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眼科、口腔外科、血液内科の診療

4月27日(水)
今日は3ケ所掛け持ちの診療だ。1ケ所で出来るのは便利だ。9時の採血は待ち時間が20分位だった。口腔外科の予約は9時半ですぐに呼ばれた。差し歯と歯茎の間に詰まった食べ物のかすはうがいや歯磨きでは中々取れない。今日の診療内容は、極細(SS)の歯間ブラシを用意してきてそれを取るやり方を説明するというものだ。看護師が丁寧に教えてくれるが上の奥から2番目の歯の上部なので中々やりづらい。医者も大変だろうが頑張ってくれとしか言いようがない。

眼科の診療はいつもの通り最初に眼圧検査を行い、その後にいつもはやらないのだが視力検査をやった。右眼は適正なレンズを入れるとかなりよく見える。1.2の列はほぼ全部見え、1.5の列も幾つかは見える。最近テレビの字幕が見えにくくなってきた。今の眼鏡の度数が弱くなって来ているのだろう。今日の視力検査で眼鏡を買い替えなければならないと思った。

今の定期的な眼科診療は眼圧を抑える薬の処方と、何よりもサイトメガロウイルスの右眼への発現を食い止めることが目的である。いち早くその兆候を察知し手を打つために定期的な診察が必要となっている。交代した担当医には、診察前に行なっている血液検査の結果をみて白血球(好中球)の値が減少してきたら要注意ということで対応してもらいたいと言っておいた。眼科の予約は10時だったが、連休前後ということだからだろうかかなり混んでいて1時間位待った。いつもはあまり待つことはないのだが今日は特別だ。

検査結果
IgM   3788(4/27)←4543(4/20)←4324(4/13)←3914(4/6)
白血球  1800←1900←3000←3300
好中球  750←940←1520←2210
赤血球  273←296←276←268
ヘモグロビン 9.3←10.0←9.2←9.0
網赤血球   11←13←16←22
血小板  2.9←4.3←4.2←6.1


血液内科の診療室に呼ばれた。思ったより早かった。眼科診療が終ってから40分位しか経っていない。担当医が開口一番IgMが760減少したと言った。薬を変えたわけでもないのに何故減ったのか理由は担当医も分らないということだ。今頃になって薬が効き始めたのか。理由はともあれ減ったのは嬉しいことだ。一時的でもほっとする瞬間だ。

一方白血球1800、好中球は750、血小板は2.9とかなりぎりぎりの線に近い数値に落ち込んでしまっている。白血球の減少に関しては、G‐CSF(ノイトロジン)の皮下注射をやることにした。血小板は輸血というところまではいかない。来週は連休で休みだということもあって、血小板減少の原因であるベルケイドの静注を1週間休みにしようという事にした。先々週(13日)には、本来だったら休薬の予定だったが投与したのでその代わりの休薬ともいえる。

帯状疱疹神経痛の薬リリカはかなり効果的だ。朝晩2回服用しているが、痛みはほとんど感じることはなく全く日常生活に帯状疱疹神経痛は介入してこない。それを忘れ去った生活が出来ている。これは痛みを抱える患者にとってどれ程有り難いことだろう。昨年認可された薬だが、こういった薬が出来たということ一つとっても医学の日進月歩を強く感ぜざるを得ない。そしてその恩恵によって我々はどれ程自らの生存の可能性を拡大させていっているかを思い知らされるのである。

外来治療センターからの呼び出しが中々来なかった。混んでいたのだろう。点滴が終ったのが13時30分だった。会計をしサリドマイドを薬剤部で受け取った。一応別室に呼ばれるが説明はされず「分かってますね」の一言で終ってしまう。毎回同じ説明をしても無意味だからだ。サリドマイドの処方された薬の数を数え受領サインをして薬を受り、それで終わりだ。
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テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

あけぼの山農業公園

4月26日(火)
チューリップが見頃だという。チューリップの花畑は見に行ったことはないので、一度は行って見たいと思っていた。チュ-リップは花を開いてから10日位で花を散らす。大きな花びらがぽろりと潔く落ちてしまって後は茎だけしか残らない。

この花は短い命なので春のほんの一時期しか見られない。それが逆に春を感じさせる。「咲いた、咲いたチューリップの花が・・・」という歌があるが、まさに春の中心に存在するような花だ。同時にその多彩な色が特徴だ。確かにどの花よりも深く濃く鮮やかな色彩を放っている。

チューリップを見に行くにはどこがいいだろう。昭和記念公園にもチューリップ畑があると書かれてあったが、行ったことのない所の方がいい。柏の「あけぼの山農業公園」にチューリップ畑があり、風車がチューリップ畑に趣を添えている。

公園は我孫子からバスで15分の所にある。バスは1時間に4本出ている。このての観光地にしては本数が多い方だ。地元の路線バスでもあるのだろう。10時30分の「あけぼの山農業公園」行きのバスに乗った。バスの乗客は7,8人いたが全て終点までの客だった。バス停から公園まで10分位歩かなければならない。

あけぼの山農業公園:
市民農園として知られる園内で、近年人気なのがチューリップ。千葉県内では「佐倉ふるさと公園」と並ぶチューリップの名所でもある。また、四季折々の花で彩られたオランダの風車は、今では柏の顔になっている。風車をバックに1.2万㎡のチューリップ畑が広がる。15万株の色とりどりのチューリップが見頃を迎えると共に、ツツジやシバザクラ、ナノハナも見頃となる。園内にある日本庭園の中心には本格的な茶室「柏泉亭」がある。それに隣接し、関東三弁財天の一つである「布施弁天」や、桜の名所でもある「あけぼの山公園」もある。(花の名所案内)

公園の入口には花壇があり、様々な種類の珍しいチューリップが植えられていて、その名前が表示されている。チューリップ畑のミニ版といったところだろう。ここでチューリップの種類を把握して、チューリップ畑を楽しむため、作られたものなのかもしれない。

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 公園入口の花壇

入口の花壇を後にして公園内に入ると、右側には傾斜地林間コースのアスレチックがある。左に下っていくと芝生の広場がありその周辺にもチューリップが植わっている。どこかの小学校が植栽した芝桜が斜面に咲いている。広場には資料館がありその前では物産展をやっていて地元の野菜を安く売っている。いちごもあった。安ければ買おうと思ったが東京のスーパーの方が安かったのでやめた。

芝生の広場を突っ切ると目の前にチューリップ畑が広がる。風車を背景にしてオランダ風にアレンジしているのだろう。真ん中を円形にして全体の広がりを演出している。チューリップの周辺にはビオラ(パンジー)が植えられ、地面が覆い隠されている。ビオラの色も含めて、鮮やかで多彩なチューリップの色の配置を考え色彩が溢れ出る情景を作り出し、我々の目を楽しませてくれる。このチューリップ畑は夏はひまわり畑に、秋はコスモス畑へと季節ごとに植え替えられる。

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目を転ずると左側は菜の花畑だ。黄一色、チューリップの色彩の洪水と対比してまた全く別の美しさを感じることが出来る。菜の花畑の真ん中にポピー(ヒナゲシ)の畑がある。菜の花畑の途切れる遠景に八重桜が満開の花をつけている。桜の花と菜の花、ピンクと黄色の取り合わせは絶妙だ。

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公園は利根川の土手に囲まれている。そのせいで回りに高い建物もなく空を背景として花畑が広がっている風景が見られる。風車の下には池があり蓮が季節には花を咲かせる。公園を囲むようにして、市民農園と芝生広場がある。市民農園は1年ごとに利用者を募集し作物を育てる。一区画ごとに立て札があり、その区画に好きなもの植えて収穫するというものだ。100区画位あるのではないかと思う。芝生広場はサッカーやフットサルなどの競技場として貸し出されている。

公園を後にして布施弁天に行ってみる事にした。由緒ある寺で、特に楼門や鐘楼に特徴があって面白い。この寺は利根川沿いの高台に立っていて、境内からは利根川の景色を思う存分味わうことが出来た。布施弁天から公園に戻る途中に日本庭園があった。どんな所かと思って寄ってみた。回遊式庭園である。池の周辺に植えられた木々の新緑が目に眩しく映るほど鮮やかだった。奥まった所にあって目に付きにくいからか、ほとんど人はいなかった。庭園の東屋には、穏やかな大気が満ち溢れ、静かで落ち着いた雰囲気の中に浸りながら、ゆっくりと休息の時を持つことができた。

布施弁天(紅龍山 東海寺):
大同2年(西暦807年)に弘法大師空海御作といわれる弁財天像をご本尊(秘仏)として開山された祈願寺である。弘法大師空海が関東地域に巡錫のおり、布施に参り「この像は、私が但馬の国で願をかけ、彫刻し奉った弁財天である」と感嘆せられた。そこで大師は寺を造り、山を紅龍山とよび、この村を天女の利益にあやかり「布施」と名付け、京に帰り親交の深い嵯峨天皇に事の次第を申し上げた。

弘仁14年(823年)に入り、その話にいたく感動された嵯峨天皇は田畑を寄付され、堂塔伽藍を建立され勅願所(天皇が天災地変や疫病流行などを祈願せしめられた寺社)に指定した。平成18年には本堂・楼門・鐘楼が千葉県重要文化財の指定を受けた。

楼門: 文化7年(1810年)の建立で、一階部分は、漆喰で白く塗り固められていたと思われ(現在はコンクリート)、竜宮城の門のような形をしている。また、軒下には、竜、麒麟(きりん)、亀、松、鶴といった素木造りの彫刻がはめ込まれている点も特徴だ。

鐘楼: 全国でも珍しい多宝塔式の総欅造り。基担は、みかげ石積み八角形、その上に12本の円柱で円形の本体を構成し、その柱頭に十二支の彫刻を配して方位を表している。設計にあたったのは、矢田部(現茨城県つくば市)の名主 飯塚伊賀七、大工棟梁は今関嶺蔵。伊賀七は「からくり伊賀」といわれるように、当時としては奇抜な木製和時計や五角堂など数々の品々を発明し、この鐘楼の設計図も手がけている。

