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「ももの木」新年会

1月29日(土)
ももの木の新年会が行われた。ホテルメトロポリタン1階「クロスダイン」のランチバイキングだ。何処のホテルでも最近やっていて、3000円前後のリーズナブルな価格で好きな料理やスイーツをセレクトできるということで主婦や女性層の間で人気があり、予約が必要だと聞く。アルコールは別料金だが昼間から飲む人はあまりいないだろう。

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   ホテルメトロポリタン1階「クロスダイン」

21人が参加した。患者会のほとんどの人は既に治療を終え、5年以上再発せず生活している。完治しているといってもいい人達だろう。むしろ治療中の現役患者の方が少数派だ。

池袋は地元だ。自転車でホテルメトロポリタンまで出かけた。自転車の止め場所を探して時間を食ってしまった。自転車で来る人などいないのだろうか、結局適当に止めたが、時間に遅れてしまった。

ランチバイキングは11時半からの開始だ。料理を取りに行くにも長い列に並ばなければならない。しばらくはこの列が途切れることはないだろう。サラダの所が空いていたのでまずそれを盛って、有料のビールを頼んで、料理の場所が空くのを気長に待つ事にした。

患者会の仲間の話が始まる。患者同士の共有してきた経験は、会話をスムーズに回転させる。その中から3つ印象に残った話を書いてみる。

エピソード・1
1月23日に行われた湘南国際マラソンにももの木運動部から2名参加した。移植者の部で10kmコースである。その中の一人M君の事が朝日新聞の川崎版に掲載された、骨髄バンク経由で移植してから既に20年近く経過している。まだ腎機能や筋肉の動きに関して問題を抱えている。

それでも走り続け移植してもこんなに元気になれるんだという事を色々な所でアピールしたいと言っている。骨髄バンクが関連している全国で行われるマラソン大会に参加したいと思っている。主にハーフマラソンだ。既に宮崎の大会に参加し沿道からの声援があったそうだ。今度は山形から呼ばれている。

エピソード・2

現役の患者の話だ。看護師である。彼女は骨髄が過剰に血球を作り出してしまう病気である。ある時血が増えすぎて脳梗塞を起こし病気に気がついたということだ。現在骨髄の血球産生能力を抑える薬を服用していて、血球数は安定している。しかしこの薬は一生飲み続けなければならない。そういったやり方でいいのか担当医との信頼関係が築けない。副作用について聞いてもどのようなものが出るか分らないとしか言わないという。医者を替えたい、もっと別の大病院に行きたいなどという。

彼女の疑問が良く理解できなかった。一番重要なのは今使っている薬が奏効しているかどうかで、それなら何の問題もない。薬の解説を読めば副作用は書いてある。しかし人によって出方は様々で、どんな副作用が出るか医者には分らない。何らかの症状が出たらそれが薬の副作用か判断し支持療法を行う他にない。病気に対する疑問を膨らませすぎて、病気に対する最も重要で肝心の直していく、あるいは抑えていくという基本を忘れてしまっているのではないかと彼女にアドバイスをする外なかった。

エピソード・3
ももの木で「いのちの授業」を一緒にやってきている仲間が、この間体調を崩して参加してなかったが、久々に会う事が出来た。昨年暮れ突然意識を失って倒れた。メニエールのような状態なのだがそれ程ひどいものではなく、ヘモグロビンなどには問題はなく、内耳か何かの問題のような気がする。学校の授業中倒れたら問題だからしばらく休んでいたということだ。

グリベックスを飲み続けているが、1日通常4錠だがそれだけ飲むと、血球が著しく減少してくる。それで今は2錠にしているが、また最近血球の減少が見られるので休薬する話しも出ている。しかし以前休薬したら、1ケ月位の間に白血病細胞が元の状態まで戻ってしまった。難しい選択だ。薬を減らしながら様子を見る外ない。効果と副作用の微妙なバランスを取りながら患者は薬を選択していく他にない。

他に何人かと話をした。途中で席代えのくじをしたりして色々な人が交流できるようにした。また料理を食べ終わって身軽になった段階で、勝手に席を移動し話が弾んだ。料理の最終は15時で、席使用は15時30分までだった。
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テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

城ケ島公園

1月28日(金)
東台小学校の「いのちの授業」が終わり、給食を食べ、鶴見駅に着いたのが13時を過ぎだった。横浜方面に来たのだから、城ヶ島公園のスイセンを見行こうと思ったが、城ヶ島までどの位時間がかかるか分らない。普通だったらやめておくのだが来週から入院するので、無理にでも行っておきたいと思った。

13時17分横浜行きの京浜東北線に乗り、湘南新宿ラインで大船まで、横須賀線で久里浜まで行き、そこから5分位歩き京急久里浜で京浜急行に乗り換える。三崎口には14時50分着、1時間2本のバスを待って城ヶ島着が15時50分とかなり時間がかかってしまった。少し日は延びたとはいえもはや夕方の時間に近い。

城ヶ島で降りて、城ヶ島公園はどこかと運転手に聞いたら、ここからは城ヶ島灯台にはいけるが、公園は2つ前の「白秋碑前」で降りなければならないといわれた。時間も押していたのでこのバスがすぐに折り返し運転をするというので乗って戻った。

城ケ島公園のスイセンについては「花の名所案内」に次のように書かれていた。
城ヶ島公園内には、花びらが多い八重スイセンが約10万株が園内随所に見られる。一番多いのが、駐車場西側の松林一帯の群落。長さ200mの敷地に広がり、甘い香りを漂わせ、小さなクリーム色の花弁を寄せ合う姿が愛らしい。他にも島全体では約60万株の八重スイセンが咲き誇り、ハイキングコース脇にも植えられているので、島の至る所で見ることができ「かながわの花の名所100選」にも選定されている。

城ヶ島は北原白秋の
「雨はふるふる城ヶ島の磯に
利休鼠の雨が降る
雨は真珠か夜明けの霧か・・・・」
でよく知られている。白秋記念館、安房崎灯台、城ヶ島灯台など見所は幾つかあるし、三崎のマグロなど折角来たのだから食べてみたいのだが、何せ時間がない。スイセンを見ないと始まらない。

東台、城ケ島008_convert_20110129010910  東台、城ケ島014_convert_20110129010941
 城ヶ島公園入口                      公園から城ヶ島灯台方面

白秋碑前のバス停の広い駐車場を突っ切り、城ヶ島公園に入る。坂道を登って行くと、道の両側にスイセンが花を咲かせている。自動車道に沿った山道を10分ばかり登ると、ハイキングコースに分かれる。そちらに向う。

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 公園中央通路

東台、城ケ島018_convert_20110129011027  東台、城ケ島020_convert_20110129011055

最初にウミウの展望台がある。西日が断崖を橙色に染めている。ウミウ展望台について解説の看板があった。展望台より望む、赤羽根海岸東側の崖には、毎年10月下旬になると、ウミウ、ヒメウが到来し翌年の4月まで見ることができる。約1000羽二も及ぶ鵜の乱舞は、冬の城ヶ島の風物詩であり赤羽海岸の東側の断崖は、幅約300m、高さ30mにわたり、波打ち際からの垂直な崖が人をよせつけないことから、鵜の群れのよい生息地となっており、冬季の生息地として、その地域が指定されている。

東台、城ケ島025_convert_20110129011312  東台、城ケ島029_convert_20110129011343
 赤羽根海岸東側断崖                   ウミウ展望台

さらにハイキングコースを進んで行くと、スイセンロードと表示があった。その道に入っていったが、山道の両側の所々に水仙が植わって入るが花はつけておらず、あまり見栄えは良くなかった。

東台、城ケ島031_convert_20110129011427  東台、城ケ島035_convert_20110129011503
 赤羽根海岸                         スイセンロード

元の道に戻り、城ヶ島の南端赤羽崎にある馬の背洞門に向う。洞門は海岸にある。急な石段が海岸線まで続く。登る事を考えると辛い思いもしたが、降りて行った。石段の最後の所は足場が悪く学校での授業のため、スーツ姿で革靴だったし荷物もあったのでかなり苦労して降りる事になった。しかし来たかいはあった。見事にまわるく岩が繰り抜かれてれている。

馬ノ背洞門
侵食によって岩がメガネ状に繰り抜かれたアーチ状の岩(海食洞門)で、赤羽根崎の突端にある。1923年以前は洞門下を小船で通航できたが、関東地震による隆起で陸化した。地震による隆起現象を今に伝える存在である。

東台、城ケ島044_convert_20110129011559  東台、城ケ島045_convert_20110129011651
 馬ノ背洞門全景                       洞門

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 馬の背洞門より城ヶ島灯台方面             赤羽根海岸
 
かなり苦労して石段を登りきり、ハイキングコースを戻り、元の自動車道に出た。自動車道はすぐに駐車場に行き当たる。その駐車場の周辺にスイセンの群落がある。そこが中心の見せ場だ。しばらく見学していたが、17時28分のバスに乗りたいと思いその場を後にした。既に暗くなり始め、バス停に着いた時には真っ暗になっていた。

東台、城ケ島051_convert_20110129011940  東台、城ケ島056_convert_20110129012020
 スイセン群落への道                     スイセンの群落
                            
帰りは、三崎口(18:06発)から京浜急行の快速特急で品川(19:17着)まで行ったので往きよりもはるかに早く移動できた。20時前(19:51着)には池袋に着いた。

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伊坂幸太郎 『終末のフール』

1月27日(木)
5177ee_convert_20110127175046.jpg 「あと3年で世界が終わるなら、何をしますか」(鋼鉄のウール)。これが『終末のフール』のメインテーマだ。人類滅亡を知った人々に起こる様々な出来事を描いた近未来SF連作短編集である。

「8年後に小惑星が落ちてきて地球が滅亡する」と世界中に明らかにされ、人々はパニックに陥り、恐怖心が巻き起こす、暴動、殺人、放火、強盗、デマ、犯罪がはびこる。秩序が崩壊した混乱の中、絶望にかられた自殺が蔓延する。人々は様々な所に逃げ惑うが行くべき所など地球上にはない。仕事も辞め、貯金を下ろし何もせず日々食糧確保のためだけに生きるようになる、そしてますます絶望に陥り生きる意味を見失っていく。

世界崩壊の発表から5年たった。パニック的な逃避行動、犯罪と殺戮の混沌とした社会、世界中の大混乱は、ここへきて祭りが終わったかのように収束していった。そんなパニックがやや落ち着いた頃は、激突まであと3年になっていた。世間は危うい均衡が保たれていた。

小説の舞台は、仙台の北部の丘を造成して作られた団地「ヒルズタウン」に建つ、築20年のマンションである。その住人がいかにそれぞれの人生を送るのか、世界の終わりを告げられた時の騒動を潜り、今なお生き残って住んでいる人たちが、絶望やパニックの向こうに「生きる道のある限り、あと3年の命を精一杯生きよう」という前向きの姿勢を淡々と一人称で語っていく。

◆ 
人はやがては死ぬ。特に死を宣告されたがん患者は当然身をもってそれを感じる。残された時間をどうして行くのか。そういった意味で伊坂の3年で死ぬ事になったらどうするかの問いは大きな意味を持ってくる。しかしそれが個人に科せられた試練か社会的な現象かによって現れ方は大きく異なる。しかし所詮答えは各人が出さざるを得ないのだ。

この小説は8つの短編で構成されている。この中で中心になるのは謝辞の中で伊坂が語っている。「鋼鉄のウール」はキックボクシングジム治政館の見学から生まれていて、鬼気迫る練習風景を見て、「世界が終わりになっても、あの人とたちは練習しているかもしれない」と考えざるを得なかった。それがこの短編の主人公苗場の言葉となって現れている

元ジムに通っていた当時まだ小学生高学年だった少年が5年ぶりにジムの前を通るとサンドバックを打つ音が聞こえた。苗場は会長と共に5年前の時からもほとんどか欠かすことなく練習をしていたのだ。

 小説からの引用
「明日死ぬっていわれたらどうする?」
「明日死ぬとしたら生き方か変わるんですか? あなたの今の生き方は、どのくらい生きるつもりの生き方なんですか? できることをやるしかないですから、やることをやる、それしかないだろうに」(集英社単行本P180・鋼鐵のウール・苗場との会話)

こんなご時世大事なのはいかに愉快に生きるかだ。(P110)

残ったもの全員で、舞台が終るまで、ここで家族を演じるのも贅沢なことじゃないか。最近の私を悩ませる、あの悪夢を思い浮かべる。誰も彼もが舞台から消えてしまう、あれだ。あの孤独に比べれば、この賑やかさは幸福以外の何物でもない。(P255)

生きられる限りみっともなくてもいいから行き続けるのが我が家の方針だ。生あるうち光の中を歩め。生きる道がある限り、生きろってことだ、死に物狂いで生きるのは、権利でなく義務だ。(P273)

生き残るっていうのはさ、もっと必死なもののような気がするんだ。じたばたして、足掻いて、もがいて。生き残るのってそういうのだよ、きっとさ。(P294)。

 8編の短編に登場する人達は5年間の混乱を生き抜いた人達である。周りの家族や友人が死んでいくという極限状態に置かれても、なお生き抜こうとする人間の強さを感じると同時に、生きるということは偶然の重なりでもあるのではないかと思わせる点もある。その与えられた機会を精一杯守りぬいて今の自分を保っているのだろう。

