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カミュ 『ペスト』

2月28日(土)
211403_convert_20090228220045.jpgカミュの『異邦人』『シーシュポスの神話』と来れば次は『ペスト』だ。藻屑の如く消え去ってしまう本と違って、受け継がれていく本には何かが宿っている。何十年かたって読んでみるとまた新たな思いに駆られる。

STORY:アルジェリアのオラン市で、ある朝、医師のリウーは鼠の死体をいくつか発見する。ついで原因不明の熱病者が続出、ペストの発生である。外部と遮断された孤立状態のなかで、必死に「悪」と闘う市民たちの姿を年代記風に淡々と描くことで、人間性を蝕む「不条理」と直面した時に示される人間の諸相や、過ぎ去ったばかりの対ナチス闘争での体験を寓意的に描き込み共感を呼んだ長編。(「BOOK」データベースより)

物語は淡々と進む。街にペストが発生し、毎日のように何百人という死者が生み出されていく。この悲惨な現実を激情や、愁嘆場としてではなく、冷静に客観的に記述していく文章の流れが、刻々移り変わっていく現実をよりリアルに映し出している。小説の最後のところで筆者は言っている。

「彼は善意の証言者にふさわしいような、ある種の控え目さを守った。しかし、同時にまた、公明な心の掟に従って、彼は断乎として犠牲者の側に与し、人々、同じ市民たる人々と一体になって、彼らが共通にもっている唯一の確実なもの、すなわち愛と苦痛と追放とを味わおうとした。」

語り手である主人公は、自分たちは結局何もコントロールできない、人生の不条理は避けられないという考えを力説する。カミュは不条理に対する人々のさまざまな反応を例示し、いかに世界が不条理に満ちているかを表している。この現状に対し、主人公の医師リウーの「人類の救済なんて、大袈裟すぎる言葉ですよ、僕には。僕はそんな大それたことは考えていません。人間の健康ということが、僕の関心の対象なんです」という言葉が、ペストに蹂躙されたこの不条理な世界に反旗を翻す出発点なのである。

同時に、拡大するペストの恐怖の中、人々は結束してペストに立ち向かおうとする。それは利害と打算と助かりたい気持ちからであったとしても協力関係が築かれていく。ここに無慈悲な運命と人間との関係性が問題提起される。

医者、市民、よそ者、逃亡者、キリスト教者と、様々な人々がペストの脅威を媒介として新たな繋がりが生み出していく。逃れられない運命、ペストという全く予期せぬ死を強制する宿命に空しく打ちのめされながらも、それに抵抗しどのように生き延びていくかの終わりの見えない闘いが延々と続けられていく。

この世の不条理性は否定しがたい。「人生は生きるに値するのか」の答えはない。しかし、強制されようとする運命にあくもでも抵抗し“否”と言い続けることを通して、その宿命を跳ね返していく事が可能ではないか、という問題提起をこの『ペスト』で言おうとしているのだろう。

『異邦人』では与える事が出来なかった回答を、この『ペスト』で出そうとしとのではないか。まさに不条理な世界における生き方、運命を受け入れるのではなくそれに抵抗する人間を描き、その世界からの脱却をまさに「反抗的人間」として表明しようとしたのではないか。

この作品は第二次世界大戦時のナチズムに対するフランス・レジスタンス運動のメタファーではないかということだ。戦争や疫病、人である限り不可避な死にどう向き合っていくのか。不条理な世界に埋没するのではなく、自らの運命を自ら選択していく意思と決意が求められているのだろう。

ニーチェの「神は死んだ」から始まる思想は、自分の外にあらかじめ与えられた真理・絶対者がいない世界で如何に生きるかを問うものであった。何が正しいかが確定されないということは何をしてもいいということではない。神が何をなすべきかを決めるという発想も、神がいないからすべては許されるという発想も、そのどちらもカミュは否定した。

死を免れない全ての人間は、自分自身の内面に追放されているという根源的世界観からすれば、カミュにとって幼児の病死と、戦争での死は共に “悪”であり、この悪を憎み、悩み、それと戦い続けることに、すべての価値を賭けるのがカミュの態度である。その限りで、ペストに襲われたオラン市とは、人間の世界そのものにほかならない。

「私はあるひとつの観念のために死ぬ人たちに虫唾が走る。私はヒロイズムを信じない。私が興味を覚えるのは、愛するもののために生き、愛するもののために死ぬことだ」カミュのこの言葉こそ不条理な世界を突破し生き抜いていく方向を示しているのだろう。
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きれい社会の落とし穴

2月27日(金)
ある洗剤のコマーシャルでの発言が気になった。「私汚れていました。目に見えない汚れで汚れていました。」見た目には真っ白でも汚れは落ちてはいないというのだ。この清潔志向は一体何処から来るのであろうか。殺菌、除菌、消臭のコマーシャルが繰り返される。「きれい」を商売にする企業の戦略に煽られていることもあるだろう。きれい思考が蔓延している。

この極端な清潔志向が、アレルギー疾患の大きな原因になっていることは確かである。アトピー性皮膚炎、気管支喘息など生まれる子供の2人に一人がアレルギー疾患にかかる。「きれい社会」は子供たちが本来持っている免疫力を低下させていく。今の親はちょっとした熱でも抗生物質を投与したり、子供たちを守っている細菌類を抗菌グッズで弱らせている。防腐剤や食品添加物は腸内細菌のバランスを崩しアレルギー性疾患になりやすくなる。(藤田紘一郎・下の写真『きれい社会の落とし穴』)

fuji.jpg 清潔志向との関連で思ったことがある。怪我をした時に、傷口を洗ってから消毒薬をつけるのは極めて一般的だ。ある時足の親指に怪我をしたので整形外科に行って治療を受けた。その医者は、傷口を洗ってから何針か縫ってそのまま包帯をした。次の日行ったら、流しの所に足を持っていって、傷口をごしごし洗いきれいなガーゼで拭きそのまま包帯をした。消毒薬は塗らないのかと聞いたらこれの方が直りがいいとい言われた。

その時はあまり納得出来なかったったが後で本を読んだ所、消毒薬は病原微生物を死滅させるが、同時に新たに皮膚を再生させる細胞も壊してしまうので皮膚の再生を阻害すると書いてあった。細菌には必要な働きがあるということをつくづく思った。

確かに人類は文明の進化の中でより清潔なより快適な環境を目指してきたことは確かだが、人間の細胞は1万年前と同じものなのだ。様々な細菌や微生物を必要としている。寄生虫や細菌、排出物、カビ、死体など「汚いものとして排除」されている様々なものは地球上の生態系守る重要な働きをしているということを改めて認識しなければならないと思う。

今西錦司さんは『棲み分け説』で次のように言っている。「身体の形も、棲む環境に適応してきた持ち味で、生き物の間に尊卑貴賎や上や下もなく、みんなでそれぞれに、自分に合った生き物を食べ合っている。そもそもあらゆる生き物は古代史歴から、棲む場所によってそれぞれに棲み分けている。いわば、生物間の分業で、それが生物世界の調和システムなのだ。」

自然界は「調和(バランス)」が取れている。植物や、コレラ菌から、虫、鳥、哺乳類まで、それぞれに「御いのち」を頂きつつ暮らしています。しかし近代文明は、弱肉強食の論理でヒト科が一番偉いんだぞという、ヒト科中心思考の中にありました。こういった洗脳によって、「人間中心自然破壊型文明」が成長していき、全ての生物の共栄共存の調和のシステムが崩されていったのです。 (「とみ新藏ブログ」2/21)

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人はいつかは死ぬ

2月24日(火)
人から進められて、中島らもの『ガダラの豚』のⅠ、Ⅱを読んだ。中々面白かったので、図書館で中島らもの本を探していたら『特選明るい悩み相談室』という本があった。これは朝日新聞に連載され、朝日文庫として刊行されたものを集英社が編集し直したものだという。この本の“その2”に以前MOTOGENさんのブログにあった「焼きじゃがにみそをつけて食べると死ぬ?」という相談が載っていた。

517TPVPBM1.jpg以前、祖母から「じゃがいもを焼いてみそをつけて食べると死ぬ」と聞いた。「迷信だ」というと「本当だ」と真剣に言い張る。ホントに死ぬのでしょうか?