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 公園の桜並木                       布施弁天の楼門

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 本堂                              鐘楼

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 日本庭園

我孫子駅に戻ってきて遅い昼食をとろうと店を探した。バス停は北口だが、繁華街は南口らしいのでそちらに行ってみた。駅前に高いビルが建ってる。建物のイメージからして公共施設だろうと思った。王子駅前の「北とぴあ」に雰囲気が似ている。「けやきプラザ」という名の11階建ての建物で各階とも訳のわからない公共団体の名前が書いてある。「箱物行政」なのだろうか。

11階最上階に展望レストランがあるのでそこで昼食をとることにした。展望レストランといってもそれ程の展望を期待していたわけではないが、窓に広がる景色は手賀沼の全景だった。手賀沼が我孫子駅のすぐ傍にあるという事に気がつかなかった。見応えのある景色を眺めながら食事をするのはまた別の味付けが加わったようなものである。

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 けやきプラザ            手賀沼の風景

帰る時エレベーターホールで北口のビルの階数を数えてみたら13階だった。しかし11階建ての「けやきプラザ」よりかなり低い。どうしてか疑問だ。特に南口が高台になっているわけでもないし特別に天井が高いわけでもない。

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千川通りの八重桜

4月24日(日)
ラジオ体操に行く公園の八重桜が満開だった。この分だと千川通りの桜並木の八重桜が見頃だろう。本当にいい天気だ。どこかに行くには絶好の行楽日和だ。日曜日は混みそうな所には行こうとは思わないので、千川通りの八重桜を見て、家の周辺を散策することにした。

千川通りは南長崎6丁目の信号から江古田方面はソメイヨシノが咲き、千川親水公園から要町通りを突っ切って川越街道に向う並木道の桜はソメイヨシノだ。その間、南長崎6丁目から千川親水公園までが八重桜という変わった桜並木の作り方をしている。どうしてこの一区画だけを八重桜にしたのか分らない。

11時頃家を出た。気温は20度と街を歩いているとTシャツ姿の人を見かける程だ。歩いていて気持ちのいい陽気だ。まず千川通りを西武線の踏切から要町通りに向って歩き始める。八重桜はその色のせいか、ソメイヨシノの持つ華やかさはないが、落ち着いた雰囲気を与える。歩道橋に上がって見たが、枝を張り出すという種類の木ではないので、桜のトンネルを作るということもない。こういった八重桜の穏やかさと、濃いピンクの色彩が空の青さに鮮やかに映える様子は、春の深まりを感じさせるものであった。

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いつの間にか木々の緑が目に眩しく映るようになってきた。少し前まで枯れ木だった木々が芽を吹いたと思ったら何日かのうちに緑の葉をびっしりと付けている、その生命力に感動を覚えざるをえない。街の色彩が枯れ木の薄茶色と、冬の寒い重い空の灰色から、春の青空と木々の緑で覆われていくような気分である。街を歩いていると様々な花に出会う。それが街を明るくしている。

千川通りから家に戻る途中にある公園や家々の庭は春爛漫、様々な花を見ることができる。ハナミズキはなぜか特に春を感じさる。早くもつつじが満開の花を咲かせている。近所でも春の息吹を感じる花々を鑑賞するのに事欠かない。

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石田衣良 『夜の桃』

4月21日(木)
yorun_convert_20110421112445.jpg 図書館で石田衣良の棚を探すと、彼の本で読んだことない本は『夜の桃』という本だけだった。この本は石田衣良の人間的欲望の奥深さをえぐったものであると同時に、現代社会の抱えている病理の原因にも踏み込んで分析を試みている。

欲望を失った時人は機械と同じになってしまう。そして今の社会は人間的欲望を削り落とす装置に満ち溢れている。こういった中でどのように地位や名誉に優先して自分の欲望に忠実に生きていくのかその模索の過程が小説の骨子となっている。

 広告代理店の新社屋は汐留だった。再開発された地区の中でも、ひときわ高いガラスの塔である。薄青いハーフミラーの壁はゆるやかな曲線を描いてうなり、巨大なディスプレィのように青い空とそこをいく雲を反射していた。リアルなものが現実には見えず、ただの反射にすぎないものが、より現実らしく感じられるのはなぜだろうか。この時代は逆立ちしていると、雅人は思った。(新潮社単行本P41)

 会議室の奥には、一面汐留のビルが広がっていた。ガラスとステンレスとコンクリートの林である。こんなものばかり毎日眺めていたら、若い男の欲望が消えていくのもあたりまえかもしれない。そこには砂粒のような人間ひとりの欲望では動かしがたい圧倒的な重量感があった。

雅人は間にあってよかったと思った。欲望や生きることの愚かさをまるまる肯定したバブルの時代を若いころ経験できてよかった。そうでなければ、自分もこの風景に欲望を吹き消されていたかもしれない。(P43)

 新橋駅前の広場には街金融の看板をもった男たちが、ただ立ち尽くしていた。カラフルな看板の向こうの空に、超高層ビルがガラスの盾のように寄り集まってそびえていた。こちら側の貧しさから、向こう岸の豊かさまで、日本ではひと飛びだった。向こうも駅前の貧しい世界と混ざり合うのが怖いのだろう。どれほど大きな企業でも、いつ滑り落ちるかわからない時代である。(P63)

汐留シオサイトはJR新橋駅すぐ近くの「旧国鉄汐留貨物駅跡地」を利用した都内最大規模の再開発都市で、日本テレビ本社ビルをはじめ、レストラン、ショップ、シティホテルなどの高層ビル13棟やイタリアをイメージした街などが建ち並んでいる。

浜離宮から新橋方面を見ると、汐留シオサイトの高層ビルが隙間なく並んでいる。まるで海からの陸を守る防波堤のようだ。しかしこの壁が海からの風をさえぎり、都心の空気の循環を遮断しヒートアイランド現象を引き起こしているのは確かである。

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 シオサイト全景: 左が北端のシティセンター、右が南端の汐留芝離宮ビル

また江東、中央、湊区の臨海部では、工場跡地などの遊休地を活用しようとする再開発ラッシュだ。30階以上のビルの数を2000年と2008年と比べてみると開発の状況が良く分る。江東区では6件が24件に、中央区では10件が25件に、港区では15件が72件に増えている。

しかし臨海部はもともと地盤が軟弱な上、再開発地域は埋立地が多く、また海や川に面している。新木場地区では液状化で道路が土砂で埋まった。高層ビルが液状化でどういった影響を受けるのか、さらに耐震性の問題、津波に対する不安などが募る。超高層ビル群は首都繁栄のシンボルから、震災をきっかけに、防災の不安が指摘される危険な存在へと姿を変えている。再開発の多くは、経済的利益が目的で、都民への安全への視点はない。

小説の内容からは、話がそれたが立ち並ぶ高層ビルが意味するものを明らかにしたかったのである。

高層ビルの多くはベイサイドの「緑あふれる美しい水辺」といった宣伝文句で売り出されるタワーマンションがほとんどである。億ションもある高級住宅でありタワーレジデンスと呼ばれている。そこに住むことが自らのステータスを明らかにするものでもあるのだ。再開発によって作られた高層ビルのほとんどは富裕層のための高級マンションである。

高層ビルの中に身を置き住人はなにを考えているのだろう。美しい港の夜景を見ながらワインでも飲んで豊かさを実感しているかもしれない。しかしそこに人間的な真実は存在するのだろうか。本当の豊かさはあるのだろうか。金で買える豊かさと心の充実を与えてくれる豊かさは別のものである。石田衣良は無機質な高層ビルの描写と平行して人間的欲望をキーワードとした恋愛論を展開し、両者を絡めながら人間的真実を追い求めていく。

以下の引用は石田衣良の恋愛論である。解説は不要だろう。彼の恋愛についての考えの一端を知ることができると思う。空虚な空間としての高層ビル群と対比して、人間の心のあり方、豊かさを何処に求めていくのかの彼なりの回答が示されている。

 欲望を育てるには、必ずタイムラグというか、ためが必要なんだ。現代にはためがなくなった。欲望を育てる時間がなくなったんだ。

おれたちはみんな待てなくなったんだ。すべてが便利になったが、なにかを待つことができなくなっているんだ。

人と人とが結びついたり欲望を分け合ったりするのは、恐ろしいくらい無駄な時間がかかるものだ。そういう意味では、なにも生み出さない恋愛というのは、現代ではなによりも贅沢なものなのかもしれない。そして今の若い男たちみたいに、もの心ついた時から時間に追われていたら、恋愛や欲望にあこがれる気持ちさえなくなるんじゃないか。だって、恋愛には得をすることなんて一つもないんだ。(P48)

 「なぜ恋愛を繰り返すのだと思いますか」「恋愛がわからないからだと思う。いくら中年になっても、上達もしないし学習もできない。毎回ゼロかイチの繰り返しです。なんでも簡単にわかってしまい,誰かに全部解読されてしまう世のなかで、恋愛みたいな謎はないですよ。」一生そのために生きても、決して解けない魅力的な謎。それこそが生きる目的ではないだろうか。(P68)

 いくらビジネスで成功し、そこそこ有名になり、富を積み上げても、女のいない男たちに幸福などやってくるはずがなかった。・・・人を愛する力を失えば、人間などただの機械と変わらなかった。この世界を見ろ。働く機械、金をつくる機械、組織を守る機械に、満ちあふれているではないか。(P281)

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同じ職場にいた友人宅訪問

4月21日(木)
 昨日は血液内科の診療はかなり早かった。9時15分頃採血をして、9時半に口腔外科の診療を受け、10時半に血液内科の診療を受けることが出来た。診療が終るとすぐ外来治療センターに呼ばれベッドに案内された。

