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限られた生をどのように生きるのか

4月1日(日)
◆ 人はどのように生を終えるのがいいのか。もちろんそれに対する明確な答えはない。全ての人が異なった終り方を考えているだろう。原発性マクログロブリン血症という病気にかかり私の余命は限られている。後数年の命だろうとは思っている。

限られた人生を生きるのと後20年、30年生きるかもしれないと思って生きているのとどのような違いがあるのだろうか。90歳まで生きることに意味を感じることが出来るだろうか。その年齢になったら何出来るのだろうか。何をしているのだろうか。そう思うと限られた人生を生きているということが、むしろ大きな意味を持ってきて自分に与えられた運命だと感じられる。

◆ 母親は90歳になる。最後に海外旅行に行ったのは6年前で、3年前まで元気で炊事洗濯掃除など家事全般をこなしていた。地域の「歩こう会」に参加したり、「文学散歩」というJTBの定期的な企画に参加して、文学者の案内で関連施設を巡る国内旅行にも参加していた。そのため足腰を鍛えるということで夕方散歩をするのを日課としていた。

しかし、3年前散歩中雨上がりの日転んで、半年ばかり寝たきりになってしまった。腰の痛みは収まり、完治したが、結局寝ていたときにやらなった家事を、その後やることはなかった。身の回りのことは出来るので安心だが、今は一日中寝たり起きたりを繰り返してテレビの前にいて見るともなしに見ている。高血圧気味だが、何で薬飲むのかどうせ先は長くないしこれ以上長生きしてもしょうがないという。

◆ 
寝たきり老人とまでは行かないが、元気で外に出て活躍しているのであれば90歳でも100歳でも生き甲斐をもってすごすことができるだろう。しかし体が弱ってきて思うように動けず耳も遠くなり、認知症まで行かなくても少しはボケが始まってきた場合、そういった時生きる目的、意味は難なのだろうか。ただ呼吸しているだけの生でしかなかったならば、生き続けたいと思うのだろうか。

90歳近くにもなるとなかなか生きる目的を持って生きている人は多いわけではない。その日暮らしで月日を消費しているに過ぎない。「今朝もね目が覚めちまったよ、昨夜も死ねなかった」ホスピスの老人が言った。

どういった生であれば生きる意味があるのか。病気になればそれに対して生物学的本能で対抗する。生は本能だが、しかし死は選択可能性を人に与える。こう考えた時限られた生を強制されているがん患者あるということは、人生に別の生き方見出していかなければならない。

「がんはなかなか良い病気だ。患者本人はもちろんのこと、家族や友人にとっても別れの時のための準備が出来るからだ。死の受容が比較的自然に行なわれると思う」(千葉敦子著『死への準備日記』)

◆ 
「ホスピス」の中で写真家ジャコメッリはいい知れぬ孤独な生、人間は誰でも老い、そして死ぬというやがて来る宿命的結末を見つめながら、その現実を凝視し続けるのである。「生」と「死」の狭間の中でもがき苦しみながらも生きる。生への願望と死への願望これは切り離せない表裏一体のものである。どちらも最後の生をどのように生きるかを模索しているのだ。

彼は死に行く者への畏敬の念を感じそれを映し出すのである。死を待つ老人たちの最後の曙光を写し出すのである。老人の顔の皺はまさに生の年輪であり、生の軌跡である。皺の一本一本の中に老人の全人生が刻み込まれているのである。老いも死も生と不可分な関係にあり、死があるからこそ生は輝きを増すのである。死はある意味で救いなのか

 『化学療法が著しい効果を顕せば、死期を遅らすことはできるかもしれないが、病状がいずれやってくる死につながるだろうことは間違いないようだ。目下の所私は「死を見つめる」よりも「死ぬまでどう生きるか」の方にずっと関心がある。

長い人類の歴史から見れば、私の40年の人生など全く芥子粒以下のものだ。だから私は自分の人生が終わりに一歩近づいたからといって、それが自分の世界を揺るがす重大事件だとは受け取っていないのだ』(千葉敦子著『死への準備日記』)