これに対して中島らもは「迷信と言うよりおばあちゃんのおっしゃることが正しい。これは本当のことです。実際、今年98歳になるおじいさんなのですが、友人の医者が診たときにはすでにご臨終でした、亡くなる前にひとこと、“おのれ、わしが12のときに焼きじゃがいもにみそをつけて食いさえせなんだら死なずにすんだものを”と言い残して逝去されたそうです。」と答えた。

結局人間いつかは死ぬから「焼きじゃがいもにみそつけて食べると死ぬ」ということ自体は間違っていないことになる。さらに中島らもは言っている。
 月夜に、カニにマヨネーズをつけて食うと死ぬ。
 ラッキョウを6つ一度に口に入れると死ぬ。
 納豆にソースをかけるとまずい。
などの言葉があってどれもうなずける事ばかりです。

「人はいつかは死ぬ」この事実はどんなことがあっても覆す事は出来ない。昨日のブログに書いた、ムルソーの主張はその意味で間違ってはいないだろう。「根本において30歳でも70歳でも死ぬのに大して変わりはない。今であろうが、20年後であろうと、僕が死ぬことにかわりはないのだ。」

しかし、いつかは死ぬ生を生きている人間にとって残りの生をどう生きるかの選択は可能なのだ。余命を宣告されているがん患者にとって、死への時間を過ごしている毎日をどう生きるのかは、極めて重要な問題となる。確かに死ぬ生だとしても一時、一時は極めて貴重なものとなる。

梅澤充氏のブログ「がん治療の功罪」2/16の記事に次のように書かれていた。
「がん患者の多くは、終生、ガン患者であることを認識しながら生活していかなければなりません。(私の行なっている治療は)身体には優しく、患者さんの身体を傷害しない治療だからこそ、長生きができるのでしょうけれども、精神的には、かなり辛い治療であるようにも思います。

治療の苦痛は無く、ガンは悪くはなっていないけれども、良くなっているわけではない、その状況を考えて、“いずれこのガンは進行してきて、自分の命を脅かすことになるのだろう”と、常に漠然とした不安の中に生活を続けなければなりません。

私の勝手な考えでは、すべての人間は最期の時を何時かは迎えます。その前に、ご自身の人生をシッカリ見つめなおす時間が与えられるのですから、幸せなことだと思っていますが・・・・。」

がん患者であろうとも、普通の人であろうとも「人はいつかは死ぬ」という事実は変えようがない。その意味で、全ての人は同じ条件で生きているといえると思う。そう考えると何もがん患者や病気を抱えている人だけが特別なのではない。問題は残りの人生をどう生きるのかに関わってくるということだけである。

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カミュ『異邦人』

2月23日(月)
211401_convert_20090223133845.jpg 何十年前に読んだ本をまた読んでみる。本は読んだ時の人の成長過程で全く違った様相を呈する。かって読んだ時どんな風に感じたかは全く覚えていなかったが、今回読んでまた新たな感覚を持つ事ができた。

『シーシュポスの神話』はいわば『異邦人』の解説書のようなものである、その最初に次のように書かれている。「真に重大な哲学上の問題は一つしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。」この答を求める事の困難さが『異邦人』の中で展開されている。

果たして、人生は生きるに値するか。人生の目的は何か。人は何故生きるのか。最も根底的な問題が、回答のないまま綴られていく。

「不条理という言葉のあてはまるのは、この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死物狂いの願望が激しく鳴り響いていて、この両者がともに相対峙したままである状態についてなのだ。」(『シーシュポスの神話』)

人間の奥底には、生きる意味を「死に物狂い」で知りたがる願望が、激しく鳴り響いている、とカミュは言う。どうしても生きる目的を知りたい、いや知らなかったら生きていけないのが人間なのだ。しかしその答えは見つからない。その時人は死を選ぶのか、あるいは生を放棄した人生を歩むのか。

『異邦人』の主人公ムルソーは、生きる意味を見出せない中で、世の中に対して無感動、無無関心に生きるほかない。しかし、彼の本心を偽らないアウトサイダー的人間性が、彼をとりまく教誨師の司祭に代表されるキリスト教中心の欺瞞的な社会常識との間で、亀裂を生を生み出して行くのは必然的なものだった。

ムルソーは考える「人生は生きるに価しない」と。「根本において30歳でも70歳でも死ぬのに大して変わりはない。」今であろうが、20年後であろうと、僕が死ぬことにかわりはないのだ。」死を20年後に引き延ばすことには何の意味もない。人が死ぬ以上は、何時どうしてということは大した問題ではない。不条理の世界で人は果たして生きる意味を見出せるのだろうか、を問いかけている。

ムルソーは何故アラビア人を殺したのか。「自分がうしろをふりむきさえすれば、それですむと僕は思った。しかし太陽に慄える長い砂浜が、僕の背後をふさいでいた。・・・灼くような痛みに堪えかねて、僕はちょっと前にでた。それが馬鹿げていることは、一歩前に出たからといって太陽を免れるわけには行かないことはわかっていた。しかし僕は一歩、ただ一歩だけ前に踏み出した。・・・全てがゆらめいたのは、その時だった。海は濃く熱い息吹をもたらした。空は真二つに裂けて火の雨を降らすかと思われた。僕は全存在を緊張させ、手をピストルの上にひきつらせた。引金は言うことをきき、僕は銃尾のなめらかな腹にさわった。そこで、短いが耳を聾する音のなかで、すべてがはじまった。」

「太陽のせい」にした殺人を犯したが、それは「人生が生きるに値しないと思っている」生き方の中で、いわば一つの表れであり結果なのである。確かに、人生に意味があろうとなかろうと、人はこの世界に生まれ、この世界をすでに生きてしまっているという事実に満たされている存在である。それは人を否が応でも不安に陥れる。ムルソーもその不安に蓋をして生きてきたのである。それが眩い太陽の光の中で爆発したのである。あの銃声は生きていることの耐え難き不安と絶望を断ち切るものであったのだ。

母の死に感動を示さなかったことや、母の年齢を知らなかったこと、翌日女と海水浴へ行き、喜劇映画を見て笑い、一緒に部屋へ帰ったことなどの事実をもって、一般市民にはムルソーを自分たちとは違う「異邦人」のとして見ようとしたのだろう。そして、そういった者として断罪したかったのだろう。しかし、人生に意味がないというムルソーの考えは、人生に意味があると思い込みたい多くの人の心の琴線に触れ、それ故に、彼の考えは市民の憎悪を招き、その考えがもたらす不安を社会に撒き散らさないために、彼を「異邦人」として処刑せざるをえなかった。

人生は生きるに値するか。人生の目的は何か。人は何故生きるのか。この答えは『異邦人』の中にはない。最後に「僕は初めて世界のやさしい無関心に、自分を開いた。世界を自分と非常に似た、いわば兄弟のようなものと悟ると、僕は自分が幸福であったし、今でそうだと感じた。」と語っているが、ここには生きることの不安と絶望から開放されるということの心の安定を述べているだけでしかない。

『シーシュポスの神話』の中でカミュは言う。「以上ぼくは不条理から、ぼくの反抗、ぼくの自由、ぼくの熱情という3つの帰結を抽き出した。意識を活動させる、ただこれだけによって、ぼくは、はじめは死への誘いであったものを生の準則に変える、―そうしてぼくは自殺を拒否する。もちろんぼくは、そうやって生きる日々をつらぬいて、鈍い響きが流れている事を知っている。だがぼくの言うべき言葉は一つしかない、―その響きは必然的だ、と。」

不条理な感性を持った人間はどうやって生きていくのか、その答えは与えられていない。しかしその道筋をカミュは上記の言葉で表現しているのではないか。それをどう受け止めるかが問題だ。どちらにしても「風立ちぬ、いざ生きめやも」なのだろう。
(『異邦人』『シーシュポスの神話』の引用は新潮社『カミュ全集2』から) 

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友人の病状

2月22日(日)
2月18日の定期検診の後、いつものように食道がんで入院中の友人を見舞った。彼は11月12日、5-FU(一般名 フルオロウラシル)+αの抗がん剤治療で意識を失ってから、放射線治療以外には治療を行なっていなかった。その放射線治療も12月23日で終了した。

それ以降、ずっと実質的な治療を行なってこなかった。正月明け1月5日、再び5-FUの点滴を開始したが、又意識を失ってしまった。

別の抗がん剤を試すということだが中々始めてくれなかった。結局2月9日に別の抗がん剤を2時間かけて点滴した。これはうまくいって意識を失う事は無かった。その抗がん剤の影響で、当然のことながら白血球、赤血球、血小板は減少した。赤血球や血小板の輸血も何度かしたという。又体調的には発熱や、口内炎、吐気などに悩まされ食欲は全くないと言っていた。

栄養剤のフクカイック2号はもう点滴していない。昼食後食器が残っているのを見ると、食事も柔らかいものだがレベルはかなりアップしていて栄養も有りそうだ。ただ抗がん剤の影響で食欲がないという事であまり手をつけていなかった。

