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新薬の恩恵

12月31日(土)
今まで新薬の開発によって命をつないできたといっても言い過ぎではない。私が原発性マクログロブリン血症の診断を受けたのが、2005年11月であった。移植を考えていたので、昔から使用されているVAD療法から始めた。これを4クール行い、自家抹消血幹細胞移植を行ったが、形質細胞腫瘍を根絶できず2回目の移植を行なった。しかし半年後に再発し、2007年5月からMP療法を行ってきたが、半年で効果が薄れてきた。ここから新薬を使用し始める。最初に使ったのがベルケイドである。これは1年前に承認されたばかりの薬である。

新薬の承認
2006年9月  ベルケイド(ボルテゾミブ)承認、ヤンセンファーマ製造・販売
2008年10月 サレドカプセル(サリドマイド)承認、藤本製薬製造・販売
2010年6月  レブラミド(レナリドマイド)承認、セルジーン製造・販売 
2010年10月 トレアキシン(ベンダムスチン塩酸塩)承認、シンバイオ社製造・エーザイ販売 

2007年9月からベルケイド、2008年4月からサレドカプセル、2010年9月からレブラミド、そして今回2011年12月、トレアキシンを使用した。サリドマイドは最初個人輸入で仕入れ使用していた。ベルケイドやサレドカプセルに関しては様々な併用療法を行ってきた。一度効果を失っても、外の薬との組み合わせで効果を発揮し始めるということは多かった。こういった方法で、2006年11月第2回移植で退院以降、ベルケイドを最初に使う条件としての入院以外、5年間通院治療でQOLを保ちながら生活をしていた。

しかし2011年になって通院医療ではIgMの増加を抑えきれず、DCEP療法を行うために入院せざるをえなかった。そして7月、12月と通院での治療に限界が来ると入院治療を行うというパターンになってしまった。2011年以降は病気の質と治療の方法が変わっていったといえるだろう。

多発性骨髄腫の今までの生存率
治療を始めた頃、まだに日本で新薬が承認されていなかった頃の統計では多発性骨髄腫の生存率はかなり低かった。私の病気の診断は原発性マクログロブリン血症であるが、この病気分類では非ホジキンリンパ腫に属し、治療法も悪性リンパ腫の治療法を用いるが、厳密に言うと私の病気はIgM型骨髄腫で、治療法は全て多発性骨髄腫で使用されているものである。そこで生存率も多発性骨髄腫の統計を参照してみる。

・ 予後は治療効果によって異なります。半数以上の人が生存できる期間は有効例(血液中のタンパク質が半分以下に減ること)で5~7年、無効例で3~4年と言われています。各病期における生存期間の中央値はそれぞれ62ヵ月(病期Ⅰ)、44ヵ月(病期Ⅱ)、29ヵ月(病期Ⅲ)と推測されています。(国立がんセンター)

・ 平均生存期間は30~40カ月です。腫瘍の増大、感染症の合併、腎不全、出血、急性白血病化などで死亡します。10年以上の長期生存される人もいます。(病気辞典)

・ 多くの症例で治療中に薬剤耐性を獲得するため、一般的に治癒は困難であり、平均生存期間は3~4年である。(Wikipedia)

・ 治療開始後の平均生存期間は3年、10年以上の生存率約3~5%と報告され,長期予後が望めない疾患であるのが現状である(順天堂医院)

・ 多発性骨髄腫を治す方法はありません。しかし、治療をすれば60%以上の率で病気の進行を遅らせることができます。診断されてからの平均生存期間は3年を超えますが、個々の生存期間は、診断時の状態や治療に対する反応によって異なります。(メルクマニュアル家庭版)

多発性骨髄腫の生存率の変化
多発性骨髄腫患者の生存率は、新薬の開発でどのように伸びたのだろうか。日本ではまだ承認されてから日が浅いので統計がとれていない。

2008年の米国での統計では、多発性骨髄腫患者の8年生存率は74%となった。これは自己抹消血幹細胞移植が広まっていったということと、ベルケイドやサリドマイドが使われ始めたことによる。今統計を取ればもっと生存率は上がっているだろう。

骨髄腫の新薬の開発は目覚しいものがある。今FDAで承認待ちの新薬が20種類あるといわれている。こういった状況に対して希望的提言が何人かの人から寄せられている。

・ 研究者たちは骨髄腫を治療不能ながんから、慢性でマネージが可能な状態に転換させる方向で前進を続けている。(Dr. Anderson)

・ 骨髄腫は造血器腫瘍の中で未だ治癒が現実の治療成績に含まれない疾患である。治癒が困難であるからこそ科学を 駆使して克服する。この地道な歩みが結実する日を祈ってやまない。(三輪哲義)

・ 平均的な生存期間はスタンダードリスクの患者で約7-10 年。しかし、ハイリスクの患者では各種の治療を行っても約2 年となる。あきらめるのは早い、とにかく、使用できる薬剤を順に使用していく。選択肢を全て使用する必要がある。(健康生活)

次の新薬に期待
今の所、ベンダムスチン(トレアキシン)療法を通院で行っていく方針である。しかしそれもやがて効果を失っていくだろう。次に期待しているのがカルフィルゾミブである。FDAでは来年あたりに承認されるのではないか。日本での承認までには2年位かかるだろう。ベルケイド(ボルテゾミブ)がかなり効果的だったのでその意味で期待できる薬だと思っている。

現在,ボルテゾミブ(bortezomib:BTZ)に続く次世代のプロテアソーム阻害剤の開発が進行しており,それらはBTZよりも強いプロテアソーム阻害能を有しており,BTZ以上の骨髄腫細胞への抗腫瘍効果および骨髄微小環境への作用による間接的抗腫瘍効果が期待される。開発の先行している新規プロテアソーム阻害剤であるカルフィルゾミブの臨床治験においては,前治療歴の多い症例やBTZ耐性例に対する有効性が報告され,またBTZより末梢神経障害の発生頻度や重症度が低いことも報告されている。 (血液フロンティア2010年 別冊Vol.20, S-1)
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入院18日目・退院日

12月29日(木)
 退院日である。IgMの値も下がったし、来年の治療方針も決まったので安心して退院できる。今回も入院中ほとんど運動していない。18日間であるが体を動かしていないということは退院後の日常生活で影響がでるだろう。退院前の生活を行なおうとしても体がついていかないかもしれない。徐々に回復を目指すほかない。

病室は4人部屋だ。その内3人は正月には自宅に帰れる。残された人は70歳位の人で下半身が麻痺していて車椅子で移動する生活だ。彼のことについて連れ合いの人と話したことがある。8月までは腰痛の持病はあったが全く普通の生活をしていた。定期的にプールにも行って体調管理を行なっていた。ある時腰の痛みが強くなってきたので医者に行った。「脊椎管狭窄症」と診断された。手術をすることに決まった。しかし手術後下半身が麻痺して全く歩くことが出来なくなってしまった。

リハビリ病院に入院し、リハビリで機能回復を目指した。そこでの治療の過程で血液がんが見つかったので、先月その治療のためこの病院に転院してきた。血液がんの方は放射線治療と抗がん剤で寛解状態になり、治療は終わり経過観察の状態である。しかし下半身麻痺は全く改善の方向が見えない。

 この病院でも形成外科の医師が診断しているが、胸から腰にかけてのコルセットを指示する位である。毎日リハビリも行っている。しかしリハビリ設備は専門病院の方が整っていることは確かだ。そこで正月明には、リハビリ専門病院に転院することになっている。すでに8月から5ケ月も入院している。それでも回復の展望が見えない。

歩けなくなるということがどれ程絶望的なものか、この患者の気持ちを推し量ることは出来ない。今まで何の問題もない生活をしていたのに、ある日から全く歩くことが出来なくなる。歩けなくなるだけでなく完全看護が必要な体になってしまった。日常生活はいわゆる寝たきり老人と同じなのだ。

食事は自分で食べられるが、尿道カテーテルを挿入され、オムツをあてられ、下の世話は看護師にしてもらわなければならない。ベッドから車椅子への移動も一人では出来ない。風呂に入れないから体を定期的拭いてもらわなければならない。病院だと何日かおきにシャワー室で体を洗ってもらえる。

歩けなくても自分でトイレに行ければどれだけ違うだろう。自分で車椅子に乗れれば自分の行きたい時に、行きたい所に行くことができる。それもままならない。元の体に戻れるという希望が彼の心の支えになっているのだろう。リハビリが効果を上げ歩行機能が回復する事を願う他ない。

 病院で色々な人の病状を聞くと、私などよりもずっと困難で苦しい病気を背負い、辛い治療に耐えている。それを支えるものは何だろう。何が彼らをそういった病気に立ち向かわせているのだろう。「あるがままの状況に身を委ねる」といった心境にまで至るにはそう簡単ではないはずだ。こういった人たちの姿は、自ら病気にいかに立ち向かって行くのかについて襟を正して振り返ることを要請してくる。そういった気持ちで退院を迎えることにしよう。


 入院から退院までのベンダムスチンの治療経過については、「治療経過ダイジェスト・5」にまとめてあります。参照してください。   http://trakl.blog121.fc2.com/blog-entry-1172.html

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入院17日目・退院後の治療方針

12月28日(水)
今日は公務員の仕事納めの日だ。今入院している病院も公立なので今日が最終日だが、病院なので患者がいる限り業務は続く。正月中入院患者を出来るだけ自宅に帰してあげようということと、医師や看護師を休ませたいといったことで病室は今週になってどんどん空いていく。今いる病室でも1人残るだけだ。

退院後の治療方針
昨日主治医が来て、大まかな退院に以降の治療方針について話をした。詳しくは正月明の最初の外来日である4日の日に決めるということだった。IgMの値がどうであろうがどちらにしてもベンダムシチンしか治療の方法がない。通院治療にするということだ。まずベンダムスチン投与のため2日間病院で1時間半の点滴をする。

第1目と第2回目の間隔は、標準治療だと19日であるが、もう少し間を空けたいと思う。第1回目の時には、ベンダムスチンを180mg(120mg/m2)使用した。主治医が事前に説明した時には120mg(90mg/m2)だったが、何時の間にか量が増えてしまった。担当医との連絡不十分だったのだろう。2回目は120mgに減らした方がいいのではないかと思う。

副作用への対応としては月と木の主治医の診療日に行き血液検査をして、赤血球、血小板が減少していれば輸血をする。腫瘍崩壊症候群などによる腎臓の機能低下に対しては、水分補給と尿酸値を下げる錠剤の服用で対応できるだろう。またはラスリテックの点滴という方法もある。

血液検査の結果
IgM 4710(12/28)←6647(12/21)←8410(12/8)
(白血球、赤血球、血小板の数値は、入院中の血液検査結果データーに記載)
血小板の数値が上がらない。明日退院するということもあって急遽輸血をすることになった。

IgMが4710となった。ベンダムスチン投与後一週間で2000ずつ減少している。驚くべきほど効果的な薬だ。「1960年代に鉄のカーテンの向こう側・東ドイツで開発された古いアルキル化剤」が今になって非ホジキンリンパ腫や多発性骨髄腫の効果的な薬として使われ出した。日本での承認は2010年10月で、承認されたばかりの薬をいつも使用している感じだ。そうやって今まで治療を継続してきた。

ベンダムスチンの薬理作用はアルキル化作用と代謝拮抗作用が推定されており、短時間の曝露で、長時間にわたってDNA鎖を損傷する。既存の抗癌剤とは異なる作用機序と考えられており、様々な抗癌剤耐性細胞株でも細胞増殖を抑制することが示されている。

入院中の血液検査結果データー
900.jpg

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入院16日目・がん患者への支援

12月27日(火)
 病院3階にある患者サロンにももの木主催の「おしゃべり会」のポスターを貼りに行った。血液内科の患者を対象とした院内患者家族交流会(おしゃべり会)は2ケ月1度奇数月の第2金曜日に行なわれる。次の開催は1月13日である。その案内のポスターである。

患者サロンに行くと5人の人が会議をやっている。何だろうと思って聞いてみると「がん患者さん支援交流会・がん患者さんとご家族のためのおしゃべりサロン」だということだった。ももの木は血液がん患者のみを対象としているが、こちらの方はがん患者全体の集まりだ。こういった会の必要性は感じていた。そしてこの病院でがん患者全体の交流会の場が作られたということはポスターで知っていたが、この集まりのため病院までなかなか足を運ぶということにならず、通院などのついであれば参加したいと思っていた。

この「おしゃべりサロン」が今日行なわれていたという事をその場で知ったというわけだ。時間は13時から15時で私がサロンにいったのが15時近くだった。もう終わりかけていたのかもしれないが私がいったので会議は続けられた。最も内容は私が自分の病気の紹介し、治療、病状、生活状況などを質問に応じて話すだけだった。

参加している患者の声を聞きたかったがもう終わりの時間だったので、病名だけを聞くだけだった。乳がん、大腸がん、喉頭がんなどほとんどの人は病後何年たって完治しているようだった。次回機会があれば参加して、血液がんではないがん患者の闘病の実状を聞きたいと思う。

