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定期検診の日

10月29日(水)
2週間一度の定期検診の日。血液検査の結果は以下の通り。

検査結果
IgM    1881←1803←1785←1668
白血球  2.6←2.1←2.3
血小板  17.0←15.9←13.3
ヘモグロビン 11.2←11.3←11.5


9月3日から、サリドマイド単独から、シクロフォスファミドをプラスした治療法を開始した。サリドマイド単独の治療で、一時2週間でIgMが300上昇したということで、抗がん剤を追加したというわけだ。9月3日にはIgMは1668であった。それから2ケ月で213の上昇ということになる。少しは上昇が抑えられている気がする。下降が問題だった白血球も若干上昇したので、しばらくはこの方法で続けていく事になるだろう。

シクロフォスファミドも50mgを7日間という少量の服用なので身体的副作用は今の所感じる事は無い。通常の生活に影響を与えるようなことは無いので、このままIgMが安定してくれれば続ける事に何の問題も無い。

以下の表は、4月2日、サリドマイドを始めた時からのIgMの変化で、9月3日からはシクロフォスファミドをプラスしてからの上昇の傾向である。

無題

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テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

「ももの木」患者交流会

10月25日(土)
娘の白血病について
患者交流会で、初めて来たという婦人と話す機会があった。自己紹介の時、「自分の17歳の娘が白血病で、脳内出血を起こしている」と言っていた。

娘さんが白血病で厳しい状況にあると思っていた。しかし現実は、娘さんは、脳内出血で既に死亡しているとの事だった。彼女は自己紹介の時もなかなか発言しなかった。何といっていいのか迷っているようだった。そして自己紹介では、娘さんの死は隠していた。病気と闘い頑張っている人たちを見ると言い出せなかったと言った。

17歳の娘が彼女にとってどれ程大切な存在だったか、一言一言に滲み出ていた。2月のある日、娘が頭が痛いと言っていた。風邪でも引いたのかもしれないと思っていた。だが次の日は元気に学校に行った。毎日毎日が楽しくて充実していて、一日が我々の何日分にも当たるような日々を送っていた。来年高校を卒業したらこうしたいああしたいといった大きな夢を持って毎日生きていた。

学校から帰って、少しだるいといっていたが、急に意識を失ってしまった。救急車を呼んで病院に担ぎ込まれた。そこで白血病による脳内出血だということだった。すぐ手術をしたが、もはや手遅れで回復は不可能だった。意識は戻らず、生命維持装置で呼吸をしているだけだった。医者はもう無理だと言ったが、彼女は生命維持装置をはずさせなかった。娘につきっきりで傍にいても、手を握り締めている事位しか出来なった。それでも13日間娘は生き続けた。

恐らく白血病がかなり進行していたのだろう。白血病細胞が増殖し、血小板を減少させることで出血傾向が増加し、重症な場合は脳出血や消化管の出血(胃、十二指腸などからの出血)が起こる。しかし脳内出血とは白血病がかなり重篤になってからのことなのだ。何の自覚症状も無かったのだろうか。

娘の死をどう受け止めるのか

娘が死んでから、ある時は半狂乱になり、ある時は呆けたように何も手がつかず座り込んだままで何時間も過ごしていった。自殺を考えた事もあった。娘の兆候にもっと早く気がついていれば救えたかもしれないのにといった後悔にさいなまれ、娘の夢と可能性に満ちた未来を考えると居ても立ってもいられなくなる。何ケ月はそのように過ぎていった。

最近になってようやく少し外出したりするようになった。娘の死という心の傷は癒える事はないがどうにか普通の生活のリズムを回復しつつある。それまでに9ケ月の歳月がかかった。そして、今日は娘を奪った白血病の事を知りたくてここに来たと言った。ここに来るのもどうしようかと迷ったらしいが、何かに一歩踏み出さなければという思いだったという。

母親と娘の関係の親密さについては分からない所があるし、人によっても違うだろう。しかし、彼女の娘に対する深い愛情と、娘を奪った病気に対する恨みは、人を驚愕されるほどの強烈さで迫ってきた。

病気と死

病気=死という式を我々は否定し、頭脳から払いのけようとしているし、考えないようにしている。余命何年という言い方を平気でしているが、それは決してその時期に死ぬ事は無いと高をくくっているからだ。

急性骨髄性白血病の場合、化学療法で20~50%、移植で40~70%の治癒が期待できる。急性リンパ性白血病の場合、治癒率は化学療法で15~35%、移植では45~55%である。(gooヘルスケアより)

確かに白血病は今では不治の病ではない。しかしそれでもこの病気に罹ったら半数近くが命を落とす事になる。多くの白血病で社会復帰した人たちの姿を見ているから、治るもんだと信じている節もあるのかもしれないが、実際にはかなり深刻な病気だ。

確かにがんなどの病気になったら、日々「死」と隣合わせに生きているようなものだ。それを娘さんを亡くした婦人から、嫌というほど突きつけられた感じがした。娘の死をあそこまで考え、思いつめ、煩悶し、しかし何ら回答など見当たらない。何故死んだのかの答えなどどこにも無い。それでも思い惑い続けざるを得ない心の葛藤について、一体どういう言葉をかける事ができるのだろうか。「死んだ人の分まで頑張って生きる」などといっても死んだ人は帰って来ることはない。

「死」それは回答のない泥沼のようなものだ。「死」は誰も経験できない。人は「死」を知る事はできない。「語りえぬことには、沈黙を守らなければならない。」

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

京都めぐり3日目・東山周辺

10月15日(水)
東大谷祖廟(浄土真宗大谷派)
円山公園の入口の手前に長い石畳の参道があり突き当りに山門が見える。地図には東大谷祖廟と書いてある。どのような寺院かは分からなかったが、足を運んでみた。境内に入ると、檀家の関係だろうか20人近くの人が僧侶と共に本堂に入っていくのが見えた。

京都054  東大谷祖廟

社務所は丁度葬儀場の待合室のようで、参拝客の休憩場となっている。東大谷墓地には真宗大谷派の門信徒による多くの墓碑が建ち並び墓参の信徒が絶えないそうだ。だたし大谷祖廟の納骨は全て合祀式であるため、納骨直後に骨箱から取り出され、他人の遺骨と混ざることになる。

本堂からかなり急な階段を上がると納骨堂があり、信徒が何人かお参りをしていた。本堂の裏手からは、納骨堂の階段を上がるのが困難な人のためにエレベーターまで設置されている。山門や本堂は格調高く古い建物だが、全体の雰囲気は、墓参りのための施設といった雰囲気だ。

略歴:東本願寺の祖廟。現在は親鸞聖人の分骨とともに多くの信者の遺骨が納められている。本堂からさらに石段を上ったところには、聖人の石墳の廟があり、その上に聖人遺愛と伝える虎石(親鸞聖人が入滅されたときに、善法坊にあった庭の虎石が涙を流したという)が安置されている。

知恩院(浄土宗総本山)

円山公園を突っ切っていくと、広い駐車場があり、その先に巨大な三門が聳えている。そこが知恩院の入り口だ。三門から急な階段を上って行くと、御影堂(本堂)を中心とした境内に出る。この急な階段は男坂と呼ばれ、それと並んで緩やかな勾配の女坂がある。

京都057_convert_20100605132401  知恩院山門

御影堂に上がって周囲の廊下を歩いていると、子供連れの団体がいて何らかの関係者なのかもしれないが、年配の僧侶が知恩院の歴史や寺にまつわる様々なエピソードを解説していた。その団体と一緒になって解説を聞きながら廊下を進んでいった。

寺院の天井に傘が一本置かれている。案内パンフレットでは「左甚五郎が火災避けのために置いた」と書かれていたが、僧侶の説明は次のようなものだった。

「昔寺の拡張工事をしていた時に、狐の住み家を壊してしまった。狐は復讐しようと思って童子に化けて、寺に赴いた所、僧侶が出てきて狐だとすぐ見抜き、復讐はさらなる復讐をよぶその繰り返しになる、許す心が必要だと説いた。狐は何故狐だと分かったのかと言ったら、人間は雨の日は傘をさす、傘をさしてなかったから分かったといって、帰り雨に濡れないようにと傘を貸し与えた。次の日その傘は返され、天井の梁の所に置かれていた。それがそのままにしてある。その後狐の住み家にと、丘の上に濡髪大明神という神社を作った。」といった話だった。

京都059  知恩院本堂(御影堂)

御影堂には一切の彫刻がない。正面と左右は扉が並んでいて、裏側は窓になっている。その窓の実際にはふさがれていて飾りでしかないが、かなり質素に作られている。裏側の扉を開けて中を見せてくれた。そこには海の上に座っている釈迦が描かれていた。修行中の姿だという。その絵も墨絵のように白黒だった。

京都_convert_20100605163804  宝物殿

法然上人の教え:学問をして経典を理解したり、厳しい修行をし、自己の煩悩を取り除くことが「さとり」であるとし、人々は仏教と無縁の状態に置かれていたのです。そうした仏教に疑問を抱いていた法然上人は、膨大な一切経の中から、阿弥陀仏のご本願を見いだします。それが、「南無阿弥陀仏」と声高くただ一心に>称えることにより、すべての人々が救われるという専修念仏の道でした。承安5年(1175)、上人43歳の春のこと、ここに浄土宗が開宗されたのです。

京都1_convert_20100605165741  権現堂

方丈庭園
本堂を後にして、有料の方丈庭園に入る。大方丈、小方丈が並び、その前に方丈庭園がある。方丈庭園は江戸時代初期に小堀遠州と縁のある僧玉淵によって作庭されたと伝えられている。池泉回遊式の庭園で、東山を背景にして方丈の華麗な建物が庭を引き立てる。

京都068_convert_20100605132522  方丈庭園

そこからさらに山道を登ると山亭庭園があり、そこからは京都の町が俯瞰できる。そこで方丈庭園は終わり、木戸を抜けると、左側に行くと千姫の墓と濡髪大明神の鳥居と祠があり、右に行くと法然上人の終焉の地である大谷禅房の旧跡である勢至院があり、そこから階段をさらに上ると法然上人の遺骨を納めている御廟がある。

境内に戻って、経蔵の脇を上ると除夜の鐘で名高い大鐘楼がある。この鐘は大戦の時供出されかけたが、住職が飛行機を寄付することによって、供出を免れたものだという。

東山の麓の山の斜面を利用した様々な建物は、徳川幕府が、何かあれば戦用の城郭に転用しようと援助を惜しまず作られた結果、広大な敷地に様々な様相を凝らし建設されていった。

