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キーツ 『煌く星よ』

6月30日(月)
200px-John_Keats.jpg『瞬く星よ』
 煌く星よ、わたしは汝のように不動でありたい―
  だがひとり燦然として夜空の上に懸り
 永遠に瞼を開いて・・・
 新雪の柔らかい表を眺めるのにあらず―
 いや―そうではなくていつも不動で、変わることなく、
  わが愛する人のふくらみ熟する胸に枕して・・・
 常に、常にかの人の優しい息使いを聞き、
 そして常に生きたい―さもなくば、昏倒して死にたいものを。


このキーツの詩の最終稿は1820年10月親友の画家セヴァンが付き添ってマライア・グローサー号という帆船でローマに向かう途中、ドーセットシャー沖に停泊したとき、シェークスピアの詩集の中の空白に書きとめてあったの浄書して渡したものである。

キーツは1820年2月に喀血し、彼の健康を考え周囲の友人たちはでのイタリアの保養を勧めた。理由の一つには恋人ファニー・ブローンへの異常な思慕に身をさいなまれているキーツを一時彼女から遠ざけた方がよいという友人たちの配慮もあった。

11月にローマに着き、落ち着いたが12月になると発熱に苦しみ自殺を考えるほどだった。そして翌年2月死去した。『煌く星よ』は死を間近に感じながら書いた、最後のソネットとなった。

死の間際で人はなにを求めるのか。この詩の中には、恋人への限りない思慕が満ち溢れていながら、あまりにも切なく、辛い心情が書かれている。彼はまだ25歳だった。詩の中で自らを昇華し、解放することによって、彼は死への恐怖と対峙したのだろう。イタリア行きに関しても、ファニーとの別離を非常に恐れていた。しかし病の進行は彼にイタリア行きを決意させた。だからこそ、ファニーへの愛は募るばかりだった。それがこの詩の中に鮮明に現れている。

北極星のように不動でありたい。しかしそれは、夜空に大地や、荒野、山々をじっと見つめるということではない。愛する人と一緒にいるということを不動のものとして貫いていきたいということなのだ。人生の最後に、死を間近にして人は何を望むのか。キーツは、その一つの形を表現している。イギリスロマン主義の集約とも言える真髄がこの詩の中に表現されている。
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テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

千葉敦子 『死への準備日記』

6月29日(日)
b6ca_convert_20100614233353.jpg 「・・・ガンはなかなかよい病気だ。患者本人はもちろんのこと、家族や友人にとっても、別れの時のための準備が出来るからだ。心臓病とか、事故で死ぬのとは違って、患者は徐々に弱っていくから、本人にとっても、周囲にとっても、死の受容が比較的自然に行なわれるのではないかと思う。」

この文は千葉敦子さんの『死への準備日記』に書かれていた。この本の題名もすごい。死への準備をどのようにするのかと思ってしまう。死期を知り、それまでの時間どうやって過ごしていったのかについて書かれている。

抗がん剤の副作用で、強烈な吐き気や倦怠感の中で仕事をあくまでもやり続ける、そのエネルギーは驚嘆に値するが、むしろ彼女のポテンシャリティの強さがそれを強制してもいるようだ。

本の紹介に書いてあった「迫り来る運命にも目をそらすことなく、一層強靭に自らを燃焼させ続けた姿は“生きる”事の意味を深く問いかける」。しかしこの紹介は全くこの本の意図を理解していない。がん患者の闘病記一般に対するお決まりの解説だ。彼女はいう。

「死を見つめるより、死ぬまでをどう生きるかのほうに感心がある。・・・困難に出合ったとき、それを今こそ自分が成長する機会なのだととらえなかったら、何年生きたって人間は成長しないではないか」仕事は彼女の本能のようなもので、ことさらがんばったわけでも自らを燃焼しようとしていたわけでもない。

 日本では「病気の時はゆっくり休みなさい」とまわりから言われる。アメリカでは医者も含めて、体調さえ許せば仕事をするのは当然と言う風潮がある。「病気の時仕事を奪われるのが一番辛い」「死について考えろと強制しないでほしい、私は生涯観察者でありレポーターなのだ。死に近づいていく自分を観察し正確にレポートする事が自分の仕事だ」と言っている。まして生きる意味など語りようがない。

確かにエネルギーのレベルの高い人と低い人がいる。彼女は治療による副作用がどんなに辛くても、治癒を信じて治療を継続した。そういった意味で、決して「死への準備日記」ではない。「どう生きてきたかということがどう死ねるかを決定する」と彼女は言う。死への記録ではなく生の記録なのだ。

副作用で苦しんでも、2,3ケ月しか寿命を延ばせないのだったら、抗がん剤治療を辞め安らかな死を迎えたいという人もいる。そういう人が日記を書けば死への準備日記となるだろうが、彼女は絶対助かる、腫瘍は抗がん剤の影響で縮小していると信じて治療を続けていた。あくまでも生き続けたいという思いがひしひしと伝わってくる。47歳という精神的に最も充実した時に死を迎えなければならないということに絶対に納得できなかった。

 以前、病院にいた時に、若い人がガンに罹って入院してくるのを見るのはとても辛かった。まだやりたいこと、やり残したこと、経験したいことが一杯残っているのにそれを経験せず死んでしまうかもしれないと思うと、その若者の人生を奪ってしまうかもしれない何と残酷な病気だろうと思った。

自分がガンに罹ったということはあまりショックではなかったが、これも運命だろうとあきらめに似た気持ちだったが、人のことになると、むしろ気の毒でいたたまれない気分だった。

昔から70,80の歳まで生きることにむしろ恐れを感じていたほどだ。何かを達成しようというエネルギーを失った状態で、ただ命を永らえていくということに耐えられない気がしていた。恐らく今の病気での残りの生存期間は2,3年という所だろう。その位で丁度いいという気がすることがある。

だから末期の状態で、副作用で苦しんでまでも寿命が確実に伸びるわけでもない治療を選択することはないと思う。いざそうなったらどういう心境になるかわからないが。そういった意味で冒頭の彼女の言葉は死への準備期間としての現状を意識させるものであった。別れの準備ということでなく、人生を締めくくるにどうしたらいいかを考える時間を与えられたということだ。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

梨木香穂 『西の魔女が死んだ』

6月28日(土)
125332_convert_20080628172353.jpg梨木香穂著『西の魔女が死んだ』の中に次のような文章があった。

「朝起きるでしょ。・・空気は冴えざえとしていて、新しい一日が始まったんだな、と思います。お湯を沸かして、お茶の準備をします。そして庭に出て草木の様子を楽しみます。時には思いもかけなかった植物が、もくもくした土の間から芽を出していたり、つぼみがふくらんでいたり、新しい緑の葉がつやつやとして朝露を抱いているのをみつけたりします。庭は毎日変化します。そして仕事をします。私はそういう毎日のほかにどんなことも望みません。」

日々何の変哲もなく繰り返される日常性。その中でも自然は刻々とその歩みを止める事はない。その微妙な変化に感動し、生きているそのことの意味を味わう。毎日毎日を繰り返し歩んで行けることを受け止めながら、それが決して一般的なものではなく自己にとって特別の意味を持っていることを感じながら日常生活を送っていけること、そのこと以外何を望むのだろうか。

「死への限られた時間をどのように過ごすか」という問いは、それ自体では答えの出ない問いなのだ。『西の魔女が死んだ』という本の中で、魔女になるには「早寝早起き。食事をしっかりとり、よく運動し、規則正しい生活をすること」だという。端から見ると退屈で耐え難いほどの平板な日常性の繰り返しの中にこそ、答えがあるのだと思う。

いまさら「成功」などという言葉は何の意味も持たないし、そのための努力などむなしいだけだ。地位も名誉も金も、自分の人生を集約するような作品を残したいとも思わない。全ては時の流れの中で消滅してしまうものでしかない。

金は質素な生活を支えるだけは確かに必要だがそれ以上あったからといって何かやりたい特別なことがあるわけでもない。そのために失う時間を考えると、金を稼ぐために時間を使いたいと思わない。あるがままの日常生活を淡々と生きていくことそのこと自体が、自分の存在理由なのではないか。

小説の主人公の中学生のまいは「自然とのふれあいの中で“強さ”“やさしさ”“希望”といった生きる楽しさを発見していく。」自分の存在理由を自然との対話の中で見出していく。
自分の価値を計る物差しなどどこにもない、存在していること自体が価値なのだ。そこから考えていけば、周囲のものは全て自分を支え励まして微笑みかけてくれるものとなる。

「死」について思いを馳せる時、あたりまえのようにそこにあった自分の生が再び鮮やかによみがえってきて、それがとても尊いものであることに気づかせてくれる。当たり前に訪れる変わらない日常の中にも、大切なことがきらめいていて、たくさんあっても同じものは一つもない。こういった中で、自分の存在の固有性の認識の中で、日々の穏やかに繰り返される日常性の意味、そこでの変わることのない様々な営為を受け止めていくことが重要だと思う。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

定期検診の日

6月25日(水)
2週間一度の定期検診の日。血液検査の結果は以下の通り。

検査結果
 IgM      1324←1189←1130
 白血球      2.9←2.9
 ヘモグロビン  11.5←10.9
 血小板      16.5←15.6


 正常細胞に対してサリドマイドは全く影響しないようだ。ベルケード療法で減少していた数値が回復し正常値に近づきつつある。問題はIgMの上昇である。原発性マクログロブリン血症や多発性骨髄腫は「多くの症例で治療中に薬剤耐性を獲得するため、一般的に治癒は困難である」と書かれている。

しかしあまりにも効かなくなるのが早すぎる。画期的な新薬と言われたベルケードも薬物耐性が発生し効果がなくなる中央値が12ケ月だとどこかで読んだことがある。しかし私の場合は半年で効かなくなった。

 サリドマイドは4月2日から初めて3ケ月しか経っていない。5月28日の1130から、6月11日の1189、そして今日の1324とこの間確実に上昇してきている。59の増加から、135の増加とまだ増加の量は多くはないがこのまま上がり続けるのか一過性のものなのか、次回の検査結果ではっきりするだろう。

このまま数値が上昇した場合、2,3ケ月はこのままサリドマイド単独で治療を続け、その後サリドマイドと化学療法の併用療法に移行していくことになるだろう。化学療法との併用を始めた場合今のような体調を維持できるかどうかそれが心配だ。

