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定期検診の日

9月30日(水)
2週間一度の定期検診の日。血液検査の結果は以下の通り。

検査結果 
 IgM    2276(9/30)←1817(9/16)←1635(9/2)←1381(8/19)
 白血球   1.5←2.6←2.1 
 血小板   15.8←18.5←21.5
 赤血球   336←305←308
 ヘマトクリット 35.2←32.1←31.8 
 ヘモグロビン 10.9←10.1←10.1


IgMが2週間で459の上昇値を示した。今までにない上昇率だ。MPT(サリドマイド、メルファラン、プレドニゾロン)は効果を上げる所かむしろIgMの増加を促進したのではないかと思われるほどだ。

Guideline Thalidomide in Multiple Myeloma : Current Status and Future Prospects には、MPTの奏効率は38%となっていた。サリドマイドと外の薬の組み合わせよりも奏効率は低かったが外に方法がなく試してみようということで始めたが、残念ながら効果は全くなかったようだ。下のグラフにあるように1ケ月半でIgM,は1000近く上昇している。

グラフ

IgMの上昇をどの薬を使って抑えるかが問題だ。次の診療日が10月14日なので、その時までに、色々研究して次の方法を考えると医者は言う。外来ではゆっくり討論できないので時間を取って話し合いの場を設ける事にした。

2週間のつなぎとして、サリドマイドを1日100mを200mgにする。白血球が少ないのでメルファランは増やせないのでプレドニン50mを明日から4日間服用する。通常50mgを1ケ月4日間服用するのを、2週間ごとに服用する事にしたということだ。これで効果が出るかどうか、あまり期待出来ないが試してみる他ない。

医者が話の合間に、新型インフルエンザのワクチンが出回ったら直ぐに予防接種をすべきだと言った。その時期や方法は医者の方で指示してくれるという。ともかく白血球がかなり少ないので、新型インフルエンザに感染したら肺炎などを誘発し重症化する恐れがあるので必ず予防接種をするようにと念を押された。

夏が終わったと思ったら、これから冬に向かう。新型インフルエンザだけでなく、通常のインフルエンザも流行する時期がやってくる。免疫グロブリン(抗体)の機能が脆弱で、白血球(好中球)が少なく、ステロイド剤(免疫抑制剤)で免疫力を弱体化させている。こういった3重のデメリットに囲まれた中で、新型インフルエンザが今後何処まで拡大するのかは最大の関心事となる。
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テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

東レ・パンパシフィック・オープンテニス

9月29日(火)
東レ・パンパシフィック・オープンテニスのトーナメントが有明テニスの森で26日から行われている。有明コロシアムのセンター・コートのコートサイドの切符が、友人が行けなくなったのでいつも時間があるだろうと思われている私の所に回ってきた。まだ大会開始から3日目だからそれ程混んでいるわけではない。

東レPPO016_edited_convert_20090930205343

この大会は今回世界ランク30位以内の選手25人が出場する。通常4大大会でしか見られない顔ぶれの選手の対戦が東京で観戦する事が出来る。確かに見に行く価値は十分にあるが、自分で切符を手配してまでは行こうとは考えていなかった。ケーブルテレビの中継で自宅にいて見られる。しかし実際に見た方がどれ程迫力があるか、切符がこういった形で手に入れば喜んで出掛ける。

昨日、今日と2日間有明コロシアムのセンター・コートに10時半からの試合に行ってきた。昔テニスをよくやっていた頃は、新宿区公式庭球連盟に所属していて有明テニスの森のコートを取って、そこで会員間の大会をやっていた。その頃は豊洲からバスで行ったものだ。

しかし今は有楽町線で新木場まで行ってそこからりんかい線に乗り換え国際会議場で下りればいいし、埼京線の何本かが新木場まで直通運転をしていて池袋から乗り換えなしでいける。また有楽町線の豊洲か、大江戸線の汐留でゆりかもめに乗り換え有明まで行ってもいい。かなり行き易くなっている。

昨日、今日の試合は2回戦だが、上位8名のシード選手は1回戦が免除され2回戦から始めるので、実際には1回戦の試合だ。つくづく思うのは試合というものはやってみないと分らないということを感じた。どんなに力量があると思われる選手でもその時のコンデションによって全く動きが違ってくる。大会に向けて精神的、肉体的にどのようにエネルギーを集中させていくのかが勝敗の分かれ道になる。

3日目の試合が終り、何とシード10位までの選手6名が敗れ、1名が体調不良で棄権した。3人しか残っていない。世界ランキング1位で本大会第1シードのサフィーナが、予選から勝ち上がってきた130位の張に敗れた。V・ウイリアムズは世界ランク41位に、デメンティエワは34位の選手に敗北した。

今日の試合で特に印象に残ったのがシャラポアのプレーだ。昨日シャラポアは、スキアボーネを相手に最初のセットを落とし、2セット目は7-5でかろうじて踏みとどまった。3セット目は段々調子を上げ6-1で試合には勝ったが終始苦戦を強いられていた。

しかしたった1日しか経っていないのに今日の動きは1日目とは格段の差があった。相手は第13シードのストーサーだったが、シャラポアのプレーはまるでエネルギーの塊のように気力が満ち溢れ、強烈なサーブが次々と入り、強打のストロークもコート内に吸い込まれるように決まる。世界ランク1位だった頃のプレーが蘇ったようだ。6-0、6-1と全く相手にプレーをさせず試合が終わった。

一体何が起こったのだろう。一日で技術が上達するわけはない。コーチのアドバイスがあったかもしれない。しかしプレーの内容の変化から見てそういったものではないと思う。全て精神的なものだ。多くの選手は幼い頃からテニス一筋に技術を磨いてきた。才能の問題もあるだろう。だがよく言われるようにフィジカルな面と同時に、メンタルな面を鍛えることが強調される。いかに自らのポテンシャリティを高めていくのか、気力を充実させ、集中力を持続させるかが試合に勝つ最も重要な要素となる。

こういった試合を見ながら、自分の病気のことを考えてみた。フィジカルな面は医者と薬に頼る他ない。しかし、メンタルな面は自分自身の気の持ち方次第なのだ。病気に絶望し鬱々と日を過ごすのか、病気になったことを一つの転機として今までと違った自分を発見して、生きがいを見出していくのか、全て自分の心の持ちようだろう。そしてその精神の躍動性こそが、病気に勝つ一つの力になるのではないかと思った。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

映画 『グラン・トリノ』

9月26日(土)
TSUTAYAの前を通りかかったら、『グラン・トリノ』のDVDを貸し出しているという広告が貼ってあった。映画館で見ようと思っていた映画だが見過ごしてしまった。早速借りてきた。新作は一泊で420円で、映画館で見ると60歳以上だと1000円となる。DVDの借り賃が映画を見る値段の半分だ。そうなるとなるべく映画館で見ようという気になる。

クリント・イーストウッドはこの映画で、アメリカの大都会ではなく地方の小都市の抱える様々な矛盾、戦争帰還兵、宗教、人種、差別、偏見などを抉り出しながら、そういった中で自らの信念をあくまでも貫こうとする主人公を描く事によって、今の社会にどう生きていったらいいのかの問題を投げかけた。オフィシャルサイトに映画の宣伝コピーが載っていた。映画の内容を一言で表したものだ。

 d0055920_convert_20090926233548.jpg男は迷っていた、人生の締めくくり方を。
 少年は知らなかった、人生の始め方を。
 そして二人は出会った。

 男の人生は最後で決まる。


STORY:朝鮮戦争の従軍経験を持つ元自動車工ウォルト・コワルスキーは、妻に先立たれ愛車“グラン・トリノ”や愛犬と孤独に暮らすだけの日々を送っていた。近所のアジア系移民のギャングがウォルトの隣に住むおとなしい少年タオにウォルトの所有するグラン・トリノを盗ませようとする。

タオに銃を向けるウォルトだが、この出会いがこの二人のこれからの人生を変えていく…。事件をきっかけにして心を通わせ始めたウォルトとタオだったが、タオを仲間に引き入れようとする不良グループが2人の関係を脅かし始める。(『グラン・トリノ』オフィシャルサイトより)

現代社会の歪として現れる、高齢化社会、核家族化の中で孤独でマンネリ化した生活を続けている老人の現実、民族差別の中で少数民族が自分の居場所がなくアメリカ人の不良に対抗しグループを作って不良化していく現実が映画の背景にある。登場する1972年製のグラン・トリノも朝鮮戦争の思い出も、良きも悪きもアメリカを象徴している。

人種差別主義者であり偏屈で、従軍経験で心に傷を持ち、誰に対しても心を開かない。息子たちや孫とも離れ孤独な1人暮らしをし、世界とのつながりを断ち、ただ人生が終わるのを待っていた老人が、生きる目的を失っていた少年と心を通わせる事を通して次第にその鎧の下のある人間的気高さ、誇り、心の底に秘めた優しさ、清らかな魂が現れてくる。

そして朝鮮戦争でのことを少年に話す。「人を殺すのは最悪な気分だ。それで勲章をもらって褒められるなんてもっと最悪だ。」という心からの叫びや悲しさをさらに際立たせる。

偏屈で頑固であるが一本筋が通ったウォルトは、自分が差別していた隣の少数民族の家族の人達と関係を持つ事によってむしろ心の通わない実の家族にはない、人間的暖かさに触れる事になる。

この家族はモン族で、ベトナム戦争でアメリカ軍に味方したために避難民としてアメリカに移住してきた人達だ。ベトナム戦争では多くのモン族の兵士や一般人が犠牲になり、戦争後のベトナムでの苦労があり、ルター教会の尽力でよってやっと移住が認められたが、アメリカでの生活も並み大抵なものではなかった。

