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ももの木・新年会

1月30日(土)
 「いのちの授業」は12月、1月に集中している。6年生が卒業する前に、「いのち」の大切さを印象づけておきたいということなのか。小学校での授業は土日が休みだから当然平日となる。保護者の授業参観など土曜日に行われることもあるが、土曜日に授業をするというのは学校側も難しい点がある。

血液ガンの治療を終えて完全寛解が1年以上続いて、移植した人も徐々に体力が回復してくる。そうなれば、皆生活がかかっているから当然働き始める。元の職場に戻れた人も、新たに働き始めた人も最初は短時間労働でも、徐々に全日勤務となる。何日かに一度は病院通いをしなければならない。なかなか平日に休みが取れない。

そういったことで「いのちの授業」の話し手が年金暮らしで暇そうに見える私の所に回ってくる。3週連続で話すことになった。この時期「いのちの授業」が忙しい中、新たな話し手のメンバーを確保する意味も含めて新年会が行われた。

img_space05.jpg  「いのちの授業」をやっているメンバーを中心に、ももの木交流
 会に参加している人達が集まって新年会は行われた。場所は品川
 プリンスホテルのメインタワーの1階にある「リュクス・ダイニング・
 ハプラ」(左写真)というバイキング形式のレストランだ。
 11時30分から15時までのランチブッフェの席を予約してある。
 参加者は15人位だった。

 料理は和食、中華、洋食がそれぞれかなりの種類用意されてい
 る。さらにスイーツ、果物、飲み物混みで3000円という料金が人気となっている。アルコールだけは別料金だが。予約は2月位前にしないと取れない位の店だ。ホテルも宴会が減って、こういった所で稼がなければならないのだろう。さらにマイ箸を持っていくと300円値引きされる。それを知っていたメンバーが割り箸を人数分持ってきて配った。本当はいけないのだがと言われたが一応それで通った。全員が2700円となった。

 「品川エコキャンペーン」ということで今月限定の割引である。エコに協力するプリンスホテルといった一つのキャンペーンなのだろう。ランチブッフェでは300円引き、ディナーブッフェでは600円引きとなる。小さく書いてあるので、通常見逃す。よくその記事を発見し、割り箸まで用意してきたなと感心する。

料理の種類が多い。カニとローストビーフがメイン料理のような気もする。元患者が小学校6年の娘さんを連れてきた。彼女は料理はほどほどにして、20種類位あるスイーツを片っ端からとってきて食べていた。誰でも色々な種類を食べたいということを考えてか一つ一つが小さいので幾つでも食べられる。料理、スイーツ、果物とコーヒーやジュースなど全て料金に含まれている。幾ら食べても安心できる価格設定だ。参加者全員の中で、アルコールを頼んだのは私一人だった。さすがにワイン一杯だけにしておいたが。誰も飲まないとは。

15時に昼の部の料理は全て引き上げられて、夜の部の準備に入る。3時間ばかり席を替わりながら色々な人とお喋りをしながら時間を過ごした。会食をしながら楽しい時間を過ごす事が出来た。
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テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

「あきらめろ、しかしあきらめるな」

1月30日(土)
「病気に対して、どうやって打ち勝ったのですか。」といった問いが、「いのちの授業」の時、生徒から発せられた。どういうふうに答えたらいいのか。

家族とか友人、医者、看護師の励ましや優しさ、相部屋の同じ病気の患者たちの生きたいという想いを受け止めながら生きようという気持ちがかきたてられたいった。また生きたいと必死で格闘しながら亡くなっていった人達の分まで生きようとする想いが生きる力を与えてくれた、といった事が治療を頑張ってやり抜き治りたいという気持ちを強めていったのは確かだろう。もちろんそういった面は当然あるが、私は生徒たちに次のように話した。私の答えはある意味で生徒たちの期待とは全く違ったものだったに違いない。

 「私が親しく付き合っていた整体(カイロプラクティック)の先生がいます。その息子が同じ仕事をしていて、たまに腰の調子が悪い時に治療に通っていました。彼の娘が3歳の時に白血病にかかりました。彼は妻に言ったのです“あきらめろ、しかしあきらめるな”と。病気になったことはもうどうしようもない。それは受け入れる他ない。しかし治療をし、治すことには最善を尽くそう、ということです。まずがんになったということを受け止めることだという示唆は、大きな発想の転換になりました。

病気になることは人生にとってマイナスのことであるのは紛れもありません。しかしそれを人生の中で新たな生き方を見出していく転換点にしていけるかどうかが問われていると思います。
 
 “宿命転機”という言葉があります。がんになったという逃れられない現実をどう受け止めていくのから全ては始まると思います。通常の人生は、日々全く同じ仕事の繰り返しで波風も立たず平々凡々と何の疑問もなく、何の変化もなく過ぎ去っていきます。がんの発病は、そのささやかな日常性を根こそぎ奪い、全く違った人生の生き方を、強制してきます。本人の意志とは全く無関係に進行する事態であるからこそ「宿命」と呼ばれるのでしょう。

その宿命をどのように自らの新たな生き方の転機にしていけるか。それはがんであるという現実と向き合うこと、宿命を受け止めることそこから出発するほかありません。がん患者となり、今までと同じように仕事は出来ず、生活のスタイルを変えざるを得ません。

しかしそれを単に否定的なものとして受け止めるのではなく、逆にその中に自分の新たな生きがいを見出していけるかどうかがその人の人生にとって最も重要なことなのです。良くも悪くもそこを人生の新たな出発点としなければなりません。

 一般的に我々は、ともすれば決められたレールの上を可もなく不可もなく走り続けているようなそういった人生を歩んでしまいがちです。それは確かに楽な道かもしれません。しかし、人生には幾つかの転機があります。

今までがむしゃらに走り続けた人生を、病気になることで一旦立ち止まり振り返る機会を与えられたと考える事が出来ます。その時本当に自分らしく生きるとはどういったことか考えざるを得なくなるのです。そこに本当の自分の生き方が見えてくるものです。

“ガンと闘うなんて言っちゃダメですよ。闘うとガンにはかないませんから。ガンと仲良くして、共に生きる位の気持ちでいるのがいいですよ”というがん患者の言葉を聞きました。がんと闘うという気持ちでなく、がん患者であるという現状を前提とし、その状態を受け入れながら、その中で自らの生き方を模索していく中で、新たな生き方への転機を見出していく事が出来ると思います。」

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

バッハの曲

1月28日(木)
石田衣良の『池袋ウエストゲートパークⅡ』の「水の中の目」に次のような言葉があった。「あんたには、なにを聴いたらいいかわからないとき手が伸びるCDがあるだろうか。おれにはある。グレン・クールドがピアノで弾いたJ・Sバッハだ。」グールドを趣味とするとは、どう見ても石田衣良はクラシック音楽のマニアだ。『池袋ウエストパーク』の中で、彼が考えを巡らす時に聴くクラシック音楽の幅の広さは彼のクラシックの造詣の深さを感じさせる。

51KMI.jpgグレン・グールド演奏するバッハに一時期どれ程傾倒しただろうか。彼のバッハの演奏曲はほとんど買い集めた。グールドの淡々とした無機質な演奏に惹かれた。楽譜に書かれた一つ一つの音に愛情を持って区切るように弾く。音に感情を込めない。乾いた音はその本質を垣間見せてくれる。

グールドのピアノ演奏は、各声部が明瞭で、一つ一つの音は明晰であり、多くはペダルをほとんど踏まない特徴的なノン・レガート奏法であった。左手のみならず全ての指に独立性を持たせていた。一つ一つの音が独立していて、その音が一つの奔流となって一体化して曲を作り上げる。

右の写真はクールドの「フーガの技法」のDVDのジャケットだ。珍しくパイプオルガンで弾いている。この演奏もかなり気にいっている。オルガンでも一つ一つの音を区切るように弾く。それが面白い。

大体いつも聴く音楽はバッハの曲が多い。「フーガの技法」「フランス組曲」「平均率クラビア曲集」「ゴールドベルグ変奏曲」などよく聴いている。もちろん演奏はグールドだ。ピアノやオルガン曲ばかりではなく、「管弦楽組曲」「ブランデンブルグ協奏曲「音楽の捧げ物」「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ・パルティータ」など有名な曲も当然聴いている。バッハの音楽を趣味にしている人とはあまり遭遇しない。何故だろう。

バッハの曲の作り方の方法として対位法がある。対位法は二つの主題を重ねていく方法で、一般的な曲の理解としてハーモニーとメロディが音楽だと思っているが、原始的な音楽はメロディのラインが基本だった。バッハは対位法で、水平なメロディと垂直なハーモニーを融合させた。

今の曲にはドラマがあり、ドラマを作り出す対照が不可欠だが、バッハの音楽にはドラマティックな対照が無い。それがある意味でバッハの曲は音そのものを堪能できる事になる。曲が聴く人の感情を生み出していくのではなく、曲に自分の感情を移入させることが出来る。

バッハの曲を聴きながら、心や思考をそれに投影し曲の進行に合わせて心の動きや考え方を整理していく。一般的に曲は一つのメッセージを提供する。しかしバッハの曲は何も提示しない。それは白紙のキャンバスだ。何を書くかはバッハの曲を聴く人の心の中にある。

