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池袋西口公園とその周辺の彫像・オブジェ

11月30日(火)
明日病院に行くので渡したいと思って、豊島区役所の健康保険課に委任払申請の用紙を取りにいった。毎月申請書を区役所に取りに行き、病院の医事課に持っていかなければならない。以前は高額療養費制度を利用していて、医療費負担額が限度額を超えると健康保険課から通知が来た。その通知を持って区役所の窓口で手続きをすると、翌月には指定口座に限度額を越えた金額が高額療養費として振り込まれていた。その手続きのため毎月区役所に行っていたのだから変わりはないが、病状が重い人は毎月通うのは大変だろう。

昨日千早彫刻公園の所を検索していたら、豊島区の彫刻といったサイトがあって、それを見ると池袋西口公園には15の彫像・オブジェがあり、芸術劇場の周りや中にも幾つかある。池袋駅西口周辺にもかなりある。今まで西口公園にいったことは何度かあるが、公園の装飾物として見過ごしていて、じっくり見たことはなかった。

芸術作品は至る所に存在している。箱根彫刻の森美術館に行ったことがあるが、そこにあるような名の知られた作品は周辺にはないが、それでも十分に作品を鑑賞し味わう事が出来る。区役所の帰りにゆっくりと西口公園とその周辺の彫像・オブジェを見て回ろう。

公園の紅葉
都内の公園の紅葉がかなり進んでいるという事に改めて気がついた。区役所に行く時、西池袋公園や池袋西口公園を通るが、いつの間にか公園の木々はすっかり色づいていた。

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 西池袋公園                        池袋西口公園

元池袋史跡公園
区役所を出て最初に元池袋史跡公園に行った。この公園はメトロポリタンプラザに面している。かっては元池袋公園として弦巻川の水源の池である丸池(袋池とも呼ばれた)を擁していた。それが「池袋」という地名のもととなった。下水道工事のため土地を交換し、平成10年に新しい公園として生まれ変わった。園内は夜間ライトアップされるので公園というより装飾建築に近い。夜になると広場の舗装が水面のように光り、水の中にいるような気分になるという。

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 梟の樹・佐々木実           梟の樹・佐々木実            梟・佐々木実 

メトロポリタンプラザ南西入口
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池袋西口公園‐南側沿い
西口公園の南側のフェンスに沿って、8つのオブジェが並んでステンレスの柱の上に造られている。大きさはほぼ同じだが、作者の個性がそれぞれに表現されてその多様さを味わうことが出来る。

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 飛ぶ男・高田大    INSIDE OUT T-3・菅原二郎  生息する魚・山崎隆  双・斉藤智

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 空に遊ぶ・中井延也   風の中で・湯村光   FLYING OBJECT・岡本敦生  円の均衡・若林功
 
池袋西口公園‐中央・南東入口

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 平和の像・竹内不忘          AI・麻生秀穂              KEI・麻生秀穂

池袋西口公園‐北東側・田園交響楽
駅から一番近い入口の一画に、高さ違いの柱が10本ほど立てられていて、その上にデフォルメされた動植物の彫像が作られている。人、亀、梟、カタツムリ、バッタ、白鳥、ゆりの花だろうと思われる。その他は不明だ。10種類の彫像が空に突き出したように立てられていて、それぞれの距離と高さとがバランスをとりながら、相互に共鳴しあい、ハーモニーを奏でながら一つのまとまりを構成している。そういった意味で、田園に生息する様々な生物を一体のものとして息づかせていく事は、まさに一つの交響楽を演奏するようなものだろう。

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 田園交響楽・掛井五郎、加藤昭男

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芸術劇場‐周辺・1階・5階、池袋駅メトロポリタン口

芸術劇場が完成した時に、交響曲の演奏会の招待券が手に入って行った事がある。ドボルザークの『新世界』を聴いた事はよく覚えている。それ以来一度も入ったことがない。劇場の周りにはオブジェと彫像が3種類ある。マリーとシェリーは若い女性が道で立話をしている様子がリアルに表現されていて、街の情景に溶け込み今にもしゃべりだしそうな雰囲気を漂わせている。

劇場内に入るとロビーがかなり広い。5階まで吹き抜けになっているせいでより広く感ずる。エスカレーターが5階まで一直線に上っている。天井には金色の小さなパネルを幾つも吊り下げたオブジェがあり、エスカレータの裏には滝を表現したオブジェもある。1階の案内ポスターに囲まれるようにしてマーメードという彫像が立っている。大ホールがある5階に上がるとリトル・プリンセスの彫像があり、また「海の幸」というレリーフが飾られていた。

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CRESCEND・CLEMENT MEADMORE   WAVING FIGURE・建畠覚造    マリーとシェリー・朝倉響子

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 マーメード・佐藤忠良        リトルプリンセス・マルトン・ラースロー  PROGRES・松阪節三(池袋駅)

東京都豊島合同庁舎
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 REFLECTION・逢坂卓郎                椅子の振舞・金沢健一

(参考資料:「彫刻天国~東京パブリックアートガイド~豊島区の彫刻」HP)
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ジャンル : 日記

人権尊重教育・研究発表会(3)

11月28日(日)
(11月25日に行なわれた研究発表会報告の続きです。)

シンポジウム報告
研究発表を終え、15時30分から「月二を語り、子どもを育てる」というテーマでシンポジウムが行なわれた。3人のシンポジストが話をする事になっている。月島第二小学校の金子校長が司会進行を務める。

3人の紹介から始まる。1人目は水上寮の寮母さんを長い間勤めていて、昔の月島界隈の子供たちの、とりわけ水上生活者の状況について詳しく知っている人である。水上寮とは水上小学校の付属寮で、月二小学校の生徒の何人かが水上小学校に転校し、また水上小学校が廃校になった時、そこにいた生徒が皆月二小学校に転入したという両者は深い関係を持っている。場所も晴海通りを挟んで向かい合っていた。

2人目は、月島で生まれ育ち、今は民生児童委員をやっていて、この地域の子供たちの問題について親の相談窓口になって人である。子供たちは今どんな問題を抱えているのか話をしてもらう。

3人目は、国立国際医療センターの外科医であるが、国際医療協力の仕事をしている。世界各国で貧しい子供たちと接している中で、日本の子供たちに訴えかけることがあるだろう。世界の子どもの状況を知る事によって、今の日本の子供たちの置かれた状況がより鮮明になるのではないか。また彼は月二小学校の卒業生でもある。

シンポジウムは最初5分位で自己紹介が行なわれ、それ以降金子校長が、シンポジストに様々な質問をしながらシンポジウムを進行させていった。3人の話は、質問に応えるという形で断片的なものだったが、その内容を報告するにあたっては、各人が話したことをまとめて記載する事にしたい。

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 シンポジストの紹介                   シンポジウムの様子

■ 水上寮寮母だった人の話-水上生活者の状況
かつて舟運が盛んであったころ、各地の河川や内海は物資輸送路として今日の自動車道のような役割を担っていた。昔は水深のために貨物船が接岸出来なかったり、埠頭が整備されていなくて沖に停泊したまま積荷を降ろすということも多かった。そのため1960年頃まで“はしけ”(艀)と呼ぶ運搬船や材木輸送の“いかだ”(筏)が東京湾岸を行き来していた。

はしけは海だけでなく神田川や隅田川といった川も遡ってきていた。積荷によって毎日のようにはしけの行き先が違っていて、そこに生活している水上生活者の子供たちは就学のため陸住まいをしなければならなかった。陸で生活している親戚の家に預かってもらうしかなかった。預かってくれる所がない児童は未就学になることが多かった。

そういった中で、1930年(昭和5)水上小学校の設立が東京府より正式に認可された。同時に水上寮も作られ、そこで寝泊りが可能となった。この学校は1966年(昭和41年)に廃校になるまでその役割を果たしてきた。

土曜日の授業が終るとはしけが近くに停泊している場合には家族のもとに帰る。学校の所有しているポンポン船が生徒を永代や明石町、越中島などの船だまりまで送ってくれる。しかしはしけの運行予定が違ってしまってそこで家族に会えない事もあり、野宿をする生徒もいたという。

ある生徒の学校への出席が滞りがちになった。水上小の校長が親を訪ねてはしけまで行ったが、親は「船頭に教育はいらない」という。校長は親同士の懇談会を設定して、皆でこの問題について話し合った。

校長が幾ら教育の必要性を船頭の親に語ったとしても説得できなかったかもしれない。色々な親がいる。様々な困難を抱えている。それを個人で解決することは難しい。地域で親同士の関係を深めていくことでしか解決できない問題は多い。子どもは社会の子であり、みんなの子だという地域の関係性を作り上げていく事が重要だ。

■ 民生児童委員の人の話-親と子の関係
ある相談を受けた。子どもに元気がなく他の子とも積極的に遊ぼうとはしない。家に閉じこもりがちだ。子どもの元気のなさよりも親の元気のなさに気がついた。そこで親に地域のイベントを紹介して一緒にいったり、PTAへの参加を勧めてみたりした。そういった活動に関わる中で親は元気を取り戻してきた。

保護者同士の関係の深まりの中で、一緒に活動し話をしたりして色々な問題の解決の糸口を見出していけるようになってきた。地域の中で自分の存在を確認できることは極めて重要なことである。こういった親の変化は子供に直接的に影響する。子供も親の姿を見ながら元気を取り戻していったのである。

子供への人権侵害の事例は数限りなく存在している。朝食を与えない親、子育ての放棄、児童虐待など、これらは自分が社会から孤立しているといった強迫観念から生ずる事が多い。親個人で抱え込んでいては解決できない。ともかく相談に来てくれることからしか始まらない。こういった親の問題は子供に一番の影響を与える。いつでも子供が最大の犠牲者なのだ。

親が地域の中で自分の位置を見出す事が出来れば問題の多くは解決する。互いに偏見を持たないで話し合える井戸端会議的な場が必要だろう。またお互いに挨拶をするという関係は極めて重要だ。それは相手を尊重し、人権を守ることの始まりでもあるのだ。

子供の出すサインをいち早く発見することが何よりも必要だ。いじめや不登校など、子どもを取り巻く状況は厳しさを増している。民生児童委員として出来ることは限られているが、月島で育ち暮し続けこの地域のために少しでも役に立ちたいと思っている。

■ 国際医療センター医師の話-世界で医者を必要としている子供たち

私が医療における国際協力に関わった最初のきっかけは、若い頃カンボジアの難民キャンプで医者を必要としているという要請があり、そこに参加してからだ。そこで日本とのあまりの医療格差に愕然とし、どうにかならないかと思い、それ以降こういった活動にかかわるようになった。

世界中では、年間約1200万人の子供たちが死に追いやられている。その大部分はアジア・アフリカなどの発展途上国で発生しており、原因は飢え・病気・戦闘の犠牲などである。
乳幼児(5歳以下)の死亡率のデータを挙げると死因の約60%は三つの病気(肺炎・下痢・麻疹)によるものだ。これらはちょっとした予防知識とわずかな費用で治す事ができる。しかし途上国では子供に必要な医療の50%しか提供できていない。

WH0によると、発展途上国の死亡原因は、肝臓、エイズ、下痢、マラリアとなっている。最初の頃は国際医療協力で行く国は、東南アジアや中南米などであったが、最近はアフリカが中心である、アフリカでHIV陽性の人は人口の10~25%もいて、年間100万人がエイズで死んでいく。残された孤児の生活をどうするか大きな問題となっている。

日本では16,000人がHIV陽性となっている。これは人口比0.01%だが、検査を受けている人があまりにも少ないので正確な数は分らない。東京で言えば1000人に1人という事になる。アフリカとの違いを改めて感じさせる数字だ。

子供たちに世界の事をもっと知ってもらいたい。発展途上国では水や衛生関連のインフラが十分に整備されていないため、雑菌の被害や感染症が多く、健康への被害が深刻な問題となっており、病気になっても十分な医療を受けられず子供たちが死んでいく。戦争のある国では子供たちが武器を持って戦闘に参加している。

こういった現状を知り、自分たちの今の状況を照らし合わせてもらいたい。ただ国際協力といっても途上国に行って何かをしなければならないということだけではない。在日外国人に偏見なく接する事もきわめて重要な国際協力の一貫である。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

人権尊重教育・研究発表会(2)

11月28日(日)
(11月25日に行われた研究発表会報告の続きです。)
各クラスでの公開授業が終わり、体育館で行なわれる研究発表を聞くために移動する。最初に来賓の紹介が行なわれ、その中から中央区教育委員会の人が開会の挨拶を行う。

研究発表は、教師が分担して行う。プロジェクターで、壇上のスクリーンに重点項目を提示しながら話を進めた。最初に総論として人権教育全体計画、道徳教育全体計画,が話され、それに従って年間指導計画が低学年、中学年、高学年、陽だまり(特別クラス)に分けて語られた。内容は以下の通りである。教師の発表が終わり、研究内容に対する指導、講評が、中央区教育委員会の人と、東京都教育委員会の人から提起された。

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 来賓の話                        プロジェクターの画面

人権教育全体計画

研究の目的: 新しい課題への対応・伝統と実績の継承発展
教育目標: 心の豊かな子ども、よく考える子ども、たくましい子ども
研究主題: 心をつなぎ、みがき合う子ども

人権教育の目標:
児童一人一人が思いやりの心をもち生き生きと学校生活を送ることができるようにする
<知識的側面>
身近にあるさまざまな差別と偏見に気付かせ、人権に関する知識を身に付けさせる。
<価値的・態度的側面>
自己肯定感を高め、相手の立場になって考える態度や、望ましい人間関係を築き、社会生活へ適応し、貢献しようとする態度を育成する。
<技能的側面>
発達段階に応じて、自他の人権を守る技能を身に付け、実際に行動にすることができるようにする。
全ての教育活動を通じて「読・書・算」、思考力、判断力、表現力など基礎学力を養う中で自己実現が図られるようにする。