こういった背景も映画の一つのテーマになっているのだろう。ベトナム戦争でのアメリカ人の犠牲者については語られるが、誰1人として、アメリカに協力したため迫害され国を脱出せざるを得なかった民族について考えることはないだろう。こういった問題が厳然として存在している事にアメリカ人は気がつくべきだということが、この映画の一つのテーマになっている気がする。

その家族の息子タオが不良グループから強引に仲間に誘われ、脅しをかけられる。「彼らがいてはこの家族の幸せはない」と思い、最後、ウォルトは自分の人生に決着をつける。命を賭けた、男のけじめをつけるためにウォルトは不良グループの住むアパートに1人向かう。

人はどのように生きるか、それはある意味でどのように死ぬのかに集約される場合があるだろう。ウォルトの生き様は、ある意味で我々に勇気を与え、これからの人生の道しるべになるような気がする。いかにして生を全うするのか。

 長く生きることに意味があるではない、どう生きたかが重要だ。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

墓参り・八柱霊園

9月24日(木)
彼岸とは春分・秋分の日を中日とし、前後各3日を合わせた7日間のことだそうだ。父親の墓が松戸の八柱霊園にある。墓参りに行くのなら彼岸の間のほうがいいだろう。混む休日を避けて母と妹と一緒に出かけた。

八柱霊園は面積105ヘクタールもある広大な公園墓地で、父親の墓のある場所までは八柱霊園のバス停から15分以上歩かなければならない。母は去年の10月頃散歩の途中転んで足を捻り、もうすっかりよくなったのだが、やはり歩行に不安が残り長時間歩くと腰に負担かかるらしい。歩行速度もかなり遅くなってしまった。

photo0.jpg松戸から新京成線に乗換え八柱駅で降りる。そこから通常バスで行くのだが、3人だったということもあり、母の足の事もあり、タクシーで父親の墓の前まで行く事にした。途中馴染みの石材店によって、花と線香を買い、バケツ、箒を借りて墓地まで行った。

一つの区画の中に父親の墓は、父の兄の一族の墓と並んでいる。兄の親族の誰かが石材店と契約をしていて、年2回春と秋の彼岸の時期に草むしりなども含めた墓の掃除を頼んでいる。墓に着いてみると綺麗に掃除が行き届いている。

墓石に水をかけ、花を活け、線香に火を付ければそれで終りだ。待たせておいたタクシーに乗り八柱駅まで戻った。駅を出て、戻るまで40分位だった。あまりにもあっけなく墓参りに行った実感が湧かなかった。

彼岸の仏事は浄土思想に由来しており、浄土思想で信じられている極楽浄土(阿弥陀如来が治める浄土の一種)は西方の遙か彼方にあると考えられていた(西方浄土)。春分と秋分は、太陽が真東から昇り、真西に沈むので、西方に沈む太陽を礼拝し、遙か彼方の極楽浄土に思いをはせたのが彼岸の始まりだ。この事から次第に人々の生活に浄土をしのぶ日、またあの世にいる祖先をしのぶ日として定着してきた。(「大紀元日本」より)

仏教では、生死の海を渡って到達する悟りの世界を彼岸といい、その反対側の私たちがいる迷いや煩悩に満ちた世界を此岸(しがん)という。そして、彼岸は西に、此岸は東にあるとされており、太陽が真東から昇って真西に沈む秋分と春分は、彼岸と此岸がもっとも通じやすくなると考え、先祖供養をするようになった。

彼岸にはもち米とあんこで作った「ぼたもち」や「おはぎ」を備えるが、これは春の牡丹、秋の萩から来ている。また古くから小豆は邪気を祓う効果のある食べものとして知られており、それが祖先の供養に結びついたと言われている。

仏教徒でもなく、霊魂の不滅を信じている訳でもないのに何故墓参りなどに行くのだろうか。墓参りは色々な宗教によってそのスタイルが違う。仏教スタイルと言われるのが以下のやり方だ。
 1、墓の上から水をかける
 2、花、供え物を供える
 3、ろうそく、線香に火をつける
 4、墓前で合掌をする
こういった方法が仏教スタイルだとは多くの人は知らないだろう。周りの人が色々やっていることを見て、こんなものだと思ってやっているに過ぎない。

墓参りは仏教が広まる以前から土着の文化として、死者に対する敬意を表す行為として行なわれていたのだろう。死体を墓に埋葬するという行為は、死者を無としてではなく再生するものとして考え死体を粗末に扱うことを忌むべき物として考えたのだろう。その事によって先祖の霊が自分を守ってくれるだろうと考えたことが、やがて信仰へと結びついていったと思う。

無宗教の人でも、通夜や葬式で御経が上げられる事に対して何の抵抗もなく受け入れる事が出来る。墓参りは、死者を供養する、先祖を偲ぶ、死者を慰霊する、先祖と自分の関係を確認する、愛する人がそこにいると思い話に行く、など人によって色々な考え方があるだろう。

だが実際には多くの人が神道を信じていなくても、神社にお参りし、初詣にも行くように、墓参りもそういった風習の一つではないか。無宗教だと思っていても結局長年の生活習慣の中で知らず知らずのうちに、様々な宗教のスタイルを色々取り入れて広く浅くに身につけてしまっているのではないか。だから霊魂の不滅などを全く信じていなくても墓参りに何の抵抗もなく行けるのだろう。

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リレー・フォー・ライフジャパン2009in新横浜

9月22日(火)
「ももの木」の掲示板で「リレー・フォー・ライフジャパン2009in新横浜」への参加を募っていた。リレー・フォー・ライフ(RFL)の大会の趣旨について掲示板での呼びかけには次のように書かれていた。「がんとの戦いを支え、未来の患者としてがんと向き合う・・・がんを恐れず、がんと共存できる社会に近づくための一歩を、サバイバー(生存者)や彼らを支える仲間達と一緒に踏み出しましょう!」

「ももの木」としては他の団体のようにチームとして参加する事になっている。チームには大型テント2個分のスペースが与えられ、24時間交代で日産フィードをグルグル歩き回る。RFLの共通のプログラムは「サバイバーズ・ラップ」といって「がんと闘う人たちの勇気を称え、がん患者やがんを克服した人たちが歩く」事が基本だ。

歩きたい時に歩き、あとはテントで休憩していても、イベントを見学したりしてもいい。このことを通しながら単なる資金集めのイベントとしてではなく、地域社会全体でがんと闘うための連帯感を育んでいこうとするものである。

RFLは財団法人日本対がん協会が中心となって行っている。主催はRFL横浜実行委員会、共催は新横浜町内会、神奈川県、横浜市、後援・協賛が神奈川県教育委員会・横浜市教育委員会・厚生労働省と幅広くさまざまな団体が協力しそのことを通してがん対策の環を広げていこうとしている。今年は全国13ケ所で行なわれている。

RFLの始まりについて「リレー・フォー・ライフとは、1985年にアメリカ・ワシントン州シアトル郊外で、アメリカ対がん協会のゴルディー・クラット医師が始めたイベントです。マラソンが得意なクラット氏が大学の陸上競技場を24時間回り続けるなか、友人たちは30分間だけ医師と一緒に回るごとに25ドルずつ寄付しました。その結果、1日で2万7千$が集まりました。

参加者を増やすために翌年からは医師、患者やその家族、友人が数人ずつのチームを組むリレー形式になりました。24時間歩き続けるなかで、参加者の間にがんと闘う連帯感が生まれたのです。」と紹介されている。

渋谷から東横線で菊名まで行き、そこから横浜線に乗り換え小机で下車し徒歩7分で「日産フィールド小机」の会場に行くのが通常のルートだ。会場に着く前に腹ごしらえをしておいたほうがいいと思った。小机駅の周辺には飲食店がなさそうだったし、会場周辺では何もないだろうと思って新横浜駅で下りる事にした。途中で昼食をとって会場に向かう。

日産スタジアムが巨大な姿で目の前に聳え立つ。ここでは主にサッカーの試合が行われるようだ。スタジアムの周りを回るだけでかなりの距離がある。地図で見て近いと思ったが新横浜駅からスタジアムに隣接する日産フィールド小机まで20分以上もかかった。

受付に、各チームのブースが張り出してある。A-10という場所に「ももの木」のテントがある。「ももの木」から実行委員会に2人参加している。かなり忙しく、テントに寄り付く暇がない。

13時になり開会宣言が行われ、何人かの来賓の挨拶が終り、いよいよ歩き始める。日産フィールドはよく手入れの行き届いた芝生が400mトラック以外覆われている。テントの下も芝生だからクッションはいい。多くのチームが自分たちで作った旗を持って行進を開始する。

リレーフォーライフ002_convert_20090923183835 行進を始める参加者

「ももの木」のM君が今日のため旗を作って来てくれた。それを持ってまず皆で一周する。それ以降はかわるがわる、体調に合わせ、1周回ったら30分位休み、また体を動かしたくなったら歩くといったことの繰り返しだ。

15時になると「サバイバーズ・ウオーク」といって、トラック一周だけだが、がん患者、元がん患者つまりがんになって生存している人による行進が行われた。サバイバーには紫色のハンカチが配られそれを首に巻く。また手形を取って、メッセージを書き込むというようなこともやっていた。

リレーフォーライフ011_convert_20090923184146 サバイバーズ・ウオーク

会場の中央のステージでは、吉野ゆりえのKGCバンド、横浜市消防音楽隊のブラスバンド、よさこい、ハワイアン、ゴスペル、ジャズバンドの演奏や踊りが19時頃まで行われた。ふれあいエリアでは、「がんとお金」「がんと就労」などのテーマに沿っての話が専門家からなされ、またがんを巡るトークが行われていた。

