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小泉・竹中路線「構造改革」の失敗

9月29日(月)
小泉元首相の引退表明を受け、改めて彼の行なった政策がどのようなものであったか考えてみたい。今盛んに彼のやってきた政策に対して「負の遺産」という言葉が使われている。当初は見えなかった政策の矛盾が今になってほころび始め、その政策がどういった結果を国民にもたらしたか明らかになってきている。

しかし現実の噴出する矛盾をまざまざと見ながら、未だ小泉路線を継承しようとする議員がいるとは驚きだ。総裁選に出馬した、小池議員、石原議員が小泉路線の継承を主張する。一体現実の何を見ているのか。

構造改革のもたらしたもの

小泉・竹中路線の新自由主義、市場原理主義に基づく構造改革は何をもたらしたのか。一連の構造改革が日本の経済と社会を疲弊させ、現在の不景気を生み出している。聖域なき構造改革の「目玉」として、「地方に出来る事は地方に、民間に出来る事は民間に」という小さな政府論を具現化する政策として推進してきた路線は、植草一秀が当初主張したように、「構造改革」が実行されれば日本経済は破滅的結末を迎えると警告したその道を歩んでいるように思える。

「今、大恐慌以来の戦後最大の金融危機が起き、グローバル同時不況は起きている。ここで市場原理主義に基づく構造改革路線を取れば、ますます格差が広がり、日本経済の不況は深刻化するだけである。」

「構造改革による雇用や社会保障の破壊が格差を拡大させ、また地方交付税削減策が地方の衰退をもたらして内需を低迷させた。それがますます日本の経済構造を脆くする。」(金子勝)
このように、今日、構造改革は完全に失敗であった事が明らかになっている。

小泉・竹中路線に基づく構造改革は、どのような結果をもたらしたのか。全てを網羅しているわけではないが気が付いた所を以下列挙してみる。

規制緩和
 

1、新規参入の大幅緩和でタクシー、運送会社運転手への過酷な労働の現状。
2、2004年4月1日、食糧法を大幅に改正する「主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律等の一部を改正する法律」が施行され従来からの農業従事者に限らず誰でも自由に米を販売したり流通させることが出来るようになった。それが汚染米問題を筆頭とした、食の安全の放棄。偽装の拡大につながっていった。
3、米国保険会社の参入。
4、構造計算書偽造問題(耐震強度偽装問題)、ライブドア事件、村上ファンド事件、福井日銀総裁の株取引疑惑など企業倫理の破壊。

市場原理主義
1、正規、派遣、請負、フリーターと分断し、労働者身分制を作り上げた。
2、正規と非正規の賃金格差の増大。過労死・過労自殺の増加。
3、労働者派遣法の改悪。日雇い派遣の解禁。非正規労働者の増大。不安定な労働環境の創出。
4、貧困の拡大と自殺者の増加。
5、銀行への不良債権処理のため、税金の投入。公共事業の削減によって生じた国庫負担の削減分は、金融機関の不良債権処理等、金融セクターにおける私企業の救済に充てられており、利権が建設族から金融族に移行しただけ。
6、銀行の貸し渋りによる下請け中小企業への抑圧。中小企業の膨大な倒産。
7、史上最高益を上げる大企業hの減税。
8、都市部と地方の格差の拡大。地方の疲弊、空洞化。地方交付税や公共事業の縮小により、成長産業を持たない多くの地方自治体の財政赤字。赤字に苦しむ自治体の公共サービスの削減。
9、経済財性諮問会議(経団連会長・トヨタの奥田碩がメンバーとなっている)による大企業優先の政策。

社会保障・福祉の削減
1、障害者自立支援法による障害者の負担増。
2、高齢者の医療費負担の増加。
3、後期高齢者医療制度の新設。「墓場に向け高齢者の背中を押す」制度。
4、生活保護費支給の制限。自殺者まで出す。
5、医療制度改革のため患者の医療費負担が増大。医療費抑制(診療報酬削減)は医師の労働環境を悪化させ、地域の医療システムを疲弊させている。公立病院の8割が赤字経営となっている。そのため医者の過重労働、医師不足市立病院の閉鎖へと至っている。公立病院へのPFI方式の導入によって公共医療に営利主義を持ち込む。
6、研修制度の改訂により、医師の都市への集中。

対米従属政策
1、アフガニスタンやイラクへの戦争加担。
2、在日米軍に対する財政支出(いわゆる「思いやり予算」)について、全く手付かずのまま放置されている。
3、市場開放要求の受け入れ。
4、「日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく要望書」(年次改革要望書)の忠実な実行。即ち日本経済を米国金融資本に売り渡し、日本外交を米国の戦争に加担する外交に集約していった。米国の新自由主義における、軍事力と金融政策を要とする世界支配イデオロギーに日本の内政、外交共に完全に従属することになった。

小泉流新自由主義の終焉
このように見ていくと、結局、小泉路線というものは日本の金融資本と、米国の傀儡として動かされてきた結果のものである事が分かる。彼の路線は、米国の〈年次改革要望書〉に忠実に従ったものでしかない。

米国の日本改造計画である〈年次改革要望書〉に唯々諾々と従うような政策が何故まかり通っていたのだろうか。そして今米国の新自由主義の破産、金融破綻と、イラク、アフガン戦争の泥沼化によって米国の世界戦略に大きな亀裂が走ってきている状況の中で、「構造改革」路線から決別した抜本的な政策転換が迫られている。

(注) 年次改革要望書
内政干渉と思われるぐらいきめ細かく、米国の要望として書かれている。年次改革要望書の全文が日本のマスメディアで公表されたことはない。 郵政民営化をはじめとする構造改革の真相を国民が知ることとなったら暴動が起きかねないので、マスコミ対策は用意周到になされていた。

年次改革要望書の内容
建築基準法の改正や法科大学院の設置の実現、独占禁止法の強化と運用の厳密化、郵政民営化といったものが挙げられる。郵政民営化は郵便貯金や簡易保険などの国民の財産を外資に売り渡すことになり、また三角合併解禁については時価総額が大きい外資が日本大手企業を買収して傘下に置き易くすることを容易化する行為として、外資への売国的行為とする意見がある。

反米愛国など叫ぶ右翼が、こういった小泉路線に全く反対しなかったのはどういうことだったのだろうか。右翼が結局は現政権と密接な関係にあることを証明するようなものだ。

郵貯資金は、既にゴールドマンサックスを通じて、日本から欧米へ兆円単位で流出している。医療改革は、アフラック、AIG(アリコ、スター生命)、アメリカンホームダイレクトといった外資系保険を利することが目的として行なわれたといっても過言ではない。一方で患者の医療費負担増大や医療報酬減額が医療崩壊に繋がっている。医療の質が低下すればするほど、医療保険の需要は急速に伸びてくる。
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テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

議員の世襲制について

9月28日(土)
昨日、小泉元首相は、後援会に対して正式に引退を表明した。それと同時に、次男を跡継ぎに指名したという。改革だ、自民党を潰せだの言っていた人が世襲制に固執するのはなんとも奇妙な話だが、それが彼の実態だったのだろう。彼も3代目なのだから。

今度の麻生内閣の閣僚の7割近くが世襲議員だという。誰かが封建時代と同じだと言った。また北朝鮮じゃないんだからとも。北朝鮮を批判する人が何故日本の議員の世襲制に違和感を覚えないのだろうか。中には優秀な人もいるかもしれない、しかし現実は親の地盤を子が受け継ぎそれで当選するという構造になっている。その人の力量で議員になる訳ではない。

18人中11人の閣僚が世襲議員であるということ、ますます世襲議員が増えて行くという現状は何を意味するのか。民主主義や国民主権ということへの限りない逆行であるように思う。「平安時代の貴族社会と同じだ」と言った人がいるが、政治を行なう支配層の職業には血縁を持った貴族が位置し、生まれながらの庶民には額に汗して働いて税金を納めるしかないといった社会構造を作り上げ、それを容認する社会を成立させることになるのではないか。

世襲議員を多くを抱えた政党に何が出来るのだろうか。本当に国民の苦労が分かっているとは到底思えない。一切金の苦労もなく育った、世間を知らないボンボンに本当に国民の現状を認識する能力があるとは思えない。だから老人から金をむしりとったり、生活保護費を削減したり、障害者への負担を強化したり、平気で福祉切捨てをすることが出来るのだ。

また世襲ということで親から受け継いだ地盤と後援会との関係の中で地元への便宜供与が議員としての主要課題となる。国民目線でなく地元利害を優先することになる。道路族議員などはその際たるものだ。

中川元国土交通相は、成田空港に関してごね得だと言い、日本人は単一民族だと語り、日教組批判を行なった。これは閣僚としての人格を問われるだけでなく、人間としての人権感覚を疑うに余りある発言だ。何故このような常識すら持ち合わせていない、見識に乏しく、状況把握が出来ない議員が選ばれるのか、選んだ人たちの見識を問いたいと思う。

