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眼科、口腔外科の診療

9月29日(木)
眼科も口腔外科も先週木曜が診療日だった。しかし前日の台風の影響で新幹線が運休し、家に帰れず、当日東京に戻ることが出来たとしてもの午前中の眼科と口腔外科の診療に間に合わないことが予想された。そこで前日に病院に電話して診察日の延長を頼んだ。一週間の延期を申し入れ今日の診療となったのだ。眼科も口腔外科も特に治療を行うわけではなく定期的な検査を行っているだけなのだ。

眼科は左眼にあるサイトメガロウイスルが右眼に移動しないかどうかをチェックするための検査だ。サイトメガロウイルスが右眼にに現れたらすぐにデノシン眼球注射をしなければならない。そうしないと右眼までダメージを受ける事になる。そういった意味で検査は極めて重要だ。

口腔外科は上の右の歯茎に骨が露出しているその状態の検査だ。。それはほんのわずかで全く気がつかないし、違和感も無く、食べるのに何の障害にもなっているわけでもない。炎症を起こしていないか、外に悪影響を及ぼしたりしていないかどうかチェックしている。炎症が激しくなったり、腫れてきたり、骨が成長してきたりしたら取り除く手術をしなければならない。ただ白血球が少ない状態が続いているので手術は難しい。どうしても手術が必要になったら白血球の上昇している時期を選ぶ他ない。

この間何の問題もないし、骨の変化もなく、炎症も起こしていない。放っておいてもいいのだが熱心な口腔外科の先生がいて、2月に入院した時高熱が出たが、歯茎に出ている骨が炎症を起こし細菌が発生したことが原因ではないかと思っている。そこで定期的な検査をした方がいいと熱心に勧めるので通院という事になってしまったわけだ。

眼科での検査では、最初眼圧を測るのだが、右眼はいつもと同じように14だったが、左眼が6という基準値よりかなり少ない数字だった。左眼はずっと眼圧の上昇でそれをいかに押さえるかで苦労してきた経過がある。この間基準値内に止まっていたが、急激に減少すると原因は何だろう。

左眼の眼圧の下降はサイトメガロウイルスによる眼底の炎症が房水の循環を妨げそれで眼圧を下げているのではないかということだった。ただ特に心配は無いということだった。左眼の眼底は白内障の影響で見えず通常の眼底検査ができないので、次回超音波検査をする事になった。眼底検査では右眼は異常はなかった。ともかく右眼が無事であり続けることが何よりも重要なことなのだ。

口腔外科の検査は、特に問題はないですねといった一言で終わり。定期検査というのはこういったものだ。悪くなっていなければそれが何よりで、問題のない事を確認できればそれでいいのだ。
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テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

これからの治療

9月28日〈水)
今回始めたレナリドマイド(レブラミド)+シクロホスファミド(エンドキサン)+デキサメタゾン(レナデックス)の併用療法が何処まで奏効し続けるか分からない。せいぜい2,3ケ月だろう。その後ベンダムスチンを使用する予定だ。この薬は入院して1日目90mg/m2を1時間で点滴する。2日目も同じように投与する。その後骨髄抑制その他副作用の様子をみるということで入院を継続する。ベンダムスチンは20日周期で点滴する。

7月25日から始めた第2回DCEP療法で確かにIgMは減少したが、しかしその効果は継続するわけではない。すぐにレナリドマイドを服用せざるを得なかった。ベンダムスチンを使用した場合、この薬によってIgMを減少させることが出来るかもしれない。しかしその効果も1ケ月は持たないだろう。するとベンダムスチンをまた点滴しなければならない。そしてそのために入院することになる。治療とIgMの上昇がイタチゴッコなのだ。

骨髄抑制の強いと言われているベンダムスチンを使用する限り入院治療は止むを得ないのだろう。外に持続的に効く薬がない限りこの治療をするほかない。それでも可能な限り通院治療が出来る方法はないものかと考えてしまう。

入院して白血球の数値が上がると退院する。しかしIgMがまた上がってくるとベンダムスチンを点滴する。そこでまた入院する。いわゆる2006年に化学療法をやった時と同じように、3週間入院して一週間自宅療養といった生活になってしまうのか。この時は移植のためIgMを減らすという目的があった。それでがんが治るという希望があった。しかし今回はゴールがある訳ではない。

しかしこれからcarfilzomibやpomalidomideなどの新薬が使用可能になれば新たな治療の展望も開けると思うし、今回治験で使用する予定だったelotuzumabなど多発性骨髄腫に対する新薬の開発は目覚しいものがあり、期待できる情報はかなり聞こえてくる。問題はいつからそれが使えるようになるかということだ。

ベンダムスチンも最初の時は副作用の出方が分からないから入院は止むを得ないが、2回目からは通院で出来るのではないか。ただ好中球が200とか300とかになってしまうようだ通院治療は難しい。新たな治療を始めるといっても色々な困難が待ち受けている。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

血液内科の診療

9月26日〈月)
検査結果
IgM   4320(9/26)←3293(9/8)←3486(8/25)←3629(8/17)
白血球 2600←4100←3200←2000
好中球 610←2100←1170←860
赤血球 289←283←284←270
ヘモグロビン 9.2←8.9←9.3←8.8
血小板 9.4←12.8←10.3←4.7
IgG   314(9/26)←328(9/8)←403(8/25)←253(8/3)


IgMが20日ばかりの内に1000の上昇を見せた。レナリドマイド単剤での効果は長続きしないだろうと思っていたが、20日もしない間に1000も上昇するとは予想外だった。またレナリドマイドの主な副作用は血球減少だといわれているが、9月8日には2100あった好中球が610まで落ちてしまった。危険領域ぎりぎりの数値だ。こうなると治療法も限られて来る。

レナリドマイド単剤での効果が鈍ってきたらデキサメタゾンを追加しようという話になってはいたが1000という数字は大きい。デキサメタゾンだけで上昇を抑えられるかと思う。医者は好中球が少ないのが気になるが、シクロホスファミド(エンドキサン)も服用したほうがいいと言う。指示通りやってみるほかない。医者は次のやり方を提案した。

レブラミド〈レナリドマイド)5mg×3=15mg/毎日、21日間服用・7日間休薬
レナデックス(デキサメタゾン)4mg×5=20mg/週2日
エンドキサン(シクロホスファミド)50mg×4=200mg/週1回

この併用療法で当面やる事にしようということになった。様子を見るということで、一週間後の月曜日の診療となった。病院の外来を受け持っていた主要な医者2名が外の病院に移動し、その補充がまだ来ない。その関係で今までは主治医の外来患者の診療は水、木の週2回行われていたが月曜日も行うようになった。週3回も外来患者の診療を行うのは大変だと言っていた。先週の木曜日に診療できなかったが、月曜が診療日になったため1週間の延長をしなくて済んだのは患者にとってみれば運が良かったという感じだ。

白血球が減少してきているので、せめて免疫グロブリン(抗体)の方を少しでも強化しておこうということで、免疫グロブリン製剤の点滴を行った。この点滴は2時間かけてやるので病院で1日過ごす事になる。免疫グロブリン製剤の点滴をやるということは、IgGの結果次第だということで当日急遽決まる。「医療・相談室」で本を借りて来た。2時間をベッド過ごすには寝てるか本を読んでいるかしかない。血液内科の診療日には午後の予定は入れられない。

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健康ぶんきょう21講演&対談「いのちを想いあう」

9月25日〈日)
健康ぶんきょう21講演&対談「いのちを想いあう」
~つよくてあたたかくてやさしい日本へ~


13時から文京シビックホールの大ホールで、文京区、公的骨髄バンクを支援する東京の会主催で「いのちを想いあう」と題して集会がもたれた。定員1,000名の会場で応募多数の場合は抽選となるとあったが、実際に参加者は500~600人位だろう。

東日本大震災があり、多くの人が今までの価値観を考え直さなければならない状況の中で、いのちの大切さを改めて自覚する時であり、人の優しさ、暖かさが必要とされている時なのである。そういったことを講演や対談の話を聞く中から感じとってもらいたいというのが集会の趣旨である。

第1部 鎌田 實さんの講演

最初に司会から鎌田さんについて紹介される。彼は現在諏訪中央病院名誉院長であるが、医師として長野県の地域医療を支える一方で、災害の医療支援活動や、チェルノブイリやイラクの救援活動など、幅広い活動を通じて「いのち」の現場に接している。今は東日本大震災の被災者のための活動に従事している。

鎌田さんの話
人生も日本の経済も波である。激しい時も、穏やかな時も色々な姿をとる。若い時に諏訪中央病院にやって来た時には、病院は老朽化し、4億円の累積赤字を抱えていた。なんていう所に来たのだと思ったが、人生は波だ、うまく波に乗って行く外にない。ということで腰を落ち着け病院の改革に着手した。

私の活動は国内のみならず、チェルノブイリでの原発被災者の医療活動を行い、日本から何億円もの医薬品や医療機器を送った。又イラクでは劣化ウラン弾でがんになる子供たちがいる。イラクの子供達への医薬品も大幅に不足している。ここにも何億円もの費用がかかる。日本での活動は彼らに医薬品を送るための金集めがかなり主体とならざるを得ない。名の知れた演奏家に頼んで演奏したものを吹き込んだCDを売っての金集めも行なった。1億円集まった。

私の発想法は、患者が何を求めているのかを知ろうとする前に、自分が患者だったらどうして欲しいかを考える。全てにおいて自分だったら何をして欲しいかから出発する。10年以上も介護を続けている主婦は確かにいる。しかし普通の主婦だったら3、4年が限界だ。それ以上は精神的に難しいだろう。そこでディサービスという制度を考え出した。週何日か朝車で迎えに来て老人ホームなどで日中は皆と和気藹々と過ごし、夕方家に送ってもらって帰ってくる。主婦はその間自由な時間が持てるし、老人も仲間が出来て楽しい時間が過ごせる。

東日本大震災の避難所に行った。彼らは何をして欲しいのか。温かいものを全く口にしていないということだった。そこで知り合いに頼んでお湯で温めればいい大量のレトルトのおでんを持ってきて振舞った。それにビールを差し入れた。被災者の漁師は言う「今まで家族にも先立たれ死ぬことばかり考えていた。しかしおでんとビールで少しは生きる気力が出てきた。漁に出られたらもっと元気になれるだろう」と。

またずっと風呂に入っていないということだ。中には津波で海の水を被ってその服をずっと着ている人もいた。知り合いと協力して1000人風呂プロジェクトを立ち上げた。風呂を様々な所に作る事になった。暖かいものを食べ、お風呂に入り生きる元気が出てくる。まさに人の温かさも含めて温かさの連鎖がそこに存在する。

フロイトは言った「働く場がある。愛する人がいる。この二つがあればどんな困難な時でも生きていける。」

「いのちを想う」とはどういうことなのか。いのちをつなぐとはどういったことなのか。鎌田さんは彼の知り合いの人に起こった出来事を語る事によってそれを示そうとした。

1、1968年のプラハの春はソ連の戦車によって鎮圧された。1988年のチェコで知り合いのチェリストが改革思想の持ち主だということで逮捕された。彼の妻は小さい子どもを抱え生活に行き詰っていく。知り合いも親戚も彼女との関係を避ける。自殺を考えていたある時一通の封書が届いた。その中には激励の言葉とカンパが入っていた。その人の住所を訪ねたが封書に書いてあった住所は架空のものだった。彼女との関係が明らかになれば自分も逮捕されかねない。

しかしその手紙は彼女を元気付けた。一人でも自分の事を理解する人がいれば生きられる。彼女は自殺を思い止まり、生きる気力を取り戻すことが出来た。

2、諏訪中央病院に入院していた50歳の女性患者がいた。彼女は末期がんで余命数ケ月しかなかった。彼女は夫とフランス料理店をやっていた。「いつかまた料理を作りたい」それが彼女の唯一の願いだ。鎌田さんは病院の調理場を彼女に貸してあげるよう病院の調理担当者と話をつけた。自分の店からテーブルクロスを持ってきて、ボランティアに手伝ってもらって作りあげた料理を皆に振舞った。メインディシュを作る予定日の前日に彼女は死んだ。

夫は言った。いい時間を与えてもらった。どんな料理を次に作ろうかと考えている時ほど充実した時はない。やりたいことがあることほど幸せなことはない。彼女の最後にそんな時間を持てたことは彼女にとって何にも増して意義のあることだった。

3、被災地で両親を震災で亡くした息子と話をした。彼は言う「多くの行方不明者の人の遺体が見つからないでいる。運よく見つかった。また両親の死体は寄り添っていた。一緒に死ねた。大酒のみの父親は死ぬ時は家で死にたい、と言っていた。それがかなった。」こういった発想法は重要だ。ほんのちょっとでもいいことを探し出す。それで、絶望の淵にいても生きることが出来る。