点滴薬は15分位で届いた。医者も結構早く来てくれて、点滴は11時半に始まり12時には終った。その後会計をし、薬を受けとって12時過ぎには病院を出られた。同じ事をやっても前回は15時近くまでかかった。同じ水曜日なのにかなり混む日とそうでない日があるのは不思議なものだ。

時間が早かったが帯状疱疹神経痛の痛みがあったので、どこかを回るという気分ではなかった。同じ職場で働いていた同僚が昨年4月定年退職している。家にいるかもしれないと思い電話してみた。運よくいたので訪ねてみる事にした。その前に駅の近くで昼食をとった。食後に医者から処方された帯状疱疹神経痛の薬リリカを飲んだ。どれ程の効果があるのか期待がふくらむ。

 元の職場の同僚のH氏とは入社時期もほぼ同じで35~6年同じ会社で働いていた。その内H氏が営業社員として7,8年浜町の本社勤めをしていた時期を除いて、流通センター業務を一緒に担ってきた間柄であった。

彼は40歳位の時から腰痛を患うようになった。仕事の関係でどうしても重いものを持ったりしなければならないので腰を痛めやすい。腰痛という持病を抱えながら仕事をこなすというのはかなり辛いことだったろう。腰痛の悪化で職場を休む事も何度かあった。1ケ月位入院していた事もあった。

私が入院すると聞いて見舞いに行くつもりだったが持病の腰痛が悪化して医者だけにはどうにか通っていたが、それ以外外出できるような状態ではなかった。そういったことで見舞いにこれなったので、退院したらこちらから訪ねると言っておいたのだ。その約束を果たすのに天気も穏やかだし、時間的にも訪問するのに丁度いい。

 彼の家は西日暮里から千代田線に乗れば30分位で着く。駅前のスーパーで飲み物とつまみを買って訪問した。昼間から飲みながら四方山話をするといういつものパターンだ。H氏は昨年4月に退職して、半年間失業保険をもらっていた。その時に職安で仕事を探したが、紹介された仕事の多くが肉体労働でどうしても腰を使わざるを得ないので無理だと判断し、事務仕事を探したが中々見つからなかった。

結局働く事をあきらめて私と同じように悠々自適の生活をしているというわけだ。今は年金の報酬比例部分を受けとって生活している。貯金もあるし、マンションのローンは既に払い終えているので、どうにかそれで生活することが出来るそうだ。

腰痛の根治を目指して様々な病院に行ったが、年齢的に手術をしてもそれ程効果が見られない、対処療法しかないと言われた。病名は腰部脊柱管狭窄症で、「神経根が圧迫されるタイプ」などで、症状の軽い場合は、「姿勢の改善」「運動」を心がけ、痛みがある場合は、「安静」を心がけながら、下記の保存療法を中心に治療を進める。

薬物療法(非ステロイド性消炎鎮痛薬や内服薬、貼付薬、塗り薬)、理学療法(温熱療法、超音波療法)、装具療法(腰部コルセットを装着)、神経ブロック(血流改善、炎症を鎮める「局所麻酔薬」を注射)

 H氏は、こういった療法を使いながら腰痛に対処している。また彼は10年ほど前、引越しの最中つまずいて顔面を床に打ちつけ、その時首をかなり強く捻ったようだ。鞭打症の状態だ。頚椎の神経が麻痺し全身の神経が機能せず体が全く動かない。声も出せない。

倒れた場所が玄関で、入口の扉が開いていたので、通りがかった人が救急車を呼んでくれて病院に運ばれた。その後頚椎の手術をした。その手術は成功し体の何処にも痺れなどの後遺症が残ることはなかった。このアクシデントで彼は2ケ月職場を休まざるを得なかった。

H氏は思わぬ所で思わぬ事故に遭遇した。また持病を抱えて思い通りの仕事が出来ない。私も持病を抱えているといえば言えなくもない。似たもの同士という訳だ。飲みながらの話はまずはお互いの病気の状態の報告からだ。その後はどうしても原発事故の話になってしまう。原発の問題点と原発事故に対する東電の対応に対する批判を互いに言い合うことになった。2時間ばかり話をしたので帰る事になった。

 気がつくと大分前から帯状疱疹神経痛の痛みは全く感じられなくなっていた。リリカという鎮痛剤がかくも神経痛の痛みに効果的だとは信じられないことだ。普通の鎮痛剤は大体痛みが和らぐことはあっても全くなくなることはない。しかしリリカは全く痛みを感じなくなる程の効果を発揮しているのだ。このような鎮痛剤を経験したことがない。リリカは薬を飲んでから徐々に効き始め2時間位で全く痛みを感じなくなる程の効果的な薬なのだ。

リリカ75mgを朝晩服用しているが、20日の15時頃H氏の家で帯状疱疹神経痛の痛みが消えて以降、一切痛みを感じることがない状態が続いている。痛みがないというのはどんなに解放された気分であるのか。体の消耗感もなくなり、痛みがひどい時にはすぐ横になりたくなったが、そういった事もなくなった。痛みは消耗感をも生み出していくものなのだ。

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定期検診の日

4月20日(水
検査結果
IgM   4543(4/20)←4324(4/13)←3914(4/6)←3928(3/30)
白血球  1900←3000←3300←4100
好中球  940←1520←2210←2890
赤血球  296←276←268←305
ヘモグロビン 10.0←9.2←9.0←10.0
網赤血球   13←16←22←27
血小板  4.3←4.2←6.1←9.5


IgMが一週間で200の上昇だった。前回400の上昇だったから上昇傾向が少しは緩和されたのかもしれない。形質細胞腫瘍の増加を抑え切れてはいないが少なくとも効果を発揮しているのは確かだ。そういったことでこのまま同じ治療法を続けていく事になった。

あまりにも上昇が激しかった場合シクロホスファミド(エンドキサン)を加えることも考えていたが、今回は使用することはなかった。医者も同じ考えでシクロホスファミド前回行なった50mg4日間/月という投与の仕方ではなく、1日おきに服用するなどの方法でやってみたらどうかという話をした。しかしサリドマイドの影響か白血球・好中球が減少してきている。これ以上減少するとシクロホスファミドの使用に支障が生ずる事になる。難しい問題だ。

今行なっている療法が限界に来た場合、医者はもう一度2月3日に入院して行なったDCEP療法(デキサメタゾン+シスプラチン+エンドキサン+エトポシド)をやったらどうかという話をした。また1ケ月以上入院する事になるが、通院で行なえる療法が見出せなくなったら入院でDCEP療法を行う以外ないだろう。効果的な療法がまだ存在するということ自体幸運だと思うほかない。

帯状疱疹神経痛について医者に症状を訴えた所、いい薬があると言ってリリカという神経痛に効果的な薬として処方してくれた。リリカといった何とも可愛い名前だが、この薬は2010年4月16日に「帯状疱疹後神経痛」の効能・効果で製造販売承認を取得し、6月22日に発売された、という新薬で帯状疱疹神経痛に特化した薬である。

さらに10月27日には「末梢性神経障害性疼痛」という効能・効果の承認を新たに取得した。ベルケイドとサリドマイドによる末梢神経障害がずっと続いている。指先と、ふくらはぎから足の裏まで痺れている、特に足の裏は絶えず厚い靴下をはいている様な感じがしている。こういった神経障害にも効果を持つならかなり意味のある薬だ。

今までは効うつ剤のテグレトールやパキシルとか抗テンカン剤のガバペンなどを服用していたが、リリカといった薬が開発され昨年から発売されたのは何と運のいいことだろう。帯状疱疹神経痛でどれ程の人が苦しんでいたのだろう。その痛みを緩和出来る薬が出来たのである。

リリカカプセル(プレガバリン)75mg: 神経障害性疼痛は、神経の損傷から起こる痛みです。このうち脳や脊髄以外の末梢性のものを“末梢性神経障害性疼痛”といいます。代表的なのが、帯状疱疹のあとに残る“帯状疱疹後神経痛”です。痛みの感じ方はまちまちですが、ピリピリと焼け付くような痛みは ときに激烈で耐え難いです。

このお薬は、そのような末梢性神経障害性疼痛に有効な特殊な鎮痛薬です。過敏になっている神経をしずめる作用から、一般的な鎮痛薬が効きにくい神経損傷に起因する痛みに効果的です。その作用メカニズムは、痛みを発する異常に興奮した神経系において、各種の興奮性神経伝達物質の放出を抑制することによります。(お薬100番)

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ジャンル : 日記

帯状疱疹神経痛・原発の問題

4月19日(火)
帯状疱疹神経痛の痛みが一進一退を繰り返している。皮膚の赤い湿疹の方は収まったが神経痛が残り、ぴりぴりとした痛みが肋骨の周りを中心として感じられる。痛みが強い日と比較的楽な日がある。痛みというのは何とも厄介なものだ。痛みに気が集中し中々外の事に集中できない。寝てるとかテレビを見ているとか受動的行為は可能だが、能動的に何かをしようとするとかなりの決意が必要となってくる。

家事は惰性的にでもやり切ることは出来るが、書いたり読んだりすることにはどうも体が積極的に動かない。また痛みだけでなく、薬のせいかだるさに付きまとわれているといった状態が続いている。すぐ横になりたくなる。この体力の消耗もどうにかならないかと思う。

17日東電は「原発事故の収束に向けた作業の工程表」を発表した。原子炉を6~9ケ月で冷温停止状態にするという見通しを示した。こういった工程表にしたがって作業を進め、うまく行ったとしても9ケ月後に避難住民が戻れる保障はない。空気中の放射性物質は減少したとしても、10ケ月に渡って放射能によって汚染され蓄積された土壌の除去作業が何処まで可能なのか色々問題は残るだろう。

