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伊坂幸太郎 『オーデュボンの祈り』

2月26日(金)
伊坂幸太郎は『重力ピエロ』を最初に読んだ。交錯した人間関係と謎解きの面白さに興味を引かれた。『陽気なギャングが地球を回す』『陽気なギャングの日常と襲撃』は軽妙な物語展開の速さで、痛快娯楽小説として飽きることなく読み進められた。その外『魔王』や『グラスホッパー』などを読んだが、彼の最初の作品である『オーデュボンの祈り』は今まで読む機会が無かった。

5181_convert_20100226180109.jpgSTORY:コンビニ強盗に失敗し逃走していた伊藤は、気付くと見知らぬ島にいた。江戸以来外界から遮断されている“荻島”には、妙な人間ばかりが住んでいた。嘘しか言わない画家、「島の法律として」殺人を許された男、人語を操り「未来が見える」優午というカカシ。次の日カカシが殺される。無残にもバラバラにされ、頭を持ち去られて。未来を見通せるはずのカカシは、なぜ自分の死を阻止出来なかったのか?(「BOOK」データベースより)

「オーデュボンの話を聞きなさい」という優午からの最後のメッセージを手掛かりに、伊藤は、その優午の死の真相に迫っていく。そしてまた住民から聞いた「この島には、大切なものが最初から欠けている」という謎の言い伝えは何なのか。案山子の死と言い伝えの真相を伊藤は追っていく。

作者がこの架空の島を舞台として二つの視点で彼の世界観の構築を試みようとしているように思う。架空の閉ざされた島を舞台にすることによって作者の訴えたいことがより具体的に表現されている。一つはリョコウバトの絶滅の話だ。

ジョン・ジェームズ・オーデュボンは19世紀『アメリカの鳥』などの画集を出した植物学者だ。リョコウバトは、20億羽の群れで空を覆いながら飛ぶ鳥だった。人間はひたすら殺し続けた。1878年の「パトスキーの虐殺」では1ケ月に10億羽のリョウコウバトが虐殺され300トンの死骸が出た。そして1914年最後のリョコウバトが動物園で死んだ。

「人間ってのは失わないと、ことの大きさに気がつかない」「失ったものは二度と戻らない」作者は島の運命を暗示するようにリョコウバトの運命を語らせる。

もう一つは優午という案山子が語る未来についてだ。「未来を断定するには細かいことを知っている必要があるのです。そして遠くはなれた将来のことになればなるほど、ディテールは把握しにくくなります」

この言葉から伊藤は、カオス理論について言及する。カオス理論とは初期値鋭敏性ゆえに、ある時点における無限の精度の情報が必要であるうえ、数値解析の過程で出る誤差によっても、得られる値と真の値とのずれが次第に大きくなっていく。小さな要素の組み合わせでも未来に大きな影響を与える以上、正確な未来予想は不可能という事である、初期値のわずかな違いが未来の状態に大きな違いをもたらす。

カオス理論の表現としてバタフライ効果という言葉が用いられる。これは「カオスな系では、初期条件のわずかな差が時間とともに拡大して、結果に大きな違いをもたらす。そしてそれは予測不可能」ということの一つの表現である。この言葉はエドワード・ローレンツの「ブラジルでの蝶の羽ばたきはテキサスでトルネードを引き起こすか」に由来する。

優午という案山子が訴えたかったのは、未来は決定されているのではなく島の人達の意思によってどのようにでも変えられるということ、そのために自分にわかっているといわれている未来を語ることは出来ない、ということなのだ。「良くも悪しくも世界には大きな流れがあって、それには誰も逆らえない」ことがあるのかもしれない。しかし完全に予測できる未来など存在しない。時の流れを自ら選択し、運命を切り開いていくことは出来る。

伊藤の辿りついた非現実的な島、そしてそこで暮らす不可思議な登場人物たちの生活が、本文を読み進めていくうちに、日常的な世界として受け止められてくる。この外界から遮断された島の不条理さと、対比しているのが、仙台という一つの現実世界だろう。そしてそこで存在感を放つのが、伊藤の行方を執拗に追う悪徳警察官、城山である。

こういった虚構と現実を巧みに織り交ぜ、本格ミステリーの仕掛けも盛り込み、最後にパズルの断片が一つずつつなぎ合わされ、そこから真実の浮かび上がってくる筆致は見事という外ない。
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テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

MOLTALの演奏

2月21日(日)
 立教通りを池袋方面から来て山手通りとの交差点を渡り最初の路地を左に曲がると、目的地の『バレンタイン』というバーに着く。3坪位の広さで、カウンターには椅子が10個ばかり並んでいる。その外に丸テーブルが3個置いてあり壁際に椅子が5、6脚ある。家からだと自転車で5分ちょっとで行ける。

バーなどという所は、そもそも全く縁がない。バーでシングル1杯500~1000円とかのウイスキーなどもったいなくて飲む気はしない。飲むなら居酒屋に限られている。

19時から、『バレンタイン』で長男とN君二人で作っているMOLTALというバンドのライブをやるということで出かけた。「スイッチ・スタイル」というハードロックバンドもやっているが、MOLTALはアコースティックギター2台で演奏するので、ギターさえあればどこでも手軽に演奏できるという便利さがある。

着いた時には空いていたが、徐々に込み始め、演奏が始まる頃には、25~6人近く来て、全員立っていたがかなり窮屈だった。19時30分から30分ずつ4組が演奏することになっている。

 最初は、ミュージカルの歌手をしているという男性が、フォークギターを演奏しながら自作のフォークソングを4、5曲歌った。普段歌っているのだろう。声量も音程もしっかりとして非常に聞きやすかった。ただバーでの演奏ということでいささか雰囲気に合わなかったことは否めない。

MOLTALの最初の3曲NUTSHELL、BROTHER、HVEN BESIDE YOUはAlice in Chainsの曲をアコースティックギター2台用に編曲してカバーしたものだ。次の曲はRodrigo y Gabrielaというフラメンコギター奏者がメタリカのORIONをカバーしたものを演奏した。

Rodrigo y Gabrielaは女性と男性の2人のグループで、男性がピックで主旋律を演奏し、女性がリズムギターを受け持つが、この女性の演奏がすごい。ギターを弾きながら、ギターのボディをパーカッションとして使いこなしている。ギターの共鳴板を叩く時に平手、指、拳と曲想によって変化をつけ、それによって曲にリズム感を与え奥行きと厚みを作り上げている。

 このフラメンコのギター奏者の演奏をカバーするにはなかなか大変だ。もちろん彼女のパーカッションの技法を真似する事など到底出来ないだろう。演奏の技術的な面でもなかなか高度なものがある。

何といってもこの数ケ月家にいる時は部屋にこもってこの曲をひたすら練習していた。その成果を見に行くというのも今日の目的の一つだ。

なかなか迫力がありいい演奏だった。聞きに来たかいがあったというものだ。最後の曲は佐々木睦写真展のイベントで彼の映像をバックにして演奏したORENGEというオリジナル曲だった。イベントの時はもう1人のメンバーN君が体調を壊して参加できず、1人の演奏になったが、今回は二人での演奏だったので両者のギターのハーモニーを十分満喫する事が出来た。

バーを利用したということで狭い場所だったが、こういった気軽に演奏でき、来るほうも気楽に寄れるような演奏会が開催されることはいいことだ。近場なのでまたやってもらいたいものだ。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

池上梅園

2月20日(土)
池上梅園
土曜日だということもあるのだろう。梅園はかなりの人混みでごった返していた。ゆっくりと梅を楽しむといった雰囲気ではないがそれは止むを得ないだろう。何時だって花が盛りの時には人が集まるのは当然のことだ。

池上梅園は丘陵の斜面等を利用した庭園。北側は戦前まで日本画家伊東深水氏の自宅兼アトリエ(月白山荘)だったが戦災で焼失した。戦後料亭経営者小倉氏が南側半分を拡張、別邸として使用していた。小倉氏没後、東京都に譲渡され、昭和53年(1978)大田区に移管された。

大田区では、紅梅を中心に植林・整備拡張をすすめ、昭和53年8月に開園し、面積は8500平米(約2500坪)。園内には、梅が30種、約370本(白梅150本、紅梅220本)植えられている。また、50本のボタン、800株のつつじをはじめ、スモモ、栗、柿など50種500余本の樹木があり、四季折々の花を楽しむことが出来る。

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狭い石段を登ると展望台があり、そこからは咲き誇る梅の木々が丘の斜面を鮮やかな色彩に染めている情景を見る事が出来る。さらに梅園の全景と第2京浜、都営浅草線の高架、池上、馬込の町並みが見渡せる。