4、スキルスがんで余命3ケ月といわれた婦人が、娘の高校の卒業が6ケ月後にあるのでそれまで生かして欲しいと医者に言った。医者は困ってしまったが、その婦人は娘の卒業式まで生きた。さらに年子の娘がいて1年後に高校を卒業する。その時まで生きていたい、その思いが通じてか、余命3ケ月と言われてから1年8ケ月生きた。子どものために生きたいという母親の願いの強さを見た。子供にいのちのバトンタッチをしたという感じだ。

5、「雪とパイナップル」という童話を書いた。これはチェルノブイリ原発事故の救済活動で知り合った少年とその家族をつづった絵本である。アンドレイという少年は原発事故に関連して白血病になり、骨髄移植をしたが敗血症にかかり、ほとんど物を食べられなかった。母親が何か食べたい物があるかと何度もアンドレイに聞く。アンドレイは何年か前に一度だけ食べたことのあるパイナップルを思いだし母親に言う。母親は厳寒の2月何処にもパイナップルなどないと諦めた。

その話を聞いた日本人の看護師は、少年のために極寒の中、パイナップルを探し歩いた。町の何処の店にも置いてなかった。しかしその話を聞いた町のある人が自分の持っていた缶詰のパイナップルを提供してくれた。そのためかどうかは分からないが敗血症は徐々に良くなり治った。しかし10ケ月後白血病が再発しアンドレイは帰らぬ人となった。家族今でも看護師への「感謝」の気持ちを忘れない。

現在白血病の治療は進歩しており、安心して最高の医療を受けられる状態にある。こういった時こそいのちを皆でちょっとずつ支えあい、助け合うことが必要だろう。たくさんの人がいのちの現実を理解してくれれば、皆が少しずつ理解するようになれば日本は変わっていくだろう。いのちのバトンタッチ、いのちをつないでいくこと、回りが皆暖かくなる、皆がほんのちょっとでも支えあっていけるような社会を作っていこう。

第2部 ジョン・チャヌさんのヴァイオリン演奏

ジョン・チャヌさんは音楽を通じて“いのち”“愛”“平和”のメッセージを送り続けるヴァイオリニストで、JR新大久保駅での事故被害者の方々への追悼コンサートなどを行ってきた。こういった紹介に続いてすぐに演奏が始まった。

最初はエルガーの「愛の挨拶」である。これは彼の聴衆へのメッセージである。次にショパンのノクターン〈遺作〉の演奏である。「戦場のピアニスト」の話をして演奏に入る。この曲はピアノ曲だがヴァイオリン用に編曲したものはピアノ曲よりも哀愁を帯びてしっとりとした情感にあふれている。これは演奏家の心の現われだろうか。

ドボルザークの「母が教えたまえし歌」、リムジン河、さだまさしの「コスモス」と次々とトークを交えながら演奏していった。ピアノ曲や歌の曲をヴァイオリンに編曲して演奏するのもなかなかいい。感じが全く違ってくる。トークの中でリムジン河の中で語られようとしているのは、対立から和解へ、戦争から平和へ、憎しみから愛へ、絶望から希望へと希求する民衆の心だといった話をした。

ジョン・チャヌさんの提案で、演奏の最後に鎌田さんと演奏+トークをしようという事になった。鎌田さんが物語を語り、そのバックの演奏をジョン・チャヌさんがするという趣向だ。チャヌさんが演奏を始めしばらくすると鎌田さんがパレスチナでの話を始める。

鎌田さんの語る物語

私の命のリレーは6年前から始まった。そのきっかけはパレスチナでイスラエル兵に頭を打ちぬかれて死亡した少年の父親の行動にある。少年は脳死状態だったが心臓は動いていた。医者が父親に少年の心臓を提供してくれといった。私はイスラエル・敵国に心臓を渡すなどありえないと思った。しかし父親は心臓の提供を認めた。心臓は12歳のイスラエルの少女に移植された。少年と同じ年だった。

父親にどうして敵に心臓を提供することが出来たのか聞いてみた。彼は言う「溺れている人がいたら、泳げるのであればすぐに水に飛び込んで助けようとするだろう。国や宗教を聞いてから行動を起こす人はいない。12歳の少女の命が息子の心臓を必要としていた。迷ったが息子の命が他の人の体の中で生き続けてくれることがうれしい。

少女が大きくなって父親と話をする機会があった。12歳の時いつ死ぬかそのことばかり考えていた。心臓を移植してからは全く普通の生活ができるようになった。医者を目指している。医者になったらパレスチナの人への医療活動を行ないたいと言った。父親の勇気には感心する。憎しみを脇において敵に心臓を渡した。これこそ命をつなぐ行為なのだろう。

第3部 いのちのトーク〈略〉
鎌田 實さん
坂巻 壽さん(都立駒込病院副院長)
大谷貴子さん(公的骨髄バンクを支援する東京の会)
進行役:村上信夫(NHKエグゼクティブアナウンサー)

坂巻 壽さん...都立駒込病院の医師として、白血病治療や骨髄移植を通じて、日々「いのち」を救い続けている。
大谷貴子さん...20年以上前に白血病と診断され、骨髄移植を受けて「いのち」を得た。その後、骨髄移植を広める活動を通じて「いのち」の大切さを伝えている。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

Y氏からのレポート 那須・北温泉

Y氏よりの投稿
「もうやめよう、攻撃だ、防御だというのは」とあるロックバンドの演奏者が言った。しかしぼくはそういった文章ばかりを、これまでずっと書いてきた。自分に楽しい文章をこんなに書くのは初めてだよ。北温泉のレポートを添付します。(Y氏からのメール)

Y氏の北温泉の旅行報告が送られてきました。私の文章はどちらかというと記録を中心とした文章なので味も素っ気も無いものになってしまいがちです。その点Y氏の文章はユニークな発想法で感想を中心に書かれています。旅行の様子、その日常性が手に取るように感じられ、どういった旅行かを読む人により一層理解させるのに役立つ文章だと思いましたので掲載します。

無題

八月も終わりに近づき、1週間ほど前からツクツクボウシが鳴き、夕方にはヒグラシの鳴き声が加わる。
小学生だったときのこの頃、ぼくの頭は夏の思い出でいっぱいだった。一泊だけだけど家族みんなで行った逗子の海水浴。名栗川のハイキング。母がパンに胡瓜とマヨネーズと挟んでくれた。その美味しかったこと。虫採りで熱中症みたいになった昼、赤や緑の麺が混じっていた冷麦の冷たかったこと。青い空、白い雲、遠い水平線、沢山の夏の思い出。だが、それももう終わる。学校が始まってしまう・・・。哀しかった。(結婚後、奥さんに聞いてみたら、彼女は、「学校が始まるのが待ち遠しかった」と言った。)

だがあれから50年が過ぎ、ぼくはいま、このときを待っていた。夏休みは終わり、人々は日常に、職場に、学校に戻る。さあ、温泉に行こう!今回は友人H君との2人旅だ。彼とは学生時代、札幌ラーメンの出前のバイトを3年間くらいやった。それ以来の付き合いである。H君から電話がかかってきた。

ぼく「いよいよだね」
H君「いよいよだ」

秘湯を探す
全国に温泉地は3千8百か所あり、温泉施設は約1万9千軒あるという(日本温泉遺産を守る会代表・野口悦男『認定・温泉遺産』kkベストセラーズ.2007年刊による)。その中のどこへ行くか。「秘湯」である。秘湯とは「めったに人の行かない山間の温泉」ということで、朝日旅行創業者・岩木一二三氏の昭和50年の造語だそうだ(日本秘湯を守る会のHPによる)。道理でわが家の昭和49年刊『広辞苑』に「秘湯」の項目はない。

どこに泊るか。豊国館の経験から、「自炊もやっている宿」である。
選択に当たって大切なのは、「脱・都会性」と「鄙び性」。当然、温泉街は除かれる。大ホテルがあるのもだめだ(この点、豊国館は残念なところがあった)。○○閣とか○○楼というのは論外。次に、まあこれは付随的なことだが、一泊2食で1万円以下、できれば8千円以下ということ(要するに安い宿ということじゃないか)。自炊を受け入れる宿は、ほぼ自動的にこれらの基準を満たす。

選定過程の詳細は割愛する。栃木県の那須・北温泉旅館に9月12日から3泊の予約を入れた。東北新幹線・那須塩原駅からバスで50分、那須岳登山ロープウェイ停留所手前で乗り換えて3分、北温泉入口停留所で下車し、徒歩1700m。標高1650mの谷あいに北温泉はある。

北温泉129_convert_20110924230527 北温泉旅館入口

宿は北温泉旅館1軒だけ。創建創業は1850年代の安政期で、その後、建て増しされて今に至る。宿泊料金(一泊2食)は、安政期建築の「松」7500円、明治期の「竹」8500円、昭和期の「梅」9500円。自炊の人には安政期の建物が提供され、4500円くらい。

那須・北温泉旅館
「昔の建物のほうが高そうなものだけどね」と訝しみつつ、ぼく達はニコニコと「松」を選んだ。
(以下、画像は北温泉公式サイトHttp://www9.ocn.ne.jp/~kitanoyu/をご覧いただきたい。)
源泉は建物脇の崖40m位の高さから湧き出している。

北温泉081_convert_20110924230435 滝として流れ落ちる温泉

温泉分析書によると、湯温56度。泉質は無色無味無臭。浴場入口には「アルカリ泉なので石鹸を使わないで下さい」とあるが、pHは6.5。温泉法(昭和23年7月10日法律第125号)はpH8.5以上をアルカリ泉としており、6.5は「中性」で、「単純温泉」である。「温泉成分効果は期待できないが、皮膚の弱い人には温熱浴で細胞や毛細血管などの新陳代謝にいい」(前出・野口210p)という。H君は「最初、入ったとき、皮膚がピリピリした」といったが、新陳代謝が始まったのだと思う。湧出量は「毎分481.2ℓ(自然湧出)」、これは凄い! 1分間に1升瓶267本です。1時間に4斗樽400個の湯が湧き溢れる。 

浴室は安政期からの混浴のもの3室-内訳は、浴槽5×3mで大天狗のお面3ケが壁に掛かかる「天狗の湯」、源泉が3mの天井から降り注ぐ「打たせ湯」、浴槽の一部がベット状にしつらえてあり施錠できる「家族湯」。現認できなかった女湯1。より新しいと思える露天風呂が男女別各1(男用の浴槽は直径4m弱)。加えて8×12m(これは大きい!)深さ1mの温泉プール。その脇に茶室を思わせる男女別浴棟。計9棟。すべて源泉かけ流し。

旅館全体が浴槽から溢れて流れる湯の中に佇んでいるという風情。湯は旅館の脇、那須山塊・朝日岳の沢水を源流とする幅10mの毘沙門沢に流れ込む。ごうごうと渦巻き流れる5段の砂防ダムを見下ろす露天風呂は「河原の湯」と名付けられているが、「滝壺の湯」が相応しい。秘湯でしょう? とにかく珍しいことがいろいろあって、その規模が大きい。ここまで書いてきて、なんか疲れてしまった。

北温泉075_convert_20110924231849 天狗の湯

ぼくの秘湯経験は豊国館とここだけだが、共通するものがある。
浴槽の排出口: 源泉が注ぐ浴槽の反対側(湯尻といいます)に幅10㎝深さ2㎝程の排出口が切り込まれていて、湯に落ちた枯れ葉や虫や塵を流し出す。浴槽が大きいと切り口はやや大きくなるが、とても大きくはならない。
自炊室:造りは長方形。眺めのいい窓に面して調理スペースと流し。北温泉は厳選を蛇口からかけ流し。反対側にガスコンロが並び、壁面の棚に調理器具と食器類がいっぱい。電子レンジ、オーブン、炊飯器、冷蔵庫。北温泉には洗濯機も。洗剤1回分30円。あとはみ~んなタダ。

食事は「松」の大広間でいただく。囲炉裏が切ってあり、安政の雰囲気はいいのだが、板の間で座布団一枚はつらい。ぼくは、足の長さとか太さに問題があるのか、胡坐をかくと後ろにひっくり返りそうになる。正座すると、即、痺れる。やむなく、横っ座りしたり立て膝したりで凌いだが、H君も苦しんでいたようだ。次回からナップザックに枕2ケを詰め込んでお尻に敷くことにした。

ぼく「お葬式で、親族なんかは大変だよね。お客の手前、正座しないといけないから。お焼香になって、柱につかまっちゃったおじさんがいたよ」
H君「お寺は随分前から椅子になってるよ」
ぼく「痺れを越して感覚を失った状態は危ない。立ち上がろうとして足首を骨折した人もいるというよ」
H君「うちの奥さんはダイニングに座布団を敷いて炬燵机で食事するの。このあいだふわふわの座椅子を買ってきた。ぼくは横のテーブルと椅子で食べてる」
ぼく「鍋物のときはどうするの? そういうことから夫婦の亀裂が広がるんじゃないの」
H君「ははは」

