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入院から現在までの治療経過

12月31日(木)
1年の締めくくりとして、今までの治療病状経過をまとめて報告したい。定期検診の報告は毎回しているが、全体像を見てもらって病状の現状を把握してもらえればわかり易いのではないかと思う。

振り返ってみると多種多様な治療法の変遷には驚くべきものがあると改めて思う。確かにこの病気には治癒ということがなく、また病気の特徴として早期に薬物耐性が生じ薬の効果が失われていく。がん細胞の増殖を抑えるための効果のある薬を探しながら、延命治療をしていく外ない。

しかし個人差があるとはいえ私の場合はあまりにも薬物耐性の発現が早すぎる。さらに抗がん剤の投与をやめると、がん細胞は苛酷なほど自然増殖してくる。それを抑えるため様々な治療薬の組み立てを考えていかなければならない。

どういった組み合わせを次に選択するのか諸条件を加味しながら考えていくという、いわば一種のゲームのような気楽な気持ちで自分の体を実験台にしながら延命治療を続けていく外ない。QOLとの兼ね合いも含め自分の生き方の選択と治療法の選択とが大きく重なってくるからこそ自分で考えて行く外ない。


治療・病状経過

入院経過
 第1回入院、2005年12月1日から27日-フルダラビン療法
 第2回入院、2006年1月4日から1月20日-第1回VAD療法
 第3回入院、1月23日から2月13日-第2回VAD療法
 第4回入院、2月20日から3月13日-第3回VAD療法
 第5回入院、3月20日4月9日-自己抹消血幹細胞採取
 第6回入院、5月15日から6月5日-第4回VAD療法
 第7回入院、6月12日から7月11日-1度目の自己末梢血幹細胞移殖
 第8回入院、10月12日から11月12日-2度目の自己末梢血幹細胞移殖
 第9回入院、2007年10月24日から12月28日-ベルケイド(ボルテゾミブ)療法のため

治療経過
2005年
11月7日 仕事中、足の指に品物を落とし大量に出血。
  1週間以上たっても出血が続くので血液検査をした所、血中のタンパクに異常値が出たので専門病院を紹
  介される。
11月24日 専門病院に行って血液がんであることを宣告される。
12月1日 原発性マクログロブリン血症と病名が確定し入院。
  入院時骨髄中の形質細胞腫瘍(がん細胞)の量を示すIgMは7110だった。
12月10日 最初の化学療法としてフルダラビン療法(45mg/5日間)が開始された。
  しかし全く効果がなくIgMは9470にまで上昇。治療法の変更。

2006年
1月~
 VAD療法を3クール行なう。
  =オンコビン(ビンクリスチン・V)0.4mg+アドリアシン・A(ドキソルビシン)10mg+デカドロン・D
  (デキサメタゾン)40mg。
  4日間連続、3週間ごとに繰り返す。目標値IgM4000以下になったので移植の準備に入る。
4月 自己抹消血幹細胞採取。ベプシド(エトポシド)200mg/3日間、を使用。
5月 IgMが上昇してきたのでVAD療法を1クール行う。
6月20日 1度目の自己末梢血幹細胞移殖。 
  一時は骨髄中に形質細胞腫瘍は見当たらなかったが少しずつ増え始める。
10月24日 2度目の自己末梢血幹細胞移殖。IgMは基準値まで戻る。
  2度の移植はタンデム移植として当初より予定されていた。

2007年

5月  IgMが再び増加、MP療法を行なう。
  =アルケラン(メルファラン・M)6mg+プレドニン(プレドニゾロン・P)50mg-月4日間連続服用。 
  半年位でIgMの増加が見られ、さらに骨髄抑制が強まってきたので中止を余儀なくされる。
10月 ベルケイド療法開始。
  =ベルケイド(ボルテゾミブ)2.1mg+デカドロン(デキサメタゾン)40mg-1,4,8,11のサイクルで静注。
  2クールを2ケ月間の入院で行う。その後通院で続けるが効果減少。4クールまでで断念。

2008年
4月 サリドマイド療法開始。100mg/毎日服用。
9月 サリドマイド単剤での効果減少。サリドマイド100mg/毎日+エンドキサン(シクロホスファミド)50mg/月7
  日服用。
11月 サリドマイド100mg/毎日+エンドキサン300mg/週1回毎週+デカドロン40mg/月4日を服用。
  やがて効果減少。

2009年

6月 サリドマイド100mg/毎日+オンコビン2mg/月1度+デカドロン40mg/月4日。効果減少。
8月 オンコビンを月2度にするが効果期待できず。
9月 サリドマイド100mg/毎日+アルケラン8mg/月4日+プレドニン50mg/月4日。
11月 好中球が500以下になる。上記の療法による骨髄抑制が強すぎるので中止。
11月25日~ サリドマイド100mg/毎日+クラリスロマイシン200mg/朝晩毎日+プレドニン50mg/月4日。
  この3種併用療法を始める。クラリスロマイシンは抗生物質であり骨髄抑制の心配はなかった。
12月24日~ 上記療法が全く効果を発揮せず、IgMが1ケ月に1000も上昇してしまった。次の療法として
  ベルケイド2.1mg/週1回毎週静注+デカドロン33mg/週1回毎週静注+サリドマイド100mg/毎日服用
  +エンドキサン50mg/月4日服用。


入院から現在までのIgMの増減

入院から第2回移植前まで
無題

2005.12.5  フルダラビン療法
2006.1.5   VAD療法第1クール
     1.23  VAD療法第2クール
     2.20  VAD療法第3クール
     3.20  自己末梢血幹細胞採取
     5.15  VAD療法第4クール
     6.20  第1回自己末梢血幹細胞移植
     10.24 第2回自己末梢血幹細胞移植

第2回移植以降、MP療法をへてベルケイド療法終了まで

22.jpg

2007.5.30  MP療法開始
     10.26 ベルケイド療法開始

サリドマイド使用以降

3.jpg

2008.4.2   サリドマイド単剤で使用開始
     9.3   THL+エンドキサン
     11.26 THL+エンドキサン+デカドロン
2009.6.11  THL+オンコビン+デカドロン
     9.16  THL+アルケラン+プレドニン
     11.25 THL+クラリスロマイシン+プレドニン
     12.24 IgM2892になる。
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テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

臨時検診・ベルケイド静注(1クール2回目)

12月28日(月)
今日で病院の一般外来は終了する。次は1月4日からだ。べルケイド(ボルテゾミブ)第1クルー第2回目の静注は、本来なら31日に1週間間隔で行う予定だったが、通院治療センターが休みなので、今日行わざるを得ない。

担当医の外来診療日は水曜木曜日なので今日は一般外来患者はいない。受付をすると約束の10時にすぐ担当医に呼ばれて、ベルケイドとデカドロン(デキサメタゾン)の処方をしてもらった。

血液検査は24日にしたのでする予定はなかったが、医者に次のように質問した「ベルケイドの副作用の最も重要なのが血小板減少ですが、深部静脈血栓症の予防として服用してるバッファリン錠(アスビリン)は抗血小板薬であって抗凝血作用があるという問題があり、これをどうしたらいいのでしょうか」と。医者はベルケイド点滴の時、採血して血小板数を調べ下がっているようだったらバッファリン錠の服用をやめようという事になった。

通院治療センターにはあまり待つことなく呼ばれた。水曜木曜は血液患者の外来診療日なので、通院で点滴を受ける人が多く混んでいるのだろう、そうなるとベッドが空くまで待っていなければならない。点滴で5,6時間かかる人もいる。

今日は比較的空いていたのだろう。24日の時には病院に8時間も留め置かれた。点滴針は医者しか刺せない。医者は外来患者の診察の合間に点滴張りを刺しに通院治療センターに来なければならない。だから医者をかなり待つこともある。ベルケイドとデカドロン(デキサメタゾン)の点滴を1時間ばかりで済ませ治療を終えた。血小板数の減少は見られなかったのだろう、バッファリン錠の服用はそのまま続けられることになった。

通院治療も今日のようにスムーズにいくと気分はずいぶん楽だ。たとえ時間があるとはいえ長い待ち時間によって病院に7時間も8時間も拘束されているのは精神的に辛い気がする。多くの中小病院や公立病院が経営難で倒産している中、大病院に患者が集中し医者と患者に負担がかかって来ている。どうにかしなければならいと思う。なかなかいい方法は見付からない。

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ももの木忘年会

12月26日(土)
P011391868_368.jpg 銀座7丁目の「海老専科」という中華料理屋でももの木の忘年会が行わ
 れた。本来は2ケ月一度のももの木の交流会が行われる事になっていた
 が、年末だからということで忘年会にしたということだ。

 また季節によっていい魚が釣れる時期に、魚釣りが好きでおいしい魚を
 皆にご馳走したいというニチさんが定期的に主催している「魚の会」と
 をドッキングして忘年会として行なったというものだ。

