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新型インフルエンザの流行

10月30日(金)
今日は、中央区立久松小学校で「いのちの授業」を行う予定だった。5校時(13:45~14:30)に5年1組と5年2組の授業を行い、その後体育館で保護者を対象とした講演会を約1時間に渡って行う事になっていた。それが昨日の夕方、久松小学校の副校長より電話で明日の「いのちの授業」及び「講演」は中止する旨の連絡があった。

理由としては、全校14学級中8学級が新型インフルエンザの感染防止のため学級閉鎖になり、5年1組も2組も学級閉鎖となった。そのため保護者への公開授業(講演会)も中止とするということであった。小学校でインフルエンザがそんなに深刻な問題になっていることに始めて気がついた。

文部科学省学校健康教育課作成の週報によると、学校の臨時休業(学級閉鎖・学年閉鎖・休校)の状況(10月19日~10月23日)は、国公私立合わせて、学級閉鎖-小学校598、中学校269、学年閉鎖-小学校269、中学校134、休校-小学校9、中学校7となっている。

学校に通っている子供でもいれば新型インフルエンザの流行をひしひしと感じられるかもしれないが、東京の小学校にこれほど広がっているという事に全く無自覚だった。街を歩いていても、電車に乗っていてもマスクをかけている人にはめったに会わない。その限りではまだ東京は大丈夫かなと思っていたら幼稚園や小学校、中学校などの層で広まってきている。

東京の教育現場ではインフルエンザ警報が発令されているようだ。子供から親に移る可能性があるのだから注意が必要だ。団地とかでは学級閉鎖で休みの子供たちが遊んでいる姿がかなり見られるという。

今日のニュースには次のように書かれていた「国立感染症研究所は30日、全国約5000カ所の医療機関から寄せられたインフルエンザ患者の報告数が、19~25日の1週間で1施設当たり24.62に上ったと発表した。前週(12~18日)の17.65から約1.4倍の増加。推計患者数も前週の83万人から114万人に増えた。」(10月30日12時27分配信 毎日新聞)

毎年日本のインフルエンザ感染者数が1000万人前後、死亡者が1万人前後だそうだ。誰も免疫を持っていない新型インフルエンザが日本で拡がれば、感染者の数が飛躍的に増える。これから冬の季節、通常のインフルエンザと新型インフルエンザがダブルで襲ってくる。

インフルエンザ・ウイルスは温度や湿度が低い所で繁殖力を増す。また冬には空気が乾燥し鼻の粘膜が乾くため、ウイルスが鼻の粘膜などに付着すると排除しづらく、感染が起こり易いとも言われている。新型だろうが、季節性のだろうがともかくリスクを背負った体なのだから細心の注意を払ってこの時期を乗り切っていかなければならない。
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定期検診の日

10月28日(水)
2週間一度の定期検診の日。血液検査の結果は以下の通り。

検査結果 
 IgM    1859(10/28)←2128(10/14)←2276(9/30)
 白血球   1.2←2.0←1.5 
 血小板   7.4←11.7←15.8
 赤血球   310←323←336
 ヘマトクリット 31.7←32.8←35.2 
 ヘモグロビン 10.2←10.4←10.9
 網赤血球   3←12←16←27(基準値5~20%)


IgM値はサリドマイド+MP療法の効果が見られ下がり続けている。しかし、サリドマイドの増量とメルファランの影響で急激に骨髄抑制が生じてきた。

白血球数が1.2(1200)と減っている。渡された表では好中球の値を示すStabとSegは検査中となっていたが、医者のパソコンでは0.5(500)を割っていると表示されていた。外来で通院治療を行ってからここまで減少したのは初めてだ。この数字だと本来は通院治療できる数字ではない。「 500/μl以下なら重度減少と考える。特に重度減少が続くと細菌感染症のリスクが高く、予防的抗生物質投与、無菌室管理などが必要になる」といった数値なのだ。

入院していたら好中球が0.5(500)を超えないとクリーン・ルームから出られず、ましてや外出も退院も出来ない数値だ。新型インフルエンザが流行し、例年のインフルエンザや風邪がはやる季節が到来するこの時期に好中球0.5(500)以下というのはあまりにも危険すぎる。好中球0.5(500)以下という数字は入院中の移植時や末梢血幹細胞採取時の強力な抗がん剤使用の時以来始めてだ。

血小板数
は比較的安定していて、基準値内の数値を保っていたが、2週間前から減り始め、今回急激に減少した。2週間でこの減りようは何だという感じだ。

赤血球数やヘモグロビン
への影響は数値的にはそれ程見られないが、赤血球の基となる網赤血球が大幅に減少し3%しかなく、それを基に赤血球が作られるので、これ以降赤血球はどんどん減少してくる可能性が大きい。

2007年5月30日からMP療法を始めた。MP療法を行っていた半年間の白血球の数値は以下の通りである。
   5/30(4.1), 6/13(3.4), 7/11(3.2), 8/8(4.2), 9/5(2.3), 10/3(2.6), 10/24(3.1)
一番下がった時でも2.3でその時の好中球は1.0を超えていた。やはり白血球の減少の大きな原因はサリドマイドを100mgから200mgに増量した事だろう。以前、サリドマイド+シクロホスファミド+デカドロンの併用療法の効果が薄れてきたのでサリドマイドを200mgにした所、白血球の減少が見られた。

療法の変更としては、サリドマイド200mgを100mgに減らす事にした。メルファランは一日8mgで4日間服用するが、最低量に近いのでこれ以上治療効果の点からいっても減らすことは出来ない。

白血球減少に関しては、G-CSFのグランの皮下注射を行った。ゾメタは通常通り点滴した。折角サリドマイド+MPが効果を上げてきたのに薬を減量することによって効果が減少することは十分考えられる。抗がん剤使用の難しさは効果と薬物有害事象とのバランスの取り方の難しさだろう。こういった綱渡り的治療を続けていかざるを得ないのがこの病気にかかった者に科せられているのだろう。それを引き受けて治療する外ない。

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映画 『タクシー・トゥ・ザ・ダークサイド』

10月25日(日)
guantanamo.jpg 大分前に行った集会でアムネスティのチラシを受け取った。そこに上映会・講演会の案内があった。映画は『タクシー・トゥ・ザ・ダークサイド』で、講演は元ガンタナモ被収容者ムラッド・クルナズさんだった。上映会は虎ノ門の発明会館ホールで行われた。

チラシには次のように書かれていた。「アフガニスタンのタクシー運転手ディラウォルの死。殺人と書かれた米軍による死亡証明書を読めない家族。真実を追究するジャーナリストや弁護士がたどり着いたのは、キューバのグアンタナモ米軍基地だった―テロとの戦の闇に切り込む衝撃のドキュメント。」まだ日本では劇場公演はされていない。自主上映だけだ。2008年度・第80回アカデミー長編ドキュメンタリー賞 監督、脚本:アレックス・ギブニー。

 2002年12月1日、アフガニスタンのタクシー運転手ディラウォルは3人の客を乗せたまま、二度と家族の元には帰らなかった。ディラウォルは「テロ」容疑者として米兵に引き渡され、バグラム空軍基地の拘禁施設に収容されたのだ。そこで拷問を受け、5日後に死亡した。

彼の足には拷問の後がはっきりと残っていた。もし生きていても足を切断しなければいけなかっただろうというほど損傷していたという。捕らえられてからずっと手錠で手を広げて吊るされていた。力を緩めれば手錠が手首に食い込む。

米空軍基地にあるバグラム留置施設、イラクのアブグレイブ刑務所、キューバのグアンタナモ刑務所これらは刑務所ではなく、ナチスの収容所と同じだ。裁判もなく、弁護士もなく、期限もなく何時終るとも知れない拷問が繰り返され自白を強要する場所でしかない。

実際収容所の中にいる95%は戦闘現場で捉えられた人達ではなく、密告によって「怪しいと」言われて捕まった者達だ。密告すると3000ドルが米軍からもらえる。その金欲しさにどれだけ無実の人が捕らえられたのだろうか。

 収容所内で「自白」を引き出すための拷問がいかにして正当化されていったのか、拷問が現場の一部の兵士の行き過ぎた行為ではなく上官からの命令によるものである事がインタビューの中で明らかにされる。

そしてさらにブッシュ大統領をトップとした指揮系統に基づいて行われていた事実を浮かび上がってくる。ジュネーブ条約による戦争捕虜に対する人道的取り扱いの条項をいかに無効にするのかの議論が平然と行われる。

