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西武文理大学看護学部・授業

10月30日(土)
 昨年に続き、今年も西武文理大学看護学部の1年生を対象とした「いのちの授業」が行われた。この大学で田中医師が患者学について1時間半の授業を8時限受け持っている。大体2週続けた土曜日で4時限ずつ授業を行う。午前中の2時限はももの木のメンバーが2名で各40分位授業を行う。その後質問時間となる。

今日の授業に講師として話す事になっている。火曜日に少し喉が痛くなったというところから始まった風邪がどこまで良くなるかが問題だった。水曜日は風邪のひきはじめだということもあって、まだ体調的にも問題はなかった。

木曜日になって咳と鼻水がかなり頻繁に出るようになった。体温は36.7度で微熱だったが、平熱が36度位なのでだるさを感じるようになってきた。金曜日、昼頃熱を測ったら37.4度と上昇しており、咳、鼻水もかなりひどくなってきた。水曜日に血液内科の担当医に風邪薬の処方をしてもらったのでそれを飲み、2日間一歩も外に出ず家に閉じこもっていたが、風邪は収まるどころかますます激しくなってくるようだった。夕方には熱は36.9度まで下がり、寝る頃には36.5度になった。鼻水も咳も大分収まってきた。しかし定例の「ももバー」があったがとてもいける状況にはなかった。

明日の朝発熱するということもありうる。血液がんという病気を抱えていなければ少し位の熱が出ても講演を行うことは出来るだろう。しかし27日の検査では白血球が2000、好中球が740と下がってきている。こういった状態で発熱したら残念ながら西武文理大学に行くことは難しいだろう。万が一行けない場合を考えて田中医師に相談した所「その場合には先週も学生さんから、もっと質疑応答の時間を長くしてほしいとの要望がありましたので、全体の質疑応答の時間を長くします」と返答があった。少しは安心した。

 今日、朝起きると風邪はかなり軽減していた、熱も平熱に下がり咳も鼻水も殆ど収まり体調的にも問題はなかった。しかしベッドから起き上がった時に、一昨日 あたりからじわじわと痛みを増しつつあった腰を中心に、激しい痛みが身体を貫いた。以前腰痛になった時と同じ症状だ。風邪がよくなったと思ったら今度は腰 痛だ。まさに踏んだり蹴ったりとはこのことだ。

外は真冬を思わせるような寒さで、台風の影響を受けた風雨が激しく地面を打つ。外に出るのもためらうような状況だ。その中を痛みの走る腰を折り曲げ、よちよち歩きでいつもの2倍以上の時間をかけて駅に辿り着いた。

新狭山駅でスクールバスに乗ろうと思って駅から少し離れたバス停に行ったが、そこには人っ子一人いなかった。土曜日なのでスクールバスの本数が少ないのは 分っていた。吹きさらしの駐車場で風雨にさらされながら10分位バスを待ってみたが、こんな事をしていたらまた風邪がぶり返してしまうと思って駅に引き返 した。駅前に路線バスも止まっていない。止むを得ずタクシーで大学に向った。

 参加者は5名、その中で2名が話をする。対象は看護学校の生徒83名。1時間目の冒頭から「いのちの授業」が開始された。簡単に5人が自己紹介をして、私がまず40分位話し、もう一人が続けて話す。それで1時間目は終った。

2時間目は、今回授業を受ける看護学校の1年生に対して行なったアンケートの集約内容を発表した。アンケート内容は幼少期の病気体験、白血病への認識度合 い、看護師の道を選択した動機などである。その報告が40分位かかり、その後今日の参加者5人全員が前に並んで生徒からの質問に答えていくという事になっ た。見学のつもりで来た人も嫌応なく回答者に加わることになった。                             

「抗がん剤の副作用はどのようなものか」「生きていることの意味とは何か、病気がどのような人生の転機になったのか」「看護師と関わりの中で印象に残ったことは何 ですか」どいった質問が出た。ひとつの質問に5人全員で答えたので、まだ何人かが手を挙げていたが、3つの質問に答えただけで時間が来てしまった。我々が 退席した後、残りの5分位で生徒は出席用紙のコメント欄に授業の感想を書いた。

無題 控え室で学校側が用意した弁当を食べた。土曜日は学食が休みだ。大学の近くには飲食店は見当たらない。大学のキャンパスは入間川と260号線の間にあ り、周りは木々に囲まれ人家も見当たらないほど閑静な場所にある。「いのちの授業」を行った看護学部の建物である8号館は、そのすぐ脇に入間川が流れ、自然の只中に溶け込むように建っている。

田中医師がコメントを書いた用紙を持ってきてくれた。授業をやった後生徒がどのように話の内容を受け止め、どういった感想を持ったのかを知ることは授業をやった者としての最大の関心事だ。(右写真・看護学部8号館)          

「病気は神様がくれた休日」「いかに生きるかを追求する事を止めた時、その人の成長は止まる」「断言していい、がんは僕の人生に起こった最良のことだ」など講 演の中での印象に残った言葉を上げ、生や死、いのちの問題について考えさせられた、といった感想で満ちていた。授業中居眠りをしていた生徒もいたようだ が、それぞれ真面目に話を受け止めてくれていたということがコメントの中にはっきりと記されていた。

 帰る時、台風が接近しているからだろう風雨ますます強まってきていた。去年帰りスクールバスで帰ろうと思ってバス停で待っていたが、時刻表は全く当てにならず、1時間近くも待った。暖かい日だったので良かったが、今日のような日では耐えがたい。

車で来た人が川越駅まで送ってくれるというので助かったという感じだ。JR線、東武線の川越駅までは20分位だ。一緒に川越駅まで送ってもらった人が折角こ こまで来たのだからと、小江戸川越の観光巡りをしていくと言った。台風が来ているのに大丈夫かなと思ったが、もし腰が痛くなく、風邪もひいてなく、台風も 接近しつつあるのでなかったら、当然私も川越の古い町並みを見て回るだろう。
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北区のさんぽみち-7 赤羽・十条エリア

10月27日(水)
 血液検査、眼科検診、血液内科検診、レナリドミド処方、ゾメタ点滴を済ませ病院を出たのが14時だった。少し喉が痛く風邪気味だった。風邪でも市販の薬は、今飲んでいる薬との相性が分からないので、担当医に処方してもらう外ない。風邪が悪悪化した時のために、PL顆粒(総合漢方薬)、クラリス(抗生剤)、ムコダイン(粘膜強化)を処方してもらった。

病院を出ると珍しく秋晴れの上天気だった。めったにない晴天の機会だった。家にすぐ帰るか少し散歩していくか迷ったが、結局行く事にした。今回はコースが短く、行き易いのを選んだ。北区のさんぽみち「赤羽・十条エリア」だ。コースは以下の通り。

JR 赤羽駅→静勝寺→香取神社→法真寺→鳳生寺→稲付公園→清水坂公園→十条富士見銀座商店街・十条銀座商店街→JR 十条駅

赤羽駅の西口に降りる。東口もそうだが繁華街が広がっている。東口の方は駅からかなり繁華街が続くが、西口のほうはすぐ繁華街が途切れ、閑静な住宅街に入り込む。西口方面は、駅から少し行くと小高い丘になっている。神社仏閣はこの丘の上にある。最初の目的地静勝寺には、急な階段を上っていかなければならない。静勝寺のある場所は昔稲付城があった。階段を上った所に稲付城址の説明看板がある。

静勝寺(自得山 曹洞宗)
江戸城を造ったことで知られる室町中期の武将・太田道灌が、砦として使用したといわれる稲付城。道灌の死後、稲付城を寺にしたのが静勝寺のはじまりです。稲付城跡はこの寺域から南へかけての丘陵一帯とされています。

稲付城跡
この付近には鎌倉時代から岩淵の宿が、室町時代には関が設けられて街道の主要地点をなしていました。稲付城は、その街道沿いで三方を丘陵に囲まれた土地に、江戸城と岩槻城を中継するための山城として築かれたのです。その後も江戸時代を通じて太田氏は、木造太田道灌坐像(北区指定有形文化財)が安置された道灌堂や厨子を造営するなど静勝寺を菩提寺としていました。

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 静勝寺本堂                          道灌堂   

 静勝寺から次の目的地香取神社に向う。丘の上の道は幅が狭く全て曲がっている。真っ直ぐな道がない。また行き止まりが多い。これは城があった時の道をそのまま使用しているからだろうか。敵が来た時に要所、要所で待ち伏せるのに道が狭く曲がっていた方が闘い易い。

曲がっている道というのは道を間違えるといつまでたっても同じ所を回っている事になりかねない。なかなか香取神社に辿り着けないので、向こうからやってきた70歳位の老人に道を尋ねた。この位の年齢で昼間歩いているということは、定年退職した人が多い。そういう人は、近所の散歩をよくするし、地元の神社仏閣についてかなりの知識を持っている人もいる。昔道を訪ねた時、目的の寺院の由来について、15分ばかり解説してくれた事がある。

 道を尋ねる時、神社は知らないかもしれないので、傍の公園の名前で訪ねた。「稲付公園はどこですか」と。それを言い間違えて稲村公園と言ってしまった。その老人はそんな公園はありませんよとそっけなく答えた。質問を変えて香取神社を知っていますかと聞いたところ親切に場所を教えてくれた。

再度北区のさんぽみちのモデルコース表を見て、稲付公園である事が分ってその場所を聞いた所、それは知っていると場所を教えてくれた。折角教えてくれたので、どうこういうわけではないはないが、通常稲付を稲村と間違えた質問に対しては、「稲付の間違いじゃないでしょうか」とか「稲付公園ならありますよ」と答えると思うが、それをそんなものありませんという一刀両断に切捨てる態度はむしろおかしかった。聞いた道を5分ばかり行くと香取神社とその隣にある法真寺に辿り着いた。

香取神社の境内からは見晴らしがよく新幹線、京浜東北線が見られる。法真寺には木々が生い茂り、空を突くような巨木の影が境内おおっている。枯山水の庭はよく手入れされ、その庭を見るだけでも来たかいがあったというものだ。

香取神社
旧稲付村の鎮守社です。創建時期は不明ですが、伝説によれば奥殿の中に安置されている朱塗りの本殿は、かつて上野東照宮の内陣だった物で、三代将軍家光が霊夢を見たことにより慶安3年(1650)に稲付村に移築したものとされています。

境内には北区内では珍しい「力石」が7個奉納されています。力石というのは、昔、村の力自慢の若者たちがこれらの石を差し上げて競技したもので、軽い物で約71Kg、重い物では約 260Kgもあります。

021_convert_20101028165047.jpg 赤羽十条オース019_convert_20101027222523
 香取神社本殿                       力石

法真寺(稲附山 日蓮宗)
天正元年(1537)、慈眼大師(天海僧正)の弟・證導院日寿上人の開山で、 開基は京都山科毘沙門堂跡守澄法親王と伝えられています。慶安2年(1649)に徳川家光より十三石二斗の御朱印を賜りました。現在でも京都では、門跡寺院の格式で処遇されているそうで、京都の公家寺と同等に、塀に二本の白線を入れる権利を持っています。

016_convert_20101028170943.jpg  赤羽十条オース011_convert_20101027222305
 法真寺山門                         本堂

 稲付公園に向うため坂を下っていくと突き当たりに暗く木々に覆われた寺院が目に入った。寺院の前に坂があり鳳生寺坂と呼ばれている。北区の坂には四角の鉄柱が建っていて坂の名前とその由来を書き記してある。

柱には次のように書かれていた。「この坂は、鳳生寺門前から西へ登る坂で坂上の十字路まで続き、坂上の旧家の屋号から六右衛門坂とも呼ばれます。坂上の十字路を右(北)へ向かうと赤羽駅西口の弁天通り、左(南)へ向かうと十条仲原を経て環七通りへと至ります。」

坂の名前の由来から江戸時代の交通網を理解していくのは面白い。鳳生寺には裏山があるが何十年も手入れしていないような木々が鬱蒼と茂り暗く沈鬱な雰囲気が漂っていた。本堂も人気がなく古色蒼然としたその相貌は歴史の谷間に埋もれた廃屋を思い起こさせる。

 この寺の裏山は稲付公園と背中合わせになっている。再び坂を上がり稲付公園に行くと、ここは高台になっていて見晴らしがよく、木々に覆われ夏などは涼を取るのに最適だろう。稲付公園から清水坂公園までは5分位だ。

かなり広い公園で入口に「向かい合って」という皇太子御成婚記念のモニュメントが立っている。武蔵野台地の崖地を生かした高低差のある公園で、その高低差を利用し滑り台や滝、渓流が作られている。ジャブジャブ池があり夏は子供たちにとって絶好の遊び場所だろう。時期外れなので放流は中止になっていた。広い芝生の広場がありゆったりとくつろぐのに最適だ。

