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入院から現在までの治療経過

12月31日(金)
昨年から年の最終日ということで、今までの病状経過をブログに掲載する事にした。内容は昨年の12月までは同じであるが、自分の病気がどのような推移を辿ったか振り返ってみるのもいいだろう。1年は過ぎ去ってみるとあっという間の出来事だった。薬物耐性が強く次々と薬を変え、組み合わせを変え、延命治療を続けてきた道のりが示されている。

文章にすれば、Aという薬からBという薬に変わっただけだが、その過程での試行錯誤や副作用への対応など様々な出来事が進行していたのである。薬が効果を発揮しても白血球減少によりその薬による治療を断念せざるを得ない事もあった。

ボルテゾミブ、サリドマイド、レナリドマイドという画期的な新薬が登場しなかったら、もっと早く使用できる薬は途切れていただろう。この3種類の薬は、何と私が2005年12月から治療を始めて以降承認されたものである。ボルテゾミブ(ベルケイド)は2006年10月、サリドマイド(サレドカプセル)は2008年10月、レナリドミド(レブラミド)は2010年6月に承認され保険適用になった。

いつ病気なるかそれは誰も選択できるわけではない。しかし罹患した時期は、治療にとって極めて大きな意味を持つ。特に治癒困難であり、一生治療し続けなければならない病気に罹った場合、薬の選択肢は多ければ多いほど治療の有効性は増加するものである。血液がんに罹ったことは不運としかいいようがないが、2005年に罹ったということは幸運だともいえるだろう。これからも様々な薬を組み合わせながら、試行錯誤を繰り返し治療を続けていかざるを得ない。

入院・治療経過

入院経過
 第1回入院、2005年12月1日から27日-フルダラビン療法
 第2回入院、2006年1月4日から1月20日-第1回VAD療法
 第3回入院、1月23日から2月13日-第2回VAD療法
 第4回入院、2月20日から3月13日-第3回VAD療法
 第5回入院、3月20日4月9日-自己抹消血幹細胞採取
 第6回入院、5月15日から6月5日-第4回VAD療法
 第7回入院、6月12日から7月11日-1度目の自己末梢血幹細胞移殖
 第8回入院、10月12日から11月12日-2度目の自己末梢血幹細胞移殖
 第9回入院、2007年10月24日から12月28日-ベルケイド(ボルテゾミブ)療法のため

治療経過
2005年
11月7日 仕事中、足の指に品物を落とし大量に出血。
  1週間以上たっても出血が続くので血液検査をした所、血中のタンパクに異常値が出たので専門病院を紹
  介される。
11月24日 専門病院に行って血液がんであることを宣告される。
12月1日 原発性マクログロブリン血症と病名が確定し入院。
  入院時骨髄中の形質細胞腫瘍(がん細胞)の量を示すIgMは7110だった。
12月10日 最初の化学療法としてフルダラビン療法(45mg/5日間)が開始された。
  しかし全く効果がなくIgMは9470にまで上昇。治療法の変更。

2006年

1月~ VAD療法を3クール行なう。
  =オンコビン(ビンクリスチン・V)0.4mg+アドリアシン・A(ドキソルビシン)10mg+デカドロン・D
  (デキサメタゾン)40mg。
  4日間連続、3週間ごとに繰り返す。目標値IgM4000以下になったので移植の準備に入る。
4月 自己抹消血幹細胞採取。ベプシド(エトポシド)200mg/3日間、を使用。
5月 IgMが上昇してきたのでVAD療法を1クール行う。
6月20日 1度目の自己末梢血幹細胞移殖。 
  一時は骨髄中に形質細胞腫瘍は見当たらなかったが少しずつ増え始める。
10月24日 2度目の自己末梢血幹細胞移殖。IgMは基準値まで戻る。
  2度の移植はタンデム移植として当初より予定されていた。

2007年

5月  IgMが再び増加、MP療法を行なう。
  =アルケラン(メルファラン・M)6mg+プレドニン(プレドニゾロン・P)50mg-月4日間連続服用。 
  半年位でIgMの増加が見られ、さらに骨髄抑制が強まってきたので中止を余儀なくされる。
10月 ベルケイド療法開始。
  =ベルケイド(ボルテゾミブ)2.1mg+デカドロン(デキサメタゾン)40mg-1,4,8,11のサイクルで静注。
  2クールを2ケ月間の入院で行う。その後通院で続けるが効果減少。4クールまでで断念。

2008年
4月 サリドマイド療法開始。100mg/毎日服用。サリドマイドは個人輸入
9月 サリドマイド単剤での効果減少。サリドマイド100mg/毎日+エンドキサン(シクロホスファミド)50mg/月7
  日服用。
11月 サリドマイド100mg/毎日+エンドキサン300mg/週1回毎週+デカドロン40mg/月4日を服用。
  やがて効果減少。

2009年

4月 保険適用されたサレドカプセル(サリドマイド)を使用。
6月 サリドマイド100mg/毎日+オンコビン(ビンクリスチン)2mg/月1度+デカドロン40mg/月4日。効果減少。
8月 オンコビンを月2度にするが効果期待できず。
9月 サリドマイド100mg/毎日+アルケラン8mg/月4日+プレドニン50mg/月4日。
11月 好中球が500以下になる。上記の療法による骨髄抑制が強すぎるので中止。
11月25日~ サリドマイド100mg/毎日+クラリスロマイシン200mg/朝晩毎日+プレドニン50mg/月4日。
  この3種併用療法を始める。クラリスロマイシンは抗生物質であり骨髄抑制の心配はなかった。
12月24日~ 上記療法が全く効果を発揮せず、IgMが1ケ月に1000も上昇してしまった。次の療法として
  ベルケイド2.1mg/週1回4週静注(1週休薬)+デキサート(デキサメタゾン)33mg/週1回毎週静注
  +サリドマイド100mg/毎日服用+エンドキサン(シクロホスファミド)50mg/月4日服用。

2010年
6月23日~ サリドマイド(100mg毎日)+アルケラン(メルファラン)(6mg月4日)+プレドニン(50mg月4日)
9月29日~ レブラミド(レナリドミド)3カプセル(15mg)月21日服用・現在継続中

入院から現在までのIgMの増減


入院から第2回移植前まで
無題

2005.12.5  フルダラビン療法
2006.1.5   VAD療法第1クール
     1.23  VAD療法第2クール
     2.20  VAD療法第3クール
     3.20  自己末梢血幹細胞採取
     5.15  VAD療法第4クール
     6.20  第1回自己末梢血幹細胞移植
     10.24 第2回自己末梢血幹細胞移植

第2回移植以降、MP療法をへてベルケイド療法終了まで

22.jpg

2007.5.30  MP療法開始
     10.26 ベルケイド療法開始

サリドマイド使用以降

1111.jpg

2008.4.2   サリドマイド単剤で使用開始
     9.3   THL+エンドキサン
     11.26 THL+エンドキサン+デカドロン
2009.6.11  THL+オンコビン+デカドロン
     9.16  THL+アルケラン+プレドニン
     11.25 THL+クラリスロマイシン+プレドニン
    
サリドマイドからレナリドミド
無題

2009.12.24 サリドマイド+ベルケード+デキサート+エンドキサン
2010.6.23  サリドマイド+アルケラン+プレドニン
     9.29  レブラミド開始
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眼科の診療

12月28日(火)
硝子体内のサイトメガロウイルス(CMV)が残存しているかどうかの検査結果がでた。先週担当医が硝子体内の房水を採取し、それを東京医科歯科大学に持っていってウイルス検査をしてもらっていた。9月2日医科歯科大学での検査の時には一定量の房水中に1000(単位不明)あったが、今回の検査では0.05という数値だった。殆ど壊滅状態だということだ。

また好中球が大幅に減っている状態でデノシン硝子体注射をすると、かなり感染の恐れがある。今日は、予定されていたデノシン注射は中止ということになった。どちらにしても今年一杯で中止にするつもりだった。様子を見ながら再開する可能性はある。

眼圧の上昇が止まらない。先々週33だった。先週は24まで下がった。今日、最初の眼科での検査では40という驚くべき数値を示していた。この位あると眼球の圧迫感、痛みを生じたり、脳の右側に鈍痛が走るようになる。最初の検査は空気圧による眼圧計で測ったものである。これは圧搾空気を吹きつけて、角膜のへこみ具合によって眼圧を測定する方法だ。その後担当医がさらに精密に検査した。ゴールドマン眼圧計といって細隙灯顕微鏡に眼圧計がついていて、角膜に色素をつけ、そこに眼圧計を密着させて測定する。その検査では34であった。

新生血管が房水の出口を邪魔しているのか、残ったCMVが房水の出口に炎症を起こしているのか分からないが、対処療法でやっていく他ない。今点眼している炎症を抑えるステロイド剤・リンデロンと、眼圧降下剤ミケランは従来どおり点眼し、それ以外トルソプトとキサラタンという眼圧降下点眼薬が追加された。

24日にウォーキングに出かけた時の帰り道、眼球に圧迫感があり、痛みが増し、さらに頭痛がしてきた。眼圧がかなり上昇してきているのだろうと思い、このまま病院に行こうかどうしようか迷ったが、しばらく休んでいたら収まった。疲れによって眼圧が上昇したのかどうかわからないが、かなり辛い思いをした。

こういったことがあったので、眼圧が急激に上昇し、眼球の痛みと頭痛が襲ってきた場合に服用する薬を処方してもらった。ダイアモックスという錠剤だ。この薬は体内のカリウムを減少させるので一緒にアスパラカリウムという薬を飲むことになっている。

もし処方された薬が効かなかったら、担当医は今年は当番なので正月中も待機しているので、連絡してくれということだった。こういう体制をとってくれていると安心だ。

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血液内科の診療

12月28日(火)
今日は好中球の状態を知ることを目的とした診療である。ノイトリジンを3度注射して好中球が上昇したかどうか、もし上昇が見られないようであればレナリドミドの服用を中止せざるを得ない。

検査結果
 白血球  2800(12/28)←2000(12/22)←2200(12/8)←2000(11/24)
 好中球  1270←270←500←520
 血小板  6.8←5.3←7.4←6.1
 赤血球  313←303←327←316
 ヘモグロビン 10.1←9.8←10.4←10.2
 網赤血球  10←5←5←7


検査結果では、好中球は1270と大幅に上昇した。これで一安心だ。白血球も2800となった。ノイトロジンが効いたのか、確かにその影響はあるだろうが、前回の異様に低い値は何故だろうかと思う。IgM値は2週間に1度しか検査できないので今回値はでていない。

レナリドミドを継続して服用することが可能となった。今度はこの薬が効果を維持してくれることを期待するほかない。今日の診療は血液検査の結果を聞き、ノイトロジンの注射をした。最終日なので病院は混んでいると思ったが、すいていて採血、眼科診療、血液内科診療を行い、10時30分には終わった。

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北区のさんぽみち‐10 赤羽・西が丘エリア

12月24日(金
好中球を増やすためにG-CSF・ノイトロジンの皮下注射を連続してやることになった。注射は10秒位で終る。そのために病院に通わなければならない。思ったより時間はかからなかった。注射1本のため1時間も待たされてはたまらない。病院に入ってから出るまで30分程で済んだ。

北区のさんぽみちは10コースあり後1ケ所残っていた。最後のコースは殆どが緑道を歩く。どちらかというと名所旧跡巡りではなく、公園の散歩道を歩くという感じだ。

JR 赤羽駅→赤羽八幡神社→赤羽緑道公園→(緑道公園内を歩く)→桐ヶ丘体育館→(緑道公園内を歩く)→赤羽自然観察公園→西が丘サッカー場→北ノ台エコー広場館→姥が橋延命地蔵→JR 十条駅

赤羽から新幹線線路脇を北赤羽方面に歩いていくと、新幹線の線路と、京浜東北線の線路に挟まれた小高い丘の上に八幡神社はある。北区の神社を回っていて赤羽八幡神社の名前はよく見かける。北区では昔からかなり中心的な神社だったのだろう。急階段を上ると目の前に本殿がある。右横に神楽殿がある。その裏には神輿などを仕舞っておく倉庫が並んでいる。その脇が空き地になっていて、そこからは線路を越えた北側と東側の風景が一望できる。

本殿の左側に鳥居があり高麗犬に守られた社がある。そこには「北野神社」「御岳神社」「阿夫利神社」「大山神社』「住吉神社」 「稲荷神社」「大國主神社」「疱瘡神社」「古峯神社」と名札がかかっていて、これらがまとまって祀られているのだろう。神社の側面の道からは赤羽駅方面が開けている。

赤羽八幡神社

赤羽八幡として知られ、昔の赤羽村、下村、袋村、岩淵宿、稲付村の惣鎮守だった。 伝説では、延暦3年(784)に征夷大将軍の坂上田村麻呂が東夷征伐の折、この地に陣を取り、遙かに八幡三神を勧請して武運長久を祈られ、その後、源頼光が社殿を再興、源頼政が改修、太田道灌の父・資清が社領として土地を寄進し、道灌が社殿を再興(文明元年・1469)したとある。
江戸時代には、三代将軍家光の時に社領七石を与えられ、以後代々将軍家より御朱印を寄付された。
現在では「勝負の神」として、受験生やスポーツ選手をはじめ広く信仰されている。

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 八幡神社本殿                       社殿左側

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 合同で祀られている神社                 境内からの見晴らし
   
八幡坂を登り、八幡小学校を左に曲がると、変わった形の橋が眼に入る。この橋を渡ると赤羽緑道公園の入口になる。そこから木々に囲まれた遊歩道を散歩する。しばらくいくと右に桐ヶ丘体育館があるが、ただ横を通り過ぎるだけだ。今度は墓地が続く。願徳寺墓地と書いてあったが、墓地しかなく、寺院の建物は見当たらなかった。

赤羽緑道公園
赤羽駅西口方面から赤羽自然観察公園方面へと続く細長い公園。廃線となった軍用貨物の線路跡を利用して作られた。 線路にちなみ、赤羽保健所通りに架かる橋の欄干には、車輪のデザインがほどこされている。

桐ヶ丘体育館
オリンピック東京大会を記念して建設された体育館。

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 緑道公園入口の橋                     緑道公園入口付近

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 遊歩道                            遊歩道のモニュメント

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 最後の紅葉                         桐ヶ丘体育館

緑道をさらに15分ばかり歩くと赤羽自然観察公園の北門につく。ここからかなり広い公園を1周して西門から出る。もはやすっかり枯野と枯木の風景になってしまった。中央の水鳥の池周辺は金網がある。野鳥の保護のためだろう。古民家の周りのベンチや縁側には近所の老人たちがお喋りしたり、将棋を指したりしていた。

公園には木橋が掛けられ、新緑の季節などには水の流れが涼しく感じられ、木々に囲まれた公園を周遊する遊歩道の散歩はさぞ気持ちいいことだろう。途中小学校高学年の生徒100名位とすれ違った。課外授業なのだろうが、今の時期見る物があるのだろうか。

赤羽自然観察公園

自然の回復とふれあいをテーマに開設された公園。 湧水を活用した池やたんぼ、デイキャンプ設備などがある。また、自然保護のため人の立ち入りできない区域を設けている。北区ふるさと農家体験館として江戸時代の浮間にあった旧松沢家住宅を移築復元した。この古民家は北区指定の有形文化財である。

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 自然観察公園北入口の看板               北入口から見た公園

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 公園内の木橋                       古民家

本郷通りを姥ケ橋陸橋に向って進んで行くと、左側によく名前を聞く西が丘サッカー場があり、その隣に国立スポーツ科学センターがある。ただ眼の端にとどめ置く程度で通り過ぎていった。

姥ケ橋交差点を渡る手前に小学校の運動場のような広場があった。スポーツ多目的広場で、フットサルやゲートボールが出来る。体育館もありバレーバールやバスケットボールなども出来る。北ノ台エコー広場館は運動場の一画にある。エコーとは何かと思っていたら、リサイクルの推進、即ちエコを目的とした施設だという。ここから環状7号を渡ると姥ケ橋陸橋の袂に姥ケ橋延命地蔵が立っている。

北ノ台エコー広場館

リサイクルに関する情報や講座を行っている。フリーマーケットや 北区の友好都市の一つ、群馬県甘楽町の有機野菜は販売も行っています。

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 エコー広場館正面                     館内のリサイクル商品
 
姥ケ橋延命地蔵

姥ケ橋とはかつてこの地に流れていた稲付川に架かっていた橋。昔、誤って幼子を溺れ死なせてしまった乳母が、この橋から身を投げたという伝説があり、延命 地蔵は、この話を哀れんだ村人が供養のために建てたといわれている。(碑文によると川に架かる石橋の安全供養とされています。)地蔵菩薩像は石材を丸彫りしたもので、台座には享保9年の銘がある。

