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亀戸天神社

2月27日(月)
墨田区のスカイツリーのよく見える所にある次男のアパートに行った。代休で休みだということだったので訪ねた。用が終って帰る時に、アパートから亀戸天神社が近くだということに気がついた。亀戸天神は湯島天神と同じく、梅の名所である。以前藤の花の季節に行ったことがある。近くに行ったついでだったので時期が遅れて、花は若干色あせていた。都内の梅の開花はまだだろう。それでも早咲きの梅は花を付けているかもしれない、といった期待を込めていくことにした。

菅原道真と梅: 亀戸天神は寛文2年(1662)太宰府天満宮の神官が神木の「飛梅」に彫った菅原道真像をまつったのが起源とされる。菅原道真公は、特に梅の花を好まれ、多くの和歌を詠まれている。そのため境内に300本を越す梅が植えられている。更に境内には5歳で詠まれた “美しや 紅の色なる梅の花 あこが顔にも つけたくぞある” という歌碑と道真公の像が本殿前にある。

IMGP4456_convert_20120228135336.jpg 亀戸天神社本殿

“東風(こち)吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな”(菅原道真)

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神牛: 菅原道真と牛との関係は深く「道真の出生年は丑年である」「大宰府への左遷時、牛が道真を泣いて見送った」「道真は牛に乗り大宰府へ下った」「道真には牛がよくなつき、道真もまた牛を愛育した」「牛が刺客から道真を守った」「道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」など牛にまつわる伝承や縁起が数多く存在する。これにより牛は天満宮において神使(祭神の使者)とされ臥牛の像が決まって置かれている。

IMGP4454_convert_20120228135518.jpg 神牛

紅梅殿:
紅梅殿は、寛文2年に時を同じくして作られた。太宰府天満宮の御神木「飛梅」の実生を勧請し、社殿前に奉斎されたのが起源で、昭和63年に今の場所に再建されたと記されている。

IMGP4459_convert_20120228135444.jpg 紅梅殿

IMGP4468_convert_20120228135643.jpg 本殿横の梅ノ木

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スカイツリーがよく見えるビューポイントという場所を近辺の区が観光のため設定している。亀戸天神社の橋の上からのスカイツリーもよく見える。以前亀戸天神社で行なわれた菊祭りで菊によってスカイツリーの形が作られていたが、その時はこれほどスカイツリーが近くに見えることになるとは思わなかった。

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(参考資料: 亀戸天神社公式HP、Wikipedia/菅原道真)
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テーマ : 思ったこと・感じたこと
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血液内科の診療

2月23日(木)
検査結果
IgM   4730(2/23)←4004(2/16)←3114(2/9)←2771(2/1)
白血球  3300←3300←2400←3600
好中球  1380←1450←990←1430
赤血球  298←311←267←300
ヘモグロビン  9.9←10.3←8.9←9.7
網赤血球  11←17←23←17←18
血小板  12.3←16.4←12.5←9.3


予想通りIgMは上昇し続けている。ベンダムスチンの点滴は予定通り行うことなった。ただ今日明日と続けてやることはしない。今回は180mgを今日の1回だけにする。来週様子を見て、もう一度やるかどうか検討する。同時に骨髄抑制の状態も見ながら判断する外ない。

点滴は吐気止めのカイトリルを30分で、その後ベンダムスチンを1時間かけて行った。最後に生理食塩水を2、3分で投与し洗浄する。

今日は担当医が午後一番で出張だということで、採血の後20分位で診察室に呼ばれた。まだIgMの値は出ていない。血球に関しては何ら問題はないので、ベンダムスチンを投与しても大丈夫だろう。外来治療センターには10分位で呼ばれたが、点滴薬がなかなか来なかった。

点滴薬が来て医者を呼んだ。出張を控え急いでいた医者は全く待たせることなくすぐに来た。いつもこんな調子だったらいいのに。1時間半の点滴を行なったにしては、病院を出たのが13時前だったのでいつもに比べかなリ早く終った。

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松戸地区散策コース

2月21日(火)
常磐線沿線に用があった。用件は午前中で終るので、どこかふらりと散策でも出来る所はないかと探してみた。柏市や我孫子市は手賀沼が主要な観光名所だ。暖かくなれば丁度いい場所があるだろうが、まだ時期が早い。梅の開花時期もまだしばらくは到来しそうもない。

松戸市の観光案内で調べてみると松戸地区散策マップに、ウォーキングコースとして戸定邸、浅間神社、江戸川松戸フラワーラインが紹介されていた。フラワーラインは4月にはレンゲが、秋にはコスモスが咲き誇るという。今は時期外れなフラワーラインを外して、浅間神社から旧水戸街道に出て、街道沿いの神社仏閣めぐりをすることにした。

戸定邸は松戸駅東口から歩いて10分位の所にある。戸定邸は戸定が丘歴史公園の中にある。公園の入口には後に戸定邸で暮らすようになった徳川昭武が1867年パリ万博博覧会に将軍の名代として派遣された記念のモニュメントが立っている。

その横に広い駐車場があるが、戸定邸に来る人のためと考えると広すぎる気もする。梅林があって梅の季節には公園への訪問客は増えるだろうがそれにしても広い。戸定が丘歴史公園に隣接して千葉大学園芸学部の広大な敷地があるが、大学関係者のための駐車場でもあるのだろう。

戸定邸・戸定が丘公園
松戸市街を一望出来る高台にある。「戸定」とは古く中世の城郭に起源を持つ地名である。松戸市は江戸幕府の直轄地で、水戸藩ともゆかりの深い土地だった。戸定邸は、最後の水戸藩主であった徳川昭武(あきたけ)(15代将軍慶喜の弟1853~1910年)によって明治17年に建てられ、昭和26年に徳川家から松戸市に寄贈された。芝生を使い、洋風を取り入れた庭園は千葉県の名勝に指定され、建物は明治前期の上流住宅の姿をよく伝えるものとして平成18年に国の重要文化財に指定された。併設する戸定歴史館では昭武が趣味とした当時の写真やゆかりの品々を展示している。

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 戸定が丘公園入口                     戸定邸玄関 

茅葺屋根の門を潜ると左側に松戸市戸定歴史館がある。徳川昭武の遺品を中心とする松戸徳川家伝来品や彼との交流が深かった慶喜の遺品が収蔵されている。昭武は写真と狩猟が趣味で、多くの写真が展示されている。

歴史館と戸定邸の共通入館料は240円だったが、戸定邸やその庭園は管理、維持費が必要だろうなと思わせるほど整備が行き届きいていた。屋敷には部屋数が15,6あって迷ってしまうほどだ。客間を中心として表座敷棟と、居住場所である奥座敷棟がある。さらに化粧室や衣装室まである。

建物南側の客間の前に広がる庭園は起伏のある芝に丸く刈り込んだ樹木を配している。座敷の玄関口に受付があるが、その受付の人が客間の前の庭に珍しい梅ノ木がある。緑萼梅(リョクガクバイ)という。白梅であるがまだ蕾もつけていないが緑色の萼(ガク)が生えてきていると教えてくれた。

客間の西側は眺望が開け、富士山の絶景ポイントに認定された場所と書かれた看板があった。天気は良かったが少し雲がかかって富士山を見ることは出来なかった。屋敷内を見回るだけでもかなり時間がかかった。

屋敷を出て戸定が丘歴史公園内を散策する。竹林の脇に東屋が有り風情を感じさせる。歩道の中央は瓦で作られていてそれも趣がある。10数本の梅の木があったが、2本だけ紅梅が花を開いていてその外は蕾すら付けていないような状態だった。
                   
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 戸定歴史館                         戸定が丘公園の東屋と竹林

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 戸定邸庭園の緑萼梅(リョクガクバイ)          戸定が丘公園の紅梅

