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映画 『シッコ』

3月31日(火)
『シッコ』(病人)と言う映画をWOWOWで放映していた。見たかった映画だったが、何回かやっていたのだが見る機会がなかった。やっと見ることが出来た。

D112357202.jpgあらすじ: ドキュメンタリー監督マイケル・ムーアが、保険料を支払っているにもかかわらず、保険会社の利益優先によって保険支払いを拒否され、まともな医療提供を受けられないアメリカの医療システムの実態を明らかにする。カナダ、イギリス、フランスを訪れ、またキューバの医療現場の治療実態を知ることによって、国民全員が無料医療の恩恵を受ける国の事情を見つめながら、アメリカの絶望的な医療制度を浮き彫りにしていく。


米国は先進国で唯一、国民皆保険制度(公的医療保険制度)がない国である。医療保険未加入者は5000万人(6人に1人)にものぼる。残りの2億5000万人は民間保険会社の「医療保険」に加入するしかない。アメリカの健康保険充実度は世界37位である。

営利最優先の保険会社はあらゆる手段を使って支払いを拒絶するため、診療・保険金支給が受けられないケースが多数発生している。毎年1万8000人もの人たちが治療を受けられずに死んでいくという。また、たとえ治療を受けることができたとしても医療費があまりに高額なため支払うことができず、医療費破産してしまう人も多い。結局国民は高い保険料を払っても、一度大病をすれば治療費が支払われず病死か破産に追い込まれる。

公的医療保険制度のないアメリカでは、病院で診察を受ける前に、中間業者として民間の保険会社が割り込むことになる。アメリカの医療保険の大半はHMO(健康維持機構)という民間の保険会社が医師に給料を払って管理させるシステムだ。

保険会社は、治療は不必要だと診断した医者には「無駄な支出を減らした」ということで報奨金を与える。ムーアいわく「これがアメリカの健康保険制度の諸悪の根源だ。」保険会社の支払金額を削減できた人が病院長になれる。保険金支払否認率10%死守が医者に求められる。

「まるで殺人事件の調査みたいだった」どんな手段を使っても保険金の支払いを否認すべく、本人も知らないような過去の疾病を無理やり探しまくる調査員が保険会社にはいる。過去の疾病を理由に保険支払いを拒否する。

入院中の老人を、医療費が支払えないからという理由で貧民街に捨てる場面が出てくる。大病院がタクシーに患者を乗せ、公立病院の前で下ろすように指示する。ムーアの沈痛なナレーションが響き渡る。「これが僕らの国か.....」医療費が払えない国民をゴミとして捨てる国、アメリカ。底辺に生きる人をどう扱うかでその社会がわかる。

現在のアメリカの保険は、全米最大のHMO(health maintenance organization)カイザーパーマネンテが「私は医療問題などに関心はない」と言っていたニクソン大統領に提案したのが始まりだった。保険会社に有利なように法律が改正され、契約書への記載の不備等の理由で先端治療への支払いが拒否できるようになった。さらに治療できたとしてもあまりにも医療費が高額なため破産してしまうという現象まで生じた。

ヒラリー・クリントンは1993年にClinton health care planを掲げ、国民皆保険の導入を提言する。医療業界はあせりまくり、「国民皆保険は社会主義のはじまり」といったネガティブキャンペーンを展開。医療業界はヒラリー・クリントン封じ込めに1億ドル以上つぎ込んだといわれている。ヒラリー・クリントンは医療業界からの圧力に屈し、7年間医療問題への活動を封印した。その見返りに医療業界から多額の献金を受け取る立場になっている。

医療費の無料化を行っているフランス在住のアメリカ人が言う。「政府が国民を恐がるのではなく、国民が政府を恐がる」これがアメリカだ。国民の力が政府を動かす体制でなければ医療改革など出来はしない。政府が国民を怖がる国こそ民主主義の国なのだ。

『シッコ』の中でイギリスの政治家トニー・ベンが「持てる者が持たざる者の面倒をみる。これこそが民主主義というものだ」と意見を述べている。イギリスの国民皆保険制度は1948年に作られたという。戦後復興を助け合って行ったイギリス国民はその精神を医療制度に取り入れた。

彼は更に言う「世界の1%の人が、世界の80%の富を保有している。いかにしてそれを維持するのか。有権者の多くは日々の生活に追われ選挙に行かない。そして金で雇われた政治家が金持ちに都合のいい政治をする。貧しさは士気を砕く。教育と健康が人々に自信を与える。この充実こそ民主主義の原点だ。国民が政治の主人公になれる。」

保険会社に支配された医療制度はアメリカの民主主義の尺度を図る鍵となる。医療は保険会社の利益追求に支配されている。本当にアメリカは民主主義国家なのか。この現状をマイケル・ムーアは鋭く告発している。

日本でもいままで当たり前に受けられていた国民健康保険の医療制度が崩れようとしている。小泉政権は社会保障費年間2200億円抑制方針を打ち出し医療制度の改悪を強行していった。患者負担が1割から3割になり、後期高齢者医療の負担も重なって来ている。

小泉元首相がやったことはアメリカの保険会社の僕であったブッシュの意図を受け、医療制度を改悪しアメリカの保険会社の市場を日本に開放したのだ。まさに小泉はアメリカ保険会社の下僕としての働きをしたにすぎない。これ以上の医療制度の改悪を許すのか否かの問題は、日本の民主主義の根幹が問われていると言っても過言ではない。
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ねりまの散歩道-3 中村・向山庭園コース

3月27日(金)
10時頃、空は抜けるように青かった。風は冷たかったが、気温はそこそこあり絶好の散歩日和だった。「ねりま散歩道コース」の次を回ることにした。実際にはコースの半分、1時間半から2時間歩くように組み立てて回ることにしている。大体「ねりま散歩道コース」は西武池袋線の両側にまたがっているのが多いが、片側だけ回るという方法を取る。今回は中村・向山庭園コースの中村橋方面に行った。

練馬駅→南蔵院→学田公園→八幡神社→首つぎ地蔵→中村橋駅

南蔵院
中村橋006_edited_convert_20090328223259 南蔵院本堂

練馬駅で下車し、練馬区役所の裏通りを住宅街の間を縫って進み、10分位行くと南蔵院と書いた2本の石柱が立っている。その門から7分咲き位の桜の木が参道を覆っているのが見える。庭の木々はきれいに剪定され、誰もいない境内は静かで穏やかな空気が漂っている。満開に咲いた枝垂桜が境内に色彩を添えている。千川通りや目白通りから直ぐの所にあるとは思えない落ち着いた雰囲気だ。寺院の古い建物がその情景をかもし出しているのだろうか。
 
この寺は、延文2年(1357年)、良弁僧都という僧が中興したもので、慶安2年(1649年)には12石余の寺領が与えられていた真言宗の寺院だ。正面の門は、江戸時代中期に建てられた鐘楼門で、三間一戸、入母屋造り、浅瓦葺きの楼門形式で、赤彩されている。上階は吹き抜けで、正徳5年(1715年)銘の梵鐘が吊るされている。

nan-sakura2_convert_20090329134754.jpg 鐘楼門

学田公園
南蔵院から、3,4分の所に学田公園がある。野球場が真ん中にある変哲もない公園だが桜並木に囲まれている。まだ全く花をつけていなかったが、後1週間もすれば花見の絶好の場を提供してくれることだろう。

昔この付近は、今は暗渠となった中新井川の水源地で、アシやマコモが生い茂る沼沢地だった。明治20年に村の人たちが開墾して水田にし、それを小作人に出し、小作料を小学校の運営費の一部にあてていた。このことが「学田」の由来だという。

八幡神社
中村橋010_convert_20090328223447 八幡神社境内

学田公園から中杉通りに向かって行くと、通りにぶつかる少し手前に八幡神社がある。『新編武蔵風土記稿』に「村ノ鎮守ナリ、南蔵院持」とあり、南蔵院は江戸時代は当社の別当寺だった。八幡神社の神殿は社伝によると江戸時代のものといわれ、練馬区内でも屈指の古建築物だといわれている。
 
首つぎ地蔵
八幡神社裏の一角に首つぎ地蔵がある。昭和の初め、首と体が別々にあった地蔵尊が自分の姿を不便に思い、ある夜、信心深い2人の人の夢枕に立ち、思いが通じ、地域の人々の力でようやく首と体がつながったと伝えられている。その名にちなみ、不況期は「首切り」をまぬがれようと、参詣者でにぎわったそうだ。こういった発想法はなかなかユニークだ。しかし信仰とはそういったものかもしれない。信じることに意味があるのだろう。

中村橋012_convert_20090328223526 首つぎ地蔵

中村橋駅に向かう道は、閑静な住宅街だが、小学校や中学校がやたらと多いのに驚く。練馬区と中野区の境を歩いたこともあるのだろうか、しばらく歩くと学校、また学校と次々と登場する。練馬駅から中村橋駅まで巡る間に6ケ所の学校があったと思う。多いのか少ないのか何ともいえないが、少子化で都心では学校の統廃合が進む中、いい傾向だとも言えるような気がする。こういったことで1時間30分程の散歩を楽しんだというわけだ。

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散歩の効用

3月27日(金)
61_convert_20100114220344.jpg テレビ朝日で「ちい散歩」という番組を朝やっている。都内近郊のスポットを俳優の地井武男が訪れ、散歩するという内容である。「散歩は大人の休み時間。一歩踏み出せば冒険が始まる」の文字とともに始まる。時々しか見ないが都内には見所が幾らでもあるとつくづく思う。散歩場所に事欠くということはなさそうだ。

歩くということは、体の全身運動であり有酸素運動に属する。有酸素運動とは主に酸素を消費する方法で筋収縮のエネルギーを発生させる運動をいう。また心肺機能を刺激し、循環器系などの内臓の状況を好転させる。

体内の糖代謝、脂肪代謝を改善して、生活習慣病の予防・治療に役立つ。肥満や高血圧や神経系ストレスなどにさいなまれている現代人にとって極めて必要なものだろう。

さらに、散歩は、部屋という閉じ込められた空間から出て、自然と触れ合うことを通して精神的に開放される。外を歩くということによって、風や空気を感じ、においを感じ、移りゆく景色を眺め、雑踏や自然の音の耳を傾ける、そして足の裏で地面の感触を感じる、つまり人間の五感を精一杯使いながら歩くことが「散歩」なのである。

「この五感を五行で分類すると、東洋医学では、五官“目=肝、舌=心、唇=脾、鼻=肺、耳=腎”・五役“色=肝、臭=心、味=脾、声=肺、液=腎”となる。散歩をするということは、東洋医学的にみても、我々の体内にある五臓六歩を活用することにつながっていく。

そして、五臓六腑が満たされるということは、それだけ感覚や本能が豊かになるということになる。足の親指を使って歩くということは、“魂と意”を使って歩くということになる。魂と意は“やる気”を現す。自分のやる気を育てるという意味で散歩はとてもいい運動になる。」
(参考資料:表参道・青山・源保堂鍼灸院HP)

