スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

粟島

5月30日(月)
『わしらは怪しい探検隊』の中に粟島が登場した。粟島は40年以上も前の話だが何度か行った場所だ。東京から行くのにはかなり辺鄙な場所だ。上野から上越線で新潟まで行き、白新線に乗り換え新発田で羽越本線に乗り、岩船町で下り、30分ばかり歩いて岩船港まで辿り着く。そこから、季節にもよるが、1日2,3隻出航する粟島汽船で1時間半かけて粟島の内浦港に着く。その頃は船の本数も少なく、高速艇もなかった。着くまでに1日仕事だ。余程時間がないと行く気がしない程遠い。学生時代で時間があったし、ある事情でよく行くようになったのである。

kanko_map_convert_20110530124809.gif釜谷キャンプ場の上の長手鼻の丘の上に小屋を建てた。港の内浦から県道を通り山を越えて1時間。買出しに行く釜谷までは20分位の距離にある。














クラスで親しくしていた友人がいたが、その友人の友人が株でかなり儲けた。彼は何を考えてそんな思い切った事をしようと思ったのか分からないが、その金で粟島に家を作る事を考えたのだ。それも港のある内浦の方でではなく、内浦から歩いて1時間以上かかる釜谷近くの丘の上に土地を買い、そこに材木を運び、何人かの仲間と共に自分たちで家を建て始めたのだ。

土台と窓枠だけは大工に頼み後は自分たちで屋根と側面を作っていった。小屋は入口から6畳位の土間がありそこから1段高くなって30畳位の板の間があるという簡素な作りだ。窓は左右に開けられているだけだ。周りは林で海側の木々は刈られ見晴らしは良くなっている。水は海岸に下りていくと湧き水がありそれを使う。食料は歩いて20分位の釜谷の村に行って買ってくる。米や日用品など量が必要なものは内浦まで行って頼んで配達してもらっていた。実際の生活は屋根がある所にいるという以外キャンプと似たようなものだ。

当時学生運動が盛んだったこともあってか、北朝鮮に近い粟島の釜谷海岸に学生風の男たちが小屋を作っているという事を知った公安が色々嗅ぎまわっていたらしいが、もちろんそんなことは全くなかったのでやがてはその調査も終ったようだ。小屋の製作者にしてみれば、金のない学生が海水浴を楽しめる場所を提供しようという思いが強かったのかもしれないし、色々な人が集まって交流し、関係を深めていく事に意義を見出そうとしていたのかもしれない。

その話を聞いて友人と一緒に粟島の小屋を訪ねた。まだ建設中で、かなり形にはなっていたが何人かが材木を家に打ち付けていた。既に中で寝泊りは出来た。見よう見真似で家の材木張りを手伝うが、それはむしろ慣れた人に任せて、こういった所に来るとやることはキャンプ生活と同じだ。水汲み、炊事、食器洗い、買出しとやることは結構ある。そういった雑用係りととして重宝に使われた。小屋を訪ねてくる人は何らかの作業分担を任される。

夏の熱い季節だ。時々仕事の合間を縫って、丘の下に広がる浜辺で泳ぐ。その頃はキャンプ場も海水浴場もなく静かな海が広がる絶好の泳ぎ場所だった。釜谷の方に行くと岩場があり、そこでは魚が泳いでいるのが見られる。シュノーケリングのスッポットともいえる場所だろう。夜は人が集まった時など浜辺でバーベキューで宴会が行なわれるそういった生活だった。大体1週間位滞在するが、知り合いの知り合いといった伝で何人もの人が代わる代わる訪ねてきて2,3日泊まっていく。そういった新たな人間関係が出来るのが面白い。

一度行ってから、ひと夏2度ばかり訪問する事になった。夏は賑やかでいいが、読書でもして思索にふけろうと秋になって行った事もあるが、海岸にも人っ子一人姿はなく、誰も来ない。静けさの只中に放りこまれた感じになる。夜寝ていても、家がミシといった音がすると驚いてしまう。やはり都会に住み慣れたせいなのだろうか、海沿いの1軒屋に一人で住み続けることは出来ないなと思い知った。

今は粟島も観光に力を入れていて、観光スポットとして海水浴場としてのみならずフィッシング、ウォーキング、バードウオッチング、観光船、キャンプ、サイクリング、温泉などを設備し、観光客の誘致を行なっている。しかし40年前はまだ全くそういった試みは見られず、海岸で泳いでいる人もせいぜい新潟からの人達だったろうと思う。ただ一度だけ釜谷の民宿に泊まっていた人達が東京から来たということだった。珍しいなと思ったが、小屋の関係者が呼んだということが分かった。女性の集団だったので小屋に招待するに抵抗があったので、民宿を紹介したのだろう。

随分昔の話だが『わしら怪しい探検隊』が粟島に来たのが1975年だというから、それよりも5,6年前の話だ。やがて学生だった小屋への当初からの参加メンバーも就職したり、色々仕事を持ってなかなか来ることが出来なくなってしまった。今その小屋がどうなっているか全く分からない。放って置かれていればもはや廃墟になっているだろう。誰かが手を加えていればまだあるかもしれない。一度は訪ねてみたいと思っている。

時間は様々な思い出を載せて走り去っていく。それがどういった軌跡を本人の中に刻み付けられたかの記憶もないまま、次々と新しい記憶の中に埋もれて消え去ってしまう。そのようにして時間は刻まれていくのだろう。
スポンサーサイト

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

椎名誠 『わしらは怪しい探検隊』

5月29日(日)
 一昨日、毎年沖縄に一緒に行くY氏の所に八丈島行きの最終打ち合わせに行った。中々スケージュール調整がつかず、結局6月2日の夜の船で出発し、3,4,5日3泊し、6日の夕方の飛行機で戻るという事になった。梅雨に入ってしまったがどうにかなるだろう。温泉にゆったりと浸かるのもいい。

何故Y氏は島が好きなのかのについて聞くと椎名誠の「わしらは怪しい探検隊」といった本を持ってきて読んでみるよう進めた。またこのシリーズの中に八丈島の温泉がいいとか、藍ケ江浜の景色がいいなどと書いてあったらしい。そこで泊まりは温泉のある南側の中之郷地区に決めた。

怪しい_convert_20110529170215 「わしらは怪しい探検隊」は椎名誠が飲み仲間と作った「東日本何でもケトばす会」(東ケト会)が離れ島に出かけそこで体験した事を書いた本だ。この会というのは離れ島に行く事を主な業務としている。

「しかしただみんなでぞろぞろ離れ島に出かけ、だらしなく笑って酒を酌み交わす、というのではあまりにも未来に対する展望が欠けている、と思われるので、離れ島では天幕を張り、水はその辺の湧水を見つけ、海、山、平地から食料を調達し、夜ともなればうま酒、ビールを飲み交わし、ドンパン節をうたい星を見つめ波の音きいて・・・」という生活をするのだ。

だが自炊天幕生活もなかなか厳しい。幕営地探し、整地、テント張り、3食の準備、買いだし、食器洗い、片付けなど次々と仕事がある。そこで毎年テント生活を3日も送ると、隊員はけだるい表情を見せ始め。せめては最後の夜くらいは、「畳の上で寝たいッ」「後片づけの心配なく晩飯を喰いたいッ」「熱い風呂に入りたいッ」というもろもろの欲望が起こってくる。

 このようなテント生活の体験記を読むと昔の経験を思い出す。20歳前、友人と2人で八ヶ岳縦走をテント飯盒炊さんで行ってみようと思ったのだ。昔の重いキャンパス地のテントに寝袋、衣類、食料、食器、燃料など詰め込んだリックサックは優に50キロ近くはあったろう。家を出る時からその重さに圧倒されていた。

清里から最初は車道を歩いていくが、道行く人が軽装でさっさと追い越して行く。山道に入れば今度は登りが通常の何倍も辛いものになる。やっとのことで赤岳の行者小屋の幕営地に着いた。既に降っていた雨は土砂降りになってきた。

幕営地は周囲に溝が掘ってあって水はけは良かった。すばやくテントを張り中にもぐりこんだが、テントの中ではラジウスでお湯を沸かしてインスタントもの位しか食べられなかった。土砂降りの雨がテントに当たり強い音を奏でている、時々吹く強い風がテントを揺らす。そういった中では中々寝付けるものではない。

朝になっても雨は止む気配はない。八ヶ岳縦走をあきらめて茅野方面に下る事にした。水を含んだテントは重みを増し肩に食い込む。途中赤岳鉱泉の前を通過した。雨に濡れ冷えた体をここで温め、ゆっくりと風呂でも浴びて行きたいなとも思ったが、そうしたら下山する気力がなくなってしまうのではないかと思って、ひたすらとぼとぼと雨の中を下り続けた。

テントと飯盒炊さんによる登山は結局この1回きりだった。それ以降は山小屋での食事、泊まりの方法に変えることになった。山岳部ではないので自然を楽しむための山登りが目的なのだ。苦行のような山登りではあまり意味がないような気がした。

 椎名誠の東ケト会は隊員に苦行を強いる「青少年強化合宿」であった。これは7年間続いた。しかし1975年粟島キャンプで、テントをたたんで、例え一日だけとはいえ民宿に泊まったことは東ケト会にとっての汚点といえた。「それから後の大いなる堕落の第一歩となっていった。」それ以降、もう重いリックは持たず、最初から民宿を利用する事になった。その意味では、1975年、輝ける第一次東ケト会の歴史は事実上幕を閉じたと言えるだろう。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