 「魚の会」は一度参加したが、生マグロのおいしさに驚嘆した記憶がある。寿司があまり好きではないという人が知り合いで2,3人いる。寿司のメインはやはりマグロだが、多分おいしいマグロを食べてないから寿司が嫌いになったのではないかと思う。もちろん生マグロなどは料亭でしか食べられないという現実はあるのだが。

大体好き嫌いなどというものは、最初にある食材を食べた時の印象に大きく影響される。「おいしんぼ」という漫画にあったが、子供の魚嫌いを直したいという親が、主人公に頼んだ。彼は子供を港に連れて行きそこで取れたての魚を食わせ魚嫌いを直したという。

小学校の低学年の頃社宅に住んでいたが、母親が裏の空き地にトマトを植えて育てていた。夏になるとおやつはそのトマトだった。その甘酸っぱい味が忘れられない。スーパーで買う温室栽培のトマトの味はどうしてもなじめない。おいしい露地トマトを食べたいと思う。

養殖とハウス栽培で食卓は豊かに華やかになったかもしれない。多くの人達に食材を提供するために止むを得ない選択だったのかもしれない。しかしその事によって季節感が失われ、本当の食物も味から遠ざかってしまったような気がする。それを少しでも取り戻そうとニチさんの魚の会はある。

「海老専科」はチェーン店で幾つか店がある。ここのオーナーがニチさんの釣り仲間で、いろいろ便宜を図ってくれる。今日のためにニチさんは銚子沖で釣りをしてきた。金目鯛、スルメイカ、ホウボウなどを釣ってきた。

ヒラメは自分では釣れなかったが、一緒に行った友人が今日のために提供してくれたそうだ。マグロは知り合いの船長が金華山沖で釣ったものをみかんを送ったお礼として譲ってくれたという。いい知り合いがいるおかげで、おいしい食材にあり付けたという訳だ。

hirameusudukuri1.jpg  IMG_16291_convert_20091227124413.jpg  P011400240_168_convert_20091227124455.jpg

最初にヒラメとマグロの刺身が出てきた。これだけで今日来たかいがあるというものだ。次に金目鯛の中華風煮付け、スルメイカの唐揚、スルメイカの煮付け、ホウボウの唐揚あんかけ、ここまでがニチさんが提供してくれた魚を調理したものだ。さらに「海老専科」名物の大海老黒胡椒ねぎ炒め、そして炒飯、杏仁豆腐という献立だ。アルコールは飲み放題。

土曜日の夕方ということで銀座通りはかなりの人混みで賑わっていたが、昭和通りから少し奥まった所にあるためか、店はほとんど貸切状態だったので和気藹々とした雰囲気で会は進行していった。アルコールが入り話が弾んだ。

こういった患者、元患者の交流の場は、病気の現実を特殊なものではなく日常的な出来事として受け入れていくことを可能にし、精神的な安定を与えてくれるような気がする。

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副作用防止の薬

12月25日(金)
昨日の夜は中々眠れなかった。よく考えたらデカドロンのせいだと思った。ステロイドの投与は覚醒作用を高める。入院中VAD療法をやって、デカドロンを投与された時にはマイスリーという睡眠薬をもらわないと眠れなかった。薬を飲んでも3,4時間しか眠れなかった。

昨日も睡眠薬でもあるサリドマイドを飲んだが眠気は来なかった。12時には寝る体制に入ったが、4時頃まで眠れなかったのでサリドマイドとの相性が分らなかったが、マイスリーを飲んだ。その後朝9時頃までは眠れた。

昨日はベルケイドとデカドロンとゾメタの静注を行った。ベルケイドはデカドロンの点滴管の根元が二股に分かれていて、その穴から注射器を差込み30秒位で薬液を注入する。その後1時間かけてデカドロンの点滴が行われる。

血液内科の外来診療は通常水木の2日間で行う。1昨日の水曜日が休みだったので、全て昨日1日に集中してしまった。採血室も混んでおり、医者の診療時間まで2時間待ち、外来治療センターのベッドが空くまで2時間待った。それから、デカドロン1時間の点滴、ゾメタ30分の点滴を行って終ったのが5時近かった。9時から17時まで病院にいたことになる。

服薬を指示された薬は、次の定期検診の日までの2週間分処方された。
 シクロフォスファミド(エンドキサン)50mg4錠・1日1錠4日分
 バルトレックス500mg14錠・1日1錠14日分
 バファリン錠(アスピリン)81mg14錠・1日1錠14日分

以前から服用している薬
 サリドマイド100mg/ 毎日
 バクタ(細菌を殺菌・カリニ肺炎の予防)400mg14錠・1日1錠14日分
 フルコナゾールカプセル(抗真菌剤)100mg14カプセル・1日1錠14日分
 べザトールSR錠(中性脂肪値を減少)200mg14錠・1日1錠14日分
 コートリル(副腎皮質ホルモン)10mg14錠・1日1錠14日分
 オメプラール(胃液の分泌を抑える)10mg28錠・1日2錠14日分

その外症状が現れた時の頓服薬として

 マグミット330mg  便秘時
 ビオフェルミンR錠  下痢時
 マイスリー5mg    睡眠導入剤
 ガバペン錠200mg 末梢神経障害
 カロナール200mg 発熱時
 コントミン12.5mg デカドロンによるシャックリを止める

バルトレックスは帯状疱疹(ヘルペス)予防のために投薬された。APEXとVISTAが行った臨床試験の報告である「ボルテゾミブ(ベルケイド)使用時の帯状疱疹の発症」によれば、難治最発例で、患者の13%が帯状疱疹に罹患しそのうち重症者が1.8%であった。高齢未治療に関しても13%が罹患し、2%が重症となった。こういったことからバルトレックスの服用をしなければならないということになった。

帯状疱疹には3回罹った。帯状疱疹の発疹は1週間位で終るがその後帯状疱疹後神経痛になるかどうかが運命の分かれ道となる。最初の時には半年以上神経痛の痛みに苦しめられた。痛みで夜寝られないほどだった。抗うつ剤のパシキルを飲み、神経ブロックを毎日のようにやって、半年位で収まった。その後の2回は運よく神経痛にはならなかった。なるかならないかはそのときになってみないと分らない。やはり予防は不可欠だろう。

バファリン錠(一般名アスピリン)を何故投与するかというと、ベルケイドとサリドマイドを組み合わせると、深部静脈血栓症の起こる確率が非常に高くなるということだった。サリドマイドは単独でも血栓塞栓事象の発現は13%となっており、ステロイドとの組み合わせでは58%にまで上昇した。しかしアスピリン投与群は15%にまで減少した。そこでアスピリンの投与が決まった。

バファリン(アスピリン)は少量で「抗血小板薬」として作用し、血小板の働きをおさえて、血液が固まるのを防ぐ作用をもつ。その意味で血栓症には役に立つのかも知れないが、原発性マクログロブリン血症の病態としての血液の凝固機能が減少している状態でアスピリンがどういう機能を果たしていくのだろうか。

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定期健診の日・ベルケイド1クール1回目

12月24日(木)
通常2週間に一度の定期検診だが、担当医がアメリカでの血液学会に出席するため、12月9日の検診は休みで1月ぶりの検診となった。11月25日から始めた新たな療法・サリドマイド+クラリスロマイシン+プレドニンの併合療法が奏功しているかどうかが今日わかるわけだ。

血液検査の結果は以下の通り。

検査結果 
 IgM     2892(12/24)←1816(11/25)←1766(11/11)
 白血球   2300(12/24)←1900(11/25)←1300(11/18)←1100(11/11)
 好中球   1160←880←510←460
 血小板   15.7←9.6←7.5←6.5
 赤血球   321←297←315←306
 ヘモグロビン 10.6←9.8←10.5←10.0
 網赤血球   18←15←12←13


IgMが2892と1ケ月で1000も上昇してしまった。残念ながら、新たな療法は全く効果がなかった。クラリスロマイシンという抗生物質がなぜ血液がんに効くのか良く分からなかったが、奏功率はそれなりにあるし、医者も「効く人には効くんだがな~」と言っていたが、私の場合は全く効かなかったということだ。1ケ月でIgMが1000上昇するということは、何もしなければ7ケ月で10,000を越えてしまうということだ。このIgMの増加の早さが私の特徴的病状だ。治療を中止することが出来ない。

次の療法は、今回の方法が駄目だった場合ということで、11月25日の検診の際話しをしたサリドマイド+ベルケード(ボルテゾミブ)をベースにした療法である。通常ベルケードは1,4,8,11と行うが、日本骨髄腫研究会の共同研究の発表にあった臨床試験のプロトコルでは、週1回の投与でも週2回の投与でも効果は変らず、むしろ週1回の方が抹消神経障害や血小板減少などの副作用が軽減されるという利点があるというものである。この方法の有意性はイタリアでの週1回と2回の比較調査で明らかにされている(2008年米国血液学会でのイタリアの報告)。

体への負担を考えてベルケード週1回という方法で治療を行うことになった。またシクロフォスファミドはレジメンによれば100mgの服用となっているが骨髄抑制の事も考えて50mgにし、デカドロンも通常40mgを減量した。下の療法で今日から治療を開始する。効果を期待するしかない。