日本庭園
梅園は梅を楽しむ場所ではあるが、庭園としても面白みのある作りになっている。庭園内には2つの茶室がある。「清月庵」は、伊東深水のアトリエを設計した川尻善治氏が、大正時代池上門前の自宅に建てた離れであった。また「聴雨庵」は、政治家藤山愛一郎氏の所有だったが、昭和58年(1983)に区に寄贈された。

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「聴雨庵」の近くに「水琴窟」があり、画面手前の竹筒に耳を寄せると、幽かな澄んだ音が聞こえてくる。園路を挟んで 「聴雨庵」の反対側には池を配した和室がある。茶室、庭石、灯ろう、池、苔などを庭内に配置し日本庭園としても整備されている。

梅園を30分ばかり散策して、帰りは都営浅草線の西馬込駅から帰ることにした。ここからの方が東急の池上駅よりは五反田に近い。

(参考資料:大田区立池上梅園パンフレット・大森まちなみ維持課刊)

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

日蓮宗 池上本門寺

2月20日(土)
寒い日が続いていたが、今日は久しぶりのお出掛け日和だ。そろそろ梅も満開の時期を迎えるだろう。ネットで「花の名所案内・ウメ」の所を見てみると、東京都で10ケ所紹介されていた。行った事がなくて比較的近い「池上梅園」に行く事にした。梅園に行く前に、日蓮宗大本山池上本門寺を訪れてみることにした。

山手線で五反田まで行き、そこから東急池上線に乗り換えて20分位で池上駅に着く。「本門寺通り」というアーチをくぐり、商店街の曲がりくねった道を10分位行くと、川の袂に「南無妙法蓮華経」と書いた大きな石柱が建っている。その石柱の脇を通り川渡ると池上本門寺の総門に着く。

池上本門寺 (日蓮宗大本山・長栄山)

縁起:日蓮聖人が弘安5年(1282)10月61歳で入滅(臨終)された霊跡である。日蓮聖人は、弘安5年9月、9年間棲みなれた身延山に別れを告げ、病気療養のため常陸の湯に向かわれ、その途中武蔵国池上の郷主・池上宗仲公の館で亡くなられた。大檀越の池上宗仲公が約7万坪の寺域を寄進され、お寺の礎が築かれたので、以来「池上本門寺」と呼ばれている。

総門

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五重塔、大宝塔、経蔵などと共に、昭和20年4月15日の戦災を免れた数少ない古建築の一棟として重要である。昔から世に知られ、安藤広重の『江戸百景』や『江戸近郊八景』にも描かれているという古いものだ。総門を潜ると行く手を阻むように急な階段がある。階段の脇に早咲きの桜(河津桜)が満開の花を咲かせ周囲の雰囲気を明るくしている。急階段の横には傾斜の緩い階段がある。男坂、女坂といった感じだ。

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仁王門(山門)

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階段を上りきると目の前に威風堂々たる仁王門が立っている。この門は空襲で灰燼に帰し、三門は昭和52年に再建、仁王尊は同54年に新造された。三門は山門とも称されるが、正式には三解脱門の略。中心伽藍へ入る重要な門であり、三種の解脱(さとり)を求める者だけが通れるというが、もはやそれは殆どの参拝客にとって意味をもたない。

大堂(祖師堂)

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仁王門をくぐると本堂である大堂が澄み切った冬空にくっきりと姿を浮かべている。見事な建造物であるが、大堂は一旦空襲で灰燼に帰したが、全国の檀信徒ならびに関係寺院等からの浄財寄進を得て、昭和39年、ようやく鉄筋コンクリート造の大堂として再建したというものだ。しかしかっての大堂の姿を思わせる威厳に満ちている。

旧大堂は、慶長11年(1606)法華信者として有名な加藤清正公が、慈母の七回忌追善供養のために建立、間口25間の堂々たる大建築であった。その壮観さを江戸の人々は「池上の大堂」と称し、これに対して、上野(寛永寺)は中堂、芝(増上寺)は小堂と呼んだというほどのものであったという。

大堂に並んで、左側に日朝堂、鐘楼、霊宝堂、経堂が並び、右側には町栄堂がある。この中で、経堂は大田区文化財となっている。江戸時代・天明4年(1784)建立、方三間宝形造、裳階付ゆえ外見は方五間二重屋根となっている貴重な建物だということだ。

,池上本門字028_edited_convert_20100221232736 本門寺の境内、大堂より仁王門方面

,池上本門字029_edited_convert_20100221232814 経堂

本殿と御廟所

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ここで境内は終わりだと思っていたら、境内地図には奥のほうにまだ建物がある。大堂の裏の駐車場を通り、道路を渡ると本殿が石畳の先に見える。本殿もまた空襲で灰燼に帰した釈迦堂を再建したものである。さらにその奥の御廟所は、築地塀で囲んだ浄域にあり、宗祖日蓮聖人の御灰骨を奉安する墓塔を廟堂内中央に祀ってある場所である。

五重塔と力道山の墓

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再び大堂に戻り、五重塔に行く。ここだけが何故か離れた場所にある。五重塔は関東に4基現存する幕末以前の五重塔のうち一番古い塔であるといわれている。五重塔の周辺は墓所になっていて、色々と由緒ある墓があるらしいがそれはボランティアの解説者を頼めば説明してくれるだろうが、あまりそういったことには興味はない。

「力道山の墓」の方向を示す看板が何箇所かにあった。力道山は小学校の時、鉄人ルーテーズとの試合を白黒の街頭テレビで見た記憶があって懐かしい気がした。そこで墓の前まで行った。彼の胸像がありなかなか雰囲気が似ているなと感心した。いまだファンがいるのだろうか、墓には大きな花束が添えられていた。

池上本門寺を後にして池上梅園に向う。総門から梅園の向う道路の両側には寺院が並んでいる。理境院、覚源院、南之院、厳定院、西之院、実相寺がある。この寺院は本門寺を取り囲むように建てられている。日蓮宗の寺院が集まって来たのだろう。

(参考資料:池上本門寺ホームページ)

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

生老病死

2月18日(木)
デキサート(デキサメタゾン)の点滴をした夜は、ステロイドの副作用としての覚醒作用でサリドマイドを飲んではいるがなかなか寝付けない。眠るのが無理だと思っているから遅くまで起きている。バッハの「平均律クラビア曲集」を聞きながら「いのちの授業」のM氏の原稿を読んでいる。その中で「生老病死」という言葉が書かれていた。

辞書には「四苦は生老病死、つまり生物として避けられない必然的な苦しみであり、八苦はそれに四苦をプラスしたものである。すなわち、愛別離苦(愛するものとはいつか必ず別離せねばならぬ)・怨憎会苦(いやな人や事件に会わねばならぬ)・求不得苦(欲しいものが思うように手に入らぬ)・五蘊盛苦(身心を形づくる五つの要素から盛んに起こるもろもろの痛恨事)」と書いてあった。

M氏の原稿から勝手に引用させてもらう。「生老病死」を数字で表してある。
「生」・・1946年の270万人をピークに、現在109万人
     人口ピークは、2006年の12774千人
「老」・・65歳以上、22%  (0から14歳)13%
「病」・・がん罹患者数63万人
「死」・・1975年の70万人がミニマム。現在の年間死亡者数114万人
     人口10万人当たり、全がん…267人 血液腫瘍…17人
     2008年にがんで死亡した人は342,963人


このような統計数字は、普通の人にとって全く意味を持たないのは確かだ。しかしがんを宣告され治療を継続している患者にとって生老病死という言葉は限りない意味を持つだろう。

「生」 死を垣間見た時、生きていることその事自体が意味を持ってくる。生きていることが感動を与え、世の中を見る目が変わって来る。

「老」
 年齢を重ねる事に何の問題があるのだろうか。がんを宣告された事によって否が応でも自分の残りの人生をどうやって生きていこうとするのか選択ざるを得ず、自覚を持って生きていける。

「病」
 ガンになって今までの人生を捉え返し見直していく転機となっていく。社会的なくび木から離れ自己自身と向き合い新たな人生を歩む事が出来る。

「死」
 死は恐ろしいイメージがあるが誰も経験した事がない。死を語ることは出来ない。今の人生を精一杯生きれば死はむしろ成就の結末であって苦ではない。がんになってむしろ漫然と生きてきた人生を見直し、限りあり人生を自覚することによってそれは可能になるだろう。

永平寺の門前の石碑に刻まれていた道元の言葉を思い出した。「春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪さえて、すずしかりけり」 あるがまま生きること、これが人が生きることの本質だと思った。それで悟り啓こうとは思わないが、ガン患者としてはがんになったということを受け入れ、それと共存する位の気持ちで人生を生きていく以外ないだろう。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

