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ももの木・新年会「クロスダイン」

1月28日(土)
 ももの木の新年会が昨年と同じ池袋メトロポリタンホテル「クロスダイン」で行なわれた。11時半から15時という時間設定だが、16時までは席にいることが出来る。ただ、15時には食べ物の提供が終わり、15時30分には飲み物の提供が終る。

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「クロスダイン」のバイキングは和・洋・中の専門シェフによる全50種類もの料理とスイーツが揃っている。それを好きなだけ取ってきて食べられる。飲み物はコーヒー、紅茶のアイスとホットが飲み放題だ。アルコールは別途料金を払って個人的に頼む。時間・数量限定のタイムサービスがあって、日替わりでスペシャル料理が登場する。今日のは海鮮茶碗蒸で上にあわびの切れ端が二つ入っていた。

大体1時間位で好きな料理を食べお腹一杯になってしまう。さらにスイーツや果物を幾つか食べようと皿に盛ってくる。お腹はいいがこれは別腹でどうにか入る。ここまででもはや食べ物は必要なくなる。最初はどの料理がいいか考えながら皿に盛ってきて、食べるのに熱心であまり会話が弾まない。しかし1時間もすると大方食べ終わりコーヒータイムになって、隣の人との会話が始まる。それがまわりに波及して4、5人のづつの会話の輪が出来てくる。

 30人近くの人が集まった。血液がんの患者と患者経験者が中心で、その家族が参加した。これだけの患者が集まると血液がんの大体の病気が揃う。その中で現役の患者としては、私と慢性骨髄性白血病の人と、特発性血小板減少性紫斑病、骨髄異型性症候群の人だ。

後の患者は寛解後4,5年経ってもう再発はないだろうという人達だ。大体こういった所に来るのは病気の後遺症が若干あったとしても体調的には元気で何処にでも出歩ける体力をもっている人達だ。

こういった会に参加すると血液がんになっても元気になれるのだと思ってしまう。しかし抗がん剤による疲労感や倦怠感に苛まれて参加できない患者もいる、強いGVHDに苦しんでいる人も参加は難しい。そしてさらに患者の中には生き続ける事が出来なった多くの人もいる。リレーフォーライフに参加した、2組の親は20歳前後の娘と息子を白血病で亡くした。

患者会に参加する人は、様々な患者の在り様のごく一部しか経験したことがないかもしれない。しかし多くの患者は死を見つめたことがあるだろうし、患者会に参加したくても体調が思わしくなく参加出来なかった経験を持っているかもしれない。

患者会に参加している人達は患者としての様々な経験を持っているし、どちらかというとそれを自己対象化して自分の中で整理できている人が多い。それを共有し、患者経験者として困難な生き方を強いられている人が、何らかのヒントを得ることができるのではないか。そういったものとして患者同士の会話は大きな意味を持っている。

 現役患者として、話は同じ治療中の人との話になる。CMLの患者の人はグリベックを服用しているが、この間腎臓の機能が低下している。ある時尿が出なくなって利尿剤をもらった。利尿剤を使っている間はむくみとかはなくなるが、あまり使い続けたくない。腎臓の状態の数値を示す、クレアチニンは1.5あり、GFRは40少ししかない。それでも主治医は腎臓の治療を行おうとしない。これをどうしようかという話をした。

特発性血小板減少性紫斑病の患者は30年前に病名を告知されてから、3ケ月に一度の経過観察だけで、今まで何の治療も行っていない。難病であるので難病認定を申請したことがあるが、何の治療もしていないので却下された。またこの病気であるという事を会社に言おうか言うまいか迷ったが結局言わなかった。そのため血球が少なく慢性的な倦怠感があり、仕事上にはかなり差し支える。まわりからはサボっている、手を抜いているなど陰口を言われてきたがじっと30年間我慢し続けてきた。どうにか会社には席を確保できている。

骨髄異型性症候群の人は、6年前に発症したが移植の話は全く出てこない。輸血とステロイド剤でしのいでいるといった感じだ。医者に言っても新たな治療法に移行する気配は全くない。このままでいいのかと悩んでいた。今日の新年会に参加した血液内科の医者と長々と話していたので、少しは方向性が見えたのではないか。どちらにしてもセカンドオピニオンを受けた方がいいだろう。

16時まで時間があったので、席を替わりながら色々な患者と会話を交わした。移植後の後遺症、退院後の生活、仕事の現状など様々な課題をそれぞれの患者はかかえている。そういった中で、再発の不安をいつも感じながら自分の生活を維持していく努力をせざるをえない。
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テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

血液内科の診療

1月25日(水)
検査結果
IgM   2364(1/25)←2259(1/18)←2887(1/11) ←3814(1/4)
白血球  3000←2200←3300←1700
好中球  960←510←500←410
赤血球  299←245←284←313
ヘモグロビン  9.6←7.6←8.7←9.8
網赤血球  18←8←3←3
血小板  5.3←2.8←1.4←2.4


IgMの下降が止まった。100程上昇している。ベンダムスチンの効果が弱まってきた。100位の上昇だからまだ少しは役に立っているのだろう。次の第2クールに入る外ない。薬の量をどの位にするのか、何時からはじめるか医者と色々論議した。180mgを2日に分けて点滴した方が体に負担をかけないのか。薬は少なすぎても効果がでないのではないか、多すぎると副作用がかなり強く出るだろう。量の決め方も難しい。

もう少し様子を見るために1日ではなく8日にするか。8日まで待つとIgMがかなり上昇してしまう恐れがある。どのような方法をとるのかそれを判断する臨床例が乏しく、やってみないと分からない。結論として、180mgを1日で静注する。2月1日に行う。

ベンダムスチンの効果が弱まってくるのと比例して、血球の数値が上昇してきた。先週輸血をせざるをえなかった赤血球の数値も上がり、ヘモグロビンも大幅に上昇した。網赤血球が18になっている。赤血球はもっと上昇するだろう。白血球や血小板も次のベンダムスチンの投与に耐えられる数値になっている。何時でも治療を開始出来る状態であるということだ。

担当医が「君は運がいいね、間もなく新薬が開発されそれを使用することができる。薬の名前は忘れたが、第一三共で発売される」と言った。調べてみると第一三共で扱おうとしている抗がん剤に関する記事があった。この薬かどうか分からないが、とりあえず引用してみる。