歴史公園の脇を線路に沿って浅間神社に向う。5分位行くと線路を越える歩道橋がある。地図には歩道橋を渡ると書いてあるが歩道橋を渡ると線路の向こう側に行ってしまって浅間神社とはどう考えても方向が違う。傍を通りかかった人に聞いてみると、歩道橋の中ほどに階段があり、線路と線路の間の場所に出る。しばらく行くと浅間神社があると教えてくれた。この行き方は地図では分からない。聞いてよかった。

浅間神社に着くと工事中だった。去年の3.11の震災の時に神社を囲む石の垣根や石像が倒れ、階段の手すりや、神社内部もかなり破損してその改修工事をやっているということだった。入口にある掲示板に神社周辺の破損状況の写真があった。寄付を集めて今になってやっと工事を始められたのだろう。神社は階段を上がった所にある。

工事関係者に聞いたら行ってもいいと言われたので上がっていった。神社まで上がって行ったが、そこにいた別の工事関係者から危険なので立ち入り禁止になっていると言われた。神社自体もブルーシートに覆われていて見るべきものもなかったので階段を降りていった。階段の途中に獅子や猿の石像があり、守護の役割を持っているのだろう。階段の中ほどに神木もあったが、神社の丘をおおっているのは「極相林」と呼ばれる森林だということだ。

線路を渡り、旧水戸街道を坂川に沿って進んで行く。坂川は、かつては「日本一汚い川」といわれていたが、近年の「河川再生事業」によってアユ、ウナギ、カニ、エビや、ハグロトンボをはじめとする20種類のトンボなど様々な生き物が生息する清流によみがえったということだ。旧水戸街道沿いだということもあって、戸定邸に行く時に歩いた線路の東側の新しい町並みとは違い、神社や寺院が立ち並び、明治時代かそれ以前に造られたと思われる商店や民家も所々見られる。

浅間神社
富士信仰に基づいて富士山を神格化した浅間大神、乃至は浅間神を記紀神話に現れる木花咲耶姫命と見てこれを祀る神社で、富士山南麓の静岡県富士宮市に鎮座する富士山本宮浅間大社が総本宮とされる。
                          
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 浅間神社鳥居                        工事中の浅間神社本殿

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 神楽殿                            下浅間神社

浅間神社の極相林
森林が形成されるまでには、その内部で、日照・気温・湿度等の自然環境に適応できない樹木の淘汰がすすみ、やがて生育に適した植物のみが層位(高木・亜高木・低木・草本)ごとに定着して、「極相林」と呼ばれる長期的に安定した森林を形成する。浅間神社には、タブノキ等を主体とするこうした植生が今も維持され、千葉県指定天然記念物となっている。

松戸散策045_convert_20120222103314 旧水戸街道から見た浅間神社の極相林

最初に松龍寺という寺院が線路際にあった。山門は1650年寺院が再興された時からのもので歴史を感じさせる。鐘楼の回りが岩で囲まれ、地蔵像が彫られているのが珍しい。境内に「すくも観音堂」がある。昔、宿はずれにあった「すくも塚」(相模台合戦の戦没者を葬った塚)を祀ったものである。

坂川沿いをしばらく行くと松戸神社がある。松戸の地域の鎮守である。丁度神社に着いた時に4,5人の氏子の人達だろか白装束を着て掃除をしていた。白石が敷かれた境内はきれいに箒の跡が付けられ水が打たれ、すがすがしい気分で神社を見学することが出来た。

松龍寺(広大山高樹院 浄土宗)
元和元年(1615年)東漸寺末寺として小山に創建され、慶安3年(1650年)当地へ引寺し再興された。本尊は阿弥陀三尊。境内には、松戸宿最初の旗本領主 高木筑後守の五輪塔墓など松戸宿代々の名主の墓がある。小金牧での鹿狩では八代将軍吉宗など将軍休憩所となり寺勢を誇った。

松戸散策048_convert_20120222103347 松龍寺本堂

松戸散策050_convert_20120222112528 松龍寺境内のすくも観音堂

松戸散策046_convert_20120222103451 松戸散策047_convert_20120222103518 松戸散策052_convert_20120223223330
 松龍寺山門                庚申塔                 鐘楼       

松戸散策054_convert_20120222103646  松戸散策056_convert_20120222103719
 鐘楼を取り囲む地蔵像                  百体地蔵                 

松戸神社
寛永3年に創立した松戸の鎮守府で、水戸光圀公も訪れたという由緒ある神社。祭神は、日本武尊(やまとたけるのみこと)で、東征の際に随行の吉備武彦連(たけひこのむらじ)・大伴武日連(たけひのむらじ)らと待ち合わせた陣営の地に社殿が建てられたと伝えられている。境内には秋葉神社、水神社、松尾神社など多数の神様が祀られている。本殿に掲げられている「日本武尊」の額は、有栖川宮熾仁親王の筆による。本殿の格天井(ごうてんじょう)の絵画は、谷文兆の高弟佐竹永湖(えいがい)の作

松戸散策057ex_convert_20120222103758 松戸神社拝

松戸散策061ed_convert_20120222103853 秋葉神社拝殿

松戸散策069ed_convert_20120222104155 御神水

松戸散策058_convert_20120222103928 松戸散策060_convert_20120222104007 松戸散策068ed_convert_20120222104048
 市神社                 金比羅神社                 水神社

松戸神社から旧水戸街道に戻り、春雨橋を渡ると宝光院、善照寺、西蓮寺と続いている。宝光院にある88体の弘法大師の石像には驚かされる。「四国八十八ヵ所霊場」を再現しようという試みだろうか88体の弘法大師像を配置し、その台座に霊場88ケ所の寺院名が刻まれている。

旧水戸街道には古い商店が残っている。原田米屋の建物が目に留まった。外にも4,5件あったが商店だったのか、民家だったのか分からなかった。伊勢丹の大きな建物や高層の近代的なマンションに囲まれた中に古い建物が残されているという風景は、歴史の大きな流れを感じさせる。西蓮寺を散策の最後にして松戸駅に向った。寺院から駅までは5分とかからない。駅前の繁華街に寺院が並んでいるといった感じだ。

宝光院(梅牛山林泉寺弘蔵坊 真言宗豊山派)
明治まで宝光院の歴代住職は、別当として御嶽社(祭神は蔵王権現。現在の松戸神社)の護持と管理に努めた。現在の社殿を幕末期に造営した高城義海大僧正は、宝光院で出家し、後に東京の護国寺、奈良の総本山長谷寺や室生寺の住職を歴任した明治の高僧。本尊は不動明王。

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 宝光寺本堂                               千葉周作・修行の地の碑  

境内には、「四国八十八ヵ所御砂踏み霊場」の他、幕末三剣士の一人で、千葉周作の実父 千葉忠左衛門(後に「浦山寿貞」と改名)と、周作の剣の師で義父でもある浅利又七郎の墓がある。

松戸散策080_convert_20120222104428  松戸散策074_convert_20120222104525 松戸四国八十八ヵ所霊場

千葉周作 修行の地
千葉周作の父の忠左衛門は馬医者としてこの松戸に開業したのが文化6年(1809年)。息子の周作を松戸宿の小野派一刀流・浅利又七郎の道場に通わせた。周作が日々稽古に励んだ浅利道場が宝光院の付近にありました。才能を認められた周作は、江戸の中西忠兵衛道場に学び、そのご諸国武者修業を経て、北辰一刀流を創始しやがて神田お玉が池に道場「玄武館」を構える門下生は三千とも五千人ともいわれた。

善照寺(松戸山 真言宗豊山派)
流山市(旧名都借村)の清瀧院の末寺として、松戸字向山に創建された寺院で、慶長16年(1611年)に現在地に移転された。本堂の本尊は聖観音で、現在の不動堂は、文化6年(1809年)に焼失後、同8年に再建されたと伝えられている。境内には、松戸七福神の一つ「布袋尊」が祀られている。