新たな療法
 サリドマイド 100mg/毎日服用
 ベルケード静注 2.1mg(1.3mg/㎡・体表面積) 週1回
 シクロフォスファミド(エンドキサン) 50mg/月4日服用
 デカドロン(デキサメタゾン)静注 33mg ベルケード静注と同時に行う。
 (実際の使用薬はジェネリックのデキサート)
 

アメリカでの血液学会の様子について担当医に聞いてみた。「新薬が次々に開発されている、やがてそれが使えるようになるだろう。レナリドマイドが来年の4月から保険適用になる。レナリドマイド(レブリミド)よりもさらに優れた薬が開発されアメリカでは認可を待つばかりとなっている。ベンダムスチンも来年には日本で保険適用になるだろう。今はこの病気を治す薬はないが、延命治療を続けていれば、有効な新薬が開発され使えるようになる。新薬をうまく使いながら治療を気長に続けていくほかない。」と医者は言った。

サリドマイドも使用してから来年4月で2年になる。そろそろサリドマイドを中心とした併用療法は限界に来てる時期が近付いているようだ。そうなれば次にレナリドマイドが使える。これは運がいいと思う。レナリドマイドを中心とした幾つもの併用療法が可能となり、治療の展望が開けてくる。。

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高額医療費制度

12月22日(火)
毎月、20日頃「国民健康保険高額医療費の申請について」という通知が送られてくる。今日は区役所に申請手続きに行った。毎月申請に行かなければならないのは大変だが、高額医療費が支払われるということは経済的に非常に助かる。

毎月一定額を超えた医療費が生じた場合、国民健康保険課の国保給付グループから高額医療費支給の通知が来る。何時から始まったか分らないが、昔は自分から申請しなければならなかったようだ。

ある時友人との話の中で、彼の父親ががんになり長い間入院していたという話題になった。10年位前のことで、1年位入院したという。結局助からなかったが、入院治療費が毎月30~40万円かかった。高額療養費支給制度のことなど全く知らずに、また誰も教えてくれず、家にあった貯金を全て使い果たしてしまったということだった。私から聞いて始めて知ったということだ。知っていればなあとため息をついた。昔は医療相談などなかったのかも知れない。

私の場合、サリドマイドが保険適用になる前は、個人輸入で仕入れていたので、他の医療費だけでは高額医療費の対象にはならなかった。4月から保険適用されたサリドマイドを病院で処方してもらうことになった。

6月になって、区の国民健康保険課から「国民健康保険高額療養費の申請について」といった通知が来た。そこには「あなたの所帯は、平成21年4月診療分の医療費(一部負担金)が一定額を超えたため、高額療養費に該当します。平成21年6月28日までに窓口へ申請手続きにおいで下さい、その後も申請は受付できますが、平成23年4末に時効となります」と書いてあった。そして支給額が記載されていた。

高額医療費の申請は自分からしなければならないと思っていたので、国民健康保険課から通知が来るとは何と有り難いことだろうと思った。

申請手続きに必要なものとして、受診した人の保険証、高額医療費の通知書、医療機関の領収書、印鑑、振込先金融機関・支店名・口座番号がわかるもの、とあった。また支払いは申請した月の翌月末になると記載されている。実際に支払った時から3ケ月後に高額医療費分の支払いが行われる事になる。

高額医療費自己負担限度額は、住民税課税所帯の場合(上位所得者以外)年間支給回数3回までが、80,100+(実際にかかった医療費-267,000)×1%で、4回目以降が44,400円となる。

今は血液内科で医療費が幾らかかったとしても、毎月44,400円以上は3ケ月後に戻ってくる事になっている。国民健康保険課からの通知をもって手続きに行けば翌月には自分の口座に振り込まれる。

ただし対象は一つの診療科で44,400円以上でなければならない。同じ病院であっても、血液内科以外に眼科や歯科で診療した場合は別に計算され、月額21,000円を超えていれば高額医療費の対象となるが、医療費の合算が対象となる訳ではない。

確かに医療費が毎月44,000円かかるというのは経済的に負担であるのは確かだが、サリドマイドを個人輸入していた時のことを考えると、半分以下になったことは事実である。日本の医療制度には色々問題があり、医療費全面無料化のフランスやイギリスなど比べるとまだまだだが、国民皆保険の制度や、高額医療費制度の有り難さを感じる事が出来るもの確かだ。

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新宿区落合界隈史跡巡り

12月20日(日)
秋晴れの上天気。気温も上がってきて外出日和だ。「東京23区史跡散歩」というサイトがあって、沿線ごとの地域の様々なコースが紹介されている。西武池袋線沿線として、東長崎~中井~下落合を結ぶ「新宿区落合界隈の史跡巡り」が紹介されていた。

午後から思い立って出掛ける散歩なので近場を選んだ。昔西落合に住んでいて哲学堂は近くで散歩に便利だったので何度も行ったが、他の所は前を通り過ぎたことはあってもゆっくりと鑑賞した事はなかった。

新宿区落合界隈史跡巡りコース
岩崎家住宅→トキワ荘記念碑→トキワ荘跡→自性院→中井出世不動堂→中井御霊神社→林芙美子記念館→最勝寺→月見岡八幡神社→せせらぎの里

岩崎家住宅
落合周辺003_edited_convert_20091220202747 千川通りに面している岩崎家

千川通り(旧清戸道)にある岩崎家住宅の前は何度も通った事がある。屋敷林が借景のようにこの古民家をひきたたせ、秋になるとケヤキの巨木の紅葉が見事だった。しかしこの家が江戸時代末期に建築された旧長崎村の有力な旧家で店舗を兼ねた古民家であり、肥料や糠を販売していたといったことは全く知らなかった。単に古い家だとしか思っていなかった。知らずに通り過ぎるのと知って見るのとは大違いだ。1918年(大正7年)に一旦解体したが、その後に同じ様式で再建された。

トキワ荘跡
落合周辺005_edited_convert_20091220202851 南長崎花咲公園のトキワ荘記念碑 

落合周辺006_edited_convert_20091220202941 昔トキワ荘はこの路地の奥右側にあった

豊島区主催で「トキワ荘のヒーローたち」展が開催され、それに合わせて西武池袋線の池袋、椎名町、東長崎駅でトキワ荘記念乗車券を発売しているし、しばらく前に「トキワ荘記念碑」が南長崎花咲公園に作られた。トキワ荘のあったニコニコ商店会や地域のメンバーがなどを中心になって、こういった企画をきっかけに街興しを進めている。

トキワ荘というアパートは今はない。商店街に立看板があり、日本加除出版の裏手にかつてあったトキワ荘の場所を示している。木造2階建て、各部屋は4畳半に押入れが一つだけ、それに共同の炊事場とトイレがあるといった昭和の町並にはどこにでも存在していた庶民的なアパートだった。昭和28年(1953)に手塚治虫が入居したことをきっかけに、後の漫画界を背負って立つ若者が次々と手塚を慕って入居したことにより、その住人達が後に著名人になったことから名が知られるようになった。

自性院(真言宗 西光山 無量寺)
落合周辺009_edited_convert_20091220203028 自性院本堂

境内入口にある門柱に大きな招き猫が建立されている。これは戦国時代、太田道灌に由来する伝説による。それによると道灌が江古田ヶ原の戦(1469~1486)で途中で道に迷った際、黒猫が現れて命拾いしたことから猫を尊重し、猫寺という愛称で親しまれるようになり、猫地蔵を安置したという。

自性院の前は何度か通った事があるが、境内に入ったことはなかった。昔は神社、仏閣を見るなどという精神的余裕がなかったのだろう。旅行に行けば見るが、身近な所で鑑賞するという気には全くならなかった。年齢のせいかもしれない。

中井出世不動堂

落合周辺017_convert_20091220203204 不動堂

ここの不動明王は有形文化財になっている。安置された本尊の不動明王像及び二体の童子像は、江戸時代の天台宗の僧・円空の作で、東京で唯一の円空仏である。彼は諸国を行脚しながら、行く先々で仏像を造りながら布教を行った。円空が製作した仏像は、原木を活かした粗野で荒々しい彫法である。普段は見る事が出来ない。毎月28日午後御開帳になる。28日に覚えていたら行ってみよう。

中井御霊神社
落合周辺029_edited_convert_20091220203452 御霊神社本殿

古くから落合村中井の鎮守であった。毎年1月13日に備射祭が行なわれる。これはその年の豊作を祈り、的を矢で射る祭礼行事で、関東地方各地に現在でも伝承されている。中井御霊神社の備射祭は無形民俗文化財に指定されている。

林芙美子記念館
五の坂から四の坂に向うと木々に覆われた屋敷が目に入る。四の坂の登り口に「林芙美子記念館」と書いてあるプレートが立っている。坂を上るとすぐ入口がある。ここは林扶美子が自ら設計も行い、こよなく愛した自宅を一般公開し、彼女の業績についての展示品が置かれている。