北区自然ふれあい情報館が併設されており、自然環境についての展示や自然に触れたり、学習できる施設がある。

鳳生寺(岩淵山 曹洞宗)
 
曹洞宗の鳳生寺は、岩淵山と号し、太田道灌の開基と伝えられ、放生寺と号していました。岩淵より当地へ移転、また近年鳳生寺と改称しました。北豊島三十三ヶ所霊場11番札所です。

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 鳳生寺本堂                         稲付公園からの眺望

清水坂公園
山間の渓流をイメージした「流れ」は、全長150m、高低差10m、7か所の出口からは毎分約5トンの湧水(減菌処理水)を放流している。また、スピード感あふれる、長さ52mのローラーがあり、芝生広場の周りにはおよそ68種360本の樹木が植えられている。

赤羽十条オース040_edited_convert_20101027223330  037_convert_20101028173038.jpg   038_convert_20101028173442.jpg
  入口のモニュメント         公園の石の造形

清水谷公園から十条富士見銀座商店街・十条銀座商店街を経て埼京線十条駅に向う。商店街に入って直ぐの所の露地を曲がると日枝神社がある。かなり小さくパッとしない神社だが地元では庚申塔の建立300年を記念して十条仲原庚申講が復活している。

仲原庚申講では、暦のうえで、60日目ごとに廻ってくる庚(かのえ)申(さる)の日に、年間6回庚申祭りを催し、夜店も出る。また神社の祭りの神輿もここから出る。地元では大きな意味を持っているのだろう。

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 日枝神社                          十条銀座商店街

十条銀座商店街はアーケードで覆われ、16時半頃だったが、かなりの買い物客で賑わっていた。大型スーパーの進出で地元商店街が疲弊していく中で、活性化しているここの商店街はよくニュースでも取り上げられる。この商店街の入口に十条駅はある。
(参考資料:北区観光HP)

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定期検診の日

10月27日(水)
今日はレナリドミドが効果を続けているか、好中球の減少が止まっているかが最大の関心事でであった。好中球が500以下になったら、レブラミドの服用を中止せざるを得ない。

検査結果 
 IgM   3300(10/27)←3642(10/13)←3887(9/29)←3487(9/15)
 IgG    603←563←558←518
 白血球  2000←2000←3400←3500
 好中球  740←680←1310←1550
 血小板  8.0←7.8←8.2←9.0
 赤血球  292←293←299←294←296
 ヘモグロビン 10.0←10.0←10.1←9.9
 網赤血球   12←8←11←14
 CRP   0.61←0.21←0.31←0.44


レナリドミドが効果を発揮している。この薬は21日間連続して服用し、その後7日間休薬しそれを繰り返す。当面レナリドミド単剤で3カプセル(15mg)服用で続けていく事になるだろう。これが効果がなくなったら、標準の5カプセルにするか、デキサメタゾンかメルファラン+プレドニンの併用療法になると思う。

少なくとも1、2年はレナリドミドでやっていけるのではないか。問題は骨髄抑制、とりわけ白血球(好中球)の減少である。好中球は今回少し上昇したが、依然低位置に止まっている。1週間の休薬後の検査なので少し増えただけなのかもしれない。次の診察日11月10日にどういった値が出るか極めて問題だ。副作用のため効果的な薬を諦めなければならないことにはなりたくない。

レナリドミド(商品名レブラミド)の適性管理手順(レブメイト)は、サリドマイドの管理手順の煩雑さに対する反省から作られたものだと思っていた。サリドマイド治療の負担軽減とより良い治療環境を目指して、タームス(サリドマイドの適性管理手順)の実態調査が昨年1月から行なわれた。この調査は同時にレナリドミドの完全管理システムをより適正なものにする事を目的としていた。その結果は当然レブメイトに反映されるものでなければならなかったはずだ。

多くの患者がアンケートに答え、サリドマイドを受け取るまでの煩雑な手続きが、かなりの患者負担になっているということが明らかにされた。それを結果をもとに、タームスの手続きの簡素化と、新たに開始されるレナリドミドを受け取るまでの手続きにおける患者負担の軽減が図られる予定だった。

しかし実際レナリドミドの処方を開始した所、手続き的にはサリドマイドと全く同じであった。前日のタームス・センター宛て○×式の患者の現状報告のファックス送信がなくなっただけでほかは全く変わりない。そのファックスを送る変わりに2ケ月に1度「レブメイト遵守事項確認表」に必要事項を記載しレブメイト・センターに郵送で送る事が義務付けられている。

最初に医者の所で、10項目くらいの質問事項に答え医者はそれを看護師に渡す。15分位待って、質問事項その他の書類を看護師から渡されそれを持って薬剤部にいく。そこで別室に呼ばれ、飲み終わった空のカプセルシートを渡し、5分ばかり質問を受ける。毎回、紛失しなかったかとか、飲み残しはないか、この薬が催奇形性の可能性のある内服薬であるなどの説明を同じように聞かされる。薬剤師ももう何度も聞いて分かったいるでしょうけどと言いながらも義務として説明する。

薬が準備できる時間を見計らって受け取りにいくと再び薬の管理方法についての説明がある。レブメイトキッドというものは23×19×2.5cmのかなり大きな薬入れである。薬以外にはレブメイト登録カードが挟まっているだけだ。これを毎回持っていかなければならない。こういった手続きを経てやっと薬を手に入れる事が出来る。

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眼科の治療・デノシン注射9回目

10月27日(水)
9時から眼科での診察とデノシン硝子体注射を行った。今日は血液内科の定期検診がありそれに日を合わせてもらった。眼科診療の前に血液検査を受ける。IgMの数値が分かるのに1時間半位かかるので始めに血液検査をする。

デノシン注射を今まで8回行い、これ以降の治療方針を決めるため、担当医の診察の後に目の細菌の専門医に診察してもらった。視力の低下、視野欠損の原因は、サイトメガロウイルス(CMV)による網膜の腫れと出血、静脈の血栓だということで注射を続けてきた。確かに視野は広がり明るくなって来ている。

医者の目の状態について次のように説明した。「網膜の腫れも引き、出血も止まり、静脈の血栓も改善し、血流が回復してきている。しかしまだCMVの働きが消滅したわけではない。少しでも残っているとまた活性化してくる。大分良くなっているからといってやめた場合、再活性化した時にはまた最初からやり直さなければならない。しばらく注射は続ける必要があるだろう。

CMVが沈静化すれば、かなり視力が回復するだろうが、どうしても一部の視野欠損は残ってしまう。ある時期に網膜の中央部分にある動脈が、梗塞(終末動脈が急に閉塞され、その動脈が支配する末梢流域の組織に血行障害をおこして限局性の壊死がみられるもの)を起こした。これはCMVとは関係なく回復の見込みはない。静脈の血栓もあったがこちらの方は血流が戻り少しずつに回復している。」

CMVの活性化を抑えるには、免疫力を高めなければならない。しかし、レナリドミドの治療を開始してから13日の診断では好中球が680という状態だった。今日の検査でも740と低迷している。免疫グロブリン(抗体)の働きは原発性マクログロブリン血症の特性として弱体化している。IgGは603とかなり増えてきているが基準値には達していない。IgMもどこまで機能しているか分からない。

免疫抑制剤でもあるステロイドはこの間使用していない。コートリルという弱いステロイドを毎日服用しているが、これは急にステロイドを投与を中止すると、副腎の働きが追いつかず、ステロイド離脱症候群といった形で発熱などを繰り返すことになるので服用しているということだ。

自己免疫力に期待できないということでデノシン注射に頼る外ない。しばらくは眼球注射を受けざるを得ない。眼球に針を刺されるのは特別の痛さはないが何度やっても緊張する。長期になるかも分からないがそういった心構えで治療を継続していく外ない。

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生徒たちからの授業感想文抜粋

10月25日(月)
A校からの感想文
・ 余命宣告されてもあまり絶望しなかった、という言葉が印象的でした。ぼくだったらあまりのショックで自殺してしまうかもしれません。それからぼくは死んだらどうなるかを考えるようになりました。

・ 私が余命宣告をされたら、毎日びくびくしながらも1日1日大切にしたいと思います。

・ 自分が生きているのが当然、明日が来るのは当然だとばかり思っていました。1日1日を意識したりするわけでもなく今日まで生きてきました。一度親戚の死に 出会ったことがあります。そして死がこわいと思うようになりました。けれどMさんのように強く生きるために今までの自分を見つめなおそうと思いました。そして今日を大切に生きていこうと思いました。

・ 命の大切さについてよく分かりました。死というものの意味、また生きるという事についてのことがよく分かりました。正直死んでしまうのが怖いと思いました。でも授業で話されたように人生には限りがある、その事についてよく理解できました。

・ Mさんは病気を打ち明けられた時、落ち込まず受け止められたのがすごいと思います。ぼくなら立ち直れず、閉じこもったり自殺したりしてしまうと思います。ぼくは今日知ったことがあります。マイナスをプラスに変えて生きることです。

・ 今まで明日は当たり前のように来ると思っていました。けれど今日Mさんから明日が絶対に来るとは限らない、と聞いて改めていのちの大切さを実感しました。またこれからの1日1日の時間を大切に大切にして生きていこうと思いました。

・ 話を聞いて命はすごく大切なものだと知りました。ぼくはたまに死んだらどうなるんだろうと思ったことがあります。ぼくは当然のように明日を迎えて生きているけれど、病気にかかったらいつ死ぬかわからなくて、いつも死と隣り合わせなのです。その中ででも前向きに生きいけることが出来ればそれはすごいことです。

・ 何で人間も生き物も死というものがあるのだろうと思いました。死を宣告されたらショックを受けるだろうと思いました。授業を受けて、今日からは1日1日を大切に過ごそうと思いました。

・ 死を怖がらないで今を生きている事に心を打たれました。くじけそうな時、Mさんの事を思い出すと立ち直れる気がします。飼っていた犬が突然死んでしまいました。だからその犬のためにも生きようと思いました。

・ 話を聞いて一番思ったことは、明日は来ないかもしれない、今日で最後かもしれないと思って生きることです。ぼくは人間は必ず明日が来るものだと思っていま した。しかしがん患者の皆さんは明日がこないかも知れないと思って生きている事が心にものすごく響きました。ぼくは今まで死を恐れていました。けれど今日Mさんの授業を受けて変わりました。そんなに死が怖くなくなりました。1日1日を大切にしたいです。

・ 授業を受けて命はとても大切だと実感しました。それと命はいつ尽きるかわからない。重い病気になった人は死が明日来るかもしれないと思いながら闘っているんだなと思いました。こういった話の中で死についてよく分かりました。

・ Mさんの話を聞いて思ったことは、毎日が最後の日と思いながら生きるということです。病気の人は毎日次の日も生きてるかなと考えているということを聞き、 毎日を人生の最後の日だと思いながら生きようと思います。ニュースを見ていて、自殺をした人は何故自殺をするのだろうと思います。何か理由があるのは分かっていますが、病気の人は毎日を生きようとしているのに自殺するのはぜいたくだと思います。Mさんの話を聞いたら死というものはぼくにとって怖くなく なった感じがします。これは日々どうのように生きるのかにつながっている。

・ ぼくは、Mさんの話を聞くまでは死はものすごく怖いものだと思っていました。でも死は皆に来るものだと話してくれました。死は怖くないのかなと思いました。1日を大切にすることの意味を知りました。

・ 飼っていたハムスターを死なせてしまいました。今となっては後悔しています。Mさんの話を聞いて後悔しないように生きることを学びました。ですから1日1日を大切に生きようと思います。

・ もし私が病気になって1日をどうやって過ごすかと言われたら楽しく過ごしたいと思います。でもMさんは1日を大切にして過ごして、幸せな気持ちになるんだなと思いました。親戚のおじいちゃんが亡くなってとても淋しい気持ちになったけど、今日の話を聞いていくうちにおじいちゃんの死をどう受け止めるかについていい話を聞けたと思いました。

・ 授業のおかげで死とはどういうものなのかなんとなく分ってきました。人は明日死ぬかもしれない、だから1日1日をすごく大切に生きていけたらいいです。

B校からの感想文

・ あたり前だと思っていたことは全て生きているからできる。今生きていることはとっても幸せなことなんだなと感じることが出来た。

・ 限られた命でも、今を一生懸命生きようと思えたのは、家族や仲間の優しさがあったからだと思いました。人間は互いに支えあいながら生きていく事がとても大切だと分かった。

・ これからは一人一人の人間や動物をいつくしみ、一日一日を大切に生きていきたいと思います。

・ 死はいずれ誰にでもやってくるものだから、それまでの人生をどうやって生きていくのかが大切だという事が分かった。誰でも命は限られていて、今を精一杯生きるという事の重要さが伝わった。