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 延命地蔵堂の表示           地蔵堂
  
延命地蔵からしばらく本郷通りを行き、途中から賑やかな十条商店街に入っていく。その商店街は十条銀座商店街にぶつかり、そこからはすぐ十条駅だ。15分位で着いた。

今日の散歩で、北区のさんぽみちの10エリアを全て回った事になる。幾つかの場所を省いたり足したり適当に組み立てていったし、このコースにない名所旧跡は幾らでもあるだろう。とりあえず一段落といった所だ。これから病院帰りのウォーキングでどこを回るか考えなければならない。

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定期検診の日

12月22日(水)
今日は血液検査、眼科診療・デノシン注射、血液内科診療、レナリドミド(レブラミド)処方、ゾメタの点滴を行なった。明日が休みだということや年末だということで病院はかなり混んでいて、病院から出た時には15時を過ぎていた。

診療日の1日
・ 8時20分、採血室の受付が始まる時間に病院に到着し、番号札を貰って採血に呼ばれるのを待つ。15分位で呼ばれ採血する。
・ 9時前に眼科の受付をし、しばらくすると眼圧の検査に呼ばれる。ミドリンという瞳孔を開く点眼薬をさされ、瞳孔が開くまで20分程度待つ。担当医から呼ばれ眼底検査をする。その後デノシン注射をする。
・ 10時半頃、眼科での診療が終ると、「診療予定表」が眼科から血液内科に回る。

・ 血液内科の担当医から呼ばれるのを待つのだが、予約時間はあってなきがごときもので、「診療予定書」が回ってくる順番で診療していくから、1時間以上は待つ事になる。
・ 血液内科での担当医と検査結果を見てどうするか話をする。IgMが下がっていれば2、3分で話は終るが、そうでないと色々悩ましい話になり長引く。月一度支持療法として服用している薬を処方する。
・ 診療の最後に担当医が「レブラミド要件確認表」と処方箋とを書く。それを看護師に渡し、看護師は必要書類を添付して私に渡す。
・ レナリドミドの処方箋と、前回処方され飲み終わった空のカプセルシートを薬剤部に持っていく。薬剤部の担当者が幾つかの質問をする。

・ 月一度ゾメタの点滴をする。そのために外来治療センターから呼ばれるのを待つ。ベッドが空き点滴薬が薬剤部より届いたら呼ばれる。準備が整ったら、薬を最終確認し点滴針を刺すために担当医を呼ぶ。ゾメタの場合点滴時間は30分で楽だ。
・ 点滴が終ったら事務の方での診療費の計算が終るまで待つ。
・ 会計で支払いを済ませると、領収書に薬の引き換え番号が添付されている。それを持って薬剤部に行き薬を受け取る。レナリドミドの場合は毎回同じ内容の、薬の管理、服用上の注意などを聴かなければならない。
・ これで全て終る。病院にいる時間の4分の3以上が待ち時間だ。

検査結果
 IgM   3498(12/22)←3473(12/8)←3178(11/24)←3795(11/10) 
 IgG    512←538←539←613
 白血球  2000←2200←2000←2400
 好中球  270←500←520←700
 血小板  5.3←7.4←6.1←8.9
 赤血球  303←327←316←317←292
 ヘモグロビン 9.8←10.4←10.2←10.4
 網赤血球  5←5←7←7
 CRP   0.32←0.06←0.05←0.07


眼科で採血の結果を聞いていたので、血液内科で担当医に呼ばれた時には、好中球の数値を見て医者が治療方針についてどういった判断をするかが極めて大きな関心事であった。IgMの数値から見れば、先々週から、1週間3錠ずつ服用し、1週間休薬したので、数値の上昇を心配したが平衡状態だったことでひと安心だった。

問題は好中球の数値である。270という数値は、移植の時以来ない数値だ。移植室にいればそこから出られない数値である。それが満員電車で通院しているのだから大変なことだ。マスクをしてもたかが知れている。

レナリドミド(レブラミド)の副作用として骨髄抑制があるのは確かだが、これほどまでに激しいとは思わなかった。やはり5年間の抗がん剤治療の継続の中で造血幹細胞の機能が低下しているのだろう。入院時2番目にやったVAD療法でドキソルビシン(アドリアシン)というかなり強力な抗がん剤を使用したが、白血球の減少はそれれほど顕著ではなかった。まだ造血機能が活発だったのだ。

レナリドミドを続ければますます好中球は減っていくだろう。骨髄抑制の少ない薬に変える外ないのか、とは思うが代わりの薬が存在しない。この薬を使うほかない。どうしたらいいのか。好中球を増やす外ない。G-CSFのノイトロジンを皮下注射で連続投与する。休みが入るので、今日を含め24、27、28の4日間ノイトロジンを注射する。なるべく電車の空いている時間に行く外ない。通院によるデメリットと注射によるメリットを秤にかけてやっいくほかない。

医者は何らかの体調不良の兆候があったり、熱が38度以上出たらすぐ連絡してくれという。これだけ免疫力が衰えていると敗血症になる恐れがある。体調管理が限りなく必要となってくる。

レナリドミドの量をどうするか、医者に聞かれたが難しい判断だ。今でもIgMに対する奏効が危うい状態だ。3錠以下にするわけにはいかないだろう。薬の量は今まで通り3錠を21日間服用し、1週間休薬するというやり方を継続する事にした。

他に服用の方法はないのか。例えば1日おきに服用したり、1週間おきに服用するなどの方法もあるだろうが、臨床例が全くないので自分の身体で試してみるほかない。ボルテゾミブ(ベルケイド)の投与法に関して、1週間1度の点滴にした所、奏効率は変わらず副作用がかなり減ったという臨床例が報告され、以降その方法がかなり浸透してきた。レナリドミドの服用の新たな方法が臨床実験で見つけられればいいのだが。中々自分で試す決意はつかない。

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身体性の問題 (つづき)

12月22日(水)
 「身体性、感性に基をおくと連帯性、運動性という方向から遠くなりませんか。」といった質問が昨日書いた「辺見庸の身体性」という文章に対して送られてきました。難しい問題ですね。

教育人間学の東宏之が自分がサッカーで骨折した時の体験を話してくれたことがあります。「病気をしたり怪我をしたりすると、回復し職場に戻った時に、それまであまり親しくなかった人まで、“どうですか”と声をかけてくる。“病を語る、身体を語ることでもたらされる関係”は人間関係をスムーズにしていく。そのことは気持ちを語る、心を語ることの具体的きっかけになる。身体という共通の基盤に立って話せるからだ。」

身体という共通の基盤に立っての話ということで言えば、患者会の運動はその最も典型的なものです。血液がんという共通の体験を通して、全く知らないもの同士が、同じ言語で語り合い、悩みや苦しみや生き方への共感を得る事が出来ます。そういった意味での身体を通した連帯や運動は様々な所にあるでしょう。

しかし一方血液がんでない人は家族といえども、患者の苦しみや悩みを理解できないということもまた事実です。身体という共通の基盤があったとしても各人の身体的経験はあまりにも個別的なものであることには違いありません。どこで共通の基盤を見出していけるのでしょうか。

身体的共通基盤となりうるものはあるのでしょうか。それは生と死の問題です。四苦八苦という言葉がありますが、四苦は生老病死であり、それは全ての身体が抱えた逃れられない宿命でしょう。

がんで余命宣告を受け「死」に向き合わざる得ない人、死刑執行を待つ人、そこに心情的違いはなでしょう。我々は死刑廃止運動をするときに、他者の「死」と向き合わざるを得ないのです。そしてそれを耐えられないものとして否定したいと思います。そういった身体的な嫌悪感こそが運動の共通の認識にならなければ本当の連帯も作れないし運動の内容も薄められてしまうでしょう。

 身体的、感性的なものは一般的には個人的、個別的なものになりがちだと考えられています。しかし死刑廃止運動の基盤は死・殺人への嫌悪感を基にしているということでの共通の基盤があると思います。「人の死は、それによって心のあわだちが襲ってくるものだ。」それを感じる感性こそがが運動の基盤になるでしょう。

感情や意志よりも知性、理性の働きに優位を求める主知主義的立場は政治的運動体にとっては極めて一般的でしょう。しかしそれは共同幻想を維持する事になり個々の主体は失われてしまいます。

しかし死刑廃止運動のあり方を考える時、それは単なる政治運動ではないということです。国会での政治的な駆け引きの問題として扱われるものではないということです。そういった場面もありえますが、運動の根の所で死・殺人への嫌悪感という身体的律動を的確に表現しなければなりません。

生身の人間を殺す事に耐えられない感性を共同幻想の中に拡散させてはなりません。そういった感性的基盤を持った死刑廃止運動が必要なのではないでしょうか。

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辺見庸の身体性

12月21日(火)
 辺見庸は講演の中で、パネルディスカッションで3人のパネラーに対しても問われた、何故日本人の80%もの人が死刑に賛成しているかといった質問への、彼の考え方を示している。彼は人間存在における身体性と精神性との関連性に言及していると思う。

共同幻想としての国家による思想的文化的支配は、ある時は強権的にある時は懐柔的にその構成員を従属させようとするものである。共同幻想の世界では、個人は主体として存在することができない。人の精神は、国家や企業や組織といった共同体に所属することで自らの位置を得る。そこに心の安定を見出す。辺見庸の言う「バラスト」を組織への所属、従属の中に求めていく。

 国家や組織の中では言語は上からの命令という形で一方的に与えられる。それは義務とか責任とかいった体裁のいい形で示されるが、実際には強制力を持っている。従わなければ組織から排除される。こういった言語はマスメディアを通じて大多数の意見として喧伝される。「人の声は聞こえるが、自分の声は他人に届かない。」人々は分断され支配される。自らの言葉を失う。

辺見庸はこの支配の構造を断ち切るものとして精神性に対して身体性を対峙する。「肉感的、感性的直感」を人間の行動の基礎に据えるべきだと主張する。「死刑を耐えられないとする感性、死刑を嫌悪する感性」が重要である。

「自分の身体で担保できる言葉」が他者とのコミュニュケーションを可能にし、国家、企業、組織のくび木から解放される道筋を作っていくものである。カントやヘーゲルが感性、悟性、理性という人間意識の発展過程を語っているが、人間存在の根本を感性に置く事によって、絶対的な理性という形で存在する国家からの支配を越える事が出来るのだろう。

 身体性に意味についてフランスの哲学者メルロ=ポンティは『知覚の現象学』の中で次のように語る。「<意識>が世界を経験の意味として構成していく時に、その意味の構成がすでに<身体>というもののあり方と不可欠に結びついている。身体とは、人間が回りの世界とかかわるその仕方を最も底の部分で支えている条件なのである。

身体とは単なる構成されたものではなく生きる上での根本的な要請がそこから発してくるような中心点であり、この身体のあり方が“私の意識”=コギトのあり方の土台になっていると見なされるのである。」

「客観的存在に取り憑かれて自分の経験の展望性を忘れてしまうと、もともとは世界に対する視点であるはずの自分の身体を、客観的世界に属する対象の一つのように見てしまう。しかし、客観的身体の生成は客観の構成の一契機でしかなく、身体は客観的世界から身を退くときに、知覚する主観と知覚される世界を示すのである。」

メルロ=ポンティは身体について客観世界の一構成物でもないし従属物ではない、と語りデカルト的精神と身体の2元論を克服し、経験論と観念論の対立を超えようとした。そのために身体性を復権させたのである。

身体を基礎とする事によって、「知覚する主観と知覚される世界が示される」つまり、自己認識と対象認識が共同幻想のフィルターを通すことなく可能となる。そこには共同幻想の従属から自立したあるがまま自己が立ち現れ、正しい世界認識を獲得していける道がある。

 身体性を意識の基礎にすえる事によって「生きる上での根本的な要請」に従う事になる。つまり生こそが身体性に基礎である、それは死を忌避する。身体性を土台にした考え方から言えば、自己の死や他者の死は否定的なものでしかない。

「“生きたい、赦してくれ”と泣き叫ぶ死刑囚の首に縄を掛けることなど、耐えられない。人の心の中の優しさは、殺人現場を見ていられないように死刑執行も我慢できない。」こういった感性の原初的な衝動は身体性に根ざしたものである。この感性から自分の身体で担保できる言葉が生まれ、他人への回路を作り出していけるのである。そういった観点から辺見庸の講演内容を読み解く事が出来るのではないかと思う。

(参考資料:『知覚の現象学』みすず書房、『現代思想入門』ジック出版局、山竹伸二の心理学サイト)

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

「死刑のない社会へ 地球が決めて20年」日比谷公会堂大集会

12月19日(日)
日比谷公会堂大集会
12月19日14時30分より、死刑廃止国際条約の批准を求めるFORUM90主催の集会が「死刑のない社会へ 地球が決めて20年」と題して日比谷公会堂で行われた。(死刑廃止国際条約 第1条1項=この議定書の締約国の管轄内にある者は、何人も死刑を執行されない-1989年採択、1991年発効)

1990年日比谷公会堂で1500名を集めてフォーラム90の結成集会が行なわれてから20年が経過した。改めて死刑廃止運動を見直そうということで、大集会を企画し、日比谷公会堂を埋めるべく準備を進めてきた。結集は1850名という結成時を上回る数であった。集会の内容は以下の通りである。

集会内容

講演: 辺見 庸「国家と人間のからだ―私が死刑をこばむ理由」

ひとくちアピール:
車亨根(韓国死刑廃止運動協議会会長)、死刑廃止連絡会みやぎ、死刑を止めよう宗教者連絡会、日方ヒロコ(木村修治さんの義姉)、原田正冶(オーシャンの会・犯罪被害者の会)、大道寺ちはる(大道寺将司の義妹)、死刑廃止大阪合宿実行委、広島で死刑廃止運動を行なっている牧師、袴田季子(袴田巌の姉)、菊田幸一、死刑廃止フォーラムin名古屋

コンサート: 上々颱風
講談: 神田香織(講談師)「シルエットロマンスを聞きながら~和歌山カレー事件」
メッセージ紹介: 団藤重光、佐藤恵、イーデス・ハンソン

ひとくちアピール続き:
雪冤を果たした人々-免田栄(冤罪死刑囚・再審無罪)、赤堀政夫(冤罪死刑囚・再審無罪)、菅家利和(足利事件・冤罪被害者)
韓国から-李永雨、高貞元、朴・ビョウンシク
死刑廃止を推進する議員連盟、日本弁護士連合会、EUから(駐日英国公使)

パネル・ディスカッション:
「死刑廃止のカウントダウンにむけて」司会・安田好弘
パネラー・森達也、中山千夏、加賀乙彦

集会全体の報告は、フォーラム90ニュースを参照してもらう事にして、辺見庸の講演内容を報告することにしたい。この講演内容をテープ起こしして報告記事がフォーラム90ニュースに載るのには2、3ケ月後になるだろうからそれまでのつなぎとして読んでもらいたい。

講演 辺見庸「国家と人間のからだ―私が死刑をこばむ理由」

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1、心のバラスト
最近ある言葉に取り付かれている。「バラスト」という言葉だ。船は二重底になっていて、安定させるために船底に重り積んでおく。その重りの事を「バラスト」という。人は、何らかの方法で精神を安定させる。だがその安定させるもの「バラスト」を覗いたことがあるのだろうか。ある者は神であり、仏であるのだろう。夜の海を漂う自分の「バラスト」は何なんだろうか。

シベリヤに抑留され、クリスチャンである詩人石原吉郎が「今人の声は聞こえるが、自分の声は他人に届かない。言葉に見捨てられてしまったのだ」と言っている。言葉に見捨てられる過程とは、他者に関心を失っていく時代の中で、世の中での自分を失う過程でもある。我々の心を安定させる重しとは何か。虚無なのか、無関心なのか。その中には無意識の天皇制やファシズムも含まれているかもしれない。

2、千葉景子元法務大臣による死刑執行

死刑執行され20年間に84人が殺された。国連総会は昨年12月、まだ死刑を実施している国に対してモラトリアムを呼びかける決議を採択した。日米はこれに反対票を投じた。元法務大臣千葉景子が今年最初の死刑執行を行なった。民主党政権になってから初めてだ。千葉法相がまさか死刑執行命令書にサインするとは思わなかった。見通しの甘さを痛感し、人間観への反省を迫られるものであった。

千葉法相が我々とどう違うバラストを持っていたのか。このことは、彼女個人の問題に止まらず、日本の文化や思想に関係してくる。彼女が何故死刑執行を行なったのか。この事を突き詰めないと、死刑廃止運動の再生はないだろう。