9.11以降ブッシュ政権が進めた「テロとの戦い」とは何だったのか。「正義」を振りかざした戦争の影で、何が行われてきたのか。この映画はモラルなき人間が権力を持つことの危険を教えてくれる。

9.11当日貿易センタービルの4000人のユダヤ系従業員は全て休みを取っている。9.11の直前、事件に巻き込まれて株価が暴落した企業の株が、軒並み大量に売られていた。ビルは下から崩れていった。ビルの警備責任者は元FBI副長官ブッシュとも関係が深いジョン・オニールで爆発以降行方不明だ、など9.11はCIAとモサドの謀略だという説もある。また少なくともCIAは事前にテロ情報を察知していたということは本当だろう。

 「米経済は戦争で維持されている」とアメリカの経済学者は言う。巨大な軍需産業とその手先となって動く政治家がいかに戦争をしたがっているか。ベトナム戦争を終結しようとしたケネディが暗殺されるような国がアメリカだ。

真珠湾攻撃を事前に察知していながら、国民の戦争遂行体制を作るためにその情報を隠蔽したのもアメリカだ。真珠湾で何万人死のうが、9.11で何千人死のうが国家戦略のために何の痛みも感じないのがアメリカの権力者たちなのだ。こういった国に追従していた小泉-竹中は何の大義名分もないイラク戦争に加担し、アメリカ資本の日本の市場への自由介入のため新自由主義を推進し日本の経済を混乱に陥れた。彼らはアメリカのためだけに仕事をした。

 グアンタナモ収容所はアメリカの戦争犯罪者としての姿を浮き彫りにする。自らを世界の覇者としての驕り、思うがままに世界を操ろうとし、他民族の自立と解放を認めない傲慢さが収容所の拷問の実態と重なりあって見えてくる。拷問の技術の発展は如何に人間が残酷な生き物であるかを思い知らされる。

昔からあった魔女狩りの時の肉体的拷問以外に、アメリカの行動心理学のあらゆる研究成果を駆使した拷問が行われた。音も光も遮断した狭い密室に3日間閉じ込めておけば人の意識は崩壊するという研究結果を拷問に取り入れる。

ゴーグル、マスク、ヘッドフォーンとグローブを着用させられ、聴覚視覚を奪う。鳥小屋のような檻に閉じ込め屋外に何日もさらす。強い光と大音量の音に長時間さらす。高温(熱湯)、低温(冷水)の両極端な温度にさらす。裸にして犬をけしかける。眠らさない、同じ姿勢を取り続けさせる。ありとあらゆる虐待と拷問が考え出された。アメリカは拷問禁止条約を批准している国なのだ。ブッシュ政権はこういった尋問テクニックは拷問ではないと居直っていた。

 講演を行ったムラッド・クルナズさんはパキスタンでパキスタン兵に捕られ米軍に引き渡されバグラム空軍基地の拘禁施設に送られた。取調官は「私はこれ以降アルカイダの行動に参加しません」という文書に署名しろという。それを拒否すると水責め等様々な拷問を受けた。

その後グアンタナモ収容所でありとあらゆる拷問を受けた。しかし彼は署名しなかった。その信念は何処から生まれたものだろう。日本の留置所でも嘘の自白で「殺人」を認めてしまい冤罪として闘っている人もいる。

アメリカの最新科学を利用した肉体的心理的拷問に屈せずあくまでも署名を拒否した彼の信念に脅威を覚えざるを得ない。彼は自分の信念を支えたものは家族そしてイスラム教の教えだと言った。

 9.11契機に、ブッシュの指揮の下、米政府はなりふり構わず人びとを拘束し、「テロとの戦い」の名の下であれば、秘密裏に移送し、拘禁し、拷問にかけた。

その後国際的世論の批判の高まりもあって、オバマ大統領は就任2日目の2009年1月22日、グアンタナモ収容所の1年以内の閉鎖、軍事委員会での裁判の停止、CIA拘禁施設の全面閉鎖、尋問中の拷問の禁止などを命じる大統領令に署名した。これは、人権尊重に向けた大きな一歩であるだろう。そして我々は何ができるのだろう。何時でも課題はそこにある。

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これからの治療に向けて

10月24日(土)
10月14日の定期検診でとりあえずサリドマイド+MPが効いてきたようなので新たな治療方針に関して医者との話は取りやめになったが、どの道、薬物耐性でほぼ半年しか薬の効果は期待できない。次々と新たな策を練らなければならない。後10年生きようと思ったら20種類の治療方法を考えていかなければならない。移植後の治療を振り返ってみる。

移植後の療法
2006年6月      自己末梢血幹細胞移植1回目
2006年10月     タンデム移植として2回目の移植
2007年5月      再発 
     5月~10月  MP療法(メルファラン+プレドニン)
     10月~3月  ボルテゾミブ(ベルケード)+デキサメタゾン(デカドロン)
2008年4月~11月 サリドマイド単剤
     11月~5月  サリドマイド+シクロホスファミド+デキサメタゾン
2009年6月~9月  サリドマイド+ビンクリスチン(オンコビン)+デキサメタゾン
     9月~      サリドマイド+MP

奏効期間
MP・・・6ケ月、 Bor+Dex・・・6ケ月、 Thal 単剤・・・8ケ月、 Thal+Cpm+Dex・・・7ケ月、 Thal+Vcr+Dex・・・3ケ月。

私の原発性マクログロブリン血症は骨髄腫に近いIgM型骨髄腫ということで、骨髄腫の文献から治療法を拾ってみた。治療法は多種多様あるがその中でどれが奏効するかは分からない。まだ使用していない薬も幾つかあるし、組み合わせを考えれば治療法はかなり広範囲な選択が可能である。

WMの治療はこの血液ガンが非ホジキンリンパ腫に分類されているように、リンパ腫の治療法が基本であるようだ。リンパ種の標準治療としてCHOP療法(シクロフホスファミド+アドリアシン+オンコビン+プレドニン)がある。それにリツキシマブを中心とした併用療法や、ヌクレオシドアナログであるフルダラビンやクラドリビンなどが最新の治療法として紹介されている。私の場合CD20が陽性でないのでリツキシマブは使えないし、フルダラビンは全く効かなかった経験がある。そういった意味でリンパ種の治療法はあまり期待出来ない。

多発性骨髄腫の治療


代表的な化学療法
MP、VAD、CP、CMP、C・weekly、VMCP、COP-MP、DVD、ABCM、VBAP
(M・メルファラン、P・プレドニン、V・ビンクリスチン、A・アドリアシン、D・デキサメタゾン、C・シクロホスファミド、O・オンコビン=ビンクリスチン、B・カルムスチン-日本では未承認、DVDの始めのDはドキシル)

MSG2(MP+シクロホスファミド+インターフェロンアルファーの組み合せ)
M2プロトコール-全生存は MPと同等、5年生存においては M2治療群が優位。

サリドマイドの併用療法

(Guideline Thalidomide in Multiple Myeloma : Current Status and Future Prospects)
サリドマイド+シクロフォスファミド+デキサメサゾン  奏効率86%
サリドマイド+シクロフォスファミド+エドポシド+デキサメサゾン  奏効率78%
pulsedサリドマイド+シクロフォスファミド+デキサメサゾン   奏効率50%
サリドマイド+ビンクリスチン+アドリアマイシン+デキサメサゾン  奏効率100%
サリドマイド+メルファラン+プレドニゾロン  奏効率38%(別の統計・CR28%PR76%)
低容量サリドマイド+デキサメサゾン+クラリスロマイシ  奏効率93%より

サリドマイド+DEX+Doxil(ドキソルビシン内包PEG化リポソーム製剤)
サリドマイド+ビンクリスチン+ドキシル+DEX  奏効率74%

ラニムスチン・サイメリン(MCNU)の併用療法
ラニムスチン+シクロフォスホミド+MP
ラニムスチン+ビンデシン+MP
ラニムスチン+ビンクリスチン+メルファラン+DEX

ボルテゾミブの併用療法
ボルテゾミブ+DEX(デキサメタゾン)
ボルテゾミブ+プレドニン
ボルテゾミブ+メルファラン
ボルテゾミブ+メルファラン+DEX
ボルテゾミブ+ドキソルビシン(アドリアシン)+DEX  
ボルテゾミブ+MP  
ボルテゾミブ+ドキシル  
ボルテゾミブ+ドキシル+DEX
ボルテゾミブ+シクロホスファミド+プレドニン
ボルテゾミブ+シクロホスファミド+DEX
ボルテゾミブ+サリドマイド
ボルテゾミブ+サリドマイド+プレドニン
ボルテゾミブ+サリドマイド+DEX  
ボルテゾミブ+サリドマイド+MP
ボルテゾミブ+サリドマイド+メルファラン+DEX
ボルテゾミブ+サリドマイド+ドキソルビシン+DEX