世界の最後=死に直面しながら5年経ちそこに流れる時間は、平凡凡々と過ぎ去っていく。しかしその平凡さこそに人々が求めている大切で深い意味があるのだろう。平凡さ故の尊い時間をかみ締めながら、2度と戻らない瞬間を捉え、今という時を本当に大切にしようとする気持ちがかきたてられる。  

現在社会の人々は生きる価値を失うような人生・日常を送っている、小惑星の衝突、人類の滅亡という事を通して現代人の生き方に対す警鐘を鳴らしているのではないか。

8年で人類が滅亡するという時間制限は、我々に今という時間をどう生きるのかを問うている。未来の幸福を求めることはあるだろう、しかし現在は未来のための単なる犠牲の時間ではないはずだ。今を生き生きと生きる事が求められている。日常性に埋没し無意味な日々を繰り返すような生き方から脱却し、明日をも知れぬこの世の中に生きている身である限り、今を如何に生きるべきか、今の充実をもっと求めてしかるべきではないか。

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ジャンル : 日記

血液内科の診療

1月26日(水)
検査結果
 IgM    6738(1/26)←4916(1/19)←3618(1/5)←3498(12/22) 
 IgG     458←518←441←512←538
 総蛋白   9.8←9.2←8.1←8.2 
 白血球  2700←3400(1/19)←2800(1/12)←2000(1/5)
 好中球  1940←1120←800←440
 血小板  7.6←6.7←3.7←6.5
 赤血球  276←299←273←297
 ヘモグロビン 9.2←9.8←8.9←9.6
 網赤血球  19←7←6←5←10


驚くべき数字だ。6738なんという数字だろう。もはやどのような言葉を使っても納得する理由は見つからない。サイトメガロウイルスとの関係でレナリドミドと最も有効な併用療法であるデキサメタゾンを使ってこなかったし、好中球の減少があったのでレナリドミド5カプセルを3カプセルにしていた。

しかしついに踏み切って先週の木曜日からデキサメタゾン1日40mgを4日間服用したがそれが全く奏効せず、2週間でIgMが2000近くも増加してしまった。血球との兼ね合いで薬を調節して行う通院治療では限界に来ているのではないか。

レナリドミド+デキサメタゾンの治療に関しても容量を増やせば、好中球は減少するだろうし、ステロイドの副作用も生じてくるだろう。どちらにしても、どのような治療を選択するにしても入院して治療した方がはるかに選択肢は増えてくる。副作用が強く入院治療でしか出来ないといわれたシスプラチンも候補に入れる事が出来る。提案されたのは以下の通り。

1、レナリドミド(15mg21日)+大容量デキサメタゾン(40mg1~4日、9~12日、17~20日)
2、レナリドミド(15mg21日)+MP(メルファラン+プレドニン)
3、VAD療法(ビンクリスチン+アドレアシン+デキサメタゾン)
4、レナリドミド+ボルテゾミブ(ベルケイド)
5、レナリドミド+ボルテゾミブ+シスプラチン+デキサメタゾン

入院治療であれば、1日おきに血液検査をして、白血球、赤血球、血小板の状態がわかり減少すれば、毎日でもG-CSFの注射をする事ができるし必要になれば輸血も可能だ。好中球が減少している状態で注射のため毎日のように病院通いをしていたならそちらの方が感染の恐れがある。

今日病院には10時に着いた。まず眼科で待たされた。さらに何故かIgMの値が出てくるのに2時間近くかかった。それから外来治療センターのベットが空くのを待つのに1時間、点滴に1時間、結局病院を出たのが16時になってしまった。予定していた散歩コースには行けなくなってしまった。

結局入院を決めた。ただベッドの空きを待つのでいつ入院できるかは分らない。診療が終ってから、デキサメタゾン40mgの点滴静注を1時間かけて行なった。デキサメタゾンは日曜日に服用が終ったばかりなので、まだ4日たっていなかったが何故かやることになった。そしてさらに錠剤でレナデックス(デキサメタゾン)4mgを4日間(1日40mg)処方された。少し多すぎるのではないかと思うが。

入院しても外出はかなり自由に出来るという。1月末から2月にかけて小学校の授業が幾つか入っている。医者はそれは外出で対応すればいいと言っていた。かって好中球が270だった時も平気で外を歩いていた位だから大丈夫だろう。ベルケイドでの入院の時のように気楽に周辺散策を今度はもう少し足を伸ばして楽しもうかと考えている。そうでも思わないと、薬が効かない事のみに神経が集中し、精神的にいいことはない。

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眼科の診療

1月26日(水)
IgMの急激な増加に対して、血液内科の医者としてはレナデックス(デキサメタゾン)を使用せざるを得なかった。そのことを眼科医に報告し、サイトメガロウイルスのチェックを厳密に行ってもらうよう要請することが必要だった。

眼科での検査では眼圧は32で全く変化はない。ただ、眼圧降下の目薬と、ダイアモックスの服用で目の痛みは抑えられている。眼圧上昇の原因のひとつとして、昔手術した網膜はく離が影響しているということだ。やはり手術後何年もたった網膜は弾力性を欠いている。40年もたつと昔の古傷が悪化してくるものなのだろう。通常房水の出口は、一周あリ、その一部でも問題がなければ眼圧の上昇は押さえられる。

しかし私の場合全体的にダメージを受けているので眼圧が回復しないということだった。今の所眼圧上昇による眼の痛みや、頭痛等にならないような防止策をとっているに過ぎない。好中球との関係を見ながら、新生血管阻害剤アバスチンの眼球注射を考えるという。

眼科医はIgM上昇に対してステロイドを使うことによりCMVに影響があるといった事以上に、むしろIgMの増加による網膜の毛細血管の過粘稠による血栓や梗塞が心配だという。左眼の視力低下の原因の一つは、サイトメガロウイルス網脈絡膜炎であるのは確かだが、私の場合原発性マクログロブリン血症による、左網膜中心静脈塞栓症ではないかということだ。静脈塞栓症は高血圧による動脈硬化が原因となることが多いが、IgMによる血液の過粘稠によるものなのかもしれない。

そうであるならば、血液の過粘稠化が進行すれば右目も左目のように視力を大幅に減退させてしまうだろう。そちらの方が心配だ。その意味で血液の過粘稠を抑えるためのWMの治療は優先されるべきだろう、従ってレナデックス(デキサメタゾン)の使用は止むを得ないだろう。CMVの動きに関しては週一度の検査でチェックしていく、ということだった。

処方された薬は前回と同じ5種類の目薬と、ダイアモックスを朝晩1錠ずつ、一緒にアスパラカリウムを2錠服用する。これで、眼圧上昇による眼の痛みや頭痛を抑えるということだ。

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ももバー(つづき)・ 親の問題

1月21日(金)
 血液患者コミュニティ「ももの木」の主催で行なわれるももバーでは、通常参加者の病歴紹介や現在抱えている問題などが話され、田中医師のアドバイスなどを受ける。今回も一通りそういった話をしてその後田中医師が保険の話をした。

B氏が遅れてやってきた。彼は5年ほど前に急性リンパ白血病で移植を受け、その後元いた会社に復帰して通常勤務をしている。話は彼の両親のことだった。血液がんとは全く無関係の話だが40~50歳になると親の様々な問題にぶつかる。親の病気や認知症や介護問題など人ごととは思えない課題である。彼は母親の見舞いに寄ってきたという。

 B氏の話では、3日前母親が急に心臓の苦しみを訴え救急車で病院に搬送された。父親が同乗し病院まで付き合った。しかし手術中に家に帰ってしまった。そしてその事については全く覚えていない。夜B氏の自宅に友人から電話があって「お宅の実家大変だったそうだね」言われた。友人は病院の仕出しをやっている人から聞いたそうだ。

すぐ実家に電話したが出ない。急いで行ってみる。父親はいて煙草を吸っている。母親はどこかと聞くと寝室だろうという。しかしそこにはいない。何処の病院に行ったか父親は全く覚えていない。今までこういった兆候を見せたことはなかった。母親の病気のショックで突然認知症が発症したのだろうか。

消防庁の通報センターに電話しても個人情報だから教えられないということだった。緊急通報119番というのがあってそこにかけると教えてくれるということだった。やっと母親の病院を探し当てる事が出来た。行ってみたがかなり遅くなったので面会は出来ず次の日行く事にした。

次の日姉夫婦にも知らせ一緒に見舞いに行った。2年位前にも心不全を起こしていてそれが再発したのだろう。土曜日からペースメーカーを装着するかどうか検討するということだ。父親はしばらく姉夫婦の所に行ったらどうかと聞いたら、一人で生活できると頑固に言い張る。

帰り道もう1人の患者の人から、地方に住んでいる父親が入院したという話を聞いた。元々進行の遅い前立腺がんに罹っていたが、今度は肺がんが見つかったということだ。高齢化し次々と死を内包する親の病気とどう対応するのか、自分がどう生きるかで精一杯の患者にとって親の死というものにどのように向き合うのか。難しい問題だ。

 直接関係ないが、自分の事もついでに話しておこう。私の母親は今年米寿(88歳)を迎えた。5、6年前までは一人で海外旅行に行くほど元気があった。3年前のことだった。母親の日課として足腰を鍛えるため夏は涼しくなる夕方、毎日家の周りを夕食前1時間ばかり散歩していた。

雨上がりで道が滑り易くなっていて、駅前のタイルの所ですべり腰を強打した。交番がすぐ傍にあり救急車を呼ぼうといったが、どうにか歩けるのでその日はやっとのことで家に帰った。次の日近所の整外科医が往診に来てくれた。捻挫ということで鎮痛冷湿布が処方された。

しばらくたっても痛みは少しも改善されず、知り合いの整形外科医は毎日マッサージに来てくれたが、結局寝たきりになってしまった。それが3ケ月位続いた。その頃は必要に応じ私も1日おき位にトイレに連れて行くため訪問していた。起きられるようになっても、一日中ごろごろと横になっていて見るともなしにテレビをかけている。腰を打つ前に日常の仕事としてやっていた洗濯、掃除、炊事は全くやらなくなくなってしまった。

 同居している妹が全てやらざるを得ない。3年たっているが、体の動きはますます緩慢になってきている。妹が散歩などに引き出そうとしているがなかなか動こうとしない。耳も遠くなってきていて会話もスムーズに行かない。妹が同居していて、食事の世話や身の回りのことをしているから私は何も動かなくていいが、そうでなったら面倒を見なければならない事になる。

妹はピアノ教室で教えていて日月以外は毎日昼に出掛け20時頃帰ってくる。家事をこなし、朝昼食を母親と一緒に食べ夕食を作って出掛けていく。母親まだ介護の必要性はまったくないし呆け始まっていない。ただ生きる意欲がないといおうか、家事は一切やらないという状態だ。しかし何よりも一人で放っておいても大丈夫だということは本当に有り難いことだ。

人は生まれてから、最後には老衰も含めた病気で死ぬという流れの中で一つの生を全うしなければならない。その過程では親や夫婦や兄弟姉妹、友人などのしがらみや人間関係に時には助けられながら、時にはないがしろにされながら、どの道やがては死んでいく存在なのである。重要なのはその事実をしっかりと受け止め、受け入れ今をどう生きていくか模索していく外ない。

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ももバー・ トータルケアプラン

1月21日(金)
 ももバーは大体毎回参加している。前回は10月29日に行われたが、発熱し微熱だったが、次の日に西武文理大学での講演があったので行くのを止めにした。その前が7月2日だったから、半年振りだという事になる。

今回の参加者は8名だった。いつもより多い。初めての人も何人か来ていた。二つの話が印象に残った。田中医師が「今までは入れなかった人のための保険-そんな人のための共済制度」トータルケアプランという保険会社を友人とともに設立した。その話がかなり中心的に行なわれた。

よくテレビドラマや小説で、子どもを抱えたシングルマザーの苦悩が語られることが多い。多くの悩みは子どもを抱えて働くことの難しさである。保育園がなかなか見つからない状態もある。保育園が見つかっても残業や休日出勤が出来ないので、それでなくても狭きも門である正社員の口が見つからないのが現状だ。

結局低賃金劣悪な労働条件の派遣やパートで働かざるを得ない。毎月家賃を払い将来展望のないぎりぎりの生活を強いられることになる。中には水商売で働かざるを得なくなる。

▼ ましてや障害児を抱えたシングルマザーの苦悩は計り知れない。生活保護を受けたとしても生活は苦しい。保育園で預かってくれる所は皆無といっていいほどだ。仕事も自宅での手内職位しかなく、子どもと向き合うだけの生活をせざるを得ず社会性が剥奪されていく。

病院の待合室に積み上げられていて無料で医療情報を提供していれる『ロハスメディカル』というパンフレットがあるが、ここで『救児の人々-医療にどこまで求めますか』という叢書を出版した。

そこに書かれたプロローグが障害児を抱えたシングルマザーの苦悩を端的に表現しているので引用してみたい。
「軽蔑していいですよ。子供が助からない方が、よかったのかもしれないと思うことがあるんですよ…。あの子は私みたいな親の元で障害を持って生まれちゃって、かわいそうですよね…。でも、私が思うのは、『産んでしまって、ごめんなさい』なんです。」