医者は、2月末に退院し、抗がん剤治療を通院でやっていくと言っている。1ケ月1回抗がん剤の点滴を外来治療センターで行い、その間定期的に血液検査に通うという方針らしい。

多発性骨髄腫の患者でVAD療法を通院で行なっている人もいる。VAD療法の場合、抗がん剤の量が少ないからか、デカドロンの影響で正常細胞減少がほとんど見られない、そういった意味で通院は可能だと思う。私はVAD療法の間、療法の合間に1週間位自宅療養はあったが、基本的には入院治療を行なっていた。今の治療はなるべく通院で行なうような方向性になっているのだろう。それは患者にとって確かに有り難い気もするが、心配なことも否めない。

友人の使用している抗がん剤は、はっきりと正常細胞に影響を与えている。自宅でそれに対処出来るものではない。白血球減少による感染症の恐れや、ヘモグロビンの不足による体の変調、ふらつき、転倒などの心配、血小板減少による出血など、病院にいれば週3回の血液検査で、臨機応変に対応できるが自宅だとそれが出来ないし、手遅れになる事もある。

抗がん剤治療を行なって正常細胞が元に戻るまで入院して対応した方が無難だと思うが、医者は退院を勧告している。ともかく自宅で体調の変異に気がついたら即行病院に駆け込むしかない。

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都立庭園-5(2) 小石川後楽園

2月21日(土)
天気も良く池袋に用があって出かけたついでに、少し足を伸ばし、丸の内線で後楽園まで行った。小石川後楽園では、梅の見頃にあわせ「春を呼ぶ小石川後楽園・黄門様のお庭で梅まつり」と銘うって2月14日から梅まつりを行なっていた。

小石川後楽園は、昨年1月末に病院での定期検診の帰りに行ったがその時梅は全く咲いていなかった。ここの梅林には約20種類、120本の紅梅・白梅が植えられており、花の見ごろには、「辺り一面に馥郁たる香りが漂い、和やかな趣を感じさせてくれる。」と書いてあった。土産物屋や軽飲食店が出店され、水戸の名産品が売られ甘酒や梅の饅頭などが飲食できる。

小石川後楽園は明の儒学者である朱舜水の意見をとり入れ、随所に中国の名所の名前をつけた景観を配し、中国趣味豊かなものになっている。又京都の風景を至る所に取り入れている。庭園は池を中心にした「回遊式泉水庭園」になっている。昨年行った時は寒かった事もあってざっと回っただけだった。今回は案内パンフレットに従って解説を読みながらゆっくり回ってみた。

最初に目に付くのは樹齢60年と言われる枝垂桜だ、3月には花を咲かせる。そしてこの庭の中心的景観は公園の中央に位置する池である。大泉水と呼ばれ蓬莱島と徳大寺石を配し、琵琶湖を表現した景色を造り出したものだ。

Itabas_convert_20101128141510.jpg 大泉水

順路に従っていくと小廬山という小高い山がある。一面ブンゴザサでおおわれた、円い築山。その姿、形が中国の景勝地・廬山に似ていることから江戸の儒学者・林羅山が名づけたもので、山頂より庭園を見おろせる。

そこから直ぐに大堰川を渡る。この庭園で河の景色を代表する場所。その名は、京都嵐山の下を流れる大堰川にちなんでいるという。

西湖提を見ながら、音和の滝を眺め、清水観音堂跡を通り、朱色の真新しいアーチ型の通天橋を渡り、得仁堂(上の写真)に出る。この建物は、光圀18歳の時、史記「伯夷列伝」を読み感銘を受け、伯夷、叔斉の木像を安置した堂で、得仁堂の名前は孔子が伯夷・叔斉を評して「求仁得仁」と語ったことによる。そこからまた池の袂に出て、白糸の滝を見ながら円月橋に向かう。

円月橋は、明の儒学者朱舜水が設計したといわれる石橋。水面に映る様子が満月のように見えるので、この名がつけられた。

out.jpg 円月橋

円月橋から急な坂を登り、愛宕坂という階段が34段ある小高い丘の頂上にでる。そこには八掛堂跡や小町塚がある。そこを下っていると目的の梅林だ。紅梅の蝶千鳥、白梅の白加賀、ピンクの道知辺等120本の梅ノ木がほぼ満開といっていいほど花を咲かせている。梅の香りがあたりに漂う。早咲きの冬至や八重寒紅はもう花を落としていた。梅林の入口付近の広場には赤い毛氈の敷かれた長いすが置かれ休憩所となっており、土産物屋や飲食で店が並んでいる。

5_convert_20090221132904.jpg 梅林

園の北側地域は、景観が一変する。稲田、花菖蒲、藤棚の田園風景が展開する。庭園の中に稲田があるのは珍しい。これは農民の苦労を、水戸光圀が彼の嗣子・綱条の夫人に教えようと作った田圃だ。そこからしばらく池のほとりを歩くと内庭に出る。

内庭(下の写真)は水戸藩の書院の庭としてあった所で、昔は唐門をへだてて、大泉水のある「後園」と分かれていた。江戸時代は「うちの御庭」と呼ばれた、池を中心にした純日本式の庭園だ。内庭の奥にあるJR水道橋駅よりの東門が2月14日から22日の間開門していて便利だ。

s-IMG_0088_convert_20101130000613.jpg 内庭

寝覚の滝や木曽川、龍田川と名付けられた川を見ながら西行堂跡に登り、そこから出発点の入口には直ぐだ。ボランティアの無料ガイドが11:00と14:00にあるらしいが、時間が合わず説明を聞く事ができなかた。

今回は梅を堪能できたので良かった。光圀は水戸偕楽園に習って、この後楽園にも梅林を作った。光圀は号を「梅里」と称するほど梅を好んだという。それだけあってここの梅林はなかなか見応えのあるものだった。

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『シーシュポスの神話』と囚人労働

2月20日(金)
「神々がシーシュポスに課した刑罰は、休みなく岩をころがして、ある山の頂まで運び上げるというものであったが、ひとたび山頂まで達すると、岩はそれ自体の重さでいつも転がり落ちてしまうのであった。無益で希望のない労働ほど恐ろしい懲罰はないと神々が考えたのは、たしかにいくらかはもっともなことであった」(新潮社『カミユ全集2』P190)

カミユは、この本の中で、ギリシア神話に寓してその根本思想である“不条理の哲学”を理論的に展開追究した。彼の他の作品ならびに彼の自由の証人としてのさま様々な発言を根底的に支えている論理がこの本の中で展開されている。

§ このシーシュポスの労働をについて考える時、思い浮かぶのは明治時代に行なわれていた空役と呼ばれる無意味な労働を強制する刑罰労働が、実際に行なわれていたことである。明治20年、兵庫県及び大阪府で相次いで罪石の制度が採用された。これは重さ6貫目から17貫目(22キロないし64キロ)の石を背負わせて1日2時間歩行させたというものである。

当時の大阪府知事がイギリスにおける空役の知識を持ち帰り採用した。英国では19世紀半ば過ぎまでこういった労働が行われていた。受刑者を横並びにして一斉に大型の踏み車(treadmill)を踏ませたり、水汲み小屋(pump-house)で手車を回させた。

この罪石によって「背肉剥落し流血淋漓往々頚骨屈曲して復たび伸びず、終に死する者あるに至れり」という惨憺たる状況を呈した。

また幾つかの監獄においては、敷地の一角に大きな穴を掘り、それを再び埋めるという作業を朝から晩まで繰り返し行なわせたという資料もある。

§ この罪石の採用の直接的契機は山県有朋の通達による。明治時代に絶大な権力を振るった首相山県有朋が内務卿当時(明治18年)監獄行政に関する秘密通達を発した。「そもそも監獄の目的は懲戒にあり。・・・懲戒駆役耐え難きの労苦を与え、罪囚をして囚獄の恐るべきを知り、再び罪を犯すの悪念を断たしむるも之監獄本文の主義なり」とする苦役懲戒主義を宣言した。

この苦役懲戒主義の行刑思想は、囚人による北海道開拓を提案した伊藤博文に引き継がれていく。秘書官金子堅太郎の復命書には次のように書かれている。

「彼らはもとより暴戻の悪徒なれば、その苦役に堪えず斃死するも、尋常の工夫が妻子を残して骨を山野にうずむるの惨状とことなり・・・囚徒をしてこれを必要の工事に服せしめ、もしこれに堪えず斃れ死して、その人員を減少するは監獄支出の困難を告ぐる今日において、万止むを得ざる政略なり。」

