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映画 『チェ/28歳の革命』

1月30日(金)
雨は止まることなく降り続いている。池袋まで買い物に行った。映画館の前を通る。『チェ/28歳の革命』をやっていた。見たいと思っていった映画だ。丁度2時。映画が始まる時間だった。長時間の映画なので、映画館に入るかどうか少し迷ったが、雨の日、映画を見るのがふさわしいような気がして入館した。

以前DVDで、『コマンダンテ』を見た。2002年2月、オリヴァー・ストーン監督がキューバの最高司令官フィデル・カストロへの取材を敢行し、30時間にも及ぶインタビューを編集したものだ。キューバ革命の足跡がカストロの口から淡々と気負いも無く静かに語られ、革命の情景が伝わってくるものだった。

そして今の時代、何故チェ・ゲバラの映画が前編、後編と長い時間をかけて映像化されようとしたのかそのことにかなり興味を持った。『チェ/28歳の革命』はチェ・ゲバラの、闘士としての半生を2部作で描く歴史ドラマの前編である。フィデル・カストロと出会ったチェ・ゲバラが、キューバ革命へと突き進む過程がドラマチックに展開される。実写フィルムを折り混ぜながらドキュメンタリー映画を見るような臨場感を持って迫って来る映画だった。

STORY:1955年、貧しい人々を助けようと志す若き医師のチェ・ゲバラ(ベニチオ・デル・トロ)は、放浪中のメキシコでフィデル・カストロ(デミアン・ビチル)と運命的な出会いを果たす。キューバの革命を画策するカストロに共感したチェ・ゲバラは、すぐにゲリラ戦の指揮を執るようになる。

チェ_convert_20100507215638ゲバラとはまさに、本気で世界を変えようとした男であり、ジャン=ポール・サルトルから「20世紀で最も完璧な人間」と称され、「世界で一番格好良い男」とジョン・レノンに言われている。

理想の実現のため、人民の解放のため、自らの命をかけ、限りない情熱で邁進していったその姿は、今の逼塞した社会の中で憧れを持って眺められるのかもしれない。人は恐らく理想に燃え尽きるような生を求めているのだろう。そしてそれを体現したゲバラに憧れるのだろう。

彼は国境や国籍にとらわれない世界主義者であり、また徹底した平等主義者でもあった。資本主義大国が開発後進国の労働力を酷使して私腹を肥やす姿に怒りを覚え、世界各地で反政府運動を行った。

今になって何故チェ・ゲバラという伝説的英雄を、一人の人間として見ることができるようになったのか。「共産主義」という思想がソ連の崩壊とともに過去のものになり、ゲバラを評価すること=「共産主義の讃美」ということではなく、元々彼の考え方は、帝国主義の抑圧から民族の開放を目指すそのことだったのであり、そのことが理解される時代となって初めて、「人間ゲバラ」の姿が明らかになってきたのではないか。

さらにアメリカという巨大国家の、そして帝国主義国ということの本質が、世界一のテロ輸出国家であり、9.11以降のアメリカの侵略行為であるイラク戦争の中で明らかになり、この事実を見てもゲバラがかつて世界各地で行った反帝国主義、反アメリカの闘いの意味、そして正当性は明らかになって来ている。

圧制者からの解放を!
ゲバラは言う「2つ、3つ、もっと多くのベトナム(反帝国主義人民戦争)を作れ」と。この言葉に象徴されるように、武力闘争を圧政から逃れる唯一の道と断じている。彼の著作『ゲリラ戦争』の中で「平和革命と選挙による変革の道は可能性があるのなら望ましいし追求するべきだ。しかし、現在の条件のもとではラテン・アメリカのどの国においてもそのような希望は実現されることはありそうもないと思われる」と言っている。帝国主義の暴力には暴力を!

ゲバラは、“圧制者からの解放”を目指し、貧困と搾取に苦しむ新たな国へ、再び一人のゲリラとして向かった。国家の要人という地位を投げ捨て、再び過酷なゲリラ生活に戻っていった。

そして彼は言う。「僕は新しい戦場に旅立つ。帝国主義があるところならどこでも戦うためにだ。永遠の勝利まで。革命か、死か。」

「もし我々が空想家のようだと言われるならば、救い難い理想主義者と言われるならば、出来もしないことを考えていると言われるならば、何千回でも答えよう、“その通りだ!”と」
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テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

ピンク・フロイト “Time”

1月28日(水)
久しぶりにピンク・フロイトのアルバムを聴いていた。曲を聴く時、あまり歌詞は気にしないのだが、“Time”という曲の歌詞が気になって対訳を読んでみた。

mhbp78.jpg 倦怠にまみれた一日を刻む時計の音
 おまえはただ無造作に時を浪費していくだけ
 故郷のちっぽけな土地から出ようともせず・・・

 陽だまりの中で寝そべることに飽き飽きして
 家の中から降りしきる雨を眺める毎日
 若いおまえにとって人生は長く
 どんなに無駄に使っても有り余るほどだ

 だが ある日おまえは
 10年があっという間に過ぎ去ったことに気がつく
 いつ走り出せばいいのか 誰も教えてくれない・・・

時間は無慈悲に過ぎ去っていく。手のひらの上の砂が零れ落ちるようにさらさらと自分の意思とは無関係に流れ落ちていく。それは若かろうと、そうでなかろうと同じ速度で過ぎ去っていくものである。

以前「時間、瞬間、永遠」という記事を書いた。人はすべて時間を体験している、しかしいざ時間とは何かと問われればその答えは千差万別である。誰の言葉が真実かどうかはそれを読む人の生き方に大きく関係してくるだろう。何故ならば時間とは瞬間であり今でしかないのだから、今をいかに生きているかそのことと密接な関連の下に考えられるものであるからである。

時間を自己にとってよそよそしい排他的なものとして、自己の人生を奪っていく敵対的なものとして捕らえるのではなく、いかに自らのものとして獲得していくかという事が問題である。それは瞬間を自覚的に選択して生きていくとことに他ならないが、そのことの立脚点は何か。ハイデッカーはそれを死を自覚したときの人間の選択のあり方から“被投的投企”という言葉で説明している。

「“どうして自分はここに存在するのか?”という不安から、自分がこの世界に投げ込まれており、ここから決して逃れられないこと(被投性)を自覚せざるをえない。被投性を自覚すると、ヒトは、いつか自分が死によって、この世界から強制的に退場させられる事に気がつく。

この死の自覚からさらに自分の生の意味をもう一度捉えなおし、再構成する試みが始まる。この試みは投企と呼ばれる。世界の中に否応なしに投げ込まれていた者が、不安を通してそれを自覚し、そこから新たに自分を捉えなおし、新たな生き方を始めるという流れが読み取れる。

死の自覚を通して、人間は自分を新たな可能性に向けて投げ込むことができる。人間は不安を通して被投性に直面させられるが、逆にこれによってはじめて、存在と自由の真の意味が得られるのである。」(日本実業出版社「絵でわかる現代思想」より)

時間は、若く人生は永遠に続くのだと思って生きている人にとっても、病によって余命を宣告されている人にも同じように歩みを刻んでいる。しかし瞬間はその中身を選択する事ができる。どのように死と向かい合って自己の現状を見つめられるかが重要ではないか。そこに時間の多様性が存在していると思う。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

病院生活

1月27日(火)
日記の最初に病院生活について書いたものがあった。病院によってそこでの生活は様々あり違いはかなりあるだろうが共通する部分もあるだろう。病院の入院案内みたいになってしまうが、参考までに書いておこう。

病院生活


病棟:血液ガンを扱う血液内科はK病院10階にある。移植の時期は6階の無菌室(減菌室)に移る。病室は20室あり個室と大部屋に分かれている。大部屋は5人部屋である。トイレと洗面所は各部屋に付いている。頭など洗える大きな洗面台は各階にありいつでも利用できる。

冷蔵庫その他:冷蔵庫は廊下にあり、共有であり病室と名前を書いて入れておく。大分立ってから各部屋に有料の冷蔵庫が備え付けられたが、結構料金がかかるのであまり使っている人はいなかった。給湯室がありいつでも熱いお湯がで、トースターや電子レンジも置いてある。