これは、31歳の時に妊娠25週で570グラムほどの男の子を出産したあるシングルマザーの言葉だ。その男の子、翔太君は、新生児集中治療管理室(NICU)に搬送され命を取り留め、今は3歳だ。しかし早産のためか、生まれつき脳に障害があり、母親と意思疎通することすらできない。世界有数の新生児医療があったからこそ、翔太君は生きている。一方でこのお母さんはキャリアを絶たれ、いつ終わるとしれない介護生活の中、「翔太を殺そうとしたことが何度もある」と言う。

 話は脇道にそれたが、田中医師の会社の「トータルケアプランⅢ」の内容は次のように書かれている。障害を持っている人の親は自分が亡くなったら、メンタルのサポートや経済的サポートが出来なくなる、という不安を持っている。このうち「一定のお金を遺して、それをも元手に施設なりに預かってもらって生きていく」事が出来るような共済保険に入りたい。

そのための、求められる共済は、死亡共済金がメインとなる。そして災害の時に倍額支払う」災害割増特約をつける。共済金額500万円、災害割増特約1000万円。保護者死亡の場合成人後見人制度を組み込む。

確かに毎月の保険料の支払いは生じてくるが、それが障害者として生きていかなければならない子どものためになるという安心を買うというのが保険の目的だ。

ともかく田中医師が友人と共に進めているのは、共済保険の会社は今までの保険会社で対象外になった人達をフォローするものだ。「持病があっても入れます」といったコマーシャルが流れているが、それでも多くの人達がそこから排除されている。

 トータルケアプラン
1、障害(身体、知的、精神)をお持ちの方々も加入できます。
2、持病のある方。ただし、持病と関係の無い病気やけがの場合も保証されます。
3、がんの既往症のある方。ただし、がんにかかった場合は、完治したと医者によって診断があっても5年以上経過後に再発入院した場合にがんの入院共済金が(50%)支払われます。
4、うつ病の方。

連絡先 
トータルケアプログラム事務局
〒101-0021 千代田区外神田1-1-5 昌平橋ビル2階
TEL:3526=8814 フリ-ダイヤル:0120-69-0059
http://www.mentalcare.co.jp          (つづく)

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上野・東照宮 ぼたん苑

1月19日(水)
眼科と 血液内科の診療を受け、ゾメタの点滴をして、レナリドマイド(レブラミド)とデキサメタゾン(レナデックス)、ダイアモックスなどの薬を受け取り病院を出たのが丁度12時だった。外は春のように暖かかった。日月火の3日間一歩も外に出ていない。冬はそれでなくとも運動不足になる。

少しは歩かなくては体の様々な機能に変調を来たすだろう。運動はいわば健康維持のための義務のようなものだ。外は寒い上、病気を抱え疲れやすく、感染症にかかりやすい時期であるからこそ決意して動こうとしないと、仕事がなければ外出する事もなく体はどんどん退化していってしまう。

疲れやすいといって動かないと、不眠、胃腸障害、骨粗しょう症、高脂血症、糖尿病など様々な疾患を誘発してくる。一方運動は心肺機能を刺激し、循環器系などの内臓の状況を好転させてくれる。

ブログに七福神めぐりなど書いて呑気に暮らしている雰囲気を漂わせているが、やはり、ウォーキングには目的がないとなかなか出かける気がしない。事前に行く所を調べて帰ってから感想を書くというパターンでやることによって、行く決意も高まるというものだ。

花の名所案内に上野東照宮のぼたん苑が紹介されていた。近場なので行ってみる事にした。上野公園は広いので散歩をするには丁度いいだろう。上野公園をしのばず口から降り、西郷銅像の前から公園に入る。

次々と見所が登場する。彰義隊の墓、清水観音堂、花園神社、五條天神社、時の鐘、大仏山パゴタ、お化け灯篭などを見ながら歩いていき、上野精養軒の横を通ると五重塔が見える。東照宮はその傍にあるのでそれを目印にして行けば辿り着く。

東照宮は改築中で門以外は工事用の幕で覆われで覆われ、そこには実物大の建物の写真が貼られている。遠くから見たらもう完成しているのかと思ったほどだ。東照宮の参道に沿って回遊式のぼたん苑が長く延びている。入園料が600円というのには少し驚いたが、折角来たのだから入らないという選択はありえない。

東照宮ぼたん苑の公式HPには冬牡丹について次のように説明されていた。
「昔寒牡丹は花の少ない正月に縁起物として使われていた。牡丹には二期咲き(早春と初冬)の性質を持つ品種があり、このうち低温で開花した冬咲きのものが古来より寒ボタンと呼ばれている。寒ボタンの花は、その年の気象に大きく左右され、着花率は二割以下といわれる。

寒牡丹は抑制栽培の技術を駆使して開花させたものである。春夏に寒冷地で開花を抑制、秋に温度調整し冬に備えるという作業に丸二年を費やし、厳寒に楚々とした可憐な花をつけさせる。苑内には約40品種600株あり、また、蠟梅、満作、早咲きの梅などの花木もある。」

入口に立て札があり、そこに冬ボタンの説明と共に4つの俳句が記されていた。
 
 冬牡丹 咲きし証の 紅散らす (安住敦)
 振り向きし 人の襟足 冬牡丹 (松崎鉄之助)
 ひらく芯より 紅きざし 冬牡丹 (鷹羽狩行)
 唐国に 通ふ心や 冬牡丹 (古賀まり子)

雪よけのワラポッチの中に様々な種類の牡丹が咲いている。牡丹などじっくり眺めたことはない。こんなにも種類があるとは思わなかった。今までバラ園などを好んで見てきたが、ぼたん苑は全く趣が違う。洋と和の違いはあまりにも歴然としている。ぼたん苑を散策していると古き懐かしき昔の時代の庭を歩いているような気分にさせられる。

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images22.jpg images555.jpg im666_convert_20110121122137.jpg 111eded_convert_20110120235546_convert_20110121121323.jpg

苑庭は全体的に和風造りで牡丹の花によく似合っている。所々に赤毛氈を敷いた縁台が置かれ休み処となっている。そこに火鉢が置いてあるという気配りは、ぼたん苑の雰囲気を優しいものにしているようだ。今日は暖かいが、寒い日などは火鉢のぬくもりがかなり嬉しいはずだ。

ぼたん苑は、かなり広く幅はそれ程でもないが奥行きは東照宮の参道に沿っていてほぼ参道と同じ長さだ。売店もあり苗木も売っていて、お休み処では温かい甘酒やお茶、みたらし団子などもある。これだけの面積の庭園に、育てるのが難しい寒牡丹がかなり豊富に咲きそろっている。これだけの数のぼたんを堪能させてくれるということを考えると入場料の値段も頷ける。

苑内には俳句コーナーがあり、自作の俳句を書くことができる。牡丹が植えられている間に俳句や短歌が書かれた立て札が立っている。それがまたぼたん苑の風情を豊なものにしている。少し拾ってみた。

 夢の又 夢の色なり 冬牡丹
 火の色を 恋て火色の 冬牡丹
 踏みこみし 足跡一つ 寒牡丹
 句に詠めば 白さの失せむ 寒牡丹
 しろがねの 心あふれて 寒牡丹

ぼたん苑から東京文化会館方面に出る。至る所に国立西洋美術館の建物を世界遺産にと書かれたのぼりが立っている。世界遺産がどんどん増えていくとあまり有り難味がなくなってしまうのではないか。西洋美術館の隣にオープンテラスのあるレストランがある。軽食と、ビール、ワイン、ジュースなどを売っている。

太陽がさんさんと降りそそぐ。日向ぼっこでもしながらビールでも飲もうと思い、ガーデンテーブルに席をとった。昔はビールはお金を入れて紙コップに自分で注ぐようになっていたが、今ではカウンターで受け取る事になっていた。ほとんどセルフサービスなのに、値段だけは普通の店と変わりない。生ビールが500円だ。

オーバーを脱いでも全く寒さを感じない。日差しが頬に刺すように当たる。隣の席の老人は半袖シャツだけだ。それでも寒くないだろう。寒さが続いた中で太陽の暖かさは身に染みるものがある。ガーデンチェアーでゆったりとした気分で昼間からビールを飲みながら、昼下がりの太陽を楽しむなんてなんという贅沢なんだろうと思った。死に至る病の代償として与えられたのは、生きる意味をかみしめる時間だったのだろうか。

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定期検診の日・眼科の診療

1月19日(水)
検査結果
 IgM   4916(1/19)←3618(1/5)←3498(12/22)←3473(12/8)) 
 IgG    518←441←512←538←539
 総蛋白  9.2←8.1←8.2←8.3 
 白血球  3400(1/19)←2800(1/12)←2000(1/5)←2800(12/28)
 好中球  1120←800←440←1270
 血小板  6.7←3.7←6.5←6.
 赤血球  299←273←297←313
 ヘモグロビン 9.8←8.9←9.6←10.1
 網赤血球  7←6←5←10←5


これはどうしたわけだ。担当医も私もパソコンの画面を見て叫んだ。IgMが2週間で1300も上昇した。4916という驚くべき上昇だ。突然薬効が切れるなどという事があるのだろうか。確かに緩やかな上昇はあった。今回も一週間の休薬が入っているので若干は上がっているかもしれないとは思っていたが、この数値は全く薬を飲んでいない時と同じだ。検査ミスと思いたいが、総蛋白も急激に上昇しているので、IgMの上昇は間違いないだろう。1ケ月21日間服用したレナリドミドはがん細胞に対して全く役に立たなかった事になる。

白血球(好中球)は1日おきに病院に通ってG-CSF・ノイトロジンの皮下注射をしたおかげで上昇した。注射をやめレナリドミドを飲み続けると再び上がるだろう。

IgM上昇をどうするかの判断は非常に難しい。結論から言えば、最もオーソドックスな標準治療であるレナリドミド+デキサメタゾンの併用療法を止むを得ない選択として行う事にした。臨床第Ⅱ相試験では、Lenal(25mg、3週間内服、1週間休薬)+DEX(40mg内服、days1-4,9-12,17-21)で奏効率は91%だった。この方法より薬の量は減らす。レナリドミドは15mg21日間、デキサメタゾンは40mgを1ケ月4日間連続服用することにした。

この併用療法で効果は上がるだろうが、サイトメガロウイルスの活性化の恐れがある。眼科医とよく相談して眼底検査をこまめにしながら、CMVの動きを見張っている外ない。動き始めたらデノシン硝子体注射を再び行うことになる。

デキサメタゾンの錠剤は昔デカドロンと言われ0.5mgのものしかなかった。従って1日40mgを摂取するのに80錠服用しなければならなかった。しかし最近1錠4mgのレナデックスが発売された。これで朝4錠、昼3錠、夜3錠計1日10錠飲めばよくなった。

眼科での診療では、1日5種類の目薬を差し、ダイアモックスも服用してきたのに眼圧は全く変わらなかった。この錠剤は房水の産生を減らして、眼圧を下げる働きを持つ。12月中頃から眼圧30という数値が続いている。色々点眼薬を変えたりしても一向に下がる気配がない。ダイアモックス250mgを1週間朝夕2回に分けて服用したが全く効果がなかった。量を増やし375mgをやはり2回に分けて服用し様子を見る事にした。

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東大患者家族交流会(Pharos)

1月18日(火)
先週の土曜日、東大病院内での患者会に参加した。場所は一時期新型インフルエンザが流行の時期使用出来なかったレセプションルームが再び使えるようになっていた。東大の患者会には同じ原発性マクログロブリン血症の患者のK氏が時々参加しているので会えるかもしれないと思っていく事にした。前もって電話すると遠距離から来なければならないので負担になるかも知れないと思い、来ていたら話をしようと思って出かけた。

かなり寒い日だったので、治療中の患者の参加が難しいだろう。K氏は来ていなかった。参加者は少なかったため、各人の自己紹介をかなり詳しく行なった。骨髄繊維症という珍しい病気の人も来ていた。

ある女性患者が話をした。移植後2年たつがまだGVHDに苦しめられている。体調もすぐれず、到底働くことが出来ない。区役所に生活保護の申請に行った。区役所の窓口の担当者は、配偶者はいないのかとか親や兄弟の生活状況はどうだとか、根掘り葉掘り彼女の私生活の部分に土足で踏み込んでくる。その屈辱に耐えがたい思いをしたということだ。

どうにか生活保護は取得できたが、あんな思いは二度としたくないという。また定期的に調査員が来て「働きなさい」とはっぱをかけてくる。確かに入院中だとか、手足が不自由だとかいった外的な障害はないし、見た目は健康そうに見える。しかし誰も好き好んで仕事をしてないのではない。仕事が出来ない体なのだ。

医者の診断書や体の状態について詳しい資料を提出しているのに全く無視されて、ただ出来るだけ早く生活保護を打ち切りたいという意図があからさまである。私の障害厚生年金取得時の苦労を思い出させるものだった。