落合周辺026_edited_convert_20091220203402 記念館入口

落合周辺024_edited_convert_20091220203308 茶の間と庭園

林芙美子は昭和5年(1930)に落合に移り住んだが、昭和14年(1939)この場所に一軒家を建築し始めた。芙美子は、新築にあたって約200冊の建築専門書をよみ、山口文象に設計を依頼し、一流の大工を集め、さらに京都まで民家を見学に行ったりして、我が家の構想を練った。彼女は「東西南北風の吹き抜ける家、愛らしく美しい家。客間には金をかけず、茶の間と風呂と厠と台所に金をかける」という持論を持って家を建てた。庭、裏山、竹林などの家との調和も見逃せない風景だ。

林扶美子が好んで色紙に書いた「花のいのちはみじかくて、苦しきことのみ多かりき」というよく知られた名句の原典は林芙美子と親交があった「赤毛のアン」の翻訳者村岡花子さんに送られた一遍の詩だった。

そこには「花のいのちはみじかくて 苦しきことのみ多かれど 風も吹くなり 雲も光るなり」と書いてあり、苦しいだけでなく、むしろ様々な可能性を持っていると言おうとしたのではないかと思う。

最勝寺(真言宗・高天山大徳院・豊山派)
落合周辺032_edited_convert_20091220203555 最勝寺本堂

山手通りを中井から東西線の落合方面に向うと右手に大きな寺院が目に付く。ここの境内には一般の人が葬儀に利用できる檀信徒会館があるということで、丁度葬儀が終って会館からお骨を持って出てきた十数人の人と出会った。この寺院裏に落合斎場があり火葬場が併設されている。この寺院で葬儀をして、落合斎場に行ってまた戻って来たのだろう。

本堂は中々格調が高い。この寺院は鎌倉幕府第五代執権北條時頼(1227-1263)によって内藤新宿の三光院境内で開創されたと伝えられている。

月見岡八幡神社
落合周辺039_convert_20091220203642 月見岡八幡神社本殿

この神社は、社伝に「源義家奥州征討以前の社にして、義家当社に参詣して戦捷の祈願あり」と伝わる古い社で、旧上落合村の鎮守社であった。境内には、正保4年(1647)銘で区内最古という宝篋印塔型の庚申塔、天明5年(1785)銘の鰐口、旧社殿の板絵の一枚であった谷文晁の絵が残されている。社殿向って左手には溶岩を積みあげた富士塚がある。幼稚園が併設されていてその近代的建物と本殿とのアンバランスが目に付いた。

せせらぎの里

落合周辺045_edited_convert_20091220203730 公園の中央に流れるせせらぎ

ここは下水道局落合水再生センター(下水処理場)の地下施設の上部を利用して、昭和62年(1987)に開園した公園だ。この下水処理場では処理した水は神田川に放流している。また一部は西新宿や中野坂上地区のビルのトイレ用水や城南三河川の清流復活事業に活用している。まさに水の再生、リサイクル・システムとなっている。

公園の中央には池・せせらぎがあり、夏場に子どもたちの水遊び場となっている。この池の水も処理水の一部を利用している。水浴びをして子供たちが誤って飲んだとしても衛生的だというほど浄化されているということだ。

参考文献:「東京23区史跡散歩」

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富士交響楽団演奏会

12月17日(木
しばらく前に、創価学会の元職場の同僚にクラシックのオーケストラのコンサートに誘われた。演奏は富士交響楽団という創価学会が運営している楽団だ。指揮は飯吉高で、彼は本来トランペット奏者だが指揮者でもある。

演奏技術や指揮の腕前など不明な点もあり、創価学会に対しては若干の抵抗もあって迷ったが、オーケストラの生演奏などめったに聴く機会がないので行くと返事をしたら入場券を送ってきてくれた。もちろん高い金を払えば幾らでも演奏会に行けるのだが。

daihall1.jpg場所は新宿文化センターで副都心線が出来たおかげで、最寄り駅の東新宿まで20分位で行けるということもあって行く事にしたわけだ。文化センターの大ホール(右写真)で演奏は行われる。このホールは1802席あり、管弦楽、室内楽をはじめとしたクラシックコンサートやバレエ、オペラなど様々な催し物が開かれていて、残響の豊かさでも定評があるらしい。

創価学会創立80周年開幕記念・富士交響楽団・新時代第1回定期演奏会といった仰々しく命名された演奏会だ。曲目はベルリオーズ「ラコッツィー行進曲」《ファウストの刧罰》より、スメタナ「モルダウ」交響詩《わが祖国》より、チャイコフスキー「交響曲第5番・ホ短調」であった。

チャイコフスキーの交響曲はてっきり第6番の「悲愴」だと思い込んでいたが、プログラムをよく見ると5番と書いてあって期待はずれだったが、聴いた事がある曲だったので家に帰って調べたら5番が買った覚えはないのだが何故かあり、2,3度は聴いたらしい。

大体どこの交響楽団の団員もそうだが、交響楽団に所属しているだけでは食えないので音楽大学の教師や、自宅や教室で教えている。そういった意味で演奏者は全てプロには違いない。演奏は音響効果のせいもあるのかもしれないし、このホールの宣伝文句「ステージと客席との距離が近く、生の音声が聞き取りやすくなっているので、すばらしい臨場感が得られる」という構造上の利点もあり、さらにかなり前で聴いていたせいもあり、演奏はかなり迫力満点で楽しむ事が出来た。

ただ入場券が必要であるが無料なのでクラシックを始めて聴く人もいたのだろう。子供など退屈そうに前の椅子を靴で蹴っていたり、2人で来ていた老婦人が時々演奏中におしゃべりをしているのが気になった。生演奏を聴かせればクラシックが好きになる訳ではないので、1000円でもいいから入場料をとればクラシック好きしか来ないだろう。もっともこの日の演奏会は創価学会にとっては別の意味があったのだろうからそれについてはどうこう言える立場にはないのだが、音楽を聴く最低のマナーは守って欲しい。

何故創価学会に抵抗があるかというと、その教義については全く知らないので評価することは出来ないが、そもそも宗教に関心がないということだけではなく、創価学会が支持する公明党に問題がある。

創価学会が母体となり選挙には総力を挙げて応援する公明党が自公連立政権で何をしたのかを考えると、党の掲げる「福祉と平和」をいかに裏切ってきたのかがわかるだろう。それが創価学会の理念に反しているのではないかと思わざるを得ない。

社会福祉費2200億円削減、後期高齢者医療制度、障害者自立支援法、母子加算廃止といった福祉の切捨て、イラク派兵、インド洋給油(アフガン戦争への加担)、海賊退治の名目による自衛隊の海外で武器使用の容認など戦争加担を公明党は推進してきた。創価学会の会員が本心福祉平和を考えているなら公明党を応援するはずがない。

戦争中治安維持法と不敬罪で捕らわれあくまでも転向を拒否した牧口常三郎と戸田城聖の教えを受け継ぐなら戦争加担など言語道断だろう。牧口は東京拘置所で獄死している。確かにある公明党議員が「朝まで生テレビ」で「憲法9条は改正すべきだ」といった事に対して創価学会の婦人部が怒ったという話しもある。

しかし結果的には公明党を支持しているのには間違いない。『グラフSGI』という雑誌があり、池田大作氏が平和の使者のように取り扱われている。しかし彼が公明党のイラク派兵賛成に反対していないということは、彼もイラク派兵に賛成だということだ。

まさかオバマがノーベル平和賞の演説で言った「平和を維持する上で、戦争という手段にも果たす役割があるのだ」と思っているわけではないだろう。そうだったらそう表明すべきだ。何時だって戦争は平和のためといった大義名分で開始される。世の中一番醜いのは表で平和の使者のような顔をして、裏で戦争推進を行っている輩だ。

池田大作氏は『人間革命』の冒頭で「戦争ほど残酷なものはない、戦争ほど悲惨なものはない」と書いている。自己矛盾はないのだろうか。結局創価学会とはそういった組織でしかないと思わざるを得ない。

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東アジア死刑廃止大会・分科会3

12月14日(月)
front_convert_20091215115705.jpg14日、15時から17時、参議院議員会館の第4会議室で、東アジア死刑廃止大会・分科会3として「アジアの死刑制度の現状について考える院内集会」が行われた。

東アジア死刑廃止大会は全体会(死刑と文化)、分科会1(裁判員と死刑)、分科会2(宗教者と死刑)、分科会3(院内集会)と4つの催し物で構成されており、12月5日から行われている。

この大会は、「死刑に異議あり!」キャンペーンが主催している。このキャンペーンは、2006年以来の死刑執行の急増と近年の死刑判決の増加を憂慮し、日本の死刑廃止に向けて死刑執行の即時停止を政府に求める広範な全市民的運動を作り出すために、アムネスティ・インターナショナル日本と監獄人権センターの呼びかけで2008年7月に発足したものである。

