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ワーズワスの詩 『頌歌―幼少の思い出に見る不滅の生命の啓示』

11月28日(月)

519M0W_convert_20111128232918.jpg あの草原の輝きや草花の栄光が帰らなくても
 嘆くのは止そう
 残された物の中に力を見出すのだ
 かつてのあのまばゆい輝きが
 今や永遠に奪われても
 例え二度と戻らなくても


 Though nothing can bring back the hour
 of splendor in the grass,
 of glory in the flower,
 We will grieve not, rather find
 the strength in what remains behind.

友人がケーブルテレビで「クリミナル・マインド」の「記憶を失くした殺人犯」を見ていた時に、ドラマの中で 英国の詩人ウィリアム・ワーズワス(1770年~1850年)の詩「頌歌―幼少の思い出に見る不滅の生命の啓示」」の一節が出てきたので、多分知っていると思うが参考までにとメールで送ってきた詩である。この詩はエリア・カザン監督ナタリー・ウッド、ウォーレン・ベイティ主演の『草原の輝き』という映画でよく知られている。

「クリミナル・マインド」というドラマは、FBI(アメリカ連邦捜査局)に実在する行動分析課に所属し、犯罪者の心理を知り尽くした一流のプロファイラーたちが登場人物で、彼らは全米各地でシリアル・キラー(連続連殺人鬼)が事件を起こすと現地に飛び、犯行現場の様子から犯人像をプロファイリングし、一刻も早い犯人逮捕をめざす。

ワーズワスの詩が出てくるのは、殺人事件の被害者である娘の遺品である腕時計を、刑事が残された父親に返しにいった時に、その時計に「草花の栄光」ときざまれていた。その意味を父親にたずねると、この時計は祖母から娘へと贈られた時計で、二人は生前とても仲が良く、よくこの詩を暗誦していたと、父が上記の一説を暗誦する。

詩の大意は「人は誕生によって神から切り離され、そして人生の苦難によって、世界が光り輝き、喜びに満ちていたことを忘れてしまうが、幼い子どもの頃のことを想い出すことによって、輝き(神への信仰)を回復することができる。」というものだ。

ワーズワスのこの詩の冒頭はよく知られている。

 かっては草原も森も川も、
 大地とそのすべてが、
 天上の光につつまれ、
 夢幻世界の輝きと清新に
 飾られていた時があった。
 今はその昔とはこと変わり―
 夜となく昼となく、
 見るところすべて、
 かっての光はもはや消え失せた。
 (加納秀夫訳)

この冒頭部分の印象が強く、詩のイメージはかなり暗いものと考えていた。最後に救いはあるが、最初の印象があまりに強かったため、救いを表現している後半部分の印象が薄く、詩の持つ積極的な世界との関わりについて理解が不十分だったようであった。

友人から送ってもらった詩の最後の方に出てくる上記の部分は、私の詩に対するイメージを払拭するものだった。翻訳の違いが大きいのだろう。送られた詩の内容は、この詩の持つイメージががらりと変えるものだった。失われた時間や空間を懐かしみ、それに未練や希望を託すのではなく、むしろ今ここに存在するものの意味改めて認識し、その中に生きる意味を見出していこうという生きる希望を指し示めしているのである。

友人はこの詩について次のように語っている。「穢れなく、何もかもが輝いていた幼少時代を象徴する草花の栄光でも、誰しも人生を過ごせば様々なことがあり、そのままではいられない。けれど人は大人になり、そのなかでまた、新しい輝きをみつけることができるだろう。苦しい事や悲しい事があってもまた違うものが開けてゆく。神の恩寵そのものに包まれてあった無垢な草花の栄光、そのものがもう手に届かなくなっても悔やむ事も嘆く事もない。」

この詩を自分自身の生き方との関係においてどのように読むことが出来るのだろうか。確かに病気になる前の世界と病気になってからの世界の見え方はかなり違ったものとならざるを得ない。病とともに生きていくということはどういったことなのだろうか。「ひとつのドアが閉まるとき、別のドアが開く。しかし、閉まったドアをいつまでも残念そうに見つめているので、私たちの為に開いているドアが目に入らないということがよくある。」(グラハム・ベル)といった言葉の意味を改めて考えざるを得ない。

今まで何の問題もなくすごしてきた日常性が病によって根こそぎ奪われ、変えること余儀なくされてきた。しかし、そういった生き方に未練を持ったとしても以前の生き方が出来る訳ではない。新たな生き方を見出していく他ない。そしてその中で淡淡と、生きている今という時間を何よりも貴重なものとして受け止め大切にしていくことが何よりも問われている。そしてこの現実を受け入れ深く心に刻みながら生きていくことの中に新たな輝きを見出していけるのだろう。
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テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

食の贅沢とは何か

11月27日(日)
 焼肉屋で
長男が何処からか割引券を手に入れてきて、たまにはおごるからと言われたので、都合の合う日にちを決め家族が集まって焼肉を食べに行った。焼肉屋には「牛角」などに家族で行ったことはあるが今回は特別な高級牛肉を食べに行くのだという。JR代々木駅西口徒歩2分の所にある、炭火焼神戸牛「いく田」という神戸ビーフ一頭買の焼肉店である。

ここは一日平均4頭に満たない出荷数の神戸ビーフを提供する。神戸ビーフは但馬牛の最上級ランクである。甘くて、旨味の凝縮された神戸ビーフは一度食せば、誰もが虜になる最高の肉だと店の紹介にあった。

店内に入るとお洒落で高級感が漂っていて料亭のイメージだ。オレンジ色の照明が落ちついた雰囲気を作っている。喧騒から離れ、スタイリッシュな場を構成し、特別なシーンに最適な空間である。

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神戸牛を扱っていることで値段はかなり高い。お値打ちなコースでも6500円~10500円である。何食分かを1回で消費してしまうのはかなり気が引けるが、割引券と、めったにない息子のおごりということで、皆でコース料理を中心に頼んだが、それ以外に遠慮なく好みの物、珍しい物を頼んだ。今日のお勧めとか希少部位などは一皿だけで5~6000円とかなり値が張る。

参考にメニューと値段を書いておく。
肉盛り合せ(2~3人前): ミックス盛り6800円、いく田盛り9800円、極上盛り14800円 
超特選神戸牛: サーロイン(200g)9960円、フィレ(100g)5980円、シャトーブリアン(100g)9480円リブロース(200g)9960円、特選かルビ 2980円
神戸牛希少部位: イチボ、ゲタカルビ、ヒウチ、カイノミ、ミスジ、マルシン、ラムヘレ、カッパetc。

二度と行くことはないだろう。一生こんなに美味しい肉を食うことはないだろう。困ったことは美味しいものを一度でも食べると外のものはそれとの比較で味が評価されてしまうということだ。今まで美味しいと思って食べていた物が、それ以上美味しいものを食べると、どうしてもワンランク下がったものを食べているといった感じを抱いてしまうことは避けられない。

スーパーや肉屋で肉を買った肉を美味しく食べるには調理によってカバーする外ない。ステーキや焼肉、すき焼き肉などはそれが出来ないので少しはいい肉を買わざるを得ない。経済的制約の中で、素材と調理の関係を考えながら、日々出来るだけ美味しく食べるように頑張って行く他にない。

 ホームベーカリーでパンを焼く 
全く話は違うが、食べることにおける贅沢とは何かといったこと最近考えた。それはホームベーカリー(パン焼器)を格安で手に入れパンを自宅で作り始めたということからの思いつきである。

今のホームベーカリーは良く出来ていて、多機能で多種多様なパンの製作が可能となる。通常の食パンや、パン・ド・ミ、ソフト食パンなどは当然のことながら、フランスパンやライ麦パンなど本格ハード系パンも焼ける。さらにパネトーネ、米粉パン、あんぱん、メロンパン、ごはんパン、ケーキ、ピザ、うどん、もちなどのレパートリーが製作できる。

一番大きな利点は朝焼きたてパンを食べられるということだ。外はカリカリでサクッとして、中はふわふわに焼き上がる。朝起きたらリビング中に焼きたてパンのいい薫りが広がっていて、味は今までパンは気にいった何軒のパン屋で買っていたが、そういった店のパンに引けをとらない美味しさだった。また中に入れる材料の調製も可能だから自分好みの味に仕上げることが出来る。

朝食はパンと高校の頃から決まっていた。アメリカの小麦粉輸出拡大政策のため、学校給食にパンを導入し日本人の食生活にパン食を浸透させていった。そういった意図にまんまと迎合させられていってしまった結果なのかもしれない。仕事をしていた時には大量生産のスーパーの食パンを食べていたが、仕事を辞めてゆっくりと朝飯を食べるようなってからは、パンの味にも関心が深まり、色々食べてみて、3,4件の気に入った特定のパン屋でパンを買ってくるようになった。

そういった経過でパンの味に関心が深まっていた時に、ホームベーカリーを手に入れたので、今では1日おき位にパンを作っている。夕食の片付けが終ってしばらくしてから作り、朝食時間に合わせて焼き上がるように予約をしておく。通常のパンであれば10分もかからずセット出来る。そうして朝やっと包丁が入る位の熱い焼きたてパンを食べることが出来る。

自分で作った好みの焼きたてパンを食べることができるという事ほど贅沢な食事はないと思うようになった。比較にはならないが、高級焼肉店の高額な焼肉を食べることは確かに贅沢だ。辞書によれば「贅沢とは必要な程度をこえて、物事に金銭や物などを使うこと、金銭や物を惜しまないこと」とある。

しかし焼きたてパンを食べることは金銭的に余分にかかるわけでもないし、むしろ安く済む。贅沢とか豪華とかいったことの本当の内容は人の心の中にあるのではないか。パン一つとっても全く次元の違った日常性の贅沢さといったものの意味を感じることが出来る。それこそがむしろ本当の贅沢ではないかと思うようになった。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

監獄人権センターの連続講座

11月26日(土)
18時30分から監獄人権センターの連続講座の第3回目が、渋谷の伊藤塾東京校で行なわれた。この連続講座は、「犯罪をおかした人の更生に弁護士・市民はなにができるか?~受刑者をめぐる現状と課題から探る~」というもので、主催はNPO法人監獄人権センター・伊藤塾で、法学館憲法研究所の後援で行なっている。

連続講座の趣旨は次のように書かれている。「受刑者の社会復帰への支援策は不十分で、受刑者に対する不当な処遇も少なくない。刑の確定後、とくに刑務所における矯正処遇や出所後の社会復帰(更生保護)の現状、そして受刑者や保護対象者の人権保障や法的支援についての連続セミナーを開催する。」

第3回講座  受刑者処遇の現状と課題・各論2

仮釈放、出所後の更生保護/ 監獄人権センタースタッフ
更生保護に携わる人の体験談/更生保護施設を経営して30年、更生保護法人・東京実華道場理事長・小山内清孝さん

今回は小山内清孝さんの講演内容の要約と、質疑応答の中での中心テーマ何故再犯者が多いのかについて報告する。

出所した受刑者の再入率
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1833年原胤昭は石川島監獄所に入獄した。半年後出所したが、監獄内の経験からある一つの考えに到達していた。「さて私は此の牢獄生活で、すっかり囚人の惨苦を嘗め、囚状を推察した。・・・前科者はナゼ、又やるのか、再犯するのか。それは諺にも云ふ、血に交われば赤くなる、ああしておいては、社会自ら再犯者を作るようなものだと、その実状をつくづく覚った・・・。」(NHK人間大学、「知の自由人たち」より) ここに原胤昭の監獄改良と免囚保護(刑余者救済運動)に捧げる後半生が決まった。この年胤昭は31歳。以降、その実践は50年を超える。

その時から180年近くが経っているが、再犯といったことに関しては殆ど変わりない。現在の再犯者の多くは高齢者である。仕事もなく身柄引受人もいない。彼らの犯罪はコンビニでの万引きや空き巣、窃盗など人的被害のない犯罪である。通常説諭位で釈放されるが再犯を繰り返したため常習累犯窃盗で刑務所行きとなる。彼らを受け入れる社会環境がない、有効な対策がないまま社会が彼らを作っている。

法務省が2006年に実施した調査によると、全国の主要刑務所の約15000人の満期釈放者のうち帰住先のない人は約7200人。うち、高齢や知的障害のために自立が困難と思われる人は約千人だった。07年の犯罪白書によると、65歳以上の満期釈放者が5年以内に再入所する割合は約70%で、64歳以下より約10ポイント高かった。うち4分の3は2年以内に再犯に及んでいる。

更生保護施設の処遇
更生保護施設の処遇の流れとしては、施設内処遇として、少年院、刑務所があり、そこで生活環境調整をしながら地方更生保護委員会(仮釈放決定)と保護観察所(委託)によって仮釈が決まり、社会内処遇としての更生保護施設などの自立更生促進センターでの生活が始まる。その中には執行猶予、起訴猶予者も含まれる。しかし満期出所者は色々な条件で中々入所できない。せいぜい自立支援ホームなどがある位だ。満期出所者の再犯率が多いのは、更生保護会への入所が困難であるいう所に大きな原因があるのではないか。

環境調整の役割は保護観察所への受け入れ可能な対象者の選択である。満期釈放者は高齢者、疾病者、障害者、累犯者、暴力団現組員等が多く、犯罪の種類も粗暴犯、性犯罪、放火犯などである。更生保護法人東京実華道場でのH23年度9月の環境調整では入所要請総数131人の内受け入れが可であった人数は21人、不可になったのが86人、保留が23人であった。不可理由としては共同生活不適15人、反省希薄13人、薬物親和性大12人、勤労意欲欠如11人、アルコール依存大7人、その他性犯罪、現組関係、保護歴不良、粗暴性大、放火、重度精神障害、就労困難だった。

東京実華道場入所者の年齢は、~49歳33人、~59歳29人、~39歳24人、~69歳19人という構成である。学歴は、中学校卒業44%、高校中退28%、高校卒業18%であった。無就労年数は、~5年25%、~10年26%、~15年15%、~20年9%であった。今回の入所罪は、窃盗28人、覚醒剤17人、常習累犯窃盗16人、その他52人であった。健康状態としては、普通が45%、投薬中が47%、要加療が4%という状態であった。

平成21年矯正統計年報によれば、全出所者33,500人、うち仮釈放者15,800人、満期出所者15,800となっている。法律的には犯罪者予防更正法、執行猶予者保護観察法、更生緊急保護法が平成19年整理統合された更生保護法によって扱われる。

更生施設では日雇いの仕事しか紹介されない。刑務所の延長のような仕事しか出来ない。だから皆仮釈中に再犯しなければいいといった思いで日々過している。更生施設を社会に出るための休憩所のように思っている。

刑務所では施設内処遇だが、更生保護施設の処遇とはどういったものか。衣食住の提供、就労支援、生活指導、生き甲斐・趣味・余暇の利用、処遇期間180日以内。生活指導というのがあるが、これには個別指導と集団指導があり、集団指導には情操教育とかSST(ソーシャルスキルトレーニング)とかがあるが殆ど意味を成さない。少年の出所者などは職員に話を聞いてもらいたいという要求が非常に強い。そういった意味で個別処遇には大いに意義があると思う。

更生保護会への平均在所日数は80日だが、保護観察期間が180日でいいのか、確かに老人ホームの空き待ちなどで180日の延長は可能だが、役所の方はなるべく早く自立させろと早期退所を促す。そして次々と出所してくる出獄者を受け入れる体制を整えるよう要請する。

更生保護施設出所後

円満退会81%、勧告退会3%、無断退会8%、事故退会3%。受け皿として父母のもと、配偶者、知人・雇用主、アパート・マンション、福祉、その他・ホームレス・反社会的集団となっている。