§ このようにして冷酷無惨の北海道における行刑が実践されていく。幌内炭鉱外役所での落盤、ガス爆発による囚人の死傷者数は、死亡81名、負傷3301名に達している。

網走工事改作道路では、投入された1500人の囚人のうち212名が死亡している。この道路は旭川から網走に向かう道路で、明治24年4月に開始し、12月までに北見峠から網走の約161kmを人力で完成させるという突貫工事で、人跡未踏の原始林や原野を人力のみで切り開き、朝早くから夜遅くまで働かされ、栄養も十分にとれないため、死亡者が相次いだ。この労働に従事したのは西南戦争で捕らえられた士族や加波山事件、秩父事件に参画した思想犯が多く含まれている。

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この中央道路の経路中にはその犠牲者を弔う慰霊碑が各地に建立されている。工事の際死亡して路傍に埋められた墓標亡き囚人は、300名以上という。彼らを縛っていた鎖だけがその上に残されてあり、これを鎖塚と呼ぶようになった。

§ 囚人の人権をというと「犯罪者に権利など必要ない」と言われるかもしれない。しかし、囚人の権利の状況は、一般市民の人権状況を映す鏡だと言われている。最も抑圧されている人の権利を獲得するということを通して、全ての人の権利を拡大していくことが出来るのではないかと思う。
(参考資料:緑風出版『監獄法改悪』)

定期検診の予定だったが

2月18日(水)
通常2週間に一度の定期検診の日なのだが、診察予約表を見てみると次の検診日が3月4日となっていた。1ケ月に一度になったのならそれはそれでいいのだが、そうなると月1度行なっているゾメタの点滴が出来なくなってしまう。通常飲んでいる薬は2月4日の時1ケ月分もらっているのだが、エンドキサンは2週間分しか処方されていなく、デカドロンもなかった。折角3種併用療法で効果を発揮しているのだから、ここで中断したくはなかった。ということで主治医に連絡して18日午後の診察の予約をした。

こういった経過があったので、この日は血液検査は行なわれず、20分位待って医者の診察を受けた、と言っても診断の材料となる血液検査の結果がないので、エンドキサンとデカドロンの処方と、ゾメタ点滴の用意をしただけだ。

ゾメタの点滴は、腎臓に負担をかけるということで15分以上かけて行なう事とされている。これを1時間かけて点滴した。ゾメタの点滴を始めてから、血液検査で今まで全く注意を払わなかった、クレアチニンと尿素窒素の数値に注目するようにしている。ゾメタは腎臓にかなり負担をかけると言われている。

ゾメタを行なっている時は腎臓機能を絶えずチェックしなければならない。クレアチニンと尿素窒素はその指標となる。腎臓の機能の低下は早いうちであれば回復可能だが、手遅れになると透析を行なわなければならなくなり、移殖以外腎機能の回復の見込みがない。そういった意味で早期発見が必要だ。そのためにゾメタ使用中は定期的な腎機能検査が不可欠だと言われている。

またゾメタなどを使用している患者の抜歯を行うと、顎骨壊死があるので注意しなければならないと書かれている。歯科治療の際には、必ず歯科医にゾメタ使用の事を伝え、治療中はゾメタの使用を中止しなければならない。また口腔内の汚れも、顎骨壊死に関連することもあるらしい。

製造販売元のノバルティスのHPには、ゾメタの投与前は患者の口腔内の状態を注意深く観察し、歯及び歯の周囲の感染を調べる為に、レントゲン撮影を含めた臨床検査の定期的な実施が推奨されるとあった。

私がゾメタを使用し始めた時は、主治医から一切歯のことについて言われなかった。退院後、半年に一度、歯の定期点検を受けて、歯垢の除去などをやってもらっている。たまたまゾメタを始める前に点検を行なったばかりだった。良く効く薬はそれだけ副作用も強烈なので十分注意が必要だと言う事だ。そういったことにも頭を悩まさなければならないのもしんどい話だ。

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バルザック 『知られざる傑作』

2月16日(月)
本の整理をしていて、岩波文庫の昭和42年発行の本があった。今から40年前のものだ。バルザックの『知られざる傑作・他5編』の短編集だった。昔読んでどんな感想を持ったかも全く覚えていない。これも読んでみる事にした。

51_.jpgSTORY:マビューズの唯一の弟子であり、たぐい稀なる才能を持った老画家が、自らの畢生の大作として、十年の歳月を傾けて日々修正に修正を重ながら一枚の絵を制作し続けてきた。しかし、結局は理想としての美に人間の力量はどこまでも届くことは叶わず、ついに自分の無力を痛感してこれまで描き上げた多くの作品とともに、炎の中に自らも身を投げていく。

実在の人物を登場させているので時代の雰囲気が伝わってくる。マビューズ(Mabuse / Jan Gossaert, Gossart 1478?-1533/36)、ポルビュス(Frans Pourbus 1577-1622)、ニコラ・プーサン(Nicolas Poussin 1594-1665)の3人が登場する。若き日のプーサンに対し老天才画家フレンホーフェルが、芸術とは何か、絵画とは何を表現するのかと次々と問題を投げかける。

フレンホーフェルは語る。
「芸術の使命は自然を模写することではない、自然を表現することだ。君はいやしい筆耕ではない、詩人なんだ。
彫刻家はその(人の)手を正確に写しとることはしないが、その動きと生命を、君に彫り上げてみせるだろう。われわれは事物の精神を、魂を、特徴をつかまえなくてはならない。」(岩波文庫・水野喬訳)

理想と現実、自然と人間。そのどこまでも遠く離れた隔たりに、一人の天才は絶望の呻きをあげる。それは美に限りなく近づくことはかなうけれど、でも美そのものに至りつくことはゆるされない人の限界への嘆息。そして美のイデアに魅了されつくして、ついには人間性の極限にぶつかって、感情も理性も失ってしまう。芸術を自然の模倣という呪縛から解き放とうとしているその信念の下、彼は一枚の女性の絵を描いているのだが、それは他人の目から 見れば凡そ女性の姿をしていなかった。結局、理想を達成できなかったことが分かった画家は、自殺してしまう。(ブログ「隠れ蓑」Penseurより)

芸術が単なる自然の模倣ではないことは誰の目にも明らかだろう。20世紀の芸術家たちの格闘はそこから始まった。だがそれはバルザック(フレンホーフェル)が本の中で語り主張し、想定した芸術かというと必ずしもそうではない。自然をどのようにとらえるのか。その格闘はセザンヌによって切り開かれた。

セザンヌ以前、画家は山や、木やリンゴや人体を、いかにも眼前にそれがあるごとくカンヴァスというスクリーンに映し出す映写技師であった。自然を模倣し、自然に従属する絵画であった。しかしセザンヌの画面は、そういう自然の"模写〃ではない。自然は「人問にとって、その表面にあらわれているものよりずっと奥深」く、いっぽう絵画は「彩色された平面」にすぎない。自然を見、自然から感じとったものを、どう画面に定着させるか。がセザンヌの終生のテーマであった。( BLUE HEAVEより)

セザンヌは語る。
「自然を円筒形と球形と円錐形によって扱いなさい。自然は平面よりも深さにおいて存在します。そのため、赤と黄で示される光の震動の中に空気を感じさせる青系統を入れる必要性があるのです。」

セザンヌの考えは多くの画家に影響を与えた。ジャコメティは言う。
「対象を忠実に眼に見えるとおりに描く仕事は、何の基準も持たず、人間の理解を超えた巨大な自然に向うことであり、不条理な状態に留まることだ。こんな不条理な仕事は果たして試みるに値するだろうか」

バルザックが『知られざる傑作』を書いたのが1832年だ。この頃はまだ写実主義を掲げる宮廷画家が主流だった頃だろう。そういった時代にこの小説に出てくるような芸術論を展開するとは大したものだと驚いてしまう。恐らく当時、写実主義に飽き足らず様々な試みが既に始まっていたのだろう。それが潮流となり、芸術運動として開花するのは20世紀になってからなのだが、19世紀の試行錯誤が20世紀の芸術を生み出す原動力になったのだろう。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

サマセット・モーム 『雨』

2月15日(日)
昔読んだ本の整理をしていた。本はいつの間にか増えていく。本箱が一杯になり古い本を整理しようと思って点検し始めた。何時もこの仕事を始めると途中で挫折する。何十年前に読んだ本を再び読みたくなってしまって決して片付くことがない。

