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監獄人権センターの連続講座

10月30日(日)
昨日、10月29日18時30分から監獄人権センターの連続講座の第2回目が、渋谷の伊藤塾東京校で行なわれた。この連続講座は、「犯罪をおかした人の更生に弁護士・市民はなにができるか?~受刑者をめぐる現状と課題から探る~」というもので、主催はNPO法人監獄人権センター・伊藤塾で、法学館憲法研究所の後援で行なっている。

連続講座の趣旨は次のように書かれている。「受刑者の社会復帰への支援策は不十分で、受刑者に対する不当な処遇も少なくない。刑の確定後、とくに刑務所における矯正処遇や出所後の社会復帰(更生保護)の現状、そして受刑者や保護対象者の人権保障や法的支援についての連続セミナーを開催する。」

第2回の講座の内容は、受刑者処遇の現状と課題(特に、外部交通、医療など施設内処遇について)と元受刑者の体験談(監獄人権センタースタッフとの対談)であった。

今の刑務所生活はどういう状態なのか、元受刑者の体験談は興味ある所である。その点についての集会内容を報告したい。話をしてくれた元受刑者のOさんは、田園調布資産家殺人事件の被告とされ、懲役20年の刑を受け、1995年から2007年まで千葉刑務所で服役していた。彼は未決拘留も含めて23年拘禁されていた。彼は一貫して無実を主張し冤罪を晴らすために再審請求をしている。

刑務所の日課
刑務所生活の24時間について最初に話をした。
6:30-起床 7:00-出房、洗顔、食事 7:20-工場出役 7:40-作業開始 12:00-昼食 12:20-作業開始 16:10-作業終了 16:20-帰房 16:40-点検 17:00-夕食 18:00-仮就寝 19:00-テレビ開始 21:00-就寝

刑務所生活は分刻みに運営されている。作業中の禁止事項として、私語、よそ見、離席がある。看守と目が合っただけで工場から連れ出される。離席に関しては、工具や鉛筆を落としたとしてもそれを拾うのにも許可がいる。勝手に拾えば懲罰の対象となる。

一挙手一頭足が決められ自発的に何かをすることが出来ない。何かを考えることもなく流されるままに生活しているとあっという間に時間は過ぎていく。昼の20分では作業用のマスクを洗ったり、作業メモを書いたり、官本を選んだりする時間も含まれている。7分で飯を食べないと遅いと言われる。昼休みの残りの10分位で碁や将棋をする人もいる。机を出して物を書けるのは17時からの時間だけである。かなりこまごまと忙しい。

自立を妨げる刑務所処遇
7人収容の雑居房だが、皆と同調しながらやっていく外ない。土日祭日とかで行事のない日は、9:00~12:00、13:00~15:30,19:00~21:00の間テレビの時間だ。その間本でも読んでいたい気持ちもあるが、皆とたわいない話をしながら一緒にテレビを見ている外ない。思考を止める方が楽だ。

看守と受刑者は主人と奴隷の関係だ。明日のことは分からない。いつ処遇が変わるか予告もない。全て看守が受刑者を管理しやすいという視点で決められる。考えると辛くなるから、考えない事を習慣化するほかない。

全ての行為はルールに乗って行なわなければならないが、密に決められたルールは最初抵抗があったとしても習慣化すれば精神的に安定する。反抗すると苦しい。何も考えないで流れに乗っていれば、5年位経てば慣れてきて、後で思うと辛かったが懐かしいといった気分になる。受刑者処遇法が出来て、一時期は外部交通が緩和されたが1年も経たないうちに元に戻ってしまった。

出所後の問題
長期刑務所の受刑者は社会復帰を諦めている。週一度NHKでニュース特集をやるが、誰も見ようとはしない。社会が今どうなっているかを知ろうとはしない。受刑者の半数以上の人が今まで一度も面会に来たことがないという。意識の高い人は、処遇上の問題に関して、監獄人権センターなどに手紙を書くが、普通の人は手紙など書かない。また書く相手の人もいない。

社会復帰処遇は行われているか。仮釈放で出所した人は保護会を利用できる。そこでしばらくは生活できるし、日常生活のこまごました事についても色々と教育を受ける。駅の自動販売機での切符の買い方まで教えてくれる。満期出所の場合、出る一週間前から、校長などによる命の大切さや生き方についての道徳教育が行なわれるだけで、その説教時間以外は作業をやらされる。

私の場合満期出所だったが、妹が手配してくれ帰る場所も確保してあり、迎えに来てくれたので駅への行き方を教えてもらったりしながら一緒に帰り、それ以降の当面の生活場所は確保できていた。

同じ満期出所の人がいたが、一旦外に出たが駅への行き方が分からずまた戻って聞きに来た。賞与金は持っていたが、旅館などに泊まり生活しているとすぐに金は底をついてしまう。住民票がないからアパートを借りることも就職することも難しく、また刑務所に戻るような状態に追い込まれてしまう。

刑務所での情報収集
千葉刑務所には図書館があり2、3万冊位の蔵書があり借りることもできる。しかしその本は4、50年前の本で、10年以内に発売されたものはない。県や市の図書館が廃棄する本を刑務所に回してくる。時事性のあることを学ぼうと思っても無理だ。受刑者が置いていった本は比較的新しいがそれは昼休みに配る官本として借りることが出来る。確かに本を買うことは出来るが、最近どんな本が出ているかなどの情報は私の場合読売新聞をとっていたが、その中の書評位しかなく情報が手に入らない。

刑務所は受刑者を教育しようとは思っていない。様々な情報から受刑者を遮断しようとする。パンフレットが送られてくる。看守は読むなとは言わないが「こんなのを読むと仮釈法は無理だよ」と言われる。

一旦看守ににらまれると、どんなことをしても懲罰の対象になる。例えば部屋では決まった所に座っていなければならない。しかし立ったり、動いたりすることもある。通常それは問題にはしないが、目を付けられた受刑者に対しては看守の裁量で懲罰に持っていってしまう。看守と目を合わせただけで懲罰の対象となるなど、全ての行為が懲罰になりうるように規則が決められている。

矯正教育の現状
刑務所での更生改善や社会復帰などはほとんど行われていない。色々な職業訓練をやったが、向上心でやったのではなく、作業をするより楽だからやったようなものだ。しかし内容が古くて実際社会に出て使えるものはほとんどない。また職業訓練が出来る人は限られていて誰でもができるわけではない。教育とは処遇のための道具でしかない。

無期囚の人と話すこともあるが、彼らは今ほとんど仮釈放で出られることはなく、絶望している。仮釈になるのは1年間に1000人のうちの一桁台だろう。昔は無期刑でも15年、20年で出られるということもあったが、今では多くの無期囚が獄中で死んでいる。一生出られないのであれば、更生改善を目指したり、矯正処遇などをする意味がない。長期の受刑者の処遇のあり方を考えなければならないだろう。
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テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

鎌田實 『がんばらない』

10月30日(日)
古本屋で見つける
4_convert_20111030163046.jpg鎌田實さんのことは、以前病院の図書室にあった『雪とパイナップル』を読んで名前は知っていたが、どういった考え方を持っている人かは知らなかった。9月25日に行われた「健康ぶんきょう21・講演&対談“いのちを想いあう”」の集会に参加して鎌田さんの講演を聴きその人となりを知ることになった。

偶然、鎌田さんの本を古本屋で見つけて買った。『がんばらない』と『あきらめない』という本だ。本はなるべく図書館で借りるようにしているが、買わざるを得ない本も結構あり自室の本箱からあふれ出してくるから、定期的に昔の本を古本屋に売りに行く。ブックオフとかフタバ書店とかが近くにあるのでそこを利用する。文庫本だと一冊5円、単行本でも10円、良くても20円位でしか売れないが捨てることは気がとがめるので売るわけだ。

古本売場で文庫本が5~600冊ワゴンセールで一冊105円で売っていた。5円で仕入れて105円で売るということだ。5冊買うと半額になる。その中に鎌田實さんの本を見つけた。2冊買いその外の3冊は藤沢周平の本があったので買った。

柳田邦男の『がん50人の勇気』
鎌田さんの『がんばらない』という本は全く普通の人が如何に心安らかに死んでいくかを扱ったものである。昔、柳田邦男の『がん50人の勇気』という本を読んだことがある。約20年以上前の段階でのドキュメントで、現在とは違いガンの告知はされなかったことが一般的だったが、自分の死期を自覚して、如何に最期の時を精一杯生きたかを記録したものである。

朝永振一郎、大沸次郎、平塚らいてふ、亀井勝一郎、中山義秀、尾崎士郎、江田三郎、市川団十郎、小津安二郎、林武、伊東深水、高橋和巳、矢内原忠雄ら、柳田邦男の取り上げた人達は小説家、画家、映画監督、俳優、役者、学者、中には哲学者もいる。彼らは社会的エリートであり、最後まで矜持を捨て切れなかったのだろう。それが良い死に方とか見事な死に方として感じられるのかもしれない。

しかし社会的に業績をあげた人達の「良い死に方の記録」はやはり我々の死とはどこか無縁のものとして、「これらの人のようなどこまで見事な死に方」として賛美されることに強い違和感を覚えたものだった。色々な死への迎え方がある。がんによる死が悲惨なものばかりとは限らない。淡々と、雄々しく、ひょうひょうと、精一杯明るく受け入れることもある。それは全ての人が直面することになる現実である。

死は誰にでも平等に訪れるものであり、それを激しい葛藤を繰り返しながらどう受け止めるのかの中にその人の生き様があり、死への心構えがある。それは他人が賛美したり卑下したりする種類のものではない。死は生の結果であり、今までの生き方の凝縮した姿を表す。重要なのは迷いや煩悶を繰り返しながら、最終的に死を受け入れ安らかな死を迎えることが出来るかどうかであって、それは見事だとか、良い死に方などといわれるたぐいのものではない。

鎌田實の『がんばらない』
鎌田實さんの本は医者が患者の最後を紹介する本である。それも悲惨な体験としてではなく、さりげなく死の体験が取り上げられている。そこには無心の慰めが感じられる。この本には柳田邦男の本に出てくるような有名人は出てこない。

登場するのは家族思いの主婦なお子さん、彼女は「病人になりきらないこと」「家にいたい」「最後まで自分らしくしていたい」と在宅ホスピスケアをしてもらって最後まで家で仕事をしていた。スケート選手で高校3年の時悪性リンパ腫と診断された研治くん、頑固一徹な鎌田さんの父親岩次郎さん、誰が来ても「お茶を飲んでけ」というもてなし好きな山根ばあ、駄洒落で人を笑わす禅宗の和尚さんなど、多くの人を医者は見送るが、皆市井でささやかに生きてきた人達である。

萩野アンナの解説に次のように書いてあった。「思わぬ病を得、動揺し、逆らえない運命を悟ると、それぞれが見事に人生の幕を引いてみせる。天寿をマットウといわれる年齢でも、死の受容は、本人にも家族にも難しい。自立という言葉に私たちは振り回されすぎたのかもしれない。人は人によって支えられる。寄りかかりながらも寄りかかり過ぎない。その按配をわきまえる以上の自立は、幻想でしかあり得ない。」

人間らしい最後を迎えることは如何にして可能だろうか。それは鎌田實さんが院長をやっている諏訪中央病院であるからこそ可能だったのかもしれない。医者と看護師と患者がお互いに信頼関係を築き支えあうことが患者の心の安定を可能にする。

死への限られた時間を宣言されてからの、それぞれの生き方は、それまでの生き方を反映するものある。最後の時をどう生きるか、何を残すか残さないか。どのような人でも死と向かい会わざるを得ないという人間の普遍的課題にどのよう対応するのか。どのように患者に満たされた死への時間を提供してあげることが出来るのか。それは結局本人の心構えだが、死への時間が迫る中で、その心の動揺を支える柱は必要だろう。家族、仲間はもちろんだが、医師、看護師の役割も大きい。

死の受容と煩悶
前立腺がんの患者である禅寺の住職は「死ぬ事をまるで隣の家へでも行くみたいな心境で、詩にうたった禅僧たちがいる。生死をこえた死にざま、果たして隣に行くみたいに行けるかと自問自答するこのごろである・・・」と亡くなる前年に書いている。

がんの告知を受けたとき彼は受容しているものとばかり思っていた。しかし彼は「精神的不安というか、万事にアセリを感じる」という。死に向けた迷いと動揺を誰でも繰り返す。やがて死を受け入れる心構えが出来る。それは個々人の感性の問題だが、それに止まるものではない。周囲の人達との関係の中で作られていくものでもある。