講演者が理事を務めている「東京実華道場」での退所者追跡調査(H22.11.1~H23.10.31)の結果は以下の通りである。、
年齢: ~49歳32%、~39歳25%、~59歳15%、~69歳18%
現在地: 東京57%、神奈川12%、埼玉9%、千葉7%
住居: 下宿・アパート60%、親族・知人17%、就業先9%
現職業: 建設系40%、サービス系20%、運輸系10%、無職者11%
生活状況: 安定66%、やや不安29%、不安定5%

入所者の生活行動の問題点: 休職中、軽いうつ状態。金銭管理がルーズ、自棄的にならないように注意。離職を繰り返す。就労意欲に乏しい。就労は持続しているが、経済観念に乏しくそれが自立への妨げになっている。無断外泊、門限違反を繰り返す。感情起伏が激しい。規則違反及び無断外泊。

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血液内科の診療

11月24日(木)
検査結果
IgM   6281(11/24)←6127(11/16)←6376(11/9)←5870(11/2)

白血球 1500←1600←1700←1600
好中球 560←540←460←420
赤血球 246←278←284←291
ヘモグロビン 8.0←9.0←9.4←9.3
血小板 5.7←5.3←5.6←5.3


IgMの上昇はわずかで止まった。今まで上昇する時には週500の上昇だったが100少しというのは初めてだ。このまま上昇スピードが鈍化されればそれに越したことはない。ともかく医者は好中球の値が今のように低い状態で、骨髄抑制が強いベンダムスチンを使うのは勧められないということなのだ。

今使っているレナリドマイドやシクロホスファミドが好中球の低下をもたらしているのは事実で、それを止めない限り好中球は上がらない。休薬して好中球の増加を待ってベンダムスチンを使用するという考えもあるが、そうなるとIgMは休薬の間増え続けるだろう。休薬してどの位で好中球が減るか、IgMがどのくらい増えるか全くわからない。そういった状態で休薬することは出来ない。

結局、今までの療法を続けるほかないといった結論を出さざるを得ない。1ケ月分の薬の処方をしてもらった。レブラミド(レナリドマイド)は5mg1日3錠、エンドキサン(シクロホスファミド)は週一度50mg4錠、レナデックス(デキサメタゾン)は4mg5錠週2日を従来通り服用するが、この組み合わせは効いたり効かなかったり、先行き全く不透明だ。ともかくIgM7000を一つのボーダーラインとして設定し、それを超えたらベンダムスチンに移行するといった従来の方針を踏襲するほかない。

ヘモグロビンが8.0だった。輸血をするかしないかのぎりぎりの線だ。ヘモグロビンの減少は疲労感、倦怠感をもたらす。医者に赤血球の輸血をするかどうか聞かれた。体調が思わしくなく疲れやすい状態だったら輸血をしてもらおうと思っただろうが、体調はそれ程悪くないので輸血はやらなかった。好中球を増やすG-CSFはいつもの通り行った。

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鎌倉-二階堂・金沢街道(2)二階堂周辺

11月22日(火)
 杉本寺から金沢街道を5分ばかり鎌倉方面に進むと、第二小学校がありそこを右に曲がると天神前のバス停に出る。荏柄天神社の長い石段はそこから見える。階段を上ると鮮やかな朱色の本殿が目に飛び込んでくる。

本殿は室町時代の初期に建てられた鶴岡八幡宮の旧若宮社殿を江戸時代に移築したもので鎌倉の中世建造物の一つとして市指定文化財となっている。石段の右には市天然記念物大イチョウの木がそびえている。境内に入り少し小高くなった所にかっぱ絵筆塚がある。清水崑の遺志を継いだ横山隆一らが平成元年に建立した。筆の形をした塚の側面には、横山隆一をはじめとする漫画家154人の河童の絵が飾られている。

荏柄天神社

天神は長冶元年(1104)の勧請である。祭神は菅原道真。縁起によると延喜元年(901)菅原道真は大宰府に流され、三年後に死亡、その後天変地異が烈しかった。道真が天神になって祟りをすると大宰府と京都北野天満宮が創建された。ある時鎌倉にも雷鳴が轟き巻物が降ってきた。この地に巻物を祭神として天神を建立したという。

関東を中心に各地に分社をもち、福岡の大宰府天満宮、京都の北野天満宮と共に三天神社と称される古来の名社。治承四年(1180)鎌倉大蔵の地に鎌倉幕府を開いた源頼朝は荏柄天神を鬼門の守護神と仰ぎ、改めて社殿を造立した。以降歴代将軍は鎌倉幕府の尊社とした。

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 本殿への階段         本殿 

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 かっぱ絵筆塚                市天然記念物大イチョウの木

 荏柄神社の前のお宮通りを5分も行かないうちに大きな鳥居が見える。鳥居を潜ると駐車場があり観光バスが何台も停まれるほど広い。鎌倉宮に着いた時丁度観光バスが到着し、15,6人の観光客が降りてきた。大きな50人以上は乗れる観光バスに15,6人で採算が合うのだろうか。旅行会社のパックで最低催行人数は何人だったのだろうかと思いながらその団体と一緒に神社の境内に入っていった。

観光バスツアーのいい所は行く先々で寺院では僧侶が、神社では神主が出てきて、由緒や見所の説明をしてくれることだ。図らずも観光バスツアーの団体と一緒になったので、神主の後に従って説明を聞いて回った。拝殿、本殿、南方社、村上社、土牢、鎌倉お宮碑、御構廟、多宝塔、宝物殿、小賀玉の木など見所にはことかかない。神主は丁寧に一つ一つに説明を加えていく。ここでかなり時間を費やしたが、次の目的地、瑞泉寺に向かう。

鎌倉宮の脇に沿ってしばらく行くと、歴史があり皇室もよく利用するという鎌倉宮カントリーテニスクラブや発掘調査中の永福寺跡地がある。源頼朝は鎌倉に3つの大きな寺院を建立した。一つ目は鶴岡八幡宮、二つ目は勝長寿院、三つ目は永福寺である。現在、残っているのは鶴岡八幡宮だけで後の2つは焼失してしまった。永福寺跡地は周辺約9万平方メートルあり国指定史跡に指定されている。

さらに進んで行くと段々と景色は山間の村落の様相を呈してくる。周りは山に囲まれ、車がやっと1台と通れる位に道幅は狭くなっていく。夕日が山の斜面を照らし、紅葉のように木々の葉を赤く染めている。紅葉の名所、瑞泉寺の紅葉は当然まだだった。境内は木々と草花の覆われていて山の寺院の感じを味わうことが出来る。

本堂の裏に夢想疎石作の鎌倉期唯一の庭園として国指定名勝の庭園がある。夢想疎石は京都の苔寺・西芳寺や天竜寺の庭園も、後に作っている。庭は、中腹の鎌倉石の岩盤に庭の約束事である滝、池、中島等の全てを巧みにえぐって橋をかけ、さらに水を貯めて滝として流す貯水池までも刻んだ岩庭と呼ぶに相応しい庭園である。こういった岩盤を削って作られた庭園というのは見る機会がなく、珍しさもあって興味をひくが、鑑賞して感動を呼ぶかというとなかなそうもいかない。

鎌倉宮
明治2年(1869)に後醍醐天皇の第一子護良親王(もりながしんのう)を祭神として、明治天皇が創建した。出家後の親王の名である〝大塔宮〟の名でも知られる。護良親王は建武の新政の際に征夷大将軍に任じたが、足利尊氏と対立して鎌倉に流され、後に暗殺された。

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 正面鳥居                          拝殿

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 拝殿内の獅子                        本殿

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  護良親王ガ幽閉されていた土牢



「撫で身代わり」-護良親王に従って戦い、吉野の戦いで親王の身代わりとなって最期を遂げた村上義光。身代わりとなられた義光公を、境内の樹齢103年の欅の大木にて彫り上げ、「撫で身代わり」として入魂した。この像を撫でることにより病気・厄除け等の身代わりとなるとされる。

瑞泉寺(臨済宗円覚寺派 錦屏山)
かつて紅葉が谷と呼ばれた谷戸奥に建つ臨済宗の寺。開山は夢窓疎石(むそうそせき)。嘉暦2年(1327)鎌倉幕府の重臣であった二階堂道薀が創建、その後夢窓疎石に帰依した足利基氏によって瑞泉寺と改名され足利氏の菩提寺として栄えた。関東十刹の第一位。境内には本堂、客殿、庫裏、書院などの堂宇が点在するが、これらはほとんど大正時代以降に再建されたもの。2層屋根を持つ本堂には本尊の千手観音坐像が祀られている。

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 瑞泉寺本堂                         国指定名勝庭園

 瑞泉寺から鎌倉宮まで戻り、覚園寺に向かう。鎌倉宮から緩やかな坂を上がりながら10分も歩かないうちに覚園寺の山門に着く。本堂までは行けるが、境内を全体を見学するには決まった時間にいかなければならない。10,11,12,13,14,15時、日に6回、本堂脇の拝観受付所に集合しなければならない。既に15時を過ぎていた。受付所には誰もおらず、境内に通ずる鉄の門はかたく閉められている。境内には愛染堂、薬師堂、地蔵堂があり見てみたかったが諦めて引き返すことにした。

覚園寺から次の向かうのは頼朝の墓だ。16時前だが段々あたりは薄暗くなってくる。頼朝の墓は白旗神社の前の階段を登リ切った所にある。夕方の暗さが墓の雰囲気を高めている。今の時間観光客は誰もいない。ただ暗く静かな山間の夕闇が迫ってくる。

この辺りの地名は西御門という。頼朝の墓から来迎寺に向かう途中に「西御門」について鎌倉市青年団が作成した碑文がありそこには次のように書かれている。「西御門は 法華堂西方の地をいふ 大蔵幕府西門の前面に当たれるを以て此名あり 報恩寺 保寿院 高松寺 来迎寺等此地に在り 今 高松 来迎の二寺を存す。」10分位で来迎寺着く。来迎寺階段を上ろうして、ふと横を見るとそこに八雲神社があった。鎌倉には4ケ所八雲神社があるという。関係は分からないがここはその一つである。

来迎寺の階段を上り境内に入ってみたが、人の気配を全く感じさせないように静まりかえっている。今日の業務は終了したといった感じだ。早々と境内を出て鎌倉駅まで行くバスが通る金沢街道に向った。来迎寺からバス停までは15分位かかる。金沢街道から鎌倉駅までは、さらに20分位歩けば着くだろう。今日は色々回ったし、夕闇も迫ったきたので、当初の予定通りバスを利用することにした。

覚園寺(真言宗泉涌寺派 鷲峰山)
建保6年(1218)北条義時がこの地に大倉薬師堂を建立したのが始まり。その後、永仁4年(1296)北条貞時が心慧上人を開山に、覚園寺として再建した。境内の入口には愛染堂、その先に薬師堂、移築された古い民家の内海家住宅が続き、本堂手前に地蔵堂が建つ。もとは四宗兼学だったが、明治初年に古義真言宗となった。

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 覚園寺山門                          本堂

頼朝の墓
大倉山の南側に小さな鳥居のある石段が続き、登り切った中腹辺りに源頼朝の墓がある。高さ2メートルほどの層塔で、安永8年(1779)頼朝の子孫という薩摩藩主島津重豪によって再建された。現在の塔は平成2年春に補修。周囲には木々が生い茂り、頼朝が築いた大蔵幕府跡がここから一望できる。

白旗神社
神社のある所は、源頼朝の館のあった大倉御所の北隅で持仏堂があった所。頼朝の死後は、法華堂と呼ばれ、ここに葬むられていた。源頼朝の持仏堂であったことから鎌倉幕府の保護も厚く鶴岡八幡宮、勝長寿院と並ぶ崇敬を集めた。

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 白旗神社本殿                        源頼朝の墓

来迎寺(時宗 満光山)
時宗の開祖である一遍上人が1280年頃建立した。鎌倉時代、西御門に建てられた多くの寺のなかで唯一残っている寺。石段を登ると左手に新装の本堂・庫裡があり、本尊である阿弥陀如来立像が安置されている。本尊の右に並ぶのは、南北朝時代に作られたといわれる木造の如意輪観音坐像。明治の神仏分離の際に法華堂から移されたもので、県の重要文化財に指定されている。

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 本堂に向う階段                       本堂

八雲神社
西御門の鎮守、祭神 須佐男尊 。詳細は不明だが『風土記稿』にある「字大門の天王社」が前身と考えられている。現在の社殿は、天保3年(1832年)の建築と伝えられている。

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 八雲神社拝殿                         庚申塔(船形、舟形、笠塔婆型)

 金沢街道まで出て、岐れ路というバス停で待つ。ここは金沢街道と鎌倉宮まで行くお宮通りの岐れ路という所だ。ここだと何系列かのバスが通っているので本数は多い。すぐバスが来た。鎌倉駅まで5分とかからない。横須賀線から湘南新宿ラインに乗り継いで、池袋には18時前に着くことが出来た。暗くなる前に全て回ることが出来た。11時頃十二所神社から歩き始めて、16時30分鎌倉駅に着きに終了した。時間的にはぴったりだったといえるだろう。

(参考資料:鎌倉市観光協会公式サイト、鎌倉ぶらぶら・鎌倉の観光ポータルサイト)

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

鎌倉-二階堂・金沢街道(1)金沢街道沿い

11月22日(火)
週一度位はウォーキングに出かけることを習慣化しようとしてきた。決めておかないと、寒かったり体調が思わしくなかったりで、家に閉じこもりがちになる。行く場所は、家を出る時間にもよるが全くその時の気分だ。最近西武線の改札口の脇のパンフレット差しに西武線沿線「探索さんぽ」「のんびり散歩」のパンフレットが置かれるようになった。西武線各駅からの散歩コースで、近場のコースが多くどこかへ行った帰りとか昼からでも出掛けられる。色々散歩コースを集めて何時でも行ける様にしておくことが必要だ。

紅葉情報を見ていたら鎌倉の瑞泉寺が出てきた。鎌倉の紅葉は東京よりも遅く、12月にならなければ紅葉しなし、瑞泉寺の紅葉は12月中旬だろう。紅葉とは別に鎌倉の古刹を回ろうという気がわいてきた。秋のさわやかな大気の中の寺院巡りもこれは一興だ。紅葉の時期になれば混むだろう。人ごみの寺院巡りほど風情のないものない。紅葉はまだだと分っているが、瑞泉寺を入れた鎌倉の散策コースを調べてみた。

「二階堂・金沢街道」のコースだ。昨年の12月にMOTOGENさんが行ったコースなので、それを参考にコースを組み立てて見た。なるべく歩く距離を少なく、多くの神社・仏閣を回るためにはうまくバスを利用する外ない。しかしMOTOGENさんのコースを踏襲することなどとても体力的には難しい。何と「鎌倉散歩マップ」にあった「祇園山ハイキングコース」「鎌倉宮周辺」「朝比奈ハイキングコース」の3コースをつなげて一気に踏破することにしたのだ。そのため 日没が早いので、早朝に出て鎌倉駅着7時02分という。7時から歩き始めるというスケジュールで回るなど信じられない。

鎌倉市観光協会の「二階堂・金沢街道コース」にずらりと記載されている寺院、神社をいかに巡るか。一番効率的なのは、京急金沢八景駅からJR鎌倉駅行きバスに乗って十二所神社で降り、そこから回っていくことだろう。そして杉本寺から金沢街道を少しいった所の小学校を右折すると鎌倉宮からの道に出会う。そこから二階堂周辺を回ることにしてコースを組み立てた。観光協会のコース説明には次のように書かれていた。

