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定期検診の日・ベルケイド3クール3回目

3月31日(水)
血算関係の血液検査は2週間ぶりだが、IgMは3週間ぶりの検査となった。上昇は止むを得ないと思っていたがどの程度の上昇かが問題だった。

検査結果
  IgM   2038(3/31)←1617(3/10)←1557(3/3)←1493(2/17)
 白血球  3600(3/31)←5100(3/17)←4200(3/10)←9000(3/3)
 好中球  2230←3630←2890←7460
 血小板  15.3←14.6←17.6←15.5
 赤血球  317←330←317←323
 ヘモグロビン 10.7←11.4←11.1←11.1
 網赤血球   11←10←12←17
 CRP  1.9←2.1←4.6←9.1


先週ベルケイド3クール3回目の静注をするはずだったが、担当医が学会に出かけるということで、他の医者に頼むかどうか迷ったが、結局ベルケイド療法は中止となった。1週間空けての3回目だった。

3月3日に発熱したため、本来3クール1回目をやる予定だったが、それが中止になり、2クールから3クールの間が予定では1週間の休薬であったが2週の間が空いてしまった。そして先週の1週間の空きがあった。

先週1週間とその前の2週間のブランクがIgMにどのような影響を与えるのかが注目された。もちろんいい訳がないのは十分予想された。3週間の上昇は421であった。医者は「次の療法がなかなか思い付かない。レブリミド(レナリドマイド)が使用できるようになるまで、今行なっている併用療法でもたせる他ない」と言っている。

今回のIgMの上昇はベルケイドの効果が減少してきたのか、薬の投与の間隔の問題か(2~3クールの間が2週あった、先週1週空けた)、薬の量の問題か(治療で使用しているのはデキサート33mgだが、これはデカドロン20mgに相当する、標準治療ではデカドロン40mgを使用する)恐らく全てが関係しているのだろう。

2007年10月からベルケイド+デカドロンを行った時も効果の持続は4、5ケ月だった。IgM上昇の要因は幾つかあるだろうが、薬の効果の減少は否めない事実だ。レブリミドが使用できるまでのつなぎとして次の療法を考える必要があるだろう。
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テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

上野公園・寛永寺

3月30日(火)
区役所の国民健康保険課に高額医療費の手続きに行った。医療費は44,400円を確実に越える事になるから毎月行くことになる。通知は22日頃来る。月末までに手続きをしなければならない。区役所まで行くのに時間がかかる人や、体調が思わしくない人は結構負担になるのではないか。

久しぶりに晴れ少しは気温も高くなりそうだ。最近歩いていないので少し運動が必要だ。桜の開花情報で都内では上野公園が一番早い。よく行く上野なのだが名所旧跡に関しては一度も訪れた事がない。桜見物と寛永寺関連名所を巡ってみる事にした。

上野駅を公園口で降りると、すごい人混みだった。皆桜見物だろう。上野公園の方には行かず、線路沿いを国立科学博物館の脇を歩いていく。すぐに寛永寺輪王殿と書いた表示が目に入る。輪王殿の入口は少し先に行った開山堂の山門となっている。

寛永寺輪王殿
輪王殿の門となっているのは旧本坊表門で、重要文化財となっている。江戸時代寛永寺本坊の規模は3,500坪(約11.5ha)という壮大なものであったが、慶応4年(1868)5月の上野戦争によってことごとく焼失し、表門のみ戦火を免れ今にその姿を残しているという貴重なものだ。輪王殿は新しく作られた建物で、斎場・セレモニーホールとして使用されている。

寛永寺008_edited_convert_20100330182534 旧本坊表門

寛永寺012_edited_convert_20100330182616 輪王殿

寛永寺沿革:
徳川家康の意を受けた僧天海は、寛永元年(1624)寛永寺創建に着手する。上野が選ばれた理由は、江戸城鬼門に当たり、幕府の鎮護の地として京都の比叡山になぞらえ、またそのたもとの琵琶湖に不忍池を見立てたからだという。つまり天台宗本山延暦寺と対抗できる関東の天台宗本山寛永寺を造営し、幕府の天台宗制覇を実現する意図があった。徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であり、徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠る。

開山堂・両大師
輪王殿の入口は、開山堂の山門となっている。山門を潜ると桜が古い本堂をバックにして見事な調和を見せている。開山堂は正保元年(1644)、寛永寺開山天海僧正の像を安置する堂として建立された。天海僧正は慶安元年(1648)朝廷より慈眼大師の諡号(没後に贈られる号)を受けた。平安時代の高僧慈恵大師良源の像をも安置したため、慈眼大師天海とともに一般には「両大師」と呼ばれる。この建物も重要文化財となっている。

寛永寺013_edited_convert_20100330182429 開山堂

輪王寺の裏の一体に寺院が並んでいる。寛永寺の子院(塔頭)が19あるという。ただの民家のような建物もあるし、コンクリートで出来たマンション風な建物もあり、入口には寺院名が書いてあるのでそれと分るような建物が多い。

徳川家綱霊廟勅額門
子院を巡り、東京国立博物館の裏を歩く。右は寛永寺霊園が続いている。霊園の中ほどに徳川家綱霊廟勅額門がある。これも重要文化財となっている。霊廟は維新後解体されたり、大戦で焼失したりしたが勅額門が残された。

寛永寺031_edited_convert_20100330182714 徳川家綱霊廟勅額門

寛永寺本堂(根本中堂)
寛永寺の第1、第2、第3霊園の脇を歩きながら、寛永寺本堂(根本中堂)に至る。本堂は明治12年(1879)に川越の喜多院の本地堂を移築したもので、寛永15年の建造と伝えられ、すべて素木で造られている。内部構造は中堂造と呼ばれる天台宗独自のもので本尊の薬師如来像が安置されている。

寛永寺060_edited_convert_20100330224725 根本中堂

八万四千体地蔵(浄名院)
寛永寺の本堂を後にして言問通りを渡ると、八万四千体地蔵(浄名院)がある。この寺は斉藤栄のミステリーの中で、観光バスツアーが出てきて、東京不思議巡りのような企画があり、その中に登場する。仇野の念仏寺よりすごいということで見に行きたかった。

縁起:寛文六年(1666)寛永寺36坊の一つとして創健された。地蔵信仰の寺となったのは第38世地蔵比丘妙運和尚の代からである。妙運和尚は一千体の石造地蔵菩薩像建立の発願をたてた。明治9年浄名院に入り、明治12年、さきの一千体の願が満ちると、さらに八万四千体建立の大誓願に進んだ。明治18年には地蔵山総本尊を建立。各地から多数の信者が加わり、地蔵菩薩像の数は増え続けている。

寛永寺068_edited_convert_20100330183434

寛永寺067_edited_convert_20100330183353

徳川慶喜の墓
浄名院を出ると、徳川慶喜の墓と書いた看板が立っていたのでそちらにも行ってみる事にした。歩くのが目的だからどこに行ってもいい。墓は5,600平方メートル余の墓域があり、そこに幾つかの葺石円墳状の墳墓がある。珍しい形の墓だ。その一つが徳川慶喜の墓である。ここは気がついてみると谷中霊園の一画だった。いつの間にか谷中の墓地に踏み込んでいたのだ。

寛永寺071_edited_convert_20100330183316

護国院、黒田記念館、旧因州池田屋敷表門

東京芸術大学まで戻り、その裏にある護国院(国登録有形文化財)に寄ってみた。ここは天海の弟子生順が、釈迦堂の別当寺として開創した。芸大の脇を上野公園の方に向う。黒田記念館(国登録有形文化財)がある。建物は日本の近代洋画の巨匠で、帝国美術院長であつた黒田清輝の遺言により美術奨励事業のため寄付された資金で建てられた。古びたレンガの壁に桜の花が鮮やかに映えていた。

寛永寺037_convert_20100330224259 護国院 

寛永寺034_edited_convert_20100330182846 黒田記念館

東京国立博物館の敷地に旧因州池田屋敷表門(重要文化財)が古めかしい黒ずんだ姿でそれだけ異質な空間に存在するように立っている。因州池田屋敷の表門で丸の内大名小路(現丸の内三丁目に建てられていたものが移築された。

寛永寺056_edited_convert_20100330224638 旧因州池田屋敷表門

桜満開の上野公園
上野公園に戻って来た。ここから人の群れに遭遇する事になる。桜はほぼ満開に近い。平日だろうが昼間だろうが関係ない。ブルーシートを敷きつめお花見は始まっている。桜並木の所は、朝のラッシュアワーのような人の波だ。

寛永寺048_edited_convert_20100330183145

寛永寺053_edited_convert_20100330183234

東照宮は今改築中で中には入れない。唐門のみを見ることができる。そういったことには全く関係なく、参道には屋台が並び、テーブルと長いすが置かれ、多くの参拝客が桜の花の下で屋台の定番メニューをビールや酒と共に堪能している。

東照宮から元寛永寺五重塔が良く見える。この五重塔はもと上野東照宮の一部として建てられ、その後明治になってから寛永寺の所属になった。五重塔の下まで行きたかったが、上野動物園敷地内にあるということで遠くからしか見ることが出来なかった。

寛永寺042_edited_convert_20100330182937 東照宮の唐門

寛永寺046_convert_20100330224455 参道の屋台

寛永寺040_edited_convert_20100330224405 五重塔

やたらに重要文化財や国登録有形文化財が多いコースを回った事になる。最初予定していたのは3ケ所位の寺院だったが、通り道で色々遭遇する。3時間弱歩いた事になり、かなりの運動になっただろう。
(参考資料:寛永寺ホームページ、台東区の名所旧跡)

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病院の差額ベッド代

3月28日(日)
 ももバーで慶応病院に入院して個室に入った人が1日3万円請求されたという話をした。その流れで聖路加病院の高額差額ベッド代が話題になった。血液がんの患者は長期入院を強いられる。入院費の問題は極めて重要だ。

聖路加病院は全て個室である。そのため差額ベッド代が生ずる。最低料金が一泊3万5千円である。1ケ月105万円となる。これが最低で上を見ればきりがない。この高額差額ベッド代は、貧乏人患者を排除するためのものとしか思えない。

聖路加病院は入院を希望してもなかなか部屋が空かないほど流行っている。金持ちは聖路加病院に入りたがる。聖路加病院で子供を生んだというとそれがステータスになるといった話を聞いた。セレブ御用達の病院になってしまった。入院費が高ければ高いほど人が集まると言うのは変な話だが、高額な病室で治療したという事が、自らの権力と地位の証明みたいに考えているのだろうか。金はある所にはあるのだが使い方が信じがたい。

これは化粧品と同じで100円化粧品は売れなくても、同じものを小奇麗なビンに詰めて5000円にすると売れるというのと同じだ。三越に着物を卸している業者と話した事がある。5万円の着物は売れない。同じものを50万円にすると売れる。世の中間違っていると思うが金がある人の気持ちは分らない。ただ高額な施設を利用したり、高価なものを使用し、身にまとうことによって優越感を感じたいだけなのだろう。