「おしゃべりサロン」を主催しているのは「NPO法人がん患者団体支援機構」である。この団体の初代理事長は俵萌子、2代理事長は鳥越俊太郎で設立趣旨は以下の通り。
・ 相互の意見交換・提案、集約の場を創設・開拓するための事業
・ 予防・検診・治療等に関連する情報の収集・調査・研究事業
・ 情報提供・相談・支援事業
・ 国、地方公共団体および医療関係者等に対し、消費者の権利確保の観点から、提言を行う事業など

 患者の悩みは身体的、精神的、社会的、経済的と多岐に渡る。これに対しては様々な相談支援の輪があり、それをいかに有効に活用するかが問われている。患者や家族にそういった窓口がある事をもっと知ってもらう必要があるだろう。

1、(医療・福祉・看護に関する)相談・支援センターが多くの病院で設置されてきている。医者や看護師、カウンセラー、ケースワーカー(社会福祉相談員)、ソーシャルワーカー(社会福祉士)が相談窓口を担っている。治療内容、入院環境の問題、医療保険制度、福祉・行政への訴え、精神的な問題に関する相談などについてアドバイスを受けることが出来、解決への方向性を導き出せる可能性が高い。

2、緩和ケアチームというチーム診療が多くの病院始まっている。これは、医師、看護師、薬剤師、栄養士、心理士、ソーシャルワーカーなど関連する職種がチームを組んで患者や家族をサポートする。

3、精神腫瘍科(サイコオンコロジー)が、がん宣告を受けた患者や家族の精神的苦痛を緩和する体制をとっている病院が出来てきている。がん患者はがんの疑い、検査、診断、治療などの経過中に不安・抑うつなどを呈することが稀でなく、入院時には約半数の患者に何らかの精神医学的な診断がつくことが知られており、がんと心の問題は切り離せないものとなっている。がん治療を受ける際にはこれらをなるべく緩和し、精神的によりよい状況で治療を受ける必要があるということで、精神腫瘍科の役割は大きくなってきている。

4、患者の交流会はそれとは別の視点で、患者が自分の体験から学んだ知恵と工夫を、これから治療を受けようとする患者とその家族に話す場である。どんな治療だったのかそれを経験した人から聞くだけでも参考になる。こういった場が多ければ多いほど患者にとって悩みの解決の場が増えるということだ。交流会はもちろんそれだけの目的ではなく、元患者同士が近況報告をしたり、退院後生活や就職をどうするかなどを相談する場でもある。

病院でもそういった患者同士の交流の意義を最近は認め積極的に応戦するようになった。以前から比べればこれは大きな前進だ。色々な患者の支援団体があるがそれらが相互に協力し合って、がん患者の様々な悩みの解決に力を合わせていくことは極めて重要である。

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入院15日目・患者サロン

12月26日(月)
あるがん患者の話
入院生活の中で様々な患者と出会う。消化器科の病棟で、前のベッドにいた患者と話をした。彼は見た目は60代後半に見えたが実は77歳だという。4年前に人間ドックの検査で食道がんが見つかった。食道がんの外科手術はかなり大掛かりなものであると聞いて、内視鏡の手術が出来なかったら手術をするつもりはなかった。運よくがんは初期段階で病巣は小さく内視鏡手術で切除出来ることになり、手術を受けた。食道はリンパに囲まれているので、発見が遅れるとリンパに転移しやすくそうなると回復が難しくなる、と言う。

その後、定期検査の時、胃がんが発見された。これも内視鏡手術で済んだ。そして今回大腸がんの診断を受けた。以前にもポリーフが7,8ケ所出来取り除いてきた。今までは良性のものだったが今回はがんということだ。手術が必要だ。今度の入院は検査入院で4,5日だったが、正月明け手術をする。最近は手術を入院して待つということはない。外科医のスケジュールで手術日が決まると、その前日に入院することになる。

1度のがんでもその精神的プレッシャーは大変なものがある。次々とがんに侵されその度に内視鏡手術とはいえ受けざるをえなかった。そして今回大腸がんの診断を受けた。本来なら自分の運命を呪って絶望的な気分で日々を過ごしているだろう。しかし私との話のなかでもそういった重苦しい気分は全く感じさせなかった。

彼は言う、日本人の男性の平均寿命は79歳だ。もう十分生きたのでいつ死んでも悔いはない。食道がんの時はきつく苦しい手術だったら拒否しようと思っていた。しかし内視鏡で出来たので受けることにした。その後胃がん、そして今回の大腸がんと続けてがんに見舞われた。手術を拒否して死を選ぶこともできる。

このように次々とがんになって、もう運命に逆らおうとは思わなくなった。自分に科せられた試練に逆らわず、あるがまま受け入れようと思った。生きる道があればそれに従い、死しか残されていないならばそれに潔く従おう。そういった心境になった。

だから今回も手術を受けてみて後はどうなるかそれは運を天に任せるしかない。もちろん無駄な延命治療などしてもらいたくはないいが、手術でがんが治り、その後生き続けることができるならばそれが天寿だとして受け入れ楽しく余命を過ごしていこうと思っている。絶望を希望に変える事ができる人の心の強さを感じた。

患者サロン
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病院の3階に「患者サロン」が開設されたこれは相談支援センターが3階に移動したことに伴うものである。相談支援センターは入院費、介護保険、福祉施設、休業補償、身体障害者手帳、生活保護などの問題、入院中や退院後の療養生活、退院後の在宅療養の準備、訪問医や訪問看護など在宅療養・医療機器、医療材料、がんなどの治療看護など病気や病院、入院に関するあらゆる問題点、疑問点の相談の窓口になっている。

「患者サロン」はその一貫として位置づけられている。つまり、患者の悩みや相談事に関して、医者や看護師、カウンセラーの答えとは別に、同じような病気を経験した患者同士の話は直接的で実際的である。経験者の実体験を聞いたり共有化したりすることによって患者は治療に対する心構えが出来るし、治療内容が分かり安心して治療を受けられるようになる。そういった役割を持つ「患者サロン」の意味は大きい。

今日の血液検査結果
白血球2100、好中球1430、赤血球293、ヘモグロビン9.1、血小板2.8。
数値が安定してきたので何時でも退院ができるということだ。水曜日にIgMを測るというのでその日の血液検査の結果を見てから退院することにした。IgMの数値によって次の治療方針が決まるだろう。ベンダムスチン療法の2回目をやるかどうか判断しなければならない。通院で出来るのか、また入院しなければならないのか判断は難しい。どちらにしても退院日は29日となった。

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入院13日目・トルコ料理

12月24日(土)
 見舞いに来た友人がトルコ料理の話をし始めた。どういった話の流れでそうなったが定かではないが、しばらく前にトルコ料理を食べに行ったということから、仕入れたばかりのトルコ料理に関する薀蓄を傾けた。

病院でのカロリー、塩分、脂質、タンパク質控えめのあっさり料理を食べている身としては、料理の話は聞きたくもあり、聞きたくもなしといった複雑な心境だ。早く退院してトルコ料理を食べに行こうといった目標が出来た。トルコ料理は1度だけ食べたことがある。ランチメニューで990円と安かったから食べたようなもので、あまり印象に残っていない。本格的なコース料理をじっくりと食べてみたいものだ。

まずトルコ料理が世界3大料理だということを始めて知った。そういわれると見直さざるを得ない。今までトルコ料理店に入ろうなどと考えたこともなかったが、これからは要チェックだ。

 「トルコ料理は実は世界三大料理に挙げられる」これをまず言いたかったんだということで話が始まる。世界三大料理( 英 : The Three Grand Cuisines )は、伝統的には中華料理、フランス料理、トルコ料理を指す。いずれも宮廷料理の背景があり、食通の王侯や皇帝が広大な領土の各地方・各民族の料理法を糾合し、珍味の食材を蒐集し、また国富を背景に多くの名料理人を召し抱えて腕を競わせた結果、多彩で豪華な料理文化が発達した共通の歴史を持つ。

トルコ料理は、トルコ民族の故地である内陸アジアの遊牧的食文化、イラン以西の西アジアの農耕的食文化、ビザンティン帝国、オスマン帝国で発達した宮廷料理などの融合のうえに成立した独特の体系をもつ料理は多種多彩である。したがって地域によってその内容も異なってくる。

広く知られているトルコ料理といえば、薄切りにした肉を何層にも金棒に突き刺して回転焼きにする「ドネル・ケバブ」。その他にも一口大の肉を串にさして焼く「シシ・ケバブ」や、挽き肉でつくるトルコ版ハンバーグ「キョフテ」など、多岐に渡る調理法が駆使されている。

地方的特徴:地中海沿岸(シーフード)、中部アナトリア(肉料理が中心、チーズやヨーグルト、パスタ料理)、東アナトリア(はちみつ、チーズ、羊や牛の新鮮な肉)、南東アナトリア(乾燥ナスと乾燥パプリカのドルマ)、黒海地方(シーフード、トウモロコシやアンチョビをよく使う)

iooo.jpg 様々な種類のトルコ料理があり店によって地方色を出している所もあるだろう。ただ世界3大料理というわりには店が少ない。大体トルコの食べ物でお馴染みなのは屋台で売られているドネル・ケバブサンド。ドネル・ケバブとはミルクやスパイスに漬け込んだ羊、鶏などの肉を串にさし回転させながら焼き、焼けたところからナイフでそぎ落としたもの。

家の近くの商店街にも1m位の間口のドネルケバブサンドの店がある。串刺した肉の塊が店の入口で回転している。まだそこで買ったことはない。病院から戻ったら早速食べてみたいという思いが強まった。                   ドネルケバブサンド                    
(参考資料:オールアバウト「トルコ料理」)         

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入院12日目・永遠の相のもとに

12月23日(金)
血液内科病棟に空きがでたということで、消化器科・耳鼻科の病棟から移動した。血液内科病棟といっても、移植室のある血液内科専用病棟ではなく、7月に入院した肝臓内科との共用の病棟だ。

血液内科病棟は移植室がある関係上感染管理が徹底していて、病棟内は空気清浄器が24時間稼動している。手洗いやうがいの水は蒸留水を使っている。面会人へのマスク着用、手洗い義務や、白血球が少ない患者は病棟から出ることは出来ない、どこにでも病棟から出る時はマスク着用など、色々と行動チェックが厳しい。肝臓内科との共用病棟の方が気が楽だ。

今年2月と7月に入院した時と、消化器科病棟では全て廊下側のベッドだった。今度血液内科病棟に移動し初めて窓際のベッドだった。この病院は高台の上にあり、病棟は10階で、周辺に高いビルがないので見晴らしがいい。広がる空と、眼下のビルを眺めているといつまでも飽きがこない。

無限に続く空を見ていると、スピノザの「永遠の相のもとに」といった言葉が思いだされる。永遠とは何か。一つには始めも終わりもない無限の時間といったものがある。それは過去、現在、未来からなる線的な時間の流れを前後に無限に引き延ばしたものといえる。反対にこうした時間の流れを超越した無時間的なものを永遠と考えることもある。どちらにしても永遠を時間と関連付けて考える。スピノザの考える永遠とは神の存在の中であらかじめ決定された超越的必然のあり方を表すものである。

スピノザの考え方とは別に、「永遠の相のもとに」という言葉の響きは気にいっている。日々移り変わる事象に翻弄されるのではなく、時間と空間の枠に縛られない真実に目を向けることの重要性をこの言葉の中に感じる。日常生活と今の自分のあり方を「永遠の相から」見直してみようとすること、その事を通して今の生き方を深化させていくことが可能だろう。限りない空の広がりは人に様々な思考を呼び戻してくれるようだ。

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血液検査結果
白血球  1600(12/23)←1300(12/21)←1200(12/19)←2300(12/17)←700(12/16)
好中球  未検査←990←980←未検査←430
赤血球  283←295←235←237←250
ヘモグロビン  8.9←9.0←7.7←7.7←8.2
血小板  4.9←2.6←3.9←4.3←2.9
(土日祭日の採血は、項目が限られていて、好中球は検査の対象になっていない)

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入院11日目・GFR(糸球体濾過量)

12月22日(木)
百軒さんから「腎臓の管理の見地から、クレアチニンとともにGFRによる診断が重視されてきている」というコメントが寄せられた。今まで、血液検査結果の報告には必ず記載されていた項目だったが、それが腎臓の状態を把握する指標の一つだということには指摘されるまで全く気がつかなかった。

大分前に尿酸値が上昇しアロブリノールを処方された時にもGFRについては認識できていなかった。抗がん剤治療を行っているがん患者の尿酸値の上昇の多くは、腫瘍崩壊による腎臓の負担が増大していることによる。

高尿酸血症とは、化学療法を行った後、腫瘍細胞が死んだ結果として、血中に核酸、カリウム、リン酸などの物質が大量に放出されて引き起こされる腫瘍崩壊症候群と呼ばれる病態が起こってくることである。これは速やかに治療されない場合、尿酸が腎臓内に蓄積し、腎不全を引き起こすなど腎臓にダメージを与えるというものだ。