旧古河庭園のバラ

5月25日(水)
病院に行ってまずやることは採血だ。9時過ぎに病院に着き、採血を30分程待つ。その後口腔外科での診療を受ける。いつもは9時半予約で10分位で呼ばれる。しかし今日は何と11時に呼ばれた。1時間半待ちだ。診察室に入り、医者が口の中をのぞいて「よく口腔ケアをしてますね、このまま続けて下さい」と一言いい、診療は終わり。1時間半待って10秒で終りというわけだ。その後血液内科の診療待ち1時間、外来治療センターでのベッド空き待ち1時間、点滴が終ったの14時半だった。

会計で患者会に来る人と会って少しお喋りをして、病院を出たのが15時だった。何処のホームページでもバラが見頃と書いてあった。昼ごろ終ったら生田緑地バラ園とか港の見える丘公園にでも行こうかと思っていたが、かなり遅くなっていしまったので近場の旧古河庭園のバラを見にいく事にした。

旧古河庭園は、40年位前に上中里に住んでいたので何回か行った事があるし、3年前に秋バラを見に行った。季節によってどのように違うのだろうか。日本庭園の新緑は見てみたい風景だ。

旧古河庭園:
英国貴族の邸宅のような石造りの洋館が建つ旧古河庭園は、もとは明治時代の元勲・陸奥宗光伯の邸地だったところ。陸奥伯亡き後、邸宅を継いだ次男が古河財閥の養子となったことから、古河庭園の名が付いた。 武蔵野台地を利用して造られた園内は、台地から傾斜地にかけてが洋風庭園で、低地が日本庭園になっている。昭和57年には都の名勝にも指定された。

バラが咲くのは洋風の方で、約90種180株のバラが咲く。石造りの洋館と庭は、日本の建築界に君臨した英国人ジョサイア・コンドル博士の設計によるもの。鹿鳴館、旧岩崎邸庭園洋館、ニコライ堂などを手がけただけあって、建物と庭が見ごとに調和し、まるで一枚の美しい絵画のようだ。中でも傾斜地を利用したテラス式庭園が素晴らしく、バラやツツジなど色鮮やかな花々と、緑一色の木々とを上手に組合せて、幾何学模様の花壇を階段状に造り上げている。(花の名所案内)

洋館: J・コンドル最晩年の作で、大正6年5月に竣工した。躯体は煉瓦造、外壁は真鶴産の新小松石(安山岩)の野面積で覆われ、屋根は天然ストレート葺き、地上2階・地下1階となっている。

旧古河庭園047_convert_20110526112619  旧古河庭園010_convert_20110526104132  

西洋庭園: ジョサイア・コンドル設計で、左右対称の幾何学模様の刈込のフランス整形式庭園と、石の欄干や石段・水盤など、立体的なイタリア露壇式庭園の技法を合わせバラと洋館と調和した絵画的な景観美となっている。

旧古河庭園089_convert_20110526110120  旧古河庭園085_convert_20110526110020

旧古河庭園014_convert_20110526104215  旧古河庭園021_convert_20110526104342

バラは洋館の周りと階段を下り、少し低くなった所にある西洋庭園に咲いている。西洋庭園はそれ自体がまさに作品である。バラを取り巻く刈り込みの囲いはそれぞれ幾何学模様を作っている。バラよりもむしろその刈り込みの見事さに感心したほどだ。一段高くなった所に東屋があるがそこから西洋庭園の全体が見下ろせる。全体を2つに分け中央に立ち仕立ての吊るバラを配し、刈り込みの囲いで庭全体に模様を作っている。

旧古河庭園が何故バラの見どころとして紹介されているかという答えはこの庭園にある。コンドルの設計した庭の造形の中に咲くバラは自らの美しさを開花させていくのだろう。庭園が如何に花が存在する背景として大きな意味を持っているかを示しているいい例だろう。バラの種類や数の多さは見るものを圧倒させるが、見事に造形された幾何学模様の庭園に咲き誇るバラはまた違った味わいを我々に与える。

バラの庭園
旧古河庭園094_convert_20110526110208  旧古河庭園027_convert_20110526104424
 朱王                              アンジェラ

旧古河庭園032_convert_20110526104601  旧古河庭園037_convert_20110526104634
 緑光                              琴音

旧古河庭園038_convert_20110526105117  旧古河庭園041_convert_20110526105149
 スパー スター                         クイーン エリザベス
    
旧古河庭園044_convert_20110526105239  旧古河庭園078_convert_20110526105949
 フラウ カール ドルシュキ                  サハラ

旧古河庭園018_convert_20110526104530  旧古河庭園017_convert_20110526112524
 プリンセス ウエールズ                   バニラ パフューム

旧古河庭園033Ex_convert_20110526104754 旧古河庭園035ED_convert_20110526122257 旧古河庭園092_convert_20110526110251

日本庭園: 小川治兵衛作庭で、心字池を中心に枯滝・大滝・中島を配しています。冬のマツの雪吊とこも巻・ソテツの霜除は風物詩となっている。また夏の大滝の水音と秋の紅葉もいい。小川治兵衛は、京都の庭師で、山県有朋の京都別邸である無鄰菴、平安神宮神苑、円山公園、南禅寺界隈の財界人の別荘庭園などを作庭した。

旧古河庭園062_convert_20110526105612  旧古河庭園068_convert_20110526105741
 心字池                            心字池 雪見型灯籠    

西洋庭園のバラの色とりどりの色彩の世界から、さらに階段を下ると新緑の木々に囲まれた薄暗い世界に足を踏み入れる。日本庭園への入口はシイを主体にした濃い植込で、明るい西洋庭園とは雰囲気が一変する。

冬だったらさしずめ枯山水の世界といったところだが、今は新緑の季節、心字池の周りの遊歩道は木々が大きく枝を張りあたりは薄暗い。西洋庭園は木々はなく明るい空に開かれていたのとは対照的だ。この正反対ともいえる情景の違いが旧古河庭園の面白さなのだ。

日本庭園には所々に看板が立っていて説明書きがある。この看板がなかったら通り過ぎてしまうかもしれない。崩石積や黒ボク石積などは看板か出ていなければ全く分からなかった。色々見ものを取り揃えているのが興味深い。心字池の心という字は遠くの高いところから見ないと分からない。日本庭園にはバラ園ほど人が来ないので静かな雰囲気に包まれ、池の周りをゆったりと散策するのに適している。枯滝や築山などもあり見るものには事欠かない。

茶室では抹茶が500円で振舞われていて、それを注文した人だけが茶室に入れるということだ。茶室は、京都に多く関東では珍しい崩石積と庭門で仕切られた茶庭の中にある。茶室の脇の坂を上がって行くと芝生の広場に出る。そこから一段高くなった所にある見晴台となっている東屋に行く。

見晴台からは日本庭園の全体が見えるが木々に覆われ池は見えない。日本庭園の奥は、シイ、モチノキ、ムクノキ、カエデなどで構成され、この庭園で一番深い植込になってて、周りは渓谷でえぐられ深い森を見ているようだ。

木々に覆われた新緑の緑の世界と色鮮やかなバラの色彩の世界の2つが重なり合いながら一つのものとしての印象を心の中に刻み付ける。相反する世界が一体のものとして、より大きな世界として現前してくるのである。

旧古河庭園064_convert_20110526105653  旧古河庭園076ED_convert_20110526105823
 崩石積                            黒ボク石積

旧古河庭園072_convert_20110526122503  旧古河庭園087_convert_20110526122412
 渓谷                             東屋から見た新緑の日本庭園

旧古河庭園052ED_convert_20110526105445  旧古河庭園059_convert_20110526105526
 奥の院型灯籠              大滝

心字池: 「心」の字に似せて造った池で、日本庭園の中心。鞍馬平石や伊予青石などで造られ、「船着石」がある。ここは池を眺めるための要となる所で、正面には「荒磯」、雪見燈篭、枯滝、石組、そして背後には築山が見られる。

崩石積:
京都で発達した伝統的工法。石と石が噛み合って崩れそうで崩れない姿が美しいとされる。

黒ボク石積:
富士山の溶岩。山の雰囲気が出るため主に関東で石組として用いられることが多いが、石垣状のものは珍しい。

渓谷: この渓谷は小川治兵衛の最も力を入れた場所の一つであり、また数ある氏の作庭の中でも当庭園の渓谷風の流れは珍しい。

奥の院型灯籠: 灯袋に牡丹、唐獅子、雲、七宝透かしを、中台に十二支を、基礎に波に千鳥又は波に兎を刻んでいる。春日大社の奥の院から発展した。 

大滝: 10数mの高所から落ちる滝。園内のもっとも勾配の急な所をさらに削って断崖とし、濃い樹林でおおって深山の渓谷の趣をだしている。曲折した流れから始まり、数段の小滝となり最後は深い淵に落ちるという凝った造りだ。

(資料: 「公園へ行こう」・見どころより)

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

定期検診の日

5月25日(水)
検査結果
IgM   4893(5/25)←4208(5/18)←4150(5/11)←3788(4/27) 
白血球  2300←2300←1500←1800 
好中球  700←830←530←750 
赤血球  291←284←300←273 
ヘモグロビン 10.1←9.9←10.3←9.3 
網赤血球   14←14←13←11←13 
血小板  5.4←5.8←5.4←2.9 
尿酸(UA)  9.1←7.3←6.5←7.6  基準値(3.7~7.0mg/dl)
β2マイクログロブリン  2.4(5/25)←2.6(5/18)←2.6(5/11)  基準値(0.8~1.7mg/L)


一週間でIgMが700近く上昇した。好中球が700しかない。打つ手がないといえる状態になった。シクロホスファミドを使えば今までの経験で効果が出るのは分っているが、好中球が700では白血球にダメージ与えるアルキル化剤は使用できない。今まで色々な薬を使ってきたがアルキル化剤は相性がいいのか、効果を発揮してくれた。ただいつも白血球を減少させ、使用を中断せざるを得ないことが何度かあった。