限られた人生をどう生きるのかそれは簡単なことではない。今までの生き方の延長線上にしかその答えはないだろう。日々どのように過ごすか、結局死ぬまでどう生きるかということでしかないのだ。頑張るとか努力するとかいった言葉とは無縁に「なるようになるしかない」と思って生きていく外ない人生なのだ。
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テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

治療の行方

3月31日(土)
 DCEP療法を入院治療でやっていくことになった。DCEP療法は3度目なので、どこまで奏効するか分からない。主治医はもしDCEP療法が効かなかったらどうするか考えておいて欲しいと言った。緩和ケア病棟への移行を示唆した言葉だと思う。

奏効しなかったらどうするのか。主治医は次の方法を見出すことが出来でいないのだろう。私もそうなったらそうなった時に考えるとしか言えなかった。

 DCEP療法よりも強力な治療方法がないわけではない。骨髄腫のサルベージ療法の一つとしてDT-PACE療法(デキサメタゾン+サリドマイドに加え、シスプラチン+ドキソルビシン+シクロホスファミド+エドポシド)があげられている。DCEPにサリドマイドとドキソルビシンが加わったものだ。

Arkansas Canser Research CenterではVDT-PACE療法を(ボルテゾミブ+デキサメタゾン+サリドマイド+に加え、シスプラチン+ドキソルビシン+シクロホスファミド+エドポシド)を寛解導入療法として行い、高いCR率を得、SCTまで早期に移行できた。

こういった方法が『日本臨床・特集多発性骨髄腫』に書いてある。主治医はこの方法には言及しなかった。知らなくて言わなかったのか、かなり強力な治療法なので、身体に負担がかかり過ぎると判断したのだろうか。仮にDCEP療法で効果がなかった場合上記2つの内のどちらかをやることが可能だろうか。DCEP療法で身体にかなりのダメージを得るだろうから、体調の回復を待ってからしか次の治療は出来ないだろう。そういった判断もしなければならない。

 もう少し時間があれば、新薬であるカーフィルゾミブやポマリドミド、エロツズマブなどが使えるようになって治療の可能性も広がってくるだろう。それまで何らかの方法でIgMを抑えることが出来るかどうかが治療の要である。その方法があるかどうかが将来を決めることになる。

アメリカで開発され承認待ちの新薬の情報はなかなか入ってこないし、それが何時から日本で使えるかは全く不確かだ。「Onyx Pharmaceuticals, Inc.(以下、オニキス社)は、2011年11月29日、再発難治性多発性骨髄腫の治療を適応とする次世代のプロテアソーム阻害剤であるcarfilzomibの新薬承認申請(NDA)について、米国食品医薬局(FDA)により受理されたことを発表しましたのでお知らせします。」(小野薬品工業株式会社 広報室)という記事があった。日本での承認は何時になるのだろう。

 多発性骨髄腫では初めての分子標的薬になるelotuzumabがある。昨年11月に日本での治験でレナリドマイド+elotuzumab+デキサメタゾンの併用療法が行われた。この治験者として募集したが採用されなかった。

「elotuzumabを、レナリドミド+低用量デキサメタゾンとの併用下で投与したフェーズ2試験の中間解析で、良好な客観的奏効率(ORR)と十分な忍容性が確かめられたことがわかった。この中間成績は、2011年12月10日から13日まで第53回米国血液学会(ASH2011)で発表された。」(日経メディカルオンライン)。

治験が終わりどのような手順で承認まで持っていくのか分からない。この薬の承認まではまだ時間がかかりそうだ。もう少し情報を集めて新薬への期待を確かなものとしておかなければならないだろう。

 Pomalidomide(ポマリドマイド)はサリドマイド類似体の経口剤で、著明な免疫修飾作用を呈す。ポマリドマイドは血管成長を阻害し免疫系の機能を刺激するが、癌細胞を直接殺す可能性を有す。また、血管新生阻害剤でもある。全奏効率は62%で、24%にきわめて良好な部分奏効がみられた。レブラミドによる前治療歴を有す患者の奏効率は29%であった。