参議院議員会館で行われた集会の内容は、基調報告としてデイビッド・ジョンソン(米国、ハワイ大学教授)の講演と、台湾と韓国の死刑執行停止状態の報告、質疑応答であった。

講演は
「アジアにおける死刑の状況と日本の特異性」-次なるフロンティア:アジアにおける国家の発展、政治変化、そして死刑といった表題で行われた。

欧州における死刑廃止は政治状況の急展開によることが主だった。独裁政権が崩壊したリ、革新政権に変ったりした時に死刑廃止が実現している。その時でも世論の大多数は死刑賛成だった。しかし革新政権の牽引によって人権感覚を養うことで死刑廃止を維持している。

アメリカでも日本でも死刑は維持されているが歴史的に見るとかなり減少している。1640年代アメリカでは100万人に対して35人処刑されていた。1950年頃から100万人に1人以下になって来ている。日本でも1870年には年間1200人が処刑されていた。しかしその後10年もたたない内に200人を切り、1900年には10数人にまでになる。これは明治維新、文明国として欧州列強に肩を並べるのに大量な死刑執行は野蛮な印象を与えるとして減らしていったことによる。

2008年現在アジアの29地域では、16ケ国が死刑廃止をしており、7ケ国が10年以上執行していない事実上の廃止国であり、13ケ国が未だ死刑制度を維持している。アジアにおける一貫した傾向として死刑は減少し、執行ゼロ期間が頻発している。経済発展と死刑の減少に比例している。政府の性格による死刑政策および実務への影響、死刑制度改革のための先頭からのリーダシップへの依存、人権および政府の規制が死刑に影響を与えている。

何故日本は死刑を存置するのか歴史的経過、外部要素、内部要素などある。保守政権の長期支配、アジアにおける地域的組織の弱さ、死刑に対する世論の支持、贖罪と人権に関する日本文化の特徴、ピナル・ポピュリズム、厳罰化、被害者のためという考え方などが理由として挙げられた。

日本の死刑の特徴として、意図的な存置であり惰性的な存置ではない。近年アジアで唯一死刑が増加している。憲法9条、国家による殺人に対する懸念。処刑をめぐる秘密と沈黙。処刑方法に変化がない。1989年以降冤罪死刑確定者の無罪釈放がない(米35年間に139件の無罪釈放があった)。

こういった状況が新たな裁判員制度、新たな政権与党によって変化をもたらすことが出来るかどうか。死刑に対する裁判員制度の影響として、世論に対しては死刑を知れば知るほど死刑を好まなくなるというマーシャル判事の仮説がある。起訴に対しては慎重さを、取り調べに対しては可視化を、弁護活動に対しては改善、強化を、裁判官には新鮮な視点を与えるなどの影響が出るというがそれがうまく機能するかどうか問題だ。

死刑廃止はいわば歴史の必然だ、いずれは廃止されるだろう。世論は相対的には意味を持つものではない。死刑制度改革のための革新政府が先頭に立ってリーダーシップを発揮し世論を指導してい事が必要である。そういった勢力を育るてことを含めて死刑廃止に向けた運動を続けていって欲しい。

アジアの死刑廃止運動からの報告
として、台湾の死刑廃止推進連盟執行長・林欣怡、韓国東国大学法学部教授・朴秉植の2人からの話があった。

台湾では

1942年から87年まで独裁政権による戒厳令状態にあり政治的な意味も含めて死刑が行われていた。2000年に平和裏に政権移譲が行われ、総裁は死刑廃止を主張し、法務大臣もそれを受け3年以内に死刑廃止を行うと宣言したが失敗した。

2006年秘密裏に死刑を執行しようとしたがそれがマスコミに明らかになり大きな反対運動の中で執行できなくなり、それ以降死刑執行はない。現在の法務大臣は仏教徒で死刑廃止を考えている。どのような代替刑を設定するか、世論との関係で考慮中である。

韓国では
97年、金泳三大統領が退任直前23人の大量死刑執行を行った。その後金大中大統領が誕生し、自ら死刑判決を受けその後釈放された経験からあくまでも死刑制度廃止を貫き、2007年10年間の執行停止により事実上の廃止国になった。

1975年に人民革命党事件があった。大法院で死刑判決が下され18時間後に処刑された。2007年再審で誤判が明らかになり被告人の無罪が確定したがもはや取り返しがつかない。

韓国で連続殺人事件が3件続けて起こり、死刑再開に世論が沸き立った。李明博大統領自身死刑に賛成と言っており、政権は死刑再開に向けてチームを作って検討を開始したが、大統領の尊敬するカトリックの枢機卿の死によって喪中ということで執行されることはなかった。

韓国では宗教家の役割が極めて大きい。また死刑存置派が被害者感情を言うが被害者支援を行っているわけではない。現在自助グループを作り被害者支援に取り組んでいる。

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西武文理大学看護学部 ・授業

12月12日(土)
 西武文理大学は西武線新狭山駅や東武線川越駅からスクールバスが出ている。新狭山から10分位、川越から20分位だ。今日は西武文理大学看護学部の1年生 87名に対して「いのちの授業」を45分位の講演形式で行うというものである。ももの木の理事田中医師がこの大学の教師とどこかで会って、患者学の講義を 受け持ったということだ。1時間30分の授業を今週4こま、来週4こま行う事になった。その一貫として「いのちの授業」を行う。

スクールバスの発着場が駅から離れていて分らなかったが、学生らしい集団が歩いていく後に付いて行ったらバス停があった。西武文理中学、高校が大学に隣接している。今日は入試説明会があって親子連れも何組か見受けられた。

バスが駅を離れて5分も走らないうちに景色は急に田園風景に変わっていく。遠くに雪を被った富士山が澄み切った空を背景にくっきりと見渡せた。中学、高校のバス停から2,3分は走ると大学に着く。有り余るほどの敷地をたっぷりと使った建物の造りになっている。

 看護学部の校舎は8号館で、この建物は地上4階建てレンガ造りの概観の新校舎で今年の3月に完成した。それは看護学部自体が今年の4月に開設されたばかりだということによる。その最初の1年生への授業だ。

無 看護学校の理念として
  3H:Head(知性)、Hands(技術)、Heart(心)とさらに
  Hospitality(ホスピタリティ)=相手への思いやり
  Humanity(人間性)=ひとりの人としての人間らしさ
  Honesty(誠実性)=真摯に誠実であること
  の3Hを加えて新しい看護の学びをスタートさせる
  と書いてあった。

授業は最初に田中先生が30分程これからの授業持ち方について生徒に説明した後に、私とももの木のメンバーが教室に入って行った。看護学部だというから女性ばかりだと思っていたが男性が2割近くいたのには驚いた。

今日は午前中の2こまの授業を受け持つ形で私ともう一人が話をし、質疑応答を行いながら授業を進行させる。私の講演は45分位でその後2、3の質問に答えているうちに1時間半授業が終った。(講演内容はブログ08/03/16~19の内容を看護師用にアレンジしたもの)

2時限目は、もう1人のももの木のメンバーが話をした。小児白血病の体験から看護師との係わりについて話した。その後私も加わって生徒からの質問に答えていった。

これで今日の授業は終った。控え室で事務員が鶴ヶ島の名物だという鳥弁当を出してくれた。それを食べて8号館を後にした。遠くに雲が低く帯を描きまるで海が遠くにあるように見えた。

 校舎はまさにキャンパスといった雰囲気を漂わせている。緑が多くゆったりと広々としていてこういった空間は大学生活に豊かさをもたらしてくれるのだろう。都会のど真ん中の大学に通っていた時にはこういった場所に憧れたものだ。ただかなり通うのに不便なことは否めない。

バス停でスクールバスを待った。13時5分の次が25分だ。あと5分で来ると思ったが中々来ない。次の35分のバスも来ない。さらに10分ばかり待って他に 方面に行く運転手に聞いたら今日は時間が変更になっていて、新狭山行きは14時まで来ないということだった。つまり1時間に1本しか出ないという。スクー ルバスがあてにならないと生徒は困ってまうだろう。

広い空間を選ぶのか、便利な都会の大学がいいか思案のし所だ。どちらにしても大学通うわけでもないのでどちらでもいいことなのだが。この西武文理大学には毎年行われる田中先生の授業に1年1回以外に来ることはないだろうから。

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A小学校で話したこと(続き)

12月11日(金)
「いのちの授業」講演内容(続き)

4、余命宣告について

「余命宣告された時人は何をするのか」もちろん人様々です。私は余命を宣告され、後2,3年で死ぬかもしれません。私の場合、病気になったことで人生について今までと違った捕らえ方をするようになりました。「仕事が生きがい」これはよく言われる言葉です。しかし、仕事を離れ療養生活を続けている現在「どのように生きていくか」は日々問われる事となってきたのです。

宿命転機
「宿命転機」と言う言葉があります。がんになったと言う事実・宿命は変えることは出来ません、しかしそれを人生の新たな転機にすることは出来ます。人生山あり、谷ありです。つらいことや苦しいことにぶつかることはあります。しかしそれを自分の新たな出発の転機にしていけるかどうかが重要だと思います。皆さんも色々な壁にぶつかる事があると思います。しかしそれをチャンスとして生かせるどうかがそれ以降の人生にとって重要な鍵となります。

