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映画 『茄子・アンダルシアの夏』

5月30日(金)
テレビで「茄子・アンダルシアの夏」を放映していた。なんとなく見始め、やがて引き込まれていった。終わった後のなんとなくさわやかさを感じた。それこそ行ったこともないが、アンダルシアの夏の風を肌に感じるような映画だった。
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STORY: 
“ツール・ド・フランス”“ジロ・デ・イタリア”と並ぶ世界3大自転車レースの一つ“ブエルタ・ア・エスパーニャ”。スペインを一周するこのレースに挑むペペ・ベンネリは、解雇寸前の落ち目のレーサーだ。やがて故郷アンダルシアの村にさしかかる。かつて失望を味わったその土地は、過去に葬り去りたい場所だった。その日はちょうど兄アンヘルと、昔ペペの恋人だったカルメンの結婚式。ペペは疾風のように駈け抜ける。勝つことよりも、自分が存在する意味を見出すために…。


この映画を製作した監督自身、アニメ業界の自転車ロードレースでも、97年の開催以来連覇を続けている程の自転車競技のマニアなのだ。チームで優勝を目指すといった自転車競技のスタイルや、競技中の駆け引きなど、自転車競技を全く知らなかった私としては、自転車競技の面白さを体感することができた。

ぺぺはチームの一員でアシスト選手として、主力選手を勝たせるために参加している。レースの途中スポンサーが彼を解雇しようとしていることを知る。そういった中で彼は自転車をこぎ続ける。途中コースにネコが飛び出し、チームの主力選手が棄権してしまう。このアクシデントで集団落車が発生したことで、ペペに逃げ切りの可能性が生まれる。急遽チームはペペに「そのまま単騎逃げで勝ちを狙いに行け」との指示を行う。先頭を走っていたぺぺは、優勝への決意を新たにする。

元自転車競技者だったぺぺの兄は、夢を捨て普通の仕事に就いている。丁度競技の最中、兄と、彼の元恋人だったカルメンとの結婚式の最中だった。結婚式が終わり、集まった仲間何人かとぺぺの応援に行く。ぺぺが兵役に行っている間に、彼の恋人だったカルメンを兄が奪った。その事を知った彼は怒り、苦しみながら村を去る。そして今日のレースでその村を通過する。激しい思いがぺぺの心をよぎる。

「遠くへ行きたい」この言葉は、彼のほろ苦い人生を象徴しているようだ。手に汗握る自転車競技の興奮と、ありふれた田舎町の結婚式風景を折りまぜながら、ぺぺを応援する村の人々熱い声援、恋人を兄に取られ絶望し故郷を去ったぺぺの心情、これらを絡み合わせながら47分という短い時間の中に凝縮し、表現している。動と静、日常と非日常、挫折と栄光、離脱と郷愁、この対立する状況や感情をより合わせながら、一つの流れの中に求めていく技法は素晴らしいと思った。

レースが終わり、自転車での帰り道、車で兄と父と、カルメンが追いかけてくる。ぺぺは複雑な気持ちで彼らと接する。彼らと別れ町を見渡す丘に登り、かっては、憤怒を持って見下ろした町が全く違った、景色に見えることに気がついた。もはや怒りも苦しみも、悲しみもない、穏やかな故郷アンダルシアの風景が広がっているのを感慨深げに眺めるのだった。ぺぺの中で何かが吹っ切れた。

映画の作品紹介に次のように書かれていた。「誰の心にもある思い出は、今の自分にきらめきを灯す。人は誰でも人生の中で時につまずき、時に傷つきやがて輝きを増していく。」ぺぺは捨て去ったと思っていた故郷を、そしてそこに住む人々を再び自らのものとして受け止めることが出来た。

そして最後の優勝祝賀会の食卓に出された、故郷アンダルシアの名物「茄子のアサディジョ漬け」を、これは手でつまんで食べるのだといって、おいしそうに食べるのであった。
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テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

人は何故生きるのかについて

5月29日(木)
「いのちの授業」事前アンケート
血液患者コミュニティ「ももの木」では、活動の一環として「いのちの授業」を行っている。この授業の前に生徒たちが命についてどう考えているか、授業内容に反映していこうと事前アンケートをとっている。その中で「いのちの授業」の講師への質問があれば書いてほしいという項目があった。ある学校の生徒の質問の内容に驚いた。それは次のように書かれていた。

「何で人は生きているんだろう、どうせ死ぬんだから・・と考えることがあります。私は希望を持ち、協力し、笑いあい、泣きあい、喜びあい・・様々な感情の中で自分たちが明るい未来をどうやって残し、生きがいを探せるか、そして子孫を残せるかに意味があるような気がします。でもまだ分かりません。何で人が生きるのか分かりますか?」

何故生きるのか
「人は何故生きるのか」という根源的な疑問は、多くの思想家、哲学者、全ての人が模索し、悩み、苦しみながら考え続け、結論など簡単に出ない問いなのだ。この生徒は自分なりに考え抜きそれなりの答えを出している。その内容は付け加えることがないほど本質的だ。

「未来をどうやって残し、生きがいを探せるか」この答えの中にどれ程大きな意味が含まれているか、彼女は気がつかないかもしれないが、地球環境の問題や食料の問題まで含んだものであり、人類の共存の問題、戦争の否定を通して、地球の未来を守るということの重大さを指摘しているのだ。そのような中で生きがいを探していくという発想法は、多くの人たちが失ってしまった感性だと思う。金や名誉や地位のために生きるという世俗的欲求は至る所に転がっている。しかしそうではない生き方を模索しているという所に新鮮な感動を覚える。

そしてさらに突っ込んだ答えを要求している。今の小学校6年生はこんなことまで考えているのかと思って驚き、そして、どのような答えが可能か悩んでしまった。何故生きるのかは全ての人にとって全く異なる。100人いれば100通りの答えがあるだろう。何を生きがいとするのか。彼女の質問への答えは出せない。ただ、自分の個人的利害ではなく、人々のため、弱者や、圧政に苦しむ人のため闘い抜いた人たちの言葉の中にその答えの片鱗があるような気がする。全く無関係な2人の言葉を引用して、「何故生きるのか」を考えるヒントにしたい。

チェ・ゲバラ
「僕は新しい戦場に旅立つ。帝国主義があるところならどこでも戦うためにだ。永遠の勝利まで。革命か、死か」
「もし我々が空想家のようだと言われるならば、救い難い理想主義者と言われるならば、出来もしないことを考えていると言われるならば、何千回でも答えよう、“その通りだ!”と」
(チェ・ゲバラ)

ゲバラは、“圧制者からの解放”を目指し、貧困と搾取に苦しむ新たな国へ、再び一人のゲリラとして向かった。国家の要人という地位を投げ捨て、再び過酷なゲリラ生活に帰っていった。

雲井龍雄
kumoi.jpg自分は、死ぬに際して死をおそれない
まして意味も無く生きながらえようとも思わない
男子の大儀というものは
太陽の輝きにも負けぬくらい輝かしいものである
もし自分が信じている道が正しいのであれば
釜茹でになってしまってもかまわない
とるに足らないこの身ではあるが
わが心は万里の長城となりこの国の行く先を守るであろう。

この詩は幕末に活躍した憂国の志士、情熱の詩人として短い人生を駆け抜けた雲井龍雄が、処刑前に書き記したものである。欧米模倣路線の薩摩・長州の明治政府に不満を持つ人々を集め組織した。このため内乱罪で逮捕され明治3年12月28日27才で処刑された。(日本漢詩選・詩詞の世界・辞世より)

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

定期検診の日

5月28日(水)
今日は2週間一度の定期検診の日だった。

検査結果
 IgM   1130
 白血球  2.8
 血小板  14.8 
 ヘモグロビン  10.9


定期検診のたびに、薬が効いているか、効かなくなったらまた別の方法を考えなければならない、と思いながら血液検査の結果を待たなければならない。それはかなり緊張する時間だ。今回IgMは1130と前回より62減っていた。

サリドマイド100mg服用を4月2日から始めてから2ケ月たった。ベルケード療法5サイクルは3月14日から始め3月24日まで4回行った。療法中の3月17日のIgMは1043であり、3月24日終了後の4月2日に調べた所、1161と上昇していた。そこでベルケード療法を終了しサリドマイド療法に切り替えたのである。その後1161→1169→1122→1192→1130と推移してきている。

サリドマイドによってIgMを下げることは出来ないが、上昇を抑えることが出来ているということはきわめて重要なことである。このまま効いている限り何年も飲み続けなければいけないが、副作用がきわめて少ないこの薬を服用するだけで、がん細胞の増殖を抑えられるならそれに越したことはない。

サリドマイドの副作用として便秘、倦怠感、眠気、痺れ、めまい、皮疹、抑うつ、運動失調、頭痛などが調査結果として報告されているが、私の場合は100mgという量が少ないこともあって、副作用はほとんどない。ただ、そもそも最初、睡眠薬として発売されたものであることから、睡眠効果はかなりあり、おかげで7~8時間はぐっすり眠れる。

以前ステロイドを使用していた時は、眠っても2、3時間で目が覚めてしまい、次になかなか寝付けないといった状態が何年も続いていたことから考えると、ぐっすりと眠れるということはきわめてありがたいことだ。ただし、日中までだるさが続くこともありそれが問題だ。しかし日常生活に差し障りはない。また正常細胞への影響がほとんどないと思われるし、そのため感染の畏れは、免疫グロブリンの減少は影響するが、軽減されているので外出もかなり自由だ。。

今日の血液検査の結果、白血球は2.8、ヘモグロビンは10,9、血小板は14.8となってる。全体的には正常値より低いが、かなり回復してきている。中性脂肪も4月30日には285あったのが145まで下がり、正常値の枠内に入った。サリドマイドが効いている限り、当面このまま続けていくことになる。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

穀物メジャーによる食糧の支配

5月27日(火)
石油と穀物による支配
「今の国際経済を動かしているのは『2B』と言われている。『B』は石油の単位に用いられるBarrelと穀物の単位Bushel。戦略物資としての石油を輸入し、その代わりに穀物を輸出するというのが米国の基本戦略だ。食糧を持っているということは究極の『兵器』を持っていることを意味する。ABC穀物メジャーが国際市場で大きな影響力を持っているが、今は遺伝子組み換え技術を持つ化学メーカーなどが市場に殺到している。」(久保田巌・経済ジャーナリスト)

穀物メジャーの現状
ABCとはADM、バンゲ、カーギルで、化学メーカー、製薬会社を吸収合併しながら巨大化していっている。中でも遺伝子組み換え技術開発企業のモンサント社は成長が著しい。モンサント社は除草剤耐性大豆を開発し、その種子の自家保存は認められず、農家は毎年同社から種子を購入し、技術料も支払っている。それによって同社は2003年から07年にかけて、売り上げは2倍、純利益は15倍(99,300万ドル)となっている。

米国では遺伝子組み換え作付面積が大豆91%、とうもろこし73%、綿花87%となっている。07年には遺伝子組み換え穀物は、世界の作付面積の19%になった。そしてモンサントはカーギルと合併し、トウモロコシの遺伝子組み換え技術に強いデュポンはバンゲと合併した。

バンゲは資産の3分の2を南米に移した。そこで現地の自然を蹂躙しながら遺伝子組み換え作物を大量に生産している。アルゼンチンでは遺伝子組み換えの輸出用トウモロコシは大量に生産されるが、食糧生産がとどこおり餓死者まで出している。

投機ファンドの動向
今シカゴの穀物取引所の7割を投機マネーが占めていて穀物の価格を押し上げている。またこの投機ファンドによる価格の変動は、穀物同士の耕地面積争奪戦となる。エタノールの需要によってトウモロコシにファンド資金が入って値を吊り上げる。農家はトウモロコシを作る。すると大豆が不足して価格が高騰する。旱魃で小麦価格が高騰。大豆や小麦を作ると今度はトウモロコシが高騰するという形でらせん的に価格がどんどん上がっていく。そして穀物メジャーは膨大な利益を上げていくのである。

バイオエタノール戦略
米国のバイオエタノール戦略によって、2005年にエネルギー政策法を施行し、08年1月時点で139のエタノール製造工場が稼動し、62が建設中だ。4月の生産量の85億ガロンだがその内の11億ガロンを穀物メジャーであるADMが占めている。穀物メジャーとバイオエタノールの関係が浮かび上がってくる。確かにブッシュのイラク戦争の破綻による石油の確保の失敗を補う意味もあったろうが、トウモロコシの無制限大量消費が穀物メジャーに大きな利益をもたらすことも確かだ。