ぼくたちは年金生活者で、家計の主たる担い手は若い(といっても1,2歳だけど)正職員をしている奥さんたちである。彼女らに離縁の口実を与えてはならない。今度、ぼくがH君宅を訪問したときには、ダイニングの隅に枕を詰め込んだ袋1ケを見るだろうと思う。
初日の夕食は、岩魚の塩焼き、トンカツ、茶碗蒸し、きんぴら牛蒡、風呂吹き大根、吸い物、香の物であった。銘々膳に乗りきらない。きんぴら牛蒡は割り箸くらいの太さだ。

H君「ぼくはきんぴらの牛蒡はササガキにしてたけど、このくらい太いと楽だな」
ぼく「牛蒡と人参の味がしっかり味わえるね」
主夫としての二人の会話は、短くとも内容あるものになる。

温泉心得

秘湯経験は10日にもならないが、ぼくは入湯の要領・作法を感得しつつある。さらに磨きをかけて「温泉人(オンセンニン)」を目指したい。「人(ニン)」には、「道」への奉仕一途の人というニュアンスを感じる。例えば、時代小説作家・隆慶一郎氏は「いくさ人」を造語し、「いくさ人・直江兼続」「いくさ人・秀吉」などとしている。「温泉人」はぼくの造語。ともに『広辞苑』に項目はない。

心得 其の一
 タオルは鉢巻きにすること:タオルの扱いにはみんな困っている。
湯の中で顔を拭ったり、浴槽の縁に置いたりするのは温泉人の最高禁忌「湯を汚していはけない」に触れ、顰蹙をかう。洗面器に入れておいたりすると、局部を覆うなどの急場に慌てる。鉢巻きにするとこれらの問題は生じないし「いなせ」でもある。温泉場のペラペラのタオルは鉢巻きに丁度いい。困るのは、湯上り時に、鉢巻きにしているのを忘れ、一瞬うろたえて悔しい思いをすること。今回もそういうことが3回あった。今後、そうしたことのないように努力したい。

其の二 空いている時間に入ること:混んでるときに流しに寝そべったりすると「トド状態」などと嫌がられる。大体、混んでいる時には、ゆったりした湯との対話などできない。満天の星、吹き渡る谷風も楽しみにくい。空いている時間に入るのがいい。具体的には、①早朝3時半-起きている人はまずいない。長谷川周平の時代には、盗賊が押し入る時間だ ②朝8時-宿泊客がチェックアウトを始め、日帰り入湯者はまだ来ない ③12時半-みんな昼食休憩中 ④午後5時半-日帰り入湯者が帰り、チェックインした宿泊客は夕食のために部屋で待機している。

其の三 空いている日に泊まること:上記対策も、人でごった返す日、期間にはあまり効果がない。温泉行はシーズンオフの月~木曜を選びたい。今回はシーズンオフだった。2日目の火曜日、40数室に泊り客はぼくたちと2・3組の自炊客だけになった。自炊の人は自室で食事する。安政の暗い大広間で2人だけの夕食は淋しい。宿の人は夕食を部屋に運んでくれた。

其の四 朝湯の後は外に出ること:入浴はカロリーを消費するというが、ご飯を美味しく沢山いただき、かつ太らないため、歩こう。秘湯の周りは自然がいっぱいだ。朝湯の後に野山を散策しよう。帰館後には秘湯で汗を流す。午後は読書と午睡。 何という豪奢! 王侯の暮らし! 

だが、このことは公言すべきではない。ここ数年、政府・支配階層は、世間特に若い人たちに年金生活者への嫉視を煽り、双方からの収奪に奏功しつつあるからだ。古人の警句「俗耳、俗論を容る」もものかわ、先日、山口二郎・北大教授は東京新聞「本音のコラム」で団塊年金生活者=金満論を開陳されていた。ぼくは言いたい。「ぼくたちが携わっているのは、魂の豪奢の探求なのです」。

其の五 浴衣を見くびらないこと:自然観察路から帰館し、帳場の前の自販機で飲み物を物色していると、「日帰りのお客さんですか?」と刺々しい声をかけられた。通いのパートの女性だ。おどおどと「あの、昨日から泊まってるんですけど」と言うと、「あら、失礼しました」と「宿の人」の笑顔になった。帳場を通らない不埒な日帰り入湯者がいるらしい。こんな目にあわないよう、館内では浴衣を着ていたい。宿泊客は、騒がしい日帰り入湯者達からも一目置かれる(置かれてどうする)。

温泉ではみんな裸だ。混浴だらけの秘湯では、女体の一部(客観的表現だか、なんかよくないかもしれない)さえも目に入ってしまうが、犯罪にはならない。誰もが裸に慣れていく。しかし、浴衣の前や胸をはだけたりするのは温泉人として慎みたい。

那須自然観察道、那須岳(茶臼岳)散策-「数式で考えるべき」こと
2日目、3日目の午前中は標記のトレッキングにあてた。
出発に際しH君が言うには、「持病のため服用している薬の副作用で、赤血球と酸素を運ぶヘモグロビンが3分の1減少し、あと10%減ると入院・輸血が必要になる。従って激しい運動は困難なので、とりわけ登り道では気にせずに先に行ってほしい。」
那須観光協会刊のトレッキング・マップにはルートごとの所要時間が細かく書いてある。ぼくは記載所要時間にその3分の1を上乗せして歩くことにした。記載所要時間が60分なら80分を目安とした。

北温泉046_convert_20110924230404 茶臼岳山頂

最終日の帰途、北温泉入口バス停への風景には飽きていたのでこの問題を考えた。「時速6㎞の自転車が60分かかる距離を時速4㎞の自転車は何分で走るか?」
2台が同時にスタートし、時速6㎞の自転車は6㎞を60分で走る。一方、時速4㎞の自転車はあと2㎞走らねばならず、それには30分かかる。合計90分! 80分ではなかった。

日常的思考ではなく、反比例の数式「60分×3/2」を用いるべきだったのである。
救急車-入院-輸血の事態を招きかねなかった。危ないところだった。「数式でものを考える」ことの大切さを教えられた。H君にはこの場を借りて謝りたい。

そのほかのこと
初日9月12日は中秋の名月だった。風に飛ぶ雲間の月を、早朝3時半の温泉プールから見上げて過ごした。万座の初日8月15日も十五夜だった。
安政の客間「松」は木と土壁で堅牢だし施錠もできる。6畳間は2人にはやや狭く、天井は身長166cmのぼくの手が届く程、低め。だが、見たところ、より広い竹と梅を選んでいる宿泊客はいなかった。
各浴槽の窪みには藻が生えている(トロロ昆布状であって、ワカメ状ではない)。ぼく達と同年輩に見える目元の涼しい女将さんは、「藻が生えていて掃除してないと思われるんですが、プールは週1回、他は週2回、午前中に掃除するんですよ」と涼しい声で言った。ぼくは清掃の模様を見たかったのだが、散策に出ている間に行われたようだ。

館内の自販機でアサヒドライ350ccを350円、500ccを500円で販売。淡麗生はなかった。

他に書き留めておきたいことは多々あるが、既に紙数も尽きた(誰が紙数を決めた?)。ここでレポートの筆をおく。

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鳥羽「芭新萃」・嵐の中の1日

9月21日(水)
台風15号は昼前に紀伊半島を通過する。既に雨は朝から激しく降っていて、風が段々と強くなる。サッシの窓だがしっかり閉めていてもがたがた音がする。窓の外の木々は千切れそうなほど左右に揺れ動く。建物事態が揺れている感じがし落ち着かない。とても何処かに出かけられる状態ではない。今日予定していた「海のゆらり」の鳥羽から志摩にかけての海岸線を巡るコースに出かけるのは不可能だ。

果たして今日東京に帰ることは可能だろうか。明日血液内科の診療があるので出来るだけ今日帰りたい。夕方になれば台風は愛知から静岡方面に移動する。そうなれば少しは風雨も収まるだろう。しかし鳥羽港から伊良湖港までのフェリーは今日一杯欠航するということだ。また名古屋に向う鉄道も多くは運休となっている。

車で名古屋に向うとしても、周辺は水害の影響で通行出来ない箇所がある可能性は当然予測される。午後になって東海地方の暴風雨のため東名高速道路も通行止めになった。一番決定的なのは、13時頃より新幹線が全面運休に入ったというニュースが入ったことだ。無理して名古屋まで出たとしても、東京までの列車がない。

朝から何処にも行くことができず、NHKでひたすら放送している台風情報番組を漫然と見ている以外どうしようもなかった。名古屋市の庄内川流域の洪水の情報が多い。都市型洪水の見本のようなもので、東京でも今回名古屋に降った雨量が降れば、名古屋並みの洪水に見舞われかねない。

旅館でDVDの貸出しをやっていると部屋にある館内案内パンフレトに書いてあり、150種類のDVDのメニューが載っていた。そこから3本面白そうなのを借りて見始めた。アクション、ミステリー、サスペンスといった肩のこらない内容のものばかりだ。昼には外に食べに出る事もできず、旅館でおにぎりを作ってもらった。

13時の新幹線運休のニュースを聞いてもはや今日中に帰ることは出来ないと諦め、もう一泊停まる事にした。明日には台風は北海道まで行ってしまうので天気の方は大丈夫だろう。朝一番のフェリーで出発すれば13時には東京に着くことが出来るだろう。診療予約時間に少しは遅れるが、前回の診療の時、地方に出かけていて遅れる可能性があったのでその旨医者には言ってある。

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 石鏡漁港

15時頃雨は止み薄日が差してきた。風もかなり収まってきた。ずっと部屋にこもりっ放しだったので少しは体を動かしたい。石鏡漁港まで5分位なので出かけてみる。道には木の葉や枝がかなり散乱している。旅館からひたすら下っていくと石鏡漁港に出る。朝なら取れたての魚が水揚げされる所を見学できるが、台風の暴風雨を見越して漁船は全て港に係留されているようだ。防波堤の内側にきれいに列を作って並んでいる。

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 漁港から見た太平洋                    旅館の窓からの景色

夕食時間となった。昨日は伊勢海老づくしだったが、今日は何が出るのだろうか。前菜や酢の物、鯵のお頭付きのものを中心とした4種類の刺身を盛り合わせたお造りが出た。そして今日のメインの料理は伊勢牛の石焼き、さざえの壷焼き、あわびの陶板焼きである。昨日とは全く趣向が違うのでもう一泊した斐があったというものだ。

夕食後露天風呂に行ったがまだ風が強かった。湯船に落ち葉がかなり散っていると思ったが、片づけたとみえて全く無かった。何もやることがないので、温泉に入る外ない。昔は湯船に1,2分浸かってすぐに出てきたものだが、年をとったせいか、温泉に入れば30分位はいる。湯船に浸ったり出たりしながら温泉を楽しむ年齢になってしまったようだ。

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伊勢神宮・鳥羽「芭新萃」

9月20日(火)
 伊勢・鳥羽に行ってどこを回ろうか。伊勢志摩国立公園のHPに「伊勢志摩のきらり」という項目があり、そこに周遊コースが紹介されていた。

「歴史のゆらり」
のメニューとして次のコースが紹介されていた。
豊受大神宮(外宮・伊勢神宮)→皇大神宮(内宮・伊勢神宮)→おはらい町・おかげ横丁→金剛澄寺→松尾観音寺→伊勢河崎商人館

「海のゆらり」
のメニューとしては
鳥羽展望台→大王崎灯台→ともやま公園→賢島大橋→横山展望台と紹介されていた。色々考えても行ったことがないのでどこがいいか判断はつかない。お勧めコースとして紹介されている場所を巡るのが無難だろう。

予定としては20日に伊勢に着いたら「歴史のゆらり」を回り、鳥羽の旅館に行く。21日には「海のゆらり」を巡り昼頃には鳥羽に戻れるだろう。それからフェリーに乗り浜松まで行きそんなに遅くならずに東京に着けるだろう。そして次の日の血液内科の診療に間に合う。そういった予定を立てていた。しかし台風15号はその予定を全く変えてしまった。

 豊受大神宮(外宮)
伊勢神宮・外宮の駐車場に着いたのは15時を少し回っていた。強い雨に何度も途中見舞われながら、高速道路が50km制限になり、暴風雨で出したくても速度が出ない。途中の休憩・食事なども入れて6時間強かかってしまった。コース全部を回るのは無理なので、伊勢神宮の外宮と内宮だけは回ろうということにした。外宮へは駐車場に近い北御門参道から入った。

火除橋を渡り社務所と神楽殿を左に見ながら右に曲がると御正殿(正宮)がある。歴史を感じさせる古い建物だ。杉の巨木が入口にあり、鳥居を潜るとすぐ参拝場所となる。ただお参りする所は薄い布で覆われていて風が吹くと中が見えるが通常は奥の本殿は見えない。ただし横の所からは見ることが出来る。正宮の周辺に風宮、土宮、多賀宮が配置されている。帰りは第二鳥居、第一鳥居をくぐり、火除橋を渡り表参道を入口に向う。