原発は作る時よりも廃炉にする時にどれ程大変か。東芝、日立が東電に計画を提示している。廃炉をめぐって東芝は「米国のスリーマイル島での事故処理の実績がある米国の企業との話で、遠隔操作の瓦礫除去装置など当時開発された技術、機器を使って1~4号機の廃炉は最短、10年で可能と見ている。今後数ケ月間で、原子炉を安定化させ、5年後をめどに原子炉と貯蔵プールから燃料を取り出す。次の5年間で建屋と原子炉を解体し土壌から放射性物質を除去する」と提案している。

日立は原子力事業を統合した米ゼネラル・エレクトリック(GE)など七社で提案。「建屋解体まで30年くらいかかるのでは」とみている。

廃炉にするのにかなりの時間と労力を必要とするが、これで終ったわけではない、取り出された核燃料は高レベル廃棄物としてガラス固化され地層処分されるといった作業が残っている。ただこの作業は膨大な核廃棄物が現存している現状で全くはかどっていない。

話は変わるが原発行政ほど政府、官僚、学識経験者、電力会社の癒着が露骨な所はない。経済産業省の外局である原子力安全・保安院は官僚OBを何人も電力業界に送り込んできた。組織として電力会社に退官後の世話になっている。そういった組織が電力会社が推進する原発の安全性に対する厳密なチェック機能を果たせるとは到底思えない。

内閣府の審議会である原子力安全委員会は事故発生から1ケ月以上も委員が現地入りしなかった。年間1千万以上の報酬を受けていながら怠慢そのものだ。元委員の一人は東電の安全確保が十分でなかった背景について「費用がかかる」と発言している。経営側の立場からのこの発言は本来の役割を忘れたものでしかない。(資料:東京新聞)

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ジャンル : 日記

江戸川公園 (神田川の桜)

4月13日(水)
病院を出たのが15時近くになってしまった。今日はどうしてか採血室も込んでいたし、眼科でもかなり待たされた。血液内科の診療は2時間も待つ事になった。その後に点滴が行われた。

外来治療センターが新しくなり、今までは20人分のベッドしかなかったが、リクライニングシートを含めて50床あるということだ。今までは血液内科の患者だけの部屋だったが外科も合流したらしい。ベッドの空きは早かったが、薬と医者がなかなか来なくて結構時間がかかってしまった。

時間が遅くなってしまったので、帰りの沿線にある所に行く他ない。今まで行った事がなく、本駒込から南北線に乗り飯田橋で乗り換えて1つ目の江戸川橋で降りるとすぐ、江戸川公園がある。「神田川の桜」といったネーミングが川とそこに咲く桜の状態と雰囲気をイメージさせてくれる。

桜を見るのも今年は最後だろう。かなり散り始め葉桜になっているところも多い。果たして来年は見る事が出来るのか、IgMの値の事を考えてふとそんな想いが頭をよぎる。それを振り切って絶対に来年も見るのだと決意するほかない。

病院から本駒込駅に向う動坂通りの左右に幾つかの寺院がある。養源寺、連光寺、常徳寺、高林寺があり、それぞれ庭に桜が植えられていて本堂を鮮やかに浮き上がらせている。養源寺には空をおおうような桜の巨木が6,7本ありほかの寺院よりも華やかだ。桜の巨木が寺院をおおっている有様は絵になるようた。ただ本堂の横の桜の木の背が高く、本堂を超えてしまっているので本堂と一緒に写すことができなかった。

江戸川公園003ed_convert_20110414141304  江戸川公園006ex_convert_20110414141340
 養源寺本堂                         連光寺本堂

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 常徳寺山門                         高林寺本堂

江戸川公園
江戸川の桜: 江戸川公園周辺の神田川が、江戸川と呼ばれていた明治17年(1884年)頃、旧西江戸川町の大海原氏が自宅前の土手に桜の木を植えた。それがもとで、石切橋から大曲まで、約500メートルの両岸にソメイヨシノなどの桜が多いときで241本あり、桜の名所となり新小金井といわれ夜桜見物の船も出て賑わっていた。その後神田川の洪水が続き、護岸工事に伴って多くの桜は切られた。江戸川公園から上流の神田川沿いには、神田川河川改修に伴い、昭和58年(1983年)に新たに桜の木が植えられた。

有楽町線江戸川橋駅で降り、AIという出口から出ると目の前が江戸川公園だ。公園の入口にあるのが江戸川橋である。公園を進むには2通りの行き方がある。桜並木のある公園にある遊歩道を進んで行くのが通常だろう。もう一つの道は、川の対岸にも遊歩道があるのでそちらを行く事も出来る。対岸から神田川に張り出している桜の密集した状態を眺めるのに対岸を通る人も多い。途中橋があるのでどちら側にでも移れる。往復する人は往きと帰りを別の道にすればいい。

公園は桜見物だけでなく、様々な重量感のある石が添えられた石の広場や、西洋風の山小屋を模した時計搭のある四阿、藤棚のあるテラスなどがあり、変化に富んでいる。テラスの先には石組みの池があり、神田上水取り入れ口に使用されていた大洗堰を復原している。

中央が小高い丘になっていて、深い樹間をつづら折に登ると最上部では早稲田方面の眺望が堪能できる。子供達の遊び場もあり子供連れの母親が何人かいた。土日は混むのだろうが平日の夕方なので遊歩道に花見の客はあまりいなかった。

江戸川公園と椿山荘の境目に大滝橋がある。胸突坂を降りた所には駒塚橋があり、椿山荘と新江戸川公園の間にある。この先の道路と駒塚橋には車が通れる。そしてさらに面影橋の方に歩いて行き、豊橋を渡ると早稲田に出る事が出来る。

神田川
日本最古の神田上水は徳川家康の命により大久保藤五郎によって開かれた。井の頭池を水源とし、神社の前を流し、すぐ下流の大滝橋あたりに堰を築き、水位を上げて上水を水戸屋敷に入れ、樋(とい)で地下を神田や日本橋方面に流した。

江戸川公園013ed_convert_20110414141529 江戸川橋より

江戸川公園023_convert_20110414141701 対岸より江戸川公園

江戸川公園026_convert_20110414145313 川面に散る桜の花びら

江戸川公園028_convert_20110414141838 大滝橋より

江戸川公園を過ぎると隣が椿山荘であり、高層の建物はホテルフォーシーズンズである。左に神田川の桜並木を見ながら、右側には薄茶色の椿山荘の塀が延々と続く。さらに行くと新江戸川公園に至る。神田川沿いの桜並木は途中で住宅街の横を通る事になるが面影橋方面までずっと続いている。

椿山荘と新江戸側公園の間には関口芭蕉庵、胸突坂、水神社、永青文庫がある。関口芭蕉庵は地震のため当面休庵すると書かれていた。永青文庫では当面受付は3時までと書いてあって入ることは出来なかった。新江戸川公園の日本庭園は人がほとんどいなかったせいか落ち着いた雰囲気だった。ベンチに腰掛けてゆっくり季節と、景色を味わい、物思いにふけるのは中々いい場所だ。

江戸川公園031_convert_20110414152156  江戸川公園039ed_convert_20110414142326
 椿山荘ホテルフォーシーズンズ              関口芭蕉庵

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 水神社鳥居                         水神社拝殿

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 胸突坂                            永青文庫

関口芭蕉庵
江戸時代を代表する俳人松尾芭蕉(1644~1694)が、2度目の江戸入りの後、1677年から3年間この地に住んだ。当時、旧主筋の藤堂家が神田上水の改修工事を行っていて、芭蕉はこれにたずさわり、工事現場か水番屋に住んだといわれる。後に芭蕉を慕う人々により「龍隠庵」という家を建てたが、これが現在の芭蕉庵につながる。

胸突坂
目白通りから蕉雨園(旧田中光顕邸)と永青文庫(旧細川家下屋敷跡)の間を神田川の駒塚橋に下る急な坂。 坂が険しく、自分の胸を突くようにしなければ上れないことから、急な坂には江戸の人々が よくつけた名。

水神社
いい伝えによれば、水神が八幡宮社司の夢枕に立って、「我水伯(水神)なり、我をこの地にまつらば堰の守護神となり、村民をはじめ江戸町ことごとく安泰なり」と告げたため、ここに水神を祀ったという。神田上水の守護神となっている。

永青文庫
江戸時代の熊本54万石細川家の江戸下屋敷跡にある。細川家伝来の文化財と16代護立のコレクション4500点を収蔵し、展示公開を行っている。貴重な文化財が数多くある。

新江戸川公園
江戸時代末期、熊本藩主細川家の下屋敷。その後、細川家の本邸となる。素朴さの中に江戸時代の純日本式武家庭園の面影をとどめている。起伏の変化を利用し、自然景観を重視した回遊式泉水庭園である。

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江戸川公園045_convert_20110414145150  江戸川公園052_convert_20110414145223

新江戸川公園の閉館時間が17時だということを係員が盛んに告げまわっている。17時までには退去して下さいとうるさい位だ。まあ一通り見学したので係員の指示に従って17時丁度に園内から出る事にした。新江戸川公園から早稲田に向おうと思ってしばらく川沿いを歩き、豊橋で川を渡った。豊橋から見る桜は外の所よりもまだ満開に近くかなり花を付けていた。

江戸川公園055ed_convert_20110414142521 豊橋から見る桜

江戸川公園042_convert_20110414142447 渦を巻いて流れる花びら

江戸川公園059ed_convert_20110414142643 夕日が差し込んでくる

豊橋を渡るとすぐ新目白通りに出る。都電荒川線の始発早稲田駅が目の前に現れる。東西線の早稲田は早稲田通りに面していて歩くと結構ありそうだった。都電に乗って東池袋4丁目まで行き、東池袋で有楽町線に乗り換え家に戻った。6時近くになってしまったがまだ明るい。
(参考資料: 文京区公式HP・文京区の観光案内)

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眼科、血液内科の診療日

4月13日(水)
先週末から、皮膚にぴりぴりした感じがするようになった。帯状疱疹神経痛が出たのかもしれないと思ったが、発疹の方は全く出ていない。帯状疱疹の薬バルトレックスは医者からいつ帯状疱疹が出てもすぐに服用できるようにと渡されている。最初はそれ程痛いという状態ではなかった。