穀物メジャーによる独占支配
こういった米国において穀物メジャーがバイオメジャーと結びつき穀物の寡占化が進み、数万トンの単位で輸入しようとしたならば穀物メジャーから買うほかなく、まとまった数量を買うルートは限られている。かって米国は余剰小麦を食糧援助という形で世界中に輸出し、小麦食を世界化した。またトウモロコシと大豆は家畜飼料へと加工され、世界中に輸出された。これを担ったのが穀物メジャーだった。

そして今、モンサントなどの種苗会社(ロックフェラー系が95%)が開発した高収量品種を、途上国に借金をさせて売り込んでボロ儲けする、という世界戦略によって、世界はますます飢餓と貧困と混乱に落とし込まれている。これこそ米国内の穀物の独占のみならず、多国籍企業と結びながら世界の食の制覇を狙っているのである。

参考資料
モンサントの最大株主=経営者は、ブッシュ大統領一族とロックフェラー。2002年に植えられた遺伝子組み換え植物の90%がこの会社のものだった。“ラウンドアップ”という除草剤と、その除草剤に抵抗性を持つ遺伝子を組み込んだGM種子をセットで販売する戦略で大もうけした。

モンサントという会社は、ベトナム戦争の時にジャングルに撒かれた枯葉剤(PCB:エージェント・オレンジ)の開発者である。当時、国防省から年間5000万ドルの予算を与えられて、空軍の枯葉剤散布という人類史上最大のBC兵器被害をもたらした。その当時、米軍を指揮していたスタンズフィールド・ターナーという人物が、CIA長官を経てこのモンサントの重役におさまっている。(新しい「農」の形ブログより)

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

食糧危機の原因

5月25日(日)

s_photo11.jpg今年の4月から一挙に、食パン、即席めん、パスタ、牛乳、バター、ハム・ソーセージ、それにビール・・・どれも皆5%から10%の値上げが開始された。中には40%近い値上げのものも出始めている。その原材料が大幅な値上げになっているからである。

小麦、コメなどの主要食糧の国際価格がここ数カ月で急速に高騰した。食料品の値上げ、特に穀物関連の商品の値上げは止まることを知らない。ハウス物に大量の原油を使う野菜の値上げ、大量の飼料を必要とする食肉の値上げ、また石油高騰による輸送費の増加など全てが連動しながら増幅して、更なる値上げが加速されている。最も深刻な影響は食料を輸入に頼っていた開発途上国に現れ、食料を巡って暴動が頻発している。(写真は食料を要求するポスター)

現在の価格急騰の原因を幾つかの資料から取り出してみた。

1、世界的な需要の増加
世界の人口は今、急増している。62億人の地球人口は、70年代からほぼ倍の数字。そして2050年には、今の1.5倍の89億人に達するといわれている。ところが、地球上の穀物の作付け面積は、ここ30年ほとんど変わっていない。取れる穀物量は増えていないのである。人口がさらに増える2030年には、中国だけでも6億人から10億人分の穀物が足りなくなるという予測もある。

確かに、今、世界では60億の人々が食事をするのに十分過ぎる食料(1人当たり356kgの穀物)が生産されてはいる。しかし開発途上国の多くの国では飢餓が広がっている。問題は食料が平等に分配されていないことだ。

(1)経済が急成長を続ける中国やインドの需要増
中国・インドでは、生活が向上し、食肉、加工食品へ移行(穀物や原料、エネルギーの大量消費)、穀物消費が加速的に増大した。また肉類消費の増加による世界の穀物供給への影響も大きい。1978年にわずか900万tだった中国の豚肉生産量は2006年には5,200万t、世界の豚肉生産量の約半分を占めるまでになっている。

(2)食肉生産の増加
世界の食料、特に穀物の多くは購買力のある先進国や途上国の富裕層によって輸入されている。その中でも大きな影響を与えているのが畜産消費だ。1950年に4,400万tであった食肉生産量は、2003年に2億5,300万tにまで急増した。肉を育てるためには大量の穀物が必要とされる。畜産物1kgの生産に必要な飼料穀物量たるや牛肉で11kg、鶏肉で4kg、豚肉で7kgとされている。(牛肉15倍、豚肉9倍、鶏肉8倍)世界の穀物生産の約4割が食肉のための飼料として消費されているのが現状だ。

2、世界の供給の減少
(1)農地の拡大が限界にきており、農地の減少と劣化が進んでいる。
穀物の作付け面積は30年間ほぼ横ばい。30年間で人口はほぼ2倍にになることによって1人あたりの面積は半減することになる。また工業化し工業用地が増え、都市化のため農地が減る。大気汚染、水汚染、土壌汚染が農作に影響する。機械化、農薬、連作、過放牧、森林破壊、土壌流出など土地の酷使することによる農作地としての劣化が進んでいる。

(2)水供給も限界に

灌漑用水が限界に来ており、すでに世界人口の約40%が慢性的な水不足になっている。世界の穀物の1割は補給されない過去の地下水(化石水)で生産されている。すでに一部地域では枯渇が始まっている。さらに中国などは工業化により水利用が増大し下流域での農業が破綻の可能性もある。

3、穀物輸出国の輸出の制限
価格の高騰のもう一つの要因は、穀物輸出国の ロシア、アルゼンチン、カザフスタン、中国、ウクライナ、セルビア、インドなどが、輸出税率を10~25%付加する輸出規制を始め出したことである。自国の食糧確保のため、輸出に回す分がなくなってしまっているのが現状だ。

4、穀物生産国での天候不順による不作
さまざまな地球環境問題が追い討ちをかけている。最大の問題は地球温暖化による異常気象である。世界中で異常気象の頻発や天候不順が起こっており、この気候変動(温度上昇、海面上昇、豪雨、干ばつ)は農業に大打撃を与えている。

世界の穀物需給に影響を及ぼす豪州の小麦が2年連続干ばつで大不作に陥った。現地では依然降雨量が少なく、水不足が続いている。アメリカ中東部や中国の被害も大変である。中国の北部では、今年1月から3月にかけて累積降水量は10ミリにも満たない状況で、 ひどい水不足に見舞われて、土地のひび割れ、小麦の発育不足などの事態が発生しており、この5年来で最大の食糧不足の発生が心配されている。

5、穀物を原料とするバイオ燃料の普及

ブッシュがイラク戦争の泥沼化の中で、脱石油戦略として打ち出してきたバイオエタノール戦略が世界の食糧供給に異常事態を生み出している。ブッシュ政権が「米包括エネルギー法」として、アメリカ国内全体でのエタノール使用量を6年間で2倍にするとの政策を提起した。それ以降、イラク戦争・占領支配の泥沼化と歩調を合わすようにエタノールブームは加速した。イラクからの石油略奪の絵図を描けなくなったブッシュがバイオエタノールに大きく傾斜したのだ。

バイオ燃料用作物面積の増加も大きな問題だ。先進国では、アメリカを中心に食用からバイオ燃料生産に大規模に転換する動きが目立つ。一方、途上国では、海外の企業が参入し、巨大な面積の森林や農地の買い占めが起こっている。広大なアマゾンの森林を焼き払い畑にし、国内で、トウモロコシ畑が増えたため生産が減った穀物、遺伝子組み換えの大豆などを大量に栽培している。

 アマゾンやインドネシア、そしてアフリカでは、バイオ燃料用の作物栽培のために、もともと居住していた人々が大規模に追い出されるケースも生まれている。インドネシアの西カリマンタン地域では、パーム油のプランテーション拡大により、多くの「バイオ難民」が発生し、国連も警告を発した。国連食糧農業機関(FAO)はバイオ燃料用に使用された穀物は少なく見積もっても1億tに上るとしている。

6、投機マネーの穀物市場への介入

米サブプライム住宅ローン問題で、不安定化した金融市場から逃避した投機資金が穀物市場に流れ込み、ファンドマネーの流入は、エタノール生産設備への投資にとどまらず、穀物相場そのものに対する投資がさらに急速に拡大している。

2000年から2007年の5年間で、穀物市場に流入するファンドマネーは5倍にも跳ね上がった。そしてこれまでは穀物生産の変動に連動して上下していた穀物相場であったが、大量のファンドマネーが流入することで、かつてない価格変動がもたらされた。この秋、空前の大豊作が発表されたその日にトウモロコシの価格が上がり始めるという、150年の穀物市場の常識を覆す動きをした。激しい価格変動が格好の投機の機会を提供することで、とりわけサブプライム危機によって株式や債券市場から逃避してきた資金が大量に流入してきている。

7、欧米の食糧戦略が開発途上国の自給能力を奪ってきた。 
貿易の自由化が途上国の農業を潰してきた。欧米の政府は余剰農産物に輸出補助金を与えて農産物輸出を推進してきた。たとえばアメリカでは、綿花やコメ、小麦を輸出するに当たり、30~50%補助して、その分値段を下げて途上国に売り込む。いわゆるダンピング輸出で、途上国の農村は大きな影響を受けてきた。

途上国は国際機関の後押しを背景に食糧生産を止め、コーヒーや砂糖や紅茶などの換金作物生産に特化し、先進国に輸出してきた。しかし途上国の基幹作物である1次産品の国際価格は常に不安定に推移してきた。90年から2000年にかけて多くの農産物価格が低落。特にコーヒーは大暴落し、30年ぶりの最安値を記録して世界のコーヒー生産者を苦しめた。1つの産品に頼ると国際相場に影響を受けやすい、もろい構造になってしまう。

また、輸出型農業は、利潤のために効率的な形態が求められる。その結果、過度の化学肥料や農薬の使用が農民に求められてきた。アジアでも数万人が農薬被害で命を失っている。また、輸出するといっても基本的に輸入国の企業の力が強いので、農産物の買い叩きが起こりやすい。水の過剰利用や現地の環境汚染も深刻だ。その結果土地はやせ、食物は育たなくなる。

安い輸入農産物に依存した結果、途上国の基幹作物の発展を妨げ、国内生産も減少してしまった。自給の根本が崩れてしまったのである。食糧援助に伴って起こる食文化の破壊と食の自給性の喪失だ。海外に基本的な食料を依存してしまうと、今回のような危機にたやすく直結してしまう。食料危機は起こるべくして起こったとも言えるのだ。

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食料危機が迫る

5月24日(土)
食料を巡る紛争
テレビのお昼のニュースの特集で食糧危機について放映していた。今世界の各地に食料を巡る紛争が起きている。世界銀行の報告によると、小麦やトウモロコシ、コメなど主要食糧の価格は、中国やインドなど新興国の需要急増やバイオ燃料向け原料としての購入拡大などを背景に、2005年以来世界平均で実に83%上昇、小麦は181%もアップ、コメにいたっては2カ月で75%も値上がりしているという。

この結果、特に食糧を輸入に頼る開発途上国を中心に、「世界は空腹に苦しむ人が増え、実態は日々深刻化している」(ゼーリック世銀総裁)といわれるほど食料不足や飢餓が深刻化。こうした国々で死傷者も出るなどの暴動、抗議デモが多発、政情不安や混乱が起きている。
 
中米ハイチでは食糧高騰の抗議デモで警官が殺害され、エジプトでは数千人の労働者が警官隊と衝突、建物に放火するなど暴徒化する一方、政府配給のパンの列に並んだもの同士が奪い合いでけんかして死傷者を出し、さらにアフリカ各国では飢餓状況がますます悪化しデモ・暴動がほぼ日常化しているようだ。
 
東南アジアでもコメ価格が高騰、フィリピンでは抗議デモの一方でゲリラが米穀商の車両を襲撃、軍隊が輸入米の輸送に動員されるなどコメ不足が深刻化しているといわれる。水と食糧を巡っての戦争の危機が迫っている。

バイオエタノール戦略の問題
キューバ・カストロ議長は2007年3月、ブッシュが地球温暖化対策と称して進めるバイオエタノール戦略に対し「その破壊作用は計り知れない。世界の30億人以上の人々が、飢えと渇きで早すぎる死を運命づけられる。、とりわけ途上国の食糧危機を拡大し、環境・生態系を破壊する」と、その危険を強く非難した。全世界の4分の1の石油を消費し、さらに人々の食糧であり家畜のエサである穀物生産さえエネルギー需要のために破壊していくというアメリカ帝国主義のあり方に対する痛烈な批判である。

また、ベネズエラのチャベス大統領は2007年4月に開催された「南米エネルギー・サミット」において、エタノール・ブームを「自動車を食わせるために、貧しき人民を飢えさせことと同じではないか」と批判している。

食料輸出国であるアメリカは自給分さえ確保すれば、輸出食料の値上がりは自国の利益になる。例えそれが食料を輸入に頼らざるを得ない開発途上国の国民を飢餓に落とし込もうとも我関せずといった対応を取っているのだ。