・ 命を大切にするということは、悔いの残らない日々を過ごすということだと改めて分かりました。

・ 今までは明日が来るのがあたりまえだったけど、病気になった人の話を聞いて本当は明日が来ることは素晴らしいことだと思った。

・ 人は生きている、生きているから死ぬ。でも考え方を変えると「死」は新しい道へのスタートなのだと思う。

C校からの感想文
・ ぼくは健康に生まれ、健康に育つことを普通のことだと思っていました。でも今日の話で自分たちは幸せなんだなと思いました。

・ 「諦めなければ必ず道は開ける」ということが話を聞いて一番心に残っています。

・ 死や命について考えるようになり、すごくこわくなりました。お母さんにそのことを言うと「今の一瞬一瞬を懸命に生きていればこわくなくなるのよ」と言ってくれました。

・ 患者の苦しみは心に響きました。改めて自分が生まれてきたことを色々な人に感謝したいと思いました。

・ 私は今まで明日が来るのは当たり前だと思っていましたが、本当は当たり前ではなくとても大切だということが分りました。

・ 「明日生きているのは幸せ」この言葉を聞いて命の大切さが分りました。

・ 僕は友達に「明日何して遊ぶ」と言った事が何度もあるけれど、話の中で「明日があるとは限らない」ということが心に残った。

・ この話をきっかけにして人と仲良くしたり、自分を大切にしたりして命を出来るだけ無駄にしないで生きて行きたいと思います。

・ 話を聞いて「人生は限られているから1日がどれくらい大切なのか」に気がつかされました。これからは1日1日を大切にしようと思いました。これからは本当に身近な人、友達やお母さんたちを大事にしたいと思います。

・ これからの人生で嫌いな人が沢山できると思うけれど、絶対に「死んでほしい」だなんて思わない。どんな嫌なことがあっても「死のう」だなんて思わない。この考えを大切にしてこれから生きて行きたいです。

・ 「人生は1回きりで、余命は運命であって変えることは出来ない」と言うことを聴き、私は限られた人生の中で色々なことを経験していきたい、それが一番幸せなのかもしれません。

・ 僕は「死にたい」と思ったことがあります。この授業を聞いて命の大切さを知りこれからは「死にたい」などと思うことはないと思います。

D校からの感想文

・ 「いのちの授業」を聞いて、命に対する考え方が大きく変わりました。これから私は自分の命、皆の命、家族の命を大切にしたいです。

・ 僕は生きているのが当たり前だと思っていました。けれどもうちょっとで死ぬ人にとっては当たり前じゃないんだなと思いました。これからは1日1日を大事に生きていきたいと思いました。

・ よく新聞で自殺とか事件があるけれども、事件を起こす人は必死で生きている人の事を知らないんだと思いました。

・ 話を聞いて初めて生きる意味や、死の恐ろしさについて真剣に考えました。死ぬのが怖くてびくびくおびえながら生きていては駄目なんだということに気がつきました。僕の人生もこれから辛く悲しい事が起こると思うけど、前向きに生きていこうと思いました。

・ 生きていく事とは何なのかを考えました。生きていく事とは一人で生きていくのではなく、家族や友達と生きていく事が大事なんじゃないかなと思いました。命の事を真剣に考えたのは初めてだったのでいい経験になりました。

・ これからはもっと自分の人生を前向きに生きていこう!と思いました。今生きたくても生きられない人たちがたくさんいる世界で生きていられるというありがたみをもっと感じながら、今の自分の悪い所を変えていけるように頑張りたいです。

・ 「いのちの授業」を受けて、心から思った事は、この日本に生まれた事、人間という生き物に生まれた事がどんなに幸せな事か考えました。

・ 私は今まで生きている事が当たり前のように思えてました。でも病気の人や、生まれつき手が無い人や、もう治らない病気の人は今生きている事が当たり前でなくて、1日1日を大事に生きているんだなーと思いました。

・ 僕はよく友達とけんかなどすると「死ね」「消えろ」など言ったりしているので、今度からは言わないようにしたいです。もし言ってしまったら今死にそうな人とかに失礼なのでもう絶対に言いたくないです。

・ 生きるとは、明日のために未来のために出来る事を考えてそれを実行して、分からない事を探すために生きているんじゃないかなぁと思います。

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自然との共生を

10月24日(日)
§ TBSの朝の番組「サンデー・モーニング」の「風を読む」では、日本各地の市街地にまで出現する野生動物の置かれている状況について取り上げた。人間の手による自然界のバランスの崩れ、生態系の破壊によるものだといった観点で、世界で起こっている生態系の異変が映し出された。

明治時代まで人間は動物を自分たちと同じレベルで考えていた。日本にも近代主義、西洋的価値観が蔓延し、人間の絶対的価値を大前提に進歩を優先し開発を進め、人間は過剰に消費し自然との共生を放棄した。乱開発と乱獲によって自然を破壊し、森を疲弊させてしまっている。

人間は何かを得ると何かを失う。そしてそれを修復しようとはしない。地球という生態はバランスを失い、それがやがて人間に跳ね返ってくる。自然破壊を行ないながら開発と浪費を繰り返してきた人類に対して、自然は復讐を開始するだろう。そしてそれは地球温暖化という形で既に始まっている。

明治の初期にある外国人が日本の家屋を見てヤモリ、蛇、ケジケジなどの生物が動きまわっているのを見て驚いた。どんな動物とも共存して暮らすという事が何の疑問もなく行なわれていた。どんな無意味に見える生物でも生態系の中で必要な役割を果たしている。

昔日本に来たアメリカの女性が馬に乗ろうとしてその扱い辛さに、日本人は動物を甘やかしていると言った。日本人にとって家畜は支配し従属させる物ではなく、いわば家族の一員であった。

§ 江戸時代日本にやってきた宣教師が「人間は神が作った最高の被造物である」と話をしたところ、聴衆のひとりが「何故人間が他の動物より偉いのか」と質問した。

村上春樹の「人食い猫」という短編小説に同じような話があった“私はすごく厳格なカソリックの学校に通っていた。その入学式のすぐ後で、偉いシスターの話があった。「船が難破して無人島に流れ着く。ボートに乗れたのはあなたと一匹の猫だけ。島に食べ物はなく、ボートには10日分の飲料水と乾パンがあるだけ。

あなたならどうしますか?その乏しい食べ物を猫に分けてやりますか?それはいけません。皆さんは猫に食べ物を分け与えてはいけません。何故なら、皆さんは神に選ばれた尊い存在であり、猫はそうではないからです。ですからそのパンはあなた一人で食べるべきなのです。」”キリスト教的、西洋的価値観を端的に現した文章だ。


幾つかの野生動物の現状が放映され紹介された。熊が民家や町の路上に出没する事が各地で頻繁に起こっている。こういった野生動物の出没は、国の施策に対する警鐘のようでもある。奥山と人里の中間地帯にある里山が開発によって減少し、森と人里の距離を縮める。杉の植林によって広葉樹が減少して、ミズナラやコナラなど熊が主食とする木の実が減り、熊が食料を得にくくなって来ている。

エゾシカ

昨年札幌市にエゾシカが現れた事があった、エゾシカは明治初期の乱獲と豪雪により、一度は絶滅の危機に瀕した。ところが、その後の保護政策と天敵だったエゾオオカミの絶滅などを背景に個体数を徐々に回復させてきた。天敵のいないエゾシカの生息数は増大し、道内には現在30~40万頭のエゾシカが生息している。10万頭程度が適正生息数である。年間の農林被害は30億円といわれている。カナダから狼を輸入しようという話も出ているという。

カンガルー

オーストラリアでもカンガルーの駆除を始めている。ディンゴというオーストラリアでの最大の肉食獣でコアラやカンガルー、家畜の天敵であったが、家畜を荒らすという事でかなり駆除された。天敵が少なくなったカンガルーが首都キャンベラ近郊で大量に繁殖し、干ばつで草が多い市街地に出没するようになった。政府はカンガルーの大量処分を認可し「カンガルーを安楽死させる方法」などという本まで出て、カンガルーの殺処分が行なわれている。

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荒川コスモス街道

10月20日(水)
 眼科の治療を終えて、病院を出たのが11時だった。外は傘をさすほどではなかったが雨がパラついていた。早く終わったので遠距離の場所の散策も可能だ。花の名所案内には「荒川コスモス街道」のコスモスが800万本咲いていると書いてあり、他から比べると圧倒的に多い。

ここでは23日、24日にコスモス・フェスティバルがあり、それ以降コスモスを自由に持って行っていいという無料花摘みが行なわれるらしい。以前葛西臨海公園にキバナコスモスを見に行ったが、花摘みが終った後で、花は全く残っていなかった。どちらにしても23日前に行かなくてはと思って、雨が降っているが決意して行く事にした。

 田端駅から赤羽で高崎線に乗り換え吹上駅まで45分で着いた。帰りもちょうど来た湘南新宿ラインの電車に乗り池袋まで45分だった。思ったよりかなり早く着いた。吹上駅あたりも通勤圏なのだろう。建売住宅が並んでいる。そのためか、高崎線沿線に行くのに列車の便が多く非常に便利になった。特別快速や快速など頻繁に出ていて、上野からも新宿、池袋からも極めて行きやすい。

昔、熊谷の八木橋デパートが取引先であり、熊谷によく行ったがかなり時間がかかったような気がする。都心から45分でいけるのだから、池袋からだと世田谷区や目黒区などに行くより近い位だ。

 吹上駅南口からフラワー号というバスが「コスモス・アリーナふきあげ」まで出ている。しかしこのバスは朝夕は1時間1本、昼間は2時間に1本しか出ていないので利用しづらい。コスモス・アリーナは、荒川コスモス街道の中心にありコスモス畑を見下ろす土手の上にある。

吹上駅から南へ向かって30分位歩くと、荒川の左岸堤防に行き当たる。そこから土手に上ると、荒川水管橋が見える。全長1100mで、日本一の長さの水管橋らしい。利根川の水を南へ運んでいるそうだ。

荒川コスモス街道002_convert_20101021004359 荒川水道橋

ここから荒川コスモス街道は始まる。大芦橋から武蔵水路までの荒川堤防沿い約4.5kmと、コスモス・アリーナ周辺の花畑に、約800万本のコスモスが咲く。

荒川水道管を上に見ながら、コスモス・アリーナに向って土手上の河川管理道路を歩く。この道路に沿ってコスモスが植えられている。中心はアリーナの下のコスモス畑である。アリーナには15分位で着く。

荒川コスモス街道006_convert_20101021004459 水道橋からコスモスアリーナ方面

 コスモスはまさに見頃だった。大当たりといった感じだ。色々花を見に行くが早すぎたり遅すぎたりなかなか最盛期に出会うことはない。ついでに行く事が多いから止むを得ないが今回は運が良かった。

コスモス畑は中に通路があり、コスモスに囲まれながら見て回る事が出来る。ピンク系の花が中心だがイエローキャンパスだけで一角が埋められている。ピンクと白のコントラストが花畑をより一層引きたてている。土手上からはコスモス畑の全景を見渡せる。

荒川コスモス街道037_convert_20101021004855 フラッシュピンク、センセーションなど

荒川コスモス街道026_convert_20101021004800 イエローキャンパス

荒川コスモス街道029_convert_20101021004654 アリーナから見たコスモス畑

コスモス・アリーナに売店とか食堂とかがあるかと思って行ってみたが、体育館でそういった設備はなかった。観光客は弁当を持ってくる外ない。土手の芝生の所で、シートを敷いて食事している幾つかのグループがいた。屋台が一台出ていて、鴻巣のB級グルメ「ゼリーフライ」と「つくねの串揚げ」を売っていた。

荒川コスモス街道010_convert_20101021004954  荒川コスモス街道014_convert_20101021005045

荒川コスモス街道022_convert_20101021005148  荒川コスモス街道053_convert_20101021005247

 アリーナ周辺で休憩を取り、荒川コスモス街道の残り約3.5kmを歩くために出発した。コスモス畑周辺にはそれなりの人出があったが、コスモス街道を歩こうなど思う人は少ないのだろう。かなりゆっくり歩いていたので、4人の人に追い抜かれた。私以外4人しか来なかったというわけだ。

荒川コスモス街道048_convert_20101021005500 道路沿いのコスモス

荒川コスモス街道066_convert_20101021162239  荒川コスモス街道058_convert_20101021162857

土手の最頂部にある河川管理道路を歩きながら右側にコスモスがずっと列を作っているのを心ゆくまで鑑賞できる。右に荒川の河川敷が広がり、左は畑や農家の情景が広がっている。河川敷が広く荒川は見えない。40分以上たったが、歩けども歩けどもなかなか終点に着かない。結局終点の武蔵水路に着いたのは出発してから1時間近くかかった。