腎臓の最も重要な役割は、体内を流れる血液を糸球体で濾過してきれいにするとともに、血液から取り除いた老廃物を尿として体外に排出することである。入院時から大量のソルデムの投与が行なわれ、治療後もかなりそれが続く。最初は抗がん剤を速やかに全身に回す役割を持つが、薬の投与後、今度は老廃物を排出するのに大量の水分が必要なのである。この水分投与によって高尿酸血症を予防することができる。

腎機能が正常に働いているかかどうかはクレアチニンの数値で判断していた。クレアチニンは筋肉内でクレアチンという物質から作られて血液中に出現し、腎臓の糸球体でろ過されて尿中へ排泄される。そのため腎機能が低下すると血液中のクレアチニン濃度が高値になり、腎臓以外の影響を受けにくいことから、腎機能の障害を正確に反映するといわれる。

GFRとは糸球体濾過量の略で、フィルターの役目を果たす糸球体が1分間にどれくらいの血液を濾過し、尿をつくれるかを表す。つまり、GFRとは、腎臓にどれくらい老廃物を尿へ排泄する能力があるかを示しており、この値が低いほど腎臓の働きが悪いということだ。GFRは慢性腎臓病(CKD)の病期の進行を診断する数値であるが、腎臓の働きを知るのに有効である。

下記の表は、尿酸値とクレアチニンが上昇するとGFRが下がるといった状態を示している。早見表を見るとGFRの数値の位置が分かり、クレアチニンより詳しく腎臓の状態を把握できる。(13、14日ベンダムスチン投与)

無題

日本人のGFR推算値早見表
http://www7a.biglobe.ne.jp/aijinkyo/gfr_hayami.html

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入院10日目・長男の見舞い

12月21日(水)
19日の月曜日からあれ程強かった傾眠は急に収まってきたようだ。月曜日はコンサートがあって日中ずっと起きていることになったが、夜は20時頃眠りについた。途中目が覚めたが8時間程度眠ったことになる。昨日も日中はずっと起きていて、夜は20時就寝と月曜日と同じパターンだった。

日曜日までは座って何かをやっていても、眠気が襲ってくるといった感じで耐えられず横になり寝入ってしまっていた。そういったことがなくなった。薬の影響が薄れ、体力が回復してきたのだろう。眠気がなくなったからといって体調がもとに戻ったわけではなく、まだ倦怠感は残っているし、食欲も回復していない。体力の回復と、血球の数値の回復がこれからの課題だ。

血液検査の結果:
IgM  6647←8417(12/8)  IgG 109
白血球1300、好中球990、赤血球295、ヘモグロビン9.0、血小板2.6
クレアチニン 0.9、尿素窒素14、尿酸値6.0、GFR66.3

IgMが2000減少した。まずまずの滑り出しだろう。どこまで下げることができるのか、それによって次の治療方針が決まる。IgG値がかなり低い。血小板も下がっている。午後から血小板と免疫グロブリン製剤の輸血を行なうことになった。G-CSFの投与は従来どおり続ける。腎機能の状態を示す検査項目の数値が基準値に戻ってきた。腎機能に関してはもう大丈夫だろう。ソルデムも1日1500mlだったが1000mlに減量した。

駒込病院027_convert_20111220084729  夕方長男が彼女を連れて見舞いにやってきた。ライブで沖縄に行っていたので泡盛を買ってきた、病院に届けていいかとメールにあったので、病院で酒瓶を隠し持っていたらアル中と間違えられてしまうので自宅の届けてくれと返事をしておいた。

彼女が見舞いの花束を持ってきてくれた。しかし残念なことに病室に生花を持ち込むことは出来ないことになっている。個室なら許可されるかもしれないが、相部屋だと花粉や匂いなど耐えられないという患者もいる可能性があるということで禁止されている。面会受付の横の所や、売店には造花のフラワーバスケットが売られていて、それを生花の変わりに患者に持っていくことになっている。

折角持ってきてくれたのにどうしようと困っていると、面会が終った後、ちょとした用足しをしてから自宅の方に泡盛と一緒に届けてくれるということで一安心だ。無駄にならずに済んだ。病室には飾れないので記念に花の写真をとっておいた。

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入院9日目・同室の患者の話

12月20日(火)
駒込病院001_convert_20111220084136  駒込病院003_convert_20111220084222
 六本木方面                        東京湾方面                
    
駒込病院005_convert_20111220084324  駒込病院008_convert_20111220084410
 新宿副都心方面                      那須・日光の山並み

 よく晴れわたった冬空だ。富士山は霞んで見えなかった。『日はまた昇る』ではないが、人間がどんな営みをしていようが、個々人がどんな問題をかかえていようが、当然の事ながら朝の日は自然の法則にしたがって時間通り上る。しかしその光が織り成す情景は刻々姿をかえていく。光と闇が作り出す造形は一つとして同じものはない。

 昨日入院した喉頭がんの患者の出現で、回りは振りまわされぱなしだった。70歳少し過ぎの男性患者で入院後幾つかの検査をして、病室に戻って来た。奥さんは2,3年前亡くなり、一人暮らしで娘が2人いてそれぞ結婚して子供がいる。娘が付き添いで来ていた。医者に呼ばれてカンファレンスルームで家族と共に病気の説明を受けた。

その後病室に戻り看護師から説明を受けた。看護師の説明に中々納得せず何度も質問したり、延々と話が続く。自声が大きいから話している間何もできない。その看護師の説明がやっと終ったら今度は別の看護師に聞いてくる。そういったことが何度か繰り返される。夕方になりやっと静かになったが、じっとベットにいることが出傷ず、病棟の廊下を歩き回り、誰彼となく声をかけている。退屈だ、退屈だと独り言をいって歩き回ってる。

明日手術ということで不安や恐れを感じているのだろう。それを他者との関係で紛らわせようとしているのは確かなのだ。何年か前肺炎で入院した位で他に入院歴はない。このような大病に罹るとは思いもしなかった。最初日大病院で診察を受けたが、自宅から交通の便のいいこの病院を紹介してもらった。

喉頭がんの手術が終わればしばらくは一切しゃべってはいけないし、何も食べることができない。手術自体も心配だがその後のことにも色々考えてしまう。テレビでも見ていればいいものをふらふらと廊下に出て看護師に声をかける。既に聞いた事のある事を又聞いている。そのようにして就寝時間がやってきた。

 今朝病室から9時少し過ぎに運び出されていった。手術時間は1時間半位だったろう。10時45分頃戻って来た。これからはしゃべることが出来ないので病室は静かになるだろうと思うが、あんなお喋りな人が何日も沈黙を続けなければならないということはかなりの苦痛だろう。傷の痛みよりもそっちの方が辛いのかもしれない。

ホワイトボードとかスケッチブックなどを用意し筆談で意思を伝えるしかないが、また色々な無理な注文をして看護師に負担をかけることになるだろうが、こういった人は何処にでもいる。自分では、外交的であり人なっつこい性格だと位にしか思っていないのだ。

 血液内科病棟が空かず、前回は肝臓内科病棟、今回は消化器科病棟に入院することになった。それによって色々な患者と接する機会があった。同室の患者に対する医者や看護師の検査内容や方法、病状、治療に対する事細かな説明は否が応でも聞こえてくる。病気の種類によって多種多様な方法がある。どれも決して楽なものはない。辛く苦しい道程があるだけだ。治るという信頼が辛い検査や治療に耐える力をなっているのだろう。

患者になれば職業も階層も関係ない、あらゆる種類の人が一同に会する。そこで重要なのは治るか、治らないかの結果である。やはり病気の種類によって、それに対する心構えが違ってくるようだ。ただこの病院の科は色々あるが多くの患者はがん患者である。

様々な病気があり、それぞれ色々な形で逡巡しながら自分なりの解決を見出して病院にやってきたのだろう。そして医者に自分の運命をゆだねることに同意することになったのである。病院は多くの人が命の守るために選んだ結果の集積である。

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入院8日目・クリスマスコンサート

12月19日(月)
今日は午前中、午後ともずっと起きていることになった。16時頃横になろうかなと思っていたら、17時から病院の1階外来ホールでクリスマスコンサートをやるという放送があった。病院という何の娯楽もない所での唯一の催し物だ。以前ももの木も大道芸などを病院のロビーでやったこともあるが、最近は全くやっていない。

17時にロビーに行くと、患者、看護師、医療スタッフなど100人以上の人が集まっている。プログラムが配られていた。第1部は「うたい隊」という女性合唱団の合唱だった。この合唱団は幾つかの病院の看護師を中心に作られていて、「音楽が大好きな人達が、心を一つに歌いたいという思いから結成された」そうだ。今年9月に行なわれたエレクトーンステージ2011で金賞を取ったという。

「世界に一つだけの花」、「上を向いて歩こう」、「希望の歌」の3曲を合唱した。上を向いてあるこうは振り付けを皆に教えて一緒に歌った。

駒込病院016_convert_20111220084812  駒込病院013_convert_20111220084528 うたい隊のメンバー

第2部はSchaffen Trio(シャッフェントリオ)の演奏が行われた。ピアノ、ヴァイオリン、チェロの三重奏の演奏だ。エルガーの「愛のあいさつ」から始まり、モーツァルトの「ピアノ三重奏曲5番」、「クリスマス・キャロル・メドレー」、アンダーソンの「そりすべり」、アンジェラ・アキの「手紙」、最後にブラームスの「ピアノ三重奏曲第1番」が演奏された。

シャッフェントリオは2003年結成。天野 浩子(ピアノ)、冨沢 由美(ヴァイオリン)、西山 健一(チェロ)。2003年6月に筑波、9月に東京でコンサートを行う。2005年から2006年まではメンバーのドイツ留学により活動を休止していたが、今後、積極的に活動を行う予定。トリオの名前であるSchaffenとは、ドイツ語で創造を意味する。そこには私たちにしか出せない響きを創り出したいという思いが込められている。

駒込病院024_convert_20111220084638 Schaffen Trio(シャッフェントリオ) 

アンジェラ・アキの「手紙」はなじみ深いものであるので聞きやすかったし、三重奏曲への変奏も違和感なく聞くことが出来た。最後のブラームスの曲は若い頃のブラームスロマンティックな心情が表現されてなかなか良かった。病室でYOU・TUBEや持ち込んだCDをヘッドホーンで聞けるが、やはり生演奏に勝るものはない。演奏技術には優劣はあるかもしれないが、音の伸びや響きの深さは技術をはるかにしのぐ迫力をもって聴く者を圧倒する。久々の生演奏を聴いて気分がすっきりした感じだ。音楽は癒し最も効果的なものだと改めて思った。

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入院8日目・眼科、口腔外科の診療

12月19日(月)
 今日は色々スケジュールが入っている。朝の採血、採尿から始まり、赤血球の輸血、G-CSFの投与、外来で予約していた眼科と口腔外科の診療がある。カリウムが減少しているのでソレデムに混ぜて昨日から投与している。10時頃口腔外科に呼ばれた。ここでの診療は1,2分位なものだ。右上歯茎に出てきた骨が口腔内で悪影響を与えないかどうかの検査である。診察の結果は骨には歯肉がかぶさってきていて何ら問題はないということであった。

次に眼科に呼ばれた。眼圧は右15、左7であった。左が低いのが気になるが医者は特に問題にしてはいない。左眼の炎症を調べようと超音波の機械を使おうと思ったが、調子が悪く使用出来なかった。右眼の眼底検査では異常なしということだった。IgMがかなり上昇したので、目の毛細血管に影響があるか心配されたが丈夫だったようだ。

 血液検査の結果を担当医が持ってきた。白血球1200、好中球980、ヘモグロビン7.7、血小板3.9だった。ベンダムスチンの副作用として重度の白血球減少があるということだった。「血液学的な毒性は好中球減少症で、グレード3が25%、グレード4が48%となった」(癌Expertsニュース)。主治医が心配したのはその点だった。

通常白血球の減少が予測される化学療法をやる場合、白血球が3000位あることが必要だ。時間を置くなり、G-CSFで増やしてから治療を開始するが、私の場合は見切り発車をいった感じで、好中球が380(12/8)の状態で治療を始めざるを得なかった。そういった意味で白血球の数値は大きな意味を持っている。今のところ大きな減少はない。このままいってくれることを願うばかりである。

 腎機能の状態を示す、クレアチニンは1.0と基準値になった。尿酸値も土曜日の検査結果の8.8から大きく下がり7.4になった。腎機能に関してはひとまず安心だろう。カリウム値は3.2と基準値(3.6~5.0)を下回っているのでソレデムに混ぜての点滴は続くだろう。

体調の関しては、病院のあちこち動き回っていたせいもあって午前中は全く眠気は感じなかった。午後も16時頃まではテーブルに向かって作業をしていた。大分傾眠の傾向が薄れてきたのではないかと思われる。これは体調回復の傾向を示すものではないかと思う。起きている時間が増えていけば食欲で出るだろうし、運動不足による体力の低下に少しは歯止めがかかるだろう。