八坂神社
京都087 八坂神社本殿

知恩院を後にして、祇園のバス停に向かうが、その前に八坂神社に寄ってみることにした。どのみち通り道だ。八坂神社には思い出がある。何十年も前の話だが、大晦日の日、八鹿の親戚の家に向かって新幹線に乗った。仕事が終わってからで、その新幹線は京都で最終の山陰線に接続する。しかし、寝過ごして気がついたら新大阪だった。

京都に戻ったが山陰線の最終電車は出発した後だった。しょうがなく京都で始発の山陰線を待つほかなかった。一晩過ごせる喫茶店を探して河原町四条の方に行った。群衆がぞろぞろと通りを一定の方向に向かっている。その流れに沿って歩いていくと八坂神社に着いた。初詣ということだった。そこで皆と一緒に一度もした事がなかった初詣をして破魔矢まで買って親戚へのお土産にした。

こういった思い出のある場所だったが、昼間見る光景では、全く昔の記憶を喚起する物は見当たらなかった。神社をしばらく散策して、祇園のバス停に行き、京都駅へのバスに乗った。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

京都めぐり3日目・東山周辺

10月15日(水)
今日は帰りの日なので近場で行ってない所に行くことにした。選んだルートは東山周辺で、京都駅からバスで15分位の所である。勝手にルート編成してみた。

京都駅→五条坂バス停→茶わん坂→清水寺→清水坂→三年坂→二年坂→霊山観音→高台寺→ねねの道→東大谷租廟→円山公園→知恩院→八坂神社→祇園バス停→京都駅

清水寺(北法相宗・唯識宗ともいう。単立の一寺一宗)
京都002 清水寺山門

五条坂のバス停を降り、近道だという茶わん坂を上っていく。観光客が何人か一緒に上って行く。五重塔が近づいてくる。坂を上りきって仁王門にたどり着いた時、そこには修学旅行の生徒が何百人も寺院の中に入って行くのを目撃した。清水坂を下った所に観光バスの駐車場がありそこから次々と上ってくる。確かに京都の人気名所ランキングは、金閣寺、三十三間堂、清水寺、銀閣寺、二条城となっており、清水寺は3位だということだ。人気のスポットであり、修学旅行の定番のコースだ。

00_convert_20100605173141.jpg 清水寺境内

略歴: 京都・清水寺の開創は1,200余年前、奈良時代末の778年。延鎮上人が夢告をうけ音羽の滝を尋ねあてて行叡居士に逢い、霊木を授けられて音羽観音を彫造し、滝上の草庵に祀ったのに始まる。間もなく、坂ノ上田村麻呂が滝の清水と上人の教えに導かれて深く観音に帰依し、仏殿(本堂)を建立し、御本尊十一面千手観音を安置。798年寺域を拡げ、本尊の脇侍(わきじ)に地蔵菩薩と毘沙門天を祀り寺観をととのえた。

本堂に張り出した舞台は、錦雲渓の急崖に約190平方メートル、総桧板張り最高12メートル強の巨大な欅の柱を立て並べて支えている。下から見ると太い柱が何本も組み合わさって舞台を支えている様子が分かる。これだけの建造物を作り上げた信仰の力のようなものを感ずる。

京都019 舞台と五重塔

清水の舞台からは京都市内まで良く見渡せ、また正面には子安塔という三重の塔が木々の蔭から見える。しかしここは何といっても京都の中でも最も有名な場所なので、人混みで舞台の先になかなか行くことが出来ない。そこから釈迦堂、阿弥陀堂、奥の院を経て、山道を辿っていくと子安塔がある。ここから少し下ると音羽の滝に出る。そこから帰路となる。

清水坂から高台寺へ
清水坂の繁華街はすごい人の列だ。休日の原宿の竹下通りにも勝るとも劣らない人混みだ。大部分は修学旅行の高校生か中学生で、集合時間までの短い時間で、土産物あさっていたり、ちょとした食い物で腹ごなしをしている。

清水坂から三年坂に曲がるとぐんと人が少なくなる。ほとんどが清水坂か五条坂に行って観光バス駐車場に向かう。さらに二年坂を下り、八坂の塔を見ながら、高台寺の駐車場に入る。駐車場の横に霊山観音があり、巨大な白い観音像が入口のまん前に鎮座している。

鷲峰山(じゅぶざん)高台寺(臨済宗建仁寺派)
略歴:正しくは高台寿聖禅寺といい、豊臣秀吉没後、その菩提を弔うために秀吉夫人の北政所(ねね、出家して高台院湖月尼と号す)が慶長11年(1606)開創した寺である。寛永元年(1624)7月、建仁寺の三江和尚を開山としてむかえ、高台寺と号した。造営に際して、徳川家康は当時の政治的配慮から多大の財政的援助を行なったので、寺観は壮麗をきわめたという。

高台寺は「秀吉とねねの寺」として知られている。広い駐車場を突っ切って、参道を進み、墓所を横に見ながら狭い裏道を進むと受付があり、庫裏の脇を通り方丈に上がる。方丈の周りが廊下になっていって、庭園が見渡せる。

11_convert_20100605173212.jpg 高大寺正面

京都039 高台寺庭園

庭園についての説明には次のように書かれていた。「開山堂の臥龍池、西の偃月池を中心として展開されており、小堀遠州の作によるもので、国の史跡・名勝に指定されている。偃月池には、秀吉遺愛の観月台を配し、北に亀島南の岬に鶴島を造り、その石組みの見事さは桃山時代を代表する庭園として知られている。」

京都で多くの庭園を見てきたが、それぞれ製作者の意図が様々な形で具現化されていて、その表現力の豊かさが歴史的芸術的価値を高めている。

傘亭と時雨亭
方丈を降りて庭園を歩いて回る。開山堂で再び靴を脱いで上がる。そこから渡り廊下を通って観月台を経て書院まで行く。そこを見学してから庭に降り、裏山に登ると傘亭と時雨亭がある。ねねのたっての希望で、伏見城から移築した利休の意匠による茶室だ。傘亭は竹と丸木が放射状に組まれ、カラカサを開けたように見えることからその名があり、時雨亭とは土間廊下でつながっている。

京都044 傘亭

傘亭の中央は土間になっているが、これはかっては水辺にあり舟がつけられるようになっていたそうだ。時雨亭は2階建てで1階で茶を用意し、2階でたしなむという。小高い丘の上のこの茶室からは大阪城が良く見え、炎上する様を悲しみをもって眺めたというエピソードがある。

高台寺を出てすぐ脇の階段を下りると「ねねの道」という並木に囲まれ、真っ直ぐな石畳の道に出る。土産物屋が並んでいる。その道をしばらく行くと円山公園に至る。(続く)

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京都めぐり2日目・嵯峨野

10月14日(火)
竹林の道
天龍寺の山門を出て左に曲がりしばらく行くと、竹林の入口がある。竹林は山陰線に並ぶようにして天龍寺の北門の方に続いている。かなりの人が出ている。時々人力車が通る。竹林の間を走る人力車はよく旅行パンフレットで見かける光景だ。どちらかというと行列を作って竹林の中を歩いている感じだ。風情も何もあったものではない。

野宮神社
竹林を5分ばかり行って、引き返すと野宮神社がある。人力車の人が説明していた。鳥居は樹皮がついたままの「黒木の鳥居」で、古代の鳥居の形式を伝えているという珍しいものだという。境内には苔を用いた美しい庭園として有名な「野宮じゅうたん苔」がある。縁結びや、進学の神様として知られており、若い女性や修学旅行生に人気があるということで、修学旅行の生徒を含めてかなりの人出で賑わっていた。ここまでが一般的な観光コースでここからさらに化野念仏寺の方に向かう人は少ない。大部分の人はここからまた渡月橋のほうに引き返していく。

京都150 野宮神社入口の鳥居

野宮神社から、踏切を渡り7,8分いくと常寂光院があるがここは寄らなかった。ここら辺から念仏寺にいたるコースは、周りが木々に囲まれ、嵯峨野の落ち着いた静かな風景を感じさせる。

落柿舎
最初に訪れたのは落柿舎である。江戸期の俳人、芭蕉の門人である向井去来の閑居跡で去来が在庵の時は玄関横に蓑笠を吊した故事の通り、今も蓑笠が吊るされている。松尾芭蕉も何度か訪れ嵯峨日記を記す。庭の柿を売る契約をしたのちに、柿がすべて台風で落ちてしまったためこう呼ばれている。畑と林に囲まれた藁葺きの小さな庵だ。昔は全く人里離なれた孤立した所だったのだろう。

二尊院(小倉山二尊教院華台寺・天台宗山門派)
小降りだった雨が少し激しくなってきた。立派な山門が目に入る。小倉山二尊院と書いてある。この総門は伏見城の薬医門を移築したものとされるものだという。門からなだらかな坂が続いていて、塀に囲まれた境内に至る。勅使門と黒門があり境内に入る。広い庭の向こうに本堂がある。本堂の裏は小倉山だ。観光客は5,6人しかおらず、雨が降っていることもあって、あたりは静まり返っている。本堂からの庭の眺めはなかなかのものだ。何本かの木が紅葉している。やはりこの寺院も紅葉の名所らしい。

京都157 二尊院本堂

本堂の横に弁財天堂があり、そこから急な階段が5~60段あり、登りきった所に、寺院を再興した湛空上人廟がある。階段の周辺は墓所なっており、古くからの墓が数多く並んでいる。急で滑りやすい坂道を降りてまた本堂に戻った。

略歴:平安時代初期(834~47)に嵯峨天皇が慈覚大師を開祖として建立したのが起こりです。その後荒廃しましたが、法然上人らによって再興 されました。応仁の乱によって堂宇伽藍が全焼しましたが、本堂・唐門は約30年後再建されました。本堂右に釈迦如来像、左に阿弥陀如来像の二本尊(ともに平安末期の作で重要文化財)を安置しており、二尊院の名もここから名付けられました。

祇王寺(尼寺・大覚寺の塔頭・真言宗)

祇王寺は小倉山麓にあり、楓と竹に囲まれたささやかな草庵である。今までの広い寺院を見てきたが、ここはきわめて狭いが、誰もいない苔むした庭は現在という時間を忘れ去るような、静けさに包まれていた。

giouji_convert_20081022110345.jpg 祇王寺庭園 

平清盛と二人の白拍子の女性の物語がこの寺の背景にある。今まで清盛から寵愛を受けていた祇王は仏御前の出現によって、館を追い出されることになった。その後、祇王、妹の祇女、その母、そしてやがて自分も同じようなるだろうと感じた仏御前の4人は仏門に入ったという歴史がある。