 聖路加病院だけの話ではない。慶応病院の個室の差額ベッド代は最低一泊1万2千円で、8万4千円までのランクに分けられている。最低料金の個室は大体空いてないので、3,4万の部屋になる。相部屋を希望しても空きはほとんどなく差額ベッド代を払って個室を選ぶか、ここの病院での治療をあきらめるかを選択する外ない。白血病で慶応病院に入院していた患者が部屋代を払いきれずに都立病院に転院せざるを得なかったという話を聞いた。

『なぜ聖路加に人が集まるのか』(著:福井次矢)のレビューに次のように書かれていた。「保険診療のカネしか払えない貧乏人は診療しない。金持ち患者だけに特化して診療する、これが聖路加のビジネスモデルです」これはある個人の意見だが正鵠を得ている。

 病院も一つの企業である。利潤を生み出さなければ経営は成り立たない。その利潤によって、医療の質を高め、人が集まる、人を育てる病院を作っていくという経営理念を聖路加病院は主張するかもしれない。しかし医療倫理の本質は万人に平等に医療が受けられるシステムを要請しているのである。

町の多くの私立病院が倒産し、公立病院が赤字経営で閉鎖を余儀なくされている現状の中で、医療の公平な提供は国の福祉行政の根幹に関わる問題である。「コンクリートから人へ」のスローガンの実現のためには医療制度の抜本的改革が必要となるだろう。そうでなければ利潤優先型病院が増え「貧乏人は死ね」というアメリカ的医療システムに傾斜していってしまうだろう。

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ももバー

3月26日(金)
 代替療法
2ケ月に一度のももバーがいつもの「楽屋」で行われた。今回は代替療法についての話が出た。参加した40歳過ぎの女性の話からだ。彼女は濾胞性リンパ種の患者で、R-CHOP療法を何クールかやって寛解状態になり、今は半年に一度リツキシマブの単独投与を行っている。

彼女がリンパ腫と診断される少し前に、彼女の夫が肺がんの診断を受けて入院した。肺全体に病巣が広がっていたので手術で取り除くことができず、大量の抗がん剤投与で治療を開始した。うまい具合にがん細胞は縮小し、抗がん剤を徐々に減少させていった。肺にあったがん細胞はやがて消滅した。しかし彼の肺がんの特徴としてやがては再発するだろうと医者に言われた。

退院後、彼はありとあらゆる代替療法に挑戦した。金持ちだったのだろう。1000万円位以上使ったという。とても普通の人には出来ないことだ。特に免疫療法でかなりの金を使ったそうだ。そのためかどうかは全く不明だが肺がんの再発は今の所ない。

ももバーに参加していた田中医師が言う。日本で広く行われている活性リンパ球療法などは確固とした抗腫瘍効果が証明されたことはなく、特に進行がんでの延命効果などは人間レベルではきちんとした症例報告すらない。例えば肺がんであってもすい臓がんであっても、全てのがん患者に対して同じ治療法が通用するわけはない。

効果ある免疫療法が見出されたとしても、それはごく一部のがんにのみ効果が見られるというものでしかない。
白血病でも全てに通用する薬は無い。急性骨髄性白血病でもM0~M7の8種類に分類されている。そのどれかに効くことはあっても白血病全てに効く訳ではない。がんなら何にでも効果があると言われたらそれだけで嘘だと分る。

がんが治癒した場合、自然治癒したのか、医者の処方した抗がん剤が効いたのか、代替療法が効いたのか、相乗効果があったのかそれは分らない。ただ多くの人は、代替療法のコマーシャルに洗脳されているから、代替療法の効果だと信じてしまう。がんになって藁にもすがる思いで代替療法に手を出し財産をはたいてしまったり、玄米菜食で不味い食事を我慢しながら、食の楽しみを犠牲にしてしまっている人もいるだろう。

人の体は十人十色、何が効果的かは判断が付かない。1万人試して一人か二人その療法が効いたと思い込んだ人がいるとすると、その人はうれしくて色々な人に触れ回るし、喜んでその療法に対する広告塔になってくれる。一方99%の効かなかった人は、これも駄目だったのかと次の療法を探す。騒ぎ立てず静かに去っていく。また死んでしまって何も語れない。

ともかく免疫療法が効果的だと宣伝するのは健康食品のセールストークのようなものであって、信用してはいけないということだ。

 MALTリンパ種
もう1人の患者の話で、最初、MALTリンパ種と診断された。初発部位は胃であった。この治療法は胃のピロリ菌を除去する抗菌剤による除菌療法だと言われた。彼女の姉がペニシリン系抗生物質によるショックで命を落としたことがあったので、その方法について躊躇したが、結局行ってショック状態になった。しばらくして、診断が間違っていて濾胞性リンパ種だと分かり、別の治療法になった。

胃のピロリ菌を除去するという方法は、血液がんの治療法としては到底思いつかいないものだ。この治療法は駒込病院の秋山医師が考え付いたものだと田中医師が説明した。MALTリンパ腫の患者に胃薬を処方していたら症状が改善されてきた。

そこで色々試行錯誤を繰り返しながらピロリ菌が胃MALTリンパ腫の主原因だと判断し除菌療法を行いかなりの確率で治癒まで持っていった。柔軟な発想が、ふとしたきっかっけで驚くべきほど効果的な治療法を生み出していくものだと思った。

 ニチさんの塩辛
途中「魚釣りのニチさん」が烏賊の塩辛を持ってきた。昨日釣ったばかりのやり烏賊を早速塩辛にしたということだ。普通はするめ烏賊で作るそうだが、やり烏賊の方が高級だ。彼は「魚釣り会」で生マグロを提供してくれたり、美味しい魚を皆に食べてもらう事を楽しみにしている。

柿の種をつまみにビールを飲んでいたが、塩辛の登場で俄然活気付いた。この塩辛が何とも言えず美味しい。かって食べた塩辛が生臭い感じがして、飲み屋に行っても塩辛は頼むことはなかった。しかしニチさんが持ってきてくれた塩辛は生臭さなど全くなく、内臓の苦味などもなく、さっぱりとして口当たりがいい。

美味しい不味いというのは本当に食材に左右されるのだと思う。新鮮なものや農薬漬けでない食物が手に入れば好き嫌いももっと減っていくだろう。

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N小学校卒業式D校長の話

3月25日(木)
卒業生の皆さんは自分への手紙をポケットに入れていることでしょう。そこには自分の夢とか希望が書かれているはずです。夢とか希望を語れるのは人間だけです。重要なのはどのようにしてそれを実現していくかです。

1年間の道徳授 業の中で、パラリンピック競泳金メダリストの成田選手の話を聞きました。彼女は13歳の時、脊髄炎で両足の自由を失い車椅子生活を送っていましたが、水泳と出会い新しい生き方を見出しました。血液患者コミュニティももの木の血液がんの人の闘病の話も聞きました。限られた命の中で生きることへの感謝の気持ちを伝えてくれたと思います。

また授業で星野富弘さんの事も話しました。彼は大学卒業後、中学校の教諭になりましたがクラブ活動の指導中頸 椎を損傷し、手足の自由を失いましたが、病院入院中、口に筆をくわえて文や絵を書き始めました。その後『花の詩画集』をはじめ、数々の著作を出版するとともに、全国各地やハワイ、ニューヨークなどで「花の詩画展」を開催しています。

こういった3人の話を聞いて皆どう感じたでしょう。人生において、打ちのめされるような大変な試練を受けたのです。人生の試練にこれから至る所で出会うでしょう。これに打ち勝つには本気で自分を鍛えていく他ありません。一歩一歩でもいい、粘り強く自分を作り上げていくことが必要なのです。

皆さんによく言った言葉があります。「あきらめろ」と。この言葉は「あきらめろ=明らめ ろ」であって、がむしゃらに突き進むのではなく、立ち止まり原因を明らかにして次のステップに進む事が重要だという意味です。

この大根を見てください。(本物の大根を取り出す)畑で大根を見ると葉が茂っているのは分りますが、根は見えません。タンポポの写真を見てください。(A3に拡大したタンポポの根の写真を見せる)タンポポは深く根を張ります。1mにも及ぶものもあります。自分の力を蓄える必要があるのです。

胸のポケットにあるのは夢や希望、願いを書いた自分への誓いの手紙です。目標を決めて、自分を鍛え、困難にぶつかった時には「あきらめろ」=原因究明し乗り越えていく。そうすれば夢や希望はきっと実現されるでしょう。

最後に染地小学校の校歌の作詞者でもあるサトウハチローさんの詩を皆さんに送り たいと思います。

「美しく自分を染め上げ て下さい」

赤ちゃんのときは白、誰でも白、どんな人でも白
からだや心がそだって行くのといっしょに
そ の白を美しく染めて行く、染め上げて行く。(中略)

ひとにはやさしく、自分にはきびしく
これをつづけると、白はすばらしい色にな る
ひとをいたわり、自分をきたえる、
これが重なると輝きのある色になる。(中略)

横道はごめんだ、おことわりだ
い そがすにちゃくちゃくと
自分で自分を美しく、より美しく染めあげてください。

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N小学校卒業式

3月25日(木)
2週間ほど前に「いのちの授業」を行った小学校のD校長から卒業式への来賓としての出席要請があった。こんなことは「いのちの授業」をやっていて始めての事だ。1月に授業をやった生徒たちが卒業していく。感慨深いものがある。

最後に卒業式に行ったのは次男の中学校の卒業式だった気がするが良く覚えていない。20年位前の話だ。最近の卒業式とはどう いったものか興味もあった。さらに北村校長はこの卒業式で1年間の道徳教育の集約的な話を式辞で述べるというのでどのような話か聴きたくもあった。出席の返事をした。

学校の前で車を降りた。校舎の前の道が桜並木で、桜の木々は早くも、開く寸前の濃いピンクの蕾に覆われていて、雨模様の天候だったが、空をピンク色に染めていた。桜は普通入学式の時期に咲くのだが、卒業式に咲き始めている。段々開花時期が早くなっているそうだ。入学式まで桜がもつかどうかといった状況だ。

式は10時から始まる。来賓は校長室に一旦集まり、一緒に並んで会場の体育館に向う。市会 議員、PTA関係、地域・町内会関係、学童クラブ、教育委員会など30名位が来賓として参加している。来賓入場の後、卒業生が会場に入ってくる。式次第は、開会の辞、国歌斉唱、学事報告、卒業証書授与、学校長式辞、来賓祝辞、来賓紹介、祝電披露、門出の言葉、閉式の辞となっている。祝辞を述べた来賓 が2名だったのが良かった。教育委員会に人と、PTA会長からだった。それに話も短かった。

昔卒業式に出ると何が苦痛だったかというと延々と続く来賓の挨拶だった。皆書式に従ったように同じような内容の話を延々と繰り返すのはあまりにも無意味な気がしていた。恐らく誰もがそう思ったのだろう。最近では来賓挨拶は必要最低限にしているのかもしれない。