骨髄腫患者の治療分野において、ポマリドマイドはレブラミド(レナリドマイド)やサレドカプセル(サリドマイド)と競合する薬剤として期待される(ASH 2008)。ポマリドマイドの再発難治例を対象にした第Ⅱ相試験の報告が行なわれ、奏功率63%とかなり良い成績で、レナリドミドに次ぐ第4の新薬となるだろう。かなり臨床試験が進行しているのもかかわらず、米国食品医薬局(FDA)への新薬承認申請(NDA)が出てこないのが残念だ。

新薬での治療が可能か。DCEP療法に変わる方法があるのか。様々な情報を集める外ない。どちらにしても「人事を尽くして天命を待つ」他ない。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

眼科、血液内科の診療

3月29日(木)
検査結果
IgM   7260(3/28)←6395(3/22)←5138(3/15)←4715(3/8)←5187(3/1)
総蛋白  11.0←10.4←9.2←9.9
白血球  1800←2400←2900←2500
好中球  1160←1060←1600←1340
赤血球  256←227←240←240
ヘモグロビン  8.5←7.6←8.0←8.0
網赤血球  6←4←8←7
血小板  1.9←2.8←4.4←4.7


眼科の診療
血液内科の治療で、先週金曜日からサリドマイドとデキサメタゾンを服用し始めた。デキサメタゾン(レナデックス)は金曜から月曜までの4日間1日40mgを服用した。このステロイド剤はアレルギー性の目のかゆみや涙目に驚くべき威力を発揮した。1ケ月位前から始まっていた花粉症と思われるアレルギー性の目の疾患で、涙がでて、目頭がひたすらかゆかった。

リボスチン点眼液という抗ヒスタミンの目薬を処方してもらったが殆ど効果がなかった。そこでフルメトロン点眼液という抗炎症ステロイド水生懸濁点眼剤を処方してもらった。左眼がサイトメガロウイルスに犯されているのでステロイド剤はあまり使いたくなかったが、右眼の方が花粉症の症状が激しいので量を加減して右眼だけ使っていた。しかしそれでも一向に改善されなかった。

しかし、デキサメタゾンを服用し始めた途端嘘のように眼のかゆみも涙目も全く消え去ってしまった。点眼薬では全く効かなかったのに、ステロイドを服用したらアレルギーの症状が完全になくなってしまったというわけだ。ステロイドは免疫抑制剤としてアレルギー反応に絶大なる威力を発揮するが、一方はあまりにも副作用が大きく危険な薬でもあるという所が難しい所だ。

血液内科の診療
今日IgMの数値がどうなるかが、極めて重大である。下がっていれば、サリドマイドとデキサメタゾンの組み合わせでしばらくはやっていけるだろう。しかしIgMが7000~8000とかに増えてしまったならば入院治療をせざるを得ない。結局IgMは7260に増えてしまった。先週あまり深い判断もせずに他に方法がなく、サリドマイド+デキサメタゾンを服用するという選択をしたがやはり全く効果がなかった。もはやかって効果があった薬が全く利かなくなってきているのだろう。

入院治療でやっていくほかない。血小板が少ないので外来でサリドマイドを使用するわけにはいかないし、1週間服用して効かなかったので、これ以上服用しても効果は期待できない。入院治療で何を使用するのか難しい所だ。医者が言うにはDCEP療法でやる他ない。これで効果がなかったら他に方法はないだろう。

通院、入院の繰り返しでの治療を継続していくほかない。2,3週間入院し、3,4ヶ月外で過ごす。そういった生活を続けて行くことになるだろう。そして入院の間隔がどんどん短くなっていく。通院治療で使用できる新薬が出来ればまた生活は変るだろう。それを期待するほかない。

もはや通院治療で出来るどんな方法もない。結論からいえば、病院のベッドの空き待ちで、来週半ばには入院し、DCEP療法を行うことになった。今日は入院手続きをして、後は病院からの連絡を待つだけだ。前回と前々回の経験からいって、3週間前後の入院治療を行うことになるだろう。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