医者は白血球の減少を気にしている。これ以上減少した場合感染症のリスクが増加し、そうなると感染症で入院する事になりかねない。医者の提案したのは高用量デキサメタゾンの投与だった。4日間40mg服用し、4日間休薬し、また4日間服用するという方法である。今のサリドマイドとベルケイドに追加して行うということだ。第1~4日目、第9~12日目、第17日~20日目といった具合に服用していく。1クールをどのように設定するかはまだ決まっていない。とりあえず初めて見ようかということだ。

デキサメタゾンはデカドロンという商品名で飲み薬としては0.5mgの錠剤だった。それが最近レナデックスという4mgの錠剤が発売された。デカドロンの時は40mg服薬するのに1日80錠飲まなければならなかった。これは大変な労力だ。レナデックスなら1日10錠で済む。

何故かβ2マイクログロブリンの数値が5月11日からの「検査詳細情報」の一覧表に掲載されていた。どうして調べ始めたか分からないが、アルブミンの数値が載っていないので不十分な気がする。多発性骨髄腫の国際病期分類(ISS)によるとβ2マイクログロブリンは骨髄腫腫瘍と腎障害を反映し、アルブミンは骨髄腫由来消耗性サイトカン量を反映する。(参考までに病期分類は以下の通り)

病期分類
病期Ⅰ→ β2MG<3.5mg/dl Alb≧3.5g/d
病期Ⅱ→ 病期Ⅰ、病期Ⅲ以外
病期Ⅲ→ β2MG>5.5mg/dl

一時薬で下がった尿酸値が薬を止めてしばらくしたらまた上がってきてしまった。尿酸値の上昇について「そんなに栄養のあるものを食べているわけではないんですがね」と言ったら、腫瘍が出来ていてそれが尿酸値を上げているのだ、と言う。またアロプリノール錠100mg1錠毎日飲むことになる。

形質細胞性白血病はどうなっているのか。この間の検査結果では形質細胞が抹消血に現れている事を示すPlasma-Lyが表示されていて、その数値はずっと0.5%に収まっていた。末梢血に 2000/mm 以上の形質細胞を認めたり、 白血球分画で 20%を超える形質細胞を認める場合、 形質細胞性白血病と診断するというから、まだ大丈夫だろう。5月18日の血液検査の結果ではPlasma-Lyは記載されていなかった。抹消血から形質細胞は消えたのか。しばらく様子を見ないと分からないだろう。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

「多発性骨髄腫 - だから頑張れる2011」

5月21日(土)
日本骨髄腫患者の会・横浜講演会が「多発性骨髄腫 - だから頑張れる2011」と題して、パシフィコ横浜、会議センター3階で行なわれた。

 会場の最寄り駅がみなとみらいという。街の名前の由来は何処から来ているのだろう。どんな街だろうと思ってしまう。桜木町の駅からみなとみらいの方を見たことはあるが駅を降りるのは初めてだ。早めに着いて少し周辺を探索しようと思った。駅を降り長いエスカレーターで、地下から2階まで行くとそこがクイーンズスクエアー横浜である。

ここは3棟の超高層オフィスビルが連なる「クイーンズタワー」やショッピングモール・シティホテルで構成される複合商業施設である。クイーンモールを中心に「QUEEN'S EAST(クイーンズイースト)」や専門店街のアット!(at!)が4ヶ所あり、キャラクター、服、スポーツ関連の店や、レストランがある。

みなとみらい005_convert_20110522165559  みなとみらい004_convert_20110522170129
 クイーンズタワーA棟とB棟                よこはまコスモワールド

みなとみらい011_convert_20110522170303  みなとみらい014_convert_20110522170328
 クイーンズタワーB棟とC棟         C棟とランドマークタワー  

クイーンモールを抜けると左に横浜みなとみらいホール、右にパンパシフィック横浜ベイホテル東急へとつながっている。そして連絡橋を渡るとパシフィコ横浜に至る。

パシフィコ横浜についてはHPに次のように書かれている。
「環境、平和をはじめ人間の問題が地球的なテーマとなっているいま、国、言葉、文化を超えたコミュニケーションの果たす役割はますます大切になっています。横浜の新しい都市、みなとみらい21のウォーターフロントにひろがるパシフィコ横浜は世界最大級の複合コンベンションセンターです。」

みなとみらい020_convert_20110522170452  みなとみらい024_convert_20110522165740
 パシフィコ横浜・会議センターとヨコハマグランドインターコンチネンタルホテル

講演会場はパシフィコ横浜の会議センターの3階の二部屋を貫いて使っている。なかなか豪華な部屋である。会場を借りるのにかなりの金額だろう。協賛している製薬会社が資金提供をしているのだろうか。市民会館や区民会館ではなく、いつも会場の豪華さに驚かされるのだ。

 講師は国立国際医療センター・血液内科 ・三輪哲義医師で、2年に一度彼の多発性骨髄腫の今まで研究成果と世界の骨髄腫治療の現状について聴く集会である。

講演会のスケジュールといっても、すべて三輪医師の講演である。11時から午前の部の講演が12時まで行なわれ、45分の昼食の休憩の後、午後の部・1の講演が14時15分まで、15分休憩後、午後の部・2の講演が16時30分頃まで行われた。延々と4時間半話し続けたわけだが、それでもまだ言い足りない所がかなり残ったようだ。

「多発性骨髄腫、如何に考え克服するのか、国際骨髄腫ワークショップ2011年も踏まえて考えよう。」と題する62ページの分厚いレジュメに沿って説明していったわけだが、レジュメに書いてない情報も織り交ぜて話していくのでかなり時間がかかってしまう。

5月3日から6日にパリで開催された国際骨髄腫ワークショップ(IMW2011)では、多発性骨髄腫に対する様々な新しい治療法の試みが各国の研究者から発表された。三輪医師はその情報も踏まえて発言する。「骨髄腫には希望がある」それが講演のメインテーマである。

 講演内容
1、骨髄腫の治療(骨髄腫自体の治療-若年者、高齢者、骨髄腫の合併症の治療)
2、骨髄腫の基礎(蛋白質、白血球、血小板、腎障害、アミロイドーシス、骨病変、ビスフォスフォネートと顎骨壊死)
3、骨髄腫の特徴(骨髄腫は一つの病気ではない、染色体)
4、いつから治療を始めるか(国際病期分類、治療開始条件)
5、多様性に基づいた治療(標準的抗がん剤治療、自家移植、同種移植、新規薬剤の組み合わせによる地固め療法、維持療法)
6、新規治療薬(サリドマイド、ベルケイド、レナリドマイド)
7、骨髄腫の最新治療-研究段階
講演の内容は撮影、録音され、後日DVDに収録して頒布する予定だという。

 講演の中で印象に残ったのは移植への対応についてだ。移植は一般的には辛い治療として知られている。しかし、安全で快適な自家移植の方法がある。そのための3種の神器として話された内容は、これから移植をしようとする人にとってかなり役に立つのではないか。

その3点とは、氷なめ、栄養補給、運動である。前処置の大量抗がん剤投与前に氷をなめつづけ、口の中から肛門まで冷やしておく。すると血管が収縮して抗がん剤の影響を受けにくくなる。それによって口内炎や腸の粘膜が破壊される事によって生ずる下痢や腸内の細菌の活性化を抑えることが出来る。

次に消化管粘膜の回復促進と栄養補給のために出来るだけ食事の経口摂取を進める(栄養管理チームによる指導)。筋力低下を防ぐため、動ける範囲で足こぎバイクなど室内で出来る運動を行い体を動かすよう指導する。

栄養サポートチーム介入の目的は、患者に必要エネルギー、蛋白などの栄養を経口でとらせ、中心静脈栄養は出来るだけ期間を短くすることである。栄養サポートチームはすべての移植患者に対し移植開始前栄養評価と移植中定期評価を行う。そのため、血圧を測る時に上腕三頭筋皮下脂肪圧や上腕筋周をはかり、患者の栄養補給状態を管理し、指導する。患者は経口摂取量と静脈栄養投与量をモニターされ、生化学データー、身体測定にて栄養状態を評価される。

こういった移植時の氷なめから始まる移植後の対策によって、経静脈栄養日数、抗生物質投与期間、在院日数、医療費額すべてを短縮、削減することが出来るようになった。これは国際医療センターでの試みだが一般化すべきだろう。

講演後ロビーで懇親会が行われ、テーマ別にテーブルが置かれ質問者と回答者が出会えるように設定されている。例えば移植をこれからやろうとする人が経験者から話を聞きたいという場の設定をすることによって、初めて会う人でも話がスムーズに進むというわけだ。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

口腔外科、血液内科、眼科の診療

5月18日(水)
検査結果
IgM   4208(5/18)←4150(5/11)←3788(4/27)←4543(4/20)
白血球  2300←1500←1800←1900
好中球  830←530←750←940
赤血球  284←300←273←296
ヘモグロビン 9.9←10.3←9.3←10.0
網赤血球   14←13←11←13←16
血小板  5.8←5.4←2.9←4.3


サリドマイド+ベルケイド+デキサメタゾンの併用療法はどうにか効果を維持しているようだ。一時全く効かずにIgMが1週間に400,200と上昇していき、別の療法を考えなければならない状態まで追い込まれた。しかし4月27日になって突然IgMが下がり、その後若干の上昇はあるものの落ち着いた値を示している。このまま薬が効果を維持し、IgM上昇を抑えてくれることを願うほかない。

夏に友人と旅行に行く計画がある。IgMがそれまで急激な上昇をせず、安定した数値を維持してくれれば旅行に行くことが出来る。しかし以前のように8000位まで上がってしまい、それを抑える薬、それも通院治療で使える薬がなかったら再び入院して2月にやったECDP療法をするほかない。せめて夏まで間はIgMが安定していてほしい。