第一三共は2011年11月、米国のバイオベンチャーArQule社から、抗がん剤を目指し創製されたAKT阻害剤「ARQ092」の全世界での開発、製造、販売に関する独占的ライセンス契約に合意したと発表した。経口剤。11年度中に米国でフェーズ1に着手し、その結果を踏まえて標的がん腫、試験実施地域などを判断するとしている。標的とするAKTは、がん細胞の増殖や血管新生に関与し、多くのがんでその活性の異常が認められているという。(ミクスオンライン・エクスプレス)

テーマ : 思ったこと・感じたこと
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特別展「北京故宮博物院200選」

1月24日(火)
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北京故宮博物院のコレクションから選りすぐりの名宝200件が出品される「特別展」が国立博物館の平成館で2月19日まで行なわれる。このような大規模な展示会にしては期間が短く、うっかりしていると終ってしまう。
昔台湾の故宮博物館に行ったことがある。ツアーだったので1時間位しか時間がなく、ほんの一部しか見ることができなかった。長い歴史を持つ中国の美術品を心いくまで鑑賞したいという気持ちをずっと持っていた。

「特別展」にいつ行こうかと思っていた。「北京故宮博物院200選」のホームページを見ていたら、中国が世界に誇る至宝、中国美術史上屈指の名画といわれる「清明上河図」(北宋時代)が出品されている。しかし展示期間が24日今日までだということだった。昨日の雪で道は滑り易く、気温も低かったが、今日行く外ない。

上野駅の公園口の改札の傍に、上野の博物館、美術館の入場券を売っているコーナーがある。そこで「北京故宮博物院200選」の入場券を買えるのだが、窓口の所に、入場規制を行なっていて、会場に入るまでの待ち時間が50分と書かれていた。さらに「清明上河図」を見ようと思ったら5時間並んで待たなければならない。

「清明上河図」を5時間待って見ることは諦めた。しかし平成館の前のロータリーで並んで50分待つどうかは思案のしどころだ。ともかく国立博物館の平成館に行ってみる事にした。状況を見て「特別展」は別の機会にして常設展でも見ようと思った。

上野公園は雪が残り、木々に雪が積もり全く別世界のような雰囲気をかもし出している。晴れ渡った空と雪の白さが絶妙なコントラストを作り、太陽の光が雪を照らし、きらきらと輝きを放っている。木々の枝には雪が積もりあたかも白い花のようだ。最初見たときには白木蓮が花を咲かせているのかと思った位だ。国立博物館も雪に囲まれている。古い建物が雪に覆われるとかえって建物の美しさが際立ってくる。

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国立博物館の入口の入場券売場では待ち時間40分になっていた。少しはましだ。待つかやめるか考えたが、日が照っているのでそれ程の寒さは感じない。この気温だったら40分屋外で待つこともできるだろう。結局入場券を買った。平成館で並ぼうと思って本館の方を見ると、2つの建物の間に丁度収まるかのようにスカイツリーが姿を見せていた。

平成館に行くと200人弱の人が並んでいる。以前「空海と密教美術展」に行った時に40分待ちと書かれていたが20分で入れたのでそれを期待する。25分で会場内に入れた。入場規制をしていても会場内はかなり混み合っている。

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特別展「北京故宮博物院200選」開催の趣旨
明時代の永楽帝から清時代の宣統帝溥儀(せんとうていふぎ)まで24人の皇帝が居城とした紫禁城に由来する北京故宮博物院は、壮麗な宮殿建築と180万件を超えるコレクションを誇る。この展覧会では、それらの貴重な文物から200点が選ばれ出品される。

第1部:今まで門外不出とされていた宋・元時代の書画41件の展示をはじめ、宮廷絵画や文人画の名品、書のファン必見の宋三家、元代文人の名品を一挙公開する。器物では青銅器・玉器[ぎょっき]の傑作や、汝窯[じょよう]の名品が、漆芸では幻の巨匠である張成[ちょうせい]、楊茂[ようも]の作品が、ずらりと並ぶ。

第2部:清朝300年の豊かな世界観をご紹介する。清朝は第6代皇帝であった乾隆帝[けんりゅうてい](在位1735~1796)によって最盛期を迎える。この展示では乾隆帝の4つの肖像画を軸に、大清帝国の夢見た多文化共生の世界観を読み解いていく。北京故宮ならではの歴史の証人となる文物によって、清朝の宮廷世界を大規模に紹介する。


最初に書跡が並んでいる。書道ファンであればかなり興味を引かれるだろう。ファン必見の宋四大家のうち、黄庭堅(こうていけん)、蔡襄(さいじょう)、米芾(べいふつ)の名品を観ることが出来るのだ。書道についての造詣があれば展示品のもつ歴史的意味や今日どのように評価され、日本においてどのような流れを作っているか分かるだろうし、そうなればより個々の書道を見る目も違ってくるだろう。そしてもっと面白く書道を鑑賞することが出来だろうとつくづくと思った。しかしそういった知識がなくとも、展示された作品の造形的美しさを感じることは可能だし、十分に楽しむことは出来る。

書跡の他に絵画、考古、陶磁、漆工、琺瑯(琺瑯)、染織など名品が数多く展示され、それぞれが中国の文化的水準を感じさせる。そしてこういった美術品が散逸せず故宮博物院一箇所に集められ管理されていることにも感動せざるを得ない。

第2部は4章で構成されている。礼制文化、文化事業、宗教、国際交流として展開されている。その中で特に興味をひいたのが、康熙帝南巡図巻で第11巻と第12巻のものがある。10m位の絵巻物になっている。玉鋤(おうき)等筆で清時代・康熙30年(1691)に製作された。製作に6年かかったという。

これは、一つは康熙帝が江南へ巡幸したときの様子を描いており、皇帝の徳治のもと生活する人々の姿が鮮やかな色彩で表現されている。もう一つは、康熙帝が紫禁城に入場するさまが描かれていて、紫禁城に至る幾つかの門も描かれていて、現存する門の写真が絵巻物の上にあって比較しながら見ると面白い。

展示会場の最後にあるのが「清明上河図」である。この本物は5時間待たないと見られないが、その絵巻物の全体と主要部分の拡大写真が飾られていて、それを見れば「清明上河図」に何が描かれているのかよく分かる。写真が飾られている通路と平行して本物が飾られているので、背伸びをすると本物の上部が少し垣間見られる。背の高い人だったらもっと見られるだろう。