サマセット・モームの『雨』が目に留まった。そして読み始めた。短編だということもあってとっつきやすかった。

1.gifSTORY:狂信的な布教への情熱に燃える宣教師・デイヴィドソンが、任地へ向う途中、検疫のために南洋の小島に上陸する。彼はここで同じ船の船客であるいかがわしい女・トムスンの教化に乗りだすが、重く間断なく降り続く雨が彼の理性をかき乱す・・・。

聖職者と娼婦という対比の仲で、何が善であり、何が悪であるかを問い、又理性と本能の葛藤を、最後の宣教師の人間的破綻を通して描き出している。

デイヴィドソンは南海のサモア諸島でキリスト教の布教のため全身全霊、身を粉にして活動する。しかしそれは欧米的価値観とキリスト教的倫理を現地人に強制するものでしかない。彼は現地人について言う。

「何しろまったく生まれつき堕落している連中ですから、自らの悪を悟る事ができない有様でした。彼らがあたりまえの行為と思っているものを、罪と意識させてやらなければなりませんでした。姦淫、嘘、盗みなどはもちろん、肉体を露出すること、ダンス、教会に来ないこと、皆罪と悟らせねばならなかった。娘が胸を見せるのも罪、男子がズボンをはかないのも罪と私は教え込みました。」
「どういうふうにしてです?」
「罰金を定めたのです。さらに教会員の籍から除名する手もあったのです。」
「除名されると何か困るんですか?」
「コプラが売れなくなるのです。魚をとっても分け前がもらえません。つまり餓死寸前という事になります。」(岩波文庫、朱牟田夏雄訳)

かってヨーロッパ諸列強が植民地拡大にしのぎを削り、まず、軍事的に支配し、そして次に精神的に従属させる為に宣教師を派遣し、キリスト教的価値観と文化を原住民に強制し、現地で受け継がれてきた独自の伝統や文化を根こそぎ解体して行ったのである。そのようにして物理的にそして精神的に従属を強制していったのである。

宣教師たちは自分が植民地支配の片棒を担いでいるなどとは誰も自覚していなかっただろう。キリスト教の教えを世界の隅々まで広げていくという、問題意識で困難な布教活動のため世界中に派遣されていったのだろう。

宗教というものの持つ独善主義は、キリスト教的価値観の現地住民への強制を必然的に伴うものである。それによって現地の風習や文化を破壊する事になる事には全く無神経である、いやむしろそういった文化を悪として排斥する事を目的意識的に進めて来たのである。宣教師たちは神の御心として、善意としてそれを遂行していった。自分以外の世界を認めず、自分の主義にあわぬ者を軽蔑し断罪していったのである。「地獄への道はいつも善意で満ちている」のだ。

現在のアメリカの一国覇権主義はキリスト教の流れのような気がする。イラク戦争、アフガニスタン戦争を積極的に推進してきたブッシュ大統領はキリスト教右派への揺るぎない信仰の持ち主であり、彼の政治家としてのキャリアは、共和党の中心的な支持基盤であるキリスト教右派の票を確実に取り込んでいくことで築かれて来た。ブッシュの侵略戦争遂行はキリスト教右派の方針に従ったものでしかない。

十字軍から始まり、延々と続く宗教戦争の歴史を見れば、キリスト教がどんなに信仰と善意の様相を呈しながらも実は世界支配を目指す覇権主義に裏打ちされた教義でしかないとしか思えない。もちろんキリスト教にも色々な流派があるが本質的には独善主義であり、排外主義である。

『雨』という作品は、善意とは何かをと問うていると思う。デイヴィッドスンは、善意から娼婦の教化に乗り出す。しかしそのやり方は彼女を傷つけ、苦しめるものでしかなかった。彼は自分の心にひそむエゴイズムや優越感に気づかず、その独善主義のために他人が傷つけられ、不幸になっていることに無神経であり、自分の教義を他人に強制することを自らの任務と信じて疑わなかったし、自分の行為に何ら疑いを持つ事はなかった。

確かに善意は他人を救うためにも必要だろう。しかしそれは一方的な押し付けや強制ではなく相互の信頼関係があって初めて成立するものである。

人間は理性と本能の間で揺れ動く存在だ。デイヴィッドスンもトムスンも、外面的なものこそ違え、人間的本性といった点では、それほど変わる所は無い。モームはこの小説の中で、聖職者と娼婦という極端な存在を対比させながら、最後の宣教師の人間的破綻を描き出すことによって、人間の本質、弱さ、そしてその弱さを許す心の必要性を訴えているのではないか。

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医者との関係の難しさ

2月10日(火)
多くの人は様々なしがらみの中で身動き出来ず、そこから逃れる術を自ら閉じてしまい辛く苦しい日々を耐えながら送っている。そのような人生から逃れたいと渇望しながらも、逃れる道はありえないと思い込んでしまい、今の生活から抜け出す事ができない。

患者会で、初めて参加した30歳少し前の女性が、皆に医者との関係をどうしたらいいのか相談に来た。彼女はきわめて珍しい皮膚の悪性リンパ腫と診断された。今治療を受けている病院の主治医は皮膚科の医者だ。

主治医から、まずこの病気は治らない病気だと言われた。治療はリンパが腫瘍化した段階で抗がん剤治療を始めるが、今の所待機療法としてプレドニンの服用とステロイドの軟膏を塗るという処置を行なっている。果たしてそういった治療でいいのか疑問を持っている。

主治医に血液ガンの専門病院に移りたい旨言った所、主治医はそれを認めてくれない。彼女の症例は極めて珍しく学術的興味で留め置きたいようだ。彼女はそれ以上医者に言えない。

家族関係も色々ある。4歳の娘がいて、母親の不安が子供に移るのだろう片時も母親の側を離れようとしない。ただ実家の祖母には懐いている。彼女は治療に専念するため、実家に引っ越したいと思っている。体調が悪く子供の面倒を見られない時もたびたびある、そういった時に、実家であれば安心だし、また親に子供を預けて治療などのための外出など自由に動く事が出来る。実家に引っ越したいと夫に言った所、それなら離婚だと言われた。今はある意味、医療費を含めた経済的理由で夫と一緒にいるようなものだ、と言っていた。

親の知り合いに医者がいる。その医者が免疫を強化するという注射を行なっている。親はその医者の言うことを完全に信じ込んで、娘に必ず注射をするようにと強要してくる。1回2万7千円と高額だ。以前は週1回やっていたが、経済的に2週に一度にした。あまり効果がないので止めたいと親に言うとガンで死んでもいいのかとあくまでも続けることを強制してくる。止めたら親との関係が壊われかねないので止むを得ず継続している状態だ。

主治医との関係、親との関係、夫との関係全てが彼女にとってのストレスになっている。逃れようと必死になって道を探そうとしているが、底なし沼のようにどんどん深みにはまっていくように抜け出られなくなって来ている。

病気で苦しんでいる妻を見捨てて離婚を言う夫がいるということは驚きだ。去年9月千葉で集会があり、そこでの女医さんの話しの中にもあった。がんを宣告されこれから治療を始めなければならない、子供達の面倒をよろしくお願いします、と夫に言った所、子供の面倒を見るつもりはない、離婚すると宣告されたそうだ。気丈な彼女はさっさと夫と縁を切って実家の母親の協力で治療にあたったという話があった。

世の中にはそういう男もいるのかとつくづく思った。病気になった相手とどういう関係を持っていけるのかが、関係の本当の姿を露にしていくのだろう。がんなどの病気は中途半端な人間関係を壊してしまう。逆に本当の人間関係を作る事が出来るのだろう。病気は人生を良くも悪くも変えていくのだろう。

さて、話を戻すと患者会での彼女の問題提起に対しての皆の答えは、セカンド・オピニオンを受けるべきだということだ。納得して治療を受ける事ががん治療の最も基本的なあり方だ。そういった意味で今納得した治療を受けてはいない。

別の医者の診断を受けても同じような治療法が提示されるかもしれない。しかしそれによって自分が受けている治療に納得できればそれが重要である。たとえ治らない病気であってもこれからどのような治療を受けていくのか、がんと共生しながらどのような人生設計を持って生きていくのか、それは納得した治療があって始めて見出せて行くものだろう。

そういった意味で、まず何よりも必要なのは、納得した治療のために悪性リンパ腫の専門病院でのセカンド・オピニオンを受ける事ではないかと思う。。

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金沢・永平寺・山中温泉の旅-2日目、3日目

2月2日(月)~2月3日(火)
月ウサギの里
永平寺を後にして、福井北ICに向かう。高速入口付近の5、6kmが中部縦貫自動車道のごく一部となっている。北陸自動車道に入り加賀ICで降りると直ぐ次の目的地「月ウサギの里」である。