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入院6日目・傾眠

12月17日(土)
眠っている間に時が過ぎて行くという程、よく眠れる。通常の入院生活だと夜中に目が覚めてしまい早く起床時間の6時にならないかベッドの上で何もすることがなく時間がくるのをのを待つしかなかった。睡眠導入剤の力を借りても精々4,5時間しか眠れなかった。今回は薬の副作用かひたすら眠くなる。それも半端じゃない。いわゆる薬の副作用に傾眠というのがあるがそれどころではない。

朝は6時には起きるが、8時の朝食後、眠くなりか2,3時間寝る。午後は昼食後4,5時間寝てしまう。夜は8時頃から眠くなり、朝まで寝る。ソルデムを1500ml点滴をしているので3時間おき位に目が覚めトイレにいくが、床に就くとすぐ眠りにはいれる。このようにほとんど寝て暮らしているといった入院生活を送っている。そのためほとんど体を動かすことがないので食欲が全くない。

抗がん剤で胃が荒らされているのかもしれないが、胃の膨満感があって、空腹感が全くない。病院では一般食の代わりのものが用意されている。食べられるものを少しでも食べないと体力が消耗してしまうと思って、朝はパン食、昼はうどん、夜はおかゆと変えて少しでも体に栄養を取り入れなければならない。また少しでも体を動かさなければならないだろう。適当な運動はないが、病棟内を歩く位はやっていこう。

15日に赤血球の輸血をやり、16日に血小板の輸血をやったが、ヘモグロビンの数値は今日また元に戻ってしまった。G-CSFは昨日から毎日やることになった。尿酸値が高い。16日には9.3mg/dlあった。このまま上がるようだとしかるべき薬剤の投与を始めなければないないが一日様子を見るということだった。今日採血した検査結果は8.8だったので薬物投与はやらないことになった。クレアチニンも高い。昨日は1.2、今日は1.1だった。腎臓の状態には注意が必要だ。

血液検査結果
白血球  2300(12/17)←700(12/16)←900(12/14)←2000(12/12)
好中球  未検査(12/17)←430(12/16)←330(12/14)←1070(12/12)
赤血球  237←250←229←232
ヘモグロビン  7.7←8.2←7.6←7.8
血小板  4.3←2.9←3.1←4.1
クレアチニン  1.2←1.1←0.8←0.7  (基準値0.6~1.0mg/dl)
尿酸値   8.8←9.3←6.8←5.7 (基準値3.7~7.0mg/dl)
尿素窒素  19←15←13←22 (基準値8~22mg/dl)

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藤沢周平 『三屋清左衛門残日録』

12月15日(木)
51_convert_2011121209<br />jpg 三屋清左衛門は、用人として仕えた先代藩主の死去に伴い、新藩主に隠居を願い出て、国元で隠居生活に入った。隠居の日々は暇になるかと思われたが、実際には友人の町奉行が抱える事件や、知人やかつての同僚が絡む事件の解決に奔走することになる。さらには、藩を二分する政争にも巻き込まれていく。

この物語の面白さは、清左衞門が遭遇する様々な事件に対する判断力、解決力にありどのように解決するのかといった謎解への興味がある。しかしもう一つの大きな視点がある。老境に入って人はどう生きるべきかということである。

「日残りて昏るるに未だ遠し―。家督をゆずり、離れに起臥する隠居の身となった三屋清左衛門は、日録を記すことを自らに課した。世間から隔てられた寂寥感、老いた身を襲う悔恨。しかし、藩の執政府は粉糾の渦中にあったのである。老いゆく日々の命のかがやきを、いぶし銀にも似た見事な筆で描く傑作長篇小説」と本の解説にあった。「老いゆく日々の命のかがやき」そういった生き方がどのようにしたら可能なのだろか。その答えは本の中で直接的には表現されていないが、物語を通して読み終わった時に感じるものがあるだろう。

この本でのもう一つの視点、老境に入った時人はどのような生き方ができるか、どのように生きて行くのか、そういた問いかけが様々な形で発せられていることである。清左衛門の生き方と同時に彼と同じ位の年の人達の生き方を通してそれが書かれている。彼と同年輩の登場人物が出てくる。少年時代からの友人、同じ道場に通った仲間、同じ部署で働いていた同僚、多くが隠居の身になっているが、生き方は様々である。

孫の病気治療のため借金し、それを埋めるため賄賂をとっている者。零落し出世した清左衞門を激しく憎み殺意まで抱く者。30年前の剣術の試合に敗れ、その汚名を晴らすため試合を挑む者。ある者は中風で歩行が困難になる。やがて自分にも来るであろう身体の変調の予感におびえたりもする。こういった清左衞門の心境の変化を、年を取るということがどういうことかを色々な切り口で表現している。

清左衞門は隠居生活の徒然に、「残日録」と題した日記を付け始めた。これは嫁の里江が心配したような「死ぬまでの残りの日を数える」という意味ではなく、「日残リテ昏ルルニ未ダ遠シ」という意味で名付けたものである。 隠居生活に入ったからといって、後は残りの人生を生きるといったことではない。むしろ今までやりたくても出来なかった様々なことに挑戦し新しい人生を始める、その決意が「残日記」という名にあらわれてる。

こういった心構えに至るまでには彼の心情は、様々な紆余曲折を経ている。そのところを本文から引用してみる。病気になり今までの生き方を変えざるを得なかった時のことが思いだされる。

これで三屋家は心配ない、その安堵のあとに強い寂寥感がやってきたのは、思いがけないことだった。清左衛門が生涯の盛りはこれで過ぎ、あとは国元に逼塞するだけだと考えていたことも事実だった。(P10)

夜が更けて離れに一人でいると、清左衛門は突然腸をつかまれるようなさびしさに襲われることが2度、3度とあった。そういうときは自分が、暗い野中にただ1本で立っている木であるかのように思い做されたのである。(P12)

隠居した清左衛門を襲って来たのは、開放感とはまさに逆の、世間から隔絶されてしまったような自閉的な感情だったのである。実際には隠居は清左衛門の生き方、ひらたく言えば暮らしと習慣をすべて変えることだったのである。(P13)

ついこの間まで身をおいていたその場所が、いまはまるで別世界のように遠く思われた。その異様なほどの空白感は何か別のもので、それも言えば新しい暮らしと習慣で埋めていくしかないことも理解できた。(P14)

たしかにのんびり出来るが、やることが何もないというのも奇妙なものででな、しばらくはとまどう。やることがないと、不思議なほど気持ちが萎縮してくる。ともかく平常心がもどるまでしばらくかかった。(p20)

清左衛門は一念発起して、10日に一度は無外道場に通い、他は釣りに出かけたり屋敷畑に降りたりしてもっぱら身体を動かすことに専念していた。せまり来る老境にそなえて、頭よりまずは足腰を鍛えているという形だった。(p44)

経書をかかえて保科塾にかようことになるかと思うと、気持ちが若返る感じがするばかりでなく、前途に、宮仕えの頃は予想もつかなかった新しい世界がひらけそうな気もしてくる。(p73)

老境をいかに生きるかもちろんそれに対する答えなどはない。生き方など100人いれば100通りである。自分から決意して望んで隠居の身になった清左衞門ではあるが、隠居したばかりの頃は鬱々としがちで、息子夫婦を心配させた。

しかし、30年ぶりに昔通っていた無外中根道場や保科塾に通い始めたり、釣りの楽しみも覚えたり、友人である町奉行の佐伯が持ち込んでくる事件の調べを行なったりし始め、充実した毎日を過ごすようになった。こういった悠々自適な生活など誰もができるわけではない。しかし生活の安定とは別に生活の質の豊かさは誰にでも求めることも、実践することも出来る。本人の決意次第というところもある。最後に清左衞門が元の同僚が今にも転びそうになりながらも必死に前に進もうとしている姿を見て自分のこれからの生き方を考える。

中風で歩くことが出来なかった元同僚の平八が歩く習練を始めたのを見て清左衞門は思う。「衰えて死が訪れるその時は、おのれをそれまで生かしめたすべてのものに感謝をささげて生を終えればよい。しかしいよいよ死ぬるそのときまでは、人間は与えられた命をいとおしみ、力を尽くしていきぬかねばならぬ、そのことを平八に教えてもらったと思っていた。」(p436)

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入院3日目・治療2日目

12月14日(水)
昨日から治療が始まった。10時30分から吐き気止めカイトリル3mgを30分点滴して、その後ベンダムスチン(トレアキシン)180mgを(溶)注射用水72mg、生理食塩水178mgに混ぜたものを1時間かけて点滴する。最後に生理食塩水を5分位流して洗浄する。これを2日間やる 。通院治療での点滴と比べて特に大変なわけではない。ただ副作用がどう出るか、骨髄抑制がどの程度か分からないの入院治療をするとことになったわけだ。

入院の日に行なった血液検査の結果は以下の通りである。白血球2000、好中球1070、赤血球232、ヘモグロビン7.8、血小板4.1であった。ヘモグロビンが8を下回った。輸血の必要があるだろう。ヘモグロビンの減少を関係しているのか、入院後ひたすら眠くなり、12時間位寝ている。今回はステロイド剤を使用しないので眠れないということがないので助かる。総蛋白が10.6とかなり高い。

今いる病棟は消化器科、耳鼻科病棟だ。病室の向かいにいる76歳の人は、耳鼻科の手術のため入院したが血糖値がかなり高くそれを下げないと手術出来ないということだった。糖尿病の治療をまず行わなければならない。糖尿病治療のため病棟を変わるが、その後は自宅で血糖値が下がるまでインシュリンの投与を続けなければならない。血糖値の基準値は70~109mg/dlだが、せめて100台まで下げないと手術はできない。

そう言ったことで、昨日から向かいのベッドの患者に対するインシュリン投与の講習が行われた。3食の食事前に、まず血糖値測る。それに合わせて薬量を決める。薬を注射器に入れる。お腹あたりに針を刺し薬液を注入する。こういった行程だが、老人に理解させるのはなかなか難しい。

一度で理解させることは到底できなので、食事の前になると看護師がきてインシュリンの投与のやり方を実践して見せ、やり方を覚えてもらおうとする。事前の手洗いや注射針の管理など細かい注意がひたすら繰り返されそれを実行することが要請される。しかし何歳になろうと治ろうとする意思があれば面倒な治療にも立ち向かって行く他ない。

今日の朝の採血結果を担当医が知らせてくれた。白血球900、好中球330、赤血球229、ヘモグロビン7.6、血小板3.1であった。好中球が2日で急激に下がってしまった。この状態からさらに下がることになる。回復までにかなりの時間がかかりそうだ。明日赤血球の輸血をすると言われた。

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入院生活が始まる

12月12日(月)
 入院日である。10時30分血液内科の外来診療が予約してある。入院に必要な荷物は車に積んだまま、血液内科の受付をして呼ばれるのを待つ。11時頃主治医に呼ばれて、診療室に入る。主治医は病棟担当者と電話で交渉している。

「原発性マクログロブリン血症の患者で、12月2日の血液検査の結果IgMが7600あった。それが12月8日の検査では8400にまで上昇して、通院治療では手の打ちようがない。このままいくと後2,3日で1万を越える可能性があり、そうなると身体に重大な影響が出るだろう。早急に入院治療が必要だ。」

こういった説明を病棟担当者にして、緊急入院が必要なのでどこか部屋が空いてないかどうか聞いている。その説明を受けて病棟担当者は血液内科病棟は満床だが、消化器科・耳鼻科の病棟に一人分の空きがあるということで、そこに行くことに決めた。血液内科病棟に空きが出来たら移動するということだ。

 内科処置室で待っていると、消化器科・耳鼻科病棟の看護師が呼びにきて病室に案内される。看護師から病棟内を回りながら説明を受けた。構造は血液内科病棟と全く変わりはない。説明後荷物を車から運び出し、病室で整理する。

昼食は用意されていた。昼食後、体重を測り、採血、採尿を行う。レントゲン、心電図に呼ばれたので行って検査をおこなう。

病室に戻ると、看護師から「入院診療計画書」を渡され説明を受ける。
患者氏名、病棟(病室)、主治医以外の担当者氏名(看護師)、病名が書かれている。さらに、
症状: 病勢の悪化を認める。
治療計画: トレアキシン(ベンダムスチン)投与を行なう。
検査内容及び日程: 平成23年12月14日採血。その他の検査予定は決定次第随時連絡。
推定される入院期間: 平成23年12月12日から3週間程度。
その他(看護、リハビリテーションなどの計画)): 療養生活における指導・援助(1)術前(検査処置を含む)、術後における看護計画、(2)症状コントロール・副作用等の看護計画。トレアキシン投与に伴う副作用の症状を観察する。

 病室でインターネットが出来なくて、前の2回の入院中は色々苦労した。今回は携帯電話の無線システムを利用したWiFiを使って何処でもインターネットが出来るという方法をとることにした。WiFiの機器をパソコンに接続すると、インターネットがスムーズに立ち上がった。これで病室内でもメールやブログが可能だ。色々なシステムが開発されどんどん便利になる。

このような準備して入院したわけだが、何と病室内で有料でのインターネットが可能となっていたのだ。床頭台にパソコン用のLAN端子の受けあり、1日300円、テレビカードで清算される。LANケーブルは自分で用意する。ネットワーク接続は説明書に従ってIPアドレスを設定してから接続する。これを利用した方が、安く済んだかもしれない。病室内でインターネットが出来るように色々考えたが、病室内で出来るシステムが用意されていたとは考えてもいなかった。