「清明上河図」は、北宋の都・開封(かいほう)(現在の河南省開封市)の光景を描いたものと言われていて、張択端(ちょうたくたん)作。全長約5メートル、縦24センチの画面のなかに登場する人物は773人。藷竕ヘ(べんが)の流れに沿って、市民の生活が衣食住にいたるまで細かに描かれ、庶民の幸せな日常生活が画面に満ち溢れている。宋代の風俗を知るためにも一級の資料である。

12時に入場して出たのが14時半だった。200選というから、すぐ見切ってしまうだろうと思っていたが、平成館の2階全部を使っての見応えのあるかなり大量の展示であった。入場者が多くなかなか展示物に近づけなかったので時間がかかったこともある。平成館の1階の会場では、故宮博物院と展示物に関するDVDの上映もやっていた。平成館を出る時には誰も並んでいなかった。「清明上河図」の待ち時間も210分となっていた。それでも待って見る気はしなかった。

(参考資料:「北京故宮博物院200選」公式HP、国立博物館公式HP)

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ジャンル : 日記

氷川神社・芝大神宮・品川神社

1月18日(水)
七福神めぐりのサイトを見ていた時に、「東京十社めぐり」というコース案内が掲載されていた。東京十社は以下の10の神社が指定されている。王子神社、氷川神社、白山神社、亀戸天神社、根津神社、富岡八幡宮、神田神社、芝大神宮、日枝神社、品川神社。

十社の成立については次のように書かれていた。「明治天皇は、東京の鎮護と万民の平安を祈願され、明治元年11月8日、准勅祭神社(じゅんちょくさいじんじゃ)として東京十社を定め、勅使をして御幣帛(ごへいはく)を捧げ、ご祈願しました。」そして昭和50年、昭和天皇のご即位50年を奉祝して、元准勅祭神社である東京十社を巡拝する十社めぐりが企画され、「東京十社めぐり」が始まりまったということだった。この十社の中で行っていない所に行ってみようと思った。氷川神社、芝大神宮、品川神社の3ケ所である。

血液内科の診療は11時頃終わり、G-CSFの注射と会計をして、病院を出たのが12時前だった。輸血を明日にしたので珍しく早く終った。外に出ると風がないせいか暖かく感じる。これなら散歩にも丁度いい陽気だ。木枯らしが吹いていたらさっさと家に帰る外ない。診療が早く終ったら行こうと思っていた三社めぐりに出発した。行っていない三社は全て南方面にあるので行き易い。

千代田線の西日暮里から赤坂まで行く。駅から氷川神社までは10分位の距離だ。赤坂通りを左に曲がればすぐのはずだが、途中から急に道が細くなり何処を曲がっていいか分かりにくい。本氷川坂と書かれた白木の柱が立っていたので、その急坂を上って行くと丁度本殿の横手に出た。参道を通らず直接本殿が目の前にあるといった感じだった。

額堂で中をのぞいていると、境内を掃除している人が中の電気がつくといって、額堂の柱にあるスイッチを入れてくれた。残念ながら電気の光が弱くてはっきりとは見えなかった。恐らく年何回かは扉を開けて絵馬を間近で鑑賞できる日があるだろう。ちゃんと見ようと思ったら、そういった時を狙っていく外ない。
 
氷川神社
天暦五年(951)赤坂一ツ木に創祀以来、江戸幕府の尊信あつく、紀州徳川赤坂屋敷(旧赤坂離宮)の産土神の由縁によって享保14年(1729)吉宗公八代将軍職を継ぐに至り、赤坂今井台に神徳を謝し現社殿を造営、八代より十四代家茂公まで歴代の直拝朱印状が納められている。

東京十社002ED_convert_20120119084229 氷川神社本殿

氷川神社のイチョウ: 氷川神社の境内には、大きな古い銀杏の木が2本ある。これは港区指定文化財で天然記念物であり、目通り(地上1.5mの高さ)の幹径約2.4m、幹周約7.5mを測る推定樹齢400年の巨樹である。

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 楼門と大イチョウ

額堂: 額堂内に掲げられているのは、月岡芳年筆の「『ま組』火消し絵馬」とともに6点の絵馬である。江戸時代末期から明治初期にかけての著名な画家・河鍋暁斎や月岡芳年・柴田是真の描いた絵馬が含まれている。

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 参道                             額堂

石燈籠: 門内の本殿前に立つ2基は、赤坂表伝馬町・裏伝馬町・元赤坂町(現在の元赤坂1~2丁目)の講中が、享保9年(1724)閏4月に奉納したもの。門外の2基は、遷座の年に岡崎城主老中水野忠之が奉納したものである。

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 石灯籠                            山口稲荷神社

氷川神社から芝大神宮に行くには、六本木から都営大江戸線で大門まで行くのが便利だ。芝大神宮は大門の駅から3,4分という所にある。氷川神社から六本木駅に向って歩き始めた。高層ビルが回りに林立していてみな似た様な感じで目印になるビルがない。六本木通りに出れば駅までの道は分かるのだが、氷川神社は高台にあるので六本木通りに出るには坂を下っていけばいいと思って適当に歩いていった。

南部坂を下って六本木通りに出たが、アークヒルズの前だった。南に向うつもりが東に行ってしまった。地図はあったが磁石も必要だ。駅に行くのにかなりの遠回りになってしまった。アークヒルズから地下鉄駅の六本木交差点までは15分位かかった。氷川神社からは30分位歩いたことになる。

十社めぐりガイドには神社から大江戸線の六本木駅までは6分と書かれていた。ウォーキングも目的なのだから歩くのは問題ないないが、道を間違えたということによって、適当に行った場合正しい確率は東西南北の何処かで4分の1でしかないという事を改めて認識したわけだ。

都営大江戸線の大門駅で降りて、芝大神宮への出口を探す。A6という出口なのだがこの出口に行くのが大変だ。都営浅草線のホームを経由していかなければならない。むしろ一番近い出口で出て、外を行った方が分かりやすいのではないかと思う。

地上に出ると芝大神宮の幟が何本かはためいていて、看板に道案内が書いてある。中々親切だ。今は受験の季節。受験の神様として受験生を集め色々なご利益グッズを販売している。初詣、節分、七五三と季節ごとの行事に人を集めそれで収入を得るのだから熱心になるのも無理はない。また初宮参りの祈祷や結婚式場の経営、あらゆる分野の祈祷と色々忙しい。神前祈祷だけでなく出張祭典なども行なっている。境内には、やはり今の季節、若い受験生らしき人の参拝者が多い。