松戸散策081_convert_20120222104718 善照寺本堂  

松戸散策082ed_convert_20120222105808 不動堂と布袋尊

西蓮寺(光明山 浄土真宗大谷派)
京都市の東本願寺の末寺として江戸時代初期、文禄3年(1594年)に下矢切に創建され、慶長18年(1613年)に現在地に移転された。本尊は阿弥陀如来で、現在の本堂は、嘉永4年(1851年)の再建と伝えられている。西蓮寺の歴代住職は教育熱心で、江戸時代末期に、本堂で寺子屋を開き近隣子弟の教育に当たっていたと伝えられている。

松戸散策085ed_convert_20120222105701 西蓮寺本堂

原田米屋
旧水戸街道沿いにある米屋で、明治末に建築されました。軒を出桁造とし1階正面をシトミ戸(上げ下げの板戸)とするなど幕末以来の2階建商家の形式を踏襲しています。骨組の木も太く、丈の高いシトミ梁を通し重厚な建て構えをしています。

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 原田米屋                          旧水戸街道沿いの古い建物

(参考資料: 松戸市公式HP-水とみどりと歴史の回廊マップ・松戸地区)

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探索さんぽ‐沼袋・野方コース

2月19日(日)
空の青さは濃く深く吸い込まれそうな色だった。気温は5度、北風が強く吹きつける。この風が雲を払い空の青さを作り出しているのだろう。気分的にはウォーキングに出かけたかったが、あまりにも寒い。時々外を見ながら様子を伺った。昼食を終える頃には風は止み、どうにか出かけるのに耐えられる状態になってきた。

ウォーキングコースは西武鉄道が出しているパンフレット「探索さんぽ」から選んだ。西武池袋線沿線は行った所が多かったので新宿線沿線で探した。「悠久の歴史を感じながら“時の旅人”となる沼袋・野方コースというのがあり、距離的にも時間的にも午後から出かけるのに丁度いい。新宿線は池袋線からは行きにくい。考えた結果自転車で行くことにした。新青梅街道をひたすら走り続ける。20分ばかり走り、江古田2丁目のバス停を過ぎると、歴史民俗資料館がある。行ってみると休館日だった。月曜日と第3日曜日が休みで丁度ぶつかってしまった。

歴史民俗資料館→明治寺→禅定院→氷川神社→平和の森公園→中野刑務所跡の門→清谷寺→庚申塔・地蔵尊・二十三夜碑→野方の笑い地蔵

歴史民俗資料館
1984年に名誉都民である山崎喜作氏から資料館用地に役立ててほしいと土地2600平方メートルを寄付されたことを契機に、郷土の文化遺産を保存し展示活用していくために、1989年「山崎記念中野区立歴史民俗資料館」として開設した。

沼袋・野方コース001_convert_20120220082733 山崎記念中野区立歴史民俗資料館

新青梅街道を斜めに入る道があり、しばらく行くと明治寺に出る。境内には玉井稲荷神社やなかなかお墓をもてない人のために、納骨堂である多宝塔がある。もちろん一番目を引くのは寺院のかなり広い一画を占める観音像の多さである。約180体の観音像が奇岩、奇石と共に林立している。これだけの観音像を作り、集め、配置することを可能にしたのは信仰のなせる業だろう。

明治寺の裏手に禅定院があり、山門横の大イチョウが目に入る。中野区内で一番大きいといわれている。4月にはボタンが咲き、木々に覆われた境内は四季折々の景観を楽しませてくれる。

そこから沼袋駅に向い駅にぶつかって左に曲がると西友があり、さらに行くと線路際に氷川神社がある。一の鳥居と、二の鳥居を潜って前を見ると、新郎新婦が拝殿に向って手を合わせている。神前での結婚式を終わった所だったのだろう。神社のあちこちに行って写真を撮っている。二の鳥居の横に七福神の石像が立っていた。1箇所七福神で、ここだけで七福神めぐりが出来てしまう。1箇所七福神は東京都で24ケ所あるが、氷川神社は載っていなかった。まだ新しいので知れ渡っていないのだろう。

百観音明治寺(新浮侘落山 世尊院 真言宗東寺派)
当山の開山は松田密信大和上、開基が草野榮照法尼。「百観音」とは、西国三十三観音と、関東地方の坂東三十三観音、秩父三十四観音の札所を総称したものである。明治45年7月明治天皇の病気平癒を祈願して草野栄照尼が現在地に観音石像一体を造立し、その後も多くの賛同者の寄進を受けて次々に観音石像が立ち並んだ。大正6年には本堂が完成した。

沼袋・野方コース017_convert_20120220105903 明治寺本堂

沼袋・野方コース003_convert_20120220115629  沼袋・野方コース006_convert_20120220115650
 玉井稲荷神社                        多宝塔

沼袋・野方コース008_convert_20120220105815  沼袋・野方コース014_convert_20120220105837
 百観音

禅定院(瑠璃光山 薬王寺 真言宗豊山派)
南北朝時代の中期、貞治元年(1362)の開創と伝えられる寺院である。開創の地は、後世の新橋村(沼袋村から枝分かれした村)であったが、後に現在の寺地に移った。草創期のご本尊は、薬師瑠璃光如来あり、山号と寺号はこのことに由来している。現在のご本尊は鎌倉時代後期の作とされる不動明王立像。本山:総本山長谷寺

沼袋・野方コース023_convert_20120220105942 禅定院本堂

沼袋・野方コース028ed_convert_20120220115706  沼袋・野方コース026_convert_20120220110014
 山門                             イチョウの巨木

沼袋氷川神社
御祭神は須佐之男命。南北朝時代、97代後村上天皇の正平年間(後光厳院の貞治年間)に、武蔵国一の宮である大宮(現在さいたま市)鎮座氷川神社より御分霊を戴いて、当地に奉祀したのに始ると伝えられている。

沼袋・野方コース041_convert_20120220110118 氷川神社本殿

沼袋・野方コ_convert_20120220232257  沼袋・野方_convert_20120220232033
 一の鳥居                           二の鳥居

沼袋・野方コース035_convert_20120220110203 沼袋・野方コース037_convert_20120220110251 沼袋・野方コース036_convert_20120220110321
 御嶽神社                 稲荷神社                天王社

沼袋・野方コース043_convert_20120220110448  沼袋・野方コース044_convert_20120220110520
 七福神

沼袋駅脇の野方寄り踏み切りを渡り、妙正寺川を越えると平和の森公園というかなり広い公園の入口がある。野球場や芝生広場などの開かれた空間と同時に、木々が鬱蒼と茂り、池もあって夏は木陰に覆われ涼しいことだろう。公園に隣接して赤レンガ色の中野刑務所跡の門がある。法務省矯正研修所の建物も並んであるが、それは普通の建物だ。

中野刑務所が拘置所として使われていた時に、一度知合いの人の面会に行ったことがある。東京拘置所が一杯で回されてきたそうだ。71年の秋に街頭闘争で逮捕され起訴され保釈まで半年ばかり独居房に収容されていた。ともかく古い建物で部屋には小さい窓が高い所あり北向きで全く日は差さず、レンガの壁には黴が生えていた。コンクリートに囲まれ隙間風が入り凍えるような寒さだったと話していた。

平和の森公園
区民・区議会・行政が一体となった運動により中野刑務所の跡地を防災公園とすることができた。工事の過程で弥生時代の住居址と多数の土器などが発見されたため、少年スポーツ広場の南側には復原住居がある。この公園の南側の部分は東京都の下水処理施設上部に整備されたもので、自由に使える区内最大規模の草地広場がある。

沼袋・野方コース048_convert_20120220110600  沼袋・野方コース053_convert_20120220110638
 竪穴式住居復元                    公園内池

中野刑務所跡の門
若き天才建築家といわれた後藤慶二が設計した刑務所跡の表門。70年余りの間、首都圏における行刑の要所として大きな役割を果たした。中野刑務所(及びその前身の監獄)には、作家で社会運動家の大杉栄や、蟹工船の作者・小林多喜二が収監されていた。