谷戸奥に名刹をたどる
観光客で賑わう鶴岡八幡宮を東に行くと、鎌倉と横浜・六浦をつなぐ金沢街道が続く。古くは「六浦路」と呼ばれ、六浦の商人が塩や海産物を運ぶ?塩の道?として栄えた街道だ。周辺は山深く、入り組んだ谷戸の中にひっそりと古刹が佇む。鎌倉で最も古い歴史を誇る寺・杉本寺や、竹の庭で有名な報国寺など、味わい深い風情の寺が多い。奥へ分け入ると木々のさざめき以外物音ひとつしないことも珍しくない。

金沢街道の途中、通称「岐(わか)れ路」は二階堂方面へ抜ける分岐点である。お宮通りをたどると、菅原道真公を祀る荏柄天神社や、秋の薪能で知られる鎌倉宮、真言宗の古刹覚園寺が姿を現す。谷戸奥には花の寺として知られる瑞泉寺がある。


散策コース: 京急金沢八景駅→(バス)→十二所神社→光触寺→明王院→報国寺→浄妙寺→杉本寺→荏天神社→鎌倉宮→瑞泉寺→覚園寺→頼朝の墓・白旗神社→来迎寺→八雲神社→岐れ路バス停→JR鎌倉駅

 早く家を出ようと思っていたが、結局9時13分池袋発、横浜で京急に乗り換え10時12分に金沢八景駅に着いた。金沢八景駅から歩いてすぐの所に横浜新都市線の駅があり、降車客の多くはそちらに向う。金沢八景の駅で降りたとことはないので、駅前を鎌倉駅行きのバス停を探しなから歩いた。

駅前には横浜新都市線シーサイドラインの駅ビルが京急線の駅と向かい合う形で建っている。横須賀街道を少し行くと瀬戸神社というかなり由緒がありそうな神社があった。また神社前は道路を挟んで料亭があるが、そこから海が垣間見られる。時間があれば海まで行ってみようと思ったがまずバス停を探して時間を見ようと思った。

瀬戸神社
古くから、海上交通の神様として崇拝されてきた神社。その昔、平潟湾の中心に急流の瀬戸があり、海神が祭られていた。その海神を神体として創建したといわれている。1180年(治承4)には源頼朝が伊豆の三島大社を勧請。その後も足利氏、小田原北条氏、徳川家から庇護された。現在の社殿は1800年(寛政12)の再建。

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 瀬戸神社拝殿                        神社境内から海側を見る

 昨日京急バスで鎌倉行きのバスが十二所神社に着く時間を時刻表で調べてみた。時刻表では1時間に4本出ていた。このバスは金沢八景からのものと思っていて、安心していた。しかしバス停について時刻表を見たら、実際には金沢八景から鎌倉に行くバスは8~9時台で1時間に2本、それ以降は1本しかない。10時台では35分にあるだけだった。十二所神社を通るバスは必ずしも金沢八景から来るとは限らなかった。運よく5分待ってバスは発車した。

バスは広大な鎌倉霊園を巡りながら十二所神社のバス停に着く。バス停から道路を渡りすぐに急な階段がありその上に拝殿がある。古い建物だ。その拝殿の正面に張り紙がしてあった。そこには「拝殿の正面、しめ飾りの上に兎の彫刻があります。パワースッポットとしてTBSテレビで放送されました」とある。何故兎がパワースッポトとなるのか全く理解できないし、放送されたからといって人気の神社として多くの人が来るわけでもない。境内には誰もいない。

金沢街道は車の行き来がかなりある。歩道が整備されているので危険はない。ただもっと静かな雰囲気が欲しい所だが、街中の観光地ではそれは難しいのだろう。観光客にはまだ出会わない。次の光触寺で、10人位の団体に出合った。弁当を食べる場所を探していた。また足に自信のある人は朝比奈切通を経由して金沢八景に出よう、そうでない人は光触寺脇の十二所というバス停から、鎌倉駅か金沢八景駅にで出よう、といった話をしていた。どこか弁当を食べられる所を知らないかと聞かれたが分かるはずがない。団体のリーダーはそこら辺も事前に調べておく必要があるのだろう。

十二所神社
金沢街道沿いの山すそにある神社。勾配の急な石段を上ると、石造りの鳥居、その奥に茅葺きの木造社殿が杉林に囲まれて佇む。創建は弘安元年(1278)。かつては熊野十二所権現社と呼ばれ、光触寺の境内に鎮守社として祀られていたという。後に里人の手により現在の地に移築された。

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 十二所神社拝殿                       兎の彫刻

光触寺(時宗 岩蔵山)
弘安2年(1279)一遍上人に帰依した作阿上人によって開かれた時宗の寺。境内には一遍上人の銅像、元禄年間に再建された本堂が建つ。本尊は阿弥陀如来と脇侍からなる阿弥陀三尊立像。別名?頬焼阿弥陀?と呼ばれ、国の重要文化財に指定されている。本堂横の地蔵堂には、供物の塩を嘗めるという塩嘗地蔵(しおなめじぞう)が祀られている。

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 光触寺山門                          本堂

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 一遍上人の銅像                        塩嘗め地蔵

 滑川沿いの道を鎌倉方面に向かって歩く。所々にかかっている橋とバス停が目的の寺院の場所を探すのに役に立つ。明王院は二つ橋の袂にある。金沢街道はひっきりなしに車が走っているが、そこから2,3分道路から外れるとあたりは静かになる。明王院の本堂は茅葺屋根で田舎の古民家のよう鄙びた雰囲気だった。この中に歴史ある不動明王が祀られているとは思えない穏やかな佇まいである。

浄妙寺のバス停の脇には広い駐車場がある。バス停の前には14,5人の人がたむろしている。紅葉の季節ではないが、この寺院あたりから観光客が増えてくる。秋はまさに行楽の季節、暑くも寒くもなく歩くのには最適だ。特に寺院巡りにはいい季節だ。金沢街道から3,4分奥に入っていくと浄妙寺の山門がある。山門を潜ると手入れの良く行き届いた庭園が迎えてくれる。既に紅葉した木々を混ぜながら色彩的にも我々の目を楽しませてくれる。

本堂を見ながら奥に進むと、本堂左手に枯山水庭園に面した茶室喜泉庵がある。喜泉庵は天正年間(1573年~1592年)に建てられた茶室で、現在の茶室は平成3年に復興した。浄妙寺の裏山を上って行くと高台に、石窯ガーデンテラスがある。80年近い歴史を刻んだ洋館を改装して、石窯で焼くパンを提供するカフェ&レストランとして 2000年5月にオープンした。結構客が入っていて手作りパンを買っている。寺院とパン屋という組み合わせは何処から生まれたのだろう。

浄妙寺前の華の橋を渡りしばらく行くと竹林で有名な報国寺がある。境内には観光客がかなり来ている。本堂の裏が竹林になっていて、この庭に入るには拝観料を払わなければならない。昼なお暗き孟宗竹の竹林の中を歩いていると竹の葉が風にざわめいている音以外全くしない。回りに誰も居なくなってしまったのかと錯覚するほどだ。竹林の中には石仏が並べられていたり、所々灯篭や石塔を配しているが、それ以外ひたすら竹の直線の世界だ。

今までの寺院では全く食事をする所が周りになかったが、浄妙寺と報国寺の回りに何軒かあった。浄妙寺の石窯ガーデンテラスもパン屋だけでなく、評判の欧風料理を食べさせる店だ。周辺のレストランには、和食、洋食、欧風料理、イタリアン、寿司、釜飯などの店がある。さらに和風甘味喫茶、ケーキ屋、喫茶店などは建物が凝った作りになっていて若い女性向きに隠れ家カフェ、カジュアルフレンチカフェ、ナチュラルダイニングなどの名前が付いていておしゃれな店作りとなっている。それぞれランチメニューとなっていて料理の種類は限られている。

明王院(真言宗御室派 飯盛山 寛喜寺 )
嘉禎元年(1235)鎌倉幕府第4代将軍藤原頼経が、将軍の御願所として建立した寺。高い寺格を有した。創建当時は不動を中心に東西南北に、降三世(ごうさんぜ)、大威徳(だいいとく)、軍荼利(ぐんだり)、金剛夜叉(こんごうやしゃ)の五大明王像が祀られて栄えたが、現在は本尊不動明王坐像一体だけが残され、簡素な茅葺きの本堂に安置されている。

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 明王院山門           本堂

浄妙寺(臨済宗建長寺派 稲荷山浄妙廣利禅寺)
文治4年(1188)鎌倉幕府の重臣である足利義兼により建立されたという。当初は極楽寺と呼ばれる真言宗の寺院で、義兼の子義氏の時に臨済宗となり寺名も浄妙寺に改名。足利氏が栄えた室町時代は23の塔頭を備える大寺院だった。現在は宝暦6年(1756)に再建されたと伝える本堂、それに客殿、庫裏、収蔵庫からなり、本堂左手に枯山水庭園、茶室喜泉庵もある。鎌倉五山第五位。境内は国指定史跡。

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 浄妙寺庭園                         本堂

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 参道                              枯山水庭園、茶室喜泉庵     

報国寺(臨済宗建長寺派 功臣山)
足利、上杉両氏の菩提寺として栄えた臨済宗寺院。開山に仏乗(ぶつじょう)禅師を迎え、建武元年(1334)足利尊氏の祖父家時が建立したと伝える。山門から本堂までは石庭を配した参道が続き、本堂右手には新築の迦葉堂、裏手に開山塔の休耕庵跡がある。ここは仏乗禅師が修行や詩作を行った場所で、今は有名な竹の庭となっている。裏山には足利一族の墓とされる大きなやぐらが建つ。

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 報国寺山門                          本堂

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 竹林

 報国寺の参観を終ったのが1時頃だったので、あまり考えることなく報国寺の目の前の和食屋に入った。住宅を改造したような作りになっている。玄関を開けて食堂に入って待っているが誰も来ない。厨房が離れているのか全く来たことに気がつかないのか、しばらくして誰も来ないので帰ろうと思って、声をかけてみたら返事があったので鎌倉野菜をふんだんに使った季節御膳というのを頼んでみた、といっても和食はそれだけしかない。メニューは後ケーキとピラフだけだ。

かなり待たされてやっと食事が出てきた。時間はあるし今まで全く休まなかったのでここで少し長く休憩を取ろうと思っていたから気にしなかったが、そうでなければかなりイラつくだろう。後でこの店について「食べログ」に書いてあった口コミ読んだら「味は並みの上程度なのに、客への気遣いが一切ありません。待たせて行動がキビキビしていないし、気分を悪くしました」と書いてあった。なるほどなと思った。食べるということ一つとっても味だけではなく客との接し方も問題とされるのだ。

報国寺から少し奥に進むと旧華頂宮邸がある。ここは昭和4年の春に華頂博信侯爵邸として建てられたもので平成8年5月鎌倉市が取得した。15世紀から17世紀のヨーロッパの民家に多く用いられたハーフティンバー様式(木造骨組を外に露出させ,、その間を煉瓦[石・モルタルなど]で埋めた様式)を用い端正で古典的である。しかし月と火が休館日で中に入れなかった。また邸内開放は日時が限られている。こういった情報はしっかりと把握しておかないと無駄足になる。

鎌倉で最も古い寺杉本寺に行く。杉本観音のバス停の前からすぐに長い急な石段の参道が続いている。階段の両脇には「奉納十一面杉本観音」と書かれた白い奉納幟がいくつも掲げられている。山門の手間で拝観料を払い、狭くて急なのですれ違うのが危険なためなのか、正面の階段を上らず、左右の階段から観音堂に向う。観音道は茅葺で古色蒼然とした雰囲気につつまれている。しかしひっそりとしたイメージをいだいて観音堂の中に入ってみると、正面には寺院に関する様々な土産物品(縁起物、ご利益物)などが所狭しと並びライトで明るく照らされて華やかだった。参拝客が何人か品物を物色していた。観音堂の外と内とのアンバランスが面白い。

杉本寺(天台宗 大蔵山)
天平6年(734)光明皇后の寄進により、行基が開いたと伝える、鎌倉で最も古い寺。源頼朝により建久2年(1191)再建された。石段の中程に書院や庫裏、仁王門を過ぎると頂上に茅葺きの観音堂が建つ。本尊は3体ある十一面観音立像。開基の行基、恵心、慈覚の3人による作とされる。裏山には、三浦氏の一族が築いた杉本城跡が広がる。坂東33観音霊場の第1番。

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 杉本寺仁王門                         観音堂

(参考資料:鎌倉市観光協会公式サイト、鎌倉ぶらぶら・鎌倉の観光ポータルサイト)                  

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飛鳥山公園

11月19日(土)

『秋-挽歌』  シェリー
 あたたかい日は衰えて 膚差す風がむせびなき
 はだかの枝はため息し 青白い花はしおれゆき
   いま「年」は
 枯葉の屍衣に身をつつみ 死の床 大地に
   よこたわる。(星谷剛一訳)

イギリスの秋の情景をシェリーの詩は重々しく詠っている。イギリスの秋はこんなに寂しいものなのだろうか。アメリカのドラマやテレビ番組では、紅葉の鮮やかなシーンが出てくるが、イギリスの番組では紅葉のシーンを見たことがない。ケーブルテレビでAXNミステリーというチャンネルがあり、海外のミステリードラマを放映している。

その中でイギリスを代表する女流作家キャロライン・グレアム原作のバーナビー警部や、R.D.ウィングフィールド原作のベストセラー小説を映像化したフロスト警部を見ることがあるが、そこでも紅葉のシーンにお目にかかったことはない。シャーロックホームズやポアロの番組で、イギリスの田園風景は映し出されるが、紅葉のシーンは見たことがない。デイック・フランシスの競馬シリーズのミステリー小説でも秋の風景描写の中に紅葉は出てこない。

イギリスの秋と比較して日本の秋を改めて見直すことが出来る。季節の移り変わりと、それの伴う自然の色彩の変化を思う存分楽しむことが出来る日本の風景に改めて感動を覚えるのであった。

飛鳥山公園へ
瑞光小学校での「いのちの授業」を終え学校を後にした。都電の駅に向う通り道にジョイフル三ノ輪(三ノ輪橋商店街)がある。ここはスーパーの進出によって衰退していく地元商店街が多い中にあって、元気な商店街として紹介されている所である。ここで今日の授業に参加した「ももの木」メンバーと一緒に今日の反省会を兼ねながら食事をした。

皆と別れ、都電で大塚に向う。往きに都電で飛鳥山公園の脇を通った時に、色鮮やかな紅葉の情景が目に入った。帰りに途中下車して寄ってみようとその時思った。春さくらの花見の名所は、秋になると今度は木々の紅葉を楽しむことが出来る。

ある作家が「さくらの紅葉の葉は、一枚の葉の中に橙色から朱色へのグラデーションを奏でている。その色合いはセザンヌの筆致を思わせる」と言っていた。さくらの紅葉はモミジやカエデ、イチョウなどよりも早く、散り方も早い。機会を逃すと丸裸の枯れ木になってしまう。

飛鳥山公園のモノレール(アスカルゴ)と頂上の花壇
都電を王子駅前で降りた。ガードを潜ると、さくら新道という看板が有り、その横にあすかパークレールがある。誰もが飛鳥山公園を利用しやすくするために、飛鳥山公園の公園入り口から飛鳥山山頂間に設置した無料で乗車出来る昇降設備である。

パークレールのゴンドラ(アスカルゴ)が人待ち顔で扉を開けている。雨は激しく振っている。誰もこんな日に公園には来ない。この前来た時には人が並んでいた。吸い込まれるように乗車した。何時間ぶりかの客なのだろう、係員は愛想よく扉を閉めゴンドラを発車させた。2分で頂上に着く。

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 アスカルゴ                          山頂のマリーゴールドの花壇 