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臨時検診・ベルケイド静注(2クール1回目)

1月27日(水)
ベルケイド併用療法第2クール1回目。ベルケイドとデカドロンの静注とG-CSF(グラン)の皮下注射を行う。その前に血液検査をする。検査結果は以下の通り。

検査結果 
 IgM    1586(1/27)←1630(1/21)←2132(1/14)←2167(1/7)
 白血球   1500←2100←1600←2600
 好中球   450←540←650←1580
 リンパ球  660←1130←600←650
 血小板   10.0←7.0←7.5←9.7
 赤血球   327←304←336←312
 ヘモグロビン 11.3←10.2←11.3←10.4
 網赤血球   16←21←19←13←13

 総コレステロール   254←251←270 (基準値125~255)
 中性脂肪値   163←180←372 (基準値30~150)


IgMの数値はこの位の減り方でもいいから継続してもらいたいものだ。問題は好中球の数字だ。450となって危険領域に踏み込んだ。1月21日に白血球の検査値が2100になったがこの数字は、リンパ球がこの日に限っていつもの倍位増えて、それが白血球の数値を上げただけだった。医者に何故リンパ球が上昇したか聞いたが回答はなく、21日の数値は抜かして考えてみた方がいいと言われただけだった。

不思議な事に一番影響を受けやすい血小板数が上昇した。以前やったベルケイド療法の1クール目の時には血小板数は2.5~3.5位の間で、1.1まで下がった事がある。それで輸血をしなければならず、ベルケイドの投与を延期した事があった。

白血球の減少の原因として、今回医者は、サリドマイドとベルケイドの両方の影響が重なっているのだろう、またこれだけ長い間抗がん剤治療を受けていると血液の産生能力が減退するだろうし、年齢のせいもあるだろう、と言った。

2007年10月26日から始めたベルケイド療法は翌年の3月まで行ったが、白血球の減少は見られなかった。サリドマイドは200mgにした時に白血球の減少が見られたが、100mgでは大丈夫だった。しかし両者を併用して使用してきた結果、徐々に白血球(好中球)は減少していった。

ベルケイドの併用療法として、明日から4日間エンドキサン(シクロホスファミド)50mgを4日間服用する事になっていたが、骨髄抑制の強いこのアルキル化剤の服用は中止になった。

IgMの検査は2週間一度の分が保険適用になる。今は週一度検査してもらっている。医者に大丈夫かと聞いたら、治療に必要な時には色々やり方があるから心配はいらないと言われた。毎週IgMやその他の血液検査の数値を見ながら投与する薬を調整して行く、といった方法で治療を行なっている。懇切丁寧に治療をしてもらっている感じがして安心できる。

今の毎週の病院通いもそれほど楽な仕事ではない。「病院で長い待ち時間を過ごしているとそれで病気が悪化してしまう気がする」と言った人がいるが、大病院では必ず遭遇する長い待ち時間をどう過ごすのかが、通院治療をする人にとって大きな課題だ。

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ももバー

1月22日(金
 18時からいつもの「楽屋」でももバーが行われた。待乳山聖天から浅草駅まで思ったより時間がかかった。浅草は銀座線が始発だからその点混んでいる電車に乗らなくてもいいから楽だ。「楽屋」にはこの場所を手配してくれている男性とその奥さん、そして彼の友人だという始めて見る70過ぎ位の男性が先に来ていた。

gaikan_convert_20100123195807.jpg紹介されて始めて70過ぎの男性が橘屋円蔵であることを知った。といっても顔を見てすぐには分らなかったし、円鏡という名では、テレビのCMとかでもよく出ていたので知っていたが、円蔵と言われてもピンと来なかった。また年齢も加わり容貌も昔見た時と比べるとかなり違っている。

橘屋圓蔵は、1965年真打に昇進し5代目月の家圓鏡を襲名した。7代目立川談志、5代目三遊亭圓楽、5代目古今亭志ん朝と共に、落語四天王と呼ばれた。そして1982年8代目橘家圓蔵を襲名したということだ。

ももの木の掲示板で円蔵が来るかも知れないという事が書いてはあったが、まさかくるとは思わなかった。末広亭の裏にある「楽屋」というだけあって落語家の出入りはかなりあるが大御所の円蔵が来るとは驚いた。

 円蔵は言う。昔ボランティアに誘われた事がある。その時は自分の家のロ-ンだけでなく兄弟姉妹のローンも引き受けていた。40歳までは自分のために稼ぐがそれ以降はボランティアでも何でもするとその時答えた。今だったら何処にでも行く。そういったことで、田中医師が持ってきた金集めの話に協力することになった。

その話とは、倉敷に住んでいる20歳の中国人の女性で、両親と共に1年前に中国から来て、親は中華料理屋をやっている。本人は日本語学校に通っている。骨髄異型性症候群で骨髄移植をしなければならない。しかし国内では骨髄バンクでもドナーが見つからず、臍帯血でも一致するものがなかった。唯一台湾でHLAが一致したドナーが見つかったが、費用が200万円ほどかかる。その費用をどうしようかと頼まれた田中医師は頭を悩ませている。

 会話が一段落して、円蔵師匠が小話をしてくれる事になった。客はももバーに来た6名しかいないのでもったいない気がするがやってくれるというので皆集中した。「家を建てる時には建てる大工に惚れなければいけない。医者の治療を受ける場合は医者に惚れなければいけない。どうも信頼できないな、なんて思っていたら治る病気も治らない・・・」といった調子で、20分ばかり話してくれた。

落語家の話、それも円蔵といったベテラン中のベテランの話を間近で聞く機会など全くない。稀有な経験が出来たことはうれしいことだ。

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吉原大門・山谷堀公園・待乳山聖天(つづき)

1月22日(金)
日光街道沿い寺院巡り(真正寺→円通寺→公春院→浄閑寺)を終え、土手通に入る。土手通を歩いていると「北めぐりん」といったバス停がある。これは台東区循環バスで「南めぐりん」「東西めぐりん」の3系統がある。

観光用といった意味合いが強いバスで、北めぐりんは浅草駅を出発し同じ所に戻ってくる。浅草駅を出発したバスは今戸、橋場、吉原大門、三ノ輪、入谷、鶯谷、千束をめぐり浅草に着く。15分おきに出ていて台東区の名所旧跡を回るには便利だ。バスはレトロな感じのボディで、通り過ぎたバスを見てみたがかなりの人が乗っていた。

吉原大門

土手通を浅草方面に歩いていくと、三ノ輪から10分位で、「吉原大門」という交差点とバス停がある。昔の面影などは全く無い。交差点とバス停に名前が残っているだけだ。

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吉原遊郭は江戸時代、国内最大級の遊郭で、約2万坪(6万6000平方メートル)に数千の遊女がいたといわれる。遊女の逃亡を防ぐため堀で囲まれ、吉原大門は唯一の出入り口だった。

交差点にあるガソリンスタンドの脇に柳の木と石碑があり、台東区教育委員会の看板があり「見返り柳」の由来が説明されている。「見返り柳」とは遊び帰りの客が後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、この柳の辺りで遊郭を振り返ったところから、この名がついたという。

交差点から吉原の中に入っていこうとすると道は右に一旦曲がる。吉原時代そのままの道なりだという。S字になっているのは目隠しのためだそうだ。遊郭への出入りが吉原大門から丸見えにならないようにするための工夫だったらしい。吉原のメインストリートを入った所の歩道の左右に柱が立っていて、そこに「よし原大門」の表示があった。

山谷掘公園

吉原大門から土手通を進むと、山谷堀公園と別れる。土手通の方は、しばらくすると右にカーブし浅草に向う馬道通と名を変える。公園は今戸の方に向う。山谷掘公園は江戸時代には山谷堀で、隅田川から遊郭吉原への水路として使われ、猪牙舟が行き交う両岸には船宿や茶屋が多くあったという。

山谷堀032_edited_convert_20100123164613   syb001.jpg 

吉原大門と山谷堀公園に行って見たいと思ったのは、佐伯泰英の『居眠り磐音・江戸双紙5巻・龍天の門』に出てきた場所だからだ。主人公坂崎磐音は豊後関前藩の藩士だったが、幼なじみの一人を自ら討たざるをえず、脱藩して江戸で浪人暮らしをしていた。

しかし、許婚者であった奈緒が遊郭に身を売ることになったことを知り、彼女を助けようとして行方を探しだした。吉原遊郭を取り仕切る会所の頭・四郎兵衛の協力を得るが、千両以上で売られた奈緒はもはや手の届かない人となってしまった。

その奈緒が白鶴太夫と名を与えられ吉原に大々的にデビューするため、今戸から吉原大門まで花魁道中で行く事になった。それを妨害しようとするのを磐音が阻止して無事に道中を成功させる。こういった話なのだが、どの位の距離なのか、どんな場所だったのかを見てみたかった。

山谷掘は埋め立てられ暗渠になっている。山谷堀に架けられた橋は、下流から今戸橋、聖天橋、吉野橋、正法寺橋、山谷堀橋、紙洗橋、地方新橋、地方橋、日本堤橋の9つある。それぞれ今戸橋と同じく、橋柱のみ現存している。山谷堀公園を15分ばかり歩くと今戸橋に着く。今戸橋を通っている道は浅草と橋場を結んでいて、隅田川に沿っている。隅田川沿いには墨田公園が細長くのびている。今戸橋の袂には、小高い丘がありそこが待乳山聖天である。