 今だったら旅行に行くことも、ハイキングに行くことも自由に出来るだけの体力がある。確かに動き回った後は、ぐったりすることもあるが、それでも動き回ることは出来る。それに病院へは2週間に一度行くだけでよく、夜寝る前にサリドマイド100mgを飲むだけでいい。副作用も少なく、正常細胞にも影響を与えない。

このまま今の療法を続けられるに越したことはない。多発性骨髄腫の人で6年間サリドマイドを飲み続け普通に働いている人もいると聞いた。ともかく先のことを考えてもしょうがないので次回7月9日の定期検診での血液検査の結果を待って考えよう。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

上高地-乗鞍高原-白骨温泉-安曇野 3日目

6月24日(火)
3日目-安曇野・旅行日程

9:30  白骨温泉発
10:25 新島々着
10:48 新島々発・松本電鉄
11:17 松本着
12:10 松本発・大糸線
12:35 穂高着・駅前で自転車を借りる。
13:00 大王わさび農場
13:30 安曇野スイス村
14:00 穂高川沿いのわさび園、早春賦歌碑
14:15 碌山美術館
15:00 穂高駅
15:23 穂高駅発・あずさ26号
18:36 新宿着

空は一面晴れ渡り、旅館の窓からは遠い山々が眺望できる。緑の山々に囲まれた旅館は客も少ないせいか、風呂も貸切りのように誰も入っていない。静けさが染み渡っているようだ。天気は今日一日持ちそうだ。一時梅雨はどこかに行ってしまったようだ。バスの発車時刻は9時30分。これを逃すと15時10分までない。かなり早くバス停に着き付近を散策する。

上高地から新島々まで通じている2車線の国道158号線に出るまでは、県道白骨温泉線を通る。この道はかなり幅が狭く、さらにヘアピンカーブが多い。車一台通るのがやっとで、バスなど走れるのだろうかと、往きのタクシーで思っていた。車がすれ違うことなど不可能に思えるほどだ。12月から4月まで通行止めになる道だそうだ。

158号線に出る。広く真っ直ぐな道に出るとほっとする。次々と奈川渡、水殿、稲核の3つのダムが現れる。水を満々とたたえたそれぞれのダム湖は、谷底の景観を増している。

安曇野は5地域に分かれている。そのなかで穂高地域に行くことにした。黒沢明の『夢』という映画に出てきた水車小屋があるというのでそれを見てみようと思った。案内には「光と水と緑輝く安曇野穂高-残雪の北アルプスを背景に、のどかな田園風景。日本の原風景がいたるところに残る"穂高"は、豊かな自然と多くの芸術、文化に恵まれ、サイクリングで施設を巡り 日本一の規模を誇る大王わさび農場や歴史を伝える穂高神社と満願寺、芸術の香り高い碌山美術館など見所が多い。」とあった。

大王わさび農園
駅前で貸自転車を借りた。そこの人が親切で、地図を渡し道順を教えてくれ見所を説明してくれた。まず大王わさび農園に向かった。途中穂高神社を突っ切り、東光寺の下駄や、旧家等々力家を見ながら、農場に着く。入口から左に行った所に河が流れていて、木々が川にかぶさるように垂れている。水車小屋が3軒あった。作ったような典型的な田園風景といった感じだ。

わさび園はかなり広く、太陽の光を遮るため黒い網で覆われていた。通常わさびは水がきれいで渓谷の薄暗い所に育っている。この地域は水がきれいなのでわさびの栽培には適しているのかもしれないが、光線の関係で平地で育てるのは難しい点もあるだろう。一部高台になっていてそこからはアルプスの山々が間近に見ることが出来た。

上高地009_convert_20100320194224 『夢』に登場した水車小屋

上高地013_convert_20100320194319 わさび園の畑

わさび園から安曇野スイス村までの田んぼと麦畑の道は、遮るものがなく180度の広さでアルプスの山々が眼前に広がっている情景を堪能することが出来た。スイス村は全く期待はずれで何もなかった。穂高川まで行き川沿いを走る。右に川、左にわさび園が延々と続く。途中この地を歌った早春賦の歌碑が立てられていた。

上高地020_convert_20100320194434 川沿いのわさび園

碌山美術館
この地で生まれ育った荻原守衛の作品を中心に、高村光太郎などの関係者の作品を集めて展示してある。よく知られている「女」という作品の中に、近代日本の彫刻の新たな展開への始まりが記されているように思える。表情に見られるように内的情感がほとばしり出ている彫刻の実現であった。

「この作品は黒光(苦悩の恋の相手)に仮託された荻原の普遍的な女性像の象徴の実現となったが、後ろ手で膝を付き上方を見上げる姿勢は、因習に囚われ解放を望みながら悩む明治の女性像とも読み取れる。」と記されていた。美術館の建物は明治33年に作られたという、尖塔に不死鳥をいただき、外壁に焼きレンガを積み上げた西欧教会風の建物で、ツタが這い建物自体が作品としての価値があるように思える。

上高地026_convert_20100320194556 美術館本館

上高地025_convert_20100320194514 庭に展示されていた荻原守衛の作品 

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

上高地-乗鞍高原-白骨温泉-安曇野 2日目

6月23日(月)
2日目 上高地→乗鞍高原→白骨温泉・旅行日程

8:00  ホテルを出発
8:15  穂高橋、田代橋
8:45  田代池
9:15  大正池・バス
9:30  ホテル着
10:15 ホテル発
11:00 白骨温泉宿泊場所着・荷物を預ける。
11:30 乗鞍高原観光センター着
12:45 善五郎滝
13:30 牛留池
14:15 休暇村乗鞍高原温泉
15:31 休暇村発
15:37 観光センター着
16:18 観光センター発
16:39 白骨温泉着

3日間雨という予報だったが、朝目が覚めると、外は快晴で小鳥がうるさい位にさえずっていた。山の天気は変わりやすい。晴れているうちに山々の姿を見届けておかなくてはと、朝食もそこそこに出掛けた。今日は大正池までの散策を行なう。

上高地030

ホテルの入口から少し坂を上がった所から雪渓を残している穂高連峰が青い空を背景に鮮やかにその雄姿を表していた。まず穂高橋に行って、昨日は曇っていて十分に堪能できなかった穂高連峰をたっぷりと目に焼き付けた。大正池方面には、焼岳が全容を現している。

上高地036

梓川沿いをまず田代池に向かう。キジバトが遊歩道を歩いている。この遊歩道は自然研究路と名付けられている。田代池は浅く湿原となっていて、湿原特有の植物が多く生息していた。そこから大正池はすぐだ。大正池はその傍らに聳える北アルプス唯一の活火山である焼岳の大正4年の噴火によって梓川がせき止められ造られた。

上高地042

大正池に着く頃雨が降り始めた。残念ながら大正池からの穂高連峰の眺めは見ることが出来なかった。次第に激しく降って来る。徒歩で戻ろうと考えていたが、この雨の中ではと思って、バスでひと停留所なのでバスで戻ることにした。新島々からのバスの本数は少ないが、マイカー規制のために沢渡の駐車場から上高地までのバスはかなり頻繁に出ている。それを利用した。

上高地から白骨温泉は距離的には近いのだが、直通バスは夕方一本しか出ていない。そのバスが白骨温泉を経由して乗鞍高原まで行く。やむを得ずタクシーを利用した。バス料金が結構高く一停留所間でも500円近く取られるほどだ。上高地から白骨温泉まで40分位、宿泊場所に荷物を預け、同じ車で乗鞍高原に向かう。高原の中心地観光センターに着いた時には、雨は土砂降りになってしまった。食事をしながら雨が小降りになるのを待つ。

観光センターからロッジやペンションの間の道を行くと、善五郎滝との表示があり、そこから細い山道の登りになる。道がぬかるんで進み辛い。展望台と滝の分かれ道までかなり登る。滝方面は急な下り坂になり下りきった所に滝が轟音を立てて流れ落ちてきて、川は急流になって渦巻いている。滝の周辺は気温が低く寒い位だった。

上高地056

滝から木道を上がり、牛留沼に向かう。この道は「ふたりの小径」と名付けられている。雨は止むことなく降り続いている。牛留沼は、穂高連峰が水面に姿を映す様が見所だと言う。30分位で沼に着いて、空が晴れるのを待つ。雲が流れ近くの山がチラッと見えたが、遠くの峰峰は全く姿を表すことはなかった。30分ほど待ったがあきらめて休暇村に向かった。

雨はますます激しく降って来た。休暇村バス停に隣接して乗鞍高原温泉ホテルがありそこのロビーでバスの時間まで待った。休暇村から観光センターへ、観光センターから白骨温泉にバスを乗り継いで行った。バス停には旅館の車が迎えに来ていた。1日到着便が3本しかないのでマイカーでない人はその限られたバスで来るしかない。

白骨温泉は、昔浴槽の内側が石灰分の結晶で白くなることから白船と書かれ「シラフネ」とも呼ばれていた。ところが、大正2年、中里介山の長編小説「大菩薩峠」(白骨の巻の中で白骨と呼ばれた)ことからこの温泉が一躍有名になり小説に記された「白骨温泉」がそのまま一般通称となった、ということだ。

昔は交通の便も悪く秘湯と呼ばれていた。今でもバスは日に2,3便しかなく不便なことは確かだが、都会の喧騒を逃れて静かな山間の温泉を楽しむにはむしろ交通の便が悪い方がいいのかもしれない。若山牧水や中里介山など文人がよく利用していたようだが、周りに繁華街もなく、雑念が入り込む余地もない。創作するにはもってこいなのかもしれない。露天風呂も緑に囲まれ気持ちが洗われるようだ。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

上高地-乗鞍高原-白骨温泉-安曇野 1日目

6月22日(日)
1日目-上高地・旅行日程

7:00  新宿発 スーパーあずさ1号
9:38  松本着
10:15 松本発 上高地直行バス
11:50 上高地着 宿泊場所に荷物を預ける。
12:30 上高地バスターミナルから散策出発
12:45 河童橋~梓川右岸~明神池
14:00 明神池周辺散策
14:30 明神橋~梓川左岸
15:20 河童橋~梓川右岸
15:40 ウエストン碑
16:00 穂高橋、田代橋
16:15 宿泊場所に戻る

家を出る時から雨が降っていた。今日から3日間の長野県の天気予報は、今日の降水確率が80%、明日が70%、明後日が70%と梅雨の真只中の雨模様だ。先週にすればよかったとは思うものの7月1日から混み始めるというのでそれ以前の空いている時期を予約してあったのでスケジュースを変えるわけには行かなかった。