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 正宮参拝場所                                正宮入口の杉

八鹿伊勢おば051_convert_20110924162354 正宮本殿

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 北御門鳥居                         神楽殿
 
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 風宮                             土宮

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 多賀宮                            表参道火除橋

伊勢神宮: 伊勢の宇治の五十鈴(いすず) 川上にご鎮座の皇大神宮(こうたいじんぐう、内宮=ないくう)と、伊勢の山田の原にご鎮座の豊受大神宮(とようけだいじんぐう、外宮=げくう)及び別宮など125社神社の総称です。

外宮:
食物・穀物を司る神である豊受大御神がお祀りされています。内宮創建から500年後に伊勢の山田原にご鎮座された『衣食住をはじめ、あらゆる産業の守り神』です。御正殿は「唯一神明造」という日本古来の建築様式を伝える。屋根は萱葺きで、9本の鰹木がのせられ、先端の千木(ちぎ)は内宮の御正殿とは異なり垂直に切られています。

内宮:
 皇室の御祖先の神である天照大御神がお祀りされています。垂仁天皇の26年(紀元前4年)に、神路山・島路山を源とする五十鈴川の川上にご鎮座された『日本人の総氏神』です。

 皇大神宮(内宮)
 外宮から内宮まで車で10分位だ。両者をつなぐ路線バスもある。内宮の入口は宇治橋である。この橋を渡る手前の左側に土産物屋が並んでいる。赤福の看板が見える。五十鈴川にかかる宇治橋を渡る。橋の入口に宇治橋鳥居が立っている。神苑という松が形よく植えられた庭を見ながら火除橋を渡る。

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 宇治橋                            五十鈴川

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 風日祈宮橋                         風日祈宮

第一鳥居、第二鳥居をくぐると社務所がある。その横に神楽殿があり、その前に看板があり風日祈宮の方向を指示していた。風日祈宮橋を渡るとすぐ風日祈宮である。又神楽殿まで引き返ししばらく歩くと目的の場所御正宮が神社の一番奥にある。入口から歩いて10分以上かかる。

八鹿伊勢おば077_convert_20110924163211 正宮

八鹿伊勢おば080_convert_20110924163246 神楽殿

神社の境内は鬱蒼とした杉林に囲まれ、また五十鈴川に御手洗場があり、参拝する前に心身を清める場所となっている。ここで手を洗い、気分も新たに参拝する。森と川に囲まれた静謐な雰囲気が漂っている。既に16時半を過ぎているのに、戻る時かなりの数の参拝者とすれ違う。この悪天候の中を参拝に来ているのには驚かされる。観光バスであれば少しぐらいの悪天候でもスケジュール通りバスを走らさざるを得ない。乗客はキャンセルされるより行く方を選ぶだろう。

 鳥羽「芭新萃」に向う
最初の予定では、内宮の後幾ケ所か回る予定だったが、既に17時を過ぎていて目的の旅館は鳥羽からかなりの距離があるというので、旅館に向けて出発した。伊勢二見鳥羽ラインで鳥羽市街まで行き、そこから志摩半島を海に沿って走るパールラインを進んで行く。この道は鳥羽湾の風光明媚な景色を観賞するために作られたのか、左側に展開する海に浮かぶ大小の島々の景色はなかなか見応えがある。20分ばかり走り海の博物館を通り過ぎ、石鏡(いじか)町に至る。旅館は石鏡漁港の上の丘に建つ「芭新萃(はなしんすい)」という所だ。

部屋は10畳間とその外二部屋あり、バストイレ付きという豪華なものだった。北温泉では6畳一間で過ごしたので余計そう感じるのかもしれない。料理は食にこだわり、伊勢志摩の素材をいかしつつ、創り上げた独自の創作会席料理が自慢だと紹介されていた。おそらく伊勢海老堪能プランを頼んだのだろう。伊勢海老づくしだ。夕食は旬の海の幸を使用した約10品の創作会席料理で、旬のお造りにさらに伊勢海老のお造りが出て、半身の伊勢海老の鬼殻焼き、煮物とめったに食べることが出来ない伊勢海老を堪能できるコースだった。

風呂は石鏡温泉に属している。泉質:温泉ナトリウム・カルシウム-塩化物泉、効能:神経痛、筋肉痛、関節痛などとなっている。大浴場や開放的な露天風呂は通常の温泉旅館の作りだ。着いた時にウエルカムドリンクとして抹茶と甘い物がでたり、9時頃夜食用としておにぎりを持ってきてくれたりなかなかきめの細かいサービスを提供してくれる。

建物もホテル的なビルではなく、和風旅館として33年間営業してきた風格が感じられ落ち着いた雰囲気を与えてくれる。窓からは眼下に広がる緑豊かな自然と雄大な鳥羽湾の景色が眺望できる。夜になると風雨が強くなってきた。台風の影響はどうなるのだろうか。

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  芭新萃の客間                       露天風呂(芭新萃HPより)

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伊勢に向う

9月20日(火)
 八鹿に着いてから親戚の人が、20日から伊勢・鳥羽を巡り鳥羽からフェリーで浜松まで行くので、一緒に行かないかという話しがあった。八鹿に行く前に少し近所を旅行したいという話を親戚の人にしていた。もちろん本人も行くつもりだっただろうが、私が来るというので設定したというこもあるだろう。鳥羽で知っている旅館がありそこでは伊勢海老料理が名物だという。伊勢は一度は行きたかった。「お伊勢参り」は時代小説に必ず出で来る。それがどんな所か想像しているだけでは面白みがない。実際に見てみることが重要だ。

9時に八鹿を出発した。朝から雨が降っていって時々激しく降る。台風が近付いている。道路案内では八鹿から伊勢まで4時間とあった。関西方面の自動車道路についての知識はないが、高速道路網が完備していて、八鹿から30分ばかりは9号線(山陰道)を走ったが、それ以降は伊勢に至るまで全て高速道路を走る事になる。

9号線から北近畿自動車道に入り、春日で舞鶴若狭自動車、吉川で中国自動車道、吹田で名神高速道路、草津で新名神高速道路、亀山で伊勢自動車道といった具合にひたすら高速道路を走り、最後に伊勢市街に降りてからやっと一般道を走ることになる。

 時々激しい雨が降り、高速道路は50km規制になる。風と前が見えないほどの雨で運転手はさぞ大変だろうと思った。最初の休憩場所は舞鶴若狭自動車道の西紀サービスエリアだ。テレビでもよく放映されるが、サービスエリアの名物やB級グルメが人気を集めている。サービスエリアに入るとここの名物は何だろうといった興味がわく。西紀サービスエリアでは、丹波地方の特産品(松茸・栗・黒大豆・猪肉)や、日本海の海産物コーナーなど、四季折々のおすすめ商品が並んでいる。

「西日本ご当地丼ぶり決定戦2011」が行なわれていて、各サービスエリアは地元の食材を駆使してこれはといった丼を考案してサービスエリアの客に提供している。ここのサービスエリアでは「篠山まるごと丼」といって米は篠山産こしひかり、肉は篠山産の特産肉、山の芋も篠山産、根菜類も篠山産というものだ。

まだ食事には早かったので、篠山タルトを食べてみた。フレッシュバターとアーモンドで香ばしく焼き上げたタルトに丹波の特産品である黒豆と栗を練り込んだ物だ。老舗丹波篠山 梅角堂の味だという。地方の老舗銘菓店の物がサービスエリアで手に入るのも特徴の一つだ。

  ttttt.jpg 西紀サービスエリア

 雨は激しく降ったり止んだりしている。次に寄ったのは神名神高速道路の土山サービスエリアだ。ここは高速を利用しない地元の客も立ち寄る。関西・名古屋・伊勢の土産物売店、麺類・丼物・カレー・定食が食事できるフードコート、コンビニエンスストア(24時間営業)、近江牛が食べられるレストラン、ベーカリーカフェ、デザートコーナーなどかなり広い場所に様々な種類の店が並んでいる。丁度昼食時だった。ここ名物は滋賀県を代表する肉“近江牛”をリーズナブル食べられるということだが、旅館での夕食に期待して適当に済ませた。

何処でもブランド牛がいるとつくづく思った。八鹿から伊勢に向う道々、最初は但馬牛、その中でも特別の基準を満たした物が神戸牛である。そして滋賀県では近江牛、三重県では松阪牛と高速道路の沿線上はブランド牛の産地となっている。

このサービスエリアの甲賀の里にあり、近くの甲賀土山ICから高速を降りると忍者屋敷や忍者村がある。一つ山を隔てると伊賀の里がある。伊賀の里と甲賀の里がこんなに隣接しているとは思わなかった。

伊勢に向うに従って雨はいい塩梅に小降りになってきた。伊勢自動車道を伊勢西で降りて伊勢神宮の外宮に向う。カーナビなどあまり利用しないが、今のカーナビはよく出来ている。伊勢神宮・外宮で検索すると、第一駐車場、第二駐車場などの表示も出てくるので、駐車場への指示で車を動かせばいい。大体何処へ行っても目的地についてから駐車場を探すのに手間取る。そういった事を配慮した作りになっている。伊勢神宮・外宮に着いた時には運よく雨は上がっていた。

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八鹿の親戚の所に行く

9月18日~19日・八鹿にて
 家の2階の床と壁紙の張替えをする事になって、工事が始まるとしばらくは風呂場とトイレが使えなくなるということで、再び出かける事にした。山陰線の八鹿駅から歩いて5分位の所に親戚の家がある。11時近くの新幹線に乗り京都で特急きのさき5号に乗り換え15時半に駅に着いた。迎えに来てくれた車で家まで行く。

八鹿に行くのは10数年ぶりだろう。おそらく行くのはこれが最後だろう。法事とか結婚式とかなければ親戚の人に会うとか、行くとかいう機会はない。最近そういった機会が無く会うこともなかった。結婚式はあったが、仕事が忙しい時に重なって行くことは出来なかった。

親戚に家に行ったからといって特に何かをするわけではない。近況報告などはお互い30分もあれば終ってしまう。書斎にある蔵書から面白そうなものを引っ張り出してきて読んで時間を潰す。

 次の日は泊まった家の主人の姉の所に行った。その亭主であるN氏が素人の郷土史家のような事をやっていて、八鹿町八木にある今滝寺を案内してくれるという。まず彼の家で30分位今滝寺(こんりゅうじ)と今滝村(いまたきむら)の歴史についての講釈を受けてから、出掛けた。養父市教育委員会が今滝寺について重要文化財の写真入でパンフレットを出している。N氏は高校の教師をしていて校長にもなったが、定年退職後縁があって今滝寺に関わる事になった。

今滝寺は、八木城主八木氏の菩提寺で、1069年(延久元年)に創建したとされる。かつては観音堂(本堂)を中心にして九院三坊の寺院があった。現在は本堂と仁王門が残る。寺は、国道から10分ばかり車で急坂を登った所にある。途中左側に曲がる道に八木城址登山道という看板が目に入る。寺に行くには真っ直ぐ急坂を登って行く。

N氏は成人になって家を離れるまで、住んでいた家のすぐ傍に今滝寺があった。今滝寺の周辺は今滝村といって、何件もの家があり村落を形成していて、田んぼや畑が山の斜面を利用し作られていてそこで生活していた。やがて時が経過し、村落の人は段々と減り、残った人ももう少し生活のし易い国道沿いに移っていって、結局村落は消滅してしまった。

寺は誰も住む人がいなくなった時もあるといった寂れ方だった。しかしすぐ傍に住んでいたといったことで愛着があり、何とか寺を建て直したいという気持ちで、定年退職後時間はあるので、住職と相談しながら寺の再建について話し合った。

■ 今滝寺には、鎌倉時代から安土桃山時代までの約350年間に制作された仏教絵画が多く保存されていた。さらに特に重要なのは、弁財天像で、丁寧な筆致には崩れることがなく、制作は14世紀にさかのぼるという。弁財天に加えて毘沙門天が描かれている。弁財天と毘沙門天が七福神に加えられ、福徳神が集まりつつある時期の全国的にも貴重な絵画である。

こういった歴史的に貴重な文化財を山の中の寂れた寺の中において置くのは物騒だし、観に来る人もいない。そこで、姫路の国立歴史博物館に収め陳列してもらう事にした。特にこの寺にある「鰐口」(神殿や仏殿の軒先などにつるす円形・中空で、下方が横長にさけている銅製の具。その前につるした太い緒で打ち鳴らす)は1416年(応永23年)の寄進で、圏線が細く、繊細の鋳造がなされている。これを風呂敷に包んで姫路の博物館まで持っていったという話をした。20万円位の別の鰐口を買って本堂にはそれを吊るしてある。

歴史博物館に移動した今滝寺の仏教絵画などは極めて貴重なものであり、県指定文化財として鰐口、木造金剛力士像、十六羅漢図(九幅)、孔雀明王像(一幅)、弁財天像(一幅)、両界曼荼羅図(二幅)が指定された。