卒業式の内容に関しては、生徒と教師が喧々諤々と論議し企画立案したのだろう。進行、構成 など工夫がこらされている。卒業式が6年生とその保護者にとって印象深く記憶に残すにはどういった展開がいいのかそれを考えた進行であったような気がする。最近では、時代遅れなのだろう「蛍の光」や「仰げば尊し」などの歌はもはや歌われることはない。卒業式にマッチした歌というのは結構 あるものだ。一言で言えば、送る歌、旅立つ歌の類だ。

6年生の生徒たちが思い出や将来の抱負を語りながら、歌でそれをつないでいくといっ た流れになっている。5年生は6年生を送る立場で送る言葉を交互に語り、楽器演奏や、歌で6年生と掛け合いといった形で卒業式の一翼を担う。教師も送る歌 を皆で合唱する。

このようないわば学芸会のような展開を中心にしながら卒業式 は進行した。昔は人数も多かったためか卒業証書も一括で代表者が受け取り、来賓の挨拶を中心としたものであった。教師や大人達の御仕着せだった。卒業生は 「蛍の光」と校歌を歌うだけ。

今日の流れは卒業する6年生の生徒を中心にして進行しているのが印象的だった。卒業証書を受け取る時、その 人の特徴を友人がそれぞれ一言ずつ語る。こういった事を通しながら個の特性を大切にしていく気持ちを養って行くのだろう。今日のような卒業式は染地小学校 独自のものか、最近の一般傾向なのか分らないがいい傾向であるのは間違いない。

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腰痛の状況・公園の花

3月19日(金)
3月17日にベルケイドとデキサート(デキサメタゾン)の点滴を行ったが、ステロイドの影響はかなり体調に変化をもたらしたようだ。17日の本作りミーティングの後、二次会まで付き合って10時頃家に帰ったが、全く体調的には問題がなかった。ステロイドは確かに元気になる。炎症反応を抑える働きもする。そういった意味で腰痛も全く感じられなかったのかもしれない。

18日起きた時には嘘のように腰の痛みは消えていた。いつものことだかステロイドの影響で4時間位しか寝られなかったが、目覚めはすっきりとしていたし、日中に眠くなるようなことはなかった。3日分の溜まっていた家事を一挙に片付け、気になっていた植木の剪定までやって、買い物にも行って一日中動き回っていたが一向に疲れは感じなかった。

夕方頃から、そろそろステロイドの影響が切れてきたのか腰の辺りが重く感じられるようになってきた。ぎっくり腰か圧迫骨折の初期症状かは全く分らない。最も辛い時期は一段落した。圧迫骨折だとこれからが大変なのだが、ぎっくり腰だと後はゆっくりと養生すればいいだけだ。

今日起きた時にはステロイドの影響は完全になくなって、その反動で全身がだるく感じられ腰の重たい感じが強くなったような気がする。外は暖かく公園に散歩に行った。先週見た時にはシデコブシが、長い蕾の時期を終えやっと5、6個花を付け始めていた。冬の寒さの中で1ケ月以上も柔毛の生えた蕾を寒風に震わせていたのがやっと花開いたのだった。

高尾梅郷001_edited_convert_20100319111900  長崎公園004_edited_convert_20100319112017

高尾梅郷008_edited_convert_20100319111806  長崎公園010_edited_convert_20100319112115
   3月13日撮影                    3月19日撮影

シデコブシの開花を見ると春が来たという思いが強く感じられる。ところが1週間もたたないうちにもう満開で既に散っている花びらもある。「花の命は短くて・・・」といった感じだ。梅の花が完全に散り、寒緋桜が花を開いた。寒緋桜の方は1週間たってもあまり変わらない。

紅梅、白梅が終わり、交代するかのように白のシデコブシと赤の寒緋桜が咲き始めているというのは絶妙な組み合わせだ。自然の営みは人の身に何が起ころうとも何事もなかったかのように同じ事をひたすら淡々と繰り返す。毎年梅を見て、桜を見物し、つつじ、紫陽花、菖蒲などを観賞する。そういった季節の移り変わりと自然の変化を楽しむ事が出来るのはこの上なく贅沢だという気がする。

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本作り「第2回ミーティング」

3月17日(水)
3月10日の本作り「第1回ミーティング」に続いて、2回目が前回と同じ先端生命医科学研究教育施設の2階会議室で16時から行われた。参加者は田中医師、小学館の今回の書籍の編集ライター、患者、元患者のももの木関係者が8名であった。

小学館の編集ライターの片岡さんから事前に質問表が送られ、それに沿って意見を求めていく方法で議事を進めたいということであった。前回、医者と患者のコミュニケーション・ギャップの問題について意見を求めた所、かなり広範囲な内容に話が拡散しまとめるのに苦労したのだろう。そこで今回は事前に議事内容を質問という形で用意し、それに沿って話を進めて行きたいということだ。

編集ライターの事前コメントは次のように書かれてる。“第2回のグループインタビューを行うにあたり、質問の内容をまとめました。今回のテーマは、「治療・投薬・情報」です。「第2章 治療:お医者さんと一緒に治す」「第3章 投薬:安心できる薬選び」の部分で、参考にさせていただきたいと思います。具体的なエピソードなどをお話いただけると幸甚です。よろしくお願い申し上げます。”

Q1 治療の方針について、お医者さんから説明を受ける時、どの部分をていねいに説明してほしいですか?
多くの人の場合、がん宣告された段階で頭が真っ白になって医者に何を言われたかよく覚えていない。ある患者例だが、医者の説明は全く記憶に残っていない。最後に医者が今の話では不十分なので、もし病気に関して詳しい情報を知りたいのならばと、売店に置いてある本を紹介してくれた。そして次回の診療の時までに本を読んで医者に色々質問する事が出来た。何を知りたいかは一定病気の知識がないと分らないものだ。

私の場合は、最初の病院への外来で、診療室に入るや否や、医者は「血液がんです」と宣言した。診断書では「血液ガンの疑いあり。一般的には3ケ月から6ケ月の治療期間後、社会復帰が可能と考えられております」と書かれていたのでがんと言われたショックはかなり和らいだ。そこで質問する精神的余裕はなかった。ただどの位の入院生活が必要なのかだけを知りたかった。

入院後3、4日は精密検査を行い病名を確定し、その後家族を呼んでカンファレンスルームで病気の説明会が行われた。研修医が説明し、副担当医が筆記し、主治医が時々フォローする形で話は進行した。そこでは聞くだけであまり質問は考え付かなかった。2、3日資料などを集めて、渡された説明会のメモを検討し、分らないこと、更なる説明が必要なことを研修医に詳しく聞いて理解した。説明を受けたその場で質問は難しい。

医者が病気の説明の時、必要事項を書き分り易くするために図を描いたりするが、そのメモを渡してもらうと家に帰ってから検討できるので非常に助かる。医学的な説明はその場では十分理解できない。ましてや質問できるほど予備知識がある訳ではない。家で色々調べて始めて分からない所が分ってくるわけだ。そのためのメモは多いに役立つ。

Q2 治療方針の説明を受ける時に起こったアクシデントがあったら教えてください。

この項目については意見が出なかった。

Q3 治療方針を変えてほしいと言ったことはありますか? その理由は?また、お医者さんの対応は?
乳がんの治療を終え、しばらくしたら白血病になってしまった。白血病の治療が終わり3年後に乳がんが再発した。その時乳がん治療に使われる抗がん剤が白血病を誘発する恐れがある薬だったのでそれを使わないでほしい、また放射線は白血病を誘発しかねないから使用しないでくれと言った。医者は白血病発症は乳がん治療による二次性白血病ではない、と説得したが、結局薬を変えて治療を現在継続中である。

私の場合、入院後最初治療薬として選ばれたフルダラビンという薬は、日本では保険が利いたばかりの新薬で、アメリカでは高い実績が評価されている薬でだった。しかしフルダラビン療法は、残念ながら全く抗がん剤としての機能を果たさなかった。

12月1日入院時のIgM値7310は全く減ることなく12月19日の検査結果は8840と増え、さらに12月22日には8980なり、さらにその後9450まで上昇した。薬の効果がないばかりか自然増という形でIgMは増えていった。これは一体どういうことかと医者に相談し、別の抗がん剤でやるという方針はすぐに出された。

Q4 治療の経過、副作用について、お医者さんにどのように訴えましたか?
ある患者が、移植後腰が痛み出した。ずっと寝ているからだろうと思っていた。どんどん痛みが増し寝返りもうてなくなった。医者に訴えたら、これはG‐CSFの副作用だと言われ投薬を中止したら腰の痛みはおさまった。G‐CSFの副作用に腰痛があるなど誰も知らない。

大体薬の検索をすると、副作用に項目の所に50位書いてある。今服薬している薬が8種類、点滴しているのが3種類ある。この副作用を全て知ることなど出来ない。だから体の変調があったならば即座に医者に相談し何の副作用なのかを調べてもらい、投薬の量や間隔の調整をしてもらう他ない。

Q5 薬については、どの部分をていねいに説明してほしいですか?
薬について入院中は薬剤師が来て副作用などについて詳しく説明してくれた。知りたいのは効果と副作用についてだが、がん治療の場合このバランスが難しい所なのだ。

Q6 投薬の際、お医者さんに自分の情報(服用中の他の薬、アレルギーなど)を伝えていますか? 伝えない場合、お医者さんから聞かれますか?

全て血液内科で処方された薬を使っている。近所の歯医者や、眼科に行く時は血液内科で処方された薬の一覧長を持って行って、出す薬を調整してもらっている。

Q7 薬の副作用や効き方について、お医者さんにどのように報告をしていますか?

薬の効果については2週間1度のIgMの数値で分る。骨髄抑制については毎週やっている血液検査から分る。また体の変調については詳しく医者に報告しどの薬の副作用かを判断してもらい、薬を変えるか、支持療法で対処するか判断する。 

Q8 病気や治療、薬について、自分で調べますか? 医学書、インターネット、患者会情報など、情報ソースをどのように使い分けていますか?
特に使い分けてはいない。あらゆる情報を手当たり次第集めている状態だ。特に原発性マクログロブリン血症という珍しい病気の情報はほとんどないので苦労するが、多発性骨髄腫や悪性リンパ腫の情報はかなり役に立つ。

Q9 病気や治療、薬について、どんな情報が必要ですか?