死刑廃止運動の中に無意識の千葉景子が存在しているのではないか。昔、杉浦正健法相が「信念として死刑執行命令書にはサインしない」と話したあとにコメントをとりさげたことに彼女はかみつき、死刑に疑問をもつなら死刑制度廃止の姿勢をつらぬくべきではなかったか、と国会で威勢よくなじったことがある。杉浦氏は発言を撤回しはしたけれど、黙って信念をつらぬき、法務官僚がつよくもとめる死刑執行命令書へのサインをこばみつづけた。

死刑執行が1年間以上途切れさせないよう法務省は千葉景子に激しい圧力をかけただろう。そしてその思惑通り7月28日に死刑が執行された。千葉景子の語っていた死刑廃止という言葉が虚しいから、言葉が人間を見放すのである。

しかし法務省からの圧力だけだったのだろうか。彼女は出世や権威に弱く、おのれのなかの権力とどこまでもせめぎあう、しがない「私」だけの震える魂がなかった。だから、死刑執行命令書へのサインは「法相の職責」という権力による死のドグマと脅しにやすやすとひれふしたのだ。そう見るほかない。政治と国家はどうあっても死を手ばなしはしない。国家や組織とじぶんの同一化こそ人の倒錯の完成である。

3、千葉景子の背信の持つ意味
千葉景子は48年生まれ、学生運動をくぐったのだろう。社会党、社民党で人権問題に取り組んできた。アムネスティ議員連盟や、死刑廃止議員連盟に属し、外国人参政権や夫婦別姓問題に取り組み、右翼から攻撃対象にされていた。2010年2月14日の法務委員会で死刑制度反対を明確に表明していた。あまりに見事な背信といえるだろう。彼女の心の底のバラストを解明しないと死刑廃止運動の前進はないだろう。

死刑反対を裸で、他と分離して論じうるか。マルクスやレーニンは死刑について単独で取り上げて論じていない。エンゲルスが国家は災いであると言っているなど、国家については語っているが死刑については一切言及していない。憲法9条反対で死刑は反対というのは両立しない。石原吉郎は言う「民主主義は人の言葉を拡散させていくだろう」と。自分の声は届かない、届く前に拡散してしまう。人の声ばかり聞こえる。

千葉元法相が死刑執行命令書に署名した。死刑への怒りの感情が摩滅してしまったのだろうか。彼女は死刑に立会い、刑場公開を法務省に約束させ、死刑に関する勉強会を設置し死刑への議論を盛り上がらせるというが、これは思考の倒錯である。7月に執行された2名に対し彼女は残忍な犯罪者と言う。今までどういった考えで死刑廃止を語っていたのだろう。心の「すさみ」を垣間見る気がする。

しかし背信は彼女の例外的な行為なのだろうか。言葉を裏切ったがために、言葉に見捨てられた。我々の中の「すさみ」はないのだろうか。権力と自分を二重化して生身の人間を殺すことに耐えられる感性を培って来た。これこそが群集の心理ではないか。

4、死刑を嫌悪する感性

人間の生身の肉感的、感性的直感から言えば、「生きたい、赦してくれ」と泣き叫ぶ死刑囚の首に縄を掛けることなど、耐えられない。人の心の中の優しさは、殺人現場を見ていられないように死刑執行も我慢できない。死刑を耐えられないとする感性、死刑を嫌悪する感性が重要である。

マスコミは法務省の広報機関として、死刑に関して情動のきっかけを与えないよう、無機質の報道を行う。7月28日千葉景子は死刑執行に立ち会った。彼女は何を見たのか。一人は車椅子で連れてこられた。獄中生活で歩行困難になった死刑囚を刑場に引きずり出し、両脇を2人の刑務官が抱え、首にロープを巻くといった風景のリアリティに耐えられる神経、感性とは何か。この日の見えない「バラスト」とは何か。黙って見ていられる風景なのか。

以前75歳の死刑囚が処刑された。房内でも寝たきりだった。立つこともできない死刑囚を殺して行く。クリスマスの日に4人が絞死刑になった。クリスマスに特別の意味がある訳ではないが、何故この日に執行するのか。マスコミはこういった情景へのリアリティを消し去ろうとする。

どのような大儀名文があろうが感情が死刑という事に耐えられるのか。どうやって死を見つめるのか。国家と政治に同化し、自らを二重化し、自らの感性を倒錯させていく。この裏切りという暗いバラストは、どこから生じたのだろうか。これは日本の死刑廃止運動、左翼の運動と無縁ではない。

5、国家と個人

一個人は幻想としての国家に対していかにして自らの「バラスト」を抱いていくのか。底なしの虚無しかないのか。石原吉郎は言う「他者への一筋の言葉は存在する。それは自らの身体で担保できる言葉である。」各人のバラストに向って語りかける言葉であり、それによって言葉を生き返らせることが出来る。

人は国家や組織という幻想と、生身の自己を二重化することによって、戦争や死刑について、何の痛みもなく容認していく。学生運動で内ゲバという形で味方を殺してきた。組織という名の下に無慈悲になれた。新左翼運動はその事を本質的に総括していない。

マスコミの倫理はどこにあるのか。この国のバラストの卑劣さは、沖縄を平気で米国に売り渡す事に見られる。国家の名の下に、自らのバラストをそこに同化し、身体的言語から決別する。言葉が何も守らない。

憲法9条2項の「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。」日本の防衛予算、自衛隊の現状を見ればこの言葉がどんどん意味を失っていく。そして誰もがそれを知っていながら国家のバラストとして容認していく。

かって奴隷制度、麻薬、死刑は人類史の中で容認され維持継続されてきた。しかし奴隷制度や麻薬は否定された。EUでは死刑が廃止されている。死刑廃止がEU加盟の条件だと聞いた。EUでは難民や貧困者への苛酷な政策を行なっているところもあるが、死刑は過去の恥ずかしい犯罪として否定さている。日本はヨーロッパの真似をして成長してきた。しかし死刑だけは別なのだ。

我々は自らの心のバラストを覗いて見なければならない。自分の身体で担保できる言葉で、言葉に見捨てられ、倫理を失ってしまったこの国の中で、他者に語りかけていかなければならない。

6、デュー・プロセスの崩壊

「何人も、法律の定める手続きによらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」とする憲法第31条がデュー・プロセス・オブ・ローの原則を示している。しかし実際には多くの冤罪の発生、検察の証拠捏造、司法の検察への迎合など、デュー・プロセスは崩壊している。

メディアは国家権力に立ち位置を取っている。メディアこそが冤罪を作っている。逮捕段階で犯人報道が大々的に流布される。冤罪だと裁判で分っても自らが犯人報道をし冤罪に加担したことへの反省は全くない。個がないから反省しない。

7、死刑廃止運動の新たな出発を

人の死は、それによって心のあわだちが襲ってくるものだ。メディアの発する死刑のニュースは、リアリティを薄めて死への想像力をかきたてないように粉飾する。死体の記憶を忘却させる。

死刑とは内面的不自由の象徴である。死刑と我々の関係は一つの黙契といえる。死刑がある限り個人としては自由ではありえない。

2010.12.19、今日を死刑を二度と見ない日の出発点にしたい。二度と千葉景子を生み出さない。我々の中の無意識の黙契を断ち切り、死刑のモラトリアムの開始日としたい。

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村上龍 『ライン』

12月19日(日)
ライン2_convert_20101218203440 この小説は20の短編から構成されていると言えるだろう。小説に登場する18人は、全体的にはそれぞれ関係ないが、Vol.1の人物とVol.2の人物は関係あるが、Vol.1とVol.3の人物は全く関係がないといった鎖のようなつながりである。それが一つのラインとして現代社会に張り巡らされている。

全く無関係なバラバラな人間が登場する中で、一人ユウコというラインを流れる信号を読むことが出来る少女が通奏低音のように小説の中に現れる。小説は1章ずつ表題とずれて進行する。順子の章に向井の事が書かれ、ゆかりの章に順子の事が書かれている。章の最後にゆかりが登場し次の高山の章で展開される。

この小説について、村上龍はあとがきで次のように書いている。
「・・・精神的な空洞は、いまやごくあたりまえのものとしてあらゆる社会的階層に見られるものである。近代化を終えた現代を被う寂しさは有史以来初めてのもので、今までの言葉と文脈では表現できないのだ。どこかに閉じ込められているような閉塞感と社会と自分を切り裂きたいという切実な思いが交錯し空回りしている。・・・文学は想像力を駆使し、物語の構造を借りて、彼らの言葉を翻訳する。」(幻冬舎単行本 P208)

18人の登場人物は様々な社会階層に属している。それぞれ異なった表現形態を取りながらも、現代社会の真只中で、閉塞感、孤独感、精神的空洞を抱えながら生きている、作者はその表出を丁寧になぞりながら、そこに現れる行動や言葉を我々に提供している。各人の持つ心の病は、現代社会を写す鏡として、我々の置かれた状況の真実を一層鮮やかに浮き彫りにしていく。

18人の状況と心の状況を示す言葉をかなり要約する形で引用してみた。幼少期の家族関係、親の暴力、母親からの愛情の欠如、学校でのいじめ、学校の強権的支配、若年期の非行、青年期の挫折、職場での圧力、リストラなどが扱われている。これら現代社会の根底的な問題を抱える者たちが登場し、そのことが彼らの精神に重大な影響を与えている。

Vol.1 向井・・・写真関係の会社勤めのサラリーマン。資産家の長女で有名人との不倫亜関係にあると噂されている女性と結婚していたが離婚を切り出され別居中である。「感情をからだの内部に閉じ込める。それを子どもの頃から続けていると、表に出そうとしても、そのための回路がわからなくてできない。」(P19) ユウコの話を順子から聞く。

Vol.2 順子・・・向井がSMクラブから呼んだ女。小さい頃から継母に血を出すまで殴られていた。「昔から順子は思ったことを相手に言うべきかどうか異常なくらい考えるところがあった。・・・他人と話をするのが次第に面倒になっていき、やがて恐くなってきた。」(p30)

VoL.3 ゆかり・・・順子と同じSMクラブに所属している。トルエンと万引きで補導された。その後男の所を渡り歩く。母親がいつも父親に殴られていた。「ゆかりは、寂しくないという状況と無縁に生きてきたため、寂しいという概念を理解できない。」(p43)

Vol.4 高山・・・デザイン会社勤務。リストラの対象。ゆかりを襲う。「限度を超えた怒りが起きると、誰かの顔を壊したいという衝動が生まれるようになり・・・全く関係ない人間を通り魔的に襲った。」(P50)
「石が歯に強く当たって火花が出た。歯が折れる音。この女のびっくりした顔と、何かとんでもないことが起こってのに自分もまわりも何一つ変わっていないという奇妙な感じ。目と鼻に石を叩きつけた。」(P53)

Vol.5 小出・・・タクシー運転手。「小出の場合非現実の前兆と象徴は、日常的な時間や空間が切断されるというイメージではなく、自分を含めた動物のからだの一部や器官が突然伸縮を始めるというものだ。」(P62)精神科医が話したユウコの事を客に話す。

Vol.6 康子・・・中学の頃から家出を繰り返し、16歳になって京都に行き、色々な男と同棲した。クラブで働いている。「康子は、若くて貧乏で気の弱いブスな女の子を拾ってきては捨てることで、自分の不運を背負わせる事が出来ると信じていた。飽きるまで飼って、その後は放り出す。」(P71)

Vol.7 明美・・・康子に拾われて捨てられた女。「主に男だったが、よく殴られた。父親もよく明美を殴った。・・・ずっと人から殴られてきた人間は、目がうつろになるのだと言われた事がある。明美は自分の目がうつろだということを知らない。」(P76)

Vol.8 薫・・・喫茶店でアルバイトをしながら8ミリ映画を作っている。IQ170で自信過剰だったが、それが否定され拒食症になる。映像で瞬間の美を追求している。「自分が知らないことを当然知っているものとして話されたりすると、目の前が真っ暗になって、死にそうになってしまう。」(P85)

Vol.9 則子
・・・短大を出て10年以上大手町にある銀行に勤めている。幻聴から始まり、いわれのない苦痛に苦しめられる。「私には理由のない、苦痛があって、入り口だけの世界はその苦痛からは逆に自由になれるんです。」(P101)精神病院でユウコと知り合う。

VoL.10 ユウコ・・・電気のない部屋に住んでいる。ケーブルを流れる電気の信号が見えたり聞こえたりするからだ。両親は非常に若く、養育能力がないということでユウコは施設に引き取られ、2歳になった時に裕福なおじさんにもらわれた。病院とアパートの部屋を往復して暮らしている。

Vol.11 幸司・・・おじさんがユウコのために雇ったボディカード。ユウコの下の部屋に住んでいて何かあると部屋に駆けつける。母親が暮らし始めた男から何度も殴られた。「幸司はそうやって暴力でしか解決できない事がこの世の中にはある事を学んだ。」(P115)

Vol.12 フミ・・・母親が連れてきた男の連れ子。幸司の義妹。歌舞伎町のランジェリーパブで働いている。幸司の母親から熱湯をかけられるなどの虐待を受けていた。味覚が全くない。「内臓のどこかに眠っている記憶が襲ってくる。換気扇を常に回しているが、ときどきふいに部屋に漂ってくるあの街の魚のにおいを消すことはもちろんできない。」(P129)

Vol.13 敏彦・・・ヨシキと同棲しヨシキに暴行を繰り返す。「母親は消えては現れる、喪失感と安堵感が交互に繰り返されるうちに外の世界は自分の関与できない所で既に重要な決定がなされていると思うようになった。」(P138)
「中指の骨を少し突き出すようにしてこぶしを作り目にうまく当たると眼球という柔らかい期間がつぶれる官職が良く分って気持ちよかった。それ以降敏彦は目を殴ることで興奮するようになった。」(P134)

Vol.14 ヨシキ・・・敏彦と同棲している看護師。父親は酔うとヨシキを殴った。母親も殴られた。姉が自殺した。深夜のコンビニでキャベツを持った若い男に声をかけられる。
「むかついているんだったら今からウサギを殺しに行くから見にこない。小学校のウサギ小屋の鍵を壊してウサギをキャベツで校庭におびき出し、連れてきているフックステリアに襲わせる。ウサギの骨をあいつが噛み砕く音がミュージックなんだ。」(P148)

Vol.15 園田
・・・コンビニの店員、ボクシングジムに通っている。「高校2年の夏休みに登校拒否を実行したが、あのまま学校に行っていれば死んでいたと思う。公立の受験校で規則と罰と暴力の収容所だった。」(P158)

Vol.16 美奈子・・・エリートのキャリアウーマンである美奈子は、ストカーだった男と同棲を始めたがその男が他に女を作ったり、美奈子が妊娠すると男は絶対産めと迫る。美奈子は男を殺し、身体をバラバラに切断し死体を捨てに行く。
「母親は精神的に不安定な人だった。中学の頃から自分は母親の人形ではないかと悩むようになった。過食が始まり母親は太るとバレーができなくなると小九時制限をし、摂食障害の子どもを集めた施設に入れた。」

Vol.17 チハル・・・女子高校を退学になり、援助交際を行なっている。スピードの常習者で1度摂り始めると丸3日は眠らない。眠れない時の儀式を電話にした。毎朝それぞれの別の区や町に行って48時間から72時間、その一帯の公衆電話を回る。

Vol.18 杉野・・・技術開発から営業に回されたリストラの対象。希望退職者募集に応じ中堅音響機器メーカーを半年前に辞めた。条件闘争をしていた組合は希望退職の杉野を裏切り者だと決め付けた。杉野は大学時代からずっと一緒だった親しい友人をそれで失った。
退職後、神経が削られていくような喪失感を味わうようになっていた。それ以降杉野は友人が彼を破滅させるために付きまとっている、アパートが見張られている、監視を受けている、食べ物に毒を入れられるかもしれないという被害妄想に付きまとわれるようになる。

Vol・19 ユウコ2、Vol・20 他人
・・・ユウコは夜明け前の時間に散歩に出る。早朝だとほとんどの家の窓が閉まっていて、不愉快なラインを流れる電子音が遮断されている。
建売住宅の犬小屋に首に犬の鎖をつけた男が住んでいる。「埼玉で家族と暮らしている時はいつも寂しさを感じていた。今のおれが、本当のおれだと思う。おれとしてフィットしているんだ。」(P203)
息子から暴力を受けている父親から息子と話してくれと頼まれる。散歩で出会う様々な他人、ユウコは言う。
「人間は他人によって自分を確認している、もしそれが正しいのだったら、わたしには他人というものがいない。」(P207)