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 幾つかある滝の一つ                    今滝寺本堂

■ 車で急坂を登り10分位で今滝寺に着いた。途中幾つかの滝が流れている。雨がかなり激しく降っている。文化財の多くは姫路に持って行ってしまったが、古い仁王門は古色蒼然とした姿を表し、特に雨の中で見ると長い風雨にさらされた歴史を感じさせる。

「今滝寺(守任山)の仁王門の「木造金剛力士蔵」は、体内の墨書銘から1257年(正嘉元年)に制作されたもので、仏師は阿形像が澄玄、吽形像が淡路公と判明した。彫刻は素朴かつ重厚で地方作と思われるが、鎌倉時代中期の力強い力士像である。口を閉じた吽形と口を開けた阿形の2対である。」と仁王門前の案内板に書かれていたが、これ程古い仁王像はめったに見ることは出来ない。(金剛力士像の写真は「但馬情報特急」より)

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 仁王門                             熊野神社

仁王  仁王2
 金剛力士像 口を閉じた吽形             口を開けた阿形

今滝寺の裏手の石段を上ると熊野神社がある。これも崩れそうなほど古い。熊野大権現(和歌山県の熊野大社)が本山で、権現さんと阿弥陀如来を祀っている今滝寺村の神社であるが、誰も管理者がいないのか荒れるに任せているといった感じだ。

■ 帰り道、道々見える小高い丘に八木城址がある。N氏は八木城についても色々解説してくれた。通り道にある桑畑が八木氏の屋敷があった所だそうで、今発掘作業を行なおうとしている。国指定文化財データベースには八木城について次のように書かれていた。

「八木城は、中世但馬きっての豪族八木氏の城跡で山陰道に面した八鹿町八木の集落の後方の山上にある。八木の地は古来より但馬と因幡を結ぶ交通の要衝の地で、この一帯は中世には日下部を本姓とする八木一族の支配するところとなっていた。さらに初期穴太積による高石垣は、類例の少ないきわめて貴重なものである。これら、この城のもつ歴史的性格と遺構のもつ特色はきわめて重要であり、この城跡を史跡に指定し、その保存を図るものである。」

966_convert_20110923204019.jpg 八木城址のある丘

(参考資料: 但馬情報特急、国指定文化財等データベース)

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鳥羽からの帰京(血液内科診療の日だった)

9月22日(木)
血液内科の診療日だった。18日から関西の親戚の家に出かけていた。親戚の家に18日、19日と泊まり、親戚の人と一緒に20日に伊勢神宮に行って、鳥羽の旅館で1泊し、次の日、東京に戻る予定だった。しかし21日に紀伊半島を台風15号が通過し、強風と大雨で旅館から出られるような状態ではなかった。強風で建物自体が揺れるようだ。車を運転していたら飛ばされるのではないかと思われるほどだ。

鳥羽から伊勢に向う参宮線や、紀勢本線、近鉄線など運転を見合わせるとニュースが流れ、また13時頃から東海道新幹線も全面運転中止となって、また車で帰るにしても東名自動車道も通行止めとなっている。東京へ帰る手段はなかった。

もうどうしようもない。台風は移動が早く22日には、風も収まり晴れて来るということだった。旅館にもう一泊して22日の朝一番で帰る事にした。浜松駅まで送ってくれるというので、鳥羽港のフェリーターミナルから、伊勢湾フェリーを利用するのが東京への一番の近道だろうということだった。フェリーは始発が8時10分鳥羽発で55分で渥美半島の伊良湖に着く。そこから浜松駅まで1時間半位なものだ。

浜松から東海道新幹線こだまで2時間、うまくいけば1時過ぎには病院につける。ところが鳥羽港に着いたら、8時10分の便は欠航ということで、次の便は9時半だ。伊勢自動車道を通って名古屋まで行く手段はあるが、9時半のフェリーで行った方が運転手にも楽だし時間的にも3時間以上かかるだろうから、フェリーを待っていた方がいい。

1時間半待ってフェリーは出航した。空は晴れ、波も穏やかだった。鳥羽港から鳥羽市にし属している、一番大きな島、登志島と次に大きい菅島の間を通って、伊良湖岬に向う。途中三島由紀夫の『潮騒』という小説の舞台となった神島が右手に見える。

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 鳥羽港                            神島

伊良湖フェリーターミナルから渥美半島を海辺に沿った42号線で浜松方面に向かう。ここは、気候的に暖かいのだろうか。道路際にやしの木が植えられ、マスクメロンの販売所が街道沿いにあり、メロンのもぎ取り食べ放題の看板がある。春のいちごの季節にはいちごの摘みと産直販売になる。渥美半島を延々と1時間以上走り、国道1号線に出て、浜松方面に向かう。浜松市街は結構渋滞していて、浜松駅に着いたのが12時15分頃だった。

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 伊良湖港                           伊勢湾フェリー

12時20分のこだまに乗ったが、東京着14時17分ということだった。病院に着くのは15時頃になってしまう。診療はほぼ14時頃までだ。患者が多い時はもっと遅くまでやっている時もあるが、予約時間は過ぎても14時頃までに着けば診療時間に間に合う。

15時に病院についても血液検査をしてその結果を見ないと診断できない。実際の診療は16時過ぎになってしまう。診療が可能かどうか担当医に電話してみた。15時から用があるので、診断日は来週の月曜日11時に変更しようということになった。通常担当医の診療日は水、木なのだが特別に入れてくれたようだ。レナリドマイドを21日間服用し、1週間休薬するサイクルで行なっているが、休薬日が終わり、22日の木曜日服用を始める日だったので、一週間も遅らせるわけにはいかない。月曜日に診察日を入れてくれたのでどうにかなるだろう。

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北温泉 4日目

9月15日(木)
旅行最終日、夕方に戻るのにどういった便を利用すればいいか、旅館にあるパソコンで検索してみた。北温泉入口バス停発12:40―黒磯着13:30、東北線・黒磯発14:10―那須塩原着14:15、新幹線・那須塩原発14:30―大宮着15:18、湘南新宿ライン・大宮発15:30―池袋着15:52といった列車が待ち時間も含めて帰りやすいだろうということで決めた。

旅館を出るのは12時でいいだろう。10時にはチェックアウトで部屋を空けなければならない。2時間ばかりではこれといったことは出来ないし、昨日の疲れも残っているので色々動き回ったりしたくはない。那須塩原駅や黒磯駅周辺で何かあるかどうか調べてみたがこれといったものはない。12時まで温泉に入ったり周辺を散策する外ない。

温水プールの先に、茶臼岳6.8kmと書いた標識が立っている。北温泉から中の大倉尾根を経由して朝日岳、茶臼岳に向う登山ルートがある。どんな道か途中まで行って見た。河原の湯の脇を流れている川を渡る。危うい華奢な橋だがここからは滝が勢いよく落ちる様子が見え、水しぶきがかかるほど迫力がある。北温泉旅館がその背景を形作りなかなかいい景色だ。

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大分長い間使ってないようなテーブルと椅子が置いてある。昔は登山ルートとして活用されていたのではないか。今ではすっかり寂れている。川沿いからすぐに山に登っていく道が始まる。確かに道はあるのだが、この道は長い間人が通ったことがないようで草に覆われていてともすれば間違った方向に行ってしまいかねない。途中で引き返したがとても最後までいけるような道ではないようだ。

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 茶臼岳6.8kmの標識                   道路側から見た温水プール

旅館に戻り、温水プールの周辺に置いてあるビーチチェアに座りくつろぐ。時々プールサイドに座り足湯をする。そんなことをしているうちに12時が近付いてきた。そろそろ出発の時間だ。

豊富な湯量で、湯殿の種類も多く温泉として楽しめる所だ。大体1日3回入った。朝起きてから、何処かに行って戻ってきてから、夕食後の3回だ。種類の違う所に入るので飽きることはない。朝は屋外の露天風呂やプールに入る。朝のさわやかな空気を吸いながら外での入浴は気持ちのいいものだ。

黒磯駅で時間があったので昼食を蕎麦屋でとった。時間つぶしにビールを頼んでゆっくりとそばを食べていたらいつの間にか14時を過ぎていた。あわてて蕎麦をかきこみ列車にぎりぎり間に合った。新幹線での乗車時間は約45分、こんな短い時間だと旅行といった気分がしない。

大宮で下車し、湘南新宿ラインに乗り換え池袋まで行く。何という暑さだろう。涼しい所から戻って来たので余計そう思うのかもしれない。この猛暑は来週の初めまで続くそうだ。もう少し北温泉に滞在していればよかったとつくづくと思う。

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ジャンル : 日記

北温泉 3日目

9月14日(水)
茶臼岳登山が肉体的に可能かどうか、それが思案のし所だ。ロープウェイ山頂駅から頂上までの高低差は280m、約50分の登りだ。しかしロープウェイ山頂駅から茶臼岳山頂までの登山ルートを見ると頂上に真っ直ぐに登っていく事になっている。しかも等高線を見るとかなり密度が濃い。かなりの急坂を登らざるを得ないだろう。ともかくロープウェイ山頂駅で考えようということで北温泉を9時に出た。弁天温泉を9時55分に通るバスに乗るつもりだ。

茶臼岳は標高1915m、日本百名山の一つである。那須岳の別称を持つ茶臼岳は、那須連山の主峰であり今もなお山の裏手側から白い噴煙を吹き上げている活火山である。

那須自然研究路を弁天橋方面に向かう。15分位で弁天橋に着く。弁天橋を渡ると弁天温泉旅館が川に沿って木々に囲まれ立っている。ここも由緒ある温泉らしい。しばらく行くと休暇村那須の大きな建物が目に入る。バス停は休暇村の建物の前にある。

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 弁天橋

ロープウェイ山麓駅で15分位待って乗り込む。出発直前に団体客が来てかなり混んだ状態で出発した。定員111名と聞いていたからそれ程心配はしなかった。高低差293mで茶臼岳の7合目~9合目間をロープウェイであがる事になる。

結局茶臼岳に登る事にした。連れの健康なY氏にはペースが合わずに気の毒だが、10分に一度休憩を取る、かなりゆっくり登るので適当に休みながらいってほしいということで出発した。

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 茶臼岳登山道

思ったとおりかなり急な登りだ。10分も体力が持たない。疲れたら勝手に座って休憩を取らないと到底頂上までは登りきれない。マイペースで休みと登りを繰り返しながら亀の様な歩みを一歩一歩進めていった。登山道は最初の頃砂礫で滑り易く登りにくい。砂礫が終ったと思ったら、今度は岩場が出現した。岩がごろごろしてそこをよじ登るようにして登らなければならない。登山の中ほどで20人位の幼稚園児の遠足のグループとすれ違った。あんな小さい体でどうやって岩の重なるような道を越えてきたのだろうと不思議に思う。

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 茶臼岳登山道から見る朝日岳

道は一直線のようなものだが、岩が重なり合っているので通りにくい所と通りやすい所がある。黄色のペンキで丸や矢印のマーカーが所々の岩に付けられていて、それを目安に行くとかなり登りやすい。やっとのことで頂上に辿り着いた。標準登山時間は50分とあったが、丁度1時間かかった。そんなに大幅に遅れたわけではない。頂上には山頂の看板はなく那須岳神社の奥の院なのだろうか、祠が建てられていた。

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 茶臼岳山頂の鳥居と祠

そこから茶臼岳の火口を巡る道に出てぐるりと火口を一周した。ロープウェイ山頂駅に向う道と峰の茶屋に向う分岐点でどうしようか迷う。またあの急な岩と滑り易い砂礫の道を行くのは大変だろうし、特に下りの方が苦労する。同じ道を辿っても芸がない。

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 火口を巡る道から見た峰の茶屋方面

折角那須山麓に来たのだから外の山も見て歩こうということで、峰の茶屋に向って下り始めた。茶臼岳への道よりもずっと歩き易い。20分位で峰の茶屋分岐点に着く。峰の茶屋避難小屋の前には中学生の団体が整列していた。これから茶臼岳に登るということだ。

峰の茶屋避難所から麓の峠の茶屋までは35分と表示されていた。峠の茶屋までは車で入れるし大きな駐車場もある。しかしマイカーで来たわけではないし、峠の茶屋からの便がある訳でもない。そういったことで峰の茶屋分岐点から牛ケ首方面に向かい、そこからロープウェイ山頂駅まで行くコースを取る事にした。牛ヶ首まで20分、そこから山頂駅まで30分というルートである。

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 牛ヶ首への道                        ひびわれ岩

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 ハイマツの群落があった所                噴火による瓦礫の様子