待乳山聖天(聖観音宗・待乳山本龍院・金竜山浅草寺支院)


山谷堀038_edited_convert_20100123164737 本殿

創建は縁起によれば、推古天皇九年(601)夏、早魃のため人々が苦しみ喘いでいたとき、十一面観音が大聖尊歓喜天に化身してこの地に姿を現し、人々を救ったため、「聖天さま」として祀ったといわれる。ここは隅田川に臨み、江戸時代には東都随一の眺望の名称と称され、多くの浮世絵や詩歌などの題材ともなっている。

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日光街道沿いの寺院

1月22日(金)
瑞光小学校の「いのちの授業」が終って、夜18時からの「ももバー」までの時間がかなりある。日光街道沿いの寺院を訪ね、投込寺として知られている浄閑寺を経て、土手通りを浅草方面に向かい吉原大門を見て、山谷掘公園を歩き今戸橋まで行く。今戸橋ふもとの待乳山聖天までのコースを考えた。丁度2時間位だろう。

日光街道最初の宿場街・千住は、北への玄関口であった。千住大橋を境に、北側を「大千住」「千住北組」、南側を「小千住」「千住南組」と呼んでいた。「東海道品川宿」「中山道板橋宿」「甲州街道内藤新宿」と並んで、江戸四宿の1つに数えられた千住宿は、宿泊所、商店、材木屋、飯盛旅籠など多くの施設が立ち並ぶ繁華街であった。時代小説では必ずといっていいほど登場する聞きなれた場所だ。

瑞光小学校の前の道を商店街まで行かないで、そのまま日光街道に向うと真正寺の横の路地につながっている。日光街道沿いに入口があり狭く気がつきにくいが、境内はかなり広い。そこから真正寺→円通寺→公春院→浄閑寺と巡っていった。

護国観音・真正寺
寛文元年(1661)真正寺が浅草から当地に移転してきた時に、真正寺門前町も同時につくられた。東西20間3尺、南北24間2尺(約1600m2)ほどの土地であるが、荒川区におけるただ一つの門前町である。

山谷堀003_edited_convert_20100123121622 本堂

百観音・円通寺
延暦10年(791)、坂上田村麻呂が開創したと伝える。また、源義家が奥州を鎮定したとき、討ちとった48の首を寺域内に埋めて塚を築いたので、このあたりを小塚原とよぶようになったという。江戸時代、下谷の広徳寺・入谷の鬼子母神とともに、「下谷の三寺」と呼ばれた.

山谷堀015_edited_convert_20100123121910 本堂

山谷堀007_edited_convert_20100123121715 首塚、七重塔

慶応四年(1868)5月15日、上野東臺の戊辰戦争で戦死し放置されていた多数の彰義隊士の遺体を当時の円通寺の住職仏麿和尚と寛永寺御用商人三河屋幸三郎・新門辰五郎が集めて遺骸266体を上野山内にて荼毘に附し円通寺に埋葬した。上野で彰義隊と官軍の激戦が展開され時、その中心地上野山内「袴越し」に建っていた黒門が上野寛永寺から移築されている。

山谷堀010_edited_convert_20100123121840 彰義隊士の墓碑群

山谷堀013_edited_convert_20100123121801 黒門

満海山・公春院
寛文十年(1670)に浄土宗 公春院として創建。浅草聖徳寺の末寺で、本尊は阿弥陀如来。明治の末ごろで周囲が約4m、高さ14m、樹齢は優に500年を越すといわれる松があった。江戸時代、新しく寺院を建てることは禁止されていた。幕府の役人が当時の開創年代を調べにきた際に、松の雄大な様子が新しい寺院ではないことを証明した。以来「証拠の松」とよばれるようになったという。

山谷堀016_edited_convert_20100123121945 本堂

浄閑寺(浄土宗・栄法山清光院)

安政2年(1855)の大地震の際、たくさんの新吉原の遊女が、投げ込み同然に葬られたことから、「投込寺」と呼ばれるようになった。新吉原総霊塔が建立され川柳に「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と詠まれた。(つづく)

山谷堀023_edited_convert_20100123122050 山門(荒川区最古の木造建築)

山谷堀021_edited_convert_20100123122433 本堂と永代供養塔

(参考資料:荒川ゆうネット)

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定期検診の日

1月21日(木)
2週間一度の定期検診の日。血液検査の結果は以下の通り。今日はゾメタの点滴のみだ。ベルケイドは1週間休薬する。

検査結果 
 IgM    1630(1/21)←2132(1/14)←2167(1/7)←2892(12/24)
 白血球   2100(1/21)←1600(1/14)←2600(1/7)←2900(12/28)
 好中球   540←650←1580←1920
 血小板   7.0←7.5←9.7←11.9
 赤血球   304←336←312←309
 ヘモグロビン 10.2←11.3←10.4←10.3
 網赤血球   21←19←13←13

 総コレステロール   251←270←227 (基準値125~255)
 中性脂肪値   180←372←115 (基準値30~150)


IgMが1630まで下がった。ベルケイドは前回行った時最初は劇的に効果を発揮した。今回もそのようだ。ともかく少しづつの減少でもいいので長く続いて欲しいものだ。

白血球は2100と上昇して安心したが、検査表をよく見ると好中球が反対に540と下降し危険領域に踏み込みそうな状態だ。G-CSF(顆粒球コロニー刺激因子)を使用する事にした。点滴をしているのだから静脈注射でもよさそうだと思うが、何故か皮下注射で投与する。

薬品名としてはグランシリンジ150μgというものだ。この薬は麒麟麦酒(株)が発売している。大きく薬品名が記載された箱の中に注射器がありその中に薬液が入っている。それを滅菌のビニール袋から出し、同じ箱に入っている注射針をさせばそのまま使用できる。薬を間違える事もないし、看護師や薬剤師にとって非常に便利で使いやすい。こういった使用に便利な形状の薬を開発してくれると多くの人が助かるだろう。

中性脂肪値の今回の数値は180であった。この程度なら大丈夫だろう。今日は朝食抜きで測ったからほぼ正確ではないか。前回は朝食をたっぷり食べてきたという事があるが、そんなことで中性脂肪値があんなにも増加するものだろうか。

どちらにしてもあまり動かず、食事だけはしっかりとるといった生活をしていれば中性脂肪も増えるだろう。ステロイドがそれを後押しする。ともかく出来るだけ動く事が必要だ。

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西新井大師

1月15日(金)
「いのちの授業」の学校側との打ち合わせが、17時から足立区立関原小学校で行われる予定だった。授業は2月4日でその準備のための学校側、特に授業を受け持つ担任との話し合いをする事になっている。

足立区での「いのちの授業」は初めてだった。荒川区にいた今の副校長が道徳教育に熱心で、彼女が足立区の関原小学校に赴任して来て「いのちの授業」が行われることになった。西新井に行く用件は通常全くない。西新井大師までは家からだと1時間以上はかかる。打ち合わせの前に西新井大師に行ってみようと思った。こういった機会を利用する外ない。

西新井は私の生まれた場所だ。3歳まで住んでいた。その後新宿区に引っ越した。2歳頃母親の手に引かれて、西新井大師に行った写真がある。父は銀行員で西新井から通勤していた。銀行の事務員であった母は、西新井に来て祖父と祖母と百姓をやることになった。

その頃の西新井はあたり一面畑と田んぼだった。祖父は日暮里に住んでいて、時々百姓をやりに西新井にきていたそうだ。百姓はほとんど祖母と母親でやっていた。母親は男のやる水車踏み(田んぼと水の高低差があり水を汲み上げる)までやっていたということだ。

今では畑も田んぼもない。西新井駅周辺は、高層の巨大ビルが乱立している感じだ。特に南西側一帯は元日清紡の敷地だったらしいが、移転後の再開発で、アリオ西新井(イトーヨーカドー)の巨大なショッピングモールを中止として、その周辺一帯は高層の団地群が連なっている。私鉄沿線の街のイメージとはほど遠い姿に思える。

東武伊勢崎線の西新井駅で大師線に乗り換えて5分ほどで大師前駅に着く。正月3が日はかなりの参拝客で溢れかえっていて、参道や境内の屋台も大賑わいだったろう。

西新井大師001_convert_20100116103741 山門

さすが15日ともなると、参道に面した屋台は営業していたが、境内脇道の屋台の多くは店じまいをしていた。しかし多くの屋台はたたまれたまま残っていた。西新井大師では初詣から始まり、毎月定期的に1、8、11、21、28と縁日が行われている。

特に21日の弘法大師の命日に合わせた縁日は盛大に行われる。その外2月3日にはだるま供養や節分の豆まき、4月8日お釈迦様の誕生日に合わせて花御堂にお釈迦様を祀る「花祭り」の行事など次々と催し物があるから、屋台を置きっぱなしにしているのだろう。