鎌田さんは言う「医療の中で〈今この病人にはどんな援助が必要か〉と常に思いをめぐらしてきた。それぞれ〈時〉の徴を見抜く感性をもっていたいと思う。」「21世紀の人類にとって最も大きな問題は、情報長寿社会のなかの、人間のさびしさではないだろうか。物や金や情報よりも大切なものがあるはずだ。忘れていた魂の心くばりをぼくたちの乾いた心にとり戻したいと思う。」

こういった視点で鎌田さんは苦悩する現代医療システムの中で、病院のドクターや看護師さんや多様な職種のスタッフたちがそれぞれ専門性を生かして病んでいる人々を全力で支えていこうとしてることの意味を強く訴える。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

がん患者であるということ

10月28日(金)
 「いのちの授業」をやった小学校からは、授業を聴いた生徒から感想文が送られてくる。この感想文を読むことがある意味で「いのちの授業」をやることの中での一番の楽しみだ。自分の話したことがどのように受け止められ、どのような影響を生徒達に与えることが出来たのかそれを知る事は何よりも話すことの励みになる。

生徒に話した内容は自分自身に返ってくる。不確かな自分、思い惑う自分が生徒との関係の中で、生徒に話をすることの中で確実なものを見出していく。自己の中の不確かな思考も他者に話すことによって自己の確信へと変わっていく。不確かな自己が他者との関係の中で確実なものを獲得していくそういった過程が「いのちの授業」での生徒感想文の中で発見できる。

 揺るぎなき自己など存在しない。キルケゴールはいう「精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか? 自己とはひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である」。自己が単体として存在するならば、一旦形成された自己は揺るぎないものとなりうるだろう。自己は自己自身の関係に関係することにすることによって自己であるから、その関係は自己との対話であって絶望や不安、思い惑いなどに満ちあふれている。自己とは確定的な存在への模索の過程である。

つまり「派生的な、措定された関係が人間の自己なのであって、それはそれ自身に関係する関係であるとともに、それ自身に関係することにおいて他者に関係するような関係なのである。」だからこそ自己は、自分で自己自身に関係することによって自己を措定するか、他者との関係において措定するかそのいずれということになる。だからこそひたすら揺れ動く存在なのである。

 がんになって「がんと共に生きる」という心境に達しているとは思っているが、それは決して確信として存在しているわけではない。外の選択肢がないということであきらめているだけなのかもしれない。また治療がうまくいかなければ絶望とか不安にさいなまれることもある。

絶望についてキルケゴールは「絶望することができるということは、無限の長所である。人間が精神であるという無限の気高さ、崇高さを指し示すものだからである。人間が動物よりすぐれている長所である。けれども絶望しているということは、最大の不幸であり悲惨であるにとどまらない・・・」と言っている。

がんになったという現実に対して絶望し、しかしその絶望を経ることによって人は自己自身を見出していく。今まで会社や世間に流されて生きていた事について、絶望によって今までの自己を対象化し、がんを抱えて生きていかなければならない自分を見出していくことになる。そしてそれを宿命として受け入れ、自己自身を見出していく転機としていくことが出来るのである。

 多くのがん患者の生き方を交流会で聴く機会を持ってきた。彼らががん宣告を受け、長い治療を経てから、交流会に出て自分自身の事を語ることが出来るまでには多くの困難な道程があった。その過程については、死期を迎えた人の感情の移り変わりとかなり近いものを感じた。死と終末期研究の先駆者、エリザベス・キューブラー・ロスは「死期を迎えた人は典型的に、拒絶、怒り、交渉、抑うつ、受容の5つの感情段階をこの順番で経験する」と語る。

この過程は、がんを宣告された多くの患者も同じようにたどる。しかしそれは一方向的なものではなく、怒りから受容へ、そしてまた怒りに戻ったりする。人間の心は割り切れない。がん患者であることを受け入れ、がんと共に生きるのだと言っていた人が、重いうつ病になったりすることもある。

 最初はがん宣告されても、間違いではないかとがんになったという事を認めようとしない。次に「何で、私ががんにならなければいけないのか、自分は死でしまうのだろうか?」と、怒りが湧いてくる。そして最終的には「なんでなったか悩んで、苦しんでも、がんであるという現実は何も変わらない。なってしまったものは、受け入れるしかない」といった受容に至る。

確かに受容の感情に至り心穏やかにがん治療に取り組んでいければそれにこしたことはない。しかし人間の心は揺れ動く。がんを受容すると同時に、がん患者であり続ける自分ががんと共存ししながら、自己自身の新たな生き方を見出してできれば、心の安定を獲得することができるだろう。結局今を自分自身納得してどう生きるのかが問題なのだ。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

血液内科の診療

10月26日(水)
検査結果
IgM   5934(10/26)←5466(10/19)←5518(10/12)←4862(10/3)
IgG   274←365←340←375
白血球 2000←3000←1200←1900
好中球 530←1750←380←900
赤血球 230←259←261←297
ヘモグロビン 7.8←8.4←8.4←9.4
血小板 3.4←2.4←3.0←7.8

IgMが500の上昇だ。レナリドマイドは19日から休薬している。シクロホスファミドとデキサマタゾンは17日から休薬している。この影響なのだろうか。それとも薬そのものが効果を失っているのか。どちらにしても今の3種類の併用療法は限界に来ているのは確かで、医者はベンダムスチンへの早急な移行を考えているようだ。

今回のIgMの値を見てどうしようと医者に相談された。「休薬の影響もあるかもしれないのであと2週間位様子を見てから、ベンダムスチン療法に移る事にしましょう」と答えた。次回11月2日の診療日にIgMの数値がさらに大幅に上昇しているような事になれば入院治療にならざるをえない場合もあるだろう。

IgGが低迷している。前回予告されたように今日は免疫グロブリン製剤の点滴をする事になっている。2時間の点滴だから前もって言われていると時間の過ごし方など準備できる。しかし急遽赤血球の点滴が加わった。ヘモグロビンの値が8を下回ったのだ。赤血球の点滴も2時間かかる。計4時間だ。4時間の連続点滴は始めてだ。リツキシマブをやっている人はいつものことだろうが、4時間と考えると大変だと思う。入院していれば24時間の点滴ですら普通だし何の負担もないが通院だと気分は違う。

ただ4時間できっちり終るわけではないという所が問題だ。血液内科の診療予約時間は10時30分だった。予約時間の1時間前位に採血をして、血液検査の結果を待って診療する事になる。9時30分に採血し、診療に呼ばれたのが11時過ぎだった。

レナリドマイドの手続きを薬剤部で行い、血液内科の処置室に行く。ベッドが空いていたのですぐに案内された。いかし薬の手配や医者が点滴針を刺しに来るのに時間がかかったりして、点滴が始まったのが12時30分からだった。免疫グロブリン製剤の点滴が2時間以上かかり、終ったのが16時45分だった。

普通だったら少し位時間がかかっても何の問題もないが、今日は17時30分から荒川区の瑞光小学校で、11月19日に行われる「いのちの授業」の打ち合わせがあるので、点滴が遅れるとあせってしまう。最後にG-CSF・グランの注射をして終えた。会計をして薬をもらい病院を出たのが17時5分前、打ち合わせ場所の学校まで間に合うか。

打ち合わせ場所である荒川区立瑞光小学校は、都電の三ノ輪駅の一つ前の荒川一中前という駅で下りてジョイフル三ノ輪の商店街を通り5分位の所にある。病院から西日暮里まで行き、そこから千代田線で町屋まで一駅乗り、町屋から都電で4つ目の駅が荒川一中前だ。学校にはどうにか17時30分ぴったりに辿り着けた。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

筑波山ハイキング

10月25日(火)
大体火曜日に出かけることが多い。水曜日が血液内科の診療日で「今の療法が効果を失ったので、ベンダムスチンを使用した治療を行いたい」と言われる可能性がある。その場合はベッドの空きの問題もあるが通常次の週の月曜日からの入院となる。そういったことで、血液内科での血液検査の結果が出る前に、何処かに行っておこうという気になる。入院を控えているとあまり出かける気分にはならない。

筑波山に出かける事にした。紅葉の見頃までは後1、2週間はかかるだろう。紅葉がピークの11月1日~30日まで「筑波山もみじまつり」が行なわれる。11月3日~27日の土・日曜、祝日には、ケーブルカーの夜間運行が行われ、ケーブルカー宮脇駅・沿線がライトアップされる。山頂からは関東平野の夜景を眺望できる。

筑波山
筑波山は一億年以上も古い時代に、海底に積もった地層に班れい岩、花崗岩のマグマがあいついで貫入し、その後の地殻変動によって持ち上げられ、山塊となってから風雨による侵食や風化によって堆積物が削りとられたものである。この山を覆う数多い植物は、寒冷期に北から下がってきた冷温帯の植物であるブナ林を山頂部に冠のように残し、山麓部分には暖温帯の常緑広葉樹林が広がるという、きわめて多彩な姿となっている。

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 男体山                            女体山

来週あたりからかなり混み合ってくるだろう。紅葉情報では色づき始めと書かれていた。紅葉を十分楽しむことは出来ないが、ハイキングを目的とするので問題はない。つくばエクスプレスに北千住から乗車する。筑波というとかなり遠く感じる。しかしつくばエクスプレスの快速だと北千住からつくばセンターまで33分で行く。都内を少し動いても30分位すぐかかってしまう。そう思うとかなり近くなったものだ。

筑波山へのケーブルカー乗り場のある筑波神社入口行きのバスは全てつくばエクスプレスの終着駅、つくばセンターから出る。筑波山に行くにはJR常磐線の土浦からも行けるとは思うが、バスの便が少なく、どちらにしても一旦つくばセンターに行かなければならない。JR土浦駅から行くのはかなり不便だ。

つくばセンター駅前には西武とロフトが出店しているが、人通りも少なく閑散としている。繁華街は駅とは別の所にあるのだろう。発車したバスは駅前通りを走る。整然とした町並みが続く。バス通りの両脇には木々が植えられ林のようになっていて、それに沿って遊歩道が作られさらに並木が列を作っている。駅前を過ぎてしばらく行くと広大な筑波大学の脇をひたすら走っていく。道路は碁盤目で作られた街ということを強く感じさせる。

途中から学園都市としての都市景観は終わり、田んぼと畑の田舎の普通の風景に戻っていく。関東平野の広さを感じさせる田んぼが広がっている。その平地の中に筑波山の所だけが盛り上がって、平らな空間にインパクトを与えている。筑波神社入口まで30分位だ。

筑波山神社入口のバス停の前にある観光協会で筑波山の登山地図をもらって行くコースの確認をする。「白雲橋コース」の奇岩群方面を回り、つつじヶ丘まで下り道を行くか。女体山からのロープウエイで下まで降りるかは、女体山についてから体力の状態と相談して考えることにした。筑波山神社に向かう。15分位だ。神社の手前に大御堂がある。

大御堂(おおみどう)(筑波山 知足院 中禅寺 真言宗豊山派)
延暦元年 (782年) 徳一上人が東国に下り、荒廃していた筑波山山頂の二社を再建。二神を千手観音、十一面観音の権現として中腹の地に堂宇を建立、千手観音を安置して、知足院 中禅寺 と号したのが大御堂の始まり。弘仁年間 (810~23年) に、弘法大師空海によって真言密教の道場が開かれた。坂東三十三箇所第25番札所。真言宗豊山派大本山護国寺の別院である。
筑波山(筑波山神社)と神仏習合により信仰され、江戸時代には徳川家の厚い庇護を受け多くの寺領を有した。明治初年の神仏分離により破却され、1930年(昭和5年)ようやく再建された。

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 大御堂本堂                          鐘楼

筑波山神社は山の斜面を利用して作られている。鳥居を潜るとまず屋根付きの赤い橋がある。この御神橋は春秋の御座替祭(4月1日・11月1日)・年越祭(2月10日11日)に参拝者の渡橋が許されるが、それ以外の日は橋を横から見る外ない。橋からかなり急な階段を上ると随神門がある。現在の門は1811(文化8)年の建立された。通常仁王像がある。中を見てみると左側に倭健命(やまとたけるのみこと)、右側に豊木入日子命(とよきいりひこのみこと)の像があった。神社なのだからか珍しい配置だ。

随神門唐さらに階段を登ると拝殿にようやくたどり着く。拝殿では右から左までかなり幅のある造りになっている。杉の巨木が至る所に林立している。珍しい木としてクスノキの変種マルバスクという木が植えられていた。その奥に日枝神社、春日神社の拝殿がある。

