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西日暮里神社・寺院めぐり

3月30日(水)
病院での診療と点滴が終ったのが14時になってしまった。3ケ所1日で済ませてしまおうとしたのだから止むを得ない。大分日が延びて17時半頃まで明るい。病院帰りのコンスタントな散策のコースはなかなか決められない。今日は出発時間が遅いので近場を回ることにした。西日暮里や日暮里は谷中霊園を中心にしてかなりの寺院の密集地だ。何処を歩いても寺院に行き当たる。

西日暮里周辺神社・寺院069_convert_20110331205132西日暮里周辺の神社・仏閣めぐりを考えた。西日暮里までは病院から15分位なものだ。駅から「諏訪台通り」が西日暮里から高台に沿って線路を見下ろすように日暮里に向っていて、その道の左側に諏訪神社から始まり幾つかの寺院が並んでいる。谷中銀座の道に行き当たると、左に日暮里駅があるが、谷中銀座通りに沿って3つの寺院が並んでいる。

西日暮里神社・寺院めぐりコース

西日暮里公園→高村光太郎石碑→諏訪神社→浄光寺→養福寺→啓運寺→経王寺→延命院→本行寺

西日暮里駅前に歩道橋がある。その歩道橋の階段を上ると西日暮里公園の入口になっている。また公園と線路の間に急な上り坂かあり「諏訪台通り」がここから始まり谷中銀座に至る。公園は15時近くという時間帯だからか、通り過ぎる人がいる位だった。

道灌山と書かれた史跡案内の看板が入口にあり、公園の中央には大きなパネルが6面あり、広重の絵や正岡子規や十辺舎一九などの短歌をも折り混ぜながら、ひぐらしの里(日暮里)・道灌山に関する歴史が詳しく書かれていた。公園の隣が第一日暮里小学校で、校門の前の高村光太郎の「正直親切」と書かれた石碑を見る。

西日暮里公園、高村光太郎直筆の碑
西日暮里公園周辺はかって景勝地だった。「西日暮里公園内案内板」には次のように書かれている。
「西日暮里四丁目の台地は道灌山とよばれ江戸時代には眺めがよく、東の崖ぎわは人々の行楽地で、筑波・日光の山々などを展望できたといわれている。薬草が豊富で、多くの採集者が訪れた。また、虫聴きの名所として知られ、涼を求めて人々が集まったところでもある。安藤広重の錦絵や正岡子規の歌などによっても当時がしのばれる。

ひぐらしの里では、寺社が競って庭園を造り、さながら台地全体が一大庭園のようだった。雪見寺(浄光寺)、月見寺(本行寺)、花見寺(妙隆寺<現在は廃寺>・修性院・青雲寺)、諏訪台の花見、道灌山の虫聴きなど、長谷川雪旦や安藤広重ら著名な絵師の画題となり、今日にその作品が伝えられている。」

西日暮里公園に隣接し第一日暮里小学校がある。その校門の右手に飯田雅光作の「フクロウの像」があり、並んで「正直親切」と書かれた卒業生・高村光太郎の直筆よる石碑がある。これは創立100周年記念事業で作られたものである。光太郎は、明治23年・1890に転入、その後卒業している。

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 西日暮里公園                        高村光太郎石碑

「諏訪台通り」を少し行くと鬱蒼とした森に囲まれた諏訪神社の境内に入る。諏訪神社の入口の鳥居の脇に浄光寺の山門がある。本堂と言っても2階建ての会館のような建物の2階入口が本堂になっている。最近の寺院の多くは鉄筋コンクリート製で、会館も兼ねた多目的に利用できるように作られている。よっぽど歴史のある寺院でない限り、昔の建物を木造で再現しようとすることはないようだ。

諏方神社
諏方神社は、元久2年(1202)豊島左衛門尉経泰が信州諏訪神社より勧請して創建。江戸期には日暮里(新堀)村・谷中町の総鎮守として崇敬を集め、また慶安2年には社領5石の朱印状を拝領していたほか、日暮の里として江戸有数の景勝地として有名だった。八月の大祭には百軒近く露店が並ぶ。

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 参道                             拝殿

浄光寺(真言宗豊山派 法輪山法幢院)
浄光寺の創建年代は不詳。当寺は諏方神社の別当寺であったことから、諏方神社の創建年代と同時期の元久2年(1202)前後の創建と推定できる。元禄四年(1691)には空無上人の勧化により江戸六地蔵の一つが安置された他、元文2年(1737)以降には将軍鷹狩りの際の御膳所となっていた。境内からの雪見が有名となって雪見寺と呼ばれた。境内左手には元禄4年(1691)に空無上人が勧請した地蔵菩薩像、文化6年(1809)に再建した地蔵菩薩立像がある。

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 本堂                             地蔵菩薩坐像、立像

浄光寺を出ると富士見坂の看板がある。谷中七福神巡りの時、下から富士見坂を見たが、それでは全く意味がなかった。急な坂上から開けた目の前の景色の中に富士山を見てこそ富士見坂なのである。薄曇の空の下では富士山を見ることは出来なかった。

富士見坂と日暮里駅、ガーデンタワー・ポートタワー方面

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 富士見坂                   ガーデンタワー、ポートタワー

浄光寺から養福寺、啓運寺と軒を並べているといった感じだ。養福寺の仁王門には驚かされた。立派な仁王像が並んでいる。運慶作の仁王像があるということは知らかったがこんな所で見られるとは思わなかった。墓所は線路際の高台に広がっていて、日暮里駅がよく見える。線路を挟んでステーション・ガーデンタワーとポートタワーが目の前に見える。40階建てのガーデンタワーは回りに高い建物がなく空を切り裂いているようだ。

養福寺(真言宗豊山派 補陀落山観音院)
湯島円満寺の木食義高(享保3年没)によって中興された。養福寺は、元和6年(1620)法印乗蓮が創建、湯島円満寺の木食義高(享保3年没)によって中興されたと伝えられる。もと田端東覚寺末、明治43年に離末の後与楽寺末となっていた。

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仁王門: 宝永5年(1708)に建立され、運慶作とされる仁王様が安置されている。左がうん形、右があ形である。また、門の裏側には二天(広目天・多聞天)の像がある。

啓運寺(法華宗本門流 法要山)
円住院日立聖人が開山となり、元和元年(1644)下谷1丁目に創建、元禄11年下谷2丁目へ移転し、さらに明治18年当地へ移転した。
当寺の毘沙門天は、台座の裏に「寛政九年(1797)八月吉辰、仏師以東光雲」の墨書銘がある。そのほか、境内には、延宝八年(1680)銘の庚申塔がある。この塔には、「三守庚申三戸伏、妙法、七守庚申三戸滅」の銘文のほか三十六名の施主名が刻まれており、区内唯一の日蓮宗系の庚申塔である。

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 本堂                              庚申塔

経王寺の長い塀を進んで行くと谷中銀座の通りにぶつかる。左側が経王寺の山門だ。古めかしい山門は歴史を感じさせる。境内に入って右側に大黒堂がある。大黒堂の背景にステーション・ガーデンタワーとポートタワーが聳えている。良き悪しきにしろ完全に大黒堂の背景になっている。もはや歴史は戻ることは出来ない。そういった風景として眺める外ない。

経王寺(日蓮宗 大黒山)
要詮院日慶が開山、当地の豪農冠勝平(新堀村の名主冠権四郎家の祖)が開基となり、明暦元年(1655)当地に創建した。本堂の隣の大黒堂には日蓮上人の作と伝えられる大黒天が鎮守として祀られている。
慶応4年(1868)の上野戦争のとき敗走した彰義隊士をかくまったため、新政府軍の攻撃をうけることとなり、山門には今も銃弾の痕が残っている。
山門は江戸時代末期には既にあったもので、この門は右側に門番所が併置されていて、さらに築地塀に連なっており、木造建築の門の一つの型を示す貴重なものである。

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 山門正面から                        山門右横から 

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 大黒堂                            本堂
 
経王寺から少し谷中銀座の中心街に戻る所に延命院がある。この寺には都指定天然記念物の大シイと秘仏「七面大明神」があり、毎年正月十九日の大祭日に開帳される。谷中銀座を少し巡って見た。谷中という地名の由来は江戸時代、上野台と本郷台の谷間に位置していることから名づけられたといわれている。谷中は江戸時代の都市計画の一端として 多くの寺院が集められ、門前町として発展した。

日暮里駅を西口で下車し御殿坂を上り、夕やけだんだんという階段を下るとそこからが谷中銀座商店街になっていて千駄木方面まで続いている。商店街の紹介では「近隣型商店街です。小さなでも活気にあふれた商店街ではどこかで見たことのあるような、懐かしい笑顔があなたをお待ちしております」と書かれている。古い店が多いが、近所の馴染み客が多いのだろう人通りが多く活気がある商店街だ。

延命院(日蓮宗 宝珠山)
日長(貞享2年寂)が開山、三澤局(法名法名浄心院妙秀日求)が開基となり、慶安元年(1648)創建したといわれている。
七面大明神には、胎内に慶安3年(1650)法寿院日命が願主となり、仏師矢兵衛の手で作られたことを記した銘文がある。秘仏とされ、七面堂に祀られている。これにちなんで、門前から宗林寺(台東区)方面に下る坂は七面坂と呼ばれる。境内には樹齢600年を超えるといわれる大椎(都指定天然記念物)がある。

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 本堂                             七面堂

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 大椎の木                   七面大明神安置

本行寺の山門には「墓地見学会」のノボリが立てられ、説明の看板が立掛けられていた。新しく境内の一画を開き墓所として区画整理して売り出すための見学会だ。寺に着いた時には見学の客は来ていなかった。一茶の句碑は2つもあるということは、一茶はよっぽど日桓上人と気があってこの寺に入り浸っていたのだろう。本堂の右側が墓所になっている。今度売り出される場所は別な所なのだろう。全体的に古く暗い雰囲気だった。

薄暗い墓地の真ん中にその雰囲気をくつがえすかのように、その場所だけが薄いピンク色の光で覆われている感じがした。枝垂桜の巨木が見事に花を付け大きく枝を張っていた。こんな所で満開の枝垂桜を見ることが出来るとは思っていなかったので感慨深いものがあった。さらに墓の端の塀際の日の当たる場所に早くも染井吉野が花を開いていた。染井吉野にしては少し開花時期が早いがどう見ても外の種類には思えなかった。

本行寺(日蓮宗 長久山)
大永6年(1526)江戸城内平河口に建立され、江戸時代に神田・谷中を経て、宝永6年(1709)当地に移転したという。景勝の地であったことから通称「月見寺」とも呼ばれていた。二十世の日桓上人(俳号一瓢)は多くの俳人たちと交遊があり、小林一茶はしばしば当寺を訪れ、「青い田の、露をさかなや、ひとり酒」などの句を詠んでいる。

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 大黒堂                            本堂 

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道灌丘碑: 太田道灌は江戸城を築城する際に、眺望の良いこの辺りに「物見塚」と呼ばれる斥侯台(見張台)を築いた。その後物見塚の跡に石碑を建てた。
一茶の句碑: 「刀禰(とね)の帆が寝ても見ゆるぞ青田原」「陽炎(かげろう)や道灌殿の物見塚」

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 境内の桜 枝垂桜と染井吉野  

(参考資料: 荒川区公式ホームページ→おすすめスポット→神社・寺院・文化財。猫のあしあと→荒川区の寺院→西日暮里の寺院、など)
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テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

血液内科、眼科、口腔外科の診療

3月30日(水)
果たしてベルケイドは効果を発揮しているか。今日の最大の関心事だ。ベルケイドが効いてくれさえすれば、少なくとも半年位はこの療法で通院治療が可能だ。その後は治験による治療をおこなえばいい。

眼科に関しては2週間1度通院し、眼底検査を行い、サイトメガロウイルスの動きをチェックし、左眼の眼圧が上がり目の痛みを感ずることのないように、点眼薬とダイアモックス、アスパラカリウムを処方しながら網膜の様子を診察している。時々右眼の様子も見ながら問題が起こっていない確認する。

口腔外科は、放っておいても今の所問題はないが、免疫力が下がって来た時に感染源になる可能性がある歯の脇に出ている骨を削るかどうかの判断が難しい所だ。現在がん治療中であることで、免疫力が下がり、血小板が下がっていくような状況で、感染の恐れや出血を伴なう歯科手術はかえってマイナスではないかという判断もある。当面問題の歯の箇所が炎症を起こしていないかチェックするため口腔外科に通わなければならない。

こういう状態なので、1日にまとめてしまった結果3ケ所の診療を受け、ベルケイド+デキサメタゾンの点滴をするというかなり込み入ったスケジュールをこなさねばならなくなった。

検査結果
IgM  3928 (3/30)←3318(3/24)←3141(3/17)←2802(3/10)
白血球  4100←2800←2800←3200
好中球  2890←1600←1470←2100
赤血球  305←287←297 ←284
網赤血球  27←26←37←21
ヘモグロビン  10.0←9.5←9.6←9.
血小板  9.5←8.8←12.4←6.4←3.8