レブリミドの併用療法
レブリミド+大量DEX  奏効率85.3%
レブリミド+低容量DEX  奏効率51.3%
レブリミド+ドキソルビシン+DEX  奏効率83%
レブリミド+ドキシル+ビンクリスチン+減量DEX
レブリミド+シクロホスファミド+DEX
レブリミド+クラリスロマイシン+DEX

サルベージ療法 
 
1、最初の寛解療法を繰り返す 
2、ボルテゾミブ単剤 
 2-2、ボルテゾミブ+デキサメタゾン 
3、レナリドマイド単剤 
 3-2、レナリドマイド+デキサメタゾン 
4、シクロホスファミド+VAD 
 4-2、大量シクロホスファミド 
5、サリドマイド単剤 
 5-2、サリドマイド+デキサメタゾン 
 5-3、サリドマイド+デキサメタゾン+シスプラチン+ドキソルビシン+シクロホスファミド+エドポシド 
6、デキサメタゾン大量投与

参考資料:多発性骨髄腫の診療指針、多発性骨髄腫の基礎と臨床、日本臨床「多発性骨髄腫」、がんサポート「血液がん」、がんと化学療法「多発性骨髄腫の治療の進歩」など

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ももバー・移植室の今と昔

10月23日(金)
§ ももバーには、色々な患者や元患者が集まる。10年位前に治療を受けその後再発せず、治癒と見なされた人も来る。今日は10数年前に悪性リンパ腫と白血病の治療を受けその後再発せず元気に暮している二人の女性が来た。

悪性リンパ腫の治療を受けた女性の13年前の移植室(無菌室)での移植の話は興味深かった。化学療法で腫瘍が縮小したが再発し、また治療を行ったが2度目の再発となった。2度目は移植しかない。自己末梢血幹細胞移植だった。気管のリンパが腫瘍化し、呼吸もままならない。それでも移植に迷いがあって入院するかどうか3日間考えた。3日目に病院に行ったら医者が心配して玄関で待っていたそうだ。

§ 移植は1996年に行われた。私が入院し今も通院している病院と同じだ。私の入った無菌室と同じ形の病室だと思う。私が移植を受けたのが2006年だから10年の間に移植室の使い方がかなり違っていること、そして13年たった今の血液がんの治療方法が圧倒的に進歩していることを改めて思い知った。またその頃の無菌室の一泊の料金が28万円だということを聞いて驚いた。そこで1ケ月も過ごしたそうだ。

その当時は自己末梢血幹細胞移植は保険適用になっておらず、臨床例も少なかった。彼女がこの治療で最初の保険適用者だったようだ。この病院でも同種移植はあったが自己移植は始めだったらしい。そういった意味で自己移植に踏み切るにはかなりの決意が必要だった。

自己末梢血幹細胞採取に当たっては、中心静脈カテーテルを使わず、両手に点滴針を刺して行う。それも12時間かけて2日間でやったそうだ。私の場合は中心静脈カテーテルを利用し4時間で行い、4回分の移植用の造血幹細胞が採取された。

1996年頃には無菌室に入る前に、イソジン風呂で入浴する。あのうがい薬のイソジンだ。茶色の湯船に浸かり全身を消毒し、そのまま洗い流さずに乾くのを待って寝巻きを着る。その後風呂には入れない。1ケ月も風呂に入らない方がよぽっど不衛生だと思うが。そしてそれ以降治療が終るまで全く部屋から出ることは出来ない。点滴の薬剤が天井に吊るされていてそれが点滴針を通して体に絶えず送り込まれる。その管から逃れることは出来ない。

私の場合には風呂には入りたい時いつでも入れた。清潔が一番大切だということで1日おき位に入っていた。血液内科病棟の共同風呂だと時間が限られていてシャワーだけだったが、移植病棟では人数も少なく体調の悪い人が多くあまり風呂に入る人がいないので、風呂は時間の制限がなく、看護師が湯船に湯をためておいてくれるのでゆっくりと湯船に浸かること出来た。その時は点滴管を外してもらって、胸の管の出口の所を処置してくれる。

§ 昔は無菌室には全て消毒済みの物しか持ち込むことは出来ない。服も本も全て殺菌消毒したもののみが部屋に持ち込まれる。看護師とは部屋が仕切られていて入口の一角の患者とはビニールで仕切られた所でしか話が出来ない。体調が悪く動く事もままならない時にでも、看護師の手を借りる事が出来ないので全て自分でやらなければならない。面会はガラス越しに電話でする事になる。医者も防菌マスクをして診察する。閉所恐怖症になりかねない。

検査のためにレントゲンやCT室に行く時は、外界に触れないように死体袋に詰められている感じで運ばれていく。そのように無菌室は管理されていた。ところが私が入った2006年では、無菌室に看護師は普通に入ってくるし、家族との面会も部屋の中で出来るようになった。差し入れのものも特に滅菌消毒などはされなかった。

完全に密閉された空間がストレスになり免疫力を低下させると判断したのか、感染症は外からよりというより、日和見感染といって人間の体には様々なウイルスを抱えていて免疫力が低下するとそれが活動する方が多い事が分って来たからだろうか、ある時期から無菌室の管理がゆるくなって来た。そういった意味で無菌室はその呼び名を変えて移植室となった。

§
 またその頃は、カイトリールという吐気止めはなく、化学療法やましてや移植の前処置の大量抗がん剤投与では何日も続く吐気に苦しめられた。昔は抗がん剤治療=吐気だったが最近は一番辛い副作用は倦怠感となっている。吐気は4番目だ。カイトリールはその2,3年後には1回の治療に2回のみ保険適用になるという事になったが、2006年には抗がん剤を使うたびに事前に30分かけて点滴することが当然のように行われている。

こういった昔の治療の話を聞くと、13年間にどんなに医学が発達したかを思い知らされた気がした。その頃は悪性リンパ腫に対してリツキシマブもなかったし、私の場合にはサリドマイドもボルテゾミブもなかった。無菌室の管理も違っていたし、吐気止めのカイトリールもなかったし、G-CSFもなかった。G-CSFによって白血球を増加させる事によって白血球減少による感染期間を大幅に短縮出来るようになった。その分移植時の感染症の罹患率が圧倒的に少なくなった。

こういった医学の進歩の恩恵に預かって今でも生き続けていられるのだろう。一つの薬を開発するのに何百人、何千人の人の手がかかっているのだろう。一つの命はそういった人の手で支えられていることを改めて考えざるを得ない。

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「ゆるり散策」・江島神社

10月22日(木)
「ゆるり散策、私鉄沿線」の第2段、江の島に行く事にした。早めに家を出られたので、この機会に少し遠くにいってみようと思った。パンフレットには江島神社とサムエル・コッキング苑が掲載されている。植物園には薔薇が咲いている時期だとあった。池袋から湘南新宿ラインで藤沢まで行き、小田急線で片瀬江ノ島まで1時間15分位だった。

駅を降りると直ぐ海岸線が目に入る。よく天気予報で映される御馴染みの片瀬海岸東浜だ。果たして江の島にかって行った事があったろうか。全く記憶がない。駅を降りると目の前に観光協会があり、江の島のイラストマップ付きで、観光名所が紹介されている。行く所を2ケ所しか考えてなかったが、30ケ所の観光名所が書き並べられている。それを全部回るつもりはないが、コースを辿っていけば幾つかには出会えるだろう。

弁天橋を渡り、江島神社の参道に入る、江の島の玄関口に「青銅の鳥居」がある。この鳥居は文政4年(1821年)に建てられたというかなり古いものだそうだ。藤沢市の指定文化財にもなっている。

江ノ島013_edited_convert_20091021193308 青銅の鳥居・参道入口

平日だというのに参道はかなり賑わっている。参道の両側には海産物の店、土産物屋、観光旅館、飲食店などが所狭しと立ち並び、客の呼び込みを行っている。かなり活気があり、昔ながらの観光地の風景を見るようだ。烏賊やサザエを焼いている匂いが立ち込めている。誰もいないような神社ばかり行っていたが、今回は珍しくれっきとした観光地に来てしまった訳だ。