定期検診の日

2月17日(水)
2週間一度の定期健診の日。血液検査の結果は以下のとおり。

検査結果
 IgM   1493(2/17)←1670(2/3)←1586(1/27)←1630(1/21)
 白血球  2700(2/17)←1900(2/10)←1700(2/3) ←1500(1/27)
 好中球  1400←660←680←450
 血小板  8.0←8.8←8.3←10.0
 赤血球  313←337←319←327
 ヘモグロビン 10.6←11.5←11.1←11.3
 網赤血球   24←19←18←16

 IgG  178(2/17)←203(2009/9/2)←326(2009/5/14)←609(2008/11/26)
 IgA  <10(2/17)←<10(2009/9/2)←30(2008/11/26)


IgMの数値が下がって白血球の数値が上昇した。ひとまず安心だ。医者も私も前回IgMが上昇傾向を見せていたので今回上がっているのではないかと思っていた。下がっていたので今までの療法をそのまま継続し、白血球の状態から考えて、明日からエンドキサン(シクロホスファミド)50mgを4日間服用する事になった。

4年半近くの付き合いになる担当医がため息をついて言った。「レブリミド(レナリドマイド)が4月か5月に承認されるといわれているが、薬価基準収載などあり販売、使用開始になるまで今から半年位は見ておかなければならない。その間どういった方法があるか考える必要がある。今回IgM下がったのでしばらくはいいが、上がったらどうしようかと思っていた。WMや骨髄腫の患者の中で免疫グロブリン(Mタンパク)の増加・上昇が極めて早く、さらに薬物耐性の早期の発現で治療法を次々と考えなければならない例は始めてだ。」

医者の苦労は十分分かるつもりだ。骨髄腫の患者の例だが、この間通院治療センターで隣に座った人は血小板減少も末梢神経障害もなくベルケイドを1年半使用していると言った。また入院して最初からベルケイドを使い1ケ月入院して1クール行い、その後通院でベルケイド療法を続け以前と同じように仕事をしている。

1つの薬が長く効果を続けてくれれば医者は楽だ。あらゆる薬が効かなくなれば医者はお手上げだ。担当医と協力しながら治療法を模索していく旅に出ているようなものだ。気長に探し続けていく外ない。

久しぶりのIgGとIgAを検査した。去年の9月から測っていない。9月の時も、IgGが203だったので免疫グロブリン製剤を点滴した。9月から今まで検査していなかった時期は大丈夫だったのだろうかと思う。何事もなかったのは確かだ。

2時間の点滴をそうたびたびやられたくはないのでIgGの検査をせっつくのも考えものだと思ってしまう。2時間の免疫グロブリン製剤の点滴があったので、病院を出たのが16時30分を回ってしまった。実際には診療に5分、サレドカプセルの薬剤師による説明が5分、点滴に3時間半かかった。後4時間近くが待ち時間というわけだ。

もはや薄暗くなりかけた時間になって「北区のさんぽみち」の散策はあきらめる他なかった。朝8時過ぎに家を出て、18時少し前に戻った時には、座りっぱなしの1日仕事だったとはいえどっと疲れを感じた。

治療で使用した点滴薬

▽ベルケイド(ボルテゾミブ)2.1mg/生食2.1ml、生食10mlフラッシュ用。
 点滴用管の側管に生理食塩水用注射器とベルケイド用注射器を刺し、ベルケイド注射の前後に生理食塩水を注射する。
▽デキサート(デキサメタゾン・デカドロンのジェネリック)33mg/生食50ml
 1時間かけて点滴静注。
▽ゾメタ4mg/生食100ml
 30分かけて点滴静注、腎臓の負担を考えて15分以上かけることになっている。最初は1時間かけていたが最近は30分で行っている。
▽免疫グロブリン製剤・日赤ポリグロビンN注5% (5.0g製剤 100mL)
 2時間かけて点滴静注

処方された薬

サレドカプセル(サリドマイド)100mg、バルトレックス500mg(帯状疱疹予防薬)、バファリン81mg(静脈血栓症予防薬)、バクタ400mg(感染症、カリニ肺炎予防)、フルコナゾールカプセル100mg(抗真菌剤)、ベザトールSR200mg(高脂血症薬)、コートリル10mg(ステロイド剤)、オメプラール10mg1日2錠服用(胃薬)

医療費請求額
投薬 123,990 サレドカプセル(サリドマイド)2週間分14錠 92,570 その他上記薬 31,420
注射 206,020 内訳:ベルケイド=112,120 ゾメタ=38,320 免疫グロブリン製剤=44,880 デキサート(注)=10,700
再診基本料 700  血液検査 2,950
医療費合計 333,660 支払額 100,100

2006年薬価基準収載にはベルケイド3mg1瓶の薬価が168,348円となっていた。これをいつも使用している。そうなると合計額が合わないので計算すると実際かかったベルケイドの価格は112,120円となった。しかしそれにしても1日で33万円も使ってしまうとは何という治療だと思う。

注:富士製薬のジェネリック薬品デキサートは10,700円で、先発の万有製薬のデカドロンは同量で20,300円となっている。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

柴又帝釈天、矢切りの渡し

2月14日(日)
新松戸に住んでいる友人の所に15時頃訪問する事になっていた。朝起きると外は快晴で、春のように暖かい日差しだった。松戸近くの郊外を散歩するのもいいだろうと考えながら、ふと帝釈天のことを思いついた。金町で降りて、柴又帝釈天と矢切の渡しに寄っていく事にした。「私、生まれも育ちも葛飾柴又、帝釈天の産湯を使い・・・」の寅さんの口上で有名な帝釈天だ。

参道と仲見世
西日暮里で千代田線に乗り換えて、金町で降り京成線で一つ目の柴又で降りるとすぐ目の前に“帝釈天参道”というアーチがかかっている。そこから仲見世が続いている。寅さんの映画の主要な舞台となっている仲見世の見学も一つの目的だ。

柴又003_edited_convert_20100215101413 帝釈天参道入口

仲見世の三十数軒ある店は、食事処、土産物店、甘味処、あられ・せんべい店、草団子、くず餅、飴屋、漬物・佃煮店など手作りが特徴の店が多い。川千家という店は川魚料理、鰻などで有名だということを後で聞いた。草団子が名物らしく幾つかの店で売っていて、食べながら歩いている人も何人か見かけた。参道入口から帝釈天まではすぐで、参道の正面に二天門が姿を現す。

柴又帝釈天(日蓮宗・経栄山題経寺)

今から300年程前の寛永年間に開創されたと伝わる。千葉県中山法華経寺の門末。境内には、総欅造りの二天門や大鐘楼、帝釈堂などがある。帝釈堂正面に瑞龍の松があり、天井には龍の画が描かれ、奥に毘沙門天像や板本尊が収められ、喜見城(内殿)の外周面は法華経説話を表す欅材の木彫群に囲まれている。そして奥には桧造りの大客殿と邃渓園がある。

二天門、帝釈堂、祖師堂

二天門の古色蒼然とした佇まいに歴史の重みを感ずる。柱上の貫などある浮き彫りの装飾彫刻の精巧さにも目を奪われる。この門は明治29年(1896年)の建立された入母屋造瓦葺の楼門で、屋根には唐破風と千鳥破風を付していて、一層目の左右には四天王のうちの増長天および広目天の二天を安置している。

柴又023_edited_convert_20100215101717 二天門

二天門をくぐると帝釈堂が境内正面に位置している。帝釈堂の前には「瑞龍の松」が枝を広げている。手前の拝殿と奥の内殿から成り、内殿には帝釈天の板本尊を安置し、左右に四天王のうちの持国天と多聞天(毘沙門天)を安置している。

柴又008_edited_convert_20100215101459 瑞龍の松と帝釈堂 

帝釈堂の内殿は彫刻ギャラリーとして保存のためガラスの建物に収められていて見学は、庭園、大客殿と合わせて有料となっている。帝釈堂内殿の外部は東・北・西の全面が装飾彫刻で覆われており、中でも胴羽目板の法華経説話の浮き彫り10面が見事である。

これは法華経に説かれる代表的な説話10話を選び視覚化したもので、大正11年(1922年)から昭和9年(1934年)にかけて、加藤寅之助ら10人の彫刻師が1面ずつ分担制作したというもので、その緻密さ、精巧さは当時の彫刻技術の高さと、彫刻家の熱意を感じさせるものであった。

柴又021_edited_convert_20100215101645 胴羽目板の法華経説話の浮き彫り

帝釈堂の隣に本堂がある。祖師堂と呼ばれている。あまり目立たないが、祖師堂が日蓮宗寺院としての本来の本堂であり、本尊は大曼荼羅である。

柴又014_edited_convert_20100215101611 本堂(祖師堂)