また「運動の効用」といった文章があった。
1、体脂肪の減少。中性脂肪が分解し遊離脂肪酸が筋肉で効率よく利用される。
2、内臓脂肪は運動によって燃焼しやすい。
3、安静時の基礎代謝が上昇する。
4、インスリンの働きがよくなり糖尿病になりにくくする。
5、インスリンの分泌量が下がるので、インスリンによる体脂肪蓄積作用を軽くする。
6、脂肪合成酵素の働きを抑えることで脂肪をたまりにくくする。
7、心肺機能と筋力の増強。
8、骨のカルシウムを保持し骨粗しょう症を予防する。
9、高脂血症や高血圧の改善。
10、ストレス解消が得られストレスによる過食を防ぐ。

この文章は医学的に運動の効用を書いてあって分り易い。運動の中で何が一番やりやすいか。それは散歩である。健康を維持するためには、体を動かすことそれに勝るものはない。

がん性疲労を処置して管理していくために出来ることとして、運動(ウオーキング、サイクリング、水泳)、対処戦略立案(リラックスできる娯楽など)が挙げられている。多発性骨髄腫で骨病変がある患者にも骨折を誘発しない範囲での運動を勧めている。適切な運動は造骨細胞を刺激する効果があるということだ。

患者のQOLを維持するために体を動かすことは不可欠である。体を動かすのに何の準備もいらずすぐ出来るのが散歩である。「さあ散歩に出かけよう」といった気分で過ごしていく事が必要だろう。

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疲労感への対処

3月26日(木)
体力の回復が中々進行しない。2回目の移殖から2年半たった今でも早足で歩いたり、急坂や急階段を上ると息が切れてしまう。良く聞く話だが、抗がん剤治療をやった場合2年位は体力が元に戻らないという。4年経っても戻らないという人もいる。

移殖などで大量抗がん剤を使った人は、さらに強く影響は残り、体力回復までにはかなりの時間がかかるという。しかし一方、移殖をしても半年で職場復帰して働いている人もいる。人によって影響の出方は色々あると思うが、現在の体力の減退は、抗がん剤の影響だけでないのは確かだ。原発性マクログロブリン血症の病状の特徴として、疲労感ということが上げられている。

まず抗がん剤の影響から体力の消耗と疲労感について考えてみよう。

抗がん剤による正常細胞のダメージ
抗がん剤の多くは増殖が盛んな細胞に作用するため、骨髄細胞(幹細胞)は血液中の細胞のもととなる細胞のため、これらがダメージを受けることにより、血液中の白血球、赤血球、血小板の減少が起こる。体の活性化に影響を与える赤血球についてみて見ると、赤血球は白血球に比べて寿命が長いため、抗がん剤により極端に減ることはないが軽度の貧血はよく起こる。血色素(ヘモグロビン)が7~8g/dlになるとめまいなどの症状が出る。

ヘモグロビンの役割

呼吸によって取り込まれた酸素を肺で炭酸ガスと交換し組織にたまった二酸化炭素を運び出し、全身の組織や細胞に酸素を運ぶ役割をしている。赤血球に含まれる血色素で、鉄を含む「ヘム」とたんぱく質である「グロビン」から構成され、酸素を体じゅうに運搬する重要な役割を担っている。ヘモグロビン濃度がある一定の値以下に減少した状態では、体は十分な活動を行うことが出来なくなる。

抗がん剤と様々な薬の複合的影響
抗がん剤治療によって造血幹細胞がダメージを受け、一定の期間が経たないと血液産生能力が元に戻らない。数値的には基準値まで戻ったとしてもその力は弱く、産生能力はかってのように旺盛ではない。確かに現在ヘモグロビンの数値は11前後だ。基準値が13~17なのでやや低いが、がんになる前もずっと貧血気味で、ヘモグロビンの値は9~10の間だったが、全く体力的には問題なかった。体の活性化はヘモグロビンの量だけでは図れないところがあるのだろう。

体力回復に対して、現在使用しているシクロフォスファミド(エンドキサン)が、影響を与えていることも否めないだろう。また抗がん剤と合わせて支持療法として服用している抗真菌剤や、ステロイド、高脂血症薬の投薬、ゾメタの点滴もまた身体能力を弱くすることがあると思われる。いわば薬漬けで内臓にかなりの負担をかけているのは事実だ。

体力の回復が図れないことの根本原因は、原発性マクログロブリン血症(WM)そのものにあるのだろう。

WMの特徴
形質細胞疾患は、あるグループ(クローン)の形質細胞が過剰に増殖して異常な抗体を大量に産生することから始まる。形質細胞は白血球の1種であるBリンパ球から生じ、体が感染と闘うのを助ける抗体(Ig・免疫グロブリン)をつくる。人間の体は常時さまざまな感染微生物にさらされているが、クローンは何千種類もあるので、体は非常に多くの種類の抗体をつくることができ、そういった感染微生物と闘うことが出来る仕組みになっている。

形質細胞疾患では、あるクローンの形質細胞が制御を失って増加し、Mタンパク質と呼ばれる単一の抗体(モノクローナル抗体)が大量に作られる。異常な形質細胞とそれが産生する抗体は1種類に限られるため、感染と闘うための他の種類の抗体が少なくなる(WMの場合IgMが増殖し、IgGや IgAなどの産生が阻害される)。また赤血球の産生が低下するため貧血になり、疲労、脱力、蒼白(皮膚や粘膜が血色を失った状態)が生じ、白血球の産生が低下するため、発熱や悪寒を伴う感染が繰り返し起こり、血小板の産生低下は血液の凝固機能を低下させるため、あざや出血が生じやすくなる。(メルクマニュアル家庭版)

WMの合併症としての疲労感
WMの特徴である悪性の形質細胞によって骨髄での正常な血液形成細胞の産生が妨げられると、貧血となり、脱力や疲労が生ずる。虚弱感や疲労感は病気に伴う貧血が主な原因で、生理的なもの、あるいはメンタルなものがある。

疲労感は、あまり強く訴えられることはないし見過ごされがちだ。止むをえないものとして諦めてしまい何もしないで過ごしてしてしまう場合が多いかもしれない。しかしQOLを保つためにその対策は無視できないものだと思う。身体の機能不全の改善は非常に重要なものであり、生活の質の低下の原因は速やかに改善されなければならいだろう。その原因は幾つか考えられる

疲労感の原因
貧血、筋肉量の減少、筋肉エネルギー代謝障害、ATP(生物がいろいろな手段で獲得したエネルギーを蓄えておき、必要な場合には放出する)の産生や利用の異常、神経生理学的骨筋変化、慢性的ストレス反応、全身的炎症反応、栄養不良、途切れがちな睡眠、ホルモンの変化、中枢神経システムの毒性(血液-脳のバリアーをクロスする薬剤)、末梢神経障害。

疲労感、体力の減退への対処法

治療のためには、その原因を調べる必要がある。骨密度のような事象(体を動かさないと骨が弱くなる)への対処が必要である。欝とストレスの軽減にも努力しなければならない。荷重を伴う運動はこれの全てに有効であり、食欲の改善に繋がる。欝は、疲労感の一部だとも考えられる。

筋肉瑠喪失は、年齢にもがんにも関連する。運動のレベルを維持することが大切だ。MP療法でステロイドを使用していた時に、その副作用予防に中性脂肪値を抑える薬と、骨粗しょう症予防薬を服用していたことがあったが、食事療法と同時に、運動をすることが、とりわけウォーキングなどの有酸素運動をすることが重要だと勧められた。運動がカルシウムの増加と脂肪の燃焼を促進するというのだ。

運動は特に、筋肉の喪失を防ぐために必要だ。不活動性は筋力の喪失を引き起こす。長期間の入院生活やその後の療養生活で体を動かさなくなると更なる身体の力や耐久力を失うことにつながる。疲労感の影響に対応するためには、治療中も含めて運動することによって、疲労感や心理的抑圧が有意に低減し、眠りの妨げが少なくなり、運動機能やQOLが改善する。疲労感の改善にとって取り分けどうしたらいいのかという方策があるわけではない、ただただ体を動かすこと、歩くことそれ以外にはないのだろう。

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市民公開講座「血液のがんと共に生きていくために」

3月25日(水)
3月22日の日曜日、慶応義塾大學医学部ノバルティスファーマ造血器腫瘍治療学講座主催の「市民公開講座」が日本骨髄腫患者の会で紹介されていて、それに申し込み案内状が来たので参加することにした。あまりこういった医者や学者の講演会に参加したことはなかったので、どういったものか興味があった。雨の中を慶應義塾大学の三田キャンパス北館1階ホールまで出掛けた。受付で講演レジュメを受け取った。これがパソコンで、会場のスクリーンに映され説明に使われる。

講座は3部構成で展開された。
1部は、血液がんの基礎知識-血液がん(造血器腫瘍)についての基礎知識を持とう!

 poster.gif講演1-血液がんはどういう病気?
 講演2-血液がんの治療成績を理解するために必要な知識。

2部は、治療の現状-血液がんの標準的名治療とこれからの治療について学ぼう!
分科会1 講演3-悪性リンパ腫の治療
       講演4-骨髄腫の治療
分科会2 講演5-急性白血病/MDSの治療
       講演6-慢性白血病の治療

3部
は、治療の支援体制-血液がんの治療を支えるチームのメンバーについて知ろう!
 講演7-リハビリテーション科の役割
 講演8-緩和ケアチームの役割
 講演9-Cancer survivor/家族の役割

講演1-血液がんの発生について
血液の組成から始まり、血液を作る造血幹細胞がどのように腫瘍化して行くのか、様々な造血器腫瘍があるが、それぞれどのような発生態様をたどるのかを分りやすく説明してくれて今まで知った知識をおさらいしてくれている様でとても役に立った。

講演2-臨床試験の結果を理解するための基礎知識
統計数値をどのように見て理解して行くのかの説明だった。標準治療と呼ばれているエビデンスがあるがこの治療方針を出すための臨床試験データーの出し方、また生存解析の方法などの説明が行われ、どの抗がん剤が効果的かどうか判断していく根拠について詳しく話された。

分科会は、関係ある1に出て話を聞いた。悪性リンパ腫についてはあまり知識は無かったが、原発性マクログロブリン血症との類似点を知ることになった。WMはある意味で悪性リンパ腫と多発性骨髄腫の中間的なものだと言われている病気なのだから、両者の知識を持っておくに越したことはない。

講演4-多発性骨髄腫の治療
最新の治療データーとして、サリドマイド、レナリドミド、ボルテゾミブの治療成績を、従来の化学療法と比較した統計値を持って話した。

2008年米国血液学会での話題が語られた。
* 新規薬剤+抗がん剤(シクロフォスファミドなど)+デキサメサゾンの併用療法
* ボルテゾミブ+レナリドミド+抗がん剤+デキサメサゾン
―寛解導入率は(特に完全寛解到達率)及び無憎悪生存期間は改善、ハイリスク郡の予後も改善・・・しかし、全生存期間の延長はいまだはっきりせず。併用により副作用も増える。