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加賀の月ウサギ伝説というのがある。「昔、ある役人が一匹のウサギを助ける。その秋加賀一体は大雨が続きこのままだと大飢饉になる所であった。そんな時、役人の所に助けたウサギが現れる。するとさっきまで降っていた雨はやみ、夜空には月が。その年村は大豊作となった。それ以来この辺りでウサギは月を呼ぶ“運(つき)を呼ぶ”とされた。」

月ウサギの里に入るとウサギが放し飼いにされている。子供たちがウサギと戯れ遊んでいる。周りの建物は蔵造りで統一されている。しかしここでの目的は加賀のみやげ物を買わせることにあるのだろう。大体パックツアーは旅行会社と観光協会と土産物屋の三者の関係で成り立っているので、必ずルートに土産物屋が組み込まれており連れて行かれる。

ショッピングエリアはかなり広いスペースで、ウサギグッズがあるのは当然だが、輪島塗の食器や箸、地酒、地元の銘菓、漬物など加賀名産は何でも揃う。ここに30分ばかりいて、次に九谷焼の販売店に寄った。ここでは輪島復興に向けた援助ということで輪島塗の箸3本セット350円で売っていた。皆あまり九谷焼の商品は買わなかったようだがこの箸は買っていた。

山中温泉・鶴仙渓
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九谷焼の店から30分位で山中温泉に到着した。時間が早かったので、山中温泉お勧め散策コースの「鶴仙渓」の自然遊歩道を行くことにした。これは泊まっている吉祥やまなかから2、3分の所から始まる川沿いの遊歩道だ。「黒谷橋」から「こおろぎ橋」に至るまでの約1.3Kmの区間を指す。「砂岩の浸食によって数多くの奇岩が見られる景勝地であり、南北に長い山中温泉街と並行し、温泉客の散策地となっている。 鶴仙渓は明治時代の書家、日下部鳴鶴が好んだ渓谷に由来している。」という渓谷だ。

40分ばかりかけて川沿いの道を渓谷美を楽しみながら散策する。こおろぎ橋(下の写真)を渡って、帰りは温泉街を宿泊場所まで戻る。ゆげ街道を進んでいくと途中共同浴場である「菊の湯」や「山中座」などがある。山中温泉は芭蕉が立ち寄り幾つかの俳句を残しておりその句碑が所々にあり、芭蕉堂や芭蕉の館などが建てられている。芭蕉ゆかりの地である。

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夕食は、こういったパック旅行から考えて、予想はずれの豪華なものだった。かにが一匹まるまる出た。昨日バスで添乗員が、夕食で加賀料理を食べに行く場合、かにを一匹頼むと1万円はかかるだろうといっていた。それが出たというのは驚きだ。それ以外に和食のコース料理だ。さらに、刺身、天ぷらは追加注文が出来るというものだ。

かなりの量だったが、肉類は、鴨と野菜の炊き合わせで一切れ出ただけで、全体的にあっさりしていたので全て平らげてしまった。又冷酒を注文したが、何とこれが期待していた「獅子の里」だった。口当たりがよくさっぱりしており、精進料理的な和食にぴったりだったのでの少し飲みすぎてしまったようだ。

体調の悪化
体の異変は夜中の12時頃から始まった。少しうとうとしていた。急にお腹が痛くなり、トイレに駆け込んだ。それからずっと1時間に一度位トイレに行くことになり全く眠れなかった。そして、体力の消耗がどんどん進んでいった。起き上がるのも一苦労だというようになってきた。朝方になると今度は吐気まで襲ってきた。幾ら何でもこの体の状態で、観光バスで旅行を続けることは出来ないと判断せざるを得なかった。

8時出発で、途中白川郷で2時間ばかり降りるが、それ以外18時まで8時間位バスに揺られていくことになる、さらに上田から新幹線で帰らなければならない。健康でもかなりハードな行程である。添乗員に理由を話しツアーから外してもらった。又旅館にはチェックアウトの11時まで休んでいることを了承してもらった。

どういう方法で帰るのが一番体に負担がかからないか考えた。加賀温泉までバスで出て、北陸本線で米原へ行き、新幹線で東京駅へというコースで行くか。小松空港までバスで行き、そこから羽田に飛ぶという選択だ。運賃はほとんど変わらない。飛行機だと飛んでいるのは実質45分だ。なるべく乗り物の揺れは避けたい。結局、飛行機で行くことにした。フロントに小松空港に、羽田行きの便の空き具合を聞いてもらった。かなりの空きがあるということだった。

2月3日・小松空港から東京に戻る
11時チェックアウトの時間。体はふらふらして力が入らない。吐気はまだ収まっているわけではない。下痢はいつぶり返すか分らないという悲惨な状況であったが、何時までも留まっている訳には行かない。フロントに行くと親切にも、ホテルの車で小松空港まで送ってくれるというのだ。車で直行すれば30分で着けるとのこと。体の状態に問題があっても30分なら耐えられそうだ。

かくして小松空港から飛行機で羽田まで飛び、途中、下痢や吐気にさいなまれることもなく家に無事帰り着けた。結局格安パックはかなり高いものについてしまった。

何故こんなことになってしまったのだろう。恐らく自分では体力的に大丈夫だと思っていてもかなり体に負担をかけていたのではないか。1日目の6時間ばかりのバスの旅、2日目の早朝の兼六園、バスツアー、夕方の鶴仙渓散策でかなり体力を消耗している段階での暴飲、暴食がこういった結果を生んでしまったのだろう。

やはり、体力の回復は十分に出来ていないということを改めて認識せざるを得なかった。旅行に出掛けてそれなりに気を張っているので気がつかなかったが、体は正直で体力の消耗が胃腸の機能を衰えさせていたのだろう。自分の体力の状態に応じた行動に心がけていかなければならないとつくづく感じた。

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金沢・永平寺・山中温泉の旅-2日目

2月2日(月)
曹洞宗大本山永平寺
『禅』という映画をやっていた。道元禅師の事を描いた映画だということで、永平寺にいく前に見ようと思ったが近所でやってなかったので見る機会を失ってしまった。その予告編の冒頭が次のような言葉で始まっている。
 
 春は花
 夏ほととぎす
 秋は月
 冬雪さえて涼しかりけり


この意味する所は「あるがまま」ということらしい。道元の教えは、ただ、ひたすら坐る(只管打坐)ことがそのまま本来の自己を現じている(修証不二)としている。

永平寺略歴:今から約750年前の寛元2年(1244)道元禅師によって開創された「日本曹洞宗」の第一道場で出家参禅の道場です。境内は約10万坪(33万平米)、樹齢約700年といわれる老杉に囲まれた静寂なたたずまいの霊域に、七堂伽藍を中心に70余棟の殿堂楼閣が建ち並んでいます。

永平寺の開祖道元禅師は24歳の春、師明全とともに中国に渡り天童山の如浄禅師について修行し、悟りを開かれて釈迦牟尼仏より51代目の法灯を継ぎ、28歳のときに帰朝されました。帰朝後京都の建仁寺に入られ、その後宇治の興聖寺を開創されました。

寛元元年(1243)鎌倉幕府の六波羅探題波多野義重公のすすめにより、越前国志比の庄吉峰寺に弟子懐弉禅師(永平寺2世)等とともに移られました。翌2年、大仏寺を建立、これを永平寺と改称し、のちに山号を吉祥山に改めて、ここに真実の仏弟子を育てる道場が開かれました。(永平寺ホームページより)


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観光バスは、市内で分宿している外の2つのホテルを回ってツアー客を乗せ、金沢を出発し、北陸自動車道で福井北ICまで行く。そこから永平寺町を通り、永平寺参道の入口で駐車する。そこから、両側を土産物屋で囲まれた参道を寺院に向かって登っていく。

山門があるがここからは入れない。この山門から出入りする事が出来るのは2回だけ。修行を求めてきた僧が入山を許されて入る時と修行を終えて出て来る時だけである。修行を求めてきた僧は、山門で中に声をかける。しかし中々返事がない。返事があって出てきてもすぐに中にはすぐ通してはくれない。時には半日、一日中門前で待たなければならない。この山門は「日本曹洞宗第一道場」の勅額が掲げられた楼閣で永平寺最古の建物というだけあって古色蒼然とした佇まいだ。

通用門から入り、吉祥閣という総受所で入館手続きをして、その2階で僧侶の永平寺についての説明を聞くことになる。通常この説明はないが、観光バス客で一定の人数が集まったということで特別にやってくれたそうだ。永平寺の略歴と、建物の説明が行なわれた。拝観通路は基本的には七堂伽藍を巡ることになる。