飛鳥山公園の碑と博物館
桜賦の碑 - 1881年(明治14年)建立。佐久間象山の書いた「桜賦」を、門弟勝海舟の意で碑にしたもの。
飛鳥山の碑 - 1737年(元文2年)建立。飛鳥山の由来を記したもの。あまりに難解な漢文であるため、江戸時代は読めない碑として知られた。

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 桜賦の碑                           飛鳥山の碑   

紙の博物館
1950年(昭和25年)に、和紙・洋紙を問わず、古今東西の紙に関する資料を幅広く収集・保存・展示する世界有数の紙の総合博物館として、東京・王子に誕生した。王子は、明治初期に近代的な製紙工場のさきがけとなった抄紙会社(後の王子製紙王子工場)が設立された地で、"洋紙発祥の地"として知られている。王子製紙紙業史料室の資料を一般公開し、広く社会教育に貢献するために、王子工場で唯一焼け残った発電所の建物を利用して、紙の博物館の前身である「製紙記念館」が設立された。

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 紙の博物館入口                       子どもランドの滑り台  

北区飛鳥山博物館
北区や近隣地域の考古、歴史、民俗等や自然に関する博物館活動を行うことで、区民の生涯学習の振興に寄与するとともに、広く教育、学術の向上と地域文化の発展に資することを目的に、平成10年3月27日、北区立飛鳥山公園の中に開館した。

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 北区飛鳥山博物館入口                  平和の女神像(北村西望作)  

渋沢史料館
日本の近代経済社会の基礎を築き、生涯「道徳経済合一説」を唱え、実業界のみならず社会公共事業、国際交流の面においても指導的役割を果たした渋沢栄一[1840(天保11)~1931(昭和6)年]の全生涯にわたる資料を収蔵、展示している。

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 渋沢史料館建物                       渋沢史料館入口

さくらの紅葉
飛鳥山公園にはソメイヨシノ、サトザクラなど約650本が園内に植えられている。そのさくらの木々が全て紅葉しているわけではないが、多目的広場の日当たりのいい場所のさくらの木々は鮮やかな色彩を放ち、ケヤキの黄色の葉とハーモニーを奏でていた。

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瑞光小学校・飛鳥山045ed_convert_20111119230156

瑞光小学校・飛鳥山047ed_convert_20111119224848  瑞光小学校・飛鳥山052ed_convert_20111119224925

瑞光小学校・飛鳥山061ed_convert_20111119225030  瑞光小学校・飛鳥山062ed_convert_20111119225054

(参考資料:北区公式サイト・まちづくり部 道路公園課 公園河川係)

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井の頭恩賜公園

11月16日(水)
 血液内科の診療は午前中で終った。風が強いせいか空は抜けるように青い。今日あたりから気温が下がって来るということだったが、太陽の日差しは暖かい。東京都内の紅葉はどこでもまだだろう。井の頭公園が紅葉の名所として紹介されていた。紅葉は色づき始めとなっていた。紅葉にはまだ早いのは止むを得ない。病院帰りに、散歩を目的と考えて井の頭公園に行くことにした。

公園は吉祥寺駅から5分位の所にある。吉祥寺駅周辺の雑踏から少し行くとすぐ公園の広大な緑地の中に吸い込まれるように入っていく事ができる。やはりまだ紅葉には早かったが、昼下がりの穏やかな日差しの中を、散策するのは気持ちがいい。公園の中心にある井の頭池の周辺の遊歩道を歩く。一周30分位なものだ。池の中心にボート乗り場があり、そこに売店があり人で賑わっている。

井の頭恩賜公園
1917年(大正6年)開園。三宝寺池(石神井公園)・善福寺池と並び、武蔵野三大湧水池として知られる井の頭池を中心とした公園である。井の頭池は、初めて江戸にひかれた水道、神田上水の源であり、明治31年に「改良水道」ができるまで、重要な役割を果たしていた。公園の中心である「井の頭池」の命名者は、三代将軍徳川家光であると伝えられ、その意味は「上水道の水源」「このうえなくうまい水を出す井戸」という二つの説がある。

園内には5000本以上の落葉樹がありモミジ635本、イヌシデ540本、ケヤキ330本など約90種類に及ぶ。また都内では珍しくカツラの紅葉スポット。また管理事務所の近くにある御殿山の周辺にはクヌギ、コナラなど自然林が多く、黄色に染まった景色が楽しめ、武蔵野の面影が味わえる。

井の頭公園001_convert_20111117101521  井の頭公園019_convert_20111117101709   
 公園入口の井の頭池                   池の東南端水門橋方面

井の頭公園005_convert_20111117101546  井の頭公園003_convert_20111117101616   
 カモの群れ                         七井橋付近より対岸を見る

井の頭公園023_convert_20111117101736  井の頭公園011_convert_20111117110640  
 狛江橋付近より対岸を見る                野外ステージ付近

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 ボート場より七井橋                    狛江橋より自然文化園方面

 売店の前に、井の頭自然文化園分園の表門入口がある。文化園とはどういった場所なのか全く知識がなかったが、入場料400円払って入場した。中に入って「動物園」だということに始めて気がついた。動物園など小さい頃行ったきり全く縁遠い所だった。分園では主に水鳥が飼育されている。クロトキ、オシドリ、ナベヅル、カモ、コールダック、ハクチョウがそれぞれ趣向を凝らした飼育場所で泳いでいる。分園の奥には水生物館があり魚類だけでなく、両生類、昆虫、植物など、淡水の生き物が展示されている。

井の頭公園032_convert_20111117205845  井の頭公園030_convert_20111117110727
 コクハクチョウ                        オオハクチョウ

分園を出ると左側に赤い鮮やかな建物が目に入る。弁財天堂である。弁天橋をわたり、弁財天堂に行く。近くに行くと赤色が一層強く鮮やかに見える。狭い境内には銭洗い弁天や七井不動尊など幾つかの見物がある。さらに弁天島の入り口に建てられた一対の石燈籠や、境内の狛犬や水盤など、弁天堂周辺の石造文化財(三鷹市指定)は全て江戸下町の庶民が寄進したものであり、また日本橋小舟町の名が刻まれた、弁天様にお供えする百味飲食(ひゃくみおんじき)供養の器も残されている。

井の頭弁財天堂
平安時代の天慶年間(938年-947年)源経基が創建したものと伝えられ、その後源頼朝が1197年(建久8年)に再建し、別当となる坊舎大盛寺(天台宗・明静山 円光院 本尊薬師如来) が建てられたと伝えられる。1333年(元弘3年)新田義貞が鎌倉を攻めた際に焼失し衰退していたが、江戸時代に入り三代将軍徳川家光によってようやく再興されたという。なお、本尊の弁財天は最澄の作と伝えられている。

莠輔・鬆ュ蜈ャ蝨・41_convert_20111117150234  井の頭公園045_convert_20111117102009
 弁天橋より弁財天堂を見る                弁財天堂
 
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 銭洗い弁天                          七井不動尊

井の頭自然文化園
昭和17年(42年)開設。動物、植物など自然科学の知識普及を目的とする。武蔵野市御殿山にある本園と、三鷹市井の頭にある分園に分かれている。本園では、おもには哺乳類と鳥類が飼育されており、井の頭池に囲まれた分園では水鳥が飼育されている。また、本園には、「熱帯鳥温室」や、文化施設である「資料館」では、特設展示や講演会などが開催されている。分園には魚類や両生類を飼育する「水生物館」がある。

 弁財天堂から、300mばかり歩き吉祥寺通り越える歩道橋を渡ると、自然文化園の本園の正面入口に着く。本園のほうは哺乳類と鳥類が飼育されている。子供たちに人気のアライグマやカビバラがいる。そしてツシマヤマネコ、フェネック、ハクビシンなどどちらかというと小動物が多い。またカモジカやヤギ、ヤクシカ、キツネ、そしてアジアゾウといった馴染み深い動物を取り揃えている。サル山もあり飼育員達が餌を与えていた。自然文化園の奥に野口雨情の書斎を移築して一般公開している童心居がある。野口雨情は「赤い靴」や「波浮の港」などの作詞家である。

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 カビバラ                            童心居

自然文化園本園に入ると「天女の舞」の像が迎える。園内に点在する北村西望の彫刻を見ながら雑木林の中を奥に進んで行くと彫刻園に入る。建物の中の彫刻の展示よりも屋外の武蔵野の雑木林の下で、夕方の木漏れ日を通して見る彫刻はより一層彫刻のかもし出す雰囲気を味わうことができるし、作者の訴える意味を受け止めることができるような気がする。

動物園には子ども連れの母親の姿が結構見られたが、彫刻園の方には、人っ子一人いない。木々に覆われた建物はより一層静けさをかもし出している。彫刻館の中には係員もいない。勝手に入って見たいだけ見ればいいということだ。彫刻館A館の正面には長崎平和祈念像の原型が展示されている。

西望塑人の平和祈念像の言葉が書かれていた。「あの悪夢のような戦争、身の毛もよだつ凄絶悲惨、肉親を人の子をかえり見るさえ堪えがたい真情、誰が平和を祈らずにいられよう、茲に全世界平和運動の先駆として、この平和祈念像が誕生した・・・右手は原爆を示し左は平和を顔は戦争の犠牲者をの冥福を祈る、是人種を超越した人間、時に佛時に神、長崎始まって最大の英断と情熱、今や人類最高の既望の象徴。」

彫刻園
長崎平和祈念像の作者として有名な彫刻家北村西望の作品が展示されている。北村西望は、ここ井の頭のアトリエで長崎の平和祈念像を制作、その後アトリエ建物や祈念像原型など多くの作品を東京都に寄贈、昭和33年にこれらの作品を一般公開したのが彫刻園の始まりである。木造の三角屋根のアトリエ館、中庭をはさんだ2棟の彫刻館と野外に据えられた彫刻が鑑賞できる。

井の頭公園100_convert_20111117102441 平和祈念像原型

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 彫刻館展示場風景

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 天女の舞                          天女の笛

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 自由の女神                         源泉 
                       
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 無限-夏の星座             浦島-玉手箱               御木本幸吉翁立像

 紅葉を見に行くつもりだったが、まだ色づき始めたばかりで鮮やかな色彩の感触を楽しむことは出来なかった。だからといって池の周りの散策が無意味ということはない。そもそも運動のためのものであって、その過程で色々な情景を楽しめればそれに越したことはないという気持ちだ。

井の頭公園に行こうと思った時には、池の周りの散策しか考えていなかった。しかし弁財天堂や自然文化園とそれに併設する彫刻館など見所がかなりあってそちらの方にむしろ時間を費やした感じだ。池と寺院と動物園と彫刻といった全く無関係な物が混在していて、それぞれが興味深いものとして立ち現れて来た。そういったものとして井の頭公園は様々な要素が凝縮した場所であるといえるだろう。

(参考資料:西部公園事務所緑地事務所公式HP)

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血液内科の診療

11月16日(水)
検査結果
IgM   6127(11/16)←6376(11/9)←5870(11/2)←5934(10/26)
白血球 1600←1700←1600←2000
好中球 540←460←420←530
赤血球 278←291←230
ヘモグロビン 9.0←9.4←9.3←7.8
血小板 5.3←5.6←5.3←3.4


IgMが250ほど下った。上がっては下がり上がっては下がりを繰り返している。レナリドマイド+シクロホスファミド+デキサメタゾンの組み合わせは、もはやギブアップだろうと思っていたがどうしてしぶとく頑張っている。しかし上がる速度の方が速いのでやがてはIgMは7000になるだろう。そうなった時には、ベンダムスチン療法を行うために入院しければならない。

しかし問題がないわけではない。通常新たな治療を始める前には、白血球が3000位は欲しいところでる。しかし今の状態で更に骨髄抑制の強い薬を投与するということはきわめて危険を伴うということだ。つまり白血球が殆どなくなり、感染の恐れが極めて強くなり、その期間が長くなるということだ。つまり回復にかなりの時間を要するということである。色々な支持療法を行ったり、感染予防の措置は採るとしても、感染による重大な事態を考えておいた方がいいと医者がアドバイスをした。いつものようにG-CSFの注射をして今日の診療は終わった。

体調が毎日のように変化する。調子がいい時と、そうでないと時は繰り返しやってくる感じだ。赤血球が減っていればだるく、倦怠感が生じてくるのはやむをえないだろうが、赤血球がそれなりにあったとしても、白血球が減少している場合でもだるくなるということはあると医者は言っていた。

さらにIgMが増加してくればそのことが体調にかなり影響を及ぼす。発病当初はIgMが7000以上あったが体調には何ら影響がなかった。しかし今年になって入院前IgMが7000を越えた時にはかなり体調に影響があった。だるさ、倦怠感、体力消耗で、一日中ぐったりしていた。こんな状態だったら早く入院して治療を開始してもらいたいと思ったほどだ。

昨日はどうしてだか1日中眠かった。いつもの通り朝6時には起きた。一通り家事をやって9時頃からまた眠くなり、横になったら昼過ぎまで寝てしまった。夜は夕食後しばらくしてからまた眠くなり、20時過ぎには寝てしまった。何故こんなに眠くなるのだろうか。横になるとすぐ眠ってしまう。

週2回デキサメタゾンをを服用しているがその時には4,5時間しか寝られない。それも浅い眠りをとることしかできない。眼が覚めると横になってじっとしていられず、朝4時だろうが5時だろうが起きだしてしまう。デキサメタゾンを服用した後反動で眠くなるということは当然あるが、必ずしもそういったことで眠くなったわけではない。

体調は、気の持ち方でかなり違ってくる。家に一日いるとどうしても体調は落ち込む。外に出ると気が張っているのか元気になる。セミナーに行けば眠らずに最後まで会議に集中することが出来る。どこかに行けば2kmでも3kmでも坂道の上りでなければ問題なく歩き続けることが出来る。たとえ出掛けにはそれ程体調がよくなくても動き始めればどうにか目的は完遂できる。このような体調の状態を上手くわたり歩きながら、自分の生活のバリエーションを確保していくほかない。

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浅草酉の市

11月14日(月)
眼科の診療日だった。眼圧が左7、右16だった。左が少ない。炎症が起っており、房水を作る機能が衰えていて、眼圧が下がっているということだった。ただ炎症に関しては特に何かをする必要はないということだった。右は全く問題はなかった。左眼の中にあるサイトメガロウイルスが神経を通して体に周り炎症を起こすかもしれないのでそれをチェックする必要がある。眼科の診療は30分もかからなかった。

浅草酉の市
11月2日の夕方のテレビで浅草酉の市の放送をやっていた。夜中の12時に開始する場面を写していた。11月酉の日の午前零時に打ち鳴らされる「一番太鼓」を合図に始まり、終日お祭が執り行われる。酉の市は新宿の花園神社やその他でもやっているが、発祥の地であり盛大に行われているというので一度は見に行きたかった。丁度今日が二の酉の日に当たる。病院からそれ程遠くないので行ってみることにした。鶯谷で降りて、入谷まで行ってそこから国際通りに出れば、浅草の酉の市の長國寺と鷲神社に出る。

かって仕事をしていた時には、日本の風俗、行事や風物詩に対して全く無関心でいた。仕事に集中しているとそういったものに目を向ける精神的余裕がなくなってしまう。勤務先から本社に行く通り道で朝顔市やほおずき市や今回の浅草酉の市などをやっていたが、何の関心もなく素通りしてしまっていた。昨年朝顔市に初めて行った。酉の市も行ったことがなかった。時間があるということは世の中の様々な様相に目が届くようになる。

由来: 江戸時代後期から、最も著名な酉の市は、浅草の鷲在山(じゅざいさん)長国寺(法華宗本門流)境内の鷲大明神社で行われた酉の市である。長国寺は1630年の開山以来「浅草酉の市発祥の寺」として毎年11月に酉の市を開催してきた。「浅草酉の寺」の名で親しまれている。当時浅草の鷲大明神は妙見大菩薩とも呼ばれて、鷲に乗った妙見菩薩の姿として描かれ、長国寺境内の番神堂(鷲大明神社)に安置された。

11月の酉の日には鷲妙見大菩薩が開帳され、酉の市が盛大に行われるようになる。今では長国寺の「仏様のおとりさま」と隣り合う鷲神社の「神様のおとりさま」の両方にご利益をお願いできる。福をかっ込むという縁起物の熊手を手に入れ、家内安全・開運招福・商売繁盛!