荒川コスモス街道069_convert_20101021005808 コスモス街道の終点

荒川コスモス街道068_convert_20101021005705 武蔵水路

武蔵水路からだと、吹上方面に戻るよりは、北鴻巣か鴻巣駅の方が近い。かなり距離はあるが、広い通りに出ればバスが運行しているだろうと思って、糠田橋まで行って76号線を鴻巣方面に向かった。

 橋の袂には、うっそうとした林があった。木の間から古めかしい神社が見えた。よって見る事にした。入口の所に看板があり、この神社の社叢が「ふるさとの森」に指定されたと書かれていた。身近な緑が姿を消す中で、貴重な緑を守るため埼玉県が指定したものである。

糠田氷川神社
寛永年間(1624~1644)以前は小社だったが、そのころから村の鎮守として造営され、崇敬を集めてきた。本殿は、二間社流造千鳥破風(にけんしゃながれづくりちどりはふ)・軒唐破風付き柿葺き(こけらぶき)で、尾垂木に龍と鳳凰の彫刻がほどこされている。享保3年(1718)銘の棟札が発見され、江戸時代の建築様式を残すものとして、歴史的資料としても大変重要なものとされている。(鴻巣市の文化財HP)

荒川コスモス街道074_convert_20101021005957  荒川コスモス街道075_convert_20101021010053
 本殿                             神楽殿

 氷川神社を横から抜けると、目の前に寺院があった。最近は神社仏閣とみると訪ねてみたくなる。そこにはどこよりも様々な歴史的な足跡が残されているからだ。

放光寺(真言宗豊山派)
安達盛長の開基とされる古刹で、本堂にこの木造が残されている。盛長は治承4年(1180)、源頼朝の挙兵に応じ、相模国(現:神奈川県)において功を挙げて信任を得、相模、下総(房総半島)、武蔵(埼玉)を有し、後に鶴岡八幡宮の奉行人となった。正治元年(1199)頼朝の死後出家して蓮西(れんさい)と号した。(鴻巣市の文化財HP)

荒川コスモス街道079_convert_20101021010203  荒川コスモス街道080_convert_20101021010258

再び76号線に戻り途中で鴻巣方面に行く道を右に曲がって30分ほど歩いたが、一向に鴻巣駅に近付いた様子はない。通りがかりの人に聞くと、かなり遠いと言われた。歩いていくのは無理そうだ。

既にアリーナから神社などを回って2時間近く以上歩き続けていささかばててきている。バスが通っていればそれに乗ろうと164号線まで行ってみた。2、3分で鴻巣駅行きバスが到着した。バスでも10分以上かかった。歩いたら大変だった。吹上駅からコスモス街道を経て、さらに鴻巣駅近くまで3時間以上歩くことになってしまった。

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眼科の治療・デノシン注射8回目

10月20日(水)
日曜日の夜、目がごろごろするので鏡を見たら右の白目部分がべったり赤く染まっている。痛みなどは全くなかったが、見た目は右目が血だらけといった感じで凄まじい。原因については全く思い当たらない。ぶつけたわけでもない。確かに血小板数が7.8で基準値よりかなり低いがそれが原因だとも思えない。思い当たる誘因がなくても出血するらしい。

結膜下出血:結膜下の小さい血管が破れ出血したもので、眼球内部に血液が入ることはなく視力の低下の心配はない。出血は、1~2週間ほどで自然に吸収されることが多い。多くの場合、結膜下出血は治療の必要はなく、放置しておいても大丈夫である。(参天製薬HP)

月曜日の朝一応念のため眼科の担当医に電話して、病院に行って検査を受けた方いいか相談してみた。医者の返答は、心配ないので、水曜日の予定された診察日に来てもらえばいいとのことだった。水曜日には8回目のデノシン硝子体注射を行う予定である。

先週水曜日の眼科医の所見では、かなり網膜の状態は改善されている。腫れも引き眼底の毛細血管の流れも回復してきているとのことだった。今回は網膜の断層写真を撮った。網膜へのサイトメガロウイルスの影響はもはや見られないということだった。硝子体注射も後1、2回で終わるだろうということだった。

結膜下出血に関しては、特に治療法はない。自然に吸収されるのを待つほかにない。早く吸収されるためには冷やした方がいいという人もいるし、暖めた方がいいという人もいる。あまり関係ないのではないか。ともかくこすらない様にしてもらいたいということだった。

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村上龍 『ストレンジ・デイズ』

10月19日(火)
51B0PB_convert_20101019124247.jpg 主人公反町は日本の主にアイドル系のバンドやミュージシャンを西日本にプロモートする会社の社長であったが、やってきた仕事の意味を見失い、仕事を休職し妻子を実家に帰し、鬱々とした日を送っている。

「脱力感と疲労感はあるが目の前のあらゆるものに興味をなくしただけで、どこかに何か新しく具体的なものがあればすぐにでも立ち上がって走り出すかもしれないのである。」(講談社単行本p9)

いままで何の疑問もなくやって来たことが、全く無意味で徒労であったとある日突然気がつきながら、他の生き方を見出せない絶望と憂鬱に押し流されながら日々時間を潰していっている。そのような反町は深夜のコンビニで天才的な演技力をもつ巨大トラックのドライバー・ジュンコに出会う。

彼女は血管の中にサナダ虫のような等身大の異生体を宿しているという。自分の中にもう1人の自分がいる。時にはそれが表面に出てくる。それは二重人格という意味ではなく、誰でも社会の中で、生活者としての自己と本当にやりたい事、隠れた資質を持っている自己があるが、普通多くの人は前者に引きずられた生活をしてそれに何の疑問を持たず日々の生活に送っている。

かって音楽性のかけらもないが、大衆迎合的なミュージシャンをプロモートしてきたその無意味さから決別し、反町はジュンコに会い彼女を女優にする事、本当の才能をもったジュンコの映画を作る事に新たな自分生き方を見出していく。しかしなかなか思うようにいかない。彼はひたすら自らの無力感にさいなまれる。それに対してジュンコは言う。

「人間が本当に必死でがんばる時ってどんな時でしょう?」
「必死って、必ず死ぬって書くんだよ、死ぬ気でがんばるってよく言うけどわたしはそれは違うと思う。死ぬ気でがんばるっていうのはイージーだと思うな、がんばってできなかったら死んでごめんなさいすればいいんだもん、何かを実現させたくて、それで実現できない自分を絶対に許せないっていう風に考えると、死んだりできないよ」

「死ぬ気でがんばろうなんて考えないで、まずできることは何だろうと、そう考えると思うんじゃないかな。」ジュンコは非常にわかりやすい正確な言い方をした。何かをやりたいという欲望を肯定する,それが実現できない,または実現しようとしない自分を絶対に許さない,実現のために,今できることは何かを考える,そしてそれをすぐにやり始める・・・・(p313~4)

自らの現状疑問を持ち、それを打破するために、そして新たな自分を見つけていくには今何が出来るかを考え実行に移していく外ない。いかに絶望と無力感にさいなまれながらもひとつずつ出来る事を積み重ねていく他ない。

この反町の感性の動揺、彼の憂鬱と無力感は、日本人の心の奥底に潜む憂鬱と絶望、不安が凝縮され表現されているのではないか。現代社会の閉塞感や憂鬱から、いかに脱出をはかるか、その試行錯誤と苦悩が反町の行動の中に表現されている。

現代社会は、際立った個性や存在を活かし伸ばすことが極めて難しくなっている。突出した者に対し、大衆化、平準化する事を最優先事項とし、ある時には社会的強制力さえ行使する。

反町は、音楽のプロモートをしていたが、大多数の人間が中身のない薄っぺらな音楽にうつつをぬかし、付和雷同的に群れ、世俗的な決まりごとに縛られているこの社会が、突然限り無く馬鹿げて見えてきて、もはやそういった世界への関わりが不可能になってしまった。しかしそれは反町に救いの無いような新たな試練を与えるものになる。自分の無力さというのを痛感していく主人公の反町は、次々と絶望と対峙することとなる。

「無力感だけが自分の輪郭を認識させる。オレは回りと際立っているのを無力感によってのみ確かめてきた。・・・そしてある時世界に亀裂が入り唯一の真実の装いで無力感が押し寄せてくる・・・悪くない。オレはやりたいことの0.1%もやっていなし、それが本当にやりたいことなのかどうかも分からない、だが、悪くない・・・」(p351~2)

このラストの表現で、反町は自分の無力さに絶望するのではなく、むしろ受け入れ、居直りながらそこから自らの生き方を見出していこうとしている。こういった過程を経ることを通してしか、現代社会で、自分が本当にやりたいと望む事を実現することは出来ないのだろう。

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ももの木交流会

10月16日(土)
2ケ月一度の定例交流会の日だった。初めての患者、元患者が5人ほど来ていた。そのうちの1人の人は、白血病の患者で、医者からは移植を進められているがなかなか踏ん切りがつかない。「団十郎が無間地獄などと言っている、よほど辛いのだろう」ということで躊躇している。

移植体験者が骨髄移植での大量抗がん剤による副作用の辛さや、GVHDについて語る。確かに吐気や身体を動かすことも出来ない程の影響を身体に与えるが、それも4,5日の話でしかない。それを過ぎれば少しずつ回復していく。

実際の体験者の話、それも何人かの人の話を聞く事によって辛さはあるが、やってみようという気になることもある。その後その患者は田中医師と長い間話をしていた。納得できる答えが得られたのだろうか。

もう1人の人は悪性リンパ種の患者で治療を始めたばかりで、病気のことやこれからの事がまったく分からない。医者は説明してくれるがよく分からないので、交流会に参加したということだった。

彼は非ホジキンリンパ種の中の「びまん性大細胞型B細胞性リンパ腫」と診断された。ちょうど同じ病気で、今は寛解状態にある元患者がいたのでその人が自分の体験を話し、色々な質問に答えた。分からないことは、田中医師がいるのですぐ聞ける。

患者や家族は自分の病気のことについて色々不安をかかえ知りたいと思うことは数限りなくある。しかし担当医には分からない事があっても遠慮してしつこく質問する事が出来ないし、時間の関係でじっくり聞く事ができないという実情がある。交流会では医者や同じ病気の患者から聞きたいことを遠慮なく聞くことが出来る。

また同じ経験をくぐった者同士は話が非常にスムーズに進み、心配かけまいとして家族にも話せないような苦労や悩みも打てば響くように理解しあえる。こういったことで交流会は続けられている。

昨年10月K病院でアロマ・テラピー講習会が行われた。そこにももの木からも何人か手伝いに行った。その時アロマ・テラピーの講習を交流会でもやってもらいたいという話が出た。その講習会を主催した患者が交流会に参加してくれた。彼女は白血病に関しては寛解状態を維持しているが、乳がんが再発しその治療を受けている。アロマコーディネーターライセンスを持っている。

アロマ・テラピーとは、植物の精油(アロマオイル)を使った自然療法のこと。人間のもっている自然治癒力は精神的な圧迫、過労や心労などに対して、自律神経、内分泌、免疫系のシステムが総合的に働き、正常な状態を維持しようとする機能がある。その自然治癒力 を高めようとするのが芳香療法である。

まずアロマオイルを入れるぽち袋を色鮮やかな千代紙で作る。ローズマリーやラベンダー、レモンなどのアロマオイルが8種類用意されている。自分の好きな香りを選んでコットンにしみこませてもらう。単独でもいいしミックスしてもいい。香りをつけたコットンをぽち袋に入れ香り袋を作り、さらにビニール袋に入れ完成する。

交流会参加者は皆千代紙でぽち袋を折り、香り袋を作り上げる。こういった余興も交流会の中では時々行われる。

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村上龍 『イン・ザ・ミソスープ』

10月15日(金)
41XVX_convert_20101016191314.jpg村上龍の小説は、『限りなく透明に近いブルー』を発売当時読んだだけだった。図書館で『コインロッカー・ベイビーズ』があったのでそれを借りて読んでから、彼の小説を読み始めた。現代社会に生きる人間の心の闇に深く切り込み、この社会の奥深い暗部をさらけ出しながら、その中で人はどのように生きていくのかを問うている。

『イン・ザ・ミソスープ』を読み終わった時の後味は決していいものではなかった。自らを自覚できていない日本人の現状、あまりに深い退廃について語るのには、ここまでの極端な舞台設定が必要だったのだろう。アメリカ人フランクの狂気という形を通してホラー映画以上の残忍な殺戮シーンを緻密に描写しながら、実は日本人の心の闇を切り裂いているのだ。

外国人観光客を相手に、夜の歓楽街、風俗のアテンド(世話人)の仕事をしているケンジ(主人公)に、フランクというアメリカ人の観光客がアテンドの依頼をしてきた。ケンジはフランクと共に歌舞伎町の風俗店を案内して回る。小説には年末の12月29日から大晦日までの3日間の出来事が描写されている。

