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眼科・血液内科の診療

6月29日(水)
検査結果
IgM   4955(6/29)←5526(6/22)←5649(6/15)←4710(6/8)
白血球  1100←3700←2200←1000
好中球  450←3120←1830←650
赤血球  236←246←269←271
ヘモグロビン 8.2←8.6←9.5←9.5
網赤血球   7←9←18←15 
血小板  2.4←3.5←3.3←2.9


なんの法則も必然性もなく、IgMが減少した。それも一週間で一気に600近く減少した。デキサメタゾンを連続4日間服用を先週から止めている。ベルケイドもサリドマイドも量を変えることなく全く今まで通り使用している。薬か体調によって効いたり効かなかったりしているのだろうか。こういった調子だと来週のIgMがどうなっているか全く予想がつかない。まさに運を天に任せるしかないいった心境だ。

驚くべくことはもう一つあった。白血球が一週間で1100まで減少した。好中球は450、外出禁止の数値になっていた。何故こんなことが起こるのだろうか。3700が一週間で1100になってしまった原因は何だろう。デキサメタゾンの服用を止めたこと以外やったことはない。それが影響しているのか、医者も分からないという。IgM下がり、そして白血球も下がった。

血小板も下がっている。これはベルケイドを週1度欠かさずやっている関係上やもむ得ない数値だろう。しかしこれ以上下がったら輸血をする外ない。

結局治療法としては従来通り、サリドマイド100mgを毎日服用することを続けながら、週1回の通院日にベルケイド1.9mg+デキサメタゾン(デキサート33mg)を静注する。血液内科の診療の後、外来治療センターでの点滴を行なった。待ち時間などあり病院を出たのが15時を過ぎていた。どこかに寄ろうと思っていたが、時間の関係と暑さが半端ではなかった。熱中症にならないうちにさっさと家に帰った方が無難だ。

眼科の診療があった。最初に眼圧と視力検査を行う。眼圧は右が14、左が21だった。矯正視力は右は1.2まで部分的に見える。右目の眼底検査をいつもの通り行う。左眼は白内障が進んでいて眼底検査が出来ないそうだ。今は3週間に一度右眼の眼底検査を行い、サイトメガロウイルスなどの異常事態が発生していないかどうかをチェックしている。

ただ3週間あいだが空くので、飛紋症が激しくなったり、見えづらくなったりしたらすぐ連絡してくれれば検査してくれるということだ。左目の眼圧も落ち着いてきたので、寝る前に眼圧降下点眼薬キサラタンを点眼すればいい事になった。ダイヤモックスとアスパラカリウムを毎日服用し、朝と寝る前に5種類の点眼薬を注していた状態から、点眼薬1つになったということは何か身が軽くなった感じだ。
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ジャンル : 日記

ミステリーの愉しみ① 『奇想の森』

6月28日日(火)
61_convert_20110628143012.jpg 図書館に『ミステリーの愉しみ』の1巻から4巻まで並んでいるのが目に入った。本の紹介によると「鮎川哲也と島田荘司。夢の顔合わせによる決定版アンソロジー、ついに実現。絢爛華麗にして、奇々怪々精選黄金時代のミステリー」とある。1巻は「奇想の森」、2巻は「密室遊戯」、3巻は「パズルの王国」、4巻は「都市の迷宮」という表題で、本の内容も題名に関係している。

戦後まもなくの本格推理を中心に活況を呈していた時期、社会派推理が台頭して色々な作品が生み出された昭和30年代、昭和40年代半ばの探偵小説リバイバル・ブームの流れを受けて創刊された「幻影城」から登場した新人と、戦後推理小説界の30年に大きなうねりがあった。

1巻の『奇想の森』は江戸川乱歩、横溝正史、木下宇陀児、坂口安吾など18人の短編で構成されている。時代的は4巻の中で1番古く、大正14年の乱歩の作品から昭和29年の安吾の作品までの間に書かれた作品を選んでいる。

島田荘司氏は1巻の解説「奇想の昏い森」の中で日本のミステリーの精選集を編み、その1巻を担当したそのコンセプトについて次のように語る。
「この作品集におけるキーワードは「奇想」である。そしてこれこそが、ある小説をミステリーと呼ぶに足るものとする1片のクリスタルである。いかしこの水晶片は、天才のみが手に出来る危険な麻薬であったため、普遍性がなかった。しかし平成本格の動きを本物とするには、作者は、再びこの危険物に手を伸ばさなくてはならない。

本格推理では「冒頭におけるミステリアスな謎こそが最重要」「結末の意外性こそ最も重要である」「最後の1行によって、読者に強烈な意外性を与えるのが理想である」という幾つかの視点があるが、こういった主張に筆者は同意している。「奇想の森」であるが、ここには昏い色をした森が見事にヴァラエティに富んだ発想の枝を広げ、葉を接して林立している。

戦後かなりの勢いで奇想は復活するのである。この復興の時代は20年代いっぱい続いている。そしてこの時代をついに終わらせたものは、松本清張の「点と線」であった。いわゆる社会派リアリズムの呪縛が作動するのは、昭和33年代以降という事になる。」(解説「奇想の昏い森」より)

18篇の短編の中に書かれた時代背景は戦後まもなくの世界である。そういった世界の中で繰り広げられる謎解きに、果たして興味を持ちうるものだろうかという思いで読み進めたが、凝縮された硬派の短い文章の中からつむぎ出されるのは、全く飽きさせることのないミステリーの連続だった。

昭和20年代の推理小説から島田荘司氏が厳選して選びぬいたものであるから面白くないわけはないのだが、全く違和感なくむしろ今の推理小説よりしっくりと受け止められることに驚いた。どの作品も短編という限られた時間空間の中で起承転結を完了させるその構成力と筆致は見事だ。

特に主人公や登場人物の心理描写が深い。その心の有り様を探っていくことから事件解決に導いていくといった手法がとられている。例えば以下の文章が小説の中に臆面もなく描写される。そしてそれが全く違和感なく、むしろそれによって主人公の心理がより一層明確になる、そういった手法が、この短編が書かれた昭和10年という時代の流れの中で極めて効果的な役割を果たしているのだ。

「あなたはそれほど死というものが恐ろしいのですか。ああ死とはなんです。そして生とはなんですか。命とは闇から闇へと飛ぶ白羽箭の、一瞬の電撃をうけて、チラと矢羽を光らせたその瞬間のようなものではありませんか。
すべては闇から闇へと流れていくはかない駒の足掻きにしか過ぎません。たとえ10年20年生き延びたところでそれがなんでしょう。この広大無辺な宇宙の闇に比べたら、葉末に結ぶ白露よりもなおはかなく脆いものではありませんか。」(「藪の中」横溝正史)

18篇の短編の作者は全く共通点がある訳でなく、極めて個性的で独自の視点と感覚の相違が際立って感じられる。その全くの感性的、理性的、文体的相違が短編小説を読みながら様々な世界を渡り歩いている感覚を得ることが出来る。

現代のような科学捜査万能の時代ではない昭和初期や20年代の謎解きは警察や探偵が物証を丹念に採取し、そこに見られる問題点から事件解決の糸口を見出していく。同時に登場人物からの事情聴取、日常会話などから、その人の心理分析を通し犯人像に迫ってく。こういった一見回りくどい捜査が、逆に推理小説の解決への道を面白くしてくれているのも事実である。

そういった意味で、昭和初期から戦争で中断され、昭和20年代に書かれた推理小説に興味が持てるかどうかといったことは杞憂でしかなかった。それよりも登場する作者の個性の強さ、視点の独自性に驚くばかりであった。次々と異質の世界に訪問している感じだった。

「奇想の森」の18篇の選者は島田荘司氏であるが「読者は1年かけて厳選したこれだけの粒ぞろいをいきなり読めるのである。日本に確実に存在した本格の黄金時代の息吹に、ひととき別世界で遊んでいただけることうけあいだ」と語る。多様な推理小説の世界を『奇想の森』を読みながらしばし逍遥してみよう。

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鎌倉・アジサイ散歩-2

6月23日(木)
鎌倉の大仏を後にして、長谷通りを駅の方に戻る。あいかわらず通りには往く人戻る人の波が続いていてごったがえしている。駅に向う途中に「御霊神社方面」の看板が出ている。また極楽寺方面近道とも表示されていた。

うねうねと細い道をしばらく歩いていくと、鳥居が見える。そこが御霊神社である。本殿の裏にアジサイ園があると書かれていた。回ってみると確かに本殿に沿った裏庭にはアジサイの木々が青々と茂っていたが、残念ながら花付きはあまりよくなかった。

御霊神社を後にして、踏切を渡り極楽寺方面に向かおうと思った。何故か踏切の周りに何人かがカメラや携帯電話をもって佇んでいる。この踏切場所が江ノ電とアジサイが一緒に写っている観光案内にも紹介されている場所だと知った。電車とアジサイのコラボレーションが見事にマッチする所だということだ。踏切には踏切番が立っていた。たまたまいるのか一日中写真を撮るため危険な事をしないように見張るためにいるのか分からないが、観光地の安全管理もしなくてはならないようだ。

踏切が警報音を発する。遮断機が下りる。いよいよ江ノ電が来る。電車を撮影したことはない。大体シャターを押そうとするうちに列車は通り過ぎていってしまうのが常だった。江ノ電が極楽寺駅方面からやってくる。ともかくも何回かシャッターを押す。写っているかどうかは運次第というわけだ。運よく見事に列車はアジサイの中に写っていた。鉄道ファンにうらやましがられそうだ。

御霊神社
権五郎(ごんごろう)神社ともいわれる。鎌倉幕府成立以前からあったといわれ、祀られているのは数々の武勇伝が残る権五郎景正。本殿には景正夫妻と梶原景時の木像が安置されている。

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 御霊神社社殿                        石上神社

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 本殿裏のアジサイ散策路

鎌倉110_convert_20110623205417 アジサイの中を走る江ノ電

踏切を渡ってしばらく行くと虚空蔵堂がある。幟が急階段に並んでいてそれを登ると本堂がある。階段の下に「星の井」と書かれた井戸があった。これは星月夜の井ともいわれる。昔この辺りは樹木が生い茂り、日中であっても薄暗かったので、井戸をのぞくと星が輝いていたという伝説がその名の由来だそうだ。

虚空蔵堂 (真言宗 明鏡山円満院星井寺)
正しくは明鏡山星井寺。本尊は知恵と福を与え、全ての人々の願いを叶えるといわれる虚空菩薩。奈良時代、行基がこの地で虚空菩薩像を彫って祀ったと伝えられる。

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                                   虚空蔵堂(虚空菩薩安置)

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 舟守地蔵                            星の井

今回のアジサイ見物のメインの一箇所成就院に到着した。やはりすごい人混みだった。長谷寺に勝るとも劣らない人の列。ここは坂になっていて登っていくにしたがって由比ガ浜が眼下に広がっていく。参道の左右のアジサイの花を愛でながら徐々に広がっていく風景を楽しむことが出来る。

実際には人混みで、アジサイ、人、風景、由比ガ浜などがごちゃ混ぜになって眼前に展開するので、本来どのような風景をこの参道が作り出しているのかをゆっくり吟味し味わう余裕などは全くなかった。時々後ろを振り返りながら、由比ガ浜が徐々にその全景を現してくる様子を見る以外なかった。

成就院のアジサイは坂の何10mの間に全て凝縮されている。山門をくぐり、境内に入る。境内はそれ程広くなく、本堂といっても趣のある古い建物ではない。境内も人、人、人でゆっくりしている気分ではないので成就院を早々と後にして、次の目的地極楽寺に向った。

成就院 (真言宗 普明山法立寺成就院)
弘法大師が護摩供養をした地に、承久元年(1219)北条泰時が寺を再建した。本尊は不動明王。本堂は公開されていないが、本尊のほか、弘法大師の像や千手観音、大日如来、地蔵菩薩なども祀られている。

成就院参道
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成就院の境内
成就院の境内を回るにも列を作っていく外ない。通路が狭いので一人しか歩けないから順番にまわる。境内の中ほどに不動明王の像が立っている。何とこの無造作に立っている不動明王が成就院の本尊だという。大体本尊などというと、1年1度の御開帳とか何年に一度見られるなどありがたがられる様な趣向をこらして公開する。しかしここの不動明王は何と開けっ広げなのだろう。いつでも見られるし、手で触れる事も出来る。親しみ易く身近な存在だ。

鎌倉1_convert_20110623235551 本尊・不動明王立像














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 山門                              本堂