松本ではかなり強く雨が降っていた。上高地に着くと雨は小降りになっていた。ホテルから上高地バスターミナルまで行ってそこで昼食を取り、そこから10分位で河童橋に着く。シーズン前だが、河童橋周辺だけは人だかりがしていて、こんな山奥なのに一般の観光地と同じような賑わいだ。上高地の観光案内の写真に誰もいない河童橋の写真が載っているが、何時撮ったのだろう。人が途切れることはない。雨は降ったりやんだりで、河童橋からは穂高連峰が雲の裂け目から見ることが出来た。

上高地076

上高地は、最も古い国立公園で、車両の通行規制があり、車はバス、タクシー以外はかなり下流の沢渡という場所の駐車場に止めそこからバスかタクシーで上高地まで来なくてはならない。おかげで、あちこちの車が止まっていなくて、自然保護の観点だけでなく景観にとってもかなり効果的になっている。

河童橋から明神橋に向かって、梓川右岸に沿って進んでいく。遊歩道はかなり整備され湿原では板を渡してあり、見所の所は、張り出しになっている。夏はかなり賑わう観光地に適した設備になっている。湿原には、上高地特有のミヤマツツジが赤い花を咲かせていて、濃い緑の風景の中に色を添えている。湿原の植物や、水かさが増し立ち枯れになった木々が上高地特有の風景を作っている。

上高地082

明神池は有料で第1の池、第2の池とあり、途中行き止まりで引き返す他ない。雨がこの頃かなり激しく降ってきて、道が木の根と石で滑りやすくなっていて、奥に進むのに苦労した。池はもやっていって、水墨画のような幻想的な雰囲気を漂わせていた。

上高地106

そこからすぐ明神橋だ。その袂から明神岳が目の前に聳え立っている。雲が激しく動いており明神岳は見えたり見えなかったりを繰り返している。梓川左岸は車も通れるほどの広い遊歩道を、森林浴を楽しみながら、河童橋に向かって40分位木々の中を歩く。途中サルが4匹遊歩道を人をこわがる様子もなくのそのそと歩いていた。
上高地112

河童橋を渡って右岸を下流に向かって行く。ウエストン碑を経由して穂高橋、田代橋を経由してホテルに戻る。ウエストンとは上高地を紹介した登山家で、彼の紹介で一躍上高地は脚光を浴び観光地として栄える基礎を作った人物だということで碑が建てられた。まだ雨が降っていって、雲がかかっていたが穂高橋からは奥穂高岳が悠然と聳えているのを眺望できた。晴れて青空を背景にしたらさぞ素晴らしいと思った明日に期待するほかない。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

明日から旅行に

6月21日(土)
明日から、旅行に行くことになった。上高地-乗鞍高原-白骨温泉-安曇野を巡るコースを2泊3日で回る。上高地は18歳位の時に、槍ヶ岳を裏銀座経由で登って槍ヶ岳から下ってきて上高地に辿り着いたという思い出の場所だ。といっても上高地自体はあまり覚えていない。

hotaka120.jpg裏銀座とは北アルプスの高瀬ダム横のブナ立尾根登り口を基点とし、烏帽子岳・野口五郎岳・鷲羽岳・双六岳から西鎌尾根を経て槍ヶ岳へ至る登山道で、ほとんどが岩だらけの尾根で、高山植物を楽しむといったコースではない。

登山の最中丁度雨が激しく降って来て、8月だというのに寒さに震えて黙々と槍ヶ岳目指して一歩一歩滑りやすい尾根道を歩いていったことを覚えている。今上高地を見たらどういった気分になるか楽しみだ。最も丁度3日間雨だそうだが、雨だと北アルプスの峰峯を遠望することが出来ない。ともかく行ってみて運が良ければ見ることが出来るだろう。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

友人の訪問

6月21日(土)
昨日電話があった大学時代の友人が訪ねてきた。昼を一緒に食べようということで、買い物をしてきた。彼は3月末に退職し、今は私と同じく専業主夫をやっている。図書館関係の幾つかの団体との関わりでそれなりに動いてはいるが、それ以外は時間がある。

彼はてんぷらと、肉を買ってきた。大酒飲みの彼のことだからそれだけでなく当然のことながら、ビールと焼酎も買ってきた。昼間から宴会といった雰囲気だ。冷蔵庫から適当な野菜を集めて、鉄板焼きにした。毎日毎晩飲んでいてよく体を壊さないと思うが、週2回近くのプールで水泳をしているのが健康維持の秘訣だと言う。

ゆっくりと会うのは実際に10数年ぶりなのだが、つい最近会ったような気がする。時間とは何だろう。10年というのは限りなく長く、限りなく短い。時間とは各人の精神の中にあるのだろう。昼間からビールを飲みながらお互いの現状を話す。

彼は都の図書館職員で、石原都政の福祉切捨て政策の中で、利益を生み出さない図書館などの行政サービスの部門を徹底して縮小、再編することを政策の主眼としている。日比谷図書館を千代田区に委譲しようとしており、中央図書館の機能を一部八王子に移管し、窓口業務を縮小し、そのことによって大幅な人員削減を図ろうとしている。

今年、来年と団塊の世代の大量退職を好機とし人員補充を一切行なわない方針だ。最近の区の図書館では社員は館長位で、後は全て下請けの派遣労働者を低賃金で雇っている。彼はこういった図書館の縮小、合理化に対して組合で闘っていた。

石原都知事で思い出した。11日に東京高裁で石原都知事の「ババァ発言」裁判において石原容認の差別加担判決が出された。これは石原都知事が2001年『週間女性』で「文明がもたらした最も悪しき有害なものはババァ」「女性が生殖機能を失っても生きているのは無駄で罪です」との発言に対し撤回、謝罪、損害賠償を求めた裁判の判決だ。石原都知事の、憲法や自衛隊や中国に対する問題発言はよく報道で耳にする。

しかしこの女性差別発言は、彼の人間性を疑うに十分なものである。彼のような人権意識がつゆほどもなく、品性のかけらもない無能な野蛮人が都知事に選ばれるという社会構造、有権者の意識の低さ、これはまさに衆愚政治としか言いようがない。

ベン・ヒルズは語る「西洋人の目から見て驚くのは、こんな途方もない発言をして喜んでいる石原のような社会的ネアンデルタール人がこういうことを言ったという事実ではない。むしろ法廷がこれを許したと言う事実である」と。こういった石原都政の下で働いている都の職員はさぞ大変だと思う。

かって学生の頃、沖縄に1週間位、彼と旅行に行ったことがある。何十年も経ってまた行ってみようという話しになった。格安のパックで往復の航空券と一泊分の宿泊がセットになっているのを予約し、後は彼が3,4年前に行ったという離島の民宿に泊まるというプランを立てた。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

仕事の現状

6月20日(金)
大学時代の友人から電話があった。彼は一度入院中に見舞いに来てくれた。それは私が入院した旨彼に電話したからだ。彼は目白に住んでいる。自転車で20分位なものだ。そんな近くに住んでいながら10年以上連絡を取っていなかった。彼が図書館に勤めているということがあって、必要な資料を探してもらうように頼んで、それを受け取るために会ったきりである。

仕事が忙しくなり、昔の知り合いと会うなどという精神的余裕がなくなってしまった。仕事が忙しくなるということは、色々なもの切捨てていくことになる。私が勤めていた職場に入った時は、かなり穏やかな時代だった。仕事が暇な時は、何人かの社員が昼休みに始めたゲームを15時頃までやっている事もあった。17時にはきちっと帰っていた。確かに給料はよくなかったが、生活は出来た。何よりも精神的余裕があった。こういった労働形態で会社は経営が可能だったのだ。

それがバブル崩壊後、社会が分断と競争の激化の中で、資本家は労働者から搾り取るだけ搾り取ろうとし、ノルマを科し、勤務評定で賃金に格差をつけていく。過労死、過労自殺に追い込まれるまで働かせる。この労働に耐えられなければ、正社員から脱落し、ワーキングプアに落とし込められる。そしてそれは全ての正社員に科せられている現状なのである。私の労働時間も2000年頃から加速度的に増え始めた。土日も休み無しでまさに「24時間働けますか」の世界に入っていった。

病気にならなければこの泥沼から逃れることは出来なかっただろう。病気になって、失われていた自分の時間を取り戻すことが出来た。好きな本も読め、書きたいことを書け、見たい番組のテレビを見て、映画もDVDを借りてきてみることも出来る。行きたい所にも行くことが出来、旅行も、ハイキングも、周辺探訪もすべて可能だ。その限りでは悠々自適の生活と言えるだろう。

会社にいた時は、旅行は毎年、年末に行なわれる社員旅行しか行ったことがなかった。今は専業主夫をやっているから食事の支度や、家事全般をこなしているが、それはせいぜい1~2時間位なものだ。それ以外時間は全て自由に使える。この自由というのは、しかし、なかなか難しいものだ。毎日なんでも出来ると言うことは、かえって何もしないことになってしまうことになりかねない。

何故ブログを書くのか考えてみた。その答えは「余命3ケ月の作家が百科事典を買った」という記事を見て思い当たった。一つも記事を書くのには色々な資料を調べる。そのことによって、その記事の内容のことだけでなく波状的に色々な知識を獲得することが出来る。それによって社会全体に対する理解が深まって行く事になる。

書く内容よりも書く過程が重要なのだ。しかし何故余命が限られているのに知識が必要なのか。それは百科事典を買った作家と同じことなのだろうと思う。自分と社会との関係を知ること、その中で何が出来るかを探っていくことなのではないか。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

放置自転車の行方

6月19日(木)
 要町駅付近の書店で本を探して、近くの店で買いものをしていた30分ばかり自転車を歩道に置いておいた。戻ってみると、自転車がその周辺にあった自転車と共にきれいに撤去されていた。

大分前に撤去された自転車の保管場所が、旧千川小学校だったことを思い出した。そこで、15分位歩いて有楽町線の千川駅からすぐの旧千川小学校に行った。ところがそこの保管場所はもう廃止されていて、そこから歩いて10分位の千早町の旧明豊中学校に移動したということがわかった。

10分位歩いて、到着すると「ここの保管所の自転車は池袋西口からのもので、要町周辺で撤去された自転車の保管場所は、南長崎の目白通り沿いにある。」と言われた。ということで、そこから20分位歩き、西武線の線路を越え、南長崎保管所にたどり着いた。しかし何故撤去した場所から離れた所に自転車を持っていってしまうのか。取りに行くのを困難にしているとしか思えない。分かった範囲で書いてみると