筑波山神社
筑波山は、関東地方に人が住むようになったころから、信仰の対象として仰がれてきた。その山容が二峰相並ぶため、自然に男女二柱の祖神が祀られた。筑波の大神も「いざなぎ、いざなみ両神」として仰がれている。第十代崇神天皇の御代(約二千年前)に、筑波山を中心として、筑波、新治、茨城の三国が建置されて、物部氏の一族筑波命が筑波国造に命じられ、以来筑波一族が祭政一致で筑波山神社に奉仕した。
中世以降仏教の興隆につれて筑波山にも堂塔が建ち、小田城主八田知家の末子八郎為氏が国造の名跡を継いで神仏並立の時代が続いた。江戸時代、幕府は江戸の鬼門を護る神山として神領千五百石を献した。

筑波山041_convert_20111025234133 筑波山神社拝殿

御神橋(県指定文化財)
切妻造小羽葺屋根付。三代将軍家光公寄進。元禄15年6月(1703)五代将軍綱吉公改修 安土桃山時代の豪壮な遺風が見られる。天正18年徳川家康公が江戸城に入城され 筑波山を仰いで江戸城鎮護の霊山と崇められた。

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随神門(市指定文化財
八脚楼門。三代将軍家光公寄進。これより神体山である筑波山を望み神社の境内地山頂を含む約370町歩(ha)に及ぶ。往古はこれより遥拝したといわれ、自然と社殿とが一つになり神ながらの荘厳さを感じせしめる霊所である。

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日枝神社・春日神社・拝殿(県指定文化財)
寛永10年11月(1633)三代将軍家光公の寄進。延暦の初め 奈良興福寺の高僧徳一大士(恵美押勝の子)が筑波の二神を拝し筑波山知足院中禅寺を開基しその鎮守社として藤原氏に縁の深い両社を勧請したと伝えられる。神仏習合の江戸時代には御座替祭に用いる神輿がこの拝殿に安置され山下の里宮を兼ねていた。

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 日枝神社・春日神社・拝殿

マルバクス(丸葉楠)標本木(市指定天然記念物)
マルバクスはクスノキの変種で、葉が著しく丸く、牧野富太郎博士(世界的植物学者で日本の植物の分類学の父)により命名された。マルバクスは当神社の他に福岡県太宰府に一本確認されている。

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 マルバクス                  大杉(樹高・約32m、樹齢・約800年)

ケーブルカー筑波山頂駅前広場から男体山と女体山を見る
ケーブルカーは8分で山頂駅に着く。筑波山頂駅と言っているが、山頂への登り口駅ということだ。駅前の広場は男体山、女体山の間、常に二神が御幸(往来)することから御幸ヶ原と呼ばれていて展望台になっている。男体山は左に行き15分位登れば頂上に着く。女体山の山頂へは右へ30分位行く。

男体山に上り始める。ケーブルカーの駅の標高が800mで男体山が871mだから標高差70m、歩いて15分というから、幾ら体力がなくてもゆっくり行けば問題ないはずだ。丸太で作られた階段をしばらく上る。途中から岩場になり、昨日か、一昨日かに降った雨で岩が滑り易くなっている。なるべく岩につかまりながら全身で登っていく。

息を切らせながら20分位で頂上にある男体山本殿に到着する。ここからは女体山がよく見える。本殿の脇に筑波山測候所がある。1902年に設置された日本初の高層の気象観測所。1986年に閉鎖。現在は筑波大学が研究用に気象観測を行なっているらしいが何年も人が立ち寄った形跡はない。門柱、門扉、壁の装飾などアンティークな雰囲気を漂わせている。

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 御幸ヶ原からの男体山                   御幸ヶ原からの女体山

男体山本殿
筑波山神社の御本殿で、筑波男大神《伊弉諾尊(イザナギノミコト)》を祀る。延喜式に筑波山神社二座とあり筑波男大神は大社。標高871m。

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 男体山本殿

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 筑波山測候所                        女体山から見る男体山

男体山を下り、ケーブルカー前の広場に戻り今度は女体山山頂に向かう。途中「カタクリの里」があり、時期になればカタクリの群落が一斉に花を咲かせるだろう。ケーブル山頂駅から10分位進むとセキレイ石の向いに「セキレイ茶屋」がある。ここまで品物を運ぶのは大変だろう。ガマ石が奇妙な形をコースに現している。

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女体山頂周辺の風景

セキレイ石、ガマ石
セキレイ石: この石の上にセキレイがとまり男女の道を教えたとされている。
ガマ石: 元来「雄龍石」といい、傍らには「雌龍石」もあり、その尾は霞ヶ浦に達するといわれている。一般には永井兵介がこの石の前で「ガマの油」売り口上を考え出したことにより「ガマ石」と呼ぶ。永井兵介がそのことで財をなしたため、口に石を入れると財を成すと言われている。

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 セキレイ石                          ガマ石

ガマ石から10分程進んで最後の急階段を登ると、女体山本殿がありそこが頂上である。女体山山頂は岩場になっていて、展望台になっているが柵もなく回りは急な斜面になっていて落ちればただではすまない、危険極まりない所だが見晴らしは抜群にいい。ただ若干もやっていて犬吠埼や太平洋まで見ることは出来なかった。また頂上には「天の浮橋」があり縁結びのスポットだということだ。

女体山本殿
筑波山神社の御本殿で、筑波女大神《伊弉冊尊(イザナミノミコト)》を祀る。延喜式に筑波山神社二座とあり筑波女大神は小社。標高877m。

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 女体山本殿                          男体山からの女体山

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 女体山からの眺望

ここからどうするか、女体山の山頂に着いたらそこから分かれる二つのコースがあり、どちらに行こうか体と相談し決めようと思っていた。ロープウエイでつつじが丘まで一挙に降りてしまうのか、「白雲橋コース」で弁慶茶屋跡地まで行き、そこから「おたつ石コース」でつつじが丘まで下るのかの選択だ。所要時間は70分だ。

女体山から弁慶茶屋までの間には、北斗石、裏面大黒、出船入船、母の体内巡り、弁慶七戻りなどの奇岩が並び、筑波山の見所になっている。ただコース案内によると急な岩場注意!岩場続く注意!と書かれている。それも急峻な下り坂だ。小学校の遠足でも行く男体山の岩場でも下りるのに苦労した。そこには岩場注意などとは書いていない。余程厳しいコースなのだろう。ロープウエイと「白雲橋コース」の別れ道の所でちらと岩に沿って付けられた太い鎖が見えた。

19日の血液内科の診療の時血小板数は2.4だった。岩場で足を滑らせて頭を打ち出血でもしたら血が止まらない可能性もある。ほとんど行く人もいないコースだ。怪我をして担架で運び降ろす事も難しいだろう、などと考えていると行く気が失せてくる。赤血球も少なく足元もふらつくこともある。色々思いを巡らし、結論として奇岩見学はあきらめてロープウエイで下りることにした。

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 ロープウエイ駅から女体山                 ロープウエイからの山肌の紅葉

つつじヶ丘駅駐車場
ロープウエイのつつじヶ丘駅の駐車場の一画が奇妙な雰囲気になっている。どう考えても今時の人の趣味、興味とはかけ離れた空間だ。大衆食堂の建物なのだが、その周りを囲むものはガマの像とガマにまつわるものだ。ガマの迷路、ガマの洞窟(入場料500円)などがある。このレトロな空間が昭和初期ならいざ知らず何で今の時代に存在しているのだろうか。おまけに面白い事に3匹の鴨がガマの像の前を行ったり来たりしてその場を動こうとはしない。

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 駐車場のガマの置物 

ロープウエイは20分おきに出ていて、つつじヶ丘からつくばセンターまでのバスは30分おきに出ている。平日でこの程度の間隔で運行していれば比較的スムーズに回れる。つつじヶ丘から筑波山神社までは急な坂道をヘヤピンカーブの下りで結構距離があった。バスはつくばセンターまで50分位かかった。運よく16時25分のつくばエクスプレスの快速に乗れ、17時前には北千住に着いた。

(参考資料: 筑波山神社ホームページ、〈社〉つくば観光コンベンション協会)

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病気になるということ

10月21日(金)
 病気になるということはどういったことだろうか。しばらく前の「東京新聞」の「筆洗」というコーナーに次のような内容が書かれたコラムが掲載されていた。

正岡子規は「病気の境涯に処しては、病気を楽しむという事にならければ生きて居ても何の面白みもない」(『病床六尺』)という境地だったのだろう。あまり暗い影を感じない。彼は短歌や俳句の改革をやり遂げ、34歳の生を思う存分駆け抜けた残像が見える。

スイスの哲学者ヒルテイは言う「河の氾濫が土を掘って田畑を耕すように、病気は全ての人の心を掘って耕してくれる。病気を正しく理解してこれに堪える人は、より深く、より強く、より大きくなる。」

56歳でアップル・コインピュター社の創始者スティーブ・ジョブス氏が亡くなった。彼はすい臓がんの手術を受けた後も新しい商品を生み、生きた証を残した。病を得たからこそ一層豊かな着想が浮かんだのではないか。(東京新聞)

 自分が病気になったことをどう受け止めるのか。病気になる前は、毎日22時23時まで仕事をし、土日も出勤し全く休む事ができないような職場環境だった。こういった労働実態はサラリーマンにとって一般的なのだろう。その中でがむしゃらに働いていく毎日を送っていた。そのことで生きることの意味が徐々に失われていった。

こういった状況の中でがんを宣告をされた。さらに余命5年と言われた。入院後、抗がん剤治療(化学療法)を5ケ月行い、2度の移殖をした。治療は長引き移植後の体力消耗で休職期間の1年が過ぎ職場復帰は出来なくなった。その時から今までの人生のあり方考え直さざるを得なかった。絶え間ない労働の日々から、全ての時間を自ら選択せざるをえない人生へと残りの人生を変えていくことが求められた。

病気になったという宿命は変えらない。問題はそれをどのように人生の新たな転機にしていけるか。限られた人生を自覚するということは、生きていることそのかけがいのない意味を知り、日々悔いのない人生を送りたいと思う。そういった転換ができれば人生は充実した新たな姿を見せてくれる。

 「病気を楽しむという事にならければ生きて居ても何の面白みもない」といった心境までには至らないし、「病気は全ての人の心を掘って耕してくれる」というように自分自身を豊に育んでいっているとも思えないし、「病を得たからこそ一層豊かな着想が浮かんだ」といった創造的な仕事をしているわけではない。

しかし状況に流される生き方から、自覚的な生き方への転換は、否が応でも進めざるをえない。日々の時間すべてが選択の対象となっている。その中で、自分が病気であるという事、そしてそこから敷衍する様々な痛みを単なる個の問題として捉え止めるのではなく、そのことを通して他人との関係をどのように作っていけるかが重要だと思う。

辺見庸は言っている「私たちの日常の襞に埋もれたたくさんの死と、姿はるけし他者の痛みを、私の痛みをきっかけにして想像するのをやめないのは、徒労のようでいて少しも徒労ではありえない。むしろ、それが痛みというものの他にはない優れた特性であるべきである。」(『たんば色の覚書』)

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血液内科の診療

10月19日(水)
検査結果
IgM   5466(10/19)←5518(10/12)←4862(10/3)←4320(9/26)
IgG   365←340←375←314
白血球 3000←1200←1900←2600
好中球 1750←380←900←610
赤血球 259←261←297←289
ヘモグロビン 8.4←8.4←9.4←9.2
血小板 2.4←3.0←7.8←9.4


IgMが少しだけだが下がった。これでしばらくはベンダムスチンの治療に入らないですむ。少しはシクロホスファミドとデキサメタゾンが効いて来たのだろう。このまま少しづつでいいので効き続けてくれればベンダムシチンの治療による入院生活に入る事を引き伸ばせるだろう。どちらにしてもやがてはベンダムスチンの世話になることは決まっているが出来るだけ先の方がいい。

白血球の数値が上がってきたので、シクロホスファミドをしばらくは使い続けられるだろう。白血球が今回も前回並みに下がっていたらシクロホスファミドなどのアルキル化剤は使用できなくなる。今回の白血球の数値でひと安心だ。しかし血小板が2.4でありかなり問題のある数字だ。輸血はしないが注意を要する。薬が効果を発揮しても血球の減少によってその薬が使えないということほど残念なことはない。入院治療であれば使用できるが、そうたびたび入院したくはないし、なるべく通院治療でやって行きたい。

何故今使っている薬が効き続けて欲しいかというと、現在使用可能な薬で延命治療を行っているうちに幾つかの候補に挙がっている新薬が承認される可能性がかなり高いからだ。そしてそれを使って治療を続けられれば、さらに次の新薬を待つことが出来る。薬物耐性が強い私の症状でも延命治療が可能となる。