極楽寺駅の前にある極楽寺の茅葺の山門を入っていく。何の変哲もないただの寺院だ。ただ極楽寺というネーミングには創建者の思いがこもっていたのだろう。山門から桜並木の参道を進んだ先には本堂、大師堂、転法輪殿(宝物館)などが建つ。色々由緒を見なければ全く興味を引かないような建物と境内の佇まいだ。ただ茶屋が出ていて赤毛氈を敷いた縁台で抹茶などを提供していた。

極楽寺 (真言律宗 霊鷲山感応院極楽律寺)
の寺。鎌倉時代、慈善事業を数多く行い、人びとの尊敬を集めていた忍性と執権北条義時の子・重時が協力して正元元年(1259)に創建したといわれる。
子供の長時、業時が金堂、講堂、塔などの伽藍、49支院を持つ大寺院を完成させた。現在は本堂となっている吉祥院のみが残る。国の重要文化財である忍性の五輪塔や清涼寺式釈迦如来像(秘仏)など寺宝は数多い。

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 山門                              本堂

極楽寺から5分ばかり住宅街の中に入り込んで探してみると月影地蔵堂があった。回りは住宅地、その中にぽっかりと空き地があり、その奥に古びたお堂が建っている。ただお堂とその中に安置されている地蔵尊があるというだけのものだが、やはり維持保存には地元の人の努力はかなりあるだろうと思われる。

月影地蔵堂

もとは月影ガ谷の阿仏尼邸にあった。現在は極楽寺の谷戸に佇む。本尊は何回かの火事で焼けてしまい、現在の木造地蔵菩薩立像は江戸時代のもの。

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月影地蔵堂を後にして、極楽寺駅から江ノ電に乗る。帰りは鎌倉から湘南新宿ラインで戻り1時間少しで池袋まで到着した。列車もスムーズに走れば鎌倉はそう遠い距離にある訳ではない。
(参考資料:鎌倉市観光協会)

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鎌倉・アジサイ散歩-1

6月23日(木)
一昨日21日、梅雨の晴れ間がやってきた。この機会を逃すといつ行けるか分からない。そのうちアジサイの見頃も終ってしまう。MOTOGENさんの鎌倉・アジサイ・ブログに誘われてふらふらと鎌倉にまで足を伸ばしてしまった。時間があっていつでも行けるようでなかなかそうもいかない。気温が30度を超えるなどという天気予報を見るとそれだけでめげてしまう。強い雨が心配されるなどときくとそれで出るのに躊躇してしまう。

さらに朝起きた時の体調にもよる。疲れているような気分の日と、少しは気力がみなぎっている日がある。すかさずそういった日に出かけるほかない。そういった条件を足していくといつでも出かけられるわけではないが、なるべく気を張って機会を作って出かけることが、病気と対抗する一つの手段だと思っている。

今回は、鎌倉を素通りして江ノ電で長谷駅まで直行してその周辺を巡るコースを回る事にした。鎌倉の古都にしめやかに咲くアジサイといった何とも風情のある世界に浸ってみたいものだ。

長谷、極楽寺周辺・大仏様と文学の香
長谷といえば、鎌倉のシンボルともいえる大仏様の参拝に、誰でも一度は訪れるところ。江ノ電長谷駅から土産物屋が並ぶ大通りをまっすぐ行くと、右手の高徳院に大仏様が鎮座している。手前には長谷寺、老舗が軒を連ねる由比ガ浜通りがあり、その町並みを名物のレトロバスがゆっくりと通り過ぎる。長谷から江ノ電に沿って極楽寺切通しを越えると、うってかわって辺りは静寂に包まれる。茅葺きの極楽寺山門の前に、ぽつんと江ノ電の駅舎が佇み、電車が民家の軒先をかすめて走り抜ける光景が見られる。(鎌倉市観光協会)

まず最初でつまずいた。池袋で湘南新宿ラインが京浜東北線の人身事故の影響で停まっていた。いつ動くか分からない。急ぐ人は品川まで行って横須賀線に乗り換えてくださいと放送している。迷う所だ。動くのを待つか。別の列車を利用するか。結局40分待って動き始めた。

鎌倉に着いて、江ノ電の鎌倉駅ホームの混み様をみて平日などは全く関係ないという事を知った。ホームのラッシュ並みの人混みは皆何処に行くのだろう。答えは簡単だ。今見頃の長谷寺と成就院のアジサイを見に行くに決まっている。恐らく長谷駅で降りるだろう。案の上乗客の大半が降りた。駅から長谷寺に向う狭い舗道は、追い越し禁止の列が延々と続く。それがそのまま長谷寺の中に吸い込まれていく。

さらに人はどんどん増えてくる。観光バスの乗客だ。また修学旅行や遠足の中学生の団体が何グループも10人位まとまって行動を共にして、動き回っている。そういったことで長谷寺の中は人の頭の数の方が、アジサイの花より多い位の人混みだった。「アジサイの径」などしゃれた名前の狭い石段も人がいなければ、寺院の伽藍と由比ガ浜を見ながらアジサイの鮮やかな色彩を堪能できるのだろう。

まずこの径の入口に入るのに5分ばかり並んで待たなければならない。さらに石段の列を作って押すな押すなではないが、次から次ぎへと人が来るのでゆっくりと写真を撮っている暇もない。5分ばかり登っていくと列も乱れがちになり横道もあり少しは余裕も出てきたのでアジサイを眺めたり、写真を撮ったりする余裕も出てきた。しかしこの人混みでは風情も何もあったものではない。

長谷寺 (浄土宗鎌倉海光山慈照院)

観音山の裾野に広がる下境内と、その中腹に切り開かれた上境内の二つに境内地が分かれており、入山口でもある下境内は、妙智池と放生池の2つの池が配され、その周囲を散策できる回遊式庭園となっている。
上の境内には、本尊である十一面観音菩薩像(長谷観音)が安置される観音堂をはじめ、主要な諸堂宇が建ち並ぶほか、鎌倉の海と街並みが一望できる「見晴台」と、傾斜地を利用した「眺望散策路」があり、周辺には40種類以上約2500株のアジサイが群生しており、梅雨の季節には眺望はもとより「アジサイの径(こみち)」となっている。鎌倉でも有数の景勝地となっている。

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 山門                             弁天窟(弁天堂)入口

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 妙智池                            放生池

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 地蔵堂                             厄除阿弥陀如来

鎌倉068_convert_20110623110436 観音堂(長谷観音・十一面観世音菩薩像安置)

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 境内の見晴台より由比ガ浜方面             輪蔵(経典を納める経庫)

「アジサイの径(こみち)」
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鎌倉049_convert_20110623162711 アジサイの径から見た由比ガ浜

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アジサイ
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長谷寺の雑踏を抜け、長谷通りの20mばかり行くと左に光則寺の案内表示がある。光則寺方面に向う観光客はあまりいない。ましてや中学生は全くいない。中学生の目当ては鎌倉の大仏だ。なだらかな坂道を3,4分上って行くと光則寺の赤い山門が目に入る。山門をくぐり、庭を巡って裏山の土牢跡に行ってみる。この山道の左右にアジサイはあるがまだ花を咲かせてはいなかった。境内には人が少なくほっと一息つける感じだった。

光則寺 (日蓮宗行時山光則寺)
開基は北条時頼の家臣、宿屋光則(やどやみつのり)。開山日朗上人。日蓮が佐渡に流罪になっている間、光則は弟子の日朗を土牢に閉じ込め、監視することになった。しかし、ついには自身も日蓮に帰依し、屋敷を寺に改築するまでになったといわれる。境内には日朗が幽閉されたという土牢跡も残っている。

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鎌倉の大仏。昔小学校の遠足で行ったことがあるような気がするが確かな記憶はない。ともかく誰かといったことがある記憶はある。鎌倉の大仏を見るのは初めてではない。見ていて何故か懐かしい気がする。大仏の風景をみると集合写真で撮った気がする。この大仏の前に並んで遠足でも修学旅行でも必ず写真を撮る事になっている。中学生のグループがかなりいたが、建物に覆われているわけではないので広々としていて境内は落ち着いた雰囲気だった。

大仏の裏には観月堂があり観音菩薩立像が祀られている。その横に与謝野晶子の歌碑が建てられ、中学生の何人かがその歌碑を写していた。

不動の大仏は何百年の時をただただ歴史を凝視してきたのだろう。その泰然自若とした静けさが、この境内の雑踏を感じさせない何ものかをかもしだしているのだろうか。大仏の顔を見ながらそう思わざるをえなかった。

高徳院 (浄土宗大異山高徳院清浄泉寺)
大仏殿国宝阿弥陀如来坐像(鎌倉大仏)を本尊とする浄土宗の寺。暦仁元年(1238)に着工され、6年後に完成した。しかし、最初の大仏は木造であったため台風によって崩れてしまい、その後建長4年(1252)から青銅の大仏が鋳造された。大仏は青銅製で、台座を含め高さ13.35メートル、顔の長さ2.35メートル、目の長さ1メートル、耳の長さ1.9メートル、重量約121トン。境内には女流歌人与謝野晶子が詠んだ「鎌倉や御仏(みほとけ)なれど釈迦牟尼(しゃかむに)は美男におわす夏木立かな」の歌碑が立つ。

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 高徳院山門                         観月堂

鎌倉086_convert_20110623171449 鎌倉の大仏

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 与謝野晶子歌碑

鎌倉の大仏の傍らで顔を眺めながら、しばしの休憩をとって長谷駅の方に戻り、御霊神社から極楽寺方面に向かった。(つづく)
(参考資料:鎌倉市観光協会)

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血液内科の診療

6月22日(水)
検査結果
IgM   5526(6/22)←5649(6/15)←4710(6/8)←4984(6/1) 
白血球  3700←2200←1000←1300
好中球  3120←1830←650←500 
赤血球  246←269←271←284
ヘモグロビン 8.6←9.5←9.5←9.9
網赤血球   9←18←15←19 
血小板  3.5←3.3←2.9←4.5

IgMが5520と若干減少した。そこで4日間連続使用の高容量デキサメタゾンの服用を中止する事にした。4日間服用し、4日間休薬するといった繰り返しは体にかなりの負担になる。高揚と沈滞、興奮と弛緩、覚醒と倦怠を薬の作用によって繰り返すのだ。デキサメタゾンを服用した最初の日はほとんど眠れない。3,4時間で眼が覚めてしまう。だからといって次の日ぐたっとしているわけではなくいつもより元気で動けるのだ。

2日目はどうせ寝られないと思って3時頃まで起きていてから寝ても6時か7時頃には眼が醒めてしまう。3日目は疲れてくるのだろう、5,6時間は寝られる。4日目はほぼ元に戻る。今まで4クールやってこの事を4回繰り返した。体にいい訳はない。少しはIgM減少に役に立ったのかもしれないが、ここら辺で少し休みたいものだと思っていた。次回からは、ベルケイドの静脈注射の時にデキサメタゾン(デキサート33mg)の点滴を週1回一緒にやるだけになった。

白血球2200から何と3700になった。さらに好中球が3120という数値だ。デキサメタゾンの影響だろうと医者はいうがはっきりは分からない。確かにVAD療法をやっていた時に、デキサメタゾンの大量投与をやっていて、その間白血球の減少は全く見られなかった。感染の恐れが減ることは何よりも好ましいことだ。

IgMの数値は明確に上昇傾向にある。通院で行なえる方法は、ますます狭まってきている。どちらにしても入院での治療に入らざるをえないのはそんな遠い時期でない。入院した場合2月に入院した時に行ないかなり効果的だったDCEP療法を行う事になるだろう。それが前提ではあるが他の方法もあげてみようと思って下記に書き出してみた。

確かに以前やって効果的だった方法を再びやるという方法もある。VAD療法は効果的かもしれない。しかしこの方法はかなり時間がかかる。1月4日に9470あったIgMが2980まで下がったのが4月5日だ。入退院を繰り返し4ケ月かかった。その点DCEP療法は30日かからずに、8400(2/2)から2670(2/28)まで下げた。短期間で効果を発揮する方法を選ぶ他ない。

入院して行なったDCEP療法(デキサメタゾン+シクロホスファミド+エドポシド+シスプラチン)はかなり強力な療法だと聞いていたが、フランスの骨髄腫研究グループは寛解導入療法としてVAD4コース+DCEP2コースを行なった。全奏効割合は67%であった。寛解導入療法として使われている療法だと知ってそれ程のことはなかったのだと今更ながら思った。強い骨髄抑制はあったものの、感染症による発熱さえなければそれ程のダメージを体に与えない治療法だったと思う。