またダブル自家移殖群対シングル自家移殖後同種ミニ移殖群の治療成績についてフランス、イタリア、スペインの3つの統計値のデーターを比較して効果があるのかどうかの評価が、各国で分かれているという事例が話された。統計というもの取り方などの差もあるが、これだけ新薬が出て様々な治療法が出ている現状の中でもどういった治療法が最善なのか、中々出し切れていない現状が一方で明らかにされた。

新規薬剤による副作用に次に話しは進められた。ボルテゾミブによる神経痛や末梢神経障害にどのように対処するのか。薬の量をどのように減らして行くのかや、痺れに対する薬物治療として、1、ビタミンやサプリメント(vit B complex、葉酸)2、抗てんかん剤(ガバペン)3、抗うつ剤(SSRIパキシル、三環系ノリトレン)などの服用が提案された。

講演7-リハビリテーション科の役割
血液ガン患者に対するリハビリテーションの実施を実際に行っているという話をした。一般的にはリハビリテーションというと脳溢血などでの体の麻痺に対する機能回復を意味するように思えるが、がん患者が長期入院で体が弱り、退院しても中々日常生活に戻れない現状を回復するべく、入院中、例え移殖室に入ってもベッド体操などで体の筋力の衰えを進行させないため、体操のやり方を書いたパンフレットを配って、指導を行っているそうだ。

講演8-緩和ケアチームの役割
今まで緩和ケアというと、治療後の、終末期医療の一環のように受け止められてきたと考えられてきたが、実際には緩和ケアは入院した時から始まる。がんで入院した場合、人は多くの問題を抱えることになる。精神的苦痛(先行き不安、治療の展望が分らない)、肉体的苦痛(治療上の苦痛)、社会的負担(家族間の軋轢、会社のこと、経済的なこと)などを総合的ケアすることが緩和ケアの目的だ。

そのため意味で何人かの専門家がチームを組んで対処しなければならない。担当医や看護師、精神科医や臨床心理士や福祉のカウンセラーなど連携して取り組んで行くことが必要だ。こういった患者の肉体的精神的フォローを行って行くのが緩和ケアチームの役割である。

多発性骨髄腫の新しい治療法の開発は目覚しい物があり、これによって治療効果は上がり、寛解率は上昇していることは確かだろう。それに伴う副作用もあるが、かっての大量抗がん剤使用に比べれば比較的楽なほうかもしれない。

しかし新薬によって無憎悪生存期間は改善されるものの、全生存期間に有意差なしというという状態であるというのもまた事実だ。ただ新薬が開発されてからまだ間がないというということもあって統計数値が十分に取れていないという点も見逃せない要素となっている。また、新薬を使用する場合、従来の化学療法をやり、移殖も行いながら再発した難治性の患者が対象となる。その点も生存率に影響してくるのだろう。ともかくどのような方法を使ってでも無憎悪期間を延ばし、寛解状態を長く保っていられることが重要だ。効果のある薬がある限り、慢性病の一種だと思って、気長に治療を続けていけばいいだけの話だ。やがて治癒に結びつく新薬が出るかもしれない。

リハビリテーション科や緩和ケアチームの存在は注目に値する。中々何処の病院にもあるものではない。体調の管理は自己管理の最大のものだ。体を動かさず、体力が衰えれば精神的にも落ちこんでいく。病院の中での運動はもっと何処の病院でも推奨すべきだと思う。

緩和ケアといってもなかなかチームでは出来そうにない。私の病院でも医療相談室というのがあって専門の担当者に予約入れれば話を聞いて相談に乗ってくれる。ただ治療上の痛みのケアはどうしても医者任せになる。医療上の問題や痛みは諦めないで医者にはっきりというべきなのだ。それが出来ない患者の意識を変えないと医者と患者との信頼関係の改善は望めないような気がする。

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映画 『太陽はひとりぼっち』

3月21日(土)
『太陽はひとりぼっち』という映画をムービープラスというチャンネルでやっていた。3、40年前に見た映画だ。その頃ミケランジェロ・アントニオーニの映画にはかなり興味を持っていた。今見たらどういう感じ方をするか見てみようと思った。製作から既に46年経っている映画が今どのように自分の中で消化されているのだろうか全く分らなかった。

ミケランジェロ・アントニオーニは昔から好きな作家だった。彼は60年の『情事』がカンヌ映画祭で審査員特別賞を受賞した。『太陽はひとりぼっち』『赤い砂漠』など、現代人の孤独や絶望感を描くのが特徴である。最初に見たのが『赤い砂漠』でモニカ・ヴィッティが印象的だった。次に『欲望』を見た。バネッサ・レッドグレーブやジェンバーキンが出演していてよく覚えている。

c0073737_20565945_convert_20090321002001.jpgSTORY:三年越しの恋に終止符を打ったヴィットリア(モニカ・ヴィッティ)は、株式仲買人のピエロ(アラン・ドロン)という青年と恋に落ちる。しかし彼女には、二人の間に横たわる大きな溝が感じられるのだった……。

『太陽はひとりぼっち』という題名の付け方が最初から気に入らなかった。映画会社はアラン・ドロンの『太陽がいっぱい』が流行ったのでそれにあやかって付けたのだろうが、全く異なる内容に似たような名前をつけるという感性は信じられない。

そもそも原題のL'Eclipseは「日蝕」という意味だ。この題名が何を意味するか、金融恐慌というめったにない時代背景を表しているのか、主人公の心の欠落部分を表しているのか幾つかの解釈が成り立つだろう。

『赤い砂漠』のモニカ・ヴィッティの表情が素晴らしかった。それは『太陽はひとりぼっち』でも全く変わらない。心の空虚さや心の陰影を顔の表情で表している。今彼女のように表情だけで複雑な心の機微を表現出来る女優は少ないだろう。その意味で相手役ドロンは対極的な存在だ。裏も表もない。顔は整っていても、どこか軽薄で冷淡で底が浅く粗暴な現代人をうまく演じている。この二人の関係は、だからこそ一つの結果を導き出してくるのだ。

この映画の最大の特徴は風景描写が時代の心象風景と主人公の心の綾を表現している点にある。乾いた都会の風景を淡々と映し出す。奇妙な建造物、殺伐とした道路、主人公の女性が住むマンションのエントランス、横断歩道辺りの荒涼たるアスファルト、溜まった雨水を流れ出る樽など無味乾燥で寂しい風景が時代と心の寂寥感を滲ませている。

二人が散歩した公園もビルの街並も、建てかけの建築物のある道も、今日も少しも変らずにそこにある。今日のどこが過ぎ去った昨日と違うのか。ヴィットリアは昨日と同じように、今日の中にまた歩みはじめる。その中になにか新しいものがあるのか。愛は新しく始まるのか。無味乾燥な風景は厭世的な気分を漂わせ、陰影が不安と恐怖をかきたてる。その中に何も変わらない自己を見出すほかなかった。もはや2人が会うことはないだろう。始まりは終わりを意味するものでしかなかった。

沈黙し、感じ、悟り、去る女と、その心を何も理解できない男の対比が鮮やかに描かれる。最後、誰もいないまま暮れてゆく町並みの情景描写が、夕暮れの限りない無機的な美しさとその裏にある苦しいほどの寂しさを表し、2人の結末を示していた。

「皆が損したお金はどこへ行ったの?」ビィットリアはアランに聞く。1929年大恐慌での株大暴落のパニックの中で貨幣が消失したわけではない。アントニオーニはこの映画を1962年に作ったが、今日まさに表れている資本主義が行き着く先について問題提起したのだ。拝金主義の社会の崩壊を示唆したのだろう。不信感に満ち、ドライで、空虚で、浅はかで、無意味な喧騒が終止符を迎えたのだ。

さらに通行人が見ている新聞が大写しにされる。米ソの核開発競争が大きな見出しで書かれている。核戦争という究極の絶望に至っては、この絶望的な社会の中で、主人公は何を心の拠り所としていけばいいのか。「生」を感じられないアンニュイ感。倦怠の日々は少しも姿をかえはしない。「愛の不毛」それは生きる意味を見出せない社会の不毛の一つの表れなのだろう。

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公園の木々

3月20日(金)
公園の梅も終わり、木々は芽吹き始めているがまだ花や葉を出すほどにはなってはいない。いつも行っている公園だが日々変化している。大地は日々新しく作り出されていく。公園の木にはボランティアの人がつけたのだろうか木の説明が木札に書かれてぶら下がっている。金木犀の説明に、木肌が犀に似ているので金木犀と名付けられたとあった。なるほどと思った。カリンは葉と花が同時に開く。この木肌も面白い。パッチワーク模様のようだ。

ほとんどが枯れ木の公園の木々の中で、4本の木が花を付けている。寒緋桜さんしゅゆは満開の花を咲かせている。その濃いピンクと明るい黄色は、枯れ枝に囲まれた公園の中で一際鮮やかな色彩を放っている。しでこぶし(四手辛夷)は大分蕾が残っているが、幾つかの花が開いている。暖かい日が続いているのでもう2、3日で満開になるだろう。

公園の奥の木々に囲まれた所に薄桃色の花を満開にさせた木があった。木の形は違うが花はソメイヨシノにそっくりだ。早咲きの桜だと思って木にぶら下がっている札を見るとと表示されていた。杏がこのような花を咲かせるとは全く知らなかった。しかし目立つものだ。青空に薄桃色の花が良く映えていた。季節はずれの殺風景な公園だと思っていたが結構見るものがあるものだなあと思った。

今日の東京新聞の「筆洗」に辛夷(こぶし)について書いてあった「〈朴訥に田打ちざくらと応へけり〉中村姫路。土地によっては田打ちにかかる頃咲くから、辛夷をそう呼ぶことがあるそうだ。」確かに冬から春になる時、最初に花を咲かせていたような気がする。

この花を見ると冬が終わり春が始まったのだなという気分にさせてくれる。東京でもそうだが、北海道で長く寒い冬が明け、キタコブシが花を咲かせるとより一層感慨が深いという話しを北海道の友人から聞いた事がある。一本の木や一茎の花にも深い意味を写し取る事ができるということを辛夷の花は教えてくれるようだ。

木々のそれぞれについて、その性質や特長について調べてみるとより一層愛着が湧く。色々な学術的な知識も重要かも知れないが、木々や花の名前を覚える事によってより一層自然を体感できるのではないか。名前とその性質を知る事を通して、自己と自然とを橋渡ししてくれるような気がする。

