真福寺の経営の会館だという雰囲気だ。成田山真福寺の山門は古色蒼然とし、かなりの歴史を感じさせる。山門の左右には不動明王の立像が安置され、山門をくぐる参拝者ににらみを利かせている。

このお寺は真言宗智山派の寺院であり、総本山は京都東山七条の智積院で、大本山は成田山の新勝寺で、その分院である。真言宗は弘法大師・空海によって開かれ、仏教の中でも特に密教であると言われ、この教えはお釈迦さま在世時代のインドにすでに存在し、それが7世紀ごろに段々と体系化され、8世紀には中国やチベットに伝わったもので、この教えが弘法大師により日本に伝えられ、真言宗となる。

旭034_convert_20100228213415 真福寺山門

旭025_convert_20100228213333 本堂

この寺院から駅の方に戻っていくと、かなり古い建物があり、そこは昔遊郭だったという説明を受けた。2階の窓には腰掛と手すりがつけられ、かってはそこから遊女が姿を見せていたのだろう。といった面影がそのまま残されていた。

asahi.jpg 昔遊郭だっという建物

駅前商店街
竹下稲荷神社を経て、駅前に近づいていくと、近づくにつれむしろ商店街のシャターが下ろされ店じまいしている所が多くなってくる。また駅前の一等地が空き地になっている。シャター商店街という言葉が東京からすぐ近くのこの街にもかなり以前から始まってきていたということを実感させられた。国道沿いに次々と新しい建物が建ち東京にあるのと全く同じフランチャイズ店やチェーン店がどんどん進出していくのと平行して、駅前の地元の商店街が衰退し、店じまいに追い込まれていくという地方都市の現状が明確に表現されていた。

旭040_convert_20100228213732 竹下稲荷神社

鉄道の利用が減り皆が車で動くようになるとどうしても駐車場を備えたところに人は集まっていく。東京に出るにも2、3時間に1本の特急よりも、20、30分に1本の高速バスを利用するようになるのは当然だ。そして道路沿いの商店街と鉄道の駅周辺の商店街の明暗が分かれてくるのだ。

かんぽの湯・旭
夕方近くに温泉があるということで出掛けた。家から車で15分ほどの所に、「かんぽの宿旭」という宿泊施設があり、天然温泉で温泉のみの理由が可能だということだ。16時30分頃着いた。入浴料1000円を払って入ろうとしたら17時からは500円になると聞いて、30分待つことにした。言われなければそのまま入っていた。何の表示もしてないのは不親切だ。

旭049_convert_20100228213625 旭かんぽの宿

「かんぽの宿」は海に面しており一種のリゾートホテルで温泉と、夏は海水浴場、観光施設に近い場所として利用できる。広い庭には芝が植えられ、10数個のコテージが立ち並んでいる。そこから海が眺められる。温泉の泉質はナトリウム、塩化物強塩温泉で、神経痛、筋肉痛、疲労回復などに効くということだ。露天風呂もある。浴場はかなり広いのでゆったりと入ることが出来る。ジャグジーもついている。家からすぐの所に温泉があるというのもいいものだ。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

銚子・犬吠埼灯台など

3月8日(土)
11時少し前に友人の車で出発した。地方都市では何処へ行くにも車を使わざるを得ない。だから一家に4、5台車があったとしてもそれは贅沢ではなく足代わりなので必要不可欠なのだ。だが車のおかげで歩くことがなく体調に影響してくる、犬の散歩があるから30分位歩いているのが唯一の運動だと言っていた。彼は東京に住んでいた時は30分40分かかる所でも歩いて出掛けていた人なのだ。

今日の観光コース
飯岡刑部岬展望館(光の風)・飯岡灯台―愛宕山・日比友愛の碑・地球の円く見える丘展望館・ふれあい広場・竹久夢二碑―外川漁港―犬吠埼灯台―黒生海岸活魚料理一山いけす―銚子ポートタワー―銚子大橋


飯岡灯台
旭から飯岡に向かう道の左側は小高い丘になっている。そこの風力発電の風車がかなりの数並んでいる。飯岡は飯岡助五郎で有名だ。博徒といわれているが飯岡の発展に尽くした。清水野次郎長みたいな存在だったのだろう。漁業の振興に尽力し、信仰心が厚く、揉め事の仲裁をし、護岸工事を行い、相撲興行をし、お上から十手を預かることにもなった。

飯岡灯台に隣接して展望館がある。ここから銚子に向かって何キロにもわたって切り立った断崖が続き東洋のドーバーと呼ばれる屏風が浦が始まる。展望館からは360度の眺望でき、旭市の町の全容や小高い丘の風車、飯岡漁港が臨める、この寒さの中、海岸でサーフィンをやっている人が何人かいた。