検温:看護師は1日3回、6時過ぎと、14時、19時前後の時間、患者を回り血圧、酸素、脈を調べる。体温、食事摂取量、排泄回数、体重を聞く。その時飲み終わった薬の空シート回収し決められ時間に決められた薬をきちっと飲んでいるか確認する。血液検査、尿検査を適宜行う。 

面会:12時から20時30分まで。病室または病棟入り口にある面会室で行う。血液がんの患者の中には、抗がん剤の治療の影響で白血球が減少している人が多い。体内に入る細菌や黴に対す免疫力が衰え感染しやすくなっている。そこで、病室に入る面会者は入り口でマスクをつけ、手を洗ってから入室する。
 
起床:6時。部屋の通路の電気がつけられ検温が始まる。検温の前に体温と体重を量っておく。検温では血圧、脈、酸素量を調べる。必要に応じて採血を行う。月、水、金と週3回採血されていた。
 
消灯:22時。部屋の通路の電気が消され、自分のベッドの上の電気を消さなければならない。だからと言ってすぐ寝なければいけないわけではない。テレビを見たり、枕もとのスタンドで本など読むことが出来る。
 
食事:8時、12時、18時前後、看護師が部屋まで食事を運んでくる。片付けは可能な人は自分で配膳台に持っていく。動けない人は看護師が片付ける。食事は選択メニューで朝はご飯かパン、昼は主食として冷やしそうめん、温そうめん、温うどん、煮込みうどん、パンから選択できる。ご飯は粥に替えることが出来る。主食の量は大、中、小盛の中から選ぶことが出来る。週2回の選択メニューではおかずの2種類からどちらかを選ぶことが出来るようになっている。ここの食事は暖かく種類が多い。治療の状況によって免疫力が落ちてきた時など、生もの禁止の食事に自働的に変えられる。
   
入浴:男・月水金、女・火木土、日曜は各週、30分まで。湯船はあるが湯をためる時間がないのでシャワーで済ます。血液内科はウイルスや細菌、真菌などの微生物との闘いでもある。清潔は第1条件、治療の一環で可能な限り熱のない限り風呂に入るように言われた。これから月水金は風呂と洗濯のためのコインランドリー通いとなるだろう。
   
歯磨き・うがい・手洗い:感染予防の為に毎食後の歯磨き、うがい、トイレの後、食事の前、外出後の手洗いの檄行が奨励された。抗がん剤により口内の粘膜が痛みそこに菌が入ると口内炎になる。口内炎もひどくなると食べることも飲み込むことも喋ることすら困難になる。その為の歯磨き、うがいだ。
   
ディ・ルームの利用:ここにいると本を読むことが大部分の過ごし方となる。自宅から持ってくる本も限られている為、病院内にある本を最大限活用することが有効だ。病棟の入り口にあるディ・ルーム(談話室、携帯電話室)に本箱が置いてあり、そこに100冊以上の本が並べられている。病棟の階で、これといった本がなければ、各階のディ・ルームで探すことが出来る。

医療情報相談室:また今年2月18日にオープンした「医療情報・相談室」にはパソコンでヤフーから医療情報を引き出せるなどの設備を待った部屋が開設された。また医学関係の書物が揃えられ必要に応じてコピーが取れる。文京図書館と連携し、100冊の一般書物(流行小説やサスペンスなど)を回してもらいそれを回転させていって患者に貸し出している。特別に指定された書物(禁退出)でなければ部屋に持っていって読む事ができる。

テレビ:有料のものがベットの横の床頭台に備え付けられている。各病棟の入り口にテレビカード販売機がありそれを使用して見る。テレビカードは1000円で1200分視聴可能。1日3時間以上は無料となる。ある時期から3時間以上無料というサービスはなくなったという。

売店、食堂:2階にあり、売店はコンビニエンスストアーが出店しており病院生活に必要な日用品や食料など買うことが出来る。食堂は8時から20時までやっている。土日曜は15時まで。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

入院するにあたって何を考えたか

1月26日(月)

2、抗がん剤治療(化学療法)

形質細胞性腫瘍(がん)の治療には、化学療法、放射線療法、外科療法などが用いられる。抗がん剤を用いる治療法を化学療法という。薬剤の投与には主に静脈注射と内服で行われる。化学療法では薬が血液に中に入リ、全身を巡る為体内の様々な所に広がった腫瘍細胞を殺すことが出来る。通常2種類以上の抗がん剤を組み合わせて用いるが、その組み合わせ方法や量は病気の種類や状態によって変わってくる。

がんに対する薬は現在約100種類近くあり、形質細胞腫瘍に関しても数十種類ある。抗がん剤の種類として、①代謝拮抗剤-がん細胞に含まれる酵素を利用し細胞の分裂増殖を阻害する。②アルキルカ剤-DNAの遺伝子情報を阻害し合成を阻止する。③抗がん性抗生物質-細菌や黴に効く構造をもった抗生物質を化学変化させたもの。④植物アルカロイド製剤-がん細胞の分裂を抑える。⑤副腎皮質ホルモン-リンパ系腫瘍に対して抗腫瘍性効果を持つ。その他。これらの薬をどのように組み立てるかは非常に難しい判断である。

患者の病状に対する経験と蓄積による他ない。そして私に対して選ばれた薬がフルダラビンであった。この薬は代謝拮抗剤に属し、副作用も比較的少なく、日本では保険が利いたばかりの新薬で、アメリカでは高い実績が評価されている薬であった。それでもこの薬は奏効率60%だった。これを抗がん剤として選択し使用することになった。

治療を受ける前に抗がん剤が効くか否か予測できないのか。「抗がん剤感受性テスト(がん細胞を抗がん剤と接触させ増殖の抑制を見る検査)」というものがあるが、現在の所、有効性は不十分で一般的には用いられていない、ということである。

抗がん剤にとって一番の問題は副作用(薬物有害反応)だ。抗がん剤はがん細胞を殺すが、正常細胞も同時に破壊作用を及す。副作用としては①口腔-口内炎、②消化官内(胃腸)の粘膜-吐き気、嘔吐、下痢、便秘、③髪の毛-脱毛、④骨髄抑制-白血球、赤血球、血小板の減少。白血球減少による感染症、合併症。⑤肝機能障害、⑥腎機能障害などがある。

この避けられない副作用治療もがん治療の大きない位置を占めている。抗がん剤は効果をあらわす量と薬物有害反応を出す量が同一、あるいは逆転している場合がある。従って抗がん剤の投与量は厳密に決められ、副作用との兼ね合いで投与していかなければならない。それを何回か行いながら治療効果を上げていく他ない。また薬の量も体力との兼ね合いで決めなければならずきわめて時間のかかる療法である。

3、入院中何をしていくのか。     

 「人生万事塞翁が馬」と言おうが、この降って涌いたような3ケ月から半年に渡る入院生活を強要されてもどう対応したらいいのか。まさに青天の霹靂だ。

1日10時間以上仕事をし、土日も出勤していた私が抜け職場は大丈夫だろうか、など不安は残った。確かに今回の怪我は、皆が言うように「怪我の光明」で足の指に物を落とさなかったら血液検査もしなかっただろうし、マクログロブリン血症は発見できなかった。がんにとって早期発見は再重大事だ。毎年1度の定期健康診断では血液の蛋白の量を調べてなく発見出来なかった。

しかし幾ら考えもどうにかなるものではない。運命は受け入れなければならない。消極的に嘆き絶望するのも人生、積極的に受け入れ活用していくのも人生。それならば投げ与えられた運命を投げ返すことが必要だろう。がん治療は苦しいといわれるが、読んだり書いたりする時間はたっぷりあるそれをいかに有効に生かすか。

幸いパソコンは持ち込める。本は消灯時間以外いくら読んでてもいい。テレビもある。DVDプイヤーを持ち込み、レンタルDVDを借りてきてもらえば、レンタルDVDは幾らでも見られる。音楽もCDプレイヤーで聞ける。