寒緋桜(ばら科):
各種の桜にさきがけて開花する。1月下旬頃、「沖縄で全国初の花見」とのニュースが毎年あるが、ここでいう花見の花はこの寒緋桜。九州南部などでは旧暦の元日に咲くのでガンジツザクラとも呼ばれる。沖縄県石垣島に自生地がある。

寒緋桜001_convert_20090319113543

山茱萸 ・さんしゅゆ(みずき科):

中国と朝鮮半島が原産地。「さんしゅゆ」は中国「山茱萸」の音読み。“茱萸”はグミのことで、秋にはグミのような実がなる。2月末から黄色の小さな花をたくさんつける。木全体が早春の光を浴びて黄金色に輝く。別名、春黄金花(はるこがねばな)。

長崎公園010_convert_20090319111626

辛夷 ・こぶし(もくれん科):

昔の人はこの花の開花時期から農作業のタイミングを判断したり、花の向きから豊作になるか否かを占ったりした。つぼみが開く直前の形が子供のにぎりこぶしに似ているところからこの名前になったらしい。また、辛夷の実はゴツゴツしており、その実の具合から「こぶし」と命名されたのでは、との説もある。
細長い花びらが10数枚あって垂れ下がるさまが神前に供える玉串の「四手」に似ているのが四手こぶし。

長崎公園001_convert_20090319111349

杏・あんず(ばら科):
中国原産で、奈良時代に梅とともに中国から渡来したといわれる。中国名の「杏子」の唐音から「あんず」となった、または、「甘酢梅(あますうめ)」が変化して「あんず」になったとも。
実(み)は食べられる。”アプリコット”。6月頃熟す。実の核の中のアンニンという部分には強力なせき止め、鎮静作用がある。また、ベータカロチンがたいへん多い。

杏003_convert_20090320172943

(参考資料「季節の花300」より)

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

定期検診の日

3月18日(水)
2週間一度の定期検診の日。血液検査の結果は以下の通り。

検査結果
 IgM  1233←1277←1564
 白血球  2.0←3.4←2.2
 血小板  12.2←12.5←10.5
 ヘモグロビン 10.3←11.5←12.0


 総蛋白  6.5←6.5←6.8(基準値6.4~8.1) 
 尿素窒素  16←18←17(基準値7~20)
 クレアチニン 0.8←0.8←0.8(基準値0.5~1.0)
 カルシウム  9.4←9.3←8.2(基準値8.4~9.7)

IgMの減少がまだ継続中だ。何時まで続くかが問題だ。出来るだけ長く続いてくれる事を期待するほかない。白血球の数値が上がったり下がったり不安定だ。インフルエンザのはやっていた冬の時期を無事通り越すことが出来てひとまず安心だ。

以前いた会社の上司の奥さんが乳がんで抗がん剤治療を行い退院したが、冬になると必ず風邪を引き、それが肺炎になり1ケ月位入院する事になった。それが2年間続いたという話を聞いた。抗がん剤治療を受けていて肺炎になる確率はかなり高い。冬ばかりではないが、冬は要注意だということは確かだ。

ゾメタの副作用として、腎障害、低カルシウム血症、顎骨壊死などがあるが、大体2年ぐらい継続して使用しているとまれに起こる事があるという。注意するに越した事はない。

ゾメタの点滴を始めてから、尿素窒素とクレアチニンの数値には注意を払っている。この2つは腎臓の機能を診断する重要な指標だ。ゾメタは腎臓に負担をかけるので、この数値に異常が出た場合には投与量を調節するか中止しなければならない。

カルシウム値も骨の状態を知る上で重要だ。骨が破壊され続けることでカルシウムが骨から溶け出し、血液中のカルシウム濃度が増加する高カルシウム血症の状態、低カルシウム血症の状態などを知る事ができる。

原発性マクログロブリン血症は多発性骨髄腫とは違って骨病変に関しては主要な症状としては現れないが、メルクマニュアル医学百科には次のように書いてあった「悪性の形質細胞が骨に浸潤すると、骨の密度が減少して骨が弱くなり(骨粗しょう症)、骨折しやすくなります」と。特に私の場合にはIgM型骨髄腫と言われているので骨の状態には注意が必要だ。

がん治療中の口腔ケアは入院中何度も言われた。移植の時の大量抗がん剤による白血球の減少で、口内炎がひどくなり一切食物を摂取できず、飲み込むことも出来なく、モルヒネで痛みを抑えていた人の話を聞いていたので注意して食後の歯磨きを必ず実行していた。移殖室には歯磨きビデオがありそれを見るようにいわれ、口腔外科の担当者が色々説明に来てくれた。

ゾメタを始めるにあたって、医者からは何も言われなかったが、たまたま半年の一度歯医者から、定期検診の知らせが来て歯医者に行ったばかりだった。歯医者では歯垢除去と虫歯等の検査をした。ゾメタの副作用としてのあごの骨壊死を予防するのに口内を清潔に保つようにする事が必要だ。入院中の継続で食後の歯磨きは今も続けている。どの道免疫力が落ちているのは確かだから口内炎の予防にも口腔ケアは必要だ。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

ねりまの散歩道-2 豊玉・高稲荷公園コース

3月16日(月)
豊島区の観光案内にあった12の散歩コースを一通り回ったので、次に隣の練馬区に足を伸ばしてみようと思った。練馬区のホームページから、サイト検索で「ねりまの散歩道」を開いてみると、次のように紹介されていた。

「ねりまの散歩道」は、平成4年7月に設定されたみどりや水辺、史跡、公園などをめぐる散歩コースで、1つのコースは約5~8kmで、区内に9コースある。

豊玉・高稲荷公園コース、城北中央公園コース、光が丘公園コース、中村・向山公園コース、石神井公園コース、清水山・稲荷山憩いの森コース、大泉中央公園コース、大泉・井の頭公園コース、武蔵関公園コースがあり当分散歩の場所には事欠かない。
 
最高の散歩日和。家に居るのがもったいない日差しだ。気温は3月下旬の15度になると予報されていた。一番近い豊玉・高稲荷公園コースに出かけた。江古田周辺は行った事があるので、桜台から行くことにした。桜台駅から15分ばかり歩くと、石神井川にぶつかる。川端には桜並木が川に向かって枝を伸ばしている。石神井川に沿って遊歩道が整備され、木々が日陰をつくり、所々にベンチなどもあり、またパンジーなど季節の花が植えられていて、区民の絶好の散歩道となっているようだ。

高稲荷公園
豊玉・高稲荷公園コース006_convert_20090316223633 高稲荷神社

しばらく行くと、川沿いの大きな公園に辿り付く。高稲荷公園だ。高稲荷神社の社下にあって、神社の斜面林のすそは、旧石神井川が蛇行して流れていた所だった。昭和の初め、川の改修の際に埋め立てが行なわれ、今では広場となって、遊具もあり子どもたちの遊び場となっている。公園には桜の木々がかなりの数植えられお花見時期には神社境内に出店も出て賑わうそうだ。

高稲荷神社は、伝説によると、この公園付近はその昔大きな沼で、そこに住む大蛇によって沼に沈められた若者の霊を慰めるために建てられたといわれている。

広徳寺と桂徳院

豊玉・高稲荷公園コース018_convert_20090316223721 広徳寺

公園に隣接する形で臨済宗・広徳寺がある。この寺は北条氏政の子で、岩槻の城主太田氏房が、明叟和尚を小田原に招いて開いたと伝えられている。本堂裏の墓地には剣法の指南役として有名な柳生宗矩・十兵衛父子の墓などを始めとして、菊地五山、大内熊耳らの江戸時代の学者文人の墓石が多くある。桂徳院は広徳寺別院と同じ敷地内にあり、広徳寺塔頭の一つ。

かなり広い敷地を占めているこの寺は、石神井川から離れ、坂を登って行くと入口に至る。総門を入り、山門に行くと、入口に「拝観謝絶」と書いてあったので、寺院の全体を見渡せる所まで行ったがそれ以上奥へはさすがに遠慮して進む事はしなかった。それでも大体の雰囲気は分った。桂徳院の入口は、広徳寺とは別にあってここは出入り自由だった。

豊玉・高稲荷公園コース021_convert_20090316223803 桂徳院

練馬総合運動場のイチョウ並木

広徳寺を後にして、さらに石神井川に沿って進むと練馬総合運動場がある。野球場とサッカー場が並んであり、運動場といってもその二つで占められている。この運動場周辺にイチョウ並木が整然と植えられている。今は全くの枯れ木だが、芽吹き新緑、晩秋の落ち葉と四季折々の表情をかもし出し、季節の変化を感じさせてくれるのだろう。

信行寺
そこから、石神井川を離れ、練馬駅の方に曲がる。しばらく行くと変わった形の建物が目に入る。それが信行寺だ。信行寺の寺伝によると「大正9年、荒川最勝師により、西巣鴨町池袋不動堂に信行寺出張所として開教した。この不動堂は大正元年、高尾山不動堂として建てられた。その後昭和3年、信徒の増加に伴い現在地に信行寺として移転し、昭和30年に築地本願寺に模して、“古代インド洋式”風に建立された」とある。浄土真宗の寺だ。

豊玉・高稲荷公園コース025_convert_20090316223847 信行寺

変わった建物というのは古代インド様式というわけだ。信行寺から練馬駅までは5分位だった。1時間半ばかりのウォーキングをこなしたというわけだ。実際のコースは練馬駅から線路を越えて豊玉の方を回ることになっているが、半分を歩いた事になる。体調に合わせて臨機応変にコースを選びながら適度の運動を欠かさず遂行していきたいものだ。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

禅語

3月15日(日)
日々是好日(にちにちこれこうじつ)[原典:碧巌録]
円覚寺の総門の脇に小屋があり、そこの台の上に禅語を書いたしおりが10数種類置いてあった。この「いろは栞」は臨済宗・黄檗宗各派本山ならびに一部拝観寺院で拝観の際に配っている。栞には、「いろは……う」の24種類があり、その裏にはそれぞれの文字から始まる禅語と説明が印刷されているものだ。その中の言葉はもっともだと思う内容が多かったが、その中に「日々是好日」というのがあった。

その説明として「私達の人生は雨の日も、風の日も、晴れの日もある。雨の日は雨の日を楽しみ、風の日は風の日を楽しみ、晴れの日は晴れの日を楽しむ。即ち楽しむべき所はそれを楽しみ、楽しみなき所もまたなきところを楽しむ、これを日々是好日という。どんな苦しい境界に置かれても、これを好日、結構な事です、と心から味わえるようにならなければなりません。」としおりには書いてあった。

しおりに紹介されていたネットを開き解説を読むと次のようにあった。「良寛さんが、“災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候”と言った境地こそ、この心境でありましょう。どんな災難が湧き起こっても素直に受け入れられる心、たとい大病になっても、うろうろせずに静かに病人になっておれる心、殺すと言われても笑って手が合わせられる心、そんな心が自覚できませんと軽々しく“日々是好日”などと大口は叩かれません。それは心が絶対無にならなければできぬことであります。」(「臨済禅、黄檗禅公式サイト」より)