ツー ル・ド・フランス自転車レース7年連続優勝者ランス・アームストロングはがんになって死の淵に立ちその後病気を克服しました。彼は次のように言いました。「断言していい、ガンは僕の人生に起こった最良のことだ。」死と向かい合って、はじめて彼は気づくことができたのです。周囲の人たちの優しさに、人を愛すること、そして、生命の素晴らしさに。仕事でしかなかった自転車は、限りある生命を燃やす「生きがい」へと変わっていきました。

5、死と向かい合うということ

死とは何か、皆さんは自分が何時死ぬか考えたことがありますか。病気とか大怪我とかしないとなかなかそんなことは考えないものです。しかし死は誰にでも予想もしない形で訪れてくるのです。事故で死ぬこともあるし、脳溢血や心筋梗塞で突然死んでしまうこともあります。

死は恐ろしいイメージを持っています。死は虚無を意味するように思えます。しかし誰も死を経験した事がないし、経験する事は出来ません。つまり死とは何かについては誰もわからないのです。それが恐ろしいものか、虚無かどうかそれは分かりません。分からない事を心配するより今どう生きるかを考えるべきだと思います。ただ分かっているのは死は生の終わりであり、人生は限られているという事です。

私は後2,3年しか生きられないかもしれません。しかし遅かれ早かれ誰でも死を迎えるのです。全ての人はやがては死ぬことになる。今から死について考えている人はいないかもしれない。しかしどのように生きていこうかとは考えるでしょう。

6、生きるという事

「どのように生きていくのか」この問いはあまりにも難しいものです。しかし、皆この回答を求めて生きている。答えを求めるため生きている。命が限られているということを知ることは、嫌が応でも今をいかに生きていくかを問うことになるのです。

限りある人生を自覚した時、悔いのない人生を送りたいと思うものです。漫然と生きてきた自分の生き方を見つめ直す事になります。自分らしく生きることそれはどういったことかを考えるきっかけをどこかで見出してもらいたいのです。死と向かい合って初めて自分を見つめる事が出来るのです。自分の本当にやりたい事が見えてくるものなのです。

死があるからこそ生の輝きを見出すことが出来るのでしょう。
そういった意味で、命を語ることは、死-限りある人生を見つめることであり、そのことを通して生の意味を再認識することだと思います。人は普通あまり考えることもなくその日暮らしで生きていっているでしょう。自分の残りの人生などという発想を持つことなどないでしょう。それはそれでいいと思います。小学校の頃から死について考えるということはないでしょう。しかし時々は命のこと、人生は限りがあるということ、どうやって生きていったらいいかという事について考えてみてもらいたいと思います。

7、闘病者の声

最後にあなた方と同じ位の年齢で苦しい闘病生活を送っている人の声を伝えたいと思います。

31_.jpg猿渡瞳さんはがんと闘い、限られた命を見つめ最期の一日まであきらめずに生き抜いた。この13歳の少女は激しく語っている。

「今の世の中、人と人とが殺しあう戦争や、平気で人の命を奪う事件、そしていじめを苦にした自殺など、悲しいニュースを見る度に怒りの気持ちでいっぱいになります。
命を軽く考えている人たちに、病気と闘っている人たちの姿を見てもらいたいです。そしてどれだけ命が尊いかということを知ってもらいたいです。」

また病院で苦しい闘病生活を続けている12歳の少女は訴える。「一方では“死にたい”という人がいます、しかし、もう一方では生きるために懸命に闘っている人たちもいるのです。自殺を考え“死にたい”と思って無駄に過ごした今日は、昨日死んで行った人が懸命に“生きたい”と思って努力した明日なのです。

「死」について思いを馳せる時、あたりまえのようにそこにあった自分の生が再び鮮やかによみがえってきて、それがとても尊いものであることに気づかせてくれます。

こういった見方を少しでも分れば、これからどう生きていいたらいのか、日々他人とどのような関係を作っていったらいいのか自ずから答えは出てくるでしょう。
 

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A小学校で話したこと

12月11日(金)
「いのちの授業」内容

1、がんになって
私は血液ガンの患者で今も治療を続けています。原発性マクログロブリン血症という病名です。全く聞いたこともない病名でしょう。白血病は知っていますか、それと似た様な血液の病気です。血液は全身を巡っているので外科的に取り除く事はできません。特別な治療法が必要となります。

この病気になって、入院し治療を行ないながら色々考えたことがあります。命とは何だろう。どのように生きて行ったらいいのだろうとか。そういったことを皆さんにも少し考えてもらおうと思って今日ここに来ました。最初に病気になってからのことを少し聴いてもらいたいと思います。

ガンの宣告
私は病気の自覚症状は全くありませんでした。毎日問題なく元気に働いていました。ある時怪我をしてなかなか血が止まらなかったので、血液検査をしました。その結果異常が見つかり、整形外科医の紹介で病院に行きました。そこで医者からガンの宣告を受けました。その時渡された診断書には「血液ガンの疑いあり。一般的には3ケ月から6ケ月の治療期間後、社会復帰が可能と考えられております」と書かれていました。

当時仕事がかなり忙しく、毎日22時23時まで仕事をし、土日も出勤し全く休む事ができず、疲れ気味でした。医者から血液ガンであると聞いて、確かにショックだったのは事実です。幾ら医学が進歩しても、ガンという言葉は恐ろしい響きを持っているのは確かです。しかし3ケ月~6ケ月の治療で職場復帰できると信じていましたから、これで少しは休めると思ったほどです。全く落ち込むこととか将来への不安は感じませでした。

余命宣告

入院後しばらく検査が続き4,5日たって病気の内容と治療方針について家族も含めた医者の説明会が行なわれました。その説明の最後に「不治の病であり、平均余命は5年程度」と言われました。しかしこれもまったく意に介さなかったのです。大体医者と言うのは、最悪の状態を言うのが常なのだと思っていました。早ければ3ケ月で職場復帰出来ると信じて疑いませんでした。12月に入院し、翌年の3月には戻れると信じていたのです。人はつくづく自分に都合の悪い情報は、意識から斥ける傾向にあると思います。

治療経過

clean_room6_convert_20091229100937.jpgしかし、薬の効果が中々現れず、3月になっても退院の展望は全く立ちませんでした。結局移殖は6月に行なわれました。移植は移植病棟の無菌室(左写真)で行います。移植の2日前に、致死量に近いといわれるほどの大量の抗がん剤を一度の点滴で投与します。

ここで使う抗がん剤は、普通飲み薬として使用する場合の50倍の量を1時間の点滴で体に注入します。それに伴う副作用は激しいものがあり、吐き気と全身の消耗で何日かは動くことも出来ないほどです。治るという確信が辛い治療を耐えさせるのでした。

移植後2週間位してからの検査の結果、骨髄内にがん細胞は見当たらなかったと言われました。これで完治したと思いました。しかし抗がん剤による肉体の消耗が激しくとても職場復帰など出来る状態ではありませんでした。元の体力に戻るには2,3年かかると多くの体験者は言っています。

2,3ケ月たって根絶したと思い込んでいたがん細胞は、再び活動を開始し始めました。10月に2度目の移殖をすることになり、11月半ばに退院しましたが、12月には休職期間である1年間が過ぎ、退職扱いとなり、職場復帰はありえなくなりました。

2、自分の病気はどんな病気なのか

それまで、色々な資料を読んだり、人の話を聞いたりして、やっと自分の病気を冷静な判断力をもって認識するようになりました。つまり「不治の病」であると。つまり運が悪く転移して再発するといったがんではなく、ガン細胞(形質細胞腫瘍)は放って置くと、増殖していく病気なのです。

またこの病気の特徴として、使い始めは良く効く薬でも、ガン細胞が薬に対する抵抗力をつけ半年もたつと効かなくなってくるのです。ひたすら効果ある抗がん剤を探して、飲み続けて延命していく外ない病気なのです。移殖の後、約3年間の間に8回も治療法を変えていきました。

今は2週間に一度病院に行き診療を受けています。その度に血液検査をし、がん細胞の状態を調べます。増えているか減っているか、薬が効いているのか効かなくなってきているのか分かります。その度に緊張します。結果を聞く時ははらはら、どきどきの瞬間ですね。そして今使っている薬も段々効かなくなってきています。また新しい薬を探さなくてはなりません。後は「人事を尽くして天命を待つ」といった心境です。

3、血液ガンと死

病院では、移殖の時は無菌室という個室ですが、それ以外のときは5人部屋でした。最初は自分の病気がどんな病気か分からなかったので、以前からいる人に色々質問し、それによって治療や移殖への心構えが出来てとても助かりました。しかし何人かの人は、病状が悪化して、寝たきりになり、やがて個室に移され、ある日個室の名札がはずされているという事に出会いました。