梅と桜が同時に

3月28日(水)
暖かな日差しの中公園を散歩する。ベンダムスチン治療での退院後、公園でのラジオ体操には行っていない。入院前も体調の問題もあり同時に寒くなり、早起きがつらいということもあって11月頃から行っていなかった。退院後はどうもベンダムスチンの副作用として、体調の低下が続いていたようだ。あまり元気が出ない、疲れやすいといった感じが絶えずしていた。今サリドマイドとデキサメタゾンを服用しているが、ステロイドの影響だろう体調は結構いい。

そろそろ暖かくなって来たので、生活習慣を変えていこうと思う。退院後は病院生活の延長線上で6時には目を覚ましていたが、今は12時に寝て、7時30分頃起きる習慣になってしまっている。また早起きの生活に徐々に戻していこう。

梅と桜が同時に咲いている。公園の白梅、紅梅は今が盛りだ。今年はそれと同時に、桜で最初に咲く寒緋桜が蕾を付け始め、今にも開花しそうだ。毎年寒緋桜と同時に花開くシデコブシの写真を撮っている。季節は巡り来て、春の最初の兆しが寒緋桜とシデコブシなのだ。2005年に入院した時、病院の窓から隣の寺院の桜の花が咲き誇るのを眺めて、来年は花見に行こうと思っていた。そして今は後何年桜見物をすることが出来るのだろうと思わざるを得ない。

公園の梅と桜
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 寒緋桜                             シデコブシ

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 白梅、紅梅

治療はなかなか思うように進まない。通院で服用する薬も限られてきている。入院治療でも使える薬がそれ程ある訳ではない。ベンダムスチンの180mgの2日間連続点滴が効果的だとは思えない。DCEP療法も2度目の時はかなり効果が減少していた。入院治療でもどのような薬を使うか難しい選択だ。

どちらにしても通院、入院を繰り返す治療を続けながら延命を図る外ない。そしてその間をどのように生きていくのか、そういったことも考えなければならない。気張らず、気楽に好きな事をしていくそういった達観した精神でゆるやかに生きていく道を模索していく外ない。

寒緋桜の艶やかな濃いピンクの色彩が、春の兆しを告げ、季節は循環し生まれ変わり永遠に継続する。生き続けている現実に目覚めさせてくれる。やがて花開くソメイヨシノの淡いピンクや山桜の白いさわやかな色の下で、春のまばゆさを満喫できることに感謝する外ない。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

越生梅林

3月26日(月)
 空が晴れ渡り、暖かく、体調がよければ何処に出かけたくなる。梅も満開の時期を間もなく過ぎ、次に桜にその座を奪われるだろう。どちらにしても今が盛りだ。見に行く最後の機会となるだろう。まだ行ったことのない越生梅林に行くことにした。千川から行けば東武線乗り継ぎで1時間15分で越生駅に着く。

越生駅から越生梅林までは1時間に一本のバスがあるが、歩いても4km1時間の距離だ。途中神社仏閣もあり、梅林に至る街道沿いに梅畑が点在している様子を見ることもできる。徒歩コースもあるが、県道30号線から61号線の街道沿いの町並みを眺めながら梅林に向った。駅を降りると風が強く吹いてきて気温が下がり肌寒い感じがしたが、歩き始めると体が温まってきて散歩には丁度いい状態だったといえるかもしれない。

越生駅を降りると駅前に法恩字がある。越生梅林への道はまずその境内を通過して行くことになる。本堂に裏山があり、竹林を背景として庭がきれいに整備されている。境内を進み裏口から出ると、坂道がありしばらく上って行くと越生神社に出る。さらに坂を上って行くと、正法寺の裏手に出る。目の前に梅が花を咲かせてるの印象的だ。

そこから越生観光センターに出る。途中徒歩(ハイキング)コースの道があったがそれを素通りしたらしく県道に出た。県道を少し進むと道を少し入った所に岡崎薬師と薬師稲荷があった。寺院にしては変わった建物なのでどういった目的で作られたのか興味があって立て看板を読んで見た。稲荷神社の由来は分からなかった。