結局利権に基づく地元の人間関係に縛られたしがらみの中で選んでしまっているのだろう。しかし、ゼネコンと関係を持ちながら公共事業の発注によって地元に利益をもたらすという利益供与が出来なくなって来ている現状がある。また長い間道路族議員の票のもとであった道路特定財源の見直しの中で、それも利用しずらくなってきている。

このような中で、利益供与でなく政策と、その実効性が本当に問われていくのが今日の状況だろう。そういった意味で選挙で誰を選ぶかの選択が、一人一人に問われているのだろう。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

柳瀬川回廊

9月27日(土)
朝の気温は23度、降水確率0%、すっかり涼しくなり夏の暑さで体力を消耗していた季節は過ぎ、少し体を動かし体力の回復を図らなければならない。空気が澄んでいると家の中にいるのがもったいない気がする。

どこか郊外にでも行こうかと、どこに行くか決めずに、西武線に乗った。高麗まで行って、丁度見頃の巾着田の曼珠沙華(まんじゅしゃげ)の群生を見ようとも思ったが、土曜日で込んでいるだろうから、どうせなら平日に行こうと思って止めにした。

とりあえず清瀬で下りて、駅前の案内板で散策コースを探す。去年入院前の10月19日に行った雑木林の道の「清瀬中里コース」を、その時は半分位しか回っていなかったので別のルートを回ることにした。

清瀬駅→けやき通り→清瀬御殿山緑地保全地域→柳瀬川回廊(柳瀬川崖線緑地→柳瀬川河岸→金山橋→清瀬金山緑地公園)→けやき通り→清瀬駅

清瀬御殿山緑地保全地域

清瀬駅の北口から真っ直ぐと伸びている、けやき通りを進む。新東京百景に選ばれたけやき並木が延々と続いている。そこを30分位歩くと、清瀬御殿山緑地保全地域がある。 けやき通りに面した、下清戸の農地の中にある約1.5haの武蔵野の面影を残す平坦な雑木林だ。入口に雑木林についての解説の看板があった。

「雑木林とはクヌギやコナラなどの落葉広葉樹で構成された、人工的・意図的に作られた林のことで、広義には人里周辺の入りやすい林の意を含み、クヌギやコナラは燃料薪として繁用された樹木であり、雑木林が貴重な燃料材生産の場であった。雑木林のクヌギやコナラは成長が早く、15~20年おきに定期的に伐採される。これを繰り返し行ないながら長い年月にわたって雑木林を維持していく。また、下草を刈る作業も欠かせない。下草を定期的に刈らないとたちまち雑草や笹などが生えてきて、数十年するとシイやカシなどの常緑広葉樹に覆われてしまう。」

武蔵野台地に広がる雑木林、手付かずの自然だと思っていたが、そうではなく人の手が入ることによって維持されているとは始めて知った。秋の紅葉を楽しませてくれる雑木林の木々がそのようにして維持されてきたと思うと感慨深いものがある。「ボランティアが管理している」という意味はそういうことだったのかと分かった。その雑木林の周りにはコスモスが至る所に咲いていて秋の雰囲気をかもし出していた。

柳瀬川回廊
清瀬御殿山緑地保全地域から柳瀬川に向かって歩いていくと、去年には見なかった「柳瀬川回廊」という標識が立てられている。

これは清瀬市が「柳瀬川流域のかけがえのない美しい自然の恵みをだれもが享受でき、健康で快適に生活できる街作りの一環」として、柳瀬川回廊構想を策定しそれに基づき、「柳瀬川流域一帯を、河川や崖線の緑地を保全するだけでなく、流域の水辺、緑、親水施設、文化財を遊歩道でネットワーク化することにより、水と緑の回遊空間を創出していく」ものとして環境整備していったということだ。

このように市が自然保護と、市民の憩いの場を提供しようとする姿勢は、至る所で自然破壊と乱開発が繰り返されている現状の中でほかでも見習って欲しいものだ。

柳瀬川崖線緑地から柳瀬川沿い
柳瀬川回廊で、最初に行きあたったのが柳瀬川崖線緑地という場所だった。川から少し離れた場所で、昔川が造り上げた崖と言うほど急ではないが、斜面が雑木林になっていてそこが遊歩道として整備されている。そこを5分ばかり歩き、川に出る。

川沿いの道は桜の木が並木を作っており、花が咲いたらさぞ見事だろう。川沿いの遊歩道には曼珠沙華が咲き乱れ、赤い絨毯のように広がっている。しばらく川沿いに行くと道は狭くなり、ススキの林になり、そこを押しのけさらに進むと、金山橋に出る。その橋の付近の川原では、何10人かの人たちがバーベキューをやっている。子供たちが川遊びをしている。近くでこういった事ができる場所があるのはうらやましい限りだ。

清瀬金山緑地公園
kiyos.jpg金山橋の対岸が清瀬金山緑地公園だ。この公園について次のように書かれている。
「この公園のテーマは“武蔵野の風と光”で、武蔵野の自然の再現を図っています。園内全体には、ケヤキ・クスノキ・コナラ・エゴノキ・ウツギ・ヤマハギなどの樹木とクマザサや各種の野草が植えられ、武蔵野の雑木林が再現されています。」

公園はかなり広く、池があり川があり、林があり、時期にやっては蛍が飛ぶのを見る事ができるという。湿地帯もあり花菖蒲も楽しめるそうだ。

この公園からまた金山橋を渡り、けやき通りまで行き、そこから今度はバスで清瀬駅まで戻った。コスモス、曼珠沙華、すすきと秋の雰囲気を大いに感じさせてもらった散策だった。ほぼ1時間半のウォーキングだった。久しぶりに歩いたが、それほど疲れることもなかった。滑り出しとしてはまあまあと言った所だろう。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

銚子市立総合病院の閉鎖

9月26日(金)
市立病院の閉鎖の意味
銚子市立総合病院の閉鎖のニュースをテレビで放映していた。昨日最後の患者が転院し、それを市長が見送る場面が映された。そして今日190人いる職員全てが整理解雇される。その内4割は次の就職先が決まっていない。外来診療は9月30日を持って終了し、全ての業務が終わる。

公立病院の存在意義は、地域医療に責任を持ち、「市民の命と健康を守る」という役割を担うことにある。その維持運営は、何よりも優先させなければならないことであるはずだ。税金をどこに使うのかそれは、市民が決めるものなのであるはずだ。市長は公約を破り、一方的に病院閉鎖を強行した。

確かに、国の研修医制度や診療報酬制度の度重なる改訂により、銚子市立病院はこの数年間に医師不足に拍車がかかり30人以上いた医師が16人に減り、経営状況が年々悪化していることは事実だが、しかし、市は医者を集める努力を本当にしたのか。

医師不足に対して
2008年3月17日、当時の佐藤博信院長が、任期を1年8ケ月残して辞職願を出した。「精神的な疲労」を理由に挙げたが、親しい人には「9億円という資金の上限を決められ、右腕だった事務局長も替えられた。市は本当に病院を立て直す気があるのか」と漏らしたという。

院長不在は、医師集めに影響を及ぼした。3月時点で1人の採用が決まったが、4月以降の着任が固まっていた2人は、キャンセルになった。07年10月に16人まで落ち込みながら、「08年度中に20人体制を確保できる」(病院関係者)勢いだった常勤医師は、再び減少に転じた。全国自治体病院協議会は「事務局が頑張っていたので、こちらも銚子を助けようと、7月1日に医師1人を送ったが、6日後に休止を聞かされた」と憤慨する。閉鎖を前提に計画を進めている市の姿勢の中では、働こうとする意思がある医者がいても引いてしまうだろう。

財政難で何を削るのか

本当に財性難なのだろうか。市当局は新しい市立高校の建設をPFI方式(民間の資金、経営能力、技術力など活用して公共サービスを提供する方式)により行い、新たに70億円近く借金する、としている。
そもそも、前市政は銚子市への大学誘致に公費を90億円以上も投入しており、市の財政危機の最大の要因を作っている。市当局自ら作り出した財政危機であり、それを市民の命綱である市立病院閉鎖という形で市民にしわ寄せしようとしている。

この銚子市民病院の閉鎖はここだけに止まらない。このままでは、首都圏での公立病院閉鎖のドミノ倒しの引き金になりかねない。銚子市民病院の166人の入院患者、1万人の外来患者は医療難民として、ほかの病院に行くほかない。一番近くの旭中央病院では外来患者20%アップ、救急患者が2倍になり、それでなくても忙しい業務にさらに拍車がかかっている。それは医者への過重労働を強いることになり、医者離れを起こす原因になってくるのである。

小泉改革の負の遺産
こういった病院閉鎖をはじめ、福祉の切捨ての元凶は、2001年誕生し2006年9月に退陣した小泉政権の構造改革によるものである。骨太方針により毎年2200億円の福祉予算の削減目標をかかげ次々と福祉の切捨てを断行していった。地方の疲弊や格差問題など構造改革の「負の遺産」が今一挙に噴出してきている。自らの路線の破産を見て小泉元首相は、失政の責任を一切取ることなく、引退表明した。