大客殿と邃渓園(すいけいえん)
帝釈堂、祖師堂の裏に大客殿がある。昭和4年の完成。東京都の選定歴史的建造物になっている。座敷4室は左右1列に並んでいる。一室には雛人形の壇飾りが置いてある。部屋の手前には庭に面しガラス障子を立て込んだ廊下がある。庭園を眺めるのに最適な位置には物見台が設けられている。そこではテーブルと長い椅子が置かれ、お茶の無料サービスを行っている。

座敷のうちもっとも奥に位置する「頂経の間」の「南天の床柱」は、日本一のものといわれ、直径30センチ、滋賀県の伊吹山にあった樹齢約1500年の南天の自然木を使用したものである。

邃渓園は大客殿前に広がる池泉式庭園で、昭和40年(1965年)完成。向島の庭師永井楽山の設計による。楽山は戦前からこの庭作りを手がけ92歳で没するまで手をかけていった。庭の周囲には屋根付きの廊下が設けられそこを周遊しながら鑑賞する事ができる。大客殿と庭園が冬の暖かい陽だまりの中に横たわり、その穏やかな安らぎに身を任せたいといった気分にさせてくれる。

柴又017_edited_convert_20100215101538 邃渓園と大客殿

矢切りの渡し
帝釈天を後にして矢切りの渡しに向う。5分位で江戸川の堤防が見える。堤防を越えると広い河川敷が広がっている。この河川敷は京葉道路まで続いていて広い面積を生かして運動場、野球場、緑地、公園等に使われている。

矢切りの渡しは都内に残された唯一の「渡し」で、現在は渡しとしての役割はもはやなく、観光用に土日祭日に運行している。舟は江戸川を対岸まで渡る。情緒豊かな手漕ぎ舟だが、この舟にはモーターもついている。少し興ざめだが、これは流れが早かったり、風が強かったりした時に使うそうだ。

柴又036_edited_convert_20100215101827 矢切りの渡しの船着場

舟に乗っている時間は5分位なものだ。真冬とは思えない暖かな日だったので、舟に乗っていっても全く寒さを感じなかった。これは本当に幸運だという気がした。対岸の船着場の周辺には土産物屋あるが、他に何もないので、来た舟で引き返す以外ない。夏だったら、冷たい飲料水やビールなども売っているのだろう。木陰でゆったりとビールでも飲みながら時間を過ごすのもいいかもしれない。

時間があったので矢切りの渡しから、水戸街道まで川沿いを歩いていった。ジョギングのための遊歩道があり、自転車用に作られた「江戸川サイクリング道路」が堤防に沿って延々と続いている。ゆっくりと川沿いを歩き20分位で水戸街道にぶつかる。金町駅には水戸街道沿いに行くと10分位で着く。

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ももの木患者家族交流会

2月13日(土)
2ケ月一度のももの木の交流会が行われた。雪が降り気温が急激に下がり外に足を踏み出すのにも抵抗を感じるほどの寒さだったこともあるのか参加者は少なかった。しかしある話題で盛り上がった。

ももの木の理事の田中医師をモデルにした漫画が『フォア・ミセス』という月間漫画雑誌に掲載されたのだ。漫画家は横谷順子さんで、CFCプロジェクトが発行したコスモスノートの『ももの木・いのちの授業』に挿絵を描いてくれた人だ。

その関係で横谷さんと田中医師が知り合い、田中医師の話を聞くうちに彼の体験を漫画にしようと思い立ち、さらに詳しい取材をし、また患者の何人かとも話をしてそれを3篇の漫画として『フォア・ミセス』3月号に100ページ掲載する事になった。題名は『泣き虫ドクター』。宣伝のコピーは次のように書いてあった。

02642.jpeg 感動物語の名手、渾身の大長編カラー
 100P

 横谷順子
 泣き虫ドクター
 誰よりも患者さんに近いドクターでありたい…。そう願う中田医師は!?


横谷さんは、漫画の中の最初のエピソード『伝説のパスモ』に書かれている話に感動して、今回の漫画を書き始めたという。この中に出てくる話は、全て血液ガンの患者に起こった実話に基づいている。そういった意味でかなり身につまされる場面が登場する。

『伝説のパスモ』の最初の場面は、主人公中田医師がパスモを探す場面から始まる。そのカードは、ある患者から送られたものなのだ。その青年は、治療の結果、寛解状態に至り退院する事になった。長期入院していた青年は、中田医師にパスモというカードが出たらしいが、それを買うんだと話していた。

何ヶ月か経ってその青年の就職先がやっと見つかり、最終の面接試験を明日に控えた日、病状が悪化し病院に担ぎ込まれた。とても次の日の面接には行けず就職は不可能になった。病気は進行し青年は中田医師にもう使う事もないといってパスモを渡した。彼はそれを受け取らざるを得なかった。そのカードの持つ重い意味を感じ、未だそのカード使うことが出来ない。

このような血液ガンの患者の生き様を横谷さんは丁寧に描いている。がん患者を扱ったドラマを見る機会は多いが、漫画では初めてだった。登場する患者の中には知った人もいるし、中田医師もルックス的には田中医師とは全く似ていないが、性格や雰囲気は掴んでいる。そういった意味で身近な出来事として受け止められ親近感のある漫画として読む事が出来た。

がんになり自分の今までの人生のレールを大きく踏み外し、新たな道を切り平きながら生きていかなければならない患者は一人一人ドラマを持っている。それは苛酷ではあるが一つの物語を否が応でも作り出しているのである。『泣き虫ドクター』の評判がよければ連載するという。

田中医師は20冊も買って皆に配ったということだ。雑誌の出版社秋田書店の編集部に連載依頼の便りを出そうと皆で言い合った。

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石田衣良 『4TEEN』

2月11日(木)
石田衣良の『池袋ウエストゲートパーク』を7巻まで一気に読んでしまった。主人公マコトの優しさと、人を思いやる心は、人がお互いを蹴倒しあい自分のことだけを主張しあっている世の中で、一陣の涼しい風が頬に当たるような爽快感を感じさせる。

41G1_convert_20100211172517.jpg石田衣良の『4TEEN』という本があった。これを次に読む事にした。以前読んだ『40フォーティー・翼再び』も面白かったが、14歳の子供たちをどのように捉えるのか興味があった。「いのちに授業」の対象となっている小学校6年生は12歳、14歳の子供たちとの共通点があるかもしれない。この小説はテツローという主人公とダイ、ジュン、ナオトの3人の仲間が繰り広げる物語だ。場所は月島、主人公たちは月島中学の2年生。

この小説の中で特に印象に残ったのは「月の草」という短編だった。「月の草」の内容は、登校拒否になった女生徒立原ルミナをめぐる物語だ。月島中学では登校拒否になった生徒に週2回学校通信や宿題のプリントを届ける事になっていた。たまたまテツローのマンションがルミナの住んでいるマンションの隣だということで彼が配達する事になった。彼女は摂食障害で拒食症と多食症を繰り返している。身長は150cm、体重は41プラスマイナス16キロ。

最初は太っている自分を見せるのを恥ずかしがって姿を表さなかったが、表れた時にはがりがりに痩せていた。何回かプリントを届けにいくうちルミナは段々とテツローに心を開いてくる。今度は猛烈に食べ始める。やがて再び登校する事になった。その最初の日、テツローはルミナと一緒に学校に付き添っていく。途中で何時も一緒行く仲間3人と待ち合わせる。テツローは三人に、彼女のことを付き合っているんだと紹介する。

最初は緊張していたようだが、ルミナは普通に授業を受ける。周囲の視線もそれ程気にならないようだった。事件が起こったのは昼休みだった。ルミナはかばんの中からジャンボサイズのシュークリームを取り出し、次々と口の中に入れ始めた。6個食べ終わり周囲を見回すと「冷蔵庫で凍らせた針のようなクラスメートの視線」にさらされていた。

それからルミナはその昼休み2度目の致命的な失敗を犯してしまった。今食べたばかりのシュークリームを全て机の上に吐き出してしまったのだ。男子生徒は息を飲み、女子生徒の何人かは悲鳴を上げてその場から飛び下がった。

ここからが石田衣良の人の本当の優しさとは何かを訴える重要な場面になる。テツローはしびれたように固まってしまった。

最初に動いたのはダイだった。「立原だいじょうぶか?おれもたまに食い過ぎると胃の調子がおかしくなることがある」といいながらルミナの口を首にかけていたタオルで乱暴にぬぐってやる。

ナオトはジャージの上着を持って机に駆け寄ると、生クリームとシューの切れ端が混ざる白い山にかぶせ、さっさと覆ってしまう。机の上をぬぐうように器用に丸め込むとそれをゴミ箱に捨てに行くため教室を出て行った。