この小説について村上龍はあとがきで次のように言っている「どれだけ小説を書いても、日本的な共同体の崩壊という現実に追いつけない。ひどい退廃が進行しているが、その中には豊潤なものが何もない。無菌室の中で、生物がゆっくりと死んで行くのを見ているようだ。崩壊は止むことなくいっそうそのスピードを速め、反動化と退行は深まるだろうと思う。」

この小説の登場人物は、日本ではごく普通に存在している人達である。まさに日本人の日常生活の延長線上存在している。しかしフランクというフィルターを通して見つめる事によって、その日常性に潜むある種の異常さというものを浮き彫りにしていく。

我々が自らの異常性を自覚できないのは、その中に浸かりきって自分の現状を対象化する能力を失ってしまっているからだ。それを他の視点から見る事によって、始めて覆われていた闇が口をあけて我々の前に迫ってくる。外国人フランクの極端な異常性を通して日本の現状を考える時、彼の存在との対比において日本という国の現実が見えてくる。

日本人である自分の存在をこの国の中で自覚することは非常に難しい。主人公ケンジは外国人相手のアテンドをしていて、外国人からの質問への回答不能の中でこの国を対象化するようになる。

「外国人から見て異常に思える事がこの国にはたくさんあって、そのほとんどを俺は説明できない。何故こんなたくさんの自動販売機が必要なんだ。どうしてこんなたくさんの種類の缶コーヒーやジュースやスポードリンクが必要なんだ。

日本は世界でも有数の金持ち国なのにどうして過労死するまで働かなきゃいけないんだ。アジアの貧しい国の少女ならわかるけど、この豊かな日本の女子高生がどうして売春するんだ。日本ではどうして単身赴任というシステムに誰も文句を言わないんだ。」(幻冬舎文庫p63)

「あの店にいた連中はロボットか人形のようだった。なんとなく寂しい、自分が何をしたいか分からないから店に来ている。みんな誰かに命令されて、ある種の人間を演じているだけのようだった。おれはあの連中と接しながら、こいつらのからだには血や肉ではなくて、ぬいぐるみのようにおがくずとかビニールの切れ端が詰まっているのではないかと思って、ずっと苛立っていた。」(p211)

心理学者の河合隼雄は解説の中で言っている。
「フランクの目から見ると、日本人は“リスクを負う”のを避けて全員でぬるま湯に浸かったりしているよう見えるのではないか。フランクに殺された連中は同じ場所に居たが、一人一人バラバラだった。それが勝手に寂しさを紛らわせようとしていた。

個々バラバラでありながら、一緒にぬるま湯に浸かっている。フランクはそんな者たちには怒りを向け、切捨てるのだ。ケンジだけがはっきりと自分の意志をフランクに表明したから殺されなかったのではないか。個々バラバラのつながりのない日本人が、ぬるま湯につかって、自分の意志を伝える力をもたないとき、フランクのような強力な存在が侵入してきたら、ひとたまりもなく殺されるだけだという事実を(フランクに)認めることだと思う。その自覚が必要だ。」(p303)

フランクはケンジに幼少時交通事故で脳に損傷を負ってから自分に制御できない異常行動が始まったという自分の生い立ちから殺人者になるまでの過程を事細かに話す。この話を受けてケンジは「人間の悪い本能をBONNNOUと呼んでいる」という話をした。煩悩という日本語の響きがフランクを魅了する。「なんてすごい言葉なんだ、こうやってつぶやくだけで何かがからだから出て行ってしまうような感じがする。」

ケンジは「ボンノウは百八種類あることで、除夜の鐘はその回数ならされされるんだ。その鐘を聞いた人は全てボンノウから自由になれるんだ」とフランクに言う。

大晦日の夜、除夜の鐘を聞くための場所にフランクを案内した。そこでフランクは「ぼくは今ミソスープのど真ん中にいる」と言ってケンジと別れる。しかもあれほど強力に日本的なものを切り裂いた彼が、ミソスープのど真ん中において、鐘を聞いて確かめてみようとしている。悪い本能が、BONNOUが消えるなら自分の中で何が消えるか確かめてみたい。まさに日本的な除夜の鐘によって癒される事を期待している。

小説の中で、現代人の中にひそむ狂気を、アメリカ人フランクという形で肉体化させた。そして最後に人間のもつ怒りや悲しみ、絶望、欲求不満、そして殺意までも、それらをBONNOUという言葉で表現した。ケンジはフランクに言う「煩悩というのは悪い本能とは厳密には違う。悪い本能という言い方だと、それは持って生まれたもので変えようもないもの、罰せられるべきものと考えられてしまう。しかし煩悩は誰もが普通に持っているものという前提に立っている」(P241)。だからこそそこには救済が存在するのだ。

また小説のタイトルを『イン・ザ・ミソスープ』とすることで、罪と罰を基調とした西欧的発想法から決別し、日本人として現状を自覚し、この社会の狂気に対峙し、煩悩の制御を期待したのだろうか。このような終結を通して絶望的日本の状況を切り開く何らかの道筋を示そうとしているのだろうか。

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北区のさんぽみち-6 赤羽・志茂エリア

10月13日(水)
家にいるとなかなか外出に踏ん切りがつかない。外出したついでに身体を動かそうと、大分前から病院帰りにウォーキングを始めている。病院の近くから出発出来る「北区のさんぽみち」の幾つかのコース巡りをした。しかし今年の止まることなく続いた夏の暑さの中で、ずっと中断していた。最近行ったのが6月17日だった。涼しくなったので再び始める気力が湧いてきた。

病院を出たのが13時半だった。採血、眼科、血液内科と回ったが始まりが早かったのでこの時間で終った。今回は赤羽駅を出発点にするコースを選んだ。「赤羽・志茂エリア」のコースは以下の通り。

JR 赤羽駅→宝幢院→大満寺→正光寺→小山酒造→八雲神社→荒川岩淵関緑地→岩淵リバーステーション→旧岩淵水門(赤水門)→荒川知水資料館.→熊野神社→.西蓮寺→地下鉄 志茂駅

赤羽駅を降りて、線路に沿って北本通りに向う。5分位歩くと宝幢院である。北本通りは王子で本郷通りから名前を変える。荒川を渡ると岩槻街道(日光御成街道)になる。かっては幸手宿で日光街道と合流した。今では国道122号線は羽生、館林、太田を経由して日光まで行っている。赤羽で北本通りはL字型に右に曲がり新荒川大橋を渡り埼玉県に入る。真っ直ぐ行った道はそこから環八通りになる。

北本通りにぶつかる手前に宝幢院があり、その前に道しるべがあった。これは江戸中期に作られたもので、「東 川口善光寺道日光岩付道」「西 西国冨士道 板橋道」「南 江戸道」と刻まれている。この地が交通の要であったことを示している。

宝幢院(医王山東光寺 真言宗智山派)

寛正2年(1461)宥鎮和尚により開山、約150年後に深承阿闍梨及び宥意和尚が中興した。江戸時代には10石余りの朱印状を賜った御朱印寺である。豊島八十八ヶ所霊場45番札所、北豊島三十三ヶ所霊場12番札所。明治維新後の神仏分離まで赤羽八幡神社の別当寺。

070412RIMG0121_convert_20101014095746.jpg  赤羽志茂エリア006_edited_convert_20101013181022
 道しるべ                宝幢院本堂   

北本通りを荒川に向って歩いていくと、道路に沿って平行に走る道に寺院が並んで立っている。大満寺と正光寺である。正光寺は工事中で入れなかったが、山門から中を見ると正面に10mほどある正観音が立っている。
 
大満寺(薬王山瑠璃光院 真言宗智山派)

鎌倉時代初期の作と伝えられる不動明王像があり、岩淵不動尊として親しまれている。不動堂のそばには弘法大師像を取り囲むように本四国霊場各札所の銘板がある。

赤羽志茂エリア011_convert_20101013181354  赤羽志茂エリア013_convert_20101013181455  
 大満寺不動堂                        大満寺本堂  

正光寺(浄土宗芝増上寺末、天王山淵富院)
浄土宗第三祖記主禅師良忠上人を開山上人、石渡民部少輔保親を開墓として、鎌倉時代(およそ800年前)に建てられた。本尊の阿弥陀如来は高さ70cmほどの座像で、春日仏師の作であると伝えられており、正観音は頼朝子育観音または世継観音といわれ行基の作であると伝えられている。

shokouji2_convert_20101014120648.jpg  赤羽志茂エリア016_convert_20101013181545
 正光寺山門                         正光寺観音像  

新荒川大橋を渡る手前の道を右に曲がると、小山酒造の大きな建物が目に入る。どのような歴史を持つ酒屋なのだろうか。事前に申し込めば工場見学も出来るという。酒の製造にとって水は最も重要だ。岩淵町の辺りには秩父山系からの良質の浦和水系が走っていて、昔はちょっと掘ると水が2mも噴き出したといわれている。小山酒造のすぐ傍の川沿いに八雲神社がある。神社の境内には誰もおらず、静けさに包まれているようだった。

小山酒造
明治11年、荒川畔に湧き出る清水の発見を機に創業した23区唯一の造り酒屋である。ここで醸造される清酒は、120余年受け継がれた手法をいかした江戸造りによる。現在も地下130mからくみ上げられた地下水と酒造好適米で醸造されている。

八雲神社
創建年代は不明。江戸時代には日光御成道の岩淵宿鎮守として崇敬篤く、荒川流域のため水神社がまつられている。また勝海舟が荒川で足止めされたときに書いたとされる大幟旗も所蔵している。

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 小山酒造                          八雲神社

八雲神社から土手沿いの道に出ると土手に上る坂があり、上りきった所が岩淵橋だ。そこから荒川と平行に流れている新河岸川を渡り、荒川土手の緑地公園に出る。土手から川に下る斜面には高さの違った所に遊歩道が設置され、川縁を歩く事も、土手の高みから川を眺めることも出来る。新荒川大橋の先には川口市の高層ビルが見えている。一方川の方には鮮やかな朱色に塗られた水門が並んでいる。

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 荒川土手から新荒川大橋と川口方面          赤水門

旧岩淵水門(赤水門)
かつて「荒ぶる川」という名のとおり氾濫を繰り返した荒川。 旧岩淵水門はその要として、大正5年から8年間の歳月をかけて建設された。工事を監督したのはパナマ運河建設に携わった青山士(あきら)だ。以来、荒川下流域に住む人々の暮らしを洪水から守ってきた。昭和30年代の改修工事で赤い色に塗りかえられたことから「赤水門」と呼ばれた。この水門は現在は、水門としての役目を終え、下流にある青い岩淵水門が役割を果たしている。

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 赤水門                      オブジェ『月を射る』  

赤水門の裏側に橋があり、川の中にある小島に渡ることが出来る。橋を渡りきった所は「荒川赤水門緑地」と呼ばれている。緑地には荒川リバーアートコンテスト特賞を受賞した青野正作の『月を射る』というオブジェがある。「流れる河を背景に形あるものの消えゆく時間を考えさせられる空間」とこの場所は表現されている。川の只中から見る風景は、川沿いや土手から見る風景とはまた違った感じを受けるものだ。木々が生い茂りその木陰で、涼しい川風を受けながら川の流れを見つめていると時間の経つのを忘れてしまいそうだ。

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 水門緑地から対岸を見る                 荒川治水資料館

荒川知水資料館

自然豊かな荒川に親しむための活動と交流の拠点。 荒川に関する様々な研究、情報提供を行っている。

赤水門緑地で荒川と隅田川が合流する。東京水辺ラインはこの辺りまで船を走らせてる。水辺ラインはここから新河岸川に入っていく。水門の傍に岩淵リバーステーションという船着場がある。クイーンメリッサという貸切の荒川水上バスが就航していた時に使っていたのだろう。

赤水門から土手を越えていくと荒川治水資料館がある。荒川に生息する魚、周辺の動植物などが紹介されている。またたびたび洪水を起こした荒川の治水工事の様子などが分かるようになっている。川も様々な観点から見ると興味深いものである。

資料館から志茂橋を渡り新河岸川を越え、川沿いに歩いていくと熊野神社がある。参道は空を覆うような巨木に囲まれている。クスノキやエノキなどこれらの木々は区の保護樹木となっている。神社の境内はひっそりと息をひそめている様に静かだ。そこから5分程行った所に西蓮寺がある。庭はよく手入れされていて、鐘楼、寂光堂、本堂前の板碑などが境内に点在している。そこからは5分位で南北線志茂駅に着く。

赤羽・志茂エリアは荒川河畔の散策を中心としながらその周辺を巡るものだった。季節的に河原を散歩していると川風が肌に気持ちよくあたり、それだけで来たかいがあるというものだ。

熊野神社
正和元年(1312)西蓮寺住職淳慶阿闍梨が紀州熊野三社権現を勧請し、下村(現在の志茂)の鎮守とされている。現在の社殿は昭和43年に改築されたもので、 社殿右の末社が旧本殿で、文政5年(1822)に造られたものである。