白血球と好中球はまだ低めだが、危険水域を脱出したようだ。まだ低いのでG-CSFのノイトロジンの皮下注射をやった。血小板も5.8と少ないのは確かだが、一時の2.9といった状態から回復し、この程度あれば輸血の必要はない。

口腔外科の診療はいつも通り、歯茎が炎症してないかを確かめ消毒をするだけだ。眼科での診療で眼圧がかなり下がってきているという結果だった。薬が効いている事もあるだろうが、眼圧が下がってきているのも確かだ。左が20、右が12でほとんど基準値に近い(基準値は10~21mmHg)。この間眼圧が上がり目や頭が痛くなるようなことは全くなくなった。左目には白内障がかなり進行している。どちらにしても見えないので手術する必要はないが眼底検査が出来ない状態にある。

眼圧降下の目薬はまだ点眼を続けた方がいいということだ。ただ抗菌剤クjラビットと抗炎症剤リンデロンの目薬は中止になった。朝2種類、夜3種類の点眼をすれば良くなったので少しは楽だ。目薬を注し、次の目薬を注すまで5分あいだを置かなければならない。5種類もあった時は結構時間がかかってしまっていた。ダイアモックスとアスパラカリウムは従来通り服用する。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

国営武蔵丘陵森林公園

5月15日(日)
天気予報のアナウンサーが今日の天気について「風薫る5月」「五月晴れ」などという。明日から曇りがちになり、この快晴は今日までだということだ。外に出ると風が肌に気持ちよくあたる。家にじっとしているのはもったいない天気だ。あまり遠くに出かける気分ではなかった。

森林公園のポピーが見頃だとあった。森林公園なら千川から有楽町線で和光市駅まで行って東武東上線に乗り換えれば1時間ほどで着く。バスの時刻表を見ると路線バス以外に土日祭日のみ森林公園行きのバスが出ている。1時間に4本位出ているのでそれほど待つこともないだろう。

森林公園駅から公園まで歩いて1時間位なのだが、ここで疲れきってしまっては広い公園を歩き通すことは出来ないと思って、駅に停まっていたバスに乗った。バスは15分位で公園の南口に着いた。

森林公園のホームページに入園口別おすすめコースとして「南口雑木林めぐり」というのがあり、そのコースでいこうと思い南口で降りた。雑木林を散策し、ポピーの花畑を経て中央口から彫刻広場、都市緑化植物園に寄り、西口広場の花畑でルピナスを見ようというルートを頭に描いた。

国営武蔵丘陵森林公園:
全国初の国営公園として開園。約304万m2の広大な敷地には武蔵野の雑木林の風景が広がり、四季折々の花々や紅葉、運動広場などさまざまな施設が点在する。春先は、約6000m2の花畑には、色鮮やかなアイスランドポピーが一斉に開花する。約11万本程のポピーは白や黄、オレンジなど色数が多いのが特徴。その後には同じ場所に今度は赤いシャーレーポピーが咲き、新緑の中にひときわ美しい花のじゅうたんを魅せてくれる。(花の名所案内)

古鎌倉街道
公園南口から入ると、すぐ左側に日本庭園がある。そこから坂道を上っていく。周りは雑木林が黄緑色の鮮やかな葉を茂らせている。新緑の森の散策が主要な目的である。森林浴をたっぷり味わおうと思う。

舗装された道路に沿って古鎌倉街道の道が続いている。古鎌倉街道を鳥の声以外物音一つしない密集した木々にかこまれた林の中を歩いていると時間の感覚が失われてしまうようだ。鎌倉街道は至る所にある。主要な上道、中道、下道のほかに間道や枝道が数多く存在し、これらの道も各地域で愛着を込め鎌倉街道と呼ばれている。

古鎌倉街道: 鎌倉街道と伝えられる道筋は公園「南口」の山田城の東を通り抜け、山崎城北端をかすめて北上し、公園「中央口」から「西口」方面に抜け、寄居町で本道の鎌倉街道に合流している。

森林公園006_convert_20110516212934  森林公園008_convert_20110516213001
 古鎌倉街道入口

森林公園004_convert_20110516212900  森林公園012_convert_20110516213034
 新緑の雑木林

運動広場と花畑
新緑の雑木林が突然開ける。梅林が右手に広がっている。梅の開花時期にはここに人が集まるのだろう。梅林を抜け再び雑木林を10分ばかり歩くと広い芝生が目の前に広がる。

運動広場には大型テントが張ってあり休憩所として、シートを広げて昼食を広げている家族連れで一杯だった。運動広場で子供たちにとっての目的は「ぽんぽこマウンテン」である。日本一大きなトランポリンで、友達と一緒にジャンプしたり、みんなで楽しく遊べる。

運動広場のから広がる斜面に花畑があり、様々な色合いをしたアイスランドポピーが一斉に開花している。アイスランドポピーの花畑の横には、真っ赤なシャーレーポピーが花を咲かせている。

森林公園025ed_convert_20110516213119 ポピーの周囲に植えられている花菖蒲

森林公園028_convert_20110516213151 アイスランドポピーの花畑

森林公園029_convert_20110516213215

森林公園032_convert_20110516213246

森林公園035_convert_20110516213325

森林公園046_convert_20110516213548

森林公園048_convert_20110516213505

森林公園049_convert_20110516213625

森林公園043_convert_20110516213437 真紅のシャーレーポピー

ポピーの花畑を堪能した後、雑木林の中を歩き中央口に向う。中央橋を渡ると中央口の噴水広場に出てそこから彫刻広場、都市緑化植物園にいく道がある。公園には大小幾つもの沼があるが山田大沼が一番大きい。中央広場から渓流広場まで広がっている。

彫刻広場
山田大沼を左に見ながら進んでいき、右に曲がるとそこに一体の彫像が立っていた。そこから彫刻広場が始まる。林の中に9種の彫像が配置されている。木々の背景を生かし、木々を刈り込んだり、灌木を植えたりして彫像が林の中でより一層存在感を表現できるように工夫されている。

森林公園059_convert_20110516213739 森林公園060_convert_20110516213815 森林公園064_convert_20110516213959
 道標 奥山泰堂             躍進 圓鍔勝三           海辺の母子・夏 淀井敏夫

森林公園066_convert_20110516214034 森林公園068_convert_20110516214109 森林公園078_convert_20110516214211
 浦島 北村西望            キヅツケル古武人 澤田政廣     そりのかたち‘84 澄川 喜一

都市緑化植物園

彫刻広場から芝生の広場を突き切ると都市緑化植物園の入口に着く。植物園展示棟を中心としながらその周辺にハーブガーデン、カエデ見本園、花木見本園、ボーダー花壇生垣見本園、湿地性植物見本園、街路樹見本園、公園・庭園樹見本園、紅黄葉樹見本園がある。

針葉樹見本園は中央口から彫刻の広場に向う道の右側にあり、ここも緑化植物園の一部だと後で知った。全部回れなかったので、ハーブガーデン、カエデ見本園、公園・庭園樹見本園、紅黄葉樹見本園を回った。

ハーブガーデンは2430m2あり、ハーブを中心とした植物が植えられ、用途別に7つのエリアで構成されている。金色の庭には、ニッコウヒバ(黄金忍ヒバ)とエニシダ(金雀児)が配置されている。黄金色をイメージしたのだろう。銀色の庭の入口には白バラがアーチを描いていた。中央にあるバーゴラにはモッコウバラが花を咲かせていた。

森林公園080_convert_20110516214325  森林公園079_convert_20110516214251
 ニッコウヒバに囲まれた金色の庭             銀色の庭の入口

森林公園083_convert_20110516214451  森林公園090_convert_20110516214531
 バーゴラの白と黄色のモッコウバラ

カエデ見本園ではイロハモミジ、メグスリノキなど、約20種のカエデの仲間が植えられていて、秋になれば素晴らしい紅葉の風景を作り出すだろう。しかし、新緑のカエデもその薄い緑色のさわやかな色彩は5月のこの時期にしか見られない風景を創り出ししている。

森林公園097_convert_20110516214605  森林公園098_convert_20110516214635
 カエデ見本園の東屋

公園・庭園樹見本園ではシマサルスベリ、ヤマボウシ、マンサクなど、公園や庭園で使われている樹木やミケリア・マウダエなど珍しい樹木が植えられている。カサブランカの花畑がかなりの面積を占めていた。7月になってゆりの花が開く頃には見応えがあるだろう。

渓流広場を経由し、記念広場に寄ってみた。何を記念するかと思ったら、石版には森林公園開園記念ということだった。ここにも芝生広場があり、家族がフリスビーをしていた。この公園には至る所に芝生の広場があって、今日のような天気のいい日は、シートを持ってきて芝生の上に敷けばすぐに昼寝の体勢に入れる。そこから10分位で西口広場に着く。

森林公園108_convert_20110516214717  森林公園111_convert_20110516214752
 渓流広場                          記念広場のモニュメント

西口広場
西口周辺は子供の遊び場が揃っている。西口広場には、16,000㎡の芝生地やキャッチボール専用ブルペン「むさしキッズブルペン」がある。また、お子様向けの遊び場スポットで、まるみをもたせた50種類のカラフルな遊具がコンパクトに勢揃いした「むさしキッズドーム」や水遊び場がある。わんぱく広場の冒険コースは自然の地形を活かしたアスレチックコースで、家族で1日たっぷりと楽しめる。

森林公園114_convert_20110516214829  森林公園127_convert_20110516214855
 西口広場                          「むさしキッズドーム」         

西口広場に面して花畑があり、約6万本のルピナスが豪華に開花する。しかしまだ時期が少し早く全体がまだ小さかったが、白い三角形帽子のような小さな姿は何故か可愛らしいイメージを与えるものだった。