沼袋・野方コース050_convert_20120220110743 中野刑務所跡の門

公園から妙正寺川を渡り、清谷寺に向う。道が狭くかなり入り組んでいて何処を行っても行き止まりになってしまうという程だった。まともにたどりつけた人などいるのだろうかと思うほど分かりにくい。東京の地図を持ってきていたので住所を頼りにやっとたどり着いた。23区の1万分の1の地図は非常に便利だ。ウォーキング・コース案内などにある地図はかなり簡略化されているので、それだけを頼りにすると目的地にたどり着けないことがある。東京の地図を持ってきていれば住所で目的地を探したり、現在何処にいるのか確かめたりするのに役に立つ。

清谷寺の十三仏板碑が中野区の文化財に指定されているということで探したが、板ではなく石で出来たものだった。野方駅に向って進んでいるつもりだったが、道を間違えて、行くつもりはなかったが目の前に突然庚申塔・地蔵尊・二十三夜碑が現れたといった感じだ。そこから改めて正しいルートの戻り野方駅までの道を進んでいった。

環七通りを突っ切りしばらく行くとパチンコ店があり、その横を曲がると笑い地蔵があった。パチンコ店の客の自転車が地蔵堂の祠の傍まではみ出てきていて、全く風情も何もないという感じなのだ。だがそもそもこの地蔵は商売繁盛を祈願する駅前商店街のシンボルなのだから庶民的な雰囲気の方が似合っているのかもしれない。笑い地蔵を訪問場所の最後として岐路に着いた。帰りは30分位かかった。結局13時に出て家に着いたのが16時で、3時間もかかったことになる。

清谷寺(珠光山地蔵院 真言宗豊山派)
かって当寺は本村内出に在り地内は古来より地蔵堂屋敷であった。惠深大法師が当地に来て一寺を建立し、地蔵を本尊とした。特に当寺は村中の鎮守、氷川神社、八幡神社、第六天など往古よりあった宮を支配して来た由緒ある古跡であると記録されている。

沼袋・野方コース055_convert_20120220115721 清谷寺本堂

十三仏板碑
清谷寺には梵字で十三仏が刻まれている珍しい板碑がある。応永6年(1399年)の銘があり、この時代にこの地方一帯を大飢饉が襲い、多くの村人が餓死したのを供養した碑といわれている。

沼袋・野方コース057_convert_20120220110852 十三仏板碑

庚申塔・地蔵尊・二十三夜碑 
庚申塔には、大洋と着き、青面金剛、3匹の猿、にわとりなどが彫られている。石の側面には享保21年(1736)と彫ってある。台石には「右中村道 左さぎのみや道」と記され、道標の役を果たしていた。地蔵尊は、延享元年(1744)9月建立された。台石には、秩父、坂東、西国の観音霊場百ヶ所をめぐり、長寿福楽と来世での安穏を願った旨の文字が読みとれる。二十三夜の碑は、昔このあたりで疫病がはやったことがあり、祈祷師から以前にこの地にあったはずの二十三夜塔を再建するようにとのお告げがあり、昭和2年(1927)に建てられたものと伝えられている。

沼袋・野方コース062_convert_20120220110921  沼袋・野方コース061_convert_20120220115737

野方の笑い地蔵
戦後の苦しい生活の中で、笑いを通じて人々が元気を取り戻し、商店街が町とともに繁栄することを願って造られ、今は地元の保存会によって大切に受け継がれている。

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血液内科の診療

2月16日(木)
検査結果
IgM   4004(2/16)←3114(2/9)←2771(2/1)←2364(1/25)
白血球  3300←2400←3600←3000
好中球  1450←990←1430←960
赤血球  311←267←300←299
ヘモグロビン  10.3←8.9←9.7←9.6
網赤血球  17←23←17←18
血小板  16.4←12.5←9.3←5


IgMは今回も下がることなく大幅に上昇してしまった。来週の診療日にはベンダムスチンの投与を考えなければならない。そもその標準治療では120mg/m2(体表面積)を1日1回1時間かけて点滴静注する。投与は2日間連日行う。19日間休薬して第2クールとして同量のベンダムスチンを投与するというサイクルで行う。これを繰返し6クールを目途とする。それを私の場合身体への負担を考え50日の間隔を空け、120mg/m2(180mg)を点滴した。薬の量は標準治療の半分だ。

ベンダムスチンが全く効果を発揮していない。薬物耐性がこんなに早く出てくるとは思えない。やはり薬の量が少なかったのだろう。ベンダムスチンが全く効いてないということで、骨髄抑制が見られない。白血球、赤血球、血小板全ての値が上昇している。薬ががん細胞にダメージを与えるの力に比例して、血球もダメージを受ける。血球の数値が上がっているのは好ましいが、そのことは一方で抗がん剤が効果を発揮していないことの表れでもあるのだ。

次の診療日23日にベンダムスチン投与を行う事になった。薬の量に関しては難しい判断だ。一番多くて180mgを2日間で投与する。しかし通院でのこの量の点滴には抵抗がある。確かにこの量を入院でやって重大な副作用はなかった。赤血球や血小板の減少はあって輸血をしたが、これは通院でもできる。180mg1回だと効果が期待できないかも知れない。難しい判断だ。次回の診療日には、120mgを2回行うなどの方法も検討しながら対応していきたい。

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映画 『サルバドールの朝』

2月12日(日)
2月9日血液内科の診療が早く終ったので、映画週間としてユーロスペースで上映されている死刑関連映画を見に行くことにした。“「死刑の映画」は「命の映画」だ ”フォーラム90ではユーロスペースと死刑映画週間を共同で企画し実施した。場所は渋谷区円山町のユーロスペースで2月4日から10日まで行われた。

「犯罪や、その結果としての死刑という処罰方法は、私たちの日常と遠くかけ離れたものだろか? 世界中の映画監督や作家が犯罪や死刑をテーマに優れた作品を創造してきているのは、それが結構、社会が抱える身近な問題だからではないだろうか。」こういった趣旨で映画は行われた。

上映される映画は以下の10本で映画週間中1日4本上映される。
「私たちの幸せな時間」(ソン・ヘソン 2006)
「真幸くあらば」(御徒町凧 2010)
「エロス+虐殺」(吉田喜重 1970)
「帝銀事件 死刑囚」(熊井啓 1964)
「BOX 袴田事件 命とは」(高橋伴明 2010)
「絞死刑」(大島渚 1968)
「サルバドールの朝」(マヌエル・ウエルガ 2006)
「ダンサー・イン・ザ・ダーク」(ラース・フォン・トリアー 2000)
「ライファーズ」(坂上香 2004)
「休暇」(門井肇 2008)

何本かの映画は既に見たことがある。今回見たかったのは『サルバドールの朝』という映画だった。血液内科の診療の後輸血を行なわなかったので、13時30分からのこの映画の上映に十分間に合った。A君との面会の後、病院の最寄駅まで歩き、山手線で渋谷まで行った。ゆっくりと昼食を採り、映画館の1階にある喫茶店でコーヒーを飲んで上映時間を待った。

51_convert_20120211231650.jpg 『サルバドールの朝』を見た。この映画は実話に基づいたものである。
1970年代初頭、フランコ独裁政権末期のスペインで、正義と自由を信じ、世界は変えられると理想に燃えていた青年サルバドールは、MIL(the Movimiento Ibérico de Liberación・イベリア解放運動)と呼ばれる若者の反体制グループに加わり仲間たちと反体制運動に身を投じていた。

資金調達のため武装して銀行強盗を繰り返す彼らに警察の捜査の手が伸び、警官に逮捕される際不慮の発砲により若い警部を死なせてしまう。彼は正当な裁判を受けられないまま死刑(鉄環絞首刑)を宣告・執行される。その過程を克明に描いている。

スペインにおける反体制運動は、スペイン内戦までさかのぼって考えなければならない。スペイン内戦は1936年7月17日から1939年4月1日まで続き、共和国政府を打倒した反乱軍側の勝利で終結し、フランシスコ・フランコに率いられ独裁政治を樹立した。フランコ政権の政党ファランヘ党は自らの影響力を拡大し、第二次大戦時にはドイツ・イタリアのファシズム政権と同盟関係を結び、自らも国内にファシズム体制を築き上げていった。