ジュンはテツローの肩に手おく。「先生には連絡しておく、彼女を家まで送ってやれよ」そして「彼女にいってくれ。明日の朝、また西仲通りで待ってるって。一緒に学校に行こうってな」と付け加えた。

「ぼくは言葉にならない程うれしかった。ジュンの台詞とダイとナオトの行動が臆病なぼくに勇気を与えてくれた。」立原ルミナは次の日、皆と一緒に学校に行った。未だ拒食症と多食症を繰り返し体重は増えたり減ったりしているが何とか学校には通っている。

人はいかにして他人の痛みを受け止める事が出来るのか。ナオトは早老症(ウエルナー症候群)という病気だ。人の何倍もの速度で年を取っていく病気で、そのせいで髪が白くなり、顔や手や首筋にしわがある。自分の痛みを人は中々他人の痛みとして受け止めることは難しい。しかしナオトはあたり前のように行動に移していく。

ダイは太っていて大食いだ。だから多食症の人の心が理解できるのかもしれない。しかしジュンもそうだが、4人の仲間意識が仲間の1人の大切な人が困っている状況を見過ごせないという強い思いがあったのだろう。

人との絆の大切さ、他人への優しさ、思いやりの心こういったことは教育で与えられるものではない。それこそ仲間とのつながりの中でお互いを認め合う心の中で成長していくのだろう。

いじめにあったり、自分の特異な性癖のため登校拒否になる生徒が多い。登校拒否生徒は全国の中学校で50万人いるという。同じクラスでただ一人でもその人を支えてくれる友人や仲間がいれば登校拒否にはならなかっただろう。全くの孤立感が人を一切の人間関係から切断していき、そして引きこもりにまで至ってしまうのだ。

『4TEEN』に登場する4人は全くの普通の中学生である。しかしその感性は驚くほど純粋だ。こういった感情は誰でも思っているはずだ。だけど中々それが素直に表現され発揮されない。

「いのちの授業」のアンケートで書かれるいのちについて、他人との関わりについての言葉には溢れるばかりの豊かな感性が表現されている。そういった気持ちが具体的に他人とのかかわりの中であたりまえの行為として発揮されてくれば、学校やクラスの人間関係も大きく変化してくるだろう。思いを行動に移すのはなかなか出来ることではないが、それが当然のこととして出来る環境が必要なのだろう。

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北区のさんぽみち-2 田端周辺コース

2月10日(水)
ベルケイド療法を続けている限りほぼ毎週病院に通う事になる。終るのは早くて13時、14時過ぎになるのが普通だ。家にいると寒いということもあって、おっくうになって中々ウォーキングのための外出に踏み出せない。体はなまってしまうばかりだ。そこで病院の帰りに歩こうと思って近場で探すことにした。

どこの区の観光協会でも散歩コースの紹介をしている。北区にもあった。「北区観光ホームページ」に「北区のさんぽみち」というコーナーがある。そこでは北区の観光スポットをつなぎながら散策する10のモデルコースとその周辺を紹介している。

田端エリア     ・・・ 約60分  王子・堀船エリア ・・・ 約67分   王子・十条エリア・・・ 約69分
王子・西ヶ原エリア・・・ 約36分  王子・滝野川エリア・・・ 約72分  王子・豊島エリア・・・ 約70分  
赤羽・志茂エリア ・・・ 約65分  赤羽・西が丘エリア・・・ 約76分   
赤羽・十条エリア ・・・ 約37分  浮間エリア     ・・・ 約62分

これらのコースであれば回る時間も短いし、病院の帰りに寄るのに丁度いい。田端駅から京浜東北線に乗れば10分位で行ける。これからは病院の帰りの楽しみとして1ケ所づつ回る事にしよう。今日は一番近い田端エリアを回る事にした。点滴が終わったのが驚くべきほど早く12時前に病院を出る事が出来た。この位診療と点滴が早く終ると体がかなり楽だ。 

田端エリアの見所スポットと、モデルコースの紹介には次のように書かれていた。「いにしえの文人や芸術家たちに想いを馳せながら記念館や寺院をめぐるルートです。田端には大正から昭和にかけて、芥川龍之介、菊池寛、萩原朔太郎など近代文学を代表するような文士や、陶芸家板谷波山、洋画家・歌人 小杉放庵など多くの芸術家たちが集まり、日本のモンマルトルとも呼ばれていました。」

田端エリアの散歩コース
与楽寺・賊除地蔵尊の伝承地→東覚寺→下田端八幡神社→上田端八幡神社→大龍寺→富士見橋エコー広場館→田端文士村記念館→田端ふれあい橋→東灌森稲荷神社→田端駅


通常コースは田端駅から回るのだが、病院からだから逆周りだ。病院から田端駅に向う時、何時も帰りに通っている道の左右に観光スポットがある。意識しなければ存在しないのと同じだ。

病院から動坂を下り不忍通を渡り、昔川だった谷田川通を突っ切り田端に向う。赤紙仁王通を右に曲がって与楽寺坂を下ると、10分位で最初の与楽寺に着く。小さな通りにまでよく名前を付けたなあと思う。最近はどこの神社や寺院に行っても区の教育委員会がアルミのしっかりした看板を入口に設け、その縁起の説明書があって分り易い。

与楽寺(真言宗豊山派・宝珠山与楽寺)
江戸時代には20石の朱印高を拝領した。六阿弥陀参詣の第4番札所。阿弥陀如来は女人成仏の本尊。境内には、密教の思想を表した南北朝時代の四面に仏を浮彫りにした南北朝時代の石の仏塔(四面四仏石塔屋)や、江戸時代の巡拝塔、廻国供養塔などがある。また与楽寺は賊除地蔵尊の伝承地となっている。

賊除地蔵尊の伝承地・賊除け地蔵伝説
新編武蔵風土記稿には「・・・昔当寺へある夜賊押入し時、いづくともなく数多の僧出で、賊を防ぎ、遂に追退けたり。翌朝本尊の足泥に汚れありしかば、是より賊除の地蔵と号すと伝ふ」とある。

田端コース002_edited_convert_20100210211228 与楽寺本堂

田端コース004_convert_20100210211312 阿弥陀堂

元の道に戻ると、道路に面して東覚寺がある。道路の拡張工事のため場所を後退したため、山門と不動堂は新しく建て替えられた。白木の新品なので趣に欠けるのは止むを得ない。仁王像には隙間なく赤紙が張られ、どんな形をしていたか全く分らない。

東覚寺(真言宗豊山派・白龍山東覚寺)
不動堂前にある一対の仁王像は、「赤紙仁王」と呼ばれている。「赤紙仁王」は、寛永18年(1641年)に僧・宗海が疫病を鎮めるために建てたといわれる石の金剛力士立像で、 病のある場所と同じ部位に赤紙を貼って祈願すると病気が治るといわれ、病気の癒えた人はわらじを奉納するならわしがある。

田端コース012_edited_convert_20100210211431 赤紙が張られた仁王像

田端コース010_edited_convert_20100210211359 仁王像の写真

田端コース016_edited_convert_20100210211508 東覚寺本堂

東覚寺に並ぶように下田端八幡神社がある。田端は、江戸時代には田端村と呼ばれ、村内は上田端と下田端という二つの地域に分かれていた。各々の地域には、鎮守の八幡神社が祀られていた。この八幡神社は東覚寺が別当となっていた。そこから10分くらい歩くと上田端八幡神社があり、ここは上田端の村人の鎮守で、大龍寺が別当寺を勤めていた。この神社の隣が大龍寺である。

田端コース020_edited_convert_20100210211544 下田端八幡神社

田端コース027_convert_20100210211735 上田端八幡神社

大龍寺(真言宗霊雲寺派)
大龍寺の創建は不明。慶長年間(1596-1615)に不動院浄仙寺が荒廃していたのを、天明年間(1781-1789)になって湯島霊雲寺光海の高足光顕が中興して、大龍寺と改称したと伝えられている。本堂わきの墓地には、俳人・正岡子規、宮廷音楽家・E・H・ハウス、陶芸家・板谷波山、柔道の横山作次郎などの墓がある。

kitaku.jpg 大龍寺本堂

大龍寺から八幡坂通を田端高台通まで出て、リサイクルに関する情報提供などを行っている、北区の地域リサイクルの活動拠点である「富士見橋エコー広場館」の前を通り、田端駅に向って5分程歩くと、1993年に完成した田端のランドマークである19階建てのタワーに着く。

このタワーは19階建てだが田端駅周辺には高い建物がないので病室からもよく見えたし、目立つ建物だ。この地に住んだ陶芸家・板谷波山の「飛鳥山焼」にちなみ「アスカタワー」と名付けられた。田端文士村記念館はアスカタワーの一階にある。田端駅は病院に行く時には必ず通る駅だ。その目の前に記念館があるとは全く知らなかった。