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この諸堂の中でも特に七つの堂宇は「七堂伽藍」と称され、日常の修行に欠かすことの出来ない重要な建物となっている。禅宗建築では、山門、仏殿、法堂、僧堂、庫院、浴室、東司の七つを挙げて七堂伽藍と呼んでいるという。

この日は僧堂で僧侶の修行が行なわれており近付く事ができなかった。今でも150名の僧侶たちによって、道元によって定められた厳しい作法に法って禅の修行が営まれている。この僧堂と浴室、東司が一切の私語が禁止されている三黙道場となっている。大庫院は僧侶が食事を作るという修行を行なう所、いわば台所だ。日常生活の一挙手一投足が修行に繋がっている。

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老杉の巨木に囲まれた荘厳な雰囲気の中、道元禅師の教えは750年の時を超えて脈々と受け継がれてきている。曹洞宗の末寺は全国に1万5千あり、檀信徒は800万人と言われている。

一通り拝観順路を巡り、永平寺の全景を知ることになる。しかし修行をしている僧侶も、観光客がぞろぞろざわざわと大量に押しかけて来ている状態では落ち着いて修行が出来るのだろうかとも思ってしまう。それは凡人の考えなのかもしれない。雑音があればあるほど自分の心の中に深く入り込んでいくそういったのも修行の一つなのだろう。

永平寺を後にして参道を京福電鉄永平寺線の永平寺駅の方に下っていくと観光バスの駐車場があり、土産物屋件食堂があり、そこでオープションの昼食を取れることになっている。精進料理だ。食事を終えみやげ物を物色しながらバスの出発時間まで時間を潰す。

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金沢・永平寺・山中温泉の旅-2日目

2月2日(月)
朝の兼六園
朝早く目が覚めたら行こうと思っていた兼六園であった。昨日は早く寝たせいか6時には目が覚めた。ホテルを6時30頃出た。まだ真っ暗だった。兼六園は駅からはかなりあるのでタクシーで行く以外ない。その点ホテルが駅前だから駅に出ればタクシーは直ぐ捕まる。

タクシーの運転手は、兼六園の無料開放は8時からだと言っていた。しかしともかく行ってみることにした。確かにタクシーが停まった桂坂口の門は閉まっていた。そこから茶店通りという土産物屋や喫茶店がある通りを進み、蓮池門口まで行くと、警備員がいてそこから入れるようになっていた。

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兼六園の由来:六勝とは、[宏大(こうだい)][幽邃(ゆうすい)][人力(じんりょく)][蒼古(そうこ)][水泉(すいせん)][眺望(ちょうぼう)]のこと。宋の時代の書物『洛陽名園記(らくようめいえんき)』には、「洛人云う園圃(えんぽ)の勝 相兼ぬる能わざるは六 宏大を務るは幽邃少なし 人力勝るは蒼古少なし 水泉多きは眺望難し 此の六を兼ねるは 惟湖園のみ」という記述がある。すばらしい景観を持した庭園として賞された湖園。兼六園は、この湖園に似つかわしく、六勝を兼ね備えているという理由から、文政5年(1822)、奥州白河藩主・松平定信によってその名を与えられた。

相反する景観を調和させ、対象の美を演出したそれが兼六園というわけだ。水戸偕楽園、岡山後楽園とならぶ日本三名園の一つとして数えられている庭園である。

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まだ薄暗い庭園を回ってみる。兼六園名物の雪吊りの木々がある、雪吊りとは雪害から樹木を守る北陸の風物詩となっているということだ。しかし雪は庭園にはほとんど残っていない。眺望台からまだ明けやらぬ金沢の町が見渡せる。金沢を囲む山の端から、朝日がそろそろ昇り始める。医王山の山肌から朝日が姿を見せ始めた。辺りが徐々に明るくなり庭がその相貌を鮮やかに示し始める。冬の朝のすがすがしい大気が頬をよぎる。

この庭園は築山・林泉・廻遊式庭園と言われている。廻遊式とは、寺の方丈や御殿の書院から見て楽しむ座観式の庭園ではなく、土地の広さを最大に活かして、庭のなかに大きな池を穿ち、築山を築き、御亭や茶屋を点在させ、それらに立ち寄りながら全体を遊覧できる庭園であって、散策しながら庭を楽しむための色々な工夫がされている。

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ただこの庭の作庭における基本的な思想は、神仙思想であって、藩主たちは、長寿と永劫の繁栄を庭園に投影した。瓢池に蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛州(えいしゅう)の三神仙島を築き、霞ヶ池に蓬莱島を浮かばせているといったことに表されているテーマが庭全体を貫いている。そういったものとして池や橋や木々の一つ一つが意味を持っている配置されている。その造作の巧みさに感心しながら庭園巡る。

兼六園を8時近くまで巡り、ホテルに向かった。戻り道タクシーの運転手が、金沢の中心的繁華街である香林坊や、金沢市民の多くが初詣に行く変わった建物がある尾山神社や官庁街を案内してくれた。ホテルに戻り、お馴染みのバイキング朝食をとり、バスの出発に間に合わせた。

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飛騨高山・金沢の旅-1日目(続き)

2月1日(日)
高山の市内にバスは進む。高山別院という寺院の境内が駐車場になっていって、何台もの観光バスが止まれるほどのスペースがある。ここに3台のバスが次々と到着する。高山は色々見るところがある。しかし時間は1時間。目的地は古い町並みが残る上三之町で、添乗員が高山別院から上三之町の入口まで案内してくれる。その周辺を回ってもいいし、急げば高山陣屋まで行って来られる。ただし高山祭りで使われる屋台が陳列されている屋台会館に行く場合は、全く別行動を取らなければならない。

飛騨高山、小京都と呼ばれる町を味わうにはやはり国選定重要伝統的建造物群保存地区である古い町並を散策するのが最善だろう。

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城下町の中心、商人町として発達した上町、下町の三筋の町並みを合わせて「古い町並」と呼んでいる。出格子の連なる軒下には用水が流れ、造り酒屋には看板ともいわれる杉の葉を玉にした「酒ばやし」が下がり町家の大戸や、老舗ののれんが連なっているという。

日曜日だということもあって、上三之町はかなりの人手で賑わっていた。「酒蔵めぐりマップ」を添乗員から配られていて、それを見ながら酒蔵を巡り、試飲をして回るのもいいのではないかと思い歩き始めた。

町並みは趣があり新らしく建てる場合でも厳しい規制がされているのだろう。NTT西日本の事務所の入口も古い木造の他の建物とマッチした作りになっているのが面白かった。古い町並みと言っても、昔からある建物もあるが昔風に近年立てられたものも結構あるような気がする。ただ造り酒屋だけは昔からの古い建物であるようだ。

ほとんどの建物が、土産物屋や飲食店でそこで暮しているという生活の場ではない。町にある10数件の造り酒屋が持ち回りで、酒蔵を公開し無料見学を受付けている。この日は平田酒造場という所で、入場すると店員が工場内を案内し酒の生成過程を説明してくれる。最後にその店の看板商品の試飲をさせてくれる。さらに試飲した時に使用したぐいのみをプレゼントされた。しかしそこでは酒は買わなかった。

しばらく前にWOWOWOで加賀の酒という内容で、3人の若者が色々な変節の結果、親の酒造を引き継ぎ、本当にうまい酒造りに心身を傾けていく様が紹介されていた。その酒造と作り上げた酒は国龍酒造の国龍、松浦酒造の獅子の里であった。

山中温泉が印象に残っていたのは松浦酒造の事があったのだろう。「山中温泉では昔、湯治客を接待する湯女達のことを”獅子”と呼んでいたことから、酒名を”獅子の里”と名付けました」ということだそうだ。折角山中温泉に行くのだから買うなら“獅子の里”にしようと思っていた。

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結局、酒造場回りをして、古風な喫茶店でコーヒーを飲んで、上三之町から二之町、一之町を巡りバスに戻った。

高山から金沢への道は、一部開通している中部縦貫自動車道(高山清見道路)から東海北陸自動車道を通り、小矢部で北陸自動車道に合流し金沢へ向かう。中部縦貫自動車道はやがては、白山国立公園を突っ切って北陸自動車道の福井北ICに合流する予定だと言う。

現在、中部縦貫自動車道と名付けられているのは安房峠道路と高山清見道路と、福井北IC近くの5,6kmの所だ。果たして本当にこの道路が膨大な金をかけて建設する必要があるのだろうか。この道路によって、松本から158号線を経て、高山そして福井を結ぶ事が出来るがそれが産業の発達に繋がるのだろうか。