どのような薬が効果的か、どのような治療法が画期的か、病気治療の最先端情報が欲しい。もちろんそれが遠い先に使えるようになるものではなく、今使用できるものでないと意味がない。

Q10 お医者さんとのやりとりで、後悔していることはありますか
特に意見は出なかった。

このような質疑応答を繰り返し、2時間半ほどかけてミーティングは終了した。編集ライターの片岡さんは4月一杯に原稿をまとめなければならないという重大に任務が待っている。このミーティングでむしろ書くのがより一層難しくなったのではないかと思われる。頑張ってもらうしかない。

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定期健診の日・ベルケイド3クール2回目

3月17日(水)
今日の予定は、ベルケイド、デキサート(デキサメタゾン)、ゾメタの点滴を行う。デキサートとゾメタはそれぞれ1時間で行う事もあるもあるし30分で行う事もある。ゾメタの場合腎臓に負担をかけるので長時間かけて行ったほうがいいことは分っているが、医者に30分で行うと言われるとほっとする。どの道寝転がって本を読んでいる位なのだが長時間の点滴はやはり疲れる。

先週IgMを検査したので今週の血液検査は血算+αだけだった。

検査結果
 白血球  5100(3/17)←4200(3/10)←9000(3/3)←2700(2/17)
 好中球  3630←2890←7460←1400
 血小板  14.6←17.6←15.5←8.0
 赤血球  330←317←323←313
 ヘモグロビン 11.4←11.1←11.1←10.6
 網赤血球   10←12←17←24
 CRP   2.1←4.6←9.1←0.1


腰痛の経過

土曜日の午後あたりから腰のあたりが重く感じられるようになってきた。腰痛かもしれないとは思ったが、無理をしなければそのうち治るだろうと思っていた。日曜日にはかなり歩いたが何の問題もなかった。

月曜日
の朝起きようとすると腰が痛くてなかなか起き上がれなかった。下手に動くと脳天を貫くような激痛が腰から大腿部にかけて走った。それが10秒位続き、その間固まって耐えているほかない。丁度帯状疱疹神経痛の時、トリガー(引き金)と呼ばれる痛みをもたらす神経の中心部があり、そこ触れた時の激しいショックに似ている。

それでも通常の生活は可能だった。以前やったことがある「ぎっくり腰」の症状だ。ただ今までに経験した事がないかなり強烈な症状である。以前だったらぎっくり腰とすぐ判断しただろうが、この病気にかかってからは色々考えてしまう。腰椎の圧迫骨折ではないかなどとも思ってしまう。

ぎっくり腰の原因として腰部を構成している関節や靭帯、椎間板などが一部損傷している可能性がある。そういった意味で圧迫骨折と同様の症状を表すこともあるだろう。どちらかは分らない。

火曜日
になってさらに症状が進行した。無理に体を動かそうとすると激痛が全身を駆け巡る。朝ベッドから出るのに数センチづつ動いて15分位かけてやっと立ち上がる事が出来た位だ。体を動かすに最新の注意が必要となる。階段上り下りがきつく階段につかまりながら這うように登る外なかった。明日の定期検診に行けるかどうか心配だった。いざとなればタクシーで行く外ない。

今日起きたらかなり症状は改善されていた。動きはスムーズになり、少し位身体を動かしても激痛が走ることはなかった。ゆっくりと歩くことも可能だった。やはり腰に疲労が溜まりそれでぎっくり腰の状態になったのだろうか。しかし特に激しい運動や腰に負担をかけることはしていない。1日中同じ姿勢で仕事をしている訳でもない。原因は不明だ。歩くのに時間はかかったが定期検診に電車で行くことが出来た。

レントゲン撮影と医者との話

医者に腰の状況を説明した後、圧迫骨折になった時の症状を聞いた。体を動かした時、体中に「電気ショック」のような激痛が走る、階段の上り下りが大変だが平地を歩くことは出来る等、全て昨日一昨日の症状に一致する。医者は即レントゲン室に行くように指示した。診断の途中でレントゲン室に行くとすぐ呼ばれ腰椎、仙椎、胸骨などの写真を撮った。再び診療室に戻り医者とレントゲン写真をうの目鷹たかの目で圧迫骨折の箇所を探したが見つからなかった。

医者から圧迫骨折の初期段階ではレントゲンに写らない事もあると言われた。また圧迫骨折の治療法はないとも言う。なったら1週間位寝ている外ないそのうち骨が固まれば動けるようになる。激痛に対処する方法もない。どんな痛み止めも「電気ショック」のような痛みには対処できない。つまりなってしまったら鎮痛冷湿布でも貼っておくしかないそうだ。今回の腰痛が圧迫骨折の初期症状でない事を願うしかない。

ぎっくり腰か圧迫骨折か
症状は圧迫骨折に似ているのが、ぎっくり腰症状も同じようなものだ。また痛みが強まっていってその後弱まっていく経過が、希望的観測だが圧迫骨折ではないような気がする。ぎっくり腰は患部を冷やして腰に負担をかけない姿勢(寝る)で安静にしていれば3、4日で症状は治まる。そういった経過を辿っている気がする。

今日は朝から一度も激痛が走ったことはない。ベットからもスムーズに起き上がる事が出来た。病院で2、3時間の持ち時間も椅子に座りっぱなしだったが大丈夫だった。3時に病院を出て、先週の続き「本作り第2回ミーティング」に出掛け、2次会も付き合ったが腰に何の問題も起こらなかった。ミーテイングに来た医者が言う「ステロイドを静注した事によって症状が緩和する」という要素も考えなければならない。明日の朝起きた時にどうなるかが分かれ道だ。

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市民公開講座「血液のがんと共に生きていくために」

3月14日(日)
芝増上寺から歩いて慶応大学まで結構かかった。時間ぎりぎりになってしまった。慶応大学のキャンパスは図書館などレンガ造りの建物があり、それが大学らしい雰囲気をかもし出している。早咲きの桜が花を開きレンガ色の壁に映え穏やかな情景を作り出していた。

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13時から、慶應義塾大学三田校舎で、昨年に続いて「血液のがんと共に生きていくために」という内容で市民公開講座が行われた。事前に参加申込みをし、送られてきた葉書を持参して、それを入場券代わりにわたし会場に入る。最初は北館1階ホールでやる予定だったが、人数が大幅に増えて西館に移動した。

市民講座は最初のテーマは、4つのレクチャーによって血液がんの基本的な理解を深めていこうというものであった。各人30分位ずつ話した。

■ 血液がん(造血器腫瘍)について基礎知識を持とう
レクチャー1 血液がんとはどのような病気か理解しよう
血液の成分の説明から、多能性造血幹細胞とリンパ系幹細胞に分化し、さらに骨髄系幹細胞、各血球系前駆細胞を経て、血液細胞や形質細胞になっていく分化の流れが話された。そういった血液の分化の過程のどの段階でどういった血液がんが発生するのかの解説がなされた。

レクチャー2 血液がん患者さんの感染予防について学ぼう

戦前は肺炎、結核、胃腸感染が死因の多くを占めていたが、今はがん、脳血管疾患、心疾患が死亡原因の主流になっている。肺炎での死亡も最近では再び増えてきている。こんなに医学が進歩した時代に感染症が命に関わることがあるのか。

人の感染防御機構は
1)生理的バリアー(皮膚、粘膜、正常細菌叢)
2)食細胞(好中球、マクロファジー等)
3)液性免疫(抗体等)
4)細胞性免疫(Tリンパ球、Natural Killer細胞)

血液がん患者の感染予防
1)外部からの菌の進入を阻止(うがい、手洗い、人混みでのマスク、入浴)
2)体内の菌の増殖、侵入を阻止(抗菌剤の予防投与)
細胞性及び液免疫低下がある場合
3)ウイルス感染症の早期発見と抗ウイルス剤の早期投与
4)カリニ肺炎予防のためにバクタの内服
5)免疫グロブリン製剤の点滴投与(IgG低下の場合)

レクチャー3 血液がんの基本的な治療について理解しよう

血液がん(造血器腫瘍)の治療としては
化学療法、造血幹細胞移植、分子標的療法、支持療法。

治療の用いられる抗がん剤は大きく分け、
1)DNA/RNAの損傷や合成阻害をおこす薬剤。
2)微小管の機能を抑制する薬剤。

造血器腫瘍の治療の目標
1)根治を目指す=長期のQOLが確保された生存期間を確実なものとする。若年者-化学療法+骨髄移植
2)QOLを保った生存期間を少しでも維持する。高齢者-慢性骨髄性白血病に対するグリベック、濾胞性リンパ種や骨髄腫に対する治療

レクチャー4 血液がんの治療成績を理解するための知識をつけよう
生存率などの統計学的分析の方法についての解説がなされた。後向き研究=観察研究(予備調査、入手可能な情報をしよう、欠損値の存在、選択バイアス)。前向き研究=臨床試験(確認研究、情報の選択、無作為化が可能、長時間、高費用)この二つの研究を組み合わせながらエビデンス・レベルを決めていく。

臨床試験:第Ⅰ相、動物実験、第Ⅱ相、少数の患者で行うパイロット研究、多数の患者で行われる有効性研究。第Ⅲ相、大規模無作為化比較試験。第Ⅳ相、承認を得た対象疾患、用量、用法による市販後臨床試験。

また生存解析の方法についても解説された。評価項目が発生するまでの時間をグラフ化し、途中経過も反映するカプラン・マイアー法が多く使われている。こういった統計技法が治療法の比較研究に大いに役立っている。しかし統計量は推定値であり、治療上の決定は、臨床的名知識、経験、臨床研究の結果の組み合わせで行うべきである、と結論づけている。

■ 血液がんはどこまで治るようになったのか?-最近の治療の進歩を知る-
分科会1、悪性リンパ腫
分科会2、多発性骨髄腫
分科会3、骨髄異型性症候群/骨髄増殖性腫瘍
第2分科会の多発性骨髄腫に参加した。70名位が集まっていた。日本骨髄腫患者の会の知っている人も何人かいた。分科会は慶応義塾大学薬学部病態生理学講座の服部豊氏の講演で1時間以上にわたり、多発性骨髄腫へのサリドマイド、ボルテゾミブ、レナリドミドを中心とした新たな治療法の紹介を行った。講演内容はかなり多岐に亘っている。機会があったら詳しく報告したい。

■ チーム血液に参加する患者家族・介護者
慶応大学病院での患者会、家族会の紹介が行われ、患者同士、家族同士が話し合う場を持つことの意義が訴えられた。

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芝増上寺

3月14日(日)
慶応義塾大学三田キャンパスで、昨年に続いて「血液のがんと共に生きていくために」という内容で市民公開講座が行われた。市民講座は13時からだった。天気も良かったし、家にじっとしているのも落ち着かない。早めに家を出て近くの芝増上寺に寄ってみる事にした。

池上本門寺にいった時にポスターが貼ってあった。「東海道寺社巡り」というもので、鶴見にある曹洞宗大本山總持寺、真言宗智山派大本山平間寺(川崎大師)、日蓮宗大本山池上本門寺、そして浄土宗大本山増上寺の4寺院を訪ねていくコースが紹介されていた。

4ケ所とも宗派が異なり、また大本山であり、宗派の特徴を見る事が出来るというものだ。近場の増上寺に行った事がなかった。芝公園や東京タワーには行ったことがあるが増上寺は初めてだ。