今まで仕事が忙しく、時間のほとんどを仕事で費やし、家にいる時、読書などは絶対に出来ない。いつも夜遅くなって家に帰れば酒を飲んで、テレビを見てる位だ。この入院中にしか出来ないことを探そう、それによって少しは意義のある時間を作れるだろう。最低病状日誌だけは書いておこうと決めた。毎日の出来事を有りのまま気がついたことなどを写実していくことによって自己反省の材料として行こう。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

入院するにあたって何を考えたか

1月25日(日)
昔のフロッピーデスクを整理していたら、入院中の病状日記が出てきた。病院で点滴された抗がん剤や服用している薬をメモする事や病院生活での出来事の感想などを書いたものだ。その記録の最初に「はじめに」という部分がある。そこには入院に至る経過から、どのような治療を受けるのか、そしてどのような入院生活を送っていこうとしているのかが書かれていた。今振り返ってみると感慨深いものがある。自分が何を考えていたのか振り返るために転写しておこうと思う。

1、入院にいたる経過

2005年11月7日10時過ぎ、秋晴れの空気の乾いたすすがすがしい日差しの中、綾瀬川沿いに自転車をこぎながら、これから延べ11ケ月に渡って入院し、一生続く闘病生活を送らなくてはならなくなることになろうとは誰が想像できただろう。

いつものように会社の足立区の花畑にある倉庫で作業をしていると、これから八潮市にある倉庫に荷物を下ろしに行くので来て欲しいと連絡が入り出かけた。会社はマネキン・ディスプレィの会社で2001年花畑倉庫が手狭になり、自転車で10分位の埼玉県八潮市に倉庫を建てた。大きな荷物や、季節商品を主に収納している。

八潮倉庫に着き荷物を降ろしている最中、足の親指の上に物を落とし、血が滲み出してきて靴の中が濡れてきたが、降ろし作業を最後までやってしまう。靴を脱ぐと親指の爪が割れ、かなり出血し、靴下は絞れるほどであった。ティッシュを何枚も重ねで指を包み血を抑えガムテープで固定し近くの間崎整形外科に行って治療してもらった。

11月15日頃出血がなかなか止まらないで医者に血液検査をしたほうがいいと言われ、採血した。11月21日血液検査の結果が出て蛋白に異常値があることがわかり、血液内科の専門病院に紹介された。

11月24日、文京区にあるK病院にO医師への紹介状を持って行く。そこで「血液ガンの疑いあり。一般的には3ケ月から6ケ月の治療期間後、社会復帰が可能と考えられております」と書かれた診断書を受け取る。

即入院だということだったが、引継ぎなどあるので12月1日を入院日とした。病院から日本橋浜町にある本社に直接行き、社長に診断書を見せながら「3ケ月から6ケ月の入院加療を要する」という診断書の内容について説明する。その後花畑倉庫に戻り上司と相談し、運転助手のアルバイト1名の倉庫要員としての配置換えや、私の仕事を係長にいかに短期間で引き継ぐかなどを検討した。11月30日まではこれらの引継ぎを行い、入院準備に当てられた。

毎年健康診断(成人病検診)を受け血液検査をしていながら血液中の蛋白をはからなかったので病気(ガン発症)には気がつかなかったし、一般的には疲労、頭痛、めまい、痺れなどの症状が出るそうだが、全く自覚症状はなかった。むしろ仕事が忙しく土日祭日の出勤も多く、毎日20時前後まで、遅いときには1時過ぎまでの仕事をこなしていく、体力があったということだ。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

デキサメタゾン(デカドロン)の副作用

1月24日(土)
ステロイド剤による睡眠不足
昨日から1ケ月1度4日間のデカドロンを飲み始めた。何時もの事だが、これを飲んでいると時は夜寝られなくなる。朝も早く目が覚めてしまう。サリドマイド単剤の時は睡眠薬であるせいもあって夜はかってないほどよくなられた、寝つきもよく12時から7時30分までぐっすりと寝られた。

そのため、ステロイド剤を服用していた間、朝早く目が覚めてしまいそのため毎朝6時半から近所の公園でやっていたラジオ体操に出かけていたが、それが出来なくなってしまった。しかしよく寝られるということは本当に素晴らしいということだ。次の日の体の調子が眠れなかった時と全く違う。

病院でステロイド剤を点滴している時にはその影響で眠れないので、マイスリーという睡眠導入剤をもらっていたし、MP療法の時も家で飲んでいたが効果は限られている。病院の場合は、22時消灯で、6時起床となっている。その間ベッドから離れられない。中々寝付けず、1時頃マイスリーを飲む。それでも4時頃目が覚めてしまい6時まで何も出来ず、ベッドでまんじりともせず過ごさなければならない。そして眠れなかった分は翌日だるさが残って元気が出ないという繰り返しの毎日だった。

いつも何らかの形でステロイドと付き合ってきたため病院での生活や、家でのステロイドの服薬で睡眠不足の毎日だったような気がする。サリドマイドでその状態から開放され体調はかなり良くなった気がする。そのステロイドの中でもデカドロンは必ずついて回る薬だった。

デキサメタゾンについて
デキサメタゾンの日本での商品名は、デカドロン、デキサメサゾン、コルソンなどがあり、最近ジェネリック薬品が出回り、私の行っている病院ではデキサートという薬が、デキサメタゾンとして使われている。

このステロイド剤には散々お世話になった。最初のVAD療法はビンクリスチン・V(オンコビン)、アドリアシン・A(ドキソルビシン)という抗がん剤とデキサメタゾン・D(デカドロン)という合成副腎皮質ステロイドの3種を組み立てた療法だ。まず3種類を4日間点滴静注し(第1段)、4日置いてデカドロンのみ4日間点滴(第2段)、また4日置いてデカドロンのみ4日点滴(第3段)、これを3クルーまたは4クルー繰り返すという療法だった。この療法を4クルーやった。これだけやるとデカドロンの影響はずっと続く。

移植の時も熱が出ればサクシゾンを点滴したり、プレドニンを栄養剤の中に入れて体力の回復をはかったりとステロイドは必ず登場してくる。

次にMP療法では同じステロドであるプレドニンを服用した。その後のベルケード療法でもベルケードとデカドロンの組み合わせだった。ベルケードを1,4,8,11日に行うのに合わせて、デカドロン40mを一緒に点滴する療法なのだ。そのベルケード療法も効果がなくなってきたので、昨年の4月からサリドマイド単剤の服用になった。それも11月までで、その後現在のシクロフォスファミドとデカドロンの3種併用療法になった再びデカドロンのお世話になることになった。

今回の療法では4日間の間は覚醒作用が比較的強いが、サリドマイドを飲んでいるので、それなりに眠れる。以前のように夜は布団に入ってから2、3時間眠れないこともあるが、朝4時とか5時に目が覚めることはない。ともかく睡眠は極めて重大だということをつくづく感じてしまう。

デキサメタゾンの副作用
デカドロンの副作用として、中性脂肪値の増加や、骨粗しょう症の恐れなどがある。そのため、高脂血症予防薬のベザトールや骨粗しょう症予防薬ボナロンをずっと服用していた。

もう一つ大きい副作用はステロイド剤の免疫抑制剤としての機能だから来るものである。「ステロイド剤によって白血球の感染部位への到達が阻害されるため、既存の感染症が悪化したり、新たに感染症にかかる場合があります。正常な免疫反応を抑制する薬剤はいずれも、人を感染症にかかり易くする可能性があります。ステロイド剤は新たな感染を防御する免疫力を低下させる場合もあります。ステロイド剤の投与を受けているとあらゆる感染症を発生する危険性が高まります。」(『デキサメタゾンなどのステロイド剤の理解』日本骨髄腫患者の会発行」)

免疫グロブリンの弱体化、白血球の減少、その外にステロイド剤による感染症の恐れなど、体を取り巻く環境はかなり危険に満ちている。その中でどのように生活していくのかなり難しい問題だ。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

友人の病状

1月21日(水)
 定期検診の後、ゾメタの点滴を行なった。1ケ月前にやった時には、外来治療センターのベッドが一杯で、医者の診療後1時間以上も待たされたが、今回は直ぐ呼ばれ点滴が開始された。腎臓への負担が少ないように、なるべく時間をかけて点滴したほうがいいということでゾメタ4mgを50mlの生理食塩水に混ぜ1時間かけて点滴する。