新薬で承認の可能性があるものは結構ある。アメリカでは臨床試験が行なわれFDAの承認待ちの新薬もある。CarfilzomibとPomalidomideが一番可能性があるようだ。Carfilzomibに関してはFDAからオーファンドラッグ(希少疾病用医薬品)と指定されている。今年は無理でも来年には承認されるのではと言われている。ただ最大許容できる投薬量が未だに決まっていないようだ。HDACインヒビターであるVorinostatとPanobinostatという新薬の臨床試験が進行中である。Panobinostatに関しては日本でも臨床試験が行われていたと聞いている。

多発性骨髄腫では初めての分子標的薬になるElotuzumabに関しては、通っている病院で治験対象者を募集していて主治医が推薦してくれたが、対象者として選ばれなかったという経過のある薬である。この薬もやがては承認されるだろう。一番問題なのはこれらの薬が何時から日本の病院で使用出来るかどうかの問題である。早く承認してもらわないと今ある薬での延命治療に限界がきてしまいそうだ。

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江戸川河畔、水元公園、しばられ地蔵

10月18日(つづき)
フランス料理屋を出て散歩コースに向う。料理は限られていてパンも小さいもの2つ食べただけだが、最後にコーヒーを飲み終わった時には満たされた気分になることが出来た。料理の量というのは食べてみないと分からない所がある。シェフはそれも計算して作っているのだろう。

水戸街道を金町方面から松戸方面に進む。水戸街道にかかる新葛飾橋の手前に土手に上がる階段がある。急な階段を上ると目の前に江戸川とそれを囲む土手が広がっている。その広く開けた雰囲気が開放感を与える。川風が気持ちよく頬に当たる。川辺というのは散歩に丁度いい。

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 新葛飾橋                           新葛飾橋より江戸川下流方面

階段を上ると新葛飾橋の袂にでる。そこから土手に下りる。道はサイクリング道路になっていてウォーキングやジョギングにも利用できるよう整備されている。江戸川河岸の遊歩道は一方は柴又帝釈天や矢切り渡しの方に向う。反対方向は葛西神社の脇を通って、東京外郭環状道路が通っている葛飾大橋に向う。柴山帝釈天方面には行ったことがあるので葛飾大橋の方に向う。

江戸川の川面の向こう側に、葛飾大橋を通して松戸の街が眺望できる。土手の脇には江戸川堤防線といった車道があるが、土手はそれより一段高くなっているので、車も動きは気にならない。河からの涼しい風が吹きつけてくる。気温が高いので気持ちいい。川縁に住む人達は広々とした川の流れを見れば気分爽快なるだろうし、心の安らぎを取り戻すこともある。河岸を散歩し自然を楽しむこともできる。サイクリング、ジョキングやウォーキングのコースも整備され健康増進にもつながる。

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 江戸川河岸より葛飾大橋と松戸方面

川をはさんで松戸方面を見ながら土手を散歩する。葛飾大橋に行く前の横道に水元公園桜堤方面の表示があった。葛飾大橋まで行かずに水元公園に向かうことにして土手を降りて脇道に入っていく。この道路も左右に桜が植えられていて桜並木になっている。

水元公園: 小合溜に沿って造られた、都内で唯一水郷の景観をもった公園です。小合溜から引いた大小の水路が園内を走り、水郷景観を作りだしています。園内にはポプラ並木やメタセコイアの森、ハンノキなど水辺に強い樹木が生育し、ハナショウブ、スイレン、コウホネといった水生植物を多く見ることができます。開園面積:21.539.98m2(平成22年5月31日現在)、樹木数19,100本・271,700m2。(公園へ行こうより)

3,4分で水元公園の入り口に到着する。そこから公園の外側を走る土手約3kmの遊歩道が桜並木になっている。この土手沿いと水元公園内に、ソメイヨシノを主体に約1,300本のサクラが植えられている。桜の季節は見事な桜並木が続く。桜並木に沿って歩く。桜の紅葉までは間がある。紅葉の桜もその葉の黄色、橙色、朱色のグラディエーションが色彩の協演を見せて春とは別の感動を与えてくれる。

途中水子地蔵が祀られていた。供え物3皿が綺麗に並べられている。供え物は栗、椎の実、どんぐりである。子供達がやったのだろう。こういった子供の優しさは思わぬところで現れてくる。

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公園を囲む桜並木をはずれ公園の中を歩くことにした。小合溜から派生している沼があり、そこに何羽かの鴨が悠々と泳いでいた。段々と夕方が迫ってきていて、木々が夕日で金色に輝き始める。夕方の空気がより一層さわやかさを増しながら体中を包んでいく。

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南蔵院のしばられ地蔵はこの界隈ではかなり有名だが行ったことがない。一度は観てみたいものだと思っていた。水元公園の花菖蒲園の入り口の所から出て、バス停に向かう途中に南蔵院がある。公園でゆっくり散策を楽しみたかったが、日暮れが早いので南蔵院に向かった。5分位で南蔵院に着いた。境内は白い砂利で敷き詰められ、木々の剪定、庭の掃除など手入れが隅々まで行き届いていた。これ位綺麗に整備している庭を見るのは気持ちがいいものだ。

南蔵院(天台宗 業平山東泉寺): 南蔵院は、権僧都林能法師(貞和4年1348年寂)が在原業平が居住していたといわれる地(本所小梅町付近:現業平橋周辺)に創建したと伝えられる。元禄11年(1698)中之郷八軒町(墨田区吾妻橋3丁目)へ移転、しばられ地蔵で著名となった。関東大震災で罹災、廃寺となっていた聖徳寺の地(当地)へ移転した。しばられ地蔵が祭られている。(「猫の足跡」より)

江戸川土手・南蔵院045_convert_20111019090548 左から本堂、聖徳太子堂、しばられ地蔵、地蔵堂

山門 南蔵院山門 

江戸川土手・南蔵院042_convert_20111019090645 南蔵院本堂

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 鐘楼                      灯籠

しばられ地蔵由来: 享保年間、吉宗、大岡越前時代の話です。呉服問屋越後屋の手代弥五郎が南蔵院前を通りかかった時、一休みしようと背負っていた反物をお地蔵様の横に置いて休んだところ、うっかり寝入ってしまい目覚めた時に大事な反物が無くなっていることに気がつきました。

弥五郎があわてて奉行所へ駆け込んだところ、大岡越前が「門前に立ちながら盗人の所業を見逃すとは、ふとどきせんばんな地蔵である。その地蔵を召し捕ってまいれ」と命じ、縄で縛られた地蔵様が台八車に乗せられ奉行所に召し上げられました。

その様子をみた江戸市民はもう大変。江戸中にその話が広がり、前代未聞の地蔵の詮議を見物しよと、我れ先と奉行所の白洲に江戸市民がなだれ込みました。ところが大岡越前は集まった民衆に対して「天下の奉行所をなんと心得る。野次馬連中に木綿一反の過料を申し渡たす。」との鶴の一声。やがて山と積まれた反物の中に盗品が二反が紛れ込んでいるのが判り。吟味の末、盗人はお縄となり「これにて一件落着。」(MNGS WEBより)


以来、盗難厄除けをはじめ、「縛る」ということから縁結びまで、あらゆる願いごとを叶えてくれる地蔵尊として庶民に慕われてきた。この話に由来し、盗難や遺失物避けをはじめ、諸願成就のご利益があるといわれ、願をかけるときは縄で縛ってお願いする。このしばられ地蔵を見ていたら、田端からすぐの所にある東覚寺にある赤紙仁王尊を思い出した。赤紙仁王尊の立像が見えなくなるまで赤紙が貼ってあった。赤紙(魔悪を焼除する火の色)を自分の患部と同じ箇所に貼って病気身代わりと身心安穏を願うというものだ。

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江戸川土手・南蔵院030_convert_20111019171737 地蔵堂

2011.jpg 地蔵堂

しばられ地蔵は何十にも縄で縛られていた。縄を1本100円で買って、地蔵を縛ることが出来る。縛りながら願をかけるとご利益があるということだ。しばられ地蔵の右横には地蔵堂があり、左には聖徳太子堂がある。地蔵堂の横に回ると水子地蔵菩薩と「ののさま」地蔵尊がある。この地蔵尊は釈迦や先祖を象徴しているが、児童に親しみやすい表情をしている。

更に地蔵堂の裏に小さな庭園があり、その片隅に水琴窟という音色を放つ手水鉢(つくばい)がある。水琴窟についての説明看板には次のように書かれていた「つくばいの下深く底をうがった瓶を伏せ込み、手洗水に使われた。瓶に反響して妙なる琴の音のように聞こえる」と。風流な音を奏でるので趣があり、竹に耳を当て聴きたくなる。

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 聖徳太子堂               水子地蔵菩薩              水琴窟

かなり見所がある南蔵院であった。南蔵院の閉館時間は16時30分、その少し前に寺院を後にした。しばられ地蔵前というバス停は直ぐ近くだった。バスの本数も結構ある。日が暮れる前に回ることが出来た。

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フランス料理店 “ L'amour(ラ・ムール)” 2度目

10月18日(火)
 友人宅を訪問した。訪問前に色々用が重なり、思ったより時間がかかってしまって、友人宅に着いたのが13時頃になってしまった。事前に電話で訪問時間を告げたときに昼食をどうしようかという話になって、どうせなら9月の初めにいったフランス料理店のランチを食べに行こうという事になった。友人一人で入るような雰囲気のレストランではないので、彼も9月以降行っていなかった。友人宅に着くと同時にレストランに出かけた。

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 レストラン正面                      カウンター席

ランチメニューは1500円の日替わりランチと2500円の季節のメニューがある。前回は退院祝いだということで高い方を頼んだが、今回は日替わりランチにした。オードブルは「サーモンのカルパッチョ・バジルソース添え」か「オニオンのタルト」の選択メニュー。

メインディッシュは「鱈のほぐし身とマッシュポテトのグラタン」デザートは「バニラアイスと焼き菓子」、最後にコーヒーが付く。パンはお変わり自由。美味しいパンだ。しかもそのパンは手作りで焼きたてのということを知って、さらにその美味しさを味わうことが出来た。

 今回もカウンター席に座っていたら、シェフがメインディシュの作り方について説明してくれた。確かに美味しいと思って食べられればいいのだが、シェフにとってみれば色々な工夫があってそれが料理の中に隠されて、それを言いたい気持ちも分かる。

魚は漁港で当日水揚げされた新鮮な白身魚で、漁港で契約している魚屋さんがお勧めの白身魚を使用する。鱈とは限らない。白身魚に塩味を染みこませるのだがそれには砂糖を使用する、砂糖によって浸透圧が増すということだ。その魚を燻製にして香り付けをする。それをほぐす。マッシュポテトはほっこり感を出すためでんぷんを抜く作業をしっかりとする。

魚のほぐし身とムッシュポテトを混ぜ、生クリームとオリーブオイルで味付けをして、グラタンとして焼き上げる。こういった創作料理の工夫の経過を聞きながら食べるとまた料理も違ったものとして認識され、料理の味もぐんと引き立って感じられるようになる。

もちろんワインを頼んだが、酒量が減ったとつくづくと思う。昔はワインを頼む時は必ずボトルで頼んでいた。サイゼリアなどに何人かで行くと1.5リットルの瓶を2本ばかり頼んだものだ。今ではグラスワインで間に合ってしまう。昔はレストランに行っても料理代より酒代の方がかかってしまう位だった。今は酒代がかからない分、安上がりでいいのだが何か寂しい感じがする。

 レストラン入口に置いてある店紹介のチラシにレストラン・オープンの経過が書いてあった。その中には料理人の自負と決意が現れている。「人生をかけた勝負に出たい」という決意に至るには紆余曲折があったのだろう。人は人生の中で何度かそういった機会に出会い決意をするが、それを実現出来るのはほんのわずかな人でしかない。レストラン「ラ・ムール」のシェフはそれを実現した。その経過は意味あるものだ。

 「本格フレンチレストラン“ L'amour(ラ・ムール)”は2011年5月にオープンした。フレンチ一筋に生きてきたオーナーシェフの橘秀和さんは、25年間著名な店も含め、様々なフレンチ・レストランでシェフとしての腕を磨き、料理長まで任せられるようになった。

彼は経験を重ねるにつれ、自分のやりたい料理と雇われた店で求められる料理が食い違うことが増え、大好きなフレンチを作るのが辛くなっていきたという。それで独立を決意した。独立できなかったら、シェフとして生きるのは、もう終わりにしようと考えた。そして人生をかけた勝負に出ようと決めた。店開業資金の調達などの苦労を重ね、ついに独立して店をオープンさせた。」