峰の茶屋から牛ヶ首まではほとんど高低差のない道で、ハイキングコースといった感じで、余裕を持って回りの山々を眺めたり、噴火による地形の変化について観察したりした。ひび割れた岩が幾つもあった。これは岩の小さなヒビに水がしみこんで冬に凍ったため出来たものと考えられている。いまだに煙を吐く無間地獄などという場所を見たりしながら牛ヶ首まで辿りついた。牛ヶ首の名前の由来はここから見る茶臼岳山頂の岩塊が牛の首のように見えるからとのことだそうだ。

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 牛ヶ首から茶臼岳を望む                  無間地獄

牛ヶ首からロープウェイ山頂駅までの道も高低差が少なくなだらかで歩きやすかった。ロープウェイに乗り、山麓駅に着いたのが14時35分、北温泉方面行きのバスが、15時26分発までない。50分近く待つ事になる。Y氏はまだエネルギーが余っているらしく、バスを待っているより、北温泉入口まで遊歩道があるので歩いて行くという。歩いても1時間もかからないだろう。私は歩いて帰る方法はとらずバスを待つ事にした。あまりに疲れすぎるのは良くないだろう。

北温泉に着いたのはY氏とほぼ同時だった。ロープウェイ駅から北温泉入口までの遊歩道は整備され歩き易かったということだ。汗まみれの体を温泉に浸かってさっぱりする気持ちは、何物にも変えがたい。こわばった筋肉をほぐしながら、山登りで疲れているほど温泉の効用が感じられるのだ。

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北温泉 2日目

9月13日(火)
東京は連日猛暑日が続いているらしい。北温泉は標高1300mあり昼間でも涼しい。温泉に入って温まった体をさわやかな風が吹く抜けていく爽快感は何とも言いがたい。朝早く眼が覚めたので、温水プールに行った。プールには誰もおらず、ましてや通行人などは全くいない。伸び伸びと広い温泉に浸かりながら泳ぐ事も出来る。思ったより深く、80cm位はある。泳いでいてお腹を擦ることもない。

今日は那須自然研究路を回る事にした。パンフレットにウオーキングコースとして14コース紹介されていたが、このコースは北温泉バス停から出発するのでバスで移動する必要がない。弁天橋の方は明日ロープウェイ行きのバスに乗る時、弁天温泉のバス停を利用しようと思うので、今日は行かない事にした。

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自然研究路のコースは2つに分かれる。往きは一方のコース、帰りはもう一方のコースを取ればいい。広葉樹と熊笹の中に遊歩道が作られている。深い森の中に入ったようだ。まだ緑が濃く森林浴には最高だろう。所々にベンチやテーブルが作られ休み休みゆっくりと回ればいいようになっている。距離が短く起伏もそれほどないので、気軽に歩くことができる。見晴らしは良くないがひたすら木々に囲まれた緑色の世界の中を歩き続けるといった感じだ。

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 展望台から茶臼岳                     朝日岳

途中那須与一が少年時、遠矢の稽古に励んだ所で、遠矢の練習の矢を隠しておいた矢隠岩がある。現在は展望台が整備されている。また県の天然記念物に指定されているミネザクラが2本自生している。

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 矢隠岩                            ミネザクラ

自然研究路のAコースとBコースが分かれる所から、丸太で作った急な階段を八幡温泉の方面に向かって下っていく。15分ばかり下ると、自然研究路のもう一つの入口に行き当たる。そこには那須高原有料道路の「那須高原自然の家」のバス停がある。道を挟んで美術館のような瀟洒な建物があり、それが「自然の家」だった。ここで食事でも出来るかなと思って向うと、ガードマンがここは小中学校生徒の研修センターなので、関係者以外は立ち入り禁止だということで中には入れなかった。

「自然の家」の周辺は八幡のつつじの群落があり、遊歩道が作られつつじ吊り橋に至る。八幡の群落はツツジとミネザクラの見所であり、ヤシオ・レンゲツツジは5月中旬~6月中旬頃まで見頃、ミネザクラの推定樹齢は約150年位といわれ、毎年、5月10日頃に花が咲く。栃木県天然記念物に指定されている。

一面に広がるつつじの群落は今は花を咲かせていないが開花時期にはさぞ素晴らしい見ものだろうと容易に想像がつく。その頃に行って見たいと思わせるほどつつじの灌木が延々と広がっている。

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 北温泉(北湯)入口バス停より茶臼岳          ロープウエイ山頂駅と茶臼岳

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北温泉 1日目

9月12日(月)
◆ 那須温泉郷の北温泉に出かける。東北新幹線はかなり本数があると思っていたが、上野に停まらない列車や那須塩原を通過していく列車がかなりあり、那須塩原に10時過ぎに着く列車は上野発9時22分、那須塩原着10時28分のやまびこ357号位しかない。その列車に乗るのがその後のバスの便などを考えると便利だ。

新幹線に乗って1時間というのはあっという間に着いてしまうという感じだ。2時間以上乗らないと乗った気がしない。空いている列車の座席を向かい合わせにしてビールを飲み始めるが、1時間というとゆったりと飲んでいる暇がない。

10時55分那須塩原発ロープウェイ駅着のバスに乗る。那須塩原では私とY氏の他に1人しか乗客はいなかった。黒磯駅で20人位が乗車してきた。那須塩原駅前には何もなく閑散とした雰囲気だったが、黒磯駅前商店街には観光客歓迎の幟がたてられ賑やかな雰囲気だった。バスは那須高原線を那須湯本温泉方面に向って徐々に高度を上げていく。

別荘住人向けなのか、温泉に行くマイカー目当てなのか、単に観光名所を増やしただけなのか。バスに通る道々には様々な施設が作られている。那須森のビール園、3Dメルヘン水族館、那須高原友愛の森、那須クラシックカー博物館、お菓子と城とお花の城・いちごの森・那須ハートランド、ダイアナガーデンエンジェル美術館などが並んでいる。

多種多様で戦争博物館などあり0戦闘機が展示してあったりする。車窓からそういった風景を眺めながら、那須湯本温泉に着きそこで乗客の大部分が下車して5人だけ残った。

◆ 那須湯元温泉からしばらく行くと那須高原有料道路となる。どういう意味か分からないがボルケーノハイウエイと名付けられている。アメリカの火山活動を巡るパニック映画から取ったのだろうか。この道路は二股に分かれ路線バスに関して登りは左の道を、下りは右の道を行く事になっている。北温泉(北湯)入口というバス停は下りの道の途中にあるので、二股に分かれた道路が大丸温泉というバス停で合流するので、そこで下車し、黒磯駅方面行きのバスに乗り換えなければならない。

大丸温泉のバス停の周りは駐車場になっている。また土産物屋や飲食店が5,6件あるので、北温泉に行っても何も食べるものはないだろうからと、飲食店に入った。そこで頼んだ蕎麦がかなり本格的だった。こういった店だから駅の立ち食いそばレベルのものかも知れないと思っていたが、蕎麦屋で食べるのに引けを取らない美味しさだった。さすが蕎麦の名所・那須の蕎麦だと思って得した気分で食べた。

その内黒磯行きのバスが来た。大丸温泉から北温泉(北湯)入口までは5分もかからない。バス停から北温泉まで30分かかる。行く途中に駒止の滝がある。駒止の滝観瀑台から北温泉への道はかなり狭く急坂で、一般車両は駒止の滝駐車場に車を置き、徒歩で北温泉まで10分位の道を歩いていかなければならない。

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 駒止の滝                           駒止の滝から北温泉に向う道からの眺望

駒止の滝(駒ケ滝)にはごく最近出来たらしい観瀑台があり、遠くから滝を見下ろすようになっている。この観瀑台が出来るまではかなり危険な思いをして滝の写真を撮ったという話を聞いた。そこでしばらく滝の見物をして、下りはいいが登りは大変だろうと思いながら北温泉に向う坂道を下っていく。山の間から那須湯本方面の町並みが眺望できる。

◆ 北温泉の建物は何度か改築したのだろう。外観は木造というわけではなかった、古めかしい雰囲気を漂わせている。温泉に向う道に沿って釣堀かなと思ったがそこが温水プールだった。入口を入ると、格子戸を跳ね上げた帳場が雰囲気を盛り上げる。床も柱も階段も長い年月磨き上げられランプの光の中で黒光りしている。それが紅がら色の土壁と絶妙な調和を作り上げ歴史の痕跡を刻んでいる。また廊下には使い古された古民具が並べられている。

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 北温泉入口                        格子戸を跳ね上げた帳場

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 古民具

部屋は安政に作られたという松の間にした。押入れの引き戸や、壁の色、窓の手すり、天井の材質など歴史を感じさせる。ランプと裸電球で全体が暗い。部屋の電気も60Wか40W位の明るさだ。温泉に着いたのが14時頃だった。今日は何処にも行かず風呂にゆっくり入ってから体を休めようという事にした。

北温泉は7つの風呂場がありそれぞれ特徴を持っていて、どこに入ってもそれぞれ異なった趣を感じさせる。この湯は大天狗が宝亀年間(770~)日光山より出羽の国へ行く途中発見したと云われる。そのことから、天狗の巨大な面を書けた天狗の湯がある。

天狗の湯の隣に打たせ湯があり、別名『不動の湯』といい元禄4年(1692年)建立になる黒不動をお祀りしている。さらにその隣にぬる湯があり、精神安定に効果があるという。露天風呂として河原の湯があり、これは明治時代に作られた比較的新しいものだ。河原に面しているのでこの名が付いた。

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 天狗の湯                           打たせ湯、ぬる湯、鬼子母神を祀っている祠

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 河原の湯                           河原の湯の脇を流れ落ちる滝

温水プールの入口に相の湯がある。昔は唯一混浴でそのために相の湯と呼ばれる。明治の頃の建物は非常に趣がありファンが多いという。相の湯の脱衣場で服を脱ぎ温水プールに入る。それは釣堀だと思った位大きなプールで12m×8mという広さだ。裸でもいいが、プールは温泉への道に面しているので、日帰り入浴で来る客が結構通る。裸で入ろうと思ったら、早朝か夜がいい。

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 相の湯                            温水プール

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リレー・フォー・ライフ ジャパン2011新横浜

9月10日(土)
「リレー・フォー・ライフ ジャパン2011新横浜・第4回」は、「がん患者支援チャリティイベント」として例年通り日産スタジアムの隣にある日産フィールド小机で、9月10日12時から、9月11日12までの24時間、フィールドをリレー形式で歩くというものである。単なる資金集めのイベントとしてではなく、地域社会全体でがんと闘うための連帯感を作り上げていく場としての意義を持っている。今年のスローガンは“がん晴れ!!「今年の希望・明日のいのち」”となっている。このスローガンを染め抜いたTシャツが会場入口で販売されていた。

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 日産スタジアム                       日産フィールド小机

新横浜でのリレーフォーライフへの共催団体として、神奈川県や横浜市が名を連ねている。横浜市会議員連盟、ガン撲滅をめざす議員連盟や神奈川県庁からも職員がグループとして参加している。開会式でも神奈川県知事や横浜市の副市長が挨拶をしている。これは「がん対策基本法」「がん対策推進基本計画」に基づき、地域全体としてがんに対する問題意識を高めていくことが必要であり、そういた意義を持ったイベントでもある。

リレーフォーライフが新横浜で4年前に初めて行なわれた時には、全国で5ケ所しかやっていなかった。「ももの木」としては3年前から参加している。3年前の時はまだ首都圏で行なわれている場所が限られていたので、新横浜の会場にはかなりの数の人達が参加していた。それが2010年には全国で20ケ所、今年は30ケ所にも広がった。その分新横浜会場の参加人数は減少せざるを得ない。東京でも昨年はお台場で行なわれたが、今年はさらに駒沢公園でも行なわれる。

開会の12時半には着こうと11時過ぎに家を出た。思ったより時間がかかって着いたのが13時だったがまだ始まっていなかった。まず「ももの木」のテントに行って日陰で休憩する。横浜線の小机からは会場までは10分位だが、炎天下のコンクリートの道を歩いただけで汗がどっと出るほどの暑さだった。

着いてからしばらくして中央ステージで太鼓の演奏が始まった。小机城址太鼓というもので城郷連合会町会の人の演奏だ。その後消防音楽隊のブラスバンドの演奏が横浜市の消防音楽隊によって行なわれた。昨年はエイサーのグループが参加してくれてかなり華やかな雰囲気を出していたが、今年はエイサーの団体の参加はなかった。

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 小机城址太鼓                        消防音楽隊の演奏

14時から開会式が始まり、開会宣言が実行委員長によって行なわれ、神奈川県知事、横浜副市長、対がん協会の理事長の挨拶があり、14時15分サバイバーズ・ウオークがスタートした。患者を中心として全員で会場のフィールドを歩き始めた。昼過ぎ気温は32度だということだ。フィールドの上はさらに暑いだろう。一周してももの木のテントに入り込む。16時頃になれば少しは涼しくなるだろう。このまま歩き続けたら熱中症になりかねない。