西新井大師006_convert_20100116215051 大本堂

縁起:西新井大師は五智山遍照院總持寺といい、真言宗豊山派の寺院です。天長の昔、弘法大師様が関東巡錫(じゅんしゃく)の折、当所にたちより悪疫流行になやむ村人達を救わんと、御自ら十一面観音様をお造りになり二十一日間の祈祷をおこないました。すると枯れ井戸から清らかな水が湧き病はたちどころに平癒したと伝えられます。その井戸がお堂の西側にあったことから「西新井」の地名ができたと伝えられております。(西新井大師のホームページより)

西新井大師は見所が多い。山門を入り参道を進んでいくと左側に塩地蔵、六角観音堂、大日如来像が並んでいる。右側に鐘楼堂、水洗い地蔵がある。参道を突き当たると境内が広がっている。目の前に威風堂々と大本堂が聳え立っている。

西新井大師010_convert_20100116215314 三重塔

西新井大師018_convert_20100116103907 奥の院

大本堂の左側には、三重塔、加持水があり、それに並んで水子地蔵、不動堂がある。弘法大師像、稚児大師像を見ながら、池を巡ると池の中央に弁天堂があり、池之端に如意輪堂、権現堂、奥の院、と並んでいる。境内の右奥には出世稲荷明神がある。東門の方から出て、駅に向って行くと、光明院の大きな建物が目に入る。

西新井大師015_convert_20100116215154 出世稲荷大明神

西新井大師033_convert_20100116104455 光明院

1時間ほどかけて境内をゆっくりと回り西新井駅に戻った。再開発された団地群の間を15分位歩いていくと関原小学校があり、17時の約束の時間に到着した。

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臨時検診・ベルケイド静注(1クール4回目)

1月14日(木)
ベルケイドとデカドロンの点滴のため病院に毎週通わなければならない。今日の点滴で4回目なので1クール終了し、来週は休薬だがゾメタの点滴がある。結局毎週点滴する事になる。診断と薬の処方だけだと半日で終了するが、点滴を行うと終了が14時か15時までかかる。9時に病院に着きほとんど1日仕事になる。これを毎週行うということは私の場合は時間があるからいいが、勤めていたりしたら職場での対応がかなりきついのではないかと思う。

ベルケイドとデカドロンの点滴の前に血液検査をする。あまりにも骨髄抑制が強い場合は、ベルケイドの量を減らしたり休薬したりする措置をとらなければならない。血液検査の結果は以下の通り。

検査結果 
 IgM    2132(1/14)←2167(1/7)←2892(12/24)
 白血球   1600(1/14)←2600(1/7)←2900(12/28)←2300(12/24)
 好中球   650←1580←1920←1160
 血小板   7.5←9.7←11.9←15.7
 赤血球   336←312←309←321
 ヘモグロビン 11.3←10.4←10.3←10.6
 網赤血球   19←13←13←18

 総コレステロール  270←227 (基準値125~255)
 中性脂肪値  372←115 (基準値30~150)


IgMの数値の検査は2週間一度ということだったが今回検査表に記載されていた。若干減ったという所だが、少しずつでも下がり続けてくれればいいのだが。急に白血球数が減少した。1週間でこんなにも減少するものなのか。ベルケイドは血小板には影響するが、白血球には影響しないはずだった。

医者に聞くと、12月24日からエンドキサン(シクロホスファミド)50mgを4日間服用したその副作用が出てきたということだ。1ケ月近くたって副作用が出てくるとは厳しいかぎりだ。好中球が650とはかなり危険な数値だ。C-CSFの皮下注射を行った。このままの状態だと、1月21日からエンドキサンを4日間服用する予定だったが、それを変更せざるを得ない。折角効果がある療法が骨髄抑制のため変更や中止を余儀なくされるのは辛いことだ。

いつもは検査しない総コレステロールと中性脂肪値の値が表に出ていた。前回の検査項目指示がそのまま生きていたのだろう。驚いた事に中性脂肪値が375になっていた。総コレステロールの値もかなり上昇している。1週間でこの増加は何を意味しているのか皆目見当がつかない。

今日の朝食は、治療が終るのが14時頃になる可能性があるのでたっぷりと食べてきたのは確かだが、それが中性脂肪値にそんなに影響するものだろうか。デカドロンの影響なのか。次回は朝食抜きで血液検査を受けてみる事にする。。

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映画 『MILK』

1月13日(水)
pcbp-51979.jpg 『MILK』という映画で、第81回アカデミー賞の主演男優賞をショーン・ペンが取ったというわけではないが、この映画の主張に共感できるものがあるだろうと思って、DVDを借りて見た。

ショーン・ペンは最初『デッドマン・ウォーキング』で見た。その後『アイ・アム・サム』『ミスティック・リバー』などを見てその演技力に魅せられた俳優の一人だ。

そういった意味で『MILK』も彼の演技に期待する事もあった。期待にたがわず彼の演技に感激する外なかった。彼の全体の印象、顔の表情が全く外の映画と違う。手の動かし方や動作などゲイの仕草が板についている。ハリウッド俳優の演技にかける情熱には感心する。

この映画は、同性愛者であることを公表した上で、米国史上初めて公職に就いた政治家ハービー・ミルクの半生を描いた伝記ドラマだ。

 物語は1970年代のサンフランシスコ。生来の人柄でゲイやヒッピーたちに慕われる同性愛者のミルクは、マイノリティに対する権利と機会の平等を求め、世間の差別や偏見と戦いながら市制執行委員会の選挙に立候補する。彼は同性愛者、有色人種、高齢者など社会的弱者の声を伝えるべく政治の世界に足を踏み入れる。

アメリカが民主的な国だと誰もが思うかもしれない。しかし、アメリカの白人が行ったインデアンと黒人に対する迫害と暴虐は人類史の汚点になるほどひどいものだった。1960年代に根強い黒人差別に抗議するキング牧師を中心としたアフリカ系アメリカ人などが、法の上での差別撤廃を訴える公民権運動を行なった。その過程でキング牧師は暗殺されている。多くの犠牲を払い、これらの運動の結果、1964年7月にリンドン・ジョンソン大統領の下で公民権法(人種・宗教・性・出身国による差別禁止)が制定された。もちろんそれで差別が解消されたわけではない。

それから10年後アメリカにおける差別意識は少しは改善されたのだろうか。1970年代、アメリカでは根強い差別が依然として至る所にあった。「ゲイに市民権を与えたならば次には娼婦と犯罪者に与えなければならない」といった主張がマスコミで流される。それと歩調を合わせブリッグス州上院議員は、教職にある同性愛者をその性的指向を理由に解雇できるとする「条例6」制定を目指していた。ミルクは破棄に尽力した。「条例6」は1978年11月にカリフォルニアの住人によって完全に否決された。

 彼は、このまま運動を続ければ殺すといった殺人予告を受けながらも「これは命をかけた闘いなのだ」という。「条例6条」反対の大集会で、彼は「演壇に上げれば狙撃する」といった脅迫文を受け、周りがとめるのを振り切って演壇に立つ。彼はアメリカにおける自由と平等の精神の重要性を「独立宣言文」と「自由の女神の碑文」から導き出す。

「独立宣言文」から次の言葉を引き出した。「すべての人間は平等につくられている。創造主によって生存、自由そして幸福の追求を含むある侵すべからざる権利を与えられている。」自由と平等はアメリカの理念であるはずなのだ。

また、自由の女神の碑文にはこう書かれている「自由を渇望する汝のなかの疲れし者、貧しき者、肩を寄せ合う者たちを我に与えよ、家を失い嵐にもまれし者たちを我がもとへ送れ、黄金の扉の傍らに我は灯りを掲げん」この言葉をミルクは引用し、我々の祖先は自由を求めてあらゆる困難を乗り越えこの国にやってきた。その精神を忘れてはならない。

我々マイノリティの自由と平等は独立宣言文を削除する事が出来ないように、自由の女神の碑文を削り落とす事が出来ないように絶対的な真実なのだ。そして、最後に「希望がなければ人生は生きる価値などない」と結んだ。希望を持って向えばどんな困難な道でも開いていく事が出来る突破口があるはずだ。ミルクは全ての人に訴える。

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板橋七福神めぐり

1月10日(日)
今までやっていないことは幾らもあるが、年始の七福神めぐりをしたことは1度もない。1度位やってみようと思い立って「東京の七福神めぐりガイド」というサイトを開いてみた。東京だけで30ケ所紹介されている。隅田川、深川、浅草などお馴染みの所もあり、そちらの方が雰囲気は味わえるかもしれないと思ったが、家から行き易い所という事で「板橋七福神めぐり」に行く事にした。

七福神の成り立ちが面白い。インドのヒンドゥー教(大黒・毘沙門・弁才)、中国の仏教(布袋)、道教(福禄寿・寿老人)、日本の土着信仰(恵比寿・大国主)が入り混じって形成されている。日本的な宗教に対するこだわりのなさが反映されているようで庶民の感覚をうかがい知る事が出来る。

七福神信仰は遠く室町時代まで遡り「仁王般若経」の「七難即滅、七福即生」(七つの災難が消滅し、七つの福徳を授かる)から来ている。江戸時代の中期頃から、庶民文化の台頭、庶民の余暇の増加にともない、庶民のレクリエーションの一貫として「七福神めぐり」も全国的に広がりを見せたということだ。