「よさこい」はかなり迫力があった。6チームそれぞれ30名位の人数で、ステージ前のトラックで音楽に合わせて踊る。華やかな衣装をまとい、激しい踊りが創意工夫を持って展開される。去年の高知の「よさこい祭り」には全国から192チームが参加し、演舞を競ったというほど「よさこい」の踊りは広まっている。

リレーフォーライフ023_convert_20090923184028 よさこい「パワフル」というチームの踊り

昔はいわゆる正調よさこい鳴子踊りが主流だったが、最近ではそれに加えてロック調、サンバ調、クラブ調あるいは演歌調など、各チームがアレンジしたさまざまな楽曲と振り付けが披露される。6チームが全く違った趣向で踊りを組み立てそれぞれ全く別の情景を作り出している。

夕方になり、トラックに沿って並べられメッセージの書かれた袋を被せたローソクに灯がともった。やがて日が落ちあたりが暗くなった。「ルミナリエ」のローソクの光があたりを幻想的な色彩に染め上げる。「ルミナリエ」とは、がんでの死者1人1人の名前を記した紙袋の中にろうそくを灯して並べ、がんで亡くなった人たちを偲ぶというものだ。

リレーフォーライフ052_convert_20090923184106 夕闇に浮かぶロウソクの灯

トラックに沿って並べられたメッセージは800あるという。またステージの左上の観覧席にはHOPEという文字がローソクの灯で浮かび上がっている。このローソクに被せられたメッセージはここに来られなかった人のものだという。ステージではルミナリエを巡っての朗読が行われている。ローソクの光に浮かび上がるがんでの死者のためのメッセージを読んでいると気が重くなる。

会場の外には、車の屋台が5台店を出している。クレープやホットドック、カレーライス、タコス、タコライス、沖縄そばなど軽食を扱っている。他に食料は売っていないのでそこで「ももの木」の仲間と夕食をとった。その後、テントの中でお喋りしたり、歩いたりした。「ももの木」からは2人泊り込むということで、彼らは寝袋を用意してきている。帰りの電車の事もあったので、21時過ぎに会場を後にした。

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深川巡り-深川不動尊、富岡八幡宮

9月19日(土)
涼しくなり、外出するには丁度いい気候だ。晴れたら郊外にハイキングでも行こうかと思ったがあいにく曇りで、へたをすると雨でも降りそうな空模様だった。昼食をとり、何処かに行くにしても午後からだから限られる。近場ということで深川巡りに出掛ける事にした。門前仲町だったら有楽町線千川から30数分で着ける。

深川不動尊
深川めぐり003_edited_convert_20090919234210 深川不動尊本堂

門前仲町の木場寄りの出口から地上に出ると、深川不動尊と書かれた朱色の柱が建っていて、横に張り渡されたアーチには成田山と書かれている。そもそも門前仲町という名前は、この地にあった寺院の門前の町という意味で、それがこの深川不動なのである。

そこから仲見世が不動尊まで続いている。不動尊前の参道は通称「人情深川ご利益通り」といい、毎月1・15・28日に縁日が開かれて賑わう。門前仲町駅から深川不動尊へ向かう参道には、和菓子やなどが並び風情がある。その通りだけレトロな雰囲気を感じさせる。

深川不動は江戸町人を中心に成田山のご本尊、不動明王を江戸で参拝したいという気運が高まって、1703年(元禄16年)4月に初めて江戸でのご本尊の出張開帳(江戸出開帳)が富岡八幡宮の別当・永代寺で開かれた。これが深川不動堂の始まりである。

今本堂の横の建物が改築中で、何と総工費が30億円だと書かれていた。どうやってその費用を集めるのだろうか、寺院の金集めの方法にはいつも疑問が付きまとう。一方で貧乏な寺院が色々副業をやってやっと維持しているのに対して、一方では30億の金を使って建物を改築している。

富岡八幡宮-伊能忠敬銅像
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深川不動尊を出て、再び門前仲町の駅まで戻り、永代通りをしばらく行くと大きな鳥居が目に入る。入口の石柱に富岡八幡宮と書かれている。参道の直ぐ左手に伊能忠敬の銅像がある。

近代日本地図の始祖である伊能忠敬は地図作成に功をなし、50歳の時に江戸に出て富岡八幡宮近くの黒江町(現在は門前仲町1丁目)に隠宅を構えた。このことから伊能忠敬の銅像は、伊納測量開始200年にあたり寄付を募って製作されたという。

黄金大神輿

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(神輿の写真はガラスの反射で写らなかったので、左の写真は富岡八幡ホームページからのものです)

参道を行くと右に「大関力士碑」が建っている。これは本殿の裏の横綱力士碑に対応するものだ。参道の左側にガラスに囲まれた建物がある。神輿庫である。この中に神輿が2台置かれている。

日本最大の神輿と言われている高さ4.4メートル重さ4.5トン、随所に純金・宝石が散りばめられた絢爛豪華な一の宮神輿は、平成3年(1991年)に奉納されたものだ。神輿の最上部の鳳凰や中段の狛犬のダイヤモンドの目は光り輝いており、非常に高価な作りである。この一の宮神輿があまりにも重いので、2トンの二の宮神輿が作られ、2台置かれている。

富岡八幡宮本殿

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参道を行くと、大きな広場が目の前に広がり、左右に長く伸びる建物がある。八幡宮の本殿である。ここでは家内安全、交通安全(自動車のお祓い)、商売繁盛、社内安全、厄除け祈願等を行っている。また初宮詣や七五三詣なども受け付ける。本殿の中では丁度神前での結婚式が行われていた。婚儀殿という建物も併設されていて、衣装、写真、披露宴も八幡宮内で出来るようになっている。

富岡八幡宮の略歴:
寛永4年(1627年)、当時永代島と呼ばれていた現在地に御神託により創建されました。周辺の砂州一帯を埋め立て、社地と氏子の居住地を開き、総じて六万五百八坪の社有地を得たのです。世に「深川の八幡様」と親しまれた「江戸最大の八幡様」です。江戸時代には、源氏の氏神である八幡大神を殊の外尊崇した徳川将軍家の手厚い保護を受けました。(富岡八幡宮ホームページより)

横綱力士碑
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本殿の裏に行くと横綱力士碑がある。相撲と富岡八幡は深い関係がある。貞享元年(1684)幕府より春と秋の2場所の勧進相撲が富岡八幡宮の境内で許されるようになった。以降約100年間に渡って本場所が境内にて行われ、その間に定期興行制や番付制が確立された。

その後本場所は、本所回向院に移っていったが、その基礎は富岡八幡宮において築かれ、現在の大相撲へと繋がっていくことになった。そういったことで横綱力士碑や大関力士碑、超50連勝力士碑、力持ち碑などが境内に点在している。

八幡橋

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境内の裏に八幡橋と書いてある看板があり、矢印で方向が示されていた。2,3分で橋に着いた。この橋は、明治11年(1878年)11月に京橋区の楓川に、アメリカ人技師スクワイヤー・ウイップルの発明した形式を元に工部省赤羽分局により製作、架橋された。鉄を主材料として造った鉄橋としては日本最古のものと言われ、国の重要文化財に指定されている。この橋も江戸時代とは関係ないが深川の見所として紹介されている。

木場公園
深川めぐり036_edited_convert_20090920084149 木場公園大橋と噴水広場

その後、深川周辺を散策し、木場公園まで行き公園の遊歩道を歩いた。この公園は仙台堀川と葛西橋通を挟んで2ケ所に分かれている。それを木場公園大橋がつないでいる。かなり広い公園で一周回るのに1時間弱かかった。いい運動になった。一角が植物園になっていて、キバナコスモスやラベンダーなどが花を付けていた。公園から三ツ目通を下り木場駅で東西線に乗って帰宅した。 
(参考資料:深川観光協会ホームページ)

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

江戸地図・深川巡り

9月19日(土)
時代小説ファンの二人に時代小説で面白いのは誰の書いたものかと聞いたら、二人とも迷うことなく池波正太郎という応えが返ってきた。一人は『鬼平犯科帳』を推薦し、一人は『剣客商売』が面白いと言う。図書館には池波正太郎の本はかなりある。まさに娯楽小説、大衆小説の王道に踏み込んだという感じだ。今まで手も付けなかった未知の世界は結構スリリングで興味深くのめりこむように読み続けることが出来る。

『鬼平犯科帳』をネットで検索すると「鬼平犯科帳 彩色 江戸名所図会」という項目があって「江戸名所図会」や「江戸切絵図」などを使って、物語ごとにそこに出てくる場所を当時の地図で示してくれるのでより一層臨場感を持って本を読み進めることが出来る。『剣客商売』にも「地図で見る剣客商売」といサイトがあり、物語に出てくる場所が江戸時代の地図で見る事が出来る。どんな場所で事件が起きたのかを知りたがる人は結構いるものだなと思う。

藤沢周平の『獄医立花登手控え』の最初のページに小伝馬町牢獄を中心とした隅田川周辺の地図が載っていて、当時の町名も幾つか書き込まれているので参考になる。事件がどんな場所で起こったのかを知りたいという気持ちが強い。旅情ミステリーなどを読むと日本地図を持ち出してきて主人公や犯人が辿ったルートを確認したくなる。

昔、ディスプレイ什器の現場設営のために毎日のように車に乗って都内を走り回り、様々な所に行った事があるので都内の地図や場所はかなり知っているつもりだ。江戸時代の地図にある場所が今どうなっているか大体は分るので、時代小説に出てくる場所の描写との違いを楽しむことが出来る。

昔から地図を見るのが好きだった。飽きることなく何時間でも見ていた。今はカーナビがあるが、昔は仕事で何処に行くにも都内の地図は必需品だったということもある。

115731_convert_20090919205123.jpg 宮部みゆきも藤沢周平の市井物も舞台は本所深川だ。池波正太郎の小説は江戸全体だが、『剣客商売』の舞台は隅田川の河岸に集中している。交通の重要な役割を舟が果たしている。