  撤去場所     保管場所
 池袋駅西口     千早町保管所
 池袋駅東口     大塚保管所
 要町駅周辺     南長崎保管所
 千川駅周辺     池袋西口保管所

といった具合なのだ。池袋西口に保管所があるのに、池袋西口から撤去した自転車を千早町まで持っていくというのはどうも納得できない。要町駅や千川駅周辺から撤去した自転車は千早町保管所が近い。役所の考えは分からないが、それなりの理由はあるのだろう。取りに行く手間をかけさせて、自転車を放置すると、金も時間もかかるということを身をもって知らせようという考え方なのかもしれない。

 自転車は移動したてのほやほやで入口の近くにありすぐに見付かった。どうして30分程置いておいた位で持っていってしまうのだと文句の一つも言いたかったが、高齢者事業団の人にそんなことを行っても全く意味はないのでやめにした。

撤去料が5000円だという。勝手に持っていって金を取るとは何という商売なのだろう。昔は2000円だったような気がする。いつの間にか大幅な値上げだ。今安い自転車は7000位で売っている。古い自転車などは5000円出して引き取りに来る人はいないだろう。

確かに駅前の放置自転車は、救急自動車の通行の妨害にもなるし、通行の妨害にもなる。この取締りの必要性は十分わかるが、5000円は高すぎる。以前は警告札が貼られそれでも移動しない自転車が撤去された。今は問答無用だ。自動車の路上駐車も以前は白墨で、駐車時間が書き込まれ一定の時間が来るとレッカーで持っていかれていた。今は5分でも駐車違反の手錠が車に掛けられる。

 取りに来なかった放置自転車は中国や東南アジアに輸出されると言う。中国からは7000円位の安い自転車が輸入される。中国人は中古自転車に乗り、日本人は安い新品自転車に乗る。変な関係だ。

この放置自転車の輸出によって、特に地方の方での中国人の自転車保有率は各段に上昇したと言われている。上海の街で見かけたが自転車の数の多さは凄まじいばかりだ。信号が変わると自転車の大群が押し寄せてくる感じだ。放置自転車もスクラップにされるのでなく有効に活用されていれば、それなりに意味のあることだろう。

10年位前は自転車屋で放置自転車を修理して中古自転車として安く売っていた。しかし今は輸入自転車の方が安いので中古自転車は売っていない。皆輸出に回されているのだろう。中古自転車には見向きもしない日本人と、それを喜んで乗る東南アジアの人々、これ一つとっても国家間の格差の現実を突きつけられる。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

多発性骨髄腫での死

6月18日(水)
「多発性骨髄腫での死」という記事が目に飛び込んできた。多発性骨髄腫での死亡記事など見たことがなかったので驚いた。記事内容は以下のようなものだった。

特殊メイク界の重鎮スタン・ウィンストンが逝去―6月15日、ハリウッドの特殊メイク界の重鎮スタン・ウィンストンがマリブにある自宅で亡くなった。享年62歳。広報によると、ウィンストンは7年前から多発性骨髄腫を患っていたという。ウィンストンは、「ターミネーター」「エイリアン2」「ジュラシック・パーク」などで特殊メイクと特殊効果を担当。(eiga.com 映画ニュース)

多発性骨髄腫はマクログロブリン血症ときわめて類似点が多く、治療法もほぼ同一である。マクログロブリン血症は骨病変がなく、骨の痛みに苦しまないという点が違うが、形質細胞腫瘍によって血中のタンパクが増加するもので、多発性骨髄腫の場合は、IgGやIgAが増え、マクログロブリン血症の場合にはIgMが増えるという相違がある。しかし、多発性骨髄腫の治療法や、情報はマクログロブリン血症の治療法に密接に結びついている。

骨髄腫は、欧米諸国と比較し、日本では少なく、人口10万人あたりの年間発生率は0.5~1人とされていて、死亡記事がニュースになることなどないと言ってもいい。アメリカだとかなり知られた病気なのだろう。

現在、サリドマイドでの治療中で、副作用もなくこのままの状態でずっと延命出来るのではないかと思ったりする。しかし多発性骨髄腫での死亡記事を見ると、自分の命は近い未来までの限られたものでしかないということを思い知らされる。色々な資料を見るとどんな資料も、余命宣告が書き記されている。

「多発性骨髄腫の予後(病気の見通し)はどうですか」という問いに次のように書かれている。

平均生存期間は30~40カ月です。腫瘍の増大、感染症の合併、腎不全、出血、急性白血病化などで死亡します。10年以上の長期生存される人もいます。(病気辞典)

多くの症例で治療中に薬剤耐性を獲得するため、一般的に治癒は困難であり、平均生存期間は3~4年である。(Wikipedia)

治療開始後は平均生存期間は3年,10年以上の生存率約3~5%と報告され,長期予後が望めない疾患であるのが現状である(順天堂医院)

確かに、ガンの治療薬の開発は目覚しい。ベルケード(ボルテゾミブ)やレナリドマイドなどの新薬が開発され、かなりの奏効率を上げている。しかし、完治する薬はまだない。原発性マクログロブリン血症も全くこの生存期間の記述と同じである。そしていつもの問いに戻ってくる。限られた命をどう生きるのかと。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

プレカリアートは増殖・連結する

6月17日(火)
 しばらく前の雑誌の記事に、独立系メーデー「自由と生存のメーデー2008」で読み上げられた「メーデーアピール」が掲載されているのを読んだ。そのアピールは現代社会の矛盾と現状の問題点を的確に表現しているように思う。新自由主義経済においては、互いの生をおとしめあう際限なき生き残り競争へと人々を駆り立てている。自らの力も才能も個性もそして人格さえも労働力商品として市場で売り買い可能なものと変容させ、その価格を引き上げることが生存の条件となっているのが今日の社会の在り様なのだ。

title.jpgアピールは現状の問題点を次のように列挙している。
 ・女性と若者の半数が非正規雇用に置かれている。
 ・一千万人が年収200万円以下での生活を強いられている。
 ・正社員はノルマに追われ過労死、過労自殺に追い込まれている。
 ・野宿者は生きることが罪であるかのように街から排除されている。
 ・応益負担の名の下に、高齢者、障害者からの収奪が強化されている。
 ・移民を認めず日本国籍を持たないものの就労を非合法化してきている。
 ・研修制度によってアジアからの移住労働者に奴隷労働を強いている。
 ・一方経営者利得と、株主への配当は激増し、富裕層が形成されてきている。

このように現在の矛盾を示しながら、次のように方向性を指し示している。「プレカリアート(注)の増殖は自由と生存を引き換えにする動きに対して、決して同意しない人々の増殖と連帯を促してもいるからです。
自由と生存を引き換えにするのではなく自由も生存も求めていくのです。自立への孤立ではなく、連帯の中に自立を求めて。」


 今やフリーターは200万人を超え、パートや派遣、契約を含む非正規雇用者は1500万人を超える。フリーターの平均年収は百万円代で、20代、30代が多い。現在、「新自由主義」経済下でのグローバリゼーションの中で、資本の運動を通じて、「労働」の意味が変容しつつある。

高度な機械化やIT化が進んで、労働者が不要になり、安い労働力を求めて資本は、第三世界の国々に移動し、労働者が使い棄てられる。経営者は労働力を3つに分類し再編しながら、差別分断を強化してきた。1995年に日経連が出した「新時代の『日本的経営』」がその出発点だという。

つまり、(1)一部の正社員「長期蓄積能力活用型グループ」、(2)専門技能を持つ層「高度専門能力活用型グループ」、(3)使い捨てのパート・アルバイト「雇用柔軟型グループ」の3つだ。厖大な人達が、この3番目の分類に入る。それを促進するかのように、1999年の労働者派遣法が改訂され、派遣対象業務が原則自由化されたことで、非正規雇用が急速に拡大している。

このように非正規雇用の拡大の中で、特に日本やアメリカ合衆国など社会保障の割合が小さく、自己責任の割合が大きな社会では、最低限の生活水準さえも保障が期待できない。この結果として、以下のような問題が発生する。

所得格差・貧富の差が拡大し、そのことによって階級の固定化が進行する。また貧困層が増大し、犯罪の増加など社会不安を招く。そして中流階級の没落により、高等教育を受けられない層が増加し、そのことがさらに格差を生み出してくる。

それだけに止まらず収入・身分が不安定なため結婚や出産の減少、離婚の増加し、少子高齢化による内需荒廃・経済成長率低迷といった社会全体の停滞へと繋がって行く。社会の活性化のためにも政策的に行なってきた新自由主義、市場原理主義の悪弊を払拭し、一部資本家の利益のみに迎合している政治方針を変えていかなければならない。政策的に推進してきた非雇用社員の増大がもたらす多くの歪は既に破綻してきている。今こそ大きな政策転換が求められている。

注:プレカリアート(precariat)とは、「不安定な」という形容詞に由来する語句で、新自由主義経済下の不安定な雇用・労働状況における非正規雇用者および失業者を総称する言葉。プロレタリアートと語呂を合わせることで、新貧困層の現実との向き合い方を示している。

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余命3ケ月で百科辞典を買う

6月16日(月)
 しばらく前、何かの雑誌で読んだのだが、探してもどこに書いてあったか分からない。恐らく、昭和初期の頃の話だろう。ある作家が、馴染みの本屋に本を買いに来た。店主はその作家をよく知っていて、彼がガンで余命3ケ月位しかないということまで知っていた。

 店主はまず「お加減はいかがですか」ととりあえず聞く。
「いやもうそれほど長くは生きられない。」と作家は応える。
「ところで今日は、百科辞典を買いに来た。エンサイクロペディア・ブリタニカは置いてないだろうか。」と聞いて来た。店主のいぶかしげな顔を見て、作家は応える。
「何故死期を目前にして百科事典など買うか。不思議に思うだろう。色々なことに疑問を残したままあの世に旅立ちたくないのだ。」店主は納得した様子は見せなかったが応える。
「ブリタニカは、あいにく店には置いていないので取り寄せになります。」
「それを待つ時間は残されていない。今あるのは何だろう。」
「センチュリー百科辞典ならあります。」
「じゃ、それをもらおう。」
「明日にでもお届けします。」と店主。

 作家は大金を置いて帰っていった。死を目前にして百科事典を買い、読み漁ろうとする激しい知識欲に驚かされる。余命3ケ月と宣告されたら人は何をするだろうか。何をしたいと思うだろうか。