 ベルケイドは形質細胞腫瘍に対してほとんど効果を発揮していない。IgMは減るどころか1週間に600も上昇してしまった。昨年9月までベルケイドを使った治療法をやっていた。それが効果を失ったのでレナリドミドを使用した治療法に変えた経過がある。薬物耐性で効果を失った薬も2年位経つとまた効果を発揮する。しかしベルケイドをやめてからまだ半年少ししか経っていない。やはり無理なのかもしれない。

IgMの数値を見て、がっくりと肩を落としながら医者と私は同時にサリドマイドしかないだろう、と言った。ベルケイド+デキサメタゾンにサリドマイドを加えた治療法を行なって見ようということだ。レナリドミドは周りではあまり評判が良くない。まだ例が少なく確定的なことはいえないが、思ったより効果的な働きをしていないようだ。だからベルケイドと併用するのはサリドマイドの方がいいということだ。もはや何でも試してみる外ない。

IgMが減少しないことの原因はおそらく多岐に渡っているのだろう。3月10日の血液検査において形質細胞が血液中に現れた。過去には1月26日に一度現れている。その時の割合は記載されていなかった。3月10日には0.5%、3月17日には数値記入なし。3月24日にも0.5%と増えてはいないが何らかの影響を及ぼしてはいるのだろう。

さらに連銭形成 (rouleaux formation)という言葉も昨年の9月29日からの血液検査結果の表の中に記されるようになった。それは今日の血液検査にも継続している。これは血液中で赤血球が貨幣を積み重ねたように互いに粘着しあった状態。赤血球は血液中では通常個々に遊離した状態で存在するが、ガンマグロブリンが増加したときなど、特殊な状況下でこのような現象が起こる。

昨年の12月28日には中毒性顆粒とデーレ小体という言葉が登場した。デーレ小体の記載は2月28日で終っている。好中球の中毒性顆粒は、通常よりも好中球の顆粒が大きく発生機序としては、好中球の消費が亢進して需要が拡大する状況が存在し、骨髄から分裂回数を減らして早期に抹消血に動員されたものと考えられる。好中球減少時のG-CSF 投与によっても同様の所見が見られる。臨床的には急性炎症時、特に細菌感染症や悪性腫瘍など重症患者に多く出現する。

デーレ小体は好中球が短縮する場合に見られ、感染症や化学療法で観察される。炎症性疾患での有用な指標として捉えられている。入院中の発熱が終った段階でデーレ小体の記載がなくなったことは関係しているのかもしれない。

 眼科では通常の眼底検査を行い、左眼の眼圧が28であると言われた。右眼の眼圧は14で正常値である。担当医は九州の病院に移動するということだ。現在症状は安定していて、眼圧を下げる薬を服用し、点眼薬を注していれば、眼の痛みが生ずることはない。大丈夫だと思ったなら薬の服用をやめてもいいし、点眼薬の使用を中止してもいい。眼の具合に応じて量を調節しながら対応して欲しいということだった。

 口腔外科では、やっと医者が本当は何を問題としようとしていたか分った。歯の横に骨が出ていて、それが炎症を引き起こし感染減になるという話だった。しかし今日の話はそれとは異なり、歯の横の骨の影響より、細菌の感染の恐れはむしろ別の所にあるということだ。

ブリッジしている歯と歯茎の間に隙間が出来ている。歯が上の奥から2番目にあり、その隙間に食べかすが挟まりやすく、挟まるとちょっとやそっとでは取れない取りにくい所なのだ。それが炎症を引き起こしたり、そこの歯茎から出血する原因となる。まさに細菌の繁殖の巣となってしまう。感染源とはそういったことだ。

歯の骨をどうするかよりも、歯の隙間の食べかすを丁寧に除去する事が何よりも感染の防止になる。丁寧な歯磨きと、歯のうがいを何回も繰り返し行うこと、鏡で患部を見て、食物が詰まっていないか確認する、などの指示を与えられた。ともかく徹底して口腔ケアが必要だという事を何度も念を押され言われた。大分前に口腔ケアをしっかりした人はインフルエンザや風邪にかからなかったと、ある病院での実験での報告をテレビでやっていたが、口腔ケアは感染予防と、色々な意味での健康維持にも役立つのではではないかという気がする。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

浜離宮・泉岳寺

3月28日(月)
病院生活の続きというわけではないが、毎日朝は6時前には目が覚め、6時起床という生活が続いている。6時半から近くの公園でラジオ体操が行なわれているが、今はまだ朝冷え込むので、4月1日から参加しようと決意している。

この公園のラジオ体操は地域の老人会が主催して、正月3ケ日と雨の以外休むことなく継続しているということで豊島区でも注目されている場所だ。暖かくなれば70~80名の参加がある。

この間色々な会合や催し物が中止になったり延期になったりして、病院に行く以外はほとんど家にいる事になる。確かに家事をやる事は体を動かすことになるが、掃除、洗濯にしても1時間もかからず終ってしまう。

入院前から体重は減少していて、病院食はほぼ完食していたが体重は増えなかった。退院後体重が増えてきたのはいいが、運動をしないと筋肉にならず、脂肪として蓄積するだけだ。動かないと体が鈍ってきて怠惰な海に溺れていくようで気分が悪い。定期的にウォーキングコースを探して歩く他ない。

浜離宮恩賜庭園

花に名所案内といっても梅は終わり、菜の花が咲き始めているが全体的にはまだ少し早い。浜離宮恩賜庭園の案内では菜の花が見頃を向えているということであった。園内の大手門近くにはお花畑があり、内堀広場前のお花畑3,000㎡には、春のおとずれとともに約30万本の菜の花が咲き乱れる。ここは秋にはキバナコスモスのお花畑となる。

浜離宮恩賜庭園は何度か行った事があるが、かなり広く、ざっと回るだけででも1時間以上かかる。平日であまり人も来ないし散歩するには丁度いい距離だ。潮入の池を中心として、横堀や鴨場など水辺とそれを囲む風景は起伏に富んでいて飽きさせない。きっかけは菜の花であっても歩く事が主目的である。

浜離宮・泉岳寺039_convert_20110328212849  浜離宮・泉岳寺011_convert_20110328212812
 三百年の松                        汐留シオサイトのビル群

浜離宮・泉岳寺004_convert_20110328212721  浜離宮・泉岳寺008_convert_20110328212746
 潮入の池                          中島の御茶屋

浜離宮・泉岳寺024_convert_20110328213002  浜離宮・泉岳寺020_convert_20110328212931
 内堀広場前の菜の花   

浜離宮・泉岳寺032_convert_20110328213119  浜離宮・泉岳寺035_convert_20110328213045

泉岳寺・四十七士の墓

新橋駅でふと思いついた。入院中に、本格ミステリー作家クラブ編、2006年度本格短編ベスト・セレクション『法廷ジャックの心理学』という本を読んだ。その中に田中啓文の書いた「忠臣蔵の密室」という短編が面白かった。設定がそもそも奇抜だ。四十七士が討ち入りをし吉良上野介を探すが中々見つからない。

史実では炭小屋に隠れている所を見つけ出されるのだが、炭小屋で見つけたのは上野介の死体だった。ともかくそれを隠して討ち取った事にしたが、誰が上野介を殺したのかの謎は残る。また炭小屋の周りの雪には足跡が全くなく、密室殺人事件としての謎解きの面白さもある。

田中啓文のミステリーはそれを解き明かしていくのである。最後に出てくる駄洒落が面白い。ディクスン・カー(アメリカの推理作家、密室トリックを得意とする)が「忠臣蔵」を手本として作家としてのスタイルを築いたことから、誰言うともなく「カーが手本にした忠臣蔵」すなわち「カー手本・忠臣蔵」という言葉ができたといわれている。

そんな事を思いだしながら、泉岳寺にはまだ行った事がない、一度は行ってみようと思い立ち都営浅草線に乗った。新橋から3駅目だ。こちら方面は山手線の丁度反対側だしめったに来ることはないので、思い立った時行かないと機会を失ってしまう。

泉岳寺の駅を降り、第1京浜を右に曲がり坂を100mばかり上がると最初の門がある。中門というらしい。そこから山門まで参道になっていて3件ばかり土産物屋が店を開いている。中には創業は明治二十年という店もある。店内は山鹿流陣太鼓のストラップ、耳かき、飴などの太鼓グッズ、四十七士の使った提灯、また黒猫キャラの忠臣蔵絵本やポストカードなどがある。兵庫県赤穂名物、総本家かん川製のしほみまんじゅうは多くの人に絶賛されているという。

縁起: 泉岳寺は曹洞宗の寺院で、本山は二つあり一つは道元禅師が開かれた福井県の永平寺、もう一つは横浜鶴見の総持寺である。泉岳寺は慶長17年(1612年)に門庵宗関(もんなんそうかん)和尚(今川義元の孫)を拝請して徳川家康が外桜田に創立した寺院である。創建時より七堂伽藍を完備して、諸国の僧侶二百名近くが参学する叢林として、また曹洞宗江戸三か寺ならびに三学寮の一つとして名を馳せていた。

浜離宮・泉岳寺048_convert_20110328213147  浜離宮・泉岳寺050_convert_20110328213215
 中門                              山門  

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 本堂                              血染の石、血染の梅
 
中門、山門を潜り本堂前の広場に出る。赤穂浪士四十七士の墓は一般墓所の一画に独立して作られていている。赤穂義士記念館などの建物を見ながら、墓に向う階段を上って行くと途中に、「血染の石、血染の梅」と書いた看板が立っている。これは「浅野内匠頭が田村右京大夫邸の庭先で切腹した際に、その血がかかったと伝えられている梅と石」だということである。また「赤穂浪士が、吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え報告した」ということから「首洗い井戸」と呼ばれている井戸がある。

四十七士の墓の入口には門があり、そこでは線香売っている。入口に近い所には浅野浅野内匠頭とその夫人の墓があり、少し高くなった石畳の敷き詰められた場所に、四十七士の墓が並んでいる。大石内蔵助と主税の墓は別個に作られていた。石畳の上にあまりにも整然と墓石が並べられているの様子は、多くの参拝者用に整備されたものだろう。全く時代を感じ取ることができなかった。

浜離宮・泉岳寺071_convert_20110328213625  浜離宮・泉岳寺073_convert_20110328213704
 浅野内匠頭の墓                      浅野内匠頭夫人の墓

浜離宮・泉岳寺074_convert_20110328220255  浜離宮・泉岳寺067_convert_20110328213406
 大石内蔵助良雄の墓       四十七士の墓

浜離宮・泉岳寺076_convert_20110328220334  浜離宮・泉岳寺062_convert_20110328213531
 大石主税の墓           四十七士の墓

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

公園の春

3月25日(金)
空は晴れ渡っている。気温は12度と少し肌寒いが、ウォーキングに行こうと思ったら丁度いいだろう。だが列車の運行状況を見るとなかなか行く決意がつかない。結局家の近所を回って最後に公園で咲き始めている花々の写真を撮って今日の散歩は終わりになってしまった。

途中通ったディスカウント・ショップで最後の1つか2つしか残っていなかった、トイレットペーパーとティッシュペーパーと1リットルの水を手に入れる事が出来たのは幸運だった。何日間もスパートとか、ドラッグストアーとかに行ってもお目にかかかれなかった品物が突然目の前に現れたといった感じだ。

公園は穏やかな大気の中、静謐に包まれていた。午前中の早い時間だったからだろうか、保育園や幼稚園の生徒もいないし、お昼頃日向ぼっこに来る馴染みの年寄り連中もまだ来ていない。冬枯れの季節はいつの間にか去り、何時しか春の花が少しずつ姿を表し始めている。春満開の季節よりもこれから草木が芽吹き新しい生命が生まれ出ずる今の季節が何よりも躍動感に溢れている。

「大きな望みも、明日への期待も何もいらない。天に与えられた今日この1日だけがすべてでありそれ以外何もない」(元木鶏二・癌宣告以来6年半、腎臓・副腎・肋骨と3回の手術)。自然の中にたゆたっていると今という時間の持つ意味が感じられる。失われた過去ではなく、未知数である未来でもなく、今が全てであり、限りなく愛おしいものである事をひしひしと感じ取る事ができる。それは生命の息吹が溢れ出ようとしている今の時期だからこそ味わうことの出来る感情なのかもしれない。

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 寒緋桜 (ほかの桜よりも早く最初に開花する。1月下旬頃「沖縄で全国初の花見」とのニュースが毎年あるが、ここでいう花見の桜は寒緋桜のこと)

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 シデコブシ(名は細長くジグザグに開く花弁を神事に使う四手(しで)に見立てたからという)

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 白木蓮 (開花しているときの風景は、白い小鳥がいっぱい木に止まっているようだ)

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 杏の花 (桃の花や桜の花との区別が難しい) 

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 乙女椿 (椿では遅咲き、ピンクの花びらが幾重にも重なった中輪千重咲き椿の代表格)

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 公園の花壇 (今の季節パンジーとハボタンが花壇の主役になる)

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友人と石原都知事

3月25日(金)
 昨日病院の帰り道、目白に住んでいる友人の家を訪ねた。彼とは毎年沖縄に行っているし、自宅から近いのだが中々寄る機会がない、退院後の状況を話そうと行ってみる事にした。