日本の食糧事情
中国、インド、ベトナムなど穀物の輸出禁止に踏み切った国も多い。国内需要が拡大し、輸出に回す穀物がない。日本は食料自給率39%という状態に中で、やがてやってくるであろう輸入したくとも売ってくれる国がないという自体に直面するかもしれない。その時日本はどうするのか。

主食の米は自給率100%だ。そして100万トンの備蓄があるというが、減反政策によって耕地面積は縮小し、米の単価下落によって採算が取れないことによって稲作を辞めていく農家も多いし、また農業従事者の高齢化の中で跡継ぎがおらず、米作りはその代で終わってしまうところがかなりあると言われている。米の生産維持に何の展望もない状態なのだ。93年に冷害で米が不足したときタイ米を輸入した。しかし今は米が不足しても輸入できない。日本の食糧危機にどう対処するのか。いかにして自給率を高めていくのか。

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食料の60%を輸入しているにもかかわらず、食料の廃棄量は年間1900万トンに及ぶという。それは国民一人当たりに換算すると、一日に2膳半のご飯を捨ているのに等しい。東京都だけでも一日に6,000トン(約500万人分)もの食料がゴミとして捨てられている。日本全体では1,000万人分を越える。

世界ではなんと、毎日3万人の子どもたちが餓死している。地球上でおよそ5人に1人が栄養不良や飢えで苦しみ、1年間で約1,000万人、日本中の10歳以下の子どもたちと同じ人数がすべて餓死しているのと同じことなのだ。

世界ではカロリーの取りすぎで 太りすぎの人たちも10億人以上いるという。これは飢えに苦しむ人とほぼ同じ数字である。食べ残しや栄養過多による太りすぎの分のいくらかでも効率よく飢えに苦しむ人に回せる仕組みづくりが 出来ないものだろうかと思う。

食料のリサイクルをどうするのか
ホテルの宴会では余った食事、手付かずの食事も全て、バケツを持ってきてビールなどと一緒にゴミとして廃棄している。「吉兆」のやった使い回しは問題外だが、もったいないと思う気持ちは良く分かる。しかし一つの品物で2回料金を取っているというのは詐欺に等しい行為なのだろう。残すことが分かっていて注文する方も問題だ。

コンビニでも賞味期限が切れた弁当は廃棄している。棚が開いていると見栄えが悪いということで、いつも棚を一杯にしておくから必ず余りは出る。最近あるコンビニチェーンは、賞味期限切れの弁当を回収し、おかず、ご飯、容器と分別し、食料は養豚所と契約し引き取ってもらうシステムにした。個人経営のドーナツ屋の話だが、売れ残ったドーナツをゴミと一歩に捨てるのでなく、しかるべき容器に入れ店の前においておくと次の日にはきれいになくなっている。

スーパーでは例えば刺身がさくで売れ残ったものは切り身にし、それも売れなかったら調理し惣菜か、弁当で売るという。こういったリサイクルは若干抵抗があるがやむをえないのだと思う。

こういった個人的試みや企業としての試みをもっと全社会化していく必要があるだろう。一方でゴミ処理の問題は自治体にっと大きな課題なのだから少しでもゴミを減量していくことは重要な課題だ。NPOの団体で、企業やスーパーと契約し、売れ残ったり、賞味期限、消費期限が過ぎた食料を集めて、日々食うに困っている寄場労働者や野宿労働者、また十分な援助がない老人ホームや、養護学校などに配っている。こういった団体の活動をもっと広げていく必要があるだろう。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

豊島区散歩-12 不思議発見・ミステリーコース

5月23日(金)
明日からまた雨になるということなので、最近の運動不足解消のために、少し歩こうと思って、豊島区の散策コースで行っていない最後のコース「不思議発見・ミステリーコース(1)」-不思議な言い伝えなどに興味がある方におすすめ-に出掛けた。

大塚から都電に乗り新庚申塚で下りる。都内で唯一残る都電、車道と接触することが少なく独自の軌道を持って交通の妨げにならないことから残されているという。

都電に乗るとなぜかゆったりした気分になる。先へ先へと忙しく動き回っている世界から隔絶されそこだけ時間がゆっくりと動いているような錯覚にとらわれる。昔はもっと時がゆっくりと流れていたような気がする。今多くの人が時間に追われ走り回っている気がする。いつからこんなにあわただしい世の中になってしまったのだろう。確かに生活は豊になったし食べることは出来る。しかしその代償に失ったものも多い。

新庚申塚駅→本妙寺→妙行寺→善養寺→お茶あがれ地蔵→北池袋駅

新庚申塚駅から白山通りを巣鴨方面に向かって5分ほど歩き左に曲がってすぐに本妙寺がある。住宅街の真ん中にぽっかりとあいた空間のように広々とした境内が開けている。

本妙寺 徳栄山 法華宗(陣門流)   
nehan2.jpg文京区本郷にあった寺で、明暦3年(1657)の大火 (振袖火事)の火元として知られる。山門前に史跡の掲示があり、参道に墓碑案内もある。遠山の金さんこと遠山影元墓、北辰一刀流の千葉周作墓、本因坊歴代の墓、将棋棋聖・天野宗歩墓などがある。本堂右側には明暦大火供養塔もある。

山門をくぐった左手には、高さ150cm程の珍しい「玩具涅槃図」(左写真)の石碑がある。お釈迦さまを囲むようにして上座には七福神、武将、だるま、こけし、奴などが描かれ、その他にも象、ヤドカリ、亀、狛犬、狐、鹿、蝶など全部で56個の玩具が描かれている。

ここから朝日通商店街を明治通方面に向かう。お岩通りにぶつかる。どんな通りだろうと思っていたが、当然のことだが何もないただの自動車道路だった。その通りを突っ切り都電の線路を渡りすぐ左に妙行寺がある。明治通りと白山通りに挟まれていながらその通り周辺は閑静な住宅街となっていて、ひっそりととした雰囲気を漂わせている。

妙行寺 長徳山 法華宗(陣門流)
通称「お岩さまの寺」。また浅野内匠頭家の墓もある。明治42年に四谷より当地へ移転した。入口を入ると供養塔が並んでいる。都内全鰻商の菩提心により建てられたうなぎ供養塔や、魚がしで犠牲になった生類を供養する魚がし供養塔も建っている。観音様を水で洗うと悪いところが治るといわれる浄行様もある。本堂の裏は墓所で、墓所の一番奥に浅野家の墓と、お岩様の墓がある。お岩様は四世鶴屋南北作の世話物『東海道四谷怪談』の主人公である。四谷怪談はフィクションだが、その元となった由来がある。由来案内板の前に鳥居が建てられている。

由来案内看板には「お岩様が、夫伊右衛門との折り合い悪く病身となられて、その後亡くなったのが寛永13年2月22日であり、以来田宮家ではいろいろと“わざわい”が続き、菩提寺妙行寺四代目日遵上人の法華経の功徳により、一切の因縁が取り除かれた。」と書かれていた。ここから四谷怪談の物語が生まれたのだろう。妙行寺のとなりに善養寺がある。

善養寺 薬王山延寿院 天台宗
824年、慈覚大師により開創され、上野山に建立された。本尊は薬師如来像。1661に下谷坂本に移り、そこが1912年に国鉄用地となって西巣鴨・現在地へ移転した。本堂には3mの木造閻魔王坐像(区有形文化財)があり、おえんまさまの寺として親しまれていた。江戸3大閻魔はこの寺と杉並松ノ木の華徳院、新宿の大宗寺である。境内には1629年の石灯籠、1680年の駒形庚申塔、1788年の宝篋印塔、緒方乾山の墓と碑、などがある。地獄界の王、閻魔大王が信仰の対象となるとは何か不思議な感じがする。

善養寺から明治通りに向かって歩くと幾つかの寺院が並んでいる。善養寺周辺だけでも7つの寺院があり、染井霊園から白山通りを下っていくと、本郷通と白山通りの間には30近くの寺院がある。南北線の本駒込周辺ほどではないが、寺院の密集地といえるだろう。

明治通りを真っ直ぐ池袋方面に10分ほど歩くと、上池袋三丁目の交差点に至り、そこを北池袋駅方面に向かい5分ほど行くと、上池袋派出所の隣に「お茶あがれ地蔵」がある。東武東上線北池袋駅そばだ。

お茶あがれ地蔵
池袋周辺2029_convert_20101127173138 子育地蔵とお茶あがれ地蔵

地蔵堂の手前にある小さいのは子育て地蔵で、奥にある大きい方がお茶あがれ地蔵だ。ここには幽霊が出てくるといわれている。

元禄の頃、農民勘左衛門と恋に落ちた遊女がいた。しかし、勘左衛門の周囲から反対があり、二人は引き裂かれてしまう。遊女はそのまま遊郭を抜け出し、放浪し行き倒れて死んでしまったという。それからというものの、遊女が死んだ場所からは「お茶あがれ」と囁きながら徘徊する遊女の化物が出たといわれている。それがこの地蔵がある場所だったそうだ。

遊女の霊を鎮めるようと供養塔が建てられ、昭和13年には地元の人々がお地蔵さまを建立した。その左手には大切そうに茶碗を持っている。現代でもこの遊女の声が聞こえるとか噂があるみたいだ。

豊島区内の心霊スポットとして、サンシャインシティ・雑司が谷霊園と並んで挙げられる。実際には交番の隣であり、車の行き来する広い通りに面しており、怖いという感じは全くしない。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

難治性がん患者の記録

5月22日(木)
 「長く生きることに意味があるのではない、限られた命をどう生きたかが重要なのだ」と盲学校の生徒が言っていった。これは日本テレビで放映していた肉腫で4回の手術を受けてきた患者のドキュメント番組の中で語られた言葉だ。

日本テレビで「モクスペ・治療困難ながん患者800日の記録」というドキュメンタリー番組が放映された。この番組の主人公である女性は、平滑筋肉腫という10万人に一人という特殊なガンにかかり、この病気での5年生存率は7%と医者に言われた。この肉腫は平滑筋といって、胃や腸、血管の周囲などにあって自律神経の作用で収縮する筋肉から発生する。子宮は平滑筋の固まりで女性の罹患率は男性の2倍近くある。このがんは治療薬も治療方法もまだ確立されていない難治性の疾病だ。ガンが再発するたびに腫瘍を手術で取り除く以外方法がない。

 芸能人ダンスサークルのコーチをやっていた時発病し、絶望に落ち込んでいた。その時、彼女にダンス協会の会長がブラインドダンスの手伝いを依頼する。彼女はブラインドダンスを教えるために八王子盲学校に講師として通っていた。その中で盲目という辛い状況を一生懸命生きていっている生徒達の姿を見て励まされる。生徒たちにダンスを教えることが生きがいとなってくる。

そしてブラインドダンスの全国大会が開かれる。生徒達は日頃の練習の成果を発揮する。彼女は言う「自分で踊るよりはらはらする」と。大会は成功裏に終わった。24時間テレビでも放映された。芸能人のダンスサークルの人達も応援に来てくれた。

彼女の40歳の誕生日の日、八王子盲学校の生徒、ブラインドダンスを始めた「野ばら」という川崎にあるサークルの人達、芸能人ダンスサークルのメンバーなどが集まり誕生日を祝ってくれた。そして皆で折った千羽鶴を彼女にプレゼントする。彼女の4回目の手術が迫っていたからだ。

 手術は成功したが、いつまた転移するかもしれない。この繰り返しがいつまで続くか分からない。転移の範囲や場所によっては手術が出来なくなるかもしれない。いつ終わるか分からない命を抱えながら生きていかなければならない。それは不安と恐れにさいなまれる日々であるのだろう。そういった中で彼女は盲学校の生徒にダンスを教え続ける。彼らから生きる勇気を貰いながら、お互いに支え合いながら生きていく。

「長く生きることに意味があるのではない、限られた命をどう生きたかが重要なのだ」という言葉を胸に刻みつけながら。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

またまた行政の無駄遣い

5月20日(火)
総務省でも特定財源の流用
朝日新聞の朝刊に次のような記事が載っていた。「総務省が放送局や、携帯電話会社から徴収した電波利用料を、職員のリクレーション費などに流用していたことがわかった。野球観戦、映画鑑賞、無線操縦カーなどの不明朗な資質が281件約4000万円にのぼる。総務省は“現行の制度に抵触するものでないが、理解を得ることが難しい”とし、今年度から同様の支出を禁じる方針を決めたという。」