ゾメタは腎臓に影響すると言う事で、今までは見ていなかったが、クレアチニンと尿素窒素の数値を気をつけて見るようになった。この数値で腎臓の機能の状態を判断できるという。ゾメタの点滴を終わって会計に行く。ゾメタの1回の点滴が約12,000円かかる。色々出費がかかるものだ。

 友人の所に見舞いに行く。起き上がってテレビを見ていた。顔の色艶がよく元気そうだった。見舞いに来る人皆からそう言われるといっていた。しかし実際には治療は全く進行していないのである。

1月7日、前回の検診の時に、見舞いに行った時に、5-FU(フルオロウラシル)の点滴を始めた所だった。しかし、その日の夕方再び意識を失ってしまった。今回意識は直ぐに回復したが、5-FUを使った抗がん剤治療は1日で断念せざるを得なくなった。

 医者は症状が安定しているから一時退院して、1、2週間して別の抗がん剤で治療をしようと提案したが、自宅で点滴をしながら生活するのも大変だから、このまま入院を続けて別の抗がん剤を使った治療を早く始めてもらいたいと彼は医者に言った。ということで週末は医者がいなくなるので、来週の月曜日から別の抗がん剤を使った治療を開始することになった。今度の抗がん剤が無事に効果を発揮してくれることを期待するしかない。

抗がん剤で意識を消失するということはアナフィラキシー様症状なのだろうか。これは体質なのだろうか、ほかの抗がん剤ではこういったショックは起こらないのだろうか。抗がん剤治療に中々入れないということはなかなか辛いものがある。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

定期検診の日

1月21日(水)
2週間一度の定期検診の日。血液検査の結果は以下の通り。

検査結果
 IgM    1605←1518←1659←1791
 白血球  1.6←3.0←1.5
 血小板  15.4←12.2←12.8
 ヘモグロビン 11.7←11.0←11.0


再びIgMが上がり始めた。幾らなんでも早すぎる。11月26日から、サリドマイド+シクロフォスファミド(エンドキサン)+デキサメタゾン(デカドロン)の3種併用療法を始めて、2ケ月しかたっていないのに、もう薬物耐性が出来て効果が半減してきているのだろうか。それとも単に一時的なリバウンドでしかないのか。次回の検査結果を見ないと分らないが、いつものこととはいえ次の療法をそろそろ考えなければならないと思うと気が重くなる。

さらに白血球数も減少している。そもそも免疫グロブリンの機能が衰えているのに、白血球まで減少しているということは免疫機能が著しく減退していると言うことになる。

免疫グロブリン(抗体)の機能

抗体は主に血液中や体液中に存在し、体内に侵入してきた細菌・ウイルスなどの微生物や、微生物に感染した細胞を抗原として認識して結合する。抗体が抗原へ結合すると、その抗原と抗体の複合体を白血球やマクロファージといった食細胞が認識・貪食して体内から除去するように働く。感染防御機構において重要な役割を担っている。

IgGはヒト免疫グロブリンの70-75%を占め、血漿中に最も多い抗体である。分子量は約146,000である。IgGはウイルス、細菌、真菌など様々な種類の病原体と結合し、補体、オプソニンによる食作用、毒素の中和などによって生体を守っている。

IgMはヒト免疫グロブリンの約10%を占める。分子量は970,000。ヒトの持つ中では最もサイズが大きな抗体でもある。通常血中のみに存在し、感染微生物に対して最初に産生され、初期免疫を司る免疫グロブリンである。

IgAはヒト免疫グロブリンの10-15%を占める。分子量は160,000。粘膜は常時抗原や微生物にさらされており、これらから粘膜面を防御する局所免疫機構が存在する。分泌型IgAがその一部を構成している。(Wikipediaより)

免疫機能の低下に如何に対処するのか
原発性マクログロブリン血症においては、基準値がM33~190、F46~260であるIgMを形質細胞腫瘍が多量に産出してしまっているわけだが、現在の数値1605というIgMの中でどの程度免疫グロブリンとしての機能を持っているのか分らない。どちらにしても機能が低下しているのは間違いないだろう。

11月26日にIgGとIgAを検査してもらった。何時も検査してくれるわけではなく、どうしてもと頼むとしてくれる。その時にはIgGは609だった。基準値が870~1700となっている。IgAは30だった。基準値は110~410となっている。このようにIgMに問題があるだけではなく、IgGもIgAも基準値より下回っている。

形質細胞腫瘍がIgMを大量に産出するため、ほかの免疫グロブリンを作り出す正常な形質細胞の働きが弱まっているのだろう。白血球も減少し、免疫グロブリンの力もあまり期待出来ない状態では、何といっても感染が一番の脅威になる。とりわけ注意する必要があるだろう。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

哲学堂公園・紅梅、白梅

1月19日(月)
今年になってから急に寒いが続き、先週はとりわけ寒かった。ずっと最高気温が10度を下回っていった。家の中でこたつに入って縮こまっている他ない。思考も働かず、何も書けなかった。今日になって突然日中の気温が16度と春の陽気なった。3月下旬の陽気だと言う。

久々に外に散策に出掛けた。近場という事で哲学堂に出掛けた。昔、西落合に住んでいた時は、時間があると本を持って哲学堂公園のベンチで本を読んでいた。今は自転車で15分位かかるがそれでも一番近い大きな公園ということになる。

哲学堂018 四聖堂

哲学堂公園は、明治39年に哲学者で東洋大学の創始者、故井上円了によって精神修養の場として創立された、哲学世界を視覚的に表現した公園だ。最初に哲理門をくぐる。通常こういった門には左右に仁王などが配置されているが、ここでは門の右側に天狗、左側に幽霊の彫刻像(田中良雄刻)を置いている。天狗は物的・陽性、幽霊は心的・陰性なもので物質界・精神界とも根底に不可思議が存在しているという円了の妖怪観にもとづき、不可解の象徴とみなしたということだ。門を入ると広場に出る。この広場を時空岡という。時間空間を意味するそうだ。

広場でまず目に入るのが六賢台だ。東洋的哲学人として、日本の聖徳太子・菅原道真、中国の荘子・朱子、印度の龍樹・迦毘羅仙の六人を「六賢」として祀ってある。

それと並ぶように四聖堂がある。東洋哲学の孔子と釈迦、西洋哲学のソクラテスとカントの「四聖」を世界的四哲人として祀るために建立されたものだ。このように公園を一歩進むたびに建造物や、彫像、池や坂全てが哲学に関する意味付与がされている。

妙正寺川を渡ると梅林がある。まだ梅には早いと思ったが蝋梅あたりは咲いているかもしれないと思った。テレビのニュースで長瀞の宝登山では蝋梅が7分咲きだと言っていた。冬の寒さが身に染みている日々の中でも、菜の花が咲き乱れている風景や、館山のフラワーパークではポピーが満開になっている映像が送られてくる。まさに「めぐりくる春」といった感じだ。

橋を渡った梅林のあたりを対岸の唯物園に対して星界洲と言うそうだ。梅林には蝋梅は一本しかなく、まだ蕾だった。冬至という白梅と八重寒紅という紅梅が咲き始めていた。梅の咲き始めもそこはかとなく雰囲気が出ている。穏やかで優しい感じだ。冬の寒空の中で、健気に花を咲かそうと頑張っている感じが好感を持てる。春らしい穏やかな大気の中の久々の散歩でかなり開放的な気分になれた。

哲学堂008_edited

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テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

映画 『アース』

1月18日(日)
earth_book.jpgWOWOWで『アース』という映画をやっていた。5年の歳月を費やして完成させた自然ドキュメンタリー。舞台を地球全体に拡げ、北極から熱帯、深海まで全世界200カ所以上で撮影を敢行したという。

ホッキョクグマ、アフリカゾウ、ザトウクジラといった様々な生き物が厳しい自然の中で紡ぎ出す命のドラマを最新鋭の技術で捉えた映画だ。地球の現状を動物の生態を中心に撮影した。地球温暖化の警鐘も含めて。