森林公園117_convert_20110516214941

森林公園120_convert_20110516215011

森林公園121_convert_20110516215046

森林公園122_convert_20110516215116

森林公園125_convert_20110518235047

森林公園123_convert_20110518234915 森林公園124_convert_20110518234939 森林公園126_convert_20110518235013 ルピナスの花

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

院内患者家族交流会(おしゃべり会)

5月13日(金)
2ケ月一度の定例の病院内での患者家族の交流会が行われた。やはり最初の話題は、前回の交流会が3月11日地震の日で、交流会後どのような行動を取ったかということだった。私は運のいい事に入院最終日で宿泊場所は病院のベッドを確保してある。他の人は交通機関を奪われどうしたのだろうか。

患者会に来た何人かは待合室で電車の動くのを待っていた。外来治療に来て帰れなくなった人が何人も待合室の椅子に座っていて電車の情報を聞いていたが一向に動く気配はない。田端まで行ってまた戻って来た人もいる。夜も更けてきて、病院側としては、患者を待合室に待機させておく訳には行かない。外来治療センターのベッドを提供してくれたそうだ。

またある人は南北線が11時頃動いたので、それに乗ったが白金台駅止まりだった。白金台でかって利用した事のある福祉会館を思い出し、そこに行って泊めてもらったそうだ。どこにどんな施設があるか知っているとこういうとき便利だ。

今日の交流会の話題の中心は「痛み」についてだった。悪性リンパ腫の治療を化学療法で行い、寛解状態になっている女性患者が、今度は「繊維筋痛症」という珍しい病気になった。症例が少なくまた治療法も確立されていない。自己免疫疾患、膠原病の分類に入るのだろうが今のところ対処療法しかない。

最初、体がだるく動くのもおっくうなほど消耗感にさいなまれていた。抗がん剤治療の副作用だと思っていたが、やがて筋肉に痛みが生ずるようになった。服がすれたりしただけでも痛い。体を動かすこと自体に痛みを感ずるので、服を着替えたり、頭を洗ったりすることも辛い。寝る時も布団がこすれて寝返りもうてない。痛みで十分な睡眠もとれない状態だ。日常生活にも支障を来たし、仕事も続けられなくなり退社せざるを得なかった。

この病院で治療を受けていたが、膠原病専門医に紹介されて、別の病院でも治療を受けるようになったが、一向に薬の効き目はあらわれない。漢方薬も処方されるが、これ自体は血流をよくするもので痛みを止めるものではない。痛み止めとしてガバペン(抗テンカン剤)なども処方されたが、ふらふらになってしまうので止めた。今はかなりの数の薬を飲んでいるが、これといって効果が出ているとは思えない。

医者は精神科の診断を受けたらという。精神的な問題だとは思えないがどういうことなのか聞いてはいない。痛み止めはどうなっているのか。痛みは生活の質を根底的におとしめていくものである。痛みの除去は患者にとって最優先しなければならないものだろう。

帯状疱疹神経痛を経験した人が私を含めて3人いた。1人はその痛みを焼け火鉢で刺されるようだったという。また別の人は、棒で腰を思いっきり突かれたような衝撃だったという。帯状疱疹神経痛になると、神経痛の元になる部分があって、その場所を「トリガー」というそうだが、そこを少しでも触れたりすると体じゅうに電気が走るような衝撃を受ける。

こういった激しい痛みを生ずる「トリガー」は徐々になくなっていくが、神経痛の痛みは持続する。肌に服が触れると神経がこすれるような痛みが生じ、帯状疱疹の湿疹が出来た周辺にずきずきとした痛みが慢性的に続き、痛みで眠れないこともあるような状態が続く。

患者の一人は神経ブロックを週1度4回やって治ったそうだ。私の場合は、入院中だったこともあり、移植前に神経痛を治したいという気持ちで毎日神経ブロックをやっていた。結局治るまでに4ケ月かかった。

今回再び帯状疱疹神経痛になってしまったが、以前よりは軽いということと、リリカという帯状疱疹神経痛専用の痛み止めが奏効しているのか痛みはかなり抑えられている。

患者にとっての最大の問題は痛みのコントロールであると思う。激しい痛みのため神経がそちらに集中し、何も手につかない状態をどうにかしなければならない。止まることのない痛みの持続は、精神をずたずたにしかねない。十分な睡眠もとれず、24時間痛みと向き合う他に方法がない。

急性骨髄性白血病で入院し化学療法と、移植を受け自宅療養している患者の話を患者会の場で聞いた。彼女は、移植後のGVHDが激しく特に痛みが執拗に襲ってくる状態だった。彼女はモルヒネを今は手放せない。何ケ月も毎日飲み続けている。モルヒネもかなり使い易くなり、朝1錠飲むと24時間効果があるということだ。モルヒネで痛みは収まり通常の生活を送っているということだった。

痛みを抑えるのにオピオイド系の薬を処方してもらうという選択肢を持って疼痛緩和について考えてみた方がいいだろう。

患者会には今回は12人が参加した。看護師の人も2名途中参加があった。参加者のうち6名は白血病患者、ほとんどの人が寛解後5年以上たっているが、いまだ治療を受けている人もいる。悪性リンパ腫1名、患者家族2名、原発性マクログロブリン血症は当然のことながら1名だ。

珍しい血小板減少性紫斑病患者の参加もあった。彼は血球の数値が基準値の半分位しかないが、治療するというほどの事もなく30年間経過観察ということで病院に2ケ月に1度通っている。今まで無治療の状態で過ごしてきた。

症状としては体力の消耗感があり、仕事をしていてもすぐ休憩したくなる。周りからはサボっているとしか思われない。病気のことは職場では話していない。あまり周りを気にせずマイペースでやっているということだった。色々な患者の声を聞くことは、自分の生き方や考え方の参考になるのは確かだ。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

定期検診の日

5月11日(水)
先週の火水木が連休で病院の外来が休みだったせいで、どこもかしこも混みあっていた。今日は眼科と口腔外科の診療はなかった。最初の採血では1時間以上待たされた。血液内科の診療で呼ばれるまで1時間30待った。さらに外来治療センターに呼ばれるまで1時間かかった。ベッドは確保できたが、薬剤部から薬が来るのにさらに時間がかかり、点滴が始まったのが14時半になってしまった。さらにIgGが減少していたので免疫グロブリン製剤の点滴をする事になり、さらに2時間かかった。病院には10時に着いたが、出たのは17時になってしまった。

検査結果
IgM   4150(5/11)←3788(4/27)←4543(4/20)←4324(4/13)
白血球  1500←1800←1900←3000
好中球  530←750←940←1520
赤血球  300←273←296←276
ヘモグロビン 10.3←9.3←10.0←9.2
網赤血球   13←11←13←16
血小板  5.4←2.9←4.3←4.2
IgG    182(5/11)←465(3/10)←448(2/28)


先週は血液内科の担当医の診療日である水木が休日で、診療は休みだった。ベルケイドの点滴もその関係で行わなかった。血液検査の結果にはかなり不安だった。IgMの増加が予想される状態だった。IgMは4150だった。2週間で360の上昇だ。これをどう見るのか。ベルケイドとデキサメタゾンの点滴をしないでこの程度の上昇であれば、このままこの治療を続けていくことは可能ではないかということであった。

ベルケイドの点滴をしなかったということで血小板数は2.9から5.4へと回復した。しかし白血球が1500、好中球が540という数値は問題だ。これはサリドマイドの影響だろう。サリドマイドは骨髄抑制が少ない薬だといわれ、2008年4月から使用し始めた時には白血球への影響は全くなかった。それが造血幹細胞の機能が弱っているのだろう、今回のような白血球減少となって現れた。G-CSFの皮下注射で対応する外ない。

IgGは3月10日以降ずっと検査対象に入っていなかった。担当医にはたまには測って下さいと言っていたが、やっと今回の検査対象に含まれていた。それが何と182という低い数値であって医者も驚いた。免疫グロブリン製剤の輸血を行う事になった。

免疫グロブリン製剤の輸血は2時間かかる。ベルケイドとデキサメタゾンの点滴は30分である。しかしベッドの確保とか薬剤部での薬の用意とか医者が点滴針を刺しに来る時間とか色々あって、実際の点滴時間より大幅に時間がかかる。外来での点滴治療にはこういった時間的拘束を覚悟しなくてはならない。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

牛島の藤・藤花園

5月7日(土)
あいにくの雨模様の天気になってしまった。牛島の藤を見に行こうと思っていた。見頃のピークが5月5日以降ということだったので、なるべく遅い時期の方がいいだろうと思っていたら、8日で閉園するということなので今日行く外ない。明日は最終日で混むだろうし、甥が来るので出かけられない。

東武伊勢崎線の春日部駅から東武野田線に乗り換え一駅目の藤の牛島という駅で降りる。江戸時代から「粕壁のフジ」と呼ばれてきたが、最寄り駅に東武野田線藤の牛島駅ができて以来、「牛島のフジ」としてその名が広く知られている。駅名の由来は所在地の「牛島」では、伊勢崎線の「牛田」と混同するおそれがあるためと、付近に特別天然記念物である「牛島の藤」があるため、観光最寄り駅の意味合いを強調したものとされる。

駅前には藤棚があり、藤の花が咲いていた。大きな看板があり、行き先を表示してくれているので分かりやすい。そこには開園日が開花時期が遅れたので11日まで延長になったと書いてあった。それを知っていれば今日でなくてもよかったのだが、機会を逃すと結局行かなくなってしまうことがあるので、今日来て良かったのかもしれない。