民主党が参議院で多数を取ったことによって、国政調査権を利用し、今まで闇に包まれていた税金の 勝手気まま使い放題の実態が明らかになってきている。国土交通省の道路財源の無駄遣いに続き、総務省が電波法で違法電波監視などに使い道が限定されている事実上の特定財源が、何のチェックもなしに好き放題浪費されていたことが明らかになった。恐らく何処の省庁も隠された無駄遣いがあるのは現状の省庁の体質から行って日を見るより明らかだ。

市町村の裏金作り
市町村自治体の裏金作りもその一環だろう。2008年2月23日 の 読売新聞によると「大阪市の裏金問題で、新たに3206万円の裏金がプールされていたことが22日、市の全庁調査で明らかになった。これまでに見つかった9区役所2局以外に、新たに6区役所と市民局でも裏金づくりが行われていたこともわかり、裏金の総額は15区役所3局で総額1億1557万円にのぼる。」裏金作りはもちろん大阪市のみではなく恐らくやってない市町村はないくらいに蔓延している。

裏金づくりは、公共機関、企業、各種団体とあらゆるところで日常的に行われていると考えられるが、内部告発でもない限り実態の解明は不可能に近いといわれる。特にプール金と呼ばれる、経理上の不当操作は後を絶たない。しかしこれはれっきとした犯罪で、事実上の横領・背任行為、または詐欺行為である。

無駄な道路の建設が続く
5月12日の朝日新聞の朝刊に「地方有料道6割が赤字・交通量予測割れ76%」と題して記事が載っていた。地方道路公社が運営する有料道路の約6割が、通行料収入では建設費を返済できない赤字路線となっている。返済のために重ねた借金の処理で最終的に多額の税金を投入することになる。

計画割れの地方有料道路ワースト10路線の表が掲載されていた。
                計画交通量 実質交通量 達成率
1、長良川右岸有料道路  8071     849    10.5%
2、常陸那珂有料道路    9524    1325    13.9%
3、福島空港道路       3766     673    17.9%
4、那須甲子有料道路     243      50    20.6%   
5、若草大橋有料道路    3315     740     22.3%

この道路にももちろん道路特定財源が使われている。予測(計画)交通量をどのようにはじき出したかその算出の方法に問題があるのではない。最初に作る道路を決め、その許可申請のために作り上げた数字なのだから、予測などあってなきが如きものである。

道路族議員の利害
道路族議員がひたすら道路特定財源の一般財源化に反対する。10年間で59兆円を道路のみに使えと主張している。それは地域の振興のために主張しているのではない。特定財源が一般財源化されても本当に必要な道路は作り続けるのだから。もちろん一般財源化されることによって、必要な道路の選定は厳しくなる。彼らが必要としているのは、建設業界との密接な癒着の中で、道路財源として自由に使える金なのである。それが彼らの選挙基盤であり、資金源であるから建設業界の利益に反するようなことは出来ない。そのために無駄な道路でも何でも建設業者を潤すために作り続けることを主張しているに過ぎない。

日本の社会の行方
後期高齢者医療制度によって、保険料を強制的に天引きするという制度の導入の根拠は、財政赤字だという。それならば幾らでもある無駄遣いを何故なくそうとしないのか。旧態依然とした利権がらみの業者との癒着政治が未だ横行している永田町の現状を変えていくしかない。最も弱い部分からむしりとる、いつから日本はそんなに冷酷な社会になったのか。

75歳以上という線引きをする考え方こそ人間の生きる尊厳を根底的に踏みにじる思想でしかない。その考え方自体と闘わなければならない。後期高齢者医療制度反対の厚生省前集会に参加していた老人が言った。「戦後の高度成長期をがむしゃらに働いて日本経済の発展に尽くしてきた。税金も収めてきた。それが財政赤字だからいって不要物として処理されようとしている。それが許せない。」取材していたアナウンサーが言っていた「彼らは怒っているよりも、今の日本の現状を嘆き悲しんでいる」と。

世界で一番国民が幸福感を持つ国はデンマークだそうだが、収入の50%を税金で取られながら、医療と教育は無料であるということが国民に安心感を与えるのだろう。福祉の根幹に関わる医療こそ何よりも最優先で充実させていかなければならない。今行われようとしているのはまさに逆行した事態でしかない。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
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患者交流会・ある元白血病患者の話

5月19日(月)
 先週の土曜日17日の14時から、血液患者コミュニティ「ももの木」の交流会が開催されたが、その前に「いのちの授業座談会」が行われた。そこに始めて参加した女性の発言が印象に残った。がん患者であった人々は観念的には「生きることの意味を病気になって改めて感ずるようになった」などとは言うが、実際には再発の恐れや副作用の辛さ、就職の問題、経済的な問題など抱える課題はあまりにも多くて、心安らかでいられる事は少ない。

こういった元患者の現状の中で、その女性ははっきりと今の生き方を肯定し、それを実践して行っている。病気になる前よりも今のほうが活き活きと生きていることを実感し、意味のある人生を生きているということを日々感じているという。これほどの確信を持って生きている元患者に遭うことはめったにない。

 彼女は白血病で化学療法をし、退院後2ケ月で働き始めた。入院中、働きたくてしょうがなかったという。生きていることの実感の中で、働けることの素晴らしさを感じながら、仕事に取り組むことが出来るようになった。しかし抗がん剤治療・化学療法を行っていながら当然その副作用としての体力消耗はあると思うが、2ケ月で職場復帰とは、若いから体力があり、回復が早いのだろうか。

以前は嫌いな人はどうしようもなく嫌いだった。しかし今はどうして嫌いなのかを考えて、自分に問題があるのか、相手の何処が問題なのかを分析して冷静に対処出来るようになった。性格的に直情型であってすぐ感情的になり、怒ったり、叫んだりしていたがそういったことがなくなった。自分と相手との関係を捉え、対応していけるようになった。それは自分が今生きていることが自分一人の力でなく、周りの人との関係の中で可能であり、人との関係の必要性、大切さを感じるからだ。

天気でも前は「今日は雨か」位にしか思わなかったが、今は晴れでも雨でも日々の天気の移り変わり、季節の移り変わり、自然の変化を敏感に感じ取れるようになった。それぞれの状況を味わう精神的広がりが出来た。

今は仕事のほかに週2回、火曜と土曜に小児ガン病棟でボランティア活動をしている。今までは仕事と家の往復だったが、この活動を始めてから、仕事の方もメリハリがついてより一層やる気が出てきている。

 彼女の言葉を聞いていると、がん患者の次の言葉が思い浮かぶ。「時々ふと思うことがある。がんに罹らなければ、私はどんな風に自分らしく、自分の人生を生き抜けばいいかが分からなかったのではないかと」(英ミチ「命を見つめて」)。確かに多くのがん患者がこのような言葉を言ってはいる。しかし実際に生き方としてそれを実践することは、肉体的条件もあってなかなか出来るものではない。しかしまさに、彼女はそれを日々の生活の中で具体的に実行してきているのだ。それが凄いと思う。

血液ガン関係で体験談を募集していて、そこに彼女は原稿を送った。そこで自分の現状をまとめてあるので、自分の体験を話すことはすぐにでも出来るそうだ。それに人前で話すことには何の抵抗もないという。「いのちの授業」の講師にはうってつけだ。是非関わりを強めて活躍してもらいたいものだ。生きていることの意味を自覚している若くてエネルギッシュな精神、それ自体が人を励ます最大の原動力となるだろう。

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後期高齢者医療制度

5月18日(日)
後期高齢者医療制度の問題点
高齢者医療については、長らく老人保健法による老人医療制度として実施されてきた。老人医療制度については、国・都道府県・市町村の負担金及び健康保険等(政府管掌保険、共済組合、健康保険組合、国民健康保険等)の拠出金により運営されてきた。この老人医療制度を廃止し、後期高齢者医療制度が4月から施行された。この冷酷、無慈悲な制度については、既にマスコミでも報道されているが問題点を挙げてみる。(参考:大阪社会保障推進協議会資料)

、75歳以上で、給与所得者の扶養家族になっている場合、扶養家族には新たな保険料負担が発生します。(現在は負担なし)。

、保険料は年金 (月額15,000円以上の年金受給者の老齢年金、遺族年金、障害年金)から天引きされます。

従来、75歳以上の高齢者は、障害者や被爆者などと同じく、“保険料を滞納しても、保険証を取り上げてはならない”とされてきた。今回の制度改悪により、滞納者は保険証を取り上げられ、短期保険証・資格証明書を発行されることになった。

この制度は医療機関窓口で、一旦医療費を全額支払い、未払いの保険料を払うことと引き換えに、後日市町村に申請して払い戻し(保険で給付される医療費)を受ける制度だ。そもそも保険料を払う金がないのにどうやって医療費全額支払うことなど出来るのだ。保険料を支払えない低所得者は医療を受けることが出来ないと宣言しているのに等しい。

、保険者から医療機関へ支払われる診療報酬が別建ての「包括定額制」になり、患者様は受けられる医療が制限されます。 医療機関が行ったそれぞれの医療行為に対して診療報酬が支払われるのではなく、いくら医療行為を行っても、一定額以上の診療報酬は支払われなくなります

保険でかかれるのはここまでと治療費に上限をつけるのが定額制なのだ。そういった中で病院からの追い出しが一層ひどくなる。また老人保健法で優遇されていた、健康診断も自費で行わなければならなくなった。健保関連のスポーツ施設を利用していた人が、保険が変わったことによって一般料金を取られるようになった。様々な所で後期高齢者医療制度はお年寄りに負担を強制しているのだ。

医療機関では、赤字になるような医療行為を続けることが出来ないため、患者様にとっては、受けられる医療行為が制限されてしまう。後期高齢者医療制度になっても、医療費の窓口負担は、「原則=1割」「現役並み所得者=3割」で変わらない。ただし、政府は、後期高齢者とそれ以下の世代で、病院・診療所に払われる診療報酬(医療の値段)を別建てにし、格差をつけようとしている。

これによって、後期高齢者に手厚い医療をする病院・診療所ほど経営が悪化するようになり、高齢者は、“粗悪医療”や“病院追い出し”をせまられることになる。「いずれ死を迎えるのだから、お金をかけるのは無駄」と「延命のための治療は止め、速やかな死を」という論理に「姥捨ての思想」だと批判が集中しているのだ。

、後期高齢者が増え、医療給付費が増えれば、「保険料値上げ」か「医療給付内容の劣悪化」(診療報酬の引き下げ)のいずれか、または両方が実施されることになります。保険料は2年ごとに改定されますが、後期高齢者の数が増えるのに応じて、自動的に保険料が引きあがる仕組みもつくられています。

、保険料を後期高齢者医療広域連合が決めていくため、各市町村は独自の保険料減免などの措置が困難になります。広域連合は、患者様や医療機関からの声が届きにくいだけでなく、国のいいなりの「保険料取り立て・給付抑制」の出先機関になりかねません。

小泉改革と医療費削減
2001年経済財政諮問会議が発足した。この中で小泉元首相は「骨太の方針」を発表し、構造改革を推し進めていく。その一環として社会保障費、福祉の削減を図っていった。この構造改革の発想そのものは新自由主義経済派の小さな政府論より発したものである。政府による公共サービスを民営化などにより削減し、市場にできることは市場にゆだねることとしている。

その結果福祉の分野では障害者自立支援法により障害者福祉の分野で自己負担が増え障害者の生活が逼迫した。 医療の分野では、医療制度改革のため患者の医療費負担が増大し、高額な医療は受けづらくなった。また、医療費抑制は医師の労働環境を悪化させ、地域の医療システムを疲弊させている。

2002年7月に第1回目の医療制度改革関連法が成立し、2006年5月に今回の後期高齢者医療制度を柱とする法案が強行採決された。

この法案の目的は、小泉改革路線の目玉である社会保障費の削減の達成であると同時に、経済諮問会議で大きな発言力を持っていった財界からの要請でもあったのだ。従来の老人医療制度は現役の会社員が加入する健保に過大な負担が強いられ、今後少子高齢化が進めば負担はさらに大きくなる。従って、財界としては何としてもこの制度を変えていきたかったのだ。この制度は政界・財界の一致した利害に基づくものだったのだ。

米国の要求で進む医療制度「改悪」
ある雑誌の記事で、思いつかなかった視点で今の医療制度の改悪を分析していた。それは米国の要求だというのである。1996年に日米医療保険協議で医療保険分野への外資の参入が認められた。その結果医療保険では米国系保険会社が最も大きい市場シェアを確保してきている。

国民の多くが「公的医療保険制度」に対し不安になればなるほど、医療保険を扱う保険会社にとって、絶好のビジネスチャンスとなるだろう。医療制度改悪は保険会社の陰謀ではないかと思われるほどだ。医療制度が改悪されると、突然保険会社のテレビコマーシャルが増加する。