構造改革により、福祉に関しては、障害者自立支援法により障害者福祉の分野で自己負担が増え障害者の生活が逼迫した。医療の分野では、医療制度改革のため患者の医療費負担が増大し、高額な医療は受けづらくなった。また、医療費抑制は医師の労働環境を悪化させ、地域の医療システムを疲弊させている。

このような国民の医療と福祉という生活に密着する部門を徹底して縮小する一方で、金融機関の不良債権処理等、金融セクターにおける私企業の救済に対して膨大な額の税金を湯水のごとく注ぎ込んできたのである。今銀行は、一向に預金者の金利を上げることなく収益を上げ続け、三菱UFJはモルガンに出資し株20%を取得を目指し、みずほはメりルリンチに1300億円出資、三井住友はバークレーに1000億円出資を決めているという。この膨大な資金を提供できるまでに肥え太っていっているのである。

国民が生きやすいと感じる最大のことは、老後の安心と、医療教育の充実だといわれている。税金をどう使うかは、本来国民が選択できるはずなのに、何故か為政者の勝手に使われている気がする。ともかく自分が払っている税金の使い道には重大な関心を持って対応していくほかない。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

過保護・過干渉

9月24日(水)
ある集会の帰り、3人で居酒屋に寄った。40歳位の主婦と、30歳位の独身男性が連れだった。話の中でその主婦が相談があると言う。息子は大学1年で、塾の講師のアルバイトを9月から始めたと言う。そして、しばらくしてから、塾長から歓迎会ということで、職場の仲間たちと居酒屋に行った。

本人は飲めないのでジュースとかウーロン茶とかを飲んでいたらしいが、何でこんな所にいかなければならないのかと憤慨していたという。そしてそれを聞いた両親は、未成年者を居酒屋に連れて行くなんて何という塾長なのか、どうやって抗議したらいいのか、といった相談だった。

これはどう考えても私の感覚からいうとおかしな質問だ。30歳の独身男性も私と同じ意見だった。だいたい大学に入ると、クラスでのコンパやクラブでのコンパなど、連日のように飲み会が続き、その中で色々と親睦を深めていったものだ。

確かに高校時代から酒を飲んでいる人はそれほどいるわけではなく、初めて飲むので悪酔いもするだろうし、決して楽なものではないが、そういったことを繰り返しながら、人間関係を作ってきたものだ。それがいいか悪いかは別として、昔はそうだった。いや昔だけでなく30歳の男性が言うには10年前でもそうだったと言う。そういった経験を経てくれば職場での歓迎会もすんなりと受け入れられるはずなのだ。今大学では新入生に対して飲み会などの風習がなくなっているのだろうか。

今大学では親からの相談窓口があり、入学案内にも親用があると言う。中国で大学の入学式に両親や親せきが集まり、泊まる所がなく、校舎に雑魚寝をしていると言う事がニュースで放映されていた。親が子供のことを、大学生になってまで手取り足取り面倒見るということは中国でも日本でも同じだなと思った。

かなり人権意識の高いはずの主婦が、自分の子供のことになると、何故か保護者としての権利意識が芽生えてくる。「塾長から歓迎会をしてもらったんだ」とすんなりと言えない息子も問題だが、未成年者を飲み屋につれて行くことをことさら問題にする親も問題だと思う。

確かに飲めない人が飲み屋に行くということは苦痛かもしれない。それを拒絶する権利も当然あるだろう。しかし、塾長がやろうとしたことは、問題にすべきことではないはずだ。しかしここには現在のモンスター・ペアレントの問題に潜む、過保護、過干渉の親子関係が垣間見られる。

過保護という言葉は少産少子社会となっていった1970年(昭和45年)前後に使われ始めた用語である。過保護は、こどもの危険を過度に心配する傾向にあるが、これが過ぎれば、成長して成人となったとき、主体的思考能力を奪い、指示待ち人間になってしまうおそれがある。

「過保護」-子どもが自分で解決するべき問題や困難を親などが予め取り払ってしまい、体験させない事。
「過干渉」-子どもが自分で判断すべき事を親などが先に決断してしまい、子どもはそれに従うだけの状態になる事。(『言いたい放題』というブログでの表現)

過保護と過干渉は表裏一体で、どちらにしても子供の自立と固有の存在を否定し、自分の所有物として支配しようとする親の所有欲の結果でしかない。今日の親の子供に対する関わり方が、教育現場でどのように現れるのか想像にできる。さぞ色々な問題を起こしているのではないかと思う。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

がんの発生原因(続き)

9月21日(日)
発がん物質の蓄積
今がんに罹る人は2人に1人、3人に1人はがんで死亡する。何故こんなに増加の一途をたどっているのだろうか。

今、中国での残留農薬等食の安全が問題になっている。食糧輸出が大きな貿易収入となっている現状で、安全性の問題で輸出できなくなると経済的に大きなダメージを得ることになるので、かなり規制を強化してきている。しかしメタミドフォスなどは2,3年前まで規制されていなかったという。その野菜を買った人達は洗剤で野菜を十分洗って食べれば大丈夫だと言っていった。農薬で真っ白になった野菜を徹底的に洗わないと食べられないという代物が出回っていたのだ。

しかしこの中国の現状は何10年か前の日本の現状なのだ。戦後の日本においても、食糧不足の時にアメリカで使用禁止になった農薬を使った食料を有難がって食べていたし、国内においても農薬や、食品添加物の規制は全くと言っていいほどなかった。メタミドフォスが農薬として使われていた時期もあったのだ。

また殺虫剤として今ではその毒性の強さ故、生産が禁止されているDDTが、のみやしらみ退治として人体めがけて噴霧されていた時期もあった。戦後の食糧事情の中で成長した人たちの体内には、発がん物質や、催奇性物質がたっぷりと蓄積されており、それががん発生の根拠となっているのではないかと思える。

一時防腐剤漬けのフィリピンバナナが問題になった。収穫したバナナを防腐剤液を満たした桶に漬けたっぷりしみこませてから、出荷するというものだ。そこで働く従業員ががんや神経障害になったと言う報告があった。またアメリカから輸入したレモンを、健康にいいからと毎日絞って飲んでいた人が、手足の痺れと、麻痺と言う症状に襲われた。などいろいろな例が報告されている。

そもそも農薬は毒物なのだ。2000年、農薬による自殺は795人、農薬による不慮の中毒および曝露による死者は122人、合計917人とされている。残留農薬は少量だが大丈夫だというが、農薬と言っても殺虫剤、化学肥料、除草剤、病気への薬など様々あり、それぞれの毒素が相乗作用を起こしどうなるかは解明できていない。

食品添加物
食品添加物も様々ある。それが個別的には基準をパスしていても、蓄積されればどうなるかわからない。食品添加物とは、食品を形作る時に用いられる凝固剤や膨張剤、プリンなど独特の食感を持たせる時に使うゲル化剤や安定剤、着色料や漂白剤、旨甘味料・酸味料・調味料、品質保持に使われる保存料、殺菌料、酸化防止剤、防かび剤など色々ある。これらが組み合わさりどういう作用をするか分からない。

平均的日本人は1日約11g、これを積み重ねると1年間で約4kgの食品添加物を摂っているといわれている。これらには遺伝毒性、変異原生、発がん性、発ガン促進性、アレルギー性、染色体異常、成長抑制、急性毒性などの弊害がある。

さらに複合毒性というものがある。発色剤と肉や魚に含まれているアミノ酸が結合すると、ニトロソアミンという大変強い発ガン物質が生まれるなど、幾つかの添加物を同時に取った時の影響については全く調査されていない。漬物屋は、着色料の毒性を知っているのだろう。自分の所で作った漬物は絶対に食べないそうだ。もちろん良心的な漬物屋もある。

複合汚染
以前「複合汚染」と言う言葉がはやった。残留農薬や食品添加物のほかに、合板の接着剤に使われるホルムアルデヒトが引き起こすシックハウス症候群や発がん物質のアスベスト、合成洗剤の界面活性剤など、我々の周りには様々な有害物質で満ち溢れている。

体内に有害物質が蓄積され,それを排除しようとする人体の代謝機能が疲幣し、ごく微量の有害化学物質に対しても過剰に反応して、化学物質過敏症となる。アレルギーの疾患の増加はここから来ているのだろう。

こういった環境の中に生きている現代人にとって、がんの増加も「複合汚染」の一環として存在しているのではないか。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

がんの発生原因

9月20日(土)
がんの原因
何故がんなったのだろう。それは今の医学では全てを解明することは出来ていない。遺伝的要素もある。それはがんになりやすい体質ということを意味するだけでがんになるということではない。がんの直接の原因である『ガン細胞』は、人の体内で毎日1,000個程度発生しているといわれている。