江島神社
参道を5分ばかり行くと鳥居がありそこから江島神社の境内に登っていく事になる。急な階段が続くが、エスカーという有料のエスカレーターがあって、それに乗れば階段で上がらないですむ。最初が辺津宮で、そこから5分位登ると中津宮があり、御岩屋道通りをかなり行くと奥津宮に辿り付く。さらに海岸まで下り、江の島岩屋が本宮となるということだ。この4ケ所を総称して江島神社という。しかし岩屋は台風の影響で閉鎖され近寄ることは出来なかった。

江ノ島025_edited_convert_20091021193438 辺津宮

江ノ島037_edited_convert_20091021194607 中津宮

江ノ島054_edited_convert_20091021193900 奥津宮

略歴:社伝によると、欽明天皇十三年(552年)に、「欽明天皇の御宇、神宣により詔して 宮を島南の竜穴に建てられ 一歳二度の祭祀この時に始まる」とあり、欽明天皇の勅命で、島の洞窟(岩屋)に神様を祀ったのが、江島神社の始まりであることが記されています。江島神社は、当時は、海運、漁業、交通の守護神として祀られ、 御窟(おんいわや)を本宮といい、奥津宮を本宮御旅所、中津宮を上の宮、辺津宮を下の宮と呼んでいました。

奉安殿
江島神社の辺津宮の隣に八角のお堂があり、奉安殿と呼ばれ、妙音弁財天御尊像・八臂弁財天御尊像を奉祀する為に造営された。裸で琵琶をもった姿で有名な妙音弁財天、俗に裸弁財天が祀られている。滋賀県の竹生島の弁天様、広島県の安芸の弁天様と共に日本3大弁財天の一つと言われている。

江ノ島027_edited_convert_20091021193534 奉安殿

七福神の一人、弁財天は芸事を司る。七福神で思い出したが、この由来はインドのヒンドゥー教(大黒・毘沙門・弁才)、中国の仏教(布袋)、道教(福禄寿・寿老人)、日本の土着信仰(恵比寿・大国主)が入り混じって形成された、神仏習合からなっている。七福神巡りでも神社と寺を交互に回る。そこに何の矛盾の感じないのが日本人の宗教観なのだろう。

サムエル・コッキング苑と展望灯台
中津宮から奥津宮に向かう途中、島の一番高い場所に、展望灯台があり、その周辺が植物園になっている。「江の島植物園」を2003年4月に全面改装し、名称は明治時代この地にはじめて庭園を作った英国人貿易商サムエル・コッキングの名から来ている。

レンガでできた当時の温室跡は、スケール・構造ともよく考えられていると思った。基礎はレンガ造り、上屋はチークとガラスを使い、石炭による蒸気スチームで温める仕組みをもち、温室の給水をいかにするかということで、雨水を集め貯蔵しておく設備を作り上げた。100年前の工夫が感じられて興味深いものがあった。

植物園には何種類かの植物や花はあるが中心的には多種多様な椿が植えられていて、椿苑のような気がする。花が咲けばかなり見栄えはいいだろう。薔薇はウインザー市から送られた深紅の薔薇が植えられていたが花は一つも残っていなかった。東京の薔薇より早い時期に咲き終わってしまうのだろうか。

再整備に合わせて、藤沢市の姉妹・友好都市のコーナーが作られた。なかでも中国・昆明市のコーナーにある中国伝統建築様式の四阿、「騁碧亭(ていへきてい)」は、このために現地から職人に来てもらい製作したという。

江ノ島044_edited_convert_20091021193704 四阿「騁碧亭」と展望灯台

御岩屋道通り

植物園を出て、江の島大師の円い屋根を見ながら御岩屋道通りを進む。道の両側には土産物屋や飲食店が並んでいる。所々に色々な碑が建てられている。「福島漁村の句碑」「群猿奉賽像庚申塔」「山田検校銅像、顕彰碑」「高木蒼悟の句碑」「芭蕉の句碑」「服部南郭の詩碑」「永瀬覇天朗の句碑」など次々と出てくる。多くが名前も聞いたこともない人達だが、これらも観光名所30の中に数えられている。芭蕉の句碑には「疑ふな潮の花も浦の春」と刻まれていた。

源頼朝が寄進したという鳥居をくぐると、奥津宮に着く。そこから海岸の岩屋までひたすら階段を何段も降りる。上がることを考えるとどっと疲れが出るが、ともかく下りきって稚児ケ淵の海岸までたどり着いた。

稚児ケ淵
稚児ケ淵に広がる岩場は、関東大震災の時、隆起したもので、絶好の磯釣りポイントらしく、釣り人の姿が見られた。夕日に浮かぶ富士山の眺めが絶景なため、ここ、稚児ケ淵は神奈川の景勝50選のひとつに選ばれているそうだ。

江ノ島042_edited_convert_20091021193949 弁天橋・大橋(305号線)と東浜海岸

やっとのことで急な階段を上りきり、島の南側の海岸線に沿った道を下っていき、参道まで戻って来た。海岸沿いには何軒かの飲食店が軒を並べ、店頭では、焼き蛤やサザエ壷焼きを売っている。やはり観光地にきたらそこの名物料理を食べるのも楽しみの一つだ。

江の島名物は「しらす」だと何処の店にも書いてある。「漁師さんが獲ってから数時間しか生で食べられない“生しらす”は,透明に輝く美しさはさることながら,その味も絶品です」ということで、生しらす丼を食べる事にした。帰りは、店の前から藤沢行きのバスが出ていたのでそれに乗ることにした。

2ケ所を目標に行ったのに思わぬ小旅行になってしまった様な気がする。なかなか泊りがけの旅行に行く機会もないので近場で旅行気分を味わうのもまんざらではない。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

「ゆるり散策」・東伏見稲荷神社

10月20日(火)
4,5日家にばかりいると、外に出かけたくなる。秋晴れの日が続くとなおさらである。私鉄沿線の駅に「ゆるり散策、花と寺社巡り」というパンフレットが置いてある。私鉄6社がそれぞれ沿線の寺社と近くの公園を2ケ所ずつ紹介している。これを見て何処に行こうか考えた。といっても出掛けようと思ったのが、昼過ぎだから行く場所は限られている。一番近場の東伏見稲荷神社周辺にした。東伏見なら西武新宿線に乗れば20分位で着く。

東伏見駅でおりると、東伏見アイスアリーナが左側にある。今はダイドードリンコ・アイスアリーナと名前が変わっていた。建物にスポンサー名をつけるのはどうも気分が良くない。競争相手の企業の人だったらこの施設を利用しようとは思わないだろう。

下野谷遺跡公園
早稲田大学の運動場を経て、神社に向かって行く途中に「下野谷遺跡公園」という立て札があり、木の階段で登るようになっていた。そこを上りきると広い原っぱのような公園に出た。下野谷遺跡の保存と活用を図るために整備された公園だと書かれていた。

東伏見稲荷002_convert_20091020234338 竪穴住居の骨格復元

縄文時代中期、下野谷遺跡が最も栄えた時で、東日本屈指の集落だったようだ。当時の下野谷遺跡周辺は、食料などが豊富で暮らし易かったと思われる。公園内には、竪穴住居の骨格復元、出土状況復元、地層状態を表す土層模型が建造されている。

公園の一角には、縄文人が当時食べていたというコナラ・クリ・トチノキ・モミなどの樹木を植えた“縄文の森”という場所もある。子供たちが勉強するのにはいいかもしれないがどうもピンとくるものがなかった。

東伏見稲荷神社
下野谷遺跡公園の隣が小学校で、その先に東伏見稲荷神社がある。最初の目にするのは大きな朱色の鳥居だ。鳥居の横に団子屋が屋台を出している。鳥居をくぐり階段をあがって門をくぐると境内が目の前に開ける。

東伏見稲荷005_edited_convert_20091020234445 大鳥居

東伏見稲荷020_edited_convert_20091020235523 本殿

正面が本殿でその裏に拝殿がある。左には楽曲を演奏するための舞台をしつらえた建物がある。境内の日陰には木のテーブル、ベンチがあって休憩するのにいい。本殿の裏に行って驚いた。あたり一面鳥居が立ち並んでいる。さらにその鳥居の間には、幾つもの稲荷神社の祠が建っている。この情景は何とも壮観な感じだった。

東伏見稲荷016_convert_20091020234549 本殿裏の林立する鳥居

略歴:稲荷大神は「衣食住の大祖神(おおおやがみ)にして萬民豊楽の神霊」として崇められています。関東地方の稲荷信仰者が、参拝に便利な東京に伏見稲荷大社から分霊して、その神徳に浴したいと熱望した結果、これに応じた京都伏見稲荷大社の協力で、昭和4年に創建されました。朱色の社殿が境内の緑に映えて美しく、新東京百景の一つに選ばれています。