しかし日曜日の夜から痛み出し、体を動かすと痛みが走る、特に肋骨の辺りが痛い。かがんでやった歩ける位だった。寝ていたり特定の姿勢で椅子に座っていたりすれば痛みは感じないから、痛みで眠れないということはなかった。痛みが激しいので再度体をよく見てみると胸の所が赤くなって来ている。痛みが強い肋骨の上という事になる。もっと早くバルトレックスを飲んでおけばよかったと後悔するが遅い。

月曜日は6時には起きたがとてもラジオ体操に行く事が出来るような状態ではなかった。また痛みのため買い物に行く事もできなかった。横になっているかじっと座っているかしかない。体を動かさなければ痛みはない。物を書いたリ読んだりする気力もなく、ただ漫然とテレビドラマを見ているだけだった。

火曜日になって肋骨の周辺の激しい痛みは収まった。バルトレックスが効いたのだろうか。まだ胸と背中に痛みが残り皮膚がこすれると痛い。ひりひりした感じが絶えず付きまとっている。神経痛の典型的な症状だ。今まで3回帯状疱疹を経験しているが、今までのは最初は赤い皮疹を作り1~2日位すると水膨が出来た。大体神経痛の出方と皮膚の赤疹と同じ時期に出ていたので赤い皮疹が出てから薬を飲んでいた。

帯状疱疹は皮膚に発疹が出来る前から神経痛の痛みが出現することが多いので注意が必要だった。痛みの強さは人によって違うが非常に耐えられない強い痛みの人と、我慢できる程度の人と、稀に全く痛みを伴わないこともあるというが、今回は最初ほとんど痛みを伴わない神経痛が赤疹より5,6日も早く出現した。いつも発疹と一緒に来る神経痛はほとんど痛みがなかったのであなどっていた点もある。もっと早く薬を飲んでいればあの痛みは経験しなくて済んだろう。

ともかく赤疹が治ると同時に神経痛も治ってもらいたいものだ。最初帯状疱疹になった時には神経痛が残って、抗うつ剤を服用し、神経ブロックなどを繰り返し行なったが激しい痛みを伴う神経痛が治まるまで4ケ月近くかかった。

今日朝起きると神経痛の痛みはかなり軽減されていた。ほとんど痛みはなく病院に行くのに何の問題もなかった。問題は血液検査の結果だ。

検査結果
IgM   4324(4/13)←3914(4/6)←3928(3/30)←3318(3/24)
白血球  3000←3300←4100←2800
好中球  1520←2210←2890←1600
赤血球  276←268←305←287
ヘモグロビン 9.2←9.0←10.0←9.5
網赤血球   16←22←27←26
血小板  4.2←6.1←9.5←8.8


IgMが410上昇した。これをどう見るのか、サリドマイドとベルケイドの組み合わせでは効果を期待する事が出来ないのか。といっても外の方法がある訳ではない。さらにベルケイドの副作用で血小板が減少している。次回辺り輸血ぎりぎりの所まで下がる可能性もある。

この療法を続けることは可能か。次回また上昇していたら止むを得ずシクロホスファミドをプラスする外ないだろう。帯状疱疹が出るということは免疫機能が衰えていることの現れには違いないのだが、好中球の状態から見てシクロホスファミド50mg/月4日服用は可能ではないかと思う。

つまり一昨年12月から行った事のある併用療法だ。ベルケイド(ボルテゾミブ)1.9mg/週1回毎週静注+デキサート(デキサメタゾン)33mg/週1回毎週静注+サリドマイド100mg/毎日服用+エンドキサン(シクロホスファミド)50mg/月4日服用するというものである。ベルケイド、デカドロンは4週連続して行ない1週休薬するという方法を今回は取らなかった。もはや手段がないので次回はその提案をする事にしよう。IgMが再び下降してくれていれば何の問題もないのだが。

3月12日に退院してからまだ1ケ月しか経っていない。半年後に予定されている治験による治療を待つ間どうにかしてIgMの増加を抑えておきたいものだが、1ケ月間ですらそれがままならない状態であるということは事実だ。後5ケ月右往左往しながらも創意工夫をこらし形質細胞腫瘍との格闘を続け次の準備に備えなければならない。

眼科の診療は、担当医が変わったがやることはいつもと全く同じで、眼底検査をして眼圧を測り、薬を処方するだけだ。左眼の視力の回復はもはや不可能だろう。今は眼圧を押さえる事が治療の課題となっている。眼圧が高く放っておくと眼球が痛み、絶え間ない頭痛が襲ってくる。眼圧を押さえ続けなければならない。2週間一度の通院はそのための薬の処方だ。いつもは左眼の眼圧は27,8位だったが今回は21だった。このまま下がるのか次回を期待しよう。

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お花見ドライブ

4月11日(月)
昨日、昼過ぎに次男が用があって家に来た。2,3時間暇だというのでドライブに誘った。街路樹で桜並木がある道路を幾つか回ろうと提案した。彼も仕事が忙しくて花見などとは縁のない生活をしていたのでいく気になった。桜台にある気の利いた中華料理屋で食事をしながら行こうといくことで出かけた。私自身はほとんど左目が見えない状態なので運転は到底無理だ。誰かに頼む外ない。

千川通り

家から出てまず最初は千川通りの桜並木だ。千川通りの桜並木は、千川上水の後暗渠になったが桜並木が残されたのだろう。千川通りは有楽町線の千川駅から南長崎6丁目まで行ってそこでL字型に曲がり、江古田、石神井方面に向う。南長崎6丁目のL字路を右に曲がると突然空の色がピンク色に染まる。ここから桜並木が始まる。最初はかなり密集しているが、段々とまばらになったり、なくなったりしてくる。桜並木は練馬あたりで終ってしまう。練馬で千川通りから目白通りに入る。

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中野通り008_convert_20110413220058  江古田・大泉003_convert_20110413221312

大泉学園通り

次は少しと遠いが大泉学園通りの桜並木だ。ここは以前行ったことがあるが、目白通りがT字路で大泉学園駅から来る通りとぶつかる北園から右に曲がると2km以上に渡って桜並木が続いている。関越自動車道をくぐり、市場坂通りまで行く。この道を往復すればかなり見応えがある。車も渋滞気味なのでゆっくり見られる。30分ほどかけて往復した。

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新青梅街道
哲学堂周辺の桜並木を見るため新青梅街道に戻る。目白通りから笹目通りを右折してしばらく進み新青梅街道を左折する。哲学堂の手前から桜並木が続いている。哲学堂の下の交差点で周辺を見ると結構屋台も出ていて花見客がぞろぞろと歩いていた。「自粛ムードは景気を後退させる」といったもう一方のキャンペーンに賛同した人達だろうか。

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中野通り

新青梅街道を右折し中野通りに出る。ここは「公園にいこう」の「桜特集」で街路樹として紹介されていて総本数360本だという。街路樹としては本数が多く、2km程の距離をびっしりと桜の樹で埋め尽くしている感じだ。中野通りを右折するとすぐ妙正寺川を渡る。川に哲学堂公園の桜の樹が枝を大きく張り出している。中野通りの桜のトンネルを進んで行くと左側に新井薬師公園があり、その公園にも桜がかなり咲いていた。新井薬師公園の向い側に北野神社があり、神社の入口にも枝垂桜とソメイヨシノが咲いていた。

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 哲学堂公園の桜                      妙正寺川沿いの桜

中野通り039_convert_20110412162501  中野通り031_convert_20110412162243
 新井薬師公園の桜                    北野神社鳥居前

駅前のロータリーを回って、再び同じ道を戻った。往復すると行きと帰りとでは景色が違って見える。途中で車を止めてもらって歩道橋の上から桜を見てみた。妙正寺川の脇に車を止めて哲学堂にも3,4分足を踏み入れてみた。車は哲学堂下まで戻り、新青梅街道を進んで岐路に着いた。

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 歩道橋の上から見る                   中野サンプラザ方面に向う

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仙台堀川公園・横十間川親水公園

4月8日(金)
曇り空で風が強かった。花見にはふさわしくない陽気であるのは確かだ。しかし明日の土曜日は雨だし、日曜日は何処に行ってもかなりの人出だろう。何処かに行くといってもなかなか選択が難しい。Yahooの「お花見特集」の「東京都のスポット」として52ケ所紹介されている。「公園に行こう」の「さくら花だより」では33ケ所が載っていた。「東京お花見30選」というのもある。

あまり行ったことのない方向に行ってみようと思って「仙台堀川公園」に行く事にした。この近辺は本所、深川を舞台にした時代小説によく出てくる場所だ。小名木川や仙台堀川、横十間川など、時代小説には欠かせぬ地名だ。そういった場所での花見も面白いだろうと思った。

都営新宿線の大島で降りて、丸八通りを小名木川方面に向う。小名木川に行き当たった所に大島稲荷神社がある。川に面した所に鳥居がありその脇に芭蕉の像があって、「五月雨やあつめて早し最上川」という句碑が立っている。これは第六代宮司によって平成元年に建てられたもので、碑面に「俳聖 松尾芭蕉 奥の細道旅立三百年記念句碑」とある。神社から小名木川沿いを3,4分歩いて橋を渡ると仙台堀川公園の入口に至る。

大島稲荷神社と小名木川
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大島稲荷神社: この近辺は小名木川・海辺に近く、数度の津波の被害に遭い、また悪疫の流行もあったため、村人が山城国の伏見稲荷を勧請したという。後に愛宕山勝智院境内に鎮座していた愛宕神社と、浅草光月町の柳川藩の下屋敷の邸内社であった太郎稲荷を合祀した。