がん細胞が無制限な増殖をはじめるのは「誤った遺伝子情報」のためだ。遺伝子の異常をもたらす原因物質は私たちの身の回りにたくさんある。たとえば紫外線やタバコ、ウイルス、放射線などだ。また体内に摂取する農薬や、商品添加物に含まれる発がん物質の蓄積などがある。

ところが、たとえがん化した細胞があっても、人の体はそうたやすく病気になることはない。というのも身体には病気の原因を排除する免疫というシステムがあるからだ。しかし、もしこのシステムに異常が生じ、がん細胞を排除するメカニズムが作動しなくなると、がん化した細胞は増え続け、次第に深刻な影響を体に及ぼすということだ。

がんとストレス
がん細胞を排除するメカニズムの低下の大きな要因として、ストレスが挙げられている。ストレスが続くと、私たちの体は精神的な緊張を和らげようとして副腎からステロイドホルモンを分泌する。ステロイドホルモンは緊張状態を和らげてくれる一方、免疫力の担い手であるリンパ球の活動を低下させる副作用もある。

figure7.gif

リンパ球の仲間には常に体内をパトロールしている免疫細胞があるが、これらの細胞の活動に機能低下が見られると、私たちの免疫系はがん細胞を死滅させる事ができない。またストレスによって自律神経のバランスが乱れ、栄養摂取機能が低下し、それがリンパ球の活性低下をもたらし、免疫力の低下につながる。

ストレスとがんとの関係はまだ完全に究明されているわけではない。しかしサイコオンコロジー(精神腫瘍学)という医療分野では、がんにかかった約70%の患者さんにストレスや過労があったという報告がある。
(参考文献 王・滝 綜合研究所ホームページ)

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

抗がん剤治療における骨髄抑制

9月18日(木)
抗がん剤治療における最も重要な副作用は骨髄抑制である。入院中であれば、白血球の減少にはG-CFSを投与し、また感染予防に、抗生物質や抗真菌剤、カリニ肺炎予防薬などを服用する。ヘモ クロビンや血小板の減少には、輸血で対応する。通院での治療となると輸血するということは出来ず、骨髄抑制が強まれば、治療を断念するか、薬の量を減らすか、延期するかしかない。

MP療法をやっていた時、半年位たってIgMが徐々に増え始め、2週間で100位だが、それよりも骨髄抑制が強く断念した経過がある。MP療法最後の頃の数値は以下の通り。

無題

以上のように白血球、ヘモグロビン、血小板全てが下降して来ていた。血小板は輸血寸前といった所だ。そこでMP療法をあきらめ、ベルケード療法に切り替えることにした。しかし今度は血小板に影響が強く出るようになった。血小板数1.1まで下がった。

この療法は最初の2クルーは入院で行うことになっていたから輸血で対応できたが、あまりにも数値が低く、1クルーから2クルーまでの間が、標準治療での指示は10日間だが、最初は2週間、次は1ケ月間を置いて行なわざるを得なかった。それが効果に影響したことは確かだ。以下ベルケード開始以降の血小板の増減である。11月7日血小板の輸血をし、11月9日には4.6まで上昇した。

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抗がん剤治療はがん細胞との闘いと同時に、それ以上かも知れない副作用との闘いなのだろう。何という治療法だとつくづく思う。今がん細胞だけ殺す分子標的治療薬が登場している。

ベルケードもその一つだ。それでも、血小板減少や、抹消神経障害・手足のしびれがかなりの確率で起きている。手の痺れで箸を持てないという人もいる。また痛みで夜眠れないという人もいる。色々新薬が開発されているが、抗がん剤=副作用という図式から開放される日は来るのだろうか。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

定期検診の日

9月17日(水)
2週間一度の定期検診の日。血液検査の結果は以下の通り。

検査結果
 IgM   1785←1668←1544←1271 
 白血球  2.3←2.6←2.8
 ヘモグロビン 11.5←11.7←12.4
 血小板  13.3←13.7←17.3

IgMがわずかづつだが止まることなく着々と上がり続けている。この歩みの遅さはそれなりにまだサリドマイドが効いているのかもしれない。サリドマイド100mgはどちらにしても毎日飲むことにしている。問題はどの抗がん剤と組み合わせるかだ。

9月3日からシクロフォスファミド(エンドキサン)50mgを5日間服用した。それがどの程度がん細胞にダメージを与えたか、IgMに影響したかどうか、今日の採血で結果が出る。しかし結局全く何の影響も与えなかった事が分かっただけだった。確実に100づつ増えている。副作用のほうは白血球が少し減ったが全体的に正常細胞に影響はない。

確かに50mgというのは量的にも圧倒的に少ない。例えばCHOP療法で使われるシクロフォスファミドは750mg/m2,1dayとなっている。量が少なくて効果が出ないのか、効果はしばらくして現れるのか分からない所がある。もう一度試して様子を見ようということで、10月1日からシクロフォスファミド50mgを今度は7日間服用することになった。

医者が10月1日休みなので次の検診は10月16日となった。1ケ月1度の通院だとかなり精神的に楽だ。2週間1度の通院は時間的、肉体的には問題ないが、精神的に血液検査の結果で右往左往考えなければならないのがしんどいということだ。

どの道IgMは上がり調子なのだから次々と戦略を組み立てていかなければならない。ここまで来れば、それが2週間1度だろうが1ケ月1度だろうがそれほど変わるとは思えない。長期戦になるのだからじっくりと構えていく他ない。

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「千葉県がん患者大集合2008年」

9月16日(火)
千葉県がん推進計画
chi-bakun.gif9月14日千葉銀行文化プラザで「千葉県がん患者大集合2008年」は開かれた。ももの木の理事からの誘いで行ってみた。

この集会の基本は、2007年4月1日に施行された「ガン対策基本法」の第11条1項の規定によって都道府県が行なわなければいけないガン対策推進計画を、千葉県は2008年3月に策定し、その実施状況を報告するというものであった。(右は集会のマスコット・チーバ君)

この計画の実施状態には千葉県民でない私にはあまり興味はなかったが、集会で発言する人たちの発言内容に興味を持った。

特別セミナー
集会は最初に特別セミナーとして千葉がんセンターの化学療法室長と看護師の話だった。「抗がん剤の副作用対策について」語られた。

抗がん剤の支持療法、これは何だろうと思った。何年か前には抗がん剤の副作用で一番辛かったのは吐気だった、今は倦怠感が一番で吐気は11番目になっている。

今抗がん剤の投与の前にカイトリルを投与する。これでかなり吐気が抑えられる。発熱にはカロナール、便秘にはマグミットなど、色々な症状にあわせて次々と薬を投与する。確かにそれで抗がん剤の副作用の緩和にかなり役に立つ。C-CSFによって白血球の増加を助け、感染症にかかる期間を短縮する。発熱傾向にある抗がん剤には投与後ステロイドであるサクシゾンを点滴する。

これらは私が病院にいた時投与されたものだ。薬漬けになる位だったが、これがいわゆる支持療法というものだ。かって治療に伴う痛みや苦しみに対して医者はやむをえない副作用として関心を持ってこなかった。しかし今はむしろ、抗がん剤治療は同時に副作用治療と一体化されたものとして確立してきているようだ。

患者のセルフケアーの手助け
看護師の人はがん化学療法師認定看護師という資格を持っているそうだ。そういった資格があるのかと思った。通院での抗がん剤治療者のために、自宅における副作用に関するセルフケアを高めるため、説明会用パンフレットの作成や勉強会を行なっているということだ。患者の直接の接触者である看護師の対応が大きく患者の安心感を保障してくれるものなのだ。

会場参加型シンポジュウム

その後がん患者大集合実行委員会委員長と千葉県副知事の挨拶があり、日本医療政策機構理事、千葉県がんセンター長の話があった。

千葉のがん医療を考えるという会場参加型シンポジュウムがあってテーマごとに3人が発言した。印象に残ったのが、耳鼻咽喉科医師でがん体験者として「がん患者に必要な心のケア」について話した内容だった。

その中で助け合うということについて一つの例で話した。仏教の話で、餓鬼の集団が2つあり、彼等は鎖につながれ、目の前に出されている食物をどんなに頑張っても食うことができない。しかし一つの集団の餓鬼は何故か痩せてはいない。一つの集団は自分の目の前の食物をどうやって食おうかとばかり考えている。しかしそれは絶対に不可能なのだ。もう一方の集団は自分で食おうとするのではなく人に食わそうとする。それは足とか使ってどうにかできる。お互いに助け合って、食うことが出来ているのだ。自分の事しか考なければ滅ぶが、共存を考えれば生き残れる。

もう一つあって、犬や猫は怪我をした時その傷口をなめて治す。届かない場所はどうするのか、外の者がなめる。ということなのだが示唆にとんだ言葉だと思う。病気になった人の悩み、家族の不安それは一人では解決できない。患者間、患者と家族、家族間と様々なふれあいと互いの交流の中で自分の現状を知り安らぎを見出していくのだ。