重点とする人権課題: 子ども、障害者、高齢者

他の活動との連携:
各教科との関連、特別活動との関連、道徳との関連、生活指導との関連

人権教育の基盤となる環境作り: 一人一人のよさや可能性が認められ高め合いながらより個性を伸ばしていける場を設定する。人権尊重に対する実践的な態度を育てる。

目指す児童像:

低学年・・しっかりと聞き、よく考えようとする子ども
中学年・・友だちを認め、友達の立場に立って考えられる子ども
高学年・・相手に共感し、互いに高めあう子ども
陽だまり・・身の回りのことができ、自分の気持ちを伝えようとする子ども

道徳教育全体計画

道徳教育の基本方針:
豊かな心をもち、正しい判断で自主的に行動できる
児童を育てるため、人間尊重の精神を基盤に、教育活動全体を通じて道徳教育を推進する

指導の重点:
・教師と児童・児童相互の人間関係を深め、基本的生活習慣を身につけるとともに、自主自律の精神と公共心を養う。
・自他を思いやる心の豊かな児童及び、自他の生命を尊重し、自分の身を守ることができる児童の育成を、全教育活動を通して図る。
・道徳の時間においては、ねらいとする道徳的価値を自覚し、共感的に理解できるように多様な学習活動を取り入れ、道徳的な判断力や実践力を育成する。
・そのために、年間指導計画に基づく指導の充実・授業評価の徹底・特性を生かした授業の充実を推進する。
・児童の豊かな心を育てるために意見交換を通して、学校・ 家庭・地域社会が一体となった道徳教育を推進する。そのために道徳授業地区公開講座等を充実させ、家庭や地域社会との連携を図る。

重点目標: 全学年共通最重点内容項目―思いやり・親切、友情・信頼、生命尊重
低学年
 幼い人や高齢者など身近にいる人々に温かい心で接する。
 友達と仲よくし 助け合う
 生きることを喜び生命を大切にする心をもつ。
中学年
 相手のことを思いやり、進んで親切にする。
 友達と互いに理解し、信頼し、助け合う
 生命の尊さを感じ取り、生命あるものを大切にする
高学年
 だれに対しても思いやりの心をもち、相手の立場に立って親切にする
 互いに信頼し、学び合って友情を深め、男女仲よく協力し助け合う
 生命がかけがえのないものであることを知り、自他の生命を尊重する。
陽だまり学級
 基本的な生活習慣

道徳の時間:
道徳の時間においては、各教科、外国語活動、総合的な学習の時間及び特別活動における道徳教育と密接な関連を図りながら、計画的、発展的な指導によってこれを補充、深化、統合し、道徳的価値の自覚及び自己の生き方についての考えを深め、道徳的実践力(道徳的な心情,判断力,実践意欲と態度等)を育成する。聴く・待つ・受け止める。

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ジャンル : 日記

人権尊重教育・研究発表会(1)

11月27日(土)
11月25日に実施された研究発表会報告
ももの木の「いのちの授業」メーリングリストに次のようなメッセージが送られてきた。11月25日13時から、中央区立月島第2小学校で研究発表会がある。「心をつなぎ、みがき合う子ども-人権を大切にした道徳の時間を要として-」という主題での研究発表が行われる。その後「月二を語り、子供を育てる」というテーマでシンポジウムが行なわれる、というものだ。

この小学校は、21、22年度の東京都教育委員会人権尊重教育推進校、中央区教育委員会研究奨励校に指定されている。毎年6年生を対象とした「いのちの授業」をやっている。金子校長は気さくな人で、昨年の「いのちの授業」の後、月島西仲商店街のもんじゃ焼屋で一緒に飲み食いした関係もあって、彼の主催する研究発表会なら興味が持てるかもしれないと思った。また小学校教育の現状を知ることが出来るだろうということで、出かける事にした。

13時から研究発表が行なわれるのかと思っていたら、当日のスケジュールは次のようになっていた。13:35~14:20公開授業、14:40~15:10研究発表、15:10~15:30指導・講評、指導のまとめ、15:30~16:15シンポジウム、16:15~16:20謝辞となっている。

13時に着き入口で受付をしていると副校長と会った。副校長は一般参加者控室である家庭科室に案内してくれ、その部屋の前にある「いちょう歴史館」の説明をしてくれた。月島第2小学校は「いちょう・なわとび・時計塔」に象徴される伝統ある学校で、開校101年・明治42年からの歴史がある。

長い歴史の中で蓄積された学校に残っている大正時代からの卒業写真やアルバム・生徒たちの授業風景など様々な資料や、地域の人たちが提供してくれた昔の地域の有様を示す写真などの資料が展示されている。写真は歴史館の中に収まりきらず、歴史館や家庭科室の外の壁にも一面に貼られていた。公開授業まで時間があったので見学した。

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 「いちょう歴史館」の入口               歴史館の展示風景 

公開授業
公開授業は10月に「いのちの授業」やったクラス6年2組を見学した。授業のテーマは「輝いて生きる・生命尊重」ということで柳橋佐江子さんの直筆の手紙のコーピーを資料として使用している。以前この資料を使って大田区の小学校で文京区教育委員会の伊藤敏さんの授業を聞いた事がある。彼の授業との違いを見るのも興味深い。

事前に「学習指導案」が見学者に配られている。1~6年までクラスごとの今日の授業の指導内容について詳しく書かれたパンフレットである。その中の6年2組の道徳学習指導案には次のように書かれていた。

1、ねらいとする道徳的価値について
生命は尊く、かけがえのないものである。そして、この生命は多くのものに支えられている。こういったことをしっかりと自覚し、これから先の人生の中で喜びや辛さを味わいながら前向きに生きていこうとする態度を育てていきたい。

2、資料について

資料は重い心臓病を抱えた14歳の少女が手術を前に母へ手渡した手紙である。14年間の思い出を振り返るとともに、これまで育ててきてくれたことへの感謝の気持ちが綴られている。娘を支える親の愛情や命の大切さに気付かせることのできる資料である。

授業はまず佐江子さんの手紙の朗読から始まる。それが終わり、手紙の内容を深く考えるために3つの紙に書いたテーマを黒板に貼り出し、生徒たちを指名しテーマに関する感想を求めた。その感想をテーマを書いた紙の横に書き出す。
・佐江子さんはどんな気持ちでこの手紙を書いたのでしょう。
・お母さんは手術の間どんな気持ちだったのでしょう。
・お母さんは佐江子さんの死を知らされたとき、どんな気持ちだったのでしょう。

その後ワークシートを配り生徒に感想を書かせた。ワークシートを用いることで、お母さんの気持ちに焦点を当て、深く考えられるようにするためだ。資料「この命のかがやきを」(おかあさんへ)を読んで、授業の中で発言したり、話し合いを通しながら、授業のねらい「生命がかけがえのないものであることを知り、自他の生命を大切にしようとする心情を養う。」について考えさせることが求められていた。。

それは「佐江子さんの死を知ったときのお母さんの気持ちを考えることができたか。自分たちが多くの人に支えられていることに気付くことができたか。」という資料の内容について考える事を通して分ってくるものだ。こういったテーマは生徒が考えながら発言したり、ワークシートを書いたりする事を通して深化させていく以外にはない。

最後に生徒たち一人一人に手紙が渡される。今日のために生徒の母親が書いた生徒宛の手紙だ。生徒はそれを読む。親との新たな絆が生まれるだろうか。(つづく)

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都立庭園-8(2) 六義園の紅葉

11月24日(水)
血液検査、眼科診察・治療、血液内科検診、点滴を終え、薬を貰い病院を出たのが13時だった。比較的スムーズに行ったといえる。あまり待つことなく次々を診療を行なってくれると楽だ。昨日大分歩いたので今日はいつもの「北区のさんぽみち」の散策コースを巡る気分ではなかった。病院からは駒込駅の方から帰る事が出来る。帰りの通り道だということで、丁度紅葉の時期に入っている六義園経由で帰る事にした。

紅葉情報だと六義園は「色づき始め」となっているが、11月19日から12月5日まで紅葉と大名庭園の要所がライトアップされる位だからかなり期待できる。この期間は21時まで開園している。ライトアップされた紅葉は見ものだろうが暗くなるまで待っている訳には行かない。六義園のホームページには「池の周りの紅葉は見頃となり、園全体ではモミジは6~7分程度の色付きとなっております」と書いてあった。

病院から天祖神社の中を通って六義園に向う。神社の大いちょうの並木が黄色く色づいている。また通り道にある富士神社の鳥居を囲むようにして立っているいちょうの巨木も色づき、神社の雰囲気を豊なものにしている。そこから六義園まで3、4分で行ける。

駒込周辺・六義園006ed_convert_20101126011044 天祖神社参道のいちょう並木

六義園は病院の行き帰りに何度か行ったことがあるが、季節ごとに様々な色使いをみせている。昨年は12月初めの紅葉の時期に行った。その前の時はつつじの時期だった。つつじのピンクが大名庭園を淡く彩っていた。六義園は季節ごとに楽しめるように色々な木々が植えられている。

庭園で渡されたパンフレットでは次のように紹介されている。春:サクラ(シダレ、ソメイヨシノ)、ツツジ、ヤマブキ、ミズキ、サツキ、エゴノキ、コブシ、夏:キブシタイサンボク、モクゲンジ、ハギ、アジサイ、ムラサキシキブ、秋:紅葉(ハゼ、モミジ)、冬:ロウバイ、ツバキ、ウメ

駒込周辺・六義園046ed_convert_20101126013526 内庭大門周辺のもみじ

駒込周辺・六義園049_convert_20101125215244

出汐の湊: 大泉水の池畔の名の一つ。右手に中の島を、左手には蓬莱島が、そして対岸には吹上浜が見渡せる。
駒込周辺・六義園052ed_convert_20101126021243 出汐の湊から中の島、田鶴橋を見る

駒込周辺・六義園056eee_convert_20101126020515 五藻の磯より吹上浜、吹上茶屋方面

季節ごとに様々な庭園の鑑賞の仕方があるが、何といっても紅葉の時期が最高だろう。かなりの数のもみじが植えられ、そのもみじが空の色と日当たり具合によって様々な色の変化を作り上げている。同じもみじでも紅葉の色が同じではない。葉緑色から濃い朱色まで何通りもの様々な色を表現している。真昼間の燦々と降りそそぐ太陽光線を通して見る紅葉は一層色を鮮やかに輝かせる。

駒込周辺_convert_20101204003525 吹上茶屋のもみじ

つつじ茶屋:
明治年間、岩崎氏の代に、つつじの古木材を用いて建てられたもの。戦災を免れ、現代にその希少な姿を伝えている。
駒込周辺・六義園066_ed_convert_20101126011339 つつじ茶屋周辺

駒込周辺・六義園070_edited_convert_20101125220638 田鶴橋と中の島

藤代峠:
園内で一番高い築山で、標高は35m。紀州にある同名の峠から名付けられた。
駒込周辺・六義園077ed_convert_20101126011454 藤代峠より中の島、出汐の湊方面

紅葉の葉の色を語るとき赤、黄、橙などと表現するが自然の色とはとてもそれだけでは表現できない微妙なものである。日本の伝統色は赤でも何十種類もある。えんじ色、柿色、唐茶、かんぞう色、中紅、深紅、緋色、朱色、猩猩緋などある。黄色でも、う金、黄土色、落栗色、黄朽葉色、黄はだ色、山吹色、雌黄、刈安、黄支子などある。日本の伝統色の色表現は、紅葉の葉の様々な変化を表現したり、日本の自然を表現するのに適しているのは間違いない。

何年か前、夕方行って、公園を回りながら夕日で照らされる紅葉を見ていたら、しばらくするといつの間にか暗くなり、紅葉が一斉にライトアップされ、それもまた昼間の光で見るのと違って幻想的で奥深い雰囲気を作り出していた。夕方寒くなり始めてきた時に売店で熱燗が売られていたのは嬉しかった。熱燗で身体を温めながらライトアップされた紅葉を見物するというのもなかなか経験できるものはない。

蛛道: ささかにとはクモの古い呼び名で、老が峰の北側を通る樹幹の小道はクモの糸のように細いところから、そう名付けられた。
六義園082_convert_20101204004215 蛛道から川面にかかる紅葉を対岸から見る

駒込周辺・六義園083_convert_20101125221055

歴史: 六義園は元禄8年(1695年)、五代将軍・徳川綱吉より下屋敷として与えられた駒込の地に、柳沢吉保自ら設計、指揮し、平坦な武蔵野の一隅に池を掘り、山を築き、7年の歳月をかけて「回遊式築山泉水庭園」を造り上げた。庭園の名称は、中国の古い漢詩集である「毛詩」の「詩の六義」、すなわち風・賦・比・興・雅・頌という分類法を、紀貫之が転用した和歌の「六体」に由来する。
六義園には吉保が愛した万葉集や古今集の和歌に歌われた天下の絶景を集めようとした。紀州の和歌の浦の景勝や和歌に詠まれた名勝を模した八十八景が形作られた。「紀の川」「妹山」「背山」「田鶴橋」「藤代峠」「渡月橋」など紀州に縁がある名の場所が多数ある。渡月橋は「和歌のうら 芦辺の田鶴の鳴声に 夜わたる月の 影そさひしき」の歌に由来するという。(「公園に行こう」より)

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

定期検診の日

11月24日(水)
今日の予定は8時30分に血液検査の受付をする。採血は9時少し前に終るだろう。9時に眼科の窓口で受付をするとすぐ検査に呼ばれる。いつもの通り眼圧や視力検査をしてミドリンという瞳孔を開く薬を点眼される。瞳孔が開くのに20分位かかる。その頃に眼科医から呼ばれ診察する。その後デノシン硝子体注射を行う。再度注射跡の検査などをして眼科での診療は終る。

次に血液内科の診療がある。11時予約になっているが、1時間位待つ事になる。診断後レナリドミドの書類を薬剤部に持っていく。その後外来治療センターのベッドやリクライニングチェアーが空くのをしばらく待って1ケ月一度行なっているゾメタを30分かけて点滴する。最後に会計をし薬を受け取り治療の1日は終る。眼科治療は毎週やっているので、血液内科の診療がある時は同じ日にしてもらっている。毎回同じパターンで行っている。