芭蕉像と句碑:
元禄5年(1692年)9月29日、松尾芭蕉が深川から小名木川を下って門弟の桐奚宅を訪ねる途中で当社に参拝し、「秋に添て行はや末は小松川」の句を詠んだ。境内にはその句碑「女木塚」が建立されている。

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小名木川: 行徳塩(行徳は千葉県市川市)を江戸に搬入する舟路として隅田川と中川とを結んだ運河で、徳川家康江戸入府後まもなく開通した。のちに深川方面の埋立てが進展して川岸が改修され、現在の小名木川(延長4.6キロメートル)になった。中川から先は東の舟堀川に結ばれて江戸川と隅田川が通じ、東廻りの船が利根川、江戸川を経て江戸へ物資を運ぶ大動脈であった。(Yahoo!百科事典)

仙台堀川公園

水辺に映る姿も風流、桜並木にゆったりとした時間が流れる。仙台堀川公園は、江東区内を流れている仙台堀川の多くを埋め立て造られた親水公園で、総延長は3700メートル、面積は約10.4haにも及ぶ都内最大規模の親水公園である。

仙台堀川の流れる一帯は、工場からの地下水の汲み上げにより地盤沈下が激しいゼロメートル地帯で、台風や大雨の時などは常に護岸壁を超え川が溢れる危険があり、その危険を回避するため川を埋め立て公園とする工事が進められた。

川の両岸に続く全長900メートルの桜並木は、ソメイヨシノ、カンヒザクラの木が350本続き水辺に注ぐように咲く桜の姿が楽しめる。ゆっくり散策しながら桜を鑑賞するのがおすすめで、江東区の中央を流れる小名木川との合流点から、仙台堀川公園から南下し、木場方面に向かい、途中で横十間川親水公園と交差する。そこから横十間川親水公園北上していく。(東京お花見30選より)

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仙台堀川公園は入口から900m位ずっと桜の並木道になっている。左側に川が流れ、川面に桜の枝が大きく張り出し、風情をかもし出している。露天も屋台もなく、桜に提灯が下がっているわけでもない。宴会をやっている団体もいない。保育園の幼児が並木道に隣接する児童公園で遊んでいる。そういった雰囲気の公園だ。桜並木は清澄橋通りまで続く。

清澄橋通りの広い交差点を渡ると、公園は一旦途切れ、魚釣場の大きなプールが広がっている。魚釣場を通り過ぎるとまた公園が始まる。最初に目に入るのが旧大石家住宅である。ここは土日祭日には中を公開しているが、平日は中には入れず外観を見るに止める外ない。

旧大石家住宅と浮島

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旧大石家住宅: 大石家住宅は、江東区の有形文化財(建造物)に指定されている区内最古の民家建築だ。江戸時代に建てられてから関東大震災、戦災といったいくつもの災害をまぬがれ、建築当初の姿をとどめた貴重な住宅である。

旧大石家住宅から、再度始まる仙台堀川公園は、今までの桜並木とは様相を異にしたものとして立ち現れてくる。大石家住宅の前に広がるのはふれあいの森と名前がつけられている。そこを通り越すと公園はL字型に曲がる。ここからは花の小径→ハーブ園→流れる川→浮島→紅葉の池→憩いの森などと趣向を凝らしたつくりになっていて、散策する者を飽きさせることはない。所々に桜の並木道が出現し公園を明るく染めている。

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横十間川親水公園

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横十間川:
1659年(万治2)に、深川の木場への材木輸送のために掘られた運河。川幅が十間(約18m)で、江戸城から見て横に流れているところから名が付けられた。

横十間川親水公園: 「区民の水辺」をテーマに整備した、延長1.9km、面積5.1ha。「水辺」に象徴されるように、広い水面を活かした貸しボート場や水上アスレチック、野鳥の島、また花菖蒲園や田んぼのある「生物の楽園」などがある。

仙台堀川公園から横十間川親水公園に入ると雰囲気は全く異なってくる。十間(18m)と言うように川幅は元々かなり広かったのだろう。その川を生かした公園の造りになっていて水辺の安らぎを感じさせる落ち着いた雰囲気であった。桜の花がある訳ではなく、水辺をゆったりと散策するのに絶好の場所だという気がする。レンガ造りのしゃれた遊歩道も自転車用と歩行者用に分けられている。子供たちには小名木川近くにある「水上アスレチック」などもあり、また野鳥の島、田んぼなど学習用にも役に立つ場所もある。

仙台堀川公園の入口にあった地図には、公園入口からL字に曲がる所まで1700mであり、そこから横十間親水公園と交差する所まで1500m、親水公園が小名木川と合流する終点まで1000mあると書かれていた。公園を巡るのに4km以上歩いた事になる。横十間川と小名木川が合流する所に架けられているクローバー橋は十文字の形の珍しい橋だ。これもまたこの地域の名所の一つだろう。

クローバー橋

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小名木川クローバー橋は、猿江、大島、北砂、扇橋の4つの地区を、小名木川と横十間川の合流点で結んでいる。完成は平成6年12月、歩行者と自転車専用橋だ。橋の真ん中に四つ葉のクローバーが描かれている。

猿江恩賜公園

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帰りは都営線の住吉駅で乗車しようと思っていた。横十間川沿いを進み、猿江恩賜公園の手前を右に曲がればいい。しかし新大橋通りに出て本村橋から公園を見ると、満開の桜がスカイツリーを背景に横十間川沿いに咲き誇って入るのを目にした。公園の中にもかなりの桜があるだろうと思って公園を通り抜けていく事にした。横十間川沿いの桜並木や、時計塔周辺の桜の広場にはソメイヨシノがこの時とばかりと花を咲かせていた。最後に桜の花をたっぷりと堪能したという感じだ。

公園を突っ切り結局錦糸町駅まで歩いていってしまった。出発地の大島駅から6km位は歩いた事になるのだろう。10時から歩き始めて、錦糸町に着いたのが13時30分だった。ずっと歩いていたわけではないが、3時間近くほぼ歩き通しだった。かなり体力は回復したのだろう。

猿江恩賜公園: 江戸時代から続く徳川幕府による貯木場であった。その後、明治政府御用達の貯木場になり、その後一般の人々に開かれた公園へと、開園された。1932年の開園と古く、昔から貴重な緑地として周辺住民に知られていた。195本あるソメイヨシノのほか、里桜、しだれ桜を含め合計230本桜の木がある。ソメイヨシノが咲き乱れる中心部、時計塔のある中央広場では、空と桜のコントラストを楽しみながら桜の鑑賞ができる。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

自然の脅威と人間

4月7日(木)
4月1日からラジオ体操に行こうと決意したが、何故かその日から6時起床という退院後継続していた習慣が崩れてしまった。1日から起きるのがラジオ体操が始まる6時半ぎりぎりになってしまった。5日は目が覚めたのが7時を過ぎてしまった位だ。

目覚ましをかけてまで行くというものでもないので、起きた時間に間に合わなかったらあきらめるしかない。3月30日からサリドマイドを服用しているのでその関係で眠りが深いのだろう。一応1日休んだだけで6日間続いている。1日一度ラジオ体操という全身運動をするというのはウォーキングとは全く違った効果を体に与えるだろう。

やはり入院というのはかなり体力を消耗するものだ。入院中外出で湯島天神に行ったが、その時は少し歩いては休むという動き方しか出来なかったし、病院に戻ったときにはかなり疲れているといった感じを持った。最近ウォーキングを目的として幾つかの所に行ったが1時間以上歩いても体力的には何の問題もなかった。かなり体力が回復しているという実感を持つ事ができた。

オオシマサクラ_convert_20110407142751 オオシマザクラ

ヨシノヨシノ_convert_20110407142825 ソメイヨシノ

公園のオオシマザクラは開花が早く4,5日前から満開だった。ソメイヨシノがついに花を開いた。7分か8分咲きといった感じだ。自然はかくも美しくその姿を現している。しかし一方3月11日巨大な地震と津波といった自然の脅威に人々はなす術もなく打ちのめされた。1万2千人の死者を出し、未だ1万5千人の行方不明者がいる。16万人が家を失い避難生活を余儀なくされている。

自然との共存を目指していたのではないか。しかしそれは人間の一方的な思い込みに過ぎなかった。だがどんなに打ちのめされようが、我々は自然と共に生きなければならない。その粮を得る事によってしか生きることは出来ない。どのような科学も自然を支配することは出来ない。自然との共栄共存を目指すほか生きる道はない。

東日本大震災。これまで誰がこのような事態が起こると想像しただろう。阪神大震災を経験していながら、ここまでの地震と津波は考えても見なかったことだ。海岸付近の集落まったく別世界となってしまった。そこにはもはや人間の住める場所は残されていない。建物が根こそぎさらわれ広大な瓦礫の山が延々と続いている風景が存在するだけだ。

地震が起こる14時46分まではいつもと全く同じ普通の生活をしていた多くの人が一瞬のうちに、普通であったはずの一日がなくなってしまったのである。何の予感も予測も人間に与えることなく起こる自然災害の恐ろしさと脅威の前に人はなす術もなかった。しかしこれは現実に起こったことなのである。

自然に対して、人間がいかに小さく無力な存在であるかということを嫌というほど思い知らされるものであった。人間はただ大自然に身をゆだねるしか出来ないのだろうか。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

熊谷桜堤

4月6日(水)
診療と点滴を終え1時前には病院を出ることが出来た。早く終わったら熊谷桜堤に行ってみようと思っていた。桜堤は熊谷駅から5分ほど歩いた所にあり行きやすい。赤羽から高崎線直通の湘南新宿ラインに乗れば1時間もかからず熊谷まで行ける。一時運行を見合わせていた湘南新宿ラインがいつの間にか復活していた。

桜の季節になると何故か何処でもいいので、桜を見に行きたいという強迫観念のようなものを感じる。桜を見ようと何時から思ったのか。2006年4月入院中病室から近くの寺院の庭に咲く桜を見て、来年は花見に行くぞと思ってからだろう。