主人公秋山小兵衛は鐘ケ淵という本所のかなり北に隠宅を構えているが、家は隅田川沿いにあり、彼の妻おはるは舟を漕ぐ名人だ。家の脇に船着場がありそこから、舟で川を下れば浅草方面、さらに深川方面まで楽にいくことが出来る。

秋山小兵衛は、舟でよく富岡八幡宮に妻おはると一緒に出掛ける。舟で隅田川を下り、小名木川の河口まで行く。そこにある柾木稲荷の茶屋の船着場を借りている。万年橋を渡り八幡宮に向かう。

今でも深川地域は大横川、平久川、大島川、西支川、仙台堀川に囲まれている。江戸時代、本所深川地域は縦横に川が流れていたと思われる。至る所に船着場があり、船頭が待機していて客の求めに応じて目的地まで運んでいたのだろう。

舟便のための船宿は江戸市中に400以上あったといわれている。江戸時代、武士は馬を使うこともあったが、通常は歩きか駕籠しかなかったので、舟はかなり便利な乗り物だったろう。神田川なども使えばかなり広範囲に移動できる。

「深川は、昔大部分の海と散在する浮島や小島が多かったが、江戸慶長年間に深川八郎右衛門が現在の森下町に本拠をおいて、深川村の開発を始め、小名木川、源森川の整備などが進められ、寺院の移転建立、一般庶民の移住により江戸文化の花を咲かせた。」(深川観光協会ホームページより)こういった場所なのだ。

時代小説によると、江戸時代は庶民の楽しみもあまりなかったのだろうか、信仰が篤かったのだろうか、寺院や神社の境内には茶屋が何軒も並んでいてかなりの人が行き来し賑やかな雰囲気だったようだ。今は縁日でもない限り人はまばらだ。これでは茶屋はやっていけない。

深川の最寄り駅である門前仲町の駅には下りたことがある。大学時代友人が越中島に下宿をしていたので訪ねていった時だったが全く記憶がない。ましてや神社、仏閣などはその頃意識の中に存在していなかった。車で永代通りを通ったことは何回かあるが、通り過ぎただけだ。

思い立って、秋山小兵衛の行った富岡八幡宮に行ってみる事にした。富岡八幡宮は宮部みゆきの小説にも出てくる。TOKYOウオークでは三ツ目通を京葉道路で右折したので、深川方面は行っていない。時代小説によく登場する場所が今どうなっているかを見ておきたいという気がした。(つづく)

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ゴーギャン展

9月16日(水)
上野の美術館は何をやっているのだろうと注意を払うが、東京国立近代美術館はつい探索の対象外になってしまう。TOKYOウオークで近代美術館の前を通り、ゴーギャン展が間もなく終わるということを知った。ゴーギャン展は開始前の宣伝で行きたいと思っていたがすっかり忘れていた。病院の診療が2時前に終わったので行く事にした。

ゴーギャン展の宣伝コピーは次のように書かれていた。
 ゴーギャンは、なぜ熱帯の島タヒチに向かったのか。
 文明と野蛮、聖と俗、生と死、男性と女性、精神と物質、
 これらの両極に引き裂かれながら、
 人間の根源を探究し続けた画家ゴーギャン。
 日本初公開となるタヒチで描かれた大作
 《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》
 を中心に、画家が文明社会に向けて残したメッセージを読み解きます。


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《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》
1897-98年に描かれたこの絵は、画家が目指した芸術の集大成であり、その謎めいたタイトルとともに、後世に残されたゴーギャンの精神的な遺言であり、混迷する現代に向けられたメッセージであるだろう。

ゴーギャンの言葉
私は、死を前にしての全精力を傾け、ひどい悪条件に苦しみながら、情熱をしぼってこれを描いた。そのうえ訂正の必要がないくらいヴィジョンがはっきりしていたので、早描きのあとは消え、絵に生命が漲ったのだ。これには、モデルだの、技術だの、規則だのと言ったものの匂いはない。 このようなものから、私は、いつも自分を解き放ってきた。ただし、時には不安を覚えながらね。「タヒチからの手紙」(岡谷公二 訳)からの抜粋

ゴーギャン自身「これまでに描いたすべてのものよりすぐれているばかりか、今後これよりすぐれているものも、これと同様のものも決して描くことはできまいと信じている。」と述べているように、まぎれもなく彼の最高傑作である。

この絵が展示されている部屋の手前で、この絵の解説の映像が流されていた。ある意味でイコノロジー(図像解釈学)的な検討を行っている。確かに絵は解釈するものでなく、その印象を直感的に受け止めればいいという意見もあるだろうが、その絵の持つ隠された意味を知る事によって絵はさらに厚みと深みを持って我々の前に立ち現れてくるのも事実である。
 
この縦139.1×横374.6cmの大作、横長の画面の上には、人間の生の様々な局面が、一連の物語のように展開する。

我々は何処から来たのか
: 画面右下には眠る幼児と三人の女性がいる。ゴーギャンはよく子供の絵を描いている。人類の起源、人間の誕生への深い思い入れがあったのだろう。

我々は何者なのか
: 中央の女性は禁断の果実を摘み取ろうとするエヴァなのか。エヴァは「善悪を知る知識の木」の実を取って食べ、アダムと共に楽園から追放された。人間の喜びや苦しみはここから始まった。人は生の重荷を背負って生きなければならない。

その右上の紫色の着物の二人の女性は何を話し合っているのだろう。それぞれの思索を語り合い知を求めているのか。それを「驚いた様子で眺めている」不自然なほどに大きく描かれた後姿の人物は何を意味しているか。

我々は何処へ行くのか
: 左下に一人の老婆がうずくまっている。彼女は死を受け容れようとしている、死によって物語を完結する。この老婆の姿は、パリのトロカデロ博物館にあったペルーのミイラを源泉としていると言われている。このうずくまり両手で頬を挟んだ姿はゴーギャンの絵の多くに登場する。死、不安、苦悩を表している。

背後に立つポリネシアの月の神ヒナの偶像は人間の誕生から死までを見つめ、「彼岸を指し示しているように見える」、その前にしゃがむ女性は顔を左に向けながらも視線は逆向きで、「偶像の言葉に耳を貸しているよう」である。像の右に立つ女性は死んだゴーギャンの娘を描いたと言われている。

老婆の足元のトカゲをつかんだ白い鳥は「言葉の不毛さを表している」。また中央の女性の左には猫と子供と山羊、右端に半分だけ描かれた犬がいる。これらがどのような寓意をもっているのだろうか。忠誠や信仰を表すために犬が描かれる事がしばしばあるという。さらに水浴する女も描き込まれている。これらが全てが相互に影響しあいながら一つの大きな流れに収斂していく。

この一連の絵の流れの中で、自ずと人間の生と死、文明と野蛮といった根源的な主題に辿り着く。この一枚絵は、ゴーギャンの絵画の根底的課題である人間存在に関する深い感情や思索を凝縮した形で造形的に表現している。(参考: ゴーギャン展・公式ホームページ)

以前浄土真宗の坊さんの講話を聞いたことがある。「生老病死」という人間は4つの苦しみを抱えている。この苦しみから逃れるには、ひたすら念仏を唱える他ないというものだ。念仏はさておき、生老病死という生まれたことその時から苦しみが始まる。ゴーギャンの絵を見てそれを感じる。

南仏アルルでゴッホと一緒に生活していた時二人が描いたブドウ畑の絵があるが、ゴッホはブドウの収穫の喜びを表すように鮮やかな色彩で取り入れの風景を描いている。ゴーギャンは、ブドウ畑で収穫をしている風景の前に、うずくまり両手で頬を挟んだ暗い顔をした女性を描いている。どのような華やかな風景や収穫という心弾む中にあっても、人の心の中の根源的苦悩は消すことが出来ないということを描いているようだ。

この根源的な苦悩を彼は、タヒチの原始と野性、原初の人類に備わる生命力や性の神秘の中で、自らの野蛮人としての感性を重ね合わせ、昇華しようとしていたのかもしれない。

そして最後に行き着いたのは《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》に描かれた世界だった。それは誕生から死まで、苦悩と迷いの中に生きる人間の総体を受け止め、そのありのまま姿を肯定することではなかったのか。

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定期検診の日

9月16日(水)
2週間一度の定期検診の日。血液検査の結果は以下の通り。

検査結果 
 IgM    1817(9/16)←1635(9/2)←1381(8/19)
 白血球   2.6←2.1←2.3 
 血小板   18.5←21.5←16.8
 赤血球   305←308←296
 ヘマトクリット 32.1←31.8←31.0 
 ヘモグロビン 10.1←10.1←9.7


6月11日から始めた、サリドマイド100mg/毎日+ビンクリスチン(オンコビン)2mg/2週間ごと点滴+デキサメタゾン(デカドロン)40mg/月4日の3種併合療法は、3ケ月も持たず、もはや効果がなくなったと判断せざるを得ない。

医者も次にどういった療法にするか考えてこなかったようで、数値の上昇を見て頭を抱えていた。サリドマイドとボルテゾミブ(ベルケード)の組み合わせもあるが、末梢神経障害(手足の痺れ)がサリドマイドの影響で発現している段階での併用は難しいということがある。

他の方法はないかということで、あまり考えずに「多発性骨髄腫のサリドマイド療法」(日本骨髄腫患者の会編)にあった「Guideline Thalidomide in Multiple Myeloma : Current Status and Future Prospects 」の表から選ぶ他ない。MPTを提案した。表にあった順番でやっているようなものだ。

1、HYPER-CDT: サリドマイド、シクロフォスファミド、デキサメサゾン
2、TVAD: サリドマイド、ビンクリスチン、アドリアマイシン、デキサメサゾン
3、MPT: サリドマイド、メルファラン、プレドニゾロン