旭066_convert_20100228215429 展望館から旭市方面

愛宕山
飯岡から海岸に沿って「地球の円く見える展望館」に向かう。駐車場からふれあい広場を通って展望台に行く。途中に竹久夢二の「宵待草」の詩碑があった。日本とフィリッピンとの友好のための友愛の碑が展望台の横に設置されている。展望台が愛宕山の頂上に設けられており、愛宕山自体が75mの高さがあり、さらにその上に立っているので展望台の上はかなり高く、周辺は地平線と水平線に囲まれ地球が丸く見えるのは確かだ。屏風が浦の切り立った断崖が飯岡方面からその全容が眺望でき壮観である。そこから海岸線に出て外川漁港を左に見ながら、犬吠埼灯台に向かう。

旭084_convert_20100228213937 展望館から屏風ヶ浦を望む
 
犬吠埼灯台
犬吠埼灯台にはエレベータはなく、昇るには長い螺旋階段を息を切らせながら登ることになり全部で99段もある。これは建設当時、イギリス人技師が近くの九十九里浜にちなんで設計したとも言われている。灯台の1階と別棟が資料館になっていて、初点灯時に犬吠埼灯台で使われていたフルネルレンズや建設時使われたレンガ、日本で最初に使われた霧鐘などが展示されている。

犬吠灯台の歴史
 犬吠埼灯台の建設は、工部省灯台寮がイギリスから招へいした灯台技師、ヘンリー・ブラントンの設計、施工監督のもとに明治5年9月28日に着工し、明治7年11月15日に完成、点灯されました。
 工事には、19万3千枚のレンガが使用されましたが、このレンガでできた灯塔は、100年以上もの歳月に耐え、現在もレンガ造りの構造物としては日本一の高さを誇り、大空に向かってそびえたっています。

 灯台に使用されたレンズは、当時フランス製の第1等8面閃光レンズでしたが、これは太平洋戦争で一部が破壊され、現在は灯台局レンズ工場で製造された第1等4面閃光レンズが使用されています。
 レンズは、高さ約2.6メートル、直径約1.9メートルもある大きなもので、このレンズを水銀が入った器のようなものに浮かべ、浮かんでいるレンズをモーターで回転させて点灯しています。(社団法人・燈光会パンフレットより)


旭098_convert_20100228214046 犬吠埼の灯台

活魚料理・一山
犬吠埼灯台を後にして向かったのは、友人の職場の同僚が行くならこの店がいいと言ってすすめられた店で、ポートタワーへ向かう途中の海沿いにある。店は道を海側に入ったところで海に面している。入り口には屋根の付いた大きな石の門があり少し大げさな感じがする。3階建で1階には中央に大きないけすがある。

新鮮な魚介類を食おうということでセット料理を頼んだ。出て来たのは、カキフライ、刺身盛り合わせ、たこと春雨の和え物、えびの味噌汁、金目鯛は焼き物か煮物かの選択となっている。サラダ、ライス、おしんこ、コーヒーゼリー付きという盛沢山なのだがメインがなく量はあるがインパクトに欠ける料理だった。

銚子ポートタワー
銚子漁港の真只中に水産ポートセンターがあり、水産物卸センター「ウオッセ21」と銚子港を一望できる「銚子ポートタワー」がある。タワーの4階の展望室からは、銚子漁港に行きかう漁船の風景、利根川河口と銚子大橋、犬吠埼灯台や地球が丸く見える展望館がある愛宕山、鹿島臨海工業地帯が展望出来る。筑波山や富士山も日によっては見えるそうだ。

旭127_convert_20100228214203 銚子ポートタワー

帰路・風力発電の風車群
タワーから銚子漁港を右に見ながらに利根川沿いに車を走らす。銚子大橋を間近に見て左に曲がり銚子駅に行ってみる。駅前を左に曲がり岐路に着く。利根川沿いから丘を越えて太平洋の方に向かう。丘の上では風力発電の風車が目の前に次々と現れる。近くで見るとかなり巨大なものだ。何故か大きなロボットが動いているような錯覚に襲われる。北総台地は全国でも有数の風の強い地域で、海からの風が最も多い。2006年7月現在銚子市内に28基、旭市飯岡に5基、神栖市に17基ある。

街道沿いの大きなスーパーで買い物をする。国道沿いのジャスコやサンモールは結構高いので休みの日に少し遠いがここまでまとめ買いに来るそうだ。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