現代人が他者との関係を作ることの困難さは、コミュニケーションの難しさに起因しているのではないか。ヨシキは「自分は殴られる事で父親への愛情を全部消費することができたのではないか、殴るのも殴られるのもコミュニケーションの一つでコミュニケーションはとりあえず消費されなければいけないのではないか」と述懐する。

また息子の暴力に対して父親は語る「あいつはわたしに何にも言ってくれない。でもあいつがわたしを殴るのは一つのコミュニケーションだと思ったから、私への信号だと思ったから堪えてきたわけで。」

他者と関わりが希薄になり、それを結びつける手段としてのコミュニケーションが暴力という形でしか存在しないそれが今の社会状況の大きな現象といえるのではないか。この状況をどうしたらいいかの答えはない。作者は状況を提示し、問題提起をしただけである。後はこの矛盾に満ちた世の中をどう生きていくかは読者が個々人考えるほかない。

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北区のさんぽみち-9 王子・十条エリア

12月17日(金)
眼科での蛍光眼底造影検査が15時の予約だった。天気もいいことだし早めに家を出て北区のさんぽみちのコースを回ってみる事にした。家を出たのが12時過ぎだったので手近な「王子・十条エリア」に行く事にした。次のようなコースを巡った。

JR王子駅→音無親水公園→王子神社、関神社、毛塚→王子稲荷の坂→王子稲荷神社→名主の滝公園→地福寺→富士神社→JR東十条駅

王子駅の赤羽方面の先頭で下り、改札口を左に出るとすぐに音無親水公園だ。今年の最後の紅葉を見ることになるのだろう。サクラの葉は全て散っていて、もみじが最後の赤い輝きを放っている。水車や東屋など音無川のせせらぎを背景に作られた公園は王子駅前とは思えない静けさの中で安らぎのひと時を提供してくれる。

音無親水公園

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 水車       

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 石神井川支流音無川                   東屋から

音無親水公園に沿った高台に王子神社ある。以前行った時には王子神社しか眼に入らなかったが、境内に関神社がある。祭神の蝉丸法師は百人一首でも知られ、病で毛が抜けてしまったとき、義姉の坂上(逆髪)姫が自分の髪でかつらを作ったとの伝説から、境内には毛塚があり、「髪の祖神」として理美容業に携わる人々の信仰が厚い。ハゲ・薄毛・毛髪業繁盛のために参拝する。こういった神社の存在は昔の日本人の宗教観を知る上で極めて興味深い。

日本の神は至る所に存在し、菅原道真や二宮尊徳など世の中に功績のあった人は誰でも神になれるというわけだ。そもそも日本人の宗教観は汎神論的傾向が強い。全ての物体や概念・法則が神の顕現であり神性を持つ、あるいは神そのものであるという考え方から言えば誰もが神になれるわけだ。

王子神社

中世に熊野信仰の拠点となった神社である。王子村は古くは岸村といったが、紀州熊野三所若一王子が勧請され、王子村と改められた。非常に高い格式を持つ神社で、最盛期には飛鳥山も支配地としていた。

関神社
関蝉丸神社の御神徳を敬仰する人たちが「かもじ(髪を結う時自分の髪に添え加える毛)業者」を中心として、江戸時代に王子神社境内に奉斎したことを創始としている。理容業界の神様とされる。

毛塚
釈尊が多くの弟子を引き連れて、祇園精舎に入られた時、貧女が自らの髪の毛を切り,油にかえて献じた光が、大突風にも消えることなく煌煌と輝いたという言い伝えから、毛髪を扱う業者によって毛髪報恩と供養のために 昭和36年に建立された。

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 王子神社社殿                       関神社、毛塚

王子神社から5分位で王子稲荷神社に着く。正面に寺院にあるような山門がある。その奥に鳥居があり階段を上ると本殿が目の前にある。山門と鳥居の組み合わせは珍しい。祭礼などの時以外は正面入口は閉じられていて、南側の王子稲荷の坂を上り神社の横から入る事になっている。鬱蒼と木々に覆われ静かな境内は、過ぎ去った古い時代を感じさせるものであった。

王子稲荷神社

関東稲荷総社の格式を持つ。大晦日、稲荷の使いである狐が、近くの榎の下で身なりを整え、この神社に初詣をするという言い伝えがある。年末には地元の方々の催す「王子狐の行列」が新しい風物詩となっている。
また、毎年2月の午の日に開かれる凧市は、たびたび大火にみまわれた江戸庶民たちが 「凧は風を切る」として火事除けの縁起をかつぎ、今なお親しまれている。

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 王子稲荷神社山門                     王子稲荷神社社殿

王子稲荷の坂
王子稲荷神社の南側に沿って西に登る急坂。この道は旧蓮沼村の中山道から分かれて姥ヶ橋(うばがばし)を経由し、現在の十条駅の南端を通り、さらに進んで日光御成道に合流する「王子稲荷道・王子道」であった。

細い王子稲荷の坂がかっては中山道と北本通り(岩槻街道・日光御成街道)をつないでいた道路だとは誰も想像出来ないだろう。今だったら北本通りと本郷通りが交差している王子から本郷通りを進み、十条駅を経由し環七の姥ケ橋交差点を左折すれば中仙道に行き当たる。裏道のような細い道路が、主要な幹線道路であったということを知ると昔の交通事情を想像できる。

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 王子稲荷神社裏参道                   王子稲荷の坂
 
王子稲荷神社の山門から少し行くと古風な門が目に入る。そこが名主の滝公園だ。門を潜るとそこには手入れの行き届いた日本庭園が広がっていた。斜面を巧みに利用して自然の風景を取り入れ、池を中心にした回遊式庭園であって、紅葉が最後の時期を向かえ公園の風景に彩を与えている。王子近辺には滝が多く、かつて「王子七滝」と呼ばれる7つの滝があった。このうち「名主の滝」だけが現存する唯一の滝となっている。

「名主の滝」は男滝を中心とし、女滝、独鈷(どっこ)の滝、湧玉(ゆうぎょく)の滝の4つの滝からなっている。湧玉の滝は残念ながら水が枯れていた。この4つの滝が公園の要所にあり、他の公園と比べて印象深いものにしている。

名主の滝公園
名主の滝は、王子村の名主畑野家が、その屋敷内に滝を開き、茶を栽培して、 一般に人々が利用できる避暑のための施設としたことにはじまる。明治の中頃、畑野家から貿易商である垣内徳三郎の所有となり、氏は好んでいた塩原(栃木県)の景に模して 庭石を入れ、楓を植え、渓流をつくり、奥深い谷のある 趣のある庭園として一般の利用に供した。

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 名主の滝公園入口(薬医門)                公園内の池 

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 女滝                             独鈷の滝

富士神社に向かっている時、途中に寺院があった。地福寺と書かれていた。参道の横に「救らいの寺」という石碑があった。最初はどういう意味か分らなかった。本堂は鉄筋コンクリート造りの会館のような建物で寺院の雰囲気はなかった。裏に回ると母娘遍路像がありその前に70体位様々な石仏が並んでいる。また貞明皇后の彫像があった。彼女は近代皇室によるハンセン病救援事業の草分けとなった人である。ここで「救らい寺」の意味が分った。

地福寺(十条山 真言宗智山派)

岩槻街道沿いにある寺で、門前左には、六体の地蔵尊がある。 一番左の地蔵が、古来から「鎌倉街道の地蔵様」と呼ばれているものである。参道は、かつての王子の名産であったお茶栽培の名残りをとどめる「茶垣の参道」となっている。また、境内には「四国八十八カ所お砂踏み」と「母娘遍路像(救らいの像)」がある。

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 地福寺山門                         地福寺本堂

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 救らいの寺           母娘遍路像(救らいの像)

富士神社

十条冨士塚とも呼ばれている、もともとは古墳であったといわれているが、江戸時代に富士山に直接行けなかった庶民たちが、 塚を富士山に見立て参詣していてた。
塚には富士山の溶岩が配され、実際の富士山と同じように、中腹に小御岳神社の祠がある。 今でも毎年山開きにちなみ、6月30日と7月1日には祭礼が行われる。

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 富士神社入口                       富士塚          富士塚頂上の祠

富士神社は富士塚そのものであって他に神社の建物などはない。塚の頂上に祠がありそれを参拝することになる。都内至る所に富士塚がある。富士講は江戸時代後期には「江戸八百八講、講中八万人」と言われるほどの流行となった。それに応じて富士塚も作られたのだろう。富士塚に着いた時には14時を過ぎていた。病院には14時30分に着かなければならない。15時の検査までに瞳孔拡散の目薬を点眼することになっている。

「王子・十条コース」所要時間の目安は69分となっていた。余裕があると思っていたが、予想より時間がかかった。名所旧跡巡りはそれぞれの場所で、看板を読んだり、雰囲気を味わいながら周辺を回ったりするので結構時間がかかるものだ。ぎりぎり14時30分に病院に到着した。

(参考資料:北区観光ホームページ)

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眼科の検査・蛍光眼底造影検査

12月17日(金)
 眼圧が上昇しその原因を把握するため蛍光眼底造影検査を行う事になった。まず最初に眼圧を測る。26だった。13(12/1)→22(12/8)→33(12/15)→26(12/17)と変遷した。2日間で20代まで戻ったということは眼圧降下点眼薬ミケランが効果を発揮したということだ。

今日の検査は、蛍光剤を眼球に送ることで通常の眼底検査では分りにくい網膜の静脈の状態を把握する。蛍光剤が静脈を流れると、白い線となってくっきりと浮き出て、その状態を知るのに役に立つ。

瞳孔を開くミドリンを両眼に点眼する。こういう機会だから右の方も見ておこうということだ。点滴針を腕に刺し生理食塩水を流す。点滴針は看護師さんが刺してくれた。眼科ではそれが出来るらしい。血液内科でもそうしてもらえれば、医者を待たなくても点滴を開始する事が出来るのにとは思う。結構医者が来るまで待つことがある。

しかしがんの治療薬の場合、間違えると死に至るような薬を扱っているので、点滴針を刺す前に医者が最終的に薬を確認するという役割もある。医者が点滴針を刺すのにはそれなりの理由がある。安全確保のため血液内科では医者が点滴針を刺すのだろう。そう考えると医者を待つことも止むを得ない。

生理食塩水を点滴しながら眼底写真室に行く。右眼の眼底写真を最初に撮る。眼底写真を撮りながら蛍光剤を点滴する。そして連続して写真を撮る。これは蛍光剤がスムーズに静脈を流れているか、血栓がないかを調べるためである。

右眼の血流を把握した後、右眼の左右上下の眼底写真を撮る。次に左眼も同じように撮影する。10分位で撮影は終る。しばらく待って、撮影した画像を分析した結果の治療方針の説明がある。右眼の血流には全く問題はなく血栓を起こしているところはないし、眼底写真でも異常は見当たらない。蛍光造影写真だと、細かい静脈が白い線となって現れ、網膜全体に張り巡らされているのが良く分る。

左眼の写真を見ると、網膜上には静脈が全く見当たらない。視神経が束になっている所が白くなっていてその周りがぼんやりと白くなっている。周りの白いのは網膜上の静脈ではなくその裏の血流が見えているということだ。左眼の網膜上の静脈は全て血栓によって消滅してしまい、まだ新しい静脈は成長してきていない。また新生血管も見当たらなかった。

画像からの診断で、眼圧上昇の原因は新生血管ではないようだ。そういったことで新生血管阻害剤であるアバスチンの使用や、レーザー治療は必要ないということだ。当面眼圧降下点眼薬で対応していこうということになった。

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歩こうあだち 竹ノ塚~西新井コース

12月15日(水)
眼科の治療は11時少し過ぎに終わった。今日は15時30分から西新井にある関原小学校での「いのちの授業」の打ち合わせに行く事になっている。15時に東武線西新井駅でももの木のメンバーと待ち合わせる。空いた4時間をどうやって過ごすか。去年は打ち合わせ前に西新井大師に行った。普段こちら方面に来る機会はない。今回も西新井周辺を散策するのがいいだろう。

足立区観光協会(あだち観光ネット)のホームページには、どこの区にでもあるが、その区の名所旧跡を巡る散策コースを設定している。ホームページの「歩こうあだち」を見ると足立区では20程の散策コースが紹介されている。その中で西新井駅に到着するコースを選んだ。コースは「西新井駅から竹ノ塚駅コースとして紹介されていたがそれを逆コースで巡るわけだ。

あだち観光ネットに掲載されている「歩こうあだち」の「西新井から竹ノ塚編」には次のように説明されていた。「古の時間を感じる街」として「西新井から竹の塚には、古くからの道や家屋敷、古寺社が多く点在する島根町、俳人小林一茶と縁の深い炎天寺がある六月町、古代を物語る遺跡や史跡が点在する伊興町など、歴史と由緒ある町が続いています。」このコースは東武線の線路をはさんでA、B2コースあり今日は日光街道よりのAコースを行く事にした。

東武線竹ノ塚駅→常楽寺→萬福寺→西光院→八幡神社→炎天寺→島根鷲神社→赤羽家長屋門→国土安穏寺→来迎寺→猿仏塚→ギャラクシティ→東武線西新井駅

竹ノ塚駅を下りると、駅前に「光の祭典2010」というアーチがあり、そこからは元渕江公園まで約1.2kmにおよぶ街路樹のイルミネーション「光のケヤキ並木」が続いている。「約60万球のLEDが心おどる光の世界を演出しします。メイン会場の元渕江公園内では、都内の自然木では最大級の20m超×8本のメインツリーがやさしい光で彩られます」と駅のポスターで宣伝していた。

「枯れ木に花を咲かせましょう」ではないが、都内至る所にイルミネーションが輝いている。冬枯れの寒々しい街路を華やかな光で装飾し人々の外出を促進するための商店街の工夫の一つなのだろうか。今では全国イルミネーション・スポットとして紹介されていて12月の観光名所のひとつとなって来ている。

駅前のケヤキ並木の広い通りを日光街道方面に向って歩く。夜でないので元渕江公園まで行っても意味がないので、最初の広い通りを右に曲がり5分ほど行くと萬福寺があり、その裏に常楽寺がある。

常楽寺(観林山 真言宗豊山派)
寛永年間(1624-1643)河内与兵衛によって中興されたと伝えられている。西新井大師総持寺末。本尊は聖観音坐像で江戸中期のものと思われる。他に弘法大師・興教大師・閻魔の坐像・六地蔵、文久2年(1862)の十三仏画等がある。

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 常楽寺山門                         本堂

萬福寺(慈照山大悲院 真言宗豊山派)
文明10年(1478)の板碑墓石があり、草創の古さを知ることができる。明和・寛政のころが中興期であったようである。もと西新井大師総持寺末。本尊は十一面観世音菩薩。幕末ころから寺子屋を開いており、明治9年(1876)には、竹の塚村と島根村の子弟を収容する竹嶋小学校がこの寺に開設された。

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 萬福寺山門                         本堂

常楽寺から2、3分で西光寺に着く。すぐ傍に八幡神社、炎天寺があり、ここから六月町になる。炎天寺の本堂の前には石の蛙の置物があって福蛙と書かれている。「開運招福・福蛙・なでて福授かるべし」と看板に書かれていた。一茶の俳句から来ているのだろう。庭の池の端に一茶の像があり、池の周りには炎天寺や六月町を詠んだ俳句の句碑が建てられている。

周辺の住宅街はどこに行っても同じような風景を作り出しているので、神社や寺院が歴史の痕跡を残し、それを継続して維持している唯一の場所なのだろう。そこに残された建造物や品物、文書を見る事によって周辺の地域が昔はどのような状態だったか知る事が出来る。

西光院(正入山 真言宗豊山派)

源頼朝の在世より起立し、本堂に安置する薬師如来は、千葉家代々の守り本尊。明暦3年(1657年)の振袖火事と呼ばれた大火の折、小伝馬町の牢屋奉行を務めており、120~130人の囚人を一次放免し、焼死を免れたさせたことや『源氏物語』の注釈書70巻を著したことなどが刻まれた石出常軒の碑がある。その他青面金剛庚申塔 、西光院手水鉢が見所。境内にある元禄12年(1699)鋳造の大日如来座像は、高さ1.8mの足立区内最大の金仏。

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 西光院本堂                       大日如来座像           青面金剛庚申塔 

八幡神社
天喜4年(1056)ごろ、源頼義、義家父子によって創建されたといわれる。八幡太郎義家にまつわる神社である。平安時代、奥州征伐に向かった八幡太郎義家はこの地で野武士と戦い、苦戦の末勝利を得た。戦いが六月の炎暑の最中であったことから、村名は六月村、別当寺院は 炎天寺と名づけられた。

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  八幡神社参道                       社殿