馬祖道一禅師は「病気など気にするな、生きるもよし、死ぬるもよし」と、泰然自若として言いきった。ここまでの心境には到底到達できないが、がんという病気になっても「うろうろせず静かに病人になっておられる心」でいたいものだと思う。

六月買松風 人間恐無値(ろくがつにしょうふうをかわば、にんげんおそらくあたいなからん)[原典:槐安国語]
しおりの中の「六月買松風 人間恐無値」という言葉が考えさせる内容を提示していた。暑い時には徹底的に汗を流して、暑い暑い!それでいいのではないか。自然の暑さに耐えた人間ほど、一陣の松風にも新鮮な感激を持って喜ぶ事ができる。文明の利器に慣れてしまって、自然の一挙手一投足のたたずまいを振り返る心の余裕と、自然に対する謙虚さ、自然に感謝する心を失いがちだ。私たちはこの句に参じて、「一陣の松風、実に涼し」だけではなく、一陣の松風に「価無からん」と千金の価をつけた心意気から、自然に対する心の余裕と謙虚さを、取り戻す必要があるのではないか。

自然をありのまま受け入れる。この言葉は最初の日々是好日にもつながるが、禅宗の寺である永平寺の門前にある石版に彫ってある「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて涼しかりけり」という言葉に通じるものがあるだろう。。あるがままの自然をそのまま受け入れることによって心の安らぎを得て行く、そういった自己と一体のものとしての自然を味わう心の持ちようが重要なのだろう。

他不是吾(たはこれわれにあらず)[原典:典座教訓]
「他不是吾」の意味を一つの例を上げて説明していた。

『朝日新聞』に、16歳の女子高校生の投書があって、友人の自殺にショックを受け生きる意味を失い「誰か教えてください。本当の人生の目的を」と書いてありました。

「人の水を飲んで冷暖自知するが如し」という言葉があります。水の冷たさは、たとえ千言万語を費やしても説明することはできません。水を飲む者自らが知るのです。

果たして人から教えてもらった人生の目的で、満足できるでしょうか。納得できるのでしょうか。他人の意見は所詮、他人のものです。彼女自身の ものではないはずです。彼女の投書のに対して「本当の生きる意味は暗中模索、試行錯誤、生きてゆくプロセスの中で自分なりに把握することではないでしょうか」「万人共通の目的などあるわけはありません。一人ひとりが一生かかって自分なりの目的をみつけ、それに向かって努力していくものではないでしょうか」といった投書がありました。

山本有三の『路傍の石』の中に次のように書かれています。「たった一人しかない自分を、たった一度しかない一生を、ほんとうに生かさなかったら、人間生まれてきたかいがないじゃないか。」「他は是れ吾にあらず」。所詮、私は私だけの私です。大切に生きてゆきましょう。(「臨済禅、黄檗禅公式サイト」より)

禅語などというと宗教的な雰囲気がするが、昔の中国の英知が格言として残されているそれを、禅の教えに沿って取り入れているもので、貴重な人生訓が含まれていると思う。禅語の中から3つ引用したが、他にも色々あって興味深い。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

鎌倉-明月院・円覚寺

3月12日(木)
建長寺を後にして、北鎌倉方面に向かう。時間は1時を過ぎていたので昼食をとろうと食堂に入った。紫陽花定食なるものがあった。どんなものか試しに食べてみる事にした。ごぼうとニンジンと油揚げの炊き込みご飯とけんちん汁と漬物、山菜という精進料理だ。紫陽花とはまったく関係ない。ただ、近くにあじさい寺として知られている明月院があるというだけの話だ。

けんちん汁は「建長寺」が発祥の地だという。その昔、建長寺の小坊主が豆腐を床に落してグチャグチャにしてしまって困っていると、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が壊れた豆腐と野菜を煮込み、「建長寺汁」を作った。これがなまって「けんちん汁」になったのだという説がある。

もう一つの説は普茶料理の巻繊(ケンチェン-モヤシを胡麻油で炒め、塩・醤油で、味付けした物)がなまり、けんちんになったというものだ。後者の説が有力らしいが、地元としては、当然「建長寺汁」説で通して売りにしていく他ない。

明月院
鎌倉066_convert_20090314143908 紫陽殿(本堂)

略歴:明月庵の名で永歴元年(1160)に、平治の乱で戦死した首藤俊道の子の首藤經俊が父の供養の為に創建。その後、北条時頼が康元元年(1256)に持仏堂として最明寺を、この地に開く。時頼没後に子の時宗が禅興寺として再興。そして室町幕府関東管領上杉憲方が禅興寺の中に密室守厳を開山に塔頭明月院を復興。あじさい寺として有名。

食堂から近くの明月院に向かう。踏切から5分ばかり歩くと、ひっそりと目立たない入口があり、そこが明月院になっている。6月ともなれば紫陽花があたり一面に青い花を咲かせている事だろう。明月院の中には幾つかの見所がある。

北条時頼廊、紫陽殿(本堂)、宗猷堂(開山堂・そうゆうどう)には、密室守厳の木像を安置され、その側には鎌倉十井の一つ〝瓶ノ井(つるべのい)″がある。だが何といっても明月院の中心は庭の風景だろう。入館パンフレットに春夏秋冬の花ごよみが園内の地図として載っている。季節に応じて花々が楽しめるということだ。庭の右側一体が竹林になっていて、その間を散策できる。昼なお暗い竹林の間を歩くと何故か心がすっきりと洗われるような気がする。

鎌倉064_convert_20090314143959 やぐら

明月院やぐら
明月院で一番目をひくのは、開山堂周辺の崖に彫られた洞窟の中に祀られた様々な仏像の数々である。このやぐらは鎌倉時代最大のもので、上杉憲方の墓とされる宝筺印塔が内部にある。やぐらの壁面には、釈迦と多宝如来そして十六羅漢と思われるものが彫られている。このやぐらは、明治初めの山崩れで発見された為に、規模も大きく保存性の優れた文化性の高いやぐらということだ。

円覚寺
鎌倉085_convert_20090314144047 三門

略歴:1282年(弘安5年)、鎌倉時代後半北条時宗が中国より無学祖元禅師を招いて創建された。執権時宗は、無学祖元禅師を師として深く禅宗に帰依され、禅を弘めたいという願いと蒙古襲来による殉死者を(敵味方区別なく、冤親平等に)弔うために円覚寺建立を発願された。臨済宗の寺で鎌倉五山第二位。約6万坪の広い境内をほぼ一直線に伽藍が並び、15の塔頭寺院が建つ。

明月院から5分ほど歩き北鎌倉の駅前に円覚寺はある。駅前だが駅周辺は杉木立に囲まれ、ひっそりとした雰囲気に包まれている。同じ臨済宗ということもあってか、建長寺と同じように総門からほぼ一直線に山の斜面に伽藍が配置されている。

総門を入り、しばらく行くと、山門がある。山門は三つの門とも書く。「三門は三解脱門(空・無相・無願)を象徴するといわれ、諸々の執着を取り払って佛殿(涅槃・解脱)に至る門とされ、ここをくぐったら娑婆世界を断ち切り、清淨な気持ちで、佛殿(本尊様)をお参りしなければならない。」と立て札に書かれていた。

鎌倉072_convert_20090314144130 百観音

その門をくぐると仏殿がある。仏殿裏の法堂跡の杉林を過ぎ右折し、左側の石段を上がると唐門(勅使門)があって、中には方丈があり、庭には百観音が置かれている。方丈のわきの木戸口を出て、奥にすすむと、左に妙香池(ミョウコウチ)(国名勝)があり、池畔には虎頭岩(ゴトウガン)がある。池に巌が張り出し、その縞模様が虎の縞に似ている

佛舎利を祀ってある舎利殿が池の脇の道を登るとある。非公開なので、舎利殿には近づけず、門から眺めるほかない。この舎利殿の由来は将軍源実朝が佛舎利の夢を見て、宗の能仁寺に使者を遣わして請来され、鎌倉の大慈寺に安置されたことによる。

建物は、わが国最古の禅宗様(唐様)建築だ。こけら葺きの二層屋根を持つ木造建物で、国宝に指定されている。長らく茅葺の屋根だったが、調査の結果、本来のこけら葺きに改修され、木組の繊細で華麗なことは類を見ない。

鎌倉076_convert_20090314144209 舎利殿

その後、伽藍の周辺にある塔頭寺院を巡り、円覚寺を後にした。総門の入口にJR北鎌倉駅の時刻表があって、湘南新宿ラインの快速の時間を見て、駅に向かった。駅から1分という便利な所だ。こんな駅前に閑静な寺院があるということは全く驚きだ。

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鎌倉-鶴岡八幡宮・建長寺

3月12日(木)
昨日、一昨日は天気は良かったが風が強く、外出したいと思うような天気とはいえなかった。今日は気温も上がり穏やかな陽気が期待出来そうだったので出かけることにした。何処かに行くといっても特に目的があるわけではない。

あまり行く機会のない湘南方面に湘南新宿ラインで出かけようと思った。何処に行くというよりも普段ずっと家にいてばかりなので、少しは体を動かさなければならないといった事が主たる目的だ。そういった意味では何処でもいい。ただハイキングはやはり体がきつい。

鎌倉に行くことにした。鎌倉は大学の時、授業の合間に友達何人かと県立近代美術館に「ムンク展」を見に行った。また5、6年前に行ったことがある。大体雰囲気は分っているので体への負担はそれ程ではないと判断できた。

鶴岡八幡宮

骼悟 参道入口の大鳥居

池袋から鎌倉まで湘南ライナーで丁度1時間だ。駅から鶴岡八満宮に向かう。鎌倉駅東口を出ると小町通りと若宮大路がある。小町通りは商店街で飲食店や土産物 屋が軒を連ねている。見所は色々ありそうだったが、オーソドックスに若宮大路から向かう事にした。左手に大きな二ノ鳥居が見える。そこから三ノ鳥居まで続 く約500mの桜の並木があり、花が咲けば鮮やかな花のトンネルとなるだろう。

そして三の鳥居をくぐり太鼓橋の横の橋を渡る。早咲きの桜が数本便区の花を咲かせていた。源氏池の中に島があり旗上弁財天社がある。この境内にオオシマザクラが白い花を咲かせていた。

この境内は深い杜の緑と鮮やかな御社殿の朱色が見事に調和している。静御前ゆかりの舞殿や樹齢千年余の大銀杏が八百年の長い歴史を伝えているようだ。舞殿から大銀杏を見ながら石段を65段上がると本宮に着く。鮮やかな朱色が空の青さに映えている。

骼悟 大銀杏と本殿

本宮に八幡宮という扁額が掲げられ、その八の字は鳩が向かい合うデザインになっている。鳩は縁起がいいということだという。鎌倉名物「鳩サブレ」はそこから来ているそうだ。その横に宝物館があり、八幡宮の御神宝(考古資料、御輿、武具、工芸品等)が陳列してある。