『最高の人生の見つけ方』という映画の中では、パラシュートで降下したり、自動車レースをやったり、世界各国を回ったり、エベレストに行ったり、今までやりたいとは思っていても、家族がいたり、時間がなかったり、金がなかったりして出来なかったことをやりたいと思うのが一般的だろう。だからあの映画は多くの人の願望とリンクし共感を生むのだ。

 余命3ケ月の時期に、百科辞典を大枚はたいて買うというのは、確かに特殊だと思えるかもしれない。しかしそれは「死」をどう捕らえるかによるのだろう。「死」を自己実現の成果として捕らえようするならば、自らの欠落した部分を補い自己を完成に近づけようとするだろう。そして、それを目指してきた人にとっては最後まで知の探求を目指すのは当然の行為だと思う。

余命宣告された人が、限られた時間をどのように使うか、この方法は千差万別であるし、個々人の今までの生き方の反映だろう。しかし、いざ余命宣告された場合、日々どのように過ごしていくかの答えを見出すのはきわめて難しい。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
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平板な日常性

6月15日(日)
日曜日も普段の日も全く変わりない。仕事をしていない身としては、確かに日曜日は回りと同じなので世間の雰囲気に溶け込め気は楽だ。普段の日中、散歩をしたり買い物に行くと、定年退職した人だろうか、60歳過ぎの男性をよく見かける。買い物は男性が、料理は女性がといった家庭内分業をしているのだろうか。彼等は仕事をしてなくても当然のこととしてゆったりとした気分ですごしていることだろう。そしてその単調な日常性を肯定的に受け止め生きているのだろう。もちろん例外はあるだろうが。

日曜日だからといって特に何か変わったことがあるわけではない。全く普段と同じように時間が過ぎ去っていく。普段と違ったことといえば、混んでいる休日には出掛けず、どこかに行くのは平日にしている。だから日曜日は終日家に居ることが多い。

あの殺人的に忙しい仕事漬けの生活から今は24時間全てが自分の思い通り使える。確かに体力的に限界はあるがそれもコントロールは可能である。疲れきっても休める時間はたっぷりあるのだから。

あれほど仕事からの解放を望んでいたのに、仕事を辞めたら、これもしたい、あれもしたいということが沢山あったはずなのに、実際にそうなったらたいしたことは出来ない。自分の究極の目的が何なのかはっきりしないことが問題なのだろう。ただただ平凡な日常性がコチコチと時計の歩みに従って過ぎ去っていく。

適度の仕事、適度の遊び、適度の自由時間それがいいのだと考えたりすることもある。人間とはわがままなものだ。いつでも何でも出来るということはかえって何もしないで過ごしてしまうことが多い。

こういった日常性を切り裂く出来事はどうして不幸な事ばかりなのだろう。「秋葉原の通り魔事件」や、「岩手・宮城地震」が何の前触れもなく起こった。その事件や災害の直前まで、その被害にあった人たちにも単調な日々が何事もなく繰り返されてきていた。それが何の必然性もなく、その日常性が破壊されていく。

そういった意味で、今の生活が、平々凡々と何の変化もなく繰り返し続けているということが出来ているということは、普遍的に存在するものではない。戦争で家を失い、手足を失い、家族を失い、そういった世界にいる人たちは、明日何が起こるかわからない暮らしなど決して望んではいない。

我々にとって当たり前のことである、毎朝太陽が昇る時、昨日と同じ生活を送ることが出来るということが、彼らにとってどんなに大きな意味をもっていることだろう。そう考えると平板な日常性ということもあながち否定的なものと考えることはないのかもしれない。

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「没後50年 モーリス・ド・ヴラマンク展」-その2

6月13日(金)
ヴラマンクの絵の変遷
 Ⅰ 初期~フォーヴの時代(1900~1907)
 Ⅱ セザンヌ風作品の時代(1908~1919)
 Ⅲ スタイルの確立~ダイナミックな風景(1919~1958)

展示場に入ると、初期の作品「室内」がまず眼に入る。ゴッホの影響を感じる作品だが、彼らしい筆使いはそれ以降の彼の絵の方向を示しているようだ。ここには後期のあの絶望的な暗さはない。マチス的な明るさすら感じられる。この初期の作品は、フォーヴィズムの中に分類される。フォーヴィズムとは1905年にパリで開催された展覧会サロン・ドートンヌに出品された一群の作品の、原色を多用した強烈な色彩と、激しいタッチを見た批評家ルイ・ボークセルが「あたかも野獣の檻(フォーヴ、fauverie)の中にいるようだ」と評したことから命名された。

その後、パリでセザンヌの展覧会が開かれる。それに影響を受け、構成的な落ち着いた作風になってくる。さらにはキュビスムっぽい作品もあり色々と試行錯誤を繰り返している様が見える。そういった意味でヴラマンクの個性が十分発揮されているとは思えないが、こういった積み重ねの中で、後期の独特の作風が完成していくのであろう。

スタイルの確立~ダイナミックな風景、
125223IMG1.jpgヴラマンクが独自の作風を確立してくるのは、40代から50代の頃、それは一連の雪景色の絵が描かれるようになってからだろう。灰色や濃紺の荒天の空と濁った雪が厚塗りのタッチで描かれている。この頃から、暗さのなかの美しさが凄みを増してくる。

どんよりとはっきりしない雪空。その暗さが見る人を不安に陥れながら、一方で絵から目を離せなくなる、何が惹きつけるのだろうか。それは人の心理の奥底まで入り込んだ彼の表現の深さにあるのだろう。

さらに、70代の晩年の作品。「雷雨の日の収穫」や「積み藁」の中に彼の独自性は端的に現れている。規則正しく絵の具の浮き出るタッチで描かれた黄金色の麦畑が続き、一方、濃紺の空は大地と異なり、荒れ狂う海のようであり、白い雲は怒涛の波しぶきを思わせる。この荒々しい作風は衰えることのない彼の内面の激しさを余すことなく表現している。

暗く烈しい孤高の美-ヴラマンク(「風の旅人」より)
ヴラマンクの絵は、時代の潮流に流されることなく、アート産業の動向になびくことなく、アカデミズムの評論・批判に惑わされることなく、凛とした孤高の佇まいで、激しい情念を内に秘めながらも、冷徹に世界を見つめているという感じが伝わってくる。

後期の雪景色の作品では、空は嵐のような異様な様相を呈し、枯れた樹木は不気味にしなり、雪の道はぬかるんで泥と混ざり合っている。重く沈鬱な風景ではあるけれど、底深く美しい。ブラマンクは、人生の長い冬を、ネガティブにならず、強靱なまでの意思で乗り越え、晩年になるに従い、鮮烈なまでの生命力を開花させる。

ヴラマンクの言葉
「静物を描く場合、卓上の籠の中には栗が入っていても、背景の白い壁との調和によって、青い林檎にでも、赤い林檎にでも私は描くだろう。そうすれば、もっとよい効果が得られるのだ」 

「君が描く朱い屋根は、皆同一だ。これらの白い壁の色も等しすぎる。それに変化を与えなければならない。何故なら…世の中には同一のものは一つもない筈だから」

「 “構図”? それにこだわる必要は無い。その絵のために必要なものを、その在るべき位置に置き、不必要なものは全部省略するだけだ」 

「真の芸術は素材の選び方にある。素材の選び方は、その人の人間性のいかんにある」 

「芸術のすべての原点は本能である(……)私は心やさしい野蛮人であり、しかも激情家だった。私は本能的に、一定のやり方によらず、芸術的というより人間的な真実を表現した

「私は生涯にわたり、言葉や文章では形容できない、言うに言われぬ感情を、絵筆にぶつけることで表現してきました。キャンバス上に時の流れを永遠に留めたかったのです」。

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「没後50年 モーリス・ド・ヴラマンク展」-その1

6月13日(金)
「モーリス・ド・ヴラマンク展」
新宿に用があり出掛けた。新宿駅で損保ジャパン東郷青児美術館の「ブラマンク展」のポスターを見た。ブラマンクは高校の時、気に入っていた画家だった。重苦しく、陰鬱な空の色と、荒ぶれた、激情がほとばしるような大地のコントラストが、当時の心情に一致したのかもしれない。何度も絵の具を重ねながら、自己の心情を絵の中に塗りこめて行く、そういった彼の画風に惹かれていた。

ブラマンクの絵はあまり眼にする機会はない。展覧会もめったにやることもない。今回はブラマンク初期から晩年までの作品80点を展示してあるという。これだけの数の彼の作品だけでの展示会はまさに珍しい企画だ。彼の画風の変遷を辿れるという機会などめったにあるものではない。手短に用を済ませて、早速見に行った。

損保ジャパン東郷青児美術館
gogh_m.jpgこの美術館を損保ジャパンになる前の安田火災海上が運営していた頃、ゴッホの「ひまわり」をオークションで58億円で落札したというニュースを耳にしたことがあるのを思い出した。当時は保険会社が何故そんなに金を持っているのだろうと思った。

新宿駅から5分、超高層ビルの損保ジャパンのビルの42階に美術館はある。新宿エルタワーの裏手にある。美術館専用エレベーターで42階まで行くと、超高層ということもあって新宿という都会の喧騒の中にありながら、極めて落着いた雰囲気を持っている。

エレベーター前にチケット売り場があり、そこから入口までが展望回廊になっている。ここの高さはエルタワーより高い。エルタワーの屋上が足下に見える。エルタワーより前には高層ビルはない。新宿の街並はもちろん、新宿御苑を見下ろし、さらに東京都心から房総半島にかけての眺望が可能だ。美術だけでなく展望台としても楽しめる。そこの明るい雰囲気から、美術館の薄暗い世界に入り込んでいく。

展示場の最後に、常設展示場がある。その展示場の奥に、薄暗い狭い部屋があり、そこに、1987年10月購入した、あのゴッホの「ひまわり」が中央にあり、ゴーギャンの「アリスカンの並木路、アルル」、セザンヌ「りんごとナプキン」の3枚の絵が厳重なガラス張りの囲いの中に陳列されている。こういった3枚だけ別個に陳列されているのかなり違和感があった。しかし、3枚の購入価格を考えるとそうも言っていられないのだろう。何故かルノワールの絵は、その3枚とは別に、東郷青児の絵と一緒に飾られていた。