院内患者家族交流会の必要性
患者参加型というのは、会場の椅子にスイッチがあり色々な問いに対して、はいであればスイッチを押すということでそれを瞬時に集計する仕組みになっている。当日の参加者は400名弱だったが、参加者としてスイッチを押したのは305名だった。そのうち患者及び患者家族が240名だった。

患者、家族の交流がどれ程励みになるのか。病院で交流会があったら参加して見たいかという質問に188名が参加したいと答えている。ももの木で行っている院内患者家族交流会があるが、交流会に参加したいと思っているのが患者家族の8割近くいるのだからきわめて有意義なことなのだ。宣伝が足りなく、ある事を知らない患者がほとんどなのだ。

心のケアにとって医者や看護師の役割は当然あるが、最も大きいのは、患者体験者や患者自身の生の声だと思う。家族にとっても、外の家族は患者に対してどう対応したのかの色々知りたいのは当然である。そういった交流の場こそが心のケアの最も重要な場なのだと思う。

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B小学校で話したこと(続き)

9月12日(金)

Ⅳ、ガンでの余命宣告をどう受け止めたのか

私はガンで余命を宣告されています。後2,3年で死ぬかもしれません。20歳位の人がそういうと皆びっくりするでしょう。確かに若い人は生きているということだけで意味があるような気がします。私の場合、病気になったことで人生について今までと違った捕らえ方をするようになりました。

「宿命を転機に」という言葉があります。がんになったと言う事実・宿命は変えることは出来ません、しかしそれを人生の新たな転機にすることは出来ます。人生山あり、谷ありです。つらいことや苦しいことにぶつかることはあります。しかしそれを自分の新たな出発の転機にしていけるかどうかが重要だと思います。

ツー ル・ド・フランス自転車レース7年連続優勝者ランス・アームストロングはがんになって死の淵に立ちその後病気を克服しました。彼は次のように言いました。「断言していい、ガンは僕の人生に起こった最良のことだ。」死と向かい合って、はじめて彼は気づくことができたのです。周囲の人たちの優しさに、人を愛すること、そして、生命の素晴らしさに。仕事でしかなかった自転車は、限りある生命を燃やす「生きがい」へと変わっていきました。

Ⅴ、死と向かい合って

皆さんは自分が何時死ぬか考えたことがありますか。病気とか大怪我とかしないとなかなかそんなことは考えないものです。しかし死は誰にでも予想もしない形で訪れてくるのです。事故で死ぬこともあるし、脳溢血や心筋梗塞で突然死んでしまうこともあります。

私は後2,3年しか生きられないかもしれません。しかし遅かれ早かれ誰でも死を迎えるのです。全ての人はやがては死ぬことになる。今から死について考えている人はいないかもしれない。しかしどのように生きていこうかとは考えるでしょう。

「どのように生きていくのか」「人は何のために生きるのか」
この問いはあまりにも難しいものです。しかし、皆この回答を求めて生きている。答えを求めるため生きている。命が限られているということを知ることは、嫌が応でも今をいかに生きていくかを問うことになるのです。限りある人生を自覚した時、悔いのない人生を送りたいと思うものです。

漫然と生きてきた自分の生き方を見つめ直す事になります。自分らしく生きることそれはどういったことかを考えるきっかけをどこかで見出してもらいたいのです。死と向かい合って初めて自分を見つめる事が出来るのです。自分の本当にやりたい事が見えてくるものなのです。

死があるからこそ生の輝きを見出すことが出来るのでしょう。そういった意味で、命を語ることは、死-限りある人生を見つめることであり、そのことを通して生の意味を再認識することだと思います。人は普通あまり考えることもなくその日暮らしで生きていっているでしょう。自分の残りの人生などという発想を持つことなどないでしょう。それはそれでいいと思います。小学校の頃から死について考えるということはないでしょう。しかし時々は命のこと、人生は限りがあるということ、どうやって生きていったらいいかという事について考えてみてもらいたいと思います。

「死」について思いを馳せる時、あたりまえのようにそこにあった自分の生が再び鮮やかによみがえってきて、それがとても尊いものであることに気づかせてくれます。(続く) 

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B小学校で話したこと(続き)

9月12日(金)

Ⅱ、売買される子供たちの命

自分の命が限られていることで、否が応でも命について考えざるを得ない中で、しばらく前に映画を見ました。『闇の中の子供たち』という映画です。ここで扱われているのは幼児売買の問題です。舞台はタイで、臓器売買を取材する新聞記者が主人公です。日本の夫婦が自分の息子の心臓移植のためにタイで闇の臓器の移植を受けるということで取材をしていくと、実は売られた子どもの心臓を生きたまま取り出し移植するという話を聞く、といったストーリーです。つまり命が売り買いされているのです。

幼児売買はタイだけでなく東南アジアやアフリカの貧しい国では、経済的理由で親が子を業者に売って金を得るという事が行なわれています。子供の命が金で売り買いされているのです。売買される命、この現実は改めて命とは何かについて考えさせられます。

もちろん誰でも自分の命が一番大切です。命は誰にでも平等に与えられているものです。それは売り買いされるものではありません。自分の命が大切だということは全ての人の命が大切だと言うことです。

日本に生まれ生活し、毎日当たり前のように食べ、学校に行き勉強する。しかし世界に目を向けるとこれは決して当たり前のことではありません。貧しさ故、全く教育の機会を与えられず、 小さい頃から奴隷労働に従事させられている子供達がいます。食料高騰のため世界では暴動が起こっている状況があります。毎日飢えで死んでいく人がいます。その数は約23000人。3秒に一人死んでいます。そしてその大部分は子供なのです。

Ⅲ、今ここにいるということの意味


日本に生きているということ、毎日学校で勉強できるということはどういくことなのか。勉強が嫌いな人もいるでしょう、しかし勉強したくても出来ない子供たちも沢山います。

あなた方一人ひとりが、今この日本という地に存在し、教育を受けられ、飢えることなく生きていられる、まさにここに存在することの偶然さ、限りなくわずかな確率であなた方一人ひとりが存在しているのです。自分がここにいるということは何という偶然の集積でしょう。あなたと同じものはこの世の中に存在しないのです。

自分を嫌いだと思っている人、好きだと思っている人、色々いると思います。確かに誰でも変身願望はあるのでしょう。しかし自分はこの世の中に一つしかない貴重な存在だと考える時、結局自分が一番いいと思えてくるはずです。そして自分を大切にしたいと思ってくるでしょう。

健康そのものの人もいるでしょう、病気がちの人、持病を抱えている人、いろいろな人がいます。しかしどんなに不完全でも、迷いに満ちていても、今ここに存在するそのこと自体に意味があります。かけがいのない自分ということについて考えてもらいたいと思います。(続く)

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B小学校で話とこと(続き)

9月12日(金)
70名以上の生徒が相手だと授業というより講演という感じになった。子供を相手に話すのは、この年齢の子供の理解力や興味の持ち方などわからないことが多くて、話すことに躊躇を感じていた。なるべく順番が回ってこないように避けてきたが、ついに話す羽目になってしまった。なるべく原稿を棒読みしないように、生徒の顔を見ながら話すようにしたが内容的にはほぼ原稿通りだった。以下原稿をそのまま転載する。

Ⅰ、がんになって

私は血液ガンの患者で今も治療を続けています。原発性マクログロブリン血症という病名です。全く聞いたこともない病名でしょう。白血病は知っていますか、それと似た様な病気です。この病気になって、入院し治療を行ないながら色々考えたことがあります。命とは何だろう。どのように生きて行ったらいいのだろうとか。そういったことを皆さんにも少し考えてもらおうと思って今日ここに来ました。最初に病気になってからのことを少し聴いてもらいたいと思います。

ガンの宣告

私の病気は全く自覚症状がありませんでした。毎日問題なく元気に働いていました。ある時怪我をしてなかなか血が止まらなかったので、血液検査をしました。その結果異常が見つかり、整形外科医の紹介で病院に行きました。そこで医者からガンの宣告を受けました。その時渡された診断書には「血液ガンの疑いあり。一般的には3ケ月から6ケ月の治療期間後、社会復帰が可能と考えられております」と書かれていました。

当時仕事がかなり忙しく、毎日22時23時まで仕事をし、土日も出勤し全く休む事ができず、疲れ気味でした。医者から血液ガンであると聞いて、確かにショックだったのは事実です。幾ら医学が進歩しても、ガンという言葉は恐ろしい響きを持っているのは確かです。しかし3ケ月~6ケ月の治療で職場復帰できると信じていましたから、これで少しは休めると思ったほどです。全く落ち込むこととか将来への不安は感じませでした。