道路特定財源を消化するために作ろうとしているのではないかと思えてくる。バスは中部縦貫道から東海北陸自動車道に入る。日曜だからか、平日ではどうか分らないがすれ違う車や前後の車はほとんどない。採算がとれなくても必要な道路はあるだろうがこの道路が本当にそうだろうか。

何年か前に、北海道旅行に行った時に、足寄から十勝清水まで道東自動車道を走った事がある。最初少し車はいたが、帯広ICを過ぎた辺りから、全く車が通らず時速100km以上で飛ばしながら、段々暗くなるし心細くなってきた覚えがある。アクセルを目一杯踏みっぱなしで3時間たっても4時間立っても高速道路の出口にたどり着けない。まさに北海道の広さを痛感した。

この道路は獣しか通っていないと揶揄された道路で、鈴木宗男議員の地元足寄からの道路だということもあって「宗男道路」と呼ばれていると聞いたことがある。こういった道路が議員の利権からか、道路特定財源を使いきろうとする国土交通省の役人の考えからかひたすら作られていくのに対して、福祉がどんどん削られていく現状は、道路を有り難く利用させてもらいながらも考えてしまうのである。

そうこうしているうちにバスは宿泊場所の金沢セントラルホテルに着いた。このツアーでは3つのホテルに分宿する。その最初のホテルで下車した。駅から3分という所にある。名前はともかくも単なるビジネスホテルだ。明日の停まる場所が豪華だからそれと比較する意味で今日はこういった場所にしたと添乗員は説明した。

夕食は各人勝手に食べる事になっている。2月6日以降は兼六園がライトアップされ夜間入場が可能となる。またライトアップバスなるものもあり夜間観光も出来るがまだそれは始まっていなかった。ただ朝6時から兼六園は8時まで無料開放しているということだった。兼六園に行くなら朝行く他ない。バスの出発時間は9時だから時間はたっぷりある。折角金沢に来て何処も行かないのではあんまりだと思う。

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飛騨高山・金沢の旅-1日目

2月1日(日)
パック旅行というのは一度も行った事はなかった。パック旅行はともかく安い、格安パックだと新幹線往復料金位で2泊3日の旅行が出来る。今回目に留まったのは阪急交通社の「世界遺産白川郷・古都金沢・飛騨高山3日間」という企画だ。

冬の雪に覆われた兼六園や永平寺、白川郷などは中々見応えがあるだろうと思う。冬でなければ見る事ができない風景だ。ネットで申し込んでキャンセル待ちだったが取れてたので行くことにした。パック旅行が思ったよりハードだということは後で知ることになったのだが、その時は全く気がつかなかった。

旅行スケジュール
1日目 9:20東京駅発-あさま511号-10:52上田着-観光バスに乗り換え-アルプス街道平湯で休憩-飛騨高山-18:00頃、金沢セントラルホテル着
2日目 9:00ホテル発-曹洞宗大本山・永平寺-月ウサギの里(ショッピング)-九谷焼-15:00頃、山中温泉・吉祥やまなか着
3日目 8:00旅館発-金沢伝統・金箔工芸館-白川郷-上田駅18:01発-東京駅19:32着


出発時間もゆっくりで楽だ。8時50分に東京駅集合となっている。集合場所に行ってみると、バス単位で1号車~3号車まで百数十人が集まっていた。添乗員の案内でホームまで行く。このパックは、最初の日は金沢市内のビジネスホテル泊まり、朝食付き、2日目は山中温泉旅館で朝晩食事付きとなる。それ以外は自分で調達する。

東京駅で上田行きのあさま号を待つ間駅弁を物色しに行った。東京弁当というのがあった。不断買い物では10円20円でも安いものを買おうと思うが、なぜか旅行の時は奮発してしまう。そこで大枚出して買ってみた。東京駅限定というのにも惹かれる。これ以降東京駅で駅弁を書くことなど決して無いだろうから。見た目は普通の幕の内弁当なのだが、何故東京弁当と言うのか。人形町魚久の鮭の粕漬け、浅草今半の牛筍煮、築地青木の玉子焼き、大増の野菜の煮物など東京老舗の味を積め込んだ弁当というわけだ。

上田までは1時間半で直ぐ着いた感じだ。上田で3台の観光バスに分乗し、高山に向かう。上信越自動車道から長野自動車道に入り松本から野麦街道(158号線)を松本電鉄に沿って進む。松本電鉄は新島々で終わる。ここら辺りから山間部の峻厳な風景に変わる。雪が辺りを覆いつくしている。山頂辺りは雲っていて雪が降っているのではないかと思われる。

nagawadodam002.jpg

稲核ダム、水殿ダム、奈川渡ダムと3つのダムを経てそのダム湖の周辺をバスは進む。奈川渡ダム(上の写真。Damnistホームページより)は黒部ダムに匹敵する標高差があるという。その天端を国道が通っているという珍しいものだ。右にダムの斜面が155mの断崖絶壁になっており、反対側が穏やかなダム湖になっているという風光明媚なところだ。

そこからしばらく行くと二股に分かれ、上高地方面は冬季通行止めになっているが、高山方面は安房峠道路の開通で、岐阜県飛騨地方と長野県の間が年間を通して行き来できるようになっている。特に、飛騨地方ではトンネルの開通を「第二の夜明け」と喜んだほどだ。道路はほとんどが湯ノ平トンネルと安房トンネルの2つのトンネルで占められている。

トンネルを抜けると、平湯温泉に着く。「アルプス街道平湯」のパーキング(下の写真)だ。ここで休憩となる。ここには温泉とスキー場があるが、スキー場は日曜でも空いているらしい。確かに何処からも遠い。ここも大きなお土産屋となっている。売店に列を作っていた。何だろうと見てみると飛騨牛コロッケだと書いてある。飛騨牛と名乗っていいのだろうかと疑問には思ったが、熱々の揚げたてコロッケは食ってみた。

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山間の雪道を温泉街やスキー場を見ながらバスはゆっくりと走り、飛騨高山に約30分で到着した。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

定期検診の日

2月4日(水)
2週間一度の定期検診の日。血液検査の結果は以下の通り。

検査結果

  IgM   1564←1605←1518
  白血球   2.2←1.6←3.0
  血小板   10.5←15.4←12.2
 ヘモグロビン  12.0←11.7←11.0


サリドマイド+エンドキサン+デカドロンの組み合わせはまだ効果を発揮しているようだ。IgM値は再び下降した。このまま効き続けてもらいたいものだ。白血球の減少について医者に聞いてみたが「しょうがないでしょうね」と取り付く島もなく終わってしまった。エンドキサンが効果を上げている限り若干の骨髄抑制は止むを得ないことだろう。

友人の状態-帯状疱疹
友人の見舞いに行った。彼は帯状疱疹になって、個室に移され3、4日して症状が治まったら、今度は6階の病棟から7階に移された。帯状疱疹は外部からの感染ではなく、水痘ウイルスが神経節の中に潜伏していて、免疫量が弱っている状態の時に、それが活性化し発生する。その限りで個室にまで隔離するというのはなかなか徹底しているなと思った。同じ病院でも扱いが違う。

確かに帯状疱疹としてではなく水痘として感染はあるという。飛沫感染ではなく接触性の感染であり、水痘にかかったことのない子供には注意が必要である。もちろん水痘にかかったことのない成人に対しても同様である。とりわけ妊婦への接触は避けるべきである、と言う注意はあったが、ただ水痘に比べて感染力は弱いであろうから一般には他人に感染することはないということであった。

私の場合は病室もベッドも移動することは無かった。血液内科では帯状疱疹はいわば日常的な出来事のように扱われていたからかもしれない。多かれ少なかれ誰でもなるような一般的な取り扱いで処置されていた。

抗がん剤治療
本当は先々週見舞いに行った時、先週の月曜日から抗がん剤治療をする予定だと聞いた。それが帯状疱疹で延期された。帯状疱疹になっても抗がん剤治療は行なえるとは思うが医者が何を考えているかは分らない。それに一番イラついているのは患者本人だろう。

来週にはまた6階の部屋に戻ると言うが、そこで抗がん剤治療が始まればいいが。既に入院して4ヶ月になろうとしている。とりあえず放射線治療をやって局所的に腫瘍の縮小を図ってきたが、リンパを含め全身に転移しているがん細胞を殺すには抗がん剤治療しかないが、まだ一向に開始されていない。確かに抗がん剤で意識を失ったという事で医者も慎重になっているとは思うが、ただただ病院で無為な日々を暮しているのも楽ではないとだろう。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

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がん治療とは長く細い道を辿ら
なければならない。その先に希
望があると信じながら。

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