武蔵関公園
神社から歩いて10分くらいの所にパンフレットに紹介されている武蔵関公園がある。中央に富士見池というひょうたん型の大きな池があり、その池には「葦の島」と「松の島」という2つの島がある。この池が公園の大部分を占めていると言えるだろう。昔は関の溜め井と呼ばれた池があった場所で、大正時代頃に地元住民が中心となって現在の公園としての形を整えたそうだ。

池の周りは遊歩道になっていて、一周30分位で回る事が出来る。野鳥の生息地にもなっていて、公園の歴史を感じさせる巨木が茂り武蔵野の面影を残している。池には釣り人が何人か釣り糸をたらしていたが、魚が釣れているとも思えなかった。落ち着いた静かな公園だった。駅は公園から5分もかからないほど近い。

東伏見稲荷029_edited_convert_20091020234742 富士見池

「ゆるり散策、私鉄沿線」の企画は寺社と公園を組み合わせて、歴史探訪と散歩の両方の要望をかなえようとするもので、どう見ても年寄り向きの企画だ。日中の空いた電車を出来るだけ利用してもらいたい、それにはいかにして暇な年寄りを電車に乗せるかを考えたものだろう。

確かにこれから紅葉の時期だ。山の紅葉もいいが、何故か紅葉は寺社に適している。寺社で見る紅葉はまた特別な趣がある。12のコースが紹介されている。ぼちぼちと行ってみようと思う。

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アロマテラピー講習会

10月16日(金)
 2週間一度通っている病院で、アロマテラピー講習会が行なわれるという。3名のアロマコーディネーターライセンスを持った人が中心になって行われるが、「ももの木」にスタッフとして何人か参加できないかと協力を要請された。今回中心的に動いてきたAさんは「ももの木」のメンバーだ。

主催は「K病院サービス向上委員会」で、病院内でのイベントなどを企画・主催している。クリスマス・コンサートなども行う。病院での生活は体調が思わしくなく寝ている時は別だが、日々同じことの繰り返しで、テレビを見るか本を読むか以外やることがない。最近はパソコンが持ち込め、ゲームをやっている人もいるし、様々な使い方できるので時間つぶしには最適だ。それでもやはり時間を持て余す。そういった時に病院内のイベントは気分転換には最適だ。

今回、病院別館の講堂を借りて行う。14時開催だが、13時に集まって香り袋の作り方の指導を受ける。ももの木からは6名のスタッフが集まった。折り紙で袋を作り、その中に精油をたらしたコットンを入れ香り袋とするものだ。

そもそもアロマテラピーとはどういうものなのか。辞書には以下のように書かれていた。
「香り、芳しきものを意味するアロマaromaと療法を意味するテラピーth rapieを合成した芳香療法を表すことばで、植物の精油(植物の組織中に含まれる揮発性の油、アロマオイル、エッセンシャルオイル)を使った自然療法のこと。精神的な圧迫、過労や心労などに対して、自律神経、内分泌、免疫系のシステムが総合的に働き、正常な状態を維持しようとする機能がある。それが人間のもっている自然治癒力であり、その自然治癒力を高めようとするのが芳香療法である。」(日本大百科全書・小学館)

 14時になると次々と患者さんたちが講堂に入ってくる。車椅子で来る人、点滴のキャリアを運びながら来る人など様々だ。また看護師さんも時間の合間を見て駆けつけてくる。

アロマ001_convert_20091017135830参加した人に最初Aさんから説明がある。ぽち袋の作り方、アロマオイルの選び方、ビニール袋に入れることなど一通りの手順を話す。その後作業に入る。ぽち袋用の折り紙は多彩な千代紙が用意されている。6名のスタッフがぽち袋の作り方がわからない人の所に入って手伝う。ぽち袋は折り紙で作る。皆に配った説明書に折り方は書いてあるのだが、それを見ても中々うまく出来ない人がいる。

講堂の前のテーブルに精油(アロマオイル)が並んでいる。アロマコーディネーターの3名がいて、コットンに精油をたらす。

アロマオイルが8種類用意されている。自分の好きな香りを選んでコットンにしみこませてもらう。単独でもいいしミックスしてもいい。香りのイメージとして3種に分けられている。
 リラックス― ラベンダー、ゼラニウム、サンダルウッド(白檀)
 リフレッシュ― ペパーミント、レモン、ローズマリー
 元気が出そう― スイートオレンジ、レモン、ベルガモット

 香りをつけたコットンをぽち袋に入れ、さらにビニール袋に入れ、ふたをして完成。ビニール袋入れないと、香りが強すぎるのと、香りが消えていくのが早くなる。

時間は14時から、16時までで、その間に次々と人がやってくる。最初の説明を聴いていないので、スタッフが簡単に流れを説明し、ぽち袋の折り方を指導する。そういった作業を繰り返し、2時間過ぎていった。

延べ4、50人位来たのだろうか。皆、5、6袋作って、見舞いの人に上げようとか、同じ病室で来られない人にあげようなど頑張って作っていた。病室から出て違った行為を行うこと自体、気分をリフレッシュする効果があると思う。こういった企画をもっと増やしてもらいたいものだ。

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ねりまの散歩道-4 長命寺、氷川神社

10月15日(木)
サイフォン式のコーヒー・メーカーの上部を割ってしまってメーカーに取り寄せを頼んだ。それが入荷したという連絡が入ったので取りに行く事にした。西武池袋線の練馬高野台から5分位の所にメーカーのサービスステーションがあり、そこに品物が入荷している。

周辺地図を印刷して持って出た。目的の店の直ぐ隣に長命寺という寺があり、かなり広い境内が地図に記されている。ついでに寄ってみようと思った。長命という名前が気に入った。長命を期待して長命寺に行ってみるかといった気分だ。

練馬高野台駅で降りて笹目通りに出ると、「歴史と文化の散歩道」と表示された石柱が立っている。これは駅周辺地区とスポーツ・地域交流センターとを結ぶ回遊散策路として、「歴史と文化の散歩道」「練馬の散歩道」として整備したそうだ。笹目通は谷原の交差点から環状8号線と名前を変える。その位幅の広い通りだ。並木が整然と植えられ落ち着いた雰囲気を漂わせているが、散策路と言われてもピンと来ない。

長命寺(東高野山妙楽院 真言宗豊山派)
駅から5分も歩かないうちに長命寺に着いた。この寺には幾つかの門がある。笹目通り沿いの東門から入った。右に長命寺と書いた新しい石柱が建っており、左のかなり年季の入った石柱には弘法大師、東高野山と書かれている。石柱の間を通り石畳を歩き東門をくぐると境内の広場が開ける。

左右に広がった金堂が悠然と空に生える。山門である南天門や鐘楼などが見える。奥に進むと東高野山・奥の院がある。奥之院に通じる沿道の両側には多数の供養塔・御廟橋・燈籠・六地蔵尊・宝篋印塔・水盤・姿見井戸などがある。

さらに奥に行くと大師堂がありその周辺には十三仏石像、閻魔十王石像等の石仏群が配置されている。建物も中々凝った造りであるのは確かだが、周辺の石像や燈篭などの量と多様さにむしろ驚く。

出る時は山門の南天門からにした。南天門には前後左右に四天王の像がある。持国天、増長天、広目天、多聞天の古めかしい立像が佇立している。駅前だというのに境内はかなり広い。そこには多種多様の建造物や周辺を飾る石仏など見所満載といった感じだ。また「練馬の木」と名をうった、菩提樹や銀杏、スタジイなどの巨木も見応えがある。

練馬高野台030_convert_20091015211502 金堂

練馬高野台025_convert_20091015211031 東高野山・奥の院

練馬高野台028_convert_20091015211404 大師堂
 
練馬高野台037_convert_20091015211242 山門・南天門 

略歴:江戸時代のはじめ慶長十八年(1613)増島重俊が、長命寺開基の慶算阿砂利の志を継いで、和歌山県にある高野山奥之院を模して寺域が作られており、江戸時代中期より「東の高野」として江戸市民の信仰を集めていた。奥之院には弘法大師像が安置されている。大師堂の周囲には石仏が多く配置され、この一帯の景観は石仏群の迫力と残された自然により、霊場として深い静寂を漂わせている。これらの石仏群は東京都の史跡に指定されており、また府内八十八ヶ所霊場の17番とされている。
(武蔵野三十三観音霊場公式サイト)