仏間には本尊の大日如来と、清盛と4人の木像が安置されている。こういった祇王寺の歴史が、仏間で、テープによって解説されていた。静かな空間の中に、突然修学旅行の高校生40名入ってきた。狭い庭なので、あたり一面人だらけになる。といったことで、祇王寺を後にした。

化野念仏寺(華西山東漸院念仏寺・浄土宗)
あだし野という言葉は、徒然草の「あだし野の露消ゆる時なく鳥部山の煙立ちさらで・・」という一節で印象に残っている。墓場の露と、火葬場の煙というものに例えて人生のはかなさを指している。そのあだし野の原風景を現在に残している場所として、一度は行ってみたいと思っていたところだ。

京都172 念仏寺の石仏群

境内には人っ子一人いなかった。あたりは薄暗く墓場の雰囲気は十分堪能できる。まず目に付くのは仏舎利塔で、中が納骨堂になっている。しばらく行くと墓地になり、その一角におびただしい数の石仏・石塔が並べられている。これは昔あだしの一帯に葬られた人々のお墓である。

何百年という歳月を経て無縁仏と化し、あだし野の山野に散乱埋没していたのを集めたものである。賽の河原に模して「西院の河原」と名付けられた。この石仏の数の多さに圧倒させられる。長い歴史、死者の歴史を感じさせられ、薄暗い空の下で数限りなく横たわる様々な死に対面しているような気分にさせられた。

略歴:「あだしの」は「化野」と記す。「あだし」とははかない、むなしいとの意で、又「化」の字は「生」が化して「死」となり、この世に再び生まれ化る事や、極楽浄土に往来する願いなどを意図している。この地は古来より葬送の地で、初めは風葬であったが、後世土葬となり人々が石仏を奉り、永遠の別離を悲しんだ所である。

大覚寺に向かう・寂庵
念仏寺から来た道を少し戻り、八体地蔵尊が並んだT字路を、大覚寺方面に向かう。「嵯峨野めぐり」と書いた矢印が立てられている。少し行くと「寂庵」と書いた看板がある。4,50mばかり歩いていくと、瀬戸内と書いた表札があった。ここがそうなのだろう。高い塀に囲まれていて中は分からないが、建物の横の壁だけ見える。確かにそれほど大きな建物ではない。

しかし想像していたのとは全く違っていた。そもそも嵯峨野の中でも寂庵のある場所のイメージが全く違っている。野宮神社から念仏寺までは寺院が並んでいて、木々に覆われもの淋しい雰囲気があったが、大覚寺方面の道は明るく開けていて、畑や田んぼが少しはあるが、どちらかというと高級住宅地といった感じで、そこそこ大きな一軒家が並んでいるといった雰囲気で、俗世を避け、瞑想にふける日々を送るといった雰囲気では全くない。寂庵もその中の1軒といった感じだ。バス停も近く出し、京福電鉄の嵐山まで歩いて2,30分位で行ける距離だろう。

大覚寺(旧嵯峨御所・真言宗大覚寺派の大本山)
京都183 大覚寺本堂

寂庵から20分位で大覚寺に着いた。ここは池を中心とした広大な面積を占める庭園を抱え、20数棟の建物を配している。受付から最初に行くのが「宸殿」で、そこには狩野山楽の筆による豪華な襖絵、紅梅・牡丹の図を始め桃山時代を代表する金碧画が飾られていた。庭は白石で敷き詰められ、「左近の梅、右近の橘」が配されている。

宸殿から渡り廊下を通って五大堂に行く。ここは江戸時代中期(天明年間)創建され、現在は大覚寺の本堂となっている。不動明王を中心とする五大明王を安置する。 大沢池に面する東面には、池に張り出すように広いぬれ縁があり、そこからは大沢池を中心とし、山々を背景とした、自然を十分に取り込んだ眺望がすばらしい。中国の「洞庭湖」を模して作られたことから庭湖と屋ばれる。日本最古の庭苑池だといわれる。

さらに御影堂(心経前殿)や桃山時代の書院造りである正寝殿など見所には事欠かない。この寺院の正式名称は「旧嵯峨御所大覚寺門跡」という。門跡寺院とは天皇または皇族が住職に就かれた寺院のことだという。

京都187 大沢池

大覚寺の前には広い駐車場がある。車はほとんど止まっていなかったが、紅葉の季節には駐車しきれないのだろう。京都駅行きの1時間1本のバスの時刻が迫ってきたので、大覚寺を後にした。

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京都めぐり2日目・嵯峨野

10月14日(火)
嵯峨野に行く
京都めぐり2日目は嵯峨野に行くことにした。嵯峨野めぐりのルートマップがありそれは以下のようになっている。これを全部回るというわけではなくこの寺院をつなぐ道が嵯峨野の情景を表している散策路だというのだ。要所要所に「嵯峨野めぐり」の表示があるという。

渡月橋→天龍寺(塔頭として宝厳寺、弘源寺)→竹林→野宮神社→常寂光院→落柿舎→二尊院→滝口寺→祇王子→化野念仏寺→大覚寺

朝から雨が降っていた。市営バスで嵐山まで向かう。バスは満員だった。途中女子大があり大部分がそこで降りた。嵐山で降りず一つ先の渡月橋を渡った中之島公園で降りた。あんなにバスが混んでいて皆嵐山に行くと思っていたのに結局ここで降りたのは私一人だけだった。バスはその後、松尾大社、鈴虫寺、西芳寺に向かう。

京都100 渡月橋 

渡月橋から天龍寺
渡月橋を、橋の上から嵐山の風景を楽しみながら渡る。写真で見ると木の橋のような感じがしていたが、バスも通るようなしっかりした幅広い橋だった。そこから天龍寺に向かう。渡月橋から天龍寺に向かう道は観光の中心地にふさわしく、土産物屋、食事処などひしめき合っている。同じようなものを売っていて、よく商売が成り立つなと思う。人力車のえびす屋の総本店が渡月橋の傍にあり何台も並んでいて客引きをしている。

天龍寺の山門をくぐるとぐっと静かになる。雨のせいか、人もそれ程いない。天龍寺の本堂に向かう途中に、宝厳院と弘源寺が秋の特別拝観期間で開放されるという張り紙があった。両方とも天龍寺塔頭と記されてあった。特別拝観というとつい惹かれてしまう。宝厳院に向かう途中に、五百羅漢の像が何十体も路端に並んで奉られてあった。これだけ数があると壮観な感じがする。

宝厳院(天龍寺塔頭)
まず宝厳院に寄ってみることにした。全く人がいなかった。小雨が降りそぼ降る京都の庭園の雰囲気を味わうには絶好の情景である。拝観受付で貰ったパンフレットには、この庭園について次のように書かれてあった。

京都104 獅子吼の庭 

獅子吼の庭:この庭園は室町時代に中国に2度渡った禅僧策彦周良禅師によって作庭された名園で嵐山を巧みに取り入れた借景式枯山水庭園である。「獅子吼」とは「仏が説法する」の意味で、庭園内を散策し、鳥の声、風の音を聴く事によって人生の真理、正道を肌で感じ、心が大変癒される庭である。

庭園内には、須弥山を現す築山、その前には人生を思わせる「苦海」(空池)が広がり、対岸には「雲上3尊石」が有り、海の中には、「此岸」より「彼岸」に渡る舟石、仏の元に渡る獣石が配置されている。


夢窓国師曰く「山水には得失なし、得失は人の心にあり」

なかなか意味深い庭園だが、誰もいない庭を散策しながら、なかなか庭に込められた真理に到達するのは難しいことであった。受付を出た所が参道になっていて、両側がもみじの木で囲まれ紅葉の時は鮮やかな色彩に彩られたトンネルになるということだ。

天龍寺(臨済宗天龍寺派大本山)
そこから天龍寺の庭園の受付に行って庭に入る。曹源池の周辺が散策コースになっていて、望郷の丘という小高い所まで道があり北門までつながっていて、かなりの距離がある。境内の庭を一周して、本堂の中に入る。大方丈から見る庭は、また趣が違いなかなか見ごたえがある。開山夢窓国師(疎石)の作庭になる廻遊式庭園であり、池の前庭には州浜形の汀や島を配し、嵐山や亀山を借景として取り入れている。白砂と緑が鮮やかである。そこから書院、多宝殿まで渡り廊下で行ける。

京都126 天龍寺庭園

天龍寺略歴:京都五山の第一位であるこの寺は、霊亀山天龍資聖禅寺(れいぎざんてんりゅうしせいぜんじ)といい、1239(暦応2)年に吉野で不遇の中に崩御された後醍醐天皇を慰めるために、足利尊氏が高僧夢窓国師を開山として、嵐山を背景とする亀山離宮を禅寺にあらためたのがはじまりである。

弘源寺(天龍寺塔頭)

天龍寺の参道を出口に向かう途中に弘源寺がある。ここもまた庭に特徴がある、虎嘯(こしょう)の庭と呼ばれている。「龍吟じて雲起こり、虎嘯きて風生ず」と言う語句から名付けられ、「龍吟」は枯れ枝の間を抜ける風の音を表し、「虎嘯」は大地より涌出る朗々たる響きを表す、すなわち禅の悟りの境涯を表しているという。嵐山を借景にした枯山水庭園だ。

京都131 虎嘯(こしょう)の庭

また毘沙門堂にある毘沙門天像(国指定重要文化財)は、インドの仏師毘首羯磨の作で、中国を経て日本に伝えられ、始めは比叡山無動寺にあったものを550年前に開山玉岫禅師がこの寺に移送したものだという。

これら3つの禅宗の庭を見て、そこに込められた思想の大きさに驚かされる。一つ一つの草木や石や岩それぞれ意味を発現しているという奥深さを改めて感じることとなった。

弘源寺を出てすぐ天龍寺の山門になる。そこを出ると目の前が食堂だった。丁度昼食の時間だった。(続く)

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京都めぐり1日目・寂光院~三千院

10月13日(月)
大原の里・寂光院(天台宗)
鞍馬山から、山沿いの道を大原に向かう。バスの駐車場は離れた所にあるが、寂光院に入る道路際に車を止めそこから10分ほど歩いて寺院に到着する。途中大原の里ののどかな田園風景が印象に残る。収穫を終えた田んぼと、コスモスの花が、昼下がりの陽光の中で、眠気を誘うような穏やかなたたずまいを感じさせる。

京都232 大原の風景

寂光院は何といっても第三代の建礼門院徳子でよく知られている。平清盛の息女、高倉天皇の皇后、安徳天皇の母であり、そして源平の戦に破れて遠く壇ノ浦で滅亡した平家一門と、我が子安徳天皇の菩提を弔い、1185年に入寺し真如覚比丘尼となり終生をこの地で過ごした。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり
本堂前西側の庭園は、幽翠で哀れに美しく、当時の余韻を残している。平家物語当時のままで、心字池、千年の姫小松、苔むした石、汀の桜などがある。この姫小松は、平家物語に書かれており、1186年の春、翠黛山(本堂正面に対座する山)から、花を摘み帰った建禮門院が、後白河法皇と対面するところに登場する。庭園にある鐘は諸行無常の鐘と言われているらしく、平家物語の雰囲気を感じさせる庭園である。