検査結果 
 IgM   3178(11/24)←3795(11/10)←3300(10/27)←3642(10/13) 
 IgG    539←613←603←563
 白血球  2000←2400←2000←2000
 好中球  520←700←740←680
 血小板  6.1←8.9←8.0←7.8
 赤血球  316←317←292←293←299
 ヘモグロビン 10.2←10.4←10.0←10.0
 網赤血球  7←7←12←8
 CRP   0.05←0.07←0.61←0.21


何よりも心配だったのはレナリドミド(レブラミド)が今回効果を発揮すするかどうかだった。もしこのまま上がり続けたらレナリドミドの使用を中止し、別な治療法を考えなければならない。しかしどんな治療法があるか全く考えつかない。つまり医者も私も他の方法を全く考えつかないまま今日の結果を見る事になるのだ。そういった心境でIgMの数値を見るのはかなり緊張する。

運が良かっのだろうか。確かに薬が効くか効かないは確率の問題だから運としか言いようがない。IgMは、今回、2週間で617減少した。医者も私もほっとしたといった感じだ。ただ問題は好中球が520で治療継続が否かのボーダーラインにいるということだ。骨髄抑制はレナリドミドの副作用として挙げられているが、これ程影響を被るとは思っていなかった。レナリドミドを使用する前白血球は3400、好中球は1310あったが、使用した途端2000と680まで下がってしまった。これからインフルエンザの流行る時期が到来する。感染には十分注意が必要だ。

期待の新薬、第2世代のプロテアソーム阻害剤・カールフィルゾミブや、第3世代のIMiDs・ポマリドミド(アクチミド)に関して、担当医は米国血液学会ではすぐにでも承認されるような事を言っていたという。しかし実際にはまだFDAへの申請すら行なっていない状態だという確かな情報がある。日本で使えるようになるにはあと3、4年はかかるだろう。それまでレナリドミドが効果を継続しているとは思えない。絶えず次の方法を考え続けなければならない。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

本土寺

11月23日(火)
昼過ぎから天気が回復し青空が見えてきた。渓谷と公園の紅葉鑑賞したので、次は寺院の紅葉を見たい。京都まで行くことなど出来ないので、近郊の寺院で紅葉が見頃の所を探した。今年の春に行った本土寺の紅葉が見頃だと書いてあった。あじさいと菖蒲の時期に行ったが、紅葉の時期はどんな雰囲気になっているかその違いにも興味を感ずる。同じ建造物でも背景の違いがどのように建物の印象を変えていくのか見ものである

JR北小金駅から商店街の中を500mほど進むと商店は途切れ、信号を渡ると「長谷山本土寺」の文字を刻んだ石注がある。ここから寺院の参道が始まる。松、杉などの老木など樹齢を感じさせるかなりの数の木々が参道の両側に高く聳えている。この参道を見るだけでも寺院の歴史を感じる事が出来る。

本土寺087_edi_convert_20101123235310 本土寺参道

略歴 当山は、もと源氏の名門平賀家の屋敷跡と伝えられ、今をさかのぼる事およそ七百年前の建治三年(1277年)に、領主の曽谷教信卿の協力により領内の地蔵堂を移して法華堂とし、日蓮大聖人より長谷山本土寺と寺号を授かったのに始まります。池上の長谷山本門寺、鎌倉の長興山妙本寺と共に朗門の三長三山と呼ばれ、宗門中屈指の大山として末寺百数十を統べ、山内は四院六坊がとりまく十四間四面の本堂を中心に、七堂伽藍がその山容を誇ったこともありました。

仁王門
: 日惠上人(1650年)の発願による。

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本土寺の境内はかなり広く様々な建物があるが、順路表示がきちっとしているので、全体を余す所なく見学できる。仁王門から石段を降りると受付がありそこで拝観料を払う。まず左に国重要文化財の鐘楼があり、その隣に五重塔を見る事が出来る。そこから本堂に向かう。本堂からは秋山夫人の墓の前を通り、あじさい園の中を進んで行く。あじさい園を抜けて坂を下ると菖蒲園に着く。坂の途中に宝物殿が右に見える。金色の尖塔がかなり目立つ。宝物殿には松戸市中世の資料や過去帳などの古文書、霊宝などが収められている。

菖蒲園を周り、また坂を上ると小高い丘になっていて、菖蒲園や宝物殿などが俯瞰できる。そこには乳出の御霊水があり、日像菩薩の誕生水だといわれてる。順路行くと、像師堂があり、その周辺には地蔵尊や稲荷神社がある。弁天池の周りを巡り妙朗堂、開山門、赤門などを見ながら再び受付前に戻ってくる。

本土寺のパンフレットに「建物としての文化財はありませんが、霊宝などは数多く宝蔵に格護されています」と書かれていた。鐘楼が国の重要文化財となっているが、それ以外には3個の霊宝があり、宗祖真筆加判のご本尊、宗祖真筆諸人返事が文化財となっているということだ。これだけでは参拝客は訪れない。

花の寺として春は桜、初夏はあじさい、菖蒲、秋は紅葉と四季折々の花が咲き乱れる寺として名が知れ参拝客はかなりの数に上るだろう。前回行った時にはなかったが、弁天池の傍に鎌倉の宇賀福神社銭洗弁財天を勧請したということで、弁財天の像と銭洗い用のザルなどが用意してあった。寺院も色々アイデアを出して客集めに苦労しているのだろうなといった印象を持った。

五重塔: 平成3年春日像菩薩650年忌を記念して建立。中には印度からの真仏舎利と千体仏が荘られている。

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本堂: 本尊は一尊四士で慶安四年に秋山修理亮(小金城主一族)が息女の菩薩を祈って建てたものと記録されている。

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本堂周辺の紅葉: 本土寺の紅葉は、京都で見られる真っ赤な紅葉を選定して植栽している。大盃(オオモミジ系で、もみじの王様といわれる代表的品種)をかなり取り入れている。

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あじさい園の紅葉した木々

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妙朗堂から像師堂につながる回廊

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像師堂: ご本尊は日像菩薩作親子相想の日像で、左右に二天が安置され、脇床には子育の鬼子母神が祭られてる。

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弁天池周辺の紅葉

本土寺060_convert_20101123234639 苔の緑に紅葉が映える

本土寺066_convert_20101123234752 弁天池の中島にある弁天堂

本土寺077_convert_20101124000521 弁天池の背後の高台より

妙朗堂
: 日像菩薩のご生母のお姿を安置するお堂。

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開山門
: 開山の建治三年(1277年)以来の門で、日伝上人は師の日朗尊者の出入り以外は使用しなかったと伝えられている。

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赤門


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(参考資料:「本土寺」公式ホームページ)

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村上龍 『どこにでもある場所とどこにもいないわたし』

11月21日(日)
5122_convert_20101121193600.jpg空港ロビー、居酒屋、コンビニ、公園、駅前広場といった、日本のどこにでもある場所を舞台にした8つの短篇が収められている。変化なく流れる日常性の中で、一瞬揺れ動く心、変化を求める意識の流れ描き、その中に垣間見られる新たな希望をどのように顕在化していくかを模索した小説である。

この小説の趣旨を、あとがき「場所・自分」の中で作者は次のように言っている。
「閉塞感の強まる日本の社会において、現代の出発は閉塞して充実感を得られない日本からの戦略的逃避でなければならない。近代化途上の日本は貧しかったが希望だけはあった。しかし今“この国には何でもある。本当に色々な物がある。だが希望だけがない。”この短編集には社会的希望ではない他人と共有することの出来ない個別の希望を書き込みたかった。」(文藝春秋単行本p185)

この小説は何を訴えようとしたのか。

 不特定多数の集まる日本のどこにでもある場所を舞台にし、我々が日常的に体験しうる状況を設定したことによって、誰でもこの中の登場人物になりえる親近感を持つ事が出来る。そして主人公の持つ希望の実現が可能かどうかを期待させていくのである。現代の閉塞感やそして個人の孤独感は、大都会の雑踏の中でより一層強められていくのである。現代社会の状況を作者は次のように表現する。

「気をつけないといけないなと思うのは、このワインを飲む時に、これが人生で最上の瞬間だと思ってしまうことだ。大切なのは、このワインと同じくらい価値のあるものをこの社会が示していないし、示そうとしていないということだ。こんなワインを飲む瞬間に比べられるようなものはこの社会にはないからね。

普通の人は、一生、普通という人生のカテゴリーに閉じ込められて生きなければならない。そして普通という人生のカテゴリーには全く魅力がないという事をほとんどの人が知ってしまった。そのせいで、これから多くの悲劇が起こると思うな。」(披露宴会場P107)

 主人公は他人を拒絶しているわけではない。他者との関係を求め、恋をしたり、夫以外の男性と付き合ったり、生活のため水商売を選択したり、生活に追われ四苦八苦しているどこにでもいる人達である。しかし彼らにとって他人はそれだけの存在でしかない。そこに希望は見出せない。だから常に空虚である。日常空間の中で自己を見出せない不毛の心と孤独感にさいなまれる。

現代の社会経済の混迷と時代の変わり目の中でいかに個の確立を目指すのかが問われているのである。個の確立・自己認識は孤独と絶望を強めるものでもあるのだ。しかし一方絶望こそが自己認識の出発点である。そこを正面から見据えない限り希望は見出せない。「コンビニ」の中に以下の言葉があった。

「おまえはまだ間に合うから何かを探せ。本当の支えとなるものは自分自身の考え方しかない。いろいろな所に行ったり、いろいろな本を読んだり、音楽を聴いたりしないと自分自身の考えは手に入らない。そういうことをおれは何もやってこなかったし、今から始めようとしても遅いんだ。」(p21)

 小説の舞台となるコンビニ、居酒屋、カラオケボックスなど、そこに集まってくる人はそれぞれ全く無関係な他人である。相互の関係性は全くない。こういった空間は現代日本の象徴的な場所といえるだろう。他者との関係が極端に希薄な現代の人間関係の中で自己を対象化する事が難しくなる。

こういった中で、主人公は自己を叙述しながら自分自身を見出して行くという過程を取る事ができない。ただ眼に映るものを叙述していくだけである。他者との関係の中で人は自己を見出す事も出来るし、そこから新たな生き方への希望も生まれてくるのである。

「おいしいものを食べたからといって人生が容易になるわけでもない。重要なのは何を食べるかじゃなく、誰と食べるかだ。おいしいものを食べるよりも、誰と知り合うかというほうが重要なんだ。」(「クリスマス」P127)

こういった世の中でも人はそれぞれ自分の中に何物かの萌芽を感じ取り、それを自覚した時希望へと導かれていく。作者は主人公の言葉を通して淡々とした語り口調で希望への道しるべを指し示していく。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

ねりまの散歩道-5 光が丘公園コース

11月19日(金)
「ねりまの散歩道」は、平成4年7月に設定されたみどりや水辺、史跡、公園などをめぐる散歩コースで、1つのコースは約5~8kmで、区内に9コースある。近いこともあって幾つかのコースを巡った事はある。ただ「ねりまの散歩道」のコースは西武線を挟んで両側にまたがっていたりしてかなり距離があることがあるので、半分位で済ませることもあった。今回はその中で「光が丘公園コース」を回る事にした。「散歩道」に紹介されているコースとは若干違うが、臨機応変に組み立てていけばいい。

光が丘公園コース
大江戸線光が丘駅→光が丘公園→天祖神社→愛宕神社→田柄川緑道→秋の陽公園→愛染院→寿福寺→春日神社→石神井川→西武線豊島園駅


光が丘公園の紅葉を満喫したことだし、神社や寺院の静かな雰囲気に浸ってみるのもいいだろうということで、「ねりまの散歩道」のコースを辿る事にした。ひびき橋を渡ってしばらく行くと豊島園通りに出る。この道は大江戸線の練馬春日町駅を経由して、豊島園駅に至る。

田柄高校の前で豊島園通りを突っ切り、狭い住宅街の道を入ってしばらく歩くがなかなか天祖神社のたどり着かない。それでも10分位行くと高い木立に覆われた社が見えてきた。鳥居が道路に面していて階段を上がり、狭い境内に出ると社殿は目の前にある。そこから愛宕神社まではすぐだ。ただ鳥居が通りに面してなく細い路地を入った所にあり、神社はその奥にある。ただ遠くからでも鬱蒼とした高い樹木に囲まれた境内は目に付く。

天祖神社
その昔、神明宮と称していたが、慶長3年(1598年)に上野伝右衛門が伊勢神宮へ参詣し、分霊を受け邸内に奉安し、社殿を造ったことに始まると言われている。

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 天祖神社鳥居                       天祖神社社殿

愛宕神社
慶長年間に山城の愛宕大明神を勧請したとされ、古くからこの地の信仰の中心だったと思われる。毎年、7月24日の大祭には「金魚市」が開かれる。

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 愛宕神社社殿                       鬱蒼とした木立に囲まれた境内

愛宕神社を南に向かって行くと田柄川緑道にぶつかる。板橋方面から延々と続いている道なのだが、途中から合流したわけだ。この道を通って豊島園通りに戻ることになる。豊島園通りにぶつかった所が緑道の出発点になっている。通りを渡った所に「秋の陽公園」の看板があり、長屋門風の入口から公園に入る。公園は団地に囲まれている。団地に住む人の通行路ともなっているようだ。

田柄川緑道
緑道は光が丘の秋の陽公園から、川越街道をまたぎ都立城北公園までを結んでいる。ここでは、コナラ、クヌギなどを中心に様々な草木が植物園のように全長4.7kmにわたり植えられている。第二土木出張所前にある3体の怪獣は、田柄第三小学校の児童の作品を題材としたもので、練馬百景にも選ばれた。

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 緑道入口                          怪獣のオブジェ