芝大神宮
芝大神宮は、伊勢神宮の御祭神、天照大御神(内宮)、豊受大神(外宮)の二柱を主祭神としてお祀りしている。御鎮座は遠く平安時代、寛弘二年(1005年)一条天皇の御代に創建された。古くは、飯倉神明宮、芝神明宮と称され鎌倉時代においては、源頼朝公より篤い信仰の下、社地の寄贈を受け、江戸時代においては、徳川幕府の篤い保護の下に社頭はにぎわい大江戸の大産土神として関東一円の庶民信仰を集め、「関東のお伊勢さま」として数多くの人々の崇敬された。その当時の賑わいは、広重の錦絵に窺うことができる。

東京十社013ED_convert_20120119084756 大鳥居

東京十社015_convert_20120119091947 芝大神宮本殿

大門駅は都営大江戸線と浅草線が通っている。今度は浅草線に乗って品川に行き、京浜急行で新馬場に向う。品川神社は駅から2,3分の所にある。第一京浜を渡り、急な石段を登ると第2の鳥居がありその奥に本殿がある。本殿の周辺には阿那稲荷社、御嶽神社、清滝弁財天社、浅間神社、猿田彦神社などの末社が点在している。

富士浅間神社の横に富士塚がある。富士山の溶岩を持ってきたのかごつごつした岩肌の小山である。この品川富士には登ることができるのである。急な狭い階段で足場は良くないが鎖の手すりがついているので登ることが出来る。頂上に登ると、そこは平たいコンクリートの広場になっていて、展望台として、品川周辺の景色を眺望することができる。神社も中々気の利いた事をするものだと感心した。

十社全て行ったとしても、それが何らかの意味を持つものではない。十社を1日か2日かけて回る「十社めぐり」であれば何らかの意味があるのかもしれない。「七福神めぐり」と同じだ。10月10日が「十社めぐりり」の日だということだ。その日には、それぞれの神社で「東京十社絵馬」という小型の絵馬が授与される。また「東京十社めぐり」専用の御朱印帳が売られていて、各社の御由緒、アクセスなどが記載されている。

品川神社
後鳥羽天皇の御世、文治三年(1187年)に、源頼朝が海上交通安全と、祈願成就の守護神として、安房国の洲崎明神である、天比理乃命(あめのひりのめのみこと)を勧請して、品川大明神と称した。今は社名を品川神社と改めた。品川の鎮守といわれている。荏原神社を南の鎮守と言うのに対し、北の鎮守として親しまれ通称「北の天王」という。この一帯の「品川」という地名の由来でもある。

東京十社023_convert_20120119084954 品川神社入口

東京十社028ED_convert_20120119085047 品川神社本殿

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 第一の鳥居                         第二の鳥居

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 神楽殿                           富士浅間神社

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 阿那稲荷神社                        阿那稲荷神社拝殿

富士塚: 富士山を信仰する富士講という団体の人々が、富士山を遥拝する場所として造った人造の山。品川神社富士塚は、明治2年(1869)に、北品川の丸嘉講(まるかこう)の約300人によって造られ、その後大正11年(1922)に、第一京浜国道の建設のため西に数十メートル移動して、現在の場所に再建されたものである。

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 品川富士                           富士塚登り口

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 ふじかえる                          猿田彦神社(旅の神様・草鞋を奉納)

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 天王洲の高層ビル群                    品川方面

(参考資料:東京十社巡り詳細ガイド)

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血液内科の診療

1月18日(水)
検査結果
IgM   2259(1/18)←2887(1/11) ←3814(1/4)←4710(12/28)
白血球  2200←3300←1700←2100
好中球  510←500←410←780
赤血球  245←284←313←298
ヘモグロビン  7.6←8.7←9.8←9.3
網赤血球  8←3←3←5
血小板  2.8←1.4←2.4←2.4


IgMの減少が続いている。ベンダムスチンの威力を今更ながら感ぜざるを得ない。多発性骨髄腫の患者は様々で誰でもが奏効するわけではないが、私ヘの奏効は他の患者の治療選択肢を増やすことに役立つだろう。まだ臨床例れが少ないので、医者としてはどうしても他に選択肢がない患者のみに使用することにしているのだろう。臨床例が増え副作用ヘのデーターで安全性が確認されればもっと使用例が増えるだろう。

今度は赤血球が減少した。8を下回ったので輸血をすることにした。今日やるとすると準備にかなり時間がかかり、先週の血小板の時のように終わりが17時ということになるだろう。結局、明日10時から行うことにした。輸血は2時間かかる。これだけだったらそれ程負担にはならない。

あいかわらず好中球が少ない。風邪とインフルエンザの季節かなり注意が必要だ。G-CSF(グラン)の皮下注射を今日と明日続けて行うことにした。

ベンダムスチン療法前後のIgMの推移
無題

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ジャンル : 日記

常備薬の必要性

1月16日(月)
 帯状疱疹神経痛鎮痛薬リリカカプセルを先週の水曜日、血液内科の診療の時に処方してもらおうと思って忘れてしまったが、家に帰って薬箱を見たらまだ10日分位が残っていた。神経痛の痛みが増したら何時でも使用できると思うと安心だ。

2006年最初に帯状疱疹神経痛になった時には、MS鎮痛冷シップを貼り、それがあまり効果がなかったので、抗てんかん剤テグレトールや抗うつ剤パキシルなどを服用したり、神経ブロックなどを行なった。

2010年4月に帯状疱疹後神経痛治療剤「リリカカプセル」(一般名:プレガバリン)が認可され10月から発売された。これは帯状疱疹神経痛専用の鎮痛薬として開発されたもので、実際にかなり効果的である。リリカカプセル発売以降、テグレト-ルやパシキル、ガバペンなどは鎮痛剤として使用されなくなったのではないか。

 専用の薬箱には在庫している薬が幾つかある。病院に行くのが週一度か2週間に一度なので、何かあった時にはこの中の常備薬で対応するしかない。また移植退院以降毎日服用しているバクタ(合成抗菌剤)、フルゴナゾールカプセル(抗真菌剤)、コートリル(ステロイド)、ベザトール(高脂血症予防薬)、オメプラール(胃薬)、最近追加されたアロブリノール(高尿酸血症予防薬)が予備として一週間分位入っている。