京都229 寂光院本堂

本堂は2000年5月の不審火で焼失した。この際本尊の地蔵菩薩立像も焼損した。2005年に再建された。地蔵菩薩は新品で雰囲気は出ないが、以前のは写真を見ると黒ずんでいたので、製作当時のありのままを復元してあるのでそれもいいかなと思わせるほど良く出来ていた。

この火事で地蔵菩薩の中に3万体の小さな地蔵尊が入れられていた事が判明した。それが宝物殿に展示されている。この本堂で、尼さんが寂光院にまつわるエピソードを話してくれた。バスで説明を受け、寺院で説明を受け、いろいろ知った上で、眺めると見方が違ってくるというのは事実だ。知って見ると一層味わい深くなる。

集合時間までは限られた時間しかなかった。三千院まで行って、バスの駐車場まで行く時間はないわけではないが、ゆっくりと見ている時間はない。とりあえず行ってみることにした。寂光院から三千院まで30分弱だった。

三千院(天台宗)に向かう
三千院に向かう道の両側には土産物屋が軒を連ねている。漬物屋が多い。色々な種類の漬物が売られている。大原の名産は柴漬だという。この里の紫蘇が香りがよく建礼門院が皇室の紫色をイメージして考え出したという。当時の大原は冬になると道も閉ざされ、外界から遮断された世界になる。漬物の普及はそういった地理的条件からの必要性から生まれたとも言われている。

またさば寿司が売られていた。そして日本海から大原を通って京都市内に入る道がさば街道と呼ばれていたそうだ。さばを運ぶ時、昔は塩漬けにして運んでいたが、それが発酵して、丁度いい味になるのがこの地域だという。何でこのような山中でさば寿司が売られているかが分かった。

京都239 三千院山門

呂川のせせらぎを越えて、三千院の参道に入る。石段をあがると土産物屋と食べ物屋が並んでいて、赤い毛氈をひいた縁台が並んでいる。観光シーズン連休最後の日とあって、かなりの観光客で賑わっている。その向かいに悠々と建つのが三千院門跡。

三千院の庭園
山門を入り受け付けで拝観料を払い庭園に入る。客殿の襖絵や古文書を背に池泉回遊式庭園の聚碧園を望めば、まだ紅葉には早いが、苔に敷きつけられた大地に青々とした木々が絶妙なバランスをとって配置されている。秋の涼しい空気が緑のにおいと共に運ばれてくる。

庭に下りて、すぐに往生極楽院があり木々に囲まれた中にひっそりと佇んでいる。藤原時代に建てられた49の常行堂のうち、唯一現存する御堂で、重要文化財の阿弥陀三尊が安置されている。

京都2_convert_20100605165818 往生極楽院

最近のテレビコマーシャルで「そうだ、京都に行こう」の中で三千院が出てきて、紅葉の中で誰もいない静けさに包まれた情景が紹介されているが、絶対にそんな光景を目にすることはないだろう。客殿で庭を見るより人の頭を見ているような気がしたし、往生極楽堂では人が列を作っていてとても中に入れる状況ではなかった。休日は観光客が押しかけ、平日は修学旅行の生徒で一杯だ。紅葉の季節になればそれは倍増される。

それでもあの「京都大原三千院」の歌で御馴染みの三千院に行ったという事にはなった。そこからもと来た土産物屋の立ち並ぶ坂道を下り、駐車場に向かった。途中、同じバスに乗っていた夫婦とすれ違ったが、今から行けば集合時間に間に合わないだろうと思っていた。バスはその二人を置いて出発した。多分途中下車したのだろう。そして予定通り17時に京都駅に着いた。

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京都めぐり1日目・鞍馬山

10月13日(月)
観光バスは次の目的地鞍馬山に向かう。山道を登っていく。狭い道でバスとすれ違う車は大変だ。鞍馬寺に登るケーブルカーの駅から少し離れた所にバスの駐車場がある。山間の町で、川沿い狭い平地の中で、大きな駐車場を確保するのが難しい。バスを降りたらすぐ昼食だ。確かにバス代が高いのが分かるというような懐石料理だった。

鞍馬寺(鞍馬弘教)仁王門
京都210 鞍馬寺仁王門

鞍馬寺の仁王門をくぐり、ケーブルカーで鞍馬山の途中まで登る。ケーブル料金は、寺院に100円お布施をしてくれた人は無料だということになっている。発想法がユニークだ。寺院が経営するケーブルカーは全国でここだけだというのもおもしろい。ケーブルは5分位で終点の多宝塔前に着く。そこから10分位山道を登る。さらにかなり急な階段を登り、本堂前の広場に着く。登りはきついがどうにかなるようの勾配だった。

京都3_convert_20100605165901 多宝塔

本殿金堂
本堂(本殿金堂と呼ぶ)の前には狛犬の変わりに虎が左右に配置されている。一匹は口を開け、一匹は閉じている。阿吽を意味しているという。密教では、この2字を万物の初めと終わりを象徴するものとし、菩提心と涅槃(ねはん)などに当てる。虎は鞍馬寺の本尊毘沙門天を守護する動物だということで設置されている。

本殿金堂に祀られている「本尊」は「尊天」といわれている。「尊天」は、月輪の精霊であり慈愛の象徴である「千手観世音菩薩」、太陽の精霊であり光の象徴である「毘沙門天王」、大地の霊王であり活力の象徴である「護法魔王尊」の三身を一体としたものである。尊天は森羅万象あらゆるものの根源、宇宙エネルギーであり、真理そのものであるという。

鞍馬寺略歴
:鑑真(がんじん)和上の高弟である鑑禎(がんてい)上人が宝亀元年(770年)にこの地に草庵を造り、毘沙門天を安置したのが鞍馬寺の創始であると伝えられている。 その後、延暦15年(796年)に造東寺長官の藤原伊勢人が貴布禰明神のお告げにより、王城鎮護の道場として伽藍を造営し、千手観世音を祀ったとされている。寛平年間(889~898年)には峯延が入寺して真言宗の寺になったが、天永年間(1110~1113年)に天台座主忠尋が入寺して天台宗に復したといわれている。更に、昭和22年(1947年)には鞍馬弘教が立教され、当寺が総本山となり、現在に至っている。(ブログ「古墳のある町並み」から)


京都217 鞍馬寺本堂

通常考えると寺院というのは一つの宗派を普及するためのもの作られるものだと思うが、その宗旨が様々に変わっていくこともあるのだということを思い知った。さらに鞍馬弘教なる、宇宙エネルギーを尊天として崇拝するという新興宗教的色彩の強い宗派がこの寺を仕切っているというのも京都なのに、と興味を惹かれるところである。

由岐神社
本殿金堂の裏手から貴船神社に向かう山道があるそうだがそちらに向かう時間はない。金堂を元来た道を下る。帰りはケーブルカーを使わず下りる。義経公供養塔があり、さらに下ると由岐神社の境内に行き当たる。この神社の「拝殿」は重要文化財に指定されている。毎年10月22日に行われる有名な「鞍馬の火祭」はこの神社の例祭である。

由岐神社から少し下ると、放生池があり義経伝説の中の人物、鬼一法眼の社など幾つかの見物があって、ケーブル駅の普明殿に着く。そこから5分位でバスの駐車場だ。(続く)

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京都めぐり1日目・上賀茂神社

10月13日(月)
京都は東京から2時間半で行ける。近いといえば近いが、そう簡単に行く機会は作れない。京都・奈良は東京の公立の中学、高校の定番の修学旅行コースだ。昔は「日の出号」という修学旅行専用列車があって、一晩かけて京都まで行ったものだ。新幹線と飛行機で日本は狭くなった。昔沖縄に行った時には船で48時間かかって行ったものだ。今は2時間位で行ける。

折角京都まで行ったのだからと、16日の定期検診まで用がなかったので、滞在することにした。関西方面に行った時2,3回京都に寄った事はあったが、日帰りで駅周辺を回ること位しか出来ていない。今回はゆっくりと気ままな一人旅を楽しむことにした。高級ホテルを出て、近くの安いホテルに移動し、駅前のバス停に行った。

連休最後の日で、人でごった返していた。今まで行ったことのない所ということで、大原とか嵯峨野とかに行こうと思った。丁度観光バスで、鞍馬、大原方面が出発間近だった。昼食付きというのも気にいった。あまり考えることなくそれに乗ることにした。市バスで行くと両方に行くのはなかなか難しい。

観光コース=京都駅→上賀茂神社→鞍馬山-寂光院→三千院→京都駅

京都193  神社入口大鳥居

観光バスが役に立つのは、バスガイドが地域の特色について色々解説をしてくれる所だ。また通り過ぎる名所旧跡も解説してくれるので、行くところが少なくても色々行った気になる。バスは、30人乗りのマイクロバスで、27人が乗車していた。

バスは西本願寺、紫式部の墓、二条城の脇を通り上賀茂神社に向かう。神社に着いて最初に目に入るのは、大きな鳥居だ。その一の鳥居をくぐり参道をしばらく行くと二の鳥居がある。参道の周辺は広い芝生で、所々に枝垂桜が植えられている。境内に入るとすぐ目の前に細殿があり、その前には、砂が円錐形に盛られている。これは立砂といって神が降臨したといわれる「神山」をかたどったものといわれている。そこから朱色の楼門をくぐり、石段を上がると参拝所がある、そこから中を覗くと、本殿と権殿が垣間見られる。

神社では、団体客だということで、神主が神社の由来について解説してくれた。上賀茂神社には国宝に指定されている「本殿」、「権殿」のほか、重要文化財に指定されている建造物が34棟あり、ユネスコ世界文化遺産にも登録されている、という文化財的な価値ある建造物だということだ。

京都199_convert_20100605132605  楼門

京都202_convert_20100605132640  神社境内

葵祭で知られる上賀茂神社は、正式には賀茂別雷(かものわけいかづち)神社という。創建はかなり古く、平安京造営以前から先住していた賀茂族の氏神として祀られたのが始まり。平安時代には皇城鎮護の守護神として尊ばれた、という歴史を持っている。

葵祭りの起源は、欽明天皇5年(545年)、賀茂大神の祟りを鎮めるための祭祀を行ったところ、それまでとは違って天下泰平、五穀豊穣になり、庶民は大いに喜んだという。以後、毎年定期的に行われるようになったとされている。