略歴:現在の御本殿は、文政11年(1828)江戸幕府11代将軍徳川家斉公の造営による代表的な江戸建築で、若宮とともに国の重要文化財に指定されています。当宮は康平6年(1063)源頼義公が奥州を平定して鎌倉に帰り、源氏の氏神として出陣に際してご加護を祈願した京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜辺にお祀りしたのが始まりです。その後、源氏再興の旗上げをした源頼朝公は、治承4年(1180)鎌倉に入るや直ちに神意を伺って由比ヶ浜辺の八幡宮を現在の地にお遷しし、建久2年(1191)には鎌倉幕府の宗社にふさわしく上下両宮の現在の姿に整え、鎌倉の町づくりの中心としました。


建長寺
骼悟 山門

鶴岡八幡宮を裏の方から出て建長寺に向かう。「巨福呂坂洞門」というトンネルをくぐる。切通しのイメージを出すべく、上方がシースルーになっている。鎌倉に は7つの切り通しがある。かって鎌倉に入るには、稲村ケ崎の様な危険な道を通る他に方法は無く、人や物資の出入りには大変に困難であった。その後鎌倉と周 辺の地域との交通の便を図るべく、海には港(和賀江島)を設け、山には切通を掘削し、外部との往来を容易に出来るようにした。切り通しにはそういった歴史的な由来がある。

略歴:建長寺は鎌倉五山第一位の臨済宗建長寺派の大本山。 建長5年(1253)北条時頼が蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を開山として創建した、わが国最初の禅の専門道場。北条時頼は熱心な仏教信者であり禅宗に 深く帰依していた。同時に、北条氏の権勢を誇示し、当時、海外渡来の最新文化であった「禅」の寺を建てることによって、京都の公家文化に対抗しようとする 意識の現われとも見られる。

建長寺の造りは総門、三門、仏殿(国重文)、法堂(県重文)、唐門(国重文)などの主な建物が中軸上に並ぶ禅宗様伽藍配置となっている。一直線に並ぶ伽藍の 周囲を10の塔頭寺院が取り囲む。三門の周辺に2、3本の桜の木がピンクの花を咲かせていた。古色蒼然とした暗い雰囲気の禅宗の建物の立ち並ぶ中にあっ て、一際鮮やかさを増しているようだった。

d.jpg 仏殿

三門と仏殿の間には柏槙の木(名勝史跡・新日本名木百選)創建当時からの750年の柏槙の古木がある。また、方丈から見ることが出来る方丈庭園は国指定史跡で夢想国師作のものである。

境内奥の参道を進むと、勝上嶽といわれる山に出る。この中腹に祀られるのが、明治23年(1890)静岡の方広寺から勧請した半僧坊大権現である。3代前の 住持膏貫道(おおぞらかんどう)か霊夢を見たことに由来し、建長寺の守護神とした。途中の石段には鉄製の幾つも天狗像が立ち並んでいる。この石段が急で、 何百段もありやっとのことで登りきったという感じだ。

骼悟 半僧坊

登り切った所が半僧坊で、ここからの見晴らしは見事だ。富士見台という場所があって、天気のいい日は富士山が見えると書いてあった。丁寧に見えたときの写真 まで貼ってある。運のいいことに霞んでいたが富士山を見ることができた。また別の方角からは相模湾が見え、建長寺の全景も見ることができた。さらに勝上嶽 展望台とハイキングコースへ登り階段があったが、ここで引き返した。(つづく)

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

映画 『告発のとき』

3月10日(火)
TSUTAYAで今日1日限定で、準新作と旧作が半額だというキャンペーンをやっていた。そこで、借りて来たのが『告発のとき』だ。この映画はイラク戦争の問題点を深く抉り出した作品だという事を聞いていた。

STORY: 2004年、ハンク(ジョーンズ)の元に息子のマイクが軍から姿を消したと連絡が入る。イラクから戻ったマイクが基地へ戻らないというのだ。ハンクも引退した元軍人だった。息子の行方を探るべくハンクは基地のある町へと向かう。帰国している同じ隊の仲間たちに聞いても、皆マイクの行方を知らなかった。やがてマイクの焼死体が発見されたという連絡が入る。ハンクは地元警察の女刑事エミリー(セロン)の協力を得て、事件の真相を探ろうとするが…

告発のとき_convert_20100507193807 主演のトミー・リー・ジョーンズは缶コーヒーのコマーシャルで御馴染みでどんな演技をするか分らなかったが渋く深みのある演技を見せていた。軍隊への信頼が不信に変わっていく心情の変化を、表面は静かにしかし深い懊悩をもって表現していた。

シャーリーズ・セロンは「モンスター」を見て、その演技のすごさに驚いた。ハリウッド一の美貌の持ち主との評判をかなぐり捨て、10キロ以上の体重増加を行い醜女メイクで実在の女シリアルキラーを熱演した。

スーザン・サランドンはマイクの母親役で出番は少なかったが、その中で二人の息子を失った母親の苦悩の表現力はすごいものを感じた。彼女は95年「デッドマン・ウォーキング」で印象に残っている。

 この映画は、失踪したイラク帰還兵の息子の行方を捜索し、息子死を知りその真相を探ろうとする父親が、アメリカ軍が封印しようとする真実に迫っていく。2003年に実際に起きた事件を基に、ポール・ハギスが映画化した。

あえてアメリカの闇に触れ、戦争とは何か、戦争が人の心に何を刻み付けるのかを描いたものだ。アメリカの戦争犯罪を抉り出すように描き、自らも加担者になりかねないといった自省的な思いも込めて、イラク戦争への告発を行っている。

 息子に関する真実を追い求めるにつれて、父親の知らない息子の素顔が明らかになっていく。イラク戦争における日々の殺戮と死への緊張感の中で、麻薬の常用も含め徐々にその精神を崩壊させていき、本国では考えられないような残虐な行為を始めた息子の真実を目の当たりにするにつけ、自ら軍人としてアメリカの軍隊とその正義に一点の曇りもなく信頼を寄せていて、息子が父親に習って軍隊に入ることに賛成したことの是非が問われる場面に遭遇したのである。

イラクでは車を走らせている時、決して止まってはいけないことが軍隊内では鉄則になっている。敵のロケット砲の攻撃にさらされるからだ。マイクは運転中車を止めず子供をひき殺してしまう。しかしその後仲間が止めるのも聞かず、車を止めて車から降りて一枚の映像を撮影した。その映像が何を意味しているのか、父親は考えた。

ある時息子は「ここから(イラク)から離れさせてくれ」と父親に懇願した。それに対して父親は何もして上げられなかった。息子は精神のバランスを欠いていく。衛生兵と名乗り捕虜に対して治療と称して虐待を繰り返し、仲間と面白がっていた。

戦争がいかに人を痛めつけ、狂わせるかという、戦争の悲惨さ、無情さをこの映画は描きながら、戦争を遂行し続ける現代のアメリカが抱える問題を訴えている。

 戦場、それはやるかやられるかしか選択肢のない場所だ。そこから帰還した兵士が、相手が例え、共に戦った戦友であっても、反射的に相手を殺すことが、日常になってしまっている。それでなければ生き残れなかっただろう。そうなってしまった人間が通常の市民社会の中で暮らすのはきわめて難しい。イラクはあまりにもひどいと言いながら、また戦場に戻りたいという兵士が登場する。

父親は、息子の死と、死にまつわる真相が明らかになるにしたがって、生まれて初めて自国の戦争に疑問を持ち始める。これまで信じてきた国や軍とは何なのか。アメリカは他国に正義の名を持って侵略しているがこのことは意味を持つのか、そして同時に戦争に駆りだされた若者の心に何を刻み付けていったのか。

 長男は海軍での事故で死亡し、今次男の死に直面した。二人の息子まで失った父親の祖国への怒りを、息子が送った古びた星条旗を逆さに掲揚することによって表現した。これは父親の軍隊と国家への「告発」なのだろう。

同時に星条旗を逆さに掲げるのは、国家の救難信号と彼は言った。この国は今、未曾有の危機にさらされている。この無駄な戦争を続ける限り危機はますます拡大していく。イラクからアフガンへと戦争は継続して行く。そして若者は無駄死し、精神を病んでいく。ひたすら続く戦争を終わらすまで、ずっと国旗を逆に掲げ、戦争こそが国家の危機なのだという事を訴えていかなければならないのだろう。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

友人の病状

3月9日(月)
食道がんで入院していた友人が2月末に退院した。通院で抗がん剤治療を行う事になった。様子を聞くため電話してみた。彼は3月5日に通院での最初の抗がん剤治療を行った。

使用している抗がん剤はドセタキセル(商品名:タキソテール、イチイの樹皮成分から見出されたアルカロイド系抗がん剤)という薬だということだ。これを単独で点滴投与する。この薬はタキサン系抗がん剤で、その作用メカニズムは、細胞の分裂に必要な微小管の働きを阻害し、がん細胞の分裂を防ぎ、最終的にがん細胞の死滅につながる。

5日には病院の外来治療センターで点滴を受けたそうだ。ここでは以前ベルケード療法の時、毎回何時間も薬の来るのを待った覚えがある。点滴時間はデカドロンの30分間だけで、ベルケード自体は注射器で点滴管に注入しあっという間に終わるのだが、待ち時間が長くほとんど1日仕事になってしまう。

ドセタキセルは通常(成人)は、1日1回、体表面積1平方メートルあたり60mg(乳・非小細胞肺・胃・頭頸部がん)または70mg(卵巣・食道がん)を1時間かけて点滴する。3~4週間間隔で投与するということで、次は3月26日に行うことになっている。

外来での抗がん剤治療が可能なのか心配したが、薬の副作用の所に次のように記載されていた。「ドセタキセルによる白血球減少は一過性であり、減少後すみやかに回復するため外来での治療が可能となる。」

しかしそれでも抗がん剤による正常細胞への影響は、入院中に行った時に赤血球と血小板を輸血した位だから必ずあるだろう。ということで丁度正常細胞への影響が出始める一週間後3月12日に病院に行き血液検査をして正常細胞の減少への対処をするということになっている。

病状に関しては、退院時CTを撮ったがその結果は5日の日告げられなかった。ただLDHの値が低くなっているので、がんの進行は抑えられているだろうということだった。

LDHの臨床的意義は「乳酸脱水素酵素(LDH)はほとんどの組織や臓器に広く分布する。貧血、炎症、腫瘍など汎用的なスクリーニング検査として用いられる。LDHが含まれている臓器が損傷を受けると、その組織からLDHが逸脱し血清中濃度が上昇する。」というもので悪性腫瘍の進行状態を知る一つの材料になるらしい。