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中央ステージでの演奏と歌が終わり、講演ブースでは講演と童話の朗読などが行なわれていた。テントにじっとしていてもしょうがないので、会場のテントで行なわれている様々な展示を見て回った。丁度講演ブースのテントの前を通りかかると呼び込みの人がこれから童話の朗読が始まるといっていたのでテント内に入っていった。

童話作家福明子さんが自分の書いた童話「ちっこばぁばの泣いた夜」の読み聞かせが始まる所だった。自分の書いたものだけあって、文章の中の感情の入れ方、会話などにおける登場人物の表現方法がより一層物語の内容を深めているようだった。

その後続いて、がん研有明病院名誉院長・武藤徹一郎氏から「がんは予防できるか」と題する講演が行なわれた。がん患者である私ががん予防について聞いてもしょうがないと思ったが何かの参考になるかもしれないし、体力的にフィールドを歩き続けるのは少しきついと思って聞く事にした。

「科学的根拠によるがん予防」として8項目あげた。「1、禁煙、2、適度な飲酒1日1合以内、3、野菜・果物1日400g、4、塩分1日10g未満、5、運動の継続・合計60分程度の歩行、6、体重の維持、7、熱い飲食物摂取は最低限にする、8.肝炎ウイルス感染の有無を知る」こういった指摘がされた。最重要なのは禁煙とがん検診ということである。

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 ももの木のテント                      リレーに参加する「ものの木」のメンバー 

講演が終わり17時になって、やっと涼しくなりフィールドを歩こうという意欲がわいてきた。何周か回った。そろそろ暗くなりルミナリエの準備が着々と進められている。ルミナリエとはメッセージを託したキャンドルに灯をともしてがんで亡くなった人をしのび、またがんと闘っている人達への思いをキャンドルに託し祈りを捧げるというものだ。

中央ステージの横の観客席にはHOPEという文字がキャンドルを並べて夜空の中に浮かび上がる。がんと闘っている者、肉親をがんで失った人達の悲しみの心には、生きる勇気が必要であり、その勇気を支えるものそれが「希望」だというメッセージが込められている。

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19時頃、皆で新横浜まで食事に行こうという話になり、「ももの木」の参加者10名で新横浜に向った。安くするといった呼び込みに誘われて居酒屋に入った。リレー・フォー・ライフ参加者による「ももの木」の交流会としての意味もあるのだ。

私の前に座った2家族は共に娘と息子をがんで失った経験を持っている。2人とも20代で命を失った。本人はどれ程無念だったろう。そして息子や娘の将来を楽しみにしていた両親にとってどれ程の喪失感を味わう事になったことだろう。最近矢継ぎ早に同年輩の友人が食道がんで死亡した。しかし若い人の死はやはり特別に重く感じられる。そしてその両親の心中は計り知れないほどの悲しみに満ちているだろう。こういった話を聞きながら、今生きてがんと闘っていることの持つ意味を改めて問い直さなければならないと思った。

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院内患者家族交流会(おしゃべり会)

9月9日(金)
奇数月の第二金曜日定例の交流会が、病院のディルームで行なわれた。参加者は8名、そのうち入院患者は1名だった。交流会開催お知らせのポスターは、血液内科病棟はもちろんだが、外来患者が行く血液内科医の診療室の扉の所など20枚近く貼ってあるが、なかなか目に付かない。だからなのだろう新規の患者の参加が少ない。交流会をやっているということをもう少し患者に浸透させるいい方法はないものか。

入院患者の参観者が部屋に入ってくるのを見て驚いた。入院していた時に隣のベッドにいたA君だった。私より4日間早く退院したはずだったのにまた戻って来たという。以前は検査入院で足の痛みの原因を探り、治療法を見つけようとしていた。しかし、原因不明で治療法はないということで何の展望もなく退院していったのだった。

今回A君は発熱し再び入院した。CRPが10以上ありその原因が何であるのか、抗生剤を点滴しながら効く薬を探している。交流会の参加者は現患者が4名、元患者が3名の参加だった。A君はフィラデルフィア染色体が陽性の急性リンパ白血病で、3年前臍帯血移植を行なった。白血病の方はその後問題なく、GVHDも体に少し発疹が出来た位でそれもすぐ収まった。

入院前就職は決まっていたが病気発症のためその職を失ってしまった。退院後1年あまり経ち体調も安定してきたので就職しようと色々当たったが、白血病患者という事を隠したくなかったのでやはり就職口は見つからなかった。マクドナルドのある店のオーナーの奥さんの妹が白血病だったということもあって、病気に対する理解がありその店に採用になった。1日8時間立ちっぱなしで働き続けた。

しかし移植後3年目、昨年足を中心として痛みが徐々に強まってきた。ある一箇所が痛いというのではなく、足を中止として骨が痛むのである。膝だったり足の甲だったり痛みが移動する。手の甲が痛い事もある。筋肉が痛いというのであればリューマチとか通風とかが考えられるが骨が痛いというと原因は分からない。偽通風などと言われたりもした。これには治療法はない。痛み止めを服用する対処療法しかない。痛み止めもオピオイド系のかなり強い薬を使わないと効かない。

骨髄移植を受けた体験者からA君の骨の痛みについて何か心当たりがあるか聞いてみた。ある患者の体験だが、退院後しばらくしてから筋肉が硬直し、朝起きると腕を動かすことが出来ない。しばらくしても腕は肩より上に上げることができない。こういった筋肉の硬直はGVHDとして見られることがあるということだ。しかしA君のような骨の痛みについては聞いた事がないということだった。

外の患者からも意見を求めたが似たような症状について耳にしたことはないということだった。病室で隣同士だった時には私は個人的に自分の考え方を示したが、今回のように何人かの患者の意見を聞くことが出来たことはA君にとって有意義だったに違いない。

 一人の意見ではなく患者や患者経験者から多くの意見を聞く事によって、自分の病気を自分一人で抱え込み悩んでいた状況から少しは違った世界が開けたのではないか。確かに交流会で問題解決は出来ないかもしれない。しかし多くの患者は互いに支えあって、励ましあいながら生きる道を模索していっているのである。そういった関係の形成こそが交流会の目的でもあるのだ。

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空海と密教美術展

9月8日(木)
採血し、眼科と血液内科の診療を受け病院を出たのが12時だった。15時30分から西日暮里にある荒川区立の小学校で「いのちの授業」打ち合わせがある。思ったより早く終った。3時間半をどうやって過ごそうかと考えた時、上野で「空海と密教美術展」をやっているのを思い出した。見るのに2時間もあれば十分だろう。15時に上野駅に着けば小学校は西日暮里から5分位の所にあるから十分間にあう。

昼食をとり13時少し過ぎに展示会場の東京国立博物館の平成館に着いた。すると入口から200~300程の人が並んでいる。会場内がかなり込み合っていて入場規制を行なっているのだ。30分待ちと書かれた立て札を持った係員が列の最後尾に立っている。平成館の前の砂利道にはもろに昼下がりの太陽が照りつけている。この日差しの下で30分立っているのはかなり辛いだろうと思ったが、ここまで来たのでおとなしく並ぶ事にした。実際の待ち時間は15分位だった。

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 東京国立博物館・平成館と入口の美術展看板

美術展の公式サイトに会場ライブというのがあって、そこには「8日入場規制を行い、最大の待ち時間は50分でした。午前中に来場される方が多く、特に11時前後に増える傾向にあります。」と書かれていた。13時でまだ良かったのだ。会場内もかなり混んでいて主要な展示物の回りには人だかりが出来て中々見ることができない。

まさかこんなに混むとは思わなかった。真言宗の信者などは恐らく数えるほどしかいないだろう。大日如来像の前で手を合わせている人など見ている限り皆無だった。こういった所にも日本人の宗教観が表れている。98.9%が国宝・重要文化財だという。国宝を見に来るのか。仏教美術に興味を持っている人が多いのか。「この夏マンダラのパワーをあびる」というキャッチコピーに釣られてきたのか。結構仏像彫刻に興味を持ている人は多いという。仏像の穏やかな顔は心の安らぎをもたらしてくれる効果があるのかもしれない。それでも何故こんなに見物人が多いのだろうか。

恐らく一番大きな理由は、通常数10ケ所の寺院を回らない限り目にすることが出来ない真言密教関連の仏像や曼荼羅が一同に会し、わざわざ交通費をかけなくても間近で観賞できるということだろう。寺院に行っても期間限定の御開帳などがあって必ずしも目的のもの見ることが出来る訳でもないし、置いてある場所が離れていてよく見えないということもある。

東寺講堂には大日如来を中心に21体の仏像が安置されているが、かなり離れている高い所にあって個々の仏像をはっきりと認識できず、また降三世(こうざんぜ)明王は四面なのだが、東寺では前からしか見られないので裏の顔を見ることができなかった、という話をしている人がいた。美術展では前後左右何処からでも手で触れる位近くで見られる。寺院に行けば全く違った雰囲気で観賞できるだろう。奥深い思いに浸りながら観賞できるだろう。美術展では作品そのものを観賞するしかないので、雰囲気ではなくその芸術性に関心を持つ事になる。

豊島区、練馬区、北区、文京区などの散歩コースを巡るとその中に多くの寺院が存在する。そしてその大部分が真言宗なのである。真言宗の寺院がこんなに多いという事に正直びっくりしたものだ。そして弘法大師の等身大の銅像が本堂の前に立てられている。多くが豊山派である。鎌倉時代の仏教は禅宗や浄土宗など教義までは分からないが大体のイメージが掴める。

しかし真言宗はどうもとっつきにくくどういった宗教か皆目分からない。「大日如来を教主とし、身口意(しんくい)三密の加持力で即身成仏させるのを本旨とする」辞書的にはこのように書かれているが、それで何かが分かるというわけではない。分からないなりに少しは知っておきたいと思って今回の美術展に出かけたという訳だ。仏像の数々、巨大な曼荼羅などには圧倒されたが真言宗がどういったものであるのかは見終わった後も最初と同じように分からない。美術展の公式サイトに今回の美術展についての説明があるので、記憶に止めて置くために以下引用しておきたいと思う。

開催趣旨
弘法大師空海は、延暦23年(804)、密教を求めて唐に渡り、2年という短期間のうちにその奥儀(おうぎ)をきわめます。奥深い密教の教えは、絵画などを用いなければ理解できないと空海自身がいうように、密教では造形作品が重視されます。

展覧会では空海が中国から請来(しょうらい)した絵画、仏像、法具、また空海の構想によってつくられた教王護国寺(東寺)講堂諸像など、空海ゆかりの作品、さらに空海の息吹が残る時代に造られた作品を中心に、密教美術の名品を展示します。現存する空海自筆の書5件を、各巻頭から巻末まで展示するので、書家としての空海も存分にご堪能いただけることでしょう。

みどころ
1.密教美術1200年の原点?その最高峰が大集結します。
2.展示作品の98.9%が国宝・重要文化財で構成されます。
3.全長約12mの「聾瞽指帰(ろうこしいき)」をはじめ、現存する空海直筆の書5件を各巻頭から巻末まで展示します。
4.東寺講堂の仏像群による「仏像曼荼羅(注)」を体感できます。
5.会場全体が、密教宇宙を表す"大曼荼羅"となります。

展示構成
第一章 空海-日本密教の祖
空海が学んだ内容を彷彿させる奈良時代に書写された密教関係の経典の名品、肖像画の優品や一生の事績を絵画化した絵巻物を展示して、後に日本密教の祖となる空海の人物像の輪郭を紹介する。

第二章 入唐求法(にっとうぐほう)-密教受法と唐文化の吸収
空海が師から託されて唐から日本へ持ち帰ったそのもの、あるいは空海が持ち帰ったと伝えられる、世界的に見ても貴重な唐時代の絵画、仏像、法具などを展示する。

第三章 密教胎動-神護寺・高野山・東寺
日本の密教寺院の原点ともいえるそれらの寺院に関わる絵画、書、仏像、工芸などの展示。

第四章 法灯-受け継がれる空海の息吹
空海の息吹がまだ色濃く残る9世紀から10世紀の絵画、書、仏像、工芸を中心に、空海の活動がどのように受け継がれていったのか。

空海と密教医術展006_convert_20110908233003第二会場 仏像曼荼羅
東寺講堂には大日如来を中心に21体の仏像が安置されている。規則性をもって群像が配置される様子は、まさに「立体曼荼羅」とよぶにふさわしいものである。本展では、その内の国宝8体による仏像曼荼羅が出現する。

注:曼荼羅
-聖域、仏の悟りの境地、世界観などを仏像、シンボル、文字、神々などを用いて視覚的・象徴的に表したもの。日本語では通常、仏教の世界観を表現した絵画等のことを指す。

両界曼荼羅 - 「両部曼荼羅」とも言い、「金剛界曼荼羅」「大悲胎蔵生曼荼羅」という2種類の曼荼羅から成る。「金剛界曼荼羅」は「金剛頂経」、「大悲胎蔵生曼荼羅」は「大日経」という、密教の根本経典に基づいて造形されたもので、2つの曼荼羅とも、密教の根本尊である大日如来を中心に、多くの尊像を一定の秩序のもとに配置している。密教の世界観を象徴的に表したものである。(Wikipediaより)