ラニムスンチンを使用した併用療法。今まで全く使用したことがない。
MMCP(ラニムスチン+メルファラン+シクロホスファミド+プレドニン)
MCNU-VMP(ラニムスチン+ビンデシン+メルファラン+プレドニン)
MCEC(ラニムスチン+カルボプラチン+エトポシド+シクロホスファミド)
MEAM(ラニムスチン+エトポシド+シタラビン+メルファラン)
ROAD(ラニムスチン+ビンクリスチン+メルファラン+デキサメタゾン)
アルキル化剤をダブルで使う事による強い骨髄抑制の問題があるので、使用出来るかどうか難しい面はある。

ボルテゾミブとドキソルビシン
を併用した有効な療法
ボルテゾミブ+ドキソルビシン(DOX)+デキサメタゾン(DEX)
ボルテゾミブ+ドキソルビシン+サリドマイド
ボルテゾミブ+リポゾーマル・ドキソルビシン(LD)+サリドマイド
ボルテゾミブ+ドキソルビシン+サリドマイド+デキサメタゾン

骨髄腫のサルベージ療法の一つとしてDT-PACE療法(デキサメタゾン+サリドマイドに加え、シスプラチン+ドキソルビシン+シクロホスファミド+エドポシド)があげられている。DCEPにサリドマイドとドキソルビシンが加わったものだ。

Arkansas Canser Research CenterではVDT-PACE療法を(ボルテゾミブ+デキサメタゾン+サリドマイド+に加え、シスプラチン+ドキソルビシン+シクロホスファミド+エドポシド)を寛解導入療法として行い、高いCR率を得、SCTまで早期に移行できた。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

つばさフォーラム 「白血病―より良い治療とより良い治癒」

6月19日(日)

つばさフーラム004_convert_20110620013024  つばさフーラム011ed_convert_20110620013105
 東京慈恵会医科大学、中央講堂は2階       大学周辺ビル(愛宕グリ-ンヒルズ、フォレストタワー)

つばさ特集フォーラム 特集・白血病―より良い治療とより良い治癒

会 場: 東京慈恵会医科大学 中央講堂
企画・総合司会: NPO法人血液情報広場・つばさ 橋本明子

一、血液と白血病について知ろう、造血の仕組みと白血病の病態
 -造血の仕組み、白血病とは何か(病態)、標準治療、エビデンス、臨床試験について-
 (東京慈恵会医科大学附属第三病院 薄井 紀子)

二、白血病の治療と〈その後〉について学び、考えよう。
1)急性白血病の治療 ・ 化学療法、造血幹細胞移植の実際とその選択
 -化学療法と移植の治療法の実際と治療成績、治療選択における考え方-
 (杏林大学病院 高山 信之)
2)小児白血病治療における晩期障害軽減に向けて
a)小児急性リンパ性白血病の新統一プロトコールにおける予防的頭蓋照射の全廃について
 (日本小児白血病リンパ腫研究グループ・急性リンパ性白血病委員会委員長・中通総合病院 渡辺 新)
b)小児白血病治療における認知発達への影響とその対処法
 (国立成育医療センター・臨床研究センター 船木 聡美)

三、闘病生活での様々な支援
1)移植中、通院化学療法中の感染症対策ほか、闘病へのアドバイス
 (移植看護ネットワーク・国立がん研究センター中央病院 荒木 光子)
2)より良い生活とより良い治療のために 早期からの緩和ケア
 (国立がん研究センター中央病院 緩和医療科・精神腫瘍科 的場 元弘)

より良い闘病のために・・・何でも訊こう  講師全員・会場全体とのQ&A

セミナーは白血病について病態から治療まで詳しい話が展開された。その中で特に印象に残った話3点を要約して報告記事としていきたい。

小児白血病患者へのアフターケア

子どもの治療が大人の治療と違うのは、子どもの成長過程で化学療法と放射線療法を行うことです。そのため治療後に出てくる影響がある訳です。今回は学校生活での重要な認識機能に終点を当て、影響の仕方とその対処法についてお伝えします。
例:つばさ君
4歳で急性リンパ白血病を発症
5歳で退院、退院後経過観察と維持療法を続ける。
6歳小学校入学

8歳になって母親から学校でのつばさ君の様子について報告があった。「落ち着きがない。算数が難しくなっている。のんびりしている。計画が立てられない。忘れ物が多い」ということだった。国立成育医療センター臨床研究センターのメンバーはその報告から、つばさ君の性格の分析を試みた。

彼の場合、注意力、ワーキングメモリー、処理速度、組織化の能力に問題がある。その能力に応じた環境調製をする必要がある。これ以降年4回、臨床研究センターメンバー、担任教師、母親、本人が集まってどのように対処していったらいいのかの相談会を開いていった。それはIQ的能力を伸ばす教育支援である。

具体的には「周りの音が気になって落ち着きがないのなら、先生の前に席替えをしてもらう。算数のやり方を一度に解こうと思わないで順番に解いていく。周りの人に分からない事を聞く。のんびりしているならひとより早く始める。休み時間も5分前に戻ってきて次の授業の準備をする。計画は家族と一緒に年間カレンダーをつけてそれを確認しながら行動させる。忘れ物防止には無駄でも2つ買って一つは家にもう一つは学校に置く」などのアドバイスをし、実行していった。その結果つばさ君は希望の高校に入り、大学入学し、今は地方公務員になっている。

通常退院後何年も経っているので、子どもの様子の変化を白血病治療による認識発達への影響と考える親は少ない。そのまま放置されることが多いだろう。その事によってIQの低下を招いてしまうこともある。親のみならず、臨床研究センターメンバーも注意深く小児白血病患者のその後を見守りアフターケアを行なっていきたい。

感染症対策
移植看護ネットワークを立ち上げた国立がん研究センターの看護師長荒木さんからの話。骨髄移植の治療には生活の管理が大きく関わり看護師の存在が重要である。移植患者に対する感染症対策は2000年頃から変わり始めていった。厳しすぎる感染症対策は患者のQOLを著しく低下させる。
・感染ついて効率的でなかった事項
1、患者・手の消毒
2、医療者・手の消毒
3、病棟の清掃、清潔の徹底化
4、感染予防ケア

・効率化できた事項(かっての無菌室の管理)
1、部屋や衣類の消毒
2、食事の滅菌化(レトルト的で非常にまずい)
3、全て消毒済みの物しか部屋に持ち込むことは出来ない
4、看護師とは部屋が仕切られていて入口の一角で患者とはビニールで仕切られた所で話す
5、医者も防菌マスクをして診察する
6、家族との面会も含め面会は全てガラス越しに電話でする事になる
7、検査のためにレントゲンやCT室に行く時は、外界に触れないように死体袋に詰められている感じで運ばれていく

こういった状態を徐々に変え、無菌室に看護師は普通に入ってくるし、家族との面会も部屋の中で出来るようにした。差し入れのものも特に滅菌消毒などしなくなった。食事も生物は禁止だが外の病棟の食事と同じだ。風呂に入りたい時は廊下にある風呂場でいつでも入れるようになった。廊下にはスポーツ器具が置かれ自由に使用することができる。部屋に中で全く動かないとかえって肺炎などになりやすい。閉所恐怖症になりかねないほど隔離密閉された部屋の中に拘禁された状態で暮らす事から患者を解放した。

感染は感染予防ケアで防ぐ
1、口腔の細菌を増やさない。痛痛コントロール
局所麻酔剤のうがい薬を利用して、通常の食事が出来るようにする。
2、皮膚GVHD、感染を起こさないようにする、疼痛コントロール
皮膚の清浄、清潔、温潤環境を作る。痛み止めの適正な投与
3、陰部、肛門部の清潔化に努める。
4、退院後の感染対策、リハビリテーション指導
免疫抑制剤やステロイドの影響で免疫力が低下し、真菌、細菌、ウイルスの進入を受けやすい。体の抵抗力が下がっている意識を絶えず持ちながらも、普通の生活をすることが重要である。

緩和ケア
辛い治療をじょうずに乗り越えるために、早期からの緩和ケアを。
がんを宣告され一方で治療が開始される。と同時に一方で痛みのコントロールと緩和ケアも始まる。
緩和ケアチームは医者、看護師、精神科医(心療内科)、臨床心理士、ソーシャルワーカー(社会福祉士)などで構成されている。
それは患者のケアの多様性によるものだ。
体の痛み、脱毛、スピリチュアルペイン、社会的苦痛、不眠など心理的問題を抱えている。体の痛みに関しては、モルヒネなどについての麻薬的誤解が払拭されていないので説明が必要だ。痛みの除去は患者の生活にとって最大の関心時であるはずだ。

緩和ケアは治療目的ではない。治療は大切だが、苦痛のない生活を維持することも同じように大切だ。苦痛が少ない生活をしやすいようにサポートするのが目的だ。

日本人が終末期に大切にしたいと考えていることについて、2000名程の患者からアンケートを取った所次のような回答があった。緩和ケアを行うにあたって示唆を与えてくれるものだ。
苦痛がない
医者や看護師を信頼できる
望んだ場所で生活したい
希望や楽しみがある
他人の負担にならない
家族と友人と良い関係でいたい
自立している
落ち着いた環境で過ごしたい
人として大切にされたい
人生を全うしたと感じたい

帰り御成門駅で都営三田線に乗ろうと思ってふと見ると芝公園の表示があった。すぐ目の前が芝公園の入口だった。芝公園の木の間から東京タワーが垣間見られる。スカイツリーの人気に押されて入るが、我々の世代にとって東京タワーは独特の感傷を抱かせる。

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テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

水元公園・花菖蒲

6月16日(木)
水元公園
都内で唯一、水郷の景観を持つ公園。この池は、江戸の町を洪水から守るために作られた遊水地で、平常時は水田を潤す水の源として使われていた。それで水元の名がある。また、古くは「釣仙郷」の名でも知られ、今でもこの水辺で釣糸をたれる人が多い。東京23区中でも最大規模の面積の水郷公園でもあるが、サクラにスイレン、ポプラ並木にメタセコイアの森など、水と陸の両方にさまざまな植物が見られるが、一番の見どころは、やはり都内一の規模を誇るハナショウブ。6月中旬の満開時、園内12ヵ所の菖蒲田に約100種、約20万本の花が咲き揃う様は、初夏の水辺の景観を魅せてくれる。(花の名所案内)

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花菖蒲の咲いている時期は短い。時を捉えて行かないと終ってしまう。都内一と言われる水元公園の花菖蒲は見る価値がありそうだ。1日おき位に雨が降ったりしている。雨が降っていない間に出かける外ない。金町の駅の改札口の脇にパンフレット・スタンドがあり、そこに「かつしか水元マップ」というチラシが置いてあって公園の案内地図や見どころが紹介されている。水元周辺観光、水元散策コース例なども記載されている。大体観光地の最寄り駅には観光案内のパンフレットが置いてあるので、よくそれを利用している。

水元公園004_convert_20110617100546金町駅の前から水元公園まではバスで15分位だが、駅からは年寄りの団体が帽子とリックサックというお揃いの出で立ちで、ぞろぞろと水元公園に向って歩き始めている。歩いても30分ちょっとだ。元気な年寄りを横目で見ながらバスに乗りこんで水元公園のバス停で下車する。

バス停から公園までは掘りになっていて、周りは遊歩道でかなりの人が釣り糸をたらしていた。ふと遊歩道の柵を見ると鳥が止まっている。鳥のオブジェだと思ったが、よく見ると口ばしを動かしている。こんなに近くに寄っても動こうとしない。物怖じしない鳥だ。

堀が狭まり、石庭広場といったしゃれた公園があって、ベンチに腰掛けて水の流れをじっと見つめ時の流れるまま過ごすのもいいだろう。その公園の横に香取神社がある。鳥居には茅の輪がつけられ決まった方法でくぐる。この輪を左回り、右回り、左回りの順での字を描くように3回くぐり抜けて参拝する。何人かの人がこの方法にのっとって茅の輪をくぐっていた。

香取神社
下小合村(江戸時代)の鎮守。6月には茅の輪くぐり神事が行なわれる。区内随一のしだれ桜も有名。

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 香取神社茅の輪                       拝殿

はなしょうぶ園の会場は平日だというのにかなりの人出だった。60~70代の人が大部分だ。近所の老人ホームからだろう、車椅子で何人もの人が花菖蒲の見学に来ていた。晴れた日にすかさず来る外ない。写真教室の先生が生徒に指導している。一眼レフカメラでいかにいい写真を撮るか、一度は習ってみたいものだ。茶屋があったり、イベント用舞台が設置され時間によって催し物が行われるのだろう。