東京の神社などを見慣れていると、その広さには圧倒される。回るだけでも2,30分はかかるだろう。60棟以上あるという社殿を一つずつゆっくり見ていくとどの位かかるか分からない。丁度結婚式が終わったばかりらしく、細殿の横で親類縁者一同が記念撮影をしていた。1時間ばかり境内を散策し、集合時間になったのでバスに戻った。神社周辺の「社家町」といわれている所は、京都市上賀茂伝統的建造物群保存地区として国から指定されているという。(続く)

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血液学会公開シンポジウム(続き)

10月12日(日)
「公開シンポジウム」の第3部
京都256メインテーマ「患者学」の内容に関するパネルディスカッションが次に開始された。「患者学はじめの一歩」と題されて3人の講演者からの提起を受けて論議していくものである。最初に司会の田中医師より「患者学」は、医療者や研究者、患者・家族など、皆が皆のために皆でつくるものだと思う。今日はその一歩目だといった話しから始まった。(写真アネックスホール)

シンポジウムの発言者

国立がんセンターの土屋了介氏は当日外科学会に参加して出席できずビデオレターで「患者学の体系化が、医療の信頼回復に」といった内容で話された。

マッキャンヘルスケアワールドワイドジャパン/NPO法人EBH推進協議会の西垣英一氏は広告心理学や行動経済学の立場から「患者=患者+生活者。医師との感覚にズレ」の問題について提起した。

「患者学は誰のためのものか」といった内容で、埴岡健一・東大医療政策人材養成講座特任准教授は語った。様々な学を集中した総合的な体制が必要だと訴えた。

この3者の提起を受けて患者学とは何かについて考えていきたい

医師と患者の軋轢

現場医療現場では、大量の情報の分析を含めて、分業化が進み、医者は患者に対してエビデンスに基づく治療方針で患者に理論的に説明する。しかし患者は十分納得せず不安が増す。患者の全ての心のケアそれは医者との関係をどうするかにかかっている。それが患者学の課題だ。

医者と患者の違いがある。医師は科学的根拠に基づいた診断治療や健康増進など「エビデンス・ベースド」で語る。患者は気持ちに基づく医療や健康といった「インサイト・ベースド」で考える。この齟齬を埋めていく必要がある。

さらに次の壁がある。患者は「患者インサイト」と「生活者インサイト」の二つを持っている。医師と患者の満足の「ピーク」と「エンド」は、それぞれズレがある。医師は、治療による成果が出た時に、満足のピークとエンドがほぼ同時にくるが、「患者インサイト」のエンドは、「生活者インサイト」の新たな出発点になる。

今までの感覚で行くと患者は患者でしかなかった。しかし患者は生活者である。QOLの動的概念を捉えなければならない。欠落していたコミュニュケーションの開発が必要だ。質の高い医療の獲得のためには、患者を真ん中にした産「患」官学の連携という体制が必要ではないか。

患者学を支える体制作りを
患者は日々体のことや生活のこと様々な問題を抱えている。このことに関しては、臨床試験、治療、ケア、心のケア、社会活動、患者支援サービス、広報、コミュニケーションなどが対象領域として存在している。学問手法としては、これまでやってきた生物学、生化学、分子生物学などがあるが、しかし患者の全人格をフォローするためには、医学的な領域だけではもはや対応できない。

そういった意味では経営学、倫理学、社会常識、経済社会学、情報工学、人文科学、アートなど諸領域を含めた総合的集学的学が必要となるだろう。患者がかかえる諸問題の多様性に対応できる学としての患者学が求められている。

この課題は、医師だけでなく看護師やコメディカル、サイコオンコロジスト、公衆衛生学者、社会学者、情報工学者、心理学者、患者・市民代表、民間企業など実務の専門家も含めて考えていかなければならない。国、学会、患者、NPO、民間の総合的対応が必要だ。こういった関係を土台にしながら「医療者と患者による患者学」が作れなければならない。

「ももの木」関西交流会
18時から京都駅前の「DONGURI」というお好み焼き屋で、東京から来た4名と関西の「ももの木」関係者含めて20名近く集まって交流会を行なった。血液内科関係の患者は病気が違っても大体治療方針が似ているので話がすぐ伝わる。参加した人は大体「公開シンポジウム」に参加していた人で、大阪の人がほとんどだ。皆ユニークな治療体験を話してくれた。初めての人でもすぐ話が通じる関係はなかなかないものだ。患者同士の連帯みたいなものを感じられた時間だった。

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血液学会公開シンポジウム

10月12日(日)
京都に到着
10月12日、13時30分より16時30分までの3時間、国立京都国際会館のアネックスホールで「血液学会公開シンポジウム」が行なわれた。「ももの木」の関係で参加した。

東京駅を9時30分に出て、京都には11時50分に着いた。京都駅で荷物を預けようと思って探したが、そこいら中にロッカーがあるのだが、全て使用中だった。観光シーズンで連休のまっ只中だからだろう。

今晩泊まる宿を探すのに一苦労だった。1週間位前にYahooトラベルとかじゃらんとかで、ビジネスホテルをあたったが、13日以降は5~6000円の宿は幾らでもあるが、休前日は全て2倍3倍の値段になっている。2、3万円の宿はあるが、一番安くて1万5000円だった。通常だったら3日分泊まれる。しかし、やむをえない。

京都257早めだったが会場に向かった。地下鉄の烏丸線の終点が国際会館だ。京都駅から20分。地下鉄の駅を上がると森に囲まれた静かなたたずまいの中に、最近の建築の意匠を凝らした会館が聳えていた。内装は高級ホテル並で、アネックスホールは高い天井が音響効果を増しているように思われる。

会場に着くと、「ももの木」のメンバーが3人受付をしていた。田中医師と合わせて5人東京から参加というわけだ。時間があったので中庭を散策する。中央に池があり、橋を渡してあって、左右に日本庭園がある。小高くなった所からは、道を隔てて宝ケ池がありボートを漕いでいる風景が目に入る。京都らしくなかなか格調の高い庭だ。

シンポジウムの趣旨
今回のシンポジウムのテーマは「患者と医療者が一緒に考える患者学」で、サブテーマとして「患者学はじめの一歩」というものだった。日本血液学会、公益信託日本白血病研究基金、NPO法人白血病研究基金を育てる会の共催で行なわれた

学会が患者支援団体と共催し、医療者と患者を対象とし、両者の関係性をテーマにした公開シンポジウムを開くのは初めてで、「学会は社会性がないと言われてきたが、こうして患者支援団体に入ってもらってコミュニケーションしていくことは、学会にとっても良いことだと思う」(学術集会会長の須田年生氏・慶應義塾大医学部教授)という位置付けから開催された。

会場には約250人が詰め掛けた。患者支援団体からの活動報告を聞き、患者と医療者が共により良い医療やケア、患者のQOLの向上などについて考えていく「患者学」について様々な視点で報告があり、意見交換が行なわれた。

第一部 「患者支援団体の紹介」
NPO法人-血液情報広場・つばさ(がん電話情報センター)。NPO法人-グループ・ネクサス(悪性リンパ腫患者会)。にこにこトマト(子供の患者の支援)。日本骨髄腫患者の会。再生つばさの会(再生不良性貧血、骨髄異形成症候群など)。NPO法人-白血病研究基金を育てる会。この6団体からの活動報告が行なわれた。1団体8分という限られた時間だったが皆スクリーン映像をも駆使しながら、うまくまとめて報告していた。

第二部 「癒しと励まし」
清塚信也さんのピアノ演奏が行われた。最初の曲は「戦場のピアニスト」で御馴染みのショパンのノクターン(夜想曲)20番だった。演奏が終わって、清塚さんは「ショパンは結核と戦いながら、限られた命を燃やすようにして曲を作り続けていた。病は人生を全うするのにむしろ力を与えてくれるものだとショパンの曲を弾くと感じる。次の舟歌はあまり知られていないが、彼の想いが様々な形で表現されているので聞いてもらいたい。」と言って「舟歌」と弾き始めた。最後は自作の曲を演奏し彼の演奏を終えた。

曲の演奏から何を感じ取るのか、ショパンの曲から何を感じるのか。それは様々だろう。しかし曲の中にはショパンの生き様が色濃く反映されている。そしてそのことは同時に、病を背負った我々に何が出来るかの一つの有り方を示している。

手紙の朗読
患者から主治医への感謝の手紙が、清塚さんのピアノを伴奏として朗読された。娘の骨髄移植の成功を願う母親から、息子を白血病で亡くした母親から、若年で悪性リンパ腫になった患者から。闘病する男性の息子から、と4通の手紙が代読された。主治医の先生への心からの感謝の気持ちが表現されている。息子を亡くしながらも主治医に感謝する母親の気持ちには打たれるものがあった。

こういった素晴らしい主治医に恵まれた患者は幸せだなと思う反面、今の医療体制の中で医者の置かれた厳しい現状で、個々の患者へのフォローが十分行き届かない中で、医者個人の努力だけではどうにもならない状況にも思いを馳せざるを得なかった。

第二部の最後は市川団十郎さんのビデオレターが紹介された。病気になって回復するまでの経過や、家族、友人の励まし、舞台への想いなど切々と語られた。(続く)

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定期検診の日

10月16日(水)
通常2週間一度の定期検診であるが、今回は医者の都合で1ケ月後の検診となった。前回は9月17日だった。2週間一度の通院というのはそれなりに面倒だが、体の不調などあった時にすぐ相談できるので便利だし、骨髄抑制の状態など細かくチェックできるので安心であることは確かだ。

検査結果
 IgM     1803←1785←1668
 白血球   2.1←2.3←2.6
 血小板   15.9←13.3←13.7
 ヘモグロビン 11.3←11.5←11.7

今回の結果、IgMが1ケ月でプラス18とかなり上昇率が収まってきている。最近の2,3ケ月、2週間で100位上がり続けていたが、どうやらそれが収まったようだ。シクロフォスファミドがサリドマイドと相乗作用を発揮して、IgMの増加を抑えているのだろう。しばらくこの方法で続けて行く事となった。

サリドマイド100mgを毎日服用し、シクロフォスファミド50mを1ケ月に7日間服用する。確かにサリドマイドは色々な組み合わせで奏効率を上げている。サリドマイド自体あまり副作用がないので、これをベースにして組み立てるのは抗がん剤同士を組み合わせるより体調的にはかなり楽である。

問題は、シクロフォスファミドの影響だと思うが、白血球が徐々に減少しているということだ。白血球はこの半年位、2.6から2.9の間を上下していた。それがシクロフォスファミドを始めてから確実に下降している。2.1というのは、まだ許容範囲だろう。ただこれから風邪がはやってくる季節なので感染には十分注意するようにといわれた。さらにインフルエンザの予防接種もするようにということだった。