余命宣告

入院後しばらく検査が続き4,5日たって病気の内容と治療方針について家族も含めた医者の説明会が行なわれました。その説明の最後に「不治の病であり、平均余命は5年程度」と言われました。しかしこれもまったく意に介さなかったのです。大体医者と言うのは、最悪の状態を言うのが常なのだと思っていました。早ければ3ケ月で職場復帰出来ると信じて疑いませんでした。12月に入院し、翌年の3月には戻れると信じていたのです。人はつくづく自分に都合の悪い情報は、意識から斥ける傾向にあると思います。

職場復帰に関して
しかし、薬の効果が中々現れず、3月になっても退院の展望は全く立ちませんでした。結局移殖は6月に行なわれました。移植の前に、致死量に近いといわれるほどの大量の抗がん剤を一度の点滴で投与します。それに伴う副作用は激しいものがあり、吐き気と全身の消耗で何日かは動くことも出来ないほどです。治るという確信が辛い治療を耐えさせるのでした。

移植後2週間位してからの検査の結果、骨髄内にがん細胞は見当たらなかったと言われました。これで完治したと思いました。しかし抗がん剤による肉体の消耗が激しくとても職場復帰など出来る状態ではありませんでした。元の体力に戻るには2,3年かかると多くの体験者は言っています。

根絶したと思い込んでいたがん細胞は、再び活動を開始し始めました。10月に2度目の移殖をすることになり、11月半ばに退院しましたが、12月には休職期間である1年間が過ぎ、退職扱いとなり、職場復帰はありえなくなりました。

ガン宣告の受け止め方
それまで、色々な資料を読んだり、人の話を聞いたりして、やっと自分の病気を冷静な判断力をもって認識するようになりました。つまり「不治の病」であると。つまり運が悪く転移して再発するといったがんではなく、ガン細胞(形質細胞腫瘍)は放って置くと、増殖していく病気なのです。

またこの病気の特徴として、使い始めは良く効く薬でも、ガン細胞が薬に対する抵抗力をつけ半年もたつと効かなくなってくるのです。ひたすら効果ある抗がん剤を探して、飲み続けて延命していく外ない病気なのです。移殖の後、約2年間の間に3回も治療法を変えていきました。

今は2週間に一度病院に行き診療を受けています。その度に血液検査をし、がん細胞の状態を調べます。増えているか減っているか、薬が効いているのか効かなくなってきているのか分かります。その度に緊張します。結果を聞く時ははらはら、どきどきの瞬間ですね。そして今使っている薬も段々効かなくなってきています。また新しい薬を探さなくてはなりません。後は「人事を尽くして天命を待つ」といった心境です。

そういった中で、この病気によって、本当に自分の余命が限られているのだということを受け止めることになったのです。そして自分の限られた人生をどうして行くのか、生とは何か、死とは何か、命とは何かを考えざるを得ませんでした。(続く)

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映画 『オペーレーション・ワルキューレ』

9月11日(木)
YAHOO動画

YAHOOのホームページに、YAHOO動画の無料放映の紹介が出ていた。いくつかあったが、そのなかでヒトラー暗殺をドキュメンタリータッチで描いた映画があった。「ワルキューレ作戦」というのは聞いたことがあるが内容はほとんど知らなかった。ヒトラーのユダヤ人虐殺や無謀な戦争遂行に対して、ヒトラー暗殺を持って辞めさせようとした勢力がいたということは、ドイツ人にとって多くの意味を持っていたのだろう。

ワルキーレ_convert_20100507194355STORY:史上名高いアドルフ・ヒトラー暗殺計画“ワルキューレ作戦”の全貌を完全映像化した戦争アクション。1943年、アフリカ戦線で負傷しドイツに帰還したシュタウフェンベルク大佐は、荒廃した国土と堕落した軍の姿に失望し、ヒトラー暗殺を決意する。

ヒトラー暗殺の背景・映画の中の言葉
ポーランド侵攻時のことについて「軍が村人を集め、無差別に殺した。3万人以上が処刑された。こんな人種差別による暴虐は許されない。我々は解放者として迎えられたはずだ。」

「スターリングラードでは何十万人もの犠牲者が出た。ヒットラーは冷淡な男だ。関心のかけらも示さない。自分の事しか考えん。国民が死んでも悼みもせんのだ。」

「我々の祖国は破滅に向かっている。」

最後に東部戦線にいた反乱軍の将校が部下に言う。「君は信念のために死ねるか」といって、自殺する。

ドイツにおける「ワルキューレ作戦」の評価
最後銃殺される時シュタウフェンベルク大佐は叫ぶ「神聖なるドイツよ万歳」と。国を愛するということはナチスの行なう暴虐に対して死を賭して戦うことなのだ。現在ヒトラー暗殺計画の中心人物シュタウヘンベルク大佐の名を取った通りがある。ドイツ人は彼の業績をたたえて通りの名に付けたのだろう。この事件関して処刑された人々に対してGerman News(20.07.1999)でヒットラー暗殺計画55周年の式典が行われたという記事が書かれていた。ベルリン市長ばかりか、ドイツ連邦共和国の大統領まで参列して、犠牲者に花束を捧げたという。

「戦時中,心あるドイツ人が,人々を戦禍に巻き込み,大量殺戮を止めようとした。このようにワルキューレ作戦をみなし,ドイツ人の良心・良識が残っていたことを証明しようとした。」ナチス側のドイツ人の行った悪行を,反ナチスの正義のドイツ人が阻止するという図式で、多くドイツ人は自ら荷なってきた戦争への責任を逃れるための材料にされていると言えなくもない。

ミュンヘンで反ヒトラーのビラを配ったばかりに処刑された若者たちのドキュメント「白バラの声 -ショル兄弟の手紙-」(新曜社)の本が出ている。様々な所で抵抗運動が行なわれていた。ヒットラーの暴挙に多くのドイツ人が協力する中、それに反対した人たちの業績を忘れないこと、それは2度と戦争を起こさないという強い反戦意識を作り上げていくテコとなっている。

日本における反戦運動のあり方

愛国心という言葉は、日本では全く誤解されて使われている。日本の本当の未来のため何を出来るか考えて行動する事が必要なのであって、軍部や資本家の野望のための侵略戦争に動員されて戦場に行くのは踊らされて、動かされている操り人形でしかない。しかし中国侵略戦争に反対する勢力は、治安維持法制定の中で次々と捉えられ、獄中で虐殺されたりし、反戦運動は潰されていった。

国家が行なう不正に対して断固として拒否を宣言し戦うことこそ本当の愛国心なのだろう。日本もまた中国侵略で多くの中国人を虐殺し、731部隊のように中国人を細菌兵器の人体実験にまで使った。ヒトラーと似たようなことをやってきたのだ。

ドイツはその教訓をしっかりと胸に刻み2度と戦争は起こさないという強い決意を持って様々なことに対処している。しかし日本では未だに南京大虐殺はなかっただとか、沖縄戦での集団自決に軍隊は関与していなかったなど歴史を歪曲して、戦争を肯定しようとしている人たちがいる。そういった意味で戦争への本当の反省が出来ていないのではないかと思う。

中国侵略を侵略ではないと強弁する人たちが未だ権力の中枢にいることは、再び戦争への危機感を感ぜざるを得ない。本当の反省がなければ同じ誤りは繰り返されるだろう。

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宇宙の情景

9月7日(日)
しばらく前の新聞にハッブル望遠鏡が今まで不足していた諸機能を兼ね備えてやっと完成するという記事がのっていた。ハッブル望遠鏡から送られてきた様々な宇宙の情景は、宇宙の神秘とその壮大さに感動を与えるものであった。昨日のネットに以下のような記事と写真が載っていた。

渦巻きに光る銀河M83、赤いルビー?
うみへび座の方向に約1500万光年離れた渦巻き銀河M83(欧州南天天文台提供)。新たに誕生した大きな恒星から放射された紫外線により、水素ガスがイオン化し、赤く光って見える。ルビーをちりばめたようだ。(9月6日16時31分配信 時事通信)


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宇宙の写真を見るとその無限に広がる空間と、限りない時間の流れを感じ、人間の様々な悩みや苦しみが全く取るに足らない小さなもののように思えてくる。全ては滅びそして生まれるという永劫の繰り返しの中で、人はその中のほんの人かけらの存在でしかない。

昔、小松左京の『果てしなき流れの果てに』と言うSF小説を読んだ事がある。タイムトラベルが出来る未来からやってきた人を扱っているが、自由に時間を行き来できたとしても、むしろそれだからこそ、時間の壮大な流れの渦の中で、どうにも出来ない自らを見出さざるを得ない。読み終わったときにはひたすら虚しさだけが心に残ったような気がする。

確かに、人はこの宇宙の中で、一片の塵にも及ばない、あまりにも微小であり、無力である。140億年と言われている宇宙の歴史からいえば、人類の歴史など瞬間でしかない、ましてや一人の一生などは。しかしここでパスカルの言葉が意味を持ってくるのかもしれない。むしろ夜空を見ながら、自らの矮小さを噛締める時、次の言葉が始めて理解されるのだろう。