地球ができたのは、今から約46億年前のことだ。また形成の最終段階で火星サイズの惑星の衝突も起きたといわれている。この衝突によって地球の地軸が曲がりそれによって四季が生ずるようになったと、次のように解説にあった。「太陽に対し23.5度傾いてしまう。この天文学的事故はまさに奇跡だった。地軸の傾きは暑さ寒さという気候の変化を生み、壮大な景観を作り出した。」

宇宙生成の遠大な過程の中での一つの偶然の結果、我々は四季を享受することが出来ている。この中で、様々な動物の生態が紹介される。生きるための闘いが繰り広げられる。

ライオンの群れがいて食料がなく通常襲わない象に目をつける。大人の象は無理だから子供の象を狙うが、大人の象が子供を囲って近づけない。止むを得ず、群れからはぐれた大人の象を襲う。一匹では到底勝ち目がないが、20匹総出で襲う場面が出てくる。

また温暖化の影響で氷が溶け、餌であるアザラシを捕まえる事ができない白熊が、セイウチも群れを襲う。大人のセイウチの牙には対抗できない。子供のセイウチを襲おうとするが大人のセイウチが防衛する。結局白熊は餌を取ることが出来ず、飢えて死んでしまう。

確かに弱肉強食の世界といえばそれまでだが、そのようにして自然は循環し、そのサイクルで調和を保っている。猛獣が、草食動物を餌にして生き延びているのは自然の摂理だろう。

ヘラクレイトスは「万物は流転する」(Παντα ρει、Panta rhei )と言った。自然界は絶えず変化していると考えた。地球の生命の循環も繰り返しながら一つの法則の中に収斂されていくのかもしれない。ヘラクレイトスが移ろい行く自然の流れの中に一つの法則、即ちロゴスを見たように。

海外旅行に行った帰り、飛行機の中でたまたま添乗員の隣に座った。その人は当然の事ながら英語がしゃべれて、外国人のスチュワーデス(キャビン・アテンダント)にワインを次々と注文してくれておかげで何杯も飲む事が来たのだが、その女性がニューヨークの動物園の話をしてくれた。その話がおもしろかった。

ニューヨークのブロンクス動物園は猛獣を集めた動物園であり、順路の最後に『鏡の間』という部屋がある。そこには「この地球上で最も危険で獰猛な動物」と書かれていた。その部屋を覗こうとすると鏡がかかっている。自分の姿が映し出される。最も獰猛な動物とは即ち人間なのだ。猛獣といわれる動物は生きるために獲物を捕らえ殺す。しかし人間は、私利私欲のために人を殺す。さらに戦争ともなれば何万人もの人を国家のエゴのために殺す事ができる。これほど残忍な動物はいないだろう。

地球に生きている様々な生物の現状を含めた自然の情景を見つめる時、人間の持っているエゴイズムと驕りがやがて自らの身を滅ぼしていくのではないかという危惧を感ぜざるを得ない。この『アース』という映画は動物の生態を丹念に追っていながら実は人間に対しての問題提起であると思える。

映画の随所に散りばめられるように映し出される世界各地の四季の輝くばかりの風景描写は、そのあまりの美しさに見とれるばかりだが、それにただ感動していればいいと言うものではないだろう。やがてそれが失われていくかもしれない危機を我々人類が抱えているという現実を決して忘れてはならないという問いかけを、その自然の美しさが強烈にアピールしているのである。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

華厳の滝・巌頭之感

1月15日(木)
A鬼怒川・日光・会津0441月1日に華厳の滝の見学に行った。その時はバスガイドの説明にも、滝周辺の説明書きにも藤村操の事は触れていなかった。確かに自殺の名所などというのは、有り難くもない評判でことさら宣伝する必要もないだろう。そういった意味で滝を眺めながらも、「巌頭之感」の事は全く失念していた。

昨日、間羊太郎の『ミステリー百科辞典』の「遺書」の章を読んでいて「巌頭之感」の事を思い出した次第だ。その章は次のような書き出しで始まっている。「自殺の名所といえばまず第一に熱海の錦ヶ浦、大島の三原山、日光の華厳の滝などが思い浮かぶ。

この中でもなんとなく清らかでロマンティックな感じがするのは・・・華厳の滝ではなかろうか。」という書き出しから、当時ジャーナリズムを賑わしセンセーショナルな事件として扱われた一高生の投身自殺に言及していく。

「自殺した事それ自体が世間の注目を集めたのではなく、投身地点の樹の幹に書き残した遺書が人々の大きな興味をそそったからにほかならない。新聞に発表されたこの遺書を読んだ中高生は好んでこの文句を暗誦したほどであった。」と書いている。

藤村操と「巌頭之感」を思い出しながら華厳の滝を見ればまた違った感慨があったかもしれない。どちらにしても自然は人の思惑や心の煩悶など一切関係なく、ただただ自らの変わらぬ営みを続けているだけなのだ。そのギャップが逆に死を決意させるものとなったのかもしれない。

明治36年(1903年)5月、一人の18歳(満16歳10か月)の旧制一高生、藤村操が華厳の滝に身を投げて自殺した。巌頭の大きなミズナラの樹肌を削って書き残した文言が、次の「巌頭之感」である。

悠々たるかな天壌、遼々たるかな古今、五尺の小躯を以ってこの大をはからんとす。
ホレーショの哲学、ついに何等のオーソリティに価するものぞ。
万有の真相は唯一言にしてつくす。 曰く“不可解”
我、この恨みを懐いて煩悶、終に死を決す。
既に厳頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。
始めて知る、大いなる悲観は大いなる楽観に一致するを。(藤村颯 遺言)。


彼を死に追い詰めたものはいうまでもない「不可解な人生」である。悠々たる大自然、はるかなる人類の歴史、その中での自分の存在は余りにも小さく短い。一体、この人生は何のためにあるのか。「ホレーショの哲学、ついに何等のオーソリティに価するものぞ」いかなる哲学も彼に解答を示さなかった。人生の目的に対する哲学の無力を身をもって示した藤村操の自殺であった。日本で初めて人生の意味を求めて哲学的死を実践した若者を意味する。(ブログ・玉川和正+アートランダムより)

「その死は当時の青年たちに異常の衝撃を与え、遺書の“人生不可解”は、多くの哲学青年の合言葉ともなった。操の死に象徴される懐疑主義は、明治末年の内観的哲学的時代の開幕を告げるものであり、多様な教養摂取によって自我の拡充をはかる大正教養主義の出発点であったと見られよう。」(助川徳是『日本近代文学事典 第三巻』日本近代文学館編 講談社)

哲学を学ぶ一人の若者が日光・華厳の滝にその身を投じた。前途有望な若者の死に、当時の青年たちは大きなショックを受け、後追い自殺が相次ぐなど、社会現象にまでなった。華厳の滝は自殺名所とされ、この年11名の自殺者がで、未遂者は15名を数えた。自殺は伝染する。

観光名所の華厳の滝もこういった視点で見ると複雑な様相を呈してくるものだ。

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友人の病状

1月8日(木)
定期検診の後、友人の見舞いに行っている。今回も病室を訪れた。丁度12時過ぎで食事時間だった。12月半ば過ぎから流動食の配食が行なわれている。意識を失ってから1ケ月半以上栄養剤だけで生活していたのだから、たとえ流動食でも嬉しいことだろう。

メニューはおかゆの中でもほとんど重湯に近いもの、それにコーンスープ、アイスクリーム、オレンジのゼリーが付いている。昼にはアイスクリームが付いているので一番カロリーが高いと言っていた。栄養剤の点滴はずっと続けている。

正月を挟んで1週間退院して自宅療養していた。栄養剤のフクカイックを1週間分持って自宅で点滴を行っていた。彼は、がん細胞がリンパを圧迫している影響か右の指を動かすことが出来ず、点滴を交換する事ができないので退院している間付き添いが必要だった。

今は点滴をしていても一時退院し自宅での治療が行なわれているのかと思った。通常点滴薬を徐々に錠剤に変え、点滴用のカテーテルを外して退院となる。病院は長期入院患者を出来るだけ退院させようと躍起なっているとしか思えない。これも厚生省の医療費削減の方針の結果なのだ。患者が長く入院すればするほど、病院側は損をする仕組みになっている。