今は春休みで休校だが、普通は木曜日と金曜日の週2回大学で「図書館学」の授業を受け持っている。松原団地をという遠距離にあり交通費も出ないという条件は余りよくないが、知り合いに誘われて引き受けてしまった。

60歳で都の図書館員を定年で退職し、再任用などの就職の道はあったがそれをことごとく拒否して、まだ老齢共済年金は半額しか出てないが、それでも潔く図書業務から足をあり何ものにも束縛されず悠々自適の人生に踏み出したのである。

 こういったことで自由な生活を始めたが、健康な人間が24時間自分の時間を使いこなすというのは中々難しい。ギターをやったり、近所の区民プールに泳ぎに行ったりしている。また池袋が近いのでしょっちゅう映画を見に行く。図書館関係での催し物があれば行って手伝ったりもする。

しかし時間をもてあましてしまう。昼間から酒を飲んだりする事もある。そういった事もあって、去年から大学で教える事にことにしたのだろう。彼がその仕事に就く前は私も彼もいつでも時間があったので、前日に思いついて出発することもあった。好き勝手な所に行けた。今では少しは計画的に動かなくてはならなくなった。

5月の連休明けに八丈島でも行こうかとか、例年7月上旬に行っている沖縄旅行に今年は何処に行こうかと、大体彼の家に行くとそういった話になる。今年は例年と違って、果たして5月や7月までベルケイド療法で持つのかといった不安材料を抱えている。今年が最後かもしれないが、せめて7月まで体調の崩れがない事を期待する外ない。

 彼との話は、旅行の話か、図書館での業務に関連したものである。石原都知事と都の教育委員会から散々な目にあってきた経過があり、石原知事の名を聞くと即座に悪口が飛び出す。今回は「大震災は天罰。津波で我欲洗い落とせ」といった地震の被災者を愚弄するような発言に怒りが集中した。

日本人の中で我欲が一番強いのは石原本人ではないか。彼の発言ややっていることは周りの思惑など一切無視した自己中心的な思い込みであり、自分か世の中の中心にいて、全ての人は自分に付き従うものだといった、傲慢で不遜な輩でしかない。

 図書館は一切の利益を生み出さないものだとして、行政改革の中心的課題として合理化と統廃合を進めてきた。正社員の自然減に対して新たに人員補充はせず、下請けを大量の雇用し図書館業務に当たらせた。区の図書館などは図書館長以外全て下請けといった有様だ。

そしてその目玉が日比谷図書館の千代区移転である。日比谷図書館の千代田区移転は図書館の石原元都知事による行政改革の仕上げであったのだ。移転に関し日比谷図書館のホームページには次のように書かれている。

都立日比谷図書館は、明治41年11月の開館以来100年の歴史を刻んできたが、このたび千代田区へ移管することが決まり、移管準備のため平成21年4月から休館する。移管の理由は不明だが、日比谷図書館の建物の補修は老朽化が激しいための改築費や維持管理費にかなりの資金が必要である。そのため千代田区に譲り渡すのではないか。その見返りは何だろう。しばらく補修に入り、平成23年度に千代田区の図書館として「(仮称)日比谷図書館・文化ミュージアム」としてリニューアルされる。

こういった事態に対して東京都庁職員労働組合は次のように語る「私たちは、都立中央図書館、都立多摩図書館に働く職員による労働組合です。1908年に東京市立日比谷図書館として開館した日比谷図書館は、石原都政による行政改革により2009年6月千代田区に移管され、都立日比谷図書館はなくなりました。私たちは、全国の仲間とともに、東京の図書館サービスを一層充実させるべく、当局が次々と打ち出してくる「都民サービス低下策」と闘っています。」

 付録:石原都知事差別発言語録のごく一部
東日本大震災にいての発言
「大震災は天罰。津波で我欲洗い落とせ。」「震災への日本国民の対応をどう評価するか」と質問したところ、石原さんは「日本人のアイデンティティーは我欲。この津波をうまく利用して我欲を1回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」と述べました。地震の被災者を愚弄するようなきわめて悪質な暴言である

女性差別発言
「これは僕がいってるんじゃなくて、松井孝典(たかふみ)がいってるんだけど、“文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものはババァ”なんだそうだ。“女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄で罪です”って。男は80、90歳でも生殖能力があるけれど、女は閉経してしまったら子供を生む能力はない。そんな人間が、きんさん、ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害だって…。なる>ほどとは思うけど、政治家としてはいえないわね(笑い)。」

外国人差別
「外国人が東京全体の治安を攪乱する可能性が十分にある」 「不法入国した多くの三国人、外国人が非常に凶悪な犯罪を繰り返している」 「我々に実害を与える外国人のことを、当時の新聞は三国人と報じていた。おれはそのつもりで使った」 .

同性愛者差別
「どこかやっぱり足りない感じがする。遺伝とかのせいでしょう。マイノリティーで気の毒ですよ」「子供だけじゃなくて、テレビなんかにも同性愛者が平気で出るでしょ。日本は野放図になり過ぎている。」自らやっているのではなく、性同一性障害にかかって苦しんでいる方への冒涜、侮辱としか思えません。

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血液内科の診療

3月24日(木)
検査結果
IgM   3318(3/24)←3141(3/17)←2802(3/10)←2673(2/28)

白血球  2800(3/24)←2800(3/17)←3200(3/10)←2200(3/7)
好中球  1600←1470←2100←610
赤血球  287←297 ←284←274
網赤血球  26←37←21←14
ヘモグロビン  9.5←9.6←9.3←9.0
血小板  8.8←12.4←6.4←3.8


 残念ながらIgMは増加してしまった。もっともベルケイドが効果を発揮するのは、2~3週間後なので先週やったばかりですぐに効果が現れるとは思ってはいなかったが、やはり効果を期待していたことは否めない。

最初2007年にベルケイド+デキサメタゾンをやった時には、2週間後のIgMは1000近くさがった。2009年12月から始めたベルケイド+シクロホスファミドなどの併用療法では2週間後800減少した。来週のIgMの数値がどうなっているかが重要なこれからの治療法の指針になるだろう。

最初IgMの数値がまだ出ていない時、総蛋白の数値が8.4から7.8に下がっていたのでIgMの減少を期待したがそうではなかった。何で総蛋白が減ったのだろう。

先週の血液検査のコメント1にはPlasmaーLyとあった。形質細胞が抹消血に見られるということである。抹消血中の形質細胞の割合を示すOtherという項目があるが、3月10日には0.5と記されていたが、3月17日には数値が記載されていなかった。医者が言うには「かなり少なく記載できる数値ではなかったのではないか」ということだ。少しは安心した。

 白血球などの数値は、まずまずでベルケイド療法を続ける上で特に問題とはならないだろう。尿酸値が上昇した。毎日アロプリノール錠100mgを1錠づつ飲むようにと処方された。3月10日には5.5、3月17日は7.5、今日は8.9あった。基準値は3.7~7.0である。何故尿酸値が上昇したかは全く検討がつかない。病院食から自宅に戻り、通常の食生活に戻したという事が影響しているのだろうか。

尿酸値が上昇したいうと通風を連想する。尿酸値の上昇の原因は尿酸の産生を増加させるような過食(肥満)、多量飲酒(アルコール)、尿酸の原料となる゚リン体(動植物の細胞の核になる成分)摂取などの食習慣のほかに激しい運動や脱水などによって高くなると言われているが、自宅での毎日料理している身にとってはそれ程栄養豊富な贅沢な物を作っているわけはない。過食もないし酒もほとんど飲まない。激しい運動も出来ない。尿酸値増加の原因はわからない。

またベルケイドとデキサメタゾンの併用療法は帯状疱疹ウイルスの活性化を促すことがある。帯状疱疹が3割位の人に起こる。これはヘルペスウイルスが原因で起こる皮膚症状である。そういったことで抗ヘルペス薬のバルトレックスを帯状疱疹が起こった場合すぐ服用できるようにと処方された。

 医師の診療後、外来治療センターでベルケイドとデキサメタゾンの点滴を行った。その後、口腔外科に行って、今日の血液検査の結果と調べてきたゾメタの投与状況を報告し、血液内科の担当医の見解を伝えた。「緊急性がある歯科治療ならばやる外ないが、なるべく骨の除去といった強力治療は先送りできるならば今やらないに越したことはない」ということだった。

歯科医師はその意見を尊重し、当面は問題の歯の状況を定期的に観察し、どうしても炎症が激しくなり抗生剤が効かなくなった場合、骨の除去を考えるという事になった。それまでは口腔ケアをしっかりとするようにと念を押された。歯磨きとアズノールでのうがいをしっかりと行うことが必要だ。

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口腔外科の診療

3月23日(水)
 口腔外科の診察日であった。何故口腔外科(歯科)の診療を受ける事になったのか。入院中口内炎ができて、それに対して口腔外科 I 医師が病室まで来て、ノズレンでのうがいの方法や、歯磨きのやり方、抗炎症薬アズノール軟膏の塗り方など懇切丁寧に説明してくれた。おかげでかなり口内炎は改善され、食事も普通に食べられるようになった。

I 医師の口腔外科医師としての指導は、口内炎患者だけでなく、これから移植なり、かなり強力な化学療法を予定し、白血球が減少する事が予想され、そのため口内炎にほぼ確実になるだろう血液内科の患者全てに対して行なわれる。細菌の巣窟である口の中は一番危険な感染源である。

口内炎もひどくなると、口の中が腫れしゃべる事も、水を飲み込むことも出来なくなり、モルヒネで痛みを抑える以外方法がなくなってしまう。そうなる前に何をするのか一人づつ患者を訪問し丁寧に口腔ケアについて説明する。

移植の時の大量抗がん剤の投与の前に病室に来て、ロックアイスを口の中に入れ、口内の細胞を収縮させる事によって口内炎を防ぐ方法とか、歯磨きからうがいのやり方まで懇切丁寧に説明してくれる。ある患者は大量抗がん剤投与の時に、こんにゃくゼリーを凍らして口に含んでいたという。

I 医師の指導のおかげで重篤な口内炎は、入院していた病院ではかなり減少したといわれている。彼女の指導方針は外の病院でも取り入れられ活用され、口内炎改善のためかなり役に立っていると聞く。

I 医師が口腔内を検査した時、右上2番目の歯の横に骨が出ていて炎症を起こしているという事に気がついた。その時は治療中で白血球や血小板もかなり少なくとても治療出来る段階ではなかった。体調的に副作用が収まり、白血球や血小板が回復した段階で、口腔外科の診療室まで訪ねてほしいということで、退院の前の日に訪問した。そこで先週の水曜日に歯科の予約をとってもらった。

 先週は歯全体と、問題の歯を中心としたレントゲンなどを撮り診断した。歯の横に生えてきている骨が炎症を起こし、感染源になる恐れがあるので取り除いたほうがいいが、現在治療中の薬による白血球や血小板の状態によっては、歯科手術は避けたい。特に今その骨が何らかの悪さをしているわけではないので放っておいてもいいのだが難しいところだ、と歯科医師は言う。先週は炎症防止として抗生剤のビクシリン250mgを朝昼晩1日三回服用し様子をみようということで処方された。

今日の診療では、抗生剤ビクシリンは何ら効果が無かったらしい。医者はまだどうするか迷っている。ゾメタを2年位やっていたことをいうと、その影響が歯に現れているのではないかという。昨年12月からゾメタはやっていないが、現在の歯の状態からいって)ゾメタはやらないほうがいいという。ゾメタは2008年11月から始め、09年6月から11月までは月2回行っていた、その後月1回に戻し10年12月まで行った。2年以上続けてやらないほうがいいと言われているが丁度2年だ。

歯科医師は結局、この日は結論を出さず、明日の血液内科の診療での治療方針の話を聞き、血液検査の結果などを見て判断するということで明日また診療を受けることになった。

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目白周辺散策

3月19日(土)
今日は午後から気温が上がる。18度にまでなるという、春真っ只中という陽気だ。散歩には丁度いい。退院後水曜日に眼科の診療、木曜日に血液内科の検診以外外出していない。歩くという行為はいわば習慣的なものもあるので、定期的に行なわないと段々と体が怠惰な方向に傾いていく。

午後になるとむしろ汗ばむ位かもしれない。10時半頃家を出た。目白周辺を回って丁度2時間コース位になるように場所を選定した。行ったことのある場所もあるが、近くで散歩できる所は限られているので止むを得ない。

椎名町駅から、新しく整備された環状六号線をくぐる。環状六号線がすっかりきれいになり、街路樹が植えられ、歩道もかなり広く歩行者用と自転車用に分けられが赤レンガと灰色のレンガによって区別されている。この舗道の広さだともう一車線作れそうだが、一部だけ道路を広げても余計渋滞するのかもしれない。

目白通りに沿って目白まで行く裏道がある。途中目白通りに近接する部分があり、そこから目白通りに出る途中に「目白の森」がある。ここは一度マンションの建設計画が決定したが、緑地保存への近隣住民の熱意で、建設前に計画が変更され保存された。