TVADは白血球が少なかったのでアドリアマイシン(ドキソルビシン)は省いたが、サリドマイドとVAD療法を組み合わせたものの変形でおこなったようなものだ。恐らくアドレアマシンを組み入れることが出来たらもっと効果は長続きしたと思われるが、この薬は骨髄抑制がかなり強いということで使用できなかった。今度はサリドマイドとMP療法を組み合わせて行うものだ。

サリドマイド(サレドカプセル)100mg 毎日
メルファラン(アルケラン)8mg(2mg×4)月4日連続服用
プレドニゾロン(プレドニン)50mg(5mg×10)月4日連続服用


この組み合わせで行う事になった。MP療法は移植後の再発で、2007年6月から10月まで行い効果がなくなったのでベルケード療法に変えた経過がある。一度効果がなくなった薬も何年か経つと薬物耐性がなくなり、また効果を発揮するということだ。また組み合わせによって思いがけない効果を発揮する事もあるので、それを期待するほかない。

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退職金問題・労働審判申立

9月14日(月)
16時から人形町にある弁護士事務所での打ち合わせがあった。退職金の減額・就業規則の不利益変更に対する会社側を相手どっての「労働審判手続申立書」の内容検討を行う。

弁護士事務所は日比谷線の人形町と半蔵門線の水天宮の中間にある。今回は水天宮から行ってみる事にした。早めに駅に着いたので今まで行ったことが水天宮に寄ってみる事にした。水天宮駅を上がればそこが水天宮だ。急な階段を上るとそこが境内になっている。

oozei_convert_20090916211738.jpg最近大改築をしたのではないかと思われるほど建物の色彩が華やかだ。全てがコンクリート製で、神社特有の朱色を基調とした色彩が鮮やかに映え、恐らく立て替えてから2、30年は経っているのだろうが、真新しい感じを与えている。

1階全体が駐車場になっていて、その上に境内があるという何とも神社としては不似合いな合理的な造りになっている。古くからある神社なので古色蒼然としたイメージだったが、全く違っていて驚いた。それでも安産祈願、子育ての神社として戌の日には大勢の参拝客が詰めかけるらしい。

水天宮は、福岡県久留米市の水天宮を総本社とし、日本全国に30ケ所近くある神社である。水と子供を守護し、水難除け、農業、漁業、海運、水商売、また安産、子授け、子育てについて信仰が厚い。天御中主神(あめのみなかぬしのおおかみ)、安徳天皇、高倉平中宮(建礼門院、平徳子)、二位の尼(平時子)を祀っている。

弁護士事務所での会議では「申立書」の最終検討を行った。特に強調しておきたい点として提案したことがある。H氏が退職の際、退職金の金額が少ない事に気がつき、会社に問いあわせたが退職金規定の改定については一切明らかにしなかった。

H氏が退職金規定の一方的改定を始めて知ったのは、労基署が会社に改定された退職金規定の提出を要請し、労基署から新退職金規定を見せられた事によってである。

このことから、会社側は就業規則の不利益変更に関して労働者に徹底させる所ではなく、むしろひたすら隠蔽しようとしていたことが明らかである。これはまさに労働基準法の90条、106条に違反する重大な不当労働行為と言える。

こういった内容を盛り込みながら最終的に「申立書」を確定し、裁判所に今週中に提出する。それに対する反対意見を、会社側は答弁書として裁判所に提出する。それが届いた段階で、会議を持って答弁書への反論を検討しなければならない。

そして労働審判の日が決まった段階で最終の打ち合わせをして審判に望む。第1回審判でどのような主張をしたらいいかの検討を行い必要資料を審判の日まで揃える必要がある。第1回労働審判でこちら側の主張は全て出さなければいけないので、遺漏がないように準備しなければならない。

労働審判手続は,労働審判官(裁判官)1人と労働関係に関する専門的な知識と経験を有する労働審判員2人で組織された労働審判委員会が,個別労働紛争を、原則として3回以内の期日で審理するというのだから、第1回審判で原告、被告双方の主張は全て出し尽くさなければならない。それだけ準備が大変だということだ。

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長崎神社例大祭

9月13日(日)
9月の第2土曜、日曜日は地元長崎神社のお祭りだ。神社の境内及びその周りはもちろん、椎名町駅周辺には屋台が軒を連ね、かなりの人出で中々前に進めない位だ。普段は全く人が寄り付かない長崎神社もこの日ばかりは人で溢れている。お参りするのに長い行列が出来ている。

長崎神社018_edited_convert_20090913171742 椎名町駅前

家の周りは定期的に神輿や子供の引いた山車が通り、家の前の商店が休憩場所になっていて、一日中ざわざわしている。公園には神輿や山車が置いてあり、寄付者の名前が大きな立て看板に張り出されている。

長崎神社の略歴は、「元来、櫛名田比売命(くしなだひめのみこと)を祀り、武州豊島群長崎村の鎮守でしたが、江戸時代中期には、十羅刹女社(じゅうらせつにょどう)とも称されていました。明治7年、須佐之男命(すさのおのみこと)と合祀として長崎神社と改称」と書かれている。

長崎神社012_edited_convert_20090913171616 長崎神社本殿

長崎神社014_edited_convert_20090913171821 長崎神社境内

「村の鎮守の神様の今日は楽しい村祭り」といった歌を小学校の頃歌ったが、昔は今と違って祭りも作物の豊穣を感謝する催しだったのだろう。ほとんど何の娯楽もなかった昔、祭りは子供達にとって正月と同じように数少ない大きな楽しみの一つだったに違いない。

長崎神社周辺の町内会がホームページで祭りの寄付集めとか山車のコース紹介とかをしている。町会費を毎年払っているが、活動らしいものは、祭り以外ない。ある意味で、年に1度のことでしかないが、祭を通しながら、都市化によって人間関係の疎遠になった地域住民の心を一体化する作用を求めているのかもしれない。

長崎神社029_edited_convert_20090913172148 サンロード商店街の神輿

何百人の人がそれぞれの町会のハッピを着て、神輿を担いだり、様々な祭りの準備をしている。長崎だけでなく、千早や千川町会も参加している、かなり広範な地域で行われる。祭りとは変わりない日常の中に非日常の空間を演出することによって、自己の日常性を再認識する場なのだろう。

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TOKYOウオーク2009・皇居外苑エリア

9月12日(土)
東京都と日本ウオーキング協会主催のTOKYOウオーク2009も今日の第5回大会で終了となる。今日はゴール受付後、メダルの交付がある。5回のうち3回参加の人はブロンズ、4回の人はシルバー、5回全部参加した人はゴールドのメダルを受け取ることが出来る。こういった景品は子供だましと言ってしまえばそれまでだが、やはり励みになる。

皇居外苑エリア072_edited_convert_20090912155659 日比谷公園の会場

集合場所は日比谷公園の楡の木広場だ。いつもと同じ緑縞のテントがずらっと並んでいる。受付を終え、ゼッケンを付けて出発する。丁度折悪しく雨が土砂降りで落ちてくる。今回のCコースは日比谷公園から官庁街を通り、皇居を一周する6.8kmである。

日比谷公園を出て、検察庁の前の陸橋を渡り、弁護士会館を右に見ながら、霞門を右折する。左に厚生労働省、工事中の農林水産省、右側に裁判所がある。東京地裁、東京高裁の建物に沿って右折し、レンガ造りの法務省を経て有楽町線の桜田門駅に出る。信号渡ると、大きなアンテナを屋上に突き立てている警視庁の建物がある。この建物は良く目立つ。存在を誇示しているような雰囲気だ。このコースのここまでは司法の中枢を担う建物の社会見学といったようなものだろう。もう少し行くと最高裁判所もある。

ここから内堀通りを行く。お堀端の道はマラソンランナーがひっきりなしに通行するので、ウオーキングの人は外側の道を行く事になっている。国会議事堂や、最高裁判所、国立劇場、イギリス大使館などを左に見ながら皇居を巡るコースを進む。

皇居外苑エリア018_edited_convert_20090912155157 国立近代美術館工芸館

千鳥が淵の信号を右折し、北の丸公園に向かう。国立近代美術館工芸館のレンガの建物が目の前に現れる。この建物は旧近衛師団司令部庁舎を改修して、使用されており、館全体が重要文化財に指定されている。しばらく行くと東京国立近代美術館がある。ゴーギャン展をやっていた。見に行こうと思っていたがつい忘れていた。9月23日までだと書いてあったのであまり時間がない。

北の丸から竹橋の毎日新聞社ビルに出て、内堀通りを日比谷公園まで行く事になる。ここからは皇居周遊ハトバスコースだ。外国人観光客に混じって、皇居見学をする事になる。しかしよく知っているはずの皇居に行ったことがあるかというとないのではないかと思う。小さい頃の記憶を辿っても思い当たらない。内堀通りは昔仕事をしていた時にしょっちゅう通っていたが、通り過ぎていたに過ぎない。

皇居外苑エリア058_edited_convert_20090912155539 二重橋

皇居巡りといっても実際には江戸城址を巡るのである。平川門、大手門、桜田門、二重橋など名前は地名や信号で目にしているが実際には見たことはない。皇居東御苑は無料で開放されているが、さすがに時間の関係で寄ることは出来なかった。二重橋前では中国系、東南アジア系の団体客がカメラで記念撮影をしている。日本人はほとんどいない。

それぞれの門も由緒がある。平川門は江戸城の裏門、大奥に最も近いので、大奥女中達の出入りする通用門でもあり 、御三卿(清水・一橋・田安)の登城口でもあったようだ。桜田門は2つの門からなり、第一の門(高麗門)を通ると枡形の空地があり、右折すると第ニの門(渡櫓門)になる。 江戸見附様式で枡形形式の城門を構成している。大手門は三百諸侯が威儀を正して登城した門になり、大手下乗門(大手三の門)、 大手中の門、書院門(中雀門)を経て本丸玄関前に至る。(皇居参観ガイドより)