炎天寺(幡勝山成就院 真言宗豊山派)

八幡神社の別当寺である。俳句で有名な寺で、小林一茶の句「蝉なくや六月村の炎天寺」「やせ蛙負けるな一茶是にあり」などで知られ、毎年行われる「一茶まつり」には、全国小中学生 俳句大会が開かれている。

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 炎天寺本堂                         一茶像と句碑

炎天寺から10分ばかり歩くと旧日光街道沿いの島根鷲神社に着く。この神社は古代の海岸線とされる所が南にあり島の根の様に出たこの地に祭神が船で到着したことから浮島明神とも呼ばれていたという。神社周辺の島根という地名の由来が、昔はこの地域が海岸線近くにあったということであって、この近くまで海があったということなのだろう。どの位昔のことか分らないがこんな内陸まで海であったとは驚きだ。

鷲神社はかなり広い境内で荘厳な社殿が中心を占めている。屋根は神社特有の形をしていて、出雲大社などに見られる大社造りなのだと思う。様々な神社建築があるが、この屋根の形は古い神社の雰囲気をかもし出している。旧日光街道沿いを進み西新井方面に右に曲がりしばらく行くと赤羽家長屋門がある。

島根鷲神社

大鳥居と堂々たる社殿が印象的な神社である。200年余の歴史を持つ島根神代神楽が伝わり、9月第3日曜の大祭や、11月の酉の市には島根囃子の笛や太鼓に 合わせ神楽殿で奉納される。本殿裏には高さ2mほどの富士塚がある。

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 鷲神社大鳥居と本殿                    富士塚

赤羽家長屋門
文政4年(1821年)以前の建築物で、元島根村名主・通称「金武様」と呼ばれた牛込家の屋敷門といわれている。現在は赤羽氏の所有となっており、民家の長屋門として貴重で、足立区の指定有形民俗文化財になっている。

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赤羽家長屋門の先を左に曲がると国土安穏寺に着く。ここの仁王門がなかなか立派な作りだ。境内には山門からは入れない。仁王門の脇から入るようになっている。本堂の周辺には幾つかの建物がある。浄蓮院、万丈堂、手水舎、甘露灑堂、鐘楼などである。また御手植えの松が本堂の前に植えられている。

本堂から山門に向かう。墓所入口に居眠小僧、掃除小僧の石像がある。どういった意味なのだろうか。山門の前には祖師堂があり、その左には祖師堂重興記念碑の大きな石碑があり、右には「法華経を説くお祖師さま」と書かれた日蓮上人の3m以上はありそうな巨大な彫像が立てられている。これは高村光雲作だという。

国土安穏寺(天下長久山 日蓮宗)
応永17年(1410年)に日蓮ゆかりの日通聖人が開いたと伝える古刹。開基は室町時代後半に足立の領主の一人であった千葉氏一族の千葉満胤と伝えられている。葵の寺紋を許され、朱印を賜るなど、徳川将軍家から厚く信任されていた寺で、旧日光街道に近く、歴代将軍が位牌所や御膳所として立ち寄った。

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 国土安穏寺仁王門                     本堂

そこからは西新井駅に向っていく。途中にあった来迎寺によって、猿払塚をみて、コースの最後ギャラクシティまで辿り着いた。中に入ると、1階の展示ホールでは、小学校の家庭科で作った物が展示されていた。前掛けや座布団などの手芸用品が並べてある。この建物がどういった目的で使われているかを知る事が出来る展示会だった。

来迎寺(照涼山阿弥陀院 真言宗室生寺派)
建久6年(1195)に創建された。当寺は建久6年に創建され、その後江戸時代天和年中、尊宥和尚によって再興されて今日に至る。往時は中本寺・西新井大師総持寺の末寺にして、近来は大和長谷寺の直末であった。

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 来迎寺本堂                         島根古蹟庚申塔

猿仏塚
 
昔、付近の農家に子守をする賢い猿がいた。ある時猿は泣く赤子をあやすつもりで風呂に入れたが、熱湯で赤子を死なせてしまったのである。その日から猿は物も食わずに赤子の墓守を続けて、とうとう死んでしまった。哀れに思った家人や村人が猿を供養するためにつくったのが、この猿仏塚である。塚はいつからか子供の厄除けに参拝されるようになり、子供が病気をすると泥だんごを備えてお願いをし、治るとお礼に米のだんごを供えるのが習わしとなった。

ギャラクシティ

「青少年センター・こども科学館・西新井文化ホール」の複合施設の愛称。こども科学館には、展覧会等が行えるレクホールや研修室、そしてプラネタリウムやコンピュータ・ルームがある。座席数が902席ある西新井文化ホールは、コンサート・演劇等、芸術・文化の活動の場として幅広く利用されている。

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 猿仏塚                            ギャラクシティ

西新井駅東口には14時15分に着いた。遅い昼食をとり、15時の待ち合わせに丁度いい時間だといえる。
(参考資料:さんぽみち総合研究所HP、あだち観光ネット・歩こうあだち)

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眼科の治療・デノシン注射16回目

12月15日(水)
 今日は毎週繰り返されるデノシン硝子体注射をするための通院日だ。先週左眼の眼圧が22(基準値は10~21mmHg)あった。最近はずっと13~14位で問題はなかった。何故急に眼圧が上昇したのか、眼底検査によっても原因ははっきり分らなかった。

眼科医の判断によると「サイトメガロウイルス(CMV)によって網膜の静脈が血栓を起こし失われたが、それを補うため新たに静脈が成長してきている。しかしその静脈が不必要な場所に成長していて、それが房水の出口を塞いでいて眼圧が上がっていったのではないか」ということだった。

先週はともかく一週間様子を見ようということだった。折角CMVが消滅したと考えられ、来週22日の血液検査で、CMVが見つからなかったら、デノシン注射をやめようという段階までいったのに、また別の問題が起こっているようだ。

今日の眼底検査の結果は33と大幅に上昇している。この2、3日眼球に圧迫感を感じる事がたびたびあった。眼圧が上昇していたのだろう。眼科医は眼底検査をして「左網膜中心静脈塞栓症」が原因であると判断した。視野欠損や視力低下の原因はCMVによる網膜への影響だけではなく、血液の過粘稠によって網膜の動脈や静脈が血栓を起こした事も原因となっている。

「蛍光眼底造影検査についての説明」の用紙に眼病の正式名称が書かれていた。「サイトメガロウイルス網脈絡膜炎、左網膜中心静脈塞栓症」ということだ。静脈塞栓症は高血圧による動脈硬化が原因となることが多いが、私の場合原発性マクログロブリン血症による、血液の過粘稠によるものなのかもしれない。しかしIgMが3000位で過粘稠になるものだろうか。7500位のとき眼底検査をしたが網膜の血管に異常はなかった。ともかくも2つの眼病が同時に発症したということなのだ。一方がもう一方を誘発したとも言える。

さらにはっきりさせるためには「蛍光眼底造影」を受けた方がいいということだ。この検査は眼底検査だけでは十分な情報をが得られない場合などに蛍光色素の造影剤を点滴し、網膜・脈絡膜の血管を造影し、診断を確定する検査だということだ。

医者から蛍光眼底造影検査についての説明の用紙と、同意書が渡された。説明の中の必要性についての項目には「この検査により、通常眼底検査では分らないような血管異常や血流異常等多くの情報が得られ、診断や治療方針決定に必要です」と書かれていた。

検査方法としては、瞳孔を開く点眼薬をさし、瞳孔が開いたら点滴で造影剤を投与しながら、経時的に眼底カメラで撮影する。撮影時間は10~15分程度ということだ。

検査結果を見て最終的な治療方針を決めるが、血管新生阻害剤のアバスチンの硝子体注入や、網膜浮腫をできるだけ早く消失させ、新生血管を取り除くためのレーザー光凝固術等が考えられる。ただCMVによって網膜が薄くなっている所があり、その場所にレーザーを使うと破れてしまうことがある。

急激に眼圧が上がってきているので早く蛍光眼底造影検査をして治療方針を決めなけれならない。検査日は2日後、17日になった。眼圧を下げるためミケラン点眼薬が処方された。既にデノシン注射による感染予防と炎症防止のため抗菌剤のクラビットとステロイド剤のリンデロンを1日4回点眼している。これにミケランを朝晩2回点眼する事になる。

網膜中心静脈塞栓症: 網膜の静脈が閉塞する病気です。静脈閉塞が起きた患者さんの80パーセントは、高血圧のある人です。これは、高血圧によって、網膜の血管が痛められること(動脈硬化)が影響しています。

静脈が詰まると、そこまで流れてきた血液の行く手が阻まれ、末梢側(心臓からより遠い方)の静脈から血液があふれ出します。あふれた血液は、網膜の表面にカーテンのように広がる眼底出血となったり、網膜内に閉じ込められ網膜浮腫(網膜の腫れ)を起こします。このときの症状は、眼底出血では出血が広がっている部分の視野が欠ける、網膜浮腫では視力の低下として自覚されます。

静脈閉塞症の合併症として血管新生が起こることがある。閉塞部位から末梢側の毛細血管が破綻し消失すると、そこは無血管野(血管の存在しない部分)となります。無血管野の細胞は、血管の新生を促す物質(サイトカイン)を放出し、それによって新生血管が発生します。新生血管は、硝子体を足掛かりにして伸びてきてます。新生血管の血管壁は、大変もろくて破れやすいために、容易に出血が起こります。(眼と健康シリーズ No5)

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ももの木・釣魚会・忘年会

12月11日(土)
釣魚会というのは、釣り好きなニチさんという人が、自分の釣った魚を皆に食べさせたいということから始まった会である。既に9回目で、季節によってその時期に旬の釣りたての新鮮な魚が食べられる。今回は忘年会をかねて行なわれた。

場所は海老専科飯田橋店だ。この店はチェーン店で去年の忘年会は銀座店で行なった。海老専科の店長がニチさんの釣り仲間で、ニチさんが釣った魚を持ってきて、それを店が中華風に調理してくれる。

交流会に参加した人の中から10人ほど皆で飯田橋まで移動する。店に直行する人も何人かいる。店は駅から5分位歩いた神楽坂との中間地点にある。繁華街から離れているが、店に入ると我々の予約席以外は満席だった。安くておいしというので人気があるそうだ。

今日の釣魚は磐城沖で釣った真鱈、金華山沖でとったマグロ、鹿島沖のヒラメ、イカが中心だった。テーブルには既にニチさんが調理したマグロとヒラメの刺身が並べられている。釣魚会での何よりのご馳走は生マグロを食べられるということだ。生マグロを食べてから、スーパーの冷凍マグロを食べる気がしなくなった。全く味が違うのだ。

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 ヒラメの蒸し煮                     鱈の甘酢あんかけ 海老料理

刺身を一通り味わった頃、海老専科調理の中華料理が運ばれてくる。最初に前菜で、ここに使われているチャーシューとバンバンジーが唯一の肉料理でそれ以外は全て魚料理だった。鱈が様々な調理法で提供される。

鱈の唐揚げチリソース合え、鱈の頭の味噌味の煮つけ、鱈の甘酢あんかけと鱈料理が次々と出される。この店の名にあるように海老料理が二品と、イカの唐揚、ヒラメの蒸し煮が鱈料理の間に挟まる。そして最後に焼飯と杏仁豆腐が出された。

飲み放題だが、料理が有り余るほどあるので、それを平らげるのに忙しくて飲む方がおろそかになる。普段あまり魚料理は食べない。今回は魚づくしを堪能した。鱈という一つの材料を、飽きの来ないように様々にアレンジして調理した料理によって、一つの材料の奥深さを味わう事が出来た。

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ももの木交流会

12月11日(土)
2ケ月一度の定例のももの木交流会が、14時から麹町番町教会の会議室で行われた。今日は交流会の後、釣魚会が忘年会をかねて行なわれる。

交流会での話の中で、中心的な話題は就職問題だった。K君から自分の就職の問題について提起された。彼は再生不良性貧血か骨髄異型性症候群かの判断がつかない病気だった。最初に診断を受けたのが10年前だった。進行が遅かったので経過観察が長い間続いた。大学を出る頃に発病してこともあって、就職に関しては病気を抱え何時治療に入るか分らなかったこともあって正社員として勤める事を諦めてしまっていた。

経過観察が6年続いたが、病状が進行して月一度輸血をするようになった。それを2年間続けたが、結局2年前に同種移植を行なった。GVHDなどの影響や、移植時の大量抗がん剤の投与によって中々体力が回復しなかった。やっとどうにか働ける身体になったので、そろそろ就職について考えるようになったということだ。

新たに就職を探すといってもまず働くということに身体を慣らすことが必要だ。話に加わっていた人が「自分の場合は、最初は1日おきの週3日働くというリハビリ勤務が可能な理解ある職場だった。段々身体を慣らしていって今では全日勤務となっている」という話をした。

正社員で職場復帰する場合とは違いこれから就職する場合、とてもリハビリ勤務など認められるわけはない。正社員でもリハビリ勤務は認められず、全日勤務が可能になってから出社するように言われた人もいる。その人はリハビリ勤務の代わりにボランティア活動をして身体を慣らしている。

ともかく通勤訓練から初めて、最初はパートの仕事を捜して1日2、3時間勤務をして身体を慣らし、全日勤務が可能になった段階で就職活動をするほかない。正社員になった場合どのような労働条件になるか分らない。それをこなせる体力の回復が何よりも必要なのだ。

再発の不安を抱えていることもあって患者にとっての就職活動は精神的にも肉体的にも、社会的にも厳しい問題を抱えている。それでなくても就職難の時代、社会的な偏見も含めて、元がん患者を雇う所は稀だろう。多くの患者は自分の病気を隠して仕事を探したり、就職した会社では病気の事を回りに知らせないし、知られないように気を使わなくてはならない状態にいる。

求職活動をしている人、就職している人、職場で病気の事を同僚が知っている人、誰にも知らせていない人、色々な患者がいる。しかし元がん患者に対して理解のある職場に勤める事ができているのは極々稀な運のいい人といわざるを得ないのが現状である。この状態を変えていくには社会的な支援のシステムが必要となるだろう。

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日枝神社・豊川稲荷

12月11日(土)
定例のももの木交流会が14時から麹町の番町教会の会議室で行なわれる。番町教会の好意で使わせてもらっている。今日は気温が18度まで上がると天気予報で言っていた。外に出ると家にいるよリ暖かい。早めに出て、麹町周辺の名所旧跡巡りをしようと思い立った。日枝神社と豊川稲荷を目的地にして、その周辺に神社仏閣があれば見て回ろうということで出かけた。

南北線溜池山王駅→日枝神社(山王鳥居-山王橋-宝物殿-神門-社殿-稲荷参道-末社)→豊川稲荷(山門-本殿-奥の院-融通稲荷-叶稲荷-三神殿-七福神-霊狐塚)→赤坂不動尊→平河天満宮→有楽町線麹町駅

日枝神社の最寄り駅、南北線の溜池山王駅で下りる。永田町口から外に出ると、目の前に東急キャピトルタワー(地上29階、高さ120m)があり、その隣に山王パークタワー(地上44階194m)ある。向かいには首相官邸がある。パークタワーは、首相官邸に隣接していることもあり当初予定していた規模の縮小を余儀なくされ現在の大きさとなった。また官邸側には極力窓を設置せず尚且つ外が見えないようにするという配慮がなされている。さらに日枝神社の空中権を取得して、容積率の制限の緩和を受けている。

赤坂周辺には次々と高層ビルの建築が進んでいる。青山通り沿いに幾つかの建築中のビルがあった。日枝神社の社殿の裏にはブルデンシャルタワー(38階、158m)が聳え立ち神社の背景を作り上げている。また 赤坂Bizタワーや東京ミッドタウン、六本木ヒルズは既に存在し赤坂の新しい景観を形成している。超高層オフィースビルが中心だが、ブルデンシャルタワーのように上層部の26階以上がタワーレジデンスと呼ばれる高級賃貸マンションになっている所もある。

日枝神社
山王パークタワーを右に曲がって外堀通りに出ると日枝神社の鳥居が見え、長い上り階段が延々と続いている。その階段の横には何とエスカレーターが設置してある。屋根もなく雨ざらしの状態で大丈夫かなと思う。エスカレーターの着いた先は山王茶寮という料亭だ。その入り口にあるイチョウの巨木の黄金色の紅葉が神社の雰囲気を高めているようだった。

そこから宝物殿を経て、神門に至る。神門の真正面に拝殿がある。鮮やかな朱塗りの建物の背後にブルデンシャルタワーの白い建物が青空を切り裂くように建っている。これを無粋というか、現代的雰囲気というか人の好みの問題だろう。