都営三田線の御成門駅の階段を上がり、増上寺方面に向うとすぐ右に古い門がある。有章院霊廟二天門である。有章院霊廟は第7代将軍、徳川吉宗が享保2年(1717)建立したもので、日光の東照宮に劣らぬといわれるほどの豪華なものだったらしい。しかし、東京大空襲によりこの二天門を残して焼失した。二天門の左右には北方を守る多聞天、西方を守る広目天が安置されている。浅草寺の二天門には南方を守る増長天と、東方を守る持国天があり2つの二天門は関連しているのだろう。

芝増上寺002_edited_convert_20100315155521 有章院霊廟二天門 

増上寺(浄土宗大本山三縁山広度院増上寺)
縁起:増上寺が開かれたのは、明徳四年(1393年)、浄土宗第八祖聖聡上人によって開かれた。場所は武蔵国豊島郷貝塚、現在の千代田区平河町付近と伝えられている。室町時代の開山から戦国時代にかけて、増上寺は浄土宗の東国の要として発展していく。徳川家康が関東の地を治めるようになって、徳川家の菩提寺として増上寺が選ばれた。慶長三年(1598年)には、現在の芝の地に移転。江戸幕府の成立後には、家康の保護もあり、増上寺の寺運は大隆盛へと向かって行った。増上寺は上野の東叡山寛永寺(天台宗)と共に徳川将軍家の菩提寺である。


二天門から日比谷通りをしばらく歩くと巨大な三門がある。道路の反対側に行かないと全体が分らない位だ。日曜日だということもあって観光客で賑わっている。東京見物はとバスツアーなどだろう。外国人観光客もかなりいる。上毛電鉄といった旗を持った添乗員が集合を呼びかけていた。色々な所から観光客が集まってくる。東京は見所満載なのだが、東京に住んでいると殆ど見物していない。

この三門は、東京都内最古の建築物で、正式名称を三解脱門という。元和八年(1622年)、徳川家康の助成により、江戸幕府大工頭・中井正清とその配下による建立されたものだ。

芝増上寺029_edited_convert_20100315155913 三解脱門

三門を潜ると大殿本堂が目の前にある。御馴染みの東京タワーを背景にして新旧の対比を表すかのような図柄だ。しかし実際には、東京タワーが完成したのが昭和33年(1958年)で、大殿が再建されたのが昭和39年であるから、大殿の方が新しいのだ。

大殿に上る階段は25段で25菩薩を表している。本尊は阿弥陀如来(室町期製作)で、両脇壇に高祖善導大師と宗祖法然上人の御像が祀られている。大殿は、浄土宗大本山としての根本道場である。

芝増上寺007_edited_convert_20100315155644 大殿本堂

大殿の右側に西向観音があり、観音像を中心に千躰子育地蔵尊がずらっと並んでいる。子育て安産に霊験あらたかとされる西向観音にちなみ、子供の無事成長、健康を願い作られたものだ。

芝増上寺014_edited_convert_20100315155800 千躰子育地蔵尊

大殿の裏には徳川将軍家墓所があり、その入口となる門は旧国宝で「鋳抜門」とよばれ、もと文昭院殿霊廟(六代将軍 徳川家宣公)の宝塔前の中門であったものだ。青銅製で左右の扉に五個づつの葵紋を配し、両脇には昇り龍・下り龍が鋳抜かれている。

芝増上寺016_edited_convert_20100315160118 鋳抜門

昼下がり、気温は上がり汗ばむほどだった。春めいた陽気で風も気持ちいい。芝公園駅まで行ったが1駅だけなので、市民講座の会場、慶応義塾大学まで散歩がてら歩いた。歩いても15分位だろうと思って歩き始めたが、予想以上に時間がかかってしまった。最後には汗をかきながらやっと到着した。
(参考資料:増上寺ホームページ)

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高尾梅郷

3月12日(金)
梅の季節もそろそろ終わりに近付いている。東京近郊で開花時期が遅い高尾梅郷であればまだ十分鑑賞出来るだろう。今年最後の梅見物として高尾梅郷に行くことにした。通常の庭園や公園の梅見とは趣を異にする。

旧甲州街道沿い約4.5km区間に5ケ所の梅林が点在している。それを総称して高尾梅郷という。川沿いや山肌に咲き誇る梅はまた別の感触を与えてくれるだろう。

関所梅林、天神梅林、湯ノ花梅林、木下沢梅林、そして小仏川沿いの遊歩道梅林を中心に約10,000本の梅が開花する。特に木下沢梅林は1400本がまとまって咲いていて見所だとあった。

梅祭りは3月13、14日で各梅林には模擬店が並ぶほか、関所梅林では琴の演奏や、野点が開催。4つの梅林をめぐり、福引で賞品が当たるスタンプハイクのほか、梅干しや野菜の販売もある。祭りの日は混むだろうと思って今日出掛けた訳だ。

京王線で高尾山口まで行った。高尾駅でも良かったのだ。甲州街道を高尾駅方面に15分ばかり行くと小仏川が流れていて上椚田橋がかかっている。そこから川に沿って咲く梅を見物し橋を渡る。梅のアーチをくぐるように遊歩道が川沿いに作られている。その名も「遊歩道梅林」単純な命名だ。

高尾梅郷011_edited_convert_20100313200235 遊歩道梅林 

小仏川は旧甲州街道に沿って流れる。一旦旧甲州街道に戻り関所梅林に行く。この場所は、江戸時代、甲州道中でもっとも堅固と言われた小仏関所があった場所である。建物は既になく、小仏関跡の石碑と通行人が手形を置いた手形石と吟味を待っている間に手をついていた手付石が残る。

高尾梅郷022_edited_convert_20100313200839 甲州街道駒木野宿跡の石碑 

また甲州街道駒木野宿と書いた大きな石碑が建っていた。駒木野宿は総家数70数戸という小さな宿場であった。小仏関に付随する簡易な宿場町だったようだ。明日の梅祭りの準備のためだろうかテントが幾つか張られていた。梅は梅林だけではなく街道沿いの民家の庭先や、山の斜面、畑等に点在し途中の風景も見逃せない。

梅郷橋を渡り、天神梅林に至る。菅原道真を祀っている高尾天満宮を中心として梅林が山の斜面に広がっている。天神梅林から旧甲州街道に戻り、しばらく歩くと道沿いに梅祭りのノボリがはためいている。

高尾梅郷018_edited_convert_20100313200404 高尾天満宮 

湯の花梅林が梅祭りのメイン会場なのだろうか。テントがいく張りも並んでいて、提灯が並んで吊り下がっている。混むのは嫌だが、祭りでどういったイベントをやるのか興味がないわけでもないし、屋台で飲んだり食ったりするのも楽しいものだ。

高尾梅郷030_edited_convert_20100313200506 湯の花梅林

そこから木下沢梅林まではかなりの距離があった。梅見物と同時にハイキングに来た気分だ。さすが1400本の梅が山の斜面に満開に咲いているのは見応えがある。山の斜面には一昨日の雪がまだかなり残っていて、それが情景をより豊なものにしているようだ。ただここは低い金網で囲まれていて中に入る事が出来ない。ただ全体を鑑賞するには問題はない。誰もいない静まり返った山の中でたっぷりと梅を愛でる気分だ。これは梅園などでは経験できない。

高尾梅郷036_edited_convert_20100313200621 木下沢梅林

高尾梅郷037_edited_convert_20100313200737

ここから小仏梅林に行く。ここは高尾駅から来るバスの折り返し場で、梅は道路脇に幾つか有る位で梅林というほどのものではなかった。丁度バスが来たので帰りは高尾駅までバスで戻った。1時間1本しか出ていないバスなので運が良かった。

歩く道の大部分は旧甲州街道だが山間の道だし、川沿いの道や山道などもコースにあってちょっとしたハイキング気分で散策できた。2時間半位歩いた事になる。いい運動になった。

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東京女子医科大学・早稲田大学連携先端生命医科学研究教育施設

3月12日(木)
3月10日、病院の診療を終え、本作り第1回ミーテイングに参加するため、南北線で後楽園まで行き大江戸線に乗り換えて河田若松駅まで行った。東京女子医科大学の幾つも立ち並ぶ付属病院の間を抜けるように行くと、少し離れた静かな場所に目的の建物はあった。

img_faci_02.jpg2年前に建てられたという真新しい建物だ。先端生命医科学研究所という名前にふさわしく冷ややかにガラスとステンレス調の壁に囲まれた建物に日の光が鈍く反射していた。

入口には警備員が常駐し、入館者の目的と身分確認し、入館時間と面会目的、目的場所を書かせる。入館者のチェックも研究内容に機密性があるのかどうか分らないがそれなりにやっている。

塵一つ落ちてないぴかぴかに磨きあった床、間接照明で薄暗い廊下など、建物の作りが、アメリカのスパイ映画出てくる秘密の最先端技術の研究所に似ているような気がした。カードチェックや声紋認証などはないものの気分的には建物の色彩的構造的がそんな感じにさせる。

建物の内部もステンレス調で無駄のない機能性を持っている。入口からすぐ衝立があり、そこにA2位の大きさのパネルがずらっと100枚ほど貼られている。バネルに書かれているのは、研究員の顔写真入りプロフィール紹介と、研究テーマ、研究目標が図と文章で分り易く説明されたものである。このように貼られているとやる気も出るが、かなりのプレッシャーにもなっているだろう。

建物は地下1階、地上2階で、地下1階には実験用動物が飼われている。1階と2階には研究員が通常いる部屋がある。広い部屋で100名位が机を並べている。行った時は3分の2位の人がパソコンに向っていた。

田中医師も机を持っているが、部屋に何人いようがキーボードを打つ音以外聞こえないほど静かだという。そろそろ昼飯でも食いに行こうかと周りを見回すと、皆机から適当に食べ物を出して食べながら仕事をしている。ミーテイングが終ったのが6時30分頃だったが、研究員の人達は全く普通に仕事をしていた。

先端生命医科学研究所のホームページに次のように書いてあった。
先端生命医科学研究所は、材料科学、エレクトロニクス、機械工学などの理工学と細胞生物学、薬学、医学などの生物系科学の概念と技術を融合させ、生体の理解を深めながら医療を向上させるための生体医用工学研究を推進すべく、学内の臨床・基礎の各科、早大大学院生命理工学専攻、阪大眼科、同第一外科、東北大眼科、東京医科歯科大、その他の大学、研究所との連携を通じて従来の領域を超えた先端医療を追求しています。

さらに2008年3月15日に東京女子医科大学と早稲田大学は連携先端生命医科学研究教育施設の竣工式を行った。両大学大学院の連携の特徴について説明されている。理工学と医学のシーズとニーズの出会う場を作り、新しい医療テクノロジーを大きく飛躍させるとともに、高度な医療を達成しうる環境作りを行うことにあります。これによって画像診断、画像鏡視下の手術、遺伝子診断・治療、人工臓器、バイオマテリアル、移植、バイオ人工臓器、再生 医工学治療など先端医療を集約的アプローチによって達成する体制を作ります。