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 熊野神社参道                        熊野神社社殿

西蓮寺(帰命山阿弥陀院 真言宗智山派)

弘安年間(1278-88)法印淳慶の開山と伝えられている。境内には弘安九年(1286)の年号銘だけのものなど十余基の板碑がある。本尊は鎌倉初期に作られた北区指定有形文化財の木造阿弥陀如来坐像で、熊野神社の御神体であった熊野三社権現像、末寺三ヵ寺(地蔵院・満願寺・観音寺)の本尊が安置されている。また、運慶作と伝えられる毘沙門天像が寺宝となっている。

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 西蓮寺山門                         西蓮寺本堂
(参考資料:北区観光ホームページ)

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定期健診の日

10月13日(水)
血液検査の受付は8時半からやっている。医者は患者の採血結果を見ながら診療する場合が多いので、ここだけ30分ほかより早く始める。採血をしてから、9時からの眼科検診を受ける。そしてデノシン硝子体注射の7回目を行った。

眼科医の所見では、かなり網膜の状態は改善されている。腫れも引き眼底の毛細血管の流れも回復してきている。次回もう一度デノシンの注射をやって、その後どうするか考えるということであった。抗菌点眼剤のクラビットと、炎症止めのステロイド・リンデロンを1日4回点眼することになっている。

眼科の診察、治療が終わり、次は血液内科の検診となる。今日の一番の関心事は2週間前から始めたレブラミド(レナりドミド)が奏功しているかどうかだ。またどの程度骨髄抑制が生じているのかである。

検査結果 
 IgM   3642(10/13)←3887(9/29)←3487(9/15)←3305(9/1)
 IgG    563←558←518←501
 白血球  2000←3400←3500←3300
 好中球  680←1310←1550←1690
 血小板  7.8←8.2←9.0←7.5
 赤血球  293←299←294←296←318
 ヘモグロビン 10.0←10.1←9.9←10.2
 網赤血球   8←11←14←10
 CRP   0.21←0.31←0.44←0.58


IgMが下降した。レブラミドが奏効したようだ。これで一安心だ。ただ白血球がかなり減少している。さらに好中球が680まで落ち込んでいる。好中球の割合が34%しかない。Stab+Segだと40%になっているがどちらにしてもかなり低い。危険領域ぎりぎりといった所だ。

レブラミドの副作用に骨髄抑制(白血球減少症、血小板減少症)があるとは知っていたが、まさかアルキル化剤並みに強いものだとは想像していなかった。標準使用量としての5カプセル(25mg)を3カプセルに減量して服用しているのにこの状態だ。

骨髄抑制のために治療を中断せざるを得ない状態にはなりたくないものだ。今回の数値が一過性のものであって欲しい。このまま好中球が減少したらレブラミドの使用を諦めなければならない。次回の血液検査でそれが分かるだろう。

医者から、まず目の状態を聞かれ、レブラミドの副作用について色々質問された。最近足のふくらはぎがつる。こむらがえり(就寝中におこる足の腓腹筋の疼痛を伴うけいれん)というものだ。以前も月2、3回あったが最近は2、3日に一度位の割合で起こる。これがレブラミドの副作用かどうかは分からないが、体調の変化という点ではそれだけだ。

医者に「レブラミドが奏効してほっとしている。効かなかったらもう他に治療法がない」と言った所、医者はまだ幾つかの方法がある。ベルケイドの改良型の新薬が登場している、他にも使える薬があるといったが、ベンダムスチンについてはその使用に関して消極的だった。併用療法には使えるが単剤では難しいのかも知れない。次回の診察の時のどのような新薬が使用可能か聞いてみよう。

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受刑者処遇の改悪

10月12日(火)
 何故権力は、人権を抑圧する事に熱心なのだろうか。あらゆる機会を捉えて少しずつ我々の権利を狭めていく。警察庁、法務省はその最先頭に立っている。

受刑者の処遇は明治41年に成立した監獄法、監獄法施行規則によって定められている。しかし実際の刑務所での受刑者処遇は、法務省通達で行なわれ、刑務所長の大幅な裁量が認められていた。受刑者の処遇が法律ではなく通達や所長裁量でなされるということによって、守られるべき受刑者の権利も当局の都合によって剥奪してきた。

明治監獄法の改正の動きの中で、法務省は1982年刑事施設法案、警察庁は留置施設法案を策定し、代用監獄の永続化と獄中者の権利の制限を推し進めようとしてきた。この動向は長い闘いの末阻止された。

その後監獄人権センターなどの様々な人権団体の運動、日弁連や学者の働きかけによって、2003年の行刑改革会議提言などを踏まえながら、2006年に「受刑者処遇法」(新法)の成立にこぎつけた。特に受刑者との外部交通権に関しては極めて大きな争いの中心であった。

 現在の再犯率は39.9%(満期出所者では63.3%,仮釈放者では30.8%)(平成18年版犯罪白書)である。何故再び罪を犯し刑務所に舞い戻ってしまうのか。出獄後の生活が出来ないからだ。刑務所では手に職をつける事が出来ない。もちろん前科者を受け入れる社会体制がないということもあるが、外部交通が制限され友人や家族の絆が失われてしまうことも大きな要因となる。

外部交通の遮断は家族、友人関係を引き裂いてしまう。ノルウェイの刑務所のように、外泊、外勤などを導入し、少しでも家族の絆を深めることが必要だ。その意味で外部交通の確保は受刑者の社会復帰にとって極めて重大な問題である。

新法の「外部交通に関する受刑者についての留意事項」は次のように記載されている。「適正な外部交通が受刑者の改善更生及び円滑な社会復帰に資するものであることに留意しなければならない。」この精神を守って欲しいものだ。

 新法は受刑者の外部交通権の大幅な拡大をもたらした。今までは親族以外の面会、差し入れ、文通は認められていなかった。新法は友人に対しても外部交通が開かれるようになった。

友人との面会、文通が可能になり、家族以外の第3者からの差し入れも出来るようになり、様々な社会の情報を仕入れる事が出来るようになった。新聞の個人購入も認められるようになった。

受刑者は外部の人との幅広い関係の形成によって社会性を獲得し、出所後の生活のルートを作り上げていく可能性を広げていく事が出来るようになった。しかし新法でも所長の裁量権による外部交通の制限が記載されている。

 新法成立後、友人との面会、差し入れ、文通が広く認められるようになった。それがごく最近まで出来ていた。しかし、最近になって外部交通が再び制限が厳しくなって来ている。幾つかの例を挙げよう。

獄中者処遇の改善をめざす獄中者組合という組織が、古本市という企画をやっている。2年に一度、獄外に広く呼びかけて、不要になった本を集め、それを一覧表にして獄中者(未決拘留者、受刑者)に差し入れる。希望の本を選んでもらって、本の提供者が希望者に差し入れるということを今まで行なってきた。

今までは何の問題もなく受刑者に本は差し入れられてきた。しかし今年は、全ての刑務所から、差し入れた人に受刑者との関係、身分を明らかにするよう通知が来るようになった。刑務所からの設問に答え身分証明書のコピーを添付し返信用封筒に入れて送り返さなければならなくなった。

きちっと回答し身分も明らかにしたにもかかわらず、岐阜刑務所、名古屋刑務所からは受刑者への差し入れは不許可といった通知が来て、廃棄するか、着払いで送り返すか返答しろと言う。

理由は新法の46条1項-刑事施設の規律及び秩序を害するおそれがあるものであるとき、2項-差入人が親族以外の者である場合において、その受刑者に交付することにより、その矯正処遇の適切な実施に支障を生ずるおそれがあるものであるとき、差入人に引取りを求める事が出来るに該当するというのだ。普通の娯楽小説を差し入れる事がどうして規律秩序を乱し、矯正処遇に支障をきたすの全く不明である。

今まで友人として普通に面会していたが、ある時から面会内容が「出所後の仕事」について以外は認めないという事になった。看守が立ち会っていてそれ以外の話をすると面会を打ち切られる。安否などの問題は手紙でやり取りしろと言う。これは栃木刑務所の例である。

横浜刑務所では、ある受刑者に対し最初は5、6人の友人の面会を認めていたが、ある時から2名以外は面会させないという事になってしまった。

 色々な刑務所で外部交通の締め付けが行なわれている。段々と新法成立以前に戻っていくようだ。この一斉の受刑者の外部交通制限は法務省の通達があったとしか思えない。苦労して成立させた新法が、法務省の都合のいい解釈で捻じ曲げられ、それがまかり取っているということだ。

法務省は受刑者の権利の制限を何故しようとするのか。これが権力の本質なのだ。拡大してきた権利をいかにして元に戻すか、それを彼らはいつでも考えている。受刑者の権利の抑圧を通しながら、やがては市民の権利の抑圧へと向かって行くのである。

権力にとって国民は自らの手の中で動く駒でなければならない。権利など主張する自立した存在であって欲しくないのだ。いつでも国家のために自らを犠牲にし戦争に馳せ参ずる存在でなければなない。あらゆる権利の制限は、最も弱いものから始まる。それを認めてしまうと、ある時自分の権利などどこにもなくなってしまっている事に気がつくのである。

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映画 『赦し』 その遥かなる道

10月11日(月)
被害者感情と死刑
死刑制度について考える時、一番の問題は被害者遺族の感情だろう。死刑制度に賛成する人の多くは被害者の報復感情をあげている。 被害者の気持ちを思えば、犯人を極刑にするのは当然だ、という論点だ。しかし犯人を死刑にすることで憎しみは消えるのだろうか、何かが解決できる問題なのか。本当に被害者家族の心はそれによって癒されるのか。

遺族の中には「犯人が死んでも娘は帰ってこない。犯人には一生償いの日を送ってもらいたい。」と応える人もいる。犯人の処刑を望んでいるわけではない被害者遺族もいる。しかしそれはマスコミで放映さない。マスコミは被害者遺族の報復感情をことさら煽り立てそれを前面に押し出して、センセーショナルに「犯人を極刑に」という世論を作り上げる。死刑存置の流れは被害者感情を理由に形成されていく。

『デッドマン・ウォーキング』という映画の中で、死刑執行に家族が立会い執行を見届ける。しかしそれによって何かが変わるものではない。犯人に対する憎しみが消えるわけでもない。加害者の死刑は何も解決しなかった。そこに救いはなかった。映画の最後に、娘を殺された父親が、それまでは加害者の味方として排除されていたシスター・へレンの所に来て、「赦す」という心境に一緒になって向かいたいと言ってきた。救いはそこにしかなかった。

被害者感情と死刑制度は別問題だ
死刑廃止議員連盟の亀井氏は語る。「被害者の報復感情を満足させるという考えは大昔からあります。人間ですから。しかし、報復感情を個人としてもっているということと、国家としてそれを認めるということは別の問題です。私たちは、国家が否応なしに、被害者に代わって報復するということと決別すべきです。

国家は人の命を大事にするのが原点で、殺人をしてはならない。長い間拘置され、もはや社会に危害を与えないものを殺すのは国家による殺人のほかならない。」

映画 『赦し』 その遥かなる道

0ced_convert_20101011180023.jpg被害者遺族が抱える問題を真正面から取り上げた映画がある。韓国の代表的な民間放送局であるSBSが一般劇場公開用として制作し、2008年の秋に上映された。その日本語版をFORUM90が製作し各地で上映運動を行なっている。その映画は死刑廃止を訴える映画ではない。死刑について考える時避けては通れない被害者遺族の救済を扱ったものである。

FORUM90の映画説明には次のように書かれていた。
「 無惨な犯罪の犠牲となった被害者遺族の方々、愛する者を殺された人々の想像を絶する苦痛と喪失感、殺人者と社会に対する憎悪、また反対に、殺した者の許されることのない痛恨。誰しも耐えることができない大きすぎる苦痛に打ちのめされ、それに身悶えし、のたうち回りながらも、それぞれが究極の選択で乗り越えようとする人々。この作品は、死刑という人間の作ったひとつの社会制度に関するものではなく、人間と人間性そのものに関する映画なのです。」

この映画は、殺人者に対する怒り・憎しみと赦しをめぐる実在の被害者遺族への取材の記録である。残虐な殺人犯罪の犠牲者たちの心情がむき出しの形で表現されている。愛する妻と母親と一人息子のすべてを殺され、絶望に悶え苦しむ父親コ・ジョンウォンさんの心の葛藤を中心に進められる。また一人の殺人者のために3人の兄弟を次々と失いひとり残された弟は、消えることのない憎悪を糧に、一日一日を生き延びる。

生きるために赦すことを選択した者と、憎しみを糧に生き延びる者、この対極の2人を対比しながら、映画は進行していく。残された者は、自らが生きるため、殺人犯を赦す道を選択する以外になかった。愛する家族を殺した殺人犯を赦すことにより、悶え苦しむひとりの人間、コ・ジョンウォンさんの凄絶な物語である。