その中でも外資系のアリコとアフラック、アメリカン・ホーム・ダイレクトのコマーシャルは桁外れに多い。また内容も、ニッセイと第一生命などのコマーシャルがイメージ的なものなのに対して、外資系のは具体的な商品説明を行っている。まさに今ここぞとばかりに宣伝合戦を繰り広げている感じだ。

「日本の国民皆保険制度を解体し、保険診療から混合診療へ、そして医療が保険会社に管理される自由診療に流れていくことを米国政府は画策しているのである。金持ちだけが高度な医療を受けられ、貧乏人は支払ったわずかの保険料に見合う貧弱な医療しか受けられないという米国の悪しき制度に向かって、日本の医療制度は突進しているのである。」(本山美彦・大阪産業大学教授)

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高尾山ハイキング

5月16日(金)
高尾山ハイキング
久しぶりで晴れた。気温もしのぎ易い。さわやかなそよ風が吹いている。家にじっとしているがもったいない陽気だった。思い立って高尾山に行ってみようと思った。土日は行列が出来るほど込んでいて人気のスポットだという。外国人観光客がかなり来るそうだ。

ミシュランの日本の観光案内に高尾山が載っていたせいなのだろうか。しばらく前、テレビのニュースで、高尾山のケーブルカーから撮ったUFOの写真が放映されていた。あるUFO研究家が「高尾山は東京進出の基地だ」などと言っていた。UFOの真偽は定かではないが、そういったこともあって今の高尾山を見てみたいと思った。高校時代に、高尾、景信、陣場と縦走したことがあった。その頃の記憶は全くないが、今どうなっているのだろうという思いはあった。

中央特快に乗って新宿から45分位で高尾に着く。そこから高尾山の登山口へ行けるのかと思っていたが、京王線に乗り換え高尾山口まで行かなければならない。それだったら最初から京王線で行けばよかったと思った。高尾山口行きは15分に1本位の本数だ。高尾山口駅から、5分ほど川沿いの道を歩いていくと広場に出て土産物屋が立ち並び賑やかな雰囲気だ。広場に入るところに薬王院の表示があり徒歩で行く人の登山口になっている。

広場の突き当たりがケーブルカーと、リフトの乗り場になっている。山の空気を楽しむためにリフトに乗った。新緑の緑がまぶしいほど輝きわたり、一面緑の絨毯を敷き詰めたようだ。風と太陽の光を受けてリフトは徐々に高みに向かって行く、背後を振り返ると徐々に周辺の山々が姿を表す。

リフトで山の中腹の海抜400メートル付近まで登ることができる。高尾山の登山コースは、山麓の清滝から登るコースを含めて6種類あり、それぞれ特徴を持っている。6コース設けられた自然研究路には、高尾山特有の動物・植物・昆虫・野鳥の解説板が取り付けてあり、自然の野外博物館となっているということだ。

表参道コース
リフトを降りてオーソドックスに行きは1号路( 表参道コース )高尾山の自然を味わうコースを行くことにした。薬王院に参拝するための表参道で、薬王院に至るまでの参道はすべて舗装されている。途中に蛸杉という巨大な杉がありこの杉は高さ37m、幹囲6m、樹齢450年というもので、名前の由来は「昔参道開さくの際、盤根がわだかまって、工事のじゃまになるところから、伐採しようとしたら、一夜にして根が後方に屈折した」という伝説と、その根が「たこの足」に似ているところから呼ばれるようになったものである。

道のほとんどは稜線上にあり、高尾山独特の植物分布を見ることができる。緩やかな舗装された道を登っていく。途中急な階段を登っていく男坂と緩やかな坂道を上がる女坂の分岐があった。登るのは苦手なので、緩やかな方を選んだ。5分位で2つの坂は合流する。そこから薬王院はすぐだ。山門がありそこには四天王の「持国天」「増長天」「広目天」「多聞天」の像が設置されている。

高尾山薬王院
yakuoin02.jpgそこから薬王院の本堂に向かう。案内には次のように書いてあった。「この寺は成田山新勝寺、川崎大師平間寺と共に、関東の三大本山の一角を占める名刹(めいさつ)となっております。寺伝によると、今を去る千二百五十有余年前、奈良時代、天平十六年(七四四)聖武天皇の勅願(ちょくがん)により、行基菩薩が自ら薬師如来の尊像を刻み、安置して東国鎮護の霊場として、高尾山を開基されたとあります。また、弘法大師(空海)の巡錫も伝えられ、弘法大師御作と伝えられる不動明王像や、御大師様が一夜を宿られたという岩穴・岩屋(いわや)大師が現存します。」

山頂で
薬王院から5号路の山頂ループコースに入る。舗装の道ばかりだったので、山道を少し歩こうと思った。15分位で、山頂に着く。リフトの駅から1時間位かかった。山頂は遠足の小学校の団体が来ていて、またかなりの観光客でごった返していた。平日だというのによく人が集まると感心する。若い人たちのグループもかなりいる。通常平日の観光地だと、おばさんのグループか、定年退職し時間が出来た年寄りの男性が多いのだが、ここはちょっと雰囲気が違う。

山頂からは八王子・立川の市街地・高層ビル群・横浜ランドマークタワーや東京タワーまで一望できる。さらに南南東には相模湾・江ノ島も望める。しかし「南に丹沢山塊、天候の良い日には富士山の姿もくっきりと見ることができ、空気の澄んだ冬の時季には、南アルプスを遠望することができます」と案内にはあったが、富士山も南アルプスも霞がかかっていて見えなかった。

下山・吊り橋コース
下山は体力的に問題ないので山道を行くことにした。 4号路( 吊り橋コース )「森と動物の路」を行くことにした。山頂の喧騒とは打って変わって静かな山道を下っていく。人ともめったに会わない。時々すれ違う位だ。表参道ではかなりの人数が歩いていたが、このコースは深山に来たような雰囲気を味わえる。

奥武蔵高原では山頂付近で舗装道路にであったり、登山道に平行して自動車道路があったりと興ざめな所があるが、高尾山のこのコースは新緑の風に吹かれるは音が聞こえるほど静けさに包まれていた。山頂から15分ほどで稜線に出ると、ベンチがありそこで一休み。この周囲は高尾山でも特にモミの木が多く、昼間でも暗く、茂った木の葉から微かに木漏れ日が差す程度だ。

かなり急な下りが続き、登りだったら大変だったろうなと思う。吊り橋を渡り、そこからは平坦な道で、10分位で1号路との合流地点に到着する。「霊気 満山」と書かれた額がかかった浄心門があり、ここで1、3、4号路の3コースに分かれる。ここからリフト乗り場までは10分位で行ける。山頂から40分ほぼ標準時間で歩けた。

登りはしんどいが、下りは何の問題もない。ケーブルカーの山頂駅の見晴台でしばらく休憩して岐路に着いた。下りのリフトは正面に山を見ながら下りていく。そして段々と森の中に吸い込まれるようにして停車駅に到着する。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

定期検診の日

5月14日(水)
定期検診の日
今日は病院での定期検診の日だ。病院へは時間がない時は田端からバスで行くが、時間があれば駒込とか西日暮里から歩いていく。JR西日暮里駅のホーム上に立って南西面を見ると、駅に沿うような高台がある。この高台は、大通り(道灌山通り)によって、分断されている。駅から道灌山通りに出るとすぐ歩道橋がある。その歩道橋を登ると公園があることは知っていたが一度も行った事がなかった。今日は早めに駅に着いたので寄ってみる事にした。西日暮里公園という平凡な名前だが、色々と歴史があり、公園案内には道灌山に関する由来が書かれていた。

道灌山の歴史
ukiyoe.jpg道灌山は、上野から飛鳥山へと続く台地上に位置し、安政三年(1856)の「根岸谷中日暮里豊島辺図」では、現在の西日暮里四丁目付近にその名が記されている。この公園を含む台地上にひろがる寺町あたりは、ひぐらしの里と呼ばれていた。
 
道灌山の地名の由来として、中世、新堀(日暮里)の土豪関道閑が屋敷を構えたとか、江戸城を築いた太田道灌が出城を造ったなどの伝承がある。ひぐらしの里は、江戸時代、人々が日の暮れるのも忘れて四季おりおりの景色を楽しんだところから「新堀」に「日暮里」の文字をあてたといわれている。(右は道灌山を描いた安藤広重の絵)

道灌山・ひぐらしの里は、江戸時代の中頃になると人々の憩いの場として親しまれるようになった。道灌山の東の崖ぎわは人々の行楽地で、筑波・日光の山々などを展望できたそうだ。また薬草が豊富で、多くの採集者が訪れた。

    桃さくら 鯛より酒の さかなには
         みどころ多き 日ぐらしの里
                    十返舎一九


そして、昭和四十八年、この地が整備され西日暮里公園として開園した。園内は、高くて大きな木がたくさんあり、人気もなく西日暮里駅に隣接しているとは思えないほどの静けさに包まれていた。歴史探索は置いておいても、のんびりした気分を味わうには絶好の場所だ。

定期検診の結果
今日の血液検査の結果IgMは1192であった。前回1122であったので微増という所だが、効いている事は確かなのでこのままサリドマイド100mgの服用を続けることにした。白血球は3.1、血小板は14.8、ヘモグロビンは10.9だった。数値的には問題はない。

5月28日でサリドマイドを開始してから丁度2ケ月たち、また輸入代行業者に発注しなければならない。2ケ月分の8万円と輸入代行業者への手数料2万6000円がかかる。今の所、日に100mgだからまだしも、これが200mg、300mgとなると経済的負担は大変なものになる。早急な保険適用が望まれる。

サリドマイドを巡る動き
サリドマイドは2005年1月、製薬会社1社が優先審査を受けられる「希少疾病用医薬品(オーファンドラッグ)」の指定を厚生労働省に申請し、厚労省薬事・食品衛生審議会において指定が決定された。そして2006年8月8日藤本製薬から製造承認申請が厚生労働省に出された。この適応は再発性多発性骨髄腫になっている。

日本骨髄腫患者の会では骨髄腫に有効な薬が一日も早く日本で承認され、骨髄腫治癒に少しでも早くたどりつくように、患者やその家族が心穏やかに治療に専念できるよう願い、陳情活動を行っている。など幾つかの動きはあるがなかなか承認にまで行き着かない。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

映画 『最高の人生の見つけ方』

5月13日(火)
久しぶりの映画館
映画はDVDやテレビでの放映では良く見るが映画館で見ることは長い間なかった。映画館では10年位前に『グリーン・マイル』を見たのが最後で、それ以降映画館に行っていない。退院後は人混みを避けるようにという指示だったのでなおさらだし、それ以前は仕事が忙しく映画館で映画を見ている暇はなかった。

最高の_convert_20100507193829『最高の人生の見つけ方』という映画のコマーシャルで、ガンで余命半年を宣告された初老の2人の残りの人生の生き方を問うものとして紹介されていたので、自分にふりかえって生き方の参考になるかもしれないと思い、10年ぶりに映画館に足を運んだ。空いている時間をということで、午前中の最初の回に行った。かなり空いていた。観客は30~40人しかいなく席はがらがらだった。興行成績はそれでも『相棒』が1位で、2位がこの映画となっている。混んでいる時間もあるのだろう。

あらすじ:
自動車整備工のカーター(モーガン・フリーマン)と実業家で大金持ちのエドワード(ジャック・ニコルソン)が入院先の病院で相部屋となる。方や見舞いに訪れる家族に囲まれ、方ややって来るのは秘書だけという2人には何の共通点もなかった。ところが、共に余命半年の末期ガンであることが判明し、カーターが死ぬ前にやっておきたいことをメモした“棺桶リスト”を見つけたエドワードはリストの実行を持ちかける。2人は周囲の反対を押し切って冒険の旅に出るのだった。

余命宣告されたらどうするのか
人は余命を宣告されたらどうするのか。残りの時間をどのように生きるのか、何を求めるのか。この映画はそれを模索していく物語だ。今までやりたかったことをやり切るのか。しかし何を本当にやりたいのか。そしてそれは自分では気がついていないこともある。カーターは家族子供のため46年間自動車整備工として働き続けた。

本当は歴史学者になりたかったが経済的理由で働かざるを得なかった。彼はやりたいことを封印して働き続けた。エドワードは大金持ちだが信頼できる友人も家族もいない。この二人が”棺桶リスト“(棺桶に入る前にやりたいこと、見たいもの、体験したいこと全てを書き出したリスト)を作りそれを一つ一つ実行していく。金は幾らでもあるエドワードが出す。