皇居外苑エリア026_edited_convert_20090912155351 平川門

皇居外苑エリア034_convert_20090912155435 大手門

皇居外苑エリア065_edited_convert_20090912155617 桜田門

旅行に行って観光名所の城見学はするが、地元の江戸城址は全く見たことがない事を思い知った。ウオーキングコースに沿った所しか見てないが、見所はかなりありそうだ。いつか機会を見て行ってみよう。

雨は出発時激しく降っていたが、その後小降りになり、コースを半分位行った段階で止んだ。雨が降ったせいもあるのだろうか、気温は上がらずウオーキングには最適な気温だった。ゴール受付を済ませ、4回参加のシルバーメダルの交付を受け会場を後にした。残念ながらももの木の人とは会うことが出来なかった。

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院内患者家族交流会(おしゃべり会)

9月11日(金)
K病院内での患者家族交流会も今日で20回目となった。ここの病院の医者は最初から協力的で、場所の確保や患者会のポスターの掲示など面倒を見てくれる。患者会の活動に非協力的な病院もあるが、最近はむしろ医者の方から、治療に迷っている患者に対して患者会を紹介する例も結構ある。

病気を体験した患者の生の声は、これから化学療法や移植をやろうと思っている患者にとって何よりも参考になる。医者は統計で説明する。同種移植による治療関連死は10%~20%だと説明されると、患者は驚いて移植に対する限りない抵抗感を抱く。

しかし、移植体験者の話を聞くと、そんなに恐れる必要はないということに気がつくし、移植の時の注意事項なども事細かに知る事が出来る。そういった意味で、余計な心配を取り除くのに患者体験者の話しは貴重であり、医者もそれを利用する。無駄な心配で治療が遅れ、手遅れになってしまってからでは遅い。

今日始めて交流会に来た患者は、骨髄形成症候群(MDS)の44歳の患者であった。企業の最前線で活躍するエリート・サラリーマンという所だ。何としても仕事は続けたい気持ちがある。その意味で治療は出来るだけ先延ばしにしたいという。

現在白血球や赤血球は少ないことは少ないが日常生活に差し支えるほどではない。しかし血小板が3.5前後だということだ。入院中ならまだしも普通に働いていたならもう少し下がれば輸血をしなくてはならない。

今のところ待機療法ということで、定期的な検査をしながら様子を見ている。医者が彼に示した選択肢は、いつ移植をするかということだ。前の病院では直ぐ移植すべきだと言われ、納得できず病院を変えたということだ。

血液がんの多くは化学療法を何回か行いその後移植になるのだが、骨髄形成症候群の場合、抗がん剤治療による寛解到達だけでは治癒とはならず、この効果は1年位しか持続しない場合が多く、再び骨髄での芽球の割合が増加してきてしまうということである。だから化学療法をせず即移植に入るということだ。

造血幹細胞移植前に抗がん剤治療を行う場合もあるが、これは骨髄中の未熟な芽球を減少させてから造血幹細胞移植をするためのものでしかない。超大量化学療法で骨髄中の不良な幹細胞を根こそぎ叩き新しく移植した幹細胞を定着させていく外ないのである。

そういった意味で同種移植が最も重要な治療方法で、ある意味で唯一の選択肢であるような病気だといえる。既に骨髄バンクに登録し、ドナーの候補も確保してある。しかし移植をした場合、人にもよるが骨髄抑制が退院後も長く続き、同種移植に伴うGVHDに悩まされ、内蔵機能回復にかなりの時間を要する。さらに最も悩まされるのは体力消耗に伴う、疲労感、倦怠感である。最初は半日以上寝て過ごす事になり、本当に体力が元に戻るのは2年位かかると体験者は言っている。移植後の職場復帰にはかなりの時間が必要となる。

問題はいつ移植を行うのか。仕事の関係で出来るだけ先延ばしにしたいという気持ちはわかるが、病気が進行し体力の低下を来たした段階で移植をするより、まだ内蔵にも問題がなく、体力も充実している段階で行った方が効果が期待出来るのは当然だ。しかし、今一切の自覚症状もなく、問題なく仕事を含め日常生活を送っている状態で、移植による様々な薬剤有害事象を引き受けることを覚悟しなければならないということは納得しがたい思いであるだろう。

 今日の交流会には血液内科の医者や臨床心理士など9名が参加した。後から医者1名が参加し色々アドバイスをくれた。MDSの患者の移植時期についていつにするかの結論は結局本人が仕事と治療との矛盾をいかに解決するかの判断に委ねる他ないのだ。

「移植治療を始めたら今の部署での仕事は出来なくなるだろう」という状況の中でどのように最善の道を選んでいけるのだろうか。がん治療はある意味で患者本人の選択が入り込む要素がかなり大きい。それはある意味でかなりの負担であることは確かだ。医者任せの方が楽に違いない。しかし自分の命は自分で責任を持たなければならない。厳しい選択を自らに科していく他ないのである。

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色々あった1週間

9月11日(金)
今週は出かける用が結構あった。いつも家にいると家にいること自体何とも思わないが、外出が多いと、朝から家にいると何故かのんびりした気分でゆったりとくつろいだ雰囲気になる。丁度休日の日のように。

月曜日は「いのちの授業」の打ち合わせで、墨田区の曳舟小学校に行った。墨田区の小学校での「いのちの授業」は初めてだった。以前荒川区の瑞光第六小学校の教師が転任し、瑞光第六小学校でやっていた「いのちの授業」を転任先の曳舟小学校でもやりたいということで紹介され、9月27日の日曜日の保護者参加の公開授業で行うということだ。

火曜日は友人の家に行って、2時間ばかり労働審判の弁護団会議が来週月曜日にあるのでその打ち合わせをしてきた。

息子が遅い夏休みを取って今週休みだという。旅行でも行こうかと思ったらしいが、彼はあまり旅行が好きではない。学生時代全国巡りのロックのツアーをやっていて、売れているバンドでなかったので宿泊施設など用意してくれるわけでもなく、ライブハウスの床に寝たり、車で寝たりして旅行であまりいい目を見ていない。最近でも時々地方にライブで出掛ける。この間は高知に行って演奏し、次の日地元の音楽仲間の案内で好きな坂本竜馬の関連施設を巡ることが出来たそうだ。

そういったことで、どこかに出かけるよりも家でまったりしていた方がいいという気分なのだろう。水曜日は、その息子から映画でも行こうかと誘われた。今はやりの『20世紀少年・最終章』を見ようという。第1章と第2章はDVDで見た。映画館は池袋の方が近いが豊島園にある「ユナイテッド・シネマ」は周辺も静かだし封切り映画でもなければ会場も空いている。午前中など客が5、6人しかいないこともある。映画を見る時はもっぱらこの映画館を利用している。

315x210_convert_20090911215817.jpg映画自体は、1969年に小学生だったケンヂたちが書いた「よげんの書」の通りに、「ともだち」と呼ばれる覆面の教祖が率いる謎の教団が、20世紀末の2000年12月31日に巨大ロボットが出現させ、東京を滅ぼそうとする。これにケンジたちが昔の仲間を集め対決する。

その後教団は権力を握り、「しんよげんの書」をもってウイルスによる人類の滅亡を目論む。確かに全くリアリティの感じられない設定ではあるが、漫画としての面白さとして楽しめるのではないか思う。「ともだち」の正体への謎解きが全体を貫いていて緊張感を持って見る事が出来る。

映画を終わって昼からビールを飲みながら近くの中華料理屋で昼飯を食う。その後母親の実家に行く。母親は86歳だが、去年夕方日課の散歩の際転んで怪我をするまで、毎年海外旅行に行ったり、地域の「歩こう会」にも参加し出歩いていた。怪我をしてからは家にいることが多く普通の年相応の老人になってしまった。近くなので月1度位は訪問する。息子と一緒に訪ねた。

そして今日は院内患者家族交流会があり、明日はTOKYOウオーク2009第5回皇居外苑エリアがある。TOKYOウオークもこれで完結だ。歩くといっても目標がないとなかなかコンスタントに続けることが出来ない。だるいとどうしても出かける気力がなく家でごろごろすることを選択してしまう。こういった催しがあると頑張って出かけようという気になるから役に立つ。このようにたわいない日常が日々時を刻んでいく。

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NPOグループ・ネクサス第7回フォーラム

9月5日(土)
imgc6cd4a59209946efa86ab_convert_20090907002432.jpg世界リンパ腫デー(9月15日)/ライムグリーンリボン記念
NPOグループ・ネクサス第7回フォーラム(東京)
「リンパ性血液がん~より良い患者ケアと治療に向けて」

プログラム
急性/慢性リンパ性白血病の病態と治療について 13:10-14:50
非ホジキンリンパ腫の病態と治療について 15:10-15:50
B細胞リンパ腫の治療について 16:10-16:50
リンパ腫に対する造血幹細胞移植について 17:10-17:50


上記の催しが行われ、聴きに行った。原発性マクログロブリン血症と診断され、ずっとこの病気が多発性骨髄腫の係累だと思っていて、骨髄腫関連の文献を読んで病気についての情報を集めていた。しかし、幾つかの資料で、WMが非ホジキンリンパ種に分類されていることを知り、リンパ種に対する知識も必要だということを痛感した。

そういうことで、リンパ腫の知識を得ようと今回ネクサスのフォーラムに参加した次第だ。会場は2ケ所に分かれ、希望の内容の講演を聴くことが出来る。私は最初の講演を第2会場で聴き、それ以降を第1会場で聴いた。興味ある内容を選択できるということは有り難いことだ。