急性リンパ性白血病患者で、移植後2年半経過したB氏の話になった。移植の前処置の大量抗がん剤に関しては特に強烈な影響はなかった。しかし1週間位すると全身に激しい痛みが貫くようになった。血は全身を巡っている。それが痛みを発しているのだ。敗血症ではないかと思う。モルヒネと抗生剤などの点滴注射が行なわれた。また治療法として人工透析が行なわれた。それによって痛みは嘘のように段々と消えていった。

恐らく広い意味でのGVHDなのだろう。ドナーの骨髄液が生着不全を起こしているのだと思う。合併症としての敗血症は細菌感染によって引き起こされる。細菌が血流に乗って全身に広がり、様々な臓器が障害を起こすものだ。

腎不全、肝不全、心不全と次々に体中の臓器に問題が生じてきた。集中治療室に運ばれた。何度か危篤状態に陥るほど症状は悪化してイいた。しかし彼は人工透析に関しては、自分で責任を取るから止めて欲しいと医者に頼んだ。透析を長く続けていると、腎臓機能が低下し、透析なしでは生活できなくなってしまうからだ。

一般的に移植関連死というものは多くの場合、無菌室から一般病棟に移ってからの、感染症によるものが多いと思う。生着に関しては大体移植後30日位かかるだろう。しかしこの辺りから急性GVHDとの闘いとなる。その結果入院が長引いたり、死に至るケースもある。

そして退院後、やっと体が復調に向かうかと思えば慢性GVHDが出てきたり、免疫抑制剤やステロイドの影響での免疫力の低下によりサイトメガロウィルスやヘルペスウイルスなどの日和見感染に罹ったり、肺炎やらインフルエンザに感染しやすくなって、結果命を落とす場合もある。

同種移植による移植関連死が20~30%と言われている。病状の重篤さや合併症や感染症によるものだろう。GVHDや間質性肺炎などがあるが、色々な支持療法でかなり改善されたのではないかと思う。

B氏は生死の間をさ迷いながら、どうにか体中を蝕んだ様々な病気を克服した。病院ではベッド待ちの人がかなりいたため、早々と退院せざるを得なかった。その後慢性GVHDはそれ程激しくなかったが彼なりの方法で克服した。

一つはドライアイになった。眼科で目薬を処方してもらってもあまり効き目がない。目の筋肉を鍛える事を始めた。いわば目のマッサージだ。これを続けていくと段々とドライアイが回復してきた。

もう一つは唾液が出にくくなってきた。これに関してはのどのリンパ線をマッサージする事によって回復を目指した。効果は人によって違うだろうが、自分で色々考えて治療していく姿勢には意味があると思う。

入院している時から頻尿に悩まされていた。点滴をしていたこともあるが1時間に一度位起きてトイレに行っていた。ほとんど寝られなかった。退院してからも就寝後4回位はトイレ通いが続いた。頻尿の原因は色々有るが、自分の場合には加齢と運動不足が主な原因ではないかということだ。臀筋を鍛えるのがいいと聞いた。そのためには大腿筋を鍛える事がいいという。原因が別のところにあった場合には医者に行くほかない。

最初は散歩をしていたがそれでは筋肉を鍛えられないので、近くの神社の階段の上り下りをする事にした。4往復位駆け出して上り下りするとかなり筋力増強に効果がある。また神社に行く途中も100m走り100m歩くといった運動をした。これを週4日位する。おかげで今ではトイレに起きるのも一回位になった。

良くそんな体力があるなあと感心するが、もう色々な薬も飲んでいないし、赤血球の状態も正常値なのだから走ることも可能なのだろう。こういった病気に対する様々な工夫は、医者任せではない治療への前向きな姿勢を感ずる。ただ素人判断の危険も考慮しなければならないだろう。またいかがわしい民間療法も沢山あるので注意が必要だ。

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映画 『オーケストラ』

1月15日(土)
51Ued_convert_20110115231210.jpg ブルジネフ政権下の1980年、ロシア・ボリショイ交響楽団の天才指揮者のアンドレイは、楽団員のユダヤ人の迫害に反対し、とりわけユダヤ人の天才バイオリニスト・レアをかばう。KGBはアンドレイが指揮をし、レアがバイオリンを弾くチャイコフスキーバイオリン協奏曲が始まってから、舞台に登場し指揮棒を折り演奏を中止させてしまう。

アンデレイは翼を奪われたようだと言う。それ以降楽団を解雇されてしまう。アンドレイはいつか復職する日を夢見て、30年にもわたり劇場清掃員として働いていた。ある日パリのシャトレ座から送られてきた出演依頼のファックスを見つけ、偽のオーケストラを結成することを思いつく。

ソ連時代の圧政で地位を奪われたロシアの元天才指揮者が、30年後の今、共に音楽界を追われた演奏家たちを集め、ボリショイ交響楽団に成り済ましてパリ公演を行おうとする。そのためにアンドレイが昔の仲間を尋ね回るシーンは、他の映画でも良くあるが、段々と人が集まり、楽団を形成していくというパズルの抜けたところを埋めていくような面白さがある。

元の楽団員は、今では救急車やタクシーの運転手、蚤の市の業者、ポルノ映画のアフレコなど様々な職業で生業を立てている。しかし皆楽器を手放すことはなく、何らかの形で趣味としてでも演奏している。

楽団員60名分の偽造パスポートを使ったり、パリ行きの航空券は後払いだということで、その金を調達するために下手な金持ちのチェリストに参加を条件にスポンサーとして金を出させたりして、パリ行きの障害をクリアしていく。パリで足りないが楽器や演奏会用の服を闇の業者に頼んで集めたりして物理的な問題は解決するが、今度は、楽団員たちがパリでの自由を謳歌して行方をくらましリハーサル会場にも来ない。

どうにか演奏会本番までこぎつける。指揮者がタクトを取り上げ振ろうとするその時にも楽団員2名が到着していない。少し間をおいている間に2人が到着し演奏が始まる。チャイコフスキーのバイオリン協奏曲である。まさにリハーサルなしのぶっつけ本番だ。こういったはらはらどきどきといったコメディタッチの描写も映画の緊張をほぐしてくれる。

最初は楽器の調子が揃わずこのまままともな演奏は不可能ではなかと思われた。しかし、ソリストであるアンヌ=マリー・ジャンが協奏曲の主旋律を引き始めると、楽団員にチャイコフスキーの魂が乗り移ったように協奏曲が一体となったハーモニーを奏で始めるのであった。この映画の最後の協奏曲の1楽章の演奏はまさに圧巻であり、この映画の全てがここに収斂していく。

このようなパリのシャトレ座での演奏の成功への道のりと、同時にもう一つの謎が横糸として貫かれている。演奏会を通して自らの復活と楽団の再建以外に、アンドレイがパリ公演で人気のスターバイオリンニスト、アンヌ=マリー・ジャンをソリストとして指名した理由が演奏会のもう一つの大きな目的でもあったのだ。2人には深い因縁があったのである。それを知る事によってアンドレイが彼女のバイオリンでチャイコフスキーの協奏曲を演奏するということの重要な意味が浮かび上がってくる。そして最後にその謎が解かれる。

アンドレイは元KGBのマネージャーにいう、オーケストラは自由な心が集まって生まれる、各人が自分の力を最大限発揮し、それがハーモニーとなって一つの楽曲を作り上げていくものだ。むしろコミュニズムとはそういったものではないか。

圧制で楽団員としての職を奪われ、さまざまな困難を経験してきたのだろう。そして30年の年月を経てもなおかつ1つになりえる演奏家達の思いがあった。共に奏でた者のみが知る心の絆である。彼らをそこに導いたのは、音楽への深い愛情なのだろう。彼らの逆境を笑顔で力強く生きていく姿、そのしたたかさと強靭さには学ぶべきものがある。それは音楽が支えているのだろう。同時に人はいくつになっても情熱と勇気さえあれば、人生をやり直す事が出来るということを我々に強く訴えかけるている。

30年前に中断されたチャイコフスキーの協奏曲を再び演奏したい、これはアンドレイにとってあきらめようにもあきらめきれない想いである。これはある意味でレアへの鎮魂曲でもあるのだ。楽団員はそれぞれの30年間の思いをこの曲を演奏しながら解き放っていく。そしてその思いは一体となってチャイコフスキーのバイオリン協奏曲は飛翔する。

この映画の主旋律はチャイコフスキーのバイオリン協奏曲である。CDで持っているのはアイザック・スターンの演奏で素晴らしいものであるが、この映画で最後にそれまでの歴史が集約され、凝縮された形で奏でられる演奏を聴いた感動はまったく別ものであった。

また映画の随所にクラシック音楽が取り入れられている。モーツァルト、パガニーニ、バッハ、シューマン、ハチャトゥリアンなどの曲が演奏されている。クラシック・ファンにはかなり興味を引かれる映画に違いない。
(製作:2009年フランス映画、原題:Le Concert、劇場公開日:2010年4月17日)

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院内患者家族交流会(おしゃべり会)

1月14日(金)
2ケ月1度の院内交流会が行われた。この交流会は血液内科病棟で現在治療を受けている患者とその家族、外来治療を受けている人、血液内科での治療経験のある人が主に参加している。場所は入院中の患者が参加しやすいように病棟の一画にあるディ・ルームを借りて行なっている。

治療経験者は、自分の経験、治療中に得た様々な知識、医者からの様々な情報、同じ部屋の他の患者との話しで知ったことなど、これから治療を受けようとする患者とその家族に対して色々アドバイスできる。それが交流会の大きな目的だ。

今日は今年一番の冷え込みだという。この寒さでは治療中の患者や、患者経験者はなかなか参加する気力を出すことは難しいかもしれない。そう思っていたが、交流会には4人の見舞いに来ていた患者家族が参加してくれた。

移植待ちでドナーを探している状態で、化学療法を行なっている娘を持つ母親と姉、移植を終って間もなく退院となるであろう息子の母親が参加していた。その息子は甘いもが好きで、また大量のジュースを毎日飲んでいた。そのためか、またステロイドを使っているためか血糖値が増えてきていて、甘いもの控えるようにしている。

また10月に移植をした娘の母親も参加し娘の状態を話してくれた。娘はGVHDが次々と発症し、未だ退院できない。白血球が少ないので、外泊はもちろん、売店に行くことも出来ない状態だという。またステロイドの影響で血糖値が上がり、毎日4回検査し、インシュリンの注射を打っている。体がしんどくても色々やることがある。GVHDで皮膚が乾燥し割れてきている所があり、風呂上りに全身に薬を塗らなければならない。見舞いに行ってもやる事が結構あるので行く意味がある。

3人の母親はほぼ毎日見舞いに来ているそうだ。家にいて心配しているより見舞いにいった方が気が楽だという母親もいた。しかし見舞いに来られる方はそういった献身的な母親の行為に負担を感じることもあるのではないのかとも思う。

これから移植をしようとする母親と姉は、医者から色々説明を受けてはいるのだろうが、実際に移植をするということはどういったことかを知りたがっていた。前処置での影響はどんなものか、それに対してどうしたらいいのか、移植経験者はどうしてきたのか、GVHDはどのように現れるのか、など次々に質問する。

移植経験者はそれに対して自分の経験と知っている人の状態など事細かに説明を行なった。確かに知ることで不安になることもあるだろうが、知らないことで漠然とした恐怖感を抱いているより、知ることの方がはるかに楽になるだろう。確かに患者の中には自分の病気に対して医者任せの方が気が楽だといって、病気や治療法について知ろうとしない人もいる。

むしろ家族の方が心配で事細かに情報を集めようとする。そうしないとどのように患者に対応したらいいのか分らないからだ。患者もかなりのストレスを感じるだろうが、家族のストレスはそれに倍して大きい。しかし腫れ物に触るように患者に接する事が、かえって患者にとって負担になる事もある。

こういった家族と患者との関係をどうしていくかについて皆で話していった。色々な家族間の事情があったとしても、患者家族としては患者に多くの時間を割きながらも、自分の生活といった軸を持ちながら患者と接していて行く事が重要ではないかと思う。

交流会も終わりに近い17時15分位前に、衝撃的な出来事があった。2ケ月1度の交流会に欠かさず出席し、自分の病状について元気に積極的に話しをしてくれていたA君が、奥さんの押す車椅子で交流会の部屋を訪れた。

彼は2年程前に1度、兄をドナーとして移植している。その後再発し再度移植した。今度は骨髄バンクからドナーを紹介してもらった。一座不一致だったが行なった。6月頃移植したが、一座不一致のせいか、GVHDがかなり強烈で11月になっても退院の目処が立たなかった。

12月になって信じがたい事態が起こった。白血球が1万を越えるようになった。移植によって白血病細胞を絶滅することは出来ず再発してしまった。再度移植するには体力が持たない。抗がん剤治療をやっても数値を少し減らす事が出来るだけだ。もはや治療法はない。後何日生きられるか分からない。日単位か週単位か、月単位ということはない。彼はその事を交流会のメンバーに告げに来たのだ。

あまり効果のない抗がん剤治療で1、2週間寿命を延ばしても意味がない。もはや一切の抗がん剤治療をやるつもりはない。だから病院にいてもやることはない。そう判断し彼は退院した。

今日は輸血のため病院に来たと言った。患者会などに来る白血病患者は皆完治した人ばかりだ。彼らを見ていると、白血病と死というものは別物に思える。白血病で約半数の人が死んでいくそういった数値は観念的な統計数値でしかなかった。しかしA君の言葉はあまりにも身近に直接的に、死と向かい合わざるを得ない血液がん患者の現実を明らかにするものであった。