目白の森
閑静な目白の住宅街で、里山の雰囲気が味わえる貴重な森。園内は邸宅だったころの樹木をなるべく残しながら整備した。細い園路を行くと小鳥たちの空間があり、小鳥のさえずり声が聞こえてくる。 森のような空間の中に、住民有志から寄贈された大きな切り株のモニュメントが斬新な雰囲気を感じさせる。

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「目白庭園」は今日の中心的訪問場所であった。ここは以前来たことがあるが、近くにある本格的な回遊式庭園で、何時来てもその四季折々の風景を楽しむ事が出来、広々とした池の鯉を眺めていると、都会の只中にいながらその喧騒とは別の世界に入り込んだ気分にさせてくれる場所である。

しかし庭園に着いてみると「臨時休園のお知らせ」の紙が入口に張られ「東日本地震の影響により、いまだ余震の恐れがあるため安全対策をとり、3月21日(月)まで休園といたします」と書かれていた。残念なことに庭園を見ることは出来なかった。写真は07年6月に行った時のもので、木々の緑が濃い。

目白庭園
滝に築山、池を配した伝統的な回遊式庭園であり、この地で創刊された童話雑誌「赤い鳥」にちなんだ数寄屋造りの茶室、「赤鳥庵」も池に面して優雅にたたずんでいる。池を回遊する園路の随所で自然の造形美に出会えます。深山を思わせる滝や石組み、水上に浮かんだ「六角浮き見堂」からの大海を見るような眺めが都会にいることを一瞬忘れさせてくれる。

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 赤鳥庵                            六角浮き見堂   

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千種画廊

千種画廊は、大正7年に童話雑誌「赤い鳥」を創刊した児童文学者・鈴木三重吉の旧宅跡地でもある。「赤い鳥」は昭和11年まで発行され、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」や有島武郎「ひとふさの葡萄」などの童話から、北原白秋の「赤い鳥小鳥」、西条八十の「かなりや」などの童謡まで、多くの傑作が発表され、児童文学の育成に大きな役割を果たした。

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 千種画廊玄関                        目白の森に咲いていた椿

上がり屋敷公園
 
「お上(あが)り屋敷」とは江戸時代の狩場の休憩所のこと。やがて地名となり、現在は閑静な住宅地のなかにあるこの公園の名称として引き継がれた。 園内中央にある豊かな葉をもつ一本のムクノキが公園のシンボルとなっている。広場の西側にはパーゴラを備えた砂場と遊具がある。西武池袋線に「上り屋敷駅」があったが1953年(昭和28年)に廃止された。

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自由学園は上がり屋敷公園と同じ並びの道沿いにある。この日は結婚式が行なわれており、内部の見学は出来なかった。帝国ホテルを設計したロイド・ライトの作品という明日館は、長い歴史を見守りながら周辺の変遷の中で、その独特の姿を主張し続けてきたのだろう。そして今時を経てホテルメトロポリタン、メトロポリタンプラザの高い建物を背景としながら、一つの調和を作り上げている。

自由学園明日(みょうにち)館

羽仁吉一・もと子夫妻が雑誌「婦人之友」を母体に創立。現在は多目的スペースとして展覧会やリサイタルなどに利用されている。米国人建築家、フランク・ロイド・ライトが設計した洋館は、平成9年に国の重要文化財に指定。

自由学園明日講堂

敷地の南側に建つ講堂は遠藤新の設計で、昭和2年(1927)に完成しました。 平成元年(1989)9月より外庇や玄関、水切、建具の補修工事など、大規模な改修工事が行われた後、平成9年(1997)5月に、他の3棟とともに重要文化財に指定された。

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 自由学園明日館                      明日講堂

(資料:「公園ガイド」、「文化・観光-散歩コース」 豊島区公式ホームページ)

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福島第一原子力発電所の事故・2

福島第一原発事故処理の問題点
東電の対応
福島第一原発の事故の経過を追う事によって、原子力発電所の持っている構造的欠陥が明らかになってくるだろう。確かに地震、津波といった予想外の事態が起こったとして、それを想定した安全基準が作られていたはずだ。

それが十分に機能せず、東電幹部や原発職員の場当たり的対応が、事故をどんどん拡大させていってしまっている。情報を正確に伝えないから、消防署や自衛隊への協力も土壇場になってどうしようもない状況になってやっと要請するという、対応が後手に回ってしまっているのだ。

原発という多くの人命を一瞬にして殺戮してしもうかもしてない凶器を抱えていながら、東電の幹部職員や、原子力安全・保安員の発言はこういった設備を自ら抱えているという責任者を負っているものとしての自覚が全く感じられず、記者会見での発言も他人ごとのように淡々としゃべる。

福島第一原発は今や未曾有の大惨事になっているといえる。東京新聞の16日朝刊の見出しには「福島第一・制御困難」17日には「3・4号機・注水難航」とあり事態の進展が見られない事を示している。

11日から今日までの経過

3月11日
1~3号機が地震で自動停止。冷却のため注水を試みるが、非常用ディーゼルエンジンが津波のためダウンし使えず。
3月12日
1号機周辺でよう素、セシウム検出。「炉心溶融が起きた可能性が強い」
1号機で水素爆発。
1号機に海水、中性子を吸収するホウ酸水注入
3月13日
3号機の放射性物質を含んだ蒸気を外部に放出。海水注入
3月14日
3号機で水素爆発
2号機で18時に燃料棒が全て露出する空焚き状態となりこれが3時間続く。再び23時に空焚き状態に陥ったが何時間続いたか明らかになっていない。
3月15日
4号機で水素爆発。4号機原子炉建屋内使用済み核燃料プール付近で火災を確認。
その後3号機付近で400ミリシーベルトの放射能濃度を観測
2号機の圧力制御室で爆発音。原子炉格納容器破損
3月16日

4号機のプール付近で再び火災
3号機使用済み核燃料プール付近から白煙を確認
3月17日
自衛隊ヘリ、警視庁の高圧放水車、自衛隊の消防車が3号機の使用済み核燃料の温度上昇を防ぐため大量に放水する。
定期点検中の5号機、6号機の使用済み核燃料プールで水温が上昇している。

地震と津波の影響
津波は6機の原発施設に流れ込んだ。1~6号機の非常用ディーゼル発電機は13台あるが多くが流された。タービン建屋の中の9台は水を被り使用できない。山側の建物の4台は使えるが外部電源が必要だが地震で切断されている。この外部電源の回復を何故急ごうとしないのか。冷却装置の稼動などは電気がなくてはどうしようもないはずだ。

既に始まっている炉心溶融
1~3号機の燃料棒は半分以上が水からむき出しになり、既にメルトダウンを起こしている。何よりも原子力格納容器内の圧力容器に海水をひたすら注ぎ込み、燃料棒を沈め温度を下げるという方法しかない。しかしそれがうまくいっていない。

蒸発する冷却水を補うのに海水の注入を行なった。だが圧力の高い原子炉圧力容器に入れるのは難しい。パンパンのふくらんだ風船に水を入れるようなものだからだ。そのため圧力容器、格納容器にかる圧力を減らそうとした。方法は弁を開き水蒸気を外に逃すしかない。この作業によって放射能を含む蒸気が放出される。作業員の被爆を避けるため交代制で手間がかかった。その後この作業を行なっていた1号機で水素爆発が起こった。

原子炉2号機の原子炉格納容器が破損し中の気圧と外の気圧が同じになったということは格納容器の放射能が漏れているといえる。圧力容器の中の放射能量はかなり高くこれが漏れ出すと原発内がかなりの放射能汚染にさらされる。ここ事について小林圭二・元京大原子炉実験所講師は「格納容器の損傷は世界初だ」この時点で米スリーマイル島原発事故より悪い状態になったという見方を示した。

原子力事故の国際評価尺度というのがあって、レベル4は「施設外への大きなリスクを伴わない事故」、レベル5は「施設外への大きなリスク伴う事故」(スリーマイル島)、レベル6は「大事故」、レベル7は「深刻な事故」(チェルノブイリ)となっている。レベル4を東電などは声高に主張しているが、もはやレベル5は確実だ。放射能汚染が広がり、20キロ以内の人は避難し、20キロから30キロの人は自宅待機(外に出ない、換気扇は使わない、窓は締め切っておく)などの指示が出された。

使用済み核燃料の脅威

4号機の使用済み核燃料プールの燃料棒が冷却水の減少により、加熱し水素爆発を起こし火災が生じた。この燃料棒は原子炉格納容器に入っているわけではないので建屋の中にむき出しで置かれている。おまけに建屋の壁には8mの穴が2つ開いているということだ。そこからの放射能漏れが最も懸念される。

使用済み核燃料というのがかなり大きな汚染をもたらす物であるという事を改めて知った。稼動しているウラン燃料は、ジルコニウム合金(0.8mm)の筒に入られ、鋼鉄製暑さ16cmの原子炉圧力容器に保管され、「さらに鋼鉄製厚さ3cmの格納容器に入れられ、鉄筋コンクリート1cmの建屋にかこまれている。

使用済の核燃料は建屋の5階のプールの中に浸けられていて、周りを囲むのは建屋だけだ。稼動していた3号機にも使用済み核燃料プールがあった。3号機には514本、4号機783本が保管されている。プールの中で途切れることなく給水され、一定程度の温度で冷やし続けていれば何も問題はなかったのだろう。

しかし冷却水の補給が出来なくなり、ジルコニュウムに囲まれたウラン燃料は過熱高温化し、プール内の水を蒸発させる。更に過熱し水蒸気爆発を起こし、壁に8m四方の大穴を2つ明けてしまうほどの威力を持ち、建屋の壁を突き破って放射能は飛散していく。

されに定期点検中の5,6号機の冷却装置が十分作動せず、使用済み核燃料プールの温度が上昇中ということだ。5号機は946本、6号機は876本使用済み核燃料が保管されている。現在5、6号機では依然として温度が上昇を続けており、最新の報道によると5号機の燃料棒プールの温度は61℃、6号機は63℃まで上昇、先ほどと比べてそれぞれ5℃近く上昇している。高圧放水車が既に現場に到着しているが、放射線レベルが非常に高いために建物に近づけないということだ。

福島第一原発には、6基ある原子炉建屋の使用済み燃料プールとは別に、約6400本もの使用済み燃料を貯蔵した共用プールがあり、津波で冷却装置が故障したまま、水温や水位の変化を把握できなくなり、冷却システムは故障しており、十分な冷却はできていないとみられるということが、17日わかった。

早急に冷やさないと4号機の2の舞いになる可能性がある。福島原発の周辺の放射能濃度が高く作業が難航しているという。16日には自衛隊の給水ヘリが3号機に近付くが放射線濃度が高く断念。色々な困難が行く手をさえぎる。

スリーマイル島との比較
スリーマイル島原発事故の時は、すでに原子炉内の圧力が低下していて冷却水が沸騰しており、加圧器水位計が正しい水位を示さなかった。このため運転員が冷却水過剰と勘違いし、非常用炉心冷却装置は手動で停止されてしまう。原子炉に冷却水が送り込まれず、燃料棒が加熱しメルトダウンを起こしてしまった。それに気がつきすぐに運転員による給水回復措置が取られ、事故は終息した。

これに比べると今回の事態がどれ程大変か想像できるだろう。原子炉の制御室でポンプを操作しながら、ひたすら格納容器内で蒸発する海水を絶え間なく注ぎ込みといった作業が出来ているわけではない。

一方使用済み燃料が入った核燃料プールに対しての外部からの注入は、給水ポンプやヘリコプターで建物の外部から水を注いでいるといったいわば手探りの処置である限り、どうしても遠方からプールに目がけて放水する事になりプールに入る水は限られたもいのにしかならない。的確に的を絞って核燃料プールで解け始めている燃料棒を冷やす事をしない限りひたすら高温化を続けるプールを冷却する事が出来ない。

原子力発電所の一機だけの事故でもその対応は困難を極める。それが今回は1~3号機に関しては格納容器、圧力容器内の核燃料のメルトダウンへの対応があり、3、4号機の使用済み核燃料の暴走が始まり、さらに5、6号機も極めて危険な状態に入りつつある。さらに6400本の使用済み核燃料棒を抱えた共有プールがあり、このプールからも眼が放せない。

東電最後の対応

東電としては最後の手段として1,2号機の送電線を復旧させ、東北電力から電力の融通を受ける作業が始めた。東電によると、18日にも受電する見通しだが、電気設備につなぐ作業で2,3日かかる。まず建屋が残っている2号機で原子炉に水を注ぐ系統を復旧左遷続いて外部電源で1,3,4号機を動かしたい考えだ。

東電は何故今頃になって電気系統の復旧を持ち出してきたのだろうか。本来なら真っ先に考え実行しなければならなかったはずのことだ。電気系統がなおる間の応急処置をして、ポンプをつないで海水を送るなどの処置は必要だが、的確に冷却水を圧力容器の燃料棒にと届けること、正確に3,4号機の使用済み燃料プールに大量の水を送り込むこと、これは電気の力を借りなければ出来ないことだ。