彼の被害者遺族として生きてきた過程は、迷いと苦しみ、死を考えるほどの絶望と消えることのない憎しみ、究極的な人間の強さとその対極の脆弱さが揺れ動きながら、次第に赦しの境地に近付いていくものであった。その過程の中で、我々は彼の崇高な人間性を感じる事が出来るのである。

被害者遺族の本当の意味での救済を

『赦し』の日本語版ナレーションを担当した竹下恵子さんは完成記念試写会で次のようには発言した「愛する者を亡くすというのは、何ものにも代えがたい大変深く大きな哀しみであり、苦しみです。哀しみの中にあってもやはり人は生きなくてはいけない。主人公コ・ジョンウォンさんご自身は生きていくために殺人犯を赦している。誰にでも出来るものではない。

・・・殺人事件の被害者、そして遺族の皆さんの本当の意味の救済がなされない限り、真の解決はないように思います。私は被害者家族の方たちの生活上の問題、それに伴う精神的な救い両方が解決されていかなければ、本当の意味での死刑廃止の意味はないものと思います。」

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世界死刑廃止デー企画 響かせあおう 死刑廃止の声2010

10月9日(土)
「死刑廃止国際条約の批准を求めるFORUM90」主催で死刑廃止の集会が行われた。場所は築地本願寺の集会場だ。10月10日の世界死刑廃止デーにあわせて、日本の死刑制度存置の状態に対する抗議の集会を毎年行なっている。今年は集会の後死刑廃止合宿が企画されている。また10日には、銀座から日比谷に向けてのデモ行進が予定されている。集会内容は以下の通り。

世界死刑廃止デー企画 響かせあおう 死刑廃止の声2010
■ 報告 死刑廃止に向う世界の動き:アムネスティ・インターナショナル
■ 死刑囚の表現をめぐって【大道寺幸子基金の発表とシンポジウム】
2004年に亡くなられた死刑囚の母、大道寺幸子さんが残された基金により始められた死刑囚の作品募集(文芸作品、絵画、イラスト等)に寄せられた作品の展示・紹介と、選考委員の論評。
選考委員:池田浩士・加賀乙彦・川村湊・北川フラム・坂上香・太田昌国
■ 講演:鎌田 慧(ルポライター)「死刑制度について」
■ 集会後、引き続き、夕方から「2010年死刑廃止全国交流合宿in東京」

image.jpg鎌田慧さんの講演内容
1、冤罪と死刑制度
死刑廃止の出発点は冤罪の問題だった。弘前事件や財田川事件の取材を通して冤罪が作られる構造を知るにつけ死刑制度の問題点を考えるようになった。しかし死刑制度の最も大きな問題は、死刑制度があるということが死刑を存続させているということだ。しかし制度というものは時とともに退廃し制度維持が目的になっていく。

かって死刑囚の処遇は極めて緩やかだった。舎房どうし行き来しあったり、映画鑑賞会で一緒になりお喋りしたり、カラオケなどもやったりして死刑囚同士の交流は自由だった。そういった中で色々情報を仕入れて無罪を晴らす方法を学ぶことが出来た。

以前ストラスブルグで死刑廃止世界会議に参加した事がある。参加している国は皆死刑廃止国だ。どのように廃止に持っていったかなどの暑い論議が交わされていた。しかし未だ死刑を存続している国からの参加ということでかなり肩身の狭い思いをしたことがある。法務大臣とか、法務官僚が参加して周りの雰囲気を感じてもらいたいものだ。

2、死刑の賛否
明治大学で、死刑問題について学生の前でパネルディスカッションが行なわれた。パネラーは死刑賛成論者が2名、反対論者が2名でそれぞれの見解を述べ討論が交わされた。集会の前に、死刑の賛否について学生のアンケートをとった。集会後再びアンケートをとった所、最初よりも死刑賛成が多かった。通常、死刑制度の実態、問題点が明らかになれば、死刑反対が増えるはずなのだが、この時は違った。それは最後に死刑賛成論の精神科医が言った言葉が大きく影響している。死刑存続の意義を一言で「自分の娘の命を救う」といったことだ。いかに人間がエモーショナルな存在であるかを知らされた。

3、日本人と死刑
日本人は忠臣蔵が好きなように、敵討ちの発想法が根強く残っている。それが死刑賛成派が多い背景となっているような気がする。前法務大臣鳩山が言った「日本人はいのちを大切にする民族」と。悪い事をしたら責任をとる。死を持って償うといった発想だ。

光市事件でマスコミが煽り立てた感情は敵討ち思想である。しかし制度が変われば意識が変わる。フランスでも死刑制度が廃止された時には、復活の世論がかなり強力形成された。しかし廃止から何年も経つうちに国民はそれを受け入れていくものだ。最近では復活の話はどこにも出てこない死刑制度の問題は国家のあり方の問題なのだ。

4、検察の問題

今年は大逆事件100年である。大逆罪は「皇室に対して危害を加えんとしたる者」に対しても死刑が適用されている。大逆事件を担当した当時検事だった平沼が事件を振り返って語ったことが記録されている。彼は「逮捕した中の3人は謀議にも関係しておらず全く関係ない、死刑はひどいと思った」と言っている。しかしそのまま死刑を求刑している。この3名は結局恩赦によって無期懲役になった。

この間の検察の証拠改ざんに対してマスコミは「前代未聞の不祥事」と書き立てているが、検察は昔からこんな事を平気でやっていた。それが今日まで綿々と続けられてきていたのだ。それがたまたま表面化されただけである。

5、死刑と戦争

死刑は戦争と同じ国家の殺人である。戦争では命は軍事行動の中の駒でしかなく限りなく軽く扱われる。特攻が殆ど効果がないことは軍司令部の誰もが知っていた。しかしやり続けた。海軍の上層部で戦犯で死刑になった者はいない。アジアで2000万人、日本人300万人を殺しながら、全て部下に責任をかぶせて自らは無傷で済ませた。

国家の安全のため、制度の維持のため人の命を犠牲にしていく。国家は戦争を命令し、人を殺人に駆り立てていく。この構造は死刑制度を維持、存続させる事によって人を慣らしていく。戦争の抑止力を言う。そして死刑の抑止力ということも言われる。しかしそれは何も抑止しない。

学校でのいじめは一定沈静化したか見えるが少しも減少していない。人の命は大事と学校教育では言われる。しかし実際には一人の命より国家の安全が大事だといった思想が根底にある限りそれは空しい言葉でしかない。いじめ。死刑、戦争これは同根の問題なのである。 (詳細は「FORUM90ニュース」に掲載予定)

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ヨースタイン・ゴルデル 『ソフィーの世界』

10月8日(金)
51M_convert_20101007224042.jpg 丁度読む本が途切れてしまったので、家にあった本を物色していたら『ソフィーの世界』(哲学者からの不思議な手紙)という本があった。むずかしいものと構えることなく西洋の哲学について触れることのできるという本だ。

物語は1通の手紙から始まる。もうじき15歳になるソフィーが受け取った1通の手紙。そこには「あなたは誰?」とだけ書かれている。次の日、2通目の手紙が届く。そこには「世界はどこから来た?」と書かれている。

この疑問への探求こそが長年哲学者たち追求してきたものである。ギリシャ哲学から始まり、認識論と存在論、合理主義と経験主義、弁証法、現象学、構造主義、実存主義へと展開していく哲学の出発点の最初の疑問なのである。

この手紙からソフィーは、深遠な哲学の世界へと足を踏み出していく。ソフィーはこの問いへの答えを求め、哲学の講義を受けることになる。その内容は14歳の少女でも理解できるきわめて読みやすい「哲学入門」や「西洋哲学史」である。

 「わたしは誰?」と考えると次々と生と死の問題が頭の中に湧き出してくる。
わたしは生きていると考えれば考えるほど、この命はいつか終る、という考え方もすぐに浮かんでくる。わたしはある日すっかり消えてしまう、と強く実感して初めて、命は限りなく尊い、という思いもこみあげてくる。まるで1枚のコインの裏と表だ。生と死は1つのことがらの両面なのだ。

人はいつかは必ず死ぬという事を思い知らなければ、生きているということを実感することもできない。そして生のすばらしさを知らなければ、死ななければならないということをじっくりと考える事もできない。

祖母が自分の病気を告げられた日に、似たような事を言った。「人生はなんて豊なんでしょう、今ようやくわかった」たいていの人が生きることの素晴らしさに気づくのが病気になってからだなんて、悲しい。

 物語は「わたしは誰」から始まり哲学の世界に入って行く。哲学の出発点は問題意識を持つこと、つまり哲学の問いを立てることである。私たちは誰なのか、何故生きているのか。人間とは何か、人間の本質とは何か。今ここで起こっていることの背後に意志や意味はあるのか。わたしたちはいかに生きるべきか。生きていることは大きな謎だ。哲学者たちはこの問いかけを絶えず発しながら世界の本質に迫っていく。

2つの問いかけから哲学講座は始まる。西洋哲学史に登場する哲学者たちの思想が分かりやす紹介される。同時進行的にソフィーと哲学者アルベルトを巡る物語が展開する。両者を絡み合わせながら、ファンタジー的色彩を散りばめ、ミステリー的興味をも喚起しながら全体を一つの哲学として作り上げていく。

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眼科の治療・デノシン注射6回目

10月6日(水)
9時から眼科での診療とデノシン硝子体注射を行った。8、13、17、22日と最初は週2回行い、その後10月1日、そして今日で6回目だ。眼圧は14だというから基準値である。網膜の腫れも大分引いてきたということだ。視力も徐々に回復している。

今日はデノシン注射によるサイトメガロウイルスへの影響を調べるため、担当医の診療の他に、目の細菌の専門医の診察も受け、治療方針へのアドバイスを受けた。専門医は22日と10月1日の間隔が空き過ぎだなと言っていたが、もはや終ったことなのでどうしようもない。薬は順調に効果を発揮しているということだ。

以前から年に2、3度眼がかゆくなる。花粉症の症状だが花粉の季節とは関係なく症状が出る。かゆくなると近所の眼科医にいって抗アレルギー点眼薬を処方してもらっていた。放っておいても1週間位で収まるが、時間があれば薬を貰いに行っていた。

今は眼科の治療を受けているので簡単に薬を処方してもらう事が出来る、2、3日前から右の目頭がかゆくなって来たと言うと、目蓋の裏側を検査をしてアレルギー性結膜炎と言われた。左目も少し症状は出ているが、注射治療による炎症を抑えるために使用しているリンデロン点眼薬が症状を抑えている。ステロイドは最も効果的な抗アレルギー剤である。右目用に抗アレルギー薬として、町医者で処方してもらっていたのと同じリザベンを出してもらう事にした。

眼球注射は気分的に恐怖感を感じる。針が眼球に突き刺さる時、ズキンといった感じはあるが麻酔をしているので痛いわけではないのだろうが、想像力が痛みを作り出しているといった感じだ。

検査や診察、注射など結構時間がかかり、会計をし、点眼薬を受けとり、病院を出たのが11時30分になってしまった。月島第2小学校でいのちの授業が13時15分から行われる。12時30分集合だった。南北線から大江戸線へと乗り継いでやっと時間に間に合った。

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立山黒部アルペンルート3日目 宇奈月温泉街

9月28日(火)
黒部トロッコ列車の終着駅宇奈月駅を降りると、目の前にセレネ美術館があった。まずここから行ってみよう。外観の細部は写真では分からないが、外壁がかなり薄汚れておりひびがいっている所もあった。外観で中身を判断する訳にはいかないが、やはり見た目には影響される。

しかし中に入ると内装は新しく美術館、売店、レストランは東京の美術館に勝るとも劣らない程洗練された作りになっている。もっとも設計者は全国どこにでも行くので似たようになっても不思議ではない。

この美術館の成り立ちについて富山博物館協会HPには以下のように書いてあった。「平成5年8月1日、黒部峡谷の玄関口、宇奈月温泉に開館。黒部の大自然を絵画芸術を通して未来へ伝えることを基本理念とし、この趣旨に賛同された平山郁夫・塩出英雄・福井爽人・田渕俊夫・竹内浩一・手塚雄二・宮廻正明の7名の現代日本画家と美術館が協力して、黒部を題材とする新たな作品の制作を依頼し、完成した作品を常設展示している。」

まさに絵画芸術を通して「黒部峡谷の自然」を満喫できる美術館である。館内に流れるBGMも、黒部の自然をイメージしたオリジナル作品だと書いてあった。日本画の知識は殆どないが、それでも黒部の荒々しい自然と格闘し一枚の絵に仕上げる苦闘を感じさせる作品ばかりであった。