ガン治療薬の進歩の過程を見ると、遺伝子や染色体の解明が大きく関係している。この事によって病気の原因を掴み、それに対応する薬の開発が行われていったという経過がある。地道な研究だが、こういった研究なしには我々の今使っている治療薬も生まれることはなかった。そういった意味でもう少し注目していい分野だと思う。

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本作り「第1回ミーティング」(つづき)

3月10日(水)
本作り「第1回ミーティング」は東京女子医科大学・早稲田大学連携先端生命医科学研究教育施設の2階会議場で行われた。参加者は田中医師、小学館の今回の書籍の編集ライター、患者、元患者のももの木関係者が12名であった。

最初に小学館の編集ライターの方から本の作成趣旨と今回のミーティングの獲得目標などが話された。この本は小学館でシリーズ物として発行している「ホーム・メディカル」の6冊目として考えられている。

本の題名は『上手に“痛い”が言える本』テーマは「お医者さんと患者さんのコミュニケーション・ギャップ」というものだ。内容的にはどのようにして医者との意思疎通をはかるのか、患者の要望をどのように医者に伝えるのかということだ。その応えは医者との関係で苦労してきた患者の意見を聞く外ない。

最初の質問は本の題名通り「痛い」をうまく医者に言えた例と言えなかった例をあげて欲しいということだったが、これには直接答えはなかった。確かに痛いという内容はなかなか伝えにくい。またある程度の痛みなら止むを得ない副作用だと思って諦めてしまい医者にも言わないことが多い。

医者に言えば痛み止めを処方はしてくれる。さらに睡眠導入剤や鎮痛用湿布を出してくれる。そういった意味で「痛い」の内容は正確には伝えることは難しいが痛いと言えば薬は出る。そこで困るということはあまりない。

患者に一人が言う、がん患者にとっての苦痛は痛みだけではない。むしろもっと大きな苦痛を抱えている。確かにがん患者の3分の1以上が精神的に問題を抱えている、その中の一部はうつ病の状態に陥っている。適切な精神的フォローが必要だ。

しかし血液内科での数分の診療ではどうしての精神的な問題は話しづらいし時間もない。医者も戸惑った感じで前向きに対応してくれる様子もない。やはり病院の心理相談室で専門のカウンセラーを相手に時間をかけて話した方がいい。全てを担当医に委ね対応を求めるのは酷というものだ。

医者の前に出ると上がってしまって何も話せなくなってしまうという患者がいた。彼女は看護師に頼んで立ち会ってもらう事にした。医者の対応が何故かがらりと変わってかなり穏やかな対応になった。そこで彼女も安心してあれやこれやを聞く事が出来た。

田中医師が司会を代わって皆に質問した。アンケートの中で診断に向けて事前に聞きたい事をメモしていくとあったがメモしていく人はどの位いるか。半分以上が手を挙げた。聞く事を医者の前に行くと忘れてしまうからメモが必要だと言う。優先順位を決めておいて医者の機嫌が良ければ全て聞くが、忙しそうにしていたら最初の数項目だけにするとか臨機応変に対応して聞きたい事を聞いているという苦労を話した。

なかなか医者とのコミュケーションの取り方が難しい現状がある。家族に病院に付き添ってもらう、とか事前に家族と質問内容について打ち合わせるなどの人もいた。どうしても医者と面と向き合うと緊張してスムーズな会話が出来ていないようようだ。

入院中であれば、主治医の他に副主治医と研修医の3人のチームで対応する。研修医は比較的時間があるから彼を捕まえて色々つっこんだ質問が出来る。主治医の方が臨床経験的には当然優れているが、医学原理的なところは勉強したてだから良く分っているはずだ。

看護師も丁寧に対応してくれる。病院生活における日常的な問題は看護師のほうが分っている。痛み、発熱、下痢、便秘、不眠などの対応は適格だ。薬の量や種類に関しても色々アドバイスをしてくれるし、ある薬の効果が見られなければ色々調整してくれる。全てを主治医に相談しようと思わないで相談内容を分散させるのも手だ。ただ外来の場合は主治医しかいない。

話は本題からあれやこれや飛んで小学館の編集ライターの人は、むしろ混乱してしまったのではないか。ともかく2時間のミーティングの中で、患者と医者のコミュニケーションの難しさを改めて自覚する事になった。

居酒屋での話
ミーティングの後、皆で夕食を取りに曙橋方面に向った、「のう天気」という洋風居酒屋に入った。そこでの話も色々有った。印象的な話を二つあげておく。

40歳前位の元患者の一人で、急性骨髄性白血病で移植をして今は完全寛解状態を保っている人の話だ。彼は病気になる前は死に対する恐怖をいつも抱えていた。いつ死ぬのではないかという恐れから逃れられないでいた。

風邪だと思って病院に行ったら白血病ですと宣告され即入院して下さいと言われた。家に荷物を取りに帰っていいですかと言ったらすぐ治療に入らないと今晩中にも死ぬ可能性があります、と言われた。しかしこの時からし死の恐怖は跡形もなく消え去っていた。死を自らの中に抱えた時死はもはや恐怖の対象ではなくなっていた。

元患者の一人の友人に永六輔がいて、彼の言う「いい患者さんになるための10カ条」を紹介した。いい患者さんとは
① 誤診・診療ミスがあっても驚かない。② 自分で病名を勝手に決めない。③ 待合室などでの“うわさ話”には参加しない。④ 同じ病気のお医者さんをさがす。⑤ 同じ趣味のお医者さんをさがす。⑥ 自分自身で命の終わりを考えない。⑦ お医者さんの前で気取らない。⑧ 遠くの医者より近くの獣医さん。⑨ 奇跡を信じない。⑩ 医者が“ご臨終”と言ったら死んだふりをする。

あくまでも“しゃれ”なのだが、この位の気持ちで医者と接していれば気楽な気持ちで付き合えるし、医者との間に波風も立たないだろうと思う。むしろ医者に対して構えすぎるのではないのだろうか。医者も同じ人間なのだ、心を開けば向こうもそれなりに対応してくれるだろう。

確かに権威にしがみついて患者を扱う医者もいないことはない。そういった医者とはどんな関係も作りえないし付き合うことはできない。主治医を変えるか病院を変えるかしかない。その決断を速やかにする必要があるだろう。嫌だと思いながらずるずると付き合っているとそれがストレスになり病気をかえって悪化させてしまうだろう。相性の悪い医者と付き合うのは病気を治すのにかなりマイナスな要因であるのは確かだ。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

本作りのために患者から意見を聞く

3月10日(水)
3月3日と7日の2回にわって、ももの木の理事の田中医師より、メーリングリストのメンバーに対してお知らせが流されてきた。

今「上手に“痛い”が言える本」(小学館より6月発行)という単行本を製作している。本書のテーマは「お医者さんと患者さんのコミュニケーション・ギャップ」。お医者さんと患者さんのコミュニケーションの実態を示し、コミュニケーション・ギャップを埋めるための方法などを模索する。

お医者さんに上手に体調を伝える方法、投薬や診察の際聞くべきことなど、図版を交えて具体的に解説する内容を目指している。そのために、患者から意見を聞きたいということで3月10日と17日の16:00から18:00まで2回のミーティングを行いたいというものだ。

場所は1月から田中医師が勤め始めた東京女子医科大学・早稲田大学連携先端生命医科学研究教育施設(略称TWIns)の会議室で行う。入口の警備の所で身分証を示し受付を終えてから会議室の方に来て欲しいということだ。中々警備が厳しいらしい。

事前に質問シートが送られてきて10の質問があり。「本を製作する上で、多くの患者さんのご意見をうかがっています。できるだけ具体的かつ忌憚のないご意見をお寄せください」とあった。私は以下のように応えた。

■質問シート■
Q1、子どもの頃、「病院」や「お医者さん」に対してどんなイメージを抱いていましたか?

行きつけの医者で、優しいお爺さんといった感じだったので医者に対する恐怖心はありませんでした。むしろ病気で苦しんでいたのでそれをどうにかしてくれるものと思っていました。昔は家に近くの評判いい内科医と外科医を見つけ、かかりつけの医者として何か体に異変があるとその医者に通っていました。医者は生まれた時からその子供を見ているので、その体質なども良く分っていて適切な治療が可能でした。親も病気になればそこにいくのでいわば家族ぐるみの付き合いで、互いに気心も知れいろいろ相談できたものです。

地域に病院が出来て様々な病気の診療が出来るのでそこを頼りにし、かかりつけの医者といった地域に根付いたシステムといったものが今はあまり機能していないように思えます。しかし昔の医者と患者の関係に見られる人間関係はかなり参考にする要素があると思います。

Q2、病院」や「お医者さん」のいやな思い出、忘れられないエピソードなどを教えてください。

小学校低学年の頃、父親が胃がんで入院しているのを見舞いに行った時、病院の建物がかなり古くかったせいか、暗いじめじめしたイメージだった。その暗さと雑然とした相部屋、患者たち様子、薬品の匂いが特に死をイメージしたわけではありませんが、病気で入院することへのかなりの抵抗感を与えたのは確かです。病院というものに対する一つの固定観念としてマイナスのものとして焼き付けられました。

Q3、初診の前はどんな心境ですか? 緊張しますか? その理由は?

どういった病名を宣告されるかの不安はありましたが、きっと大したことはないだろいうと高をくくっていました。ガンを宣告された時はその分ショックはありました。ただその後治療がうまくいけば半年位で社会復帰出来ると言われたのでショックはかなり和らぎました。

Q4、診察の際、自分の身体の情報を正しくお医者さんに伝達できていると思いますか? できていない場合は、その理由は?

これには難しい問題があります。サリドマイドやボルテゾミブを使用した場合副作用として末梢神経障害が生じます。この痺れや痛みをどのように表現するかが難しいです。また薬が効果を発揮している状態では中断したくないので副作用を我慢してしまうこともありえます。絶えられない痛みなら別ですがそうでない場合医者に抹消神経障害について過少報告をしてしまいがちです。そうならないように注意はしています。

担当医はガバペンチン(抗テンカン剤)を処方してくれました。しかし患者会で会った人はベルケードの末梢神経障害の痛さで寝ぬれないほどだったのに、医者に訴えてもこういった痛みに対しては全く治療法はないから我慢する他にないと医者言われ何もしてくれなかったそうです。痛みに対するケアの問題意識を持った医者はあまり多くないようです。そういう時はしょうがないから患者から、これこれの薬を処方してくれと訴える外ない。確かに痛みを治療する薬はないかもしれないが、抑える薬は漢方薬もあり、オピオイド系の薬もある。我慢しない事が大切だ。

帯状疱疹神経痛の痛みをどのように表現するのかも難しいものがあります。スケールで1から4までつまり、少し痛い、痛い、とても痛い、耐えられないほど痛いという中から選ぶのですが、おおよそしか指定できません。

最初は冷感鎮痛湿布薬を貼っていたが全く効果がなく、抗欝剤のテグレトールを処方してももらったのですが、これを飲むと1日中ボーとしていて何もする気が起こらない。確かに神経全体が麻痺するので痛みも治まるが何も集中して出来なくなってしまう。そこでもう少し弱いパシキルに変えてもらった。また病院内のペインクリニックで、神経ブロックを定期的に行った。多い時は毎日行く事にした。

これは血液内科の担当医の判断というより自分の体調を自分で管理する外ない。神経ブロックのスケジュールを決め神経科に医者に頼むというパターンだった。

Q5、自分の体調が上手に伝えられなくて困ったことがありますか?