藤の牛島駅で藤花園に行きそうな人は誰も降りなかった。藤が見頃を迎えているのでさぞかし多くの観光客が見物に行くのではないかと思っていたが当てが外れた感じだ。雨が降っているせいかもしれない。藤の牛島駅から10分ほど歩くと、藤の名所「藤花園」に着く。道は一本道だが、帰りの人にも行き会わない。駅を降りた時に降っていた雨は既に止んでいた。藤花園の前には広い駐車場があり、そこには5割がた車が停まっていた。ほとんどの人が車で来るのだろう。

藤花園の藤:
室町時代の記録にも登場する“九尺フジ”。弘法大師が植えたという伝説を持つ推定樹齢1200年の老樹。毎年、開花時期の約1ヶ月だけ有料で開園している。庭園の敷地は2haでフジの根元の周囲が4m以上。藤棚は東南に約34m、西北に約17mもあり花房は1m前後。日本産フジの変異性である長フジの元祖ともいわれる。昭和30年には国の特別天然記念物にも指定され、平成元年には新日本名木百選に選定された。園内の敷地に大小色違いのフジがあり、アヤメ、ツツジも咲いている。五百余年の老松は殊に庭園の風致を添える。(花の名所案内)

入口で入園料1000円を払って入る。ここは藤の季節だけ開園する庭園だ。後の時期は次の年にも藤が綺麗に花を咲かせるように肥料をあげ丹念に育て上げる。ボランティアの人が説明していたが酒粕や油粕、化学肥料などを年4回あげているということだ。その他にもつつじや菖蒲が咲き庭園も綺麗に整備されている。今年は大震災の影響で客足は鈍っているとのことだった。

庭園には5つの藤棚があり、1200年の藤、800年の藤、200年の藤、100~150年の藤、だるま藤である。1200年の藤は、樹は根本から数本に分岐して藤棚の面積700平方メートルあるという壮大なもので見るものを驚かせるほど見事なものだ。中をくぐると垂れ下がった藤の花の香りがあたり一面に漂う。周辺すべてが紫色に染められる。

1200年の藤
藤の牛島002_convert_20110508181007

藤の牛島004ed_convert_20110508181032

藤の牛島047_convert_20110508181730

藤の牛島006_convert_20110508181058

藤の牛島083_convert_20110508183350

藤の牛島050_convert_20110508181833

藤の牛島071_convert_20110508182244

見晴台より
藤の牛島032_convert_20110508182323

藤の牛島033_convert_20110508182345

800年の藤
藤の牛島008ed_convert_20110508225009

藤の牛島010_convert_20110508181231

藤の牛島018_convert_20110508181252

藤の牛島019_convert_20110508181626

藤の牛島023ed_convert_20110508225057

藤の牛島062_convert_20110508181923

その他の藤棚も樹齢に合わせてその成長を楽しむことが出来る。藤だけではなく、売店では藤うどんなどの名物品の飲食ができ、藤の彩などの土産物が売られている。池が2ケ所あり、築山と名をうっているが、富士山の溶岩で作られた山があり、これはかっては富士塚だったのだろう。推定樹齢600年といわれる赤松も庭に趣を添えている。見晴台がありここから見る1200年の藤棚は紫雲のようと言われるほどの景色である。

庭の外れに黄花菖蒲苑があり、まだ一部しか花をつけていないがやがては全面的に開花するだろうが、その頃には庭は閉園している。それ程広い庭園ではないが藤棚を中心としながら色々趣向をこらし、変化をもたせている。

園内の風景
藤の牛島007_convert_20110508181125  藤の牛島025_convert_20110508181414
 天然記念物牛島の藤                    富士山の溶岩で出来た築山

藤の牛島029_convert_20110508181439  藤の牛島017_convert_20110508181518
 推定樹齢600年の赤松                  だるま藤

藤の牛島078_convert_20110508182502  藤の牛島076_convert_20110508182528
 池と花菖蒲とつつじ                     庭の花壇

藤の牛島055_convert_20110508182114  藤の牛島085_convert_20110508185739
 黄花菖蒲苑の菖蒲                     国指定特別天然記念物牛島の藤案内

帰りは東武野田線を春日部方面ではなく、柏方面行きの列車に乗った。東武野田線はおそらくこれ以降乗ることもないだろう。沿線の風景はどんなものだろうといった興味があった。どこかに行く楽しみの一つは列車に乗り、行ったことのない土地を見ることも含まれている。ローカル列車の旅などという特集をテレビでやる事もあるが、列車の旅は駅弁だけでなく、初めて見る風景に新たな発見をするという楽しみもある。

藤の牛島駅から流山おおたかの森駅まで行って、つくばエクスプレスに乗り換えた。つくばエクスプレスは職場の関係で六町までは行ったことがあるが、それより先には行ったことがない。流山おおたかの森駅周辺はつくばエクスプレス開業ともにかなり大々的に開発したのだろう。

野田線とつくばエクスプレスの乗り換えのコンコースには飲食店街があり、ミスタードーナツやKFCを始め、蕎麦屋、丼物店、お好み焼き、焼きそば店などかなりの数が出店している。客もかなり入っていた。また「おおたかの森SC」というショッピングセンターがあり、ファッションから食料品まで幅広く扱っていて、ユニクロやイトーヨーカドーも出店していてかなりの品物は春日部や柏まで行かなくても手に入るだろう。このような人口も少なく人が集まりそうもない所によく思い切ってショッピングセンターを作ったものだと思った。

流山おおたかの森駅から区間快速で北千住駅まで16分という短時間で行くことが出来た。色々な路線が出来てうまく使いこなせばかなり移動時間は短縮できる。もっともそんなに急ぐ生活をしているわけではないが。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

墓参り・foo cafe・大谷口歴史公園

5月4日(水)
5月3日が父親の命日で毎年墓参りに行っている。もっとも墓参りに行くようになったのは、病気になり仕事を辞め時間ができてからだ。母親と妹は毎年墓参りに行っていたらしいが、仕事をやっていた時は全く墓参りとは縁がなかった。墓参りには弟も行けるという。こういった機会でもないと母親と3人の兄妹弟が揃うこともないだろう。

5月3日は午後から雨が降るというはっきりしない天気だったので、母親が行くのを躊躇したので4日にした。母親は少し前までは地域の「歩こう会」に参加していた位だが、転んで腰を打ち半年ばかり寝たきりの生活をしてから、すっかり歩くことから縁遠くなり、今では杖を突いてゆっくりと休み休み歩くといった状態だ。墓参りに行くので、車椅子で行った方が便利だろうと思って近くの特別養護老人ホームアトリエ村で車椅子を借りた。車椅子だと母親の歩く速度にあわせる必要がない。

駅が最近はかなり改造され何処にでもエレベーターが設置され車椅子での移動がかなり楽になった。父親の墓は松戸市の八柱霊園だ。松戸駅にはJRも新京成もエレベーターがなかった。そこだけは車椅子から降りて、エスカレーターでの移動を余儀なくされた。車椅子から降りられない人にはどういった対応を駅ではするのだろう。

新京成電鉄の八柱で降りそこからタクシーで墓の前まで行く。途中馴染みの石材店に立ち寄り花と線香を買い、桶とほうきを貸してもらう。墓に着いたら、タクシ-には待っていてもらい、掃除をし花と線香を上げお参りする。再びタクシーに乗り八柱まで戻ってくる。墓の前には10分位いただけだ。あまりにも事務的過ぎるような気もするがこれが今日の墓参りの現実ではないか。

松戸戻り、皆で食事をした後、新松戸に知り合いが「foo cafe」という喫茶店をやっているので、そちらに寄ることにした。松戸方面に来ることもないので、去年も行ったが、こういった機会でなければなかなか行くことはない。

喫茶店は新松戸からだと15分位かかるが、流鉄流山線の小金城址駅からだと5分位の距離だ。新松戸の駅前に幸谷という流山電鉄の駅がある。あまり間隔が空いているようだったら歩いていこうと思って、時刻表を見ると1時間に4本位出ている。珍しい電車なので乗ってみるのも面白い。鉄道の名前が、流鉄流山線といった何ともレトロな雰囲気を感じさせる。別名総武流山電鉄ともいう。

小金城址駅に着いて周りをみても小金城址がある雰囲気は全く感じさせなかった。駅からしばらく行くと綺麗な並木道の道路がありそれを渡ると喫茶店に辿り着く。喫茶店で1時間ばかりお喋りをして、帰る時小金城址は何処にあるのか聞いてみたが、そんなものはないのではないかといった返事だった。

墓参り007_convert_20110505000238  墓参り010_convert_20110505000304

駅に着いて駅員に小金城址は何処ですかと聞いてみた。すると窓口にいた駅員はそこから出てきて、道の見える所まで案内し、丁寧に道順を教えてくれた。観光協会のメンバーなのだろうかと思われるほど熱心だった。駅名にまで付けてあるのに何もないでは話にならないと強い思いを持っているのだろう。

駅員に教えられた道を行ったところ「大谷口歴史公園」といった石の表示板が立っていた。小金城址といった看板でもないかと探したがなく、とりあえず公園の中に入っていった。最初に門の跡があり、それをくぐり急な階段を上って行くと広場がありそこに「小金城(別称大谷口城)跡」と書かれたモニュメントがあり、それを見てここが小金城址だということが分かった。

この広場の周辺には、土塁が積まれ、敵を防ぐのに使った堀である畝堀、障子堀などが作られている。それほど見所がある訳ではないが駅名になる城がかってあったということは確かだ。

墓参り031_convert_20110505000554  墓参り030_convert_20110505000529

小金城: 標高20mほどの丘陵地帯にあり、古利根川、中川、荒川流域の低地帯を一望できる場所である。城域は東西800m、南北700mにおよび、12もの郭を備えて、当時の下総国北西部においては最大規模を誇った平山城である。大谷口城、開花城、とも呼ばれる。