秋の陽公園
秋の陽公園はかつての田園風景を復元しようと造られたもので、水田や「ため池」、田柄上水をイメージしたせせらぎが整備されている。また長屋門をイメージした門がある。光が丘公園の周辺にはこの秋の陽公園のほかに春の風公園、夏の雲公園、四季の香公園がある。光が丘地区の開発、整備の一貫として公園を配置したのだろう。林立する団地に囲まれてコンクリートの中で生活する人にとっては公園は必要不可欠なものに違いない。

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秋の陽公園から豊島園通りを練馬春日町駅に向って歩く。15分位で愛染院に着く。広い墓所を抱えかなりの面積だ。ここから駅まではすぐだ。大江戸線の上を越え環八通りを突っ切り、春日神社に向う。神社の前に幼稚園を併設した寿福寺がある。その裏に回ると春日神社の社殿が古色蒼然とした佇まいで周りの情景に溶け込むように建っている。

愛染院(練月山観音寺 真言宗豊山派)
開基は永享9年(1437年)と古く、江戸時代には寺領12石余の御朱印地だった。本尊は愛染明王。境内には西山稲荷祠、六地蔵(元文4年・1739年)や弘法大師像(天保8年・1837年)、法篋印塔(明治25年)などの石像物が数多くある。

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 愛染院山門                         愛染院本堂

光が丘公園100_convert_20101119202559  光が丘公園102_edd_convert_20101120132635  
 愛染院大師堂                        愛染院多宝塔

寿福寺(大林山最勝院 真言宗豊山派)
開山年は不詳だが、新編武蔵風土記稿によれば、1659年(万治2年)以前からあったとされる。ただし、過去帳からは、愛染院の隠居寺であったとも読める。本山は長谷寺。本尊は薬師如来。豊島八十八ヶ所霊場19番札所。

春日神社
創祀年代は不明であるが、文明年間(1469年~1486年)には練馬城主、豊島泰経、泰明らが一族の守り神として保護し、さらに豊島氏が没落した後は、練馬城主、海老名左近が崇敬するところであったと伝えられている。本殿は春日造り。

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 寿福寺本堂                         春日神社社殿

春日神社は丁度豊島園の裏手に当たる。豊島園を囲む金網の塀が道に沿ってずっと続いている。練馬春日町駅に戻った方が近いが、豊島園まで行けば西武線一本で帰れる。豊島園まで行く事にした。塀に沿って歩いていくと豊島園通りにぶつかる。この通りは川越街道から光が丘公園の脇を通って練馬春日町駅を突っ切り、名前の通り豊島園まで行き、千川通りで終っている。

豊島園駅に近づいた所で石神井川を渡る。石神井川沿いには延々とサクラ並木が連なる。今年の春満開のサクラを同じ場所で見た。今度は紅葉の鮮やかな赤だ。サクラは春と秋我々を楽しませてくれる。もちろん初夏の新緑の頃も、真夏の生い茂った緑が作る日陰も十分に人々に恩恵を与えている。

石神井川のサクラの紅葉
光が丘公園115_edited_convert_20101119202957 中之橋から見た石神井川のサクラ
(参考資料:練馬区観光協会公式サイト)

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ねりまの散歩道-5 光が丘公園

11月19日(金)
天気がいいと家にいてもどうも落ちつかない。急ぎの用がある訳でもないので、秋のさわやかな大気を感じながら近所の散歩でも行こうかと思ったが、どうせなら紅葉が見頃を迎えている公園に行った方が気が利いている。

東京の紅葉情報を見てみると都内でもそろそろ見頃を迎えている所が増えてきている。一番近い所で光が丘公園が「見頃」となっていた。この公園だったら電車に乗れば20分もかからないで行ける。

光が丘公園
光が丘公園は総面積60haと、その広さは日比谷公園の約4倍となる。戦後グラントハイツとして米軍の管理下にあったが、昭和48年に返還が完了し、総面積の約1/3が公園として確保された。昭和56年から一斉に周辺の整備が開始された。開発総面積186ヘクタール、東京ドームの約40倍のスケールで、小、中、高校が15校、公団、公社、都営住宅12000戸、人口36,000人都内有数の大団地となった。光が丘パークタウンと名付けられショッピングセンター、ホテル、美術館などある公園都市となっている。

公園には16,300本もの樹木が繁茂し、サクラ、イチョウ、ツツジ、ケヤキなどが四季の景観つくり出している。

光が丘公園002ed_convert_20101121104635 駅前の光が丘団地(パークタウン)

大江戸線の終点光が丘駅で下り、光が丘公園方面出口を上がっていくとかなり広い通りが目の前に現れる。道路をまたぐ様に歩道橋が架けられている。その橋に上ると街路樹が鮮やかに紅葉している。

光が丘公園003ex_convert_20101120095234 歩道橋から

いちょう並木
光が丘駅から公園に向うふれあいの径・公園通りには、いちょう並木が紅葉しあたり一面を黄色に染めている。このいちょうは有楽町の旧都庁舎前に街路樹として植えられていたが、京葉線工事の支障となったため、この公園の「ふれあいの径」に移植された。いずれも樹齢100年を超す巨木で40本ある。

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けやき広場
直線に伸びたふれあいの径の正面に、銀色に輝くモニュメントがある。そこが正面入口で、そこから「けやき広場」が広がっている。この広場には噴水、ウォータートンネル、流れが配置されており、夏には幼児の水遊びの場として利用されている。けやきの木々が紅葉しいちょうやもみじの紅葉と重なりながら色彩の協演を楽しませてくれる。

光が丘公園017_edited_convert_20101119195248 けやき広場

公園はかなり広いが、右側の方は図書館やスポーツ施設が並んでいる。体育館、テニスコート(8面)、野球場(4面)、陸上競技場(400mトラック)、弓道場、少年サッカー場などがあり、左側の方は芝生広場を中心とし、紅葉した木々がそれを囲むように生い茂っている。公園の中央に南から北に向う直線の道が真っ直ぐ伸びている。そこを進んでいくと北門に出るがその手前を左に折れて公園を一周する事にした。

けやき広場のはずれに池があり水鳥が泳いでいる。心和む情景だ。そこからまたいちょう並木が続いている。ゆりの木広場から右側が自然観察ゾーンになっていて、常緑樹や針葉樹が生い茂り深い森に囲まれたような場所になる。

光が丘公園022_edited_convert_20101119195348 鑑賞池の水鳥

光が丘公園026_convert_20101119200531 いちょう並木

光が丘公園030_convert_20101119200625

光が丘公園033_edited_convert_20101119195542 ゆりの木広場

芝生広場

公園の外周を回り、芝生広場に行ってみる。優しい日差しの昼下がり、子供を連れた主婦が中心だが何人かで誘い合わせて来たのだろうシートを敷いて子供を芝生で遊ばせながら、昼食の弁当を広げている。芝生広場を取り巻く樹林は「憩いの森」と名づけられ、ヒマラヤスギ、サクラ、イチョウ、マテバシイ、マツなどグラントハイツ時代からの大木を移植して造られた。

光が丘公園043ex_convert_20101120095352 憩いの森

光が丘公園046_edited_convert_20101119201046 清掃工場の煙突が見える

光が丘公園050_edited_convert_20101119201133

バードサンクチュアリー
芝生公園に隣接して、バードサンクチュアリーが約2.4ヘクタールの区域にある。そこは金網に囲まれ入ることは出来ない。池、州浜、樹林、草地を配置し、野鳥をはじめ様々な生き物が安心して住めるようにするため人の立ち入りは出来ない。生き物の様子は観察舎から見ることができるが、公開は土日祝の9時から15時までなので今日は見る事が出来なかった。そこから競技場とテニスコートの間の道を進み、屋敷森跡地に向う。

光が丘公園052ed_convert_20101120202108 競技場を囲む木々

屋敷森跡地
テニスコートの奥に、屋敷森跡地がある。金網に囲まれているので入口が分からなかったが、金網の一画にある扉を勝手にあけて中に入ればいいだけなのだ。ここはボランティアの人の管理だという。この場所は300年以上にわたり生活を営んできた農家の跡地である。ムクノキなどの大木のほか、四季折々に咲く庭木や草花も見られ、当時の姿を残しつつ、野草や野鳥・昆虫などの生き物の生育場所にもなっている。屋敷森跡地を最後にひびき橋を渡って公園を後にした。

光が丘公園055_edited_convert_20101119201343 ひびき橋

光が丘公園だけでは物足りない可能性があるので、「ねりまの散歩道」から光が丘公園コースを選んで写してきておいた。公園で2時間ばかり過ごしたが、まだ13時前だったので、コース巡りに出発した。(つづく)
(参考資料:「公園に行こう」、練馬区観光協会公式サイト)

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眼科の治療・デノシン注射12回目

11月17日(水)
デノシン硝子体注射は、何時終わるか分からない。自己免疫力を高める事によってサイトメガロウイルス(CWV)を抑える事ができ、房水のウイルス検査でCMVがみつからなければ注射は中止できる。しかしそれが不可能な現状では、眼科での週1回のデノシン注射は、当分行なわざるを得ない。

たとえ房水を取ってウイルス検査をして、CMVが見つからなかったとしても、それで安心というわけにはいかない。何時何がきっかけで活性化するかどうか分からない。何といっても体の中に抱えているものなのだ。自己免疫力が弱っているのでいつ再び増殖してくるか分からない。

レナリドミド(レブラミド)が単独では効果を失ってきている。デキサメタゾンとの併用が最もオーソドックスな組み合わせだが、血液内科の担当医が言うには、デキサメタゾンはCMVを活性化させるということである。もし仮に失明したらそれこそ取り返しがつかない。

失明してしまったら、がんの延命治療がどういった意味をもつのだろうか。それは患者本人の判断だが、できるだけデキサメタゾンは使用したくないとの事だった。眼科医に相談した所、もしどうしてもがん治療のためデキサメタゾンを使わざるを得ない場合には、眼科医としては、使用している間は毎週デノシン注射をするほかないし、右目も注意しCVM発生の兆候があった場合には両眼にデノシン注射をせざるを得ない。

13日に行われたネクサスのフォーラムで理事長の天野氏の発言の中に、リンパ腫の治療はうまくいったがステロイドの影響で片目が失明してしまったといった報告があった。詳しく聞こうと思ったが機会を逃してしまった。デキサメタゾンによるCMV網膜炎の急激な進行によるものだろうか。

がんによるQOLの低下は重要な問題であるのは確かだが、失明はそれを大きく上回る事態だろう。本を読む事も、物を書く事も、どこかに出かける事も、テレビや映画を見る事もできなくなってしまう。一日の大部分を費やしている行為が殆ど不可能になるのである。限られた命をどのように使っていくのか、そのために見るという行為は不可欠である。

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秋川渓谷

11月16日(火)
今週は天気予報によると今日以外は曇りになっていた。青い空に紅葉はより一層鮮やかさを増す。外の空気は冷たいが空は抜けるように青い。どこかに出かけようと思ってYahooの「紅葉特集2010」の東京の所を見ると「見頃」の所は秋川渓谷と奥多摩、御岳・鳩ノ巣渓谷だった。秋川渓谷には行ったことがなかった。

10時少し前に西武池袋線の最寄り駅を出発した。拝島まで行くのに所沢、東村山、小川の3ケ所で乗り換えなければならない。また拝島で五日市線に乗るわけだがこの列車は1時間に2本位しか出ていない。武蔵五日市に着いたのが11時37分だった。

五日市では戦国末期から、定期的に市が開かれていた。当時は農産物が中心で、江戸時代に入ると炭を商うようになった。元禄時代には町並ができ始め、幕末になると100軒の炭屋兼業穀屋が軒を連ねていた。今は製材業が盛んだ。

秋川は多摩川水系の支流の一つであり、多摩川最大の支流とも言われる。秋川渓谷をネットの地図で調べると、戸倉キャンプ場あたりを指している。秋川の渓谷は全て秋川渓谷なのだから秋川沿いであればどこに行ってもいいのだが、とりあえず戸倉キャンプ場を目指して駅から桧原街道を秋川に沿って進んでいった。そしてハイキングの後に瀬音の湯に行って温泉に入ろうと思った。

戸倉までバスで行くと7分位だと書いてあったが、歩けば1時間はかかるだろう。街道をぶらぶらと歩いていると地元ならではの幾つかの名所旧跡がある。こういったものを見るのも散策の楽しみだ。左側に秋川を見ながら戸倉に向って歩く。紅葉の木々に囲まれた所に川が流れている。

秋川渓谷001_convert_20101116220218  秋川渓谷004ed_convert_20101116220302
 武蔵五日市駅                        東町観音堂                  

秋川渓谷008_convert_20101116220354  秋川渓谷009_convert_20101116220451
 市神様                            下町地蔵堂

東町観音堂
木像の木像阿弥陀如来座像は作風技法から江戸初期の作と認められるが鎌倉前期の像にならった秀作である。また観音堂のある場所は勧能学校跡で、明治5年(1872)学制発布に伴い五日市村に作られた学校である。

五日市の市神様

この市神様は、自然石をそのまま用いたもので、かっては五日市の市の中心に祀られていた。五日市広場の整備に際し、五日市商店街の振興と地域経済の発展を願ってこの地に安置された。

下町(しもちょう)地蔵堂

ここに祀られる子育地蔵尊は、その台石と思われる自然石に刻まれた碑文よれば、「五日市村下町女人二十七人」によって「元禄十二己卯(つちのとう)年(1699年)二月二十六日」に造立されたとある。地蔵尊は女性や子供たち弱者の保護者として信奉されたが、当下町地区の女性達によって、出産・育児の守り神として造られたものと思われる。(あきる野市教育委員会の看板より) 

秋川渓谷012_edited_convert_20101116220544 桧原街道から秋川方面

桧原街道を行くと小中野という信号で、街道が二股に分かれている。側道のすぐ右に子生神社があり、左には茶房糸屋、黒茶屋という食堂があり、その駐車場には観光バスが3台駐車していた。側道の方の紅葉がきれいだったので沢戸橋まで行って見た。そしてまた桧原街道の本道に戻り、新秋川橋を渡り戸倉に向けて進んだ。