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血液内科の診療

9月8日(木)
検査結果
IgM   3293(9/8)←3486(8/25)←3629(8/17)←4223(8/10)
白血球 4100(9/8)←3200(8/25)←2000(8/17)←1500(8/15)
好中球 2100←1170←860←670
赤血球 283←284←270←268
ヘモグロビン 8.9←9.3←8.8←8.6
血小板 12.8←10.3←4.7←4.8←2.8


IgMがいい具合に下がり続けている。DCEP療法の影響がまだ続いているのか、レナリドマイドが効果を発揮しているのか分からないが下がっているとそれだけで安心できる。IgMが下がっていて特に目立った骨髄抑制もないので、次回の診療は2週間後となった。

11月から始めるといわれた治験について医者から説明があった。医者の方から私を被治験者として申請したが、却下されたということだ。理由は2つあり、過去9ケ月の間レナリドマイドを使用していないことが条件だったが、私の場合は昨年9月から今年の2月まで使用していたし、今も使用している。また私自身の治療経過があまりにも複雑なので治験者としては不適当ということだった。

治験はレナリドマイドと新薬の組み合わせだが、治験が出来なくても、これからやろうとしてるレナリドマイド+ベンダムスチンの組み合わせも似たようなものでしかない。レナリドマイドの幾つかの組み合わせを行なっていくうちに、治験の対象となっている新薬も承認されるのではないか。そうなればわざわざ治験で効果を試さなくてもいい事になる。それを期待して気長に様々な治療法に挑戦していく外ない。(治験の内容は、elotuzumab/レナリドミド/低用量デキサメタゾン併用療法の第1相臨床試験だと思う)

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フランス料理店 

9月6日(火)
 友人の家に行った。昼食を何にしようかといった話の中で、家から歩いて5分位の所にフランス料理の店を見つけたという。彼はこの土地に引っ越して来て数年になるが、普段通らない道を散歩で回った時にその店を見つけた。気になってその後2、3度店の前を通るといつも混んでいる。客が入っているということはそれなりに美味しいということだ。何時かは行ってみたいと思っていた。

最近イタリア料理店は何処にでもある。池袋など軒を並べてイタリア料理店がある位だ。しかしフランス料理店はめったにお目にかからない。青山とか六本木とかにはあるのだろうが、そちら方面は全く縁がないし、かなり高そうなので絶対に入ろうとは思わないだろう。イタリア料理店はピザとパスタが美味しければ客は来るだろう。しかしフランス料理は料理そのもので客を呼ばなければならない。

多くの料理人はやがては自分の店を持ちたいと思って修行に励むのだろう。そして、都心では土地もテナント料も高いので店を出すことは出来ない。そこで私鉄やJR沿線に店を出すことになる。そこでは自分の創作料理を思う存分作って客に振舞うことが出来る。地域や店の名や料理人の名で客を呼ぶことは出来ないので味で勝負する外ない。そういった沿線の店にはこれはといった独創的でおいしいものを、安価で食べさせる店がある。

 12時前に店に行った。入口には自由、平等、博愛の三色旗がたなびいている。30人位が入れる店だ。その内カウンター席が10ある。12時前だというのに席はほとんど埋まっていた。ランチコースの季節の料理というのを頼んだ。

まずは白ワインを頼んだ。サッパリして口当たりがいい。最初に前菜がでる。2人で違ったものを頼んだ。どんな物が出てくるかそれが楽しみだ。一つは人参ジュースのジュレにうにが入ったものだ。このうにが新鮮でプリンのようになめらかで口当たりがいい。もう一つは桃をショルダーベーコンで包んだものを並べ、葉レタスをあしらったものだ。メロンに生ハムを巻いたものに似ているがそうでない所がいい。

スープは魚介類でだしをとりアンチョビで味付けしたものだった。これも変わった味で初めて体験するスープだ。メインディッシュは4種類から選ぶ。魚料理はラタトーユの上にすずきのムニエルをのせたものだ。さらにその上にバジルソースをかけてある。ラタトーユのトマトソースの味がすずきのムニエルにマッチしている。トマトソースが強すぎず、穏やかな味になっている。

カウンターに座っていたのでシェフが料理の説明をしてくれる。すずきは直接漁港から仕入れる新鮮なもので、刺身でも食べられるものだそうだ。シェフは35,6歳に見えるが店を持つからにはもう少し年齢がいっているのかもしれない。

友人は鶉(うずら)のきのこ詰めを頼んだ。出てきたものをみて少し驚く。鶉は首こそ付いていないが、体の形がもろに分かる。足が2本出ている。シェフが言うには足も周りの肉がおいしいので足も残してあるということだ。中に詰めたきのこが肉の味を引き立てている。

 デザートもまた変わっていて、カスタードクリームの上に砂糖をまぶしそれを焼くとカラメル風な味がする。その上に自家製アイスクリームが乗っている。もう一つはいちごをジャム風につぶして、そのうえに砂糖を棒状に固めた物が乗っている。最後にコーヒーが出てコース料理は終わりだ。

混んでいる事もあって、料理がなかなか出てこない。大体コース料理は、会話を楽しみながら味わうものであるから時間をかけて料理が出てくるのはそのためでもあるのだ。しかし店に入ったのが12時少し前で、店を出たのが14時と2時間もかかった。暇だからいいようなものの時間のない時には無理だろう。

久しぶりに料理らしい料理を味わうことが出来た。こういったシェフがいかに創意工夫をこらしたかといった努力のあとを感じられる料理を味わう機会はめったにない。また行きたくなる店に出会うということは稀なことだ。。

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ラジオ体操を始める

9月3日(土)
退院してからなかなか体力が回復しなかった。今回の入院は25日間と期間が短かったし、骨髄抑制以外の副作用も出なかったので、体力の消耗はそれ程ではないと思っていた。しかし退院して元の生活に戻り、家事全般をこなすようになると、つくづく体力限界を感じるようになる。少し動くとすぐ横になりたくなるといっただるさからなかなか抜けだせない。

今回の入院は25日間だったが、その間歩くことや、運動らしきことは一切してこなかった。治療が終わり、ソルデムの24時間投与が終わり、点滴をする限られた時間だけ点滴キャリーにつながれるが、それ以外点滴チューブは外される。自由に歩く事も運動する事も出来た。

以前は病院を囲む塀に沿って遊歩道があり散歩が出来たが、今は工事中で病院構内での散歩はできない。また記録的な猛暑で外に出ること自体躊躇してしまう。そういったことで近所を散歩をする事もなく、全く体を動かしていなかった。家にいれば買い物も含め家事をやっていれば動かざるを得ない。病院では3度の食事は運ばれてくるので、本を読んだり、インターネットのつながらないパソコンをいじったりする位しかやることがない。

25日間の運動不足はやはり人間の体にとって大きな影響を与えるのは確かだ。数値的にはヘモグロビン値はそれなりにあるが、疲れやすさはやはり大量の抗がん剤投与による影響もあるのだろう。体力の回復は薄皮を剥がすように少しずつしか進行しない。元気な時だったら、天気が良く気温も丁度いい時であれば、家でじっとしていることができず、何処かに出かけたくなる。しかしこの間そういった気分にはなれなかった。体力がまだ回復していない証拠だ。

病院での6時の起床が習慣化していたので6時には眼が覚めたが、6時半からのラジオ体操に出かける気力は全く湧いてこなかった。体力がついてこないといった感じだ。2,3日前からやっと少し体調が回復してきた気がする。体力が少しは戻った気分だ。9月1日、丁度区切りがいいので、決意してラジオ体操に出かけた。一旦始めると次の日からはスムーズに体が動く。こういった調子でいけば旅行に出かける事も可能だろう。

長崎公園008_convert_20110903092136 長崎公園010_convert_20110903092212 長崎公園012_convert_20110903092236 
 公園の花  木槿 (むくげ)       花虎ノ尾                 百日草 

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北温泉に決める

9月2日(金)
Y氏の所に旅行の打ち合わせに行った。私の体調の回復を待って温泉でも行こうという話を退院時からしていた。温泉なら旅館で温泉に浸かりながら1日ぶらぶらしていればいいし、体力があれば近くの山を散策してもいい。静養にはもってこいだ。Y氏は八丈島での温泉巡り以降温泉に興味を持ち、とりわけ秘湯に行きたがっていた。彼の所に行くと『日本の千年湯』いった本が置いてあり、そこから幾つかの目ぼしい温泉をピックアップしてくれていた。

『日本の千年湯 (とんぼの本)』という本は、松田忠徳監修、芸術新潮編集で、全国四千余湯から千年以上の歴史を誇る、本物の温泉を精選。弘法大師が見つけた、紫式部が浸かった、夏目漱石が唸った究極の59湯を紹介している。

この中から1ケ所を選ぶというのは大変だが、あまり遠くない所、宿泊料金が高くない所、なるべく被災地福島に近い所、少しは観光客激減の状況に対して協力したいという気持ちがある。選んだのは北温泉という所だった。

東北新幹線那須塩原からバスで北温泉入口まで行き、そこから30分歩くという所だ。やはり秘湯というからにはどうしてもバス停前という訳にはいかない。宿泊料金が1泊2食付7500円というので決めたようなものだ。何処を探しても12,000円以上の所ばかりだった。

kitaonnsenn.jpg 北温泉旅館

北温泉について「山の温泉ガイド」には次のように書かれていた。「孤高の秘湯 北温泉旅館-栃木県 北温泉那須郡那須町。200年ほど前に天狗が発見したという云われる北温泉。その他にもさまざまな歴史や伝説の残る温泉である。安政五年、およそ150年前に建築の松の間をはじめ、伝統ある建物が残る。玄関を入ると自在鍵に鉄瓶がかかり、たくさんの古民芸品が置かれている。ギシギシと音を立てる館内はランプの僅かな明かりで黒光りし、昔ながらの療養湯治場の雰囲気をそのまま残している。」

2人の予定を調整して、12日から15日までの3泊4日のスケジュールで北温泉に行く事にした。北温泉旅館には3泊の予約をした。部屋は3種類あり松の間(安政5年):7,500円、竹の間(明治):8,500円、梅の間(昭和): 9,500円となっている。一番古い安政5年に建築されたという部屋を頼んだ。12日は10時頃の新幹線でゆっくり行こうということになった。北温泉行きバスが1時間に1本位しか出ないのでそれに合わせて新幹線の時間を調整する外ない。

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眼科の診療

8月31日(水)
 今週は血液内科の診療はない。2週間1度となった。毎週、毎週IgMの値に気をもまなくて済むのは気分的にかなり楽だ。レナリドマイド(レブラミド)を服用し始めだからそれ程骨髄抑制や体調的変化はないだろうということで、25日の診療日に次の日を9月8日にした。こういった調子で2週間1度の診療で推移してもらいたいものだ。それにはIgMがそれなりに安定していなければならない。

今日の診療は眼科だけだった。。最も入院保険に使用する診断書が出来たという連絡があったのでそれを取りに行かなければならない。この診断書が1通4500円もするのだ。5日ばかり入院して1日5000円の入院費が出たとしても、1日分は診断書代で削られてしまう。日本生命の場合、20日以内の入院に関しては診断書は不要で、入院料算定期間が記入してある領収書のコピーを添付すればいい事になっている。その位の配慮は必要なことだ。

また病院に行く前に区役所に寄り、委任払い手続きのため病院に提出する書類を受け取った。2ケ月分書いてくれるので区役所には2ケ月1度行けばいい。うっかりしていて9、10月分を受け取るつもりだったが、8月分が未提出だとわかり8,9月分として受け取った。病院の医事課に委任払い手続きの書類を渡し、毎月払う44,400円を現金で渡す。こういった書類受け取りや委任払い手続きがあったのでどの道病院には行かなければならなかった。

 眼科の診療は検査で始まる。眼圧は右が14、左が16と基準値内に収まっている。左眼から涙がでたり、ごろごろとした違和感があったので眼圧が上がってのではないかと思って眼圧降下剤キサラタンを毎日点眼していたが、そのため前回7月18日の検査の時には20以上あった眼圧が下がったのは確かだろう。

医者が言うには、左眼が炎症を起こしそれが眼に様々な影響を与える。以前炎症を抑えるリンデロンというステロイド剤点眼薬を使用していたがそれは使えないのかと聞いたら、ステロイド剤は免疫抑制の働きがあり、左眼のサイトメガロウイルスを活性化させる可能性がある。手術などの後に短期的に使用することはあっても通常の炎症防止には使わない。そこでブロナックという非ステロイド性抗炎症点眼剤を処方してくれた。左眼は視力がなくなっても色々と問題を起こしてくれる。困ったものだ。

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Author:yosimine
がん治療とは長く細い道を辿ら
なければならない。その先に希
望があると信じながら。

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