要害の城であったが、太日川(現在の江戸川)の要でもあったため、水運により城下は市が立ち並んで金宿(後の小金宿)が形成され、周辺の本土寺や東漸寺が領主高城氏の保護を受けて栄えるなど、軍事的にも経済的にも栄えた場所であった。

金杉口跡: ここは金杉口と呼ばれる小金城の虎口(出入口)の一つ。小金城には大手口(東)、達磨口(北東)、金杉口(北)、大谷口(南)の四つの虎口があったとされている。

墓参り016_convert_20110505000356 「小金城(大谷口城)跡」モニュメント

墓参り021_convert_20110505000433  墓参り026_convert_20110505000503  

畝堀:
(左側)ここで発見された堀は幅七メートル、深さ約三メートル(現地表面から)と規模では普通だ。しかし、堀底に断面が蒲鉾形の畝(高さ約九十センチ)が堀の 方向と直行する向きに連続して造られた、全国的にも非常に珍しい構造をしている。この施設の利点は、侵入した敵が堀底の小溝に足をとられ、横への移動が しずらくなり、その敵を狙い討てることだと云われている。特にこの畝堀は、畝部分が粘土層を掘り込んでおり、非常に滑りやすく、効果的となっている。

障子堀:
(右側)自然の斜面を削って急傾斜とし、その下部に幅四メートル以上、深さ約ニ.五メートルの空堀が造られている。この空堀は、虎口から約二十メートル程の地点から掘られており、途中一ヶ所に高さニメートルの間仕切り(障子)が造られて堀底を侵入してきた敵をその壁 で遮る構造となっている。このような構造のものを「障子堀」と呼んでいる。

墓参り035_convert_20110505001453  墓参り034_convert_20110505000623
 流鉄流山線小金城址駅の歩道橋から 馬橋 - 小金城址間は坂川の支流の新坂川に沿って線路が走る

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

宥座の器

5月3日(火)
館林つつじまつりに行く途中の旧館林藩士住宅(武鷹館)の中庭に「宥座の器」という金属の器が吊り下げられていた。ボランテイアの人がこの器の由来を説明してくれる。そして実際に水を入れてみることが出来る。自分で試してみるとどんなものかよくわかる。この器を作るのが中々大変で、これを作ったのは針生清司氏という金属工房の人で13年の試行錯誤を繰り返し平成4年に完成したというものだ。

館林_convert_20110503165944「宥座の器(ゆうざのき)」とは、座右において戒めとする器という意味で、「虚なればすなわち傾き、中なればすなわち正しく、満つればすなわち覆る」器だ。つまり、空のときは傾き、ほどよく水を入れると正しく水平を保ち、水をいっぱい入れるとひっくり返る。孔子(紀元前551~479)は魯の桓公の廟に参詣したとき、宥座の器を見て、弟子たちに「満ちて覆らない者はいない」と教訓した。
 
さらに弟子が、器に水を満たしてもひっくり返らない方法を尋ねたところ、孔子は応えた。
聡明聖知なるときは、これを守るに愚を以てし、
功天下を被えば、これを守るに 譲を以てし、
勇力世を撫えば、これを守るに 怯を以てし、
富四海を有てば、これを守るに 謙を以てす。

満つれば則ち覆る、
宥座の器、
驕る者は久しからず。  (『荀子』宥座扁)

この「宥座の器」は、人生におけるすべてのことにおいて、中庸の徳、謙譲の徳の大切なことを教えている。それは何事も「足るを知る」という事ではないだろうか。広く世の中を見てもそうだが、「足るを知る」という事を自分自身の心の中にもてない人というものの欲望は際限がない。

この中庸の徳や謙譲の徳は、今の日本の現状を考える時に大いに参考になる言葉ではないかと思う。3.11東日本大震災による原発事故での電力の供給停止によって、計画停電を経験し、節電を推進している中で、今までいかに電気を無駄に野放図に使用していたかを思い知ることになる。電気エネルギーをそれがあたかも無限であるかのように湯水のごとく使い、それに何の疑問も持たずにそういった生活を享受していた国民すべてに警告を与えたのである。

豊かさと貧しさの感覚も変わってくるだろう。無駄に使われるエネルギーに対しては、それが便利であっても反発が強まるだろう。そういった生活に徐々に移行していくことによって、原発に頼らない生活が可能になってくるだろう。東京新聞に「3・11から」という特集記事が連載された。その中からこれからの社会の中でどういった心構えもったらいいのかといったメッセージが込められている3人の意見を紹介したい。

 僕は震災前から、豊かさの定義を変えなければならないと思っていました。豊かさと貧しさは線引きできるものではない。私たちは生活が豊かだと思っていたことが錯覚だったとさえ思います。一人の人間が生きるとき、何をなすべきか。その原点が「雨ニモマケズ」の中にあるような気がします。私が病気をして何もできない時に「慾ハナク/決シテ瞋ラズ」に日々を生きるという感覚は胸に染みました。人生で見聞きしてきたことがつながったように感じました。 (「3・11から」 渡辺謙・俳優)

 現代人は自然に逆らう生活のために、たくさんの電気エネルギーを使ってきました。なぜコンビニが24時間開いていなければならないのか。なぜビニールハウスに暖房をかけてまで正月にイチゴを食べなければならないのか。今回の事態は、そんな暮らしに対する逆襲のような気がします。あの日を境に私たちの原発に対する意識は変わった。その変化は今後いろいろなものを生み出すように思います。節電も一過性で終らない可能性が出てきました。そうすれば生活の細部まで、この福島から変わっていくと思います。 (「3・11から」 玄侑宗久・僧侶)

 幸福って、いじわるです。幸せな時には分からないでしょ。失ってはじめて大事だったと分かる。だから失う前から「絶対なくしてはいけないもの」「あってもなくてもいいもの」「なくてもいいもの」を日頃から仕分けしておいたほうがいい。私はそれを「価値の遠近法」と呼んでいます。夏の電力不足を考えたら、みんな「なくてもいいもの」を一生懸命に選び出すでしょう。その時「絶対になくしてはいけないもの」、つまり幸せもきっと見えてきます。(「3・11から」 鷲田清一・臨床哲学者)

こういった意見を聞くと我々は今の生活を見直していく必要を感じる。今日の状況は、無駄を無駄と思わない大量消費の習慣から決別し、必要なものを必要なだけ買うという生活へと自らの生き方を振り返るいい機会ではないかと思う。確かに個人の問題だけではない。コンビニでは売れないことが分っていても見栄えのため弁当を棚一杯に並べ、時間が来ると廃棄に回してしまう。こういった現象をなくしていく社会的な習慣が必要なのだろう。

食品の廃棄物の年間の発生量は約1940万tと試算されており、内訳は、食品製造業から発生するもの(産業廃棄物扱い)が339万t、一般家庭、食品流通業や飲食店業などから発生するもの(一般廃棄物扱い)が1600万tとなっている(2004年度)。

食品リサイクル法で、食品製造業から発生する食品廃棄物は合計265万t(78%)が再生利用されている。一方、家庭系の一般廃棄物の発生量は1070万tに及ぶが、30万t(3%)しか再生利用されていない。

また平成21年度の食料自給率は、カロリーベースでは40%で後は輸入に頼っている。輸入の場合は大量の石油を使って運ばなければならない。フード・マイレージ (food mileage) は、「食料の ( = food) 輸送距離 ( = mileage) 」という意味であり、食糧の輸送に伴い排出される二酸化炭素が、地球環境に与える負荷に着目したものである。日本は世界的にも抜きんでて多く2位の韓国の3倍 9002億800万(t×km )である。自給できる食料品も安い輸入品でまかなおうとする発想法を変えなければならない。

節電と同じ考えで家庭での無駄をいかに減らしていくのか、スリムな生活スタイルを築いていけるかが重要である。電気や食料品に対する考え方を、いかに自然との共存を視野に入れたものへと転化していけるかそれがこれからの世代の生き残りを保障する道なのではないか。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

館林つつじまつり

5月2日(月)
4月30日に館林つつじまつりに出かけた。桜の次はつつじの季節だ。つつじの名所では「見頃を迎えている」といった案内がHPに掲示されている。朝から出かけるつもりだったので、関東近辺であれば何処でもいいのだが、館林のつつじの古木というのが珍しく見てみたいと思った。館林というと群馬県でかなり遠いイメージだが、路線案内で見てみると、池袋から湘南新宿ラインを使って久喜まで行き、東武伊勢崎線に乗り換えれば、1時間15分位で行ける。

館林つつじまつりは市の観光協会も力を入れていて、丁度連休中が満開になるという事もあって、様々なイベントを用意して観光客を集めようとしている。この期間は臨時バスも出る。

館林つつじまつり: 館林といえば童話「文福茶釜」のタヌキを連想する人も多いと思うが、関東を代表するツツジの名所でもある。ここにツツジが植えられるようになったのは、戦国時代の末期に第7代館林城主だった榊原康政が、側室お辻の方が城沼へ身を投げたことを嘆き悲しみ、その霊を慰めるために彼女にちなんだツツジを城沼の南岸に植えたのがはじまり。その後、次第に増殖して名園になったと語り継がれている。だが、実際に歴代城主もツツジの保護には相当な力を尽くした。

今では約12.6haの広大な園内には、ヤマツツジ、キリシマツツジ、リュウキュウツツジなど150余品種、約1万株が植えられている。とにかく数も多いが、それよりその大きさの方にビックリ。何しろほとんどが5mくらいあって、下をくぐり抜けて観賞できる。樹齢800年を越す古木もあり、花盛りには本当に花の山のように咲き誇る姿は、まさに圧巻である。(花の名所案内)