子生神社
社伝によれば、永正元(1504)年両部神道修験者阿闍梨法印朱学院の創建という。永正3(1506)年産土神として社殿改修現在に至る。境内にある野良坊菜の碑には、明和4年(1767)に幕府の代官がのらぼう菜の作付を奨励し、天明・天保の飢饉ではこれが住民の命を救ったということが記されている。(ブログ「駅から歩く武蔵野風土記」より)

秋川渓谷017ed_convert_20101117155407  秋川渓谷028_convert_20101117155518 子生神社付近
 
秋川渓谷021_convert_20101116220652 子生神社社殿

秋川渓谷025_edited_convert_20101116220746 沢戸橋から

秋川渓谷029_convert_20101117191148 新秋川橋から

戸倉のバス亭から2、3分の所で桧原街道がまた二股に分かれている。川沿いの方の道の入口に戸倉キャンプ場という標識があったのでそちらに向った。秋川渓谷沿いには至る所にキャンプ場とバーベキュー場がある。夏はかなり込み合うのだろう。五日市駅から5分の所にも秋川河川公園バーベキューランドがある。この時期なので戸倉キャンプ場には人の姿はなかった。

秋川渓谷033_edited_convert_20101117213141 戸倉キャンプ場

戸倉キャンプ場からしばらく行くと道は桧原街道の本道と合流する。川沿いの森林に囲まれた道を15分ばかり進むと十里木に出るここで道は桧原街道と秋川国際マス釣り場方面に向う道に分かれる。桧原街道をそのまま行けば瀬音の湯までそれ程時間はかからない。もう少し秋川渓谷の紅葉を楽しもうと養沢方面の道を選んだ。少し行くと秋川と養沢川が合流する所に落合キャンプ場がある。養沢川に沿って行くと、川沿いにお墓が並んでいる。墓が途切れた所に本堂を囲んで幾つかの建物がある。そこが徳雲院である。

秋川渓谷038_edited_convert_20101116221104 落合キャンプ場から

秋川渓谷049_edited_convert_20101116221208 養沢川河畔

徳雲院(龍化山 臨済宗建長寺派)

秋川の支流の養沢川沿いに立てられた禅寺で、開山は1557年という古刹だ。武蔵五日市七福神のひとつ寿老人が祀られている。春は梅の花、6月には源氏ぼたるが舞い、夏から秋に季節が移ろえば蝉の声が虫の音に変わるなど、11月半ばからは境内は紅葉に包まれていた。四季折々の自然が体感できる(ブログ「東京都お寺一覧」より)

秋川渓谷051_convert_20101116221315 徳雲院境内

徳雲院から10分ばかり行くと、新橋という橋を渡る。渡った所に看板があり「瀬音の湯方面30分」と書かれていた。ここから国際マス釣場方面の道からそれ、道は細くなり山道を登っていく事になる。上りきった所に大きな製材所があった。ここからは下りだ。なだらかな道を山肌の紅葉を見ながら下っていくと龍殊院があった。しばらく行くと開けた場所に出てそこから秋川の流れと遠景が見通せた。丸い白い吊り橋は新矢柄橋で、瀬音の湯はそこからすぐなのだが、その時は全く気が付かなかった。

龍殊院(天照山 臨済宗建長寺派)

600年ほど前に開創されたといわれている。いつの時代に彫られたかも分からない古い石仏20体が山門前に並ぶ。花の寺とでも呼びたくなるほど、四季折々の花に囲まれた小さな山寺だ。特に春は濃い桜色が特徴の小日向桜や、身延からやってきたという桜とともに、ミツバツツジが同時期に花を咲かせる。菜の花の黄色や、野菜畑の緑に囲まれた風景は山寺の情緒を存分に味合わせてくれる。(「多摩川夢の桜街道」HPより)

秋川渓谷057_convert_20101116222435 龍殊院参道

秋川渓谷060_edited_convert_20101116221444 龍殊院から新矢柄橋方面

秋川渓谷062_ed_convert_20101122201217 龍殊院から青木平への道

「瀬音の湯」に行くには龍殊院から左に曲がらなければならないのだが、地図がなかったし、案内版もなかったのでそのまま道なりに進んでいった。朝行く所を決めたということもあって、地図は五日市駅で観光パンフレットか何か置いてあるだろうと思って用意していなかった。駅には地図も観光案内も置いてなかった。

道は川に沿っているので、紅葉のわきを歩いているようなものだ。青木平橋からの紅葉は見事だった。さらに進んでいく。既に分かれ道の所に書いてあった30分はとうに過ぎている。行き過ぎたのではないかという思いが強まってきた。そのうちに道は西青木平橋の所で終わりになっていて、桧原街道に合流した。

秋川渓谷070_ed_convert_20101122201333 青木平橋から

秋川渓谷078_edited_convert_20101116221840 西青木平橋

桧原街道は深い森に囲まれていた。その中にぽつんと一軒の商店が店を出していた。その主人が出てきたので道を聞くと瀬音の湯はここ(青木平)から1kmほど戻り、荷田子の信号を越え、新乙津橋を渡り左に曲がっていくということだった。15分位歩いて橋の所を曲がればそこからすぐだと思っていたら、さらに15分位歩かなければならなかった。途中新矢柄橋を横に見ながら歩く。新乙津橋と新矢柄橋は従来の橋が老朽化したので新たに造られ2008年10月に完成したものである。

大分回り道をして瀬音の湯に着いたのは15時半頃だった。ほぼ4時間近く歩き通した感じだ。途中水分補給で2、3分何度か休んだし、写真撮りや神社の見学などで時間を使うことはあったが、それ以外は歩いていた事になる。2時間位の散策コースと考えて出発するが中々丁度いい時間歩く事にならない。かなり大回りをしたが、秋津渓谷の様々な情景を見る事が出来てよかったとは思う。

秋川渓谷086_edited_convert_20101117213526 新矢柄橋

疲れきってやっとの思いで瀬音の湯に辿り着いた。大腿部やふくらはぎ、腰にもかなりの負担をかけたようだ。逆にこの疲れが温泉の価値をより一層高めてくれる事になる。大浴場と林に囲まれた露天風呂がある。大衆浴場というよりも温泉旅館の風呂のような造りになってる。ゆっくりと入っていたつもりだがそれでも30分位なものだった。

瀬音の湯
アルカリ性単純泉のお湯は微黄白濁で、鉄味・微硫黄味を有している。湯はやわらかく穏やかで、刺激が少なく、リハビリ等に利用されることから、中風の湯・神経痛の湯ともいわれている。

秋川渓谷088_convert_20101116221938 瀬音の湯

帰りのバスの時刻表を見ると十里木まで行けば20分おき位にバスは出ている。温泉に入った後再び20分近く歩く気力は残っていない。瀬音の湯からだとバスは1時間に1本だ。出たばかりだから1時間近く時間はある。昼食を取っていなかったので食事をする事にした。その前に風呂上りのビールを一杯飲んだが、かなり効いた。食堂の半分は畳の部屋で、温泉を利用した人が休憩できる。そこにごろんと横になっているうちにバスの時間が来た。

帰りの武蔵五日市行きのバスは17時6分発であたりは真っ暗だった。駅まで20分もかからなかった。17時42分発の列車に乗り、19時10分に着いた。行きも帰りの1時間半程かかった事になる。

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NPOグループ・ネクサス第8回フォーラム

11月13日(土)
 NPOグループ・ネクサス第8回フォーラムが「リンパ腫を知ろう・リンパ腫を話そう」といった内容で、東京医科歯科大学湯島キャンパスの講堂で10時から行なわれた。

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原発性マクログロブリン血症はWHOの分類によると「リンパ形質細胞性リンパ腫」という名前でB細胞性非ホジキンリンパ腫に含まれている。治療法もリンパ腫の治療法が主流である。私の場合は骨髄腫の治療薬で治療を続けてきているが、リンパ腫の情報は貴重である。昨年9月に第7回フォーラムにも参加したが、医学の進歩は日進月歩、新たな情報が得られるだろう。

 全体で印象に残った話としては、移植をするかどうかの選択の問題だ。自家抹消造血幹細胞移植の場合、移植関連死は5%だが、同種フル移植では40%、ミニ移植でも20%の合併症も含めた移植関連死が報告されている。

危険を回避しリツキシマブの定期的な点滴などを行いながら延命治療を続けていくのか、死をも覚悟し完治を目指して移植を選択するのか。それは自らの生き方の選択なのである。多分若ければ移植を選ぶだろう。これから長い人生を考える時、危険を顧みず完治を求めるだろう。

血液がん患者は多かれ少なかれいつ再発するかの不安を抱えている。さらに悪性リンパ腫の患者は長期の放射線治療による二次発ガンのおそれを抱えており、また濾胞性リンパ腫で長期治療の場合4割から5割の患者がびまん性リンパ腫に形質転換(transformation)するが、そのことも心配の種だ。転換した場合、抗がん剤が効きにくく、半数の人が転換後平均的には1、2年で亡くなる事が多い。

 フォーラムは10時から16時までとかなり長時間である。プログラムは以下の通りだが、大体の講演内容は会場で配られた「NEXUS通信22号」に掲載されている第6回フォーラムの報告記事「悪性リンパ腫・現在のエビデンスと新規治療法の展望」に書かれている事と重なる部分が多い。

3番目の「血液がん診療の今日と明日」に関しては、「NEXUS通信」の報告記事になかったので簡単にまとめて報告したい。

 プログラム
午前の部・リンパ腫を知ろう
 10:00~
 「リンパ腫総論~病態と治療の進歩」
 「リンパ腫に対する造血幹細胞移植」
 「血液がん診療の今日と明日」 
 「リンパ腫に対する最新の治療進歩と新規治療薬」

午後の部・リンパ腫を話そう
 14:00~
 「リンパ腫を話そう~患者と家族によるトークセッション」
 司会:天野慎介(患者経験者、ネクサス理事長)
 パネリスト:岩岡秀明(患者家族)、佐藤昂(患者経験者)、多和田奈津子(患者経験者)

リンパ腫患者・家族交流会 15:00~16:00

 「血液がん診療の今日と明日」 鈴木律朗(名古屋大学 造血細胞移植情報管理・生物統計学)
§ 新薬の開発に製薬会社は幾ら位使っているのか、数億から数十億だろう。国の新薬審査システムでは年間100億から1000億使っている。厚生省の未承認薬開発支援事業では、昨年は753億の予算だったが、今年は100億に削減された。

T・NK細胞リンパ腫は治療が難しく、標準的な治療が見つからずにいた。新薬の登場を待つのではなく、従来の薬の組み合わせでどうにかならないかと臨床試験を繰り返し、SMILE療法を見つけ出した。5種類の薬剤を組み合わせその最適な投与法を見出したのだ。この療法によってT・NK細胞リンパ腫の治療は画期的な進歩を遂げることになった。この研究に対して厚生省は最初3000万円の補助金を出したが、今年は打ち切られた。

新しい治療法の発見には、新薬の登場によることが多いが、従来の薬を使用しながら、それをいかに組み合わせ、薬剤の量や投与法を考え研究し、従来との比較などを行ないながら地道な臨床試験の積み重ねによる事が多い。

§ 統計解析という見方がある。統計によって信頼区間を見極めていく事が重要だ。例えばA病院での治療の成功率が50%、B病院では40%だとする。しかしこの元になっている数字に注目しなければならない。A病院での統計の元となっている患者が4名で2人が治癒し、B病院では50名中、20名が治癒したとする。治癒率は数字上A病院の方が上だが、B病院の方が臨床経験が豊富だという事になる。

これを統計解析の信頼区間という見方で分析すると、A病院・4名中2名=50%(信頼区間7~93)、B病院・50名中20名40%(信頼区間26~55)という計算になる。数が多くなればなるほど信頼区間は狭くなる。それだけ確かな情報となる。

§ 宮城県の臍帯血バンクが経営危機に陥っているという記事があった。神奈川の臍帯血バンクが東京と合流する事になった。臍帯血移植をした場合、健康保険適用もあって患者負担はかなり軽減されている。海外では250万から400万円の個人負担となっている。骨髄バンクを利用した場合には約50万円以上の個人負担となる。日本では臍帯血移植はかなり安く済む。

何故臍帯血バンクの経営が厳しいのか。これは臍帯血バンクの成立が急がれ、厚生省は一時的な措置として補助金でまかなおうとした。臍帯血を使用した場合1回幾らといった形で補助する。しかしバンクが出来てから10年経ち、補助金で対応するというやり方ではもはや限界に来ている。法律で整備して運営を抜本的に改めなければならないだろう。

§
 「血液がん診療の明日のために」必要なものとして以下の事が考えられるだろう。
・ 新薬の開発、利用
・ 抗がん剤の新しい組み合わせの研究、治療
・ 臨床試験への政府の補助を求める
・ 血液内科医の増加
・ 生物統計家の育成
・ 臨床医の意識改革
・ 患者、社会に対する啓発・教育システムを確立していく
・ がん治療への法律整備と予算の設定
・ 患者が自らの要求をかかげ声を上げる
・ 声を政治家、マスコミに届けるノウハウを獲得する

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院内患者家族交流会(おしゃべり会)

11月12日(金)
 定例の交流会が14時から、血液内科病棟の談話室で行なわれた。今日の話で印象に残ったのは、同種移植後のGVHD(移植片対宿主病)がどのような症状を呈するのか改めて知ったということである。同種移植を行なった人が、多かれ少なかれGVHDの様々な症状に苦しめられきたという話は何度か聞いたことがある。

GVHDとは移植された造血幹細胞(移植片)が患者(宿主)の体内で生着・増殖し、そのリンパ球が患者の細胞を「異物」として認識し攻撃する病気で、発熱、発疹、肝障害等の症状を呈する。ときに多臓器不全等を生ずることもある。

 白血病の患者であるA君は2回目の移植を8月半ばに行なった。第1回目の移植のドナーは兄であって血縁者間の移植であったためGVHDは殆どなかった。しかし半年もしないうちに再発してしまった。今度は同じ人(兄)からの移植は避けようと、骨髄バンクから提供を受ける事にした。HLAが完全一致のドナーは見つからなかった。一座不一致のドナーがいて、その人の造血幹細胞を使用する事にした。