正月明けから抗がん剤治療が始まった。5-FU(一般名 フルオロウラシル)をソルデムに混入して24時間点滴を行なっている。意識を失った原因として、5-FUと一緒に使用していた抗がん剤が腎臓に影響を与えたと判断され、単剤で5-FUを使用している。

11月から行なってきた放射線治療はかなり効果を発揮して腫瘍の大きさは4分の1位まで縮小したということだ。後はリンパの隅々まで散らばっているがん細胞を抗がん剤で叩いていけばいいということだ。

医者は自宅での治療を進めているという。しかし彼は右手が使えず、点滴を変える事ができないので付き添いが必要だ。連れ合いはいるが働いているので無理だ。それに流動食を作るということも必要となってくる。ということで当分は病院にいることになりそうだといって言っていた。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
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定期健診の日

1月7日(水)
2週間1度の定期健診の日。血液検査の結果は以下の通り。

検査結果
 IgM    1518←1659←1791←2225
 白血球  3.0←1.5←2.4
 血小板  12.2←12.8←13.3
 ヘモグロビン  11.0←11.0←11.0


 IgMが着実に減り続けている。いい傾向だ。白血球も持ち直してきている。サリドマイドが認可されそろそろ各病院で提供への準備が始まりつつある。しかし、医者が言うには手続きが非常に煩雑で、2週間に一度講習を受けなければならいという。それでなくとも忙しい医者に負担をかけるのは悪い気がしてしまう。今だったら既に厚生労働省に対する最初の手続きが終わっているので、ファックス1枚輸入代行業者に送れば、2、3日後には医者の下に薬が届く仕組みになっている。

12月24日、前回の検診の後、サリドマイド4ヶ月分(100mg×28×4)を申し込んだ。10月から英国の製薬メーカーが100mg28日分を196ポンドから、244ポンドに値上げした。日本で認可されることを見越しての値上げではないかと医者が言っていた。しかしこの頃からポンドが大幅に下落した。

3月には1ポンド250円位であったのが、12月には130円と約半額になった。値上げ分を補うに十分である。結局今回の4ヶ月分の仕入れ価格は米ドルで換算され、輸入送料・手数料を含めて1764USドルになった。薬の購入日12月25日の為替レートでは1ドル90円だった。日本円に直すと15万9千円となる。月に直すと4万円程だ。認可されたサリドマイドが月100mg28日分で5万9000円かかることになるといわれている。2万円も安い事になる。

さらに認可されたサリドマイドを手に入れるための手続きの煩雑さ、登録制などさまざまな制約があり輸入品より高額であることを考えるとこのまま輸入品を仕入れていた方が楽な気がするし、医者もそうして欲しいと暗に言っていた。

確かに輸入品を扱ってくれる病院が近くにない人にとっては、サリドマイドの認可は救世主的意味合いが大きいことは確かだ。しかし多発性骨髄腫や原発性マクログロブリン血症など高齢者がかかる血液がんにとって極めて重要な薬であるサリドマイドの使用料が、月5万9千円というのはかなりの負担になるのは確かだ。

 年金暮らしの人も多いだろうが、国民老齢年金の支給額が月79,000円だからその大部分がサリドマイド購入費で消えてしまうことになる。他の医療費を合わせると月々の医療費は7、8万はかかるだろう。とても使用できる薬ではなくなってしまったような気がする。高額療養費制度で44,400円以上は3ケ月後に戻るが定期的出費となる。

薬価算定基準というものがあるのだろうが、厚生省はサリドマイドの1錠6500円という高額の数字をどこから導き出したのだろう。安全管理コストがかかるということもあるだろうが、これだと結局認可されても年金暮らしの人は使えないことになる。日本骨髄腫患者の会の役員の人の並々ならぬ努力で、やっとサリドマイドの認可にこぎつけたのに、その努力に水を指すような高値になってしまった。きわめて残念なことだ。

例えば今インドからサリドマイドを仕入れている人は、認可されたサリドマイドを手に入れるために10倍近くの金を支払うことになる。今の1錠600円が6500円になる。保険を利かしても1950円という額だ。折角認可されても、経済的理由でインドからの輸入を続けざるを得ないだろう。どうにかもう少し安くなる方法はないのだろうか。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

鬼怒川温泉・3日目-会津若松

1月7日(水)
1月2日-鶴ヶ城・飯盛山周辺
20年程前、会社の仕事で郡山営業所に行き、帰りに喜多方に寄ってラーメンを食べ、会津若松に戻り列車を乗り継いで北千住まで戻って来たことがある。季節は初夏で新緑の谷間を沿って列車が走っていく風景が極めて印象的だった。

今回は冬の風景を味わってみようと思い鬼怒川から会津若松、郡山、上野のコースで帰ることにした。会津若松はまだ一度も行った事がなかった。昨年の1月8~9日にドラマで『白虎隊』を見るともなしに見たので基礎知識はあった。

東武鬼怒川線-野岩鉄道-会津鉄道会津線
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鬼怒川温泉から会津若松までの鉄道が面白い。下今市から鬼怒川温泉を経て新藤原までが東武鬼怒川線、新藤原から会津高原尾瀬口までが野岩鉄道会津鬼怒川線で、この列車は栃木県と福島県の県境にある急峻な山間部を通る路線である。起点新藤原駅の標高は425.3m、終点会津高原尾瀬口駅の標高は722.5m、駅ではもっとも高い位置にある男鹿高原駅の標高は約765mとなっている。沿線地域に鬼怒川、川治、湯西川、塩原、奥鬼怒、湯ノ花など多くの温泉地がある。

会津高原から西若松までが会津鉄道会津線で、そこから会津若松経由郡山までがJR磐越西線となっている。磐越西線は郡山から新潟の新津駅まで日本列島を貫いて走っている。会津若松から新津までは「水と森とロマンの鉄道」と言われている。一度は乗りたいものだ。

ホテルを出ると今日も雪がパラついていた。昨晩の雪であたりは白く覆われている。10時1分発の会津マウントエクスプレスで出発する。1日1本しかない会津若松行きの急行列車だ。列車は鬼怒川沿いの深い渓谷を左に見ながら進む。広い雪の原と渓谷が入れ替わり登場する。途中の駅は皆温泉地となっている。鬼怒川と会津の真ん中あたりの温泉だったら鄙びていて静かだろう。

鶴ヶ城
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龍王峡日光・白虎隊024_convert_20100606121952 天守閣より会津の街並み

会津若松駅の天気は、雪時々曇り。駅から車で10分位で鶴ヶ城に着く。結構観光客が来ている。昭和40年に再建された天守閣は雪の中に凛としてその威容を現している。

会津藩を巡る歴史:
慶応4年(1868)1月3日、鳥羽伏見で戊辰戦争は火蓋を切り、新政府軍の前に幕軍は大敗し、ついに江戸開城によって徳川三百年の歴史は終わりを告げた。

会津藩は軍制を改革して朱雀・青龍・玄武・白虎の諸隊を設け、洋式銃を買い集めるなど、来るべき新政府軍との戦いに備え、5月には奥羽越列藩同盟が成立して、新潟から東北にかけての諸藩は、新政府軍との武力衝突を始めた。

8月20日には新政府軍に会津攻撃の命令が下り、福島へ通じる街道の母成峠から会津に侵入してきた新政府軍は、白虎隊などの予備兵の抵抗を蹴散らし、8月23日には鶴ヶ城を囲んだ。この時、白虎隊士中二番隊や西郷頼母一族の自刃など、幾多の悲劇が生まれた。

孤立無援の中で容保は籠城し1ヶ月にもおよぶ戦闘に耐え続けたが、援軍も見込まれない中、昼夜に及ぶ砲撃にさらされ、ついに9月22日、容保は降伏を決意した。(会津若松観光公社ホームページより)

こういった歴史の流れや会津の産業文化などの展示品が天守閣の各階に展示されている。天守閣の最上階からは全く360度遮るものがなく会津の街々から遠くの山々まで見渡せる。