「東京の最北東でフランス・パリを感じながら、手の届く範囲で本格フレンチを楽しんでいただきたい。」との思いが詰まった店だ。銀座、青山まで行かなくても、地元で楽しめる本物志向のフレンチである。店内で田崎真也さんの名前が出てきた。どうしてだろうと思って聞いてみると、「田崎真也の店で10年料理長を務めた実力派シェフの店」ということだった。

 この店の料理はフレンチをベースに、全てシェフによる手作り料理。前菜、スープ、魚、肉料理とデザートからなるコースは、季節の野菜を中心に素材本来の味を生かし、奥深い。ディナーコースも3000円から注文できる。味は本格的でありながら値段はリーズナブルで何度でも行きたい店だ。今度はデイナーの料理を楽しんで見たいと思った。

料理を満喫し、秋晴れの昼下がり、腹ごなしに散歩に出かける事にした。お互いに年齢的なこともあって体を動かす機会が少ない。目的意識的に動かそうと思わないとどうしても運動不足になり、やがて足腰から体は弱っていくものだ。出来るだけ機会を捉えてウォーキングに励もう。レストランから15分位歩くと江戸川の河原に出る。そこからウォーキングの開始だ。(つづく)

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眼科、口腔外科の診療

10月17日(月)
 血液内科の診療日と同じ日に、眼科と口腔外科の診療スケジュールを入れたいと思っているが、眼科は2週間に一度、口腔外科は1ケ月に一度の診療なので、なかなか同じ日というわけにはいかない。今日は眼科の予約が10時、口腔外科の予約が10時半、その後C-CSF・グランの注射をすることになっている。

眼科ではいつも最初に検査がある。眼圧は左11、右15だった。前回左眼の眼圧が6というかなり低い数値だった。今回さらに低くなったら問題だ。11であれば問題はないだろう。眼圧検査の後、眼底検査のためミドリンP点眼薬という瞳孔を開く目薬を点眼する。

このミドリンという薬は、20歳の頃網膜剥離で入院し、その後通院治療を受けていた時にも使われていた薬だ。点眼後外に出ると太陽のまぶしさにに圧倒されるような感覚を持ったことが記憶に強く残っている。効果のある薬は何十年たっても使い続けている。15分位して瞳孔が開いてから診療室に呼ばれ診療を受ける。

今回は超音波検査をすることになっている。左眼が白内障になっていて眼底検査が出来ないので、超音波検査で左眼の状態を調べることにした。特に問題はなかった。前回7月に検査をした時と比べて、左眼の眼底の炎症や腫れ等の拡大は見られなかった。

右眼の詳しい眼底検査を行ったが問題はなかった。右眼の状態の観察こそが眼科診療の最大の目的だ。右眼に異常があったらすぐに対応出来ることが重要なのだ。右眼は何としても守らなければならない。一時期左眼が充血したり、ごろごろした感じになったことがあるがこの間はそれもおさまっているし、右眼も特に違和感があったり、見えにくかったりといったこともない。眼の方は自覚症状としては何ら問題はない。

 眼科で超音波検査をやったので時間を食い、口腔外科の診療時間が大幅に遅れてしまった。さらに30分位待たされた。右上部の歯茎に骨が出ていて、その周辺が腫れたり炎症を起こしたりしていないか検査をするのが目的だ。

歯科のイスに座って、医者が該当箇所を見て問題があるかどうか判断する。1分とかからない。歯茎が成長してきて骨が段々と隠れてきている。このままで大丈夫だろう。次回は2ケ月後12月にもう一度検査をして問題がなければもう診療は必要ないということだった。

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与野公園・ばら園

10月14日(金)
12日の血液内科の診療の際、好中球がかなり少なかったので、次回診療日である19日までにG-CSF・グランの皮下注射を3度やろうという事になった。今日はその注射をするためだけに病院に行かなければならない。注射だけでどの位待たされるのだろうかと思っていたが、5分位で呼び出しがありスムーズに注射と会計などの手続きが進行した。

病院の帰り道、与野公園のばら園に行こうと思っていた。田端からだと京浜東北線で赤羽まで行き埼京線の与野本町で降りればそこから歩いて15分程だという。まだ11時前だ。天気もよく暑い位だ。明日から天気は下り坂になる。与野本町駅は快速が停まるが、駅中に食料品のスーパーがあるだけで駅周辺に商店街といったものはない。駅から公園に向って10分ほど行くと寺院があり境内が広がっている。与野公園はこの寺院の裏手にある。円乗院という。与野七福神の大黒天が祀られている。

円乗院(安養山西念寺 真言宗智山派)
建久年間(1190~1199)畠山重忠によって、道場村(今は浦和市の一部)に創建されたものであるが、慶長年間(1596~1615)に当地に移建したと伝える。これより先、慶長19年(1614)、徳川二代将軍秀忠公の時、道場村に寺領15石の御朱印状を受け、常法談林(真言教学学問の道場)として隆昌を極めた。その後代々変わることなく明治4年まで続いた。延宝6年(1678)5月16日、京都仁和寺の直末寺となり、寛延2年(1749)11月談林格に昇格して、当地方新義真言宗の重鎮となった。

本堂
文永2年(1862)焼失。慶応3年(1867)再建に着手した。その時用いた杉の大柱は今なお健在である。この柱は、当時境内にその貫禄と威容を誇っていた「地蔵杉」の大木から採ったものであり、1本の木から実に67本もの柱材が採れたという。

多宝塔
弘法大師1150年御遠忌記念事業として、塔形式を考案復興することとなったのが、この大塔の由来である(昭和56年5月)。高野山金剛峯寺、根来寺に次ぐ大塔である。
1階には十二支守本尊(八仏)、薬師如来、水子地蔵尊。
2階には祖師堂と称し、弘法・興教両大師と併せて不動尊・輪蔵(大般若600巻)
3階には観音菩薩をそれぞれ安置している。インドより仏陀釋迦牟尼の真骨を頂戴し、塔中央に奉安した。

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 円乗院境内・仁王門と多宝塔              仁王門(仁王尊・四天王安置)

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 大黒堂                            本堂  

与野公園
埼玉県有数のサクラの名所として知られる与野公園は、ソメイヨシノやヤエザクラが春を美しく彩る。さらに5月中旬からの初夏にかけて、そして秋に約100種類、約3000株のバラたちが園内の主役となる。明治10年に開設された約51,000m2の緑の公園で、埼玉自然100選にも選ばれている桜とバラの名所である。

園内には天祖神社・与野七福神の寿老神と銭洗弁天がある。中央に噴水のある池を配置し、古めかしいイメージを与え、新しい公園の中に風情を与えている。池の横に小高い丘が作られていて、そこから公園の全景が見渡せる。丘に登る所に「富士登山五十八度・大願成就」と彫られた石碑が建っている。この丘は富士塚の名残だろうか。

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 公園中央の池                        銭洗弁天

与野公園・天祖神社
祭神は天照大神。「神社明細帳」には天保12年(1841)に社殿を再建したと記されている。古くは神明社と称していたが、明治8年(1875)8月に村社になったのを機に天祖神社と改称。与野七福神の寿老神がある。

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 天祖神社拝殿

与野公園・ばら園
昭和52年に開設されたばら園は、 約100種類、約3000株のバラたちが園内に咲き誇る。甘い香りをふりまきながら、赤やピンク色の 大輪が花開く。苗木即売会など催しも多彩な 「ばらまつり」も毎年5月に開かれ、満開時には花見客に匹敵するほどの人出で賑わう。また、平成9年には「ばらサミット」が開催され、それぞれのサミット加盟都市を代表するバラが記念植樹されている。

ほかのばら園に比べるとあまり装飾のないシンプルな感じがするが、それでも2006~08年にかけて移植や補樹、土壌の入れ替えを行なわれ、かなり整備された。「たくさんの種類のばらを展示するというよりは、ひとつひとつの花やまとまって咲く姿を楽しむような感じのばら園です」と紹介されていた。

ばら園の奥に沿って新大宮バイパスと、その上に高架橋で首都高速埼玉大宮線が走っていて、かなりの車が行き来する。気になるといえばなるが、首都高の金属色を覆い隠すように、ばら園と道路の間はケヤキと桜の林になっている。少しでも無細工な高速道路を隠そうと地元と行政はそれなりの努力をしているのだろう。

ばら園の中央付近に、アンネの日記の作者アンネ・フランクにちなんだアンネのバラ3株が植えられた。ピンクやオレンジがかった花には平和の願いが込められている。

与野有063_convert_20111015132611 与野公園・ばら園

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与野有041_convert_20111015004807 ばら園中央の彫像「翔」

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平日の昼下がり、ばら園にはほとんど人がいなかった。近所の勤め人だろうかベンチで昼食をとっていた。カメラを持った年配者が2人。アベックが一組。1時間弱いたが、後3、4人の見学者が通り過ぎただけだった。かなり咲いてはいるものの、まだバラは満開というほどでもない。満開になればもう少し見学者は増えるのだろう。

三脚一眼レフカメラを持った年配者がばら園の花壇の一画から離れない。その場所はバラサッミット出展のバラが植えられている場所だ。マダム・ヴィオレというバラの前でカメラを構えたりファインダーをのぞいたりしている。このバラは「茨城県下館市提供、剣弁高芯咲き・ボーダーローズ、15年位前に日本で開発された」と説明があった。バラサミットのバラには詳しい解説が付いている。30分以上も一種類のバラをカメラに収めようと色々工夫しているのは見上げたものだ。マダム・ヴィオレ製作者の関係者かもしれない。

5月のバラの開花時期には、「ばらまつり」が開催され、2日間イベントが行われ、バラの苗木販売や模擬店、ステージショーなどが催される。延べ15万人以上が来場するという。秋バラの時期にはこれといった催しはないようだ。ひっそりとしたばら園で心いくまでバラの香りを楽しむには秋バラの季節の方がいいようだ。

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 正雪                              コンラッド・ヘンクル

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   ハーモニィ                         フレグラント・レディ         

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 天津乙女                           マダム・ヴィオレ

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

血液内科の診療

10月12日(水
検査結果
IgM   5518(10/12)←4862(10/3)←4320(9/26)←3293(9/8)
白血球 1200←1900←2600←4100
好中球 380←900←610←2100
赤血球 261←297←289←283
ヘモグロビン 8.4←9.4←9.2←8.9
血小板 3.0←7.8←9.4←12.8
IgG   340←375←314←328


シクロホスファミド(エンドキサン)とデキサメタゾン(レナデックス)の効果は空しく、IgMは5518と上昇し続けている。9月8日には3293であったのが、今日までの35日間に2225の上昇が見られた。ほぼ一週間でコンスタントに500ずつ上がっている。このまま行くと来週には6000、5週間後の11月16日には8000になる。そこまで待てないのでそれ以前にベンダムスチンの治療に移行し、入院することになるだろう。

シクロホスファミドの影響だろう。白血球と好中球ともに下降した。とりわけ好中球の380という数字は危険領域の500をはるかに下回っている。病院にいればにクリン・メイトというビニールに包まれた空気清浄機付きベッドにいることになるだろう。退院など到底出来ない。通院でも実際に感染の恐れは十分にある危険な状態なのだ。しかしすぐ入院というわけにもいかないのでG-CSFや免疫グロブリン製剤を使って感染予防を図るほかない。

G-CSFの皮下注射は今日と金曜日と来週の月曜日に行う。来週の月曜日は眼科の診療が入っていて病院に行くので丁度いい。3回やれば少しはいいだろう。IgGは相変わらず低い。9月26日に免疫グロブリン製剤の点滴をしたが、314が375に上昇した位でそれ程の効果は見られなかった。

今回は340である。IgGの基準値は 870~1700 mg/dLで500以下になったら免疫グロブリン製剤の点滴を行ったほうがいいと言われている。どちらにしても不足している白血球を様々な形で補っていくほかない。G-CSFは今回はグランを使用した。製薬会社との関係でグランとノイトロジンを期間ごとに交代で使っているそうだ。

血小板の数値も3.0と大幅に減少した。輸血をするかどうかの境目だ。今回輸血は行わない事になった。最近歯茎から血が出たり、ちょっとすりむいただけで血が滲んでくるなどのことがあったが、血小板の減少が影響していたのだろう。ともかく怪我をしないように気をつける外ない。このままシクロホスファミドを服用し続ければさらなる血球の減少は避けられないだろう。既に限界に近い数値になっている。

外来治療センターは抗がん剤治療専用の部屋となっている。今回のように免疫グロブリン製剤(日赤ポリグロビン)など輸血だけの場合、血液内科の処置室で行う。この部屋にもベッドは10床程あるが、ベッドが空くまでかなり待たされた。さらに免疫グロブリン製剤の点滴は2時間かかるので終わったのが17時前になってしまった。10時に病院に着いた。採血、診療、点滴で17時までかかった。通院治療は一日仕事だ。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