氷川神社
地図を見ると近くに氷川神社があった。笹目通り沿いにあるので足を伸ばしてみた。ここは谷原、高野台町の氏神で、祭神は須佐之男命(すさのおのみこと)。江戸時代初期の創建と言われる。拝殿には江戸時代の大絵馬10数枚が奉納されているということだ。

鳥居から本殿が見える。鳥居から本殿まで広場が広がり、石畳の参道が本殿まで続いている。左右に稲荷神社や八幡神社などが並んでいる。何の変哲もない神社だった。

練馬高野台004_convert_20091015210908 鳥居と本殿

神社のすぐ傍にサービスセンターがある。そこで注文したコーヒー・メーカーの上部を受け取った。代引き着払いという方法もあるらしいが、それだと千幾らかかかるらしい。2800円のものを買うのに1000円以上払うのは抵抗がある。もっともここまで来るのに電車賃はかかるが、寺院の見学で穴埋めということにしよう。後で調べたら、長命寺と氷川神社は「ねりまの散歩道」の石神井公園コースに含まれていた。

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定期検診の日

10月14日(水)
2週間一度の定期検診の日。血液検査の結果は以下の通り。

検査結果 
 IgM    2128(10/14)←2276(9/30)←1817(9/16)
 白血球   2.0←1.5←2.6 
 血小板   11.7←15.8←18.5
 赤血球   323←336←305
 ヘマトクリット 32.8←35.2←32.1 
 ヘモグロビン 10.4←10.9←10.1


 IgMが幸運なことに下降した。MPT(サリドマイド+メルファラン+プレドニン)療法が効果を発揮し始めたようだ。サリドマイド100mを200mgに増やしたからか、プレドニン50mg4日間/月を8日間にしたからか、理由は定かではないが効けばそれに越したことはない。このままMPT療法が効果を続けてくれることを期待するしかない。

そういうことで、外来での診療とは別に時間を取ってゆっくりと新たな治療に向けての論議をしようという話はなくなった。どの道MPTもやがては効かなくなるのでいずれは長期方針を含めた論議は必要となるだろう。

 体力の衰えと疲労感について医者に聞いた。移植による大量化学量療法の影響で、体力の回復まで2年以上かかると誰もが言う。既に移植から3年経っている。もはやその影響はほとんどないのではないか。

疲労感は貧血が主要な要因であることは確かだ。しかし医者はヘモグロビンが10.4あれば全く普通に生活できるはずだと言う。疲労感の原因は分らないとのことだった。会社で行っていた成人病検診で、最近の7、8年間、ずっとヘモグロビンの値が低かった。9.0~10.0までの間で、10を超えることはなかった。

貧血と診断され、食事療法用のパンフレットを渡されただけだ。それでも疲労感などは全く感ぜずバリバリと夜遅くまで仕事をこなす事が出来た。今は到底そんなことは出来ない。貧血が疲労感の原因ではなさそうだ。やはり疲労感の原因は分らない。

 疲労感や体力の衰えといっても、走ったりテニスをしたりする事が出来ない、急坂や急階段を上ると息が切れる、3日くらい出掛ける事が続くと日中でも横になりたくなるなどのことで、日常生活には差し障りがあるわけではない。

以前が元気すぎたのだ。休む間もなくちょこまかと動き回っているような人生ではなく、年相応の体だと思って、ゆったりと構えていくような生き方を選ぶ時期に来たのだろうと思って生きていくのもいいだろう。

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森麻季、仲道郁代-ディオ・コンサート

10月13日(火)
 10日程前、クラシック好きの元職場の友人から電話があった。東京文化会館で森麻季と仲道郁代デュオ・コンサートの切符があるから行かないかというものだ。S席で前から10列目だという。代金は要らないというから喜んで行くと答えた。クラッシクの生演奏は、病院の催し物や、講演会などの間に行われるのを聴いたことは何度かあるが、コンサート・ホールで聴くのは全く別な感動がある。

クラシックのコンサートなど最近は全く行った事はない。何時行ったか思い出せない位前だ。高校3年か大学1年の時、世界的ピアニスト、ヴィルヘルム・ケンプのピアノ・ソナタとイ・ムジチの「四季」を父親の友人に連れられて聞きに行ったのが印象に残っている。両方とも東京文化会館だ。その頃はコンサート会場が今のようになかったから大体クラッシク音楽は東京文化会館で行われた。

その後、2度ばかり東京交響楽団などの演奏を聞きに行った位だ。クラシックの演奏会の料金は高額なので誘われでもしない限り、なかなか自分からは切符を買って行こうとは思わない。家でDVDを買って聴いているのが関の山だ。

東京文化会館といえば、通っていた高校が歩いて15分位の所にあったので、土曜日の午後は会館の上にある視聴覚室でクラシック音楽を聴くのを楽しみにしていた。なかなかレコードなどは買えない。

今のようにYou Tubeで殆どの曲が動画付きで聴けるわけではない。視聴覚室には殆どのクラシックレコードが揃っていた。リクエストすると希望の曲を指定の演奏家でかけてくれる。席に座ってそのレコードのかけてある番号のボタンを押して、ヘッドホンで聴くというシステムになっている。

mori_l_convert_20091014001428.jpg 友人と待ち合わせてコンサート会場に入る。全く昔と代わっていない。演奏会のプログラムは仲道郁代の伴奏での森麻季のソプラノ独唱と仲道のピアノ独奏が交互に行われる。こういった工夫は観客を引き付けると思う。

森麻季(左の写真)の最初の曲はヘンデルの「オンブラ・マイ・フ」だった。この曲は色々な歌手でよくきいた曲で好きな曲だ。特にキャサリン・バトルの歌が気にいっている。あの透明な歌声に惹かれた。

You Tubeで森麻紀の今日歌う予定の曲を聴いてみた。しかしやはりコンサート・ホールでの生演奏は全く違う。まあそれはそうだ。そうでなければ誰も演奏会などには来ない。声の太さ、張り、音量全てが会場に響き渡る。会館そのものが共鳴版となって声の質を高めていくようだ。続けてヘンデルの「涙の流れるままに」を歌った。

 仲道郁代(右下の写真)のピアノ演奏はベートベンの「月光」だった。DVDで持っているのはバックハウスの演奏だ。もちろんこの演奏は素晴らしい。しかし会場での演奏は全く別の音を作り出してくれる。ピアノの音の一つ一つが聴こえて来る様な気がした。音がそれぞれ個別的でありながらそれが一体となって全体を構成しているような印象だった。

2007ikuyo1_convert_20091014001358.jpg音響効果が良くなったのだろうか、ケンプの時の演奏で席が後ろだったせいもあるかもしれないが何か迫力に物足りなさを感じたが、今回はピアニッシモ、フォルテッシモの強弱が鮮明だった。

第2楽章の静けさから急に音量を高め第3楽章の冒頭のアルペジオの上昇する音階が観客に次の音の予感を感じさせる。アレグレットからプレスト・アジタートへ間をおかず切り替わるその醍醐味を十分味わう事が出来た。

 その後、森麻季がマーラー交響曲第4番・第4楽章「天井の生活」とシュトラウスの「四つの最後の歌」から「眠りのとき」「夕映えのとき」を独唱し、仲道郁代がショパン「バラード3番」、「夜想曲20番」、「ポロネーズ6番」を演奏した。さらに森麻紀が、日本の歌で、「初恋」「からたちの花」、プッチーニの「私の愛しいお父さん」を歌って演奏会を終えた。

確かにコンサートホールでの生演奏は、ステレオで聴くのとは違う。しかしなかなか行けないのが現状だ。クラシック音楽の演奏会に気軽に誰でも行けるように入場料の値下げをして貰いたいとは思うが、クラシックの演奏家でコンサートだけで食っていける人は数える程しかいないという現状もあるのだ。難しい問題だ。        

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葛西臨海公園

10月12日(月)
天気が安定してきて、秋晴れの日が続いている。最近買い物以外歩いていない。折角の快晴の日に家の中にいてもしょうがない。ネットで都内でのコスモスの見所を探したら、最初が昭和記念公園、2番目が葛西臨海公園だった。

朝刊に11日の昭和記念公園のコスモス畑と通路に群がる見学客の姿が写真で紹介されていた。多分今日あたりさらに混むだろうと思い、また距離的にも近いので葛西臨海公園に行く事にした。新木場で京葉線に乗り換えて一駅だ。