タージマハル、ピラミッド、ヒマラヤ、アフリカのサバンナ、香港を周り、レーシングカーでの対決やスカイダイビングにも挑戦し、人生の最後に様々な挑戦を試みる。富豪エドワードの資金力で次々に“棺桶リスト”をクリアしつつ、かけがえのない友情を築いてゆく。そして、それぞれが心から求めていたものを見出し、それが一番大切なことを再確認するのだ。金銭によって得られるものが本当の幸福ではない、人生の最後にしたいことはもっと身近な所にあるということに気がつくのだ。

最高の人生とは
金を使った世界豪遊の最中、カーターが突然家に帰りたいと言う。エドワードが女性をカーターにあてがおうとした事から、カーターは妻の存在の大きさに気がつくのだ。彼は家に戻り、家族みんな集まっての食卓。何よりも幸せな時間が過ぎていく。昔確かに愛していたはずの妻、失われたと思われていた愛が再びよみがえる。

エドワードが、喧嘩別れした娘と絶交していることに対して、カーターは彼を娘の所にだまして連れて行くが、エドワードは怒って遭おうとはしない。しかし、大きな家に帰り、インスタント食品を食べなければならない虚しさ、何人かの若い女友達といても少しも心は晴れない。そして思い切って娘に会いに行く。娘は暖かく迎える。そして孫を抱きしめる。“棺桶リスト”の「この世で一番の美人とのキス」が実現したのだ。結局は幸せ=家族だということなのだろうか。

「最高の人生」それは金を使ってやりたいことを全部やるということではない。人と人との出会なのではないか。余命が短いカーターとエドワードの出会いはもちろん、死を目前にして自分の絆を確認できる人々に会えたことの幸せさを再発見出来たということなのだろう。最も身近にその幸せは存在したのだ。

俳優と監督
この映画で特に感じたのはジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマンの演技の素晴らしさだ。ジャック・ニコルソンは『カッコーの巣の上に』を見たときから気に入っていたし、最近のマフィアのボス役で出演した『ディパーテッド』ではどう見ても悪役一筋の俳優にしか見えなかった。ともかくその演技力は素晴らしい。

この映画では、最初は傲慢な富豪の顔をしていたが、徐々に、顔が変わっていくというのも凄い。モーガン・フリーマンは『ショーシャンクの空』を見て感動したが今回もジャック・ニコルスンとの掛け合いが非常に鮮やかでその会話を聞いているだけで楽しませてくれる。

この映画の監督が『スタンド・バイ・ミー』『恋人たちの予感』のロブ・ライナーだということを映画を見て始めて知った。余命半年の初老の二人の物語という神妙な状況と、どのように残りの人生を生きるかという難しい課題を、深刻にならず冒険譚を交えながら、コミカルにそつなくまとめ上げ、人生を楽しく生きるのには決して遅すぎるということなどないということを鮮やかに表現している。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

院内患者家族交流会

5月9日(金)
患者・家族交流会
病院に着いたのが丁度待ち合わせ時間の13時50分だった。14時になって、カンファレンスルームに行く。前回参加していた、患者の母親も参加してくれた。看護師学校の実習生が仕事の都合でどの程度加われるか分からないが3人参加したいといってきた。結局一人だけしか参加できなかったが。遅れてきた元患者の男性2人とS氏、看護師の実習生、患者の母親と私と部分的に参加した心理療法士の人とで7人の参加だった。

患者の母親
患者の母親の話から始まった。彼女は広島に住んでいるが、月の半分位、東京でマンションを借りて暮らし息子の見舞いのため毎日病院に通っている。前回話した時、息子にばかり目を向けていないで自分の生き方を考えるべきだといわれたことから、徐々に東京での自分の生活の場を見出してきたという。昨日は友達と歌舞伎を見に行って来たと言う。

病院では部屋の雰囲気にもよるが、なかなか患者同士が親しく会話をしたりすることがない。病状で辛い時は話などしたくはないし、大部屋で誰か話し好きな人がいて盛り立てていかないと皆で話をするというふうにはならない。まして患者家族同士が話をすることなどめったにない。こういった状態だから、患者家族交流会で言いたいことを言えるのはストレス解消になるということなのだろう。

看護学校の実習生
看護学校の実習生からの話では、学校からは関連病院に定期的に生徒を実習生として送り込んでいるそうだ。2月と7月には80人この病院に派遣している。しかし卒業後必ずしもこの病院に来るとは限らず、他の病院に行ったり、出身地に帰ってそこの病院に勤めたりするという。実習期間は2週間位だそうだ。看護学校を卒業し国家試験を受けて初めて看護師になれる。それまでは採血とか天敵とか医療行為に関して関わることは出来ない。

退院後の生活
退院後の生活の問題が、主題となった。生活をどうやって維持していくのか。体調と就業の兼ね合いをどうするのか。元の仕事に戻れるのか。新たに仕事につく場合はどのように仕事を始めるのか。これは退院後の患者にとってどれにでも突き当たる死活問題だろう。退院後どのくらいの時期にどのように仕事に就いたかの実体験は何よりも退院後の患者にとって参考になるだろう。

就職活動をどう進めるのか
これからもとの職場に戻ろうとしている元患者からの現状報告と、皆退院後どうしてきたかを聞きたいと言われた。元の職場ではリハビリ勤務の間は非常勤として日給制とすると言われたのでどうするのか。傷病手当金が切れる8月から完全勤務で戻るべきか考えているということだった。今は骨髄バンクでボランティア活動をして体を慣らしているという。

8月からの全日勤務が可能なのだろうか、傷病手当金を貰いながら、リハビリ勤務が可能なのか。職場復帰しようとしている今問題が起きている。原因不明の肝臓疾患があり、原因究明のため検査入院しなければならないかもしれない。また放射線治療をしたため日光に当ることができない。今でも外に出る時は日傘をしているなど退院後の色々な問題点の指摘があった。

職業訓練校の活用
S氏は自分の就職経過について話した。傷病手当金が切れた後、失業手当を貰いそれが切れる間際に職業訓練校に通うことにしたという。2年間のコースがあって卒業するまで失業手当は支給される。受講料は無料で、受講手当と交通費が支給される。学校に通うことで体調を整えていき、いわばリハビリ勤務としての意味もあり、それを続けた。職業訓練校で学んだ知識で今の職場に入社したという。

退院後の感染症
別の元患者は、最初はパソコン関係のアルバイトをしていたが、ストレスからか、帯状疱疹になったり、サイトメガロウイルスが増えてきたりと色々な感染症にかかりその度に入院したりしていた。そのアルバイトをやめて公務員試験を受けるための勉強を2年間やったが、結局今はゴルフ場勤務で結構重いゴルフバックを持って動き回るといった仕事をこなしているそうだ。

体力回復の難しさ
私はまだ治療継続中なので就職活動について参考意見は言えなかったが、まだ体力的には通常の仕事は出来ないと思う。抗がん剤の副作用は半端ではなく、1年位では体調は元に戻らない。私も昔は登山をして標準走行時間の半分位で走破するぐらいの体力があった。今はハイキングでちょっとした登りでも息が切れてしまい辛いと感じる。全く昔の体力には戻っていない。まだテニスとかで走ったりすることは無理だろう。まだ抗がん剤を飲み続けているから体力が回復しないのか、移殖の時の抗がん剤の影響が続いているのか分からないが体力の減退は事実である。

血液がん患者の抱える諸問題
血液がん患者が抗がん剤治療・化学療法や移殖を受けて、その後に社会復帰をしていくのにはかなりの年月が必要だ。移殖をした人は、大量抗がん剤の影響で、体力の消耗や免疫機能の衰えによっての感染の恐れや、薬による副作用、ステロイドによる、高血糖、中性脂肪の増加、骨粗しょう症の恐れなどがある。

また他人からの移殖によるGVHDによる様々な症状、それを抑えるための免疫抑制剤による感染の恐れなど、限りないリスクが次々と襲ってくる。退院後、3年4年たって大丈夫だろうと思っていても再発の可能性が皆無と言うわけではないので、その恐れをいつも抱えていることになる。

交流会の課題

今回の交流会は退院後の問題、薬の副作用、感染症、就職の活動と元患者の共通の課題が中心に話された。この課題を討論していくには多くの経験の共有が必要である。その実体験こそが元患者にとってこれからどう生きていくかの、最も重要な教材なのだ。多くの就職体験者がいればそれだけもっと参考になる意見が出てくるはずである。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

根津神社

5月9日(金)
14時から病院で患者家族交流会が行われる事になっていた。少し早めに出て根津神社のつつじでも見に行こうと思った。そこからだと病院に歩いても20分位で着く。千代田線の根津駅で下りて、表参道から入る。つつじは遅咲きのものが咲いていたが、つつじ祭りは終わりつつじ苑には入れなかった。

3、4年前に行ったことがあるがその時には、つつじの最盛期でつつじ苑の通路は行列が出来るほどの人が出て、屋台がいたるところに立ち並んでいた。かなりごった返して庭や神社の風情を味わうといった雰囲気ではなかった。今回つつじ祭りも終わり、屋台も一台もなく、平日の午前中ということもあって、神社に参拝する人、散歩で境内に来た人がいる位で、神社の持つ本来の雰囲気を保っていった。

hai.jpg表参道の大鳥居がありそこをくぐって、神橋を渡る。神橋を渡った辺りから、つつじ苑の全景が見える。そこから楼門を経て、さらに唐門を通り、社殿に行き着く。「この社殿は拝殿(左写真)の奥に幣殿・本殿と一宇に続く、総漆塗りの華麗な権現造建築(日光東照宮を代表格として関東地方に多く見られるもので社殿を、拝殿、幣殿、本殿の順に、エの字型に一体的に配置した様式)で江戸の神社建築としては最大の規模を誇る」と表示されてあった。

社殿の横の社務所に豪華な神輿が飾られている。徳川家宣は将軍になると、根津神社の保護の一環として、正徳4年には江戸全町より山車を出させ、天下祭と称される壮大な祭を催し、その祭は、現代においても権現祭として受け継がれている。その祭りに使われたものだという。

神社の案内には次のようにある。「宝永二年五大将軍綱吉は兄綱重の子綱豊(六代家宣)を養嗣子に定めると、氏神根津神社にその屋敷地を献納、世に天下普請と言われる大造営を行なった。翌年(1706)完成した権現造りの本殿・幣殿・拝殿・唐門・透塀・楼門の全てが欠けずに現存し、国の重要文化財に指定されている。」

唐門を出て、裏門に向かう道の片側は透かし塀になっていって、趣のある雰囲気を出している。反対側は堀になっていて鯉が泳いでいる。そこから何本もの鳥居をくぐりながら登って行くと乙女稲荷があり、その隣に駒込稲荷がある。

また家宣公産湯井 家宣公胞衣塚 文豪の石 鴎外の石、塞の大神碑、親子榎、庚申塚などがあり根津神社には見るものに事欠かない。さらに境内に植えられている巨大な古木にも目を奪われる。街中を歩いていて巨木があるのは戦災を免れた旧家か、寺院、神社なので、寺院などを探す時には高い木を探せば辿り付けると言う訳だ。そこから千駄木に出て団子坂を登り、住宅街を10分ばかりいくと病院の前の道に出る。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

C.C.R 『雨を見たかい』

5月8日(木)
FOXで放映されている『コールド・ケース』というテレビドラマのコマーシャル・フィルムのバック音楽にC.C.Rの『雨を見たかい』という曲が使われていた。昔よく聞いた懐かしい曲だった。その曲を聴こうとネットで探している時、この歌詞の訳と解説を読んだ。今までこの曲の歌詞の意味について全く気にしたこともなかった。今になって初めて雨の意味が分かった。何と無自覚だったのだろうと思う。

imgde3c443eu7odxc.jpg 『雨を見たかい』(Have You Ever Seen The Rain)はC.C.R(クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル)の曲で、1971年1月、全米8位を記録するヒットとなったが、ベトナム戦争への批判があるとされ、アメリカでは放送禁止処分となった。

 I want to know.
 Have you ever seen the rain?
 Comig down on a sunny day.