親しくしていた人がいました。中学校の教師を続け、校長にもなり、定年退職したばかりで、これから好きな旅行をして過ごしたいと言っていました。旅行の話で盛り上がりました。病院が高台にあり、そこから色々な寺院が見えます。それを眺めながら、それぞれ由所ある寺院で、退院したら、何も遠い所まで行かなくても東京で幾らでも見る所があるといった話をしていました。

私が一週間の一時退院で家に帰って戻って来た時、彼のベッドは空でした。どうしたのか同室の人に聞くと、「2日前、夜トイレに行こうとして倒れ、集中治療室に運ばれたが、そのまま帰ってこなかった」という事です。こんなにあっけなく人の命は失われてしまうのか、とつくづく思いました。

長い入院中何回かそういったことに出会いました。大体、白血病などになって治療後、元気で活躍している人をテレビなどで見ると血液ガンといっても昔と違って今は治るものだと思ってしまいます。しかし半数近くの人が血液ガンで死んでいるのです。病院で空いた個室を見ると、辛く苦しい気持ちにさせられます。病院、それは生きているという事が当たり前でない世界なのです。生きたくともかなわず奪われていった多くの生命を考える時、この世界の中でいのちは限りなく尊いものとして認識されます。

そういった中で、この病気によって、本当に自分の余命が限られているのだということを受け止めることになったのです。そして自分の限られた人生をどうして行くのか、生とは何か、死とは何か、命とは何かを考えざるを得ませんでした。(続く)

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組合活動から管理職へ

12月10日(木)
『沈まぬ太陽』を見て自分の人生を嫌が応でも振り替えざるを得なかった。管理職になった時には、会社の組合潰しの意図をそれ程はっきり認識しきれず、そういった攻撃に屈服したという自覚はなかった。しかしその後組合がまたたくまに潰されていった時に、嫌でも会社の意図を知るはめになった。

元勤めていた会社はマネキン・ディスプレイ業界で、仕事は内装、ディスプレイ什器の売却、リースを行っていた。そのためのデザイン室や、什器の製作修理を扱う工場、什器の運搬のための流通センターなどがあった。

1987年8月同じ身分で同じ業務内容に携わっていた5人と共に正社員になった。それまでは契約社員的、請負的な勤務形態で展示会やイベントの設営を主に仕事としていた。契約社員といっても年金、健康保険、失業保険は社員並みに保障されていた。こういった身分の方が気楽だったが、その頃会社が経営危機に陥り、いざとなった時社員の方が発言権があるだろうということで社員になったようなものだ。会社は親会社のてこ入れで持ち直した。

社員になってすぐに組合の役員になった。組合はユニオンショップ(新規に雇用された労働者は一定期間内に労働組合に加入するこが義務づけられる)で、またチェックオフ(使用者が組合員である労働者の賃金から組合費を天引きし、一括して労働組合に渡す制度)の体制もあり非常にやり易かった。こういった体制を足場にして今までの組合とは全く違う労働者の権利を正当に主張していくものとして作り変えていった。

94年には全国一般北部地域支部に加盟した。社長はかなりこれに対して怒り、上部団体との団交をあくまでも拒否した。春闘の時期には全国7ケ所の営業所の組合員を集め本社で総会を行った。社員の4分の1位が集まった。地方営業所からは代表が参加した。全国一般北部支部の委員長や書記長を招いて講演を行ってもらった事もある。また各地の営業所に出向き春闘の経過報告なども行った。ほぼ10年間組合を担ってきた。

97年、組合の役員であった私を社長は課長になるよう説得した。「年齢的にも現在の業務内容から行っても課長がふさわしい」という訳だ。この時は組合の委員長も書記長も若い人が担っていた。私も50歳になろうとしており組合は若い人が積極的にやってくれた方がいいだろうと思った。私がいる限り頼り切って自立できないので身を引いた方かいいかもしれないと思った。しかし一方で私が管理職になり組合を担えなくなれば、組合が弱体化するだろうとは思ったが、まさか潰されるとは思いもしなかった。

もし社長の要請を拒否していたら、地方営業への転勤を命ぜられるか、降格・配転・出向などの処置を取るだろう。そういった攻撃を恐れていたわけではないが、そろそろ組合からの引き際だろうと思ったのは確かだ。

結局、私はその管理職になれといった社長の要請に応じた。このことは自分の中では止むを得ないことして受け止めたが、従業員全員に対する裏切りであるのは確かだった。予想以上にすばやく組合潰しが始まった。半年位のうちに社長の工作で組合はまず全国一般から脱退し、その後チェックオフで集まった組合費を分けて解散してしまった。こんなにまで露骨にスピーディに事が行われるとは予想もしていなかった。

私を管理職にした意図がこれでもかといった形で突きつけられた思いだった。たった一人の人間を切り崩すだけで、長年積み重ねてきた組合の体制があっという間に崩壊してしまった。今まで10年近くどのように組織を打ち固めてきたのだろう、どのように後進を育ててきたのだろうといった反省が強く胸に刻み付けられた。

その後、労働条件は全て社長の一存で決められていった。リストラを始め、残業代カット、就業時間延長等考えられない労働条件の悪化が何の抵抗勢力もないまま行われていった。これは大きな後悔として私の心の中に残り続けた。結局意識せずとも自己保身のため課長になったのではないかといった敗北感が強く心を打ちのめした。

『沈まぬ太陽』をみて主人公・恩地の姿勢に自分のやってきたことを映し出さざるを得なかった。彼は徹底的な報復人事に迷い迷いながらも、本社に帰りたければ、組合から脱退し、謝罪せよといった会社の恫喝に屈服することなく、10年間最初の2年間は家族も一緒だったがその後は単身赴任で海外勤務を強いられた。本社に戻ってからも閑職に追いやられ、御巣鷹山墜落事故の遺族の窓口といった困難な誰もやりたくない仕事に回されたが、彼は誠心誠意その仕事に取り組んだ。

何が彼をそうさせたか。それは一緒に闘った仲間の存在だろうと思う。仲間が賃金格差による低賃金で働かされ、昇格差別を受け、閑職に追いやられ、劣悪な勤務場所に配転させられ、第2組合の上司に徹底的にいじめられるなどの現状を見て、自分だけ転職したり、会社に屈服するわけには行かないと思ったのだろう。

元の組合の役員が常務の命令で不正を働かざるを得ない状況に追い込まれたが、結局最後に仲間と闘った時の思い出の写真を胸に死を決意し、検察庁宛に常務の不正を告発する書類を送った。この行為の持つ意味が恩地の行動をより一層理解させる。組合を、仲間を裏切った自分の選ぶ道は死しかないという、仲間にたする感情が共通のものとして存在していたのだろう。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

映画 『沈まぬ太陽』

12月9日(水)
通常は2週間一度定例の検診があるが、担当医がアメリカでの学会に出かけるので次が24日となった。1ケ月一度の検診は気が楽なのは確かだが、2週間前から服用している薬の効果を知りたいという気もある。今日は病院に行かなくてもいいので、映画に行く事にした。『沈まぬ太陽』を見たかった。

沈まぬ太陽_convert_20100507204450 映画はアフリカのサバンナの草原から始まる。巨大企業・国民航空の労働組合委員長を務める恩地は、職場環境の改善を目指し会社側と闘う。その要求は例えば、整備士の過重労働は航空機の安全にとって重大な危機であるといった企業の倫理を突きつけるものであった。

組合の要求は従業員の労働条件や航空機の安全管理には金を出し惜しみする経営陣への闘いであった。この闘いを中心的に担った恩地は報復人事で海外赴任を命じられてしまう。2年間だけという約束でパキスタン(カラチ)に行ったが、その後イラン(テヘラン)、ケニア(ナイロビ)へと次々と転勤を強いられる。

会社側は恩地に本社勤務と引き換えに組合からの脱退と謝罪を迫る。家族との葛藤の中で苦しみながらも彼はそれを拒否し信念を貫き、任地での職務を全うする。本社の組合員に対しても組合分裂工作・経営側の第2組合設立、不当配転、昇格差別、いじめなどの攻撃が行われていた。

恩地は10年後に本社復帰を果たすが、帰国後間もなく自社のジャンボ機が御巣鷹山に墜落するという事故に直面する。会社は運輸官僚や族議員には湯水のごとく裏金をばら撒き、外国の高級ホテルを買収する金はあるのに、遺族補償額に関しては誠意を見せない。恩地は遺族との補償交渉の窓口になる。彼は誠心誠意その役割を果たしていく。

 この映画を見て、あらゆる要素を網羅しているその幅の広さに圧倒される。航空機墜落事故をベースとしながら、遺族と恩地とのやり取りの中で生命の尊さ、様々な死の受け止め方を表現しながら、航空会社の企業倫理を問う問題提起がある。