通常、骨髄移植はHLAが一致した場合行われているため、HLAの一座不適合(ミスマッチ移植)によって今回の激しいGVHDが起こったのではないかと考えられる。GVHDは移植後2~3週間後に好発し、60日以内の発症の場合が多い。皮膚症状が初発となることが多いが、おもな障害臓器は皮膚、消化管、肝臓である。

移植では、エンドキサン(シクロホスファミド〉を中心とした大量抗がん剤の前処置を行なったがその影響はあまりなかった。移植後1ケ月ばかり経ちそろそろ退院の準備を始めた頃、最初の皮膚疾患が現れた。

 発疹が出て全身が赤く腫れ、皮膚がはがれてくる。その後目に来た。目やにが激しく出るようになった。それに加えてドライアイになり涙が出ず、目やにがこびりつき目が開けられない状態で、毎日眼科で目やにの除去をしなければならなかった。また眩しく部屋を一日中暗くしなければならなかったので個室に移らざるを得なかった。免疫抑制剤やステロイドの継続投与、パルス状投与が試みられたが中々効果は上がらなかった。

さらに下痢が続き検査の結果、腸管の大腸と小腸の間の所が炎症を起こしているということで、食べ物の摂取が禁止された。それから1ケ月以上、一切食物を口に入れることは出来なかった。フルカリックという経中心静脈栄養で水分、電解質、カロリー、アミノ酸及びビタミンの補給をせざるを得なかった。

一週間前からやっと重湯を口にする事ができた。この食事メニューは、重湯、スープ、実のない味噌汁、プリン、ゼリー、アイスクリームといった消化のいい物が繰り返し出てくるので種類は限られている。移植以降の入院生活で18kgも体重が落ちた。ここまでひどいGVHDの話は聞いた事がなかった。これだけGVHDが激しければ、かなりのGVL(移植片対白血病細胞反応)効果が期待できるだろうと言った所「GVLはもう十分だから早く今の状態から開放されたい」と嘆くばかりだった。

皮膚疾患には2日に一度皮膚の乾燥を防ぐために脂肪の点滴を行なっている。発熱もなかなか収まらず解熱剤の点滴も続けている。一時はベットから起き上がることすら難しい時期もあった。立ち上がったときに踏ん張れず転倒したこともあった。9月には退院できると思っていたが、皮膚疾患はかゆみや痛みはないがいつ治るか分からない。腸管の炎症の回復がどうなるかも分からず退院のめどは立っていないということだ。

 A君は30代半ばで10歳と7歳の子供がいる。これからが頑張り時だという気持ちが強かった年代だったに違いない。こういった時期に既に500日近くの入院生活を続けて来ざるを得なかった。その胸の中は、我々60歳前後の患者とはまったく違うだろう。

体重の減少とGVHDによる体力消耗で退院しても職場復帰はすぐには難しく、半年以上の休養は必要だと本人も言っていた。職場は退職扱いになっているが、治ったらいつでもまた働いてもらいたいということだから再就職の心配はない。出来るだけ早い回復を願う外ない。

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スプートニクの恋人

11月11日(木)
 村上春樹の『1Q84』は大分前に読み終わったがなかなか感想は書けない。その後彼の小説を何冊か読んでみた。長編小説の中に短編小説で扱われたモチーフが登場する。小説に出てくる幾つかのエピソードがそのまま使われている場合もある。ぞれは彼が言うように短編に収まりきらず「書かれたがっている」小説なのである。

412edd_convert_20101112001302.jpg小説は冒頭次のような言葉で始まる。しかしこの小説は恋愛小説ではない。
「22歳の春にすみれは生まれて初めて恋に落ちた。広大な平原をまっすぐ突き進む竜巻のような激しい恋だった。それは行く手のかたちあるものを残らずなぎ倒し、片端から空に巻き上げ、理不尽に引きちぎり、完膚なきまでに叩きつぶした。・・・恋に落ちた相手はすみれより17歳年上で、結婚していた。更につけ加えるなら、女性だった。」(講談社単行本P5)

小説の語り手「ぼく」は小学校の教師をしている。大学時代から付き合っている小説を書いているすみれという女友達がいる。すみれが17歳年上の女ミュウに恋をする。その後、ミュウの仕事を秘書として手伝うようになる。ミュウと共にワインの買い付けのためにヨーロッパに渡航し、旅の終わりにギリシャの小島に逗留する。そこですみれが突然失踪した。「ぼく」は彼女を探しにギリシャへ向かう。

 この小説は幾つかの視点で考える事が出来るが、大きなテーマは「自分とはなにか」を求める3人の主人公、ぼく、すみれ、ミュウの物語だ。

「自分について語ろうとするとき、ぼくは常に軽い混乱に巻き込まれることになる。“自分とは何か?”しかしぼくが自分自身について語るとき、そこで語られるぼくは必然的に、語り手としてのぼくによって-その価値観や感覚の尺度や観察者としての能力や、様々な現実的利害によって-取捨選択され、規定され、切り取られていることになる。」(P81)

ミュウが告白する14年前の出来事は、心の闇の中に隠れている自己の別の面を見せ付けられる体験となる。閉じ込められた観覧車から自分の部屋を見て、そこにもう1人の自分を発見する。そこで自分の分身が汚されるという二重身現象(ドッペルゲンガー)を体験し、それ以来、他者との肉体的な接触ができなくなってしまった。身体が「性」を拒むようになったのだ。そして彼女の生きがいでもあったピアニストの道を断念する事になる。

ミュウはそこに至る過程を語る。「強くなることじたいは悪いことじゃないわね。もちろん、でも今にして思えば、わたしは自分が強いことに慣れすぎていて、弱い人々について理解しようとしなかった。・・・当時のわたしの人生観は確固として実際的なものではあったけれど、温かい心の広がりを欠いていた。自分に何が欠けているのか、その空白に気がついたときにはもはや手遅れだった。そういう意味では14年前にスイスでわたしの身に起こった出来事は、ある意味でわたし自身がつくり出したことなのかもしれないわね」(p233)

ミュウが14年前に体験したというこの出来事に込められた意味合いとは何だろう。信じがたい自己の内面の曝露ではないのか。確かに不可抗力的な一方的陵辱が行なわれたとしてもそれは自己のもう一方の本質ではなかったのか。自己の存在を知り、その自己から逃れるための破壊行為の一つだったのだろう。

 すみれの失踪の持つ意味は何だろうか。ミュウとの関係に破綻し自分を見失ってしまったということの象徴なのだろうか。「すみれはどこかにドアを見つけ手をのばしてノブをまわし、そのままあっさりと外に出て行ったのだ。こちら側からあちら側に」(P245)

二重世界の存在は何を意味しているのか。現実(こちら)と別の現実(あちら)という世界の設定は、その底にある現代人の孤独を照射しているのだろう。この世界に居場所がない人々は、別の世界に既に存在しているに等しい。

「どうしてみんなこれほどまでに孤独にならなくてはならないのだろう・・・これだけ多くの人々がこの世界に生きていて、それぞれに他者の中になにかを求めあっていて、なのになぜ我々はここまで孤絶しなくてはならないのだ。何のために?この惑星は人々の寂寥を滋養として回転を続けているのか。」(P264)

 村上春樹の小説の主人公の特徴としてクールでミニマムなライフスタイルがある。この小説の主人公「ぼく」は小学校教師としてそつなく仕事をこなし、生徒の親と不倫するなど処世術にも或る程度たけていて、炊事や掃除もきちっと行うという堅実な生活感覚を持っている。

彼はすみれのことが好きなのだが、すみれが一切興味を示さないとう事もあって、具体的にすみれとの男女関係を作ろうとはしない。真夜中にかかってくる電話での長話に付き合うことも含めて、ひたすらすみれの話を聞くことに徹している。すみれやミュウとの関係の中でも、彼らの強い個性に翻弄されることなく自己を失わずいつも客観的に醒めた目で自分を見つめている。彼の立つ位置がすみれやミュウの存在を鮮明に引き立てる役割をしている。

 失踪したすみれから電話がかかってくる。すみれとの再開を前にして彼はすみれとの関係を新たに始めようとする。一方すみれは「ぼく」という存在の中に自分自身を見つけたのだ。電話はもう一人の自分である「ぼく」を取り戻すためのものであった。

人は自己を見出すためには、他者との関係を不可欠とする。他者との対話の中で自己の存在が顕在化してくる。すみれにとって「ぼく」の存在はその意味で、自己確認のための不可欠な存在であった。そしてミュウとの関係の破綻の中で改めてその事を認識するのである。

「君にとても会いたかった」「わたしもあなたにとても会いたかった」「すごくよくわかったの、わたしにはあなたが本当に必要なんだって。あなたはわたし自身であり、わたしはあなた自身なんだって。」
「ここに迎えにきて」「ぼくには準備ができている。ぼくはどこにでも行くことができる。」(P307~8)

孤独に打ちのめされながらしかし孤独によって新たな人生を切り開く準備が出来るのである。孤独を絶望ではなく新たな自己の発見の契機として考える事こそ必要なのだろう。深い孤独の経験が新たな出会いを準備するのだろう。そしてどの様な生であろうが人は生きていかなければならないという事を思い知るのだ。

 「人はその人生のうちで一度は荒野の中に入り、健康的で、幾分は退屈でさえある孤絶を経験するべきだ。自分がまったくの己れ一人の身に依存していることを発見し、しかるのちに自らの真実の、隠されていた力を知るのだ」(P8)

「どれだけ深く致命的に失われていても、どれほど大事なものをこの手から簒奪されていても、あるいは外側の一枚の皮膚だけを残してまったく違った人間に変わり果ててしまっていても、僕らはこのように黙々と生を送っていくことができるのだ」(P303)

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定期検診の日

11月10日(水)
8時20分から血液検査の受付が始まる。採血自体は8時30分からだ。8時20分頃受付を行なったが60番だった。採血は8人の看護師が次々と行う。60人目の私の採血が行われたのが8時55分で、25分で60人の採血をしたということだ。その後眼科の受付をした。眼科の診察とデノシン注射を行い10時30分に眼科治療を終えた。自己免疫力によってサイトメガロウイルスを抑える事が出来ない状態なので、眼科での週1回のデノシン注射は、当分行なわざるを得ない。

検査結果 
 IgM   3795(11/10)←3300(10/27)←3642(10/13)←3887(9/29) 
 IgG    613←603←563←558
 白血球  2400←2000←2000←3400
 好中球  700←740←680←1310
 血小板  8.9←8.0←7.8←8.2
 赤血球  317←292←293←299←294
 ヘモグロビン 10.4←10.0←10.0←10.1
 網赤血球   7←12←8←11
 CRP   0.07←0.61←0.21←0.31


IgMの結果を見て、医者もショックだったろうが、ガックリきたのは確かだ。2週間で500の増加という激しい上昇で、薬が全く効いていないのと同じ状態だ。1ケ月で下げたIgMが2週間で元に戻ってしまったということだ。

使い始めたばかりなので、単剤で半年位持つだろうと思っていたが、その期待はもろくも打ち砕かれた。もはや効果的な薬は底をついてレナリドミドに頼るほかなかった。それが無残にも効果を失ってしまったようだ。一過性のものなのか、本当に効果がなくなったのか2週間後の検査を見る外ない。

レナリドミドの標準治療としては5カプセル(25mg)を月21日服用することになっているが、最初の様子見ということで3カプセル(15mg)を服用していた。5カプセルにするのか、デキサタゾンとの併用療法にするのか判断が迫られた。医者は、デキサメタゾンの免疫抑制剤としての働きはサイトメガロウイルスを活性化する例が多くあると言う。今の眼科治療に悪影響を与えかねないので使用は控えたいということだ。

そうなるとレナリドミドを増やすほかない。しかしレナリドミドによる白血球(好中球)への影響が激しいので増やすことにも問題がある。止むを得ない選択として4カプセル(20mg)でやっていくことにした。

レナリドミドが駄目になったら他に2種類の薬があると医者は言っていた。一つはサリドマイドとレナリドミドと同じ免疫調節剤(IMiDs)のPomalidomide(ポマリドミド)という新薬である。ポマリドマイドと低量デキサメタゾンの併用療法は、再発多発性骨髄腫の治療に極めて有効で、他の新薬に耐性の患者でも奏功率が高い。ポマリドミドがいつ認可されるか分からないが、次に認可される可能性が高い薬だということだ。

もう一つはプロテアソーム阻害剤であるボルテゾミブ(ベルケイド)と同じ系列にある薬である。医者は名前は忘れたと言っていたが恐らく第2世代プロテアソーム阻害剤であるCarfilzomib(カーフィルゾミブ)だろう。この薬は多発性骨髄腫患者を対象とした第2相試験で、患者の45%に寛解を誘導、顕著な奏効率を示し、かつ副作用発生率が低かったことが、第51回米国血液学会年次総会において報告された。

しかしいつ承認されるかが問題だ。かなり効果的な薬であるのは確かだが、未だ米国でも承認されていない。CarfilzomibはFDAへの承認申請が2011年後半になるということだ。Pomalidomideは未だ承認申請が出されていない。日本で使えるようになるには早くても後2、3年はかかるだろう。この2つの薬が承認されるまで、レナリドミドが効果を維持していてくれればいいが、どうもそうはいかないようだ。レナリドミドでしばらく様子を見るとしても、効かないと判断したら別の方法を早急に考えなければならない。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

京成バラ園

11月8日(月)
秋バラが見頃を迎えている。やっと秋らしい季節になった。出かけるのには最適だ。春には谷津バラ園に行った。近くに京成バラ園があり、ここはバラ育種および苗の製造販売を手がけ、バラの品種改良を行い、国際的なバラコンクールにおいて数々の受賞実績を持つ。切り花用のバラ苗の生産や造園業も行なっているということを後になって知った。今度のバラの開花の期間に行ってみようと思っていた。