ねりまの散歩道・武蔵関公園コース

10月11日(火)
「ねりまの散歩道」は、平成4年7月に設定された緑や水辺、史跡、公園などを巡る散歩コース。1つのコースは約5~8kmで、区内に9コースある。今回は「武蔵関公園コース」を選んだ。花の名所案内を頼りに今まで花見を中心にウォーキング・コースを組み立ててきたが、なかなかこれといったコースが見つからない時がある。

今日も天気が良く何処かに行こうかと思った。そこでかって歩んだコースを思い出した。近場でまだ行っていない「ねりまの散歩道」のコースだ。9コースあるがまだ行っていない所が4割位ある。このコースは長距離なものもあり、体力的なこともあってコースの半分位を巡ったりしたこともあるのでかなり行ってない所が残っている。今回は散歩道のコースで一番遠く練馬の外れ西武新宿線の武蔵関駅周辺を巡るコースだ。

西武池袋沿線に住んでいる関係上、大泉学園駅から吉祥寺行きのバスに乗って武蔵関までいく事になる。バスの本数は思ったよりあってそれ程待たずに乗車できた。武蔵関まで15分位なものだ。武蔵関駅入口というバス停で降り、踏切を渡り線路に沿ってしばらく行くと赤い鳥居が見えてくる、そこが井口稲荷である。

井口稲荷
井口稲荷は、永禄13年(1570)伊豆国伊東の地に、井口但馬守平義久公が、自らの始祖三浦平太夫為道公をはじめ18代の先祖を尊んで造立され、慶安2年(1649)当地へ移築した。関町付近に古くから住む井口氏の守神として代々祀ってきたものである。病気のときはお参りしてから医者に行くと治るといわれ、現代でも絵馬や鳥居が奉納され、信仰の深さがうかがわれる。

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井口稲荷に隣接して天祖若宮八幡宮がある。第一の鳥居から参道が始まっている。この参道がかなり長い、中々拝殿に着けないといった感じだ。やっと拝殿が第二の鳥居の影に見えてくる。境内はかなり広くケヤキやヒノキで覆われて濃い緑に包まれているようだ。稲荷神社、御嶽神社、厳島神社を招致して境内に小さいながらそれぞれ拝殿を建立している。

天祖若宮八幡宮
奈良時代、関塞守護神として奉斎され、慶長年間に村民の氏神となった若宮八幡と、村の鎮守として番神さまと呼ばれていた天祖神社が合わされ、昭和四十九年に天祖若宮八幡宮となった。8,000平方メートルの境内は四季の緑に覆われている。

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 鳥居と拝殿                          拝殿

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 稲荷神社                 御嶽神社                 厳島神社

バスから降りてまだ30分位しか歩いていないが、公園でゆっくりと自然鑑賞という事になる。公園に入ると中央の池に浮かぶ松の島が目に写る。ひょうたん型の池であるということによっても細長い公園の単調さを少しでも和らげようとしているのだろうが、何よりも公園の両側にある松の島と葦の島は公園にインパクトを与えている。

遊歩道も池沿いのものと少し高くなった所にあるものとふた通りあって、それぞれ池を見る時の印象が異なって面白い。ボート乗り場とちょっとした児童遊園がある位で、自然以外何も無いといった感じだがそれはそれで野鳥にとっては良好な環境を提供する事になる。遊歩道際には所々にベンチが置いてあってそこに座り緑に満ち溢れた自然の香りを体中に浴びることが出来る。

武蔵関公園
区立公園のなかでは最も広く、昭和13年に開園した。コナラ・クヌギなどの自然樹林と水に恵まれた環境は、渡り鳥も飛来する野鳥の楽園となっている。中央には、「ひょうたん」を東西に置いたような池がある。古くから「関の溜井」または「富士見池」として親しまれてきた。池には松の島と葦の島という2つの島があり、松の島にはマツやアジサイが、葦の島にはアシやメタセコイアが生い茂っている。

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 松の島(往きと帰り右側と左側の遊歩道から見た島)

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 ひょうたん中央に架かる中の橋から松の島方面と葦の島方面を望む
  
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 葦の島                            紅葉の始まりか

公園入口の弁天橋方面から入り、葦の島の方を回り池を一周し再び入口の戻って来た。まだそれ程歩いていなかっし、疲れていたわけではなかったが、いい景色に出会うとベンチで休んだので大分時間を費やしたことになった。公園を出ると石神井川と西武新宿線の線路が平行している。線路に沿って駅に戻る道をしばらく行って、途中の踏切を渡ると本立寺の境内に行き当たる。

本立寺は普段は目立たない寺院であるようだが、12月9日、10日にはお会式と共に「関のボロ市」がたち、多くの人が集まる。かつてこの市は、「本立寺の市」「暮の市」ともよばれ、江戸時代から続いているという。時代は移り変わっても「関のボロ市」は地域の師走の風物詩となっている。多くの屋台や出店が出て、イベントも行われるらしい。それ程広くない境内にどのように配置されるのだろうか。

本立寺(日蓮宗 法燿山)
開基井口忠兵衛、開祖日誉上人で1630年~1640年頃に当地に創建した。もと西中山妙福寺末。この寺は開山以来長い間法華経の宣布道場としての役割を果たしてきた。本尊は特に「旭日蓮大菩薩」と呼ばれ、出世開運のお祖師様として人々の信仰を集めている。本立寺で行なわれる「関のぼろ市」は練馬区登録無形民俗文化財に登録されている。

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 本立寺山門                         本堂    

会津八一の歌碑(法融寺本堂前
真宗大谷派の法融寺は信願山と号し、正保2年(1645)江戸本町に創建した。法融寺には会津八一(1881~1956年)の歌碑と墓石がある。会津八一は新潟市に生まれ、早稲田大学を卒業後、同校で教鞭をとるかたわら、歌人、書家として活躍した。法融寺本堂前に立つ歌碑には、武蔵野のもの寂しい風景を詠んだ歌が刻まれている。
 むさしのの くさにとばしる むらさめの いやしくしくに くるるあきかな

会津八一の歌碑の傍に彼の門下生であった杜良の詩碑がある。杜良は宮川寅雄といい美術史家で和光大学教授であり朱花書屋人と号した。詩碑には次のように刻まれている。
 風が鳴る 風が鳴るのは 渓あいに 鬼が棲むらし 桜さかせつ

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 本堂                             珍しい親鸞の銅像

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 会津八一の歌碑                      八一の門下生、杜良・朱花書屋人の歌碑

法融寺は真宗大谷派だというが、関東では真宗の寺はほとんど見ない。だから親鸞の彫像を見ることはない。真言宗の寺はかなりありどこでも弘法大師の等身大の彫像にお目にかかることになる。日蓮の彫像は池上本門寺に北村西望作の立派なものが立っている。西新井にある国土安穏寺(天下長久山 日蓮宗)には高村光雲作の「法華経を説くお祖師さま」と書かれた日蓮上人の3m以上はありそうな巨大な彫像が立てられている。それ以外は見たことがない。

弘法大師像の多さに比べ親鸞や日蓮の像にはめったに出会うことはない。それだけ関東では真言宗が幅を利かせているということになる 。その中でもとりわけ豊山派が多い。東京で寺院巡りをしているとほとんどが真言宗の寺で豊山派であるという事に驚かされる。こんなにも東京に豊山派の寺院があろうとは想像も出来なかった。

法融寺から青梅街道に向かっていく。関のかんかん地蔵は青梅街道沿いにある。青梅街道に行き当たった所に歩道橋があったので、そこに上りケヤキ並木をたっぷりと見ることが出来た。関のかんかん地蔵はその歩道橋の袂にある。

青梅街道のケヤキ並木
練馬区にはケヤキ並木が多いのだろうか。富士街道のケヤキ並木が見事だという。「けやき憩いの森」を起点として西の方へケヤキ並木が続いている。ケヤキのなかでもっとも古いものは、樹齢約200年以上といわれている。青梅街道のケヤキ並木もかなり見応えがある。

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 歩道橋の上から見た・荻窪方面             田無方面 

関のかんかん地蔵
「新編武蔵風土記稿」に「座像長さ六尺、青梅道の北側に立てり、関の地蔵という。祈願をなすもの石に打てば、かねの音あるをもって、かんかん地蔵とも云う。傍に囲い三尺ばかりなる柳一株たてり。」と記されており、古くから人々の信仰の対象になっていたようだ。長い年月の間、願い事がかなうように足元を石でたたかれ続けため、今では足元が欠けてしまっている。

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 かんかん地蔵の祠             地蔵尊の足が欠けている

関のかんかん地蔵を後にして、青梅街道を2,3分行くと吉祥寺通りとの交差点にでる。そこを左折し吉祥寺駅方面に5分ほど行くと石神井西中前という信号の所で千川上水に行き当たる。右側は暗渠になっている。看板があって右側方面として取水口まで4.5kmと書いてあった。とても今から4.5kmを行く気はしない。左側の表示は千川上水とあり、せせらぎが木立の囲まれてさらさらと流れている。来た方面は武蔵境、進行方向は吉祥寺という表示があった。

千川上水のせせらぎに沿って歩みを進める。千川上水に沿って幅は狭いが遊歩道が作られている。川沿いの静かな道は散歩を楽しむには最適だ。平日の3時過ぎだからか人は全く通らない。河岸は砕いた岩で作られていて風情を感じさせる。10分ばかり歩いたが何処まで続いているのか分からないし、吉祥寺通りに出ればバスの便がいいので戻る事にした。

千川上水
元禄9年(1696年)、本郷、浅草方面への飲料水供給の目的で、玉川上水から分水された江戸上水のひとつ。江戸市中への引き水廃止後も、灌漑用水として昭和27年ごろまで使われていた。その後、降雨時の氾濫から、一時暗渠化されたが、都市化の中で失われる自然を取り戻そうという地域の声の高まりから、平成元年に上流開渠部で清流が復活した。

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千川上水と吉祥寺通りが交差する所の近くにあるバス停で待っていると、バスはかなり頻繁に通るが大泉学園南口を通るバスは中々来ない。目的地に直接行くバスはなくすべてその先まで行くので、どの系列のバスに乗ればいいか、バス停の表示を見て考えなければならない。どうやら3系列のバスが行くらしい。来たバスの行き先の表示を真剣に観察し乗り込んだ。

バスはかなり混んでいて目的地まで渋滞もあって30分近くかかった。混んでいてほとんど立ちっぱなしのこのバス乗車が今日の行動の中で一番疲れる仕事だった。やっと大泉学園駅に着いた。これで一安心だ。後は各駅停車だろうが準急だろうが座ってゆっくりと帰ればいいだけだ。気がつけば最寄り駅に到着しているという所が沿線住人の便利なところだ。

(参考資料:練馬区公式HP・ねりまの散歩道)

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

世界死刑廃止デー企画 響かせあおう死刑廃止の声 2011

10月8日(土)
「響かせあおう死刑廃止の声 2011」と題する死刑廃止集会が牛込箪笥区民ホールで2時から行われた。400名収容の区民ホールは満席で会場に入りきれない人がホールの外に椅子を並べテレビ画面で集会に参加をする状態であった。集会呼びかけ文と集会内容は以下の通りである。

「死刑廃止世界連盟(WCADP・2002年設立)は10月10日を世界死刑廃止デーと定め、世界各地で死刑廃止に向けたさまざまな取り組みがなされるよう呼びかけています。私たちは今年も死刑制度に疑問を持つ人々が共に集い、死刑に直面している人々に思いを寄せるひと時を企画しました。

今年は、死刑問題をはじめ日本社会の在り方について発言を続けてきた作家の辺見庸さんによる講演。死刑確定囚120人に行ったアンケートの報告。大道寺幸子基金による死刑囚の作品展とその講評などを予定しています。」無_convert_20111009122403

辺見庸 『たんば色の覚え書』より 「われわれは無限定な『われわれ』であるかぎり、つまり砂のような良民の群でありつづけるかぎり、国家に暗黙の死刑業務の委託をしていることにならざるをえない。あたかもゴミ処理の業務委託のように。われわれは例外的かつ極限的な『私』になることによってはじめてこの黙契からの離脱を考える出発点にたつことができるだろう。」