労働組合と経営側の確執、大企業とそれに群がる官僚や議員の動向がかなりわかり易く描かれている。総理、副総理が国民航空の経営陣の腐敗と運輸官僚、族議員への接待と裏金の出所になっている事に対して、その現状を改革するために新たな経営者を招致する。その新しい経営者を会長として国民航空は再生の道を歩み始める。恩地は会長に抜擢され会長の片腕となって働く。

しかし副総理の為替にまつわる疑惑を追及され、結局総理は自己保身のために、その有能な経営者を辞めさせることになる。こういった政治的な駆け引きも物語の背景を形作っている。

また恩地の赴任するカラチ、テヘラン、ナイロビの風景も印象に残る。特にナイロビのサバンナの草原の風景描写は、それが雄大であればあるほど企業の不条理に翻弄されるサラリーマンの運命の空しさを浮かび上がらせる。

 会長辞任後再びナイロビに飛ばされた恩地は、遺族の一人坂口に宛てた手紙を送る。坂口は妻を5年前に亡くし、長男夫婦に孫の顔を見せに来いといって航空券を送ったという取り返しのないことをしたという苦悩を抱えている。坂口は一切の親族を喪ってしまったのだ。その坂口がお遍路さんになって四国を回るという。

その手紙には次のように書かれていた「貴方の絶望と苦悩を思うと私の迷いや苛立ちや苦しみなど千分の1にも当たりません。そう思うと今の状況に不満など言えるはずはありません。今の巡礼が終ったならば一度アフリ
カに来てください。サバンナの太陽は沈まない。」

人命をあずかる企業でありながらその経営陣は、航空機の安全性には露ほどの関心も見せず、保身と出世に汲々としている。企業の非情、その不条理に不屈の闘いを挑んだ男の運命を描いているが、決してヒーローとしてではなく仕事、人生、家族の問題に悩み迷いながら自己を貫こうとした人間として描かれていて、人はどう生きるのかを問うドラマだといえるだろう。

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ジャンル : 日記

石神井公園

12月8日(火)
11時頃、郵便物を取りに外に出ると、部屋の中よりも外の方がよっぽど暖かかった。昨日は北風が吹いて寒々とした1日だったが、今日は、晴れの上天気で気温も上がりそうだった。近くの公園を散策するのに丁度いい陽気だ。何度か行った事はあるが石神井公園が近くて行き易い。

紅葉情報では見頃となっていた。この公園は三宝寺池、石神井池の二つの池を中心とした公園で武蔵野の自然が残されていて、石神井城跡などの遺跡もある。

石神井公園駅から5分位で公園だ。石神井池のボート乗り場に着きそこから石神井池に沿って歩く。紅葉といっても池の周りの木は常緑樹や針葉樹が多く、紅葉した木はその間に所々垣間見られる位だった。石神井池の片側を池の端まで行くと、車道があり、それを越えると今度は三宝寺池の領域に入る。入口近くに子供用の公園もあり、幼稚園の遠足だろうか、黄色い帽子が群がっている。

石神井公園は何度か行き三宝寺池も見たことはあるが、今日始めてこの池は周囲に木道の遊歩道があるという事を知った。開けた感じの石神井池周辺と違って三宝寺池は木々に囲まれ静寂な趣があり、木道が何ともいえず風情がある。

ゆっくりと木の感触を感じながら池の周りを巡る。途中紅葉が密集している所があり、紅葉見物に来た斐があったというものだ。何人かが望遠付きのカメラを池に向って構えている。野鳥の撮影に来たのであろう。メタセコイアの巨木がオレンジ色に紅葉して池にその姿を映している。

88e68dee.jpg  三宝寺池のメタセコイア

三宝寺を半周した所で上り階段があった。その上に野鳥誘致林という場所があってここが石神井公園の紅葉のメイン・ステージではないかと思う。モミジを中心としながらカエデ、ブナ、ミズナラなどが赤、黄、橙とそれぞれがハーモニーを奏でながら空を鮮やかな朱色に染めている感じだった。

再び山宝寺池に戻り池を回り始める。途中厳島神社や水神社などが池に張り出すようにあり情緒を感じさせる。池の南を少し上った所に石神井城址後がある。この城跡は、鎌倉時代の末期に石神井郷を領有した豊島氏の居城跡で、三宝寺池と石神井川という自然の地形を利用して造られ、東京23区内では唯一よく残っている中世城跡という。

池を一周し元に戻って来た。豊島屋という茶店が池のほとりにある。古い建物で時代を感じさせる。名前も時代小説に出てくるようで雰囲気が気に入った。屋外に池に面して畳の席がありそこで飲み食い出来る。池の端で穏やかな秋の日差しを浴びながら飲むビールは格別だ。

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東野圭吾 『時生』

12月3日(木)
時生eee_convert_20110113225108 東野圭吾の小説は、『容疑者Xの献身』や『探偵ガリレオ』など十数冊を読んだ。理工系の発想法でいわば科学推理小説といった所だ。『超殺人事件』の中の「超理系殺人事件」などは彼の経歴を感じさせる。

また発想法も多彩で、謎解きを中心にした古典的本格推理小説から、社会派推理小説、『手紙』に見られるまったく傾向の違う小説や、随所に見られるユーモアのセンス、こういった様々な要素を組み立てながら書き上げる小説は人を引き付けざるを得ない。

彼の小説『時生』を読んだ。図書館にある東野圭吾の小説は全て読んだが、全てといっても10冊もない。書棚を見たら読んでない『時生』があったので借りた。物語の展開は、主人公宮本拓実がトキオと名乗る少年と、謎を残して消えた恋人を様々な困難を経ながら助け出す話なのだが、それを縦糸としながら、トキオの執拗な誘いによって拓実は自らの出生の秘密を追い求める話を横糸として進行する。

物語は、不治の病を患う息子に最期のときが訪れつつある時、拓実は妻に20年以上前に出会った少年との想い出を語る所から始まる。20年前に会ったトキオこそ、死の床にいる息子が、他人の体を借りて過去に戻り、自分の前に現れたのではないか、ということがこの物語の厚みをさらに増している。

20年前の拓実は一つの仕事が長く続かず、大言壮語ばかりで、短気で喧嘩っ早くその日暮らしの自堕落な生活をして、自らの出生を呪っているようなどうしようもない男だった。この拓実がトキオと行動を共にし、産みの母と再会し、自分の出生にまつわる父母の思いを知り人間的に成長していく。物語は過去、現在、未来が交錯しながら進行する

この小説には大きく2つのテーマが感じられる。1つは生まれてきたことの意味を探り求めることの意味である。「あの子に訊きたい。生まれてきてよかった?」この言葉が本の帯に書いてあった。人はどのような時生まれて来てよかったと感じるのだろうか。あるいは生まれてこなければ良かったと。

拓実の妻はグレゴリウス症候群の遺伝的家系に生まれた。生まれた子が男児であれば、その子は4分の3の確率でこの病気にかかる。15,6歳から発症し、最初は運動機能、次に内蔵機能の障害から麻痺へ、そして最後は心臓や脳の機能麻痺に至る。それでも拓実は子供を生むと主張し子供は生まれる。やがて病気が発症する。「生まれてきてよかった?」これは拓実の妻が植物人間状態でベッドに横たわる息子への問いかけである。そして息子の応えは「明日だけが未来ではない」だったのだ。

一方拓実は若い頃、母親に捨てられたことを恨みに思い、自分の自堕落な生活を捨てた母親のせいにしている。「勢いで生んじまって、育てるのが大変だから投げ出した」といって病気で何時死ぬか分らない生みの母親を訪ねて行こうともしない。

しかし自分の出生の秘密を知り最後に生みの母親を訪ね「あんたのせいじゃねえよ、もうあんたのせいにしない。俺を生んでくれたこと感謝するよ、ありがとうな」という。ほとんど意識がないと思われた母親の目に涙が浮かぶのを拓実はハンカチで拭く。今生きているということその事に感謝すること、そのことをトキオ、拓実の両方を通して訴えているのではないか。

2つ目のテーマは「明日だけが未来じゃない」ということだろう。この言葉は最初と終わりにも出てくる。生みの母親が拓実にあてて書いた手紙を読み終わってから、トキオが拓実に向っていう言葉の中にその内容が記されている。

「人間はどんな時でも未来を感じられるんだよ。どんな短い人生でも、たとえほんの一瞬であっても、生きているという実感があれば未来はあるんだよ。明日だけが未来じゃないんだ。それは心の中にある。それさえあれば人は幸せになれる。」(講談社文庫P447)

同時に他者との関係の有り方をも語っている「好きな人が生きていると確信できれば、死の直前まで夢を見られるってことなんだよ」とトキオは言う。「君が生き残ると思えば、今この瞬間でも未来を感じることができるから」この言葉は火事で死の直前に拓実の父親が母親に語った言葉だ。

死は確かに未来を奪うものでしかないように思われる。しかしその人の未来は肉体の消滅によって終るわけではない。ただどういった未来を残せるのかそれが多くの人にとって限りなく難しい問題であるのは確かだ。

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Author:yosimine
がん治療とは長く細い道を辿ら
なければならない。その先に希
望があると信じながら。

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