日枝神社・豊川稲荷006_convert_20101211233523  日枝神社・豊川稲荷008_convert_20101211233617
 山王鳥居                           山王橋から赤坂方面

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境内より東急キャピトルタワー、山王パークタワーを臨む   宝物殿          

由緒:日枝神社は武蔵野開拓の祖神・江戸の郷の守護神として江戸氏が山王宮を祀り、さらに文明十年(1478)太田道灌公が江戸の地を相して築城するにあたり、鎮護の神として川越山王社を勧請し、神威赫赫として江戸の町の繁栄の礎を築いた。

やがて天正十八年(1590)徳川家康公が江戸に移封され、江戸城を居城とするに至って「城内鎮守の社」「徳川歴朝の産神」として、又江戸市民からは「江戸郷の総氏神」「江戸の産神」として崇敬された。二代秀忠の時の江戸城大改造の際、城内紅葉山より新たに社地を江戸城外に定め、社殿を新築して遷祀された。(日枝神社公式HP)

日枝神社・豊川稲荷029ed_convert_20101212004216 日枝神社社殿

日枝神社・豊川稲荷012_convert_20101211234110 神門

山王稲荷神社
拝殿の右横から出ると山王稲荷神社がある。この稲荷の大神は古来、生成発展・商売繁昌の守り神として全国に祀られ、ここ永田馬場星が岡の地主神として松平主殿顧忠房の邸内に祀られ、特に火伏せの信仰が篤く、萬治2年(1659)4月本社山王権現が麹町より移遷されるに至り日枝神社境内末社となった。その裏に金網に囲まれた社殿があるが、それが八坂神社か、猿田彦神社なのかはわからないが総称して山王稲荷神社と考えればいいのだろう。

日枝神社からいえば裏階段のようなものなのだか、山王稲荷神社にとっては表参道といえるだろう。そこにはどこまでも真っ赤な鳥居が連なっている。「稲荷参道」の千本鳥居は都内随一ではないかといわれている。迷宮のごとき朱鳥居のトンネルは別の世界に向かう通路のような気分にさせられる。

113_convert_20101213092206.jpg  日枝神社・豊川稲荷017ed_convert_20101212004329
 稲荷参道                          末社・山王稲荷神社

日枝神社・豊川稲荷019_convert_20101211234257  日枝神社・豊川稲荷023_convert_20101211234350
 末社・猿田彦神社                     末社・八坂神社

豊川稲荷(妙厳寺 曹洞宗)
日枝神社を後にし、豊川稲荷に向う。赤坂見附の交差点を渡り、東宮御所に向って坂を上っていく。途中に住居表示の看板があった。豊川稲荷前歩道橋と書かれていたが、その地図の前に書いてあるのは妙厳寺という名前だった。不思議に思って進んで行くと豊川稲荷という看板があった。妙厳寺と豊川稲荷の関係が良く分らなかった。

山門を入ると神社でいうと本殿に当たる建物から読経の声が聞こえてきた。どうもおかしい。入口の看板を読んでみると、豊川稲荷とは神社ではなく曹洞宗の寺院・妙厳寺という。しかし、境内には稲荷神社があり、至る所に狐の置き物がある。稲荷神社と曹洞宗の寺院が渾然一体となって境内に存在しているという不思議な光景である。神社の境内に稲荷神社があるのは良くあるが、寺院に稲荷神社があるのは始めてだ。

由緒:豊川稲荷は昔、順徳天王第三皇子寒巖禅師が最初感得された稲穂を荷い白狐に跨り給う端麗なお姿の豊川ダ枳尼(だきに)真天という霊験あらたかな仏法守護の善神を祀っている。

江戸時代の名奉行で知られた北町奉行の大岡越前守忠相が、領地三河に古くから伝わる円福山妙厳寺の鎮守・ダ枳尼天を深く崇敬し、忠相の子孫が1828年(文政11)に赤坂一ッ木の下屋敷内にダ枳尼天を勧請したのが赤坂豊川稲荷のはじまりである。1887年(明治20)に大岡邸が現在の地に移転するとともに移り、妙厳寺が直轄する東京・赤坂豊川稲荷別院となった。赤坂豊川稲荷は「稲荷」と名が付いていますが神社ではなく、曹洞宗の寺院である。

本殿:本尊は豊川ダ枳尼眞天を祀り、その左右には十六善神、愛染妙王、摩利支天、拝殿には大黒天も祀られている。

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奥の院:女神の宮にふさわしい純白の宮。左右の魚がし講の献灯が魚づくしになっている。

日枝神社・豊川稲荷041_convert_20101212005304

融通稲荷:融通稲荷と申しますのは、財宝を生む尊天様で正しくは南無如意宝生尊天のことである。皆様が真心をこめて信心すると、金銀財宝の融通が叶えられると言い伝えられている。

叶稲荷:叶稲荷尊天は、因縁除けの守護神で霊験あらたか。御神徳は実に広大無辺だ。人生のすべては因縁によって構成されており、禍事災難を取り除いてこそ開運招福が授かる。

三神殿:
宇賀神王(中央)は繁栄を司るといわれ、商売繁昌など多くの人々に信仰されている。太郎稲荷(向右)は健康を守る飛行自在の神使として、徳七郎稲荷(向左)は円満な対人関係をもたらすとされて、さまざまな人々からの信仰を集めている。

霊狐塚:
お役御免となったお狐さんの供養塚。以前は御信者から納められた霊狐がところ狭しと並んでいたが、遷座百年祭を記念して霊狐塚が建立され、現在ではおたき上げ供養をして地下へ納符されている。(「赤坂 豐川稻荷」リーフレットより)

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 山門                             融通稲荷

120.jpg  日枝神社・豊川稲荷039_convert_20101212005030  
 叶稲荷                            三神殿  

日枝神社・豊川稲荷040_convert_20101212005125  日枝神社・豊川稲荷042_edited_convert_20101212005542
 七福神                            霊狐塚

赤坂不動尊(威徳寺 真言宗智山派)

住居表示の看板に歩道橋を渡った所に、「赤坂不動尊」威徳寺と書かれていた。ちょっと寄ってみようと歩道橋を渡ってすぐの所に赤い柱の上に赤坂不動尊という看板があった。この不動尊は400年の歴史を持つかなり由緒のある所だということだ。本堂というものはなく、不動堂がありその脇に不動明王の石像がある。赤坂の繁華街のど真ん中にこういった建物が保存されていることの持つ意味を感じさせる場所であった。

由緒:江戸時代、紀州大納言の祈願寺となり、広く人々に信仰され、栄えた。その威徳から、人々は智剣山威徳寺と呼ぶようになった。江戸の火災や大震災等、幾度の災禍を免れた霊験あらたかなお不動さまである。

日枝神社・豊川稲荷046_edited_convert_20101212005754  日枝神社・豊川稲荷051ed_convert_20101212005846
 赤坂不動尊山門                      不動堂

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 不動明王像               南無大師遍昭金剛

赤坂御門(赤坂見附)跡
そこから赤坂見附の交差点の戻り、麹町に行くには最高裁判所方面に行き、赤坂プリンスホテルの先を左に曲がって真っ直ぐ行けばいい。交差点を赤坂プリンスホテル方面にわたると、赤坂見付跡という柱が立っていて、その横に「史跡・江戸城外堀跡・赤坂御門」と書かれた千代田区教育委員会の看板が置かれていた。昔何度か通っていたが全く史跡などとは気がつかなかった。意識する事によって存在はその姿を表すのだろう。

由緒:赤坂見附は寛永13年(1636)に筑前福岡藩主黒田忠之により、枡形石垣が作られ、同16年(1639)には御門普請奉行の加藤正直、小川安則によって門が完成した。堀からの石垣は高く、当時の技術の高さが分かる。

江戸時代の赤坂御門は、現在の神奈川県の大山に参拝する大山道の重要な地点でもあった。江戸城36の外郭門の一つ。外敵侵入を発見するため「見附」と称され、二つの門を配置した「枡形」の構造であった。(千代田区観光協会HPより)

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 國指定史跡「江戸城外堀跡」

平河天満宮

赤坂プリンスホテルの前の住居表示看板に平河天満宮の名があった。まだ時間があったので寄ってみる事にした。都市センタービルとホテル・ルポールの先を右に曲がり、3,4分行くと平河天満宮の境内が見える。ビル街の中に挟まれている。牛の彫像や石像がかなり並んでいる。何でなのかなと思ったが菅原道真と牛の関係を看板で読んで納得した。

大分前に秩父の神社で「撫で牛」を見たことがるがその時は何で牛がいるのか全く気がつかなった。平河天満宮を後にして、ももの木の交流会の場所である麹町の番町教会に向った。丁度時間は14時少し前だった。

由緒:江戸平河城主太田道灌公が、菅原道真公の霊夢を見て、文明十年城内に天満宮を建立した。その後、徳川家康公が築城のため本社を平河門外に奉遷し、慶長十二年二代将軍秀忠公に依り、現在の地に奉遷され地名を本社に因み平河町と名付けられた。

日枝神社・豊川稲荷055_convert_20101212093655 鳥居は区有形文化財

日枝神社・豊川稲荷060ed_convert_20101212095318 平河天満宮本殿

御祭神菅原道真公は、承和12年乙丑の生まれということもあり、牛が繰返し噛砕き消化することを学問に擬え、大変かわいがられた。天神様の使わしめ(神牛)の耳元でお願いごとを唱えながら、一番気にかかる箇所をやさしく撫でると、撫でた箇所と同じ所にご利益があるといわれている。(千代田区観光協会HPより)

日枝神社・豊川稲荷061_convert_20101212010503  日枝神社・豊川稲荷064_ed_convert_20101212093847
 撫で牛                           区有形民俗文化財・常夜燈 

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

北区のさんぽみち-8 浮間エリア

12月8日(水)
昨日の夜降っていた土砂降りの雨は、朝家を出る時にはやんでいた。病院を出る時には雨に洗われた空はまばゆいばかりの快晴になっていた。今日は眼科と血液内科の診療があったが、スムーズに進行し12時前に病院を出る事ができた。

病院での診療後のいつもの散歩コース・北区のさんぽみちに行く事にした。時間的に余裕があるので一番離れている「浮間エリア」がいいだろう。色々見所がありそうだ。赤羽まで行くことはあるが浮間まで行ったことはないし、これからも行くことはないだろう。

JR 北赤羽駅→浮間の渡船場跡→観音寺→青面金剛庚申→子育て地蔵→水塚の蔵のなごり →かさや地蔵.→北向地蔵→氷川神社.→桜草圃場→浮間公園→JR 浮間舟渡駅

田端から京浜東北線で赤羽まで行って埼京線に乗り換え一駅目の北赤羽で降りる。昼の時間は列車の本数が少ない。埼京線の各駅停車を何と20分近くも待つ事になった。運の悪い事に、各駅停車が出たばかりだった。その後に快速と回送列車が来た事もあって間隔が開いてしまったようだ。

北赤羽の駅は新河岸川の上にある。改札口はホームの先端と最後尾にあって、それぞれ川の両岸に出る。浮間船渡駅方面の改札を出てまず川岸に向う。左手に川を見ながらのどかな昼下がりの道を進む。右側は都営浮間団地群の高層の建物が連なっている。団地は最初の目的地「浮間の渡船場跡」まで500mほど延々と続いている。

浮間の渡船場跡・供養塔群
ここにはかつて、荒川の渡船場があり、対岸の板橋区小豆沢とを結んでいた。浮間は桜草の名所として知られていて、その季節には多くの人が訪れ、臨時の渡船場が設けられたほどだ。 昭和3年に浮間橋ができ、渡船場は姿を消した。

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 浮間渡船場跡の供養塔                 庚申待供養塔        馬頭観音坐像供養塔     

浮間の渡船場跡といっても、かって渡船場があったという事が書かれた北区教育委員会の文化財説明版があるだけだ。そこには供養塔群があり4基の石造物は、向かって右から八十八箇所供養塔、馬頭観音坐像供養塔、庚申待供養塔、水神宮の石祠である。

次の目的地観音寺に向う。浮間中央通を行くと左右に中外製薬の工場と研究所の建物が並んでいて、街の一画を形成している。中外製薬の名前はがん治療をやっていると出てくる。G-CSFのノイトロジンやリツキサンなどを製造販売している。

中外製薬の建物が終った所に観音寺がある。中央に本堂があり、右に客殿と庫裡・鐘楼、左に観音堂・六地蔵・應召の鐘と墓地がある。

観音寺 (無動山妙智院 真言宗智山派・総本山は京都智積院)

観音寺は元和元年(1615年)に創建されたと伝えられている。明治43年の大水害では、本堂が床上浸水したため、たるを二つ並べてその上に本尊をおいて一晩中守ったという話が残っている。

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 観音寺本堂                         戻って来た鐘(應召の鐘)

観音寺の釣鐘には不思議なエピソードがある。戦時中は武器を作るため、釜や銅像などの金属を供出させられ、観音寺の釣鐘も例外ではなかった。しかし、幸いにも鐘はつぶされることなく、約40年を経た昭和58年に、観音寺に帰ってきたというものだ。40年間どこにあったのだろう。よく戻って来たものだと思う。

青面金剛庚申
この庚申塔は寛政11年(1799年)に作られたもので、彫られているのは青面金剛である。頭上に蛇がとぐろを巻き、髪が左右に分かれているという様式は、浮間地区の庚申塔によく見られる。

子育て地蔵

浮間にある三つの地蔵のひとつ。ひとつは観音寺の六地蔵で、ひとつは荒川土手のそばにある「北向き地蔵」、そしてこの「子育て地蔵」である。

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 青面金剛庚申                子育て地蔵

水塚の蔵のなごり

たびたびの洪水に悩まされていた浮間の人は、土を盛り、その上に家を建て増しした。この盛り土を「水塚」と言う。

かさや地蔵
観音寺から氷川神社へ行く途中にあるこの庚申塔は、傘屋(かさや)という屋号を持つ家の前にあることから「傘屋庚申」「傘屋地蔵」と呼ばれている。昔の人は、庚申の日の晩は塔の前に皆で集まり、眠らないように一晩中、いろいろなことを話し合っていた。

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 水塚の蔵のなごり             かさや地蔵
 
北向地蔵

堂の中央にある地蔵菩薩は「疣取(いぼとり)地蔵」「身代地蔵」とも呼ばれている。かつては浮間村の北の入り口に外向きに建てられていたもので、病気や悪霊が村に入れないようにするためだ。またその左右には庚申待供養塔が、その奥には中世につくられた阿弥陀三尊種子の「月待供養板碑」がある。

浮間エリア030_convert_20101208202841 029ed_convert_20101208202605.jpg 浮間エリア031_convert_20101208184138
 北向地蔵                         庚申待供養塔      月待供養板碑

氷川神社

毎年、浮間ヶ原桜草圃場(ほじょう)の開園時には、境内で桜草の即売と休憩所が設けられる。2月には枝垂れ梅が美しく咲き誇る。また、浮間周辺は昔、荒川の氾濫に悩まされていたため、社殿は水塚(みづか)とよばれる盛り土の上にあるのも特徴だ。

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 氷川神社参道                       氷川神社社殿

桜草圃場
赤羽から浮間橋を渡ったところの一帯は、浮間ヶ原と呼ばれ、桜草の群生地として広く知られていた。田山花袋の『一日の行楽』、永井荷風の『葛飾土産』にも浮間ヶ原の桜草について書かれている。

桜草圃場は高い金網に囲まれて4月の一時期一般公開される時以外は入ることは出来ない。ここは浮間公園に隣接している。

浮間公園 
昭和60年に開通したJR埼京線の浮間舟渡駅前の水と緑の広がる公園、それが浮間公園だ。この公園は、面積の約40%が浮間ヶ池である。浮間ヶ池はかつての荒川の水流だった。

公園は荒川と埼京線の間に浮間ケ池を中心にしたかなり広い公園である。池の周りの遊歩道はジョギングやウォーキングに最適だ。この公園は釣りができるという珍しい都立公園である。約4haの池には、ヘラブナやコイなどが生息し、釣りファンには格好のスポットとなっている。何人かの釣り人が池の淵で釣り糸をたらしていた。

公園の一画が金網に囲まれ人の出入りが出来ないようになっている。そこはバードサンクチュアリになっていてオオヨシキリやコジュケイ等の野鳥の鳴き声が聞かれる。バードウオッチングのため、双眼鏡を持った人や、望遠レンズ付きのカメラを構えた人が何人か池の淵に集まっていった。

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 荒川土手より川口方面                  バードサンクチャリ方面

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 公園入口から浮間ケ池全景               浮間船渡駅方面  