末梢神経障害や神経痛の痛みは表現が難しいです。移植時の大量抗がん剤投与で全身の脱力感と吐気で苦しんでいる時に、体調を聞かれても答えようがない時もあります。

Q6、お医者さんの言葉は全部理解できていると思いますか?

最初はなかなか十分に理解できたとは思えませんが、担当の研修医の人が親切であらゆる疑問に応えてくれたのでかなり理解できました。その後ネットの情報を集め自分の病気について勉強し今ではほぼ理解出来ていると思います。

Q7、
お医者さんに言葉の説明を求めたことがありますか?

IgM型骨髄腫と原発性マクログロブリン血症の違いについての説明を求めました。

Q8、
お医者さんとコミュニケーションが成立していると思いますか? 
成立していない時は、どこにその原因があると思いますか?

担当医は初診からの人で、既に4年半近くの付き合いになります。今では十分なコミュニケーションが取れていると思います。病気に対する知識を持つことで医者との会話がスムーズに行くことは確かです。

Q9、お医者さんと患者さん、この関係をたとえると何に似ていますか?

共に病気と闘うパートナーだと思っています。もちろん医者の医学的専門知識、臨床経験は何よりのも重要なのでパートナーといって対等ではないのですが、気分的にはパートナーでありたいと思います。

Q10、お医者さんに望むことは何ですか?

治療法などについて、十分論議する時間をとって欲しい。一つの治療法が効果を失い、次の治療法移る時どのような治療法を選ぶのか論議する時間がないので、診療時間の約5分の間に決めなければならない。

そのために、次にどの療法を選択するかを考えてきて、医者の考えと一致すればそれを行う。一致しない場合は、それぞれの利点と欠点を出し合って決めていく。これを5分でやるのだから大変だ。もう少し時間が欲しい。確かに診療に対する医療報酬のあまりの安さを考えるとあまり無理も言えないなとも思います。

事前に送られてきている質問シートに書かれていることを踏まえて会議で話を煮詰めていくにことになる。質問への回答は今日までで48通集まったそうだ。(つづく)

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臨時検診・ベルケイド3クール1回目

3月10日(水)
1週間前の検診の時に予定されたベルケイド第3クールの開始が発熱のため見送られたため、今日から第3クールを始める事になった。血液検査はベルケイドが可能かどうかのための検査で血算のみの検査のはずが、コンピューターに前回にデーターの変更が打ち込まれていなかったらしく全てのデーターが検査一覧表に記載されていた。こちらにとっては有り難いが検査する方は大変だ。

検査結果
 IgM   1617(3/10)←1557(3/3)←1493(2/17)←1670(2/3)
 白血球  4200(3/10)←9000(3/3)←2700(2/17)←1900(2/10)
 好中球  2890←7460←1400←660
 血小板  17.6←15.5←8.0←8.8
 赤血球  317←323←313←337
 ヘモグロビン 11.1←11.1←10.6←11.5
 網赤血球   12←17←24←19
 CRP   4.6←9.1←0.1←0.1


ベルケイド第3クールを今日から行う事に関して、医者はCRPがまだ高い事を懸念事項として上げた。どうするのかこれは患者の判断に任せる外ないという訳だ。ベルケイド療法の基本形は1、4、8、11に点滴し、10日休薬、これを8クール繰り返し1サイクルとなる。

今やっているのは、1週間おきに4回、1週間休薬というパターンで行っている。この方法で行った場合でも腫瘍縮小効果では基本パターンと比べ優劣が見られない。重要なことは副作用を軽減させる効果があるということである。

2週間の休薬のためか血小板が17.6とかなりの高値を示している。これならば大丈夫だという判断が働いた。2007年の時にベルケイド+デカドロンの併用療法をやった時に血小板数が1.1まで下がった事があり、血小板の様子を見ながら薬の量や、投薬の間隔を調整していた。ベルケイドと血小板の数値は密接な関係にある。

もう一つは、ベルケイド療法が8クールという連続した治療法になっている。もし何ヶ月も休薬したらまた最初から始める他ない。そういった意味で2週間が限度だなと思った。そこで医者に今日から第3クールを始めましょうと言った。

特にがん治療場合、本来医者の判断を不可能にする多くの場面があるような気がする。医者は選択肢を与えることは出来るが人の生き方に口を挟むことはできないはずなのだ。そういった場面が幾つも治療中に出て来るだろう。

弱い抗がん剤でQOL(生活の質)を維持する事を求めるのか、強い抗がん剤で一気にがん細胞を叩き完治を目指すのか。年齢によって確かに一定の治療法はあるだろうが、最終判断をする場合治療と生き方は密接に結びついているのだろう。

その事を分って患者に選択を任せる医者はあまりいないだろう。エビデンスに基づく標準治療に従って若者には強力な、年寄りには緩やかな治療法といった振り分けでやっているに過ぎない。

やはり医者との信頼関係をどのように築けるかどうかが、ガン患者であるという事といかに生きて行くのかという事を自己の中で統一させていくにとって極めて大きな課題であると思う。医者が選択肢を与えるのは、患者がそれを受け止める事が出来ると信頼してこそ可能なのだ。医者の資質と同時に患者自身の有り方も同時に問われるのである。

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気の持ちよう

3月8日(月)
N小学校から、「いのちの授業」を聞いた生徒たちの感想文が送られてきた。その中に小学生の発言とは思えない感想があった。それを掲載する。

死について恐怖を持つのは気の持ちようじゃないかということです。理由は余命を宣告された時「もう駄目だ」と思う人と「出来る事をやろう」という人に分かれると思います。悲観的な人は死の時に悔いが残って恐怖を感じると思うし、前向きな人は死の時に余命宣告からやれる事をやったから悔いが残らず恐怖を感じないんだと思うからです。だからこそ、いつでも何が起こっても僕は前向きに生きて生きたいと思います。

死への恐怖の問題をこういった言葉で分析している発想法に驚かされる。余命宣告されたとしても、残りの人生においてやりたい事をやり、その事によって人生に悔いが残らず、死を受け入れる事が出来る。その時死は恐怖ではなくなる。

確かに人生は気の持ちようによって全くその様相が変わってくる。高々気の持ちようでしかないわけだが、ガンなどという大病に罹った場合は特にそうである。 病気を楽観的に受け止め必ず治ると信じている人と、病気になった事を悲観して落ち込んでしまう人とでは病気の回復の度合いが違うと多くの医者が言っている位だ。

沖縄では何か困ったことがあると「なんくるないさ~」と言ってどうにかしてしまう。これは「どうにかなるさ」という意味だ。沖縄が長寿の県であるということはこういった性格に関係しているのだろう。

はからずも原発性マクログロブリン血症などという100万人に2、3人しか罹らない珍しい病気になってしまったわけだが、「どうにかなるさ」といった気持ちで過ごしていく外ない。気の持ちようで日々の生活は辛くも楽しくもなるのだろうから、どちらを選択するかは決まっている。

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天国はあると思うか。

8月8日(日)
7月に行った「いのちの授業」の話の後、話し手のOさんは生徒から「天国はあると思うか」という質問をされた。小学校5年生のこの素直な質問に対して、そんなものある訳ないよと言ってしまっては夢も希望もない。彼女は「私はあると思うよ」と答えた。それにどのような内容を付け加えることなくそれだけを言った。それ以外の答えはないのだろうとも思う。果たしてどのような答えがありうるのだろうか。

人は死を経験する事ができない。従って死後の世界があるか、ないかは誰も知る事が出来ない。天国があるかないかは誰もわからない。

天国は心の中にある。他人を慈しみ、いたわりあい、助け合いながら生きていけばそこに天国は見えてくるだろう。一方人を傷つけ、落としいれ自分の欲望のまま生きればそこには地獄しか見えてこないだろう。天国の地獄も来世の問題ではなく、今生きている人々のこころの中にある。

こういった答えが無難な所だろう。天国は心の問題などと解釈をせず素直に「あると思うよ」と言う答えの方が的を得ている気がする。子供の感性に抵触することなく適切な答えを提示するのは思ったより難しいものだ。

関連すると思った言葉があるので参考にしたい。

善人なお持て往生をとぐ、いわんや悪人をや。
往 生と言うのは浄土に行く事が出来るということだ。極楽浄土にいって生まれ変わること。つまりキリスト教的に言えば天国ということだ。善人は自分がいい事を しているから浄土にいけるだろうという驕りがある。それば無心になって、仏に全てをゆだね、その教えに帰依しようとする道を狭めている。一方悪人は自分の今までやってきた事を悔い、全身全霊で改心し、仏の道に進もうとする。だからこそむしろ浄土への道が近いというわけだ。また苦しみ続ける悪人こそが弥陀の救いの一番の対象だということもある。

金持ちが天国に行くのはらくだが針の穴を通るより難しい。
キ リストが言った言葉である。金に執着しなければ金持ちになれない。金を儲けるには広い意味で他人からの搾取が存在する。他人を足場にして這い上がるそう いった心のあり方が天国を遠ざけている。らくだが針の穴を通るということは絶対不可能であるように、金持ちが天国に行くということはありえないということ だ。この例えは、天国に行けるような生き方とはどういったものか、どういった道なのか考えさせる言葉である。

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梅・郷土の森博物館

3月5日(金)
久しぶりに上天気だった。昨夜かなり激しく雨が降りそのため全ての塵が空から払拭されたように空は青く冴え渡っている。気温も10度を越えているだろう。外は何とも気持ちがいい。今日を逃すとまたしばらく曇りと雨の日が続く。体調は完全に回復している。痛みは殆ど残っていない。大腿部の腫れが若干あるだけだ。

もう梅も最終段階だろう。ただ去年も一昨年も、2月中旬頃に何ヶ所か梅を見に行ったが満開だったためしがない。2月21日に湯島天神に行ったら2、3本しか咲いていなかった。梅見は3月がいいと確信した。

しかしどこでもどうして「梅祭り」を2月上旬からこりもせず設定するのだろうか。熱海梅園などは別としても2月下旬にならなければ、見頃にならないのは分っているはずだ。散り終ってまだ梅祭りの期間であるよりは、これから咲き始める時に行事を開始した方が格好がつくのは確かだが。