病気になって余命宣告されてから、桜を見る目が変わってきた。満開の桜を見ながらあと何年見る事が出来るのだろうか、今年が最後になるのではないかと思わせる花なのだ。桜は華やかさと同時に瞬く間に散ってしまう虚しさを感じさせる。どんな人生だろうがあっというまに終わってしまうという諸行無常を感じさせる所が共感を呼ぶのかもしれない。

「現実をありのまま受け取る、その上で自分の生き方をみつけていく。どうにもならないこと考えてもどうにもならない、ということを明らかに知る。ただそれだけのこと。」と元木鶏二氏が言っているが、桜が芽を吹き花を咲かせ、あっという間に散り、葉を茂らせ緑の木陰を作り、やがて赤と黄に葉染め散っていく。

個々人の日常的な営みとは全く無関係に季節によって自らの姿を変えて行く。自然の営みの中から今の自分の生き方を対象化し見直していく事が出来るだろう。桜のまばゆい開花は、生きているという実感を与えてくれる。やがては散る時のために今を最も華やかに自己主張しているのだろう。

熊谷桜堤 「花の名所案内から」
サクラの名所100選にも選ばれている「熊谷桜堤」は、熊谷市の南にある荒川沿いの堤の通称。江戸時代から名高く、戦前には桜の名所として知れ渡り、上野から臨時のお花見電車が出るほどに人気があったという。 現在は約2キロにわたってソメイヨシノ約500本が壮麗な景観を描き出す。

能谷駅南口から荒川に向って歩いていく。市立熊谷図書館と市立市民体育館を左に見ながら行くと、すぐに荒川土手に着く。目の前に「熊谷桜提」と書かれた石のモニュメントがあり、すぐに分る。まず土手に上がる。桜は残念ながらほとんどが蕾で咲いていても2分か3分位なものだ。東京ではかなり咲き始めていたので期待していたが思ったより低調だった。ただ木々の蕾が濃いピンク色なので、桜並木は全体的には薄い赤に染まっているように見える。

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土手の駅側に桜並木が延々と続いている。土手の川側は広い河川敷を利用した熊谷荒川緑地と荒川運動公園が広がっている。サッカーやラグビーのコートもあるよく整備された公園である。

土手下の桜並木の前にはかなりの屋台が並んでいるが、まだ桜はほとんど咲いていないし、見物客も少ないので半分以上が店を開いていない。今週末あたりがかき入れ時なのだろう。暖かい昼下がり、桜は咲いていないが家族や小さい子どもを連れた主婦が集まってお弁当を広げている。近所の町内会の集まりだろうか、宴会道具を運び込んでいる団体もあった。

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最初は土手を右側方面に向って歩いて行った。500m位行くと、荒川大橋にぶつかりそこで桜並木は終っている。土手が荒川大橋に行き当たる所に「川守地蔵」の像があった。水害から町を守るようにと建てられたのだろう。

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菜の花畑
最初の出発地点に戻って今度は左に進んで行く。桜並木は延々と続く。30分位歩いて行くと桜並木は終わる。するとそれと入れ違いのように菜の花畑が土手沿いに広がって来る。菜の花畑の中に桜並木の一番端の4、5本が立っていて、桜の花が満開になればピンクと黄色の色の取り合わせがさぞ美しいだろうと思わせる。

最初はわずかだったが進むにつれその面積が広がってくる、やがてあたり一面菜の花畑となる。菜の花が発する春の香りに全身が包まれるようだった。

菜の花畑は土手沿いにかなりの距離続いている。桜並木の距離の半分位あるようだ。こちらの方には見物客は全くといっていいほど来ない。自転車に乗った2、3と会っただけだ。菜の花のことは熊谷桜提の紹介の所に全く触れていない。だから桜並木を最後まで歩いた人以外菜の花畑を知ることはない。桜並木はずっと同じような景色だから、ウォーキングを目的としてない限り最後まで30分近くもかけて歩こうとは思わないのだろう。

お花見の人たちは屋台に周辺に集まっているので、桜並木全体を見に来るわけではない。だから菜の花畑のことには全く気がつかない。桜はまだほとんど開花していないが菜の花は満開だ。見るのならこちらの方が見応えがある。あまりにも人が来ないので何ともったいないのだろうと思ってしまう。

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テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

定期検診の日

4月6日(水)
検査結果
IgM   3914(4/6)←3928(3/30)←3318(3/24)←3141(3/17)
白血球  3300←4100←2800←2800
好中球  2210←2890←1600←1470
赤血球  268←305←287←297
ヘモグロビン 9.0←10.0←9.5←9.6
網赤血球   22←27←26←37
血小板  6.1←9.5←8.8←12.4


IgMがたった14でしかないが減少した。先週の水曜日から週1回のボルテゾミブ(ベルケイド1.9mg)とデキサメタゾン(デキサート33mg)の点滴にプラスして、サリドマイドを1日100mg服用し始めた。この併用療法が効果を発揮したのだろう。もし奏功しなかったら次がない。14でも下がったということは極めて重要だ。しばらくはこの治療法で継続してやっていける。

本来ベルケイドは4週やって1週休みというサイクルで繰り返すが、休薬によって効果が減退する恐れがある。来週の水曜日が5週目で休薬の週なのだが、来週もベルケイド+デキサメタゾンの点滴をやることにした。つまり休薬の週を設けない方法をとることにしたのだ。

ベルケイドの特徴として血小板減少がある。今回も9.5から6.1に減少している。2007年入院でベルケイド療法を行ったが、その時には血小板が1.1になったことがある。輸血をしベルケイド投与を延期したりして対応した。血小板の値には注意が必要だ。その時は1,4,8,11に投与し、10日間休薬するという標準治療で行なっていた。しかし週1度4週行い1週休むという方法は奏効の上では変わりなく、末消神経障害や血小板減少などの副作用が軽減されるという報告があり、その方法でやる事にしている。

形質細胞が末消血に出て来る白血化に関しては、Plasma-Lyの記載は続いている。ただ割合は0.5%で3月30日に登場してから全く増加していない。このまま増えないでいて欲しい。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

福島第一原子力発電所の事故・3

4月5日(火)
原発安全神話の崩壊、解決の道筋なき暴走
進行する放射能汚染
220px-Fukushim_convert_20110406213207.jpg止まることなく高レベルの放射能汚染水が海に流れ込んでいる。原発施設からは放射能が大気に放出され豊穣な大地は汚染され続けている。そして大地の恵みである作物は放射能にまみれ廃棄せざるを得ない。魚からも放射能が検出されている。(右写真は各原子炉の配置図・前国土地理院による1975年の写真を加工)

原発事故は誰の責任なのか。電気を使い放題使い、文明の「豊かさ」に何の疑問も持たずにそれを享受してきた我々もまたその責任の一端を負うべきなのだろうか。我々は原発事故がどういったものであるかを見極め、自らの生活習慣そのもののあり方を改めて考える事が必要だろう。

地震と津波は自然の猛威を見せ付けた。しかし福島原発の事故は人災である。「想定外」という言葉が何度東電の幹部から発せられただろう。しかし、後でそれが嘘であることが次々と明らかになっていった。大地震の予測もされていたし、多くの事が事前に分っていたし、福島原発の改善点についての指摘も幾つかされていたが、それをことごとく無視し原発の稼動を続けていた東電とそれを容認してきた原子力安全・保安院の実体が明らかになってきた。

「耐震設計審査指針」改訂作業の中心となった入倉幸次郎氏は言う。「何があっても多重防護で大丈夫って言ってきたのが、うそだった。人災だと思う」「スマトラ沖地震(M9.1)の経験を日本でも生かすべきだった。史上最大はどれ位かを考えて原発は設計しなくてはならない」

「貞観地震まで考えるのは合意ができていた。想定以上の事が起こっても安全なように設計されていないといけない。科学の力が及ばないということは絶対に言ってはいけない。それが原発の『設計思想』のはずだ」「自然の怖さを知って原発を設計することです。自然のせいにしてはいけない。自然では人知を超えたものが起こりうるんです」こういった彼の指摘を東電や原子力安全・保安院はどのように受け止めたのだろうか。単に空論として無視したに違いない。

原発の安全性
国や東電は「原発は安全だ」と強調してきた。しかし実際には原子力発電所が安全であるなど誰も信じていない。それなのに何故原子力発電所が作られるのか、ここには大きな利権が絡んでいる。それが安全神話を作り上げ、情報を隠蔽し、嘘の情報を流し、危険な状況を安全と言いくるめてきたのだ。度重なる原発事故での電力会社の記者会見がいかに歯切れが悪く、事実を隠そうという意図に貫かれているか誰でも感じる所だろう。

電力会社、東芝・三菱・日立などの製造業者、ゼネコン、政界、官僚、財界、原発推進御用学者、地元で利権に群がる議員など一体となって原発推進を進めようとしてきた。それぞれがハイエナのように原発に寄り添って利益をむさぼろうと、原発の建設を押し進めてきたのだ。

原発は儲かるのか。儲かるように作るから儲かるにすぎない。利益と安全性を天秤にかけ利益を優先する。3月23日の東京新聞に「福島原発設計者ら証言」という記事が掲載されていた。元技術者は「M9の地震や航空機が墜落して原子炉を直撃する可能性まで想定するよう上司に進言した。だが上司は『千年に1度とかそんなこと想定してどうなる』と一笑に付したという。『起こる可能性の低い事故は想定からどんどん外された。計算の前提を変えれば結果はどうとでもなる』と想定の甘さを懸念する。

元設計者は『当時はM8以上の地震は起きないと言われ、大津波は設計条件与えられていなかった』と証言した。そして最後に『稼働中の原発を止めてほしい、人間が扱いきれるものではない』と語った。」