● 集会プログラム

報告: 死刑廃止に向う世界の動き・天野理(アムネスティ日本)
講演: 辺見庸「死刑はそれでも必要なのか」
報告構成: 「120名の死刑確定囚からあなたへ」出演:東京芸術座、協力:滝沢ロコ
(全死刑確定囚へのアンケート回答を軸に死刑囚の声を伝える)
シンポジウム: 「死刑囚の表現をめぐって」(大道寺幸子基金の発表)
選考委員・池田浩士/加賀乙彦/川村湊/北川 フラム/坂上香/太田昌国、ゲスト選考委員・香山リカ

● 区民ホールロビーで死刑囚の表現展作品展示(右の絵は風間博子さんの作品)


講演:辺見庸「死刑はそれでも必要なのか──3.11の奈落から考える」

 3.11以降皆どのように過ごしていたのだろうか。絶えず虚しく悲しい気持ちにさせられてきた。知人や友人が亡くなったり、生まれ育った所が壊滅状態になったり、死や沢山の物を失ったことが悲しいのではない。もっととてつもなく深い所で悲しい。何が悲しいのか。何かに憤りを感じる。3.11に何が起きたのか。実の所誰にも分っていない。語りえていない。腑に落ちない。だから悲しい。

飛び交っているのは美談と数字だけだ。ナショナルメモリー(国民の記憶、物語)が作られていく。危機の本当の深さ、意味、魂の居場所を語る言葉がない。個々としての危機の深さは小さな内面では捉えきれない。人間の想像を超える無限の波及性を持っている。言葉や映像が胸に差し込んで来ない。それが虚しさを感じさせる。

元に戻るかのごとき言説がまかり通る。物事の終わりを本能的に考える時、今の状況に関係できる言葉がほしい。光も影も元のものではない。しかし飛び交っている言葉は3.11以前と同じであり、3.11の深みを捉えていない。

パウル・ツェランという詩人がいる。彼は象徴主義やシュルレアリスムの流れに立ち、ユダヤ人としてナチズムの惨禍、スターリニズムの傷痕を心の奥深くに宿しながら、現代詩人の命運を生き自死した。その言葉は3.11以降の世界を明確に表現している。
 全てを変容させるものが
 ゆっくりとすり足で私の元に下りて来た。
 狂気への道を辿り行く者の眼、
 その中に全てのまなざしは流れ込む。


全て生のあるものの予感としての死、全て形あるものの予感としての崩壊、全て始めのあるものの予感としての終わり。真黒な陥没が無かったかのように、死と終わりの風景がなかったかのように語られる。境界があいまいになってくる。

 人は知から逃れることは出来ない。内面が壊れたら原点に返らなければならない。いわば初期化するということだ。堀田善衛は『方丈記私記』の中で東京大空襲を経験した心情について書いている。焼け野原に立ち尽くし飛び散った瓦礫の前で内面が更地のように平たくなった。堀田は「学徒群起、僧兵狼藉、群盗横行、飢饉悪疫、地震、洪水、大風、降雹、大火」、そして内乱が次々と起こった『方丈記』の時代を省みながら、東京大空襲について改めて考えることになる。

私の故郷は石巻近くの漁村である。故郷に対する気持ちは多くの人がそうであるように愛憎半ばという感じだ。しかし自分はここで作られてきた。グーグルの航空写真で3.11以降の故郷を見た。記憶が抉られたようにそこには何も無かった。

故郷で学校に通っていた時に高橋先生という印象的な先生に出会う。身長は180cm以上、槍投げをやっていたからか体格はいい。顔は馬面だが迫力がある。彼は群れに同化しない。群れの中にあっても離れている。教師仲間が並んでいても彼は一人、一歩離れて立つ。50年前のある日、ホームルームの時間だったのだろう。生徒たちがざわついていた。突然高橋先生は全身を震わすような声で叫んだ「思え!」と。その言葉は私の体を雷のように貫いた。

 「思え!」これこそ原真理なのだ。人として否定不可能な視点だ。「コギト」これは虚勢を剥ぎ取られた後残ったものなのだ。皆と一緒にナショナル・ヒストリーを作る必要はない。原真理「コギト」に立ち止まらなければならない。

自分で思うということ、生きる限り思う外ない。死ぬまで生きる外ない。「コギト」を支えるもの、保障するもの、明かされるもの、体現するものそれは生きているということである。自分の生と死の濃度を考えなければならない。

震災の時、ニュースでは流さないがおびただしい死体が浜辺に打ち上げられている。死体の事をCORPSEという。これは抜け殻という意味でもある。思わないもの「コギト」しないものである。言葉を奪われたものそれが死体なのだ。

 3.11に何が起こったのか。
1、人間の思考を破壊した。「コギト」を奪った。「思うこと」を許さない世界。
2、物全体を破壊した。芸術、思想、科学の全的否定。神話的崩壊、近現代が終っている事を自覚させた隔時代的災疫。
3、芝居の書割的空間の暴露。この世の中が複製であり、コピーであるその構造が明らかになった。実態を持っていない世界、リアリティを失っていたと思い知らされた。3.11までに既に欠如していたものであったが、幻影を信じていた。我々に最も欠如していたのは現実だった。
4、我々の生活から時間的連続性が奪われた。何時来るか分からない自然災害を目の当たりにして未来の何を約束できるのか。時間の連続性が内面で断たれる。

明日人類が滅びるかもしれない時、死刑判決を下したり、死刑執行を行なったりできるだろうか。行うことは英明か愚劣か。裁判員裁判で3人を殺した人に死刑判決が下された。これで6例目の死刑判決だ。そもそも死刑制度に市民を巻き込むのが目的だから死刑判決の多発は予想された。

しかし3.11のおびただしい死の中での死刑判決には怒りを覚えざるを得ない。今戦後最多の120名の死刑確定者がいる。多くのマスコミは我々の生活に何らの影響がある訳ではないのに死刑執行を扇動する報道を繰り返している。

 革新や民主主義者でも容易にファシストになりうる。どうやって変わっていったのか。今ほどファシズムが成熟している時期はない。死刑廃止論者であった千葉法相が死刑執行をした。彼女は「コギト」を否定した。死刑制度廃止からもファシズムが生じてくる可能性はある。

阪神大震災の時のあるエピソードを聞いた。焼け野原を歩く男がいる。何のために歩いているのか。期限が来たレンタルビデオを返しに行く所だったそうだ。どのような転回点があろうともルーティン・ワークは繰り返される。人は慣習の法則で、日常規則的に繰り返される生活様式を維持しようとする。

昨日脅かしの電話がかかって来た。「大震災と死刑を結びつけるのは死者への冒涜だ」と。大震災や戦争での死者は神聖であり、死刑囚は穢れているということだ。

アガンベンによれば、ローマ時代の特異な囚人「ホモ・サケル」とは、bios(ビオス、社会的・政治的生)を奪われ、zoe(ゾーエー、生物的な生)しか持たない存在であるという。アガンベンはそのような生を、ベンヤミンを受けて剥き出しの生と呼び、生政治はこの「剥き出しの生」を標的にしていると説いている。この状態は今の日本の死刑確定囚に見ることが出来る。棄民のような存在に置かれている。しかし思うこと存在することの中に貴賎はない。まず持って人を存在させよ、あらしめよ、生かせと叫びたい。何時自然災害が襲ってくるか分からない。

 2008年リーマンショックが起こったが、株安はその後絶望的に進行している。世界恐慌の只中にあるがそれを誰も暴かない。市場原理のメカニズムは破綻した。虚である投機マネーが人間を支配し、人間が市場の奴隷となった。失業が増大している。イギリスでデモ、暴動が起こり、アメリカでも反資本主義のデモが起こっている。

「荒ぶる神」の状況が現れてきている。世界大崩壊時代が到来している。デフォルトの連鎖の中で金融が崩壊している。気象変動が急速に進んでいる。人間が耐ええる気候は後30年しかもたないといわれているが実際にはその半分だろう。国家が溶けていく。全てのシステム管理が崩壊し、テロの増大、低悪性度戦争の増大、パキスタンなど核管理の杜撰さの中での核爆発の可能性など大崩壊時代の中で、どう生きるか。

『方丈記』の中では天変地異の多発が語られ、そこから無常観、末世末法思想を生み出して行く。この無常観の意味するものは、我々には自ら打ち立ててきた歴史がないということである。流れに身を任せて生きてきた。堀田善衛は3.10東京大空襲の焼け跡を見て、天皇も二等兵も難民にならざるを得ないと、階級制度の全面否定を訴えた。無常観を今までの為政者は徹底的に政治利用してきた。戦争も特攻隊もアプリオリな諦めへと導いていった。

 死刑制度は天皇制とエートス的繋がりがある。死刑制度維持の底流には無常観があるのではないか。これは意識せずとも体ごとなじんできたものである。

人は死ぬために生きているわけではない。何故死と生の中軸である死刑制度を政治は維持しようとするのかその根拠を問い詰めていかなければならない。3.11を経た現在、明日無き今を生きる我々は「思え!」に戻ることが必要である。

獄中死刑確定囚からの俳句を最後に紹介しよう。
 暗闇の 陰影刻む 初蛍
彼は蛍を見たことがないかもしれない。しかし彼の想像力は福島の原発事故による放射能の光のイメージと蛍の光を重ねて表現したのだろう。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

昭和記念公園・コスモス

10月4日(火)
秋晴れの上天気だ。湿度が少ないのだろう。空気がからっとしてすがすがしい。気温も20度位だろう。過ごしやすい季節になったものだ。表に出て天気がよく大気が気持ちよく感じられると、心が落ち着かず、それ程血がある訳ではないが血が騒ぐといった感じになる。家でじっとしていられない気分になる。

出かけようとする気力が湧いてくるということは健康の大きなバロメーターだろう。健康とまでは行かなくても体調がそれなりによくなければ何処かに行こうという気力も生まれない。不調であれば家でぐったりとしている外ない。調子いい時を逃さず出かけることが肝要だ。

昨日は朝早く出発して、国営ひたち海浜公園でコキヤ、ヒャクニチソウ、コスモスを見に行くか、またはマザー牧場のサルビアもいいなと思っていた。しかし朝色々家の用が入って出発が11時前になってしまった。1時間以内で行ける所を物色していたら昭和記念公園のコスモスが見頃だとあったので決めた。9月17日(土)~11月3日(木・祝)の期間中が「コスモスまつり」で18品種550万本のコスモスが咲き乱れるということだ。

昭和記念公園: 園内の「原っぱ」や「コスモスの丘」には、秋の風物詩ともなるコスモスが咲き誇る。原っぱ東花畑には9月下旬に見ごろになると80万本のコスモス、ハッピーリングなどが咲き、さらに原っぱ西花畑は、10月下旬に種類も豊富でイエローキャンパス、イエローガーデン、クリムソンキャンパスなど6種類70万本が咲き誇る。また春先には「ポピーの丘」だった場所が、秋には「コスモスの丘」になり、400万本のコスモス、ドワーフセンセーションピノキオやベルサイユなどのピンクの可憐な花が風に揺れ、園内の小高い丘の上を染める。(花の名所案内)

昭和記念公園立川口

以前昭和記念公園に行った時には、西立川で下車した。この駅は公園に一番近く改札口を出て橋を渡るとすぐに公園入口となる。今回は駅から15分位歩く事になる立川口から向う事にした。何年前に行ったかの記憶もはっきりしないが立川駅の様子もすっかり変わってしまった。公園への道は歩行者用通路が途中まで完備され1本道で分かりやすかった。

昭和記念講演003_convert_20111012232101  譏ュ蜥瑚ィ伜ソオ隰帶シ・05_convert_20111004223648
 立川駅                            多摩都市モノレール乗り場    

ゆめひろば
あけぼの口から入り「ゆめひろば」という広い芝生の広場を突っ切り「花みどり文化センター」を通って進んで行く。するとカーナルという全長200mの水路が現れる。今は水が入っていないが、大小5つの噴水と、園路周辺に敷きつめられた舗石が織り成す様式美は、洗練された端正で均衡を保っている。そこからふれあい広場を通り、水鳥の池を見ながら「みんなの原っぱ」に向う。
カナール:造園設計上の修景手法の一種。掘り割りされた細長い静水をたたえた直線水路。ヨーロッパの平坦部につくられた整形庭園で大いに発達した。)

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 あけぼの口の「コスモスまつり」の横断幕       文化センター屋上よりゆめひろばと立川方面

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 立川口のカーナル                      「峯田義郎作・明日の空」の4人の若者像

原っぱ西花畑
最初の目的地は「みんなの原っぱ」の西側にある「西花畑」である。黄色一面のコスモスの花畑が特徴で、今年の黄色いコスモスは、新しい品種「サンセットイエロー」を使用しているという。昨年よりも鮮やかな黄色の花畑になっている。見頃は10月中旬~11月初旬で、数量は1品種70万本あり、黄色というより白色の感じだった。