記念館の中央にはテレビが設置されていて、文士村案内や芥川龍之介など4種類のビデオが用意されていて、4つのどれかのスイッチを押すと放映されるようになっている。それぞれ12、3分のものだ。展示物としては田端に集った画家、陶芸家、文士たちの絵画、陶芸、本や書き物、昔の写真などが並んでいる。

田端文士村記念館
田端は明治の中頃、雑木林や田畑の広がる閑静な農村だった。 明治22年、上野に東京美術学校(現、芸大)が開校されると、若い芸術家が次第に集まるようになった。明治33年に小杉放庵、36年に板谷波山が移り住むと、吉田三郎(彫刻家)、香取秀真(鋳金家)、 山本鼎(洋画家)らが 次々と田端に住むようになり、親睦団体「ポプラ倶楽部」も生まれ、明治末期には 芸術家による「芸術村」のようになった。

そこへ、大正3年に芥川龍之介、5年に室生犀星が田端に住み始め、彼らの文士としての名声が高まるにつれ、萩原朔太郎、堀辰雄、菊池寛、中野重治らも田端に移り住むようになり、大正から昭和の初めにかけて田端は「文士村」となった。

田端コース033_edited_convert_20100210212031 記念館の建物

田端駅を左に見て線路を挟んで反対側に行く事になる。田端の北側には30年位前に友人が住んでいて一度行っただけで全く覚えていない。橋は山手線、京浜東北線や田端操車場をまたいでいる。橋が途切れ急な階段を下りすぐに小学校があり、その横に小さな神社がある。昔は五百有余坪の広さでかなり賑わいを見せていたが、鉄道の建設や、道路整備で移転を繰り返し現在のようになったようだ。

田端ふれあい橋
旧田端大橋は昭和10(1935)年に架設された突桁式下路版桁三径間ゲルバー式溶接橋で、造船技術を生かし全部溶接で造られた橋で東洋一を誇った。この田端大橋の老朽化に伴い、その北側に新田端大橋が開通。それによって平成4年、旧田端大橋は駅前広場と憩いの場を兼ね備えた歩行者専用の橋になった。

田端コース034_edited_convert_20100210212105 橋の中央にある希望の鐘

東灌森稲荷神社
入り口の石鳥居は吉原遊郭の尾張屋彦太郎が奉納したもので、江戸下町の信仰を受け、かなりの参詣者があったと伝えられている。なぜ新吉原の人に信者があったかというと、足抜けした遊女がこの辺に来て疲れ、失敗した例が多かったので、別に足留め稲荷とも称された。

大田道灌が江戸城築城の際、方除けの守護神として、江戸周辺に七つの稲荷社を祀ったと伝えられている。即ち、柳森稲荷社、烏森稲荷社、杉の森稲荷社、雀の森稲荷社、吾嬬森稲社、宮戸の森稲荷社、それにこの東灌森稲荷社である。

田端コース036_edited_convert_20100210212249 東灌森稲荷神社の社

「参考資料:北区観光ホームページ(北区地域振興部産業振興課観光係)」

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臨時検診・ベルケイド2クール3回目

2月10日(水)
ベルケイド第2クール3回目静注、デカドロンの点滴。血液検査の結果は以下のとおり。

検査結果
 白血球   1900(2/10)←1700(2/3)←1500(1/27)←2100(1/21)
 好中球   660←680←450←540
 血小板   8.8←8.3←10.0←7.0
 赤血球   337←319←327←304
 ヘモグロビン 11.5←11.1←11.3←10.2
 網赤血球   19←18←16←21


IgMの検査は2週間一度は保険適用になるがそれ以上は自費になる。この間便宜を図ってもらって毎週検査していた。今週からはさすがに2週間一度に戻した。今回は血算の検査だけだった。白血球は上昇しているが、好中球が全く上昇していない。基準値では白血球の45~70%位なのだか3分の1位しかない。

これではとてもエンドキサン(シクロホスファミド)の服用は不可能だ。本来サリドマイド、ベルケイド、デカドロンにプラスして、月50mgを4日間服用する事になっていた。エンドキサンの効果を期待できないとなると、IgMの上昇の可能性はかなり高い。

具体的な方針は、来週IgMの数値を見て決めるが、上昇していた場合には、サリドマイドを半分にして、エンドキサンを服用するようにしたらどうかという話が出た。サリドマイドによる骨髄抑制を軽減して、その代わりエンドキサンを投与するというものだ。私の場合にはアルキル化剤は効果的治療薬だが、その代わり骨髄抑制が極めて強い。

治療の最初の頃は、化学療法としてVAD療法を行い、アドリアマイシン(ドキソルビシン)やオンコビン(ビンクリスチン)などを使っても殆ど骨髄抑制はなかった。MP療法でも白血球への影響はあまり見られなかった。しかし最近はアルケラン(メルファラン)もエンドキサンも即骨髄に影響を与える。

2005年12月から、2度移植での大量抗がん剤の使用を挟んで、既に4年以上抗がん剤を体に投入し続けている。正常細胞の産生能力が衰退してくるのもいたしかたがないのだろう。レブリミド(レナリドマイド)が保険適用になるまで半年位どうやってつないでいくか思案のし所だ。

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昔の友人S氏の事

2月7日(日)
何年かぶりに、同年配の友人と飲みに行った。共通の友人S氏の話題になった。もう7、8年会っておらずどうしているのかなと思っていた。S氏は私が付き合っていた頃は、業界新聞の記者をしていた。5年位前にやめて一時議員秘書をやっていて、その後タクシーの運転手をしているといった噂は聞いた事があった。それ以降どうしているか全く知らなかった。

入院して人と会う機会も限られ情報のルートが狭まってしまっていた。体調の問題や感染症の恐れなどで退院後もあまり外出しなかったせいもある。入院以前は仕事があまりにも忙しく、職場と家との往復で、仕事以外の人間関係からは完全に切断された生活をしていた。こういった状態だったので、S氏の現状を聞いて驚くことばかりだった。

友人はS氏のことを話し始めた。S氏は1年ほど前、大腿動脈の動脈瘤が破裂して手術を受けた。その手術はうまくいき少し片足を引きずるようになったが、日常生活には問題なかった。昔から彼は酒好きだったのは確かだ。飲みに行くと朝までつき合わされた。彼の身に何があったのか分らない。タクシー運転手になってから不規則な勤務形態も影響しているだろう。アルコール依存症が急速に進行していた。

大腿動脈瘤の手術から半年後、脳動脈瘤が破裂した。脳組織への出血(脳内出血)を起こし、脳卒中を来した。彼は意識を失い病院に担ぎ込まれたが、そのまま意識を取り戻すことはなかった。現在も植物人間のままベッドに横たわっている。半年以上眠り続けている。誰が呼びかけても何の反応もない。

友人はS氏のアパートを引き払うために、彼のアパートに行き鍵を開けて驚愕した。6畳と4畳半の部屋は70~80cm位のごみで埋め尽くされていた。何年も一切片付けることをしていない状態だった。缶や壜、発砲スチロールの食器が、部屋中に転がっている。結局、部屋は不用品回収業者に頼んで片付けてもらったということだ。

「彼は生きることを放棄していた」と友人は言った。元気な時のS氏しか知らない。一体彼はどのような煩悶を抱えていたのだろう。自分が壊れていくのを止める術もなく、意識を失うほどアルコールを浴びて心の闇を忘れようとしたのか。

彼は大腿動脈瘤の手術後、自分の将来の姿が見えたのだろうか。死を求めたが、死に切れず植物人間になってしまったのだろうか。彼に意識があれば運命の皮肉を痛い思いで噛締めているだろう。同じ時代を生きた友人の運命は自分の現状を映し出す鏡のようなもので重く深い意味を突きつけてくる。

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神田明神、湯島聖堂

2月3日(水)
神田明神
湯島天神を後にして、御茶ノ水方面に向かう。清水坂を下り蔵前通りを突っ切り、本郷通りを左折すると神田明神の大鳥居が聳える。そこから仲見世通りあり、左右に5,6件店が並んでいる。鳥居の下の所の甘酒屋の前に人が集まっていた。天野屋という有名店らしい。「この明神甘酒は、当店の地下6mの天然の創業当時からの土室より作り出される糀をもとに、さらに手を加えて生成し熟成を待って作り上げられたものです」と書いてあった。

随神門をくぐると境内が広がっていて、目の前に神殿が鮮やかな朱色の雄姿を見せる。神田明神では14時から豆まきをやったらしいが、時間的には無理だった。境内の右側には神楽殿があり、5月には狂言、能の舞台があるようだ。左側には大国尊像、恵比寿尊像があり、鳳凰殿 の1階は神札授与所・参集所、休憩室となっている。