サリドマイドを服用すれば便秘になりやすい。マグミットで対応する。それでも駄目な場合はプルセニドを服用する。デキサメタゾンなどステロイドを使用すると眠れなくなる。そういった時にはマイスリーの世話になる。帯状疱疹も発症したらなるべく早く薬を飲んだ方がいい。そのためバルトレックスを常備しておく必要がある。神経痛の痛みが増したらリリカカプセルを服用する。発熱した場合カロナールを時間を決め飲む。

朝晩と毎食後の歯磨きの後アズノールでうがいする。口腔ケアをちゃんとしていると風邪をひかないという。白血球数値が下がってきたら口内炎になりやすい。口腔ケアをより一層心がければ口内炎は防げる。

 専用の薬箱を見てみたら以下のような薬が入っていた。処方されて余ってまだあるものと、必要に応じて使って欲しいと医者に指示された薬がある。主に頓服薬で胃腸関係・鎮痛・解熱・睡眠などで必要な時に自分の判断で服用している。

ガバペン200mg   鎮痛補助薬、ベルケイドによる抹消神経障害性疼痛の緩和で使用、「抗てんかん剤」
パキシル10mg   帯状疱疹神経痛の緩和。「抗うつ薬」
リリカカプセル75mg 帯状疱疹神経痛、末梢性神経障害性疼痛に有効な鎮痛薬
MS鎮痛冷シップ  帯状疱疹神経痛鎮痛湿布
バルトレックス500mg 帯状疱疹薬、ヘルペスウイルスに効く抗ウイルス薬
コントミン12.5mg   デキサメタゾン使用時のしゃっくりを止める。「統合失調症薬」
アストミン10mg    咳止め
マイスリー5mg     睡眠導入剤、1日1回まで、1回1錠
マグミット330mg    便秘薬
プルゼニド12mg    下剤
ビオフェルミンR錠  下痢止め
アルサミン細粒    吐気止め 
カロナール200mg  解熱剤、38度以上の発熱の時、6時間以上間隔をあける。
アズノールうがい液 口腔の清浄化、口内炎などの炎症を抑える

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

院内患者家族交流会(おしゃべり会)

1月13日(金)
 定例の病院内での交流会の日である。帯状疱疹の神経痛が左わき腹と背中に出てきていて、まだそれ程の痛みを感じるわけではないが服が擦れる時若干の痛みを感ずる。帯状疱疹神経痛よりも、退院以降の体力の消耗感が一向に改善されない。昼食をとった後には横になリたくなり、1時間ばかり昼寝をする習慣が抜けない。

患者交流会に行くかどうか少し迷った。体調的には横になりたい気分だ。身体がだるく駅までいけるかどうかといった感じもした。しかし一旦行く事を決意し服を着替え外に出ると元気になりなんの問題もなく目的地まで行ける。

 寒さのせいか交流会の集まりはよくなかった。自己紹介が終わり、初めて来た人からの質問に皆で答えていった。Aさんは昨年2月骨髄異型性症候群で入院し移植後4月に退院した。移植の前処置の大量抗がん剤投与による副作用はそれ程激しくなかった。移植による急性GVHDについてもそれ程強くは出なかったが、現在慢性GVHDの治療を受けている。顔を含めた全身への湿疹と口内炎や味覚障害などが発症している。免疫抑制剤のプログラフを服用しているが、ステロイド剤は使っていない。

口内炎についてはアズノールのうがいとアズノール軟膏を口腔を塗るという治療をやっている。湿疹に対して体に塗る薬は処方されているが、目蓋や眼の周りの湿疹に関しては薬がないということだったが、アズノール軟膏を塗ったらいいと言われた。そのような使用方法があるのかと疑問に思ったが結構効果があるという。

 Aさんの相談は職場復帰の問題だった。公務員で3年間の休業は保障されている。1年間は有給だが、それ以降1年半は健康保険の傷病手当金で給料の6割が支給される。どのように職場復帰していくのか。体力的に大丈夫だと思っていても移植による大量抗がん剤投与は、かなりのダメージを体に与えたのは確かである。

免疫抑制剤を服用していく限り、感染症の恐れがあるので職場復帰は難しいだろう。GVHDが治り、免疫抑制剤の服用が終れば免疫機能についてはかなり回復してくるとは思うが、やはり、白血球を含めた免疫機能は数値的には基準値であったとしてもその働きは悪く、様々な感染、特にウイルス、細菌や真菌(黴)感染にかかりやすい。元に戻るまでには2年位かかるといわれている。

職場復帰の方法としては、可能であればリハビリ勤務から始められればそれに越したことはない。通勤訓練から初めて、1、2時間のリハビリ勤務、それを半日勤務にして、体が慣れてきてもう大丈夫だと思える状態にまで至ってから全日勤務になるという手順を踏んだ方がいい。

 参加した人が自分の体験を語った。突発性血小板減少性紫斑病の人で、30年前に病気が分かったのだが、経過観察だけで一切治療はしていない。しかし血球が少ないので疲れやすい。職場には病気の事を言っていない。自分では一種懸命仕事をしているつもりでも周りからはサボっていると見られてしまう、といった悩みもある。しかし病気のことは職場では明らかにするつもりはないという。

白血病で移植をした人は自分の就職について話した。退院から仕事を始められるまで3年かかった。勤めていた職場は1年の休職期間が切れ退職になった。様々なGVHDに悩まされた。手の筋肉が硬直してしまう状態にもなった。それで障害者手帳を取り、今の職場への就職も障害者枠で入れたということだった。現在、全日勤務の職についているが、家に帰って食事をすると疲れて寝てしまうし、休日もごろごろ横になって過ごしている。資格を取る勉強をしたいが、働くだけで精一杯といったところだ。抗がん剤の影響は今もなお体力の消耗をもたらしている。

公務員で3年の休業期間が保障されているといった好条件の職場などめったにない。血液がんになった人の就職口を探すということは至難の業だ。絶対今の職場を辞めようなどと考えない方がいい、と誰もが口々に行った。患者会に来た人で職場復帰することは出来たが、リハビリ勤務は認められず、全日勤務で働けるようになったら出社していいといわれた。彼は骨髄バンクでボランティア活動をしながら体の調整をしていった。リハビリ勤務が難しい所であればこういったボランティア活動に携わりながら体力を養っていくといった方法もある。

血液がん患者の職場復帰や新たな就職は極めて難しい。特に雇用状況が冷え込んでいる現在より一層困難になっている。患者の多くは就職に向けて様々な苦労をしてきている。そういった経験から学ぶことは多い。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