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患者学・血液学会でのシンポジウム

10月11日(土)
img_01_convert_20081011234813.jpg10月10日から、12日まで、国立京都国際会議場で、日本血液学会の第70回の総会が開かれる。日本血液学会と臨床血液学会が一つになった初めての総会ということだ。この総会の3日目に、「患者と医師が一緒に考える患者学」と名をうった公開シンポジウムが開かれる。

探索医療ヒューマンネットワークシステム部門の試み
患者学という聞きなれない言葉だが、これは田中祐次医師が東大医科学研究所の探索医療ヒューマンネットワークシステム部門として、提唱してきたもので今回血液学会において初めて公開シンポジウムとして取り上げられることになった。田中医師は今回のシンポジウムで司会をすることになっている。田中医師が患者学を取り上げて推奨していった経過や、医科学研究所のヒューマンネットワークシステム部門の役割について以下のように書かれている。

「私たちは、患者、その家族、医療者が有する暗黙知を形式知にすることで相互のコミュニケーションの向上をはかり、 コミュニティ内だけではなくさまざまなコミュニティ間の齟齬を調整する Community Facilitated Medicine(医師と患者のコミュニュケーションを促進していく医療)の確立を目指しています。

田中祐次は2000年より患者会「ももの木」を主催してきました。 その活動の中で、患者、患者家族、医療者の間に齟齬を感じ、その齟齬を調整する Facilitator(世話人) としての活動を通じて患者学(Community Facilitated Medicine)確立の必要性を感じてきました。

本研究室の開設以後、本格的に患者学の設立を目指し、講演活動、Facilitator育成セミナーの開催や患者学会設立活動)を始めています。 これらの活動を通じて、患者学の重要性を世に広めるとともに、本当の患者・患者家族のための医療を目指します。」

患者学とは
「患者学とは病気を持つ患者自らが内省し、身体的・心理的・社会的な健康を勝ち取るために統合する全ての科学的思考」というものだ。つまり患者が主体的に自らの病気と向き合い、医師と協力して治療に当たるということを目指すもので、自分に合った医療の獲得と、患者が病と共にどのように生きるかを考えていくものだ。そのための心の持ち方と自己治癒力の強化がはかられなければならない。

世界的な動きとして英国NHSによって2002年から「慢性疾患セルフマネジメントプログラム(CDSMP)」を発展的に改組し「患者学プログラム(EPP)」が開始された。長期慢性疾患患者の自助と家族の援助を強化するために国家政策として熟達患者を育成している。(Wikipediaより)

須田年生(慶應義塾大学)医師は慶応大学で始めている試みとして「医師と患者さんとの間のコミュニケーションの解析をしていました。そういったコミュニケーション学からのアプローチというのが、患者学の柱として1つ考えられますね。」といっている。

インフォームド・コンセントをさらに進めて
インフォームド・コンセントが今の医療現場ではかなり定着してきている。これは医師が患者に対して、受ける治療内容の方法や意味、効果、危険性、その後の予想や治療にかかる費用などについて、十分にかつ、分かりやすく説明をし、そのうえで治療の同意を得ることで、この概念を医師=患者関係の基本に置こうとしている。

患者学はこの現状の中でさらに、患者同士のコミュニュケーションなども通しながら患者の医療への主体的関わりを推進していくものである。そういった意味で院内患者家族交流会などを活性化させながら、医者と患者と患者家族の連携を深めていく試みが重要な課題となって来るのである。

(明日、「ももの木」の関係で、13時30分からの血液学会の「患者学の公開シンポジウム」に参加するために京都に行ってきます。しばらくブログはお休みします。)

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抗がん剤と体力消耗

10月8日(水)
 体力の回復が中々思うようにいかない。ハイキングとか旅行とかに行っても、その日は問題なくこなせるが、次の日には、ぐったりと疲れてしまう。

患者交流会で、病気になる前にテニスをしていたという人が3人集まった。急性骨髄性白血病の人と悪性リンパ腫の人と私だ。皆移植を受けている。移殖をして、退院後それぞれ2,3年経っている。職場復帰している人もいる。しかしあれほど好きだったテニスを満足にすることが出来ないということだ。ともかく走る事ができない。すぐ息が切れてしまう。5分と持たない。私も近所の公園に壁打ちに行ったが、5分位で疲れてしまい、続ける事をあきらめてしまった。

抗がん剤の影響はひたすら長く体を蝕んでいく。抗がん剤の服薬や、化学療法だけで寛解になった人は、それ程体力消耗が尾を引くことはない。移殖時の大量抗がん剤投与が最も問題だ。しかし、何年も抗がん剤治療を続けていると、副作用が蓄積されてくる。

◆ 私の場合まず、VAD療法でビンクリスチン(オンコビン・アルカイロイド系)0・4mg、アドリアシン(ドキソルビシン・抗生物質系)10mg、デキサメサゾン(デカドロン・副腎皮質ホルモン)40mgを4クルー行なった。

次に抹消血幹細胞採取時にはエトポシド(商品名ペプシド)というアルカロイド系の抗がん剤を使った。これを一日3時間かけて投与し3日間行なった。

一番問題は、移殖の前処置に使う大量抗がん剤だ。メルファラン(アルケラン)300mgを1時間で投与する。MP療法で使うメルファランは一日錠剤で6mgを3日服用するということに比べたらどれ程強力なものか分かるというものだ。

移殖を2回やった。移植後の体力消耗は激しく、退院してからもしばらくは半日位は横になっていた。移殖をした患者に聞いてみると皆2,3年は体力が回復しないといっている。4年経っても元に戻らないという人もいた。

次にMP療法ではメルファラン6mgと、プレドニン(ステロイド)を1日朝昼晩3回、計50mgを4日間服用し1ケ月休薬する。それを繰り返す。副作用としては白血球の低下。

ベルケード療法では、ベルケード 1.3 mg/m2の静脈注射。Day 1, 4, 8, 11に投与し、以後10日間休薬し21日を1クールとする。最も頻度の多い副作用は胃腸症状、疲労感、血小板減少、末梢神経障害。

その後、サリドマイドを1日100mg服用。最も一般的な副作用は、眠気、末梢神経障害、めまい、便秘、発疹、白血球減少症。

 MP療法と、サリドマイドは確かにあまり疲労感につながる副作用はなかったように思われる。しかし抗がん剤はすぐ効果が弱まっていくのに対して副作用だけは蓄積して、何年も患者を苦しめていくようだ。どうせなら効果も蓄積してくれれば、副作用の蓄積も我慢出来るというものだがそうはいかない。

また原発性マクログロブリン血症の特徴として、「悪性の形質細胞によって骨髄での正常な血液形成細胞の産生が妨げられると、貧血となり、脱力や疲労が生じます。」とあるように病気の症状の一つとして疲労感といった事がある。そういった複合的要素が重なり合ってなかなか体力の回復が望めない状態だ。

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高麗ハイキング・高麗神社(続き)

10月4日(土)
高麗神社
聖天院を後にして、5分程歩くと木々に囲まれた高麗神社の鳥居が見えてくる。社殿に向かう参道の横には広い駐車場がある。境内案内地図を見ると第6駐車場まである。初詣の時は駐車場を探すのが大変だという位混むそうだ。

大鳥居をくぐり、木々に覆われた参道を社殿に向かう。駐車場の方から社殿に向かうと、聖天院にあったのと同様な「天下大将軍」「地下女将軍」と書かれたチャンスンが立っていて、その間を通っていくことになる。

駐車場の一角にしめ縄が張ってあって、そこは自動車のお払いをするところだと書いてあった。神社も色々創意工夫を凝らして客集めをしているのだなと思った。この神社は、若光の子孫が代々宮司を務め、現宮司は59代目になるという。よくまあ続いたものだ。ご苦労なことです。参道が途切れた所に、神社の略歴が書かれた看板があった。

image0104.gif高麗神社略歴:高麗若光は716年高麗郡の首長として当地に赴任してきました。当時の高麗郡は未開の原野であったといわれ、高句麗人1799人とともに当地の開拓に当たりました。若光が当地で没した後、高麗郡民はその徳を偲び、御霊を「高麗明神」として祀りました。(左写真・高麗神社社殿)

この神社は開運神社として知られている。またこの神社を参拝後に何人かが総理大臣となったことから「出世明神」と崇められるようになった。社殿には赤ん坊を連れた親とその両親が集まりお払いを受けていた。

高麗家住宅

社殿の横を通りしばらく行くと高麗家住宅がある。 この住宅は高麗神社の社家・高麗家の住居として使われた。高麗家住宅は江戸時代初期の重要民家とされ、平成元年国指定の重要文化財に指定された。山を背に、東に面して建てられた入母屋造りの茅葺屋根の家である。枝垂桜の巨木が家を覆うように聳えている。春には見事な花を咲かすのだろう。

住宅は1950年代まで高麗家の人々が住居として使用していた。江戸時代以降、表座敷が寺子屋として利用され、土間が獅子舞のけいこ場となるなど、地域住民にも親しまれた。
 
2002年からは、住宅で、童謡や邦楽などのコンサート、オセアニア地域の造形美術展などを不定期に開催している。伝統と格式ある住宅が、多様な形で親しまれている。この日は自由学園が「親と子の悩みの相談」という内容でセミナーを開いていて、20人ほどの母親が講師の話を聞いていた。

帰り道
高麗住宅から街道に出る。カワセミ街道という周りを緑に囲まれた静かな道だ。高麗駅までも45分かかるので、帰りはJR八高線の高麗川駅に出ようと思って街道を歩き始めた。途中標識があり、高麗川駅方面と書いてあったのでさらに歩き続けた。

駅まで2、30分と聞いていた。30分位歩いて県道に出た。そこで道を聞くと、高麗川駅まで2km位あると言われた。標識はどう考えても車への指示だったのだ。高麗神社から、畑の中を通っていけば20分位で駅に行ける。それを、二等辺三角形の2辺を歩いていたと言うわけだ。後30分歩くのはあまりにも酷だ。

丁度バス停があった。埼玉医大から高麗川駅、高麗駅経由飯能行きのバスだ。1時間一本のバスだが、これもまた丁度あと5分で来る。結局バスに乗って、高麗川駅経由高麗駅まで行くことにした。田舎のバスは駅の間隔が長い。高麗川駅まで三停留場だったが、歩いたら大変な時間だったろうとバスに乗れたことを感謝するほどだった。