湯島天満宮038_edited_convert_20100205122028 随神門

湯島天満宮055_edited_convert_20100205122827 神殿

神田明神の正式名称は神田神社という。神田、日本橋、秋葉原、大手丸の内、旧神田市場、築地魚市場など108町会の総氏神で、祭神は3柱あり、一ノ宮:大己貴命(大国)、二ノ宮:少彦名命(恵比寿)、三ノ宮:平将門神(平将門)である。

730年に創建された。江戸の大規模な造成のため、元和2年(1616)には江戸城の表鬼門にあたる現在地に移転し、江戸総鎮守に相応しい壮麗な桃山風の社殿が幕府により築かれた。そして江戸三大祭りの一つ神田祭は天下一の祭礼としての意味をこめ、天下祭(御用祭)とも呼びならわされ、江戸市中を挙げての祭礼として盛大に執り行われた。当時は、華麗な山車が延々と36台以上も続いて江戸城に入り、将軍をはじめ大奥の女性に至るまでが上覧し、贅を尽くした祭礼は二年に一度の風物詩であった。

神殿の裏を回ってみると幾つかの碑があり、ずらっと神社が並んでいる。銭形平次の碑、国学発祥の碑、籠祖神社、末廣稲荷神社、三宿・金刀比羅神社、浦安稲荷神社、江戸神社、大伝馬町八雲神社、小舟町八雲神社、水神社(魚河岸水神社)といった具合だ。

江戸周辺の神社を集めて、神田明神に来れば全て御参りできるという訳だ。こういった神社の集め方は興味深い。しかしこのように並べられてもあまりご利益を感じられない。神田明神の目の前に湯島聖堂がある。寄ってみる事にした。

湯島天満宮052_convert_20100205122729  湯島天満宮051_edited_convert_20100205122635  湯島天満宮050_edited_convert_20100205122549
 銭形平次の碑            籠祖神社              末廣稲荷神社           


湯島天満宮049_edited_convert_20100205122512  湯島天満宮047_edited_convert_20100205122423  湯島天満宮046_edited_convert_20100205122347
 三宿・金刀比羅神社        浦安稲荷神社            江戸神社


湯島天満宮045_edited_convert_20100205122312  湯島天満宮044_edited_convert_20100205122234  湯島天満宮043_edited_convert_20100205122152
 大伝馬町八雲神社         小舟町八雲神社          水神社(魚河岸水神社)


湯島聖堂
1690年(元禄3年)、徳川五代将軍綱吉は儒学の振興を図るため、林羅山の上野忍が岡(現在の上野恩賜公園)の私邸内に建てた孔子廟「先聖殿」を移築し、先聖殿を「大成殿」と改称し、またそれに付属する建物を含めて「聖堂」と呼ぶように改めた。これが湯島聖堂の始まりで、その後およそ100年を経た1797年(寛政9年)幕府直轄学校として「昌平坂学問所」を開設した。

湯島天満宮066_edited_convert_20100205123554 聖堂入口

湯島天満宮060_edited_convert_20100205122906 大成殿

湯島聖堂構内に飾られている世界最大の孔子像は、1975年(昭和50年)に中華民国台北ライオンズクラブから寄贈されたものである。

湯島天満宮063_edited_convert_20100205123016 孔子像 


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湯島天神・節分行事

2月3日(水)
定期検診、点滴、薬の処方が終わり病院を出たのが14時頃だった。今日は2月3日節分の日だ。長い間、日本の風習には無関心でいた。年齢を重ねたせいだろうか、時間があるせいだろうか、たぶん両方だと思うが、またウオーキングで神社仏閣巡りを重ねたことが心に残っているのか、日本の風俗習慣に興味を感じるようになって来た。最近読んでいる時代小説の影響が濃厚だと思う。そういったことで神社で行われる節分行事はどんなものだろうかと思った。

All Aboutに「節分」の解説があった。
“節分は季節の分かれ目である「立春、立夏、立秋、立冬の前日」のことをいい、年に4回ありますが、これが室町時代あたりから立春の前日だけをさすようになりました。なぜなら、春を迎えることが新しい年を迎えることでもあったため、最も重要だったからです。旧暦では、立春の前日(2月4日)の節分は、大晦日に相当する大切な節目で、一年の邪気をすべて祓ってしまう鬼払いの儀式が必要となったのです。

古代中国では、大晦日に「追儺(ついな)」という邪気祓いの行事がありました。これが奈良時代に日本に伝わり、平安時代に宮中行事として取り入れられました。その行事のひとつ「豆打ち」の名残が「豆まき」で、江戸時代に庶民の間に広がりました。こうして、新年を幸多き年にするために、災いをもたらす鬼を追い払う節分行事が定着していきました。”

こういったことを頭に入れて、病院に近いところで節分行事をやっているところを探したら湯島天神で15時30分からやるという記事を見つけた。時間的にも丁度いい。もしかしたら梅が少しは咲いているのではないかという期待もあった。

湯島天満宮034_edited_convert_20100203222845 表鳥居(都指定有形文化財・都内最古)

湯島天満宮004_edited_convert_20100203222520 本殿

湯島天神の境内はかなりの人込みだった。梅は残念ながら白梅が一本咲いているだけだった。梅祭りも2月8日からだし、去年2月21日に来て咲いていなかったのだから当然といえば当然だが。

湯島天満宮002_edited_convert_20100203222630 唯一咲いていた白梅

湯島天神は学問の神様として知られる菅原道真公を祀っているということで、特に受験シーズンは合格祈願に参拝に来る受験生で賑わうというが、今日は節分行事で受験生だか豆まきを見に来た人か分らない。この神社の節分行事には500~1000名が集まると書いてあった。実際には何人ぐらいいたのか検討がつかない。

豆まきの前に湯島天神の女子太鼓隊の勇壮な太鼓の響きが境内に響き渡った。それが終ると同時に豆まきが開始された。太鼓隊「湯島の白梅」は女子全国大会で優勝したということだ。

湯島天満宮015_convert_20100203225508 「湯島の白梅」の太鼓演奏

神社の豆まきには色々な芸能人が参加する。漫才のコンビや、どういう関係か分らないがイチローのお兄さんが参加した。しかしメインは日本レコード大賞新人賞を受賞した4人組ガールズロックバンドSCANDALだろう。4人は新曲「瞬間センチメンタル」の“ヒット祈願豆まき”を行った。彼女たちはかみしもを着てステージに立ち、参拝客やファンに「福は内」と豆をまいた。

湯島天満宮021_edited_convert_20100203224713 豆まきの風景

豆まきは15分位続いた。福豆の小袋もあるが、大部分は餅、お菓子の詰め合わせなどで、みかんなどまかれた。前にいる人はかなりの収穫だろうが、後ろまで飛ばないので手に入れることは出来なかった。もらってもしょうがないが、福を受け取るという縁起物だと思ってあり難く受け取るべきなのだろう。

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定期健診の日・ベルケイド2クール2回目

2月3日(水)
2週間一度の定期健診の日。ベルケイド第2クール2回目静注、デカドロンの点滴、G-CSF・グランの皮下注射を行う。
血液検査の結果は以下のとおり。

検査結果
 IgM    1670(2/3)←1586(1/27)←1630(1/21)←2132(1/14)
 白血球   1700←1500←2100←1600
 好中球   680←450←540←650
 リンパ球  610←660←1130←600
 血小板   8.3←10.0←7.0←7.5
 赤血球   319←327←304←336
 ヘモグロビン 11.1←11.3←10.2←11.3
 網赤血球   18←16←21←19←13

 総コレステロール   266←254←251←270 (基準値125~255)
 中性脂肪値   242←163←180←372 (基準値30~150)


IgMが若干増加した。好中球は680と上昇したが、この状態だとまだエンドキサン(シクロホスファミド)の服用は無理だ。このまま上昇しなければいいのだが。次の治療を考える所まではきていないが、大分前に同じ病気の狂四郎さんのブログで読んだ記事を思い出した。

「シルデナフィル(バイアグラ)は、特定の種類のがんの生存に必要な幾つかのタンパク質の機能をブロックします。検査ではそれがマクログロブリン血症細胞を破壊することが出来ることを示しました」というものだ。キャンサーネットに掲載されていたいうからかなり信頼できる情報だろう。

医者にこのことを話した。もちろんこれはこれは処方してくれという要請ではなく、ほとんど四方山話として言っただけだ。IgMの数値が上がったの下がったの、好中球の状態はどうのこうのという頭の痛くなる話ばかりだから、少し冗談を交えた話をして気分をほぐそうと思っただけだ。