「原子力発電所を作る時安全性を何処まで追及するのか」といった質問に対して、テレビに出演していた原発推進の学者は平然と言った。「安全の追求は無制限なものだ。しかし、原発は採算を上げなければならない。安全と利益のバランスが必要だ」つまり利益のため安全は犠牲にしなければならないということである。

放射性廃棄物
原発は利益を生み出すのは事実である。しかしそれは電気を供給している限りにおいてである。原発が廃炉になった場合、使用済み核燃料を抜き取ったり冷却材などを取り除いたあと、放射能が減衰するのを5~10年程度待って原子炉施設すべてを解体撤去するか、解体せず密閉した状態で管理を続けるかである。

どちらにしても廃炉になった後には、核燃料などの高レベル放射性廃棄物、大量の低レベル廃棄物が生じ、その処理には膨大な費用がかかる。原発を作る時には廃棄物処理費用は計上していない。ニュースでも言っていたが、福島原発をコンクリートで囲む石棺化するには一ケ所につき2000億円かかると言われている。さらに使用済み核燃料などの処理は高レベル放射性廃棄物として、ガラス固化、地層処分などが必要となってくるが実際にはガラス固化はほとんど進行していない。多くの使用済み核燃料は原発敷地内のプールに保管され何十年も冷却され続けている。

高レベル廃棄物の放射能の寿命には何百万年を越えるものもあり、永久に我々の生活圏から隔離されなければならない。地層処分まで30~50年の間、青森県六ケ所村で一時貯蔵して冷却するが、この30~50年間ですら高レベルのガラス固化体を詰めた容器・キャニスターが持つ保証はない。

浜岡原子力発電所
東京に住む者にとっては一番気になるのは東海地震であり、地震が起こった時の最大の問題は浜岡原発がどうなるかということだ。今回の福島原発の件で、東海地震などの被害想定域で、首都圏にも近い浜岡原発を巡り、知事や関係自治体の首長らが最近、中部電力に対し強い危機感をぶつけた。

東海地震は、発生時期がもっともよく予測されている地震である。前回の東海地震は、およそ150年前で、地震を起こすエネルギーがたまっている。浜岡原発は、想定される東海地震の震源域の直上にある。浜岡原発から3~7kmのところには、活断層が姿をあらわしている。

2年前には浜岡2号機の設計を担当した東芝の子会社の技術者から、東海地震が起きると「浜岡原発は制御不能になる」というという内部告発が行なわれた。彼によれば、浜岡2号炉の耐震計算結果は地震に耐えられない。直下型地震が起こると核燃料の制御ができなくなる可能性がある。炉心溶融が起こって首都圏のほうに風が吹いた場合は、数百万人の死者が出るとも予想されている。

止まることない危機
福島原発では、次々と新たな問題が起こってきている。福島原発周辺20kmから住民は退避せざるを得なかった。そして20km~30kmの屋内退避地域の一部についても避難指示に切り替える方向で検討に入っている。チェルノブイリでは事故の後、住民が強制避難させられた30km圏内は、20年たった今でも立ち入り制限区域になっていて人が住めるような状態になっていない。そして日本でも人が住む事の出来ない地域を福島原発の吐き出す放射能が作ってしまったのだ。

それだけではない、福島県や隣県の葉物や牛乳から放射能が検出され出荷停止となった。また大地に降り注ぐプルトニウムを含む放射性物質は、土壌を汚染し新たな作付けを阻んでいる。

また2号機建屋かタービン建屋に溜まった高レベル放射能汚染水(最大で法令濃度限度の750万倍の放射性物質を検出した)が壁の亀裂から海に流失し続け止める術がなく、海洋汚染を進行させている。汚染水の漏れを止める事が出来ても、施設内には高レベルの汚染水が6万トンもあり、燃料棒を冷却するために注ぐ水が毎日のように使用され蓄積されていく。その処理をどうするかこれといった方法が見出されているわけではない。

さらに高レベル放射能汚染水を集中廃棄物処理施設で貯蔵するために、低レベル放射能汚染水1万トンの海への放出を始めた。低レベルといっても最大で基準の500倍ある。当然のことながら福島県や茨城県など近隣地域の漁業者は「魚を買ってもらえなくなる」と不安や危機感を募らせている。

茨城県沖でとれたコウナゴ(イカナゴの稚魚)から4080ベクレルの放射性ヨウ素が検出された。コウナゴは浮き魚と呼ばれ、放射性物質の影響をより受けやすいとされる底魚や海藻とは生息地域が異なる。そういった魚にまで放射能が検出されたということは、どこまで海洋汚染が進行しているのか考えるだけでも絶望的気分になる。

農作物、牛、家畜、魚介類に被害が広がっている。土壌、海洋が汚染され続けている。既に葉物の被害は千葉にまで及んできている。どんどん拡大しているようだ。魚介類も何処まで広がるか予断を許さない。放射能は時間が経てば経つほど蓄積し、被害を拡大させていくばかりである。

脱原発の生活習慣を
原発はすでに国内発電の3分の1を占めている。しかし、今この機会にいかにして代替エネルギーの開発をも考えながら、我々が無制限に電気を使い続けていたかを自覚すべきなのだ。我々は安全のため「不便」や「非効率」を受け入れる価値観の転換が出来るかどうかが試されている。機械文明に慣れきって安易に電気に頼り切った生活を見直す機会である。

計画停電は東電によって行なわれている。自動販売機の電気とネオンサインを消せば電気は足りるはずだといっていた人がいた。その真偽は分らないが、反原発の声が巷に広がっていく中で、いかにして原発を維持するのか、そのためには電気のない生活がいかに不便かを皆に思い知らせるために計画停電をやっているのではないかとすら思う。

原発は確かに問題を起こした。しかし電気のない生活に皆耐えられるのかという事を実感させるために、停電という方法を取っているのではないかと東電のやり方について勘ぐってしまう。電気が限られている不便な生活で我慢するのか、原発の危険性を受け入れるのかどちらを選択するのか、多くの人にとっては難しい選択だ。製造業や店舗を持っている人にとっては電気は生活を支える道具でもある。

多くの人が原発事故を毎日のようにテレビ新聞で見ていて、原発事故がどれ程多大な犠牲を強いているかを知っていながら、東京都で行なったアンケートでは「運転しながら安全対策を強化」に賛成している人が結構いるというのは驚きだ。もちろん強制避難させられた人や、福島、群馬、栃木、茨城、そして千葉の農業、畜産業、漁業関係者は当然のことながら原発絶対反対だろう。しかし大手メディアは原発についての全国的世論調査を避けている。世論の多数が原発に対し「新設ストップ」「運転停止」「廃止」といった回答を出しそれを新聞に掲載したら、大スポンサーである原発関連企業や組織から縁を切られてしまう事を恐れているのだ。

原発を巡る様々な現実の見、多くの情報が手に入る現状で原発の問題は今一番深く考える事が出来る機会である。色々な視点から原発の是非について掘り下げて考えてみよう。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

法明寺

4月4日(月)
Yahooの「お花見特集2011・全国のお花見スポット」の東京都の所を見た。どこもまだ咲き始めだ。六義園だけが枝垂桜だから開花が早く満開となっている。東京都の名だたる花見の名所の中に、法明寺と書いてあった。どこかで聞いた事がある。雑司が谷七福神めぐりで通った所だ。

JR池袋駅東口、都電鬼子母神前駅、東京メトロの雑司ケ谷駅など何処から行っても徒歩10分ほどの距離だ。静かな住宅地の中のお寺の参道にある桜並木である。開花情報によると、咲き始めで1割~4割程度が開花している状態だとあった。

まだ見頃ではないだろうが、天気もいいことだし出かけてみる事にした。豊島区役所の健康保険課にいかなければならない用もあるので丁度いい。健康保険課から「高額療養費の申請について」という書類が送られてきた。それが何と、昨年7月に「健康保険審査委員会」によって一度保険の対象から外された薬の費用が、再審査によって保険適用され追加支給される、というものだ。金額は少ないが区役所に手続きに行かなければ戻ってこない。

西武線の池袋南口から出て、法明寺までは歩いて10分もかからない。着いたのが9時半頃だったのでまだ屋台は店開きをしていなかった。10寺頃からぼちぼちと屋台にかけられたブルーシートを取り除き準備にかかり始めた。どちらにしても花見のピークは今週末あたりなので、屋台の方もまだ気合が入らないようだ。

法明寺の参道は、江戸時代から桜の名所として知られている。参道の正面に山門があり、左側には日蓮聖人をお祀りする祖師堂(安国堂)がある。また梵鐘(ぼんしょう)の下縁には曲尺、算盤、枡、天秤などの珍しい紋様が描かれている。酒井抱一の朝顔の絵に添えて句が彫られた 蕣塚(あさがおづか)などもある。さらに奥には威光稲荷堂が、たくさんの赤い鳥居の先に祀られている。

ほとんど蕾だと思っていたが、思ったより開花していて、山門にかかる桜の枝は見応えのある情景を作り上げていた。参道の桜並木も花を付け、花見の気分を十分にあじあわせてくれた。

法明寺(日蓮宗 威光山法明寺)
由来と歴史: 当山は嵯峨天皇の代の弘仁元年(西暦810年)、真言宗の旧跡で威光寺として開創された。後の正和元年(1312年)、宗祖日蓮聖人のお弟子で中老僧の一人、日源上人が日蓮宗に改宗、威光山法明寺と寺号を改めた。以来、伝灯48世、約700年の歴史を刻んできた。その間、徳川3代将軍・家光公より御朱印を受け、代々将軍家の尊崇を受け、折りごとに多くの寄進を受けている。(法明寺HPより)

法苗字027_convert_20110404112228  山門 

法苗字016_convert_20110404112133  安国堂

法苗字029_convert_20110404112254  山門から参道

法苗字021_convert_20110404112203  参道入口から山門

法苗字031_convert_20110404112317  本堂

テーマ : 思ったこと・感じたこと
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がん治療とは長く細い道を辿ら
なければならない。その先に希
望があると信じながら。

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