千葉県旭市の友人の家で

3月7日(金)
 学生の時の友人が東京の勤めを止め、昨年12月から千葉県旭市で介護サービス・ホームヘルパー斡旋会社の広報担当として勤め始めた。ずっと東京で生活していて慣れない土地で始めての仕事でいろいろ苦労しているということだ。借りている家は会社の知り合いが大家なので一軒家を安く借りていると言う。泊まる所はあるから遊びに来たら、といった誘いにのって暇な身であるから出掛けていった。知り合いは何人かいるが、機会を失うと何十年も会わないことがある。何時体調を崩すか分からないので会えるときに会おうということもあって、訪問することにした。

旭までは電車だと総武本線の本数が少ないし乗換えが多い。直通の特急の本数は非常に少ない。高速バスが便利だと聞いた。16時から18時の間だと20分から30分おきに浜松町から東京駅経由旭方面行きのバスがある。東京駅から旭まで1時間40分で着く。これで出掛けた。東京駅16時20分発で18時旭着のバスに乗った。首都高湾岸線を経て、東関東自動車道を大栄から、東総道路に入りを助沢ICで降り、栗源、山田、干潟、旭といったコースである。

 バス停のそばのモスバーガーで待っていると、犬を連れて友人が来た。迎えに来るついでに犬の散歩も兼ねている。勤めていると犬の散歩も帰宅後するしかない。犬を1匹と猫2匹飼っているということ聞いていたので犬を連れてきても驚きはしなかった。人懐こい犬で人間に対する、知らない人に対する恐れというものが全くない。初対面なのにじゃれてくる。

 家に着いて今度は猫がいた。2匹兄弟猫がいたが一匹は1ケ月ほど前表に出たきり戻ってきていないそうだ。もう絶望的かもしれない。交通事故にあったのか、知らない人の家に飼われているのか定かではない。猫は昔から飼っていて東京から連れて来た。生まれたときから飼っているという。ある時何故か母猫部屋に入って(たぶん隣の屋根から飛んで空いていた窓から入ったのだろう)押入れで子猫を産んで、しばらくしたら親猫はどこかにいってしまって、やむを得ず2匹の猫を飼う羽目になった。

 犬は大家が飼っていたもので、大家がこの家を彼に貸して一緒に犬も付いてきたといった感じだ。そこで犬と猫の餌やりと犬の散歩を欠かさずやるということになっている。全ての犬がどうか分からないがここの犬は犬小屋がありながらそこには全く入らないという。小屋の中に敷いてあるマットも表に引っ張り出してしまう。氷点下の寒さの日でも雪が降っても犬小屋には入らないで、寒さに震えているそうだ。寒いと痙攣のように体を震わしている。それで血行を保っているとのではないか。

 ここの猫は日中ほとんど表にいる。朝と夜以外姿を見せない。よく戻ってこられると思う。かなり人見知りだが滞在の最後の方には膝に乗るまでになった。猫は抱かれるのがきらいだと言うがここの猫はそうでもない。

家は一軒家で、一階は2間とダイニングキッチン、バス、トイレつき、2階に二間、一間は大家の部屋らしい。玄関も付いていて東京では考えられないほどの広さだ。彼が払っている家賃は会社との関係でここ地域の相場ではなく、通常幾ら位するのか分からないが、東京だとこの広さだと10万以上はすると思う。回りは畑と雑木林に囲まれ環境的にはとても静かで散歩するにはなかなかいい所だ。

歩いて3,4分で国道に出る。そこにはジャスコやサンモールがあり殆ど何でも揃う。ブックオフもツタヤもある。サイゼリヤやケンタッキー、デニーズ、ガストが並んでいる。住むのに何の不自由もないだろう。友人が言うには大きな本屋がない、ブックリブロや八重洲ブックセンターやジュンク堂などに行くとそこで最近出版されている色々な本を見ながら今の社会状況を知ることが出来る。いわば大きな本屋は情報発信基地である。これから本屋に行ったらそういった視点で本を物色していこうと思った。
 
▼ こういった友人の家で3、4日滞在することになる。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

派遣労働者の現状

3月7日(金)
「現場が壊れる」
朝日新聞の3月7日朝刊「現場が壊れる」という派遣労働者の労働実態が紹介されていた。
大手製鉄会社の事例では、
◆ 06年春、正社員が運転するフォークリフトに派遣社員がはねられた。人材派遣会社のまとめ役だった男性は倒れている行員を自分の車に押し込み病院へ。医者には「ぼくが間違えて自家用車ではねました」と言った。隠さねば、の一心だった。
◆ 熱中症で倒れた派遣行員を手近な箱に隠し、フォークリフトで工場外に運んで救急車を呼んだ同僚もいた。