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 鷲神社入口                          鷲神社拝殿

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 鷲神社拝殿                          なでおかめ

日比谷線入谷駅の地下鉄の出口の所で、ハンドマイクを持った案内人がいて、酉の市への行き方を指示している。酉の市の行なわれている鷲神社・長国寺までは駅から7分位だと言っている。駅からの道には酉の市に向う人達がぞろぞろと歩いているので道に迷うことはない。

鷲神社の入口に着いたが、境内の外に人があふれ列を作っている。参拝をしたい人が4、5列に並んで順番待ちをしている。15分位待ってやっと神社正面にたどり着き、7,8本下がった綱を揺らして鈴を鳴らし参拝を済ませる。鷲神社の参拝を終えた後、今度は並んでいる長国寺に行く。寺の前には神社と違って、人だかりがしている訳ではない。代わる代わる本堂に向ってお参りしている。

「酉の市」の立つ日には、おかめや招福の縁起物を飾った「縁起熊手」を売る露店が立ち並ぶ。浅草の老舗・居酒屋・開運グッズなどの屋台が800店以上も軒を連ねている。また、市を開催する寺社からは小さな竹熊手に稲穂や札をつけた「熊手守り」が授与され、福を「掃き込む、かきこむ」との洒落にことよせ「かっこめ」と呼ばれている。

酉の市の縁起物は、江戸時代より熊手の他に「頭の芋(とうのいも)」(唐の芋)や粟でつくった「黄金餅(こがねもち)」があった。頭の芋は頭(かしら)になって出世する、芋は子芋を数多く付ける事から子宝に恵まれるとされ、黄金餅は金持ちになれるといわれた。

江戸中期から今に伝えられている“なでおかめ”今までは昇殿参拝された方々や希望者に撫でてもらっていたが、今年よりお参りに来て下さった多くの方にも撫でて頂こうと社殿の賽銭箱の上に移動した。おかめはお多福とも言われ福が多く幸せを招く女性の象徴という事から縁起が良いとされ酉の市の縁起熊手にも江戸より飾り付けられている。

「春を待つ 事のはじめや 酉の市」 其角(芭蕉の弟子)

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 長国寺山門                          長国寺本堂

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目黄不動尊
帰りは三ノ輪方面に向った。鷲神社の境内から三ノ輪方面に向い、屋台がずらりと並び多くの参拝客が立食している。酉の市の会場から三ノ輪駅までは10分位で着いた。道路の反対側から見ると赤い幟が10本ほど風になびいている。寺院に関連した物かなと思って近づいてみると、やきとりと染め抜かれていた。目黄不動のある永久寺(養光山金碑院 天台宗)はその隣にある。回りは静かな民家に囲まれている。門柱に寺の表示がなければ一見寺院とは分からない建物である。

永久寺の鉄の門扉の脇に台東区教育委員会が作成した目黄不動についての説明書きの金属プレートが貼られていた。そこには次のように書かれていた。
「目黄不動は江戸五色不動の一つとして知られている。江戸五色不動とは、目白、目赤、目黒、目青、目黄の各不動尊のことで、寛永年間(1624~43)の中頃、徳川三代将軍家光が寛永寺創建で知られる天海大僧正の具申により、江戸府内の名ある不動尊を指定したと伝える。

不動明王は、密教ではその中心仏とされる大日如来が悪を断じ、衆生を教化するため、外には憤怒の形相、内には大慈悲心を有する民衆救済の具現者として現れたとされている。また、宇宙のすべての現象は、地、水、火、風、空の五つからなるとする宇宙観があり、これらを色彩で表現したものが五色といわれる。不動尊信仰は密教が盛んになった平安時代初期の頃から広まり、不動尊を身体ないしは目の色で描き分けることは、平安時代すでに存在したという。      台東区教育委員会」

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 永久寺本堂                         目黄不動尊不動堂

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日本骨髄腫患者の会 骨髄腫セミナー2011

11月13日(日)
日本骨髄腫患者の会 骨髄腫セミナー2011が、午前10時45分より東京コンファレンスセンターで行なわれた。品川駅港南口の目の前に27階建てのアレア品川の黒いビルがそびえている。その3階からがコンファレンスの専門施設、東京コンファレンスセンターである。セミナーはその4階、5階で行われる。

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 東京コンファレンスセンター        センター5階より品川インターシティ方面

セミナー2011の定員は午前中の部は200名、午後は400名となっていた。かなり早く申し込んだつもりだったが、既に午前中は定員に達してしまっていて午後のみの参加となってしまった。

その後患者の会から次のような通知が来た。「午後の部に参加される方のための待合室(当日は通常営業をしていないレストラン)で、午前の部のライブ映像を放映します。ただし、講演を聴くための部屋ではなく、レストランで待合いを兼ねて 中継をご覧になることを予めご了承下さい。」どちらにしても会場に行くので、午前中の講演も聴こうと思って10時45分開始までに会場に行った。

受付は3階で、手続きをして受付横のレストランに入る。レストランは100名位入れるほどの広さで、正面に2台のスクリーンが並べてあり、1台は講師の映像、もう1台は説明の画像が写され講演内容は一目瞭然だった。レストランには20名位しか来ておらず、広々とした中で飲み物自由なのでコーヒーなどを勝手に飲みながら、ゆったりとした気分で午前中の講演を聴くことが出来た。むしろ会場のホールで聴くよりも良かったような気がする。

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 5階大会議場                        セミナーの情景

午前の部

■■ 研究助成課題発表

▼ 基礎研究堀之内朗記念助成「多発性骨髄腫幹細胞における治療遺伝子の探索」秋田大学大学院医学系研究科 田川博之先生
§ 新規薬剤の効果は何故起こっているのか。がん細胞の種となる幹細胞の性格に注目した。がん細胞の特徴である遺伝子異常の性格はSP細胞に現れる。MMのSP細胞は、薬剤排出能、自己複製分化、強い増腫瘍能をもつ。このSP細胞に対して、オーロラキナーゼ阻害剤は効果的であるが、ボルテゾミブ、レナリドマイドはSP細胞に対して90%の抑制効果を持つ。新規薬剤の効果の仕組みを幹細胞に視点をあてて研究を進めている。

▼ 基礎研究杉特別助成「多発性骨髄腫の発症予防にむけて」東海大学創造科学技術研究機構医学部門 幸谷愛先生
§ MMの発症予防は可能なのだろうか。MGUSの段階で抑えることが可能だろうか。AIDを如何に抑制出来るのか。イマニチブはAIDの発現を抑えることができる。イマニチブは臨床試験で難治性のMMには効果がなかった。しかしMGUSには効果はある。MGUSのハイリスク患者にイマニチブを投与することによってMMへの予防効果が期待できるのではないか。

▼ 臨床研究助成「3T-MRIを用いた多発性骨髄腫のfat fraction analysis」広島大学病院放射線診療科 高須深雪先生
§ MM患者の骨の評価法にはX線単純撮影、CT、MRIがある。骨質評価でCTは溶骨性浸潤を、MRIはびまん性骨髄浸潤を見る。骨強度の評価を行うことはMMによる脊椎骨折を予防することにある。そのためにMRIによる脂肪画像を分析する。脂肪量が少なくなり、腫瘍量が増加することによって無症候性から症候性になっていく。それを骨の脂肪量から判断し早期の治療を開始していくことができる。

■■ ランチョンセミナー

▼「骨髄腫治療と食事、栄養」国立国際医療研究センター病院栄養士 比嘉並誠先生
§ 管理栄養士として、健康をサポートするための栄養相談を通して、人々が健康を保持、増進できるようサポートし生活習慣病を始めとした疾患の治療にも関わってる。個人的には「万病に効く薬はないが、栄養は万病に効く!」という言葉を胸に、一次予防を中心とした栄養相談に力を注いでいる。

▼「日常生活の注意点」国立国際医療研究センター病院がん化学療法看護認定看護師 望月朋美先生
§ MM患者の日常生活と体調管理。体調管理のためのセルフチェックや感染予防について日常生活での工夫。

午後の部

■■ 基礎講演「骨髄腫-どんな病気? 治療法は?」徳島県立中央病院 尾崎修治先生

§ MMとは、MMの年齢別罹患率、病態、症状、診断に必要な検査、免疫グロブリン、MMの種類(病型分類)、症候性MMの診断基準、Durie&Salmon病気(進行度)分類、国際病期(進行度)分類、治療方針の決定、治療法の歴史的変遷、MMの治療、治療方針、MP療法、VAD療法、自家抹消血幹細胞移植、サリドマイド、レナリドミド、ボルテゾミブ、ベルケイド、新規治療薬の特徴、合併症とその対策、ビスホスホネート製剤の種類、腎障害感染症、日常生活で心がけること、治療成績の進歩。

■■ 特別講演「骨髄腫治療による副作用を知ろう」日本医科大学付属病院 田村秀人先生

§ MM治療における副作用、MMでよく使用する薬剤、抗がん剤の主な副作用、①新規薬剤の副作用-ベルケイドの副作用、レブラミドカプセルの副作用発現状況、サレドカプセルの副作用、新規薬剤の副作用の比較、②コントロールが容易ではない副作用-ベルケイドによる抹消神経障害、抹消神経障害の発症時期とリスク、状態の把握、対処法、注意点、③すぐに治療が必要なもの-帯状疱疹、肺障害、心障害、腫瘍崩壊症候群、④まだよくわかっていない副作用-レナリドミドの2次がん、⑤予防によって回避できる可能性のある副作用-感染症、ゾメタの顎骨壊死、血栓症、⑥知っていれば心積りの出来る副作用-デキサメタゾン・プレドニンによる精神の変調と離脱症状、日常生活心がけること。

■■ パネルディスカッション「骨髄腫よくある質問」

【司会】 患者の会 中雄大輔
【回答】
日本骨髄腫研究会総会会長 三輪哲義先生
埼玉医科大学総合医療センター医師 木崎昌弘先生
久留米大学病院集学治療センター看護師 津留崎寛子先生
国立国際医療研究センター病院薬剤師 澤井孝夫先生
国立国際医療研究センター病院看護師 及川敦子先生

質問1、MMの治療は何をもって開始するのか。
質問2、治療の目指すものは。
寛解を目指す。骨髄腫細胞を減らす。治癒は難しい。生存期間(OS)の延長。
高齢者には強い抗がん剤を使わず、プラトーの期間を保つ位の治療がいいのではないか。QOLを保てるような治療を行う。
質問3、MP療法の有効性は。
9月からベルケイドを初期治療から使えるようになった。MP療法は以前第1選択肢だったが第2選択肢となった。
質問4、ベルケイドによる痺れの対策。
質問5、自家移植を楽にする工夫。
①氷なめ、②中心静脈カテーテルの早期の抜去(感染予防)、③食事の経口摂取、栄養管理チームの協力、「食え食え教」、食物の経口摂取によって消化管粘膜の回復を促進、④運動の薦め、筋力低下を防ぐ(足こぎバイク)、⑤感染予防-抗生剤、抗真菌剤、抗ヘルペス剤の服用。
質問6、治療奏効後の日常生活の注意点。

■■ おひらきのご挨拶と小さな音楽会+懇親会

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 5階ロビーでの演奏会

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鎌田實 『あきらめない』

11月12日(土)
415_convert_20111112072111.jpg 鎌田實さんの『あきらめない』という本を読んだ。この本の内容は我々がん患者が死というものと無関係に生きることが出来ない状態にあって、どのように生きていくことが出来るのかを、いろいろな人の死の迎えかたを記述することによって、「死」を通して考えるための実例を示している。

読者はその中から自分に見合った「死」の方法を見出していくことが出来るだろう。そのことによって死は自分とは無関係な別の世界のことではなく、自分にとってもっと身近な出来事であり、必ずやって来るものである事を理解する。そしてそのことは同時に、如何に死ぬのかについての考察をめぐらすことになる。

この本についての感想を書くのは余り意味がない。本の中に凝縮した鎌田さんの言葉を追っていけば、如何に多くの人が、様々の条件の中で、満足して死んでいったのかが記述されている。それを読みながら自分の死に方に思いを巡らすことに意味があるにではないか。読書ノートを写したという感じの記述になってしまうが集英社文庫からの引用した文章そのものである。

 病気になったおかげで、満足度の軸が変わった。私は人生の意味が見えてきたのかもしれないと思った。生きることの本当の価値に気がついた。人間ってすばらしいと思う。幾つになっても変われる、何歳になっても成長できる。前は会社での出世とか、特別に大きな仕事をすることなど劇的なことだけが、自分にとって最重要課題でした。

以前には平凡であったことが、今ではとても大事なことのように思えてきた。特に無心に木々の間を歩くと、私は生きていることをつくづく実感します。そしてそんな時間をとても貴重に思い、できるだけ多くとりたいと考えています。がんにならなければあと20年も生きられたかもしれないけれど、もしその期間をギューッと縮めたような充実した時間を生きることができれば、それはそれでよいのではなかろうかという心境にいたっています。

ぼく(鎌田)は見た。がんばらない、あきらめない、希望を捨てない生き方を生きる命を。(集英社文庫P31~33)

 藤原新也と対談した。「あの人骨を見たとき、病院では死にたくないと思った。なぜなら、死は病ではないのですから」多くの医者は死を病にしてきた。ぼくたち医者は、死を特別なものと考えてきたが、・・・日常の暮らしのなかに、死が溶けこんでいる安定感は、何とも味わいが深いような気がした。「死を生きる」という哲学的な言葉の意味が少し胸に落ちた。(p83)

 人間の幸せのカタチは、物と心の中間にあるような気がする。手に入りにくい貴重な物や経験のなかに幸せがあるのではなく、さりとて心のなかだけにさっと鮮やかに幸せは描けるのでもなく、日常生活のささやかな営みのなかに、幸せのカタチは存在する気がしてならない。命を支えるということは、その人のささやかな営みの何かを支えるということなのだろう。(p89)

 2001年1月、岩手県はおかしなキャンペーンを始めた。「がんばらない宣言いわて」=「がんばる」という言葉は、日本の経済成長一辺倒の象徴です。・・・むしろ自然体に生きて行こうとする意識の象徴なんです。一人ひとりがより人間的によりナチュラルに、素顔のまま生きていけるような取り組みの始まりである。21世紀が始まり、次代に渡すたすきに何を託すか、それぞれの価値観を今一度、問い直し、様々な提言を地方から発信していくときが来ている。

いつも不思議に思う。がんばらない人間や県に虚無感やあきらめ感は感じられない。むしろ積極的に自らの生き方を推し進めようとする高い志を感じる。時代は確実に変わりだしているのかもしれない。(P104)

 余命3ケ月と言われた命が1年8ケ月生きた。見放す医療、放り出す日本の医療に負けない「子どものために生きたい」という命があった。「あきらめない」「生きたい」という思いが。想像を超えた結果をつくりだしたように思う。ぼくたちの体の中には治ろうとする細胞がある。ぼくたちの進化させてきた医学や科学では分からないことが人間の体のなかにはある。(P268)

 『あきらめない』の主人公たちも、たくさんのことをあきらめてきた。あきらめて、あきらめて生きながら、時に、あきらめきれないものが、人生には待っている。大切なのはその時だと思う。その時、投げ出さず、放り出さず、丁寧に生きる姿を『あきらめない』の主人公は見せてくれた。(p271)