それが何故こんなに後回しになってしまったのだろうか、事故の進行を甘く考えていたのではないか。海水を入れておけばどうにかなると高をくくっていたのだろう。こういった原発に対する安全神話にどっぷりつかり、周辺には何も事実を知らせず闇から闇へと処置してしまい、危険なことは何もなかった、何が起こっても大丈夫だと開き直る。こういった今までの官僚的独善的体質が今回も様々な所で見られた。

自衛隊や警視庁の放水チームで何ケ月も放水を続けることは極めて難しい。今やっていることは緊急の応急処置でしかない。燃料棒は何年も冷やし続けなければならない。電気系統の復旧によって持続的な冷却体制を作ること以外方法はないのだ。

何年も放水を続ける事が出来ないように、何年も原子炉格納容器の燃料棒に今のような手動式で海水を注水し続けることなど不可能だ。既に何回も給水が滞り、燃料棒が溶けてきているのだ。東電は本当に今まで事故の終息を真剣に考えていたのだろうか。
(記事の引用は東京新聞が多い。その他、yahooニュースに配信されて来るニュース記事より引用)

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定期検診の日

3月17日(木
通常定期検診は水曜日にあるが、先週の水曜日は「造血細胞移植学会」があり、病院の血液内科の医師が何人か学会に出席するために、病院での診療を休まざるを得なかった。そういったことで昨日の水曜日はいつもの2倍の患者が来るということで、予備日として確保してある木曜日の診療となった。

今回の血液検査の結果は極めて重要である。IgMの数値、血液中の形質細胞の割合といった2つの重大項目がどうなっているか上昇していた場合どういう方針があるのか難しい問題を抱えている。

検査結果
IgM   3141(3/17)←2802(3/10)←2673(2/28)←6370(2/14)←8400(2/2)
白血球  2800(3/17)←3200(3/10)←2200(3/7)←1700(3/3)
好中球  1470←2100←610←560
赤血球  297 ←284←274←288
網赤血球  37←21←14←4
ヘモグロビン  9.6←9.3←9.0←9.5
血小板  12.4←6.4←3.8←5.0


IgMは残念ながら一週間で300上昇した。血液中の形質細胞の割合の数値が出るには時間がかかるらしく、診療時にはまだ出ていなかった。IgMの止まる事のない上昇は、私のWMのいわば属性のようなもので、第1回移植の時ですら、2ケ月もたたないうちに下降から上昇へ転じ、10月の第2回移植をせざるを得なかった位だ。

血液中の形質細胞の割合がどの位あろうが、IgMの上昇を抑えるため何らかの措置をとらなければならない。白血球への影響が少ないベルケイド(ボルテゾミブ)を使用することにした。週1回、ベルケイド1.9mg+デキサート(デキサメタゾン)33mgを点滴する。点滴は30分で終るが、外来治療センターのべッドが空くのを待つのに時間がかかる。これを4週間行い1週間休薬する。

何処まで効果が出るか分からないが、手をこまねいているわけにはいかない。早速今日から外来治療センターでベルケイドとデキサートの点滴を行った。これから毎週病院通いだ。IgMの数値を見て薬の効果を確認しながら、治療を進めていくことになる。

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92時間ぶりの救出

3月16日(水)
 今日の朝刊に、岩手県大槌町の民家から75歳の女性が92時間ぶりに救出されたといった記事があった。災害時の被災者の生死を分ける72時間を大きく超えている。女性は部屋の1階廊下に寒さに凍え、うずくまっていた。近くには夫が横たわっていたが、既に亡くなっていた。民家は海から1.5キロで、津波直前に2階に避難し巻き込まれるのを免れた。彼女は低体温症だったが、けがは軽傷で命に別状はないという。

崩れた家の中では周囲の状況は全く分からない。回りには人の気配はしない。全てが死に絶えたような世界だ。運が良ければ救出が来るだろう、運が悪ければこのまま衰弱して死んでしまうのだろう。どちらであっても運命として受け入れざるを得ない。騒がず、慌てず、ただ自分の置かれた状況をあるがまま受け入れ静かに助けに来るのを待っている外なす術がなかった。

家の瓦礫を自力で崩すことなど出来はしない。助けを求め叫ぼうにも周りには人の気配は全くない。無駄なエネルギーを使うことなく静かに座ったり、寝たりしながら淡々と時間を過ごす。夜の一切光のない漆黒の闇の中で寒さに震えながらもただいつもと同じように眠るだけだ。

津波で離ればれになった息子が消防救援隊に「自宅に両親が取り残されているはず」と訴え捜索し発見された。彼女は息子が自分を探してくれる事を信じていたのだろうか、それを心の支えとして命を長らえてきたのだろうか。思うに、希望が強ければ絶望は深くなる。助けにくるという希望を強く持てば持つほど、来ないことへの絶望は限りなく深まってくる。こういった希望と絶望の間を揺れ動く心の煩悶はかえって、生きることへの絶望を増すだけである。

あらゆる人間が生きる上で避けることの出来ない「必然的条件」としての運命、とりわけ地震や津波といった大災害に遭った時に、人は自らの意思や決定権など粉微塵に打ち砕かれる。このような自然の猛威に対してまずその偉大さと脅威を受け入れ、その圧倒的力に対して自ら可能な道を試行錯誤しながら探していく外ない。

何故彼女は助かったのかそれは運命を受け入れる静かな心があったからだろう。生への執着や死への恐怖を超えて、自己のおかれた状況をあるがまま受け入れることが出来たのではないか。その心構えをどこから生み出したのかは分からない。今まで生きてきた軌跡の中にその応えはあるのだろう。

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福島第一原子力発電所の事故 ・1

3月15日(火)
福島第一原子力発電所で何が起こっているのか
無1福島第一原子力発電所の事故は12日の1号機の水素爆発から一挙に社会問題化された。次に13日になり3号機の冷却機能が失われ燃料棒の3分の2が露出する状態が続いた。それによって燃料棒の一部が溶ける炉心溶融が起きているという事が明らかにされた。14日には3号機の原子炉建屋で水素爆発が起こり作業員11名が負傷した。

1号機、3号機に止まらず、今度は2号機の燃料棒が何時間も空焚きの状態のままであり、圧力制御室が爆破し破損したというニュースが流れてきた。さらに追い討ちをかけるように4号機の火災、大量のの放射能漏れと止まることのない危機が福島原発を絶え間なく襲っている。ニュースをそのまま読んだだけでも、炉心溶融や核爆発への危険に満ち満ちている。(写真・時事通信提供-右から1,2,3号機))

正確な情報の開示が何よりも求められている。

原子力発電所について色々な評価はあるだろう。あるコメンテーターが「原発についてアクセルを踏む人とブレーキをかける人が一緒だから発言が正確になされない」と言っていた。どうしても発言が原発推進者としてその安全性を強調したいがあまり、危険な情報は隠蔽し情報を正確に公開せず、大丈夫だ安全だ万全をきしているといった発言に終始している。

東京電力の記者会見では、昔から原発事故の発表内容は歯切れが悪く、何をいっているのか分らない事をぼそぼそと語り煙に巻いてしまいたいという魂胆があまりにも明白だった。秘密にしておきたいという隠蔽体質が会社の方針となっているのだ。

しかし東電のもはや隠しおおせない状況になって来たからだろうか、この2、3日になって危険な情報でも出来るだけ公開しようとする姿勢が感じられる。経済産業省原子力安全保安院の記者会見での発言が曖昧で、知りたい肝心なことは曖昧な表現しかしない場面に何度か行きあった。一体どういった役割で記者会見をしているのだろうと考えてしまう。原発への知識不足もあいまって、原発と組織と自己を守るために危険はないということをどうやって言いくるめようとするか考えながら発言するから内容が分りにくくなるのだ。

以下の内容はほぼ新聞記事の中身である。それを拾い集めただけでも福島原発で起こっている危機一髪的な状況が伝わってくる。事実こそが正しい方針を導き出す。福島原発の経過を追いながら、改めて原子力発電所の安全性について考えることが必要だろう。

燃料棒の空だき状態・燃料棒すべて露出…冷却水消失

2号機で14日午後6時過ぎ、海水注入ポンプの燃料切れで原子炉内の冷却水が、ほぼ完全に失われ、燃料棒がすべて露出する空だき状態となった。それが3時間続いた。(スリーマイル島原発では2時間20分にわたって燃料棒がむき出しとなり、燃料の45%が溶解し、放射性物質が放出された。)

同9時頃よりいったん水位が上昇した事を確認したが、原子炉圧力が上昇して注入が困難となり、水位が低下。11時頃から空だき状態に陥いり、燃料棒が全部露出した。空だき状態が続くと燃料棒が溶けだす炉心溶融の懸念がある。同日夜に記者会見した枝野官房長官は、1~3号機どれでも燃料棒の溶融が起きている「可能性は高い」との見方を示した。

冷却水が消失し、燃料棒の露出が続くと、高温の燃料が冷やされず、炉内の温度が2000度超まで上昇すると、燃料棒が溶け出す。炉心溶融によって大量の放射性物質が大気中に漏れる可能性もある。

メルトダウン燃料棒を納めた原子炉圧力容器内で、冷却水がなくなるなどして炉心が異常過熱し、燃料棒が溶け出す現象。原子炉で起こる重大事故の一つ。やがて溶けた燃料が圧力容器の底を溶かして外側の格納容器内に落下、水などに触れて大爆発を起こし、大量の放射性物質を外界にまき散らす危険性がある。

原子炉格納容器の破損

2号機で午前6時10分に爆発音があった。爆発による破損場所は圧力抑制室で原子炉を覆う格納容器につながる設備で、放射性物質などを内部に閉じ込める機能も持っていて、この設備の一部に損傷が見つかったことで、放射性物質の閉じ込めが十分に機能しない可能性が出てきた。そこを通じて原子炉内の放射性物質が外部へ漏えいしている影響か、2号機周辺の放射能が増加してきていて、一時8217マイクロシーベルトまで上昇した。作業員以外の職員は退避した。

放射能の飛散

3号機の原子炉を覆う圧力容器内の圧力は設計上の上限近くに達し、東電は圧力容器から外側の格納容器に通じる二つの弁を開放。13日午後8時37分から放射性物質を含む水蒸気を外部に放出する作業に入った。

2号機では敷地周辺の放射線の量が、14日午後9時37分に基準の6倍のこれまでで最も高い3130マイクロシーベルトとなった。

東京電力は、福島第一原発の10キロ南にある第二原発のモニタリングポストの放射線量が、14日午後10時7分に、通常の260倍にあたる1時間あたり9.4マイクロシーベルトになったと発表した。福島第一原発2号機の影響とみられる。

福島第一原発の正門付近の放射線量は15日午前、制限値の約16倍となる1時間あたり8217マイクロシーベルトを観測した。

15日午前10時半頃、今度は定期点検で休止しているはずの4号機から火災が発生し、かなりの放射能の流失が確認された。3,4号機周辺の放射能は400ミリシーベルト、今までの単位がマイクロクロシーベルトで、その単位で言うと40万マイクロシーベルトになる。この数値は確実に人体に影響を与える。250ミリシーベルトで吐気、めまい、脱毛が生ずる。この中での作業は防護服を着ていても10分から15分が限度だという。

今までの放射能の量とは桁違いである。東京都内にも放射能が飛来している。人体に影響はないというが通常の20倍以上の量である。

スリーマイル島の原子力発電所事故
TMI原子力発電所2号炉で1979年3月28日に起きた事故は、原子炉から冷却水が失われて炉心が溶融するというきわめて深刻なものだった。放射能漏れによる人的被害はごく軽微済んだといわれているが、炉心上部3分の2が蒸気中にむき出しとなり、崩壊熱によって燃料棒が破損した。このため周辺住民の大規模避難が行われた。運転員による給水回復措置が取られ、事故は終息した。

炉心溶融(メルトダウン)で、燃料の45%、62トンが原子炉圧力容器の底に溜まった。この程度で収まったのは、原子炉圧力容器が頑強に作られていて、溶融した20トンの燃料棒の落下に耐えられたからである。さもなければ、チェルノブイリに匹敵する大惨事になっていたことは間違いない。しかし1989年の調査で圧力容器に亀裂が入っている事が判明した。

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入院38日目・最終日(退院)

3月12日(土)
 病院での最終日である。次の治療法が暗中模索な状態であるというのはすっきりしない気分だ。最も次に強烈な化学療法を用意されてもらっていても、やはり決して楽しげな気分になれる訳ではない。時々ビートルズの“ Let it be”が無性に聞きたくなる時がある。

「曇りの空の夜でも 私にあたる一筋の光がある 輝き続けなさい 明日まで あるがままにしておきなさい・・・」あるがままに全てを受け入れる“Let it be”を聞くとそういった心境になる。

上々颱風も“ Let it be”をアレンジしている。彼らの音楽は、お祭りミュージック。踊って騒いで自分の力でどうにもならないことならば、とりあえずは踊ってしまうしかない。そして後は、あるがままに、なすがままに。 ビートルズの“Let it be”も彼らの手で、聖母マリアからのお告げでなく、音楽の熱狂の中に身を任せ、あるがままの自己を見出していくのだ。そのアジアンなダンス・ミュージックの音色の中で。