葛西臨海公園駅では家族連れがどっと降りた。そういえば連休の最終日だ。臨海公園には水族園、鳥類園=バード・ウオッチング・センターなどがあり、また西なぎさで砂遊びも出来る。子供を遊ばせるには便利な所だ。

葛西臨海公園064_edited_convert_20091013125019 公園入口周辺と水族園の建物

入口にバルーンを膨らませたアーチがあり、そこには「秋のコスモスフェスティバル」と書かれていた。ネットで紹介されていた写真では一面キバナコスモスが咲き、橙色の絨毯が敷き詰められているようだった。期待は高まる。

しばらく歩いていくと立看板があって、10月10~12日コスモスを無料で持ち帰ることが出来ると書いてあった。看板を見たときには気にはならなかったが12日の午後大分経っている時間、これがどういった意味を持っているか、気が付くのはコスモス畑に着いてからだった。

葛西臨海公園060_edited_convert_20091012234537 観覧車とパークトレイン

最初に全体の様子を知ろうと思って、観覧車に乗る事にした。7月にTOKYOウオークの湾岸エリアを歩いた時、新木場緑道公園から荒川を隔てて大観覧車が見え、乗ってみたいと思っていた。観覧車の切符売り場に案内が書かれていた。

「この大観覧車に乗って地上117mの上空から周囲を見渡すとテーマパーク、レインボーブリッジ、アクアラインの海ほたる、都庁、東京タワー、房総半島から富士山に至るまで関東の有名観光名所を一望でき、約17分の空中散歩を楽しんでいただけます。」

葛西臨海公園016_edited_convert_20091012232058 観覧車から葛西臨海公園全景

葛西臨海公園018_edited_convert_20091012234202 新木場方面、荒川河口橋

回りにさえぎるものもなく見晴らしは抜群だ。晴れてはいるが遠くは霞んでいて紹介されているものはほとんど分らなかった。公園の全景が見渡せる。しかし何処にもコスモス畑は見当たらない。実は観覧車の真下にコスモス畑は広がっていたのだ。芝生広場の周りがコスモス畑だった。

何十人かの人が剪定鋏を持って来ていて、さかんにコスモスを摘んでいる。確かにコスモスは盛りを過ぎているのだろう。もう最後だから勝手に持っていっていいということなのだ。3日間取り尽くされもはや残骸しか残っていない。

キバナコスモスはそれでもまだ若干は残っていたが、ピンクや、小豆色のコスモスは壊滅状態だった。どこにも花の絨毯などはない。観覧車から見てただの枯野にしか見えなかった位だ。

コスモス見物は諦めて、海岸に行く事にした。葛西渚橋を渡り、西なぎさの島に行く。海岸線の砂浜で子供たちが砂遊びをしている。東なぎさは野鳥保護のため立ち入り禁止となっている。もっと舟でなければ行けないが。ここは人が多いが、誰もいないような海岸でビーチチェアーに寝転がりながら本でも読んでみるのもいいなと思った。

葛西臨海公園047_edited_convert_20091012234325 葛西なぎさ橋

葛西渚橋のたもとに東京水辺ラインの船着場がある。お台場や両国方面への遊覧船が出航する。ただ2時間ごとで、両国方面は1日1便だけだ。乗ってみたい気はあったが時間が合わなかった。

葛西臨海公園056_edited_convert_20091013131335 西なぎさの海岸線

葛西臨海公園は海辺の方は葛西海浜公園というらしい。広場と林と海岸とが揃っている。林には遊歩道があるので、散策するのにいい。林の方にはほとんど人がいない。時期外れの人のいない時に行けば海岸線の方も静かで、近場で海の雰囲気を満喫できる。

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公園の薔薇

10月11日(日)
日曜日、秋の日の昼下がり、公園のベンチには何時もの様に老人たちが座っている。日曜日だからだろうか、何時もと違って公園の風景は何故か華やいで見える。曜日に関係ない生活をしているので、こちらの気分のせいではないだろう。

多分子供や赤ん坊を連れた家族連れが何組かいるからだろう。普段の日は、専業主婦と子供だけだが、男親が子供と来ているのが公園の雰囲気を作っているのだろう。

秋薔薇が見頃を迎えている。色とりどりの花が咲き乱れている。去年行ったが旧古川庭園では「秋のばらフェスティバル」が10月半ばから毎年行われている。それには到底及ばないが、近くの公園で何種類もの薔薇を楽しめるということは贅沢なことだ。

春の薔薇は本当に春が来たんだということを念を押すように咲き誇る。秋薔薇は透明な空気の中で澄んだ青空を背景にして、静かに自分を主張しているようだ。穏やかにそして華やかに秋の空気の中に溶け込むように佇んでいる。薔薇といえばリルケの詩を思い起こす。

   放棄が放棄につつまれ、やさしさがやさしさに触れて・・・
  それはまるでおまえの内部がたえず、みずからを愛撫してでもいるようだ、-

  みずからのなかでみずからを、みずからの影に照りはえながら。
  そんなふうにしておまえは、ねがいをとげたナルシスの話をつくりだす。
(山崎栄治訳)


長崎公園バラ025_edited_convert_20091011191549 カンデラブラ

長崎公園バラ021_edited_convert_20091011191430 紫香

長崎公園バラ023_edited_convert_20091011191915 タンジェリーナ

長崎公園バラ028_edited_convert_20091011191308 アイスバーグ

長崎公園バラ029_edited_convert_20091011191353 ソリドール

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入院中の出来事

10月10日(土)
血液ガンで入院すると、通常化学療法を何クルーか行い、それによってがん細胞を減らし、その後造血幹細胞移植する。そのまま寛解になり治療を終らせる場合もある。化学療法は何クルーか繰り返して行う。白血球(好中球)が上昇し1クルーが終ると、1週間ばかり退院して、再び同じことを繰り返す。

一時退院し再入院すると必ずといっていいほど病室が変わる。病室によって違うが、話好きな人が一人でもいると皆和気藹々と病気になった経過や家族などについて話をする。部屋によっては、病状が重く副作用に苦しんでいる場合でなくても、皆カーテンをひいて自分の中に閉じこもってしまって患者同士話をすることが全くないこともある。

患者の人の話を聴くと、がんというものがいかに人生を根底的に変えてしまうものであるのつくづくと思い知らされる。とりわけ血液ガンのように長期に渡る治療と療養が必要な病気の場合はなおさらである。そして若年者の場合それはさらに苛酷な運命を辿る事になる。1人の例を挙げよう。

2007年11月に入院した時に同じ病室にいた人だ。向かいのベッドだったのでよく話をした。30代後半の患者で、8月から急性骨髄性白血病で入院していた。

彼はチェーン店の居酒屋の店長をしていて、同時に板前として、調理場で包丁を振るっていた。毎日帰りは1時2時だ。体力には自信があり、あらゆる仕事を自らこなした。何の自覚症状もなかった。疲れ易くなったと後から考えれば思い当たる。

ある日、仕事場からの帰り道、突然倒れ、近所の人が呼んでくれた救急車で病院に運ばれた。そこでの血液検査でヘモグロビンが1.0にまで落ちていた。よく動けていたものだと医者から言われた。急性骨髄性白血病と診断された。即刻入院となった。

8月から化学療法を開始し11月段階で既に5クルー目だ。抗がん剤がなかなか効果を発揮せずがん細胞は減少してくれない。最初からの3回は殆ど効果がなかったという。通常1クルー3週間位で、1週間程の自宅療養というパターンを繰り返す。しかし彼の場合で化学療法後の白血球の上昇が遅く、1回の治療で1ケ月半以上かかかってしまう。妻の事が気懸かりだが、中々一時帰宅が出来ない。

妻は子供がいないので入院中アパートでずっと一人暮らしだった。夫ががんになり収入も途絶え、行く末どうなるのかの心労が重なり、1人で思い悩み、寂しさを紛らわすためにアルコールに依存し、依存症治療のために入院してしまった。

外出許可はいつでも取れるのだが、彼女は夫が迎えに来ない限り病院から出ようとはしない。そういった意味で、彼は早く退院して、少しでも傍にいてあげたいのだが、なかなか退院できないといったことであせりもある。

結局、夫婦2人とも長期入院という状態になり、収入が全くないこともあって、荷物を倉庫に預けアパートも引き払ってしまった。退院しても帰るべき家はない。その時は妻の実家に滞在する。

化学療法が効果を上げて完全寛解になり、退院できれば板前の腕があるのでいつでも働き場所はある。ただ、化学療法も最初の療法では効果がなく、段々と強い抗がん剤を使ってきているので肉体的消耗は激しくなるばかりだ。