ファシズムは第2次世界大戦後、沈静化したかのように思われている。だが、スペインでは戦後も30年にわたってファシズムは続いていた。右翼・軍事独裁政権という性格上、国内の自由主義者への弾圧は厳しいものがあり、戦時中から軍隊や秘密警察を使って厳しい思想統制を行なった。60年後半から労働運動、学生運動などの反政府活動が活発になっていった。 それに対して政府は組織の非合法化、非常事態宣言、関係者の処刑などで弾圧を強化していった時代だった。

スペインの状況は世界の状況と無関係ではない。1968年フランスの五月革命は、「世界的学生反乱」を大きく波及させた。「反乱」はフランスのみならず、5月11日には西ドイツのボンで50,000人の抗議行動、5月16日にはイタリアのフィレンツェでの大学学生抗議行動、5月18日のローマでのストライキが行なわれた。アメリカにおけるベトナム反戦運動も大規模に行なわれている。又、1968年8月の「プラハの春」などに飛び火し、世界的にも同時多発的な「学生運動」「政治の季節」の導火線となった。

日本では1969年1月の東京大学安田講堂占拠闘争に象徴されるような全共闘の活動が広がっていった。しかし政治の季節の大きな波は70年代になり徐々に後退していく。全共闘運動も大学の占拠が解除され、71年の沖縄返還調印・批准阻止闘争を最後に大規模な街頭闘争を組むことができなくなり、散発的なゲリラ闘争に終始しやがて学生運動自体が沈静化していく。

このような大衆運動の低迷のなかで、学生運動は先鋭化し、過激化していく。それは68~70年の全世界的に広がった大衆運動が結局は体制を変えることができなかったという絶望感を背景に持っているのも確かだろう。70年になって日本赤軍、東アジア反日武装戦線、ドイツ赤軍、イタリアの赤い旅団などが次々と結成される。スペインにおけるMILの結成もそういった流れの中で捉えることができるだろう。それぞれの成り立ちについて簡単に書いてみる。

ドイツ赤軍: 1968年頃に一部の若者を中心として先鋭化した反帝国主義、反資本主義、反米をスローガンに掲げた極左地下組織「バーダー・マインホフ・グルッペ」が形成された。そのため銀行強盗、爆破、誘拐、窃盗など非合法活動も含めたあらゆる革命行動を行った。

イタリア(赤い旅団): 1970年に創設されたとみられ、当初の主な活動はミラノやトリノでの極右勢力に反対する労働組合の支援であった。構成員は労働者と学生で、工場の設備を破壊し、工場の事務所や組合の本部に入り込んだ。1972年以降数多くの誘拐・殺人事件を起こし、ジャーナリストや、警察官、裁判官、実業家、政治家などを殺害した。

日本赤軍: 1971年、共産主義者同盟赤軍派の「国際根拠地論」に基づき、海外にも運動拠点と同盟軍を持つ必要があると判断し、パレスチナへ赴き、同地で創設した。パレスチナ解放人民戦線(PFLP)などパレスチナの極左過激派と連携し、テルアビブ空港乱射事件や、日本の国内外における身代金獲得や同志奪還を目論む一連のハイジャック事件、大使館など外国公館を攻撃をする事件を起こした。

東アジア反日武装戦線: 1974年、戦前戦後を通して行われているアジアヘの日本の侵略(経済浸路・新植民地主義支配)を阻止しようと、三菱重工等の侵略企業の爆破闘争を行った。またそれに先立ち、侵略戦争の最高責任者であり戦後も日本の頂点に立っていた、天皇ヒロヒトの御召列車爆破を企図した。

東アジア反日武装戦線の三菱重工爆破事件で8名が死亡し、385名が重軽傷を負った。これは全く予想できなかったことである。通常は放射線状に拡散する爆風が、ビルの谷間に阻まれ、ビルの表面を吹き上げ爆風の衝撃波で窓ガラスを破壊したほか、ビル内に入った衝撃波も階段などを伝わり窓から噴出し、ビル内部も破壊することになったのである。

また反日メンバーは守衛室へ8分前に爆破予告電話をかけたが、最初は「悪戯電話」として切られ、もう一度かけたが今度は取次ぎに時間がかかり、爆破予告が有効とならなかった。こういった一連の彼らの行動から殺意があったかどうか、現在再審で争われている。

彼らは8名の死者を出してしまったことに深く反省し、その後の爆破闘争では、時間を夜間にしたり、爆発の威力を小さくしたり、人の来ないような場所に仕掛けたりといった方法をとりながらも、アジアへの侵略企業への爆弾闘争を継続していった。

三菱重工爆破事件の実行犯とされている「狼」のメンバー大道寺将司君、益永利明君は死刑判決を受け、現在再審中である。『サルバドールの朝』の映画を見ながら、サルバドールが不慮の事故で警官を殺してしまったことと、「狼」メンバーが予想も出来なかった爆発の威力で人を殺してしまったということが重なり合った。彼らの殺人もまた不慮の事故ではなかったのか。確かに殺意はなかったと判断できたとしても、彼らの罪は消える訳ではないが。

サルバドールの場合、きちっとした裁判を行なえば、警官を死に至らしめた銃弾が、サルバドールの銃から発射されたものではなく、混乱のもみ合いの中で、仲間の警官の銃から発射されたものであることになったかもしれない。

警察はサルバドールに警官殺しの罪をかぶせるために、彼が撃った弾以外の弾(警察官が撃った弾)があったにもかかわらず、隠蔽し、検死結果を改ざんした。こういった問題点がありながら一切の審理も行なわれることなく死刑判決が下された。1973年ETA(バスク祖国と自由)によるルイス・カレロ=ブランコ首相暗殺があり、その報復としてサルバドールへの死刑判決は下されたといえるだろう。

この映画の中で最も衝撃的だったのは、死刑が執行される様子が詳細に再現されていることである。処刑道具は鉄環絞首刑(スペイン語:Garrote、ガローテ)と呼ばれるもので、椅子に座らせた死刑囚の首を鉄の輪で絞めて後ろを捻ることで首を絞める絞首刑の一種である。鉄の輪と棒で首の骨を折るという残酷な処刑の場面まで容赦なく描き出されている。政治的思惑によって真実はねじ曲げられ、25歳の若者は見せしめとして処罰された。

看守のヘススですら愛さずにはいられなくなる彼は、正義感に溢れた文学好きの心優しい兄であり弟であった。その彼を何故処刑しなければならないのかと監督は訴えかける。サルバドールの処刑は1974年だが、スペインが死刑を廃止したのはその4年後だった。(全ての犯罪に対する廃止は1995年)。

死刑執行までの残された時間の中で、家族、親友、恋人、弁護士、さらには刑務所の看守までもが彼の死刑回避のため闘い続けた。マスメディアや文化人知識人などの声を無視し死刑執行を強行し、一般者を葬儀にも参列させないなどの暴挙が繰り返された。自由を求めたサルバドールの死刑執行は、民衆の怒り呼び覚まし、1975年フランコの死後独裁政権崩壊のきっかけとなった。

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探索さんぽ-大泉学園・保谷コース

2月10日(金)
最近は雨の日が多く寒い日が続いた。とてもウォーキングに出かける陽気ではなかった。昨日今日と久々に上天気だ。風は冷たかったが、日差しは暖かく日向は気持ちがいい。やっと歩く気分になってきた。近場を散策してみよう。

西武線沿線のウォーキングコースを紹介したパンフレットが各駅においてある。「西武線の魅力新発見・探索さんぽ」というもので、それぞれのパンフレットに西武線の駅から出発するコースが3ルートづつ紹介されている。「湧水や清流、せせらぎとともに大泉学園から秋津を訪ねる」というパンフレトの中の大泉学園・保谷コースに行くことにした。