医者は「へえ~、バイアグラがWMにきくとは知らなかった調べてみよう。しかしバイアグラは狭心症の治療薬としては承認されているが他の病気では個人輸入する外ない」と言った。まあバイアグラを治療薬として使うこともないだろうが、薬というものは思わぬ効果を発揮することがあり、色々な可能性を秘めているので、これからの研究には大いに期待が持てるということだ。

総コレステロールと中性脂肪値が上昇している。もう大丈夫だろうと思って今日は朝食を食べてきた。そのまま数値に跳ね返っている。高脂血症治療薬ベザトールSRはかなり長い間の飲み続けている。デカドロンの量は減らせないから、食事でなるべく脂肪を控えるように心がける以外にない。

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石田衣良 『池袋ウエストゲートパークⅤ』

2月2日(火)
51_convert_20110113225137.jpg 石田衣良の『池袋ウエストゲートパーク』を読み続けている。池袋は私にとってどこに行くにしても起点となっている。西武池袋線の椎名町や東長崎周辺にもう35年位住み続けている。今でこそ、有楽町線や大江戸線さらに副都心線を利用する事もあるが、最近までは必ず池袋を経由していたし、買い物はほぼ全て池袋で済ませていた。

そういった意味で小説の舞台になっている西口公園始め池袋駅周辺の地理にはかなり詳しい。西口公園をウエストゲイトパークと読み方を変えただけで、地図上の場所ではなく異質の空間をイメージせるから不思議だ。池袋が舞台という珍しい小説なのだが、出てくる場所のほとんどに心当たりがあるので親近感を持って読み進めることが出来る。

 『池袋ウエストゲートパークⅤ』に「反自殺クラブ」が収録されている。物語は、続発する集団自殺を呼びかけるネットのクモ男の正体を見つけ出し、集団自殺を阻止しようとする「反自殺クラブ」に主人公が協力する話だ。

この主人公マコトが語る自殺についての意見が中々鋭い所をついているので紹介したい。

(君は自分のことを最低というけれど)最低でもいいじゃないか。最低でもぜんぜんかまわないよ。誰かがそばにいるとなにもしなくても雰囲気が変わるだろ。なにか立派なことをするから、生きている価値があるじゃない。最低でもくだらなくても・・・そこにいるだけで、人間って風とか光りなんかを周囲にだしてるんだ。君の最低を見てくれる人がいて、そいつを頼りにする人もいる。おれたちはみんな最低でいいんだよ。

今夜(自殺者を)助けたのは二人だけかもしれない。だけどあいつらの親や友人の悲しみをなくしたのはあんたたちだし、あの二人がいつか作るかもしれない家族のことを考えたら、新しい命を何人も助けているかも知れない。いのちはひとつじゃないだろ、それは無限に広がって、全ての命とつながる可能性だってある。だから命は尊いのだ。それはひとつで、すべてなのだ。

「反自殺クラブ」の中の言葉を読んで、「いのちの授業」のアンケートにあった言葉を思い出した。それは「命は大事で親から受けたバトンみたいなものだから、バトンを次の人に渡す事が必要だと思う」というものだ。「いのちはバトン・つないでいくもの」この言葉は多くの意味を持っているように思う。

 自殺者数は2000年に年間3万人になってから10年間下がることはない。こういった状況の中で小学校でも「いのち」の問題に取り組もうといった動きが道徳授業に力を入れるという形で出てきているのは確かである。「いのちの授業」もその中にあるのだろう。

「いのちの授業」の事前アンケートに「“いのち”や“死”について、あなたが思っていることを、自由に書いて下さい」という質問がある。その中で目に付いたのがあった。子供たちの問題意識の鋭さに驚かされる。

「死ぬ」よりも「生きる」方が怖いんじゃないかと、時々迷う事があります。でもこういうことを考える時、今どうしてこういうことを考えているのかを考えます。そうするとなんか前向きになった気分になります。だから「死ぬ」とか「生きる」とかを考えるよりも、まずどうやって自分の「いのち」を大切にできるかを考えていきたいといつも思います。

何で人は生きているんだろう、どうせ死ぬんだから・・と考えることがあります。私は希望を持ち、協力し、笑いあい、泣きあい、喜びあい・・様々な感情の中で自分たちが明るい未来をどうやって残し、生きがいを探せるか、そして子孫を残せるかに意味があるような気がします。

生きている事も死ぬことも怖いです。でも何もない死よりも生きている時は楽しい事もあります。“無”が一番怖いです。命がある限り生み出すことが出来ます。生み出せば無ではないです。生きている限り、様々なものを創り出していきたいです。

僕の頭の中では「死」は恐れや怖さの感情でした。だから暗黒と同じ意味の言葉でした。しかし、「死」とは全く逆の意味を表しているのではないかと思いました。ヒトには死がある。だから命は限られている。つまり「死」はそれを気がつかせてくれる唯一の言葉ではないか。僕には夢があります。限りある命でその夢をかなえるため一歩づつ歩こうと思います。

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マイケル・ジャクソン『THIS IS IT』

2月1日(月)
51BQ2_convert_20100507190905.jpg マイケル・ジャクソンのDVD『THIS IS IT』が面白いから見てみたらと勧められた。マイケル・ジャクソンの音楽はきちんと聴いた事もない。テレビで流れているのを聞き流した事がある位だ。音楽のジャンル的にも違った感じだ。ともかくみてみる事にした。発売と同時に爆発的に売れたそうだ。このDVDとBlu-rayの初日売上げが総額16.1億円になった、とオリコンが発表している。

2009年3月、マイケル・ジャクソンはロンドンのO2アリーナで、コンサート公演『THIS IS IT』を行うことを表明し、7月13日から翌年3月までに全50公演の開催を予定していた。しかし公演の直前、6月25日にマイケルが急死した。

『THIS IS IT』の映画は、そのロンドン公演のリハーサル映像を中心に構成されている。リハーサルは5月から6月にかけて、ザ・フォーラムとステイプルズ・センターで行われたものだ。2009年4月からマイケルの亡くなる2日前までのリハーサル映像が使用される。

音楽には好き嫌いもあるし、自分の感性に一致するものは中々ない。確かにマイケル・ジャクソンの音楽にそれ程惹かれるものを感じたわけではない。しかし映画の素晴らしさはそこではなく、公演のステージを完璧なものとして作り上げようとする彼の情熱と能力に感動を覚えざるを得なかった。

彼を今まで単なる歌手としてしか見ていなかった。この映画で彼の全貌が明らかにされている。作詞、作曲をし歌うだけではない、あらゆる楽器に精通しミュージシャンへの事細かな注文をしながら、さらにダンスの振り付けを考えそれを指導する、また舞台装置への関与、舞台の背景に映し出す映像の製作など、映像への指示、指導まで行っていく。そこには舞台監督、映画監督としての彼の才能を感じさせる。映像の内容、使用や展開を見ていると彼の幅広い感性のあり方が分るような気がする。そういった彼に協力する優秀なスタッフを取りまとめる能力も優れたものを持っている。

あらゆるジャンルへの鋭い感性と的確な知識によってスタッフを指導していく、歌手であり、舞台監督であり、ダンサーであり、まさに総合芸術家といえるだろう。コンサートを創り上げる過程で自らを進化させていくマイケル・ジャクソンの姿が映し出されていく。

偉大なスターであり最高のエンターテイナーであると同時に、才能あふれるアーティストである彼の舞台づくりが丁寧に映画の中で映し出される。完璧を期する表現者としての彼自身、照明、美術、ステージ上で流れるビデオ映像にまでこだわり、偉大なアーティストとしての才能を復帰ステージに賭けながら、歌やダンスの猛特訓は死の直前まで繰り返されていた。

彼のダンスの進化についての文章があった。“「スリラー」の頃には縦と横の激しい動きが出始め、プロのダンサーたちとの競演も始まった。この頃マイケルは技術的に様々なものを修得しており、フィギュアスケートのようなスピードのある回転技術も修得した。体の様々な動きをダンスに取り入れることで、完成されたダンスを披露できるようになった。「デンジャラス」の頃には非常に速いダンスも出来るようになった。その後もラテン系のダンスなど様々なジャンルのダンスを取り入れることによって、年齢による体力の衰えを感じさせないパフォーマンスをしている。”

絶えず自らを進化させ、自らの肉体への苛酷なまでの鍛錬を欠かさなかった彼の姿勢は、『THIS IS IT』の映画の中での、公演にかける彼の情熱の中に見る事が出来る。彼のことをマスコミで報道されている華やかなスキャンダルの色眼鏡で見てしまいがちだが、この映画は彼の芸術家としての姿をはっきりと映し出している。

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がん治療とは長く細い道を辿ら
なければならない。その先に希
望があると信じながら。

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