「板橋七福神めぐり」コースの紹介では、西武線江古田駅又は都営三田線板橋区役所前駅から約11キロの健脚向きで、推定所要時徒歩4時間とあった。それぞれの寺院が離れていて、かなりの距離を歩かなければならない。練馬区から出発し板橋区を縦断する感じだ。

 能満寺 寿老人-延命長寿・諸病平癒・富貴繁栄・長寿 (寿命)
 西光寺 布袋尊-開運・良縁・子宝 (大量)
 安養院 弁財天-芸術学問成就 (愛敬)
 長命寺 福禄寿-福徳開運・健康長寿・子孫繁栄 (人望)
 文殊院 毘沙門天-厄除け・財宝福徳・大願成就 (威光)
 観明寺 恵比寿-商売繁盛・航海安全・漁業豊漁 (律儀または清廉)
 西光院 大黒天-五穀豊穣・福徳開運 (有徳)


七福神めぐりの朱印用色紙は500円で朱印を各寺院で押してもらうと200円取られる。その他ステッカーシール100円が公式グッズとして売られている。

板橋七福神は、熊野神社前に住み、彫金と呼ばれていた彫刻師、田中金太郎氏が製作し、昭和12年頃各寺に寄進したものと言われている。いずれも、高さ 25cm程度、白木造りの素朴な感じのする福の神だそうだ。寄進された寺が全て真言宗(弘法大師)であることから、田中氏は真言宗の信者ではなかったかと思う。

歩くとなると距離がかなりある。自転車が便利だとあったので天気も良かったし自転車で出かけた。家から最初に江古田の能満寺に向った。

能満寺(真言宗豊山派・夏雪山広原院)

開基は1620年頃。練馬区なのに何故 板橋七福神かというと当時はこの能満寺のある場所も板橋区だったからだ。

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   山門と本堂

寺院はひっそりとしていた。「東京の七福神めぐりガイド」では平成19年の情報だったが1月14日まで七福神が開帳されていて、朱印ももらえるとあったが、寺の職員に聞いて見たらあまり人が来ないので去年から7日までになったということだった。板橋七福神めぐりは結局七福神を見る事も、朱印を貰う事も、七福神グッズを買う事も出来ず、七つの寺回りという事になった。

能満寺から千川通りに出て、大山方面に向かう途中、大谷口給水塔のあった所に似たような真新しい建物建っていた。「大谷口水道タンク」として板橋区の景観百選に選定されるなど、地域のランドマークとして親しまれてきた大谷口給水塔は老朽化のため2005年6月に取り壊された。その跡地は給水所として再整備され、配水塔の意匠を継承するデザインのポンプ棟が完成に近付いているのだろう。歴史的建造物が消えるのは残念だ。西光寺はそこから2,3分の所にある。

板橋七福神巡り004_edited_convert_20100111083808 給水所のポンプ棟

西光寺(真言宗豊山派・宝樹山盛徳院)
江戸時代初期に創建された観音堂が始まりと伝わる。境内のしろかき地蔵は、室町時代の作とされる区内最古の石地蔵で、大谷口の農家の代かきを手伝った昔話が伝えられている。ここから環七通りを突っ切り石神井川を渡ると安養院に出る。

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   本堂としろかき地蔵

安養院(真言宗豊山派・武王山最明寺)
鎌倉幕府の執権北条時頼によって創建されたと伝えられている。鐘撞堂の銅鐘は江戸時代の作で国の重要美術品で、庫裡は、明治35年(1902)麹町に建てられた旧伯爵松平基則邸を昭和5年に移築したものだそうだ。境内は外の寺院と比べかなり広く、鐘楼や庫裏など歴史的な建物あり、また真新しい多宝塔が昼の光に反射し眩い光を放っていた。

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   本堂と多宝塔

環七通りに向う途中高い木立に囲まれた杜が見えた。寺院ばかりを見ていると神社がまた違ったイメージで見えてくる。氷川神社の急階段の途中に最初はコンクリート制で、次が朱塗りの鳥居がありそれをくぐると境内に出る。そこに静かに佇む拝殿があった。

板橋七福神巡り018_edited_convert_20100111083729 氷川神社の拝殿

長命寺(真言宗豊山派・東光山医王院)
長命寺は、車が引っ切り無しに行き来する川越街道と環状七号線の交差点にある。開基は江戸時代の前期、1670年頃とされ、天祖神社など付近の神社の別当だった。

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   入口と本堂

長命寺から川越街道を上り、石神井川を左折し川沿いにひたすら自転車を進める。20分くらい走ってやっと中山道にぶつかる。そこから仲宿商店街に入りしばらく行くとまず文殊院があり、旧中仙道仲宿の交差点を過ぎさらに進むと観明寺がある。

文殊院(真言宗豊山派・幡場山大聖寺)
江戸初期、本陣飯田家の菩提寺として、昔から信仰を集めていた延命地蔵尊の境内をひろげて建立された。開山は寛永2年(1625)寂の権大僧都慶恵。

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   山門と本堂

観明寺(真言宗豊山派・如意山)
室町時代の創建、本尊は正観世音菩薩。入口に寛文元年(1661)に建立された庚申塔がある。境内の豊川出世稲荷と赤門は、かって加賀藩下屋敷にあったもの。明治時代には、宿場の賑わいを回復しょうと成田山のお不動を勧請し、縁日を開いて繁栄した。
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   本堂と境内の豊川稲荷

仲宿商店街を後にして、山手通りに出て最後の西光院に向う。山手通りと川越街道の交差点の所に熊野神社がある。父親が5歳位の子供を連れて来て、掃除をしていた巫女さんに破魔矢を渡していた。初正月に男の子へ破魔矢(はまや)破魔弓(はまゆみ)を贈ってお祝いする風習があるらしいが、正月が終ったということで神社に返しに来たのだろうか。熊野神社から15分位で西向院に着いた。丁度法事が終ったのか、寺からぞろぞろと人が出てきた。

板橋七福神巡り036_edited_convert_20100111083852 熊野神社拝殿

西光院(真言宗豊山派・医王山薬円寺)
開基は推定1616年以前、境内には薬師堂、法眼堂などもあり、歴史を感じさせる。山門前にある「スダジイ」は、樹齢 400年以上の巨木で内部は空洞になっているように見えるが、いまだ樹勢を保っているようで、板橋区の登録文化財に指定されている。

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   本堂とスタジイの巨木

西光院から一旦山手通りに出て、高松商店街を要町通りに向って走る。有楽町線の要町駅にまで来れば後は15分位で家に着く。10時に家を出て、戻って来たのが14時30分だった。自転車でもかなり時間がかかった。結構自分では土地勘もあり、道も知っている気はしていたのだが、地図を見ながら次の場所を探すのにもかなり手間を食うことになった。このコースを正確な地図を持たずに歩いて回るとしたら本当に1日仕事だろう。(参考資料:板橋観光センター・ホームページ)

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院内患者家族交流会(おしゃべり会)

1月8日(金)
K病院患者・家族交流会は2ケ月1度奇数月の第2金曜日に行われている。血液内科病棟のカンファレンスルームを使用出来るので入院中の患者も参加し易い。治療中で白血球が減少している患者は参加できないとしても、副作用も少なく体調が良ければ暇で退屈な時間を潰しているのが多くの患者の現状である。病院内でイベントがあると多くの患者が集まってくることを見てもそれは明らかだ。

病棟内で行われる患者・家族交流会の大きな意味は、患者が参加しやすいという利点があり、例えばこれから移植を受ける患者は、移植とはどういうものかという不安にさいなまれている。医者や看護師からの説明はあるだろうが、医者が持ってくるのは「移植同意書」に署名捺印してくれというものだ。そこには移植によって死亡する場合もあるなどと書かれていて驚いてしまうだけだ。

患者交流会で移植体験者の話を聞いて、移植はそれ程心配することはないということを納得する事が出来る。ただ移植に当たって口内炎の予防にはこうしたらいいといったような色々な注意点を聞く事が出来て、移植に対する取り越し苦労的な心配事も解消され、これからの心構えのためにも役に立つ情報がかなり得られその事によって精神的に楽になるのは確かだと思う。

今日参加した20代半ばの男性患者がいた。彼は料理の修行をしていてオーストラリアで調理の専門学校に通っていた。この国に永住するつもりだったそうだ。去年の10月、だるさが続き風邪だと思って病院に行った。そこで血液検査をして急性リンパ性白血病と診断され入院となった。専門学校の学生は健康保険に入る事が義務付けられていて保険診療が受けられてそれがかなり助かったという。

治療薬は日本とあまり違いないだろうと思うが、日本ではあたり前のように使われているカイトリールという吐気止めも使われず吐気に苦しめられ、また抗がん剤の使用量も欧米人の標準量なのだろうが、日本人には多かったのだろうか副作用がかなりひどかった。大量の抗がん剤投与が1週間ごとに行われその消耗感でふらふらになって食欲もなくなってしまった。

さらに食事もひどくは吐気などもあってほとんど食べられなかった。途中から栄養剤の点滴は行われたが、2ケ月弱の入院で10キロも体重が減って、退院した時にはふらふら少し歩くと息切れがして立ち止まる位だった。