一級河川・白子川の源流を訪ねるコース
大泉学園駅→妙延寺→北野神社→牧野記念公園→石庭の森緑地→白子川→妙福寺→保谷駅


大泉学園駅の北口で降りる。大泉学園駅は学園通りを新座方面まで連なる桜並木を車で見物するために行った時に横を通った駅で、それ以外行ったことはなかった。

駅から5分位で妙延寺である。遠くからでも山門の横にそびえている樹齢400年のイチョウの大樹があって目に留まる。山門を入ると本堂があり、その横に「妙延寺ゆうわ会館」という建物があってそこは「空手道玄制流武徳会東京都本部道場」となっていて空手や古武道を教えているという。寺院と空手という組み合わせは珍しいが、寺院の経営の一つなのだろうか、どういった関係かはわからない。「玄制流空手道は沖縄の人、祝嶺正献(1925年生)により創始され、昭和25年(1950年)玄制流を公称した」という。

北野神社は妙延寺から保谷新道を5分程行った所にある。駅から3,4分の繁華街に隣接しているが、かなり広く都会の喧騒からは離れて落ち着いた雰囲気をかもし出している。神社に並ぶように大泉小学校と大泉中学校がある。学校が出来た頃はまだ静かな郊外の田園地帯だったのだろう。

菅原道真を祭神としているので受験の時期にはかなりの人出だろうと思うが、境内は人っ子ひとりおらず閑散とていた。参道には「ねりまの名木百選」の「むくろじ」の巨木がある。高さ14m 太さ1.6mある。今の時期枯れ枝しか見られないので、葉が生い茂った時の迫力を味わうことはできなかった。

妙延寺(倍光山 日蓮宗)
草創は永禄11年(1568年)となっており、檀家は土支田村上組、下組、石神井村、小榑村各村にわたっていた。本堂の前方に樹齢およそ400年有余年を経たイチョウの大樹(東京都指定樹木)があり、寺の草創時代の樹木と伝えられている。境内には、朱塗りの山門、題目供養塔、万霊塔、稲荷小祠などがある。

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 妙延寺山門                         妙延寺本堂

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 イチョウの大樹              水子観音

北野神社
この神社は、元は江戸時代土支田村の「番神さま」と呼ばれ、村民から親しまれていた。「番神さま」とは法華宗(今の日蓮宗)独特の三十番信仰(神仏混淆時代に、1か月30日を神々が毎日交代で守護する)のこと。明治政府は神仏習合の思想を禁止した際、三十番神の名称を廃止した。以来、この神社は菅原道真公を祭神とし、「北野神社」となり、最近では「大泉天神」と呼ばれて親しまれている。

大泉学園散歩コース001_convert_20120211115439  大泉学園散歩コース007_convert_20120211121203 
 北野神社鳥居と参道         北野神社拝殿

大泉学園散歩コース002_convert_20120211112536 大泉学園散歩コース005_convert_20120211112616 大泉学園散歩コース009_convert_20120211120433
 瑞穂稲荷神社                                 練馬の名木百選の「むくろじ」の大木

大泉学園駅の北側で2件回ったが、今度は線路を越えて南側に行くことになる。線路を潜る地下道があって駅南口に出られる。消防署や自動車教習所見ながら、しばらく行くと牧野記念庭園に着く。ここには「めりまの名木百選」の中のセンダイヤザクラとヘラノキがあるが枯れ枝なので面影がない。庭園はもとより、居室や陳列室はきちっと管理が行き届いている。ここでも誰と会わなかった。平日の昼頃に来る人もいないだろう。こういった区の名所旧跡や風物、自然は何時見学に行っても空いているのがいい。

さらに10分ばかり歩くと石庭の森緑地に至る。ここは造園業者の解説にあるように徹底したリサイクルによって作られた庭園だそうだ。既に使用されなくなった丸型ポストの台座を敷石として使ったり、蛇籠の中の石は廃棄石材を使っている。公園に入った時にはリサイクルの材料を使って作られた公園だという印象は全くしなかった。涼しげな竹林の中に東屋もあって夏は近所の住民が涼を取る場となるだろう。

牧野記念公園
ここは、日本が生んだ世界的な植物学者、故牧野富太郎博士が、植物の研究に没頭し、「我が植物園」としてこよなく愛した自宅を保存し、整備した庭園である。園内には、博士が自ら集めた300種あまりの植物が植えられている。博士が20歳の時、博覧会見物を兼ねて初めて上京した際購入したドイツ製の顕微鏡。自分の研究成果をとりまとめた『植物学雑誌』『日本植物志図篇』、植物の実物大の図を載せた大判(縦47cm、横36cm)の『大日本植物志』など、貴重な資料を見ることができる。陳列室の前には夫人の名前を付けられたというスエコザサで囲まれた石碑があり、博士の筆で「花在れバこそ 吾れも在り」と刻まれている。

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 牧野富太郎居室・書斎、書庫               記念公園展示室

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 記念公園入口              博士直筆の石碑            牧野富太郎胸像

石庭の森緑地
本緑地は、小規模の都市公園(種別:都市林)であるが、循環型社会形成への寄与、屋敷森を主体とした地域固有の風景の継承を目的に設計している。敷地内に多量に残存していた既存の自然石(合計96個、69.38t)及び、不定形な廃棄石材などの多種の形態・石質を持つ既存石材とコンクリート廃材を敷地内で分別した上で屋敷森の風格を継承・再構成するために利活用しており、積極的に地場の材料を用いた。(「株」GLAC)

蛇籠(じゃかご)とは金網の中に石を詰めてあるもので、以前ここにあった大谷石塀や玉石をリサイクルした。昆虫や小動物が棲みついて、やがて昆虫を求めて野鳥も集まる。20~30か所に置かれている。丸石は丸型ポストの台座を利用したもの。

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 公園内竹林                          蛇籠(じゃかご)

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 塀の石やポストの丸台座で作られた敷石

白子川
昔は、白子川の上流を保谷市から田無市までさかのぼることができた。かなり蛇行した川で、川沿いには井頭池をはじめ、多くの湧水池が見られた。昭和31年の耕地整理に伴い、川筋が直線化され、水害が社会問題とされた昭和43年以降、コンクリート護岸に改修がされた。

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石庭の森緑地からすぐの所にある踏切を渡り保谷新道に出る。そこから白子川に向う。泉橋で白子川に行き当たる。川沿いに宮本橋方面に少し戻るとそこから妙福寺はすぐだ。かなり広い境内だった。総門を潜り参道を行くと今度は仁王門がある。総門から仁王門に至る参道は木々に囲まれ落ち着いた寺院独特の雰囲気を作り上げている。仁王門を潜ると右に鬼子母神堂と鐘楼がある。鐘楼には江戸時代の初期に作られた銅製の梵鐘があり練馬区指定有形文化財となっている。

仁王門の正面に祖師堂がある。かなり格調の高い建物だ。その右横に本堂があるが、どちらが本堂だか分からなかった。旧庫裏の遺構が残されていると書かれていたが何処にあるか分からなかった。境内を散策し今日回る予定の所は全て終了した。約2時間のウォーキングだった。丁度いい距離だ。妙福寺は大泉学園駅と保谷駅の中間地点にある。帰りは保谷駅を利用することにした。

妙福寺(西中山 日蓮宗)
この寺は、日高・日祐上人の説法により元亨2年(1322年)、天台宗の大覚寺が日蓮宗妙福寺に改められたと伝えられている。天正年中(1573~92年)には、寺領21石を与えられ、この地方での日蓮宗の中心となった。境内には祖師堂、本堂、仁王門などがあり、なかでも旧庫裡は元禄年間(1688~1704年)の建築といわれ、区内でも古い建築物です。特にその天井の骨組みは「からかさ造」と呼ばれる珍しいもので、現在もその遺構が残されている。

大泉学園散歩コース045_convert_20120211113552 妙福寺祖師堂

大泉学園散歩コース043_convert_20120211141759  大泉学園散歩コース056_convert_20120211113842 
 総門                             参道                 
        