京成バラ園のある東葉高速鉄道の八千代緑ヶ丘駅に行くのに、家からは有楽町線で飯田橋まで行って、東西線に乗り換えると東葉勝田台まで直通がある。しかし今日は京成線の青砥に用があったのでそこからいく他なかった。青砥から特急で京成津田沼まで行き、新京成線を利用し北習志野まで行き、東葉高速鉄道に乗り換え八千代緑ケ丘まで行くというかなり複雑なルートをとる事になった。

八千代緑ヶ丘の駅前にはジャスコやイオンショッピングセンターが店を構えている。駅から京成バラ園まで線路沿いに歩いて15分位なのだが、駅前から道に沿って10階建て位のマンションや公団住宅がひたすら並んでいる。線路の向こう側には一戸建て住宅が密集している。以前飯山満(はさま)にある東葉高校で「いのちの授業」を行ったが、飯山満駅の周辺には何もなっかたような気がする。開発は一向に進んでないように見えた。

八千代緑ヶ丘の駅前からは住宅地が広がり、それに合わせてショッピングセンターが造られている。東葉線の開通に合わせて駅前の開発が一挙に進められたのだろう。大手町まで直通で40分で行けるので住宅地としてはかなり需要が見込まれたのだろう。

ローズガーデン
京成バラ園の入場口に着いた。紅葉した街路樹がはらはらと葉を落としている。あたりは静かな雰囲気に包まれている。土日はかなり込み合うのだろうが、比較的空いていてゆっくり見学するには丁度いい。ローズガーデンに入るとあたり一面バラの香りに包まれている。入口の脇に看板があり、土日にはロザリアンが案内すると書かれてあった。バラ栽培者をロザリアンという。この言葉の響きは何ともいえず優雅な感じがする。

京成バラ園006_convert_20101108221340 ローズガーデン入口

バラ園のパンフレトには次のように書かれていた。「京成バラ園は、バラの苗木をはじめ、季節の草花や花木など、園芸品の販売を幅広く行っている“京成バラ園芸”が、隣接地につくったバラの花園。ローズガーデンはフランス様式の整形式庭園で、1000品種7000株を超えるバラを中心に、年間を通して四季折々の200種の草花や200種16,000株の樹木を楽しめる。30,000㎡の園内には原種、オールドローズから最新品種まで植えられており、園内を一周するとバラの歴史を辿ることが出来る。」

京成バラ園012_convert_20101108222217

京成バラ園011_convert_20101108222043

自然風庭園
バラの鮮やかな色彩に幻惑されるような感じになった時に、ローズガーデンに隣接している自然風庭園は、穏やかな安らぎを与えてくれるようだ。ここは四季折々の草花や花木が咲いているイギリス様式の庭園である。芝生を中心として、ゆるやかに流れる小川と池があり、水鳥が立ち寄ることもある池には水生植物のスイレン、湿生植物のショウブなどを見る事が出来る。

自然に囲まれた空間の中、野性味のある原種のバラ80品が植えられている。野生種のバラは既に開花時期が終ってしまったようだ。丘の上は雑木林になっていて所々に始まっている紅葉も庭園に彩を与えている。

京成バラ園025ed_convert_20101126201208 自然風庭園

京成バラ園029_convert_20101108222505

ローズガーデンのバラ
ローズガーデンの中央には芝生がありその左右のバラはハイブリッドティー(HT)という種類だ。このバラは四季咲大輪(木立性)種で花一輪の美しさが勝り、香る品種が多い。花の直径が10cm前後から20cmを超えるものまであり、一輪でも見ごたえのある豪華な花が特徴である。 四季咲き性の香りが良いバラはほとんどがこのHT種に含まれているので、 品種ごとに変わる香りを楽しみながら散策を楽しむことが出来る。

京成バラ園060ed_convert_20101108222323 中央は桂由美のガゼボ

京成バラ園045_convert_20101108222607 エデンの泉

京成バラ園074ed_convert_20101108222935

ローズガーデンの中央にあるガゼボ。ここはブライダルマザー桂由美プロデュースによる洋風東屋である。ガゼボの前で行われるバラに囲まれたガーデンウェディングは好評だそうだ。創立50周年を記念し、世界にMr.ローズとして認められた鈴木省三氏(故人)宅のバラ園を模した「アニバーサリーガーデン」がローズガーデン内に登場した。

京成バラ園058_convert_20101109120207  京成バラ園056_convert_20101109120034

ローズガーデンの脇に温室があってハーブが栽培されている。またバラの写真の展示も行なわれている。温室の奥に今年のローマバラ国際コンクールで金賞をとった「快挙」といったバラが展示されていた。どこがすごいのか専門家でないので分からないのは残念だ。

様々なバラ
京成バラ園015_convert_20101108231618  京成バラ園013_convert_20101108231429
 ギィ・ドゥ・モーパッサン                  アルパイン・サンセット                   

京成バラ園017_convert_20101108231707   京成バラ園021_convert_20101109115912
 ロートレック                         レッドコート

京成バラ園061_convert_20101108232021  京成バラ園050ed_convert_20101108231913
 インツゥリーグ                       るる

京成バラ園067_convert_20101108232114   京成バラ園069_convert_20101108232212
 フレンチパフューム                     エル

ガーデンセンター
ローズガーデンの入口の脇にかなり広いガーデンセンターがある。ここではバラの苗木だけでなく、樹木や観葉植物や盆栽まで扱っている。バラの苗木の多くが3500円と表示されていた。かなり値が張るものだ。球根や園芸用品も豊富に扱っている。また様々な植木鉢があって多種多様なプラ鉢やテラコッタ、木製風プランター等が置いてある。バラ専門スタッフが育て方などの相談にのってくれる。

ローズショップ
バラをコンセプトに品揃えをしたギフトショップで、バラに関する様々なグッズを扱っている。バラのアイス、ローズヒップヨーグルトアイス、ポップアップカード、レーザーカット フォトフレーム カード、バラの花びらジャム、ローズヒップジャム、バラ香る紅茶、ローズヒップティー、バラがふんわり香るロールケーキ等がある。バラのポプリやアロマオイルがショップ内を甘い香りに包んでいる。

ガーデンレストラン「ラ・ローズ」
昼食は「ラ・ローズ」で食べる事にした。バラ園周辺に飲食店は見当たらない。ラ・ローズは本格シェフが手作りのおいしさにこだわり、自然素材を使い、自家農園で朝摘みした有機ハーブ野菜などを使った料理が食べられる。ランチは少々値が張るが、味は本格的フレンチだし、10種類ほどの焼野菜とハーブ野菜が添えられていて食べ応えがある料理だった。

カフェ「パティオ」

レストランを出て、再びローズガーデンを散策する。その後ローズガーデンが一望できるオープンスタイルのカフェ「パティオ」の名物バラのソフトクリームを食べてみることにした。15時過ぎバラ園を後にした。帰りは丁度来た京成線の八千代台駅行きのバスに乗った。八千代台から日暮里までは特急で40分位で行ける。
(参考資料:京成バラ園ホームページ)

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葛西神社、金蓮院

11月7日(土)
亀有に住む友人の所に出かけた。天気が良く予定は午後からだったが、朝から出かけ近くの神社や寺院にでも寄って行こうと思った。以前柴又帝釈天にいった時に、京成電鉄の金町駅で「葛西神社骨董市」というポスターを見た事があったのを思い出した。葛西神社を訪ねてみる事にした。

金町の由来
: 往古この辺りの奥州古街道に面して町屋(商業地)があり、「金町屋」と呼び「金町郷」と称した。「金」は「曲(かね)」であり蛇行する川の曲渕(瀬)をいう。江戸川にちなむものと考えられる。

秋晴れの中を金町駅から商店街を抜け、住宅地を10分位歩くと、水戸街道がら分岐した広い通りにぶつかる。その通り渡るため歩道橋に上ると高い木々が家々の上に頭を出している。そこが葛西神社だろう。歩道橋を下りると「郷社葛西神社」と書かれた石の道標が立っている。その先に木々に覆われた社と鳥居が見える。

葛西神社
創建の年代は古く平安時代の末期、後鳥羽天皇の元暦二年(1185)領主葛西三郎清重の篤信により上葛西、下葛西あわせて三十三郷の総鎮守として創られる。神楽殿で奉納される葛西囃子は江戸囃子の源流として東京都の無形民俗文化財となっている。

葛西神社015_edited_convert_20101107124243 葛西神社本殿

葛西神社005_convert_20101107121210 神楽殿

この葛西神社には様々な神社が寄せ集められている。正面鳥居の右側の一角には福神殿や厳島神社がありその場で七福神巡りをした気分にさせてくれる。また3本の大銀杏があり区の天然記念物に指定されている。

福神殿(祭神 福の神): 厳島神社の市杵嶋姫神(弁天様)を含め、葛西の森の七福神をお祀りしている。

葛西神社030_convert_20101107122334  葛西神社029_convert_20101107122233 大黒柱、厳島神社  

葛西神社028_convert_20101107122135  葛西神社003_convert_20101107121045 福神殿

道祖神(祭神 猿田彦神) : 元禄十三年(1700年)造営。天孫の際、瓊々杵尊(ニニギノミコト)に道案内をしたことに因み、旅行の無事安全、また足の健康を願い、草鞋(わらじ)を奉納する。

弥栄銀杏(イチョウ) : 大鳥居の脇に大銀杏が聳えている。明治の初年まで金町の明神の森の大銀杏として知られていたが、度重なる水害のため官命により排水を容易にする手段として数々の大木と共に伐採を余儀なくされた。しかし、この樹木の生命力は強く、再び自力で芽を吹き出して猛々しく成長し今日に至った。その旺盛な生命力を称え弥栄銀杏(いやさかいちょう)または曾孫生え銀杏(ひこばえいちょう)と命名された。

鍾馗石像 : 鍾馗は中国の唐の玄宗皇帝、楊貴妃の時代に始めて登場する。玄宗皇帝が重い病にかかったときに、暴れている鬼を鍾馗が現れて退治した夢を見た。夢からさめると急に治ったかのように体は元気になって、それから天下に広まっていった。石像としての鍾馗像は珍しい。この石像は元禄8年金町村の念仏講の人々が悪魔降伏を願って建てたものである。

葛西神社025_convert_20101107125910 葛西神社021_convert_20101107130649
 弥栄銀杏                  錘馗石像 

この境内は江戸川のほとり、古来より明神の森と称えられる神域となっていて、参道を含め現在千八百坪の広さがある。まだ七五三詣には早いのだろう。5歳位の男の子を連れた夫婦がいただけで境内は閑散としていた。明日は酉の市が開かれ、神楽殿では葛西囃子演奏、演芸大会、演芸ライブ(マジック、漫談等)が行なわれる。

本殿の脇には諏訪社、稲荷社、宝物殿、葛西天神社、錘馗像、三峰社、祓所、葛西ばやし発祥の碑、勝海舟直筆の碑、富士社等が並んでいる。葛西天神社の立て札の上にカラスが羽を休めていた。八咫烏(やたがらす)という言葉を思い出した。不吉な象徴であるカラスも神の使いだったこともあるのだ。

葛西神社011_convert_20101107121631 葛西神社016_edited_convert_20101107121750
 葛西天神社                 

葛西神社018_convert_20101107123029  葛西神社020_convert_20101107121857
 祓所                               富士社 

葛西天神社(祭神 菅原道真命) :
学問の神の道真公を祀る。初天神の時期には、春に進学の夢を望み、天神様へ受験生が参拝される。天神社の参道の脇には、飛梅と称した梅がある。

祓所(祭神 祓戸四柱神) :
知らず知らずのうちに積もった穢れを清める処。自己を振り返り、内省をして祈りを捧げた後、境内の各社及び本殿に参拝する。

富士社(祭神 木花咲耶姫神) : 富士山を模して築山し、種々の自然石を用いて、明治四十四年竣工。頂上に富士社を祀る。

金蓮院(法護山金剛寺 真言宗豊山派)
葛西神社から駅に戻る途中に遠くから木々が茂った所が見えた。多分神社が寺院があるだろうと思って行ってみた。金蓮院とい寺院があった。参道から山門にかけて、工事用の幕が張られている。寺院の左側に建物を造るための準備が進められている。寺院が収益を上げているのなら、檀徒会館などを造っているのだろう。儲かってなくて、土地を切り売りしマンションか何かを建てているのかもしれない。寺院の経営も大変だ。

葛西神社038_edited_convert_20101107122451 金蓮院本堂

略歴 : 永正年間(1504-20)賢秀和尚により創建した。旧門末30余ヵ寺をもった本寺格の寺院で、天正19年(1591)徳川家から10石の御朱印を拝領している。水戸徳川家の祈願所でもあった。江戸時代、参勤交代で水戸街道を通る諸大名の参拝を受けた。境内には区文化財江戸期の愛染明王石像があり、樹齢約500年といわれる大きな羅漢槙(ラカンマキ)の大樹がある。葛飾区の天然記念物に指定されている。

葛西神社047_edited_convert_20101107122738  葛西神社042_convert_20101107122624
 羅漢槙                                  愛染明王石像
(参考資料:葛西神社公式サイト,猫のあしあと、かつしかまるごとガイド等)

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巣鴨中仙道菊まつり

11月5日(金)
池袋に買い物に行った。買い物は10分位で済んだ。そのまま家にUターンするにはあまりにもいい天気だ。花の名所案内に巣鴨地蔵通りで菊まつりをやっていると書いてあったのを思い出した。地蔵通りには豊島区の散歩コースで行った事があるが、菊まつりともなれば雰囲気が違うだろう。

巣鴨駅で降りる。駅前の白山通りを渡る信号待ちをしている多くの人がお年寄りだ。地蔵通商店街は平日の昼下がりの時間だろうが、休日だろうがいつも人で一杯である。名物の塩大福屋や、年寄り向けの衣料品店前には人だかりが出来ているほどだ。地蔵通商店街の入口の手前に真性寺があり、そこには「すがも〈中仙道〉菊まつり」というアーチがかかっている。