館林駅に降り立つ。この駅舎が特別なものであることは後で知ったので、駅前広場で駅を見た時には何も感じなかった。ただ駅前のつつじを写しただけだ。つつじが岡公園行きのバスが出るまで15分位あった。歩いても公園まで30分位だというから、館林市街を散策するのもいいだろうと思って歩き始めた。

駅からの道はきれいに整備され、舗道の両側にはつつじが植えられ「花のまち、クイーンズ通り」といった看板がある。駅から10分位行った所に武鷹館の看板があり、連休中公開となっていた。旧館林藩士住宅である。道々こういったものに出会うのも街の散策の楽しみの一つだ。

館林駅:
 現在の館林駅は昭和12年(1937)に改築された。コンクリート造2階建て、寄棟の建物で正面にはセグメンタルペディメントと称する半円形に膨らませた櫛形破風を設え意匠を施し、下部には上部が半円形の開口部にするなど正面性を強調しています。又、曲線や縦長の開口部を採用するなど洋風建築の要素を取り入れ建築当時の駅舎建築の特徴が見られる。館林駅は平成10年に「関東の駅百選」に選定されている。

館林うつじまつり109ed_convert_20110501125153  館林うつじまつり007_convert_20110501124006
 館林駅                           駅からの道・クイーンズ通り

旧館林藩士住宅(武鷹館): この建物は江戸時代後期に建てられた館林藩中級武家屋敷です。元々は"外伴木"と呼ばれる館林城の侍町に建てられた。館林城下に残る数少ない武家屋敷の遺構で当時の建築技術や武士の暮らしの一端を伝える。同一敷地内にある「長屋門」は、近世の武家屋敷の表門の形式の一つで、物置や使用人などの住居も兼ねていた。江戸時代の武家屋敷街の格式や雰囲気を伝える貴重な建造物である。

館林うつじまつり001_convert_20110501123843  館林うつじまつり002ed_convert_20110502071255
 長屋門                            旧藩士住宅

街中を抜け、市役所前の信号を渡ると周辺の様子は全く異なってくる。ここからは館林城址を含んだ林の中に幾つかの公共施設が点在する。文化会館の奥に土橋門があり、また市役所の他に芸術ホール、向井千秋記念子ども科学館、田山花袋記念文学館、第2資料館(モスリン事務所)、田山花袋旧居などがあり、また鶴生田川沿いには桜とこいのぼりが見所となっている。

このような公共設備を見ながら、この一画を抜けると、旧秋元別邸があり、ここはつつじが岡公園の第二公園となっている。しかしここにはつつじはそれほど咲いているわけではなく花菖蒲がメインである。屋敷の前の芝生広場では、露天が出店されていて、地元の名物、鶏弁当や館林釜玉うどんなどの飲食物や、土産物が売られていた。

館林城跡: 創建年代は明らかではないが文明4年(1472)に館林城の記録が有る。天文元年(1532)には、赤井照光が新城を築いて大袋城から移っている。この工事の時、狐が縄張りを教えたとのことから別名を“尾曳城”とも言われた。

城の建物の大半は明治7年(1874)に焼失したが、現在でも本丸、三の丸、稲荷郭、樹下町などの土塁の一部が残されており、三の丸には土橋門が復元されている。土橋門は、城の中心(三の丸)への出入口の一つで、在城当時は、正門の「千貫門」に対し、通用門として使用されたものである。

館林うつじまつり016_convert_20110501124042  館林うつじまつり021_convert_20110501124238
 土橋門                            市役所入口の花壇

旧上毛モスリン事務所: この建物は明治43年(1910)、上毛モスリン株式会社の事務所として館林城の2の丸に建てられた擬洋風建築。木造2階建て、入母屋、瓦葺きで1階玄関屋根と小庇が銅板葺きになっている。外壁は下見板張り、縦長の上げ下げ窓の採用、屋根にはドーマを設えるなど当時の洋風建築の要素を取り入れている一方工法的には和風建築を踏襲していて所謂擬洋風建築の1つと言える。

旧田山家住宅: 旧田山家住宅は江戸時代末期に建てられた武家屋敷で木造平屋建て、寄棟、茅葺、直屋形式で元々は館林城の総廓内の「裏宿六番町」に建てられていた。又、この建物は自然主義文学作家田山花袋が住んでいたことでも知られ明治11年から明治19年の8年間ここで過ごしました。

館林うつじまつり024_convert_20110501124147  館林うつじまつり026_convert_20110501124302
 旧モスリン事務所                      旧田山家住宅

旧秋元家別邸: この建物は明治時代後期に旧館林藩主秋元家別邸として建てられた。木造平屋建て、入母屋、瓦葺き、庭園側がほぼ全面ガラスの引き戸で構成されている。廊下部分が主構造部から張りだし上部が銅板葺きの下屋が下がっている為、若干むくりの附いた瓦葺きの大屋根と対象的であるのと同時に水平線を強調した日本建築らしい品位のある印象を受ける。(群馬県WEB観光案内所・館林市)

館林うつじまつり030_convert_20110501124337  館林うつじまつり032_convert_20110501124403
 旧秋山邸正面                        旧秋山邸庭園側

館林うつじまつり031_convert_20110501124436  館林うつじまつり033_convert_20110501124504
 
館林うつじまつり034_convert_20110501124545  館林うつじまつり037_convert_20110501124613
 旧秋山邸庭のつつじ

旧秋元別邸を出て尾曳橋を渡るとつつじが岡公園の端に出る。そこから西入場券売り場まで、白いハナミズキの並木道を通り向う。西入場券売り場からは新公園が霧島つつじの古木群を中心として始まっている。新公園は芝生広場の右側に土手のように高くなっている。その高台に遊歩道があり、つつじの古木が左右に花を咲かせている。芝生広場から斜面のつつじを見るのもいいが、本命は遊歩道のつつじ群だ。新公園の遊歩道は西入り口から中央広場まで1km位あるようだ。新公園の面積は 5,461m2 と言われている。

新公園のつつじ
館林うつじまつり050_convert_20110502213102

館林うつじまつり055_convert_20110502213134

館林うつじまつり066_convert_20110502213201

館林うつじまつり067_convert_20110502213233

館林うつじまつり072_convert_20110502213308

中央広場は正面入口に面している。ここが正面入場券売り場でメインの出入口になっていて、かなりの人手ごった返していた。駐車場とバス乗り場から来る人が列を作って入場してくる。駐車場から正面入口までに何軒かの店が並んでいる。土産物屋と飲食店だ。今まで観光客がほとんどなかったのかも知れない。ゴールデンウイークで売り出さなければといった意気込みで、店の前に品物を並べ呼び込みが激しく飛びかう。

旧公園は17,414m2で新公園よりかなり広い。中は迷路のようになっていて、なかなか全体を回ることが出来ない。こっちの方には来たことがないと思って行ってもさっき通ったところだったりする。一応ルートが1~8まで設定されているがそのルート通り行けない。それでもぐるぐると回っていると全体の道順が分ってきて無駄なく回れるようになる。

15分間隔位でボランティアの案内が解説付きで一緒に回ってくれる。それを利用すれば道に迷わずにすむ。それを知ったのがすべて見終わって旧公園の入口まで戻ってきてからだったので利用することはしなかった。

旧公園は城沼に面している小高い岡の上にある。行啓記念碑の所に見晴台があってそこからは城沼の全景が見渡せ、渡船乗り場や物産展時コーナーが見える。丘を下れば宇宙つつじ園に行ける。旧公園のつつじを堪能し、中央広場に戻ってくる。

旧公園のつつじ
館林うつじまつり076_convert_20110502213336

館林うつじまつり088_convert_20110502213550

館林うつじまつり084_convert_20110502213515 展望台より城沼方面

館林うつじまつり094_convert_20110502213841

館林うつじまつり104_convert_20110502213908

館林うつじまつり108_convert_20110502213935

館林うつじまつり082_convert_20110502213451 名木シリーズ・滝ツツジ(ヤマツツジ系)
推定樹齢650年、樹高3.8m、枝張り直径7.7m。八重咲きのヤマツツジが二重咲きになった品種。

館林うつじまつり091_convert_20110502213620 名木シリーズ・花山姫(ヤマツツジ系)
 推定樹齢650年で、樹高3.7m、枝張り長径4.6mのヤマツツジ系。花はうす紅色で花の中心が白い。

館林うつじまつり092_convert_20110502213647 名木シリーズ・桃色ヤマツツジ(ヤマツツジ系)
 推定樹齢650年で、樹高4m、枝張り長径6m。花は鮮やかな桃色で斑点は紅紫色。

館林うつじまつり093_convert_20110502213816 名木シリーズ・乙女心(オオヤマツツジ系)
 推定樹齢650年、樹高4m、枝張り直径3.5m。花は鮮紫ピンク色で濃い紫紅色の斑点がある。

正面入口からバス停に向う。帰りはバスで館林駅まで戻るつもりだ。正面入口からバス停に向う道には2時半頃だったが、土産物屋を物色する人もいるが、かなりの人がぞろぞろと公園に向っている。観光バスが3台停まっていた。どういった観光ルートで回っているのだろう。

館林行きのバスは観光バスの裏に隠れていた。バスの種類も路線バスの形ではなく観光バスの形だったので分からなかった。バス停に立っていると、路線バスはこちらですと呼びに来た。バスは満員だった。すぐに出発し10分ほどで館林の駅に着いた。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

プロフィール

yosimine

Author:yosimine
がん治療とは長く細い道を辿ら
なければならない。その先に希
望があると信じながら。

最近の記事
カレンダー
04 | 2011/05 | 06
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
ブログ内検索
最近のコメント
最近のトラックバック
カテゴリー
リンク
月別アーカイブ
RSSフィード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。