大泉学園散歩コース044_convert_20120211141840  大泉学園散歩コース052_convert_20120211114100
 仁王門                            本堂
 
大泉学園散歩コース051_convert_20120211113800 大泉学園散歩コース050_convert_20120211113724 大泉学園散歩コース047_convert_20120211114008
 日蓮像                 鐘楼                  鬼子母神堂     

(参考資料: 西武ウォーキング・探索さんぽ、練馬区公式HP・ねりまの散歩道)        

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患者の苦悩

2月9日(木)
§ 昨年8月第2回DCEP療法で入院していた時に、同室だったA君が再び入院しているという事を聞いて診療後見舞いに行った。彼は移植後3年目の昨年、膝を中心として痛みが徐々に強まってきた。ある一箇所が痛いというのではなく、足の骨に強い痛みが生じるというものだ。

同じ時期に入院していた時には彼は検査入院だった。整形外科、血液内科の医師が協力して原因究明に努めたが何故骨の痛みが起こるのか分からなかった。結局原因不明で治療法なしといった診断を与えられ退院した。痛み止めの薬を服用し痛みを抑えることしかやることがない。

9月の院内患者家族交流会に参加してくれた。その時は発熱したので急遽入院したといった。ステロイドによる治療を始めて大分症状は収まったという報告を受けた。11月の交流会の時には、退院して元気そうな姿をみせた。そろそろアルバイトを始めようかと思っているという程の回復を見せていた。

§ 私が12月に入院していた時には彼はいなかった。しかし1月13日の交流会の時に参加者の一人がA君がまた入院しているという情報を聞いていた。交流会の次の週の診療日に面会に行ったが、ほかの面会者と熱心に話していて、当分終りそうもなかったので面会しないで帰った。なかなか行く機会がなく今日診療が終ってからA君を訪ねた。カーテンが引かれていて声をかけたところ返事があったのでカーテンを開けた。丁度間が悪いことにタオルで体を拭こうとしている最中だった。

彼の姿を見て全く昔の面影がなかったので別人かと思った。かなりの肥満体になっていた。「随分太ってしまったね」と言ったのが気に障ったのか、「太っては悪いですか」と切り返してくる。「治療経過はどうですか」と聞く。「順調にいっている、あなたは色々な医学的な知識教えてくれるが、その事によって不安をあおることになっている。だからあなたの話をあまり聞きたくない。それに今体を拭いている最中だから」といって一刻も早く面会を打ち切りたい素振りを見せた。ともかくあまり人に会いたくないのだなと思ってすぐに退散した。

見舞いに行くというのも難しい。気分的に人と会いたくない時もあるだろう。しかし前もって予約していない見舞いは強引に押しかけることになる。突然気心の知れた人ではない人が来ると戸惑ってしまい、どんな話をしていいか駒ってしまうのだろう。

§ A君は病状が重く寝ていた訳ではないが精神的に人との関係を作っていこうとする器量を失ってしまっているようだ。1年の間に4,5回も入退院を繰返し、しかも治療法がある訳ではない。痛みを強く感じる時や、苦しく辛い状況の中で、確かに抗がん剤治療後何年も再発せず、完治といってもいい人や、治療が順調にいっている人を見ると、そういった人との話を拒否したくなるのは分かるような気がする。

A君は1月13日には入院していたので、既に1ケ月経つ。どのような治療が行われているか分からないが大量のステロイドが使われているのだろう。彼のムーンフェースや肥満はその影響だと見られる。私が医学的知識を彼に話して、彼を不安に陥れたことなどあったろうか。そんな知識などないし、そんな話をした記憶も全くない。

ただ11月の交流会の時にA君にステロイドの副作用について話したかもしれない。しかしそれは自分の体験を話しただけだ。しかし人は気がつかないうちに他人を傷つけていることもあるので気をつけなければとつくづく思った。患者の多くは医者任せで、自分の病気の事を知ろうともしない。知ることを恐れているのかもしれない。自分で自分の人生を選択していくことはある意味で勇気のいることなのだ。

A君は20歳半ばで人生で最も華やかな時期だ。その時期に原因不明の骨の痛みをかかえ入退院を繰返し、就職もままならない。そういった精神状態は到底推し量ることはできない。その病気を人生の転機として新たな生きるべき道を見出していった方がいいなどというのはあまりのもおこがましい。絶望に満たされているのだろうか、どこかに希望を見出しているのだろうか、ただ見守るほかないのだろうか。

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ジャンル : 日記

血液内科の診療

2月9日(木)
検査結果
IgM   3114(2/9)←2771(2/1)←2364(1/25)←2259(1/18)
白血球  2400←3600←3000←2200
好中球  990←1430←960←510
赤血球  267←300←299←245
ヘモグロビン  8.9←9.7←9.6←7.6
網赤血球  23←17←18←8
血小板  12.5←9.3←5.3←2.8


定期的に水曜日が診療日だったが、水曜日がかなり混んでいるので、木曜日にしてほしいということで今日になった。体調的には過眠などの副作用はないが、骨髄抑制がどの程度出てくるかが問題だ。血球の数値が下がっていれば輸血をせざるを得ない。赤血球か血小板かその両方か、どちらの数値が減るか全く予測できない。血球以外にIgGは何時も少ない。一月一度位は免疫グロブリン製剤の点滴をした方がいいのは確かだ。

ヘモグロビンは8.9と少しは下がっていはいるが問題ない。網赤血球が23あるのでこれから減るという心配もないだろう。血小板は何故かとんとん拍子に増えている。12.5あればこれはもう基準値に到達したといってもいい。この何年間このような数値まで上がったことはなかった。IgGは今回計測しなかったので免疫グロブリン製剤を点滴するかどうかの判断はつかなかった。そういったことで今日は輸血はなかった。

病院に着いたのが9時15分、今日は採血室がどうしたわけかがら空きで、行ったらすぐに採血された。そして10時5分前に診察室に呼ばれた。IgMの数値はまだ出ていなかったが、それは後で電話で聞くということになって、血球の状態から判断して今日は輸血なしで診療だけで終わった。今日は空いていたからだろうか、病院を出たのは10時15分過ぎだった。この位スムーズに運べば病院が通いも楽だ。

IgMの数値に関しては12時頃電話してほしいということで、担当医に電話した。数値は3114で残念ながら上昇していた。先週やったばかりでまだ効果が出ないのか、薬の量が少なくて効果を発揮できないのか今の所分からない。来週の検査で上昇を続けていたのならば、ベンダムスチンを追加投与する必要があるだろう。2月1日には180mg投与したが、さらに180mgの投与を行なわなくてはならないかもしれない。

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いがらしみきお 『 I 』

2月3日(金)
31_convert_20120201084320.jpg 友人がこの本を読んでどう思うか聞かせてほしいと言いながら、いがらしみきおの『 I 』という漫画を貸してくれた。漫画家についてはあまリ詳しくはない。いがらしみきお作品は今まで読んだことはなかった。一緒に貸してもらった『羊の木』はすんなりと読めた。原作が山上たつひこで、昔、漫画雑誌に連載されていた『光る風』を読んだことがある作家のだったので興味が持てた。その原作をいがらしみきおは自分の世界の中で作り上げてきている。

『羊の木』と違って『 I 』の方は、簡単には作者の意図がつかみづらい。もちろん何が書いてあるか考えることに意味があるのではない。読んだ時に不協和音的な感覚を味わったり、おぞましいと感じたりすることの中に作品の意味がこめられている。最初は自らの存在とは異質の世界の物語だと思って読んでいても、やがてはその世界と同一地平にいる自分に気が付かされるのである。生きている自分そのものとは一体何なのかを問わざるを得なくなってくる。

STORY : 宮城県の田舎町に生まれ、身寄りのないイサオ。生まれた時に母親が死んだ。彼は生まれた時から自意識があり庭の片隅に神らしきもの姿を見る。イサオは叔父の手で育てられるが、虐待され豚小屋の隣で生活し小学校にも行かしてもらえなかった。その叔父がある日その辺では一番高い神木の杉の木の天辺で首をつって死んでいた。