原発性マクログロブリン血症は、2001年のWHO「非ホジキンリンパ種の分類」では成熟B細胞腫瘍の中の4番目にリンパ形質細胞性リンパ種(原発性マクログロブリン血症)という形で分類されている。WHO分類2008年改訂版でも8番目に載っている。WMは病理学的にリンパ種の一種として分類されている。

講演の中で話されたが、リンパ球の腫瘍としては急性リンパ性白血病、慢性リンパ性白血病、悪性リンパ腫、多発性骨髄腫をはじめ各種ある。それぞれ、正常リンパ球のどの段階で発癌したかによって性質が異なると考えられている。そのためリンパ球の成熟過程を知っておくことが理解の助けとなる。

Bリンパ球の分化は、移動しながら、姿、形、働きを変えていく。最初骨髄の中で急性リンパ白血病となり、それが遺伝子の変化などにより、血液やリンパ管、リンパ節に広がり非ホジキンリンパ種になり、骨髄組織の中では多発性骨髄腫となる。といった一連の分化過程の中で様々な病状を呈する。

その意味で、WMの治療は本来的には、非ホジキンリンパ腫の治療法が中心になると思われるが、私の場合は入院して最初に投与したフルダラビンが全く効果を発揮せず、IgMはむしろ治療中の3週間の間に2000も上昇してしまった位だ。抗CD20モノクロナール抗体リツキシマブ(リツキサン)を使用しようと思ったが、CD20陰性だったため使用できなかった。

Bリンパ球の分化の過程で、急性リンパ白血病の場合の前Bリンパ球においてはCD20は発現しない、悪性リンパ腫の成熟Bリンパ球の場合CD20は発現する。多発性骨髄腫の形質細胞の場合CD20は発現しないということだ。そういったことで、私の場合は、IgM型骨髄腫ではないかといわれている。つまり非ホジキンリンパ腫より多発性骨髄腫に近いという訳だ。

リンパ腫と骨髄腫の中間的名病気と言うこともあって逆に色々な抗がん剤を使用しながら対応できている面もある。慢性リンパ白血病、リンパ種、骨髄腫の薬を様々に合み合わせながら治療効果を上げているように思える。

現在、非ホジキンリンパ種の標準的治療法となっているR-CHOP療法の解説があった。最初に驚いたのがリツシマブ価格だった。この療法は3週間おきに8クルー行う。375mg/m2の1回分の薬の価格は約30万円に達し、4回投与で約120万円、8回投与で約240万円という極めて高価だということだ。サリドマイドも高額だがその比ではない。

ネクサスの現理事長が入院していた時はまだ保険適用がされていなくてあまりにも高くて使えず、CHOP療法を行ったと言っていた。第1回目は副作用が出た時の対応が必要なので入院するが2回目からは外来で出来る。血液検査をし、診察をし、リツキサンの点滴は4時間かけて行う。その後抗がん剤の投与で1時間かかるという1日仕事となる。

9月2日に外来治療センターでゾメタの点滴を行っていた時に、隣のベッドの人がリツキサンの点滴をやっていたが、途中で気持ち悪くなり、一旦治療を中断した。しばらくして医者が来て、入院して長時間かけて点滴をする方法に変えようということでその日の治療は中止になった。

CD20が発現したら私もリツキサンを使った療法を始めようかと医者が言っていたがベルケード以上に負担がかかるなという気がする。それしか方法がなかったら仕方がないが。

講演内容は、急性、慢性リンパ白血病の病態と治療が詳しく解説されたた。非ホジキンリンパ腫に関してはリンパ球の説明から、リンパ球の分化の過程の解説、標準治療から最新治療まで、ゼヴァリンなどの使用を含めた説明がなされた。さらに地固め療法や難治性のリンパ種への造血幹細胞移植の奏効率、自家移植と同種移植メリット、デメリットなどが話された。

今まで多発性骨髄腫については一定程度知識はあったが、白血病やリンパ種については体系的に耳にする機会がなかった。今回は網羅的に効くことが出来てこれからの治療に何らかの形で役に立て行きたいと思う。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

時代小説の面白さ(藤沢周平)

9月5日(土)
宮部みゆきの次は藤沢周平だった。彼の時代小説は今まで一冊も読んだことはなかった。それにもかかわらず映画は全て見ている。「たそがれ清兵衛」「隠し剣・鬼の爪」「蝉しぐれ」「武士の一分」「山桜」とそれぞれ興味深く見た。

下級武士の日常生活がリアルに描かれ、その時代の武士の知らなかった面が見えてくる思いだった。藩の内紛や上下関係の厳しさなどサラリーマン世界を思い出させるような場面も出てくる。

カクシケン_convert_20100605122029 最初に読んだのが『隠し剣弧影抄』とそのシリーズの『隠し剣秋風抄』だった。この本はY氏が沖縄に持って来て読んでいたので読もうと思った。「邪険竜尾返し」「臆病剣松風」「暗殺剣虎の爪」などの表題にあるように「必殺技」を持つ者達を描いた短編集だ。

主人公たちは、技を持っていることを明らかにしていない。しかしどこからともなくその剣の腕が知られ、その剣技故に悲運を背負うことになる。しかし紆余曲折を経ながらもその必殺剣によって自らの命と名誉を守ることが出来たといった内容になっていて、読み終わった後の爽快感がこの小説の読み応えといってもいいだろう。

主人公は藩の下級武士で日々の生活の維持のため、城勤めの合間を縫って百姓や内職の仕事をしている。そういった生活を抱えながら剣の腕を買われ藩内の政争や自家の存続ために、身を犠牲にしなければならない悲哀が切々と描かれ心に染みる内容になっている。

また、架空の城下町の描写も細かい。藩名が「海坂(うなさか)藩」と出て来る。この「海坂藩」は架空の藩ではあるが、作者である藤沢周平の生まれ育った地である山形県鶴岡市、江戸時代の出羽国庄内藩がベースとなっているといわれているということもあって、とても架空とは思えないほど、季節ごとの自然や町、城下の様子などの描写が巧みだ。

藤沢周平の時代小説には幾つかのシリーズ物がある『用心棒日月抄』シリーズは4冊ある。東北の小藩を諸般の事情で脱藩し江戸で浪人暮らしをする青江又八郎と、その周辺の人物を描いている。

裏店の薄汚れた長屋に住み、口入屋からの紹介で用心棒の仕事を貰って生活している。用心棒の仕事がない時は土方とか沖仲仕でも何でもやらなければ生活できない。その用心棒の仕事で遭遇する様々な事件や人間関係が、巧みな剣さばきによって事件を解決していくことを背景にしながら、描かれている。

61c0FDWcauL__SL500_AA240_.jpgもう一つのシリーズものは『彫師伊之助捕り物覚え』で3冊出ている。主人公伊之助は、仕事熱心な親方の下で彫り師を本業としている。しかし元腕のいい岡っ引きだったという所を買われて、昔の知り合いの同心から殺人事件の捜査の手伝いを頼まれる。手伝いといっても、根が後には引けない性格のせいで、どんどん事件にのめり込んでいき、結局中心になって事件解決まで担ってしまうのだ。

藤沢周平は解説の中で「伊之助は、元凄腕の岡っ引きで、逃げた女房が男と心中したという過去の影を引きずっており天真爛漫な岡っ引きではない。この伊之助は岡っ引きが職業ではない。ハードボイルドの私立探偵の感覚です」と書いている。

舞台は本所深川を中心として下町の人たちの生活をベースに商人、職人、小料理屋、飲み屋など多種多様な職業の人たちが登場し飽きさせない。本所深川の地名が事細かに出てくる。

藤沢周平が解説で「岡本綺堂は明治の作家だったからまだ江戸が残っていてそのままの風景描写が出来た。しかし今の時代江戸を書くことはかなりの困難がある」と言っているが、事細かに本所深川の地名が登場する。

今でも残っている地名がかなりあり、吾妻橋、新大橋、永代橋や竪川、小名木川などは今もあり、本所、石原、緑、菊川、森下、深川、清澄、木場などの地名も残っている。そういった意味で江戸時代の時代小説でも登場人物の動きを距離感覚を含めて追うことが出来る。

子供の頃八丁堀に住んでいた。その頃の八丁堀は東京駅から10分の地であり、ビルに囲まれた所だった。住居はビルの中で昔の面影などは当然なかった。八丁堀といえば捕物帖で有名な「八丁堀の旦那」と呼ばれた江戸町奉行配下の与力・同心の町だった。与力は徳川家の直臣で、同心はその配下の侍衆で、その下に岡っ引きが就く。北町奉行は東京駅の傍にあり、南町奉行は有楽町駅の傍にあったいうから、その関係で八丁堀が選ばれたのだろう。

八丁堀に住んでいたのは小学校6年からで、小学校は京橋にあり、中学校は霊岸島にあった。新亀島橋を渡って中学校に通っていた。霊岸島は第三代将軍徳川家光の時代に埋め立てて作った人工島で、造成完了は寛永元年(1624年)だという。そういった地名が出てくると懐かしい気がする。時代小説の捕物帖では欠かせない地名だ。藤沢周平に小説にも何度か出てくる。

藤沢周平の時代小説は武家を扱っても、町人を扱ってもどちらも面白い。『たそがれ清兵衛』『麦屋町昼下がり』など武家世界の理不尽な掟に翻弄される下級武士の苦衷がしみじみと伝わってくる。

町人を扱ったものは市井の生活の苦労が行間から滲み出てくるようだ。働けど暮らしは楽にならない。裏店の柱が曲がったような長屋に子供を何人も抱え、男は物売りに出かけ、妻は内職をしてもかすかすの生活を維持するのに精一杯の生活を続けていかざるを得ないといった江戸の町人の日常が鋭い筆致で描かれている。そういった中で江戸情緒をかもし出しながら、義理人情を織り交ぜながら、物語が展開していく。