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石田衣良 『池袋ウエストゲートパークⅩ』北口アイドル・アンダーグラウンド

1月13日(木)
41MFed_convert_20110113223238.jpg 『池袋ウエストゲートパーク』は、果物屋の息子で普段は「池袋西口公園」脇の西1番街の果物屋で仕入れや店番をしている真島 誠(マコト)を主人公とする短編小説集である。マコトは正義感が強く色々な相談が持ち込まれ、その解決のため奮闘する。“池袋のトラブルシューター”とも呼ばれる。

このシリーズは7巻まで読んだが、いつの間にか10巻まで出ていた。10巻が手に入ったので読み始めた。4つの物語で構成されているが、その中で「北口アイドル・アンダーグランド」という話を取り上げてみる。

この物語でのマコトへの依頼者は、池袋北口の地下ライブハウスで歌っているイナミという地下アイドルである。ストーカーに追い掛け回されているので守って欲しいという依頼である。池袋の小劇場やライブハウスはほとんど雑居ビルの地下にあるから、そこで歌っている地域限定のマイナーアイドルを地下アイドルと呼ぶそうだ。

この中主人公が直面する人間関係の難しさや危うさ、夢を追いかけることへの不安や迷いなどを通しながら、最終的に自分の生き方を確認していくその過程がなかなか感動的である。

「歌とかアイドルとかで食っていけるの」
「生活していくのにぎりぎりかな。足りない時は日雇いのアルバイトをすることもあるけどたいへんなこともある。でも好きな歌を歌って、応援してもらえて、CDまで買ってもらって、それで生活できるんだからやっぱりすごいことだよ。私は特に美人でも可愛くもないけど歌は大好きだから」(文藝春秋単行本p105)

イナミの話は自分がおかれている状況をマイナスごと受け止めて、さらにまえむきになれる見事な覚悟を示していた。マコトはイナミのそういった生き方に共感し依頼を引き受ける。確かにイナミもマコトも自分の現状への迷いや不安を抱えていないわけではない。しかし今の生き方を運命として受け止め、それを肯定的に生き抜いていくことに意味があるのだ。

「いい年をして、いつまでアイドルになる夢なんか追いかけているんだろうなあって、自分でもちょっと不思議になるよ」
「それなら、おれだって似たようなんものかもしれない。いつまでおれはこうして、素人探偵のようなお遊びを続けていくのだろうか。」(P117)

自分の生き方を肯定することは決して簡単なことではない。著者は日本の現状を次のように語る「政権交代とか、地方分権とか、公務員制度改革とか、いまやおおきなストーリーは根腐されてしまった。そこには青春の志とか坂本龍馬も入る余地はないもう日本の青春期は20年前に終ったのだ」。

こういった現状の中で、食うために低賃金で仕事をし、その日暮らしの多くの若者が自分の生き方を肯定するなどということは不可能に近い。しかし著者はこのような世の中でも生きがいを見出していける余地は残されているのだという事を、イナミとマコトの生き方を示すことによって読者に訴えているのである。

「なあ夢をあきらめたら、本当に楽になれるのかな? 逆にどうしてあの時もう少しがんばらなかったのか、あとで後悔するんじゃないかな。あんたはまだ全力をつかい切っていないから、夢のほうがあんたに期待して離してくれないんだよ」
それはおれ自身への言葉でもあるようだった。今やっていることの先には何も待っていないのは分っているが、こうして生きていくしか、おれには選択肢がないのだ。誰もがどうにもならない自分の運命を持って生まれてくる。(P118)

10巻の「プライド」の章に「負けるな、このうんざりするような世界にも、自分の心にも負けるな」「闘いを投げずに、あきらめなければ、いつか必ずこちらの攻撃の番が回ってくる」という言葉が書かれていたが、それは「池袋ウエストゲートパーク」全体に貫くマコトの生き方であり、著者の確信なのだろう。

「北口アイドル・アンダーグランド」の最後に、事件を解決した後、イナミとマコトは話をする場面がある。その中で2人は自分の生き方の意味を互いに再確認する。どのような生き方でもそれを前向きに受け止め、肯定し、全身全霊を傾けて取り組めば最高の生き方となるという事を2人とも改めて自覚することが出来たのである。

「メジャーになるのも素敵かもしれないけど、私は池袋の地下アイドルでいいんだよ。この街のためにわたしにもできることがある、それが何だかうれしいんだ」
イナミの言葉はそのまま、オレの今回の事件で感じたことだった。こうして人さまのトラブルに余計な頭を突っ込み、解決できたり、出来なかったりする。そんなふうにして、年をとっていくのもいいものだ。(P142)

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眼科、血液内科の診療

1月12日(水)
眼科の診療では、眼圧の上昇をどのように抑えていくかが問題だろう。血液内科では、好中球の状態を知ることが今日の目的である。ノイトロジンの注射を5、7、10と3日間続けてやったがそれがどこまで効果を上げているかが問題だ。

検査結果
 白血球  2800(1/12)←2000(1/5)←2800(12/28)←2000(12/22)
 好中球  800←440←1270←270
 血小板  3.7←6.5←6.8←5.3
 赤血球  273←297←313←303
 ヘモグロビン 8.9←9.6←10.1←9.8
 網赤血球  6←5←10←5


眼科の検診では眼圧は29だった。全く変化していない。30近くの状態が長く続くと視力がますます低下してくる。ダイアモックスを使用する事にした。かなり腎臓に負担をかける薬だが腎臓の数値に問題はないので大丈夫だろう。ダイナモックス250mg錠を半分にして朝夕2回服用する。この薬はカリウムを減らすのでアスパラカリウム300mgを朝夕一緒に飲むことになっている。

点眼薬は5種類ある。免疫力が衰えているのでクラビットを引き続き1日4回点眼する。抗炎症剤のステロイド・リンデロンも4回、眼圧降下剤としてはトルソプトを3回、ミケランを2回、キサラタンを1回毎日点眼する。サイトメガロウイルスの活性化の兆候は全く見られないので、デノシン注射は当分しなくて済みそうだ。

血液検査では、好中球はノイトロジンの効果で大分上昇したがまだ不十分だ。今日と金曜日にも注射をすることにした。また血小板も何故か急激に減少した。担当医が言うには、レナリドミドは副作用が少ないと聞いていたが、かなりの骨髄抑制が多くの患者にみられる。確かに骨髄抑制ばアルキル化剤並みだが、がんに対する奏効率はかなり高い。

標準治療ではレナリドミド5カプセル(25mg)を月21日間服用する事になっているが、これは欧米人の体格から導き出された数値で、日本人だったら3カプセルで十分だ。5カプセルも服用したら骨髄抑制は強烈なものとなるだろう。血小板の数値ではまだ輸血というほどではない。怪我をしないように気をつける以外ない。こういった話を聞いて、外来治療室でノイトロジンを注射した。

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下谷七福神めぐり

1月10日(月)
ノイトロジンの注射のため病院に行く。今日は休日なので、救急外来で注射をしてもらう。11時頃病院に着いて、救急外来の受付に行く。受付には、研修医だろう若い医者が2名いた。注射の手続きが担当医から回っているかどうか確認を受けた後、すぐに診療室に呼ばれる。診療室には5つの部屋が並んでいる。

待合室には5、6名の患者が待機していた。ノイトロジンの注射は看護師でも出来るので、すぐに空いている部屋に通され注射をした。受付に戻って会計を済ませ、病院に入ってから出るまで15分位しかからなかった。この位スムーズに行くと楽だ。

病院の帰り道、谷中七福神めぐりの最初の東覚寺の横を通ると多くの参拝者で賑わっていた。例年は7日位で終る七福神めぐりも今年は8、9、10と連休なので10日までやっているようだ。確かにいつ行ってもいいのだが、この期間でないと、庭にある石像の七福神は見られるが、それ以外は仕舞われてしまうし、本堂や拝殿の扉は閉ざされガラス窓からしか中を見られない。どうせなら正月に行って七福神を見たほうがいいだろう。

七福神めぐりでいつも思うのはその組み合わせの面白さである。寺院と神社の両方が含まれ、寺院の宗派もまちまちである。また七福神はインドのヒンドゥー教(大黒・毘沙門・弁才)、中国の仏教(布袋)、道教(福禄寿・寿老人)、日本の土着信仰(恵比寿・大国主)が入り混じって構成されている。

またそれぞれが開運有福の神である。煩悩からの解脱、浄土を求めるなどといった抽象的な心の安寧などではなく、極めて現世的な利益を与えてくれる神なのだ。大国天=有福蓄財、毘沙門天=勇気授福、弁財天=芸道富有、布袋尊=清廉度量、福禄寿=人望福徳、寿老神=延命長寿、恵比寿天=敬愛豊財となっている。現世的な幸福(内容は物質的金銭的豊かさ)を願う対象である神とは、何と分かりやすいのだろう。

一つの宗派に属している人やキリスト教者は七福神めぐりに行くことはないのだろうか。七福神めぐりを見ると多くの日本人が無宗教であることが良く分る。どんな神にでもどんな宗教の寺院にでも、手を合わせ願い事をするのは決して宗教的行為ではなく、むしろ一つの風習でしかない。

江戸時代は初詣や七福神めぐりは観光的要素が多く含まれていたのではないか。時代小説にあったが、成田山新勝寺への初詣は2泊3日の旅だったそうだ。普段なかなか休みなどとれない江戸庶民が初詣、大山詣で、お伊勢参り、富士講など宗教的色彩をもった旅行にすると周辺の理解を得られるのでそういった装いを施し休暇を楽しんだとも思える。もちろん中には熱心な信者もいただろうが。

JR鶯谷駅→元三島神社(寿老神)→入谷鬼子母神(福禄寿)→英信寺(大黒天)→法昌寺(毘沙門天)→弁天院(弁財天)→飛不動正宝院(恵比寿)→寿永寺(布袋尊)→日比谷線三ノ輪駅

今日で催しとしての七福神めぐりも終わりだ。病院の最寄り駅田端から鶯谷までは5分とかからない。下谷七福神めぐりは鶯谷から日比谷線の三ノ輪までの間にある。歩く時間は1時間ほどだ。土日は全く体を動かさなかった。体力の維持のためにウォーキングは最適な運動だ。

鶯谷の駅を日暮里側で降りると改札口から神社の建物の裏が見える。神社の入口は反対側である。境内の階段の下には茅の輪があり、その横に8の字にくぐる方法が書いてある。階段の上に拝殿があり、横にある社務所では朱印色紙が400円と600円の2種類販売されていた。朱印を押してもらうのに1回100円である。谷中七福神の200円に比べて安い。どうやって決めるのだろう。

元三島神社から入谷鬼子母神に向う。鶯谷の駅前のホテルがひしめき合う細い路地を抜けていく。何故この場所にこんなに密集しているのだろうか。何といっても駅の真ん前なのだから。七福神めぐりの団体が細い路地に入って来る。60過ぎの婦人が連れ合いに「3500円だってこれ一人分の料金かしら」などと話しているのが聞こえた。これだけ店があるとこういった所でもやはり安売り競争になってしまうのだろう。

金杉通りに出る。ここから入谷鬼子母神まで、8月には朝顔市が開かれ、鉢植えの朝顔が所狭しと並んで売られている。歩道は朝顔を買い求める観光客でごった返していた。鬼子母神の境内にも朝顔売りの出店が並んでいた。今は、七福神めぐりの人達が5、6人いるだけだ。

元三島神社・寿老神
大山祇神社のご分霊を祀り、その源を弘安四年の役に発する。勇将河野通有、大山祇神社に必勝の祈を捧げ神恩加護を仰ぎ、武功赫々として帰国したところ、夢の中に神のお告げを得て、上野山中にあった河野氏の館に分霊を鎮座したことに始まる。旧金杉村(台東区根岸、東日暮里)の鎮守。

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 元三島神社社殿                            寿老人

入谷鬼子母神真源寺(仏立山 法華宗本門流)・福禄寿
1659年(萬冶2年)光長寺20世・日融が当地に法華宗本門流の寺院を開山したことによる。入谷鬼子母神として有名なほか、毎年7月の七夕に朝顔市が行われる。

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 真源寺本堂                               福禄寿 

鬼子母神から英信寺にいく。ここに安置されている弘法大師作といわれる三面大国天は右に弁財天、左に毘沙門天の3つの顔を持つ。椎名町駅前の金剛院にも三面大黒天があり正月のみ開帳されていた。これ一体で出世、開運、商売繁盛などを手助けしてくれるという何とも贅沢なものである。

すぐ隣に法昌寺がある。毘沙門堂には色彩豊かな毘沙門天が厨子の中に安置されている。その傍らにたこ八郎改め「たこ地蔵」が皆の無病息災を祈願し合掌している。地蔵には彼の口癖であった「めいわくかけてありがとう。たこ」と彫られている。

法昌寺に隣接して大慈大悲の下谷観音堂がある。また寺院の向いには小野照崎神社があり、子連れの家族が参拝していた。学問の神様だから子供を連れてきたのだろうか。成人式の帰りの振袖姿の何人かの女性の姿も見られた。