「契約は請負だが実質は派遣だった」「そもそも人員削減が事故を招いている」「工場からは労災は絶対出すなと言われ、派遣会社の社長に事故は隠せと指示されていた」と人材派遣会社の男性は語る。労災を隠すので事故情報が伝わらず現場は改善されない。派遣会社が間に入ることで、安全な工場づくりに不可欠な自己情報が工場側に還流しない仕組みが出来てしまった。「派遣は部品。部品は危険情報や改善策を上げたりはしない」これが経営者の本音だろう。

労働者の現状

間接雇用禁止の5原則
1、直接雇用の原則:労働力を利用する者が使用者の責任を果たすこと。
2、同一価値労働・同一賃金の原則:使用者による均等待遇の原則。
3、労働条件の対等決定の原則:労使関係の民主的形成
4、団結権保障の原則:労働組合の結成・加盟の自由
5、賃金の中間搾取禁止の原則

 今や日本の労働者の3人に1人を非正社員が占める。労働者派遣法によって間接雇用の5原則は空洞化され、使用者は雇用責任を果たさず、労働者は均等待遇がなく、対等決定がなく、団結が阻害され、中間搾取されている。以前、労働者の権利・利益は労働基準法を柱に労働組合法、職安法などによって守られてきた。職安法によって労働者の供給事業は禁止されていた。労働組合の規制力の低下の中で、経営者は労働者を好き勝手にこき使っている。

労働運動への攻撃は、1987年4月国鉄分割民営化-JR発足によって、国労、動労メンバーを中心に1047名を解雇し、清算事業団に追いやることを通し、公務員労働運動の中心的存在であった国鉄労働組合を解体し、日本の労働運動への徹底した抑圧を開始して行ったのである。戦後労働者の闘いによって勝ち取られてきた権利は、バブルの崩壊の中で「賃金(労働条件)か雇用化」の経営者の恫喝の中で労働組合が屈服妥協していく中で、労働法制が次々と改悪されていった。

1997年の労働法改訂、男女雇用機会均等法改訂によって、労働時間は男性並、賃金は女性並という低レベルでの均等化が行われていったのである。国税局の「民間給与実態統計調査」によると年収300万円以下の労働者が1700万人、労働人口の39%を占める。20代の3分の1の労働者が1週間60時間超を働き、過労死の40%を50代が占めている。ワーキング・プアが拡大し続け、生活保護を受けられず餓死者を出すというのが今の日本の現状なのである。

 朝のニュースで赤坂新名所として赤坂サカスに赤坂BIZタワーがオープンしたと放送された。司会者が「パリのシャンゼリゼみたいだ」と言っていた。おしゃれできらびやかで、世界の名店が揃い、高級レストラン並び、ショッピングを楽しめる複合施設で、敷地には桜並木が続いている。この愕然とするような差は何が原因となっているのだろうか。この2つが共存するのが日本のが格差社会の現状なのだ。貧困、餓死者これは「社会にとって容認できない」「あってはならない」事としてこの日本の底辺に横たわる慄然たる現状に怒りをもって対応していかなければならない。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

抗がん剤治療と副作用

3月5日(水)
梅澤充医師のブログより
『間違いだらけの抗がん剤治療』の著者、梅澤充医師のブログ『現在のがん治療の功罪』の3月4日に書かれた「休眠療法の勧め」の冒頭の部分に、ブログに寄せられた標準的抗癌剤治療だけを勧める「標準的な医者」に対する患者家族のコメントが紹介されている。

「医者が一度その(抗がん剤)治療をお受けになられてはいかがでしょうか。 ガンに罹患して、弱っていくことが目に見えている患者に、その副作用で身体を痛めてしまう治療が最善ですか? 元気な者がその薬に耐えられるのであれば、病人も耐えられるでしょう。健康な人間もその最大耐量にはきっと耐えられませんよ。 副作用に耐える薬を使いながらというのは、身体が悲鳴を上げているのを、ごまかしながら使うということでしょう。 吐き気というのは本来身体を侵すものに対する正常な反応ではないのですか?それを抑えてまでして、そんなに大量に飲む必要があるものでしょうか。」

「標準的抗癌剤治療に”耐えられる”とは、”副作用で死なずに生きていることはできる”という意味です。コメントの投稿者は、QOLを考えた上での”耐えられる”を意味していると思いますが、標準的抗癌剤治療にはQOLなんて無縁の話です。休眠療法とは、はじめからガンとの共存を期待する治療、というよりも”患者さんとガンを見つめて治療を組み立てていくと結果的に休眠療法になる”そういう治療であるような気がします。」と患者家族の声に対し梅沢医師はこう説明し、抗がん剤の投与の量は千差万別の患者に合わせるべきで、決して一様ではないと主張する。