花菖蒲は色彩的には白から紫までの色の中で展開する。日本的な地味な色ではあるが、それが6月の梅雨時に咲き、雨に濡れながらも、独自の凛としたイメージを与える。花菖蒲の白から紫のグラデーションは限りない広がりを感じさせる。はなしょうぶ園の中に睡蓮池がある。睡蓮は時間によって花を咲かせるとは知らなかった。菖蒲の中にある睡蓮は可憐でもの静かな感じを与える。

はなしょうぶ園

6月上旬から下旬にかけて、都内最大規模の約1万4000株のしょうぶが咲き乱れる。

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睡蓮池

花しょうぶ園の隣りに広がる池。7月~10月ごろまで白くかわいらしい睡蓮が見られる。13時から15時頃に花を咲かせる。

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はなしょうぶ園を見てまわり、水元大橋を渡ると、しょうぶ園の雑踏から全く別の世界に入ったように静かな平日の公園の姿に出会う。右側に川の流れのような遊水池があり、その向こうにみさと公園の緑の芝生と木々が見える。この池は小合溜(釣仙郷)という徳川吉宗の時代の治水事業の名残の溜池で、現在では釣り人で賑わってる。

公園内の緑に覆われた遊歩道を散策しながら、中央の噴水広場を突っ切り、メタセコイヤの森とポプラ並木を見ようと公園の中に歩みを進める。公園管理事務所の前から、大陶器市が行なわれていてテントが何張りも並んで店を出している。何処から来たか、かなりの人が陶器市に群がっている。陶器市の隣では物産販売が行なわれている。

さらにその隣は飲食コーナーとなっている。地酒の銘酒も置いてある。八丈島の地酒も置いてあり、その場で飲む事もできたが、昼間から焼酎を飲む気分ではなかった。はなしょうぶ園からかなり離れていて陶器市までは来ても物産販売や飲食しに来る人はほとんどいない。12時を過ぎていたが飲食コーナーで食事をいている人は一人もいなかった。公園の管理事務所もう少し客の集まりそうないい場所を提供してあげればいいと思った。

飲食コーナーが途切れた所からメタセコイアの森が広がっている。メタセコイアは中生代白亜紀以降、とくに新生代第三紀の時代には北半球各地に広く分布していた。日本でも第四紀前半まで生存していた。現生種は「生きている化石」(遺存種)の例として有名となった。これだけの植栽に成功したということの中にはかなりの労力と管理が必要だったろう。

メタセコイアの森を散策し、ポプラ並木を通って公園の奥に進んで行く。ポプラの木に貼ってある表示に「西洋箱柳」と書かれていた。初めて聞く名前だ。何故箱柳というかというと幹、枝の材で「箱」を作ることからだそうだ。命名が面白い。ポプラ並木が終わり、冒険広場とバーベキュー広場の間の道を抜け公園を後にした。

メタセコイヤの森
生きている化石と呼ばれているメタセコイヤ約1,800本が生い茂る都内最大級の森。高さ約20mのメタセコイヤの巨木の森は、都会の喧噪を忘れさせる。秋は森全体がオレンジ色に染まる。

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ポプラ並木
高さ20mのポプラが約1.2km続く並木道。春の新緑、夏の濃い緑、秋の黄色に染まる紅葉、どの季節も歩くだけで気分爽快。

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水元散策コースの中に、熊野神社と日枝神社が記載されていたので、水元公園のバス停に向う途中にあったので寄ってみた。熊野神社の鳥居の横のタブノキは珍しい形をしている。日枝神社の山王鳥居というのはどういうものかと思って行って見た。赤坂の日枝神社の特徴的な鳥居と同じ形のものが正面に立っていた。水元の日枝神社も赤坂の日枝神社と何らかの関係があるのではないかとは思う。

熊野神社
旧水元小合新田の鎮守。室町時代は「小鮎(こあゆ)」と言っていた。戦国時代には「小鮎」が転じて「小合」になっている。熊野公園に隣接しており、境内社に富士浅間社がある。区指定天然記念物のタブノキがある。

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 熊野神社拝殿                        タブノキ

日枝神社
旧上小合村の鎮守。数少ない山王鳥居が特徴的だ。

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 日枝神社境内                        拝殿

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

血液内科の診療

6月15日(水)
検査結果
IgM   5649(6/15)←4710(6/8)←4984(6/1)←4893(5/25) 
白血球  2200←1000←1300←2300
好中球  1830←650←500←700 
赤血球  269←271←284←291 
ヘモグロビン 9.5←9.5←9.9←10.1
網赤血球   18←15←19←14 
血小板  3.3←2.9←4.5←5.4
IgG    122(6/15)←182(5/11)←465(3/10)


毎週、毎週気の重い血液検査の結果を聞かなければならない。せめて1月なり2月に一回位なら、ぐっと受け止めようという気もするが、毎週のことなのでもう慣れっこになって、そのたびに喜んだり、悲嘆に暮れたりしている感情は段々と少なくなって来ているような気がする。下がれば安心するが、上昇した場合次の方法を考えなければならないという重い課題がかなり精神的には負担になる。どちらにしても今のまま試行錯誤しながらやっていく外ない。

IgMが5649と大幅に上昇した。ベルケイド+サリドマイド+デキサメタゾンと全く同じ薬を使っていながら、ある時は効果を現し、ある時は全く効かない。薬の相乗作用で効果を発揮したり、減退したり人間の体のメカニズムは複雑怪奇だ。

白血球の数値も不思議だ。特に何かをしたわけではないし、サリドマイドは変化なく服用し続けている。それなのに一週間で突然2200になった。今まで白血球中の好中球の割合は30%位の時もあったようにかなり低かったが、今回は2200中、1830と80%を超えている。650から1830に何故増えたのか不明だ。

来週の水曜日もまだIgMの上昇が続くようだと治療法を抜本的に変えざるを得ないだろう。ただ新たな方針といってもいいアイデアがあるわけではない。土曜日からデキサメタゾン40mgを4日間服用する。大量のステロイドの継続使用は、体調的に問題はあるが、やむを得ない。

5月18日からPlasma-Lyの記載がなくなった。Otherの数値も18日まで0.5と続いたがそれ以降数値が出ていない。形質細胞が抹消血に出現する白血化はとりあえず今のところ収まっているようだ。

担当医は何故かIgGに関しては1ケ月1度しか検査しない。なかなかIgMの数値が出なくて、ベルケイドの静注をする段階で数値が明らかになった。その時IgGの数値も出てきて122というあまりにも少ない数値に驚いて、免疫グロブリン製剤の点滴を急遽する事になった。12時頃今日の診療は終りかなと思っていたら、2時間の点滴が急遽入ったというわけだ。2時間の点滴を予定してなかったので本も用意してなく、まんじりともせずベッドで過ぎゆく時間を費やす他なかった。

退院後のIgMの推移

無題

退院以降IgMは増減を繰り返してきたが、3ケ月を通して見れば上昇しているのは明らかである。

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余命を宣告された時どう生きるのか

6月13日(月)
 ある小学校で「いのちの授業」が行なわれた。授業の中で司会のIさんは生徒一人一人に「もし余命宣告されたら何をしたい」と順番にマイクを回して聞いていった。69名全員に聞いた。一番多くの応えは「家族や友人と一緒にいたい」だった。それ以外「普通の生活を送りたい」「遊びたい」「 いっきりゲームをしたい」など様々な応えが出た。学校で勉強したいは一人もいなかった。ここでの回答で特に印象に残ったのが「普通の生活を送りたい」というものだった。

生徒は突然の「余命宣告」についての質問に戸惑いながらも一生懸命応えてくれた。そのことによって頭を働かし自分の中の考えを引き出しまとめて行くことが出来る。質問への応えでかなり時間をかけたので45分の授業は終了時間になってしまった。

「普通の生活を送りたい」何人かが「余命宣告されたら何をしたいか」としてこの言葉をあげた。生徒が余命を自覚した時、今の生活の持つ意味を改めて認識してこの言葉が出たのだろうか。話し手のHさんの話の中にもあったように、病気になって普通の生活が送れなくなった。その事を経験した事によって、生きていなかったら、命がなかったら好きなこともできないということを嫌というほど感ぜざるをえなかった。普通の生活が送れるということ、同じ明日がまたやってくる ということの意味は患者にとってどれ程の大きな意味をもっているのだろう。

 生徒はどういった問題意識で「普通の生活」の意味を受けとめているのだろか。「命がなかったら、好きなこともできないし好きな場所にも行けない。泣いたり 笑ったりもできない。家族や友達をお話ができない」とか「生きていなかったら、命がなかったら好きなこともできないし、おいしいものも食べられない。友達とも会えない。命があるからこそケンカして泣いたりできる、今日皆と会う事もできる。」といった内容がアンケートの回答にも書かれていた。

生徒の出した「普通の生活が送りたい」という回答は、日常性の持つ意味とその重要性、そのあまりのも当たり前の大切さに気がついて、死というものを考えて命の大切さを知ろうとするものではないか。「今生きて、ここにいる」それだけで「かけがえのない、すばらしいこと」そのことを無意識的にも自覚した答えなのかもしれない。普通の生活の中に人生の最大の意義が埋もれているのだ。

 ガン体験者が語る次のような言葉はそのことを語っている。
「人の命は明日をも知れないと実感してからは一日一日が密度の濃い時間に変わりました。」 (小林茂登子『あたりまえの日に帰りたい』)

「病によって以前全く想像していなかった世界の中に導き入れられた。私は毎日のように今日も生きていて良かったと思う。」(阿部幸子『病棟の光と翳』)

「がんのおかげで今日という日のやり直しのきかないことを嫌というほど思い知った。だから時間 を自分の手の中にしっかりと握って生きる。」 (ワット隆子『がん患者に送る87の勇気』)

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「いのちの授業」座談会、ももの木交流会

6月11日(土)
DSC7_convert_20110611220224.jpg ももの木交流会会場・番町教会

番町教会
ももの木の理事長田中医師が南北線白金台にある東大医科学研究所を辞める可能性が出てきて、交流会の会場をどうしようかという話がでていた。そういったことで会場を探していた所、患者会の知り合いが番町教会の役員をしていて、会議室を自由に使っていいという話が舞いこんできた。また一部屋ももの木が自由に集まって話をしたり、作業をしたり、荷物を置いたり出来る部屋を提供してくれた。

それ以降ももの木の交流会はこの番町教会で行われる事になった。場所的にも南北線の白金台は都心から遠く、埼玉方面や千葉方面から来るのに不便だ。その点番町教会は有楽町線麹町駅から歩いて2,3分の距離にあり、市ケ谷や四ツ谷まで行っても10分もかからない。

ももの木交流会は偶数月の第2か、第3土曜日に行なわれる。奇数月には各病院で院内患者家族交流会が行われるという具合に交代で開催している。ももの木交流会は2月には19日に行い、、4月9日に予定していたが、震災への配慮ということと、当日行なわれる予定だったゴールドリボン・ウオーキング2011の中止も関係して中止を決定した。その意味で4ケ月ぶりの開催となる。

ももの木交流会は14時から17時まで行われるが、その前に「いのちの授業」の座談会が11時から13時30分まで行なわれる。「いのちの授業」のスタッフは全てももの木のメンバーだから、交流会に参加するので、交流会の前に「いのちの授業」の打ち合わせをするといういうのは都合がいい。

「いのちの授業」座談会
明日行なわれる江戸川区立江戸川小学校での「いのちの授業」の打ち合わせが中心である。11時30分~12時15分までの45分授業で、対象は6年生69名と保護者であり、体育館で行なわれる。まず待ち合わせ時間と場所を決めた。10時15分、都営新宿線瑞江駅改札口。

次に話し手の原稿確認を行なった。今回は今まで何度かいのちの授業の見学に来ていたが、話すのは初めてだというHさんが明日の話し手として原稿を用意してきてくれた。いつものように彼女が原稿をざっと読み、その内容に対して座談会参加者が色々意見をいうというパターンで会議が進行していく。様々な意見が交錯し、段々と原稿が煮詰まっていく。出された意見を最終的には彼女が無視したり取り入れたり取捨選択しながら原稿を完成させ、明日の話へとまとめていくという事になる。

ももの木交流会
4月に行なわなかったからかどうか、今回はかなりの人数の参加があった。初めて参加した人も8名もいた。最初に自己紹介をしてから、それぞれ同じ病気の人達がグループになって自分の経験を共有化するための話に加わっていく。

2ケ月前に慢性骨髄性白血病と診断され、グリベックを服用し始めた女性患者が始めて参加したが、これからどうなるのだろうかといった不安に満たされていた。同じ慢性骨髄性白血病で既に6年グリベックで治療を受けてきた患者が参加していたのでその経験がかなり役に立つだろう。また急性リンパ白血病であるがフィラデルフィア染色体が陽性であるのでグリベックで治療を続けている患者もいた。