夕食後、ソルデムの点滴が始まった。1日1500mlを注入する。腫瘍崩壊などによる腎臓の負担を軽減し抗がん剤の毒素をいち早く体内から除去することなどの目的で、どんな抗がん剤治療もこのソルデムの点滴は行う。ただ1500mlの水分を取るとトイレに通う回数が増え夜の睡眠に妨げになることは確かだ。明日から治療が始まる。

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新宿御苑・紅葉三昧

12月11日(日)
いよいよ明日から入院だ。退院する頃には当然紅葉は終ってしまっているだろう。寒々とした冬枯れの木々の下を家に戻ることになるだろう。新宿御苑は実は中に入ったことない。近くで何時でも行けると思っている場所ほどかえって行く機会を失ってしまう。

以前仕事をしていた時に、新宿御苑前駅近くに得意先があって、新宿御苑に面したビルの8階に事務所があり、そこには何度か行った事があって、そこから御苑の庭が俯瞰できるので行った気になっていた。しかし実際入ってみるとその広さに驚く。部屋の窓から見ていたのとは全く違ったものに出合った感じだ。新宿三丁目で副都心線を降りて高島屋方面の出口を出ると、御苑の新宿門まではすぐだ。

新宿門まで行く間に一つの寺院と、神社の遭遇した。天龍寺と雷電稲荷神社である。つい習慣で寺院と神社には足が向いてしまう。新宿御苑のおまけのようなものだが写真を掲載しておこう。

天龍寺(曹洞宗 護本山)
小田原最勝寺五世の春屋宗能和尚を開山、戸塚忠春とその娘の西郷の局を開基として牛込に創建した。江戸城表鬼門を鎮護する上野寛永寺に対し、裏鬼門を護る寺とされていたが、天和3年(1683)牛込の火事で類焼、当地へ移転した。当寺のある新宿は江戸城から遠く登城に時間がかかるため、江戸には八ヶ所ある時の鐘のうち当寺の時の鐘のみ、朝四半刻(30分)早く鐘をうっていたといい、新宿で遊興していた人々を追出す鐘とともなっていたため、「追出しの鐘」として頗る評判が悪かったという。(「寺社情報サイト・猫の足あと」より)

新宿御苑001ed_convert_20111211171608  新宿御苑003ed_convert_20111211171736
 天龍寺山門                         本堂

雷電稲荷神社
雷電稲荷神社の創建年代は不詳。源義家が奥州征伐の途中雷雨にあい、小祠前で休んでいる時、一匹の白狐が現れ、義家の前で三回頭を下げたところ、雷雨がたちまち止んだことから雷電神社と呼ばれるようになったと伝えられている。

新宿御苑006_convert_20111211171649  新宿御苑008_convert_20111211171757
 雷電神社の鳥居                       拝殿

新宿御苑
江戸時代に信州高遠藩主内藤家の屋敷があったこの地に、新宿御苑が誕生したのは明治39年のことである。皇室の庭園として造られたが、戦後、国民公園となった。広さ58.3ha、周囲3.5km。園内にはフランス庭園、イギリス式風景庭園、日本庭園があり3つの庭園でそれぞれ異なった紅葉が楽しめる。西洋式庭園のユリノキ、プラタナス、イチョウの黄色始まり、スズカケの並木などは遠くヨ-ロッパの秋を思わせるような雰囲気。さらに日本庭園ではモミジの赤と常緑樹の緑が純和風の秋を演出してくれる。園内にはモミジ1000本、イチョウ270本、プラタナス230本に名木も多く、なかでも高さ20m,幹回り5.5mのケヤキの大木や高さ30mになるユリノキなどがある。

 新宿御苑はかなり広く、全てを回ったわけではないが2時間以上かかった。新宿門から入り、母と子の森から日本庭園に行き、上の池、中の池、下の池に沿って進み、芝生広場、ツツジ山、モミジ山をたどりながら、フランス式整形庭園に至る。葉を落としたプラタナスの並木道が庭園の特徴を余す所なく示している。この並木道の遠近法は絵の世界のようだ。冬枯れの並木道をひとり去っていく女主人公の後姿をカメラが追い続ける『第三の男』のラストシーンを嫌がおうでも思いださせる。

そこから玉藻池の脇を通って大木戸休憩所に行ってしばしの休憩。イギリス風景式庭園に行ってみるが、広い芝生があるが、どこがイギリス式なのかよく分からなかった。そこからはスイセンの花壇を見ながら、入場した新宿門に戻っていった。スイセンの白さが、まばゆい紅葉の光の中で清涼感と清楚さを演出している。その一画だけが静けさに満ちているような錯覚を覚える程だった。

新宿御苑は紅葉の名所で、今の時期が一番の見頃だということだった。「12月のみどころ」の地図を入口で渡された。それにはカエデ類や木々が紅葉している位置が記されていて迷うことなく紅葉スポットに案内してくれる。庭園の至る所で赤と黄色のコンビネーションの妙が奏でられている。赤と黄色の色彩に圧倒されそうになる程の紅葉三昧であった。

新宿門周辺
新宿御苑016_convert_20111211171836  新宿御苑018ed_convert_20111211171901

母と子の森
都会に住む子どもたちが自然とのふれあいを楽しみ、豊かな感性と自然への関心を育む、昭和60年(1985)に造られた自然観察フィールド。武蔵野の雑木林を思わせる森では、身近な木々や草花、昆虫などとのふれあいが楽しめる。

新宿御苑020ed_convert_20111211202903 新宿御苑025ed_convert_20111211203023
 モミジバスズカケノキ

日本庭園
ゆるやかな池の流れに沿った池泉回遊式の庭園。古くは鴨場として作られ、昭和のはじめに日本庭園として改装された。歴史建造物「旧御凉亭」や皇室ゆかりの菊花壇展をはじめ、ウメやサクラにカエデの紅葉、冬のオシドリなど、四季の見所も多い。

新宿御苑029_convert_20111211171945 母と子の森から日本庭園への入り口

新宿御苑033ed_convert_20111211172026 上の池

新宿御苑038_convert_20111211172109 茶室・楽羽亭方面 

新宿御苑046ed_convert_20111211172147

新宿御苑052ed_convert_20111211201151 歴史建造物「旧御凉亭」

新宿御苑054_convert_20111211172251 NTTドコモ代々木ビルと新宿副都心方面

メタセコイア
新宿御苑058_convert_20111211172340 新宿御苑066_convert_20111211172419 新宿御苑100_convert_20111211204725

フランス式整形庭園
左右対称に美しく整形されたフランス式整形庭園では、約100種500株の特色あふれる花々が咲き誇るバラ花壇を中央に、左右に約200メートル計156本のプラタナスを4列の並木にデザインしている。ヨーロッパの雰囲気あふれるロマンチックな並木道は、四季を通じて憩いの空間として親しまれている。

新宿御苑073_convert_20111211172522 プラタナスの並木 

新宿御苑077_convert_20111211172557 シンメトリーな中央通路

新宿御苑082_convert_20111211172653  新宿御苑083_convert_20111211172720
 まだ咲いていた秋バラ

玉藻池
江戸時代の内藤家の屋敷跡の面影をとどめる庭園。現在の大木戸休憩所には、御殿が建てられ、池、谷、築山、谷をしつらえた景勝地「玉川園」が造られたといわれている。

新宿御苑087ed_convert_20111211203255  新宿御苑089ed_convert_20111211203326

イギリス風景式庭園
ゆったりと広がる芝生と、自然のままにのびのび育った巨樹が特徴。開放的な雰囲気の庭園。

新宿御苑091_convert_20111211201238  新宿御苑092_convert_20111211172822

重要文化財・旧洋館御休所
皇族が温室を利用する際の休憩所として明治29年に建設されたもので、設計は宮内省内匠寮である。旧洋館御休所は、当時アメリカの住宅建築を中心に流行した様式を基本とした瀟洒な外観をもち、意匠的に優れ、高い価値がある。また、明治大正期における皇室関係の庭園休憩施設として唯一の遺構である。

新宿御苑097_convert_20111211233253  新宿御苑094_convert_20111211172857  

ハナノキ(ハナカエデ)とスイセン
新宿御苑101ed_convert_20111211203417  新宿御苑104_convert_20111211222805

新宿門に向かう道
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(参考資料: 財団法人・国民公園協会新宿御苑公式サイト、花の名所案内)

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

入院するということ

12月10日(土)
 しばらく寒く重い曇り空が続き、雨も降り続いた。久しぶりの上天気だ。都内の紅葉は何処に行っても見頃だ。色あせ始めの所も徐々に増えてきている。近くの公園の紅葉も中々のものだ。特に「ハゼノキ」の紅葉は毎年見ているが、特に夕方、西日が丁度「ハゼノキ」を照らす時、炎が燃え上がるような鮮やかな色彩を発する。この木一本だけで公園の紅葉全てを凌駕するほどの赤さなのだ。毎年のこの木の紅葉を見るのを楽しみにしている。

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 公園の紅葉・ハゼノキ                   イロハモミジ

長崎公園紅葉022_convert_20111210130629  長崎公園紅葉018_convert_20111210130609
 ケヤキ                            ノムラカエデ

来週の月曜に入院だ。入院前にやりたいことややり残したことがあるだろうか。特に体調に問題があるわけではないのでやりたいことは出来る。12月3日のももの木交流会と忘年会以降今月のスケジュールは入っていない。家でどうしてもやらなければならないことがある訳ではない。

入院したら外出できないので旅行に行って温泉に入ったり、病院食を食べることになるので、美味しいものを食べておこうと会席料理を食べたりしたが、入院までの時間があったから旅行に行っただけで、絶対に行きたかったかというと必ずしもそうではなかった。母親と妹の旅行に便乗したようなものだ。

入院すれば食べたいものを食べようとしても手に入らないものもある。普段は3食家で食べるが、最近は、外出した時に外食で選ぶのは入院したら食べられないものである。病院帰りに寄る店としては、田端駅前に回転寿司がありここの寿司は中々美味しいのでよく利用する。

また不忍通り沿いに「つけめんTETSU」や「神名備」という評判のラーメン屋があってここでもよく食べる。病院の食堂にもラーメンはあるが、全く味が違う。以前入院中に病院を抜け出して食べにいたことがある位だ。何を食べようかとかと考えて選ぶのは「日本人の好きな食べ物50選」のランキング1,2,3位であった寿司、ラーメン、そしてカレーなのだ。全く好みが一般的なので気が引けるところもあるが、これらの美味しいものさえ食べていれば満足だというわけだ。

入院という状況に置かれると自分は本当は何がやりたいのかといった問いを突きつけられる。入院したらあることが出来なくなって困ったことになるといったことが全くないのならば、自分の日常生活の持つ意味は何なのだろうと考えてしまうことがある。

入院生活と家での生活と何処が違うのだろうか。誰でも治療の必要性があって入院せざるをえない。速やかな治療を行うために早期の入院を望んでいる。また入院していれば体調に変化があったりした場合や苦痛や痛みにもすぐに対応できるから安心であるのは確かだ。しかし誰でも早く家に帰りたいという思いは持っている。

入院生活と自宅の生活の違いは何か。家事はやらなくていい、食事は3度提供される。食べたいものがあれば、差し入れしてもらうこともできるし、売店で買ったり、食堂で食べることもできる。それでも入院患者は早く退院して家に帰りたがる。

その大きな原因は、空間的制限だろう。病院から外に出られないという閉塞こそが入院の最大の特徴だ。また白血球が少なければ空気清浄機付きのベッドから基本的に離れらない。さらに言えば22時就寝6時起床という時間的制約もある。食事時間、定期的検温など病院の日程に従って行動せざるをえない。その他、治療に関連するものと関連しないものがあるが、病院の規則がありそれに従わざるをえない。

治療という事を除けば、全寮制の学校や寄宿舎などに生活する人も似たようなものだ。休暇の時にしか外出できない。時間的にもスケジュール通り行動することが義務付けられている。集団管理をする場所の特徴が病院にもあるという事に過ぎない。

それでも病院という特殊な空間には独特の意味がある。それは生と死を見つめる場所であるということである。それを意識しながらの生活なのである。治療に伴う苦痛が続いたり中々回復に至らない場合、死の問題が意識の奥底で動き始める。そういったものとして病院の生活は存在している。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

血液内科の診療

12月8日(木)
検査結果
IgM   8417(12/8)←7606(12/1)←6281(11/24)←6127(11/16)
白血球 1600←3800←1500←1600
好中球 360←2790←560←540←460
赤血球 243←252←246←278
ヘモグロビン 8.1←8.5←8.0←9.0
血小板 4.1←6.3←5.7←5.3


先週の木曜日の診療でIgMの急激な増加が見られ急遽入院することが決まり、入院手続きをとった。しかし今日に至るまでまだ病院から入院日の連絡が来ない。空きベッド待ちということだったが、そんなに混んでいるのだろうか。