公園の中央付近に浮間公園のシンボルである大きな風車が回っている。それは芝生の広場の中にあって牧歌的な風景にマッチした情景を作り上げている。浮間舟渡駅前のタワーマンション・アイタワー(30階建・107m)が、公園の景観に新たなイメージを与えているのは確かだろう。

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 浮間公園の風車              風車とアイ・タワー      

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

定期検診の日

12月8日(水)
今日の最大の関心事は、もちろんいつでも同じと言えば同じなのだが、レナリドミド(レブラミド)が奏効し続けているかどうかだ。一回限りの減少ではなく、コンスタントに効果を発揮してもらわないと意味がない。次の治療法が考えつかない状態なので、この薬がなんとしても効いてもらわないと打つ手がない。

検査結果
 IgM   3473(12/8)←3178(11/24)←3795(11/10)←3300(10/27) 
 IgG    538←539←613←603
 白血球  2200←2000←2400←2000
 好中球  500←520←700←740
 血小板  7.4←6.1←8.9←8.0
 赤血球  327←316←317←292←293
 ヘモグロビン 10.4←10.2←10.4←10.0
 網赤血球  5←7←7←12
 CRP   0.06←0.05←0.07←0.61


IgMが300上昇した。600下がったと思ったら今度は上がった。全く効いていないわけではないが、薬の効果についてどう判断したらいいか。好中球が500と厳しい数字になっている。レナリドミドを増やすわけににもいかないし、サイトメガロウイルス網膜炎との関係でデキサメタゾンとの併用も出来ない。

レナリドミドの服用に関して、医者によって色々な意見がある。標準治療としては5錠(25mg)を21日間服用し、7日間休薬することになっている。しかし休薬することによって効果があったものが元に戻ってしまうのではないかということで、3錠ないし4錠を途切れなく服用する方がいいという医者もいる。まだ充分なデ-ターが揃っていないが、休薬なしの方法を取る医者もかなりいるということだ。

しかしどのような服用の仕方があろうとも、骨髄抑制が強い現状では薬を増やすわけにはいかない。結局1日3錠(15mg)を1週間服用し1週間休薬するという方法をとるほかなかった。2週間連続して服用しても今回IgMは上昇した。1週間しか服用しなければどうしても効果は減少するだろう。2週間後の検査でどうなるかかなり不安な要素を抱えることになる。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

東京ミッドタウン

12月5日(日)
国立新美術館でのゴッホ展を見た後、昼食をとるため、東京ミッドタウンに行ってみる事にした。この建物の前は何度か通ったことはあるが中に入ったことはない。東京ミッドタウンは、広い公園を周辺に配置したミッドタウンタワーを中心する6つの建物からなる複合都市となっている。街にはさまざまなショップやレストラン、オフィス、ホテル、美術館などの施設が集まっている。

最初にガレリア(Galleria)という建物に入った。ここは、この建物は4層吹き抜けの大空間となっていて、クリスマスの飾り付けが天井から広がっている。高級ブランドのショップが揃っていて、東京ミッドタウンのメインショッピングエリアとなっている。

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 ガレリアの吹き抜けの装飾

ガレリア内の「ガーデンテラス」という公園よりのエリアが各階とも飲食街となっている。緑を眺めながら食事ができるというわけだ。都内の名店が出店しているようだ。ランチの時間で、ランチメニューなどがあったが、それでもかなり値が張る。

東京ミッドタウンのコンセプトとして「都心生活に上質な日常を提供します」と書かれているが、それを享受するにはかなりの財力が必要だということだ。行列を作っている店もある。空いていそうな店に入ろうとすると予約が必要だと言われた。結局ガレリアでの食事は諦めて、隣のプラザに向った。

ガレリアの隣のプラザ(Plaza)は、地下1階だがガラス天井なので開放感はある。カフェや洋菓子屋など、個性的なショップが並んでいる。飲食店もファーストフード系の雰囲気で比較的安い。中央に広場があり、憩いの空間としても利用できる。手ごろな店を見つけてやっと食事にありつけた感じだ。

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 プラザの上の広場                     ミッドタウンタワー 

食事の後、ミッドタウンを取り巻く公園を散歩した。サクラの紅葉した葉は既に散っていたが、木にしっかりとイルミネーションが取り付けられている。枯れてしまった木は、夜電飾の光で輝くことになる。

公園は外苑東通りの入り口から檜町公園に至るまで、「高原の湧水ゾーン」「山のせせらぎゾーン」「森のエッジゾーン」「芝生広場ゾーン」に分けられていて、それぞれ植栽や水流に変化を与え、異なった雰囲気を作り上げている。

芝生広場には芝はなく、一面発光ダイオードの電球が敷き詰められている。夜になると光の模様が描き出され、ガーデンテラスで食事をする人や、ミッドタウンタワーにあるホテル・リッツ・カールトンの宿泊客の目を楽しませるのだろう。

東京ミッドタウン010ed_convert_20101206214708  東京ミッドタウン012_convert_20101206214806
 「フラグメントNo5」 フロリアン・クラール        日本庭園のせせらぎ 

芝生広場から東側に進むと、西洋式庭園からがらりと趣を変えた日本庭園に入っていく。ここは港区立檜町公園となっている。解説には「その昔、檜が多いことから“檜屋敷”と異名をとった萩藩・毛利家の麻布下屋敷の庭園跡です。その広大な庭は“清水亭”と呼ばれ、江戸の町並みを一望できる名園として名を馳せました。」と書いてある。

中央に池がある回遊式泉水庭園である。所々に紅葉した木々が池にその姿を映し趣を添えている。滝やせせらぎを配し、池の端には池の鑑賞用に作られたものなのか東屋風の建物がある。高層ビルに囲まれた中の日本庭園はかえってその存在価値を増しているように思える。

東京ミッドタウン017ed_convert_20101206222423  東京ミッドタウン019_convert_20101206215001
 檜町公園の日本庭園

東京ミッドタウンを後にして、同じ道を乃木坂方面に戻るのは面白くないので、赤坂駅で千代田線に乗ろうと赤坂サカスに向かう。着いたのが16時だったし、特にイベントをやっていたわけではないので赤坂サカスは閑散としていた。

ところが信号を渡り、赤坂Bizタワーの前まで来るとすごい人混みだった。ここは地上39階建てでB1から3階までがグルメ&ショッピングエリアとなっている。建物の周りにはクリスマス・イルミネーションがきらびやかな光を放っている。日が落ちてくれば光は輝きを増すだろう。このビルの地下は赤坂駅の改札口に接している。

東京ミッドタウン023ed_convert_20101206215508  iiii_convert_20101207002257.jpg
 赤坂Bizタワー入口                    Bizタワーと隣の建物の間に渡されたイルミネーション

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

没後120年・ゴッホ展

12月5日(日)
国立新美術館で開催されているゴッホ展に出かけた。ゴッホの作品を一堂に会して見る事が出来る機会はめったにない。今年はフィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)が没して120年目にあたるということで、オランダのファン・ゴッホ美術館とクレラー=ミュラー美術館という2大コレクションの全面協力のもと今回の展覧会は実現した。

main_new_convert_20101206105854.jpg 「灰色のフェルト帽の自画像」(1887、油彩)

ゴッホの油彩35点、版画・素描約30点と、オランダ時代のゴッホに絵画表現技法の基礎を手ほどきしたハーグ派のモーヴや、芸術の都パリ時代に出会ったモネ、ロートレック、ゴーギャン、スーラなどの油彩画約30点、その他関連資料約120点を展示している。

興味深いのは、今回の企画の内容「こうして私はゴッホになった」にあるように、ファン・ゴッホ芸術がいかにして作られたのかの過程を追いながら鑑賞できるということである。「ゴッホ芸術の誕生の謎に迫る」というものだ。

そのためにゴッホの代表作に加え、ゴッホに影響を与えた画家たちの作品、ゴッホ自身が収集した浮世絵などを展示し、「ゴッホがいかにして『ゴッホ』になったか」を明らかにしていく。

絵の展示はゴッホの成長に合わせて6つの時期に分け、その時期に影響を受けた画家の絵を配しながら、どのよう様な影響を受けたかが視覚的に分るように展示されている。

「ゴッホ東京展ホームページ」から、ゴッホ展の内容をかいつまんで紹介する。
Ⅰ、最初期の影響
ファン・ゴッホは、若い頃からバルビゾン派、フランスの写実主義、オランダのハーグ派といった巨匠たちの作品に親しんでおり、彼らの作品をもとに初期オランダ時代の絵画は構成されています。同じようなモティーフを取り上げるだけでなく、色調や筆遣いなどの点でも彼らの作品に影響を受けており、戸外での制作も彼は行なっています。

Ⅱ、若き芸術家の誕生

ファン・ゴッホは巨匠たちの版画や素描を模写することで腕を磨きました。一方で画家アントン・モーヴの教えを一時期受け、油彩と素描について多くの事を学んでいます。素描の重要性を強く意識していた彼は、多くの時間を素描の訓練、特に人物の素描に費やした。

Ⅲ、色彩理論と人体の研究、ニューネン

1883年暮れにニューネンに移住した頃にはファン・ゴッホの素描力は格段に進歩し、彼の関心は次第に油彩へと移行していきました。翌年の春になるとドラクロワの色彩理論を学び、それを利用して農婦の頭部や静物を描くようになります。

Ⅳ、パリのモダニズム

1886年3月にパリに移ったファン・ゴッホは、コルモンのアトリエで絵画の基本を再度学び、モネやピサロなど、当時の前衛であった印象派の研究にも進み、さらにモンティセリの筆遣いに大きな影響を受けました。印象派の画家の点描風のタッチを用いたり、薄く溶いた油絵具を使って素描のように見える作品を描くなど、実験的な試みを繰り返しながら次第に独自の様式を確立していきます。

Ⅴ、真のモダン・アーティストの誕生、アルル

1888年2月にアルルに移ったファン・ゴッホは、この南仏の町で、あの誰もがファン・ゴッホと認める独自の様式に遂に到達します。パリで出会った印象派など前衛の様式と、日本の浮世絵から学んだ平坦で強烈な色彩や大胆な構図が、このアルルで見事に結実します。ゴーギャンとの関係が、この章のひとつの柱となります。

03.jpg 「アルルの寝室」(1888、油彩)

Ⅵ、更なる探求と様式の展開、サン=レミとオーヴェール=シュル=オワーズ

色彩や筆遣いなど、技法の点から言えば、この時代に新たな作品の展開は見られません。アルルで確立した様式を、いくぶん調子を弱めながらファン・ゴッホは繰り返しています。一方で、ミレーやドラクロワの作品を、確立した新たな様式で現代風に模写しましたが、そこに用いられている色彩の組合わせは、《アイリス》のようなこの時期の代表作にも通じています。

06_convert_20101206112843.jpg 「アイリス」(1990、油彩)

ゴッホ展の中で彼の作品の流れを追いながら、彼が、独自の作風を確立するまでの様々な試行錯誤の過程を辿る。彼の際立った個性が生み出されていく過程は、素描や模写をひたすら繰り返し、様々な画家の作風を貪欲に吸収してていく並々ならぬ努力に裏うちされている。「だれもが一目でゴッホと見抜く、燃え上がる情念の結晶のようなあの独特の画風が確立したのは、彼が亡くなるわずか2年ほど前に過ぎません。」それまでの身を削るような格闘の過程があったのである。

こういった経験のすべてが血肉となり、画家の熱い思いを伝える激しい筆遣いと鮮やかな色彩による独特の絵画スタイルを生み出していく。その絵画は、筆触を見れば表現主義の創始者といわれるほど激しく個性的で、色彩や作品の主題を見れば、象徴主義的といわれるほど深遠かつ論理的だといわれる。

彼の絵画に対する熱狂は、ゴーギャンと一緒に絵画の道を探求する中で、突然自らの耳を切るといった行動に現れたように、あまりにも情熱的で、自己破滅的なものを持っていた。生涯で一つの作品〈赤い葡萄畑〉しか売れなかったという貧しい生活を余儀なくされていた。しかし彼は「ぼくは100年後の人々にも、生きているか如く見える肖像画を描いてみたい」と語り、絵画への情熱は途切れることなくどんな時でも絵筆を手から離そうとしなかった。

彼の生涯を経済的、精神的に支えた弟テオへの手紙の最後の中でゴッホは次のように語る「ともあれ、僕は、僕自身の作品に対して人生を賭け、そのために僕の理性は半ば壊れてしまった―それもよい・・・」そして1890年ピストルで自らの頭を打ち抜き37歳の生涯を閉じたのである。彼は27歳で画家になる事を決意してから、10年間の短い画家生活を疾風のように駆け抜けたのである。

どのような他人の評価を受けようが、一つのことにひたする生涯を通じて情熱を持ち続けるそういったゴッホの感性を受け止めることは、自らの生き方を問い直す大きな力となるだろう。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

宮部みゆき 『名もなき毒』

12月4日(土)
aaa_convert_20101204205450.jpg あらゆる場所に「毒」は潜む。どこにいても人は恐怖や不条理な出来事に遭遇し、その理不尽さに打ちのめされることがある。だがそれが生きることだ。この社会の中で、孤独や絶望や貧困や不幸な状況にさらされ続ける時、人は自ら毒を生み出す存在になってしまう。それがこの小説のテーマである。

作者は次のように語る「人が住まう限り、そこには毒が入り込む。なぜなら我々人間が毒なのだから。(殺人者は)その毒を、外に吐き出すことで消そうとした。だが毒は消せなかった。ただ不条理に他人の命を奪い、彼の毒はむしろ強くなって、もっとひどく彼を苛んだだけだった。」(幻冬舎単行本P452)

今多コンツェルンという財閥企業のグループ広報室で社内報を編集する杉村三郎が、遭遇する2つの事件が平行しながら進行し、そして最後に一つの結論を出すために収斂していく。一つは社内トラブルを起こした女性アシスタントとの相克がある。その過程で身上調査のため、私立探偵・北見を訪ねた時に連続無差別毒殺事件で祖父を亡くしたという女子高生と出会う。その出会いから、杉村は毒殺事件に関わっていく事になる。

 無差別毒物殺人事件の犯人探しといった謎解をベースにしながら物語は展開する。ここで使われた青酸カリという人間を死に至らしめる直接的な毒以外にも、「名もなき毒」は至る所に存在している。常に何かに怒っていて攻撃的で他人の幸せが許せない、社内編集部のアシスタントをしていた原田いずみの言動は彼女の周辺に毒を撒き散らすことになる。

原田いずみは会社内でのトラブルメーカーであり、それが原因で解雇され、それを一切自分に責任があると考えられず、解雇した社内報編集部員全員に復讐し、また会長の娘と結婚し「満たされていて幸福に見える。何の苦労もなくその幸せに恵まれた」と判断した杉村に対し、怒りを増幅さる。

「彼女の毒は無限に増殖し、どんなに吐き出しても涸れることはなく」、自分の不幸を呪い、他人の幸福が許せないといったことで執拗な嫌がらせを続け、最後にはその幸福を根底からから破壊しようとする行動に出る。

 原田いずみや連続無差別毒殺事件の犯人の心情について、その本質を極北の権力行使だと今多グループ会長の言葉を通して作者は語る。今多コンツェルンの総帥である会長に杉浦は聞く。「権力というものをどうお考えですか」と。会長は「空しいな」と答え次のように言う。

「究極の権力は人を殺すことだ。他人の命を奪う。それは人として極北の権力行使だ。・・・他人を意のままにしたという点では同じなのだから。そういう形で行使された権力には誰も勝てん。禁忌を犯して振るわれた権力には対抗する手段がないんだ。」(P261)

「極北の権力を求めて、どうしてもこらえきれずに行使してしまった人間だからな。飢えているんだ。それ程深く、ひどく飢えているんだよ。その飢えが本人の魂を食い破ってしまわないように、餌を与えなければならない。だから他人を餌にするのだ。」(P263)

 人を中傷したり、自分が不幸だから他の人も不幸になるべきだといった理不尽な考えをする人間による毒、シックハウス症候群や土壌汚染による喘息など症状が出ないと表面化しない毒、そして究極的にはその毒に蝕まれ自らの魂を捨て殺人者に追い込まれてしまう毒、これらの名もなき毒に囲まれそれに浸されながら人は現代社会を生きていかなければならない。「我々がこしらえたはずの社会はいつからこんな無様な代物に堕ちてしまったんだろう。」

今の社会は普通に生きるという概念が大きく変わってきている。そういった社会の転換の中で、生まれ育った環境や、社会の仕組みの中でごく少数の運のいい人を除いた大部分の人が、実現不可能な「自己実現」といった言葉に振り回されることになる。そもそもありえない「自己実現」ができない事に苛立ち、社会のせいにし、慢性的な欲求不満に陥りその中で呻吟し、社会への怒りを増幅させていくのである。