「僕は知りたい。キミは雨を見たかい?あの晴れた日に降るヤツさ」という歌詞中の晴れた日の雨とは、「ベトナム戦争で使用されたナパーム弾の、油の雨」。もしくは、「火の帯のようになり一斉に降り注ぐ火の雨」の情景を歌ったもので、ベトナム戦争の最中、彼らC.C.Rは爆弾の雨を「Rain」と表現し反戦の意味も込めてこの歌を作ったと言われている。ナパーム弾は焼夷弾の強力な物で、可燃性の化学剤をまき散らしながら直径1,5キロを800度にする威力があり、この炎の雨を見た者は生き残ることは出来ない、という無差別殺人兵器なのだ。

 ベトナム戦争でアメリカ軍は北爆を行い、枯葉剤を撒き森林を破壊し、ナパーム弾で人々を焼き殺し、ベトナムの国土を破壊し尽くした。まさに雨のように爆弾を撒き散らしたのだ。枯葉剤の後遺症で多くの人がいまだ苦しんでいる。

その論理は何なのだったろう。ドミノ理論という冷戦期アメリカの外交政策決定に関る人々の間では支配的な考え方によるものである。アメリカによるベトナム戦争への介入に際してこの理論が用いられた。しかし実際に1975年の南ベトナムの共産化の後に新たに共産化した東南アジアの国はないため、東南アジアにおけるドミノ理論は西側陣営にとって全くの杞憂でしかなかった。

というより、ある国が自分たちの政治をどうしようと、それを決めるのはその国の国民であり、アメリカがとにかく言う筋合いではないし、武力介入をする権利などどこにもない。さらに現在の冷戦構造の崩壊の中で共産主義化を阻止するなどといった大儀で行われたベトナム戦争は、全く意味をもたなかったことも明らかである。

実際には表向きの大儀とは別に、戦争というものには必ず軍需産業の利権と、軍隊の存在意義の確認という二つの利害が絡み合って存在し、議員の多くが軍需産業からの援助で議員になっている現状の中で、戦争は行われる。武器は使用しなければ減ることはない。減らなければ作る必要はない。武器を作る必要がなければ軍需産業は不要となる。

戦争によって軍需産業が活性化すると景気は上向く。戦争で何兆円の金を使ってもアメリカが破産しない根拠はここにある。何故アメリカは定期的に戦争を行うのか。立てる大儀はその度に違うが、理由は軍需産業の利害である。

 ベトナム戦争を終結しようとしていたケネディが暗殺され、次期大統領ジョンソンがベトナム戦争により一層力を入れていったことを見ると、ケネディ暗殺が軍隊関係者による陰謀だという説もうなずけるものがある。

有力な一説である「軍産複合体の意を受けた政府主犯説」によると、ケネディの急進的なベトナム戦争撤退計画が、軍産複合体の戦争需要の激減を恐れ、利益を損ねると考えた政府の中の一部勢力が大統領の警備を弱体化して犯行に及んだとしている。

どんな戦争にも大儀などは元々存在しない。イラク戦争にしても、石油利権が大きく絡んでいる。政治家や軍需産業の利益のためにいつでも犠牲になるのは、戦争に借り出される兵士であり、戦争に巻き込まれていく人々なのだ。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

南房総白浜観光・2日目

5月7日(水)
潮風天国
ホテルで近所に海産物を扱っている所はないかと聞いたら、「道の駅・千倉潮風天国」という所を教えてくれた。そこは海に面していて、船が一艘停まっていて子供たちがその船で遊んでいた。芝生の広場があって、テーブルと椅子が備えられている。海産物は豊富で、中央に生けすがあり魚が泳いでいる。あわびやサザエ、蛤などが取れたてといった感じで並んでいる。そこで新鮮な海産物をお土産に仕入れた。

シェイクスピア・カントリー・パーク
最初に向かったのは、ローズマリーガーデンで教会風のホールを中心に左右対称の幾何学的な模様を描き、ノット式と呼ばれるヨーロッパの手法を取り入れた珍しいタイプの公園だと紹介されている。イギリスの風が香る公園で、シェイクスピア・カントリー・パーク、ローズマリー・ガーデン、リバーサイドプラザの3つの公園によって作られている。文豪シェイクスピアの時代と作品にふれながら、ハーブの香りと四季折々の草花を楽しみ、異国へ旅気分を味わえる公園だ。
 
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駐車場には土産物屋と食堂があり、そこを経て道路を渡るとシェークスピア・カントリー・パークに入れる。幾つか並ぶ建物は、シェークスピアの時代のイギリスの建物そのものだ。中庭の芝生の所に昔罪人を衆人の前にさらし者するために、首と手を挟み動けないようにする道具が展示されていた。大きな風車や、昔の集荷場の建物などが建てられている。

ローズマリー・ガーデン
この庭に隣接してローズマリー・ガーデンがある。案内にローズマリーについて書いてあった「ローズマリーは地中海沿岸に自生している常緑低木のハーブです。ラテン語のロス<雫>マリヌス<海>が語源で「海の雫」と言われています。南房総市丸山地区は、ローズマリーの故郷とも言える地中海のクレタ島やキプロス島と同じ北緯35度に位置しており、海がすぐそばにあることからも栽培に適しています」

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庭に入るとハーブの香りがあたり一面に漂っている。ローズマリーを中心としてキンセンカやパンジーの花をあしらい色鮮やかな庭になっている。庭を見渡せる所に塔のような建物が建っている。その最上階が見晴らし台になっていて庭の全貌が見渡せる。喫茶店があってそこではローズマリーティーを飲む事が出来る。そこから海沿いの道を離れて内陸部に入っていき、410号線を鴨川の中心部に進んでいく。鴨川と保田を結ぶ長狭街道を左折して大山千枚田に向かう。

大山千枚田
大山千枚田は、「東京から一番近い千枚田」で、地元農家が代々守ってきた昔ながらの棚田の風景を見学できる。「日本の棚田百選」にも選ばれている。棚田の美しく扇型に広がった田んぼの景観が素晴らしい。3.2ヘクタールの千枚田には、375枚の田んぼがあるという。

多くの人たちが田植えに来ている。地元の農家の人でなく、都会の人たちで一種の農業体験として田植えをおこなっているのだろう。棚田は、祖先から受け継いだ貴重な稲作文化であるが、棚田における農作業は、地形上機械による省力化に限界があり、加えて農業環境等の変化もあり、休耕地や荒廃地が増えつづけている。この状況をいくばくとも改善し、一般の人たちに農業に対する理解を深めてもらおうと鴨川市が「大山千枚田(棚田)オーナー制度」を企画した。こういったことで一般市民の田植えへの参加が行われている。

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帰路で
途中陶芸店に寄って、ビールのジョッキを買った。これで飲むと泡立ちが良く発泡酒でもビールよりうまく感じると言われてつい買ってしまった。ここから一路帰宅の途につく。410号線に戻り、山間部の道を進む。道の左右の森林は新緑で覆われ、海沿いの道と同時に山道を堪能することが出来た。千葉は両方の良さがある。

道の周囲には、豊栄ダム、三島ダムがありダム湖の脇を通っていく。またロマンの森、蛍の里、フルーツ村、清和県民の森などの設備があり地域一体がリクレーションのための施設となっているようだ。山や谷、木々や花々全てが保養施設にふさわしい様相を呈している。ドライブには絶好の道だ。

そこから33号線に出る。33号線に入る角に産直の野菜売り場があった。木更津市街からも買いに来ているのだろう結構込んでいた。値段も東京のスーパーと比べてかなり安い。ここで産直新鮮野菜を買って、海で海産物、内陸で野菜を買うという一通りの役目を果たした。33号線に入ってしばらくいくと道の両側が並木道になっていて、つつじのプランターが置かれ満開のつつじが目を楽しませてくれる。むしろこちらの道の方がフラワーラインといってもいい位だ。このつつじのプランターが5~6kmも続いていた。木更津北ICから館山自動車道に入り、京葉道路を経て家に戻った。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

南房総白浜観光・1日目

5月6日(火)
旅行に出掛ける
連休をはずして房総方面に一泊で旅行に出掛けた。少し遠回りになるが、一度行って見たいと思っていたアクアライン経由で行くことにした。箱崎から湾岸自動車道に出て、羽田空港を経て、多摩川トンネルをくぐって地上に出るとすぐに木更津方面・アクアラインの表示が出ている。道路をぐるぐると2,3度回りトンネルに入る。10分位でトンネルを出ると海ほたるパーキングに着く。そこで休憩を取る。

アクアライン・海ほたる
海ほたるには一度行ってみたかった。ここの展示場に定期的に前勤めていた会社が什器を納品していたからどんなところか見てみたかった。海ほたるは豪華客船をイメージした海上休憩施設で、五階のデッキからは東京湾が一望でき、レストランやゲームセンター、土産物店などが並んでいる。

360度海に囲まれ、東京湾の景色が一望できるはずなのだがもやっていて、周辺の東京湾を囲む半島の様子は分からなかったが、かえって周りが見えない分、海に浮かぶ離島のような感じでそれはそれでよかった。3階にあったスターバックでコーヒーを飲んで出発した。千葉県各地の観光協会が、観光名所を紹介するパンフレットを配っていた。観光地図の詳しいのもあり、旅行には役に立った。

アクアラインは海ほたるから木更津方面は橋になる。海の中を4.4kmにわたって真っ直ぐに伸びている。木更津から館山自動車道に合流する。今は京葉道路から館山自動車道が繋がり千葉より先の交通が非常に便利になった。昔は富津のスーパーまで什器を届けに行くのに1日仕事だったことを思い出した。

城山公園・里見八犬伝
sat_siro.jpg館山自動車道は富浦まで行きそこから館山市内に向かう。市内から少し行った所に城山公園がある。この公園は館山市内の南丘陵に位置し、かつての里見氏の城跡にある公園で、山頂には天守閣を模した博物館分館がある。ここには里見八犬伝に関する文献が展示されており、天守からは鏡ヶ浦を中心とした市街地が一望できる。また日本庭園・茶室・万葉の径・孔雀園などがある。

南房総は、戦国時代以降、代々、戦国大名の里見氏が治めてきた。江戸時代に入っても外様大名として勢力を維持し続け、幕府によって山陰地方に移されるまで10代170年間を房総の主として君臨していた。その里見氏を題材にして書かれたベストセラーが、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』だ。全106冊、28年かけた大作で、絵双紙や歌舞伎、錦絵版画などでもさかんに取り上げられたという。

城山公園の入口に駐車場があり、そこからかなり急勾配の坂と階段を上っていく。最初に孔雀園があり、高い金網に囲まれているが出入り自由で20~30匹くらいの孔雀が金網の中で飼われている。万葉の径には植えられている植物に関連する万葉集からの歌が書かれた札が差し込まれている。そこから下っていくと梅園がある。梅の時期にはかなりの観光客が集まるのだろう。

さらに行くと細い急な下り坂になり、そこには山陰に送られそこで死んだ城主の後を追って切腹した八人の忠義の士を慰霊する碑が立っていた。八犬伝の8人はここから来たのではないか。また、犬は里見家の守護獣とされていて、里見家にまつわる伝説にも犬が深く関わっているといわれている。

そこからもと来た道を戻り日本庭園の中を通り、坂を上がると城の真下に出る。そこは見晴台になっていて館山市外が一望できる。城の中に入るとそこは『南総里見八犬伝』に関連する資料が、江戸時代の古いものから、最近の映画のビデオまで様々な資料を集め展示してあった。

4階の天守閣が展望場所になっていて人が一人位通れるほどの通路が城の周りを囲み360度の眺望を楽しむことが出来る。城の脇がつつじ園になっている。ツツジが約1万本植えられているそうで、つつじ園を中心に公園のいたるところに花を咲かせていた。

房総フラワーライン
城山公園から目的地の白浜まで海沿いの道を行くことにした。洲崎経由で房総フラワーラインを進んでいく。フラワーラインというからにはさぞ花が咲いているのだろうとおもっていたが、所々につつじがあるだけで特に花は咲いていなかった。洲崎から白浜に向かう道は「日本の道路100選」に選ばれているということだ。

平砂浦海岸沿いは一直線の道がずっと続いている。磯の多い安房地方には珍しく約5㎞の砂浜が弓なりになっていることから、道も直線道路となっている。冬季の強い南西の風を防ぐためのクロマツ林が広がり、砂防用の松林と砂浜が美しいことから「白砂青松 100選」に選ばれている海岸だ。

白浜フラワーパーク
白浜フラワーパークに寄ってみた。一面ポピーの花園で所々にキンセンカがオレンジ色の花を咲かせている。花摘みも出来るということだ。温室には赤、しろ、黄色、白に赤のまだらの4種類のキンギョソウが所狭しと植えられ全て花を開いていた。花畑の端にある大きなドーム状の温室は熱帯植物園だった。海沿いにあり、海と花畑の取り合わせは色彩的にも雰囲気的になかなかいい。そこから15分位で白浜の野島崎に着く。

野島崎公園
nojima01.jpg野島崎公園の入口周辺には車が50~60台停まれる駐車場がある。こんなに車が来ることがあるのかなと思うが、恐らく初日の出の時にはかなりの人が来るのだろう。野島崎は房総半島の最南端で朝日と夕日が両方見られるという。