確かに限られたベッドに、全国からがん拠点病院であるこの病院に入院したいという患者が殺到するという状況は理解できる。誰でも最高水準のがん治療を受けたいというのは同じだ。後はその中から誰を選ぶかの問題だ。私の病状は1日2日を争うものではない。緊急に入院しなければならないということでもない。そういったことで後回しにされているのかもしれない。

IgMの上昇が急激だ。8000を越えたのは入院してフルダラビンが効果なく9000を越えてしまった時と、今年の2月の2度だ。入院時の上昇に関しては全く自覚症状はなかった。2月の時にはだるさが増し、すぐ横になりたくなる位の体力の消耗に悩まされた。今回は少しふらつくことはあっても消耗感や体が辛いといった感じはない。

血球の数値が全てにおいて下降している。レブラミド(レナリドマイド)とエンドキサン(シクロホスファミド)は効果がなくなってしまったと思われるが服用を続けている。その影響で下降しているのか。それとも血液中のIgMの増加として現れているように、骨髄の形質細胞が増加し、血球の産生を阻害しているのか、いずれにしても好中球の360というのは極めて危険だ。ヘモグロビンも輸血が必要となる数値にもう一歩だ。血小板数もかなり下がっている。どちらにしても手を打つ必要があるだろう。

病棟のベッドの空きはいまだない。土曜日までに病院から入院日の連絡がなければ、緊急入院という形で対応するほかない。順番待ちだといつになるか全く検討がつかない。来週の月曜日外来の診療を受け、緊急入院という方法で入院することになった。IgMが7600から8400へと急激な上昇を続けている状態の中で、入院を待ち続けるという余裕はもはやなくなり、早急な治療が必要になって来ている。

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川治温泉・鬼怒川ロープウェイ

12月6日(火)
 昨夜は、食事が終ったら眠くなり風呂に行く気力もなく、布団が敷かれるとすぐに寝てしまった。朝は6時前に起きた。9時間近く寝たとことになる。起きて早速風呂に行く。早朝の露天風呂は気持ちがいい。ただ結構人が多く、観光に出かける人達が食事前に風呂に入るということで、この時間がピークではないかと思う。朝食を済ませてから8時過ぎに風呂に行ったら誰もいなかった。皆出立に忙しいこの時間に行くのがいいかもしれない。

帰りの電車で池袋行きを探すが、どうしても限られてくる。15時3分鬼怒川温泉発のスペーシアきぬがわ6号以外にない。池袋には17時12分に着く。旅館のチェックアウトが11時だ。11時18分の会津鬼怒川線の上りで鬼怒川温泉駅に行き、そこで時間を潰して、15時の特急に乗る外ない。

鬼怒川温泉駅周辺でどこか行く所がないか、旅館に置いてあるパンフレットを見ていたら、鬼怒川ロープウェイというのがあった。駅から送迎バスが出ているらしい。ロープウェイの駅には階段があるだろうが少しくらいの距離の上り下りだったら母親も大丈夫だろう。今回の温泉旅行の目的は観光ではなく、母親の気分転換と温泉だからどこかに行くことに重要な意味があるわけではない。かなり行き当たりばったりといった感じでロープウェイに乗ることに決めてしまった。

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 鬼怒川温泉駅前広場・足湯                鬼怒太

鬼怒川温泉駅に着いた。最初に目につくのは駅前広場で金棒を手ににらみを利かせる鬼怒太。設置は平成15年と一番古い。この鬼怒川温泉では「七福邪鬼めぐりスタンプラリー」~約2時間半の鬼怒川温泉散策!というイベントが行なわれている。川治温泉の道祖神めぐりはここから来ている。

鬼怒川温泉には邪気を払い福を招くという「邪鬼」をモチーフとした栃木県益子町在住の陶壁作家・藤原郁三の作品の「鬼怒太」「鬼怒子」の陶像が、鬼怒川温泉駅前広場と温泉街を流れる鬼怒川に架かる各橋の袂に計7体設置されている。

鬼怒川温泉の由来:
古くは滝温泉という名前で鬼怒川の西岸にのみ温泉があった。日光の寺社領であったことから、日光詣帰りの諸大名や僧侶達のみが利用可能な温泉であったとされている。その後、東岸にも温泉(藤原温泉)が発見され、滝温泉と藤原温泉が合わり、現在の鬼怒川温泉になった。深い山あいに続く鬼怒川は渓谷美で有名だが、字のごとく鬼が怒ったような荒々しい流れであったことから呼ばれたと云われている。
 
 ロープウェイの送迎バスについて駅の観光案内に訪ねてみる。12時15分に駅前から出るが前もって電話する必要があるという。電話をしてバスを待つ。8人乗りのワゴンが来る。他に2人の客を乗せてロープウェイの駅に行く。駅前には護国神社と温泉神社がある。温泉神社の奥の院はロープウェイの山頂にある。

送迎バスでロープウェイ乗り場まで送ってもらい、車椅子は山麓駅に置いて、ロープウェイの発車時間より少し早目に改札に入れてもらい、母親はゆっくりと階段を上ってゴンドラにたどり着き、出発を待った。

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 護国神社                          温泉神社

鬼怒川温泉ロープウェイ
鬼怒川温泉山麓駅より標高差300mを3分半で一気に昇る。 山頂には、おさるの山がある。さらに展望台、豊川稲荷の分体を祭った温泉神社があり、毎年8月には、万霊供養や商売繁盛などを祈願する温泉神社例祭が行われる。

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 温泉神社に向う鳥居                   温泉神社

丸山山頂展望台
総ヒノキ造りで、上ると360度の絶景が広がる。目の前に広がる雄大な山並、北側に那須山系の鶏頂山、正面に筑波山、鬼怒川の渓谷美と鬼怒川の街並みが広がり、見るものを圧倒するほどの絶景となっている。天気が良ければスカイツリーが見える場合がある。

川路036_convert_20111208205920 那須山系方面と鬼怒川渓谷

川路037_convert_20111208205945 鬼怒川温泉街の眺望

川路043_convert_20111208210002 総ヒノキ造りの展望台

 展望台からは鬼怒川温泉の町並みの全貌が眺望できる。さえぎるものがない視界の中には周辺の山々が手に取るように間近に見ることができる。展望台、さる山、温泉神社などを見て回る。一本杉まで30分とあったが、往復しなければならないので行くのはやめた。1時間ばかり山頂周辺で過ごして帰りのロープウェイに乗り丸山山頂を後にした。

帰りも送迎バスで駅まで送ってもらった。帰りのロープウェイには何人か乗っていたが皆車で移動している。乗ったのは我々だけだった。駅前の蕎麦屋でゆっくりと昼食を取って、15時3分の列車に乗った。時間的にはうまく回転したといった感じだ。列車が来るまでじっと何時間も待っているということはなかなか辛いものがある。急遽ロープウェイに乗る事を決めたが、それなりに鬼怒川温泉周辺の景色を堪能することができた。後は池袋まで2時間座っていれば着く。

まだ入院日が決まったという連絡が病院から来ない。8日に血液内科の外来での診療が入っている。その日に担当医から状況説明があるだろう。入院前に温泉でのんびりゆったりと過ごし、美味しいものを食べることができたので、入院への心構えは充分だ。後は8日の医者の指示を待てばいいだけだ。

(参考資料: 鬼怒川・川治観光協会公式サイト)

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川治温泉・道祖神めぐり

12月5日(月)
 母親は現在89歳だが、6年前までは海外旅行にもパック旅行に一人で参加し行っていた。国内旅行はJTBで半年に1度位催される「文学散歩シリーズ」の企画があって、著名な作家に関連する場所を文学者や作家の解説で回るパック旅行に出掛けていた。そのために足腰を鍛える意味もあって夕方散歩をするのを日課としていた。

しかし、4年前雨上がりの夕方、散歩の最中転んで3,4ケ月ばかり寝たきりになってしまった。腰の痛みは収まり半年位でどうにか動けるようになった。しかしそれまでこなしていた炊事、洗濯、掃除といった家事を、その後やることはなかった。身の回りのことは出来るので安心だが、今はこたつに入って横になったり起きたりしながら一日中テレビを見ている。腰が治ってからしばらくは近所への散歩などもしていたが、最近は寒くなったせいもあって面倒だといって、一歩も外に出ようとはしない。気分転換に何処かに連れて行こうと妹と話し合った。

妹と母親は昨年川治温泉の「宿屋伝七」という所に泊った。そこから葉書が来て、優待券が送られてきていた。旅館が暇な時期に出すようだ。またリピーターの確保という意味もあるのだろう。まず基本料金から優待料金として2割ばかり引かれる、その外に12月上旬という時期や週末でないということで、さらに2割ほど引かれる。

「宿屋伝七」は川治温泉では1,2を争う旅館だ。通常の宿泊料金はかなり高いが、優待券と時期的な関係で3分の2位の料金で泊れる。妹と母親にとっては同じ所なのだが、母親にとっては何処かに行くことが目的ではなく、温泉が目的なのだから温泉と浴場が良ければいいのだ。

川治温泉は、池袋から鬼怒川温泉駅での乗り継ぎはあるが一本で行けるので便利だ。母親は少しの距離なら歩けるし階段の上り下りは可能だが、基本的には車椅子で移動する外ない。私自身は今週の週末にでも入院するかもしれない。血液内科病棟は管理が厳しく白血球が下がれば病室から出られない日が続く可能性がある。入院前に温泉にでも行ってゆっくりしたいと思った。

こういったことで、母親と妹と3人で川治温泉に出かけることになった。車椅子を押すのは私の役割だ。これでも少しは親孝行になるのだろうか。車椅子は家の近くの特別養護老人ホームから借りることが出来る。

川治温泉由来:
享保8年(1723年)数日間の大雨で五十里の堰が決壊し下流は未曾有の大洪水に襲われ多くの家や人が被害にあった。幸いにも川治村では決壊の危険を感じて高所に非難したため人的被害はなかった。洪水が収まって数日後川治村の筏流しが濁流によってえぐられた川岸から湯煙があがっているのに気づき近づいてみると温泉が湧き出していた。アルカリ性単純泉、怪我に対する効能があるとされ、「傷は川治、火傷は滝(現在の鬼怒川温泉)」と称された。

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 川治温泉街(「宿屋伝七」からの眺め)

鬼怒川、川治温泉に行くのは10時41分池袋発「スペーシアきぬがわ3号」が便利だ。昔は浅草や北千住まで行かなければならなかったが、JRが栗橋までそれ以降が東武線と相互乗り入れして運行するようになった。鬼怒川温泉駅が特急の終点だが、前のホームに会津鬼怒川線の下り列車が止まっていて1分待ちで出発する。

 川治温泉に行くには川治湯本という駅で降りる。この小さな駅にエレベーターがあったのは助かった。最近都内の殆どの駅にエレベーターがあるので車椅子利用者にとっては本当に有り難いことだ。駅には旅館の送迎バスが迎えに来ていてすぐに旅館に案内された。

川治湯本駅から旅館までは5分もかからない。鬼怒川温泉と比べて川治温泉は全体的に小規模だ。川治温泉街は鬼怒川と男鹿川の合流部付近にあり、男鹿川沿いに約10軒の旅館、ホテルがある。

川治温泉の老舗旅館「宿屋伝七」に着く。旅館については次のように書かれていた。「川治温泉の男鹿川上流の平方山を望む地に位置し、自然に恵まれた閑静な環境と観光にも便利な立地が魅力です。自慢の温泉は檜造りの大浴場を始め、男鹿川向きには露天風呂があり、男性用の岩風呂や黒御影石造りの源泉100%掛け流しのジャグジーがある。館内は昔の旅籠の風情があり粋な和風情緒が漂う。旬の食材を使った会席料理は部屋でゆっくり味わえる。」

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 「宿屋伝七」の幟                      ロビー 

広々としたロピーでウェルカムドリンクを飲んで部屋に案内される。部屋は男鹿川に面している。紅葉の時期は鮮やかの色彩が窓枠を埋め尽くしていたのだろう。今は冬枯れの木々が山肌を覆い寒々とした情景が広がっている。1時間ばかりゆっくりして、温泉街を散策しようという事になった。母親を折角連れてきたんだから、気分転換として少し外に引っ張りださなければ家にいるのと同じだ。

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 部屋からの風景・男鹿川                  露天風呂

道祖神巡りコースという企画が川治温泉で行なわれていた。川治温泉郷には昔から親しまれてきた道祖神がたくさんある。道祖神は、集落の境や村の中心、 村内と村外の境界や道の辻、三叉路などに主に石碑や石像の形態で祀られる路傍の神だ。

今回の企画は、昔からある道祖神に加え、川治温泉のキャラクター道先案内役“かわじい”をデザイン制作した益子町在住の陶壁作家・藤原郁三が手がけた益子焼の道祖神を3体新たに設置し、それらをめぐって開運を手に入れるスタンプラリーである。スタンプ6つ全て集めると「開運お守り」がもらえるというものだ。

川路064_convert_20111207160342 川治温泉キャラクター“かわじい”