「人間はひとくきの葦に過ぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが それは考える葦である。彼を押しつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。・・・彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。・・・だからわれわれの尊厳のすべては、考えることの中にある。」(前田陽一他訳・中公文庫)

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サリドマイド「検討会」を傍聴して

9月6日(土)
サリドマイドを現在個人輸入で服用している立場として、この薬が承認されるか否かは、経済的な問題も含めて重大な関心事であった。

9月4日、「第2回サリドマイド被害の再発防止のための安全管理に関する検討会」が厚生労働省5階会議室で行われた。大学教授が座長となり、サリドマイド薬害被害者の会(いしづえ)、多発性骨髄腫患者の会、製薬メーカ、厚労省担当者、第三者委員、医師、薬剤師などが委員として長テーブルを四角にして座り、その後ろに傍聴席があり、いしずえの会、日本骨髄腫患者の会、ジャーナリストなど総勢50名ほどが座り、会場は一杯で暑さでむせ返るほどだった。

会場に入ると最初に分厚い資料が配られた。藤本製薬提出書類がバインダーに挟まれ手渡された。その中には「TERMSにおける情報提供などに用いる資料」として、処方医師用冊子、薬剤師用冊子、患者用冊子などが挟まれていた。その外には、日本骨髄腫患者の会の上甲委員、いしずえの佐藤、増山委員、医師として久保田委員の意見書、「サリドマイド製剤安全管理基準所(案)」に関する意見募集において寄せられた意見などが資料として配られた。

議事次第は、
1.国の取り組みの発表
2.委員からの意見書の論点整理
3.意見募集の紹介、大きくこのような構成だった。

会議の主要内容は藤本製薬から出されている「サリドマイドの教育と安全使用に関する管理システム」TERMS(Thalidomide Education and Risk Management System)の検討に費やされた。

各委員からの意見書もその内容の問題点への指摘である。藤本製薬の立場としては薬の承認に向け、安全性の確保に事細かな医師や薬剤師、患者への制約を強制する内容になっている。しかしそれは患者にとって薬を手に入れることを難しくするものでしかない。煩雑な手続きを医者がやってくれる病院ならいいがそれでなくとも忙しい医者がそれを行なってくれるとは限らない。

またサリドマイドを使用するにあったての様々なプライバシーの侵害や人権侵害に当たる内容が盛り込まれている。これをどうするのか。論議はこの点に集中していった。

この会議の中で一番印象深かったのは、いしずえの佐藤氏の発言だった「安易な認可はするな」と言うのかなと思っていたら、「ここまで来たのだから多少不備があっても早く認可してほしい」という骨髄腫患者の会の発言を引き継いで「いたずらな引き延ばしはするな、S.T.E.P.S.(米国の安全基準)にもないパートナーの登録などするな、書類のやり取りが煩雑すぎるのでもっと簡略化すべき」とむしろ認可を早急に行い多発性骨髄腫の患者の命を救いなさいといった内容だった。

さらにTERMSにあるサリドマイド服用者の避妊の失敗による緊急避妊の強制に関して、患者の人権に関する重大な侵害であるといった指摘がなされた。そしてそこで言われた事が強く心に残った。「サリドマイド児もそれなりに幸せに生きているのだ」と。

サリドマイドを服用している男性、女性の避妊は服用に対して義務づけられている。しかし不妊症だと思っていた女性が妊娠し、サリドマイドを服用していて、もしかしたら障害児が生まれるかもしれない、でも生みたいといった場合誰がそれを止める事が出来るだろうか、障害児でも生まれてくる権利があるのだ。そういった発言には胸を打たれる思いがした。

司会者が最後にまとめた。「ここにいる全員が、多発性骨髄腫患者の尊厳を重んじ、そして迅速にTERMSを完成に導くことが一致しましたね」と。

患者を患者と思わないような煩雑なFAX処理、個人のプライバシーを無視するような届け出義務など問題は色々あるが、やっとここまでこぎ着けたかという気がこの検討会を傍聴していて思った。

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治療に伴う痛みについて(続き)

9月5日(金)
ベルケードによる末梢神経障害
以前病院内患者家族交流会で多発性骨髄腫の患者の人がベルケード療法で病状は良くなったが、副作用としての末梢神経障害を発症し、手足のしびれ、痛みで夜もまともに寝られないという訴えを聞いた。医者は末梢神経障害を治す方法はないということで何の処方もしてくれなく、毎日辛い日々を送っているということであった。確かに誰に聞いても末梢神経障害を治す薬はないといわれる。しかし痛みを和らげる薬はあるはずだ。

私はその頃、ベルケード療法の2クルー目をしていた。末梢神経障害の兆候は現れていなかった。しかし4クルー目になって徐々に手足の痺れが激しくなり、歩いていても足の感覚がない位になってきた。痛みはないが痺れはかなりひどいものになってきていた。

鎮痛補助薬ガバペンの処方
主治医に相談した所、末梢神経障害自体を治す薬はないが、痺れを抑える薬はあるということだった。根治療法はないが対処療法はあるということだ。しかし普通の生活をしようと思ったなら、痛みは取り除く他ない。薬の服用は確かにそれ自体の副作用をもたらすからなるべく増やしたくないのは山々だが、痛みの前にはそうもいってられない。

医者が紹介したのは、ガバペンという抗テンカン薬だった。この薬を毎日朝晩服用し始めた所手足の痺れは徐々に収まってきた。もちろん根治療法ではないので、痛みの緩和でしかない、治るのには薬(ベルケード)の投与が終わり、薬の効果が体から抜けるのを待つ外ないが、それまで何ケ月も痛みに耐えながら生活するのはあまりにも辛すぎる。

その点ガバペンは疼痛緩和という点では大きな意味を持っていた様に思う。がん専門医が緩和ケヤの医者やペインクリニックと連携を取りながら、患者の痛みのケアに真剣に取り組んでもらいたいものだ。

「緩和ケア医の所感」より
「緩和ケア医の所感」というブログにガバペンについて次のように書いてあった。

「鎮痛補助薬というのは、刺激伝達系のグルタミン放出経路の刺激を抑制したり抑制系のGABAの経路を賦活化したりすることで鎮痛効果をもたらす薬剤をさします。

神経障害性疼痛とは、ビリビリしたような、刺されるような疼痛やアロデニアといって普通なら痛くも無いような刺激に疼痛を感じるような場合が神経の疼痛をさします。

数年前に日本でもやっと発売になったガバペンチン(商品名はガバペン)は、前述のグルタミン経路にもGABA経路にも作用する薬剤で、他の薬剤より広く作用することからも海外では、抗うつ薬の一部の薬剤とともによく用いられる薬剤です。」

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治療に伴う痛みについて

9月4日(木)
痛みに対する医者の対応
中山幹著『後悔だらけのがん闘病』(告発するがん患者)の中に、がん治療に伴う痛みに対して医者が何の対応もしてくれなかったといったことが書いてあった。確かに治療や手術による痛みに対して医者は一般的に冷淡だ。やむをえない副作用としてあまり対応しようとしない。私の場合に痛みに対してどのように対応してきたか書いてみる。

入院してから4ケ月目、VAD療法第3回第2段階を開始した2月末肋骨が痛くて、医者に相談したが原因が分からず様子を見ようということになった。夜身体の向きによって、かなり痛みが感じられた。抗がん剤の副作用について詳しく読んでみたが該当する項目がない。肋骨に問題があるのか、内臓か、肺か、どちらにしても原因がつかめなければどうしようもない。上記3点だとどういった治療展望があるのか全くわからない。かなり心配になっていた。

帯状疱疹になる
翌朝になり、腹の周り発疹が出来ており背中にも痛みが広がっていた。朝医者に見てもらったら帯状疱疹ということであった。帯状疱疹は、白血球の減少の中での免疫能力の後退により、身体の中に眠っていた水疱瘡菌が神経から生長し、皮膚に現れるものだという。骨の神経を刺激し痛みを発する。すぐ点滴を開始し、皮膚科に行って軟膏を処方してもらった。

10時、18時、2時の1日3回点滴投与する。点滴薬はビクロック500mgを100mlの生理食塩水に混ぜた物を使用する。軟膏はパラミシン軟膏である。軟膏自体は発疹が崩れて広がったら付けてくれと言う指示を皮膚科の医者からもらった。

帯状疱疹神経痛
1週間位で皮膚疾患としての帯状疱疹は治ったが、神経痛が残ってしまった。これは、神経が痛んでいるので自然回復を待つほかないと最初言われた。背中のある部分に触れると激しい痛みを感じる。背中なので神経が心臓に影響を与えているのか、心臓が締め付けられ呼吸が出来なくなる位の激痛なのだ。

拷問で電気ショックを使用するが、恐らく、それに似ているに違いない。30秒位は身動きできず痛さが引いていくまで屈みこんで待つほかない。痛みが引いても暫くは立ち上がれないほどなのだ。「トリガー」というらしい。引き金、痛みの根源があるということだ。