英信寺(紫雲山 浄土宗)・大黒天
慶長年間(1596年~1615年)の開山と伝えられ、弘法大師・空海の作といわれる三面大黒天を有する。

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 英信寺本堂                               三面大黒天

法昌寺(日照山 法華宗本門流)・毘沙門天
慶安元年(1648年)の創建と伝わるこの寺は、宗祖奠定十界勧請大曼陀羅を本尊とし、毘沙門天を祀りもする。
境内にたこ八郎を祀った地蔵を安置している。由利徹、赤塚不二夫、山本晋也らを発起人として昭和60年(1985年)に作られたこの地蔵は、合掌をした立像で、たこ八郎の生前の姿を模ったものとなっている。本寺は同氏の菩提寺であった。

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 法昌寺本堂                               毘沙門天

下谷観音堂、小野照崎神社

小野篁(たかむら)が東下の際、上野照崎の地に留まり、里人たちを教化した。里人らは上野殿(諫議亭)と敬慕し、仁寿2年(852)小野篁が没すると、これを照崎の故地に祀って小野照崎大明神と称した。江戸末期、回向院より菅原道真自刻と伝わる像を迎えて相殿に祀り、江戸二十五天神の一つに数えられた。

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 下谷観音堂               小野照崎神社

弁天院周辺はかって水の谷といわれ、竜泉寺一帯と金杉上町の一部にあった原っぱであった。 この原っぱには大きな池が二つと、小さな池が一つあり、大きな池には2400坪で、47坪ほどの島があった。大震災後にこの池は埋め立てられた。

水の谷の池が埋め立てられたことを惜しんだ久保田万太郎は次のような句を残している。「水の谷の池 埋め立てられつ 空に凧」。その名残をとどめた池が境内にある。

飛不動尊の縁日は10月10日だということだ。10月(神無月)は神様が縁結びの相談のため出雲に出かける。その留守を預かるのが恵比寿天だ。10月10日は全ての願い事をキク「菊恵比寿の日」ということで菊を供えて御参りする日となっている。

朝日山弁天院(曹洞宗)・弁財天
備中松山城主水谷伊勢守藩で、寛永初年不忍池(現上野恩賜公園内)に弁財天を創設すると同時に、その下屋敷であった水の谷池にも弁財天を祀りそれを姉弁天、東方の水の谷を朝日弁財天と称した。

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 弁天院本堂                                弁財天

飛不動尊正宝院(龍光山三高寺 天台宗系単立)・恵比寿

開山は室町時代で、修験の僧であった正山という者により、三高寺・正寶院として享禄3年(1530年)に開基された。『飛不動尊』は本尊の不動の異称で、一時的に奈良の大峯山にあったものが一夜で江戸まで戻ってきたという、自身の逸話からこの名がある。そこから航空安全の利益ありとの評判を得るに至っている。

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 正宝院本堂                               恵比寿

最後の寿永寺に向う途中に「樋口一葉記念館」がある。こちら方面にはめったに来ないので寄ってみることにした。3階建ての立派な建物だ。1階には大きなテレビが置いてあり、その前に椅子が並べてある。ビデオ内容を選択して見ることが出来る。樋口一葉の生涯、たけくらべの漫画での紹介など4種類位から選択できる。展示物を見る前の予備知識を得ようと「一葉の生涯」のビデオを見た。

2階の展示室には自筆原稿、書籍類、遺品等の資料を通し一葉の24年間の生涯を紹介している。3階には「たけくらべ」に登場する人物模型や、その他代表作に関連した映画や芝居のポスターやパンフレットなど風俗資料が展示されていた。

一葉記念館に面した一葉記念公園には「たけくらべ」の記念碑が立っている。そこには佐佐木信綱の歌二首が刻まれている。また公園前には、菊池寛の一葉を称える撰文による記念碑が立っている。

寿永寺では、七世敬首和上が、法生会という動物慰霊の文を発願した。また弥勒菩薩の化身といわれる布袋尊を崇敬している。布袋尊は中国に実在した高僧で。清廉度量の神となっている。本堂の横に大きな布袋尊の石像がある。そのおおらかな様相は人の心を和ませてくれる。この寺院から三ノ輪駅までは5分もかからない。

樋口一葉記念館

名作「たけくらべ」の舞台となった龍泉寺町(現・竜泉)の人々は、一葉の文学業績を永く後世に遺すべく、有志により「一葉協賛会」を結成した。協賛会は記念館建設を目指し、有志会員の積立金をもとに現在の用地を取得し、台東区に寄付をして記念館建設を要請した。台東区は記念館建設を決定し、昭和36年(1961)開館に至った。

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 記念館建物                         展示風景

寿永寺(正覚山得生院 浄土宗 通称赤門寺)・布袋尊
江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の側室であった得生院殿寿永法尼という尼が、秀忠の菩提を弔うためにとこの地に一宇の庵室を開いた。これがすなわち寿永寺の開創で、寛永7年(1630年)のことであった。

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 寿永寺本堂                               布袋尊

(参考資料:台東区の史跡・名所案内、はてなキーワード、猫のあしあと)
 

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

柴又七福神めぐり

1月7日(金)
水曜日の血液検査で好中球が440しかなかった。その改善をはかろうとノイトロジンの皮下注射を継続して行うため病院に通うことになった。特に時間指定はないが、午前中に行くことになっている。30分位で終了する。

11時半に病院を出た。気温が10度以下になると、家にいたらなかなか外に出る気がしない。病院帰りのウォーキングとしては、大部分がこの時期にしか見られない七福神を巡拝できる七福神めぐりが2時間前後の行程で丁度いい。

30程ある東京七福神めぐりのどこにいくか。何処でもいいが、今日は時間があるので少し遠くても行ける。歴史がありそうな柴又七福神に行く事にした。ここは昭和8年に始まった七福神巡りだという。

金町駅→良観寺(宝袋尊)→真勝院(弁財天)→題経寺(毘沙門天)→万福寺(福禄寿)→宝蔵院(大黒天)→医王寺(恵比寿天)→観蔵寺(寿老人)→高砂駅

常磐線金町駅で降り、金町浄水場の脇の道を京成線の線路沿いに帝釈天の方に向って進む。5分位で最初の目的地良観寺に着く。本堂の脇にはコンクリート製の大きな布袋尊が立っている。この寺の布袋尊は宝袋尊と書く。この願掛け宝袋尊のお腹に手を当てて熱心に願い事をすると願いがかなうということで、多くの参拝者がお腹に手を当てて御参りしていた。

本堂の右には安らぎ地蔵が100体ほど並んでいた。ペットの墓地もあり多角的に色々やっているようだ。ペットの遺骨を一体預かる場合1年間に3万6千円かかると書いてあった。これが高いか安いか分らないが、寺院の経営も大変だと思う。

次の真勝院に行く途中に八幡神社がある。古墳の上に建てられた神社だというからどんなものだろうと思って寄ってみた。境内から色々と発掘された。神殿の裏には古墳の石室(非公開)がある。また、渥美清さんの命日(平成13年8月4日)に、この古墳で「寅さん」そっくりの埴輪が出土し、「郷土と天文の博物館」に展示されている。

良観寺(弘誓山観音院 真言宗豊山派)・宝袋尊
創建年代は不詳だが、室町時代末期から江戸時代初期にかけての間に念仏堂として建立されていたと考えられる。

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 良観寺本堂                               宝袋尊

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 六地蔵とやすらぎ地蔵                    宝袋尊

八幡神社
柴又八幡神社は旧柴又村の鎮守。円墳の上に建てられた神社で、円墳は直径30m、6世紀~7世紀の築造であることが判明した。

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 八幡神社正面鳥居と参道                  社殿

八幡神社から柴又街道を横切り江戸川方面に向かうと真勝院の山門がすぐ左にある。参道の右には五智如来石像が並んでいる。葛飾区の文化財指定になっている。弁財天は本堂の扉が少し開けられ、その間に置かれた厨子に入れられている。15、6人の年寄りの団体と何回か遭遇する。地域の「歩こう会」か何かなのだろう。

柴又帝釈天の境内は、初詣に来た人や、観光客でごった返していた。参道も人で溢れ、寺院の周辺には屋台がひしめき合って並んでいた。

その雑踏から逃れ、次の万福寺に向うと一気に静けさに包まれるような気がした。住宅街の真ん中に万福寺はある。境内には全く人気がなかった。福禄寿は本堂の中の厨子に納められていて、縦の桟のはまったガラス戸を通して見るようになっていた。

真勝院(石照山真光寺 真言宗豊山派)・弁財天
大同元年(806)の創建と伝えられ、江戸時代までは柴又八幡神社の別当寺だった。
五智如来石像: 密教では大日如来の知恵を五つにわけ、これに五仏をあて五智如来という。真言の行者は発心修行の結果、この五智を得ることができるといわれている。向かって右から阿しゅく如来・宝生如来・大日如来・阿弥陀如来・不空成就如来の順に並び、中央の宝冠を戴く大日如来を、真言宗では最高の仏として寺院の本尊としている。

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 真勝寺本堂                               弁財天

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 真勝寺山門                         五智如来石像

柴又帝釈天(経栄山題経寺 日蓮宗)・毘沙門天
市中山法華経寺第19世禅那日忠が当地にあった草庵を一寺とし成し、寛永6年(1629)開山したという。本堂改築に際して、梁の上から日蓮聖人自刻と伝えられる帝釈天像の板木(板本尊)を安永8年(1779)の庚申の日に発見、柴又帝釈天として著名となった。

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 柴又帝釈天帝釈堂                           毘沙門天

万福寺(聖閣山 曹洞宗)・福禄寿

昭和3年に創建。これはこの地から人骨数体が発掘されたため、地元の人びとの要望に基づくという。境内には110体の弘法大師石像が安置されている。

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 万福寺本堂                               福禄寿

万福寺から10分ほど歩くと広い境内の宝蔵院がある。多くの寺院の庭は日本庭園としてしゃれた造りになっている。しかしこの寺院の本堂の前の敷地は、住職が手入れをしているのだろうか、一般家庭の庭によく見られるガーデニングである。水仙が花をつけている。また梅も咲き始めている。ローズマリーなども植えられている。こういった家庭的な雰囲気は好感がもてる。

入口で住職が、「大黒天は本堂の中にあるので、上がって見ていって下さい」と参拝者に呼びかけている。また「写真撮影をしてもいいです」と言ってくれる。なかなか気さくな人だ。

宝蔵院の隣が題経寺の墓所になっている。北総鉄道の線路を潜ると「柴又七福神」ののぼりが立っていて道案内にもなっている。左右に仁王像を配した堂々とした山門が目に入る。かなり古めかしい感じがしたのだが、作られたのは平成4年だと書いてあった。20年もたたないのにこの色合いはどうして出てきたのだろうと不思議に思った。総檜造りで京都の神社、仏閣の専門建築業者が作ったらしい。

医王寺由来が山門脇の看板に書かれていた。「奇病(赤目病)が下総国一円に発生した。それを足利義満が聞き、悪病退散の祈願寺の建立を上奏し、京都仁和寺の僧観見和尚に薬師瑠璃光如来を奉持させ、柴又村の当地に建立した。その後奇病は終息した。現在でも眼病を護る仏として参詣に人々が訪れている。」これはちょうどいい。眼病にご利益があるというので、是非参拝しなくてはと思ったが、参拝する時にはその事を忘れてしまっていた。

宝蔵院(大黒山 真言宗智山派)・大黒天
寛永元年(1624)常陸国大聖寺末宝性院として京橋付近の創建、下谷谷中への移転を経て、明暦年間に池之端茅町へ移転したという。関東大震災で罹災し、昭和2年当地へ移転した。当寺に安置する出世大黒天は、将軍家をはじめ上下の信仰が厚かった。

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 宝蔵寺本堂                         弘法大師像

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 宝蔵寺の大黒天

医王寺(薬王山瑠璃光院 真言宗豊山派)・恵比寿天

観賢法印が応永14年(1407)に創建、下総国分寺下の薬王寺と呼ばれたと伝えられている。戦国時代の国府台合戦で罹災、寛永年間(1624-44)金蓮院の僧某が再興、医王寺と改称した。

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 医王寺山門                         医王寺本堂

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 恵比寿天                山門の仁王像

観蔵寺だけが離れている。医王寺は北総鉄道の新柴又駅前にあり、観蔵寺は一駅離れた高砂駅の傍にある。電車で行こうと思って改札口に向った時に列車の発車ベルが聞こえた。丁度上り列車が出たばかりだった。時刻表を見ると次の電車が来るのが23分後である。巡拝コース表によると、観蔵寺まで23分と書かれている。歩いても同じ時間だ。

待っているより歩くほうがいいだろう。「親水さくらかいどう」という桜並木の道を高砂方面に向かって歩く。高砂駅まで丁度20分かかった。列車よりも早かった。観蔵寺はひなびた田舎の寺院といった感じだった。七福神めぐりがなかったなら、誰も来ないのではないかと思う。