退院しても直ぐには働けないし、板前の仕事も深夜までの長時間労働が多いのでそれに耐えられる体力を回復するまでにはかなりの時間が必要となる。その意味で退院後の生活展望は全く立てることは出来ない。未来は絶望的なのだが、今は治療に専念する外ない。

彼の場合子供がいないが、小さい子供を抱えていた場合、さらに悩みは深刻になるだろう。子供のことを考え、生きていたいという想いが強く、そのことを考えるだけでもがんになった運命を呪いたくなるだろう。

笑福亭小松は39歳の時、進行性胃がんと診断された。5年生存率15%というがんだ。彼は号泣し「時間を下さい。まだ小さいうちの子が、大人になるまでとは言いません。せめてそこそこ大きくなるまでの時間を私に下さい」と天に向かって拝んだ。こういった状況を見ると、高年齢でがんになったということがせめてもの救いではないかと思ったりもする。

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ジャンル : 日記

演劇 『クロノス』

10月9日(金)
長男が、友人から譲ってもらったDVDを持ってきた。演劇のDVDだという。演劇集団キャラメルボックスが演じる『クロノス』という劇だ。演劇だけで劇団員を食わせていけるのは劇団四季とこのキャラメルボックス位ではないか、と物知り顔に言った。その位メジャーな劇団らしいが知らなかった。

最近演劇をテレビで見たのは、たまたまやっていたのを見始めて面白くて最後までも見てしまったのだが、上川隆也主演、井上ひさし作、蜷川幸雄演出で平賀源内が主人公の『表裏源内蛙合戦』という劇だ。この劇の中での主人公の台詞の多さにびっくりしたが、、上川隆也が舞台での演技に慣れているなということを強く感じた。単なるテレビ俳優ではなく、長い間劇団で舞台を務めていた印象があった。

彼はキャラメルボックスの団員だったのだ。また上川隆也は台詞を覚える速さに「サイボーグ」とキャラメルボックス劇団員から評されていたそうだ。

『クロノス』-「僕は未来から来たんだ。君を助けるために」


musica_convert_20091010000408.jpgSTORY:過去に向かって、物質を射出する機械、クロノス・ジョウンター。吹原和彦は研究員として、この機械の開発に携わっていた。ある日、タンクローリーが花屋の店に突っ込み火災事故が発生。その事故での死亡者の中に吹原が思いを寄せていた来美子の名前があった!「事件が起きる直前に行って、彼女を助けよう!」吹原はクロノス・ジョウンターに飛び乗り、自分自身を過去へと射出した!

クロノスはギリシャ神話で時間を司る神のことだ。過去を変えようとすることはその神と対決することになる。吹原は、彼女を助けようと過去に何回も戻るが様々な要因で彼女を事故のあった花屋から連れ出す事が出来ない。過去の戻ってもそこには数分しかいられない。また現在に戻ろうとしても反発力があり未来に行ってしまう。

過去へ行く度に反発力が強まり、最初は数時間、次は数年、3度目は数十年、そして4度目は4000年後の未来に弾き飛ばされてしまう。3回過去に行って好きな人を助けようとして失敗し、4回目の挑戦を行う。

数分過去に戻り彼女を助けるために人類が生きているかどうか分らない4000年後の世界に飛ばされてしまう。それでも過去に出発する。劇はそこで終り、彼女を助け出せたかどうかは分らないが、吹原は確実に誰も知る人もいない未来に行ってしまうのだ。

この劇は無償の愛を描いたものか、それとも過去は変えられないという厳然たる事実を訴えたのか。過去から現在は変えられない。現在からしか未来は変えられない。

クロノス=時間の神そして死神、その手からは誰も逃れられない、たとえ時間をさかのぼる事が出来ても、といった教訓なのだろうか。人は時間に介入してはならない。それは神の領域なのだ。時間はただ静かに流れ続ける。人はその流れをどうする事も出来ない。死は避けられない人の宿命だ。それから逃れるどのような方法もない。

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キャンサーネットセミナー「働き世代のがんと患者が直面する問題」

10月4日(日)
=_EU.jpg¶ NPO法人キャンサーネットジャパン主催のセミナーが渋谷の東京ウイメンズプラザで行われた。内容は「働き世代のがんと患者が直面する問題」ということで、直接今の自分の状況とは関係ないが、がん患者の抱える問題がどういったものであるのかを広く知る事によって自分の立場を見直そうと考えて聴きに行った。

セミナーは前半と後半に別れていて、前半で問題提起を行い、後半で問題解決に向けた提案を行う形式になっている。問題点を3点に分けて提起している。患者が抱える肉体的(フィジカル)、精神的(メンタル)、社会的(ソシアル)問題のそれぞれに対してその問題点の提起が行われた。

¶ 30代40代の働き世代のがん患者の抱える最大の問題は就労のことである。
「これまでの仕事を続けたい」と回答した人は75.9%、しかし希望した人のうち31%が退職や解雇で転職を余儀なくされたり、未就労になっている。継続雇用されていても配転などで収入は38%の人が下がったと回答している。また仕事継続の不安について聞いた所61%が「不安がある」と回答した。

未就労患者の意識としては、仕事をしていない理由として「病気のため」が33%だが、就労への意欲は高く85%が「仕事がしたい」と答えた。希望する職種はパートが43.9%で正社員24.4%を上回った。体に不安があり正社員への希望が少ない。

こういったがん患者の就労状況の厳しさがあり、肉体的には、再発の不安や、後期合併症、性機能障害、妊孕性、GVHDなどを抱えている。こういった肉体的不安が就職活動にプレーキをかけているのは事実だ。

心理的には、負のスパイラルに陥っていく。退院後就労を継続したとしても、休んで申し訳ないという罪悪感があり、燃え尽き症候群なる休みが多い分だけプレッシヤーを感じ仕事を頑張ってしまう。こういった働き方で自分の時間を持てず、仕事がおもうように行かないと自信喪失になる。自分の辛さを回りは分かってくれないとマイナス思考になり落ち込む。

¶ 若年がん患者の多くは、時期的に彼らが第一線で働いている時期に当たるだろう。しかしがんで長期入院を強いられれば降格人事などに会い、モチベーションが低下し、また身体的トラブルで喪失感に陥る。再就職や病気の再発の不安感に襲われる。こういった若年がん患者特有の悩みがある。

がん患者の就労支援をするために、現在、CSRプロジェクト(Cancer Survivors Recruiting Project)が取り組まれている。この組織はコンサルティング、プランニング、リクルーティングの機能を持ちながら、職場でのトラブルの相談から就職斡旋までを行っていくもので、企業との連携も取りながら活動の準備を進めている。

¶ 患者の悩みの統計では、病気・診療に関しては27%、不安・心の問題に関しては48%だった。心のケアを十分受けているかについては82%が受けていないと答えた。

ピア・カウンセリングが幾つかの病院で出来てきている。ピアとは仲間という意味で、がん体験者が相談員になる。自由な語りの中で、思いを吐露し、感情を表出し、そのことで患者は自分の悩みの中身を整理していく。これによって気持ちの変化、不安の軽減へと至る。

患者会(ガンサロン)でがん経験者同士話し合う事によって互いに共感を得、悩みを打ち明けあい、他人の生き方を学び、また自分の経験が人の役に立てればそれで自信を持つ事が出来る。同じ立場の人と話をして見たいという患者家族は75%もいた。

¶ 最後にサバイバー(Survivor)という言葉の持つ意味についての話があった。日本人にはがん=死という固定観念がある。こういった背景ががん患者がその人らしく生きることの妨げになっているようだ。未だにがん患者に対して家族ががん宣告をしないという事がある。

サバイバーという言葉は生還者、克服者、生き残りと訳されるが、この言葉は「がんと診断後の生を重視した思想」に基づいている。米国NCCSの活動の基本になっている言葉だ。かんを克服し生涯を全うするまでを意味する。がんという経験は価値があり、ポジティブな力にかわる。がんになったということ、診断から死ぬまでにはそこに込められた意味がある。このことを自覚して自分らしく生きよう。人生は長さではない。

自分自身をサバイバーと語ることの持つ意味について3点上げた。
1、生死を見つめた人間が自分らしく尊厳を持って生きようという「自らの姿勢、決意表明」
2、自分のプライドを表現する言葉として存在している。
3、がん体験は自分と家族の人生に大きな影響を与えたことの意味を自覚する。

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がん治療とは長く細い道を辿ら
なければならない。その先に希
望があると信じながら。

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