また彼をいじめていたガキ大将が、交通事故で死んだ。周りの人はイサオが何らかの力を持っているのではないかと疑いを持ってみるようになった。さらにイサオは恩師の臨終の場で、人の魂を己に乗り移らせたかのような不思議な力を見せた。

こういった中で、雅彦は次第にイサオに 惹かれていった。雅彦は医者の息子で比較的裕福な暮らしをしていた。しかし小学生の頃から、自分が生きていることの意味についてひそかに深く悩んでいた。雅彦の祖母がイサオの所に通っていることを雅彦は聞いた。イサオは彼女が死にたがっているという。

ある日用水路に頭を突っ込んで死んでいる祖母の姿があった。雅彦はそれがイサオのやったことだと思って問い詰めるが、死にたい人を死なせることは罪なのかといわれる。「貴様は神様か、人殺しだ。自分のやっていることわかりもしないくせに、何が苦しくないようにしてやっただよ」雅彦は怒りイサオを殴りつける。

やがて雅彦は中学を卒業する。高校入試の日に二人で旅に出ることを決意する。目的は雅彦にとっては、「オレは何になればいいのだ」という言葉に表現されるように、自分の今生きている世界、そして生きている自分そのものとは一体何なのかを探る旅であり、イサオにとっては産まれた瞬間に目撃したという神様のような存在=トモイを探すこと。これが、二人の長い旅の始まりだった。

「 何故生まれてきたのか、何故生きていくのか、何故死んでしまうのか誰も知らないままだ。何も知らないまま生きて、夜が来るように死を迎える」本の中に書かれたこの一節が物語り全体を貫くテーマとなっている。

「死にたいと思っている人を死なせるというのは間違っている」といった主張は意味を持たない。ここでは尊厳死を扱っているのではない。死と生の間にあるものは何なのかそれを考えなければならない。この作品は、生と死の意味を問うものだ。そして同時に人生、祈り、奇跡、そして宗教といったものにも波及してくる。

イサオが人の「死」を叶える場面をみたとき、それが果たして正しいのかどうかを問うことに意味があるのではない。現在において死はどのように表現されているのだろう。「あんたは癌で、後何年生きられるか」といったことがパーセンテージなどの具体的な数字で表現されている。死ぬ時期は医療上の現在のレベルによって規定される。そこには死にたいとかとか生きたいとかいった個人な欲求は存在しない。コントロールされた死があるだけである。薬の効果によって寿命が左右されていく。死が意味を持たなければ生もまた意味を失う。どのような死を迎えるのかが、その人の生のあり方を表している。

この本のテーマとして「東北の地で神様を探す」と書かれている。人の生死は人知の及ぶ所ではない。生死を司るのは神の領域だ。イサオはその領域に踏み込んでしまったのか。「見ればそうなる」「誰も見てない所に神様はいた。」この言葉の中に作者の世界観が表現されている。

『 I 』は世界の成立ちを描こうとしている。「誰かが見ること世界は始まる。生き物は見るために生まれて来たのかもしれない。みんなが見ることによってこの世界は創り上げられているのだろう。だから誰も見ていないところには何もない。誰も見ていないところ。そこは真っ暗で神様しかいなのかもしれない。」と書かれている。

自己意識(自我)の過剰な発現の中で、自分が「見ていない」世界は存在しない。しかし一方、イサオによって「見て」いないときには世界は「闇」で、そこに「神」がいるという答えに出会う。「イサオは闇の向こうに神様がいると思ったそうだそして向こうに行ってみると言った。イサオは神様に合えたのだろうか。」物語はここで終わり答えはない。

神は心の闇の中にある。それは未知である不可知である。それは信仰の問題で、存在の問題ではない。神が存在するか否かについて、人は語ることは出来ない。「語りえぬことには沈黙を守るしかない」のである。同時に死についても語りえない、人は死を経験できない。ただ必ずいつかは死ぬという事を知っているだけである。

人は死を知ることはできない。たとえイサオのように、人の心の中に入り込み死を操ることが出来たとしても、「死とは何か」についての答えが得られるわけではない。そのことによって、神に近づけたわけではない。雅彦の旅が「自分を探す旅」であるように、イサオの旅は「神様を探す旅」であった。そしてその旅は終りなき旅なのである。

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血液内科の診療

2月1日(水)
検査結果
IgM   2771(2/1)←2364(1/25)←2259(1/18)←2887(1/11)
白血球  3600←3000←2200←3300
好中球  1430←960←510←500
赤血球  300←299←245←284
ヘモグロビン  9.7←9.6←7.6←8.7
網赤血球  17←18←8←3
血小板  9.3←5.3←2.8←1.4


先週からIgMが上昇に転化した。今日の結果を見なくても上がっていることは想像できる。案の定400も上がっていた。血球は治療を行うのに問題がない状態であった。白血球が3600、血小板も9.3と上昇し安心して治療に入れる。

予定通りベンダムスチンの第2クールを行う。外来治療センターで処方された薬が薬剤部から届けられるのを待つ。外来治療センターは病院の建物が改装されてから広くなり、収容人数も50人まで受け入れられる。そういったことで、空きベッド待ちということはなくなった。

薬も先週今日やることを予約しておいたので思ったより早く来た。次に医者が点滴針を刺すのを待つ。それが終ると、まず吐気止めのカイトリルを30分かけて点滴する。その後ベンダムスチン180mgを1時間かけて点滴する。

特に問題もなく1時間半の点滴を終え、最後に生理食塩水で5分ばかり洗浄をすれば終わりだ。点滴をしたにしては、全てがスムーズに運び病院を出たのが14時だった。

担当医が先週の診療時、抗がん剤の新薬が承認されたと言ったが、調べて見てそういった情報はなかったので、再度聞くと、彼の勘違いで骨病変に対する新薬が承認されたということだった。この事について日本骨髄腫患者の会のHP詳しい記事が掲載されていた。

「12月1日に開かれた厚生労働省の薬事・食品衛生審議会 医薬品第二部会は、骨病変の治療薬デノスマブ(販売名 ランマーク、製造販売 第一三共)の承認を了承しました。

人の骨は生涯にわたって“新陳代謝”をし、古い骨を壊して新しい骨を造るサイクルを繰り返すことによって骨の強度を保っています。このことを「骨のリモデリング」と呼びます。リモデリングで重要な働きをするのは、壊す方の細胞が「破骨細胞」、造る方の細胞が「骨芽細胞」です。ふたつとも大切な細胞です。

骨髄腫の患者さんは、骨髄腫の腫瘍細胞によって「破骨細胞」の方が活性化されるため、「破骨細胞」と「骨芽細胞」のバランスが崩れ、骨が壊される方が強くなります。そのため、ちょっとしたことで骨折をしたり、しそうになったり、背骨が圧迫骨折したりして背中や腰などお体が痛くなることがよくあります。

その「破骨細胞」の活性を抑えるための治療薬の投与を受けることで、骨を守ったり、痛みから解放されたりします。これまでから、ビスホスホネート(販売名 ゾメタ)という薬が骨の治療薬として承認され、多くの患者さんが投与を受けています。

今回承認を了承されたデノスマブは、破骨細胞の形成や活性化に必要なタンパク質である「RANKリガンド」を標的とした世界で初の抗体薬で、破骨細胞がやたらに働かないよう抑制する効果があります。

これまであった骨の治療薬のビスホスホネートとどう違うかについては、ふたつの薬は破骨細胞を抑制する目的は同じですが、作用のメカニズムが異なります。ビスホスホネートは破骨細胞に直接作用して破骨細胞を阻害する薬で、デノスマブはRANKリガンドというタンパク質に作用します。

効果についてデノスマブとビスホスホネートのひとつゾメタの比較試験が海外でなされた結果は、骨に関連する効果は同じ程度と考えられています。・・・以下略」

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がん治療とは長く細い道を辿ら
なければならない。その先に希
望があると信じながら。

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