「いつでも神様の素敵なMUSIC 聴こえてくるよ Let it be そうさ神様の素敵なMUSIC 踊り明かそうよ Let it be・・・」

 昨日の地震の影響で、家の方はどうなっているのだろうか。地震対策などとは無縁で、本箱や食器棚の上には様々な物が積み上げられている。どうにかしないと地震の時必ず落ちるだろうと思っていた。家に辿り着いた。大分片付けられていたがまだかなり残骸は残っていた。退院後まずした事が結局地震の後片付けだった。本棚の上の本は2冊だけ飛び出ていたがそれ以外は元の位置の止まっていた。

問題は2階の食器棚だ。両面ガラスの開き戸だがそれが開き、中の食器の半分位が床に落ちていてその内の3分の2が破損していた。食器棚の上のダンボールに入った食器もほとんど落ちていたが、大部分は無事だった。そこらじゅう割れたガラスが散乱している。ひたすら壊れたガラス食器を捨て、床の細かいガラスを掃除機で吸い取りながら少しずつ前進していくという作業を続けていく外ない。テレビでは被災地の情報が流されている。それを見ると割れた食器片付け位で済んだことに感謝しなくてはならない位だ。

地震の後片付け、入院中の荷物の整理、病院で渡された書類の整理、1ケ月の入院中に来ていた手紙の点検などで退院日は過ぎていった。テレビで放映される福島第一原発、第二原発の状況が極めて曖昧で、非難区域が20kmまで拡大されたが、それ程危険が迫っているのか、現状が明らかにされず不安が募る。多発する地震、危険なプレートの上にある原子力発電所、その安全管理が何処まで出来ているのか、まずは情報を明らかにすることから始まるのではないか。


 第1回DCEP療法とそれに至る経過については、「治療経過ダイジェスト・3」にまとめてあります。参照して下さい。 
      trakl.blog121.fc2.com/blog-entry-982.htm

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入院37日目(院内患者家族交流会)

3月11日(金)
 床屋の話
1週間位前から、髪の毛が抜け出した。毎朝枕にびっしりと付いている。シャワーで頭を洗えばごっそりと髪の毛が抜ける。抗がん剤の副作用の最後が頭皮細胞への影響なのだ。髪の毛がどんどんまばらになっていく。抜けるのは黒髪ばかりで白髪だけが残る。何とも見栄えが悪い。気分転換に一番短い丸刈りにすることにした。病院にも理容室はある。しかしそこは丸刈りでも2500円取られる。駅前に1000円床屋があった。散歩も兼ねて行ってみた。自宅の近くの同じチェーン店では丸刈り500円だった。それを期待していたが、駅前の店は残念ながら1000円だった。10分もかからず終わる。全く人相が変わる。それもまた面白い。

 院内患者家族交流会
今日は奇数月の第2金曜日に定期的に行なわれている院内患者家族交流会(おしゃべり会)の日だ。退院の前日というのは全くうまく日があったものだ。退院してしまったら体調もあって参加は難しかったかもしれない。場所は同じフロワーのデイルームで行なわれる。

今日は気候も良かったせいか、いつもより集まりが良く10名の参加だった。骨髄異形成症候群、急性骨髄性白血病、急性リンパ白血病の人2名、慢性骨髄白血病の人も2名、もちろん原発性マクログロブリン血症は私しかいない。その他に、患者家族2名の参加があった。

 急性骨髄性白血病の人の話
特に印象に残ったのは急性骨髄性白血病患者の人の話だった。彼はまず最初に言った。「治療や副作用が辛く苦しいのは生きているからだ」と。その言葉は、発症から9年たちながらも今なおかなり辛い後遺症の苦しめられながら仕事をあくまでも継続し続けている彼だからこそ言える台詞なのだ。

最初から大変なことになっていた。心臓に白血病細胞が浸潤し呼吸が困難な状態になった。酸素マスクだけでなくあらゆる機材をつけ呼吸を確保し病院に担ぎ込まれた。通常の寛解導入療法で、抗がん剤治療を行ったが、薬物耐性菌ではないが、全く抗がん剤に反応しなかった。その時病院のA医師が紹介してくれたのが、浜松大学と静岡大学で共同研究している、亜ヒ酸(三酸化砒素)を用いた治療だ。

砒素を使う治療には抵抗があったが他に方法はない。浜松医科大学付属病院に入院し治療を受けることになった。最初は2ケ月、その後は1ケ月交代で、東京の病院と行き来した。浜松で食事にうな丼や海鮮丼が出た。それが浜松に行く楽しみにもなった。その後自己末梢血幹細胞移植を行った。その後長い間、血球の数値が元にもどらなかった。今でもかなり低い。

現在抱えている問題は、末梢神経障害と夜寝ると必ず起こる脚の様々な筋肉がつることである。これがまた半端でなく痛い。夜中でも叫んでしまう。以前は家族と一緒の部屋で寝ていたが今は別の部屋で一人だ。医者に処方してもらった薬があるが痛みが始まるとそれを我慢するのに精一杯で薬を飲めない。痛みが収まってから飲むしかないが、それでは効果がない。寝ようとして横になると再び強烈な痛みが襲ってくる。毎晩それの繰り返しだ。また時々心臓が痛む。横になって寝る事が出来ないので箪笥に寄り掛かって寝ながら朝を待って病院に行くこともある。

移植からかなり立つがまだ血球の数値が基準値まで戻らない。白血球の減少で様々感染症にかかった。出血しやすく出血するとなかなか止まらない。疲れやすい。同僚よりも毎朝30分早く出勤するが、なかなか仕事はこなしきれない。一度転勤の話が出たが他の所に行ったら今の様には働けない。放射線技師として皆の役に立ちたい、それも仕事の大きな動機だ。

こう語りながらも彼はやはり最初に言った言葉を楽しげにくりかえす。「苦しいと感じられるのは、生きているからだ」と。急性骨髄性白血病の治療がこんなに大変だとは思わなかった。こういった辛い治療法を聞くと今までに治療が楽に思えてくる。またこういった治療を淡々とこなし、それぞれぞれの場で自分なりの楽しみを見いだして行く心の持ち用は大いに学ぶべきことがあると思った。

 地震が起こった
15時少し前、交流会の真最中病棟の建物が激しく揺れた。直ぐ収まるだろうと思っていたが激しい揺れはひたすら続く。今まで経験したことのない激しく長いものだった。三陸沖を震源とするマグニチュード8.8という観測史上最大の地震だという。関東大震災のM7.9の32倍のエネルギーだそうだ。東京ですらかなりも揺れがあった。宮城県や岩手県では地震による建物の倒壊、火事、津波など次々に襲いかかてくる自然の猛威に立ち向かわなければならない。

病院の建物は大地震の時など、そこに運び込まれる人は大勢いたとしても、よっぽどの事がない限り病人を運び出す事はない。そにため耐震構造はどんな建物よりもしっかりしているはずだ。地震の時には病院が一番安全だ。ガラスが割れて怪我をしたり、壁が崩れて捻挫や骨折したりしても薬もあり、医者も看護師もいる。

会議をやっていたのは10階だった、確かに1階よりは揺れただろう。しかし10階は最上階だから上から建物が崩れてくることはない。最近の耐震構造の建物は柔構造にすることによってかかってくる力の負荷を分散させる。そのため地震による倒壊を防ぐためかなり揺れる。揺れることによって建物を守っているのだから、その揺れを安全への印として考えて心の動揺を抑えていくことが何よりも重要だろう。

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入院36日目(形質細胞性白血病)

3月10日(木)
gM   2802(3/10)ー2673(2/28)ー6370(2/14)ー8400(2/2)

午後になって主治医が衝撃的な2つの出来事を告げに病室にやってきた。1つはIgMが2802と10日間で130近く増加したということである。もう一つはこれはかなりショックを受ける内容だった。形質細胞腫瘍が抹消血に見られるということだ。血液検査のコメント1にPlasmaーLyとあるのがそれを意味している。Otherという項目には0.5と記されていた。この数値は白血球分画中の形質細胞比率である。形質細胞の白血化が進行している。

形質細胞性白血病では、白血球分画で形質細胞比率が20%以上となっているが、急速に増加する可能性もあるし、長い間このままの状態が続く場合もある。そういった意味で今はまだ形質細胞性白血病への過渡ともいえるが、通常は形質細胞の比率は徐々に増加していく。

日本骨髄腫患者の会の解説によると、続発性の形質細胞性白血病の場合は、多発性骨髄腫より強力な治療が必要と書いてある。今回のやったDCEP療法はかなり強力でこれ以上強い治療法を見つけるのは難しいだろう。主治医はDCEP療法は2度とは出来ないだろう。造血幹細胞が持たないだろうということだ。

どういった治療方針を立てることができるのか。夕方主治医がショックを受け落ち込んでいるのではないかと心配したのか、病室まで様子を見に来てくれた。確かにやっと治療が終わりほっとした所に、次の展望が見えないと言われたのだから、心安らかでいられる訳はない。しかしこれも宿命である。受け止める他ない。後は「人事を尽くして天命を待つ」といった心境だ。今望む事は次回の診察日まで、IgMが増えず、抹消血中の形質細胞が増加しないことそれ以外にはない。

医者は励ましの意味も込めて次のようにいう。今日多発性骨髄腫の研究は国内外極めて盛んである。まだはっきりと内容は言えないが半年後位にサリドマイド+(新薬または従来の薬の新たな組み合わせ)を使う治験が行なわれる。それを試してみる他ない。それまでどうするか、次回に診察日3月17日までに考えておくということで別れた。わざわざ2度に渡って詳しい説明と治療の困難さを説明に来てくれた誠意は十分感じ取る事が出来た。しかし結局従来の治療法では対抗出来ず、治験に頼る他ないとはまさに狭い一本道を小さな灯りを頼りに進んでいるような気分だ。

形質細胞性白血病 (Plasma Cell Leukemia)
末梢血に 2000/mm 以上の形質細胞を認めたり、 白血球分画で 20%を超える形質細胞を認める場合、 形質細胞性白血病と診断します。初発骨髄腫患者の2~4%が形質細胞白血病の病像を呈します。
初診時にこれらの所見がみられるものを 原発性(primary)形質細胞性白血病と呼び、 骨髄腫の経過中に白血化(形質細胞が末梢血に出現すること)したものを 続発性(secondary)形質細胞性白血病と呼びます。 治療は多発性骨髄腫に準じますが、 続発性の場合はより強力な治療が必要です。(日本骨髄腫患者の会)

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入院36日目(土曜日退院確定・白血球、血小板増加)

3月10日(木)
 3月10日の血液検査の結果。
白血球  3200(3/10)ー 2200(3/7)ー1700(3/3)ー2100(2/28)
好中球  2100ー 610ー560ー1170
赤血球   284ー274ー289ー278
ヘモグロビン  9.3ー 9.0ー9.5ー9.2
血小板  6.4ー 3.8ー5.0ー2.9

 白血球,好中球、血小板が大幅に増加した。この数値であれば土曜日には安心して退院できる。長かった入院も生活も後2日で終わりだ。主治医が来て、IgMが上昇して来た場合、退院後通院時使用する薬について相談した。骨髄抑制の少ないボルテゾミブを使うほかないのではないかと医者はいう。ボルテゾミブは毎週点滴に行かなければならない。CP療法はどうかと聞いてみた。いままでシクロホスファミドはそれほど骨髄抑制が強くなかった。またサリドマイド+シクロホスファミドといった方法もあると提案した。

主治医としては白血球(好中球)の減少を何よりも心配している。シクロホスファミドもかってはそれ程、骨髄抑制をもたらさなかったが、今回の治療でも造血幹細胞をかなり痛めた。そういった状態でアルキル化剤を使うのは無理があるのではないかということだった。ウイルス性や細菌性の発熱、ヘルペスウイルス、サイトメガロウイスル、蜂窩織炎など無数に存在する日和見感染への対抗は入院していれば、治療可能だが通院治療だとどうしても対応が遅れてしまう。

白血球(好中球)の減少を避けるということを、どうしても治療の基本にせざるを得ない。こういった話を主治医として、ボルテゾミブ以外にはないだろうとは思ったが、この薬の効果持続期間はせいぜい半年とかなり短かい。それが一番の問題だ。そうなると直ぐまた次の方法を探さなければならない。次の診療日は3月17日・木曜日となった。

 同室者達のプロフィール・・・今いるのは4人部屋である。同じ病室の人のうち、一人を除いて今週、来週には退院する。

1人は骨髄異形成症候群の人で、昨年10月に移植病棟に入院した。当初本人は100日位で退院できるだろうと思っていたが、実際には5ケ月以上経ってしまった。70歳後半に見える。移植は厳しかっただろう。しかしそれしか方法はなかったのだろう。GVHDもかなりきつくそれで入院期間も延びた。また糖尿病を患ってインシュリン注射を定期的しなければならない。その彼が今日やっと退院できる。