血液内科の診療

1月11日(水)
検査結果
IgM   2887(1/11) ←3814(1/4)←4710(12/28)←6647(12/21)←8417(12/8)
白血球  3300(1/11)←1700(1/4)←2100(12/28)←2100(12/26)
好中球  500←410←780←1430
赤血球  ←313←298←293
ヘモグロビン  8.7←9.8←9.3←9.1
網赤血球  3←3←5←5
血小板  1.4←2.4←2.4←2.8


IgMが週1000ずつコンスタントに減少している。12月13,14日にベンダムスチンを投与したがそれがまだ効果を発揮し続けているという訳だ。何とすぐれた効き目を持った薬だろうと思う。こういった薬にめぐりあえたことの運の良さをつくづく感じる。

薬の効果と同時に副作用も現れてきている。好中球の500という数字も問題だが、血小板の1.4は下がりすぎだ。ベンダムスチンはベルケイドと同じように骨髄抑制の中でも血小板の減少をもたらすのだろうか。血小板の輸血をすることになった。G-CSFの皮下注射もやった。

帯状疱疹になってしまった。これで5回目だ。対応は分っている。最初は神経がぴりぴりとうずく感じだ。薬は早く服用したほうがいい。この兆候が現れたのですぐにバルトレックス500mg錠を1日3回計3000mg服用し始めた。3,4日すると皮膚に赤い湿疹ができそれが広がってくる。水泡ができる場合もある。この赤湿は1週間位で消えるが、神経痛は残る。この神経痛が何処まで残るかが一番の問題だ。同時にその神経痛の痛みも様々あり強い痛みを継続して発することもある。

帯状疱疹神経痛の薬にリリカ(ブレガバリン)という薬が一昨年認可され、前回処方してもらったがよく効く。まだ痛みはない強くないが、いざという時のためにリリカを処方してもらうおうと思っていたが忘れてしまった。次回まで痛みが強まらないように願う外ない。

最近採血の時、昔は2本だったが最近は輸血をする場合に備えて、さらに2本採る。輸血をしたほうがいいと判断してから採血し、輸血する血液との適合性を検査すると時間がかかるので、朝の採血の時一緒に行うという訳だ。それでも今回は診察時に血小板の輸血をすると決めたので準備に時間がかかり、輸血まで2時間近く待たされた。血小板輸血の場合には、輸血前に30分位かけてアレルギー止めの薬剤を点滴する。

輸血は1時間だが結局輸血が終ったのが16時30分、病院を出たのが17時になってしまった。朝10時からこの時間まで病院にいるとかなり疲れる。病院を出た時にはグッタリとした気分だ。通常だったら最寄り駅まで歩いて行くのだがバスを利用することにした。

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新宿山ノ手七福神めぐり

1月10日(火)
12月29日退院以降まともに歩いていない。買い物に行く位だ。こういったことでは体力の回復は難しい。徐々にでもウォーキングを始めた方がいい。手始めに新宿山ノ手七福神めぐりに出かけた。往きも帰りも家から電車一本で行けるという便利さで選んだ。またコースを歩いていて疲れたらバスや地下鉄を利用することが出来る。徒歩150分、電車バス利用90分というコースだ。

まず副都心線で新宿3丁目間に行き、丸の内線で新宿御苑前で降りると、駅前に太宗寺がある。昼時で近くのサラリーマンが昼食をとりに繰り出していて新宿御苑の交差点はごった返していた。その雑踏のなかに太宗寺はある。ここは布袋尊だけでなく、江戸六地蔵の一つがあったり、閻魔堂があり行った時には入口は閉められてれていたが、毎7月15、16日間には扉が開かれ、「閻魔像」のみならず、三途の川で着物をはぐ「奪衣婆像」も見ることが出来る。

塩かけ地蔵、切支丹灯篭やいわれは定かではないが稲荷神社などあり盛沢山だ。塩かけ地蔵は「東京御利益案内」によるとおできにご利益があると記載されている。塩をもらって帰り患部に塩を塗り込むとおできが治るということだ。

太宗寺(浄土宗 霞関山本覚院)布袋尊
1596年頃(慶長年間)甲州街道の道筋に「太宗」と称する僧の庵として造られた太宗庵を始まりとする。徳川家重臣・内藤正勝の信望を得て、寄進を受け太宗寺と改称した。江戸六地蔵の3番地蔵、江戸三閻魔の閻魔王像、新宿山之手七福神の布袋尊が安置されている。

山手七福神めぐり012_convert_20120110221030  山手七福神めぐり010_convert_20120110221228      不動堂                           布袋尊

山手七福神めぐり003_convert_20120110221126  山手七福神めぐり002_convert_20120110220926
 閻王殿(閻魔堂)                     江戸六地蔵(銅造地蔵菩薩坐像)                     
山手七福神めぐり006_convert_20120110221059  山手七福神めぐり008_convert_20120110221204
 塩かけ地蔵                         稲荷神社

太宗寺だけ離れているので、丸の内線、副都心線を利用して東新宿まで戻ってきた。ここからの七福神を祀るお寺は全て大久保通り沿いにある。つまり大江戸線の上にあるので、疲れたら電車で移動できる。鬼王神社の境内に恵比寿神社があってそれが七福神のひとつだ。鳥居を入って鬼王神社の参道を行くと左右にびっしりと様々な種類の雑炊の写真が貼ってある。鬼王神社と雑炊とどういった関係があるのだろうか。

恵比寿神社ヘの参道には「かえる石」が置かれている。この石の由来は「かえる石」をさすりながら、心の中で次の言葉を三度唱える。一日の無事を願う人や交通安全を願う人は、「無事かえる」。開運を願う人は、「良き運にかえる」。金運を願う人は、「金かえる」。縁結びを願う人は、「想い人の心が自分にふりかえる」「待ち人かえる」。健康を願う人は、「若かえる」。このようなあらゆる願いを「かなえる」といった言い伝えがある。

稲荷鬼王神社・恵比寿神
戸塚諏訪神社境内の福瑳稲荷を承応2年(1653)に勧請したといい、天保3年(1832)に当地の百姓田中清右衛門が熊野から勧請した鬼王権現をと合祀して稲荷鬼王神社となったという。境内の恵比寿神社(三島神社)には恵比寿神が祀られている。

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鬼王神社本殿                        恵比寿神社

山手七福神めぐり019_convert_20120110221459  山手七福神めぐり020_convert_20120110221525
 富士塚                           かえる石