温泉街も観光客を集めるのに色々苦労している様が伺える。キャラクターの“かわじい”を考案し、道祖神巡りスタンプラリーを企画したり、昨年には川治ふれあい公園を完成させた。公園にはイベントスペースを兼ねた東屋、「かわじいの湯」「結びの湯」の2種類の足湯があり、併設されている「かわじいふるさとの駅」には観光案内を兼ねた休憩所がある。

気温はそれ程低くはないが、山間のせいなのだろうか底冷えがする感じがした。特に何処に行くという目的がある訳ではないので「道祖神巡り」の出かけることにした。旅館の受付でスタンプラリー用の地図付用紙をもらって3人で出かけた。

道祖神めぐりコース
1、「川冶金精神」: 上流にある五十里湖決壊時埋没してしまったが、その後再発見され以降温泉の守り神として親しまれてきた。

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 川冶金精神               腕組型道祖神             合掌型道祖神

2、「南平山」・酒器持ち型道祖神: 土地や黄金の守り神として安置され、平家の盛衰を偲ぶと共に、今後の繁栄を願い酒器を交わしている。
この道祖神は黄金橋を渡った所にある川治あじさい公園の中にある。この公園は約8000平方メートルの敷地にアジサイを中心に色々な花が植えられている。川治温泉には、平家の埋蔵金伝説があり、謎かけのような歌が残されている。黄金橋は、そんな伝説にちなんで命名されたと言われる橋。鬼怒川と男鹿川の合流点に歩行専用の橋としてかけられている。

3、「薬師の湯」・腕組型道祖神: 川治の温泉に浸かり、いつまでも健康で仲良く幸せに、との願いを込めてこの道祖神は男女仲良く腕を組んでいる。

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 薬師の湯                           黄金橋より温泉街方面

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 黄金橋

4、「新男鹿橋」・合掌型道祖神: 江戸と会津を結ぶ街道として栄えた「会津西街道」だが、その新道にも難所があり、重い荷物を背負った馬が怪我をしたり命を落としたりと幾多の困難がつきまとった。その当時の人々にとって馬は家族同然であったため、馬を供養し旅の安全を祈願するため多くの馬力神が安置されている。

5.おなで石: 古くから伝わる御神石で、なでると子宝や安産に御利益があるとされている。隠れたパワースッポット。

川路093_convert_20111207160925 おなで石の祠

6、「川治ふれあい公園」・合川石道祖神: 鬼怒川と男鹿川が合流する地点に位置することにちなみ、出会いや縁結び、子孫繁栄の願いをこめそれぞれの石を抱き合わせた自然石の道祖神。

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 足湯「かわじいの湯」                    足湯「結びの湯」

7、「浅間山」・温泉神社: 川治温泉の中心にそびえる浅間山は多くの神が祀られ古くから神の山として崇められてきた。また川治の源泉は全てこの山の麓から湧き出ていることから、温泉の守り神として祀られている。

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 温泉神社                          神社の拝殿

 途中何ケ所か階段がありその場所では、その度に母親に降りてもらって歩いて移動した。100%車椅子に頼りきっているのではないので、旅行する時の移動も可能なのでかなり助かる。そうでないと階段を車椅子ごと上ったり下りたりしなければならないので、旅行に行っても階段のある所に行くことはあきらめなければならないし、エレベーターのない駅とかでは階段を4人で車椅子を担いで上り下りしなければならない。

途中から母親は寒くなってきたので早く帰りたがったが、ともかくスタンプラリーをやりきり旅館に戻った。体が冷えていたので温泉は、ことのほか体に染み入るものだった。かなり気温が下がってきているのだろう。露天風呂に入ろうとして外に出ようとすると寒くてすぐ扉を閉めて又大浴場に戻ってしまう。大浴場の湯船で体を十分温めやっと露天風呂に入ることができた。

食事は部屋食。会席料理で「お品書き」が渡される。そこには20種類以上の料理が記載されている。会席料理は少量多品種で様々な味を楽しむことが出来る。若い頃であったならば物足りなさを感じるかもしれないが、今の齢だと好みに適している料理だとといえるだろう。家での通常の食事ではせいぜい主菜と副菜だけだから種類が多いと嬉しい。

今まで和食のコースを食べたことがあるが、出された料理次々と食べるだけで、それがどういった流れの中で出されるのか意識したことはなかった。ここら辺で認識を深めておこう。そもそも会席料理とはどういったものか。先付(前菜)、椀物(吸い物)、向付(刺身)、鉢肴(焼き物)、強肴(煮物)、止め肴(原則として酢の物、または和え物)、食事(ご飯・止め椀-味噌汁、香の物-漬物)、水菓子(果物 )といった順番で出される。これ以外にも油物(揚げ物)や蒸し物、鍋物が出ることがある。

いつも安い民宿に泊まっているのでこういった会席料理を食べることなどめったにない。しかし民宿の料理は見栄えはともかくもそれなりに地元の食材にこだわり、その地域の雰囲気を感じさせてくれるものが多くそれはそれで旅行の流れの中で大きな位置を持っている。様々な食事の種類がある。状況に応じてそれぞれを楽しむ心の余裕があればどの料理も限りない魅力を秘めていることを見出すことが出来るだろう。

(参考資料:鬼怒川・川治温泉観光協会公式サイト、川治温泉組合オフィシャルサイト)

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ももの木・釣魚会&忘年会

12月3日(土)
ももの木交流会を終え、釣魚会&忘年会に参加するメンバーは、番町教会から歩いて10分くらいの忘年会会場である中華料理店 美鳳(ビホウ)に向った。この店の最寄り駅は半蔵門駅、麹町駅、市ケ谷駅であるが、半蔵門駅が一番近く、駅から1,2分の所にある。この店の口コミ評価では「雰囲気も良い、料理も美味しい、ただ、昼時はちょっと混んでいて入店待ちの可能性もあり」とあった。

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 美鳳外看板              客室への入口            店内

釣魚会は中華料理店「海老専科」かこの系列の店で何時も行う。釣魚会というのは、海釣りが趣味であるニチさんが前日に釣ってきた魚を皆にご馳走したくて始めた会である。釣り仲間の海老専科の店長とのつながりだろう美鳳の経営者に頼んで釣ってきた魚を調理してもらい、宴会場所を提供してもらい、会費を取り飲み放題で魚料理を堪能するという催しだ。今回は忘年会を兼ねて行<うことになった。

今日の料理のメインはヒラメの刺身だった。ニチさんはももの木のBBSで「前日にヒラメを釣る予定にしています。解禁の日なので天気がよければたくさん釣れると思います」と書いていたが、残念ながらヒラメ釣りは荒天で中止になってしまった。マダラ、白子、イカ、キンメ、マグロがありで食材は豊富だとニチさんから説明された。

その素材を使って店でどんな料理を作ってくれるか楽しみだ。いつも刺身はニチさんがマイ包丁で造ってくれる。今回は昨日ビンチョウマグロを釣った漁師がいたのでゆすってもらったという。生マグロととれたてイカの刺身が出された。金目鯛の刺身もでた。これは珍しく初めて食べたがなかなかの味だった。イカの塩辛はニチさんが昨日釣ったばかりのイカで作ったもので、全く生臭さがなくさっぱりとした美味しさに仕上がっていた。

店が釣ってきた魚をどのように中華料理にアレンジし調理するのか興味深いところである。酒はビールと紹興酒が出た。紹興酒は何年ものかのいい酒らしく、口当たりがなめらかでまったりとして、安い紹興酒にありがちなきついアルコールのピリッとした感じが全くなく飲み易かった。もっぱら紹興酒を飲んでいた。

料理は次から次へと出てくる。刺身とイカの塩辛以外は以下の通り。1、前菜-豚肉の燻製、2、タラの唐揚野菜あんかけ、3、白子のケチャップ風味の煮付け、4、豚肉とカシューナッツの炒め物、5、金目鯛の煮付け、6、マグロのカルパッチョ、7、タラとニラのビリ辛味噌仕立て鍋、8、杏仁豆腐のデザートなどであった。

その外にも2,3出たが思い出せない。大皿をはみ出た金目鯛の煮付けの豪華さが際立って印象に残っている。どの料理も新鮮な魚を中華料理として様々なバリエーションを駆使し調理している。お土産にタラの唐揚野菜あんかけが皆に配られた。

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 前菜・豚肉の燻製                   ビンチョウマグロの刺身

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 マグロのカルパッチョ                 豚肉とカシューナッツの炒め物

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ももの木交流会・釣魚会&忘年会

12月3日(土)
偶数月土曜日定例のももの木交流会が番町教会で行われた。院内交流会が奇数月に行われるのでそれとの調整で偶数月となっている。寒くて冷たい雨が降り続いている。久々の冬日で実際の気温よりも寒く感じるし雨まで降っている。

体力のない患者や色々な後遺症を抱えている元患者にとっては家から出ることに躊躇せざるをえない天気だ。大体皆多かれ少なかれ免疫力が落ちているので風邪を引きやすいし、風邪を引けば肺炎になりやすい。風邪を引いて不参加だという連絡も2,3あったそうだ。今日は交流会の後に釣魚会&忘年会が予定されているがそちらの方の参加も危ぶまれる。

交流会が始まった時には5人しかいなかった。やはり寒くて出るのが辛かったのだろうなと思った。雨も止み気温も上がってきたので、参加を決意して来た人もいるのだろう。最終的には15人ほどの参加者が集まった。

移植の問題が話された。悪性リンパ腫の患者が移植をしたが、移植をするに当たって夫が強く反対したという。医者は移植を勧め彼女はそれに応じ移植を決意した。彼女はまだ40代前半だから、移植をすることに関して年齢的にも体力的にも何ら問題はない。彼女の場合同種移植だったが、移植をした場合、前処理の大量抗がん剤によるその後のかなり長く続く体力減退や、GVHDによる様々な疾患の可能性があった。

化学療法としてはR-CHOPを行なっていた。彼女は移植後2年経っているが、GVHDで辛い物が食べられない。辛いものを口に入れると吐き出してしまうか、急いで水を飲む外ない。また皮膚疾患が慢性的にある。水泡が出来たり、湿疹が全身に出来、その後皮膚が黒くなってしまう。それに対しては免疫抑制剤とステロイドを処方してもらっているが、そのため様々な副作用に悩まされている。移植は後々までも災いを患者に与え続ける。

移植をするかどうかの判断は極めて難しい。移植によって完全寛解を一挙に目指したいといった思いは若い人なら当然だろう。だが悪性リンパ腫の場合、R-CHOPなどの化学療法の後に地固め療法としてリツキシマブを定期的に点滴することによって寛解をめざしている人もかなり多い。高齢者にも移植を勧める医者は多いが、どう根拠で移植をするかどうか判断するのか分からない所がある。

移植関連死が20~30%であろうが、移植を決意した人は自分は大丈夫だと思い込む。確かに完全寛解をいち早く実現しようと思ったら移植は最短の方法だろう。移植によって治療成績は上がり生存率も向上した。

しかし60歳位の人が移植をすることに関しては問題がある。骨髄腫セミナーで三輪医師が言っていたことが印象に残っている。悪性リンパ腫と多発性骨髄腫は違うが、悪性リンパ腫でも治癒に至らない多くの患者がいる。

「治癒の難しい病気の場合、高齢者には完全寛解を目指し移植や強い抗がん剤を使った治療を行うのではなく、生存期間(OS)の延長を目標とすることが必要ではないか。がん細胞の根絶を目標とするのではなく、プラトーの期間の持続延長することが可能な程度の治療がいいのではないか。それによってQOLを維持できることのほうが患者にとって重要なことではないか。」

患者会で知り合った多発性骨髄腫の60歳前後の患者から移植をするかどうか相談を受けた。移植をするぎりぎりの年齢だった。一般的にも体力的な問題があり移植はほぼ60歳までとなっている。彼は2年前発病し、治験で最初からベルケイドを使用していた。今ではベルケイドは初期治療から使えるようになった。しばらく入院してからすぐに職場復帰できた。今も定期的に通院を続けベルケイドの点滴を行いない仕事を継続をしている。

彼は今のように定期的な通院治療ではなく、完全寛解を目指したいということなのだろう。いずれ再発するとしても、移植がうまくいけば5年とか10年とか病院通いから解放される。しかし私のように半年で再発する場合もあるし、移植後の体力消耗や長期の寛解の保障がないということがあるので、今日ベルケイド(ボルテゾミブ)、サレドカプセル(サリドマイド)、レブラミド(レナリドマイド)などの新薬の使用が可能であり、それを駆使して治療を行えば、あえて移植をする必要はないのではないかと私なりの考えを彼に伝えた。

ただし染色体や遺伝子のデーター等によって彼の骨髄腫の性格を判断し、移植が必要とされることもあるかもしれない。そういった根拠で移植をやったほうがいいかどうかの最終判断は医者に任せるほかない。彼はセカンドオピニオンを求め幾つかの病院に行って、そこで医者から移植を勧められ最終的には移植を決意した。

また患者会で知り合った悪性リンパ腫の患者がいて、セカンドオピニオンで医者から移植を勧められたがそれを拒否して、現在リツキシマブによる半年に1度の点滴治療を継続して行っている。彼は強力な治療を受けず、QOLを重んじ、穏やかな延命治療を望んだのだ。