府中市郷土の森博物館に行く事にした。説明書によると“昔の復元建築物が8棟あり、梅園、芝生広場などもあり、自然や文化、全てが博物館であるという考え方のフィールドミュージアムになっている。施設内の南側にある梅園には、早咲きから遅咲きまで約60種1100本の梅が咲き誇り、「八重寒紅」(紅梅)や「八重野梅」「唐梅」「白加賀枝垂」(白梅)や早咲きのロウバイなどが楽しめるウメの名所でもある。”

「梅祭り」の期間が3月7日までから14日までに延長されたという記事があったので、丁度見頃だろうと予想できた。京王線の府中駅まではスムーズに行けた。駅から郷土の森博物館までのバス停を探した。確かにバス停はあった。

都内のバスの感覚で15分ばかり待てば来ると思って、しばらく待っていたが、ふと思いついて時刻表を見に行った。何と1日2本しか運行していない。1時間半待たないと最初のバスは来ない。どおりで交通アクセスの紹介に府中駅から案内がなかったはずだ。

京王線で一駅先の分倍河原からのバスに乗る外ない。ここからだと30分に1本出ているのは昨日調べて分っていた。分倍河原は1333年(元弘3・正慶2)新田義貞が北条泰家の大軍を破った古戦場で知られる。駅前には馬上にまたがる新田義貞の銅像が建てられている。

郷土の森博物館002_edited_convert_20100305231551 新田義貞像

京王線が朝の人身事故の影響で遅れていてなかなか来なかった。たった一駅なのに。分倍河原駅に着くとバスは丁度出たばかりだった。30分近くあるので食事にする事にした。どこに入ろうか迷い、店に入って何を食べようか考え、注文した品が中々来ず、結局30分後バスに乗るのを諦めてゆっくりと食事をして1時間後のバスに乗った。駅から郷土の森博物館までは10分もかからなかった。

入園料200円を払って入ると、最初の見物は昔の農家や町屋、歴史的な建物など復元し配置している情景だ。旧振津尋常高等小学校(1935年建築)、旧府中町役場(1921年)、旧府中郵便取扱所(明治初年)、旧島田家住宅(蔵造りの店、1888年)、江戸時代:旧田中家住宅(府中宿の大店)、旧河内家住宅(ハケ{崖}上の農家)、旧越智家住宅(ハケ下の農家)、旧三岡家長屋門と8つの建物が分散して移築ないし復元されている。そういった建物を巡っているとタイムスリップした感じなる。

郷土の森博物館011_edited_convert_20100305231657 旧島田家住宅

郷土の森博物館012_edited_convert_20100305231735 旧府中町役場 

郷土の森博物館018_edited_convert_20100305231830 旧河内家住宅 

郷土の森博物館052_edited_convert_20100305232413 旧三岡家長屋門

こういった建物一回り巡り、梅園に入る。梅園は小さいのが3ケ所あり、奥に広いのがある。早咲きであるはずの蝋梅もまだ咲いていた。梅は今が見頃で赤、ビンク、白それぞれの梅が満開で色の協演を奏でていた。

郷土の森博物館024_edited_convert_20100305231925 モミジの滝

郷土の森博物館029_edited_convert_20100306100546 しだれ梅

郷土の森博物館033_edited_convert_20100305232140 梅園中央あたり

早咲きの白加賀が花びらを少し散らしていたがそれ以外は蕾を残すこともなく咲き誇っていた。気温は20度近くまで上がってきたようだ。コートを脱いでも汗ばむほどだ。東屋があり、至る所にベンチがあり、さらに赤い布を敷いた縁台も用意されている。休む場所には事欠かない。老人向けの親切な対応だ。車椅子の団体も何組か来ている。久しぶりに天気だ。土日はもっと込むだろうがこれ以上込むと通路に行列が出来かねない。

郷土の森博物館034_edited_convert_20100305232238

郷土の森博物館042_edited_convert_20100305232327

池もあり、森もあり、縄文時代の柄鏡型敷石住居跡の復元、まいまいず井戸、万葉歌碑など幾つもの見所がある。約2時間の散策であったが、天気もよく久しぶりだったので堪能できた。

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雛祭り

3月4日(木)
今日1日熱が上がることはなかった。また痛みも軽減し腫れも引き始めた。このまま快方に向かうものと思われる。大事をとって一歩も家から出ず終日静かに過ごした。

2、3日前妹の家に行った。雛壇が飾られていた。妹が生まれた翌年から父親が毎年日本橋の白木屋から買い求め1組ずつ増やしていった。7段飾りとなっていて6年で揃えたということだ。それ以降欠かすことなく毎年すでに50年以上飾り続けている。何処かに出かける時は、早めに飾ったりして今まで欠かした事がない。よく続いたものだと感心する。

桃の節句の後に、5月5日の端午の節句があるが、親はあまり関心がなかったらしく、鍾馗人形が一つ有っただけで、小さい頃は男と女の差に憤慨していたものだ。鯉のぼりも手製のものだし、新聞紙で兜を折って被り、剣を作って遊んだ記憶がある。

雛人形006_convert_20100305212341 妹の所の雛人形

ひな祭りの起源:300年頃の古代中国で起こった「上巳節」にさかのぼる。(「上巳(じょうし/じょうみ)」とは3月上旬の巳の日)季節の変わり目は災いをもたらす邪気が入りやすいと考えられていたため、この日に水辺で穢れを祓う習慣があった。その後人形(ひとがた)で自分の体をなでて穢れを移し、川や海へ流すようになった。江戸時代になり人形作りの技術が発展し高級化してくるにつれ、人形は流すものから飾るものへと変化し、内裏雛を雛壇に飾る「ひな人形」が流行した。(All About)

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定期検診の日

3月3日(水)
朝熱をはかってみると38.1度あった。腰が痛いということもあり、また体がだるく起き上がるのも苦労した。しかし一担弾みがつけばどうにかなるものだ。

病院の外来入口には「38度以上の高熱があり、咳や鼻水、くしゃみなどの症状のある人は、救急医療センター入口に回って下さい」と掲示されている。熱はあるが風邪の症状は全くない。そこで担当医に電話し、発熱の状況を伝えた。救急医療センターに行かずにいつもと同じように血液検査を受け、診療を待っていて下さい、と言われた。

検査結果
 IgM    1557(3/3)←1493(2/17)←1670(2/3)←1586(1/27)
 白血球  9000(3/3)←2700(2/17)←1900(2/10)←1700(2/3)
 好中球  7460←1400←660←680
 血小板  15.5←8.0←8.8←8.3
 赤血球  323←313←337←319
 ヘモグロビン 11.1←10.6←11.5←11.1
 網赤血球   17←24←19←18

 IgG  248(3/3)←178(2/17)←203(2009/9/2)←326(2009/5/14) [基準値870~1700]

IgMが若干上がったがこれは許容範囲だろう。白血球と好中球が驚くべき増加を示している。外敵が侵入してきた時に、一挙に増加して闘いに備えるのだろう。まだこんなに力が残っていたのかと思うと少しは安心できる。いつもは0.1であるCRP定量が9.1になった。

医者に前もって電話したおかげで、血液検査の後すぐにレントゲン室に呼ばれ胸部と腹部の写真を撮った。肺炎の検査のために無菌の器に尿を採取した。またインフルエンザの検査として、鼻の穴の奥に麺棒を入れて鼻の粘膜を採取した。

医者の診察の時には、それらのデーターが揃っていたのでインフルエンザでも肺炎でもないという事が分った。それでは発熱の原因は何なのだろうか。発熱との関係は全く考えなかったが、腰と大腿部の痛みを説明し、腫れの状態を見てもらった。ぶつけた覚えはない、何か骨に異常が起きたのだろうか。

医者は次のように話した。蜂窩織炎(注)ではなないか。精密検査をやってみないとはっきりしたことは言えないが症状が似ている。発熱の原因もそこから来ているのだろう。蜂窩織炎かどうかは断言できない所はあるが、腰や大腿部の腫れは細菌による化膿性炎症だと思われる。感染症は病原微生物が人の体に侵入し、腫れや発赤、痛みや発熱などを引き起こす。抗生物質は病原菌を殺し解熱作用も持つ。

セフェム系抗生物質・セフトリアモンNa2gを1時間の点滴で投与することになった。その後、IgGがまだ回復していないので、免疫グロブリン製剤の点滴を2時間かけて行った。「IgGはウイルス、細菌、真菌など様々な種類の病原体と結合し生体を守っている」ということだから減少してしまうと感染症にかかりやすいのだろう。その他の免疫グロブリンの性能も弱っているのは確かだ。

服薬の抗生物質としてはジスロマック錠250mgを1日2錠3日間服用する。この薬は主に細菌による感染症に効果を発揮する。この薬は3日間飲むだけで1週間飲んだ働きをすると医者から言われた。腫れた患部に貼るようにとMS冷湿布が処方された。

朝38度あった熱は、医者の診療を受ける時にはかったら37.4度になっていて、点滴を始める時には36.8度にまで下がった。家に着いてからはかると平熱の36.5度になっていた。下がってもまた上がることがあると医者は言っていたが、このまま上がらないことを願う外ない。

(注)蜂窩織炎:皮膚の深いところから皮下脂肪組織にかけての細菌による化膿性炎症です。主として黄色ブドウ球菌によりますが、化膿連鎖(れんさ)球菌など他の細菌によって生じることもあります。症状としては熱感とさまざまな程度の痛みがあります。熱が出て、寒気・頭痛・関節痛を伴うこともあります。血液検査では、白血球が増え、CRPの上昇がみられます。(gooヘルスケア)

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発熱

3月2日(火)
朝起き上がろうとした時、腰が痛くて起き上がれなかった。昔ぎっくり腰になった事もあり、腰痛に悩まされた事もある。しかしその時の痛みとは違う。どちらかというと打撲の痛みだ。腰を触ってみると少し腫れている。

また大腿部の外側の所も同じような痛みがあった。夜中に寝ぼけて階段から落ちたのならこの痛みの原因は分るが、そんなことは絶対にない。腰と大腿部の痛みは普通に生活している分には、全く感じない。体を動かそうとしたり、腫れた所を押すとかなり痛い。

午後の散歩を終え家に戻ってこたつに入って、テレビを見ていると何故か集中できない。体がだるくすぐ横になりたくなってしまう。夕方熱をはかった。36.8度だった。微熱で収まると思っていたがとんでもない。

19時頃には37.5度、夜寝る頃には38.3度まで上がってしまった。化学療法を行っているがん患者にとって高熱は最も重要な感染症の赤信号だ。特にのどや鼻に違和感があるわけではない。急に高熱が出るということから言えば新型インフルエンザに罹ったのかもしれない。感染症の中で最もかかり易い肺炎なども高熱が出る。

発熱の原因など検査をしなければ分る訳はない。明日が丁度定期検診の日なので医者と相談してみて対処法を聞いてみる事が出来るので丁度良かった。明日まで発熱の原因は分らないので、新型インフルエンザだった場合を想定して、家族とは一切接触しないようにした。

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がん治療とは長く細い道を辿ら
なければならない。その先に希
望があると信じながら。

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