東新宿の交差点に戻り、若松河田方面に向かう。大江戸線の東新宿と若松河田の丁度中間に抜弁天の交差点がありそこら付近の通りを抜弁天通りという。厳島神社は交差点の脇にこじんまりとして形であり、正月が終わったからか、弁天堂は閉
じられていた。この厳島神社を中心に西向天神社、法善寺、永福寺がある。厳嶋神社でのご朱印等の受付は正月7日迄なので、それ以降は西向天神社で受付ている。

抜弁天厳島神社・弁財天
応徳3年(1086)鎮守府将軍源義家が奥州征伐の帰途に創建したと伝えられる。江戸六弁天(本所・洲崎・滝野川・冬木・上野・東大久保)である。

山手七福神めぐり028_convert_20120110221728  山手七福神めぐり030_convert_20120110221754
 厳島神社                          厳島神社拝殿

山手七福神めぐり024_convert_20120110221707  山手七福神めぐり025_convert_20120110221638
 西向天神社鳥居                       西向天神社拝殿

法善寺(日蓮宗 春時山)寿老人
日相上人(貞享4年寂)が創建した。境内に安置してある七面明神は、池上本門寺に帰依していた鳥取城主池田家四代綱清から献上されたもので、法華宗独特の七面信仰江戸進出の最初のもの。

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 法善寺本堂                         寿老人像

永福寺(曹洞宗 大久保山)福禄寿
僧尊悦(慶長15年寂)が開基となり慶安元年(1648)創建、もと牛込万昌院末である。

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 永福寺本堂                         福禄寿像

経王寺は牛込柳町の駅前にある。急な階段を上がると本堂と大黒堂が狭い境内の中に立っている。本堂の方はひっそりとしていたが、大黒堂の方にはろうそくが何本もたかれ堂内を明るく照らしていた。牛込柳町から牛込神楽坂間では大江戸線を利用した。少し歩くのに疲れてきた。牛込神楽坂駅から大久保通りを進み神楽坂通りを飯田橋方面に曲がると善国寺がある。

小学校の頃、新宿区に住んでいて厚生年金病院の前の津久戸小学校に通っていた。この善国寺の境内で遊んだことがあるのを思い出した。昔はどんな寺かなどということは皆目分からずただ広場の意味しかなかった。今は朱塗りで修復されきらびやかな姿になっているが昔はもっとさびれていたような気がする。昔の姿は思い出せないが懐かしい感じがするのは否めない。

経王寺(日蓮宗 大乗山)大黒天
尊重院日静大徳が慶長3年(1598)市ヶ谷田町に創建したという。外濠造成に伴い川田久保(当地周辺)へ移転、当地へは天和3年(1683)移転してきた。当寺の大黒天像は、日蓮宗中老日法の作で、日静上人が身延山久遠寺より持ち出したものといい、度重なる火事にも焼け残ったことから「火伏の大黒天」として崇敬を集めた。

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 経王寺本堂                         大黒堂

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 大黒天                           大黒堂内部

善國寺(鎮護山)毘沙門天
創設は、桃山時代末の文禄四(一五九五)年で、今からおよそ四百年を遡る。初代住職は佛乗院日惺上人と言い、池上本門寺十二代の貫首を勤めた。上人は、二条関白昭実公の実子であり、父の関係で徳川家康公と以前から親交を持っていた。上人が遊学先の京都より、本門寺貫首として迎えられてから九年後の天正十八(一五九十)年、家康公は江戸城に居を移し、二人は再会することになった。そこで上人は、直ちに祖父伝来の毘沙門天像を前に天下泰平のご祈祷を修した。それを伝え聞いた家康公は、上人に日本橋馬喰町馬場北の先に寺地を与えさらに鎮護国家の意を込めて、手ずから『鎮護山・善國寺』の山・寺号額をしたためて贈り、開基となった。

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 善國寺山門                         本堂 

毘沙門天は寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻にこの世にお出ましになったことから、寅毘沙と呼ばれる。本堂左右に鎮座している。江戸後期のもの。

山手七福神めぐり049_convert_20120110222441 山手七福神めぐり050_convert_20120110222550 山手七福神めぐり051_convert_20120110222519

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

がん患者の言葉

1月8日(日)
アフラックというがん保険を主な業務として扱っている生命保険会社のホームページに「アフラック“生きる”com」というがん患者の闘病記を中心に紹介しているサイトがある。その中にがん患者が書いた本からの引用で「言葉の贈物」というコーナーがある。毎日一言づつ紹介している。

がんという病に不本意ながらも冒され、がんを宣告され、死を自らのものとして受け止めなければならない現実に直面し、そのことをいかに捉えなおし自分の生き方として取り込み新たな生を獲得していったか、そういったがん患者の心の軌跡がつづられている。こういった言葉を読んでいるといかに自らの病を受け入れていったのか、生きる希望と展望をどのように見出していったのか、そういったことを考えるヒントになる言葉に出会うことができる。最近の3ケ月に紹介された「言葉の贈物」の中から幾つか引用してみたい。

がん患者の言葉
・世の中にあふれる幾多の苦しみや悲しみに思いをはせるようになったのもすべてはがんがきっかけだった。
・僕はあとどれくらい生きるのだろうか。ではどれだけ生きられれば満足か。そう問い直せば「どれくらい生きられるか」という長さのみに焦点をあてた問いにあまり意味のない事を知る。
・病院から一歩外に出ると、雨を吸った葉っぱたちの濃い緑色が目に入った。濃厚な植物のにおいがする。「いのち」のにおいだった。
・「命の大切さ」「生きている事の素晴らしさ」を本気で伝えたいなら、死を見据えないわけにはいかないと感じていた。(上野創「がんと向き合って」晶文社)

・何もないことが幸せだとも言えない。人生にとって苦しい事、辛い事、嬉しい事、悲しい事全てが集まって人が生きている証のような気がする。(小西豊海「生き抜いて!愛娘」文芸社)

・生きるとは、人生が絶えず私たちに出す問いに答えていくこと。現在は、その瞬間瞬間に、新しい問いを含んでいる。
・未知なるものは時に私を畏れさせるが、投げださない。未知なるがあるからこそ死ぬまで人は生きるのだ。(岸本葉子「がんから始まる」晶文社)

・しかし、悲しく辛い、苦しい世界にいることのなんと素晴らしいことか。生きるというのは、それ自体がとても楽しいことだ。(西田英史「ではまた明日」草思社)

・病気だったゆえに、残された時間が限られているゆえに、虚飾を取り去り、建前を捨てた生き方を究めていくことができるようになった。(重兼芳子「たとえ病むとも」岩波現代文庫)