帯状疱疹神経痛について調べてみた。「残ってしまった神経痛とは気長に付き合っていくほかにない」としか書かれていない。しかし痛いのは放っておけない。

最初は湿布薬
3月21日になって、鎮痛消炎湿布薬をもらい、1日2,3回張り替えて様子を見る。少しは良くなった感じがするが、あまりかわらない。

時がたっても一向に神経痛は治まる様子はなく、4月4日になって、今までは不快感だけだったが痛みを伴って暴れまわっている。痛みを伴う神経痛が時々胸を刺すような感じで襲い、なかなか寝付かれなかったし、起きてしまった。痛み止めのカロナールと睡眠薬マイスリーを貰うことにして、夜の睡眠を確保することにした。

165.jpg痛み止めの薬・テグレトールとパキシル
4月27日に帯状疱疹後神経痛に関しては、テグレトールという抗うつ剤の薬を処方して貰った。一日2回、効かなかったら3回飲むという指示を与えられた。しかしこのテグレトールは体中の神経を麻痺させる働きがあるらしく、この薬を飲むと一日中体がだるく日常生活にも差しさわりがある。そこで薬を変えてもらうことにした。

同じく抗うつ剤のパキシルという薬だ。しかしどこまで効いているか良くわからない。神経ブロックをやったらどうかというので試してみた。脊椎に局所麻酔薬を注入するというものだ。若干利いたような気がする。ペイン・クリニックという科 (麻酔科)が病院にあって痛みのケアを専門にやっている。

ペイン・クリニックでの神経ブロック
5月15日に再入院し、早速神経ブロックの第2回目をやった。結局可能な限り毎日やることになった。飲み薬(パキシル)も夜1錠だったのが朝晩1錠になった。ともかく移植前に直してしまいたいという思いがあった。2回目の神経ブロックをやったが夜痛みは取れておらず、痛みのためなかなか寝付けなかった。

結局第1回移殖での前処置の前日6月16日まで土日を除き、ほぼ毎日神経ブロックをやることになった。この治療は、脊椎に穴を空けそこに麻酔薬を注入するのだが、脊椎に穴を開ける時にまれに神経に触れることがある。その時は体中に電流が走ったような痛みが体中を貫く。決して楽な治療ではなかった。この1ケ月の治療で徐々に痛みは和らいでいった。おかげで移植時の辛い副作用の時、神経痛の痛みに悩まされることがなく非常に助かった。

退院後は2,3ケ月定期検診の時に神経ブロックを行なっていたが、痛みはほぼなくなり飲み薬のパシキルは飲み続けていたが、神経ブロックは中止にした。

痛みに関して、主治医が真摯に相談に応じ、色々手を尽くしてくれたのは本当に有難い事だった。痛みついては我慢していないで医者にどんどん言うべきだ。ペイン・クリニックを訪ねてみるのもいいかもしれない。生活の質(QOL)を維持するためにもそれは絶対に必要なことだ。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

定期検診の日

9月3日(水)
2週間一度の定期検診の日。血液検査の結果は以下の通り。

検査結果
  IgM  1668←1544←1271←1430
 白血球  2.6←2.8
 血小板  13.7←17.3
 ヘモグロビン  11.7←12.4

IgMの上昇が止まらない。1668という数字は確かにたいした数ではないし、通常だったらどんな治療もせず、待機療法-何もしないで見守るだけなのだが、放っておくとひたすら上がり続ける厄介な私のIgMは、ひたすら薬を要求するのだ。この上昇はそろそろサリドマイド100mg単独では効果が薄れてきているということを示している。

この数字を見ながら医者とどうしようかと相談する。サリドマイドとあらゆる化学療法との併用が考えられる。最初に考えられるのはデカドロンとの併用だが、これは深部静脈血栓症の恐れがある。読んだ資料では20%という高率だ。静脈血栓症の予防薬があるが、医者が言うにはかなり副作用が強く、勧められないと言う。

ベルケードとの併用も考えられる。医者はこれを勧めたが、出来れば錠剤で試してみたいと言った。ベルケード療法を始めると、20日ごとの4日間の通院それに定期検診2日で6日間病院に行かなければならない。ベルケードとデカドロンの点滴は30分で終わるのだが、点滴前の診断と外来治療センターで薬を待つ時間など合わせると、ほとんど1日仕事になってしまう。ここまで拘束されるのは厳しい。出来るならば通院は今まで通り2週間1度にしてもらいたい。

そこで色々話し合ったが結局シクロフォスファミドを5日間服用し、様子を見ようということになった。ガン治療はあまりにも多くの選択肢がある。エビデンスに沿った標準治療も最初はいいが、一旦それをくぐった後はどんな薬が効くか医者にだってわからない。試してみる他ないのだ。

医者に何がいいか相談されるのはいいが、自分で治療法を考えなければならない。試行錯誤しながら効いていく薬を探さなければならない。医者も患者もこうなるとあまり変わりはない。医者が患者に自由に判断させる外ないのが本来のガン治療なのだろう。自分の命は自分で救え。これしかないのだ。シクロフォスファミドが効いてくれることを期待するほかない。

01_convert_20080903215746.jpgこれからの治療法としては、サリドマイド100mgを今まで通り服用し、それにシクロフォスファミド(エンドキサン)50mgを5日間服用するという方法で行なう。シクロフォスファミドは、「抗がん剤の中でも、比較的副作用が出ることの多い薬剤で、代表的なものは、脱毛、吐き気や嘔吐、発疹、白血球減少などがある」と書かれていた。分量はCHOP療法など点滴で使われているよりかなり少量だが、骨髄抑制が心配だ。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

職場の同僚の訪問

9月1日(月)
 昨日、ひょこっともと居た職場の同僚が尋ねてきた。どうしているのだろうといった挨拶というわけだ。もう辞めてしまった会社なのだが、やはり皆どうしているか気にはなる。その友人も8月半ばまで腰を痛めて1ケ月ほど入院していたという。お互いに現況を報告しあった。

長い間、下請け業者に配車と配送を任せていたが今はうちの社員が配車をやっている。それによってかなり合理的な配車が出来るようになった。なるべく早く帰ってくる車に翌日の朝の時間指定の品物を積むようにして深夜業を減らしたり、休日の積み込みを避け、空いている車に金曜日に積んでしまうなどして休日出勤を減らすと言った工夫をしている、といった現状報告があった。

 以前、私がやっていた仕事は大幅に合理化されている。確かにやろうとすれば出来るのだ。あくまでも客へのサービス部門だからだ。何故職場にいた時にやらなかったのだろうと悔やまれる。そうすればあんなにも目一杯働かなくて済んだのにと思う。営業社員は客の無理な注文を聞いてしまう。請けてしまった仕事はどんな条件でもやらざるをえない。それを主要にフォローすることも仕事の一部であった。

しかし私が入院してしまってそれが出来なくなった。営業社員は客の無理な注文を聞く事が出来なくなった。それで確かに仕事は一時的には減ったかもしれない。しかし時間がたてばそういったものとして仕事を取ってこざるを得ないという事が当然となる。そうなれば流通センターの仕事もスムーズに行くようになる。全てがうまくいくのだ。一人の人間がいなくなればしばらくは大変だろうが会社というものはどうにかなってしまうものなのだ。

だからこそ、1年いなかった者の職場復帰は難しいのかもしれない。確かに休職期間1年での退職と言うのは不当だという気もしないでもない。もちろん嘱託ならいつでも再雇用すると言う約束はしてくれてはいる。しかし、あの職場のハードな肉体労働をこなす体力を回復するのは不可能だろう。

 休職期間1年が過ぎ、退職となり、退職金も貰って、きれいさっぱりと職場とおさらばして、気兼ねなく治療に専念出来るというむしろ開放された気分だった。一度目の退院後、肉体の消耗感を感じながらすぐ横になりたくなる状態で、いつから職場復帰しようかとその事がいつも頭の端にひっかかっていた。

働き始めたら傷病手当金は打ち切られ、また病気が悪化して休むことになっても次には支給されない。しかし、傷病手当金で1年半生活し、休職してから2年半後に復職というのは難しい気がする。職場復帰するなら一日でも早いに越したことはない。体調と、一日も早い職場復帰と、傷病手当金支給の3つが絡み合いながら選択を難しくしていた。そして唯一の解決策が退職という方法だったということになる。

ガンは長期にわたる病気である。特に血液ガンは治療が長くかかり、退院しても化学療法や移殖に使われる抗がん剤は限りなく肉体にダメージを与え、その副作用は何年も続く。体力が人にもよるだろうが半分以下になってしまう。中には退院後2,3ケ月で職場復帰する人もいる。しかしそれは例外だと思う。そういった中で原職復帰はきわめて難しい。がん患者の就業問題はきわめて深刻だ

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がん治療とは長く細い道を辿ら
なければならない。その先に希
望があると信じながら。

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