菊まつりは明日からだということだ。開始日をうっかり見逃していた。模擬店や祭りのイベントは当然やっていないが、菊の飾りつけは既に終っていて菊を見る分には今日でも大丈夫だった。菊まつりは真性寺が第1会場となっている。

巣鴨きくまつり007_edited_convert_20101105221129  巣鴨きくまつり008_convert_20101105155538

巣鴨地蔵堂通り商店街のホームページには菊まつりの由来が書かれていた。「江戸時代の巣鴨の染井は植木職人が多く住む地として知られる。当時は庶民の間でも“菊合わせ”と呼ばれる新花の品評も行なわれていた。そんな中で“菊人形”の見世物も江戸時代末期の文化年間に、染井の植木屋から始まる。菊まつりは平成5年から毎年 11/6~15まで真性寺や高岩寺の境内などで開催され、菊の形作りや、大輪約300鉢以上、大作りなどを展示。真性寺会場では模擬店、俳句などの展示も行われる。」

巣鴨きくまつり014_convert_20101105161439 真性寺本堂と地蔵尊

巣鴨は中山道の出入り口であり、関八州江戸古地図、江戸絵図ほか多くの文献から真性寺界隈は交通の要として賑わっていた。巣鴨地蔵通商店街は今は全く別の理由で賑わっているが、それは歴史の流れを感じさせるものである。真性寺の境内に入ると左右に菊の花が展示がされている。地蔵尊とその横に安置されている銅造地蔵菩薩坐像にはお参りする人が後を絶たず、その人達が焚く線香の煙は辺り一面を曇らすほどに立ちこめている。

江戸六地蔵尊 真性寺(醫王山東光院 真言宗豊山派)

江戸六地蔵の一つと知られる真生寺は、奈良県の桜井市初瀬の総本山長谷寺の末寺です。開基は不明ですが、聖武天皇(在位:724年2月4日 - 749年7月2日)勅願。行基菩薩が開いたものと伝えられています。

境内の左手に、高さ2m68cm、蓮花台を含めると3m45cmの大きなお地蔵様が、蓮座に趺座しています。これを称して江戸六地蔵尊といい、江戸御府内に6箇所造立されている地蔵尊の一つです。六地蔵は、東海道の品川寺(第一番)、奥州街道の東禅寺(第二番)、甲州街道の江戸三大閻魔の寺として有名な太宗寺(第三番)、水戸街道の霊巌寺(第五番)にあります。第六寺は廃寺となり消滅した千葉街道沿いの永代寺にありました。

巣鴨きくまつり016_convert_20101105155812  巣鴨きくまつり020_convert_20101105161918
 真性寺山門                         真性寺本堂

巣鴨きくまつり019_convert_20101105155936  巣鴨きくまつり018_edited_convert_20101105221240
 六地蔵尊                          銅造地蔵菩薩坐像

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 菊の展示風景

真性寺を出て巣鴨地蔵通商店街を進んで行く。ここは江戸時代、中山道の出発地点日本橋から出発して最初の休憩所(立場)として栄え町並みが作られた。商店街は庚申塚までの全長約780mで、店舗数は200程である。毎月4・14・24日に開かれる縁日には、露店が地蔵通りに沿って軒を連ね江戸情緒豊かな風情を感じさせてくれる。この商店街の中ほどにとげぬき地蔵として有名な高石寺がある。

巣鴨きくまつり025_edited_convert_20101105221339 高石寺山門

境内に入ると本堂の横に会館のような建物があり、その周りに菊が展示されている。高石寺が菊まつりの第2会場だ。会館の前は広場になっていてベンチが置かれ休憩所になっている。買い物をして疲れたら休める所があるというのは助かる。お年寄りに優しい商店街という訳だ。高石寺の境内にある洗い観音の前には30人ほど列を作っていて順番を待っている。列が途切れることはない程盛況だという。

巣鴨きくまつり026_convert_20101105161815  巣鴨きくまつり028_convert_20101105171846

とげぬき地蔵尊 高岩寺(萬頂山 曹洞宗)

慶長元年(1596年)に江戸湯島に開かれ約60年後下谷屏風坂に移り、巣鴨には明治24年(1891年)に移転してきました。ご本尊は「とげぬき地蔵」として霊験あらたかな延命地蔵菩薩です。

巣鴨きくまつり031_edited_convert_20101105221429 高石寺本堂 

洗い観音
江戸時代最大の火事であった「明暦の大火」(1657年)で、当寺の檀徒の一人「屋根屋喜平次」は妻をなくし、その供養のため、「聖観世音菩薩」を高岩寺に寄進しました。聖観世音菩薩像に水をかけ、自分の悪いところを洗うと治るという信仰がいつしかうまれました。これが「洗い観音」の起源です。

巣鴨きくまつり034_convert_20101105162512  巣鴨きくまつり033_convert_20101105162312  
(参考資料:巣鴨地蔵通商店街ホームページ)

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秋を探して

11月3日(水)
珍しく朝から快晴である。雨が降り続き、台風まで来て、どんよりとした寒々しく暗く重苦しく空を覆う雲に心まで塞がれてしまうような気がしていた。秋を通り越して冬が来たかのような寒さが続く。それを吹き飛ばすような晴れだ。今まであまりにも天気が悪かったからこそ、今日の晴れは貴重だ。少し風は冷たいが、空気はからっと乾燥し秋の只中にいる気分を味あわせてくれる。

秋の大気の中を散歩するのは、何にも増して気分のいいものだ。郊外の散策に行こうと思ったが、まだ風邪が抜けきっていない。無理をするとぶり返すだろう。近所の散歩で間に合わせることにした。散歩道に沿った家々の前には鉢植えの花々が咲いている。サルビア、ニチニチソウ、マリーゴールド、バーベナ、キキョウ、アメジストセージなど、結構種類がある。家と駐車場を仕切る金網にピンクと白の花が咲いていた。白い花はツルハナナスだろう。

秋を探して001_convert_20101103125426  秋を探して003_convert_20101103144127

近所を一周してから、いつもの公園に行く。公園の花壇は地元のボランティアの人の管理となっていて、季節の花が植えられている。

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秋バラが見頃だ。公園の日向のベンチには日光浴をしている人が何人かいる。秋の穏やかな日の光は心までも暖めてくれるように降り注いでいる。バッハの音楽が聞こえてきそうな情景だ。

長崎村012_convert_20101105093505  長崎村014_convert_20101104235547

秋を探して014ed_convert_20101103174059  秋を探して023_convert_20101114231626  

長崎公園周辺007_convert_20101104165400  長崎村015_convert_20101104235645  

長崎公園周辺011_convert_20101104165053  秋を探して022_convert_20101114231551  

木々の葉も色づき始めている。サクラの木が最初に紅葉し他の木々が紅葉する前に葉を落としてしまう。公園の木では、ハナミズキ、オオヤマザクラ、ピンオークが紅葉していた。トウカエデは日の当たる一部分だけが緑の木の中に赤い縞を作ったように紅葉している。

秋を探して039ed_convert_20101103133136  秋を探して043ed_convert_20101103142842 オオヤマザクラ、ハナミズキ

巣鴨きくまつり002_convert_20101105155256  巣鴨きくまつり004_convert_20101105155351 ピンオーク、トウカエデ

常緑樹も実をつけてきている。モッコクとタラヨウは枝一面を赤い実を飾りたてている。

秋を探して035_convert_20101103144229  秋を探して037_convert_20101103132534

1時間ばかり散歩してかなり気分爽快になった。部屋の中より外の方がずっと暖かい。まばゆい秋の光の中で、空気の味が違うといった感じだ。すがすがしくさわやかで、空気の中に溶けこんで行きそうだ。秋は至る所にその姿をあらわしている。  

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生きる意味

11月2日(火)
風邪はかなりよくなったが、咳がまだ少し残る。この残った風邪の症状が中々抜けない。腰の痛みの方は嘘のようになくなった。30日が最悪で、少しでも身体を普通に動かそうとすると、腰に激しい痛みが走りしばらく動けない。スローモーションフィルムのようにゆっくりと身体を動かす外なかった。

一昨日は、大分良くなって激痛に襲われる回数が減少した。そして昨日今日と段々良くなり、まだ腰の周りが重い感じはあるが、普通に身体を動かしても腰の痛みを感じることはなくなった。3日で治るぎっくり腰などあるのだろうか。腰痛の原因はいまだよく分からない。

「いのちの授業」での質問

西武文理大学の「いのちの授業」の講演の後「生きる意味とは何か」といった質問が出された。質問者は「自分には生きる意味というのがどういったものかわからない」と言っていた。

その時は、この問いかけに対しては次のように答えた「この問題は現代思想の主要課題として論議されてきた。生きる意味とは何か、いかに生きるか、皆この回答を求めて生きている。答えを求める過程こそが生きる意味なのだ。生きる意味とは絶えず何ものかを追求する過程である。いかに生きるかを追求する事を止めた時、その人の成長は止ってしまうだろう。

たとえひとつの目標に到達したとしても、その瞬間に次の目標が目の前に聳え立っているものだ。人はひたすら高みに向かって挑戦し続けなければならない。その激しい格闘の中に生きる意味は見出していける。それは絶えず自らを選択していく過程である。」やはりこの答えでは不十分だ。少し考えてみる事にした。

カミユの思想

生きる意味については、実存主義の大きな課題であった。カミユは、人生は生きるに値するか、人生の目的は何か、人は何故生きるのか、不条理の世界で人は果たして生きる意味を見出せるのだろうか、を問いかけている。

「真に重大な哲学上の問題は一つしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。」(『シーシュポスの神話』)

『異邦人』の中のムルソーは考える「人生は生きるに価しない」と。「根本において30歳でも70歳でも死ぬのに大して変わりはない。」人が死ぬ以上は、何時どうしてということは大した問題ではない。

『異邦人』の中で出せなかった回答を『ペスト』の中でカミユは追求する。この世の不条理性は否定しがたい。「人生は生きるに値するのか」の答えはない。しかし、強制されようとする運命にあくもでも抵抗し“否”と言い続けることを通して、その宿命を跳ね返していく事が可能ではないか。

まさに不条理な世界における生き方、運命を受け入れるのではなくそれに抵抗する人間を描き、その世界からの脱却をまさに「反抗的人間」として表明しようとしたのではないか。「私が興味を覚えるのは、愛するもののために生き、愛するもののために死ぬことだ」カミュのこの言葉こそ不条理な世界を突破し生き抜いていく方向を示しているのだろう。

サルトルの思想
41_convert_20101102011222.jpgサルトルは「実存は本質に先立つ」と語る。人間には拠り所となるような本質はない。我々が何故、何のために生きるかという問いは全く無意味である。「人間は自由であるべく呪われている」という彼の言葉は、頼りになる永遠の価値も基準もなく、自由であるがため全て自らが選択し、決断するように死ぬまで運命づけられている、ということだ。我々は自身が生の意味をつくらなければならない。実存するということは自分の存在を自分で創造することだ。

人間の意識存在のあり方は対自存在であり、即自な存在の仕方に対してつねに否定の契機を投げかける原理を意味する。このことから、自由とは絶えず状況を否定しそれを超えようとする人間の根本的本性にほかならない。人間はつねに状況に向って自分を投げ出していくものである。この自分を越えようとする企てを、サルトルは投企(アンガージュマン)と呼ぶ。

人間はみずから造るところのもの以外の何者でもない。人間はどのようにして、みずからを造るか。サルトルは「人間は・・・第一に主体的にみずからを生きる投企なのである」と言う。投企とは「未来に向って自らを投げる」ことである。

人間は社会的政治的状況の中に投げ入れられている。すると自由は状況の中でそれを「超出」するような原理として浮かび上がってくる。サルトルにとって人間の存在の本質は「自由」ということだったが、この自由は結局、人間が政治状況に「参加」すべき事を強く要請するものだった。そして投企とは、政治的社会的状況の中にある人間が、現実の不完全を見てそれを超えようとすることを自由に選択することである。(参考・「現代思想入門」JICC出版「実存主義はヒューマニズムである」人文書院)

実存主義とは
サルトルの考え方の基となる実存主義とは、ニーチェの「神は死んだ」をひとつの出発点としている。西洋文明の合理主義と科学主義が蔓延し、人々は信仰を失い神の絶対的価値が失われたことに端を発する。「もし絶対的価値基準がないなら、人間的な本質などないのではないか、ならば我々は神が望むような形ではなく、我々が自由に望むように選択(創造)できる。」という思想が、サルトルの考え方の基礎にある。

また同時にキエルケゴールの次の言葉もサルトルの哲学の背景となっている。「私は何故かも分からずにこのような存在として生まれ落ち、この先どのように生きるべきかをみずからの責任において選択していかなければならない。このかけがえのない主体的実存こそが哲学における本当の真理であり、この点にかかわらない普遍的真理などを知ってもなんの役にもたたない。」実存主義とはニーチェとキエルケゴールの思想に依拠し発展していった。

生きる意味とは

かってサルトルの本を読んでインパクトの強かった言葉がある。「被投的投企」である。人は、虚無の世界に投げ出されている。そこには拠り所となるものは何もない。生きる意味が最初から与えられているわけでもない。

しかし人間の意識のあり方は無に根ざした対自存在として自由なものであり、その自由な意識は自分の決断によって、客観的な世界を引き受け、それに参加する事が出来る。自らの意思で自分の人生を投げ企てる事が出来る。この世界に投げ出されているとうことこそが投げ返す事を可能にする契機となる。

苛酷な宿命に翻弄され、絶望や不安の中で疎外された存在として行き場見失っている現代人に、それを超克する言葉として「被投的投企」という言葉が大きな意味を持っていると感じられた。

生きる意味とは、自分自身の生き方を主体的に選択する事によってしか見出すことは出来ない。それは自由という重荷を自ら背負う事になる。しかしそうでなければ顔ない群衆の中にずり落ち人格や個性を失った大衆の一人になってしまう。自分から逃げ自分を騙すことになる。しかし人間の自由は黙っていない。真に実存し、本物の人生を送るように強いているのである。

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