迎えに来たお兄さんに連れられてやっと空港に着いて日本に戻って来た。外国での治療はやはり言葉の壁とかもあり色々不安があるだろう。通常の会話が出来る英語力があっても医療関連の専門用語は中々理解しがたい。

この病院に入院し地固め療法を何クールか行い、その後お兄さんとHLA型が一致したので造血幹細胞移植のドナーが血縁者で確保できたということで、移植を受ける事になっている。

彼は、オーストラリアの病院の食事の不味さに比べるとこの病院の食事は素晴らしいと思えるほどだと言っていた。病院でなくてもオーストラリアの食事は何とも味気ない。料理という概念がないのだろうか。肉は牛でも豚でも鶏でも焼くだけそれに市販のたれをかけて食う。サラダは葉っぱをむしっただけでテーブルに供えてあるドレッシングをかける。魚介類専門店に行っても大量の魚が蒸して出てきて、それにドレッシングをかけて食べる。何とも味気ない。それが病院食になったらどうなるか想像できるような気がする。オーストラリアから帰って来た彼は「食事は何といっても日本が最高だ」と言った。

オーストラリアの観光旅行に行ったことがあるが、住み易そうな土地柄だと思った。退職してオーストラリアに移住している日本人も結構いるらしい。彼が永住しようと思った気持ちも分るような気がする。

彼は言っていた。アメリカでなくて良かった。アメリカだったら保険会社に契約していなければ何百万円かかったかもしれない。保険会社と契約していたとしても『シッコ』という映画で訴えているように、保険会社は保険料支払いを拒否するためのあらゆる算段を行使してくるので保険に入っているからといって安心出来る訳ではない。

病棟から来た患者を含め9名の参加だった。参加者の一人がマスコトのグッズを大量に作ってきた。3cm位のウサギや熊のぬいぐるみや、貝に金紙銀紙貼ったもの、蛙(病院から家に帰る)が縫われているボタンなど多種多彩のグッズを持ってきてくれた。専門家並みの腕前だ。患者にあげて欲しいということで看護師長に預けて配ってもらう事にした。殺風景なベッドに横たわっている生活をしている時にこういったグッズが心の慰めになるのは確かだ。外からの贈物は何よりも嬉しいものだ。

クリスマスの時にはツリーに飾る多くの可愛いグッズが必要となる。この病院ではクリスマス時期にはナースセンターの入口にツリーが飾られる。大体照明用の円い玉がぶら下がっている位だ。そこに色々な物が飾られれば雰囲気は盛り上がるだろう。是非12月になったら大量のグッズを持参して欲しいもだと、彼女に念を押しておいた。

患者・家族交流会はこんな感じで「おしゃべり会」と名づけられているように和気藹々と言いたい事を言い合って、暇つぶしの人も情報を欲しがっている人も参加しながら3時間があっという間に過ぎていくのであった。

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ベートーヴェン 『クロイツェル・ソナタ』

1月8日(金)
ヴァイオリン・ソナタ第9番・イ長調(作品47) 『クロイツェル』は、ベートーヴェンの1803年の作品で、ヴァイオリニストのルドルフ・クロイツェルに捧げられたため、この名で呼ばれている。ベートーヴェンのつけた題は「ほとんど協奏曲のように、相競って演奏されるヴァイオリン助奏つきのピアノ・ソナタ」である。

この曲は「ヴァイオリン・ソナタ」となっているがべートーヴェンが書いているように「ヴァイオリンとピアノが対等」で、ピアノとヴァイオリンが互いに追いかけながら疾駆していく曲だ。この曲はよく聴くが、何故かある精神状態で聞きたくなる曲だ。それがどういった状態なのかは分析できてはいない。

ヴァイオリンが主題を奏で、ピアノが同じメロディあるいはその変奏曲を弾く。逆にピアノが主題を奏で、ヴァイオリンが同じメロディを追いかけるように弾く。ピアノが主旋律を弾きヴァイオリンが伴奏したり、その反対もあり、それが交互に繰り返され、互いに主題を追いかけ合う。追いつ追われながら音が疾駆する奔流となって怒涛のごとく降り注いでくる。

51NVP.jpg 持っているCDはダビット・オイストラフのヴァイオリン、レフ・オボーリンのピアノの演奏で
 1957年に録音されたものだ。クラッシクに最も入れ込んでいたが10代後半から20代で、
 1960年代後半から70年初期に聴いた演奏家が心に残っている。

 ヴァイオリンだとオイストラフ、ハイフェッツ、メニューイン、スターンなどの演奏を聴いてき
 た。次々と優れた演奏家が生まれてきているだろうが、どうしても昔の演奏家にひかれてし
 まう。昔のヴィルトーゾの曲に対する深い思いとそれを表現する巧みな技術に魅せられるし
 かなかった。

ベートーヴェン「クロイツェル・ソナタ」をイメージして書いたトストイの小説がある。この曲のピアノとヴァイオリンの互いに追いかけ合う曲想が男女の恋愛模様を想起させるのかもしれない。

000_convert_20100108024308.jpg小説の『クロイツェル・ソナタ』の疾駆し併走する物語の中で、妻殺しを語る主人公は「恐ろしいほどの怒りに燃えていながら、私は終始自分が他人にどういう印象を与えるかを意識していましたし、ある意味ではそうした印象が私の行動を支配していたのです」と語っている。

怒りに狂って感情にまかせた行動をとりながらも、常にそんな自分をもう一人の自分がさめた目で見下ろしていて、現実世界の自分の行動をコントロールしている、そういった精神の二重構造は、ベートーヴェンの「クロイツェル・ソナタ」の曲想をそのまま物語の中の組み入れたのではないと思える。

正気と狂気、激情と平静そういった感情の狭間の中で人は生きている。疾駆する時の流れの中で人は時間を追いながら追われていく。死への限られた時間を立ち止まることなく疾走していく。

二重の自己を抱えていながら自己対象化によって自己を見つめ直すこともなく時間の谷間に溺れていく。人生とは疾駆し流れていく時間の中でどのように自己を見つめていられるかの過程なのだと思う。「クロイツェル・ソナタ」を聞きながら時間と人生に思いを馳せる。

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定期検診の日・ベルケイド1クール3回目

1月7日(木)
2週間一度の定期検診の日。血液検査の結果は以下の通り。

検査結果 
 IgM   2167(1/7)←2892(12/24)←1816(11/25)
 白血球   2600(1/7)←2900(12/28)←2300(12/24)←1900(11/25)
 好中球   1580←1920←1160←880
 血小板   9.7←11.9←15.7←9.6
 赤血球   312←309←321←297
 ヘモグロビン 10.4←10.3←10.6←9.8
 網赤血球   13←13←18←15


2月1度検査する項目の検査結果
 総蛋白  6.9 (基準値6.4~8.1)
 アルブミン  4.0 (基準値3.9~5.0)
 総コレステロール  227 (基準値125~255)
 中性脂肪値  115 (基準値30~150)

ベルケイド(ボルテゾミブ)が効いた。IgMは2167と2週間で700下がった。ベルケイド療法は2007年10月26日から2クールを2ケ月の入院で行ない、その後通院で5クールまで行ったことがある。その時、最初は劇的に効果を発揮した。2269あったIgMは1クール終わった11月末の検査で457まで下がった。1ケ月で1800下がるというのは移植並みの効果だった。辛い思いをして移植などしなくてもそれとほぼ同等の効果が得られるということは、患者にとってどれほど大きな意味があるかを感じた。

2クールが終わった12月末の段階で405までになった。しかし徐々に効果は薄れIgMは上昇を始めた。結局半年も効果は持続しなかった。4月には次のサリドマイド療法に移行せざるを得なかった。

通院治療センターで隣にいた人と話をしたことがあるが、その人は多発性骨髄腫の患者でベルケイド療法を1年半も続けていた。抹消神経障害や血小板減少といった副作用に悩まされることも無く、薬の効果は持続していると言う。

骨髄腫の特徴としての薬物耐性の現れ方も人によって様々なのだろう。サリドマイドを6年間飲み続けて形質細胞腫瘍の増加を抑えることが出来ている患者のことを聞いたことがある。ほぼ半年ごとに次はどんな療法にしようか悩まなくて済むのはうらやましい限りだ。

ベルケイドもやがて効かなくなってくるだろう。せめて次の療法として考えているレブリミド(レナリドマイド)が認可されるまで、効果が持続してくれることを期待するほかない。
  

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成田山新勝寺

1月6日(水)
川崎大師に行ったことだし、成田山にも行ってみようと思い立ち出かける事にした。成田山は交通安全の祈願をする寺院として知られていて、元勤めていた会社の下請けの運送会社は正月2日に毎年かかさず交通安全の祈願のため成田詣をしていた。社長以下10数名でマイクロバスを借りて出かけていた。運送会社にとって交通事故は死活問題になる。そのための安全祈願だ。

日暮里から特急に乗り丁度1時間で京成成田駅に着く。駅前からは赤い欄干の開運橋を渡ってJP成田駅からの表参道に合流する。どこの観光地の寺院でもそうだが、門前町の情景は興味深いものがある。寺院の参詣の前に門前町を散策するのも楽しみの一つといえるだろう。