そろそろ昼食の時間だった。渓流広場レストランに入った。メニューは薬膳カレーを始め幾つかのカレーと八王子黒やきぞばというのがあった。またご当地限定八王子ラーメンなどもあった。公園オリジナルスイーツとして、ハニードーナツやハニーソフトが売られていた。黒やきぞばを食べたがどこがオリジナルなのか、特別な味なのか分からなかった。

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原っぱ東花畑
次に向ったのは「みんなの原っぱ」の東側にある「東花畑」である。14品種80万本のコスモスが植えられピンクを中心として色々な品種のコスモスを楽しむことが出来る所である。この花畑は見頃9月中旬~下旬となっており、国営昭和記念公園のコスモス花畑の中で最初に見頃を迎える。このため今日の段階では一部を除いて大部分見頃を終えていた。

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花の丘
国営昭和記念公園のコスモスといえば「花の丘」である。3品種400万本。見頃は10月上旬~中旬となっている。都内随一の規模で丘の斜面一面にコスモスが広がる。今年は北側の斜面を、昨年までの1品種から3品種にコスモスの品種数を増やしているという。

残念ながら昭和記念公園HPのコスモスで埋め尽くされた「花の丘」の写真とはかなり違っていた。やはり10月半ばにならないと満開にはならないのだろう。10月始めの今日では咲き始めといった所だろう。それでもかなり咲いていてコスモスの咲く秋の気配を満喫することが出来た。

譏ュ蜥瑚ィ伜ソオ隰帶シ・84_convert_20111004224046 花の丘中央通路

譏ュ蜥瑚ィ伜ソオ隰帶シ・87_convert_20111004224512 花の丘中央通路に沿って咲くコスモス 

昭和記念講演070_convert_20111012223815 花の丘斜面のコスモス

昭和記念講演066_convert_20111012223754 花の丘よりこもれびの里を望む

昭和記念講演053_convert_20111012223728 花の丘斜面のコスモス  

花の丘の4種類のコスモス
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 ベルサイユ                          ドワーフセンセーションピノキオ                                                                            
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 ラジアンス                         イエローガーデン     

日本庭園
花の丘から日本庭園に回ってみた。前回は紅葉の季節で日本庭園は紅葉が鮮やかに色づいていた。今回は紅葉を見るという楽しみは無いが、紅葉の時との違いをみて見るのもいいだろう。

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日本庭園に咲いていた花
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 曼珠沙華                           紫式部

もみじ橋付近
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 秋を感じさせる木々                     変わったススキ

既に昼の休憩以外3時間ばかり歩いている。日本庭園から西立川まで園内バス・パークトレインで戻ろうとも思ったが、折角ウォーキングに来たのだからもう少し歩こうとみんなの広場を抜ける渓流に沿って歩いていくと、茶色に色ずいた木々が渓流にその姿を映していた。秋の気配を余す所なく映し出している光景だった。さらに行くと変わったススキが並んでいた。穂先が風に揺れて、駝鳥が動いているようだった。

水鳥の池
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西立川口まで後10分位でつく。水鳥の池の渕にレイクサイドレストランがある。池の涼しい風が歩き火照った肌に気持ちいい。もうそれ程歩くこともないし喉も乾いた。池を眺めながらビールを一杯飲むことにした。最近は酒を飲むと疲れが出てしまい歩く気がしなくなるので、ウォーキングの途中では飲まないようにしていたが、間もなくゴールに着くので大丈夫だろう。10分位涼んでいると段々寒くなってくる。気温はかなり下がっているのだろう。

JR西立川駅で丁度来た15時57分発の青梅特快に乗り16時22分には中野に着いた。そこから東中野に行き大江戸線に乗り換え落合南長崎で降り後は自転車で帰った。電車での所要時間は50分だった。特快に乗れれば中央線沿線に行くのはかなり楽だ。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

血液内科の診療

10月3日(月)
検査結果
IgM   4862(10/3)←4320(9/26)←3293(9/8)←3486(8/25)
白血球 1900←2600←4100←3200
好中球 900←610←2100←1170
赤血球 297←289←283←284
ヘモグロビン 9.4←9.2←8.9←9.3
血小板 7.8←9.4←12.8←10.3
IgG   375(10/3)←314(9/26)←328(9/8)←403(8/25)

レナリドマイド(レブラミド)が単剤で効果を失ってきたので、先週からシクロホスファミド(エンドキサン)とデキサメタゾン(レナデックス)を加え3種の併用療法にした。しかしあまりにも効果を失うのが早すぎる。レナりドマイドの効果は1ヶ月も続かなかったという訳だ。実際は退院後のIgMの減少がレナリドマイドによるものか、入院で行ったDCEP療法の効果が継続していたのかははっきり分からない。

ともかく、効き目が持続する薬が欲しい。この病気は薬物耐性が強いといわれているが、私の場合は極端だ。半年持てばいいほうだ。グリベックという慢性骨髄性白血病治療薬がある。患者は一生この薬を飲み続けなければならないが、ずっと効果は持続する。そういった薬が自分の病気の薬として開発されたらどれ程気が楽だろう。

病気が治らないのは止むを得ないとしても、血液内科の診療の度に、今まで使用していた薬が効かなくなってきたら次は何にしようかという会話を医者とひたすら繰り返してきた。こういった煩悶を繰り返すことがなくなれば診療に行くことに何らの抵抗もなくなるだろう。

今回の検査でIgMは1週間で500の上昇だ。前回は18日で1000の上昇だった。シクロホスファミドとデキサメタゾンの服用は先週の1回だけだったのでまだ効果が現れていない可能性がある。次回の検査で依然としてIgMが上昇を続けるようであれば治療法を変えざるを得ない。

恐らくシクロホスファミドの影響だろう白血球が1900と下降した。好中球は900だったのでどうにかなるだろうが、医者が言うには次回あたりかなり好中球が減少するだろうということだった。そうなると薬の効果があがったとしてもシクロホスファミドを治療薬として使用することは難しくなるだろう。だからといって他に治療法があるわけではない。

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ももの木交流会・授業座談会

10月1日(土)
 いのちの授業座談会のテーマは、10月になって次々と要請が入った「いのちの授業」をどのように進行させていくのかの打ち合わせである。事前に学校と打ち合わせた人から学校の様子、学校からの要請などが話され、授業での話し手の分担が行なわれた。土曜、日曜の授業があるので、話し手が確保しやすかったのでどうにか授業スケジュールをこなすことが出来そうだ。

10月 7日(金)  荒川区立第六日暮里小学校 5、6年生(各1クラス)
10月15日(土)  足立区立渕江小学校 5年生(3クラスを各教室で)
            授業後保護者、地域の方々と意見交流
10月21日〈金〉  伊藤塾での話
10月23日(日)  江東区立第六砂町小学校 5年生2クラス1時間半の合同授業        
11月19日(土)  荒川区立瑞光小学校 5年、6年各3クラスそれぞれ合同での授業
12月        横浜市立東台小学校 5年生

▼ ももの木交流会ではいつものように参加者の自己紹介から行なわれた。途中母親が白血病で入院している息子が病院に行く途中にももの木交流会に立ち寄った。母親は74歳、最初脳血栓のような状態で入院した。それは治ったのだがその原因が白血病であったことがわかり治療に入った。

年齢的な事もありかなり弱い薬で化学療法を行なった。一度だけの化学療法で白血病の方は寛解になったが、中々血球の数値の回復が見られず、結局5ケ月も入院することになった。入院が長引くにつれ母親は精神的に落ち込み食欲も無くなり10kgも痩せてしまった。

医者と相談し退院し自宅療養になった。すると急に食欲が出てきて徐々に体力も回復してきている。しばらく安定していたが、今度は尾てい骨が痛み出した。検査の結果白血病が再発したということであった。

母親は家の近くの病院に入院している。その病院の担当医は化学療法を行う事に躊躇している。薬を薄めて使ったとしても、血球の回復が可能かどうかも問題がある。その医者が言うには治療法はない。余命は1ケ月だ。最期の時を自宅で過ごして下さいと退院を促した。

息子は今の病院の医者に見離されたということで、外の病院を当たる事にした。担当医はセカンドオピニオン用の書類を作り紹介状も準備してくれた。がん専門病院としてまずが東大病院や駒込病院に行ったが、母親の治療は難しい、またベッドの空きがないということで入院を断られた。

息子は途方にくれてしまっている。まだ74歳の母親が治療方法もなくこのまま死を待つだけなどというのは耐え難いことだ。何としても受け入れてくれる病院を探したいという気持ちでももの木に参加した。

母親の治療法はないと医者はいうが、化学療法での薬の量を調整し、血球の減少に対しては、輸血やC-CSFの投与などの支持療法が行え、感染管理などが出来る病院で受け入れてくれればどうにかなるのではないか。白血病の完治とまではいかなかったとしても、白血病細胞の増殖を抑えることが出来れば、それによって白血病細胞による体への悪影響を抑えることも出来るだろう。

ともかく肝要なのは受け入れてくれる病院を探す他ない。ももの木の交流会に参加したメンバーが幾つかの受け入れの可能性のある病院候補をあげた。息子は月曜日から病院回りをするという。

こういった事態があるということを知るにつけ、高年齢者のがん治療についての難しさを感ぜざるを得ない。ともかく受け入れ可能な病院が早く見つかる事を期待する外ない。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

友人宅訪問

9月30日(金)
 昨日、病院での診療が午前中に終わったので、入院中見舞いに来てくれた友人宅を訪問した。彼は元職場で同じ部署で働いていた同僚で3年前定年退職した。8月に見舞いに来てくれた時には、彼の昔からの持病である腰痛の状況を含めて色々と体の不調を訴えていた。この腰痛のため定年退職後職に就けず年金生活を続けている。

彼の腰痛は脊柱管狭窄症(腰部脊柱管狭窄症)というものである。脊柱管には、脊髄・馬尾(ばび※神経の束)という神経が通っている。腰部の脊柱管が、何らかの原因で狭くなり、脊柱管の中を通っている神経が圧迫されることによって腰痛や痺れをおこす病気だということだ。

通常はコルセットで固定して日常生活は問題なく送れる。しかし、毎年定期的に悪化する。今年も1ケ月ばかり入院した。彼は少し位のリスクがあったとしても止まることのない腰の痛みに一挙に手術をしてすっきりしたいという気持ちでいる。そこで幾つかの病院に行って検査してもらったり、腰痛の権威の先生に診てもらって意見を聞いて回った。しかしどの医者も手術は年齢的にもかなり負担を強いる事になるので、さらに悪化しもう手術しかないといった段階までは今のまま対処療法で様子を見る外ないということだった。

 しばらく前に血便が出たので大腸検査をした。実際には血便は大腸からの出血ではなかったことは後で分かったが、大腸検査をすることになった。それが無かったらずっと放って置く事になっただろう。3個ポリーフが見つかった。1日入院してレザー治療でポリーフを取り除いた。

切除したポリーフを検査した所がん細胞が見つかった。初期がんだった。がんの転移はなく一応がん細胞は取り除きがんは治ったということである。私が入院保険に加入していて入院すると1日幾らもらえてかなり経済的に助かっているといった話を友人にも何度かしたことがある。特に60歳を過ぎるといつがんに罹ってもおかしくない。

しかし最近は病院では長期入院させると保険適用の関係で病院が損をする仕組みになっている。病院としては入院期間を出来るだけ短くし、通院治療で行うように医者に勧告している。そういった意味で血液がんなど長期入院が不可欠な病気以外は、入院保険に加入していてもほとんどメリットがない。大体一週間位で退院する場合、入院給付金が日額5000円出ても、実際には1年支払った保険料にも満たない。

 最近がん保険も色々な種類が出ている。友人は私が入院保険給付によって経済的にかなり助かっているという話をしていたことと、彼の家系にがん患者が多いということで、1年位前にがん保険に加入した。その保険はがんの宣告を受けた段階で「がん診断給付金」が支払われるものである。さらに、手術給付金も支払われることが主要な内容になっている。入院給付金は1日5000円で入院期間が2日だったので大した額ではないが、がん宣告で支払われる額が100万円をこえるというものだ。

保険加入から1年もたたないうちにがんの診断を受けたということは運がいいとしか言いようがない。「がん診断給付金」や手術給付金の支払いはがん患者にとって経済的支えになるだろう。もちろんがんなどにならない方がいいに決まっているが、初期がんで1回の簡単な手術で治り、それで保険が出るというのは年金生活者としては有り難いことだ。

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がん治療とは長く細い道を辿ら
なければならない。その先に希
望があると信じながら。

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