モーリス・ド・ヴラマンク(1876~1958年)について
ヴァイオリン奏者や競輪選手として身を立てながら独学で絵を学び、1900年頃から画家として本格的な活動を開始しました。ゴッホなどの影響のもと、鮮やかな色彩と自由な筆致を使った大胆な作品を手がけ、マティスやドランらと共にフォーヴの中心人物として評価されました。その後、セザンヌの影響を受けたきちんとした構図と渋い色合いを用いた作品を描いていましたが、1920年代頃から渦巻くようなスピード感のある筆致と重厚な色彩を用いた、劇的で力強い独自の画風を確立するに至りました。(展覧会案内より) -続く-

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人は何故生きるのかについて

6月12日(木)
5月29日のブログで「人は何故生きるのか」について取り上げた。この問題をさらに考えていくために、何人かの人の意見を取り上げた。考えるヒントにしていきたい。林扶美子は「 花の命はみじかくて、苦しきことのみ多かりき。」と言っている。生きることは苦しいこと辛いことに満ちている。しかしその中でも我々は生きる意味を探りながら生きていかなければならない。

「人は何故(何のために)生きるのか」についての意見

◆ 僕は、この悩みや疑問に出会ってからこそが、人の本当の人生の始まりではないかと思います。なぜなら、この悩みや疑問を解く事、そして、その答えを実現させることこそ、人が生まれ生きている意味だと思うからです。

◆ 人生とは、自分のやりたい事(夢)を実現する為の過程なのではないか。

◆ 生きるということは飛行機に乗っているようなものだ。そしてその飛行機に乗ると、機内放送が「皆様、この飛行機は墜落します。しかしまだ先のことですので、それまで映画・お食事などごゆっくりお楽しみ下さい」と告げる。飛行機に乗っている時間、これが人生である。この飛行機に乗って人はどう生きようとすればよいのか。

「映画」「お食事」をどう楽しみ、喜べばいいのか?ということだ。人は必ず死ぬ。死に向かって飛んでいる。その死までどう生きるか。これとどう取り組んでいくかが人としての最大の課題だ。

◆ 人はなぜ生きるのか。生きる性質をもっているから、現在生きている。生きることは結果であって、理由があるから生きているのではない。生きていることは、自然淘汰の結果であって、人は意味があって生きているのではない。人が生きているのは自然現象の一つでしかない。

◆ それを見つけ出すことが生きる目的である。生まれた瞬間に死は始まっている、死ぬ意味を問うのが馬鹿げているのと同様、生きる理由を自問するのは愚かである。他の生物同様、我々は生きるために生きている。(宮沢和史)

◆ 何のために生きるか分からないから生きているのではないでしょうか。(本田由紀)

◆ われわれは忙しさにかこつけ、哲学的な発想なり、「自分は何のために生きているのか」など考えないものだ。しかし、人間には必ず、いつの日か死がやってくる。その時に悔いの残らない人生であった、世のため、人のためにも、自分として精一杯努力して生きたと言えるもの、誇りをもってあの世に旅立ちたいものである。(北原 秀猛)

◆ 人の一生は限られていますが、この人生の中で、生まれた時よりも魂を美しいものにして死を迎えたいという言葉は印象に残りました。「何のために生きるのか」この問いに真剣に考えてみると、これからの人生が深いものになりそうです。

◆ 人は自ら存在価値を生み出し、地球や人類に貢献するために生きるのだ。だからこそ人間はそれにふさわしい生き方、考え方をしなければいけない。(稲盛和夫)

◆ 人生はやはり生きる長さではない。どれだけ満足できたか、惜しまれり、惜しんだり、それ位の方が美しい。(英ミチ)

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定期検診の日

6月11日(水)
2週間の一度の定期検診。IgM値がどうなっているか。上がっているか下がっているか。ともかく急激に上がっていないことを期待するしかない。
検査結果
  I gM      1189 ←1130←1192
 白血球      2.9←2.8
 ヘモグロビン  10.9←10.9
 血小板      15.6←14.8


IgMは若干上昇しているが、許容範囲だろう。5月14日に1192だったことを考えると、元に戻ったということだ。数十の単位での上下は問題ないが、百単位で上昇することになったら対策を考えなければならない。

サリドマイドの副作用
白血球とヘモグロビンはほとんど上下がない。サリドマイドの副作用の項目に白血球減少もまれにあるとか書かれているが、100mgということもあって今のところ正常細胞に影響はない。ただ、白血球は正常値からいうとかなり低くいが、なかなか回復しない。

それに比べ血小板はベルケード療法の時、4.5まで下がったこともあるが、ベルケード停止以降順調に回復し正常値の範囲に収まっている。今の所、サリドマイドの副作用としては、夜ぐっすり寝られること、これはいいことなのだが、日中の若干の倦怠感といった所だ。今までの抗がん剤と比べて副作用は究めて少ない。ステロイドも副腎の機能が十分回復していないので、すぐにやめられないということで弱いのを使用している。そのため副作用の心配をしなくてもいい。

しかし、まだ大量の薬を飲んでいる。確かに白血球値も低いし、IgM、IgG、IgAなどの免疫グロブリンの機能も十分とはいえない。総体的に免疫機能が衰えているということはあるが、多過ぎるような気がする。薬漬けになってしまう。

今服用している薬
 サリドマイド (抗がん剤) 100mg 毎日寝る前。
 バクタ (カリニ肺炎予防薬・細菌による感染症予防) 400mg 毎朝食後。
 ボナロン (骨粗しょう症予防薬) 35mg 週1回。
 コートリル (ステロイド) 10mg 毎朝食後。
 ガバペン (末梢神経障害・手足のしびれを抑える) 200mg 毎朝食後。
 フルゴナゾール (抗真菌剤) 100mg 毎朝食後。
 ベザトールSR (高脂血症薬・中性脂肪増加を抑える) 200mg 朝晩食後。
 オメプラール (胃薬)20mg 毎朝食後。 

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豊島区散歩-13 電車の街探索コース・その2

6月10日(火)
氷川神社
谷端川から左にはずれ、しばらく行くと、高い木々が鬱蒼と一塊になった所が見えた。氷川神社の参道はかなり長く50m位はあるのだろうか。両側が桜並木で、満開の時期はさぞ華やかだろうと思われる。今は濃い緑の葉が参道を暗く覆っている。境内で最初に眼に入ったのは土俵で、夏休みには子供達の相撲大会が行なわれるという。

境内の左奥には、高さ5mの富士塚がある。富士信仰の象徴だ。神社北側には「明治初期に発見された、縄文時代の遺跡・池袋貝塚もあり、品川の大森貝塚と共にその歴史は古く、勾玉やみみずく土偶などが出土された。」と書かれていた。

豊昭学園
豊昭学園とは東京交通短大、豊島学院高校、昭和鉄道高校の3つの学校からなる。列車をイメージした校舎が並んでいる。交通短大はアルミの外壁に黄色の線が引かれ地下鉄の外装をイメージさせる。昭和鉄道高校の正面の上にある部屋はアルミの流線型で新幹線の形をイメージしたのだろう。窓も列車の窓と同じ形で取り付けられている。豊島学園の校舎の外壁全体がメッシュのアルミで出来ている。

道沿いには本物の車両が展示されている。外にはない「電車の町」といった雰囲気となっている。昭和鉄道高校の前には、1891年英国製1B1型蒸気機関車(西武鉄道3号機関車)が展示されている。この機関車は日本の鉄道の歴史を物語る貴重な蒸気機関車だという。鉄道ファンではないが、こういった趣味的な造作は学校という一般的イメージと違っていて面白い。

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列車の外装に模した校舎

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 校舎の横にある機関車と列車

重林寺 明王山不動院 真言宗豊山派    

車がひっきりなしに行きかう雑踏の川越街道に面して、重林寺はある。境内に入ってまず眼に入るのは大イチョウだ。豊島区の保護樹木第1号に指定されたものらしい。この寺は戦災を免れたということで、本堂や七面観音供養塔などは古色蒼然としている。

多くの寺が鉄筋コンクリートで建て替えられている中で、懐かしい気がする。また築山をあしらった日本庭園もよく手入れがされていて、庭園の鑑賞対象として十分堪えられるほど見事なものだ。掲示には「述語は我にあり、三業の外に伝心なし」とあった。本尊は不動明王で開基は1650年ということだ。

池袋周辺2020_convert_20101127172321  池袋周辺2019_convert_20101127172229
 重林寺山門                         重林寺本堂

池袋本町公園
公園は木々に囲まれた広場と、つつじ園に分かれている。なだらかな丘になったつつじの築山あり、日本各地より寄贈されたつつじが多数植えられている。つつじの季節は終わり何本かのサツキが花を咲かせていた。つつじの季節だったらさぞ見事だろう。

開通記念碑
東武東上線・北池袋駅前に開通記念碑はある。ここには1934年から東武堀之内駅があったが東京大空襲による駅舎の崩壊後、1951年に 北池袋駅として再開し、その開通記念として碑が建てられた、というもので2m位の石に開通記念碑と彫ってあるだけのものだ。この前の探訪で北池袋駅を利用し、この記念碑の前を通ったが全く気がつかなかった。名所旧跡というものはそういったものなのだろう。由来を知らなければただの石ころでしかないものなのだ。

池袋周辺2026_convert_20101129122139 北池袋駅開通記念碑

妙経寺 日蓮宗
北池袋駅から東上線の踏切を渡り、以前行った「お茶上がれ地蔵」の所を右に曲がってしばらく行くと赤い幟が見えた。入口の石柱に「最上稲荷関東別院」とあり、赤い幟が何本もはためく。その幟に沿って入口を入って、参道を左に曲がると、正面に庫裏、右に墓所。さらに左に曲がると本堂がある。岡山にある日本三大稲荷のひとつ、最上稲荷の関東別院で、大正8年に創建された。境内には屋敷神(建物や土地を守護する神)の社が17基並んでいた。

池袋周辺2031_convert_20101127173230  豊島
 妙経寺本堂                         屋敷神の社

上池袋さくら公園
さすが名前の通り、広い公園には至る所にさくらの木が植えられている。何本かのさくらの木にはさくらんぼが実をつけていた。しかし大きさが5,6mm位しかない。一人一生懸命実を取っていた人がいた。赤い色の実はまだ熟しておらず、黒い実を集めていた。「おいしいですか」と聞いたら。それほどでもないと答えた。まともに食べられるさくらんぼを育てるのは大変なのだろう。手を加えてない自然のままの実は、小さくすっぱいのだから。