寿老人は本堂の扉が少しだけ開けられ、その間に厨子がありそこに収められ置かれている。かなり小さいので、近くで見たいと思ったが、「本堂に近づくと警報器が作動するので、階段の下から見学するように」大きく書かれていた。セキュリティがしっかりしていることと、寺院の外観とが何ともアンバランスだ。この寺院から高砂駅までは3、4分だ。京成線で日暮里まで出て帰路についた。

観蔵寺(金亀山神宮院 真言宗豊山派)・寿老人
文明元年(1469)僧空性坊が創建、承応2年(1653)隆敬法印が中興開山したと伝えられる。

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 観蔵寺本堂                               寿老人

(参考資料:かつまるガイド、柴又観光協会HP、猫のあしあと)

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

谷中七福神めぐり

1月5日(水)
北区のさんぽみちのコースを全て回り終わったので、病院帰りのウォーキングは何処に行こうか迷う所だ。正月だから七福神めぐりがいいだろう。丁度田端から始まる「谷中七福神めぐり」がある。この七福神めぐりは歴史上最も古く、全国各地に沢山ある「七福神巡拝」の原点といわれている。

13時に点滴が終わり、会計を済ませ、薬剤課でいつもと同じ注意事項を聞いた後、レナリドミド受け取り、病院を出たのは13時30分だった。予定外の免疫グロブリン製剤の点滴を2時間かけて行なったが思ったより早く終った。

田端駅→東覚寺・福禄寿→青雲寺・恵比須→修性院・布袋尊→長安寺・寿老人→天王寺・毘沙門天→護国院・大黒天→不忍池弁天堂・弁財天→湯島駅


最初の目的地東覚寺は病院への通り道にある。北区のさんぽみちの田端エリアにも含まれていて行ったことのある場所だ。普段行ったので福禄寿は見ていないし、この寺が七福神めぐりに入っているということも知らなかった。違った見方をすると同じ場所でも異なったイメージを与えてくれるものだ。

いつもは境内に人のいたためしがない。谷中七福神めぐりというかなり有名なルートなのだからだろうか、かなりの人で賑わっていた。1200円の和紙の朱印帳を皆買い求めている。また赤札を買って金剛力士像に貼っている人もいた。

東覚寺(白龍山寿命院 真言宗豊山派)・福禄寿
延徳3年(1491)源雅和尚が神田筋違に創建、根岸への移転を経て、慶長年間に当地へ移転したと伝えられいる。江戸時代には、7石の朱印地を拝領した御朱印寺でした。石造金剛力士立像は、全身に赤紙が貼られているので、通称赤紙仁王とも呼ばれている。身体の悪い人が、疾患のある部分に赤い紙を貼って祈願すれば、病気が回復すると信じられ、現在もなお祈願する人が絶えない。

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 明王堂(明導殿)                      東覚寺本堂

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 福禄寿                  はばたき観音              水子・子育地蔵菩薩

西日暮里の道灌山は、上野から飛鳥山へと続く台地上に位置し、西日暮里公園を含む台地上にひろがる寺町あたりは、ひぐらしの里と呼ばれていた。ひぐらしの里は、江戸時代、人々が日の暮れるのも忘れて四季おりおりの景色を楽しんだところから「新堀」に「日暮里」の文字をあてたといわれている。青雲寺と修性院はこのひぐらしの里に位置し、自然に囲まれ眺望に恵まれた景勝地にあった。今周辺は住宅地になり、境内にも自然の景勝は見られなかった。

青雲寺(浄居山 臨済宗妙心寺派)・恵比須
創建の時代は明らかではないが,宝暦年間(1751~64)に下総佐倉藩主堀田正亮が再興したと伝えられる。 寺の周辺は、江戸時代中ごろには自然に恵まれた「ひぐらしの里」と呼ばれ、文人墨客に好まれたといわれる。安藤広重の『江戸百景』にも描かれ、「花見寺」とも呼ばれた。また,境内には滝沢馬琴の筆塚と硯塚がある。

谷中七福神021_convert_20110105190406  谷中七福神023_convert_20110105190438
 青雲寺本堂                               恵比寿神

修性院(運啓山 日蓮宗)・布袋尊
天正元年(1573)豊島郡田中村(現練馬区南田中)に創建、寛文3年(1663)当地に移転したと伝えられる。境内に仮山を造り多数の花樹を植えた景勝地として青雲寺同様「花見寺」とも称されていた。

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 修性院本堂                               布袋尊

西日暮里から日暮里方面に向かう。途中に富士見坂があり、さらに進むと谷中銀座に突き当たる。夕やけだんだんと名付けられた石段を上ると経王寺がある。この寺の本堂の隣の大黒堂には日蓮上人の作と伝えられる大黒天が鎮守として祀られている。また慶応4年(1868)の上野戦争のとき敗走した彰義隊士をかくまったため、新政府軍の攻撃をうけることとなり、山門には今も銃弾の痕が残っている。

何故大黒天のあるこの寺が谷中七福神に入らなかったのか。どういった基準で七つの神社、仏閣を選定したのだろうか。

谷中七福神は今の組み合わせが、江戸時代から限られていたわけではなく、大黒天、恵比寿は神田明神、清水観音堂、大黒天は経王寺、毘沙門天は谷中本通寺、弁財天は北町の養泉寺とする事もあったと記されている。いつの間にか一つのルートへと収れんしていったのだろう。

経王寺の隣に本行寺がある。ここは景勝の地であったことから通称「月見寺」とも呼ばれていた。本行寺の前の坂を下ると日暮里駅に着く。線路に沿って右に曲がる細い道を行くと天王寺の塀に突き当たる。塀沿いに進んで行くと山門がある。境内の正面に本堂が左右に広がっている。またブロンズの大仏像がある。毘沙門天は毘沙門堂に安置されている。

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 経王寺大黒堂                        本行寺本堂

天王寺(護国山 天台宗)・毘沙門天
もと長燿山感応寺尊重院という日蓮宗寺院として、鎌倉時代に創建され、9ヵ院を擁する本寺だったが、不受不施派に対する禁令により天台宗に改宗した。享保年間には富くじ興行が許可されたことで賑い、湯島天満宮、目黒不動龍泉寺とともに江戸の三富と称されていた。

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 天王寺本堂                         毘沙門堂 
  
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 毘沙門天                大仏の彫像                五重塔の跡

天王寺から谷中の墓地の中を長安寺に向う。途中に谷中五重塔跡がある。この五重塔は、1908年(明治41年)に天王寺より当時の東京市に寄贈されたもので、幸田露伴の小説『五重塔』のモデルにもなった。東京の名所のひとつで、谷中霊園のシンボルになっていた。1957年(昭和32年)心中による放火で焼失した。

この塔の前に長谷川一夫の墓がある。そこを右に曲がって進むと突き当たりに長安寺がある。本堂の前に板碑があり、その周辺を十六羅漢が囲んでいる。この板碑は死者の菩提を弔うため、あるいは生前に自らの死後に供えて供養を行う(逆修という)ために建立した、塔婆の一種である。

また狩野芳崖の墓もある。芳崖は明治初期の日本画家で、19歳の時江戸に出て、狩野勝川院雅信に師事。橋本雅邦とともに勝川院門下の龍虎とうたわれた。その代表作「悲母観音図」「不動明王図」(ともに東京藝術大学蔵)は、いずれも重要文化財である。

長安寺(大道山 臨済宗妙心寺派)・寿老人
長安軒として安藤右京亮屋敷内に創建した。正徳2年(1712)大道山長安寺の寺号が認められ当地移転している。

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 長安寺本堂                               寿老人

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 狩野芳崖の墓                        十六羅漢 

谷中の墓地を抜け、言問通りをわたり上野公園に向う。真っ直ぐ進んで行くと護国院の古めかしい本堂に行き当たる。本堂の中はだだっ広く、中央に大黒天の像が祀られている。

清水坂を下り、動物園通りを10分ばかり行くと不忍池が見えてくる。弁天堂は池の中の島にある。弁天堂の中央には弁財天の像が祀られている。多くの人は入口の所で参拝している。しかし入口の所からでは弁財天があまりにも遠くにあってよく分らない。靴を脱いで中に入ることも出来るので、弁財天の近くに行こうと思った。

1人の老婆がお経を唱えている。最初はその後ろで写真を撮ったがまだ離れていて弁財天の様子が良く分らない。さらに近付こうとすると、その老婆が突然お経を止め、ここは檀家の人以外は入れないことになっている。また写真は撮ってはいけない、と叫んだ。その気迫に押されてすごすごとその場を離れた。弁天堂の裏に回り不忍池を半周して、湯島駅に出て帰路についた。

護国院(天台宗寛永寺の子院)・大黒天
寛永元年(1624)釈迦堂の別当寺として、現在の東京国立博物館の右手奥に開創した。宝永6年(1709)当地へ移転した。三代将軍家光から贈られたと伝えられる大黒天画像は谷中七福神の一つとなっている。

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 護国院本堂                               大黒天

不忍池弁天堂(天台宗大本山寛永寺境外祀堂)・弁財天
寛永2年(1625)天海僧正は、比叡山延暦寺にならい東叡山寛永寺を創建した。天海僧正は、松山藩主水谷伊勢守勝隆とはかり、不忍池を琵琶湖に見立て、竹生島(ちくぶしま)に因んで、池中に中之島(弁天島)を築き、のち竹生島の宝厳寺の弁財天を勧請し弁天堂を建立した。本尊は八臂の辯才天で、特に芸能や福徳にご利益があるとされている。

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 弁天堂                                  弁財天

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 裏から見た弁天堂                     不忍池から弁天堂を臨む

(参考資料:台東区の史跡・名所案内、荒川ゆうネット史跡・名所、はてなキーワード、猫のあしあと)

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定期検診の日・眼科の診療

1月5日(水)
眼科と血液内科の診療日だ。8時30分からの採血のため早めに家を出なければならない。丁度ラッシュ時にぶつかる。風邪やインフルエンザが流行っている時期、真冬の混雑した電車に乗るのは、免疫力の低下している身にとっては危険極まりない。

眼科では眼圧が下がっているのか、眼圧上昇の原因は何なのか、原因療法をやらなくていいのか、サイトメガロウイルスの状態をどう判断し、デノシン硝子体注射は継続するのかどうかの問題を抱えている。血液内科では好中球の状態が改善されているのか、レナリドミドは効果を維持しているのか、血液検査の結果で色々考えなければならないことが出てくる。

検査結果
 IgM   3618(1/5)←3498(12/22)←3473(12/8)←3178(11/24) 
 IgG    441←512←538←539 
 白血球  2000(1/5)←2800(12/28)←2000(12/22)←2200(12/8)
 好中球  440←1270←270←500
 血小板  6.5←6.8←5.3←7.4
 赤血球  297←313←303←327
 ヘモグロビン 9.6←10.1←9.8←10.4
 網赤血球  5←10←5←5


眼科での検査では眼圧は29だった。眼圧上昇の原因は新生血管が成長し房水の入口を塞いでいるということだ。しかしこの新生血管はこれ以上成長する可能性はなく徐々に縮小している。眼圧降下剤を今まで通り点眼すればいいと言われた。サイトメガロウイルスは収まっているので、デノシン注射は当分中止する。ただし免疫力が落ちているのでいつ再発するか分らない。週一度の検査には来てもらいCMVの状態を検査したほうがいいだろうということで、当面毎週通う事になる。

血液内科では好中球の440という数値を巡ってどうするかの話になった。今回IgMは上昇したが、レナリドミドはまだ効果を維持しているようだ。レナリドミドを5カプセル(25mg)にしたり、デキサメタゾンと併用したりすれば恐らく確実にIgMは減少するだろう。CMVとの関係でステロイド剤は使用できない。今の服薬の量ですら、好中球への影響は避けられない。

しかし現在の3カプセル(15mg)をこれ以上減らすわけにはいかない。それでなくともIgMは上昇している。また他の抗がん剤を使用するという選択肢もある訳ではない。結局15mgを21日間服用するという従来通りの方法を踏襲する外ない。

好中球の減少に関しては、G-CSF・ノイトロジンの皮下注射を定期的に行うことで対応する。今日と7日、10日、12日と4回行う。10日は休日だが救急外来で対応してくれるということだ。

好中球の減少だけでなくIgGも少なくなって来ている。500をきってしまった。好中球の減少で免疫力が低下しているのに、さらに免疫グロブリン(抗体)の機能も低下してきている。何の予想もしていなかったが突然医者が免疫グロブリン製剤の点滴を今日これからやろうと言った。反対する理由もない。2時間の点滴をするという心の準備が出来ていなかっただけである。医者の診療が終ってすぐに点滴が開始され、13時には終了した。

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雑司が谷七福神めぐり

1月3日(月)
正月の散歩コースは、何といっても七福神巡りだろう。なまった体を寒風にさらしながら、1、2時間歩くのは極めて有益だ。単に身体に有益なだけでなく気分的にも歩く目的が意味あるものであるから達成感を得られるだろう。

吉田さらさという寺旅研究家が言っている。「ご利益なんて非科学的なものは存在しないと思う人も多いでしょうが、それは間違い。神仏というものは、いないと思えばそれまでです。しかし、いると信じればいるのです。そして、お参りすることで、必ずや、何かの助けになってくれるものです。つまり、神仏にお願いしたから大丈夫という心の持ち方が、その後のよい展開に繋がってくるんですね。」つまり生き方は気の持ちようによってかなり変わってくるものだということだ。