そういった人達の実際の経験を聞きながら薬の副作用の問題、体調管理、職場復帰などを知っていくことは、これからどうなるのだろうかといった不安を取り除くにかなり役に立つだろう。交流会の大きな目的は体験者の声である。ネットで多くの情報は手に入るが、実際の体験者を目の前にして色々質問しながら得られる情報ほど貴重なものはない。確かに副作用など人によって現れ方は違うとしてもかなり参考に出来ることは多く含まれているのは事実である。

今回の交流会の目的のもう一つは7月2日(土)に行なわれる「NPO血液患者コミュニティももの木10周年記念交流会」のお知らせだ。10周年の機会に懐かしい顔、新しい顔、まだももの木を良く知らない皆様とも一堂に会し楽しい時間を共にしたく、感謝の会を準備している、ということだ。

【ももの木 10歳 みんなありがとう!】
2011年7月2日(土)
時間: 12:00~14:00(受付開始:11:30)
場所: アリスアクアガーデン・シナガワ 03-3450-8810
東京都港区港南2-16-5 三菱重工ビル グランパサージュⅡ3階
(品川駅港南口 徒歩5分)

ももの木の理事から詳細の説明があり、チラシが配られ、当日参加者出来る人の名前を書くように紙が回された。ももの木も最初は飲み会の交流会から始まって様々なイベントや講演などにも参加してきた。また「いのちの授業」は明日の江戸川小学校で81回目を迎えるというほどの実績を積んできた。こういった機会に気持ちも新たに10周年記念パーティを開催するというのは極めて時機に適ったものだろうと思う。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

定期検診の日

6月8日(水)
検査結果
IgM   4710(6/8)←4984(6/1)←4893(5/25)←4208(5/18) 
白血球  1000←1300←2300←2300
好中球  650←500←700←830 
赤血球  271←284←291←284 
ヘモグロビン 9.5←9.9←10.1←9.9
網赤血球   15←19←14←14←13 
血小板  2.9←4.5←5.4←5.8
尿酸(UA)  6.1←6.5←9.1←7.3 基準値(3.7~7.0mg/dl)


IgMが減少した。薬というのはどういった調子で効いてくるか全く分からない。色々な組み合わせの中で、うまく体と一致した時に効いてくる。今回デキサメタゾンが外の薬と相乗効果を発揮しIgMの減少につながった。しかし、これがひたすら続くとは限らない。デキサメタゾンは5月25日~28日、6月2日~5日まで4日間40mgを服用してきた。今度は6月10日~13日まで服用する予定になっている。

この3クール終え一旦休薬するが、その間IgMが抑えられるかどうか心配だ。しかし強力なステロイド剤を連続して使用し続けるというのも体にいいわけがない。来週15日の診療の時IgM値を見ながら、どうして行くか判断していこうという事にした。

白血球が1000になってしまった。好中球が650と少しは増えたが極めて厳しい。ノイトロジンの注射を今日と明日行う事にした。明日は注射だけのために病院に行かなければならない。先週も注射のために病院にいったが、10秒もかからないノイトロジンの皮下注射をするため、30分以上待ち、会計で同じく30分ほど待ち、病院への往復で1時間半かかる。かなりの手間だが、家にじっとしているより少しは運動になるなと割り切っていそいそと出かけている次第だ。

血小板も減少している。ベルケイドの影響だろう。2.9という数値はまだ輸血には至らないがかなり厳しい数字だ。これ以上下がったら薬の量を減らすなど考えなければならない。抗がん剤治療はいつでも副作用との兼ね合いの中で行なわざるを得ないという難しさを抱えている。

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八丈島旅行・4日目

6月6日(月)
八丈島旅行も最終日になった。17時20分八丈島空港発の便で帰る。それまで大賀郷の名所・旧跡の見物をしようと思った。宿の主人と毎晩一緒に酒を飲みかなり打ち解けてきた。彼は74,5歳だろう。私とY氏と同じ大学だったというのも奇遇だが、彼は今「東京七島新聞」の八丈島、青島の担当であるということだ。島では観光協会をやったり、色々町の仕事をこなしてきた。昔から住んでいることもあって親戚が多く、知り合いのかなりの人が町の職員となっている。

八丈町では、今新しいプロジェクトが進行している。町役場は老朽化し、観光協会や八丈町コミュニティセンターなどと建物がバラバラに建っている。それを60億かけて、新庁舎を作ろうというものだ。すでに土地は整地されいつでも建てられる状態にある。新庁舎には多目的ホール、市民会館など多様な機能を持たせたものとして作られる。

その一画に図書館を建設するということが決まっている。八丈町コミュニティーセンターにある今の町立図書館は、学校の図書館とそれほど変わらない内容、規模のものでしかない。新図書館は建物の概要、内容、書籍の集め方など様々な問題を抱えその準備が宿の主人を含めて行なわれている。すでに東京都の幾つかの図書館に視察に行って情報を集めてきている。

宿の主人は自ら図書室を持ち蔵書が1万冊以上、文芸・美術書・趣味の本から雑誌・マンガまでありとあらゆる分野が揃っている。気がついたのに「小林秀雄全集」「横山光輝・三国志60巻」などがあった。昔から買い集めた膨大な書物だ。その本を新しい図書館が出来たら寄贈するのか、また死後寄付するのかどうかという話も出ているそうだ。

旅行に一緒に行ったY氏は、定年退職するまで図書館員だった。そういった意味で、宿の主人の図書館建設の話に丁寧に応えていた。今八丈町の図書館は、八丈町コミュニティセンターの1階にある。このコニュニティーセンターは勤労者の文化・教養及び福祉の向上を図り、あわせて生涯学習に寄与するため設置された。ボーリング場、体育館、テニスコート、会議室が有料で貸し出されている。宿の主人が朝一緒に図書館に行って、教育委員会の責任者と一緒に話をしよう、とY氏を誘った。

民宿をチェックアウトし、主人の車で八丈町コミュニティセンターに出かけた。しかし今日は月曜日で図書館は休み、教育委員会の人も誰もいなかった。結局からぶりだった訳だが、大賀郷の街中まで連れてきてもらったのだから文句は言えない。新庁舎建設予定地を見て、八丈植物公園の中を車で突っ切り、目的地の歴史民俗資料館まで送ってもらった。

八丈島歴史民俗資料館
館内には流人文化を中心にした資料が数多く展示されており、八丈の人々や流人の生活を雄弁に物語ってくれる生活用具や農耕具、漁具、機織具などのほか、先史時代の石器や土器、古文書、伊万里、古瀬戸などの陶器類、羅漢像、八丈の伝説を偲ばせてくれる為朝のよろいなど約1,500点が展示されている。

高倉: 高床式の倉庫である。床が高いので強い湿気からの影響が少なく、また、柱の床下にあたる所にネズミ返しという大きな板をつけることによってネズミの害から免れている。

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 歴史資料館入口                      古墳時代土器(八重根遺跡出土)

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 民俗資料館敷地内の高倉

流人の生活:
民俗資料館の中で特に興味を引いたのは、八丈島における流人はどのように生活していたのだろうということだった。江戸幕府は八丈島を流刑地として1606年(慶長11年)~1871年(明治4年)の間に 1,800余名の流人を送り込んだ。初期には主に政治犯、思想犯が流されて来ていた。人数も少なく比較的身分の高い者が多かったが、後には人数の増加とともに質も低下し食料が乏しく貧しいこの島にとっては大変な負担だったろう。

流人は少しの束縛はあったものの島民の一人として生活を営んでいた。武家や僧侶出身の流人はほとんど教育を受けたことのない島人に接して、教育の必要を感じすすんで村人や子供達を集め学問の手ほどきをしたり、知識や技術を教えたりしたことが八丈島における教育史のはじまりとなっている。多くの流人がいるが、その中でも八丈島の歴史に深い関わりを持った2人の人物像を紹介する。 

宇喜多秀家:
豊臣五大老の一人となったが、関ヶ原の役に敗れて、島津家に二年余り逃れ、久能山に二年間幽閉された後、慶長11(1606)年、34才で八丈島に流された。八丈島では苗字を浮田と改め、号を久福と改め、妻の実家である加賀前田氏・宇喜多旧臣であった花房正成らの援助を受けて(初期には秘密裏に、晩年は公に隔年70俵の援助を得ることが幕府より許された)、高貴な身分も相まって他の流人よりも厚遇されていたという説がある。それでもやはり八丈島での生活は不自由であったらしい。その後50年の間、流人ということで凡俗を装って月日を過ごし明暦元(1655)年83才で没した。

近藤富蔵:
旗本近藤重蔵の長男で、目黒にあった父の屋敷の利権問題から隣人7人を家来と一緒になって切り殺し、文政十(1827)年八丈島に流罪になった。明治13三(1880)年に赦免され、一旦上京。再度八丈島に渡り、明治20(1887)83才で没した。在島60年の間に、『八丈実記』六九巻を著したのをはじめ、旧家の系図整理、仏橡の彫刻・修復、為朝の凧絵、石垣構築等を行い、また、三根小学校の前身・川平夕学館を創設し、末吉小学校の前身末吉夕學黌(せきがっこう)にも関与した。

陣屋跡(玉石垣)
陣屋を巡らしてあるのが玉石垣である。大里の集落には玉石の石垣が多い。玉石は横間の浜から運んだと言われている。真偽の程はわからないが、一個の石を流人がおむすび一個で運んだという話がある。この大里地区の集落は、水の関係から大賀郷地域発祥の地とされていて、旧家や有力家が多い。そのため、玉石垣で囲んでいる家が多いが、上部が反った形の石の組み方は陣屋の石垣のみである。

大賀郷園地
平成17年4月25日に出来た園地。イベント、スポーツ大会などに使用される。広大な芝生の敷地だ。

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 玉石垣                            大賀郷園地

歴史民俗資料館から少し樫立の方に戻ると大里というバス停があり、その周辺が陣屋跡の玉石垣になっている。石垣の間の道を歩きながら、陣屋を囲むこれだけの石を海岸から運んで垣根を作る勢力が、ある時期八丈島にも存在したのだろうと考えさせるものがあった。

飛行機の出発時間まで植物園で時間を潰そうと思っていたので向う。植物園に入る道の左側には、何も植えていないただ広い芝地が広がっている。入口の所にトイレと休憩場として東屋があるだけだ。サッカーの試合などに使うのだろうか。大きなイベント会場として使用できるだろう。大賀郷園地という。

植物園のメインエントランスから中に入ってしばらく行くと、ビジターセンターがある。入口にさしかかると係りの人が、丁度15時から八丈島を紹介するDVDの上映を視聴覚室で行うので是非見てくださいと言われた。視聴覚室には我々2人しかいなかったが上映が始まった。八丈島の観光、産業案内として15分という時間で中々良くまとまっていた。

八丈ビジターセンター
八丈島の自然や文化を楽しむための、様々な情報や体験プログラムを提供している。解説員は、八丈島を遊び、学ぶプロフェッショナル。展示や音声解説などにより、八丈島の自然をわかりやすく紹介し、八丈探索の基地として、様々な企画も行われている。

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 ビジターセンター建物                    ビジターセンター展示

八丈島010_convert_20110608163955 八丈島012_convert_20110608164026 八丈島013_convert_20110608164103 八丈島014_convert_20110608164134 八丈島011_convert_20110608170341
 温室内のハイビスカス
 
八丈植物公園
昭和37年開園、熔岩原の自然林の中に多種類の亜熱帯植物が繁茂し、いたるところに小鳥のさえずりが聞こえ、原色の花と葉の緑が園路の赤砂利や黒い熔岩に映えた美しい南国カラーの大自然公園。(開設面積104,355.03平方メートル)。園内には「キョン」が飼育されており、「はたおり機」をイメージして作られた時計台も設置されている。

ビジターセンターの事務所に荷物を預かってもらって、植物公園の散策に出かける。公園ガイドマップに沿ってビジターセンターから出発し、ビロウ広場、学習の森ゾーン、日本の森ゾーン、世界の森ゾーン、園地ゾーン、八丈の森ゾーン、林間ゾーンを回り、最後に展望広場まで上って周辺の風景を楽しんだ。

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 植物園メインエントランス                 温室内のブーゲンビリア

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 キョン(小型の鹿)                      植物園の遊歩道

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 植物公園展望広場                     展望広場から八丈富士

13__convert_20110610165848.jpg 八丈島080_convert_20110610163627 八丈島087_convert_20110610163705
 ビロウ広場                ガジュマル               展望広場のタコノキ