堀之内人道橋
さくら公園の裏に、人道橋の上り口がある。橋の上からは、運用中の電車の停泊場となる「池袋運転区」が一望できる。待機中の山手線車両や成田エクスプレス、走行中の埼京線や東武東上線を眺められる。「鉄道マニアも必見のスポット」と言われているが、鉄道マニアでなくてもかなり壮観な眺めだとは感じさせた。

子安稲荷神社

領主斎藤氏に五穀豊穣、火難防除の神威を約された「稲荷大神」は、天正時代以前からこの地に奉斎されていたが、1715年疫病流行の際には特に霊験あらたかだったので、このことから「子安稲荷」と称えられ子育て・安産の神様として知られるようになったと、伝えられている、と書かれていた。境内にはツツジやスイセンなど四季折々の花が見られるとあったが、あいにく終わってしまって、アジサイだけが一本ぽつんと花をつけていた。

池袋周辺2041_convert_20101127173526  池袋
 子安稲荷神社本殿                     猿田彦大神の社

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

豊島区散歩-13 電車の街探索コース・その1

6月10日(火)
梅雨の合間の貴重な晴れの日だ。洗濯にうってつけだ。その洗濯は早々と済ませて、さてどうするか。家にじっとしているのはもったいない。ということで、終わったと思っていたが豊島区の散策コースがまだ一箇所残っていたので行くことにした。コース案内では下板橋駅か上池袋駅から出発するのだが、自転車で行くことにした。そのためコースは自分で勝手に組み替えた。

今回のコースは「鉄道マニアも必見。電車のまち探訪コース」で「電車の停泊場が一望できる橋や、鉄道の学校群があるなど電車にゆかりのある地、つつじや桜など花や緑も楽しめる、北池袋駅周辺を巡るコースです。」と案内にあった。

谷端川北緑道→氷川神社→東京交通短大→豊島学院高校→昭和鉄道高校→重林寺→池袋本町公園→開通記念碑→妙経寺→上池袋さくら公園→堀之内人道橋→子安稲荷神社

谷端川沿いを行く
池袋周辺020_convert_20101126170202  池袋周辺005_convert_20101126165120
 谷端川北緑道

下板橋方面に向かうにはひたすら環状6号線(山手通り)を川越街道に向かって進んでいくルートがわかりやすい。しかしそれでは面白みがないので谷端川沿いに行くことにした。今は暗渠になってレンガで舗装され、木々や草花が植えられ公園となっており、四季折々の花を楽しみながら散歩することができる。所々に遊具やモニュメント、鳥や虫の絵のモザイクタイル、動物や子どもをイメージした彫像なども見られ、子供から大人まで楽しめる遊歩道となっている。

この遊歩道が椎名町から下板橋まで2.2km細長く続いている。スミレやキンギョソウといった春の園芸種の花は終わってしまったが、バラのアーチが所々にあり、遅咲きのバラが花を咲かせている。サツキとアジサイも鮮やかな色で楽しませてくれた。レンガ色の歩道に植物の緑がよく映えている。

谷端川は、豊島区と板橋区の境界、都立板橋高校近くの六差路から始まる。ここで千川上水から水を取り入れ、栗駒神社の池を水源としながら、西武池袋線の椎名町駅の横を通り、駅と、環状6号を越えたあたりで左折し、そこから暗渠の公園が始まる。椎名町から要町通りまでの間に、アトリエ村が存在したということだ。池袋モンパルナスと呼ばれた芸術家集団が住んでいた。

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 谷端川親水公園                       谷端川第2親水公園

谷端川遊歩道は、川越街道を挟んで椎名町方面を南緑道、板橋側を北緑道という。要町交差点傍から北に向かうところが親水公園という。滝やタイル張りの池が作られて水遊びの場所となっている。大通りを突っ切るたびに公園の様相が違ってくる。植えてある木や草花も違うし、遊具が置いている所もない所もある。大きな木に覆われている所も、草花だけの所もある。豊島区と板橋区の公園課のセンスの違いだろうか。川越街道を渡り、北緑道を5分ばかり行き、緑道から離れ右に、2、3分で最初の目的地氷川神社に着く。(続く)

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

豊島園・あじさい祭り

6月6日(金)
豊島園のあじさい園
久しぶりに晴れた。豊島園で「あじさい祭り」をやっているということで出掛けた。入場料はあじさい祭りの間は、40歳以上500円と通常の半額となっている。遊園地が目的でなくアジサイだけを見に来る人たちのための配慮だろう。

どんな花もそうだが、あじさいの種類の多いのには驚かされる。まあよく付けたけたと思われる名前も多い。ヤマアジサイの富士の滝、オオアマチャ(大甘茶)、八丈千鳥、胡蝶の舞、エンドレスサマーなど多種多様だ。また特別展示として伊豆の紫風、古代紫、城ヶ島、伊豆の華など希少な伊豆産のあじさいが植えられている。

梅雨から夏にかけて咲くアジサイは、七変化と言われるように咲いているうちにだんだん色が変化していく。そのためか花言葉は「移り気」という。しとしと雨が降る庭に咲くアジサイの花は、梅雨時の風物詩として心を和ませている。

昨日雨だったためあじさいの葉は濡れ、趣を出している。遊園地を突っ切りアジサイ園は一番奥だ。入口の周りにはあじさいの鉢植えが多数売り物として並べられている。4,5千円するものもある。あじさい園には140品種、8500株のアジサイがあり、品種改良された数多くのアジサイがあたり一面咲き乱れている。

入口を入りあじさい坂を登って行くとひときわ沢山咲いていたのが、ホワイトツリーと、エンドレスサマーだ。この品種は育て方によっては冬も咲くそうだ。だからエンドレスサマーと言うのかも知れない。お花見テラスの周辺は水色の丘と言われ、水色のあじさいが一面に広がっている。さらに進んでいくと白い小道というアメリカ産の白あじさいアナベルが道の両側を埋め尽くしている。

豊島園紫陽花園010_convert_20100320202701 エンドレスサマー

豊島園紫陽花園020_convert_20100320203045 ホワイトツリー

あじさいの宝石箱というコーナーでは、赤や青、白、ビンク、等の様々な色彩と多種多様な形が、鮮烈で珍しく、それぞれ独自の個性を存分に主張しているようだった。山あじさいの小径は雑木林に囲まれ、80種の関東では見かけないあじさいが咲いている。

豊島園紫陽花園033_convert_20100320203228 山アジサイ

豊島園紫陽花園023_convert_20100320203500 山アジサイ

あじさいのトンネルはつるあじさいで覆われた20m続くトンネルで、中をくぐるとむせるような花の香りが立ち込めている。確かにあじさいは都内の至る所に咲いている。私の家にも一本ある。かなり適当に育てていてもちゃんと春になると芽を出し、6月には花を咲かせる。その見慣れたあじさいだが、これだけ大量にあり、種類も豊富だと全く違ったイメージを与える。

豊島園033 紫陽花のトンネル

あじさいに四季咲きのものがあったり、あじさいの葉を揉んで甘茶を作るといったことが表示されていたり、それなりにあじさいについて知ることが出来るし、花を一つずつ観察すると、自然が作り出した造形美にひたすら感心するばかりである。

昆虫館
豊島園021あじさい園の一角に昆虫館がある。来たついでに入館してみることにした。ここには約40種類の外国原産の昆虫を生きている状態で展示している。特に世界最大のカブトムシ「ヘラクレスオオカブト」など大型の甲虫や、 ハナカマキリ、ナナフシなど珍しい昆虫を見ることが出来る。また蝶や玉虫などの標本も展示されている。

昆虫の天敵のタランチュラやベルツノガエルなどの生き物も紹介しており、水生昆虫コーナーではミズカマキリ、タガメ、ゲンゴロウなどの水に棲む昆虫を展示している。ふれあいコーナーでは1年中、生きたクワガタ・カブトムシに触ることができる。5歳位の子どもがヘラクレスオオカブトを触って喜んでいた。

売店ではカブトムシやクワガタの成虫や幼虫を売っていた。45,000といった高額なカブトムシも売られていた。誰が買うのだろう。その外に、カブトムシやクワガタを飼うかごや木屑、エサなども売っていて、子ども達にとっては、興味が尽きせぬグッズであるに違いない。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

医者の知識

6月5日(木)
 医者は、自分の専門分野だけでなくあらゆる分野の知識を必要としている。専門分野のみの固執は、病状に関しての正確な診断を阻害することになりかねない。私の担当医は内科だが皮膚科や眼科の薬も処方する。またある病院では、内科、外科、放射線科の医者がチームを組んでがん患者に対応し、医療方針を決めていく。こういった個人の知識の獲得と同時に、各科がセクショナリズムを超えて連携していくことによって正しい医療方針を探し当てることが出来るのだろう。

私が原発性マクログロブリン血症と分かったのはあるきっかけからだった。仕事中、足の指に物を落とし、怪我をして近くの整形外科の医者で治療を受けた。1週間位たってもなかなか血が止まらず、血液検査をした方がいいと言われた。その結果、血液中にタンパクが異常に多いということで専門病院に紹介され、病気が判明したという経緯がある。

 町の整形外科医は、血液検査をするにあって、骨に痛みはないかとか、腰が痛いとかいうことはないかと質問した。何でそんなことを聞くのだろうといぶかしげに思っていたが、後になって、血が止まらないということは血液ガンの可能性を考えており、骨の痛みについての質問は多発性骨髄腫を疑っていたということが分かった。整形外科医でもガンの知識があるということに驚いた。

60歳半ば位の町医者だが、医学博士でもあり、多彩な知識を持っていることが言葉の端々に感じられる。以前皮膚の炎症で通院した時に、日本軍が戦場で使っていた薬だと言って処方された軟膏があった。硫黄臭いにおいには閉口したがよく効いた。

確かに整形外科医にとって、多発性骨髄腫の知識は不可欠なものだろう。腰が痛いといって治療に来た人の腰痛の原因が何かを判断出来なければ治療方針も立たないはずだ。多発性骨髄腫の患者の中には、腰や腕などが痛いといって、マッサージや牽引などの治療をやってガンの発見が遅れたといったことがよくあるそうだ。

確かに腰の痛みから、誰がガンを想像できるだろうか。多くの整形外科は恐らく、腰痛の一般的治療を施すだろう。一向によくならず、患者は別の病院に行ってガンであることを知ることになる。その頃にはかなり病状が進行しているというわけだ。町の病院がつぶれ、一方大病院が3時間、4時間待ちが当たり前のように込み合っている。町医者も知識により貪欲に、幅広い知識を持って対応すれば患者もついてくるだろう。現にそういった医者のいる医院ははやっている。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