2人目は急性リンパ白血病で、フィラデルフィア染色体異常起こしているという種類である。2年前一度治療を受けているがその時は寛解導入療法だけを行い、地固め療法、維持療法はやらなかったようだと言う。今回再び白血病細胞が増殖し治療を受けざるを得なくなった。治療期間は4、5日で後は骨髄抑制や発熱などの副作用の治療に当たる。入院は2月半ば頃で、1週間前には好中球が0だと言っていた。これも間もなく徐々に回復していくだろう。そうなれば退院だが、その後また入院して、地固め療法をするかどうかまだ判断していない。年齢が70歳半ばだから、あまり長期の治療は避けたいのだろう。

3人目の人はまだ30歳台だろう。表面的にはにこやかに接しているが、若いということもあり将来について多くの不安と心配を抱えているだろう。1年ほど前、急性リンパ白血病で入院し、化学療法で寛解導入療法を行なった。それで白血病細胞を根絶したと思っていた。しかし、半年後再発した。

今度は化学療法を何回かおこない、その後移植をするという方法が最も有効な手段だという医者の説明に本人も納得した。既にドナーの候補者はいるがまだ最終的には決まっていない。寛解導入療法を行いながら、ドナーが決まるのを待ち、決まったら移植室に移動する。気分的は落ち着かない感じだろう。早く決まって早く移植をやりたいそういった焦った気持ちを抱えながら、今の治療を続けざるを得ない。最近は毎週、土日外泊に出かけるので、少しは気分転換になるだろう。

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入院35日目(何が豊かな生き方か)

3月9日(水)
1、友人からメールが届いた。彼は脳梗塞で入院したが術後も良く、自宅で療養生活をしていた。しかし家からは殆ど出ない。同年輩である友人が家に閉じこもって徐々に生きる気力を削り取られていくようで、彼にともかく家から出る事歩く事を何度も勧めた。やがて彼は家の周辺の散歩から始めて徐々に行動範囲を広げていった。彼から昨日梅を見に神社に行ってきたというメールが送られたきた。その中には次のように書かれていた。

もうずいぶん以前に雑誌で読んだのですが、岡本文弥という新内語りの方のインタビュー記事の中で「一日が終わり、寝床に入る。べつに、なにが、どうということはないが、なんとなく、あしたが楽しい、という心持ちで床に就く。」 ー 当時百歳を過ぎていたのではないかと思います。その歳にしてものごとを求めることの軽やかさが印象が残ったものでした。私もこの様に人生を送りたい、とメールの最後に書かれていた。

2、円覚寺の総門脇に詰所の様な所がありそこに、禅宗の教えにつながる言葉が栞として置いてある。その中に「日々是好日」という言葉がある。
「私たちの人生には雨の日も、風の日も、晴れの日もある。雨の日は雨の日を楽しみ、風の日には風の日を楽しみ、晴れの日は晴れの日を楽しむ。すなわち楽しむべきところはそれを楽しみ、楽しみ無きところもまた無きところを楽しむ、これを日々是れ好日という。どんな苦しい境界に置かれても、それを心から味わえるようにならない。」(原典・碧巌録)

3、かなり昔の話ではあるが、老作家がいた。彼は近所の本屋と懇意にしていた。彼は欲しい本があれば、その店に頼んで取り寄せてもらっていた。ある日老作家は店主に「エンサイクロペディア・ブリタニカ」はあるかと聞いてきた。店主はブリタニカは手に入れるのに1ケ月以上かかります、すぐ手に入る百科事典は別の種類になります、と答えた。店主は不思議に思った。老作家はガンで余命半年もないということを知っていたからだ。また作家の懐具合が豊かでないことも。老作家は、時間がないから直ぐ手に入る方でいいと言って、2、3日後に配達しますという店主の声を聞きながら、楽しそうに店をあとにした。

この3つの話で何を感じるだろうか。どの様な境遇に置かれようがあるがまま自分の生きたいように生きることの意味を感じさせるものであった。とりわけ意識してなにかを成し遂げようとするのではなく、今生きていることを限りなく肯定できる心の持ち方が必要なのだ。残された人生を百科事典を読みながら過ごしたい、そういった安らかな心の安定が必要なのだろう。どの様な境遇に置かれようが、平常心を失わず自分の生き方をたおやかに貫いていく、そういったものこそ心の豊かさであり、心の本当のゆとりではないか。

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ジャンル : 日記

入院34日目(退院が12日・土曜日になった)

3月8日(火)
 昨日の血液検査の結果を見て、どう判断するのか。それは医者の判断よりも患者の気持ちが優先される。医者としては、白血球,好中球は上がり調子だし,血小板も3.8あれば大丈夫だろう。予定通り水曜日に退院出来るがどうするかと聞かれた。この点インフォームド・コンセントが何かにつけ行き届いているなと思った。空ベッド待ちの人がいるから早く退院してもらいたいなどの表情は全く見せることはなかった。

水曜日にもう一度血液検査をして、白血球や好中球が確実に上向きになって来ているのか、血小板が確実に上がってきているのを見届けたかった。好中球も610では心もとない。血小板も3.0位に下がっていたら輸血をしなければならない。退院したら次の診察日まで気がつかない。

水曜日にもう一度血液検査をして,白血球と好中球、血小板についてその数値を確認したいと医者に言った。担当医は水曜日は休みだから木曜日に採血しようということになり、その関係で退院は土曜日となった。

 毎朝担当医と主治医ともう一人の3人チームが回ってきて、今日のスケジュールや病状、治療の現状について説明していく。しかし忙しいのだろうか説明が終わるとさっさと帰ってしまう。取り付く島もない。今日はメモに質問項目を書いておいて、順番に聞いていった。

以前「痛いをうまく言える本」=「お医者さんと患者さんのコミュニケーション・ギャップ」という本の編集に携わった事がある。その中でのミーティングで、患者は医者への質問が苦手だと皆が口々に言う。そこで診察時あらかじめメモを用意し、医者の状態を見ながら、なん項目まで質問できるか判断して聞きたいことを聞き出すと、医者の前でも物怖じせず結構きけるものだという意見が出た。いつもは医者から話を聞いて、さて質問しようと思うともう背中しか見えない。聞きそびれてしまう。

 今日は最初から質問をする構えでいた。最初の質問は、
1、毎日繰り返される微熱の原因は何か。
的確な答えは難しい。抗がん剤の副作用の影響が残っているのだろう。残っている形質細胞腫瘍が免疫グロブリンに影響を与えている可能性もある。白血球や好中球の力が数字に現れているより弱いのだろう。衰えた免疫力が体内に残存する細菌などを根絶する事が出来ていないと思われる。免疫力が上がれば微熱の引いていくだろう。

2、DCEP療法のCR、PR、無憎悪期間など臨床的統計的資料が欲しい。

一般的にDCEP療法は、移植前の化学療法として、連続して3~4クール行い、形質細胞腫瘍を減少させその後移植をするという方法で使用してきた。私の様な使い方をした例は特殊なので、統計数値などは存在しない。次回の外来診療の時にIgMがどういった数値を示すか、そしてどのようにしてその上昇を抑えるか、それは主治医とじっくりと相談して決めてもらいたい。その後2、3の依頼事項を頼んだ。かなり時間を取らせてしまったが、たまにはいいだろう。

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入院33日目(水曜日の退院は可能か)

3月7日(月)
全く気がつかなかった。看護師に言われて外を見てみると雪がしんしんと降り積もってきている。昨日は15度という春らしい穏やかな天気だった。それが打って変わって真冬に逆戻りだ。天気予報では12時の気温が2度となっている。こんなに気温差が激しいと、外にいる人は自己の生活管理によっぽど気つけないと体調を崩してしまうだろう。

雪景色002_convert_20110307161046 病室の窓からの雪の様子

3月7日の血液検査の結果。

白血球   2200(3/7)ー1700(3/3)ー2100(2/28)
好中球   610ー560ー1170
赤血球  274ー289ー278
ヘモグロビン   9.0ー9.5ー9.2
血小板   3・8ー5.0ー2.9
CRP定量  1.4ー0.1ー0.81

担当医は今日は午後不在である。上記の結果を見てどう判断するのか。退院を許可するかどうか。好中球は610と少なめであるが自力での上昇傾向にあるのは確かだ。血小板の数値は何もしないでそのままにして置く最低の数値だろう。出来れば水曜日にもう一度血液検査をして、白血球と血小板が上昇しているか、確認してから退院したいものだ。

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入院32日目(湯島天神)

3月6日(日)
3月1日よりウォーキングを始めようとしたが、2日は面会者が来て出来ず、3日は気温が7度で風が強く、出かけるのにめげてしまった。金曜日、土曜日は、熱が出て,病棟を出られるような体調ではなかった。今日は快晴で気温は15度まで上がる予報だ。

湯島天神が近い。今まで毎年,梅を見に湯島天神に行っていたが,いつも早すぎてまだ殆ど咲いていない所にしか行き会ったことがない。今年は,湯島天神の開花情報に満開に咲き誇る白梅の写真があったので,安心して見に行ける。湯島天神は江戸時代より「梅の名所」として庶民に親しまれて来た。昭和33年に梅まつりが開催され、すでに54回を迎え、全国の風物誌として定着している。

今日は勝手に出かけないで、「梅の名所」をゆっくり見物しその後外で食事でもしようと思って12時から16時まで外出許可をとった。動坂下から不忍通りを湯島方面に向かうバスに乗る。元気だったら歩いて行くのだが、とてもその体力はなさそうだ。不忍通りを通るバスは結構本数がある。5分も待たずにバスが来る。しかしバスは上野松坂屋行きで、湯島は通らない。近くの駅を聞くと池の端一丁目だという。そこから、不忍池の畔を歩き、湯島まで10分程かかってしまった。

湯島からは春日通りの坂を登る。夫婦坂と女坂がある。梅に囲まれた女坂を白梅を堪能しながら登って行く。境内にはいると屋台が所狭しと並んでいる。本殿の前にある梅園もまた梅の木々が満開の花を咲かせている。

湯島天神003_convert_20110307161204  湯島天神001_convert_20110307161138
 本殿前と宝物殿前

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 女坂・男坂

休日だということで様々なイベントが行われる。梅まつりは3月8日までだというから最後の休日だということで色々な催しが用意されてる。福島県物産展、チャリティー即売コーナー、似顔絵チャリティーコーナー、工芸展、和紙人形特別展。その他屋台とは別に地元の商店街が昆布茶、玄米茶を無料で配り、和菓子や、昆布茶のセットを売っていた。かつサンドなどが宣伝されていたが、入試のご利益を求めて来る人たちを相手にしているのだろう。

着いた時にやっていたのはカラオケ大会と、野点で和菓子と抹茶を500円で振る舞うものだった。カラオケ大会もこの日が決勝で、予選を勝ち抜いた参加者はさすがにうまい。

野点で抹茶をたしなむ趣味はないが、経験するのも面白いかもしれないと思っていた。文京区の華道茶道連盟の協力のもと、この日は裏千家鳥居宗富指導のもとに、格式に従った作法で抹茶が出されるということだ。後10人分しかありません、と言われるとついその気になって申し込んでしまった。10人位の参加者にまず和菓子が出される。「野あそび」と名付けられ、中に餡が入っていて周りが春らしい黄緑色に囲まれ紫があしらわれたものである。

抹茶を一人づつ立てていくと思ったが、その場で立てたのは2人分で後は控え室からお盆に乗せて運んで来た。抹茶を入れた茶器が皆すごいものらしい。清朝から伝わる金で装飾されたものであるとか、織部焼、志野焼などの名が出てくる。かなり高価なもののようだ。抹茶も半分は器で楽しむものなのだろう。

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 野点の場所と本殿裏

野点の抹茶を経験した後ゆっくりと境内を散策し梅を心ゆくまで鑑賞した。湯島天神の梅は湯島の白梅と言われるように、樹齢70~80年の300本の白梅の木が中心で、紅梅は2割弱である。白で覆われた梅園の中に所々に赤い色彩を散りばめた風景は、梅の白さをより一層引き立てる。梅園やその奥にある滝をあしらった日本庭園や女坂や男坂の梅のバリエーションが色々な梅の見せ方をして、興味を惹きつける。

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 本殿前の梅園

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 本殿裏の枝垂れ梅と紅梅

帰りは新御茶ノ水から帰ろうと神田明神の方に向う。 神田明神に歩いていく途中清水坂の上に、古式手打蕎麦と書いた地味な構えの蕎麦屋があった。山揚げそばというのがある。蕎麦がかけともりと半分づつ出てきて、両方を楽しめる。黒い蕎麦は、栄養豊富な蕎麦殻を練りこんであるので黒なるそうだ。蕎麦殻を入れるとパサつきが出やすいが、それは長年の試行錯誤の末、今のような栄養価が高く、黒くしっかりした歯ごたえのあるものに完成した。こういった蕎麦屋なのだ。

山揚げとはとろろをフライとして揚げたものだ。山揚げ蕎麦は大根の下ろし汁に生醤油をたしたもので食するといわれた。色々なこだわりを持った店だったが、蕎麦の味は今まで味わったことのない素晴らしいものだった。下町で美味しい蕎麦屋に出会えたのは幸運だった。おそらく隠れた名店なのだろう。