16時過ぎになったので、空港ターミナルに向う事にした。植物園からターミナルまで歩いて20分位かかると言われた。八丈島空港は現在は滑走路延長1,800メートル巾員45メートルのジェット空港として運用しており、ローカル線での利用率は国内で上位にあり、定期便が1日4便就航している。

空港ターミナルが何故滑走路を挟んで町とは反対の方にあるのだろう。ターミナルビルに行くには、滑走路の右か左かを大きく回って行かなければならない。植物園から空港への道も滑走路をくぐる所はあるが、かなり端なので滑走路の中央にあるターミナルに行くには、滑走路をくぐってからかなり歩かなければならない。土地がなかったのだろうか、不便なことこの上もない。地元の人は車で行ったり、バスで行ったりするのだろうが、町側に空港ターミナルがあればどれほど便利だろう。

17時20分出発の便なのだが、15分には飛行機はもう滑走路を移動し始めていた。飛び立ったのは25分位だが、羽田に着いたのは18時10分、飛んでいるのは実質40分位だ。往きの船と違ってあっという間に着いてしまう。飛行機で往き来する事を考えると八丈島は非常に近いと感じる。

八丈島098_convert_20110609013246 八丈島空港
(参考:八丈島総合ポータルサイト)

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八丈島旅行・3日目

6月5日(日)
八丈島とはどういう所かまだ紹介していなかった。八丈町公式サイトには以下のように書かれている。
■ 八丈島は南東部を占める三原山(700.9メートル)と北西部を占める八丈富士(854.3メートル)から成り立っています。集落は、島の南東部に位置する三原山を中心とする樫立・中之郷・末吉で形成される坂上地域と、島の経済活動の中心地である大賀郷・三根で形成される坂下地域があります。
気候は、黒潮暖流の影響を受けた海洋性気候を呈し、年平均18.1℃、高温多湿で雨が多いのが特徴です。産業は農業(花き観葉植物栽培)と沿岸漁業を基盤としています。商工では焼酎やくさや加工、伝統的工芸品の本場黄八丈織などのほか、各種の観光関連サービス業が中心となっています
 

民宿ガーデン荘には2泊予約したが、今日も連泊する事にした。同じ所に3日間泊まるのも珍しい。泊まり客は我々だけだった。部屋は本来4人部屋であるはずの部屋を2部屋連続して使わしてもらっていた。つまり一人で4人部屋を使えるというわけだ。寝る時は真ん中のふすまを閉めれば独立性が保たれる。

夕食に焼酎を宿の主人から勧められ飲み続けて、22時前には眠くなってしまう。しかし朝は5時頃眼が覚める。部屋が別々だから気兼ねなく何をやっていてもいい。民宿も泊まってみないとどんな所か分からない。今の時期何処でも空いているだろう。気に入らなければ別の所に移ればいいだけだ。しかしここの民宿の過ごし心地には文句の付けようがない。

3.11東日本大震災後の自粛ムードで八丈島でも観光客が大幅に減少した。それがまだ戻ってきていない。5月の連休で少しは持ち直したかなと思ったが、今はまた低迷している。夏休みに持ち直す事を期待する外ないと宿の主人は言っていた。

中之郷の温泉はひと当たり回ったので、末吉の「みはらしの湯」に行ってみる事にした。中之郷にはブルーポート・スパ ザ・BOONがあり、ジャグジー付き浴槽、打たせ湯、水風呂、サウナ室など完備されているが、都会的に感じて行く気がしなかった。

民宿前の中田商店前バス停から乗り、10分位で末吉温泉「みはらしの湯」に着く。バスは末吉が終点なのだが、温泉は洞輪沢の方に入り込んでいるので、温泉までバスは回り道をして寄ってから末吉に向う。町営温泉だから町営バスが客を運ぶのは当然だといえばいえるが。

まだ午前中の早い時間に風呂に入るのは若干気が引けるが、ここまで来たからには入るしかない。名にたがわず見晴らしは抜群だ。洞輪沢の海岸線が眼下に望め、露天風呂の前にはひたすら海と空が広がっている。

末吉温泉「みはらしの湯」

大露天風呂と内風呂である展望風呂、展望休憩室をレイアウトしており太平洋の大海原と小岩戸ケ鼻、八丈灯台を見渡せる絶景の場所に建てられている。

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 みはらしの湯・入口                      内風呂

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 みはらしの湯・露天風呂                   洞輪沢海岸

温泉を出て展望休憩室で休んでいたが、民宿に戻るバスの時刻までに1時間以上あるので、八丈島灯台に行った。温泉から15分位の所にある。灯台は無人で周辺は閑散としており静かに佇んでいるように見える。灯台から少し戻ると、釣り場として「石積ケ鼻」と書かれた看板があった。看板に沿って坂を15分ばかり下っていくと岬の突端に出る。横に細い鉄の階段が付いていてそこから海岸の岩場に下りることが出来る。岩場で釣りをしていた人が何人か波にさらわれて死亡したことがあると宿の主人が話してくれた。かなり危険な釣り場なのだそうだ。

八丈島灯台
島を守るシンボルともなる石積ヶ鼻に建つ灯台。どこまでも続く青い空と海を背景に円筒型の白い姿がいっそう際立って見える。灯台までの小路も白い壁に囲まれ、南の島の開放的な雰囲気が漂う。

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石積ケ鼻
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民宿に戻り、昼寝をしていたら15時を少し回っていた。「えこ・あぐりまーと」に行くつもりだった。16時までと書いてるのを読んで早速出かけた。中田商店の前の坂道を登っていく。あいにく雨が激しさを増してきた。スコールのように急激に降り注いでくる。半ズボンにサンダル、Tシャツなのであまり気にはならないが、傘にはバシャバシャと雨音がする。坂道のコンクリートの上を水が流れとなって落ちてくる。八丈島は年間を通じて降雨量が多く、年間の総雨量は日本の観測地点の中でも最高のクラスに属する。6月の降水量は390mmで東京の165mmに比べてもかなり多い。

15分位行くと広い2車線の通りに出る。「えこ・あぐりまーと」はその道路に面してある。この道路は地熱発電所の資材運搬や建設用に作られたものだろう。道の脇にはヤシの街路樹が植えられている。

えこ・あぐりまーと(中之郷地熱温室)
地元農家の農産物直売所。地熱を利用した熱帯植物や農産物の温室・販売施設も近くにある。取り扱い品目: 花、観葉植物、球根、熱帯果樹苗、花苗、野菜苗、他、農産物加工品(ジャム、アイスクリーム、生ジュース等)パパイヤ、パイナップル、パッション等、季節の果実。熱帯果樹の展示温室がある。農産物、及び加工品等の生産者かグループで運営している。加工品は全て手作りで、八丈牛乳と地卵を使ったアイスクリームやプリンは大好評だ。 

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地熱発電所
平成11年3月、離島初!しかも東京電力?としても初めての地熱発電所が運転を開始した。出力は、八丈島の夜間の最低需要電力に相当する3,300kW。これをベース電源として、八丈島の電力需要に合わせて既存のディーゼル発電機を追加運転させる。

東電が八丈島で試みている自然エネルギーによる電力供給は、今福島原発事故以降原子力による電力供給の問題点が噴出している中で、極めて重要な役割を持っていると思われる。東電は八丈島に地熱発電所や風力発電所を作った時には、まさか原子力発電所に問題が起こるとは想像していなかったろう。

そういった意味で八丈島の自然エネルギーによる発電は、一つのキャンペーンであり、パフォーマンスであったのかもしれない。しかし今や図らずも自然エネルギーによる電力供給の重要性が浮き彫りにされ、全力を挙げその開発に取り組まなければならない時期に来ている。東電は八丈島での実績を進化、拡大し新たな電力供給の開発に力を注ぐことが必要だろう。

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地熱発電所を後にして中田商店前まで戻ってきた。そこに梅辻規清墓という看板の表示があった。どういった人か全く知らなかったが行ってみる事にした。坂を5分ほど上ると墓所がありその中に梅辻規清の墓もあった。

規清は中之郷の山下鎗十郎宅に住んで、著書は百冊を越え、またそのかたわら教育を行い、文久元(1861)年7月21日に没したというが、八丈島に流された人達はかなり自由に学んだり教えたりすることが出来たということは、外の何人もの人の例にもあるように驚くべきことだ。

梅辻規清墓
京都上加茂の社人。文化年間(1804~1817)、従五位となり、飛騨守を名乗った。神道、国学、天文、暦学に精通し、好んで諸国を遍歴した。弘化3(1846)年、江戸下谷池の端仲町に居を構え、瑞烏園といい、神道教法の本社とし、中橋松川町及び京中橋山城町にも支社を設げて講義した。弟や信者が数千人にもなり、幕府はその挙動を恐れて投獄し、弘化(1847)年八丈島に流した。

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(資料:八丈島総合ポータルサイト)

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八丈島旅行・2日目

6月4日(土)
冴え渡った快晴だった。ハイキングには絶好の日和だ。今日は三原山の奥深い森林の散策に向う。「硫黄沼・唐滝の道」として八丈島探検コース1として観光案内に紹介されている。「照葉樹の森、沼や滝など三原山の豊かな自然を体験できるコース」ということだ。

唐滝(からたき)・硫黄沼
三原山頂の南側中腹にある唐滝は、常に水が流れている滝としては島内最大で落差36.3m。唐滝への道中にある硫黄沼は室町時代に作られた溜め池で、硫黄分が溶けて緑色になっている。

民宿ガーデン荘の前の中田商店前からバスに乗り、5分ばかり行くと伊勢崎富次郎商店前のバス停に着く。そこが三原山登山道入口になっている。なだらかな坂道を上って行くと八幡神社がある。しばらく行くと唐滝川に出会い、川沿いに進んで行く。道は歩き易く急勾配がないので、子供や老人、赤血球の少ない人でも苦労もなく歩ける楽々ハイキングコースだ。

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 八幡神社                           三原山方面

八丈島183_convert_20110607160839 八丈島224_convert_20110607164104 八丈島222_convert_20110607163839
 乙千代ヶ浜方面                      唐滝川
  
小鳥のさえずりとせせらぎを聞きながら歩みを進める。時々木の間から海が見える。途中視界の開けたヒサカキ畑にでる。硫黄沼まではそこからすぐだ。硫黄沼に下りる道は狭く急で手すり付いていてそれを伝って下りる。硫黄沼の奥に硫黄滝がある。

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 硫黄沼                            硫黄滝

硫黄沼から唐滝への道は今までとは打って変わって険しい道だ。川を渡ったり急な斜面を登ったりしたりする。綱が張ってあったり手すりが付いていたりとそういったものを頼りに、唐滝の滝壺まで辿り着く。真下から見る滝はさすがに迫力がある。

八丈島204_convert_20110607161306  八丈島205_convert_20110607161419  唐滝 

八丈島219_convert_20110607161202  八丈島221_convert_20110607161119

唐滝からまた同じ道を引き返す事になるが、登りと下りでは見る景色が違うので飽きることはない。緩やかな下りなのでゆっくりと周辺の景色を鑑賞し森林浴を味わいながらのハイキングだ。往復結局誰一人として出会うことはなかった。土曜日だというのに誰もハイキング行かないのだろうか。季節としては山登りには一番いい時期だと思うが。再び伊勢崎富次郎商店前バス停に戻って来た。ここから服部屋敷と黄八丈会館までは近いので寄ってみる事にした。

唐滝川の護岸工事

夕方食事中、宿の主人あてに若い男性が尋ねてきた、彼は東京都の自然保護員で八丈植物公園に勤めている。一方NPO法人としては八条島観光リクレーション研究会を立ち上げ色々な自然保護活動を開始している。彼は囲炉裏端に座って主人と話していたが、我々も会話に加わった。Y氏は思いたって聞いて見た。唐滝川護岸工事がかなりしっかりていることに感心していた。

登山道をかなり登っていくと、コンクリートの道が切れ、土のハイキングコースになるが、そこまでの川は土手の両側だけでなく、川底までコンクリートで固めてある。NPOの人がいうには、普通はたいしたことはないが、豪雨などに見舞われ三原山に雨が集まり合流し一挙に村に襲い掛かってくることがある。

急峻な地形と国内でも屈指の降雨量を有する地域であることから、これまでも多くの土石流や斜面崩壊等の被害を受けてきた。このため、島内の8河川を砂防指定し、流路や砂防ダムの整備を進めてきた。激しく、大量で、急速であり、なまじの土手など崩されてしまう。東京では想像も出来ない雨量なのだろう。そこで唐滝川に関しても護岸工事に力をいれてきたということだ。