薬の効果と副作用

6月4日(水)
6月2日から関東は梅雨入りとなった。これからはひたすら雨が降るのだろう。終日家に居ることが多い。買い物以外家を出ることはない。サリドマイドを服用し始めてから2ケ月たった。この薬は元々睡眠薬として発売されたということもあって、その効果はきわめて強い。おかげで夜はぐっすりと7、8時間は目が覚めることがなく眠り続けることができる。かって仕事をしていた時には、体を動かす仕事だったこともあって布団に入ると5分もしないうちに、寝入ってしまっていった。そんな状態だ。

しかし、入院してからは、体を動かすことが少なく肉体的疲労が全くないことと、治療用に投与されるステロイドのせいで夜はほとんど寝られなかった。寝てもすぐ目が覚めてしまう。それの繰り返しで、合計3、4時間位しか寝てなかったような気がする。それがずっと続いていた。

この間サリドマイドのせいでぐっすり寝られるのはいいのだが、以前毎日6時には起きて6時30分のラジオ体操に出掛けていたのだが、最近は目が覚めるのが7時過ぎで、起きてもすぐに出かけるといった体調ではなく、2週間ほどラジオ体操には行っていない。サリドマイドの催眠効果が徐々に強まってきているのではないか。日中でも、家に居るとだるく感じ、横になってしまうことがある。それが段々強まってきているような気がする。

確かにサリドマイドの量としては100mgという最低限の量だが、この量でこれほどの催眠効果やだるさがあることからして、200mg、300mgを服用している人も多いらしいが、その人達の体調はどうなっているのだろうか。日常生活を普通に送ることが出来ているのだろうか。

サリドマイドの副作用としての「傾眠」とあるが、長い間飲めば飲むほど、蓄積し傾眠作用が強まっていくようだと、日常生活にも支障をきたしていくだろう。今のところ朝起きられない位だからいいようなものの、さらにだるさが強まってくるようだと問題だ。

薬の効果と副作用との兼ね合い、バランスを取るのが難しい。この選択がガン治療にとって最も重要な問題なのだ。薬の副作用によってまともな日常生活が出来ないまま長生きするのか、通常の日常生活を続けるために薬を減らして、ガン細胞の増殖を阻止できず早死にするかが問題なのだ。しかし、薬を減らしても長生きしている例は幾らでもあるので、副作用に打ちのめされるような生活はごめんこうむりたいものだ。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

達成感とは何だろう。

6月2日(月)
11693_406930000.jpg 4月25日から全仏オープンテニスが始まった。全米、全豪、ウインブルドンと並んで4大グランドスラムの大会だ。ここのコートは赤土のクレーコートで、ハードコートに慣れている選手は、球足が遅く、長時間の打ち合いを強いられ、体力と気力の勝負といったコートのコンデションとも闘わなくてはならない。

「赤土には魔物が潜む」と言われているように、シード選手が次々と敗北していく。ランキング5位と8位のウイリアムズ姉妹も3回戦で敗北した。世界ランキング1位、シード1位のシャラポワがランキング100位以下の選手を相手に1回戦、2回戦とも1セットを落としやっと3セット目で勝利したという苦戦を強いられた。

1回戦では第3セット目マッチポイントまで取られながら6-6まで行き、最終的には8-6で勝った。相手の選手が、長時間闘い抜いた3セットの最後に脚にかなり疲労が蓄積し、十分な動きが出来なくなり、それが一つの要因となり負けたといえる。その位、長時間走り回らなければならないのだ。

勝つのが当然だと思われているのもかなりのプレッシャーだろう。そういった中で苦労に苦労を重ねてやっとももぎ取った勝利は大きな意味を持ち、喜びもひとしおだろう。それまでに積み重ねてきた血の滲むような練習の日々という積み重ねがあって、勝利というものは可能になる。練習が厳しければ厳しいほど、試合に勝ったときの感動は大きい。勝つためという目標に向かって、勝った時の達成感を得るために、その瞬間のために今までの人生全てが注がれてきたのであり、その瞬間の中で凝縮して開花されるのである。

● スポーツは過程と結果が結びついているので究めて分かりやすい。もちろん人一倍苦労してもいい結果が得られない選手はいくらでもいる。勝利を得られるのはごくわずかだろう。しかし、努力をする中で自らを鍛え、人生に立ち向かう力を獲得出来ていく事も意味あることだろう。

バレーボールの試合を見ていて思った。日本代表として12人が選ばれている。この12人の中に入るのは並大抵のことではない。さらに試合に出られるのは6人だ。そしてその6人のメンバーはほぼ決まっている。時々の交代以外、後の6人は待機している他ない。

試合に出る選手に選ばれること事態が大変なことなのだ。ましてやそこで世界の強豪を相手に勝利を得るということはもっと大変なことだと思った。その困難さが勝利をより感動的なものにしてくれるのだろう。

 こういったスポーツの世界での達成感は究めて分かりやすい。しかし人生における達成感はどこで得られるのだろうか。目標に向かってひたすら努力を積み重ねる他ない。病人にとっては病気と闘い続けること、病気を治すことが目標だろう。例えそれが不治の病であっても生き続ける事、意味ある人生を生き続ける事が達成感への一歩一歩の道なのかもしれない。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

U2とアフリカ

6月1日(日)
5月31日の朝日新聞は『アフリカ特集』ということで、ロック歌手のボノ、ボブ・ゲルト両氏が編集委員を務めた紙面が掲載されていた。ボノ氏はU2の歌手で、U2の曲は何度か聞いたことがある。その彼の現在の活動については知識がなかった。彼は国際NGO「DATA(債務、エイズ、貿易、アフリカの頭文字)』の共同設立者として途上国支援に取り組んできている。

U2とは
200px-U2sbs_japan.jpgU2は76年にアイルランドはダブリンで結成。80年、『ボーイ』にてシーンに登場する。パンク/ニューウェイヴの息吹を十分に吸い込んだ煽動的かつストイックなサウンドを展開。そして、「ブラッディ・サンデー」「ニュー・イヤーズ・デイ」など、彼らの代表曲を収録した83年の衝撃作『WAR(闘)』にて爆発的支持を獲得していく。

70年前後のロックの全盛期以降、色々な形でロックが変質していき、低迷していく中で、U2は正統派とも思えるサウンドで人々を引き付けていった。アイルランド紛争のさなかに起きた「血の日曜日事件」を取り上げた曲は、音楽を聞く前にその題名に衝撃を受けたことを覚えている。その頃聞くべきロックがなかったこともあって、“Bloody Sunday”はよく聞いた。

U2の主張

『WAR(闘)』のオープニング曲”Bloody sunday”では、1972年北アイルランドで英国兵が無差別発砲し、14人のカトリック市民を虐殺した「血の日曜日事件」を取り上げ、それを弾劾する一方、不偏の非暴力主義をアピールし、IRAの活動を批判する立場をも示した。現実の社会矛盾を抉り出し鋭く告発する姿勢、政治的な問題を臆することなく全面に打ち出し、自らの主張をアピールする勇気に感動した。世の中の不正に対する怒りをロックで歌い上げたのである。

70年前後ベトナム戦争に反対するプロテスト・ソングがジョーン・バエズなどによって歌われていたが、その後ロックは自らを主張することなく、音の変容にエネルギーを割いてきたような気がする。こういった中で突然、露骨に、ストレートに自らの政治主張を打ち出してきているU2の音楽に惹かれていくのは必然であった。彼らは音楽を通して宗教紛争、反核、人権、薬物依存症などの社会問題提起を行った。アフリカの発展途上国やエイズ問題などへのチャリティー活動にも積極的に参加してきた。この延長線上にボノ氏の今の活動があるのだろう。

ボノ氏の発言
U2のボノ氏は、7月のG8サミットに向けて、来日したのだろう。そこでのアフリカ援助をアピールするために。彼は語る「日本は援助を倍層しても、ドイツの今年の援助額のほぼ4分の1に過ぎない。日本は近隣地域で何百万人をも貧困から引き上げるという目覚しい成功を収めた。同じ戦略をアフリカに適用すれば似たような結果が出ないだろうか。貧困だけでなく政治腐敗とも闘っているアフリカ諸国が、インフラや教育、医療制度など経済成長の前提に投入できる資金が不足しないよう確保しなければならない」と。

アフリカの現状
船橋洋一氏は次のようにアフリカの現状について語る。「アフリカほど人間社会と国際社会の脆さを映し出してきた地域はない。貧困、エイズ、内戦、破綻国家、難民、テロ・・・。今ここで世界の『底辺の10億人(ボトム・ビミリオン)』のほとんどの人々が生存と戦っている。

アフリカには最近、もう一つの顔がのぞく。石油・ガス・レアメタルの産出、中国、インドの進出、成長得の離陸など、アフリカはビジネスとなりつつある。ただグローバル化の加熱の中で、それは国内の富と所得の格差をさらに広げる。」

アフリカへの援助の問題
「アフリカへの援助は善か悪か」セネガルのアッジ・ウオッルジ氏は語る。「アフリカ開発会議で何十億ドルもの大金がアフリカに貸与されるだろう。だが、その金のほとんどは、アフリカの政治家たちが欧米で買う別送やジェット機などに使われ、欧米に還元される。大多数のアフリカ人は負債を背負いながら、貧困や飢え、病気、無学といった屈辱に耐え続けなければならない。

援助国は被援助国に対して、援助金の使い方を厳しく指摘すべきだ。強力な監視制度による厳しい統治規則を負わせない限り、「支援」真の意味でアフリカ人のためにならない。」

ODAによる援助の問題
ODAによる資金が、必ずしも必要でない橋などの建築物に使われそれを日本の建設会社が請け負うという構造が問題となったことがある。国民の税金が結局、建築会社の利益になるという仕組みが明らかになった。またアフリカの病院で、埃まみれになったCTスキャンがテレビで映されたことがある。故障したが、修理する人がいなくてそのままになっているという。医師は言う「必要なのは何百万もする高価な医療器械でなく、薬なのだ。薬を買う金がなく、薬があれば治る病気も治らない」現地の実情を無視した援助は全く意味を持たない。

我々の税金から拠出される援助金がどのように使われているのか、それを監視、管理する責務を政府は果たすべきだし、それを我々はチェックしていく必要があるだろう。

テーマ : 雑記
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Author:yosimine
がん治療とは長く細い道を辿ら
なければならない。その先に希
望があると信じながら。

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