体調に関しては、11月4日に入院して以降4ケ月間、全く体を動かしておらす、栄養剤だけで過ごした期間が長く、食事もごく柔らかいものしか食べていなかったせいもあって当然元に戻ってはいない。食事は基本的には柔らかいものを食べているが、徐々に体力が付くものを増やしてきている。

退院後雨の日が多く外に出られなかったが、晴れの日にはなるべく散歩にでも出て体を動かすようにしている。徐々に体力回復に努めていくつもりだと言っていた。外来で治療できれば入院治療よりも精神的にも肉体的にもいいのは確かだ。ただ自己管理が必要となる事も自覚しなければならないだろう。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

カフカ 『変身』

3月8日(日)
hensin_kafuka.jpg「ある朝、グレゴール・ザムザがなにか気懸かりな夢から目を覚ますと、自分が寝床の中で一匹の強大な毒虫に変わっているのを発見した」という書き出しで始まる『変身』によってカフカは何を語ろうとしたのか。あらゆる解釈が可能なのがカフカの作品の特徴である。

労働過程とそこからの逸脱
虫になったグレゴールは、自分の仕事について振り返る。
「やれやれ俺は何という辛気臭い商売を選んでしまったのだろう。年がら年中、旅、旅だ。・・・外交販売に付きまとう苦労はまた格別なのだ。その上旅の苦労という奴があって、そればかりはどうにもならない。列車連絡の心配、不規則でお粗末な食事。それに人づき合いが永続きしたためしがない・・・親でもいなかったらとっくの昔に辞表を出しているところなんだ。」

そう思いながら時計を見ると6時30分であった。5時の列車に乗らなければいけないのに寝過ごしてしまった事に気がつく。グレゴールは両親と妹の3人を養うためやりたくない仕事を仕方なくこなしている。そして、心の中にある仕事への嫌悪感が寝坊という結果になり、同時に身体的に虫に変身してしまうのである。

市民社会の中でその秩序を維持する一環としての労働過程の拒絶はとりもなおさず市民生活を営む権利を奪われる事に繋がる。それは人間として生きる権利を奪われる事にもなる。つまり虫に転落するのだ。同時に、一切収入を得られないグレゴールに対する家族の対応も市民社会の論理に貫かれ、さらに自ら働かなければならないという重圧の中で、グレゴールに対する憎しみは積もってくる。グレゴールはわずかばかりの餌を与えられ人目に触れぬよう部屋に軟禁される。

稼ぐ事が出来ないグレゴールを両親や妹は家族の一員としてみる事を放棄する。最初は「彼」と読んでいた虫に対しても「それ」と呼ぶようになり、やがて彼の死によって家族は緊張感から開放される。そして家族はサンサンと陽が射し込む郊外へ、電車に乗りピクニックへ出かけるのである。そこで妹は大きく伸びをする。

日常性と非日常性
家族から見れば、平凡な生活を唯続ける事、それが価値観であるが、グレゴールから見れば、その平凡な生活のなかで、仕事を続ける苦悩や家族との断絶を感じている。この二重生活の緊張感の中で、主人公はある日出勤を中止し、そのことによって日常生活にとって負(毒)そのものである存在、即ち毒虫に変身する。日常性の均衡が破れるときそこに非日常性が噴出してくる。

『変身』は平凡なセールスマンのグレゴールが体験する非現実的な世界がきわめてリアルに描かれ、人は何時、市民社会の日常的営みから追放され非日常の深淵に落ち込んでいってしまうかもしれないといった現代人の不安と孤独を深く表現している。

カフカがこの作品を書いたのは29歳の時。作家としては無名だったため、役所勤めをしながら執筆活動を続けていました。しかし文学と仕事の二重生活で肉体的にも精神的にも疲れていたと言われている。つまり「変身」の主人公ザムザは、当時のカフカの心そのものだったと言えるだろう。

現代社会の中の人間存在
現代社会における人間は市民社会の維持のため餌を与えられ死なない程度に飼い殺しされ実存的存在である。グレゴールが感じるのは家族として凝縮されて描写されている社会に対しての不条理性である。身体が毒虫に変じただけで、部屋に幽閉されるようにして生きざるを得ないという社会、世界に対しての不条理性なのだ。

毒虫はどこにでも現れる。その疎外された魂としての毒虫が感じるものは社会に対しての、あるいは世界に対しての徹底した違和の感情だ。毒虫は、その違和感の中で長く生きることは出来ない。簡単に滅びていくだろう。

そして毒虫は滅びた後、人々はその記憶を簡単に消し去り、安閑として生き続け、日常生活を送っていくことだろう。このことが出来ることこそ、日常に潜む本当の不条理性なのではないか。グレゴールの死後、家族が揃ってピクニックに出かけることが出来ること、それがこの社会のひとつの闇を示している。

カフカの家族関係、とりわけ父親との
グレゴールの部屋は、3面に全部で3つのドアがあり、それぞれ父、母、妹が彼を起こして仕事に行かせようとノックをする。この描写に見られるのはカフカの両親に対する心の重荷を表している。カフカは両親の愛を息苦しいものとして、また家庭生活を戦場として語っていた。「私は両親をいつも迫害者として感じてきました。」と手紙の中で言っている。

父親が文学を有害なものとみなす立場から、それに淫して他を顧みない息子を毒虫,あるいはそうとしかとれないような言葉で呼ぶというようなことはなかったのだろうか。

「毒虫」という言葉で表現されたのは、カフカ一家の論争の中で、今は家族全体の利益を損なうものとして激しく糾弾されたであろう、文学に熱中し、その交友関係などで浪費し、他を顧みない長男フランツのことではないか。

結局グレゴール自身は皆に疎まれ、その存在事態を否定されている。嫌われながらも餌を与えられ死なない程度に飼い殺しされていく。カフカは家族に愛されず誰からも疎まれている自らの存在を毒虫として表現し、『変身』の中で自らの心情を語ったのではないか。

翻訳:高橋義孝訳『カフカ全集Ⅲ』新潮社
参考文献:坂内正『カフカ解読』新潮選書
       リッチー・ロバートソン『カフカ』岩波書店
       ゲァハート・シェーパース『もう一人のカフカ』同学社

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佐々木睦写真展

3月6日(金)
激しい風雨の中を、サリドマイドを取りに病院に行かなければならない。保険診療と自由診療の請求を同一日に行なえないということで、サリドマイドだけは別の日に取りにいくことになっている。最初のうちは保険適用薬とサリドマイドを同一日に処方してもらっていたが、事務がうるさく言ってきているということで医者は止むを得ず別の日に処方することにした。おかげで薬を受け取るためだけに病院に行かなければならない。近くだからいいようなものの、病院から遠くに住んでいる人はどうするのだろうと思ってしまう。

夜、佐々木睦写真展のイベントで息子が友人とアコースティックギターの演奏をするというので見に行った。夜遅く出かけることはめったにない。渋谷までは副都心線が出来て便利になったものだ、千川駅から一本でいける。渋谷駅から文化村通りを通って東急本店をNHKの方にいくと会場のアップリンクXがある。

6B12-170.jpgUplink Galleryで3月4日から16日まで写真展が開かれ、併設するスペースFactoryで今日の19時30分から,写真のプロジェクションと音楽によるセッッションが行われるイベントが開催される。このFactoryはマイクロ・カフェシアターで映画の上映をメインにライヴ、DJ、トークショー、パフォーマンス、写真展シンポジウムなど様々なイベントが行なわれるスペースだ。

しばらく前のある時、写真家の佐々木さんとの話で写真や動画に曲をつけるという話が持ち上がった。そこで息子はnumbというバンドのM君と二人でmoltalというユニットを作った。佐々木さんの映像を編集したものに「round trip」という曲をつけたDVDが既に完成している。

そういった経過で、佐々木睦さんの写真展のレセプションパーティーで、ライブをやる事となった。マーチンのアコギ二本を使って、佐々木さんの写真をイメージして作ったオリジナル曲を5曲やる。佐々木さんの写真に写っていた文字を曲のタイトルにしている。

佐々木睦さんという写真家はグラフィティ、フォトグラフ、メタルワークを作り続けるアーティスト集団「ESCAVAL」のメンバーで、3年ぶりの個展の開催だという。世界各国で写真を撮り続けて、それを3冊の写真集にまとめ、ギャラリーの壁面に所せましと写真が張られ展示されている。最近撮影されたものだという。全てモノクロ写真だ。

写真に関してはマリオ・ジャコメリや森山大道などのモノトーンの写真に魅せられた事はあるが、自分で撮るのは旅行などの風景写真でしかない。写真の芸術性への探求までには至らない。佐々木さんのモノトーンの写真は、街の風景とそこに暮らす人々の様子を深く捉えているように思う。写真は瞬間を切り取る方法なのだろう。一瞬の中に世界が凝縮するその時を逃さず印画紙に固定するその醍醐味は素晴らしいものがあるに違いない。そこまで時間と空間を認識する能力を持てればの話だが。

ここのギャラリーはバーが併設され、酒を飲みながら写真を見るという趣向なのだろう。イベント会場のFactoryへの入場料は無料。ただし、500円のドリンクチケット2枚購入が必要で、要するに1000円2ドリンク付きということだ。

イベントは19時30分からで、ライブは20時か21時くらいからはじめる予定だと聞いていたので、20時前に着くように出かけた。結局、始まったのは21時からだった。

当日、ユニットmoltalのメンバーの一人M君が体調を崩して出演出来なくなってしまった。それが2時間前に分って、息子は2人でやる曲を急遽一人用に直して演奏せざるをえなかった。会場は30人位いただろうか、人前で一人で、伴奏もなく初めての曲を演奏するというのはなかなか度胸があるなと思った。佐々木さんの撮った動画のプロジェクション映像を背景にしながら無事5曲を弾き終わった。演奏が終わったので会場を後にした。

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定期検診の日

3月4日(水)
2週間一度の定期検診の日。血液検査の結果は以下の通り。2週間目前の2月18日は血液検査をしなかったので、1ケ月ぶりの検査となる。

検査結果
  IgM   1277←1564←1605
  白血球  3.4←2.2←1.6
  血小板  12.5←10.5←15.4
  ヘモグロビン 11.5←12.0←11.7


今まで2週間一度検査していたのが1ケ月ぶりの検査ということで、どうなるか若干不安な面もあった。ところが医者から示されたIgMの数値はかなりの減少を示していた。一拠に300減少していた。医者は自慢げに3種併用療法の薬の選択の正しさを強調していた。医者も効くか、効かないか分らない治療法を患者に処方するのだから、効果があった場合は嬉しいのだろう。

無題
サリドマイド+エンドキサン+デカドロン3種併用療法以降のIgMの変化

抗がん剤は、大体奏効率が40%以上あれば画期的に効果的な薬と評価される。効かない確率のほうが高いのだ。移植の時の前処置で致死量に至る大量抗がん剤投与が行なわれる。私の場合はメルファラン300mgを1時間で静注した。アルキル化剤はこのとき初めて使用した。副作用でとことん苦しめられる大量抗がん剤投与をやって本当にがん細胞を根絶できるのかと聞いた所、やってみなければわからないという返事しかもらえなかった。