飯盛山
鶴ヶ城から飯盛山に向かう。飯盛山の入口に白虎隊記念館がある。展示品を眺め、白虎隊を紹介するアニメビデオを見て、飯盛山に登る。雪が深く急な階段を上るのが難しく、迂回路を通って登っていく。

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変わった建物のさざえ堂を見、白虎隊士一九士の墓など雪の降る中見学した。雪が激しく降ってきた。列車の出発時刻までには早かったが会津若松駅に戻った。昔駅前には会津の民芸品が売られている店が軒を並べていたように記憶していたが、駅前にはSATYの大きな建物があるだけでそういった店は全くなかった。駅の売店の土産物屋くらいしかない。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

鬼怒川温泉・2日目-輪王寺、東照宮、二荒山神社

1月6日(火)
1月1日-輪王寺・東照宮・二荒山神社

輪王寺
龍王峡日光・白虎隊095_convert_20100606122159 山門

龍王峡日光・白虎隊096 本堂

いろは坂を下ってきたバスは、西参道の日光観光センターの前で止まる。ここで昼食を各人とる事になる。2社1寺巡りをするには、神橋からの道、表参道、西参道と3ヶ所ある。ここからはバスガイドの案内ではなく、専任の解説者が案内する。最初は輪王寺の本坊に行く。

最初に目に入るのが相輪塔である。青銅製の細長い塔。高さは13.2メートル。上部には金瓔珞(きんようらく)というものと、金の鈴がそれぞれ24個つづられていて、下部には徳川家の家紋である葵の紋が3つ見える。それらが、4つの控柱で支えられている姿となっている。これは天海大僧正が建てたものと言われている。
 
輪王寺とは、お寺やお堂、さらに15の支院の総称で、勝道上人が天平神護2(766)年、神橋のそばに四本竜寺を建立したのが始まり。山岳信仰の場として栄え、たくさんの行者が修行に訪れた。

その中心が大本堂で、三仏堂と呼ばれている。山岳信仰にもとづき、日光の三山つまり男体山、女峰山、太郎山を神体とみて、その本地仏である千手観音(男体山)、阿弥陀如来(女峰山)、馬頭観音(太郎山)の三仏をまつってある。本堂の入口のところで僧侶の説明を聞く。中禅寺もそうだがこの輪王寺も檀家を持たず、葬式を行なったり墓を守ったりということはしていない。邪気を払うための寺院だそうだ。

僧侶が数珠の説明をしていた。数珠は厄除けの意味を持つ。その意味で葬儀とかに持っていくが、いつも持っているといい。ここで売られている数珠は生まれた月に関係している仏様が埋め込まれている。邪気を払う木として梅の木が使われている。といった説明をして3000円で数珠を売っていた。三仏堂の中では寺の由緒の説明から入って、魔除けの円盤を家の鬼門・東北方面に吊るして置くといい、とここでも商売をしていた。輪王寺から東照宮に向かう。

東照宮
A鬼怒川・日光・会津056_convert_20100606123326 五重塔

龍王峡日光・白虎隊109 陽明門

最初に石鳥居をくぐる。この鳥居は京都八坂神社、鎌倉八幡宮のものと合わせて日本三大石鳥居と呼ばれるものだそうだ。次に五重の塔がある。上から下まで全てや屋根大きさが同じという珍しい作りらしい。

東照宮は、徳川家康が目指した「八州の鎮守」であり、現代風にいえば「日本全土の平和の守り神」である。日光は江戸のほぼ真北にあたる。家康は不動の北極星の位置から徳川幕府の安泰と日本の恒久平和を守ろうとしたのである。この意思を継いで家光が、今の金額に換算すると約400億円、使った材木が14万本、工期は1年5か月、延ベ454万人が携わり、絢爛豪華なシンボルに作りかえた。

「見ザル、言わザル、聞かザル」で知られている神厩舎の彫刻は、左から右へ8ページの絵本「三猿の物語」になって、猿の一生を描きながら人の生き方を伝えている、ということをガイドの説明で始めた知った。なかなか意味深い物語だ。陽明門の彫刻や、眠り猫もそうだが、人生や政治を考えるための示唆に満ち溢れているのが興味深い。

猿の物語:1、手をかざした母猿が子猿の将来を見ている。子猿は信頼しきって母猿の顔をのぞき込む。2、子どものときは悪いことを「見ザル、言わザル、聞かザル」。3、一人立ち直前の猿。まだ、座っている。4、口をへの字に曲げ、大きな志を抱いて天を仰ぐ。青い雲が「青雲の志」を暗示。5、人生にまっすぐ立ち向かうが、がけっぷちに立つときも。迷い悩む仲間を励ます友がいる。6、恋に悩む。7、結婚した2匹の猿に、どんな荒波が待ち受けているのだろう。8、おなかの大きい猿。子猿も、やがて母親になる。

陽明門では500をこえる彫刻の説明を受け、眠り猫を見て、薬師堂では鳴き龍が鳴くのを聞く。僧侶が拍子木を叩くと鈴のような音が反響する。ともかく東照宮は見るところには事欠かない場所だが、ガイドはどんどん先に引率して行ってしまう。初詣の参拝客が多くそこらじゅうがごった返していてゆっくり見るという雰囲気でなかったのは確かだ。そこから杉並木の参道を通って二荒山神社に向かう。

二荒山神社
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龍王峡日光・白虎隊124

今からざっと1200年以上も前の奈良時代の末、二荒山(男体山)に神霊を感じた勝道上人が、大谷川の北岸に四本竜寺を建て、延暦9(790)年に本宮神社を建てた。二荒山神社のはじまりである。

勝道上人はさまざまな難行苦行を積み、二荒山初登頂の大願を果たし、山頂に小さな祠をまつった。天応2(782)年のことであった。これが奥宮である。二荒山神社は早くから下野国一の宮としてうやまわれ、鎌倉時代以後は、関東の守り神として幕府、豪族の信仰をあつめた。

拝殿は参拝客が列を作っていたのでそこは素通りして裏に回る。ここには重要文化財に指定されている銅製春日造りの灯籠がある。夜ふけに火をともすと、ゆらゆらと怪しげな姿に変わるというので、警固の武士に切りつけられた無数の刀きずがあり、化灯籠の名でも有名である。

二荒山神社を後にして、神門、鳥居を通って、日光観光センター前まで行き観光バスに乗る。バスは日光駅まで行ってそこで乗り換え鬼怒川温泉まで送ってもらった。
(日光の名所旧跡の情報は日光観光協会オフィシャルサイトより)

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鬼怒川温泉・2日目-中禅寺湖周辺

1月5日(月) 
1月1日・中禅寺湖周辺

観光バスのコース
鬼怒川温泉駅→明智平→華厳の滝→二荒山神社中宮祠→中禅寺・立木観音・五大堂→西参道→輪王寺→東照宮→二荒山神社→東武日光駅→鬼怒川温泉駅

9時20分発の観光バスに乗るためホテルを出た。雪がさらさらと降り注いでいる。1月1日ということもあって観光バスは比較的すいていた。23名の乗車だった。バスは121号線会津西街道を日光方面に向かう。今は鬼怒川道路というバイパスが出来ていて、ほとんどの車はバイパスを通るが観光バスだけは日光の杉並木を見せるためにこの道を通る。

日光杉並木
日光へ通じる道には御成街道、会津西街道、例幣使街道の3つの街道があり、これが現在の今市市でひとつになり、日光街道となって日光に達している。日光杉並木はこの3つの街道に植えられたスギの並木で、長さの合計は37キロもある。会津西街道を日光方面に杉並木の間を通って日光に向かう。杉並木保護のためオーナー制度がある。何とオーナーになるには1000万円かかるそうだ。

車窓の右側には男体山始め、日光の連山が陽の光に眩く輝いている。いつの間にか雪は止み青空が広がってきている。中禅寺湖を源流とする大谷川を渡り日光市内に入る。市内から一挙に中禅寺湖に向かう。