野島埼灯台を中心とした公園があり格好の散策コースとなっている。海沿いの石畳の遊歩道を歩きながら、潮風に吹かれ、岬の公園をひとまわりすると15分位かかる。野島埼灯台は、千葉県房総半島の最南端の岬に立つ、白亜の八角形の大型灯台で、「日本の灯台50選」にも選ばれた。周辺は、南房総国定公園に指定されていて、雄大な海に突き出た岬の回りは180度の太平洋のパノラマが展開している。

公園の再南端には白浜町出身の彫刻家、太田雅典氏による巨大アート<房総半島最南端の碑>がある。素材となった黒御影石の重さは28トンという大きなものだ。また一段高くなった岩の上にベンチがあり、そこから朝日や夕日を見ることが出来るようになっている。

宿泊場所へ
宿泊場所はそこから歩いても5分位の所にあった。海に面して立てられ、全室がオーシャン・ビューで、花と海のホテルと書かれていた。部屋は2階だったが海はよく見えるし、中庭は芝生になっていて周辺にはパンジーやキンセンカ、キンギョソウなどが植えられ華やかな雰囲気を作り出している。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

アクアラインと道路特定財源

5月5日(月)
umihotaru1.gif 道路暫定税率の特集のニュースで道路建設のからくりについて放映していた。道路建設のために予想交通量を算出しそれによって建設をするか否かを決めていくのだが、専門家が算定し、国交省に持っていくと、必ず水増ししろと言われる。この数字では道路建設許可が下りないと。そこでやむを得ず、水増しすると実際の算定を行った業者が告白していた。

 アクアラインに関しても、現在の交通量は予想交通量を大幅に下回っている。その結果採算性に重大な問題が生じているが、これはもともとの想定交通量の見通しがあまりにも甘かったというか、水増しがあったからなのだ。開通から20年後には上下合わせて一日64,000台、すなわち片側1車線上を2.7秒に1台の車が通過するという、実際にはありえない通行量が想定されていたのである。

アクアラインは総事業費1兆4823億円を投じた海底トンネルと橋で構成する全長15キロの自動車専用の有料道路である。観光名所として海ほたる(右上写真)に行く人は多いかもしれないが、仕事などで使う人はあまりいないだろう。普通車4000円、大型車6600円、軽自動車は3200円という金額ではそれでなくとも経営が厳しい運送会社などが利用できるはずが無い。

また国交省が示した将来図として木更津のアクアライン出口の開発が進み高層ビルが立ち並ぶ様子を描写したパンフレットが配られたりもした。しかし実際には、現在木更津出口には空き地が広がっていてビルなどは一つも立っていない。「これまでの“船の道”に代わって、房総半島と神奈川県臨海部を結ぶ大動脈となる」予測を立てた。

また千葉県は「アクアラインの開通を契機として、新たな千葉県は房総半島の豊かな自然をはじめとする多角的な魅力、産業ポテンシャル等について、首都圏全体へ、日本全国へ、情報の発信に努めていきます。」 と期待を膨らませていた。確かに道は繋がったが、千葉と神奈川の相互の発展に何処まで寄与したか全く疑問である。

 瀬戸大橋の場合もそうだが、橋や道路を作る時、国交省は地元産業の活性化を宣伝するが、水増しした交通量を基に作られた道路や橋では、予測は外れるのは当たり前である。瀬戸大橋は当初から採算が合うか疑問視されていた巨大構築物である。どうして採算が合わないか考えると通行料金を建築費から逆算したからだ。

シミュレーションした通行量でわり算した金額が通行料金になった。水増した予測交通量からはじき出だされた通行料金では採算が取れるはずが無い。しかしこれ以上通行料を上げるわけにはいかない。採算が取れないということは、正確な予測交通量から判断すれば分かりきったことだったのである。

瀬戸大橋の総事業費はおよそ1兆1338億円かかっている。その借金返済に道路特定財源が使われている。旧本州四国連絡高速道路公団(現本州四国連絡高速道路)が抱えていた借金の返済に3000億円充てた。旧本四公団が自力で借金返済が可能になる金額相当分として2003年から2006年にかけての4年間で1兆5000億円を投入している。

瀬戸大橋開通10年後も、高松と宇野間には、カーフェリー3社が開通前と同じ間隔で運航している。宇高国道フェリーと四国フェリーはそれぞれ30分に1本、本四フェリーは45分に1本だ。いってみれば10分ごとにフェリーが運航されている勘定だ。どうして生き残っているのか、理由は簡単である。乗用車の運賃が4000円強と瀬戸大橋の通行料の3分の2と格安だからだ。

 このように道路特定財源は使い切ることを目的に消費されている。道路族議員と国交省の官僚の保身のために無駄な道路が作られている。必要な道路はあるし、不採算となったとしても作らなければならない道路もあるだろう。しかし、情報操作し誤った情報で国民の目を欺き道路を作り続けていては、幾ら金があっても足らないだろう。後期高齢者医療制度などの福祉の切捨ての裏で湯水のごとく金が使われていることこそが問題なのだ。

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シュルレアリスムと写真-マン・レイ

5月4日(日)
「シュルレアリスム写真展」
ジャコメッリの写真展を見に東京都写真美術館に行った時、3階で「シュルレアリスム写真展-痙攣する美」をやっていたので、その展示会にも寄ってみた。最初の方に展示されている写真は、ほとんどがパリの建物の写真で、それ自体は写真の歴史を見ているようだ。写真芸術が具象から抽象へと至る過程を展示しているのだろう。

パリの建物の写真はアンドレ・ブルトンの『ナジャ』の中に何枚か挿入されていて、物語の雰囲気を高めるのに役に立っていた。セピア調の写真が1920年代のパリの町並み建物を映し出していて、当時の町並を知ることが出来、そのことがブルトンとナジャとの出会いや、二人で出掛けた場所、そこでの会話などの背景を見ながら物語のリアリティを深めるのに非常に役立っていると思った。しかし、これらの写真は具象をそのまま写した風景写真で角度や光線の具合などの工夫はあるだろうが、あくまで事物を忠実に再現しようとしたものである。

マン・レイについて
こういった写実的な写真表現に対して、新たな試みをはじめたのがマン・レイではないだろうか。彼はアメリカでダダイズムの運動に参加し、最初は商業アーティストの仕事を行ないながら絵画制作を行っていた。写真に対しても光と手でイメージを作るという画家的なアプローチをもって、暗室での試行錯誤から、印画紙に直接オブジェを置いて光を当てるレイヨグラフや、写真の白黒を作為的に反転させるソラリゼーションなどの写真技術の開発し、写真表現の新しい可能性を切り開いた。

時代の一瞬を切り取り、永遠に固定するのが、写真の力の一つとするならば、マン・レイの写真は一九二〇年代、あの頃のモンパルナスの空気を繋ぎとめたものだった。マン・レイは、カメラを「人間の手が追いつくのを待っている」道具と呼び。「何を撮るべきかではなく、如何に撮るべきか」ばかりに拘っている写真家を痛烈に批判した。

そして、写真の未来についてこう語った「ワインも新しいうちは酸っぱいが、年を経るうちにまろやかな味になっていく。それと同じように、写真も初めは単なる技術に過ぎないが、やがては本物の芸術になるのだろう」

また「歴史に戸を閉ざすことはできない。歴史は戸を蹴破っても侵入してくるからだ。時流に乗らなければならない。いや、それ以上に歴史を先取りしなければならない。ゆっくり歩いてはいけない。走って歴史を迎えに行け」と晩年に語っている。

マン・レイと恋人キキ
20040924_manrayviolin.jpgマン・レイの写真芸術にとって欠かすことの出来ない女性がいる。もしマン・レイが、被写体としての、そして恋人としてのキキと出会っていなかったら彼の写真の私たちを魅了する力の半分が失われていたかもしれない。キキとの出会いのエピソードが『パリノルール』ブログに書かれていたので引用してみる。

「キキは後に“モンパルナスの女王”と呼ばれるようになるが、彼と出会った当時は歌手とモデル(画家のモデル)を兼業していた。1924年のことである。二人が知り合ったのはモンパルナスのとあるカフェで、キキが帽子をかぶっていなかったために娼婦と間違えられて、店から追い出されそうになったのを、マン・レイが助けたのがきっかけであった。

彼女がモデルをやっているのを知って彼も自分の写真のモデルになってくれるように頼んだ。初めは写真のモデルになるのを嫌っていたキキだが、マン・レイの情熱に負けてモデルになることを承諾した。一度目は無事にすんだが、二度目にモデルになってもらうはずだった日に、二人はたちまち恋に落ちて、その日は写真を一枚も撮らなかったと彼の自伝に書いてある。それから六年間、二人は同棲することになる。“キキ・ド・モンパルナス”のシリーズでは自由奔放な彼女の魅力があますことなく表現されている。」

マン・レイの人物写真
マン・レイの人物写真、例えば肖像写真やヌード写真といったものには、写真家と被写体になる人物とのコラボレーションとでもいえるところがある。被写体に魅力を最大限引き出すのが写真家としての力量なのだろう。「風景というのは最初からそこにあるのではなく発見されるものだ」(柄谷行人)というものであって、マン・レイの人物写真はまさに、対象人物の魅力を発見して定着したものといえるだろう。

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都立庭園-7 向島百花園

5月1日(木)
◆ 
「風薫る5月」を感じさせる暖かい風が吹いている。色々な草木や花の香りが混ざった風が鼻腔に快い刺激を与える。東京都指定の9ヶ所の庭園で、行っていない最後の向島百花園に行った。東武伊勢崎のルートだと北千住か浅草に出なくてはならず不便だ。日暮里から明治通りを行くバスがあったのでそれで行くことにした。日暮里から20分位で向島百花園のバス停に着く。

庭園の周りを半周して入口に着く。木々の茂った入口から公園に入ると急に明るくなる。高い木は公園の周囲を囲んでいるが、公園内は色々な植物が植えられ、それぞれに名前が表示されていた。野草を中心に、日本古来からの植物が600種あると書いてあった。植物図鑑を見ているようだ。木々としては白加賀という梅の木が各所に植えられている。百花園は当時の一流文化人達の手で造られた庶民的で、文化趣味豊かな庭として、小石川後楽園や六義園などの大名庭園とは異なった雰囲気を感じさせてくれる。

 藤棚が3ケ所あり、そのうちの一箇所は藤の花が完全に花咲き棚から垂れ下がり、甘い香りを放っていた。春、夏、秋の七草が植えられていたが、どれもが地味な感じで目立つものではない。竹で作った30mにもわたる萩のトンネルがあり、9月にはそのトンネルの萩がツタを這わせ、花を咲かせるのだろう。
 
outline03202.gif公園を横切るような形で池がある。自然の沼地の趣をたたえた池の周辺には濃い紫色のハナショウブが咲き、つつじの赤色と白とコントラストを作り上げていた。この池は庭園の雰囲気を豊なものにしている。水は人の心を落ち行かせる。

 園内の随所に合計29の句碑、石柱が建っている。これは庭造りに力を合わせた文人墨客たちの碑で、当時の文化の足跡辿るようで興味深い。入り口付近の庭門に蜀山人の扁額、両脇には詩人大窪詩仏が書いた「春夏秋冬花不断」「東西南北客争来」の木版がかかっている。

日本橋の石柱もあった。日本橋は木橋から、石橋、鉄橋に変わっていき、石橋を解体した時の橋の柱で、日本橋と刻まれている。その書は徳川慶喜が書いたといわれている。

春の真っ只中ということで色々な植物が花を咲かせていると思ったが、目だった花といえばつつじ、藤、ハナショウブ位だ。この庭園は野草が中心で、野草の花は地味なものが多い。洋風庭園のようにバラや、パンジーなどの色鮮やかな花々で飾られているわけではない。しかし、日本古来からの野草を中心とした庭園は静かな落ち着いた趣を作り出している。

 『江戸の文人趣味漂う四季の花咲く園』と庭園案内パンフレトにはあり、由来が説明されていた。
「江戸の町人文化が花開いた文化・文政期(1804~1830年)に、骨とう商を営んでいた佐原鞠塢が、交遊のあった江戸の文人墨客の協力を得て、旗本、多賀氏の元屋敷跡である向島の地に、花の咲く草花鑑賞を中心とした花園として開園しました。

開園当初は、360本のウメが主体でした。その後、ミヤギノハギ、筑波のススキなど詩経や万葉集などの中国、日本の古典に詠まれている有名な植物を集め、四季を通じて花が咲くようにしました。唯一現代に残る江戸時代の花園です。」

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がん治療とは長く細い道を辿ら
なければならない。その先に希
望があると信じながら。

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