「“普通”というのは今の世の中では“生きにくく、他を生かしにくい”と同義語なんです。“何もない”という意味でもある。つまらなくて退屈で、空虚だということです。だから怒るんですよ。どこかの誰かさんが“自己実現”なんて厄介な言葉を考え出したばっかりにね。」(P337)

 毒は社会の隅々まで至る所に噴出している。会社の同僚が新築の家を買って引越した。しばらくしたら娘が喘息になった。販売業者は検査をして、建材と喘息の因果関係はないと主張する。親は販売業者を訴えようとしていた。

「(娘の喘息の)原因がやっとわかりまして、シックハウス症候群ではなかったんです。土壌汚染でもありません。学校の問題でした。いじめです。・・・私は言った『毒ですね、やっぱり毒だったんですよ』」(P472)

現代社会の中で生きるということはどういったことだろうか。元警官であった北見は言う「犯罪を起こすのはたいていの場合怒っている人間です。ある時そういう“怒り”に付き合うのがしんどくなってきた。同じ苦労をするならもう少し―早い段階で後始末の一歩か二歩手前で何とかすることはできないかと考え始めていました。」(P339)そして彼は私立探偵になった。

つまり毒が身体に回り犯罪に至る以前に、その毒を薄める役割を担いたいということなのだ。しかし普通の市民にとって、今の世の中をどう生きていくのか。それは結局作者が最後に書いた通りだろう。しかし主人公杉村には生きるための新たな課題を与えているのである。その課題を彼が追求しようとしたならば、今の安逸な生活から決別せざるを得なくなるかもしれないものなのである。

「不運にも毒に触れ、それに蝕まれてしまうとき以外、私たちはいつもこの世の毒の事など考えないようにして生きている。日々を安らかに過ごすには、それしかほかに術がないから。
突っ立って問いかけているだけでは、誰も毒の事を教えてはくれない。それがどこから来て、何のために生じ、どんな風に広がるものであるかを。どうすれば防げるかということも」(P489)

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

鶴見区PTA連絡協議会「いのちの授業」

12月4日(土)
鶴見公会堂で第78回鶴見区PTA活動報告会、第4回鶴見区家庭教育学級が行なわれた。鶴見地区のPTA関係者、保護者が500名近く集まった。家庭教育学級の今年のテーマとして「いのちの授業」が取り上げられた。基調講演はももの木の理事である田中医師が行い、その後パネルディスカッションとし て内容を深化させていった。パネリストとして慢性骨髄性白血病で現在も治療中の患者と娘を脳腫瘍で失った患者家族の人が加わった。

基調講演
患者会とはどういうものなのかということから講演は始められた。ももの木の成立過程、現在の活動についての説明がなされた。ももの木としての交流会、各病院内での交流会、リレーフォーライフやゴールドリボン・ウオーキング等への参加、いのちの授業といったももの木としての活動内容が紹介された。

患者中心の医療

多くの人は「病気中心の医療」という考え方をしてしまう。「患者中心の医療」、主語が患者であるということはどういうことなのか。一つの例が話された。70歳の末期がんの患者で医者から治療法はないと宣告された。彼女には50歳の娘がおり、娘が医者との窓口になって治療方針などについても医者と相談しながら進めてきた。医者から見捨てられた母親をどうするのか。

相談にきた娘は「セカンドオピニオンをお願いします」と言った。それに対して「患者であるお母さんはどう考えているんですか」と聞いた。それが何よりも重要なのだ。家で母親と相談した所、母親は「もう辛く苦しい治療は受けたくない。自宅に戻り残りの時間を家族と一緒に過ごしたい。」と答えた。

彼女はそれから3ケ月後に亡くなったが、安らかな最後の時間を過ごせたということだった。つまり病気をどうするか、それは患者がどういう生き方を選択するかに深く関係している。それが「患者中心の医療」ということだ。

患者の思い

医者として患者の思いを知る事が重要である。がんの宣告は患者にとって死と向かい合う事になる。20歳の急性骨髄性白血病の男性患者が「忘れないで欲しい」と言った言葉が印象的だった。この言葉で一つの詩を思い出した。マリー・ローランサンの『鎮痛剤』という詩である。

 退屈な女より    もっと哀れなのは かなしい女です。
 かなしい女より   もっと哀れなのは 不幸な女です。
 不幸な女より    もっと哀れなのは 病気の女です。
 病気の女より    もっと哀れなのは 捨てられた女です。
 捨てられた女より もっと哀れなのは よるべない女です。
 よるべない女より もっと哀れなのは 追われた女です。
 追われた女より  もっと哀れなのは 死んだ女です。
 死んだ女より    もっと哀れなのは 忘れられた女です。(堀口大学訳)

またベートベンの「ハイリゲンシュタットの遺書」の中にも「私が死んでも忘れないでくれ、私はおまえたちを幸福にしようとしょっちゅう考えていたのだから。」と書かれていた。

患者が何を望み、何を考えているかそれは決して治療方針とは無関係なものではない。病気中心の医療から患者中心の医療への転換が図られるべきである。それは 医者の自覚に任せるだけではなく、患者自身が治療とは自らの生き方の選択の問題として医者に話しかけていく必要があるだろう。

いのちの授業
講 演の最後にももの木の中心的な活動である「いのちの授業」について話をした。2002年から初めて既に60回以上行なっている。主に小学校高学年を対象と している。ある親から「小学校で何かあったのでしょうか。学校から帰ってきた子どもが変わった」と学校に連絡があった。それは喜びの、驚きの反応だった。 授業の後の感想文にも「生きているということの意味を考えさせられた」などと書かれている。今回の講演も「いのちの授業」の一環として受け止めてもらいた い。

パネルディスカッション
司 会進行をももの木のメンバーが行う。パネリストに以下の質問をして、それに対して各人が2、3分で答えてもらう形式で進められた。質問への答えの中で患者 や患者家族が病気と向き合ってきた心情が明らかにされ、その言葉は聴衆に生死をめぐる多くのものを訴える事が出来たと思う。患者や患者家族がいのちの大切 さを訴え、死にたくないという思い語ることは、死を実感することによって初めて出来ることなのである。そしてその話は「いのち」というものを改めて考える 機会を皆に与える事ができたと思う。

質問事項

1、突然病気の告知を受けた時の心境はどのようなものだったでしょうか。
2、病気と向き合う事になった時に、一番不安な事は何だったでしょうか。
3、その時に支えになったのはどのようなことだったでしょうか。
4、ももの木もそうですが、このようなコミュニティを知っておられましたか。またこのコミュニティの役割は何だと思いますか。

最後の10分位は、会場からの質問時間である。時間の関係で3つの質問しか受ける事が出来なかった。
・患者になった友人がいるが、患者にとっては何をしてもらいたいか。
・父親ががん患者であるが、全て先生にお任せで、自分の罹っている病気の事を全く知ろうとしない。
・がんであるという自分の状態をどうやって受け入れる事が出来たのか。

パネリストがこの質問にそれぞれ自分の立場から回答していった。1時間はあっという間に過ぎ「いのちの授業」を終えていった。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

都立庭園-9 旧岩崎邸庭園

12月2日(木)
東京都には公園協会管理の庭園が9つある。庭園紹介のパンフレットが各庭園の入口においてある。一言解説が付けられていて、その言葉がどんな庭園かをイメージさせる。9庭園として、清澄庭園(全国から名石が集まった庭園)、六義園(和歌を基調とした江戸の大名庭園)、旧古河庭園(洋館と薔薇の庭園)、小石川後楽園(水戸黄門ゆかりの庭園)、旧岩崎邸庭園(和洋の建築文化の粋を示す庭園)、浜離宮恩賜庭園(徳川将軍家の庭園)、旧芝離宮恩賜庭園(江戸最古の大名庭園)、向島百花園(四季、日本の花が咲く庭園)、殿ケ谷戸庭園(武蔵野の山野草と湧き水の庭園)が挙げられていた。

この中には、病院帰りに気楽に寄れる六義園など5、6回行っている所もある。旧岩崎邸庭園は10数年前に行ったことがあるが、どういった所か全く覚えていなかった。上野で用件を済ませ次の待ち合わせまで2時間位時間があった。紅葉が見頃であるということもあって行ってみることにした。

上野公園の不忍池沿いを湯島の方に向って歩く。不忍通り沿いのイチョウや、池を囲む木々は紅葉を迎えている。旧岩崎邸庭園の入口から坂を上ると、受付がありそこで入場料を支払う。そこにあるイチョウの巨木全体が黄色く色づき曇り空の中でまばゆいばかりの色彩を放っていた。

旧岩嵜庭園040_convert_20101203130133  旧岩嵜庭園043_convert_20101203130234
 不忍通りのイチョウ並木                  不忍池周遊道路

旧岩崎邸

旧岩崎邸は1896年(明治29年)に三菱創設者・岩崎家本邸として建てられた。完成当時の岩崎邸は、15,000坪の敷地に20棟以上の建物があった。現存するのは洋館・撞球室・和館の3棟である。

洋館
英国人ジョサイア・コンドルによって設計されたもので、木造2階建・地下室付きの洋館で、本格的なヨーロッパ式邸宅。近代日本住宅を代表する西洋木造建築である。

旧岩嵜庭園004ed_convert_20101202234732 洋館正面

旧岩嵜庭園035ed_convert_20101202235303 洋館東側側面

旧岩嵜庭園029ex_convert_20101203104608  旧岩嵜庭園022ed_convert_20101202235102
                                 庭から洋館を見る

洋館から中に入り見学し、通路でつながっている和館から出るという順路になっている。洋館内での撮影は禁止なので中の様子は写せなかった。この洋館についてパンフレトには次のように書かれていた。「17世紀のジャコビアン様式を基調に、ルネサンスやイスラム風のモティーフなどが採り入れられている。洋館南側は列柱の並ぶベランダで、1階列柱はトスカナ式、2階列柱はイオニア式の装飾が特徴である。米国・ペンシルヴァニアのカントリーハウスのイメージも採り入れられた。併置された和館との巧みなバランスは、世界の住宅史においても希有の建築とされている。」

ジャコビアン様式:17世紀、イギリスのジェームズ1世時代(1603~1625年)から、その息子のチャールズ1世時代(1625~1649年)の建築、家具、芸術の様式のことを言います。ジャコビアン様式は、家具では、オークが用いられ、直線的で力強く、ねじり棒や挽き物(ひきもの)が多用されています。(インテリア用語辞典)

洋館は1階、2階を見学する事が出来る。1階部分に玄関・食堂・厨房・客室があり、2階も同じような造りになっている。当時使用していた様々なアンティークな家具が所々に置いてある。2階のベランダからは、芝庭とそれを囲む紅葉した木々が見渡せる。

庭園
江戸期に越後高田藩榊原氏、及び明治初期は舞鶴藩牧野氏の屋敷であった岩崎邸の庭は、大名庭園の形式を一部踏襲していた。建築様式同様に和洋併置式とされ、「芝庭」をもつ近代庭園の初期の形を残している。この和洋併置式の邸宅形式は、その後の日本の邸宅建築に大きな影響を与えた。

旧岩嵜庭園016ed_convert_20101202235004 

旧岩嵜庭園038_convert_20101202225455  旧岩嵜庭園008_convert_20101202224732
 入口正面の大イチョウ                   洋館ベランダから見た庭

旧岩嵜庭園034ed_convert_20101204235135  旧岩嵜庭園031ed_convert_20101203102524

和館
洋館と結合された和館は書院造りを基調にしている。広間には、橋本雅邦が下絵を描いたと伝えられる日本画などが残っている。現存する広間を中心に巧緻を極めた当時の純和風建築をかいま見ることができる。

旧岩嵜庭園010ed_convert_20101202234901 洋館のベランダから見た和館

旧岩嵜庭園036_convert_20101202225346  旧岩嵜庭園026ed_convert_20101203101434
 庭から見た和館  

洋館から和館に移ると、その印象はあまりのも違う。明から暗に転じたような感じだ。西洋文明の絢爛豪華な意匠から、日本的な「わびさび(侘・寂)」の世界の相違が、このような洋風建物と和風建物を併置することによって一層鮮明に感じ取れる。

和館から庭に出る。かなり広い芝庭が広がりその周りを囲む木々の間に遊歩道があり、散策しながら紅葉を楽しむ事が出来る。庭からは洋館や和館の全体を鑑賞する事が出来る。一画にガーデン・テーブルと椅子がパラソルの下に置かれ休憩場所となっている。その休憩所の前に「スイスの山小屋風造り」の撞球室(ビリヤード場)がある。洋館と全く違った造りになってはいるが、その事によって撞球室の存在を印象付け、洋館を引き立たせる事になっている。

撞球室(ビリヤード場)

コンドル設計。当時の日本では非常に珍しいスイスの山小屋風の造りとなっている。全体は木造建築で、校倉造り風の壁、刻みの入った柱、軒を深く差し出した大屋根など、木造ゴシックの流れを組むデザインである。洋館から地下道でつながっている。

旧岩嵜庭園028_convert_20101202230328

(参考資料:都立庭園情報「庭園へ行こう」旧岩崎邸庭園HP)

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眼科治療・デノシン注射14回目

12月1日(水)
 今日は珍しく14時30分の予約だった。視野検査をするので時間がかかる。午後の方がゆっくり出来るということだ。眼圧の検査をした。毎回するのだが数値は右14、左13で正常眼圧が10-21mmHgであるから問題はない。

視野の検査をする。右眼の方は何ら問題はなかった。左眼の方では殆ど見えない。右下が影になっているが、これは昔網膜剥離になった跡が残って視野欠損となっていて、以前からのものだろう。検査でもしないと見える方の右眼がカバーするので、左眼の視野欠損には気がつかない。

今回の検査で見えるのは中央部の一定の範囲で、その外側は霧がかかったようになっている。視野検査で見える範囲を書き込んだ表(視野マップ)があるが、20cm位の円の中に書き込まれた見える範囲は、中央部分の10cm位の楕円状になっている。

左眼の視力検査をしても、前にある視力検査表は見えない。左眼のある箇所に対象物が入れば見えるが、そうでなければ見えない。検査の時には、検査員が1ケ所が切れた丸を描いた厚紙を持って、動きながら見える位置を探して遠ざかったり近付いたりしながら見える状態を調べる。見える位置に丁度丸を書いた紙が来れば、かなり離れていても丸のどこが切れているかはわかるが、なかなか見える位置にヒットしない。

 8月24日に視野検査をした。その時は左眼は右下の部分の視野欠損があったが、かなりの範囲視野を確保できていた。しかし、その時は視力低下の原因をサイトメガロウイルス(CMV)だと判断できず、緑内障の治療をやっていた。そのため、CMVはさらに活性化し網膜の血管に炎症を起こし、血管を詰まらせ視神経を破壊していった。そして中心のかなり重要な動脈の梗塞を起こし、視力に打撃を与えた。一度破壊されは視神経は元にも戻らない。

確かにもっと早くCMV網膜炎だと判断してデノシン硝子体注射をやっていれば、左眼の視力はかなり回復できただろう。今思うと残念な気がする。緑内障と判断した町医者が自分の所では治療できないと思って病院に紹介状を書いたが、何を考えていたのだろう。

現状では、右眼をつぶった状態では、外を歩く事も本を読む事もテレビを見る事もできない。右眼がカバーしているから問題なく日常生活が送れているのである。現在続けているデノシン注射も視力を回復するためのもではない。これ以上悪くならないようにするためであるともいうが、それよりも免疫力が低下している状態でCMVが脳や右眼に転移するのを防ぐためだということだ。

 いつまでデノシン注射をするのか。眼科医は血液内科の医者と相談したという。血液内科の担当医はデキサメタゾンは使用したくはない。他にも合併症を起こす可能性がかなり高い。好中球は520という数値である。免疫力が低下している。これ以上下がったならばレナリドミドは中断せざるを得ない。もう少し様子を見ないと治療法を確定できない。レナリドミドが使えなくなったらどのような療法を行うか分らない。ステロイド剤を使う事になるかもしれない。

デノシン注射を休止する条件としては、レナリドミド単独で治療が続けられるということ、血液検査で血液中にCMVが見当たらないこと、眼の房水検査でCMVが存在しないということが必要である。定期的に検査し、CMV活性化の兆候をいち早く見つけデノシン注射を再開する。12月一杯、レナリドミドの効果を見て治療法が確定出来るまでデノシン注射続け、来年から中止する事になるだろう。

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がん治療とは長く細い道を辿ら
なければならない。その先に希
望があると信じながら。

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