 世の中、生きづらくなってきた。夢なんて、希望なんて、もてないときもあるだろう。息をするのも苦痛に感じる時もあるだろう。いいんだよ。生きていれば。命ある限り、あきらめないで。与えられた命の分だけ、自分らしく生きれば。(p272)

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院内患者家族交流会(おしゃべり会)

11月11日(金)
 2ケ月一度の病院内で行なわれる交流会の日である。雨が降り続く。気温は12月上旬並みだと天気予報で言っていた。夜のニュースで家を出た時間の気温は11度だと知った。寒くて雨が降っている日の外出は、誰でもそうだが特に患者にとっては二の足を踏む。交流会の参加者は集まるだろうか。

こういった天候でもいつものメンバーを含めて8名の参加があった。話題は多岐に渡ったが、何故集まるのか。理由の一つがある患者から語られた。患者は色々な症状を抱えているし元患者でも後遺症に悩まされている人が多い。

 長い間治療をしていると病気のことや治療の事を家族に話そうとしても、病気のことが分からないこともあって、時が経つにつれて家族はあまり親身になって聞こうとはしなくなってくる。そうなると段々と病状や抱えている問題点について話をしてもしょうがないと思って話さないようになる。話したいことは幾らでもあるが話の内容を分って聞いてくれる人がいない。

60歳近い男性患者の話であるが、昔娘に買って上げたぬいぐるみを相手に独り言を言うようになった。結構年をとった男性で独り言を言うようになる人はいるが、彼は極端な例だが、家族からはうるさいから止めなさいと言われるだけだそうだ。

患者という特殊な体験は普通の人の理解不可能な点があり、それを理解してもらおうとすることはきわめて難しい。そういったことで一般的な人間関係の形成に支障を生ぜざるをえない。交流会はそういった問題を解決しうる唯一の場といえるだろう。しかし2ケ月に一度、3時間で自分の思いを語りつくせる訳ではなく、日常生活の中では独り言で解消せざるを得ないのだ。

 元患者の後遺症の問題が出た。参加者は現役患者3名、元患者5名だったが、元患者で10年前に移植を受けた人以外4名は未だ後遺症、合併症、別病気の発生で苦しんでいる。4名とも移植を受けた人達だ。

 1人目は繊維筋痛症になってしまった女性。この病気が診断できる特別な検査は今の所なく、治療法も確立されていない。全身の耐え難い恒常的な疼痛(慢性的、持続的に休みなく続く広範囲の激しい疼痛)を主な症状として、全身の重度の疲労や種々の症状をともなう疾患である。僅かな刺激(爪や髪への刺激、服のこすれ、音、光、温度・湿度の変化など)でも痛みを感じ日常生活を送ることがきわめて難しい。彼女は診療日を交流会の日の合わせてもらって参加している。

 2人目は移植後5年も経っているのに、口内炎で口腔が腫れ味覚も正常に機能していない。プレドニン10mgを毎日服用しているが、ムーンフェースや体重増加などの副作用が出ている。また以前から服用しているバクタやフルゴナゾール、骨そしょう症の薬ボナロンなどを飲み続けている。プレドニンを減らしたこともあるが、そうすると口があけられない程症状が悪化したので止める訳にはいかない。

 3人目は移植後5年目の男性。就職して9時から17時までの勤務だが、家に帰って食事をすると疲れが出て寝てしまう。毎日そういった状態なので、夜何かをするということが出来ない。本来なら会社での位置を強化するため資格試験をとろうと思っているが、全く勉強することが出来ない。疲れきって気力が湧いてこない。仕事をして食事をして寝るだけの毎日を繰り返している。休日も体力回復のための休養にあてる外ない。それが虚しい気がする。

抗がん剤治療をした人は5歳年上の人の体力になる、と交流会の参加者から話が出た。治療期間中が5年だとすると、それに5年をプラスして10歳年とった人の体力になるということだ。彼の体力消耗はそれ以上だと思うが、時間が経つことによって回復するだろうといった期待を持つ以外に方法はないだろう。

 4人目の元患者は後遺症というよりも、新たな病気の治療を行っているといった方が適しているだろう。原疾患の白血病は治ったが、その治療の過程であまりにも多くの後遺症を抱えてしまった。心臓の弁の問題がある。しかし弁の交換を行う手術をするまでには至っていない。心臓に負担をかけないように食事制限をして太らないようにしている。また心臓に血液を送り込むため足踏み運動を行なっている。心臓病の原因は治療中に使った亜ヒ酸(砒素)の影響だろうということだ。間質性肺炎を発症しているが拡大していないのでそのままになっている。

また毎晩のように手足がつる。1ケ所だけでなく次々とつり絶叫する程の痛みだ。家族もどうしようもないので無視している感じだ。つるのはこむら返りというふくらはぎ(腓腹筋)だけではなく大腿部や足の指、手の平や甲、指にまで至る。スポーツドリンクが効果的だということで、筋弛緩剤と一緒に枕元に置いてある。筋弛緩剤はそれなりに効いて、肩こりにも効果的だが、腰に負担がかかるのが問題だ。。

 私を含めて4人が手足の筋肉がつるといった症状に悩まされているが、はっきりした原因はわからず、的確な治療法はない。ある患者が漢方薬の芍薬甘草湯が効果的だったと言っていたそうだ。また「ミオナール」という筋弛緩剤を朝晩服用していた時には筋肉がつるということはなかったという人もいた。こういった情報が交換できることは交流会の大きな意義である。

手が痺れると硬直してしまう。皿とか茶碗とかを持っいると時に、それが起こると落としてしまい何度か割ってしまったことがあると一人が言った。包丁を持っていて足の上に落としそうになった人の話が出た。ベルケイドやサリドマイドの末梢神経障害がひどくなり、それが影響して足がつるということが起こるのかどうかわからないが、日常生活に大きな影響を与えるし、痛みで寝られないという人もいた。足がつることによて生ずる激しい痛みの対しての何らかの対応は必要だろう。

 原疾患は治療後5年以上経っているので治癒と見なされるが、治ったと思われている患者の抱えている後遺症は深刻なものである。慢性骨髄性白血病や多発性骨髄腫などの不治の病を抱えて治療中の現役患者も大変だが、後遺症を抱えている患者もまた様々な苦労を背負いながら日常生活を送っていかなければならない。

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鳴子温泉・鳴子峡 2日目

11月8日(火)
姥の湯旅館

宿泊した姥の湯旅館は開湯400年という歴史のある宿だという。その敷地内に4本の泉質が異なる源泉を有する宿だ。どれも加水せず加温もせず、出るお湯の量だけで調整している。一つの宿で4種類の温泉に入るという贅沢を味わうことが出来た。浴室は昔のままの状態を残している。そういった意味で木と石で作られた秘湯の古い温泉の浴室を感じさせる。いわゆる温泉宿特有の大浴場とそれに続く露天風呂という形ではなく、それぞれが4畳半ほどの広さの独立したものになっている。

「湯船に身体を沈めると、ほとんどが〈湯の花〉とも言える白い源泉がど~~っと溢れ出す。よく使い込まれた木目の洗い場に白い紋様がサーっと出来上がる。」と表現していた人がいたが、浴室の広さからいって何人もで入ることは出来ないが、ほとんど泊り客がいなかったせいか、どの浴室に行っても誰もおらず、一人でゆっくり温泉の種類を味わうことが出来た。

料理はその種類、品数からいって若干物足りなさを感じたが、安い宿泊料金なので止むを得ないとも思うが、料理の説明には次のように書いてあった。「鳴子でも数少なくなってしまった本格的な湯治宿である。元々、観光客をメインにしていない宿なので、食事は女将さんと主婦たちの手作り田舎料理で、素朴そのものであくまでも体に優しい季節の野菜が中心となる。」そう思って食べれば料理の味わい方も違ってくるというものだ。

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 旅館内浴室の前にある姥の湯の碑           旅館敷地内にある温泉神社  

姥の湯旅館の4つの温泉
こけしの湯: 硫黄泉のなかでPH(ペーハー値)7.1の弱アルカリ泉。赤ちゃんの肌にも刺激が無い。
亀若の湯: 単純泉、肌触りがやわらか。源泉の温度がなかでは一番低く入りやすいこと「一番湯冷めがしにくい」
義経風呂: 泉質は含土類ぼう硝泉(旧泉質名)と分類される無色透明なお湯。
啼子の湯(露天風呂): この温泉は、「含ぼう硝重曹泉」またの名を「美肌の湯」といって、肌触りがつるつるになるお湯である。

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 啼子の湯(露天風呂・重曹泉)              こけしの湯(硫黄泉)           

鳴子温泉街
今日は鳴子峡大深沢遊歩道に行こうと思っている。10時15分のバスを利用するつもりだが、30分位前に宿を出て鳴子温泉街を散策し回ることにした。街のメインストリートは、こけし通りといってこけしを売っている土産物屋が軒を並べている。また漆器も名産らしく漆器店もある。鳴子の下駄で町を散策ししようと、鳴子の下駄も名物にしようとキャンペーンをはっている。駅前広場から街への坂道の途中にこけしが並んでいる。こけしの街らしい心遣いだ。

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 こけし通り                 駅前広場から街へ出る道にあるこけし

ゆめぐり広場・手湯           
駅前広場の坂を登り街の中心部の交差点を渡ると、その先に回廊となった建物が「ゆめぐり広場」と名づけられた公園の中に立っている。ここは手湯と展示スペースを兼ねた施設である。ベンチに腰掛けながら、手で温泉のぬくもりを楽しめる。ひじまでひたせば、いつの間にか体はポカポカになる。


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 ゆめぐり回廊                        手湯

下地獄源泉・足湯
ゆめぐり広場を進んで共同浴場の早稲田桟敷湯の方面に歩いていくと下地獄源泉足湯がある。鳴子総合支所裏の湯めぐり駐車場奥の一段高い所にあり、山側から長い木樋で下地獄源泉を引いている珍しい足湯である。上の源泉から下の浴舎まで、木の樋を温泉が流れてゆく。湧き出る源泉は長い木樋を通って、自然の冷気で冷ましながら温度を下げる。この足湯では下地獄源泉からの吹上を眺めながら入ることになる。長い樋で引かれてくるのが面白い。

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 下地獄源泉                         足湯                                       
バスは中山平口前に10時28分に着く。帰りのバスの発車時刻は12時40分だ。今日回る鳴子峡大深沢遊歩道の所要時間は50分とある。ゆっくり回っても十分間に合う。

大深沢遊歩道
鳴子峡大深沢遊歩道は2008年10月1日開通した。東日本大震災の影響で鳴子峡遊歩道が一部崩壊し閉鎖になった。このこともあって、今年大深沢遊歩道の改修整備が行なわれた。道の両脇にはモミジ・カエデといった落葉広葉樹が生茂り、遊歩道のほぼ中間には大深沢が流れている。「途中、東屋やベンチも数箇所設置されているので、休みを取りながら、ゆっくりと歩きたい方におすすめのコース」だとある。紅葉もこの大深沢遊歩道の方が鳴子峡レストハウス周辺より遅くまさに見頃になっている。

秋晴れの上天気で、寒くもなく暑くもなくさわやかな大気の中、色とりどりの紅葉につつまれた山道を散策するのは何とも爽快なものだ。周りの風景を十分味わいながら、ゆっくりと歩みを進める。鳴子峡レストハウス周辺には何台かの観光バスも停まっていて結構人出があったが、大深沢遊歩道まで来る人は少ない。途中めったに人には会わない。

50分位で行ける距離を1時間以上かけて歩いた。遊歩道は国道47号線に出たところで終了する。その出口の所に作られたばかりの新展望台が、国道から2,3分下った所にある。鳴子峡遊歩道が通れないので色々見場所を作って観光客に楽しんでもらおうとしているのだろう。

鳴子温泉057_convert_20111110085236 大深沢遊歩道散策路から

鳴子温泉065_convert_20111110085302 遊歩道周辺の紅葉

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鳴子温泉074_convert_20111110085433 鳴子温泉075_convert_20111110092901
 国道47号線の新展望台に向う階段と展望台から見た鳴子峡・大谷川

中山平口12時40分発のバスに乗り、12時53分に鳴子温泉駅前に着いた。バスの到着時刻は陸羽東線の時間に合わせてあり、JRの上り電車古川方面行きは13時3分に発車する。バスから降りそのまま列車に乗り込む。古川駅でも15分位の待ち合わせで、新幹線やまびこに接続している。14時06分のやまびこに乗れば17時前には池袋に着ける。列車は1時間に1本位の割合でしか運行しないが、接続がうまくいっているのでそれ程待つこともなくスムーズに乗換えが出来る。

(参考資料:鳴子温泉郷観光協会公式サイト、姥の湯旅館HP)

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鳴子温泉・鳴子峡 1日目

11月7日(月)
紅葉と温泉
9日には血液内科の診療が行なわれる。この日にIgMが増えていたとしても、すぐに入院になるとは思えないが、いつ入院するか分からない状態なので、やりたいことはやっておきたい。恐らく入院期間中は東京周辺での紅葉は見頃を迎えるだろう。今のうちに紅葉を思う存分味わっておきたいと思った。Yahooの紅葉情報を見ていたら北海道・東北での紅葉スポット人気ランキングの上位3位は中尊寺、鳴子峡、奥入瀬渓谷だった。

鳴子峡には行ったことがない。思いついたら即動くほかない。鳴子峡の紅葉は見頃とあったがライブ映像で見ると落葉が始まっている。早速出かけることにした。前日に宿を当たることになったが、1人であり急だという事もあって中々空き部屋がなく、旅館組合に頼んで安い所を探してもらった。宮城県や岩手県の旅館に関しては復興支援ということで、宿泊費が安くなるという制度がある事を聞いた。姥の湯旅館が8000円で泊まれるという。湯治場でもあり自炊客も受け入れている。

東北新幹線で古川に停まる「やまびこ」は本数が少ない。郡山を過ぎるあたりから左右の林や山の木々に紅葉が見られるようになる。新幹線で古川まで行って陸羽東線に乗り換える。陸羽東線は1時間に1本のローカル線だ。旅行の楽しみの多くは列車に乗ることの中にある。日常的な生活空間を離れて異質の場所に移動していくその非日常性が何よりも魅力なのだ。今まで見たこともない車窓の風景がそれをいっそう実感させてくれる。

ローカル列車の旅
乗車する列車は東北本線の小牛田駅と奥羽本線の新庄駅を結ぶ陸羽東線。「奥の細道湯けむりライン」という路線愛称のとおり、車両の正面に描かれた奥の細道の文字。古川駅から乗車する。ずっと稲刈りが終わった田んぼの風景が続く。しばらく走ると岩出山駅。岩出山は、伊達政宗が仙台に移るまで居城を構えた伊達氏ゆかりの地。池月駅あたりから徐々に山が迫り、杉林を抜けて勾配区間を上っていくと川渡温泉駅。荒雄川を渡って鳴子御殿湯駅。さらに山裾に沿って進んで温泉街が見えてくれば、鳴子温泉駅だ。

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 陸羽東線の車両、先頭に「奥の細道」と記されている

鳴子温泉

鳴子温泉郷は1000年を超える歴史を持っている。温泉の発見は承和4(837)年。鳥谷ヶ森(鳴子火山)が大爆発し、熱湯が噴出したといわれ、一説には、そのときの轟音から村人が「鳴郷の湯」と名づけたとも伝えられている。源義経が兄・頼朝に追われて平泉へ落ちのびる途中に鳴子を訪れたことや、松尾芭蕉が「おくのほそ道」で鳴子から尿前を通る出羽街道中山越えを選んだことも知られており、義経や芭蕉にちなんだ名所旧跡や古道なども数多く残されている。