昨年は板橋七福神巡りをした。11日だったので、既に七福神のご開帳は終っていて、誰も参拝者のいない寺社をただ回っただけだった。

今年も近場を回ろうと思った。雑司が谷七福神が七福神ルートに新たに追加された。昨年10月に設定されたそうだ。七福神のある寺や神社はのぼりを立てたり、七福神グッズを売る準備をしたり忙しかったことだろう。正月は神社、仏閣は書き入れ時には違いない。名のなき寺社も七福神のある場所として指名されれば、それなりの参拝者は見込めるだろう。

雑司が谷七福神巡りに使う巡拝の記念色紙は、雑司が谷鬼子母神堂と雑司が谷案内処で一枚500円で販売しているということだった。大体多くの七福神巡りでは色紙は800円でスタンプを押すごとに300円取られる。ここのルートでは色紙は金を取られるが、スタンプは無料で自分で勝手に押す事になっている。

自分で納経帳を用意すれば、池袋駅か護国寺駅を起点にして直線で巡拝することも可能だ。雑司が谷七福神巡りは23年度の元旦10時よりスタートした。特に色紙にスタンプを押してもらおうとは思わなかったので、護国寺から回る事にした。最後に池袋駅に出る。巡拝ルートは以下の通り。

有楽町線護国寺駅→清土鬼子母神・吉祥天→清立院・毘沙門天→大鳥神社・恵比須神→鬼子母神・大黒天→観静院・弁財天→中野ビル・布袋尊→仙行寺・福禄寿→池袋駅

護国寺駅から不忍通りを目白方面に、3、4分行き、右に曲がると清土鬼子母神の本堂が見える。かなり古い建物だ。左側には鬼子母神像を洗ったという三角井戸があり、その脇に吉祥天の石像がある。赤い真新しいのぼりが立てられ雑司が谷七福神と吉祥天と染め抜かれている。寺院関係者は誰もおらず、本堂の脇にスタンプが置いてあり、自分で押すようになっている。

そこから坂を上り、雑司が谷霊園方面に向う。次に行く清立院は雑司が谷霊園の一画にある。坂の途中に旧宣教師館通りという小奇麗な石畳の道が右に伸びている。わずかな距離の道で、すぐ旧宣教師館が右に見える。普段だったら中を見学できるのだが、正月で休館だった。柵の外から建物を見るほかなかった。

道は雑司が谷霊園にぶつかる。折角来たのだから、この霊園にある夏目漱石や、永井荷風、泉鏡花などの墓を見てみようと思って霊園に入った。寺院の墓に行くと有名人の墓の案内の看板がある。しかしこの霊園には一切そういった表示はない。霊園管理所は閉まっている。東京都の地図を持ってきていたので大体の目安をつけて、近くまで行って一つずつ墓石の名前を見ながら探す外ない。結局夏目漱石の墓しか見つける事ができなかった。

清土鬼子母神・吉祥天
鬼子母神のご尊像は室町時代の永禄4年(西暦1561年)山村丹右衛門が清土(文京区目白台)の地より掘りだし、星の井(清土鬼子母神〈別称、お穴鬼子母神〉境内にある三角井戸)あたりでお像を清め、東陽坊(後、大行院と改称、その後法明寺に合併)という寺に納めたものである。清土鬼子母神は鬼子母神堂に安置されている像が出現した場所に建てられたものである。

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 本堂                                   吉祥天

旧宣教師館、夏目漱石の墓
旧宣教師館: 明治40年にアメリカ人宣教師のマッケーレブが自らの居宅として建てたものである。マッケーレブは、昭和16年(1941)に帰国するまでの34年間この家で生活をしていた。豊島区内に現存する最古の近代木造洋風建築であり、東京都内でも数少ない明治期の宣教師館として大変貴重なものである。

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 旧宣教師館                         夏目漱石の墓

雑司が谷霊園の南西の一画の小高い丘の上に清立院がある。急な階段を上り境内に出ると本堂があり、その入口に毘沙門天の像がガラス容器の中に入って展示されている。境内には日蓮上人のブロンズ像があり、また雨乞いの松があり、日照りのたびに人々が集まり、緑を潤す雨を願い雑司ヶ谷に雨を恵むといわれていた。

門前にある「かさもり、薬王菩薩安置」という石碑は皮膚病に霊験あらたかであるとして、かって参拝人で大いに賑わったという。

大島神社は都電荒川線の線路脇にある。本殿の前には「茅の輪」があり、参拝者の多くの人がこれを潜っていた。茅草で作られた輪の中を左まわり、右まわり、左まわりと八の字に三回通って穢れを祓うものである。茅の旺盛な生命力が神秘的な除災の力を有すると考えられてきた。恵比寿神の厨子は扉が閉められ中を見る事ができなかった。七福神巡りの時期に開帳されないのであれば一体いつ見られるのだろう。

清立院(御嶽山 日蓮宗)・毘沙門天
正長元年(1428)頃に真言宗寺院として創建した。1259年に関東地方で疫病が流行した頃、清龍寺に投宿していた法華の旅の僧が庶民を救ったことから法華宗(日蓮宗)に改宗、江戸期には本立寺末だった。
 
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 本堂                                   毘沙門天

大鳥神社・恵比須神
神社はもと鷺明神と称し正徳二年(1712年)鬼子母神境内に創祀せられ、当時千登世橋に近く出雲藩下屋敷で藩主松平公の嫡男が疱瘡にかかった時、鷺明神に祈り治ったので厄病除けの神として尊崇されていたが、明治維新神仏分離に当り現地に移した。

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 社殿                                   恵比寿神が入っている厨子

鬼子母神・大黒天
法明寺の境外仏堂。1561年(永禄4年)に山村丹右衛門が清土(文京区目白台)で鬼子母神像を井戸から掘り出し、東陽坊に祀ったのが始まりとされる。1578年(天正6年)に現在の社殿を建立したという。入谷鬼子母神真源寺、中山法華経寺とともに江戸三大鬼子母神である。

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 鬼子母神堂                               大黒天

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 武芳稲荷参道                        武芳稲荷堂

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 鬼子母神像                仁王像

鬼子母神堂はさすがに有名寺院だけのことはある。3日の午後だというのに、入口から鬼子母神堂まで長い列が出来ていた。入口の左右には仁王像の石像が立っている。この二像は丈と幅が同寸といわれる珍しいもので、もと、盛南山という寺の観音堂にあったものが寄進されたと伝えられている。

境内には大公孫樹(おおいちょう)がある。説明板には樹齢600年以上、幹周8メートル、樹高30余メートルと書かれている。都の天然記念物となっている。都内のイチョウでは、麻布善福寺のイチョウに次ぐ巨樹である。このイチョウは「子授け銀杏」の名で親しまれている。

境内を歩いてみる。鬼子母神堂の横には金剛不動尊を安置した法不動(のりふどう)堂があり、裏には妙見堂がある。元禄12年(1699年)建立の帝釈天王の石像、鬼子母神石像がある。境内南東には、倉稲魂命(うけみたまのみこと)を祀った古社武芳稲荷があり、今は新築遷座されているが、古来この地が稲荷の森と称されていた頃の幾百年の名残を伝えている。なかなか見所が豊富だ。

鬼子母神堂から観静院に向う。法明寺の参道が山門に向って続いている。その途中に観静院がある。この周辺には幾つも寺院が密集している。法明院の塔頭である。

右側に寺院が並び、左側には法明寺の墓が広がっている間の細い道を行き、広い通りに出るとサンクスの脇の中野ビルの一画に布袋尊の祀られている祠がある。寺院に属さず単独であるのも珍しい。最も地蔵尊ではこういったことは普通にある。

そして最後の仙行寺に向う。境内の横にガラス容器に金色に輝く福禄寿が収められている。本堂の反対側には浄行菩薩の像があり、たわしが2つ置いてある。とげぬき地蔵の洗い観音のように菩薩像を洗う事によって身体に悪い所を治すといったご利益があるのだろう。

観静院(平等山 日蓮宗)・弁財天
元禄初期に法明寺塔頭として創立した。江戸時代には池袋御嶽神社の別当寺を勤めていた。

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 本堂                                   弁財天

南池袋の寺社
法明寺(威光山 日蓮宗): 弘仁元年(810)に真言宗威光寺として開創したといわれる。正和元年(1312)に日源が日蓮宗に改宗し威光山法明寺と改称しました。江戸時代には真乗院、蓮光院、玄静院、観静院等14ヶ寺を擁していた。
安国堂: 日蓮上人を本尊として祀っている祖師堂。
威光稲荷堂: 法明寺の関連の稲荷堂。迷路のようにくねった細い道を道なりに鳥居が続き、不思議な空気が漂うなか、その奥にひっそりと稲荷堂が祀られている。

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 法明寺山門                         法明寺本堂

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 安国堂                            威光稲荷堂

中野ビル・布袋尊
IMG__convert_20110103212920.jpg  七福神074_convert_20110103171741

仙行寺(松栄山 日蓮宗)・福禄寿
明治41年(1908)に小石川指ケ谷町の善行院と仙応院が合併して仙行寺となって後、当地へ移転した。

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 本堂                                   福禄寿

(参考資料:豊島区役所公式HP・「文化、観光」案内)

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初詣

1月2日(日)
買い物に行こうとふらりと家を出た。近くの長崎神社に寄ってみた。去年は1月1日に行ったので200~300名位が、神社の周りを取り囲むように列を作っていた。今日はせいぜい4、50名位が拝殿の前に並んでいる。屋台も4、5台しか来ていない。もっと人の集まる神社に行っているのだろう。

長崎神社

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 拝殿                            鳥居の左右にある狛犬

金剛院(蓮華山仏性寺 真言宗豊山派)
長崎神社の隣の金剛院にも行ってみる。正月3ケ日は、本堂の扉が開けられ、長谷寺の本尊十一面観世音菩薩の威徳を頂いた分身としての菩薩像や三面大黒天が見られた。この「三面大黒天」は、江戸時代後期の作で、大黒天の顔の向かって左側に毘沙門天、右側に弁財天の御顔が合体した珍しい三面の姿をしており、一度の拝見で「七福神三体分の御利益がある」と伝えられている。

また大師堂も開かれ、弘法大師(真言宗の宗祖)興教大師(中興の祖)専誉僧正(豊山派の派祖9の三尊が祀られているのを観る事が出来た。

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 本堂                            十一面観音分身       三面大黒天

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 大師堂                           興教大師、弘法大師、専誉僧正像

東京大神宮

家を出たついでに、東京の初詣スポットに載っていてまだ行ったことのない東京大神宮に行ってみる事にした。有楽町線の飯田橋を神楽坂方面から出ると、靖国神社と東京大神宮への矢印が書かれた看板が立っていて道案内となっている。中央線の線路を牛込橋を渡り越え、しばらく行くと左に曲がる。するとそこから既に参拝人の行列が出来ている。川崎大師ほどではないが、5~600人はいるだろう。参拝まで1時間半位待たなければならないなどと言っていた。その列を脇に見ながら、神社の中に入っていく。

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 正面鳥居                          社殿

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 境内の人出

本殿正面の参道は3列縦隊で参拝客がびっしり並んでいる。左の入口から境内に入る。入口のすぐ脇にテントが張ってあり、そこでは、甘酒、樽酒、御汁粉、赤福の餅が無料で振舞われている。しかし心づけはありがたく頂戴するということで、お布施を入れる容器は用意されてる。大体みんな最低100円は入れる。何枚か千円札も入っていた。なまじ有料にするより利益があるのではないかと思う。

由緒: 江戸時代、伊勢神宮への参拝は人々の生涯かけての願いだった。明治になり、明治天皇のご裁断を仰ぎ、東京における伊勢神宮の遥拝殿として明治13年に創建された。関東大震災後の昭和3年に現在地に移ってからは「飯田橋大神宮」と呼ばれ、戦後は社名を「東京大神宮」と改め今日に至っている。

鳥越神社
飯田橋の駅に戻って帰ろうかとも思ったが、そこから蔵前まで大江戸線でいける。鳥越神社には今まで行ったことがないの足を伸ばしてみる事にした。大江戸線の蔵前から15分位かかる。参拝に並んでいる人は30人ばかりだった。

由緒ある神社なのにあまり人が来ないのは何故だろう。まだ長崎神社の方が参拝者が多いくらいだ。交通が不便だからなのだろうか。むしろ例大祭で賑わうのだろう。毎年6月9日前後の日曜に、千貫神輿といわれる大神輿の渡御する「鳥越の夜祭」は盛大に賑わい、また正月6日に正月の片付け物を燃やす行事「とんど焼き」も有名であるということだ。

由緒:
鎮座1350年の古社。日本武尊が、東国平定の道すがら、当時白鳥村といった当地に滞在した後、その威徳を偲び、村民が白鳥明神として奉祀したことを起源とし、白雉2年(651)の創建と伝えられる。永承年間に、八幡太郎義家公奥州征伐の折、一羽の白鳥が飛んできて浅瀬を教えてくれ、軍勢を無事対岸に渡すことができた源親子は「鳥越大明神」の社号を奉った。

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 正面鳥居                          社殿

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 正月のみ展示される神輿                 福寿神社

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