医者は何故移植を進めるのか、交流会に来た医者に聞いて見た。医者が言うには、移植という方法を使わないで後で病状が悪化し、適切な治療方法がなかった時に、移植という方法がありながらやらなかったと攻められたくないという気持ちが強く働くのではないか、と言った。とりわけ高齢者の悪性リンパ腫や多発性骨髄腫患者への移植選択は医者と患者本人にとって難しい問題となるだろう。(つづく)

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和田堀公園

12月2日(金)
 一昨日(11月30日)病院に行った。この日は眼科のみの診療だった。ただの検査だから待ち時間も含めて1時間位で終るだろう、11時予約で12時過ぎには病院を出られるだろうと予測を立てた。最近は曇りや雨が多い。好天の日にはどこかに行きたくなる。2,3日外出していないし、出たついでというのは動きやすい。紅葉情報によると都内の紅葉名所の多くは見頃を迎えている。近場の行きやすい所は行ったことがある。和田堀公園、善福寺緑地の両方が紅葉の見頃を迎えているとあった。

「和田堀池周辺のイロハモミジの赤い葉が水面に映り、イチョウの黄葉と見事に錦の稜を演出します。善福寺川沿いに、サクラ・カエデ・イチョウと多数の樹木が紅葉し、黄色と褐色が見事に川面に映ります。」と紹介されていた。

眼科の診療は予定通り終ったが、会計からの呼び出しがなかなか来ない。どんなに待たされても30分位なものだが、1時間近く待たされて、どうしたのだろうと聞きに行こうとしたら、受信機のブザーが鳴り、「内科診療室に来てください」と表示されていた。今日は血液内科の診療はないのにどうしたことかと思って行ってみると、担当医が今日病院に来ると知ってG-CSFを処方しておいたという訳だ。注射をして、また会計で待って全てが終わったのが13時30分だった。

この時間から和田堀公園周辺を巡るのは時間的にかなり厳しい。社寺遺跡めぐり散歩(高円寺駅-西永福駅5.3Km)といった杉並区教育委員会で紹介されてるコースを考えていたが、それを短縮して、丸の内線の東高円寺から井の頭線の永福町まで歩くことにした。歩き始めた時には既に14時半を回っていた。日没が早いのでどこまで行けるか行ってみる外ない。

東高円寺の駅の階段を上って行くと、目の前に蚕糸の森公園が広がっている。コースにはなかったが紅葉がきれいだったので公園内を通り過ぎるように進んだ。環状七号線まではすぐだ。青梅街道との交差点、高円寺陸橋の所から「セシオン杉並」までは2,3分だ。高円寺陸橋はよく車で通ったことがあって懐かしい気がしたが、歩いて下から見ると全く違ったものとして感じられる。環七にはイチョウ並木があり既に黄色く色づいていた。セシオン杉並の隣に梅里公園があり、その隣が真盛寺である。

蚕糸の森公園
明治44年(1911)ここに農商務省原蚕種製造所が創設され一代交雑種の原蚕種配布を開始した。その後蚕業試験場、蚕糸試験場と名を改め、一貫して蚕糸科学技術の研究を進め、世界の先端をいく蚕糸技術を開発してきた。昭和55年(1980)筑波研究学園都市に移転したため、跡地を公園とした。

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セシオン杉並 
社会教育センターと高円寺地域区民センターの複合施設。学習・文化活動・地域交流などの拠点として、ホール、音楽室、体育室、トレーニング室、集会室などが気楽に利用できる多目的スぺ-ス。

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 セシオン杉並の建物と環状七号線のイチョウ並木

 真盛寺は杉並区で3番目に広い境内を持っている。そのため交通量の多い環七に面しているにも関わらず、境内は全くその喧騒を寄せ付けずひっそりと静まりかえっている。環七に面した入り口から山門への参道の風情は、紅葉の木々を背しながら、京都の古刹を思わせる雰囲気を感じさせた。広々とした境内の庭の手入れも行き届き、全く人の気配のしない静かな佇まいで、山の中にある寺院のような感じを抱かせるものであった。

次に妙法寺に行こうと思っていたが、道を間違えてしまった。たどり着いたのは西方寺という寺院だった。ここはさっと見て、和田掘公園に急ぐ。

真盛寺(天羅山養善院 天台真盛宗の東京別院)
寛永8年(1631)湯島で創建。大正11年(1922)当地に移転。江戸で最初に開かれた天台宗真盛宗の寺である。創建以来、檀家である豪商越後屋三井家の庇護を受け、三井寺とも称された。なお、客殿は細川侯爵豪の屋敷を移築したもので、明治和風建築の粋を伝えている。

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 山門と元三大師堂

和田張り021_convert_20111201064104 境内の情景

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和田張り013_convert_20111201083831 本堂

西方寺(松苔山峯厳院 浄土宗)
本尊は阿弥陀如来坐像。「文政寺社書上」によると、元和三年(1617)四谷追分に開山である本蓮社心誉利道により開創された。開基は徳川三代将軍家光の弟、駿河大納言忠長といわれ、その由緒を称え、忠長の法号「峯厳院」を寺号とし、忠長の豊臣家との縁により、寺紋は「五三の桐」にしたと伝えられている。境内には承応二年(1653)銘の六観音石幢、延宝七年(1679)銘の如意輪観音像など多数の石仏や、明治の豪商山城屋和助の墓、食鳥を供養する鳥塚(明治三十八年造立)などがある。

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 山門と境内の紅葉

和田張り031ed_convert_20111201064328 本堂

 和田堀公園は白山前橋より上流は善福寺川公園(善福寺川緑地)となっている。当初は時間があれば善福寺川緑地まで足を伸ばそうと思っていたが時間的に到底無理だ。西方寺から荒玉水道道路を方南通方面に向かうと途中に小規模な和田掘公園があり、また区郷土博物館がある。

そこには寄らずに、少し行って大宮橋を渡るとメインの和田掘公園に入ることができる。川沿いのサクラの紅葉が鮮やかだ。しばらく川沿いを行くが、公園は野球場や八幡下運動場などの広場になっている。その先には2つの島がある和田掘池を囲み鬱蒼と木が茂った公園の中心地があり、そこにたどり着いた。池を囲む紅葉が池面に映り、中央の噴水も情景に一役買ってなかなかの雰囲気をかもし出していた。松ノ木遺跡は池を越えてさらに公園を進み、釣堀武蔵野園の脇の坂を上がり松ノ木運動場の脇にあった。

松ノ木遺跡は、明治時代に発見された旧石器時代~歴史時代にかけての区内最大規模の複合遺跡だ。また昭和44年大宮八幡宮の境内の北端につづく旧境内地から弥生時代の祭祀遺跡が発掘され、この地は太古からの聖域であったといわれた。大宮遺跡や方南町峰遺跡群(方南町峰・峰南・方南・峯・釜寺東 釜寺-善福寺川と神田川の合流する直前の台地上に位置する、旧石器時代~古墳時代にかけての複合遺跡)や下高井戸塚山遺跡など、183ケ所の遺跡が発見されている。

都立和田堀公園
白山前橋から下流、済美橋まで12の橋にまたがる公園。和田堀周辺はもともと地盤が低く、善福寺川の氾濫などで自然に池ができるような地形だった。昭和30年代の中頃、河川を改修したときに人工の池を造り、周辺を整備して公園にした。この和田堀池は、深い緑に囲まれて静かな雰囲気をかもしだしている。池には大小二つの中島があり、都内では数少なくなった珍しい野鳥が棲んでいる。

和田張り038_convert_20111201064421 荒玉水道道路沿いの和田堀公園

和田張り040ed_convert_20111201064449 大宮橋より善福寺川

和田張り041ed_convert_20111201064524 大宮橋より善福寺川河畔

和田張り045ed_convert_20111201064553 宮下橋周辺・サクラ広場

和田張り055ed_convert_20111201064650 和田堀池

松ノ木遺跡
善福寺川北岸の台地に位置する松ノ木遺跡は、先土器・縄文・弥生・古墳の各時代が昆在する区内でも最大の複合遺跡で、園内には竪穴住居が復元されている。この復原住居は昭和25(1950)年に「方南峰遺跡」で発見され調査された古墳時代後期の住居址をモデルとした。内部には、当時行われていたと考えられる生活の様子が展示されている。付近一帯には古代人の大集落があったと考えられる。川沿いの低地では弥生時代、水田耕作も行われていたらしい。また、その低地が一望できる対岸の高台には、弥生時代の族長の墓とみられる大宮遺跡がある。

和田張り059_convert_20111201064731 竪穴住居の復元

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 段々と夕闇が迫ってくる。最後の訪問予定地大宮八幡宮に向った。松ノ木遺跡からは5分位なものだ。八幡宮には既に明かりが灯っている。神門をくぐると目の前に本殿が威風堂々と建っている。本殿の中には煌々と明かりが灯っている。境内は広く、祈祷案内の社務所や結婚式場の清涼殿、お神輿庫、宝物殿などがあり、末社として御嶽・榛名神社、若宮八幡神社、白幡宮、大宮天満宮、大宮稲荷神社、大宮三宝荒神社などが祀られている。

段々と暗くなる。表参道はそこそこ距離がある。竹林が左側に広がって静けさを増して来ているようだ。夕闇が強まるにしたがって所々にある明かりが道を照らし出してきている。表参道の二之鳥居をくぐり、さらに一之鳥居をくぐった時にはかなり暗かったが、そこはかと明かりの灯る夕方の神社も、また何時もとは違った荘厳さのようなものを感じさせてくれるものだった。したくても出来るものではないのでいい経験となったといえるだろう。

表参道を出て京王井の頭線の永福町駅に向った。思ったより時間がかかった、あたりはすっかり暗くなり、さびれた商店街のコンクリートの道を30分以上も歩くというのは疲れている時にはなかなかしんどいものだ。永福町駅に着いたのは17時になってしまった。日没までにゴールという訳にはいかなかったがそういったこともあるだろう。

大宮八幡宮
武蔵国の三大宮の一つで「多摩の大宮」とも呼ばれ、境内は15,000坪と都内でも3番目の広さを持つ。境内は樹齢を経た大樹がうっそうと繁る。康平6年(1063年)に源頼義が前九年の役の帰途、石清水八幡宮から分霊して当地に創建した。その子八幡太郎義家公も後三年の役のあと、父にならい当宮の社殿を修築し、境内に千本の若松の苗を植えたと伝えられている。神社付近が東京のほぼ中央に位置することから「東京のへそ」という異名も持つ。

和田張り066_convert_20111201203749 神門 

和田張り067_convert_20111201064910 本殿

和田張り070_convert_20111201064946 男銀杏(左)、女銀杏

和田張り077ed_convert_20111201065032 一之鳥居と表参道

(参考資料: 杉並区教育委員会・杉並区史跡散歩コース案内、TOKYO TEMPLE GUIDE・東京寺院ガイド)

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血液内科の診療・入院が決まる

12月1日(木)
検査結果
IgM   7606(12/1)←6281(11/24)←6127(11/16)←6376(11/9)
白血球 3800←1500←1600←1700
好中球 2790←560←540←460←420
赤血球 252←246←278←284
ヘモグロビン 8.5←8.0←9.0←9.4
血小板 6.3←5.7←5.3←5.6


IgMが一気に1300以上上昇した。一週間でこれほど激しい上昇は2月の入院前の時にあった。2月入院した時の上昇パターンと同じだ。その時は8400(2/2)←6738(1/26)←4916(1/19)という上昇だった。先週先々週とIgMが抑えられていたが、そのたがが外れて一気に上昇したという感じだ。

今の3種併用療法は段々効かなくなってきているのは分かっていたし、1週間に500ずつ上昇してきていたので、7000を超えるのは時間の問題だった。しかし、こんなにも急に上がるとは思わなかった。入院は覚悟していたが、いわば唐突に迫られたといった感じだ。心のどこかには、もうしばらくは今の治療の継続でIgMの上昇がこのまま抑えられるも知れないといった期待を抱いていたのは確かだ。それが突然衝撃的な数字を示されたといった感じだ。

白血球がこれも突然のことだが、急に3800に増えた。好中球も2790と基準値並みとなった。昨日、眼科の診療で病院に来ることを知って、担当医がG-CSFの注射を予約しておいてくれた。それが効いたのだろうか。骨髄抑制の強いベンダムスチン療法をやるに当たって、白血球の数値の上昇は極めて大きな意味を持っている。この位の数値があれば問題なくベンダムスチンの治療が始められる。ヘモグロビンや血小板の値もまずまずだ。

入院手続をした。入院日はベッドが空いたら連絡が来ることになっている。1週間位は待たされるだろう。通院治療を行いながら、通院で使える薬が効かなくなったら入院して治療する。そのパターンを繰り返しながら、時には、新薬の認可を待って、それを使いながら延命治療を続けていくほかない。そういったものとして治療の方法を受け止めなければならないだろう。

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がん治療とは長く細い道を辿ら
なければならない。その先に希
望があると信じながら。

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