服部屋敷跡
江戸時代に幕府御用船を管理する職にあった服部家の屋敷跡。当時の建物は現存していないが、屋敷をめぐる玉石垣はかつての権勢を偲ばせる。樹齢700年とも言われる敷地内の大ソテツは必見。現在は、敷地内の劇場で、郷土芸能である「樫立踊り」と「八丈太鼓」の実演が行われている。

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 玉石垣                            ソテツの群落

黄八丈会館

会館は織物組合の業務もこなしている関係上、土日は休みだということで閉館していた。ここでは黄八丈の織物体験が出来るということだ。なかなか飲食店がないこの地域で、黄八丈会館の前に蕎麦屋があったので昼食にありつけた。

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 黄八丈会館                          黄八丈の織物

帰りはバスの便が悪く20分ばかり歩き、民宿まで戻った。3時頃まで昼寝をしたり本を読んだりしていたが、今日は「裏見ケ滝温泉」に行くつもりだった。昨日は温泉場を見てその雰囲気の良さに是非行って見たいと思っていたのだ。混浴なので水着持参でなければならない。途中雰囲気のいい古民家喫茶があり入ってみた。3方が吹き抜けになっていて夏でも冷房が要らないということだった。八丈島は亜熱帯区とされているが、夏はせいぜい28度位までしか気温が上がらず、熱帯夜などない。冬もあまり寒くなく寒暖の差が少ないそうだ。

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 古民家喫茶

裏見ケ滝

道と水路が、滝の裏を通っていることから、裏見の滝と言われている。道に沿った水路があるが、これは、江戸時代に滝の所の熔岩を切り開いて通されたものなのである。中之郷は、江戸時代には島内一の米作り地域であった。それは、中之郷には安川(あんがわ)と銚子(ちょうし)の口という、多量かつ安定的に水が出る水源があり、それを先人が巧みに利用して来たからである。

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 裏見ケ滝遊歩道               裏見ケ滝

裏見ケ滝温泉

裏見ケ滝温泉は深い木々に囲まれた露天風呂で、浴槽の真下に滝が流れ落ちている。自然の中にどっぷりと浸りながら温泉を楽しむことが出来るということだ。露天風呂なので、出たり入ったりしながら長い間滞在できる。入っている間誰も外に来る人はいなかった。山間の秘湯のような雰囲気を味わうことが出来た。

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 裏見ケ滝温泉露天風呂                  温泉から見下ろす滝
(資料:八丈島総合ポータルサイト)

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

八丈島旅行・1日目

6月3日(金)
民宿には10時に着いて、少しゆっくりとして、近くの食料品店に昼食の買出しにいく。この近辺には飲食店がないので、ガーデン荘の隣の食料品店に11時に弁当が届くので、それを買うのがいいと民宿のおかみさんが教えてくれた。弁当に島寿司があった。めだいを漬けにしたものを酢めしの上に乗せてある。どんな刺身も漬けにして乗せてしまえばそれでいい。今までまぐろの漬け丼などを食べていたが、漬けにすれば何でもいいという事に改めて気がついた。昼食をとり周辺の散策に出かけた。

長栄寺→三島神社→黄八丈めゆ工房→足湯きらめき→藍ケ江海岸→やすらぎの湯

長楽寺
南朝暦の正平5(1350)年、上杉氏の代官奥山氏が大賀郷の楊梅ケ原(ようめがはら)に建立した祈願所で、大和の国・広瀬の真言宗興楽寺の勢遍法師が渡島し住職となり、放光山大善寺といったという。明徳3(1392)年の漂着船の中に、明僧・宗閑とその弟子宗有がいて、宗閑が第5代、宗有が第6代の住職となり、13世まで及んだ。

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三島神社
大山祇命を祀り古来雨乞の神として島民にあがめられている。往昔は家居郷(永郷)のオソミゴシにあり、永享11年奥山宗林が、伊豆国三島神社から勧請したものといわれ、「永が庁」と呼んでいた。その後、家居郷に大津波があり三根の三峯の平に遷座したので、この時いらいここを宮の平と呼んだ。その後更に大里へ分遷したと伝えられているので、この時中之郷にも分神したものであろう。

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染織元・黄八丈めゆ工房
山下八百子の主宰する機織り工房。黄八丈は江戸時代から八丈島に伝わる絹織物で、主な色は黄・樺(かば)・黒で、コブナグサ・タブノキ・シイなど、島に自生している草木の煮汁で染め、椿・榊の灰汁や木灰汁、泥を使って媒染して発色させる。江戸時代には年貢として納められ、1年間に630余反が納められていた。黄八丈は1977年に国の伝統的工芸品に指定され、1984年には山下めゆ氏が東京都の無形文化財にも指定されている。「めゆ」工房はめゆ氏の名から来ている。

工房は一日中機(はた)の音が大きく響き渡り、釜場では草木を大釜で煮て「フシ(煮汁)」を作り、糸を染める光景も見れる。希望すれば黄八丈の染織の解説もしてくれる。工房内には小銭入れやネクタイなど黄八丈の小物類も多数そろえられ、土産物として売られている。

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一旦民宿に戻り温泉に行く。ガーデン荘前の道を突っ切ると温泉方面に向かう下り坂にでる。その道を10位程行くと最初に、裏見ケ滝温泉がある、次にブルーポート・スパ ザ・BOONがあり、中之郷温泉「やすらぎの湯」、さらに海岸に下りて行くと足湯きらめきがある。温泉のはしごをしてもしょうがないから今日は足湯きらめきに行って、足湯に漬かりながら藍ケ江海岸を眺め、やすらぎの湯に行く事にした。

足湯きらめき
藍ヶ江から太平洋を展望できる。『きらめき』の名称は、藍ヶ江のきらきらした海をイメージしている。足湯につかって海をぼんやりと眺めていると時間を忘れてしまいそうだ。

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藍ケ江海岸
藍ケ江は本来漁港だった。浜の傍に看板があって、この浜の漁船は何度も台風影響で破損し保険が適用されなくなり、別の浜に移動した。その後海水浴場になったということだ。海水浴場になったといってもシャワー設備やトイレなどなさそうだ。しかし海の水は限りなくい美しく、魚が泳いでいるのを見ることもできるだろう。藍江浜の水は藍色だということでこの名前がついた。岸壁には釣り人がかなりいた。結構大きな魚がかかっている。

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中之郷温泉「やすらぎの湯」
海の展望を活かした温泉浴場。浴槽からの眺めは黒潮の海を一望できる。昨日の船旅での疲れを含め、一日の旅の疲れを温泉の湯船に浸かりながら落としゆったりとした気分で民宿に戻った。

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中之郷の石垣
やすらぎの湯から民宿に戻る道の左右と海岸線に沿って至る所に石垣が築かれている。かなり大きな石が城壁のように重ねられ積み上げられている。これはたび重なる台風などの暴風雨から住居を守るために築かれたもので防潮林、防風林を堅牢にしたものを石というある材料で作ったものなのだろう。

この城壁のような石垣を作るには石工はその建築技術を本島で習い、その技を習得しなければならない。石工の存在が不可欠だ。流人の中にすぐれた石工がいたのだろうか。また巨大な石を運ぶのにかなりの人力を要しただろう、これは流人の労働力を使ったのだろうう。大きな石は海岸や山から持ってきたのだろうが、昔は大きな石を運ぶ手段も限られていたのでどういった方法で運び上げたか知りたいものだ。

変形の石を積み重ね崩れないように設置するのは大変な技術だと思う。この石垣は塀というより土止めとしの役割を持っていたのではないか。雨が多く、土台が不安定なので、それを押さえる意味もあったのだろう。

丸い石で作られた石垣は玉石垣として大里の陣屋跡に残っているがこれは海岸で採取したものだそうだ。丸い石は運び易いが城壁に使うような大きな石を使った石垣はある意味で丸石よりも見ものである。東京ではまだ花を開いていないゆりが至る所で花を咲かせていた。

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八丈島の郷土料理
旅行の楽しみは名所・旧跡巡りもあるが、やはり地元の食材を使った食事にあるだろう。どんな料理も美味しく食べられる体調であるということが旅行にとってどれ程大きな意味を持っているだろう。

八丈島の名産は、魚と明日葉だ。新鮮な魚介類を刺身、蒸焼き、煮付け、塩焼き、クサヤなど素材の味を生かして調理し、思う存分魚の様々な美味しさを味わうことが出来る。八丈島周辺の海域では、飛魚、ムロアジ、ムツ、メダイ、ヒラマサ、カンパチ、カワハギ、ブダイ、カリキヌ、キンメダイ、カツオなど多種多様な魚が収穫出来、トコブシ、メットウ、シタダミ、シッタカなどの貝類も豊富だ。

民宿ガーデン荘では料理の品数が多いので有名だそうだ。10品位付く。郷土料理の魚三昧の料理にした舌づつみを打った。泊まった夜に出された料理で覚えているのを上げてみると、アオダイ、メジナ、メダイの刺身盛り、カツオのタタキ、飛魚の蒸焼き、ビンナガマグロの照り焼き、飛魚のすり身の餃子の鍋物、飛魚のフライ、カワハギの煮付け、魚のハンバーグ、メットウ(貝)の切り身、八丈島のサツマイモや明日葉、エビなどの天ぷら盛り合わせ、明日葉そば、明日葉のゴマ和え、八丈島産里芋の煮っ転がしなどかなりの品数が提供される。色々な魚を漬けにした島寿司(右写真はメダイの島寿司)まで料理に出てきた。その外に宿の主人が囲炉裏の炭火で焼いた魚が出される。

島寿司_convert_20110609204051飛魚は春とび(ハマトビウオ)、夏とび(ホントビ)と言われ春の飛魚のほうが大きいということだ。だが出された飛魚の蒸焼きはかなりの大きさだった。飛魚は八丈島の名産だ。くさやも飛魚とむろ鯵が主流となっている。

民宿の主人が囲炉裏端に座って焼酎をお湯割で作ってくれる。「情け嶋」という銘柄だ。麦焼酎でさっぱりした感じで飲み易い。焼酎は何杯でも無料でおかわりすることが出来る。囲炉裏には炭火が焚かれその上に 網を乗せてくさやなどを焼いてくれる。

八丈島のくさやは食べれば味はしっかりとついているのだが、焼く時に全くあの独特のにおいは発しない。囲炉裏で焼きながら魚を食うというこれはなかなか雰囲気がいい。ムロアジと飛魚のくさやは焼いて、食べ易い大きさに裂いてくれた。ブリの子どものイナダの塩焼きも身がほくほくしてなかなかいける。こういった地元の食材を生かした料理こそが旅の何よりのご馳走だ。
(資料:八丈島総合ポータルサイト)

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

八丈島旅行・さるびあ丸出航-到着

6月2日(木)
竹芝桟橋には21時15分ばかり前についた。すでにネットで船は予約しており料金もカードで支払っているが切符売り場で予約番号を告げて乗船券を受け取る。その時、聞いてみたのだが、ネット予約だと乗船券が2割引になるということだ。どこに書いてなかったが東海汽船ももう少し宣伝すればいいのにと思う。

乗船開始が22時だったのでまだ時間がある。竹芝桟橋のターミナルの端に売店があり、伊豆七島の土産物を売っている。そこに併設された食堂があり、島の料理と島酒・焼酎が置いてある。そこで島料理9点盛りというのを頼んだ。なかなかバラエティに富んでいて、酒が進む。芋焼酎の黒潮というのを頼んださわやかな甘さで口当たりがよかった。

さるびあ丸は22時から乗船開始、22時20分出航した。予約したのは2等和室の席だ。昔は雑魚寝だったように記憶しているが今は横になる位置に線が引かれ番号が書かれ指定席となっていて、その中で休むことになっている。和室船室には、八丈島の小学6年生の生徒が30名ほど乗船しており、課外授業で東京に行き、その帰りだという。23時になると消灯になり、あたりはかなり暗くなり、そして静かになる。

今日から、デキサメタゾンを4日間服用する事になっている。特に最初の日は覚醒作用が強く、寝てもすぐ目が覚めてしまう。船は最初に5時三宅島の錆ヶ浜港に着く。起きだしてきて、甲板に出て、接岸の様子とどんな島なのだろうかと島の姿を見に行ってみる。

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 三宅島                            錆ヶ浜港

6時に御蔵島到着。ただし御蔵島は自然の厳しいところにあるため、東海汽船は「条件付き出航」となる場合がほとんどだ。条件付き出航というのは桟橋まで行ってみないと接岸できるかどうか分からないというもの。小雨が降っていたが波は高くはなかったので、無事接岸でき乗客が降りていく。