高麗駅で5分待って飯能行きの電車が出発した。この電車も30分に一本の電車だ。飯能からは15分おき位に池袋行きの急行が出ている。10時45分から歩き始めて、バスに乗ったのが14時51分だった。途中30分位は休憩したので、正味3時間半は歩いたことになる。この調子で体力をつけていければいいだろう。

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高麗ハイキング・高麗山聖天院(続き)

10月4日(土)
高麗神社方面に向かう
巾着田を後にして、県道に出ると左が高麗駅で、右に行ってすぐ左に曲がると日和田山、高麗神社方面と表示があった。まだ一時前なのでそちらにも寄ってみようと思った。せいぜい10分かそこいらで着くと思って歩き出した。途中高麗駅方面に行く団体とすれ違ったりして、間もなく着くかなと思って歩いていった。所々の電柱には「高麗神社この先」と看板が下がっている。10分位して、日和田山の麓に到着した。自然公園風になっていって、家族連れがお弁当を広げている。

さらに歩き続ける。結局40分かかった。観光案内のパンフレットを持ってくれば覚悟して歩いたのだが、もうすぐだろうと思いながら歩いたのでかえって疲れる。

聖天院山門、高麗王廟
shodenin-21.jpg高麗神社の少し手前に聖天院がある。小高い山全体を使って作られた寺院だ。山の斜面に本堂はじめ幾つかの建物が垣間見られる。広い駐車場がある。何時こんなに車が来るのだろう。

入口に「天下大将軍」「地下女将軍」と書かれたチャンスンがある。高麗駅にこれと同じ文字が赤い柱に書かれていた。チャンスンとは、集落の入口や道端に立てられた木像や石像で、村の守護神、境界標識、里程標などの役目を果たす民間信仰の一つである。

チャンスンの柱の間を通り、山門に至る。この門には雷門と言う大きな提灯がぶら下がっている。浅草寺の雷門の提灯と同じだ。山門の左右には風神・雷神が奉られている。

雷門の右隣に「高句麗若光王陵」と書かれた黒御影の大きな碑が建っている。「高麗王廟」の額がかかった建物があり、若光の墓とされる多重石塔がその中に納められている。大きな四角い石を積み重ねたものだ。朝鮮の王を祭る墓としてはかなり質素なものだという気がした。その横に池と築山がある。何故こんな所に日本庭園があるか不明だ。

境内に入る

山門から階段を登り、中門に到着する。そこで拝観料を払って、境内に入る。そこに聖天院の略歴が記載されていた。

高麗山 聖天院 勝楽寺
聖天院は、霊亀(れいき) 2年(716)国難を避け日本に渡来した高句麗(こうくり)人1799人の首長高麗王若光(こまおうじやつこう)、侍念僧勝楽、弟子聖雲を始めとする一族の菩提寺として奈良時代に創建された。僧勝楽により開基、聖雲と弘仁により落成され、本尊には王が守護仏として故国より将来した歓喜天(聖天尊)を紀った、故に聖天院勝楽寺と称する。

この聖天院は「本堂や堂宇の老朽化がすすみその改築が迫られていた。そこで裏山を整地して新しい本堂を建立することになった。完成までに7年の歳月を要し、平成12年(2000)に完成した。旧本堂跡地には、中門と塀を新しく建立し、阿弥陀堂を移築したり、庭園を拡張するなどの整備もおこなった」というもので、本堂は建ってからまだ日が浅く、新品同様と言うわけだ。

境内に入って最初に目に入るのは、よく整備された日本庭園だ。中央に池を配し、山の木立を背景にしながら、刈り込んだ木々が池の周りを取り囲んでいる。イメージとしては、六義園や芝離宮などの武家屋敷の庭園を感じさせる造りだ。庭園の右側には書院や庫裏があり、左には阿弥陀堂がある。

阿弥陀堂の横にかなり急な階段があり、途中コンクリート製の風神雷神の像が左右に設置されている。階段を上りきると鐘楼があり高麗王若光の石像が立っている。

本堂とその周辺
shodenin-91.jpg2000年に落成した真新しい本堂が目の前に現れる。裏山の山腹を整地して総ケヤキ造りの豪華なものだ。本堂に本尊として安置されているのは、1580年に鎌倉仏師の大蔵法眼が彫り上げた寺宝の不動明王座像である。山を切り開き、本堂を作るという膨大な費用はどこから出たのだろうか。信徒からの寄進なのだろう。信仰の力に何時も驚かされる。

本堂の前は広場になっており、赤い欄干に囲まれ、見晴台となっている。山門から中門、中門から本堂へとかなりの階段を登ってきた。見晴台からは、周辺が一望できる。

本堂の右側に石灰岩が露出した箇所があり、その形が雪を懐いた山に似ているところから、寺では「雪山」と呼んでいる場所があった。

慰霊塔と八角亭

鐘楼の裏から、慰霊塔の方に向かう道がある。在日韓民族無縁仏の慰霊塔だった。第二次世界大戦で死亡した韓国人が、無縁仏のまま供養もされずに放置されてきた。それらの無縁仏の供養を願う在日韓国人の篤信者たちによって、平成12年(2000)1月にこの塔が建立された。日本の朝鮮支配36年間を象徴して、塔は36段階で造られていて、高さは16m。塔の下部は納骨堂になっている。石塔としては日本最大であるという。

日本人が忘れかけている侵略と植民地支配の歴史を韓国人は、しっかりと記憶の中に焼き付けている。加害者は自らやったことを忘れる。しかし被害者は決して忘れることはない。この塔の36段階という中にその想いが凝縮しているように思える。

その想いは、慰霊塔のそばにある、休憩所となっている八角亭にも表れている。3.1独立運動の開始を告げる、独立宣言が読み上げられたのが、バコダ公園の八角亭であり、韓国人にとっては記念すべき建物である。韓国の同胞によって、韓国の建材を使用して施工されたものである。

高麗の歴史
聖天院は、高麗における朝鮮人の歴史を知る上で重要な建造物であった。高麗の歴史に関して、続日本紀によれば「今から1300年前唐と新羅の連合軍による高句麗滅亡によってわが国に渡来した高句麗人のうち甲斐、駿河、相模、上総、下総、常陸、下野7ヶ国の高句麗人1,799人を716年(霊亀2年)に武蔵国に移し、高麗郡を置いた。

高麗王若光は高麗郡の長として、広野を開き産業を興し民生を安定し大いに治績を治めた。」とある。高句麗が滅亡した688年の日本は飛鳥時代、天武天皇は、中央集権的な国家体制の整備に努めていた頃である。

当時の日本はかなり朝鮮人には寛容だったような気がする。高句麗の亡命者を一箇所に集め土地を与え郡として認可している。そして高句麗の王を郡の長に任命している。彼らの持つ技術は日本の産業の発展に大きく寄与することになった。聖天院の歴史から、次々と日本と朝鮮の歴史が紐解かれていくのが興味深い。(続く)

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高麗ハイキング・巾着田

10月4日(土)
快晴だった。秋の行楽日和だ。あまりいい陽気だと、家にいると落ち着かない。どこかに出掛けたくなる。遠距離は無理でも、西武線沿線でそれなりに見所もあるし、西武秩父までの間には自然を満喫させてくれる所は幾らもある。また直通で三峰口までいけるし、長瀞方面にもいける。大体電車賃は往復1000位、ちょっと遠くても2000円以内で収まる。運動不足の折ハイキングは役に立つはずだ。

先週どうしようかと思っていた、曼珠沙華(まんじゅしゃげ)=彼岸花を見に行くことにした、見頃は9月末で過ぎているが、まだだいぶ残っているだろう。もし期待はずれでもコスモス畑が広がっているのも見物だと思った。

高麗駅→巾着田(曼珠沙華公園、コスモス畑)→高麗山聖天院→高麗神社→高麗住宅→高麗川駅→高麗駅

池袋着いたとき丁度レッドアローの出発時刻が迫っていた。飯能まで行くのに急行とそれほど時間が変わるわけではないが、これに乗ると旅行している気分になる。40分位で着くのだが乗ることにした。結局飯能で、下りの列車を20分以上待たなければならなかったので急行で行っても同じだったのだが。

高麗の駅前は、テントが張ってあって土産物屋や食べ物屋が連なっている。休憩用のベンチも並べられている。なにせ曼珠沙華の開花時期には30万人の観光客が来るというから、このような盛況ぶりなのだろう。既に曼珠沙華飲み頃は終わっているので、すいているだろうと思っていたが、列車からは行列が出来るほど多くの人が下車した。

そこから歩いて10分位で巾着田に到着する。途中地元の農産物を売っている店があり、飾り茄子というほおずき位の大きさの赤いナスが連なっているものを売っていった。飾り以外に使い道はあるのだろうか。

巾着田とは、高麗川(こまがわ)の蛇行により長い年月をかけてつくられ、その形がきんちゃくの形に似ていることからこの名が付いた。直径約500メートル、面積約22ヘクタールの川に囲まれた平地である。曼珠沙華公園に向かう道は川に沿って続いている。川原では家族連れやグループが弁当を広げていたり、バーべキューをやったりしている。水に入っている子供もいた。

巾着田は曼珠沙華の群生地で、観光案内によると「辺り一面が真紅に染まり、まるで赤い絨毯を敷き詰めたようです」というほど見事に咲き誇るという。

IMGP0408_convert_20101129184344.jpg 巾着田の曼珠沙華

9月30日までは入園料を取っていたそうだが、見頃が過ぎているので取られなかった。川沿いに曼珠沙華が咲いている。確かに既に終わっているものも多いが、咲いたばかりのものもあり、それなりに見られる情景を作っている。同じ斜面で終わっているものと咲き始めのものとが並んでいるのが面白い。しかし満開時と比べるもの足りないのはしょうがない。

30分ばかり散策して、コスモス畑に行った。途中望遠カメラを持った人たちが並んでいた。多分この近辺に生息するカワセミを撮影しようとしているのだろう。高麗川周辺には数十種類の野鳥が生息しているという。野鳥愛好者には絶好の場所だろう。何時間も鳥が飛び立つのを待っているという根気にはおそれいる。

IMGP0438_convert_20101129184520.jpg コスモス畑

コスモス畑はかなり広い。白、ピンク、紫の花々が程よい調和を見せながら、互いに色を補い合いながら全体を穏やかな優しい色彩で包んでいる。200円で20本採取することが出来る。秋の花は色々あるが、何故かコスモスが一番秋を感じさせる。コスモスに赤とんぼという情景が昔の記憶と結びついているのだろうか。