がん治療における抗がん剤の選択は統計数値によるほかない。その意味でがん治療とは、やってみないと効果の程は分らないという極めて曖昧な治療法だと言える。確かに抗がん剤は何百種類もあり、それを組み合わせれば無制限の治療方法が可能だ。その中からどれを選ぶか、それが問題だ。こういった綱渡り的な治療を行ないながら、IgMとの攻防を繰り返していく道を歩んでいくほかない。

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水戸偕楽園・弘道館

3月1日(日)
好文亭を後にして、中門をくぐると、庭園の様相は一変する。高い杉の木に覆われ、梅林の明るい世界から急に静かな暗い針葉樹林と竹林の世界に足を踏み入れることになる。

A撮影・水戸偕楽園064_convert_20090302115547

庭園解説には次のように書かれている「偕楽園は、表門から入ってこそ斉昭公が意図した“陰”から“陽”の世界を堪能できるとされています。“表門”“一の木戸”から始まる孟宗竹林・大杉森など、陰の世界があり、水戸市内に深山幽谷の世界があることに驚かされます。」

2本並んだ杉の巨木、樹齢750年という太郎杉がある。吐玉泉というこんこんと湧き水を絶やす事のない泉に人が群がっている。眼病に効くと言われた湧水は、茶室何陋庵(かろうあん)の茶の湯に供用されていたそうだ。川縁に出ると流し雛が催されていた。

流し雛とは雛祭りの大本となった行事で、雛祭りの源は、3月3日の上巳の節句の薬草摘みだったといわれているが、やがて人の形をした紙の人形(かたしろ)で体を撫でて、それを川に流すことで穢れを祓い、災厄祓いを願ったというものだ。観光客に紙を配り、各人が人形をおり、それを川に流していた。

A撮影・水戸偕楽園071_convert_20090302115141

ひらけた川べりから再び暗い森の中に入っていく。孟宗竹林と大杉森に囲まれた道を表門に向かって進む。表門(上の写真)に立ち、目を竹林から梅林に転じる。空を覆う竹と杉の深緑の暗い世界から突然光の中に放たれたような錯覚を覚える気がした。それ程、明と暗の対比が見事だった。竹林と杉林はあくまでも暗く、梅林は輝くばかりに鮮やかな明るさを放っている。

広い敷地全てが梅の木で覆われている。「水戸六名木」を中心に、白を基調としながらピンク、赤が晴れてきた空に眩い色彩を振りまいている。庭園内では梅の下で野点茶会や水戸の梅大使・水戸黄門一行との写真撮影サービス、琴の野外演奏会など様々なイベントが用意されていた。梅林を散策し、東門に戻る。

A撮影・水戸偕楽園061_convert_20090302115427

偕楽園に隣接する常磐神社は、水戸藩を代表する2代藩主徳川光圀・9代藩主徳川斉昭公祀っている神社だ。当日は梅祭りのイベントとして、神社の横にある舞台で舞が披露されていた。

神社には義烈館という展示場がある。義烈館の名は、徳川光圀公(水戸黄門)が義公(ぎこう)、徳川斉昭公が烈公(れっこう)と称される所から名付けられた。ここには追鳥狩(おいとりがり)に使用したといわれる陣太鼓や大極方砲などの遺品がある。また光圀が主導した「大日本史」が展示されている。

光圀には名君伝説があるが、水戸藩は年間財政収入の三分の一近くを「大日本史」の編纂に注ぎ込んだ。それによる、藩の財政悪化が指摘されている。一説には光圀時代は年貢比率が八公二民の超重税を強いたと言われる。結果的には「水戸学」が目指した“愛民”の理想からは逸脱してしまった側面を見なければならない。

梅の名所めぐりとして、偕楽園から弘道館というルートが紹介されていた。梅祭りの期間中の土日限定で、無料の市内周遊「漫遊バス」助さん号、角さん号が水戸の名所を巡回している。旧式のボンネットバスでレトロな雰囲気を出している。これを利用して、弘道館まで行く事にした。

A撮影・水戸偕楽園108_convert_20090302115306

弘道館略歴:水戸藩の藩校として第9代藩主徳川斉昭により天保12年(1841年)8月に創設された。藩士に文武両道の修練を積ませようと武芸一般はもとより、医学・薬学・天文学・蘭学など幅広い学問をとり入れたいわば総合大学というもので、当時の藩校としては国内最大規模のものだった。敷地には、梅が60種800本植えられており、梅の名所となっている。
 
・弘道館の敷地は54,070坪(約178,400平方メートル)と大規模で、
   金沢の明倫堂(17,000坪)、
   萩の明倫館(14,000坪)、
   幕府の昌平黌(11,000坪)と比較しても構想の雄大さを窺うことができる。
・施設としては、
   正庁・至善堂・文館・武館(撃剣館・槍術館・柔術館)軍機局・天文・算数・地図等の館・
   医学館・その他の建造物、また広い調練場・馬場のある、今日の総合大学的規模であった。

弘道館の施設案内には正庁、至善堂、八掛堂、種梅記碑、要石歌碑、孔子廟、学生警鐘、梅林などの見所が記載されている。

まず最初に正庁(学校御殿)から建物の中に入る。ここは藩主が臨席し、文武の大試験、その他の儀式などに用いられた第一の場所である。そこから奥に進むと至善堂がある。至善堂の名は、斉昭が中国の経書『大学』からとって命名したものであるが、特に明治元年に最後の将軍徳川慶喜が謹慎された部屋としても有名である。

水戸偕楽園048_convert_20090302115933

建物を出て庭に降り、梅林を散策しながら、庭園を巡る。八卦堂と弘道館記の碑がある。弘道館記は次の文で始まっている「道を弘めるものは人である。故に人は人としての道を学び、これを弘める使命を持たなければならない。」

敷地内に孔子廟がある。斉昭は弘道館を開設するにあたって、その敷地内に、精神のより所としての鹿島神社と孔子廟をまつり学校の聖域とした。孔子と鹿島神宮という奇妙な取り合わせだが、そういったものとして弘道館の建学の精神はあるのだろう。

弘道館正門
は老朽化が激しく通常開門されないが、梅祭りの土日に限り開門されくぐることが出来た。水戸城跡大手橋に向かい、正庁の正面にある門で、棧瓦葺きの四脚門、左右に瓦葺きの漆喰塗り土塀が続いている。重要文化財である。ここから弘道館を出て、大手橋の横の階段を下り水戸駅に向かった。

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水戸偕楽園

3月1日(日)
いつの間にか2月が終わり3月になってしまった。時だけはどんどん過ぎ去っていく。どこかに行くには平日の方が空いているので時間さえあれば普通はそうする。水戸偕楽園の梅が今日辺り満開だという。先週は気温が低く雨模様で雪になるほどの寒さで縮こまっていてどこかに出かけるという気分ではなかった。そしてまた今週は火曜日辺りから寒く雨模様だ。

水戸偕楽園の梅林を一度は見てみたかった。兼六園に行って偕楽園が三大庭園の一つであると改めて思いさらに行きたくなった。梅の季節の土日には特急が偕楽園駅に臨時停車するという利便さがある。3月1日は梅祭りの真只中で色々なイベントが催される。そこら辺を考えて休日だったが、9時上野発の特急スーパーひたちで水戸まで行く事にした。

水戸偕楽園003_convert_20090302000544 見晴広場から千波湖方面

Suicaで入って偕楽園駅で運賃の精算をしようとも思ったが、今日あたり駅でのかなりの混雑が予想され清算に時間がかかりそうな気がしたので、緑の窓口で運賃と特急券を購入する事にした。すると、窓口の人から水戸までは乗車券と特急料金、指定席券付きで往復7,000円だと言われた。通常特急の自由席で片道4,020円となっている。指定席を取ればその外に500円ほど取られる。つまり往復2,000円も安くなるというわけだ。

これは梅祭りに人を呼ぶための特別企画なのだろうか。そんなことは誰も知らない。JRの職員だけしか知らない。運よく緑の窓口に行ったからこういった企画を知り安く乗車券などが購入できたが、そうでなければ当然丸々払う事になる。世の中知らなきゃ損をするということは幾らでもあるということだ。

家を出た頃は何時雨が降り出すか分らないようなくらい空模様だった。しかし段々晴れてきて偕楽園駅に着いた頃には日が差してきて、気温も春らしく上昇してきた。駅から、常盤神社の階段を上るコースと坂道を上がるコースがあり、東門に到着する。常盤神社の境内と東門の前辺りに、屋台と出店がひしめき合っている。お祭りの賑やかさだ。梅林を見るより屋台に群がって飲食する人のほうが多いのではないかと思われる程だ。

偕楽園は小高い丘に位置している。東門を入ると見晴広場があり、芝生の上で入園者が休んでいる。ここからは梅林を経ながら千波瑚眺望することが出来る。梅の白と赤、湖の青、木々の緑がコントラスト作り出している。

A撮影・水戸偕楽園039_convert_20090301235757 楽寿楼から見晴広場方面

偕楽園略歴:偕楽園は金沢の兼六園、岡山の後楽園とならぶ「日本三公園」の一つで、天保13年(1842年)に水戸藩第九代藩主徳川斉昭(なりあき)によって造園された。斉昭は、千波湖に臨む七面山を切り開き、領内の民と偕(とも)に楽しむ場にしたいと願い、「偕楽園」を造った。約13haの園内には約百品種・3千本の梅が植えられている。

見晴広場の周辺の梅の木見ながら最初に向かったのは好文亭だ。偕楽園は入場無料だが、好文亭では190円払う。入場券売場はかなりの人で賑わっていた。狭い建物の中は見学者が行列を作っているという状態だった。

好文亭は、徳川斉昭自らが設計したもので、偕楽園内の休憩所として建てられたもので、木造2層3階建ての好文亭本体と木造平屋建ての奥御殿からなり、各所に創意工夫と酒脱さを感じさせると同時に、素剛優雅な外観は水戸武士の風格がただよう建築だ。
 
A撮影・水戸偕楽園044_convert_20090301235924 楽寿楼から花追橋方面

好文亭の名は梅の異名「好文木」に由来し、その三階の楽寿楼からの眺望は見事だ。千波湖、月池、丸山方面一体を見渡す事ができる。この建物の中に東塗縁広間という部屋がある。斉昭が藩内の家臣、庶民の老人を招いて慰労の催しをした総板縁の部屋だ。養老の催しは、諸士は80歳以上、庶民は90歳以上の者を招いたということだ。庶民も招いて慰労会を行なうなどなかなかさばけた君主だと思う。(つづく)

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がん治療とは長く細い道を辿ら
なければならない。その先に希
望があると信じながら。

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