抗がん剤と副作用-体験から
自分が受けた治療は確かに標準的抗癌剤治療であっただろう。抗ガン剤の点滴投与の前には必ずカイトリルという吐き気止めを30分点滴する。医者に言わせると画期的な薬で吐き気を抑えるのにかなりの効果を発揮するというものだ。また白血球を増やすG-CSFはかなり効果的で、このおかげで感染症にかかる期間が大幅に短縮し、移殖の場合無菌室から早く出られることになった。また自己抹消血幹細胞採取の場合、造血幹細胞の増加に効果を発揮した。このような納得できる薬の処方もある。

、最初に使われた抗がん剤はフルダルビンという薬で原発性マクログロブリン血症に関して米国でかなり高い評価を得ている薬であった。マニュアル通りの量を5日間投与した。この薬は副作用もほとんどなかったが、効果もなかった。全く効かない抗がん剤があるという事を始めに体験してしまった。そこですぐさま別の療法に変えることになった。

、次のVAD療法では、アドレアシン、オンコビンという抗癌剤を、ステロイド剤のデカドロンと併用して使用した。そのため、骨髄抑制もなく、吐き気、食欲不振、体力減退も全く感じなかった。

、抹消血幹細胞採取時に使用したアルカロイド系のエドポシドはかなり強力で熱が出たが、即サクシゾンというステロイド剤を点滴しそれによって熱はすっと下がった。ただこの薬は骨髄抑制がかなり強かった。それは白血球が増える時に乗じて自己抹消血幹細胞を採取するので止むを得なかったということは十分理解できた。

、移殖時の前処置の抗癌剤はメルファラン300mgという致死量に近い量であり、それを1時間で点滴投与した。これによる副作用は激しかった。その副作用を抑えるために大量の薬が投入された。抗生剤、抗真菌剤、肺炎予防薬、帯状疱疹予防薬、胃薬、整腸剤、肝臓増強剤、吐き気止め、口内炎用うがい薬、下痢止めなど、さらにステロイド剤を必要に応じて使用してきた。体中薬で満たされている感じだ。この移殖も辛い期間が1週間位で病気に対し最も有効な手段であると説明された。これだけ辛い思いをしても効かない可能性もあるということは紛れもない事実なのだ。幸い絶大な効果があったので辛いことなど忘れてしまったが。

、移殖後退院してからの、再発に関しては、通院でMP療法を行った。メルファランとプレドニンの量は、最初マニュアル通りだったが、採血結果を見ながら、メルファランを減らしプレドニンを増やすなど、薬の量を調節していった。

、現在行っているベルケード療法は、副作用としては血小板の減少、末梢神経障害-手の指先と足の裏の痺れ、体力減退があるが、こういったことを総合しながら薬の量を決めている。マニュアルでは1.3mg×1.6(対表面積)=2.1mgとなっているが、血小板との関係で現在は1.5mgで行っている。また体力減退についてはデカドロンを併用しその量を調整して点滴している。最初は40mgだったが、覚醒作用が強すぎ、20mgに減らした。このように自分体調との兼ね合いの中で、抗がん剤やステロイド剤の量を医者と相談しながら治療を行っている。

納得のいく治療を
たとえかなり辛い治療でも、激しい副作用があろうが医者と相談し、色々意見も入れてもらって選択した治療法であれば、納得できるだろう。一時VAD 療法の効果が低迷していた時期があったが、自己抹消血幹細胞採取のために骨髄抑制の強いアルキル化剤系の抗がん剤は使いたくないという状態の中でVAD 療法以外選択の余地はなかったということもあった。不本意でも納得せざるを得ない治療法もある。

医者と相談し意見を交換し合い、治療方針をその話し合いの中で決めていけるという医者との関係をどう作っていけるかが重要だ。確かに医療知識を盾に強引に標準医療を進めて行く医者もいるかも知れない。しかし大部分の医者はむしろ患者に納得してもらった医療を施したいものだと思う。

医者任せにならないためには、患者は自己防衛策ではないが、一定の自分の病気に対する知識が不可欠なものとなる。そうでなければ医者の言葉に丸め込まれてしまうかもしれないし、医者と対等の話が出来ないことになりかねない。もちろん医者によりますが。同時に選択した結果の責任はご自身で背負うという覚悟が無ければ、自分の望む治療は受けることは出来ない、ということを肝に銘じておく必要があるだろう。選択には責任が伴うのだ。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

プロフィール

yosimine

Author:yosimine
がん治療とは長く細い道を辿ら
なければならない。その先に希
望があると信じながら。

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