IMGP0445_convert_20101129184743.jpg 物産売り場の横の水車

曼珠沙華の群生が途切れた所が広場になっていって、地元の物産の売り場と並んで屋台が7,8件あり、そばや弁当、飲み物を売っていた。鮎が串刺しで焼かれていた。かなり高い、しかし生ビールとセットで安くなっていたので、買ってしまった。それを昼食代わりにして巾着田を後にした。(続く)

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伊藤塾・モンスターペアレント

10月4日(土)
東氏の話の続き・モンスターペアレントを巡って
学校の教師や校長にとって、モンスターペアレントの存在はきわめて重要である。こういった保護者が一人でも出現すると、教職員はその対応に膨大な時間を奪われてしまう。その結果、他の児童・生徒のために使う(教材研究、授業準備、生徒指導、部活指導、補習などの)時間がなくなり、場合によっては学校全体に悪影響が広まる。

東氏はこの現状に対して次のように話す。彼らの存在は、ある意味でこの社会の歪の表れである。地域の人間関係が希薄になった結果、かつては地域社会が緩衝材となっていた個々の親の不満が直接学校に持ち込まれるようになったのではないか。同時に、モンスターペアレントになる親たちは、地域から疎外されているケースが多い。その孤立感と、不安をぶつける相手が学校になるというわけである。その意味で重要なのは彼らの心のケアをどうしていくのか、彼らを現代社会の被害者としてどう見ていくのかという視点も持たなければならない。

学校という所は、クレームに対してきわめて防衛的に対応し、それがより一層親の反感を増大させていく。それを真摯に受け止め、親の状況や、そのクレームの内容が本当は何を言いたいのかを分析し、対処していく事が必要である。また感情的ならずに事実をきちっと把握し、事実で対応する。同時に学校はどこまで出来るのか、その線引きをはっきりさせる必要がある。出来ることと出来ない事を明確にし、親に無理な要求や期待を持たせないようにする、といった提案がなされた。

学校と親と地域の連携
当然と言えば当然の話なのだが、どうも教師とか校長とかは、近視眼的になっていて学校を攻撃するモンスターペアレントに対し、如何に防衛するかばかりに眼を奪われているのではないか。親の言っている事を如何に押さえ込もうとする意図が見えてしまえば、親はより一層過激な行動に出るだろう。

本来学校と保護者は協調して学校運営に当たらなければならないはずだ。両者の協調を「モンスターペアレント」という語が阻害する可能性があるのではないか。一方親が学校に相談をしたり、問題を指摘することに対してモンスターペアレントと言われるのではないかと思って躊躇してしまう例もある。

確かにモンスターペアレントの問題は学校教育現場で大きな問題になっているのも確かだ。2006年に金子元久が1万校の小中学校の校長を対象にして行ったアンケート調査によると、中学校では29.8%の校長が「保護者の利己的な要求」が深刻な教育の障害になっていると答えており、「やや深刻」と答えた48.9%と合わせると78.7%の校長が保護者の利己的な行動を問題視しているという結果が出た。なお小学校では「深刻」が25.7%、「やや深刻」が52.1%で合計は77.8%となっている。(Wikipediaより)

クレームを改革のバネに
学校リスクマネジメント推進機構の宮下賢路氏は言っている「学校関係者にとって、クレームは機会であり、自分や組織を改革するチャンスだと捉える必要がある。クレームを真摯に受け止める姿勢が大事なのである。クレームは影響が小さい早期にリスクとして受け止めてそれを活かすことで保護者の満足度や評判を向上させることができる。保護者の満足度を向上させることが学校や教職員の良き理解者を増やすことに繋がり、最終的に自らの評価をも向上させることができるのである。」                                        
確かに難しい問題を多く孕んでいるのは確かだ。しかし、防衛的に対応していても問題は一向に解決しない。そのクレームを通し、学校教育の改善につながるような積極的受け止めが必要ではないか。親と対する時、事実関係の正確な把握と、それをもっての対応、そして学校がどこまで出来るかのはっきりとした提起を行ないながら、問題解決に親と一緒に考えていく事が重要だと思う。

 伊藤塾は、とかく自分で問題を抱え込んでしまいがちな学校管理職が中心で、自分一人では解決出来ない問題に対して、意見交換することで外の人の体験を参考に出来るし、直面している悩みを相談することも出来る。様々な専門化が講師として来る。専門家の意見も当然参考になる。一人で思い悩み出口を失ってしまうのでなく、解決への道筋を相互の情報交換と共有化の中で目指していこうとするものであって、教師にとっては極めて有効なものだと思う。

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伊藤塾・スクールカウンセラー

10月3日(金)
スクールカウンセラーの現状
伊藤塾での東氏の話が続いた。スクールカウンセラー(注)の現状についての東氏の話を受けて、参加した教師たち同士で色々と討論が行われた。

現在、ほとんどの小学校にスクールカウンセラーが配置されてきている。しかし来るのは週1回、4時間程という限られたものだ。来る日は学校の通信で父母にも知らせる。その日に学校に行けばカウンセラーと子供のことについて相談できる。しかしカウンセラーが来るのが週一度で、守秘義務があるので中々学校側と連携が取れないそれをどうするか、といった話になった。

学校側が一番知りたがっている情報がカウンセラーだけしか知らないことになる。それでは問題の本質的解決にならないし、カウンセラーもーもただ話を聞くだけで終わってしまう。カウンセラーと学校とどのように連携していけるかそれが最も重要である。

スクールカウンセラーとの連携
注意欠陥、多動性障害(ADHD)の子供の例で、物を壊したり、外の生徒に暴力をふるったりする行為に対して、カウンセラーは臨床心理学的に、そういった衝動は押さえつけるのではなく発散させた方がいいという。しかし学校側としては、それを認めるわけにはいかない。そういたことで、スクールカウンセラーが来ることに抵抗があるといっている教師が多かった。

しかし一方で、スクールカウンセラーとうまく連携している学校もある。教師には中々話せないことでもカウンセラーには話せる。そこで話される内容は、本音で語られるだけあって、教育指導にとってきわめて有効な情報となる。親と生徒、学校、スクールカウンセラーが三味一体となって、問題解決に当たればかなり適切な処置が出来るのではないか。

確かに派遣されてくるカウンセラーの人となりによることも多いと思うが、どうも学校の校長とかは、外部から色々口出しされるように受け止め、最初から拒絶反応があるのではないか。現状に問題があった場合、それを制度として変える事ができなければ、その制度を徹底的に利用し役に立てて行く他ない。切り替えるのはむしろ、教師自らの発想法の方ではないかと思う。カウンセラーを取り込んで学校教育の一環として緊密な連係プレーで子供たちの心のケアーを目指して貰いたいものだ。

教育現場での苦労

教育現場でのさまざまな問題が話された。例えばアスペルガー症候群(興味・関心やコミュニケーションについて特異であるものの、知的障害がみられない発達障害)の児童への対応をどうするかなど教育現場での様々な生徒への教師の苦労が発言の中ににじみ出ていた。世間的には完璧にやって当然で何かあるとすぐ教師のせいにするし、子供の問題を全て教師に押し付けてしまう親が多い中での教師の苦労が伝わってくる。

話の途中にも、ある校長に電話があって、子供が喧嘩して、頬を殴られたことについて「学校側として文書で明日までに見解を明らかにしろ」といった親からの電話であった。当日も参加するといった校長2名が急用で来られなくなったと連絡があったと言う。次々と起こる難問に、対処していかなければならない教師の苦労とは並大抵なものではないとつくづく思い知らされる会議であった。

注:スクールカウンセラー
1995年いじめや不登校などの児童生徒の問題の対策として、学校内のカウンセリング機能の充実をはかるために試験的に導入されたのが最初です。初年度の予算は3億円で、各県3校を目安に全国で154校の小・中・高校にスクールカウンセラーが配置されました。
その後、年々規模を拡大させながら平成12年度には予算36億円、配置校数は1643校に達しました。
平成13年度からは文部科学省による「スクールカウンセラー活用事業補助」のもと、本格的にスクールカウンセラー制度がスタートしました。(ブログ「スクールカウンセラーになろう」より)

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伊藤塾・身体的関係

10月2日(木)
9月30日に、大田区立高畑小学校の「いのちの授業」が終わって、その後伊藤敏氏が毎月行なっている伊藤塾が行なわれるということであった。初めてだったがどんなものか参加してもようと思った。集まるのは教師ばかり、少し場違いな気がしたが、教育心理カウンセラーをやっていって、教育人間学を語る埼玉県立大学の東宏之氏が今日の講師だということでどんな話をするか楽しみだった。伊藤塾とももの木との関係は、「いのちの授業」を通じて、伊藤氏が色々な学校を紹介してくれたという経過がある。

会場は新宿ワシントンホテル25階の特別個室という場所だった。ホテルでの会議とは豪華だ。外から遮断された個室がなかなかないという。食事をしながら講師の話を聞き質疑応答していくというものであった。20名弱の参加で、そのなかで校長、副校長は半数近くいる。最初にそれぞれ自己紹介した。東氏の講演に入る。

療養経験-身体的関係
最初は、東氏がサッカーをしていてぶつかり、肋骨を折り鎖骨を複雑骨折し、今でも金属版が鎖骨を保護するために体に埋め込まれているという。その療養経験から話し始める。

病気をしたり怪我をしたりすると、回復し職場に戻った時に、それまであまり親しくなかった人まで、「どうですか」と声をかけてくる。「病を語る、身体を語ることでもたらされる関係」は人間関係をスムーズにしていく。そのことは気持ちを語る、心を語ることの具体的きっかけになる。身体という共通の基盤に立って話せるからだ。

親子関係の本質は、身体的関係にあったはずだ。昔は子供が病気になれば、親は寝ずに看病したものだ。今は救急車を読んで全て医者に任せてしまう。関係の具体性が希薄になってきている。身体的関係とは、愛玩物としてかわいがることではなく、またスキンシップというものではなく、具体的な関係の仕方に現れてくる。

メルロ・ポンティの考え
昔読んだメルロ・ポンティの本の中に、彼の「身体性の哲学」の内容として次のように書かれていた。

私の身体が[対象になるか][自己自身になるか]は、[どちらかであるとはいえない・つまり、両義的である]とした。一つの対象認識に[精神の中のものであるか][対象の中のものであるか]という二極対立を超え、私の身体のリアリティは、[どちらともいえない]ということだ。

ここで主張されているのは、存在論的にも認識論的にも、身体と対象との関係が、両義的なものであるというものだ。唯心論、唯物論ではなく、主体と客体との融合の試みだと言えるだろう。

身体的関係としての、主体と客体との関係は、人間関係のあり方の本質的なものである。身体を通して主体が発現されるが、そのために対象の存在は不可欠なものとなる。

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がん治療とは長く細い道を辿ら
なければならない。その先に希
望があると信じながら。

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