手塚雄二という人の「幻の瀧」という絵の解説があった「画家は剣大滝(幻の瀧)をベテラン山岳ガイドの案内で瀧の間近まで迫った。登山の素人である画家にとってそれはまさに命がけの取材であった。瀧の脇にある崖を30mほどよじ登り、そこにあるわずかな出っ張りを取材場所とし、腰に命綱を結んでスケッチした」と記されていた。黒部渓谷を相手に絵を描くということはこういった覚悟も必要なのだという事を認識させられるものであった。

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 セレネ美術館                       展示場  

美術館からすぐの山彦橋まで行って現在使用されている新山彦橋を見ようと思った。新山彦橋は改装中で緑色のシートが張られ風情もなにもあったものではないが、トロッコ列車が新山彦橋を通り過ぎるのを眺める事が出来た。橋の中央には列車の時刻表が貼ってあり、鉄道ファンが列車を見るのに便利だ。たまたま橋にいた時に列車が通過した。山彦橋からは宇奈月温泉の全景が見渡せる。

立川黒部085_convert_20101002091302 新山彦橋を渡るトロッコ列車

立川黒部087_convert_20101002091357 宇奈月駅と宇奈月温泉街

山彦橋から宇奈月駅まで戻り、宇奈月温泉駅の前を通るとそこには温泉の噴水がある。この温泉は富山随一の温泉地で黒薙温泉から湯を引いている。湯量は1日3000tと豊富。宿の多くは黒部川沿いにあり渓谷風景を風呂や客室から臨む事が出来る。

立川黒部181_convert_20101001233229 宇奈月温泉駅前の温泉の噴水

モーツアルトという喫茶店を分岐点として左右に分かれ、商店街、土産物屋が軒を連ねている。左の道を真っ直ぐ行くと宇奈月公園があり、そこに与謝野鉄幹と晶子の黒部渓谷を題材にした歌碑がある。公園を過ぎると黒部川をまたぐ想影橋があり、渡りきった所に想影橋展望台がある。ここからも温泉街が一望できる。この展望台はスペインの建築家がデザインしたオブジェに囲まれている。

立川黒部182_convert_20101001233448 喫茶店「モーツァルト」

立川黒部174_convert_20101002101323 与謝野鉄幹、晶子の歌碑

DSCF1189_convert_20100928223858.jpg 展望台のオブジェ

まだ時間があったので宇奈月公園内にある「おもかげ」という足湯に入る事にした。東屋にベンチをつけた造りだ。ここで20分ばかり時間を過ごした。足湯に入ったのは初めてだった。しばらく入っていると体中がぽかぽかと暖まってくる。さらに浸かっていると汗ばんでくるほどだ。全身浴と同じような効果があるようだ。時間が来たので旅館に預けてある荷物を取りに行き駅に向う。

立川黒部088_convert_20101001233705 足湯「おもかげ」

14時45分宇奈月温泉発の富山地鉄に乗リ新魚津駅まで行く。魚津で乗車する特急「はくたか」は16時05分に出発し、北陸本線、北越急行ほくほく線を経由して17時52分に越後湯沢に到着する。そこから上越新幹線に乗り、上野には19時14分に到着した。

今回の旅行は乗り物好きにはかなり魅力的だろう。新幹線、ローカル線、バス、トロリーバス、ケーブルカー、ロープウェイ、トロッコ列車などを乗り継いでいく。色々な乗り物を楽しめるというわけだ。だが最も感動的なのは、山の様々な相貌を見て、それを体験出来たということだ。

室堂では2500mの高山で自然が表現する特別の様相を見る事が出来た。、森林限界、溶岩台地のハイマツ、高山植物等は通常大変な思いをして高山に登りきった人のみが味わうことの出来るものでしかなかった。弥陀ヶ原では高原と湿原の様子、美女平では杉とブナの奥深い森林、トロッコ列車では切れ込んだ深い渓谷を見たり、散策する事が出来た。何ケ所か行かないと味わえないような多種多様な経験を積むことが出来た事が何よりの収穫だった。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

立山黒部アルペンルート3日目 黒部トロッコ列車

9月28日(火)
宇奈月温泉駅から2、3分の所に黒部渓谷トロッコ列車の始発駅宇奈月駅がある。朝9時頃駅に着いた。駅前の駐車場には観光バスがかなり停まっている。これだけの人が列車に乗るのかと思うとかなり込み合う予感がする。

朝から雨がしとしとと降っている。26、27日と快晴だったがついに雨に降られてしまった。トロッコ列車を申し込むときかなり寒くなるのではないかと思って、窓付きの車両を申し込んだ。おかげで濡れることなく見物できる。普通車両は窓がなく開放的だが雨が降ると濡れてしまう。皆雨合羽を着ていた。窓付きの特別車両は人数制限があるので事前申し込みが必要だった。そういった意味では席の心配はしなくていいはずだ。

トロッコ列車の改札口の前には100人以上の人が並んでいた。ほとんどパック旅行の団体客だろう。列車にはすべての人が座れることになってる。途中鐘釣駅で100名ほどの団体旅行客が下車した。ここで列車はがらがらになる。その乗客は上りホームに向かう。終点の欅平まで行かず、行程の3分の2位のこの駅でUターンするということだ。もっとも見所は釣鐘駅までに集中している。

パック旅行は忙しい。1ケ所15分とか30分とかで見学し次に向かう。ともかく回った数が重要だと思う人が多いのだろう。立山黒部アルペンルートも上高地や白川郷巡りと一緒に行くパックもある。神社仏閣ならパック旅行でも観光バスで連れまわしてくれるので色々見られていいが、自然の景観を味わう旅には不向きのような気がする。

黒部峡谷鉄道のトロッコ列車は宇奈月駅を出発する。黒部渓谷は立山連峰と後立山連峰に挟まれ、切り立った深いV字峡を形成する大渓谷である。渓谷美そのものを鑑賞すると同時に、次々に作られたダムにも興味がある。

宇奈月駅から終点の欅平駅まで1時間20分かかる。往復2時間40分、飽きるのではないかと思ったがそんなことはなかった。往きは山側の席だったので黒部渓谷の見所を十分観察することが出来なかった。帰りは欅平で乗車した客が10数人しかいなかったので川側の好きな席を確保できた。途中の鐘釣駅でどっと人が乗ってきた。

列車が出発すると、黒部渓谷の見所を解説する放送が車内に流れてくる。その声は室井滋であった。彼女は富山出身だということで協力したのだろう。

宇奈月から、欅平まで発電所とダムが次々と現れる。宇奈月ダム、新柳河原発電所、出し平ダム、黒部川第2発電所、小屋平ダムが見られる。また黒部ルートという欅平から黒部ダムまでの工事用輸送ルートがあり、事前応募で一般の人も参加できる見学会が開催されている。

立川黒部078_convert_20101001211536 宇奈月ダム

DSCF1293_convert_20100928224603.jpg 新柳河原発電所

DSCF1263_convert_20100928224458.jpg 出し平ダム

DSCF1253_convert_20100928224402.jpg 黒部川第2発電所

沿線の見所はやはり雄大な自然だろう。まだ紅葉には早いが切り立った山肌の壮観さは様々な様相を見せながら列車の横を通り過ぎていく。宇奈月を出てすぐにかって使用していた山彦橋が今使用している新山彦橋を通り過ぎる時に見える。

DSCF1297_convert_20100928224701.jpg 山彦橋

川沿いには次々と様々な見物が登場する。仏の形に似た天然石の仏石、谷底があまりにも深いので思わず後ずさりするので後曳橋、6つの峰が重なったような岩山・出六峰、岩壁が直角に切り立つねずみ返しの岩壁、鐘の様な形をした東鐘釣山、紅葉の名所錦繍関、周囲の峰々より頭ひとつ分背の高いサンアビキ山等が列車の横を通り過ぎる。終点の欅平は深い山々に囲まれ谷底にいるような気分になる。

立川黒部068_convert_20101001220842  立川黒部041_convert_20101001221023
  仏石                      ねずみ返しの岩壁

立川黒部059_convert_20101001223400 色付き始めた山肌

立川黒部036_convert_20101001220716 東釣鐘山

立川黒部021_convert_20101001220552 欅平駅

DSCF1238_convert_20100928224141.jpg 欅平から見た山の風景

宇奈月に戻る列車では、往きに見過ごした所を見る事が可能だ。往復同じコースという事に、トロッコ列車を申し込んだ時、面白くないのではないかとも思ったが、実際には全くそんな心配は要らなかった。方向が違うと景色もまた違って見える。また往きは山側だったが帰りは川側だったということもあって、絶え間なく移り変わる渓谷の景観を楽しめる。雨はこの頃には止み窓を開けて外の景色を見る事が出来た。

向いに座っていた人が突然「猿がいる」と叫んだ。周りの皆に言って回ってる。しかし列車は走っているのでその人以外は誰もその猿を見ることは出来なかった。よっぽど猿が好きなのだろう。皆に声をかけるとは。そうこうしているうちに列車は宇奈月駅に到着した。新魚津まで行く富山地鉄の出発時間まで2時間半近くあるので宇奈月温泉街を散策する事にした。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

立山黒部アルペンルート2日目 美女平 

9月27日(月)
弥陀ヶ原からケーブルカー駅の美女平まで高原バスで下っていく。このコースは、紅葉の最盛期には華やかないろどりに満たされる。特に急カーブで下っていく七曲あたりの紅葉は見所という。多分10月半ば頃には赤、黄の色彩に包まれるだろう。

車窓から見える風景は、富山平野を見下ろしながら、アルプスの山々を背景とし、所々に紅葉した木々に囲まれながらそれらが一体となって迫ってくる。高原バスは秋晴れのさわやかな大気の中を進んで行く。途中滝見台というバス停の所で車は徐行する。そこからは350mの落差を流れ落ちる称名滝を遠方に見る事が出来る。称名滝の滝壷まで行くには立山から専用のバスに乗る外ない。

高原バスが下るに従って、背の高い木々が増え森林地帯に入っていく。立山杉の巨木やブナの木が道路の両側に密集してくる。間もなくバスは美女平のケーブル駅に到着する。

バスとケーブルカーのターミナルのすぐ脇に美女杉がある。この立山杉の巨木には伝説がある。女人禁制の昔若狭の尼が2人の子供を連れて山に入った所、神は怒ってその2人を杉に変えてしまったというものだ。美女平駅のすぐ向かいに小高い丘があり、公園風の休憩所になっている。ここにはお迎え杉というのがある。

立川黒部096_convert_20100930224401  立川黒部100_convert_20101003114627
 美女杉                     お迎え杉

駅の脇に「美女平探鳥コース」と書かれた看板があり、トレッキングのコースが紹介されている。3コースあるが一番楽そうなコースを回る事にした。このコースは野鳥の宝庫でバードウオッチングに最適だということだ。

DSCF1146_convert_20100928223211.jpg 立山杉の巨木

美女平の森林には樹齢100~300年という杉やブナが生い茂り、原生林の雰囲気を味わう事が出来る。不老樹、天涯杉などの巨木を見ながら散策路を進む。誰もいない森の中を散策するのは気分のいいものだ。色々な所で込み合っていたから、こういった静かな所で鳥の鳴き声を聞きながらゆるり散策するのは心が洗われる。

DSCF1151_convert_20100928223524.jpg トレッキングコースの風景

DSCF1161_convert_20100928223424.jpg  

この森は森林浴100選に入っているということだ。昼下がりの木漏れ日はブナの葉を黄緑色に染めている。野鳥は5月頃が一番多いらしい。時々鳴き声はするが姿を見ることは出来なかった。ここは白神山地のブナ林を散策した時のことを思わせるほど密集した木々に包まれていた。

「美女平探鳥コース」を回り、ターミナルに戻りケーブカーに乗って立山駅に向う。このケーブルカーはダムの資材を運ぶ貨車を連結できる構造になっているそうだ。立山駅前には観光バスが何台も並んでいた。観光客はここでバスを降り、ケーブルカーと高原バスを利用しなければならないからだ。

立山駅から富山地鉄立山線に乗って宇奈月温泉に向う。乗車した列車は特急で宇奈月温泉駅まで直通だった。寺田で乗り換えなくて済むのは楽でいい。14~15時の時間帯は特急しかない。列車は北アルプスの山々を遠景に見ながら稲刈りの終った田園地帯を進んで行く。

DSCF1183_convert_20100928223741.jpg 車窓よりアルプスの山々と田園風景

16時少し前に宇奈月温泉駅に到着した。駅には旅館の旗を持った従業員が待っていた。旅館は駅から歩いて3分だというので迎えを頼んでいなかったが、他の客のために待っていたのだろう。案の定杖をついた老人を中止とした4人連れの家族がやってきた。その人達と一緒に旅館に向った。

DSCF1195_convert_20100928224030.jpg 駅前のモニュメントと温泉の噴水

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がん治療とは長く細い道を辿ら
なければならない。その先に希
望があると信じながら。

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