鳴子温泉駅前に「ぽっぽの足湯」がある。誰でも好きなときに入れる。これから寒くなるので足湯で暖まれる場所があるということが益々貴重となるだろう。列車は11時55分に鳴子温泉駅に着いた。それに合わせる様に、鳴子峡経由、中山平温泉駅行きのバスが12時10分に出る。それに乗って鳴子峡を目指す。

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 鳴子駅                            ぽっぽの足湯

鳴子峡
10月中旬から11月上旬にかけて、大谷川が刻んだ深さ100メートルに及ぶ大峡谷が紅葉におおわれる。川沿いに約2.5kmを1時間で歩く散策道からの眺めは絶景だ。北上川水系の荒雄川(江合川)の支流、大谷川が形成したもので、白色凝灰岩が露出する。一帯には奇岩が卓越し、虫喰岩、夫婦岩、弁慶岩、屏風岩などの岩が見られる。また一面に落葉広葉樹林が繁茂し、アカシデ、ミズナラ、カエデなどが見られる。

u_convert_20111112054339.jpg 青い道:国道47号線
 赤と黒の道:鳴子峡遊歩道(全面通行止め)
 紫の道:大深沢遊歩道、
 青い道の下:中山平遊歩道は鳴子峡レストハウ
 スから駐車場の下を通って中山平温泉駅に向う
 線路沿いの道








鳴子峡散策コースは3通りある。鳴子峡遊歩道(落石のため閉鎖)、大深沢遊歩道(鳴子峡レストハウスを基点として一周約2.2km、徒歩およそ50分)、中山平遊歩道(片道約450m、徒歩10分)。肝心の鳴子渓谷の渓流沿いを巡る遊歩道は落石のため通行止めになっていた。渓谷の岩肌の紅葉や虫喰岩、夫婦岩、弁慶岩、屏風岩などの奇岩が鳴子峡の中心的な見所であるのに、それが見られないということはかなり大きなマイナス要因であるが、他のコースを回る他ない。後の2コースは川沿いの山の中腹から対岸の山の紅葉を見るコースとなっている。

鳴子温泉088_convert_20111109205504 鳴子峡大深沢橋方面

鳴子温泉130_convert_20111109205707 鳴子峡大深沢橋方面 

鳴子温泉105ed_convert_20111110084733  鳴子峡レストハウス

鳴子温泉118_convert_20111110084757 陸羽東線鳴子トンネル

鳴子温泉157ed_convert_20111109205838 白色凝灰岩の岩肌 

鳴子峡レストハウスが鳴子峡のセンター的な位置にある。ここから見た大深沢橋を中心にした写真が鳴子峡の宣伝写真として色々な紹介記事に掲載されている。見晴台も幾つか作られ、この周辺だけで鳴子峡を満喫した気分になれる所だ。レストハウス周辺を散策し中山平遊歩道に行ってみることにした。ここにも3ヶ所展望デッキと1ヶ所の見晴台があり、絶景ポイントとなっている。対岸の紅葉が色鮮やかに眼に飛び込んでくる。この遊歩道はごく最近作られたものだろうと思うが歩きやすくかなり綺麗に整備されている。

中山平遊歩道
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鳴子峡中山平口前から鳴子温泉行きのバスは、13時35分か15時35分になってしまう。2時間の違いだ、どちらを選ぶか。大深沢遊歩道に行くという選択もあるが、今日の鳴子峡散策は終わりにして、こけし館に行ってみることにした。鳴子とこけしは切っても切れない深い関係にある。鳴子に来たからにはこけしについて少しは造詣を深めていかなければならないだろう。

東北地方の様々な種類のこけしが展示されている。こけしといっても地域によって形が違う。鳴子系、南部系、作並系、山形系、蔵王系などがあり、それぞれ独特の形をしている。またこけしの文様や顔は工人によって異なる。それぞれ手作業なので同じ顔や文様はない。また深沢要コレクションも館内の一画に設けられている。こけし作りの実演をやっていた。鳴子のこけしについてのDVDの上映も行なわれていた。色々な視点でこけしを理解させようという試みがなされている。

こけし館
こけしのもっとも古い生産地、鳴子。この地に日本こけし館が誕生したのは、昭和28年に詩人で童話作家の深沢要さんのコレクションが鳴子町(現在の大崎市)に寄贈されたことと、昭和32年から毎年、全国の工人たちからこけし祭りへの奉納こけしが贈り続けられた事が、大きなきっかけとなった。完成までに7年の歳月を費やし、昭和50年に開館。こけしをこよなく愛する人々の思いと夢が結実した。

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 こけし館入口                        こけしの展示風景

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こけし館のある鳴子公園から鳴子温泉を見る       鳴子峡遊歩道入口

こけし館を満遍なく見終わってもまだバスの時間まで1時間あった。こけし館の係員に尿前の関所跡までの道を聞いた。歩いて15分位だというので出かけた。大谷橋の手前の道を左に鋭角に曲がると鬱蒼とした森に囲まれる。5分位坂を下ると尿前の関所跡に付く。関所跡の一画に芭蕉の像と奥の細道を記した石碑が建っている。関所跡の反対側の山の斜面に芭蕉の句碑がある。句碑は旧街道(出羽街道中山越)の面影をとどめた林の中をたどる山道の入口にある。

尿前の関所跡
出羽街道の関所跡。「尿前」の名は、義経の息子・亀若丸が初めておしっこをしたことに由来するとの説がある。芭蕉一行がここを訪れたとき、役人の取り調べが厳しく、難儀させられた様子が『おくのほそ道』に記されている。
現在は、奥の細道復元図と芭蕉の像が建つほか、自然石に刻まれた「蚤虱馬の尿する枕もと」の句碑が建っている。建立されたのは芭蕉がここを通ってから80年後だった。

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 芭蕉像と芭蕉の句碑

尿前の関の最寄のバス停は鳴子峡鳴子口で、今は閉鎖されているが鳴子峡遊歩道の入口に当たる。ここから鳴子温泉まで2kmと書いてあった。バスが来るまで40分、歩いても30分、バスを待たず歩いて戻ることにした。途中岩下こけし資料館やこけしの菅原屋などこけしの工房があり、実演販売を行なっていた。

鳴子温泉まで30分以上歩き、宿泊場所の姥の湯旅館と駅方面の分かれ道に来た。16時前だったので、温泉神社に行ってみる事にした。ホテルの駐車場に隣接しているので、ひっそりとした雰囲気ではないが、拝殿はかなり古く歴史を感じさせる。この神社の境内に童話作家深沢要のこけし歌碑と啼子之碑がある。温泉神社への訪問を最後にして、今夜の宿泊場所である姥の湯旅館に向った。

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 温泉神社拝殿                       こけし歌碑

延喜式内社温泉神社
温泉神社の創建は古く、続日本後紀に次のように記されている。「仁明天皇の御代、承和四年(八三七)四月、鳥谷ヶ森にわかに鳴動すること数日、遂に爆発し熱湯を噴出、河となつて流れた。里人はこの湯を鳴声(なきご)の湯と称した。これが現町名鳴子(なるご)の起りである(宮城県郷土史)。また朝廷では、延喜五年(九〇五)全国の神社を調査した。その時、延喜式神明帖に登載された神社を延喜式内社と言うが、当神社は、その延喜式内社で由緒の深い神社である。毎年9月の第1土・日曜に獅子舞や神輿、稚児行列が街を練り歩いたあと、奉納される祭典が開催されることでも有名。

深沢要、こけし歌碑
 みちのくは遥かなれども          
    夢にまでこころの山々
          こころのこけし

啼子之碑

鳴子温泉神社の鳥居の脇に建つ「啼子之碑」には、こんな言い伝えが残っている。源義経が兄頼朝に追われてこの奥州平泉に逃れてきた時のこと。亀割峠にさしかかったところで北の方(正室)が亀若丸を出産した。ところが亀若丸はなかなか産声を上げず、この地で川原湯温泉に浸かったときにようやく声を上げた。以来この土地を「啼子(なきこ)」と呼ぶようになり、現在の「鳴子」になったという説がある。

(参考資料:鳴子温泉郷観光協会公式サイト)

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血液内科の診療

11月9日(水)
検査結果
IgM   6376(11/9)←5870(11/2)←5934(10/26)←5466(10/19)
白血球 1700←1600←2000←3000
好中球 460←420←530←1750
ヘモグロビン 9.4←9.3←7.8←8.4
血小板 5.6←5.3←3.4←2.4


採血が終わり1時間ばかり待って血液内科の診療に呼ばれた。その時にはまだIgMの結果が出ていなかった。IgGの数値は比較的早いが、IgMの結果が出るのには1時間半位かかる。結局IgMの数値が分からないので、次のどうするかの方針も決まらず、2,3分で診療を終えた。

IgMの数値は後で電話で聞くという事にした。当然500位の上昇はあるだろうが、突然7000を超えることもないだろうから電話で済ませることにした。別に急いでいたわけではないが、医者との話の中で白血球やヘモグロビンの状態について説明されたが、ついうっかり採血の結果を書いてある「検査結果詳細情報」の用紙をコピーしてもらうのを忘れてしまった。IgMの数値を電話で聞いた際、血球の数値も確認のため報告してもらった。

IgMは毎週測っているが、この間の動きとしては500上がって、100下がり、500上がって100下がり、今回500上がっている。こういった動きの原因は分からないが、薬が全く効いていないというわけではない事は確かであるが、薬の効き目よりもがん細胞の増殖の方が強力だということだ。しかしこのままいくと、ベンダムスチンの治療へと移行する7000になるにはあと2週間位という事になる。

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映画 『食堂かたつむり』

11月6日(日)
immm.jpg 食べることは人間の本源的欲求である。美味しいもの食べたい。料理人が考え、工夫し丁寧に調理された料理を味わう楽しみは生きていく意味を限りなく豊かにする。また自分で創意工夫して手によりをかけて料理したものを自分で楽しみ、人にも味わってもらって感動させることが出来れば作ったことの意義はさらに増すことになる。

料理を作ること、食べることは生きている事を実感させてくれる極めて貴重なものである。料理を作りそれを食べてもらうという行為が心からのものであればあるほど、その真摯な行為は作り手と食べる人との間の心のコミュニュケーションを作り出していく。

がん患者にとって、食事とは病状と切り離せない関係にある。特に抗がん剤の副作用で、長い間吐気に悩まされ続けまともに食事が取れなかったり、口内炎になったり、味覚がなかなか正常に戻らなかったり、食べることに関する様々な障害に直面する。また免疫力が衰えているので生もの食べることが禁止または制限されたりする。

そういった経験を何度も繰り返しているからこそ、食事のことについては、一般の人よりもより一層興味もあるし感心もある。食べることの意義について痛感ぜざるを得ない。おまけに玄米菜食を信奉する人が周辺にいてそういった食事を推奨するなどということもありうるとなるとますます食事の問題は重要である。毎日何を食べるかという極めて日常的な営みは、どのように生きていこうかということと切り離せない関係にある。

『食堂かたつむり』という映画を見た。主人公倫子(柴咲コウ)がアルバイト先の料理店から戻ると恋人の姿はどこにもなく、部屋は空っぽだった。失恋のショックで声を失った倫子は、母・ルリコ(余貴美子)が暮らす田舎へ戻り、小さな食堂を開いた。お客様は一日一組だけ。メニューはなく、お客様との事前のやりとりからイメージを膨らませて料理を作る。

この映画は、料理を作るという行為とはどういった意味持つのだろうかということを明らかにしている。倫子の料理は、客たちに不思議な変化をもたらしていった。倫子が料理で人々の心を癒していく。倫子の料理は、数十年間、喪服を脱がなかった未亡人さえも幸せにする特別な力があった。訪れるお客様の想いを大切にして作る料理は、食べた人の人生に小さな奇跡を起こしていく。「食堂かたつむり」で食事をすると願いが叶うという噂が広まっていった。

「人々に幸せをもたらす不思議な食堂をファンタジックなタッチで描いたヒューマン・ドラマ。じんわりと心にしみる人生賛歌。食堂を開いて人々を料理で癒やしていく様を描く。」といった映画評があった。

料理関係の映画を見ていると、調理の過程に引き込まれる。どのような材料をつかっているのか、どのようなレシピなのか、味付けはどうだなど興味は尽きない。きれいに盛り付けられた完成品だけでなく、料理人が包丁を振るって料理を作る行程が最も見応えがある場面だ。そういった調理場面を見ていると、普段、料理をしない人までも厨房に立って料理をしたいと思わせてしまうものだ。柴咲コウは自分でも料理が好きでご飯は土鍋でを炊くという凝り方だ。彼女の包丁裁きを見ているのも楽しい。

毎日の夕食作りは私の役割だ。毎日メニューを考え調理するが、ともすればマンネリ化してくる。時間に追われているわけではないが、毎日必ずしも心のこもった料理をしている訳ではない。丁寧に心をこめて料理するということは、自分自身の生き方につながってくるのではないかと思う。

人生で極めて重要な、食べるという事をなおざりにしがちになった時に、その人の生きることへの積極性が減退してきているのではないか。心をこめて料理を作るという行為や、食事を味わって美味しく食べるという行為は人生をもっと丁寧に生きていこうとすること、一時一時を大切にしようとすることにつながるのではないだろうか。

『食堂かたつむり』は、美味しい料理を食べる事を通して作られる人間関係、料理を通した人と人との触れ合いを描きながら、食べるという行為が食欲を満たすだけのものではない、人の心を癒してくれる力を持つものだという事を明らかにしようとしているのだろう。

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テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

プラド美術館所蔵・ゴヤ・光と影

11月2日(水)
 今日は輸血もなく、C-CSFの皮下注射をするだけだったので血液内科の診療では珍しく午前中で終った。天気もいいしすぐ家に帰る気もしない。上野公園の国立西洋美術館で「プラド美術館所蔵 ゴヤ展」が開催されている。「雅宴から動乱へ―画家ゴヤが見つめた光と影」というキーワードのもとで、さまざまな切り口からゴヤの画業の断面を示し、その核心に近づいてゆくことが展示会のテーマである。秋の深まり行く上野公園を散策し、ゴヤ展を見に行くことにした。

ゴヤ

展示作品の大部分が素描やデッサン版画などであり、かなり小さく描写が細かいので近くに寄らないと何が描いてあるかわからない。最近行ったゴッホ展や空海展ではあまりにも会場に人が満ち溢れゆっくりと作品を見ることも出来ない程だった。今回はどうだろう。会場が混んでいたら作品に近づくだけでも大変だ。会場はそれ程混んでいなかった。じっくりと50cm位に顔を近づけて鑑賞することが出来たのでゴヤの作品を堪能出来たという感じだ。

華やかな油彩は遠くからでも見えるので問題はない。「着衣のマヤ」の周りは人が群がって近づくのが難しいのではないかと思っていたが、それ程でもなく十分鑑賞できた。フェルメール展では作品を見るのに列を作って順番に作品の前を通り過ぎるという見方しか出来なかった。

「着衣のマハ」のマハとは特定の人物を示す固有の氏名ではなくスペイン語で<小粋な女>を意味する単語だということだ。マハは当時スペイン国内の貴婦人が愛用し流行していた異国情緒に溢れたトルコ風の衣服に身を包んでいる。色彩においても黒色、金色、緑色、紅色、茶色、白色などを用いた独特の配色によってトルコ風の衣服の雰囲気や質感を表現している。

 ゴヤ展の紹介: 鋭い洞察力と批判精神に基づき、人間と社会を鋭く見つめた作品を描き、近代絵画の先駆者とも呼ばれるスペインの巨匠フランシスコ・デ・ゴヤの本格的な作品展が開催された。プラド美術館から出品される油彩、素描、版画など72点に、日本国内の版画51点を加えた計123点で構成される。その作品はヨーロッパ社会の一大変革期の証言である。