成田山の門前町は駅前から成田山門前に至る表参道が中心となっている。ここには、創業百年以上という老舗もあり、随所に蔵造りの漢方薬店、見上げるばかりの三階建木造建築の大型旅館などが見られる。また成田名物の羊羹、鉄砲漬、川魚の佃煮、地酒などの土産物屋があり、甘酒やうなぎの串焼き、焼きたての煎餅等、店の前にテーブルを出して売っている。

成田山005_convert_20100106192453 表参道の人波

焼きたての煎餅をパリパリやりながら参道を歩いている人もいる。成田の地酒「長命泉」のワンカップやにごり酒もある。飲食店の多くがうなぎ専門店だ。「川豊」といううなぎ専門店に人だかりがしていた。外の店とは比べ物にならない位の人だ。幾つかの雑誌やテレビで紹介されたらしい。全くそんなことは知らなかった。多くの人がよくそんな情報を掴んでいるなと感心するばかりだ。

何故成田でうなぎが名物料理なのだろうか。恐らく、昔は手賀沼や利根川で鰻、川魚、鯉などが収穫できこの地域で容易手に入れる事が出来たのだろう。店先で生きた鰻を職人がさばいている。頭を固定し、見事な手際で次々と鰻を蒲焼の形におろし、串を打って行く。つまりスーパーで買う冷凍鰻ではないということだ。沿道の様々な店をひやかしながら表参道を進んでいくと、成田山新勝寺総門に辿り着く。

成田山新勝寺

縁起:成田山開山の祖、寛朝大僧正は、天慶3年(940年)平将門の乱を鎮めるため朱雀天皇の勅命により関東に下り、この地に成田山を開山した。成田山は真言宗智山派の大本山で、全国8カ寺の別院や末寺など合わせて65力寺を有する。本尊は弘法大師開眼の不動明王像と伝えられ、江戸期から「成田のお不動様」とよばれ親しまれてきた。22万平方メートルの広大な境内には、国指定重要文化財である額堂や光明堂、釈迦堂、仁王門、三重塔が点在している。関東三大不動の一つ。

表参道はやがて総門に行き当たりそこから仁王門、本堂へと行く事になる。総門は真新しく堂々とした雄姿を現していた。成田山新勝寺では、平成20年に開基1070年祭記念大開帳が行われ、これに合わせて平成19年11月には総欅造りの総門が完成した。

成田山008_convert_20100106192552 総門

成田山051_convert_20100106193228 仁王門

参道の右側に土産物店の屋台が軒を並べている。客殿の光輪閣を左に見て、石段を登ると大提灯が下がる仁王門をくぐる。仁王門から東海道五十三次にならった53段の石段を上がると左右に翼殿を持つ重層入母屋造り大本堂の雄姿が視界に入ってくる。ここには弘法大師が彫ったという本尊の不動明王がまつられている。その内陣の広さは、畳296枚分もあるといわれている。

成田山002_convert_20100106192728 大本堂

成田山001_convert_20100106192648 三重塔

成田山035_convert_20100106193135 釈迦堂

大本堂右手には三重塔一切経堂鐘楼がある。大本堂前の広場左手に釈迦堂がある。釈迦堂は安政5年(1858)に建立された前本堂で、仏教を開いた釈迦如来がまつられている。堂の周囲には「二十四孝」の彫刻などが施され、江戸時代末期の特色を示している。

本堂の裏の階段を上ると額堂がある。これは文久元年(1861)建立、信徒から奉納された額や絵馬をかける建物で、近世における庶民信仰を示すものとして興味深い。正面にあるのは光明堂で元禄14年(1701)建立された旧本堂で、大日如来、愛染明王、不動明王が安置されている。その裏に奥の院の洞窟があり、毎年祇園会に扉が開かれる。

成田山004_convert_20100106192811 額堂

成田山007_convert_20100106192852 光明堂

成田山012_convert_20100106192944 平和の大塔

さらに奥に進んで行くと「平和の大塔」が鮮やかな朱色の威容を現す。昭和59年(1984)に完成した大塔は、成田山の真言密教の教えの根本である相互礼拝・相互供養の曼陀羅世界を表しているという。

大塔の中に入ると、1階には、「成田山霊光館」の収蔵資料を展示してある。成田山の歴史や門前町成田の様子、市川團十郎等について約6万点という豊富な収蔵資料があり、県の文化財に指定されている『大絵馬』はかなりの迫力だ。写経道場もある。2階には不動明王の巨大な像が安置されている。3,4階は信徒による掛仏が奉安され、5階の最上階の天井にはステンドグラスがはめられ部屋に鮮やかな光を投げかけている。その中には五智如来が安置されていた。

大塔から「成田山公園」に降りていく。様々な建造物や仏像を見た後でゆっくりと自然の中を散策するのは気が休まる。公園内は自然の起伏が巧みに取り入れられ、起伏を縫って遊歩道が作られている。特に園内中央にある竜智、竜樹、文殊と名づけられた三つの池の周囲は人もあまり来ず静かなせせらぎの音が聞こえるほどだ。

竜智の池の中にある浮御堂の周りには数多くの鯉が泳いでいる。しばらく行くと雄飛の滝が巨大な岩山の中から顔を見せる。所々木立の間から姿を見せる大塔が、成田山にいることを思い出させる程、自然に溢れた公園だった。

成田山020_convert_20100106193038 成田山公園・竜智の池の浮御堂

京成成田駅に着いたのが12時過ぎで、成田山新勝寺を後にしたのが15時過ぎであった。成田山公園も含めてかなり中身の濃い散策になった。帰りは表参道で行列の出来る鰻屋「川豊」でうな重を食べ、焼きたての煎餅を頬張りながら、長命泉のワンカップを飲んだことは言うまでもない。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

映画 「スラムドッグ$ミリオネア」

1月5日(火)
61_convert_20100301205827.jpg TSUTAYAで正月料金として新作も含めて4枚1000円でDVDの貸出をしていた。見ていない話題の作品をこの機会に借りることにした。その1つが「スラムドッグ$ミリオネア」だった。アカデミー賞で多くの賞をとったので有名になったが、監督と脚本家をみて納得した。

ダニー・ボイルは「トレインスポッティング」の監督であり、サイモン・ボーフォイは「フル・モンティ」の脚本家でもあるのだ。両方とも見たことのある映画だった。独特の切り口で興味深く見ることの出来た作品だった。そういったことでこの映画も期待できるのは当然だろう。

映画の紹介で「スラム育ちの青年の運命と過酷な半生を疾走感あふれる演出で描いた人間ドラマ」とあった。スラムドッグ(スラムの負け犬)のサクセス・ストーリーには違いないが、破壊と創造を繰り返しながら変遷するインド゙社会の無限の活力の中でこそ、この映画は外の場所では語りえない物語を作り出すことに成功している。

主人公ジャマールは、世界最大のクイズショー「クイズ$ミリオネア」に出演し、あと1問正解を出せば番組史上最高額の賞金を獲得できるところまで勝ち抜ぬいた。いまだかつて医者や弁護士などもここまで勝ち残ったことはない。一体、彼はどうやって今までの答えを知り得たのか。

インドのスラム街で育った少年が正解を知るはずがないと不正を疑われ司会者に告発される。逮捕された挙げ句、拷問まで受けるのだが、彼は「本当に答を知っていた」とあくまでも主張する。インドの大都市ムンバイの中にある世界最大規模のスラム、ダーラーヴィー地区で生まれ育った無学のジャマールが何故クイズに答え続けられたのかという謎は、警察での取り調べの中で、彼が自らの生い立ちを語る過程で解き明かされていく。

ジャマールの忌まわしく陰惨な過去には、格差社会、幼児虐待、裏ビジネス、宗教暴動、急激な近代化といった、インド現代史が凝縮されている。社会の底辺を駆け抜けてきたからこそ、必要な知識を身につけていた。これまでに出された質問のひとつひとつの答えを知っていた理由を、自分の人生と結びつけながら彼は取調官に話す。物語はクイズ番組、警察での取調べ、主人公の回想が循環しながら進行する。

そこで語られるのは、幼い頃に目の前で母を殺されて以来、兄のサリームとともに孤児になりながらも生き抜いてきた半生である。貧困と富が混在するインド・ムンバイを疾走しながら、生きながら学び、「望まなくとも答えを知ることになった」少年の過酷な人生と運命が、クイズの答えへとつながっていく。それはまさに、インドのスラム出身の多くの人々がたどる生き方なのだろう。

ジャマールの話を聞き終わると、取調官は「君は正直な人だ」と言って彼を釈放し、最後の問題に答えるために「クイズ・ミリオネア」の会場に向おうとする彼をパトカーで会場まで送ってくれる。

生まれた時からこの環境にいる彼は、タフに生き抜いていく。その生き方はあくまでも真っ直ぐだ。何故その心根を貫く事が出来たのか、それは1人の少女を追い続けた彼の心の純粋さにあるのだろう。少女ラティカへの愛こそが彼の生き方を形作っている。ラティカに会いたい、一途なその思いが物語の背景をなしている。「クイズ・ミリオネア」に出ることでラティカが自分のことに気付いてくれるかも知れない、その思いで応募したのだ。