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 御蔵島                            御蔵島港

9時20分。八丈島神湊(底土)港に着く。9時前から八丈富士がどんどん近付いてくる。岸壁には生徒の保護者や民宿の関係者など何人か迎えに来ていた。観光協会に宿泊料金を支払わなければいけないので、乗船ターミナルに向かう。

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 八丈島                            神湊(底土)港

小雨が降り注いでいる。ターミナルの一画にある観光協会で手続きをしていると、民宿の迎えの人が声をかけてくれ、中之郷の民宿ガーデン荘に向かった。後で聞くと民宿に直接頼んだほうが500円ほど安いと言うことだ。観光協会は手数料は取らないということだったのにどうしたことだろう。

迎えの車は雨の中を神湊港から、三根、大賀郷を経て、島の南側に向って走る。樫立を経て目的地中之郷のガーデン荘に着いた。ガーデン荘はホームページでも紹介していたが名前のとおり、ヤシ、シュロ、ソテツなどの亜熱帯の木々に囲まれた緑一杯の敷地に立てられていて、南国の気分を味わうのに絶好の環境である。

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 ガーデン荘の庭の植物

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八丈島旅行

6月2日(木)
今日の夜八丈島行きの船に乗る。東海汽船「さるびあ丸」で、竹芝桟橋22時20分発、八丈島9時20分着という便だ。もっとも船は1日この一便しかない。帰りは6月6日八丈島17時20分発、18時15分羽田着ANA830便ということが決まっている。さるびあ丸に乗船しての八丈島までの料金が8580円なのだが、ネット予約で値引きされたのかどうか分からないが2000円安くなっていた。

5月13日にY氏の所に打ち合わせにいった時に、飛行機の運賃表を見てみたら特割というのがあって4000円安くなっていたので、まだスケジュールもはっきり決まっていなかったが帰りの便だけ早々と予約をした。船だと12時間、飛行機だと55分、随分違うものだ。しかし時間があれば船旅というのはむしろ豪華なものといえる。豪華客船によるクルーズは金持ちの贅沢な旅行として知られている。連れのY氏が船旅が大好きという趣味の持ち主で往復船で行きたいと言っている位だ。

梅雨に入って八丈島は滞在期間中曇りか雨だろう。そこで泊まる民宿を八丈富士の周辺の町三根ではなく、三原山の方の中之郷にした。ここには温泉が3ケ所あり、足湯も海岸沿いにある。また見晴らしの湯のある末吉まで行き易い。観光協会の案内の中之郷には民宿が3軒載っていた。ガーデン荘という民宿にはホームページがあり内容が分かったのでそこにした。

八丈島は観光協会を通して民宿に予約をする事になっている。予約の時、宿泊費は八丈島の底土港の船着場の観光協会に支払うというシステムになってると言われた。料金を支払うと宿泊券を渡されそれを持って民宿に行くということらしい。民宿からの迎えは手配したということだ。直接民宿と話をすればよさそうなものなのだが、何故観光協会が仲介するのだろうか。

とりあえず2泊は予約して、後1泊は何処に行くか現地で決めようということにした。八丈島に行くことは決まっているがまだ行ってから何処を訪ねたり、見たり、散策したりするかは決めていない。行きの船の中でゆっくりと考えてスケジュールを立てていこうと思う。

ph01_convert_20110602115133.jpg 八丈富士方面

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眼科、血液内科の診療

6月1日(水)
検査結果
IgM   4984(6/1)←4893(5/25)←4208(5/18)←4150(5/11) 
白血球  1300←2300←2300←1500
好中球  500←700←830←530 
赤血球  284←291←284←300 
ヘモグロビン 9.9←10.1←9.9←10.3 
網赤血球   19←14←14←13←11 
血小板  4.5←5.4←5.8←5.4
尿酸(UA)  6.5←9.1←7.3←6.5 基準値(3.7~7.0mg/dl)


IgMの上昇が収まった。何が影響しているのだろうか。デキサメタゾンの大量療法が効果を発揮したとしかいいようがないが、実際の所はどうなのかはっきりしたことは分からない。ともかく何でもやってみて下げていく外ないというのが現状だ。

今までも問題だったが白血球(好中球)の数値がさらに減少してきた。もはや危険領域ぎりぎりの所に踏み込んでいる。この減少はサリドマイドによるものであるのは確かだ。以前サリドマイドを服用していた時にはほとんど骨髄抑制はなかった。そういった意味で極めて有益な薬であったはずなのだ。

しかし今ではサリドマイドの影響で白血球が減少してしまうということは、造血機能が減退してきたのだろう。何処まで今の療法を続けることが出来るかそれは次回の好中球の状態を見て判断する外ない。とりあえず、今日と明日、ノイトロジンの皮下注射をする事にした。

尿酸値に関しては6.5まで減少した。高尿酸値への処方のアロブリノールが効果を見せているようだ。そういったことで提案されていたラスリテックに関して医者に相談することはしなかった。アロブリノールが効かなかったらラスリテックを医者に提案してみよう。

眼科では眼圧が下がってきているので、今服用しているダイアモックスとアスパラカリウムに関しては服用を止めもいいということになった。それによって眼が重い感じになったり、頭が痛くなったりしたらまた服用する事にすればよいということだ。

また担当医に言っておいたのは、好中球が500にまで下がったということと、デキサメタゾンを大量に治療に使っているという2点だ。つまりそのことがサイトメガロウイルスの活性化に影響を与えかねないので注意して診察してもらいたい、ということについて念をおしておいた。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

生田緑地ばら苑

5月31日(火)
台風2号の影響で、先週末からどこへも外出できなかった。バラがさぞ満開の見頃を迎えているだろう。旧古河庭園は庭園としては見応えがあるが、バラの種類は少ない。圧倒されるほどのバラを観てみたいものだと思っていった。下手をすると台風の強風や激しい雨のため花を散らしてしまうのではないかと心配していた。今日になってやっと初夏らしい晴天になった。

花の名所案内の中で手頃な所として「生田緑地ばら苑」に行くことにした。新宿から小田急線向ケ丘遊園駅まで30分位だ。向ケ丘遊園駅から府中街道に出ると、府中街道に平行して流れる川沿いに遊歩道がある。その遊歩道沿いにもバラが植えられ華やかに沿道を飾っている。その道を行くと生田緑地ばら苑に行けるようになっている。府中街道を離れると道は急な登り坂になる。ばら苑は生田緑地の丘の上にある。

10分ばかり息を切らせながら坂道を登り続ける。途中街の眺望が眼下に広がる。駐車場の脇の階段を上がると急に視界が開け山に囲まれたばら苑が姿を現す。何もこんな高い丘の上にばら苑を作らなくてもいいとは思うが、丘の上の木々に囲まれた空間の中に咲く花は又違った趣を感じさせる。バラは台風の影響など全く受けなかったかのようにその姿を保っていた。最盛期の姿を惜しみなく見せてくれていた。

生田緑地ばら苑
ばら苑の歴史は古く、開苑は1958年にさかのぼり、当時は「東洋一のばら苑」と賞されたほど。森に囲まれた苑内には、バラ文化の豊かさを示す代表的な四季咲き大輪種、つるバラなどが多摩丘陵の澄みわたった空気の中で、約530種、4700株のバラが植栽されている。また世界各国のロイヤルに由来するバラが集められた「ロイヤルコーナー」や、香り高きバラを集めた新設コーナー「イングリッシュローズガーデン」など、個性豊かなバラが咲く。(花の名所案内)

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 遊歩道のばら                        ばら苑に行く途中の眺望

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 のぞみ

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 パーゴラ(外廊下風の洋風四阿・緑廊)

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                                 ミヤギノ、ツルオトメ、ノゾミ

生田緑地バラ園074_convert_20110531223233  生田緑地バラ園078_convert_20110531225844
 サマー・スノー

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 カクテル                 ワイヘン・ステファン           つるマスケラード

生田緑地バラ園049_convert_20110601224054  生田緑地バラ園025_convert_20110531222905  
 ドフト・ゴールド                       ヒストリー
                       
生田緑地バラ園047_convert_20110601224142  生田緑地バラ園071_convert_20110531223136
 ジュビレ・デュ・プリンス・ドゥ・モナコ           エリナ

ばら苑を周り、裏門から川崎市立日本民家園に向かう。深い森の中に入っていく。生田緑地は多摩丘陵のゆるやかな起伏に富んだ自然林に囲まれた「市内随一の緑の宝庫」という。枡形山のサクラ、ハナショウブが咲きほこる菖蒲園、アジサイの園、市民の花園のツバキ、ツツジ等四季折々の花が咲く公園なのだ。

緑地に張り巡らされた丸太階段や木道で結ばれた谷間の自然探勝路はハイキング気分を味わうことも出来るし、散策路として新緑に思う存分浸ることも出来る。急な木の階段を上がり下りしながら、生田緑地と書かれた看板の前まで来る。ここからが公園となっている。そこからすぐ、日本民家園の入り口となっている。

日本民家園は、宿場、信越、関東、東北、神奈川の古民家が集められ、起伏にとんだ生田緑地の斜面に、その建物が建っていた状況を思わせるような状態で置かれていた。何軒かは家の中を公開していた。幾つかの民家では中で囲炉裏に火を焚きの昔の雰囲気を出していた。薄暗い古民家の中で囲炉裏の火が妙に鮮やかに赤く目に映った。昔のままの状態で保存されていて中に入ると当時の生活が、目に浮かんでくるようだ。

最後に行った所が階段を83段上った所の船越の舞台である。これは志摩半島の漁村にあり、歌舞伎芝居などを演じていた舞台。正面に花道、両袖に出語り、そして直径18尺(5.45m)の回り舞台を備えている。回り舞台を回転させる装置は奈落に配置されている。外から見るとただの古い家でしかないようだが中を見ると舞台装置があり、ここで民芸が行われることもあり、その時は舞台の全容を見ることが出来る。この舞台は国の重要有形民俗文化財に指定されている。

川崎市立日本民家園
急速に消滅しつつある古民家を永く将来に残すことを目的に、昭和42年に開園した古民家の野外博物館である。日本民家園では、東日本の代表的な民家をはじめ、水車小屋・船頭小屋・高倉・歌舞伎舞台など25件の建物をみることができる。このうち、18件は国や県の重要文化財として指定を受けており、民家に関する民俗資料なども収蔵している。豪雪地帯の農家、宿場町の町屋、舞台など地域色豊かな構成となっている。地域や年代による建物の構造、工法の違いを比較することもできる。(日本民家園HP)

生田緑地バラ園085_convert_20110531223709  生田緑地バラ園084_convert_20110531223742
 原家住宅(明治後期の豪壮な民家)           鈴木家住宅(宿場・福島市)

生田緑地バラ園095_convert_20110531233450  生田緑地バラ園104_convert_20110531233356
 水車小屋(長野市)                     江向家住宅(富山県南砺市))

生田緑地バラ園110_convert_20110531223920  生田緑地バラ園112_convert_20110531224007
 佐田住宅(千葉県九十九里町)             沖永良部島の高倉

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 蚕影山祠堂(川崎市麻生区)               船越の舞台(三重県志摩市)

船越の舞台から階段を下りると民俗工芸館があり、ここは伝統的な本藍染めを手軽に体験できる施設で、紺屋の技術を継ぎ、8基の藍がめを管理して、藍染め体験、ミニ展示、講座などを行っている所だ。工芸館を突っ切り、木の急な階段をひたすら下っていく。すると意図せずに岡本太郎美術館に着いた。小学校の団体だろう次々と美術館から出てきて東門の方に向っていく。美術館に入るつもりはなかったが、周辺を見て回った。母の塔が日差しを浴びまばゆく光っていた。

岡本太郎美術館

常設展「生誕100年 あっぱれ太郎 岡本太郎の仮面」展の紹介。岡本太郎が制作や執筆をするなかで、強い関心をよせたテーマに「仮面」がある。岡本は若き日に留学したパリで、絵を描くかたわら民族学も学んでいる。岡本の絵画には、戦後からさまざまな顔が登場しますが、とりわけ後期の作品では顔や目が中心的なモチーフとなった。国内外をめぐったフィールドワークの写真にも仮面に注目したものがあり、また日本万国博覧会の《太陽の塔》における地下展示室においては、世界各地の仮面を集めて展示するなど、「仮面」は岡本の強い関心対象であり続けた。(美術館HP)

生田緑地バラ園136_convert_20110531224200 生田緑地バラ園140_convert_20110531224230 生田緑地バラ園142_convert_20110531224302
 母の塔                                        樹霊

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