40年ぶりに日本で公開される「着衣のマハ」や初期の名作「日傘」など、美術史に残る著名な絵画が展示されている。激動の時代をたくましく生き抜いたゴヤの独創的な芸術世界が紹介されている。

 フランシスコ・デ・ゴヤ(1746-1828): ゴヤは地方の職人の息子から国王カルロス4世の首席宮廷画家へと登りつめ、王侯貴族や廷臣たちの優雅な肖像画によって名声を得た。しかし、ナポレオンの侵略によりスペインの平和が覆されると、老年期のゴヤは、戦争と混乱に見舞われた民衆の悲惨な現実を見つめる。

スペイン社会の悲惨な現実や、心の奥にひそむ不条理な幻想世界への関心は、彼の後半生の芸術に大きな展開をもたらす。さらに、彼のまなざしは現実を超えた夢や幻想の世界へも向けられ、近代絵画の先駆とも言われるユニークな作品群を生み出した。社会と人間の諸相を光と影の交錯のもとに捉え、人間への飽くなき好奇心に支えられたゴヤの創造活動は、82年の生涯の最後まで衰えることはなかった。(ゴヤ展HP)

 ゴヤの生きた時代の変遷は、宮廷画家としての彼の絵に決定的な影響を及ぼす。フランス革命の余波がスペインにも及び、激動の時代に入る。1792年、病気のため聴覚を失う。自由主義者との交際も深まり、批判精神が鋭くなり、洞察力を深めていった。

ゴヤはフランス革命を支持していたが、スペイン人民の独立戦争を支持するという矛盾した立場に立たされていた。1820年、自由主義革命を支持。しかし1823年には再びフランス軍の介入で圧殺される。こういったスペイン独立戦争の中で描かれた「戦争の惨禍」の一連の素描の中で、戦争や権力に苦しめられる人々の姿も描いていった。その中の代表作が「プリンシペ・ピオの丘での銃殺」であるが今回は来ていない。

展示会には版画集「ロス・カプリーチョス(気まぐれ)」の作品が多く展示されているが、その中では人間風刺、社会批判を展開しながら、人間とは何かという普遍的なテーマを描き出している。

 スペイン独立戦争という時代背景の中で、画家は戦争の悲惨さを描きながら、スペイン社会の悲惨な現実を深く抉り出していった。同時に心の奥にひそむ不条理な幻想世界への傾斜していく。展示会の最終コーナーの「ボルドー素描帖G・人間の迷妄と動物の夢」や「ボルドー素描帖H・人間たるものの諸相」の中にゴヤの、その時代に生きる人々へのメッセージが読み取れる。風刺という手法を用いながら人間の弱さや傲慢さなどその本質的内面性を描いているのである。

「ロココの時代」から近代的な「市民社会主義の誕生」という時代の転換期を生き、「美の革命家にして現代の預言者」と言われるゴヤの作品の中で、「日傘」に見られるような初期のタピストリー用原画に見られる大きく派手な色遣いの油彩画や、人物の内面を暴き出すかのような肖像画は、それぞれ独自の魅力を持っている。

しかし一方展示されている多くの素描やデッサンの類における表現の中にまさに「光と影」の意味がはっきりと伝わってくる。ゴヤの描き出す陰影はまさに近代絵画への扉を大きく開いたといえるだろう。

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血液内科の診療

11月2日(水)
検査結果
IgM   5870(11/2)←5934(10/26)←5466(10/19)←5518(10/12)
IgG   317←274←365←340
白血球 1600←2000←3000←1200
好中球 420←530←1750←380
赤血球 291←230←259←261
ヘモグロビン 9.3←7.8←8.4←8.4
血小板 5.3←3.4←2.4←3.0


IgMが少しではあるが下降した。人間の体のメカニズムというのは不思議なものだ。薬を変えた訳でもなく、何か体に変化を及ぼすようなことをしたわけでもないので、今までのように500位の上昇を考えていた。この間IgMは大幅に上昇し、少し下降するといった事を繰り返している。

白血球が1600、好中球が420だった。好中球は危険領域を下回った。これに対する対応はG-CSFの注射しかない。後は感染への細心の注意が必要だということだ。しかし注意しようがないこともある。じっと家に閉じこもっていれば感染の恐れはかなり少ないだろうが、そうもいってられない。色々行きたい所もあるし、家事をやっている関係で買い物にも行かなければならない。日常生活を犠牲にして、萎縮した生活をしようとは思わない。後は運の問題だ。

先週ヘモグロビンが7.8だったので輸血したが、今回の検査では9.3まで上昇した。血小板も増えた。この程度の数値であればばどうにかなるだろう。

いつからベンダムスチンによる治療に移行するのか。IgMが7000を越えたら、決断しなければならない。長い抗がん剤治療の結果、かなり血球の産生の能力が低下している。ベンダムスチンによる骨髄抑制の回復がどの程度かかるかによって入院期間が決まってくる。どちらにしても2,3週間後には入院せざるを得ないだろう。

担当医が突然言い出した。「ベンダムスチンの治療をやっていた患者が強い骨髄抑制の結果、感染症にかかり死んだ例がある。そういった危険性も覚悟しておいてもらいたい。後で聞いていないなどと言われると困るので言っておきたい」ということだ。

DCEP療法の第1回目の時には白血球が70までになり、第1回移植の時には40にまで落ちた。このように白血球がほとんどなくなってしまうような経験をしているので、ベンダムスチンによる白血球への影響に対してはそれ程の心配はしていない。ただ回復に時間がかかるだろうとは思う。入院中の感染症対策は病院に任せる外ない。

また担当医はこの病気の治療経過の中で色々な選択肢があるという事を説明しておかなければならないという。緩和ケアについても選択肢の一つであると考えることが出来る。つまり一切の治療を止めて、緩和ケアを行ないながら死期を待つというということだ。末期がんの患者が苦しい抗がん剤治療による延命措置を止めて、疼痛緩和を中心とした緩和ケアに切り替えていくということは結構あることだ。私の場合もそういった選択もありうるという事を意識の中に止め置いてほしい。こういった説明を担当医としては患者にしておかなければならない義務があるということらしい。

緩和ケアへの移行に関しては担当医にはっきりと宣言した。「生き続けるための最大限の努力を惜しむつもりはない」と。ただ国内未承認の高額な薬を輸入してまで治療を行うことには抵抗があるが、使用できる薬がある限り治療は可能な限り続けたい。ただし体力が落ち、寝たきりになったりした場合はやはり緩和ケアへの選択もありうるとは考えている。ターミナルケアやホスピスの問題は不治の病を抱え治療継続中のがん患者にとっては避けては通れない問題であるのは確かだ。

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浅草菊花展

10月31日(月)
眼科の診療日だった。水曜日の血液内科の診療日と一緒にすればいいのだが医者の都合などもありなかなかうまくいかない。病院通いがいい運動だと思ってせっせと通う外ない。早く終れば帰りに何処かに出かけることもできる。家にいて何処かに行くには一定の決意が必要だが、病院帰りだとふらっと本屋に行ったり、買い物に行ったりと気楽に何処にでも寄れる。

眼科での診療はまず眼圧を測る。右16、左11無難な数値だ。超音波で左眼の眼底検査をした。サイトメガロウイルスによる房水出口周辺の炎症はかなり収まってきているということだ。右眼は何の問題もない。しかし左眼にサイトメガロウイルスがいるので2週間ごとの定期検査を続けていく外ない。

眼科の検査だけなので、病院での滞在時間は1時間もかからなかった。朝は雲っていていつ雨が降るか分からないような空模様だったが、病院を出る頃には秋晴れの青空が広がり、すがすがしい空気に包まれている。

昼前であったがそれ程遠くまでいく気分でない。菊花展がそろそろ色々な所で開催される。日比谷公園では大正の初めに第一回大会を行なった東日本最大規模を誇る『東京都観光菊花大会』があり、新宿御苑で開催される『菊花壇展』は明治11年に赤坂の仮皇居で開催された『菊花拝観』から始まっている。この2ケ所は明日の11月1日から開催される。大展示会場で菊の丹精の良し悪しを見るよりは、寺院などの一画でやっている菊花展の方が情緒があるだろう。

浅草菊花展
昭和27年、浅草寺の菊供養に観音本尊の宝前に菊を捧げ、参道に花を供える事により、浅草菊花会を発足。11月の中旬まで1カ月間開催される浅草恒例行事の一つとして境内に見事な菊花を陳列する。浅草を訪れる観光客に観賞してもらい、参拝の多くの人々にも喜ばれ、関東有数の菊まつりとなった。浅草寺境内の特設会場には、地元小学生が育てた鉢のほか、盆養、大作、懸崖、盆栽等約1000点が展示される。(花の名所案内)

『浅草菊花展』は10月15日からやっている。浅草寺境内を散策しながら下町情緒を味わいながら菊を楽しむのもいい。上野まで行き浅草へは銀座線で行くのが普通だが、上野の東京文化会館の前から浅草行きのバスがあることを思い出した。

天気もいいし、上野・浅草界隈を巡るバスに乗ってみたかった。小粋でレトロな風貌のコミュニティバスは「めぐりん」と名づけられている。昭和を彷彿とさせるバスが東西南北を巡っている。住民に限らず観光客の移動手段としても注目され、そのハイカラな姿かたちは街の活気付けに一役買っているということだ。

上野公園で待っているとバスが来た。機関車の形をしている。座席は16席の小型バスだ。上野公園から国立科学博物館の横を通り、両大師橋で線路を渡り台東区役所に行く。次に上野学園を通り、合羽橋、つくばエクスプレス浅草駅、雷門と進む。バスが雷門通りに着くと乗客の大部分は降りた。バスは裏道を通ったり、かなり回り道をするがどちらかというと、買い物のスポットや観光名所を回っている感じだ。

定番の雷門をくぐり境内に向う。平日の昼過ぎだったが、浅草寺に関しては観光客にとって平日も何も関係ない。雷門周辺は人であふれている。人力車の呼び込みが盛んだ。仲見世通りは人混みで押すな押すなの大盛況。かなりの割合でアジア系外国人の観光客だ。

仲見世通りを進んで行くと、雷おこしや人形焼きを中心に着物やカツラ屋までかなりの数の店が軒を並べているが、何処で何を買うか、食べたらいいかなど事前に目的を決め、調べておけば色々な店の特徴もつかめて面白いだろうが、そうでなければただ仲見世通りは通過するだけになってしまう。

浅草寺001_convert_20111101173116 雷門

浅草寺004ed_convert_20111101173145 仲見世通り 

浅草寺011_convert_20111101173215 宝蔵門 

浅草寺018_convert_20111101173244 本堂

浅草寺
飛鳥時代、推古天皇36年(628)に建てられた寺で都内最古の寺といわれている。本尊は聖観音菩薩。元は天台宗に属していたが第二次世界大戦後独立し、聖観音宗の総本山となった。観音菩薩を本尊とすることから「浅草観音」あるいは「浅草の観音様」と通称されている。

江戸時代、天海僧正(上野東叡山寛永寺の開創)の進言もあって、徳川幕府の祈願所と定められ、江戸の信仰と文化の中心として庶民の間に親しまれ、下町の中心として栄えた。また幕府の庇護とその政策により近隣に歓楽、遊興の街が形成されたことなどから多くの人を集め江戸一番の繁華街となった。

仲見世通りの突き当りに宝蔵門がそびえている。宝蔵門を潜ると左に五重塔、右に仁天門、正面に本堂がある。宝蔵門や本堂はその威容を紺碧の空を背景に際立たせている。朱色の建物が空の青さに映え色彩をより一層豪華に感じさせる。

浅草寺013_convert_20111101173309  浅草寺016_convert_20111101173337
 宝蔵門と五重塔                      五重塔

浅草寺019_convert_20111101173406  仁天門_convert_20111101234257
 本堂                             二天門

本堂の周りに菊の展示場がある。規模はそれ程広くはない。豪華な千輪作り、懸崖作り、菊人形やこった盆栽作り、動物をかたどった造形などはほとんど見られなかったが、寺院の朱色の佇まいとの相性がいいのだろうしっとりとした趣を感じさせる。地元小学生が育てた鉢が並んでいたりして地元に根ざしているといった微笑ましい雰囲気を感じさせる。

浅草寺036_convert_20111101174006 本堂横の菊の展示風景

浅草寺038ed_convert_20111101174202 菊の展示風景
 
浅草寺014_convert_20111101173713  浅草寺026_convert_20111101180721
 菊花展入口                         田原小学校提供

浅草寺028_convert_20111101173744  浅草寺030_convert_20111101173917
 一本仕立て                         懸崖作りと虎の造形 

浅草寺の裏の浅草神社に行って見ると、浅草寺境内の雑踏とは対称的に誰もいない静かな場所が出現する。浅草寺の宝蔵門や本堂が巨大で絢爛豪華なので、浅草神社の本殿は小さく感じるが、この浅草神社で三社祭りが行われている。
                       
江戸三大祭りとは神田明神の神田祭、浅草神社の三社祭、日枝神社の山王祭のことだと言われているが、一部には三社祭ではなく富岡八幡宮の深川八幡祭(深川祭)を三大祭に入れる説などもある。江戸の大きな祭りを謳った狂歌「神輿深川(深川祭)、山車神田(神田祭)、だだっぴろいは山王様(山王祭)」の中にも含まれていない。神田祭と山王祭は将軍の台覧があり、天下祭といわれていたので必ずこの二つは入れる。三大祭の残りの一つは諸説があるが、自分の氏神様が一番で自分の所の祭を入れれば、それが三大祭なのだろう。

浅草寺034_convert_20111101174304 浅草神社社殿

浅草神社
浅草寺本堂の東側にあり、浅草寺の本尊を発見した檜前浜成・竹成の兄弟と土師仲知の3人を祭神としたのが浅草神社である。三神を祀ることから三社樣とも呼ばれている。現在の社殿は1649年(慶安2)家光によって再建されたもので、江戸時代初期の建築物が残っている貴重なもの。三社祭は浅草神社の祭礼で5月中旬の土日にかけて3日間行われ、100基あまりの神輿が繰り出し浅草は祭一色となり、神社拝殿では「びんざさら舞」が奉納される。(「浅草の歴史と観光」より)

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 宝蔵門とスカイツリー

帰りは仲見世通りの同じ道を戻るよりも別な道で行こうと思い、伝法院通りを行くことにした。浅草から池袋に出るのに銀座線や都営線浅草線を今までは利用していたが、つくばエクスプレスが出来たのでこれを使って秋葉原まで行ってみようと思った。伝法院通りはつくばエクスプレスの浅草駅に行く道だ。

伝法院通りを歩いていくと右側に伝法院の山門があったが閉まっていた。その前に人力車が3台並んでいて車夫が記念撮影をしていた。結構人力車を利用する人がいる。伝法院山門の隣に水子地蔵尊が祀られていた。

左側には浅草公会堂がある。文化的催しや集会など幅広く活用されている。ホールのほか、会議、研修などに使用できる和洋集会室、絵画・華道展などが開催できる展示ホールがある。毎年1月に新春浅草歌舞伎が行なわれ、浅草芸能大賞、漫才大会などもあり、映画の上映会、舞踊も開催されている

さらに進んで行くと浅草園芸ホールがある。ここはよくお笑い芸人が昔の苦労話を紹介する場としてテレビなどで出てくるが、鈴本演芸場(上野)、新宿末廣亭、池袋演芸場とならぶ、東京の「落語定席」の一つだ。こういった風景を見ながらつくばエクスプレスの駅に着いた。

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がん治療とは長く細い道を辿ら
なければならない。その先に希
望があると信じながら。

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