・私たち人間は何時どうなるなんて誰にも分からないんです。だからこそ1日1日がとても大切なんです。病気になったおかげで生きていく上で一番大切な事を知ることが出来ました。
・実は幸せが私たちの一番身近にある事を病気になったおかげで知ることが出来ました。それは地位でも、名誉で、お金でもなく、「今生きている」ということなんです。(猿渡瞳「瞳スーパーデラックス」西日本新聞)

・今あなたが直面しているがんという障害は、あなたの考えを変える、あなたにとって素晴らしい人生を送るための神様からのプレゼントかもしれません。(水津征洋「癌よ、ありがとう」風雲舎)

・人間にとって何よりも大切なことは、この与えられた人生を、どうよく生きるかということにあると考えるようになった。いかに病に冒されて、その生命の終りが近づいても、人間にとってはその生命の1日1日の重要性は変わるものではない。
・死を前にして大いに生きるということが、わたしの出発になった。日々の生命をよく生きるということが、死に対する第1の武器である。(岸本英夫「死を見つめる心」講談社文庫)

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ジャンル : 日記

血液内科の診療

1月4日(水)
検査結果
IgM  3814(1/4)←4710(12/28)←6647(12/21)←8417(12/8)
IgG   278(1/4)←109(12/21)←274(10/26)←365(10/19)

白血球  1700(1/4)←2100(12/28)←2100(12/26)←1600(12/23)
好中球  410←780←1430
赤血球  313←298←293←283
ヘモグロビン  9.8←9.3←9.1←8.9
網赤血球  3←5←5
血小板  2.4←2.4←2.8←4.9

IgMが順調に下がり続けている。50年前に開発された薬が今役に立っているわけだ。メルファランやシクロホスファミドも1960年代に治療成功例が始めて報告されている。がんの対する長い研究の歴史を実感させられる。

IgGの値が低いので免疫グロブリン製剤の点滴をすることにした。好中球が少ないので、G-CSFの皮下注射をする。内科処置室で2時間の点滴をする。元気な時は2時間横になっているのは退屈だが、身体が消耗している時には退屈だとは思わない。網赤血球が少ないので、来週あたり赤血球の減少が見られるかもしれないと医者は言った。

次の治療をどうするか。血球の状態が良くない。ベンダムスチンをどのように投与するのか。通常20日おきに120mg/m2を2日間で投与する事になっている。しかしこの方法は若くてまだ造血機能が十全な人が一挙に形質細胞腫瘍を根絶させようというための方法ではないかと思う。

治療方針について主治医は次のように説明した。IgMが前回の治療の影響で下がり続けている間は、新たな治療は行わず経過観察をするため毎週診断を受ける。IgMの下降が止まったり、上がり始めたらベンダムスチンの投与を始める。ただ通院の場合2日間投与するのではなく1日で行う。薬の量も半分にする。血球の減少に関しては輸血で対応するということだった。投与期間が長く、薬の量も半分だと身体の負担は少なくなり、血球の減少は抑えられるだろう。

2時間の点滴があったので、治療が終ったのが14時過ぎだった。元気な時だったら何処かに行ってみようと思うのだろうが、久しぶりに外出してかなり体力の消耗を感じた。遅い昼食をとりそのまま家に戻った。なかなか体力が回復しない。

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正月3ケ日

1月3日(火)
 正月といっても何も変わる訳でもない。ただこの機会に親戚の人が来たり、普段来ないような人の訪問があったりする。正月に家族旅行に行ったりしたこともあるが、この2,3年は昔から恒例となっていた実家で正月を過ごすことにしている。

1月1日の12時頃、歩いて5分位の所にある実家に正月の挨拶に行き、おせち料理をご馳走になっていた。おせち料理といっても今はきらびやかなセットで販売していて、それを買えば簡単だが、一応実家では自前で作る。毎年おかずが違っているので楽しみな所もある。

今年は、山陰に住んでいる義理の姉が正月休みを利用して東京見物に来たので、1月1日は姉の息子、孫、ひ孫を中心に、ついでに私の家族を含めて錦糸町のスカイツリーの見えるホテルで会食をした。私は退院したてだったので人混みに行くことはまずいと思ったし、体力的にもまだ十分に回復していなかったので、遠慮して実家の正月に行ったという訳だ。

やはりまだ体は本調子ではない。22時に寝て、6時に起きるという病院での生活の習慣で、今でも大体同じ様な時間に寝て起きる。昼寝も2時間ばかりする。寒いということもあるが、昨年は七福神めぐり、一昨年は川崎大師や成田山新勝寺への初詣などに行く元気があったが、今年はどうも気力が沸いて来ない。入院中ほとんど動いていなかったので体力が回復していないのだろう。もうしばらく療養生活が必要なのかもしれない。

正月中は歩いて5分位の実家に行った以外全く外出しなかった。炬燵に入って箱根駅伝を見ていた。これは結構視聴率が高いらしい。自分では全く動かず他の人の努力と苦闘の結晶を見るのは気分がいいのかも知れない。WOWOWで年末から年始にかけて毎日午後『男はつらいよ』のシリーズを3本放映していた。

 寅さんの映画は、筋立てが似ているので途中から見ても問題なく筋を終える。サスペンス仕立てのドラマだと最初から最後まで眼を離さず見ていないと筋がわからなくなってしまう。寅さんを見ていると少し位、見過ごしても、見始めればすぐに追いつける。パターンが同じなのだがそれが見る人に安心感を与える、そういった意味で根強い人気を保ち続けている水戸黄門と似ている点があるような気がする。

51GRR1_convert_20120105111621.jpg寅さんの映画は肩がこらず見ていることが出来る。時々出てくる寅さんの語る人生哲学的な名台詞も面白いし、寅さんの他人に対するやさしさや暖かさ、人情は今の時代に失われつつあるもので、懐かしく同時にその必要性を感じさせてくれる。日本各地の美しい風景を背景に描かれそれも映画の見所となっている。

このように正月は入院中の生活の延長線上のような、箱根駅伝や『男はつらいよ』をといった番組を見ながらごろごろとした動かないで生活をしたいたので体の活性化は少しも前進しなかった。明日は病院での血液内科の診療だ。ここでの外出を契機に少しは動き始めたいと思う。

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yosimine

Author:yosimine
がん治療とは長く細い道を辿ら
なければならない。その先に希
望があると信じながら。

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