いろは坂
いろは

日光市街~中禅寺湖・奥日光間のアクセスは、上りが第2いろは坂、下りが第1いろは坂を利用する。カーブごとに「いろは……」 の文字が順に表示されている急坂である。いろは坂と呼ばれるようになったのは、カーブが48か所あることからだそうだ。今は上下別の道だからいいが第1いろは坂しかなかった時は、狭く急カーブの道をすれ違うのに車の運転は大変だったろうなと思う。

明智平

第2いろは坂をほぼ上りきった、眺望に優れたポイントが明智平だ。名づけたのは天海大僧正といわれている。天海大僧正とは、織田信長に謀反を起こし山崎の合戦で敗れた、あの明智光秀という説がある。合戦後なんとか比叡山に逃れ、その後も生きのびて家康公の黒幕になったとされるのだ。日光に赴いたあと、自分のもとの名を残したいと、日光でいちばん眺めのよいこの地を「明智平」と命名したと伝えられている。あまた歴史ミステリーはあるが、天海僧正=明智光秀という説は一番可能性がありそうだ。

筑波山が見えるとバスガイドが言った。めったにないことだそうだ。明智平からはロープウエイが展望台まで出ているが、それに乗る時間はなかった。それでも中禅寺湖方面の眺望が開け第1いろは坂の全体を見ることができる。風が強く冷たく休憩所に入りっぱなしだった。ここから華厳の滝までは10分位だ。

華厳の滝

龍王峡日光・白虎隊067

日光には四十八滝といわれるくらい滝が多い。高さ97メートルをほぼ一気に落下する豪快さと、自然が作り出す華麗な造形美の両方をあわせ持つ。和歌山県の那智ノ滝、茨城県の袋田ノ滝とともに「日本の三大名瀑」とも呼ばれる。無料の観瀑台が駐車場の所にあるが、滝壺から見るには有料のエレベーターで90m下らなければならない。小学校の時の修学旅行で行って見た筈なのだが全く記憶はなかった。どちらにしても冬の華厳の滝は初めてだ。水量が通常の4分の1位になっているので、それ程の迫力はないが、雪と氷に覆われた滝もまた見所だ。

二荒山神社中宮祠
龍王峡日光・白虎隊076

中禅寺湖の北岸、男体山山麓-の景勝の地に鎮座する神社である。男体山の山頂にある二荒山神社奥宮と、日光山内にある二荒山神社本の中間にあるので、中宮祠と呼ばれている。ここでは巫女の舞を見学することが出来た。その後神主が皆の幸運と健康を願ってのお払いをした。観光バスの団体旅行だと色々とオープションが付いてくる。日本一の大太刀「祢々切丸」をはじめ多数の刀剣や男体山頂祭祀遺跡の出土品が展示されている宝物館を見学してバスに戻る。

日光山・中禅寺
日光山の開祖、勝道上人は、男体山頂をきわめた後、延暦3(784)年に中禅寺を建立、修行の場とした。当時は男体山の登拝口のほうにあったが、明治35(1902)年の大山津波をきっかけに、中禅寺湖歌ガ浜に移転した。中善寺の本尊・立木観音はこの大山津波で中禅寺湖に沈んだが、奇跡的に浮き上がり引き上げられた。湖の底に沈んだ観音像が浮かび上がって来たというのは、中々意味深い、曰くありげな感じで興味深い。

龍王峡日光・白虎隊086_convert_20100606122055 中禅寺本堂

龍王峡日光・白虎隊087_convert_20100606122127 五大堂から中禅寺湖

龍王峡日光・白虎隊092 五大堂

中禅寺の本堂裏の崖を背に建っているのが五大堂。勝道上人開山1200年記念事業として建てられたもので、昭和44(1969)年に完成した。降三世明王、軍茶利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王、不動明王の五大明王が安置されているお堂。ここからの眺めは素晴らしい。中禅寺湖が見渡せ、男体山の威容が目の前に全景を表して迫ってくるようだ。ここを後にして、第1いろは坂を下り日光市街に戻る。
(日光の名所旧跡の情報は日光観光協会オフィシャルサイトより)

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

鬼怒川温泉・1日目-龍王峡

1月4日(日)
12月31日・龍王峡散策
春は桜、夏は新緑、秋は紅葉、そして冬は雪。雪の温泉は何といっても冬の旅行のメインテーマだ。鬼怒川温泉の天気は晴れとあった。雪があるかどうかは定かではない。10時40分池袋発の列車に乗るというのは楽でいい。確かに旅行に行く時は気を入れて早起きをして、出掛けることもあるが、朝ゆっくりとしていく方を最近は選択するようになった。一日一本しかない列車だが鬼怒川温泉まで2時間で乗り換え無しの直行便があるということは何と便利なことだろう。

遠くの山々は雪に覆われていたが、沿線にはほとんど雪はなく、冬枯れの野原が広がっていた。下今市駅から鬼怒川温泉に向かう沿線には次第に雪が積もって来ている。駅に降りると雪が舞い散っていた。

昨日から雪が降り始めたらしい。それまではほとんど雪はなかったという。ホテルから龍王峡に向かう。龍王峡駅前の広場から、谷に向かって長い急階段を下る。

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龍王峡
龍王峡は、今から2200万年もの昔、海底火山の活動によって噴出した火山岩が、鬼怒川の流れによって侵食され、現在のような景観になったといわれる。その名の通りまるで龍がのたうつ姿を思わせるような景観を呈している。観光案内には次のように紹介されていた。「冬には積雪の中幽玄であでやかな渓谷美を展開していくのです。これこそ、全国観光地百選渓谷の部第5位に輝いた奇勝のきらめきというものでしょう。」

谷全体が雪に覆われ水墨画のような様相を表している。渓谷の情景を一段と深く、静かに覆っている。最初に目に入るのが虹見の滝で、晴れた日には陽光に輝き美しい虹を架けることからそう呼ばれたという。そこから少し登ると、竪琴の弦のように流れている竪琴の滝がある。滝の斜面に岩が多く出ているのだろう、水流が幾筋にも分かれ、白いすだれとなって降り注いでいる。

虹見橋

虹見橋を渡り対岸を川沿いに進む。渓谷沿いの遊歩道には雪が積もっていたが、昨日降ったばかりだということで雪は柔らかく、まだ凍っていなかったので、比較的歩きやすかった。

虹見橋を過ぎると、両岸の岩々が白っぽい流紋岩から形成されていて、白龍峡と呼ばれている。龍王峡は白龍峡、青龍峡、紫龍峡と分かれている。むささび橋を過ぎるあたりからを青龍峡と呼ぶ。この辺りから岩の色は青っぽく変わってくる。火山灰が堆積してできた緑色凝灰岩が両岸を多種多様な奇岩で彩っている。さらに川治温泉方面に行くと紫龍峡と呼ばれる。海底火山 活動の初期に流出した紫がかった安山岩が少しずつ濃くなりながら、白岩付近まで続いている。

かめ穴・流紋岩の割れ目
誰もいない雪道を踏みしめながら、渓谷沿いをゆっくりと歩いていく。かめ穴の標識が目に入る。まだ川底だった頃、穴になっている部分の岩質が、流されてきた石より柔らかかったため、渦巻きの流れの中で石が臼の働きをして造られたものだ。

しばらく行くと、川に沿って流紋岩の割れ目が続いている。流紋岩が白く見えるのは、白っぽく淡い色合いの石基に光沢のある長石や石英などが点在していることによると言われている。虹見橋から20分位歩くとむささび橋に至る。

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むささび橋
「むささび橋」からの眺めは「この渓谷でのハイライト。巨岩と清流とがおりなす自然の芸術品が眼前に広がります」と案内にあるようになかなかなものだ。そこから対岸に渡り虹見橋方面に戻ることにした。確かに青龍峡、紫龍峡、さらに川治方面まで道は続いているが、誰の姿もなく、雪深く凍った所もあると言われていたし、時間的なこともあった。自然研究路という川沿いの道を行く。対岸から見ると流紋岩の割れ目や、かめ穴がよく分った。

再び駅前広場まで上り、休み茶屋で休憩し、ホテルに戻った。ホテルは、川沿いに面している典型的な温泉宿で露天風呂付きの大浴場はぬる目のお湯でゆったり入るには丁度いい温度だった。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

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