神田明神は何回か行ったことがあるので、今回はお馴染みの随神門と御神殿の写真だけを掲載するに止める。

湯島天神038ed_convert_20110307161715  湯島天神032ed_convert_20110307161650
 随神門と御神殿

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入院31日目(再び発熱)

3月5日(土)
  昨日の夕方から熱が出た。ずっと36度台で推移していたのが、37.5度の熱が突然でた。それ程高くはないが、熱が出たこと自体が問題だ。確かにそれまでも36度台ではあったが、36.5度から36.8度の間を行き来していた。平熱が何度か分からないが、おそらく36.3~4度位だろう。36.8度だと少し熱がある気がする。それが例の高熱が収まって以降も続いている。この微熱が何に以来するかは分からない。

今日になって熱は36.9度になったが、やはり熱っぽい。ずっと本を読み続けていられない。この突然の発熱は、想像するに、白血球がG-CSFを止め一時的に減少し免疫力が低下したためではないか。白血球が自力で増えてくれば熱も収まるだろう。高熱時に始まった抗生剤メロペンと、抗真菌剤ファンガードの点滴はまだ続けて行われている。いつ発熱するかもしれないのでその予防の意味もあるのだろう。

 病院では熱が38度以上になると血培(血液培養)をするために採血する。その血液を調べて熱の原因がウイルスによるものか、細菌か、真菌かを判断し、抗生剤を使用するか、抗真菌剤を使うか判断する。血培のための採血が38度以上の熱が出るたびに行われる。とりあえず第一段は3回だが、しばらくするとまた3回までは行う。

通常週3回血液検査のために採血する以外に採血されるにだから、それでなくても血液が少ないのに何度も、何度も採血されることになる。採血される身になって考えて欲しい。血液培養によって、正確な治療法が見つかるのは極め重要だがそんなに何回もしなくてもいいとは思う。

抗真菌剤のファンガードの点滴を行なっているが、これは血液培養によって血液中に真菌が見つかったわけではないと医者が言っていた。ただ予防のためということだ。血液培養がどこまで正確に血液中のウイルスなどを発見できているか疑問な点もある。熱が急激に上昇する時に、血液中に、細菌などが溢れでてくる。そのタイミングに採取するのがいいがなかなかうまくタイミングをまえることが出来ない。そういったことで何回か血培をしなければならないのかもしれない。

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入院29日目(退院日が決まる)

3月3日(木)
3月3日の血液の検査の結果。
白血球  1700(3/3)ー2100(2/28)ー700(2/25)
好中球   560ー1170ー240
赤血球  289ー279ー306
ヘモグロビン  9.5ー9.2ー10.0
血小板   5.0ー2.9ー1.7

一昨日に血小板の輸血をした。5.0という数字は,その輸血によって上昇したのか、造血幹細胞が活性化し血小板が産生能力を回復したのかその判断をしなければならない。または白血球や好中球が今回下がったが、これは昨日までG-CSFを点滴していたが、それを中止したため下がったものと思われる。

つまり血小板や白血球が薬や輸血の力を借りないで、どこまで自力で作り出すことができるかが退院できるかどうかのめどとなる。月曜日に採血して、血小板や白血球がそれなりの数値を示せば、水曜日には退院出来る.造血幹細胞が十分な働きをしてくれることを期待する他ない。

医療情報・相談室「こまどり」の部屋の中央に、雛人形が全セット揃って飾ってあった。吉徳大光のかなり高級そうなセットである。能楽鶴亀雛、17人揃い5段飾りである。誰か病院に世話になった人が寄付したのだろうか。あまり出入りの激しい所ではないので、見る人は限られるが、こういった季節を象徴する雛人形が飾られていると、季節から遠くへだった病院に一陣の春の風を感じるようだ。

雛人形005_convert_20110304154601 「こまどり」の雛人形

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入院28日目(眼科治療の今までの経過)

3月2日(水)
8月始め、物が霞んで見えるので、昔診断されたことのある白内障が悪化したのではないかと思い町医者に行った。眼圧を図ると30mmHg(正常値10~20mmHg)とかなり高かったので、緑内障と診断された。それから半年の治療によって視力は悪化する一方で回復することはなかった。むしろIgMの上昇による血液の過粘ちょうによる眼圧の急上昇は視神経や視力に壊滅的なダメージを与えた。今日眼科の定期診察日だったので、担当医に今までの経過についての医師としての見解を聞いた。それを含めて今までの経過を降り返ってみたい。

1、網膜中心動脈・静脈閉塞症ー黄斑浮腫
8月3日
目が霞むので、近所の眼科に行く。緑内障と診断されるが、専門医に行くことを勧められ、血液がんで通院している同じ病院に紹介状を書いてもらう。ダイアモックスとアスパラカリウムを3回分処方される。

8月4日
病院の眼科医の診察を受け、緑内障と診断される。眼圧降下点眼薬キサラタン(房水の流出を促進)を毎日寝る前に点眼するよう指示される。

8月24日
眼科の定期診察日。眼底検査の結果、眼底に出血の点が見られ網膜の腫れもある。これは網膜中心静脈閉塞症、網膜中心動脈閉塞症の可能性が強い。静脈が詰まると血液があふれ出て眼底出血となる。出血は網膜内に閉じ込められ、網膜浮腫を起こす。視野狭窄や視力低下をもたらす。
また黄斑に浮腫が生じた場合、血流障害によって毛細血管瘤や黄斑部網膜内の血管から血液成分が漏れ出る原因となる。それが視力低下をもたらす。こういった静脈や動脈の血栓がCMVによるものなのか、長年のIgM増加による過粘ちょうの血液が網膜の毛細血管を徐々に詰まらせていったのかなかなか判断が難しい。

8月27日

早速アバスチンの眼球注射をやる。アバスチンは新生血管阻害剤ではあるが、抗炎症作用ももたらす。

8月29日

朝起きてみると視界が暗くなっている。アバスチンの副作用が何らかの問題を起こしたのではないかと心配して、眼科に電話し診療希望を伝えた所、直ぐに来てもらっていいということだった。注射の際細菌感染したのではないかという事も含めて様々な検査をした。眼科医に細菌専門医がいたので、彼の診断も受けたが、サイトメガロウイルスの恐れがあると言われた。一人の医者が東京医科歯科大学に関係していた。そこにはウイルス研究所がありCMV の検査をしてくれるということで予約を入れてもらった。

2、サイトメガロウイルス網膜炎

9月1日
東京医科歯科大学病院で眼科の診療を受けた後、CMVの検査のため房水の採取を行った。

9月3日
房水検査の結果、房水内にCMVが存在した。血液検査ではCMV は見つからなかったので、デノシン注射は眼に限定して行うことができた。CMVは、血管炎症を起こし血管を詰まらせ中心動脈の梗塞を起こし、視神経を破壊し視力に打撃を与える。CMVが見つかった時には既に動脈は梗塞を起こしていた。
梗塞とは終末動脈が急に閉塞され、その動脈が支配する抹消領域の組織の血行障害を起こし、限局的に壊死が見られるものである。静脈の血栓は血流がある場合復活することがあるが、動脈の梗塞は復活せず、視神経に大きなダメージを与える。

9月8日
デノシン硝子体注射第一回目開始。最初の8回は週2回おこない、それ以降は週一回欠かさず行なった。抗菌剤クラビットと抗炎症剤・ステロイドのリンデロンの点眼薬を1日4回点眼するよう処方された。

12月22日

デノシン硝子体注射最終。計17回行なったことになる。CMVは血液検査では見つからず、房水検査では殆ど影響のないほどごく少量に減少していた。また免疫力が減少している状態での眼球注射は感染の恐れがある。

3、眼圧の上昇・IgMの増加

12月28日
今までの20台後半だった眼圧が、12月28日の34から始まって、継続して30台前半を下がる事がなくなった。確かにCMV網膜炎が眼圧上昇にも影響し、炎症による腫れが房水流失路に影響を与えるが、どちらかというと軽度である。網膜剥離の後遺症で眼の組織が硬化していることも関係している。
また、虚血によって血流が遮断される。血栓が肥厚し、血管を塞ぐ事により血栓が出来た下位の部分で虚血や梗塞が引き起こされる。その血栓が眼圧を上げているのも確かだが、基本的にはIgMの異常上昇による、網膜の毛細血管が腫れ、コントロール不能の眼圧上昇をもたらした。
眼圧上昇に対して、ダイアモックスとアスパラカリウムが1日2回処方された。点眼薬として、房水の産生を減らし眼圧を下げるトルソプトとミケラン、房水の流失を促進するキサラタンを,今までのクラビットとリンデロンと共に点眼するよう指示された。

2月4日

朝から眼圧が上昇し、左側の頭部がずきずきと痛みを強めて来る。朝一番で眼科医に診てもらったら眼圧が38だった。今まで最高値だ。直ぐにマンニゲンという眼圧降下の点滴薬が処方された。点滴すると頭の痛みは嘘のように消えていった。急激な眼圧の上昇は視神経に重大なダメージを与える。これによって視野狭窄はかなり進行してしまったようだ。
この時IgM 値は最高だったに違いない。2月2日8400でそれより若干増えているだろう。IgM がこれだけあるということは血液の粘着度もかなりなものだろう。それが細い網膜の毛細血管を詰まらせ、網膜を腫らし眼圧を一挙に上昇させたのだろう。

2月4日以降
入院中は、週1度眼科から呼び出しがあり定期的な診療を受けていた。体調が悪い時一度だけ往診に来てもらった。2月3日からソルデムを大量に投与し、血液の粘着度を薄めてきたことと、治療が始まりIgMが下がったので眼圧も20台に戻り、頭痛も一切なくなった。薬は従来通り5種類の点眼薬と2種類の錠剤を服薬している。

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入院27日目(近所の散歩)

3月1日(火)
2月7日から治療を始めてから、全く体を動かすことはなかった。トイレと洗面台までは5歩、シャワー室と採尿室まででも20歩で行ける。病棟から外に出られないので歩く距離は自ずと限られる。熱が出ていた時はもっと動きが限られていた。20日ほとんど動かないと人間の筋力は著しく低下する。脚の筋肉だけでなく全身の筋肉が退化する。

寝たきりだとどの位筋力が低下するか、「キル・ビル」というタランティーノの映画が印象に残っている。映画は毒蛇暗殺団の最強のエージェントであった主人公が自分の結婚式の最中に、かってのボスとその手下に襲われ頭を撃ち抜かれるが、4年間の昏睡状態から奇跡的に目を覚ます。

目を覚ました彼女は、自分が覚醒したことを知ったら組織はまた殺しにくるにではないかと病院を必死で抜け出そうとする。しかし体は4年間全く動かすことはなかったので、最初は指1本動かすことが出来なかった、何時もかけて少しづつ指から手、手から上半身が動かせるようになって来た。動き始めた手でツボを刺激しながら徐々に機能回復を図る。

しかし脚はどうしても動かせない。体全体を支える足の筋肉が一番回復に時間がかかる。彼女は這って駐車場まで行き、車を奪い手でクラッチとブレーキを操作しながら逃亡する。これは4年間体を動かさなかった例だが、ともかく体を動かさないとどれ程筋力が退化するかを表している。

今までの、体調もすぐれずベッド体操もやっていなかった。病院によってはリハビリ科が、ベッド体操のビデオを持って患者の指導に当たっている所もあるし、ベッド体操のパンフレットを配っている所もあるが、ここの病院ではそういったことは全くしていないので、自分でネットで調べて組み立ててやっていく他ない。起床前10分位やっている。始めたのは先週土曜日からだ。もっと早く始めればよかったと思う。

体にとって最高に良いのは当然ウォーキングだ。昨日白血球が上がった。ベッドを覆っていたビニールもはずれ、生物禁止食も解除された。今日からは少しづつ歩き始めよう。以前は病院の周りに遊歩道がありそこを回ったのだが病院の改築、改装工事で通れない。また周辺は工事現場で、黴や有害化学物質で極めて危険だ。人混みと工事現場は血液がん患者にとって、避けるべき場所だ。

最初のウオーキングは、天祖神社と吉祥寺を回って30分位のコースを歩くことにした。外の大気に触れるのは何日ぶりだろう。いつに間にか雨が降ったらしくコンクリートに濡れた跡がある。どんよりと曇り寒々とした情景だが、久しぶりなので新鮮な清々しい感じがする。天祖神社の境内には奉納されたという、赤梅、白梅、蝋梅がまだ小ぶりだが花を咲かせていた。途中古い民家に桃色の梅がこれはなかなか見事に咲いていた。

吉祥寺には鐘の前に蝋梅が咲いているだけで、本堂の前の大きな白梅は既に花を散らせてしまっていた。そこからまた病院にもどる。40分近くの散策だったが、まだ地に足がつかない感じだった。歩くことによって足腰の筋肉を鍛えるだけでなく臀筋や腹筋、また歩く時手を降れば胸や肩の筋肉まで鍛えられる。すっかり衰えてしまった筋肉を日常生活が可能になるまで元に戻さなければ。

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 天祖神社の赤梅と蝋梅

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 吉祥寺の鐘の前の蝋梅 ・ 民家の梅

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Author:yosimine
がん治療とは長く細い道を辿ら
なければならない。その先に希
望があると信じながら。

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