全てが読み応えがある。短編小説が中心であることもあって、非常に読みやすく次々と読みこなしていった。図書館に25冊位あるが、20冊ほどは読んだ。後5冊で読み終わる。次は誰の小説に挑戦するか楽しみだ。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

時代小説の面白さ(宮部みゆき)

9月4日(金)
時代小説を読み始めたのは、ひょんなきっかけからだった。宮部みゆきの推理小説はよく読んでいたが時代小説は全く手付かずだった。図書館で宮部みゆきの本を探していたら彼女の時代小説が目に入った。

今まで読んだことがなかったのでの中でどんなものかなと思いとっつきやすそうな、岡っ引きの謎解きを扱った「茂七親分」シリーズの代表作『初ものがたり』を借りて読んだ。

本所深川をあずかる岡っ引きの茂七親分が、下っ引きの糸吉・権三とともに、江戸の下町で起こる魔訶不思議な事件に立ち向かう。「鰹」「白魚」「柿」「桜」など、江戸の季節を彩る「初もの」を題材に、市井の人々の日常生活の中の哀しみや欲望を適確に書き綴っている。軽妙な謎解きが全体をしっかりと束ねている。

513S.jpg次に「茂七親分」シリーズでもある「本所深川ふしぎ草紙」を読み始めた。本所深川には七不思議があるという。この7つの言い伝えを元に書いたものだ。怪奇現象を絡めた下町の人情話の短編集で、片葉の芦、送り提灯、置いてけ堀、落葉なしの椎、馬鹿囃子、足洗い屋敷、 消えずの行灯と7つの物語で成り立っている。謎解き、人情話、怪談ばなしなど多彩な内容を絡み合わせながら一つづつ丁寧に物語を作り上げている。

それ以降『幻色江戸ごよみ』『堪忍箱』『あやし(怪)』など次々と宮部みゆきの時代小説を読み続けた。登場人物の裕福な商人から裏店の長屋住まいの極貧の人々たちに至るまでの生活が事細かに描かれ、その時代の下町の人々の生活がひたひたと心の中に染みわたって感じ取れる。

本所深川の市井の人々の喜怒哀楽をたくみに描き、当時の人々の暮らしを的確の表現しているその表現力に驚かされた。もちろん江戸時代のことは分らない。TOKYOウオーク浅草コースで巡った事もあって本所深川の現在の町並みの様子は大体分るが、江戸時代の地形は江戸地図の切絵図でしか分らない。

しかし彼女の時代小説を読んでいるとまさに江戸のその頃の本所深川の情景が直ぐそこで見てきたかのように表現されていて、自分がその場所を歩いているかのような錯覚に捕らわれる。

また人々の立ち振る舞いや、行動様式に全く違和感がなく、この時代の下町の人たちはこういう考え方をするのだろうなと何の抵抗もなく読み進めていくことが出来る。これは江戸時代の時代背景の対する調査もあるのだろうが、彼女の表現力による所が多い。まさに時代が臨場感を持って迫ってくる感じだった。

時代小説は、司馬遼太郎の『燃え剣』や『竜馬が行く』などは読んだことはあるが、特にその後読み続けるということはなかった。この宮部みゆきの時代小説を読み始めたのがそれ以降、時代小説にはまるきっかけとなった。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

趣味と娯楽の生活

9月3日(木)
  人にはそれぞれ人生の楽しみ方がある。何を娯楽と考えるかは人によって全く違うのは当然だ。競馬や競艇、パチンコだって娯楽には違いない。趣味や娯楽には優劣は付けられない。しかし趣味や娯楽によって身を破滅したくはないものだ。

入院前の5,6年間は、バブルがはじけ不況の直撃を受けたデパート、量販店、アパレルメーカーを主要取引先とする会社の中で、人員削減もあり仕事は加速度的に忙しくなった。趣味や娯楽とは全く切り離され、仕事が人生の全てを占めてしまっている様な生活をしていた。

それが突然入院し、1年後退職し、その後傷病手当金で生活し、60歳で年金暮らしになり、時間は全て自分のものとなった。朝起きて会社に行く事もなく、什器の調達に四苦八苦しなくてもいいし、夜中1時2時まで積み込みのトラックを待っていなくてもいい。180度人生が転換したというわけだ。

もちろん入院しなくても60歳で定年ではあるのだが、その後も4年間は嘱託で本人が希望し会社が認めれば続けて働くことが出来る。恐らく病気にならなければ、定年後も同じ会社で同じ仕事を続けていたことだろう。

  病気のせいで体力が低下しテニスやマラソンなどの過激なスポーツは無理だが、ハイキングやウオーキングは可能だし、旅行も出来る。体を動かすことに関してはそれで我慢するしかない。

本を読むのが好きだった。会社でも昼休みずっと本を読んでいたが、入院前の2、3年はその気力もなくなっていた。音楽を聞く事も、楽器を弾く事も段々と自分の生活から抜け落ちていった。

今時間は全て自分のものだ。テレビは朝のニュース番組以外は見ない。時々見たい映画をやっていると見るがテレビ番組表を見ないのでほとんど見逃す。テレビは娯楽でも趣味でもない。よくアメリカ映画で、生活保護か年金暮らしの70~80歳の、貧困のど真ん中にいる様な1人暮らしの老人が登場し、揃いも揃って朝から寝るまでテレビを見ているといった場面が出てくる。

そうはなりたくないと思ってテレビはなるべく見ないようにしている。テレビは外から与えられるだけだ、そこには意思による積極的な働きかけや選択の余地がない。

  趣味として読む本は、海外ミステリーが中心だった。ジョン・グレシャムやパトリシア・コーンウェル、ディック・フランシスやアガサ・クリスティーまで幅広く読んでいた。

日本のミステリーも病院のディ・ルームや医療情報相談室の本箱にかなりの数があったのでそれを利用して読んだ。あまり考えないで読め、3,4時間で読みきることが出来るので気分転換にはなかなかいい。肩の凝らない読み物だといった感じだ。

最近は藤沢周平などの時代小説にはまっている。本を読む楽しみは何にも増して大きい。しかし、家事もやっているが、趣味と娯楽の日々というのも中々難しい物がある。ある意味で病気だということで免罪されている点もある。

望んで病気になったわけではない。病気と引き換えに自由な時間を望んだわけでもない。体力消耗と定期的な治療という重荷を背負いながら幾ら時間があるといっても限界があることは明らかだ。しかしそういった与えられた条件の中で人は生きていかなければならない。そうであるならば前向きに自由を謳歌して行く様な人生を選択していくほうがいいに決まっている。そう思いながら日々どのように過ごしていこうかと考えざるを得ない。

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定期検診の日

9月2日(水)
2週間一度の定期検診の日。血液検査の結果は以下の通り。

検査結果 
 IgM     1635(9/2)←1381(8/19)←1507(8/5)
 白血球   2.1←2.3←4.2 
 血小板   21.5←16.8←21.1
 赤血球   308←296←308
 ヘマトクリット 31.8←31.0←31.3 
 ヘモグロビン 10.1←9.7←10.1
 IgG     203(9/2)←326(5/14)
 IgA     <10


IgMが再び上昇した。後2回ほどビンクリスチンを使った今の療法をやってIgMが上がり続けるようだと療法を変えざるを得ないだろう。久しぶりにIgGの数値を測った。5月に測った時には300以上あったのが203と急激に下がっている。免疫グロブリン製剤の点滴投与を行なうことになった。

免疫グロブリン製剤は、献血された血液から取り出されるもので、血液製剤だということを始めて知った。そこで輸血同意書というものに署名することになった。輸血用の生物由来製品で使用する製剤としては、赤血球、血小板、新鮮凍結血漿、免疫グロブリン、アルブミン、血液凝固製剤、フィブリノゲンなどがある。

同意書は「輸血療法など特定生物由来製品による治療についての説明書」があり、効果と危険性が述べられている。免疫グロブリンに関しては「これを用いない場合、重篤な感染症を発症することがあり、また免疫グロブリンが適応になる自己免疫性疾患においては原病が憎悪することがあります」と書かれている。

病院に9時30分に着き、10時過ぎに血液採取の順番が回ってきて採血する。11時30頃に医者からの呼び出しで診療室に入る。2,3分で話しは終り、サリドマイドの処方に関する手続きを前回と同じように行い、点滴の薬の手配をしてもらって診療室を出る。

次に外来治療センターに呼ばれたのが12時15分頃、医者が点滴針を刺しに来たのが12時30分、20mlの生理食塩水に混ぜたビンクリスチン2mgは注射器で30秒位で注入する。その後ゾメタを1時間かけて、免疫グロブリン製剤は2時間かけて点滴する。会計をして、薬剤部でサリドマイドの説明を前回と全く同じように受け、結局病院を出たのは4時過ぎになってしまった。病院通いは1日仕事だ。

医療費の高額に驚くばかりだ。サリドマイド(サレドカプセル)14錠(2週間分)の料金が92,570円で、点滴薬が、96,230円かかっている。ゾメタが4万円、免疫グロブリン製剤が4万5千円となっている。医療費の合計が196,980円という高額だ。保険適用でも59,000円支払わなければならない。2週間一度この出費を強いられるとなると年金暮らしの身としてはかなりの負担だ。

確かに国民健康保険での高額医療費制度による返還はあるが、戻ってくるのは3ケ月後となる。3回目までは約80,000円以上が4回目以降は44,000円以上が戻ってくるが、毎月の定期的な出費はかなりの負担となるのは確かだ。この高額な医療費をどうにかしないと医者にかかれる人がどんどん少なくなっていってしまうのではないかと思ってしまう。

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がん治療とは長く細い道を辿ら
なければならない。その先に希
望があると信じながら。

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