また、純粋なジャマールとは対照的に悪に染まる兄サリームですら、最後には自らの命をかけてラティカを逃がし弟の奇跡を後押しする。

スラムという過酷な状況下で生まれ育っていても、「運命を信じ、愛を信じて突っ走れば、お金がなくても大切な何かを掴むことができる」ことを見る者に訴えてくる。人生に希望を与え、愛を貫くことの意味を教え、生きることへの活力を与えてくれる映画だ。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

川崎大師

1月3日(日)
正月休みというわけでもなく、普段と全く同じ生活をしているのだが、正月というのは何故か動きが緩慢で食べた物がそのまま体重に加算されるような気がする。少しは体を動かさなければといった思いがつのって来る。どうせ行くなら初詣として行ったことのない寺院に行ってみようと思った。3が日中に行くのに意味があるような気がした。

「初詣での人出が全国で3番目に多いのが川崎大師。昨年(2009年)の正月3が日の参拝客数は明治神宮(東京)の319万人、成田山新勝寺(千葉)の298万人に続く296万人」という記事を見た。明治神宮は最近TOKYOウオークで行った。午後から出かけるので成田山は遠い。川崎大師に行く事にした。日本の代表的な風物詩を味わうのもいいなとも思った。

京急川崎で大師線に乗り換えるが、川崎で降りた乗客のほとんどが大師線ホームに列を作って向かって行く。列車は満員の客を乗せて出発する。大部分の乗客は川崎大師駅で降りて、そのままひとかたまりになって歩みを進める。

駅の改札から20m位行った所に表参道・厄除門があってそれを潜ると、川崎大師900mという表示がある。参道の左右には屋台がたち並びこれから参拝に行く人と戻る人でごった返している。3日の3時過ぎだから少しは参拝客も減ってきているだろうと思ったが全く予想外だった。

川崎大師005_convert_20100103200343 表参道の人混み

山門からかなり離れた所で人混みは渋滞した。参拝に行く人の順番待ちだ。何といっても長崎神社とは規模が違う。長崎神社同様ここでもその列を離れ、駐車場脇から境内に入った。境内は歩行困難なほど屋台が軒を並べている。まさに正月と祭りが彼らのかき入れ時だ。

本堂の前は山門から20列位の幅で列を作り、順番に参拝するようになっている。本堂の入口の参拝場所まで行くと、1列分の人達が御参りし、1分位で合図があり次の列に交代する。このように順番に次々と参拝客が機械的に入れ替わり処理されていくといった感じだ。

何処の屋台にも人が群がっていて、皆テーブルについたりベンチに腰かけ何かを食べている。参拝よりも多くの人にとっては屋台での飲み食いの方が目的であったりするのかもしれない。特に変わった食べ物がある訳ではないが、屋台で食べる味はまた格別だ。雰囲気が最高の調味料というわけだ。

山門の方から出て、仲見世通りを通る。飲み食いが出来る店もあるが、とんとん飴というのがこの地の名物らしい。包丁をとんとんと鳴らしながら飴を切る。そのリズミカルな音が何とも言えず仲見世の雰囲気を盛り上げている。

川崎大師045_convert_20100103200626 仲見世通り

川崎大師
正式には真言宗智山派・大本山金剛山金乗院平間寺という。開創は大治3年(1128)、開基は尊賢上人、創建功徳主は平間兼乗氏である。総本山は京都東山七条にある智積院で、もろもろの災厄をことごとく消除する厄除大師として知られている。

大本堂-1964年(昭和39年)5月落慶。本尊厄除弘法大師を中心に不動明王・愛染明王などの諸仏が奉安されている。
川崎大師024_convert_20100103200513

大山門
-1977年(昭和52年)11月落慶。(開創850年記念事)四方に京都・東寺の国宝尊像を模刻造立した四天王像が奉安されている。上層部分には薬師如来像を安置するほか、経庫になっており、同寺で行われる「写経会」で写経された経文や、奉納された写経が収められている。堂塔伽藍を囲う浄域結界の総門。
川崎大師027_convert_20100103200708

不動堂-1890年(明治23年)創建。現在の建物は1964年(昭和39年)に再建されたもの。本尊の不動明王は成田山新勝寺の本尊を勧請。関東三十六不動霊場第7番、武相不動霊場第1番札所。
川崎大師012_convert_20100103200430

中興塔(八角五重塔)
-1984年(昭和59年)、弘法大師1150年御遠忌・大開帳記念として落慶。境内と諸堂宇との調和を考慮し、さらに真言の様式に適うよう「八角」とした。八角は最も円に近い建造物の形といわれ、「包容力」「完全性」を象徴している。(川崎大師WEBサイトより)
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初詣

1月1日(金)
昨年、一昨年と正月は旅行に行った。今年は3年ぶりに東京で正月を過ごす。正月旅行は交通手段と宿泊場所を確保するだけで、特にスケジュールを決めずゆったりと温泉に入って過ごすことを目的としている。長男は何処にも出かけず旅館で骨休みをしている。しかし貧乏症なのだろうか、旅行に行くとどこかに出掛けたくなる。

去年は日光周辺巡りの観光バスに乗り日光見物をして、さらに会津まで行った。一昨年は雪の中山寺に登ったり、宿泊地の天童の周辺の名所巡りをした。そういったことで、旅行に行くと何かと忙しいおもいをしてしまう。今年は紅白歌合戦などを見て、年越しそばを作って食べ、行く年来る年を見て、何故かゆったりとした気分だった。

正月の風習

昔から1月1日の11時頃、家族皆で実家に正月の挨拶に行き、おせち料理をご馳走になっていた。3年ぶりの復活だった。実家に行くといっても歩いて10分位の所にある。届け物やご機嫌伺いに月2、3度は寄っている。母親と妹が料理を作り我々は食べるだけだ。ワインで乾杯し、お重に入った料理を平らげ、お雑煮を食べて、テレビで流れている新春駅伝を見るともなしに見ながら時間が穏やかにと過ぎていく。

2時間ばかり実家で過ごした。長男が夜中の2時頃この地域の鎮守である長崎神社に初詣に行ったという話をしたので、行ってみる事にした。初詣というと思い出すのが、昔山陰の親戚の家に12月31日の終電車で行くつもりだった時のことだ。

京都で山陰線に乗り換えるつもりが寝過ごして気がついたら新大阪だった。京都に戻ったがもはや終電車は出発した後だった。朝まで列車はない。深夜喫茶で時間を潰すにしても時間があり過ぎた。どうせならということで八坂神社まで行って初詣を済ませてきた。破魔矢を買って、親戚には初詣に行ってきたと大きな顔をして訪問したというわけだ。

長崎神社

14時頃長崎神社に着いたが、神社の周辺には長い行列が出来ていた。200~300人位並んでいるのだろうか。神社に年始参りするための行列だ。本殿に到着するのに恐らく1時間近く待たなければならないだろう。

IMG_6002_edited_convert_20100101160855.jpg 神社の外から鳥居までの人の列

IMG_6014_edited_convert_20100101161140.jpg 拝殿に並ぶ列

本殿の横に舞台があって、神楽が奏でられ、それに合わせて舞が披露されていた。正月ならではの風景だ。境内ではおみくじや破魔矢などを売っており、屋台も出ていた。お祭りのときと違って全体的に静かで、皆お参りが目的で並んで順番を待っている。お参りが終ったら足早に去っていく。

IMG_6012_edited_convert_20100101161054.jpg 神楽の舞

金剛院(真言宗豊山派)

長崎神社の隣が金剛院でそちらにも寄ってみた。何人かの参拝客がいたがやはり正月は神社がメインだ。ただ金剛院では、1月1日から3日間、秘仏の三面大黒天を開帳するということだ。秘仏と聞くと見てみたくなる。

15  14
 金剛寺本堂                              三面大黒天 

三面大黒天は、真ん中に大黒天、向かって右に弁財天、左に毘沙門天の三神が合体した最強の守護神だという。一度の拝観で七福神三体分のご利益があると伝えられている。

大黒天は富や出世、繁栄をもたらす招福・金運の神、弁財天は弁舌や学問、知識、音楽、技芸の功徳をもたらす芸能・学術・商売の神、毘沙門天は四天王の中で多聞天ともいわれる最強の神で、富や財宝、不老長寿、戦勝、無病息災をもたらす財宝・戦勝の神だ。三面大黒天は、日本では遣唐使として中国で学んだ伝教大師 最澄が最初に日本に取り入れ、比叡山に祀ったとされる由緒ある守護神だそうだ。

その秘仏三面大黒天を見て、後は境内を巡った。金剛院はそれ程広くない境内に色々と史跡がある。境内に入る前に長崎不動尊、道標地蔵尊があり、赤門を潜るとすぐ左に弘法大師修行像、大師堂、四国八十八ヶ所お砂踏み参拝所がある。正面に本堂があり、その周辺に鐘楼堂、馬頭観音碑、智観比丘尼の碑、六地蔵、宝篋印塔、仏舎利塔、板碑、庚申供養塔、木石など様々な史跡が点在し、歴史の流れを感じさせてくれる。

IMG_6016_edited_convert_20100101161249.jpg 長崎不動尊

IMG_6018_convert_20100103094038.jpg 弘法大師像

IMG_6022_edited_convert_20100101161331.jpg 一蓮托生地蔵尊

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がん治療とは長く細い道を辿ら
なければならない。その先に希
望があると信じながら。

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