松渓山法恩寺 (真言宗智山派 京都智積院の法流)
高僧・行基が東国遊行のおり、金名水・銀名水より立ち上る気を見て大日、釈迦、弥陀、如来、薬師の像をみつけ、天平13年(738)にこれを祀ったのが始まりといわれる。その後荒廃したが文治年間(1185~1190)に源頼朝の命により越生次郎家行によって再興され、源家繁栄の祈祷所となる。国指定文化財の釈迦三尊及び阿難迦葉像、高野丹生明神像をはじめ、数多くの宝物、文化財が保存されている。

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法恩寺山門と鐘楼                      法恩寺本堂

越生神社
児玉党・越生氏の氏神・琴平神と近在の小社を合祀し、明治42年に造営された。越生氏の居館はこの越生神社の一帯にあったとも伝えられている。越生氏は足利尊氏とともに南北朝の戦乱を戦い、「太平記」にも登場し応元・延元(1338)執事の高師直に従って和泉で北畠顕家卿を討ち取った、と記載されされている。

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 越生神社入口鳥居                     越生神社本殿

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 越生神社から正法寺に向う途中の道端の梅

大慈山正法寺 (臨済宗)
足利尊氏の開基といわれ、鎌倉・建長寺の末寺として高僧の隠居寺になっていた。死期を悟った高僧は活仏となるため、自ら土中に埋まり入定した。これを物語る入定塔が今も残っている。本尊は南北朝時代の様式をもつ聖観音像で、本堂の脇の閻魔堂には地獄の盟主・閻魔大王像が祀られている。明治14年に本堂を焼失したが、その後本堂が再建されたおり応永の乱(1399)に巻き込まれた際に破壊された板碑が出土され、創建の古さを物語る。山門には山岡鉄舟揮毫の額がかけられている。 

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 正法寺山門                         大国天石像

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 正法寺境内の梅                      正法寺本堂
                        
岡崎薬師
承元2年(1208)に越生四郎有平の子、岡崎四郎次郎有基が居宅を構えた時に守本尊である薬師如来を安置したのが始まりといわれている。その後、岡崎氏は南北朝争乱期に石見国加志岐別府(現・島根県江津市浜田町)に移住したと見られている。そして加志岐別府越生氏として石見守護上野頼兼に従い北朝方となって活躍した。明治になって記された「寺院明細帳」には元文元年(1736)に正法寺住職・椿山が再営したとある。

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 岡崎薬師堂                         薬師堂正面

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 薬師稲荷                           薬師稲荷拝殿

 「県道沿いに葉一部歩道がない箇所があるので、駅から徒歩で行く場合には徒歩コースを歩かれる事をおすすめします」と駅でもらった「おごせ観光ガイド」のパンフレットに書いてあったが、徒歩コースが分かりづらく、県道を行くことにした。ハイキングコースも自然を楽しむためにはいいのだが、街道沿いに街の様子を眺めながら、その街の雰囲気を味わうのもいい。

越生観光センターから県道30号線を30分ばかり行くと左に曲がる道に出る。三滝入口という交差点で県道30号線は61号線と分かれる。61号線方面が梅林に向う方だ。川にしばらく沿っていく。そのあたりから街道の両側には梅の畑が左右に広がってくる。越生梅林というまとまった梅園を中心としながらも町全体が梅の栽培を手がけている様子が伝わってくる。

越生駅から回った神社仏閣や県道では、全く人に会わなかった。歩いて越生梅林に行く人はいないのだろうか。駅前の越生梅林に向うバス停にはバス待ちをしていた人が7,8人位いた。バスは30分後の出発だった。このバスは黒山三滝行きのバスだが、多分乗客は皆梅林に行くのだろう。梅林に着いてみるとやはりほとんどの人がマイカーで来ている。駐車場係の人がマイカーの誘導に忙しい。

梅林の入口で200円の入場料を払い入る。梅林の中にはそれなりの人で賑わっていた。それでもピークの時よりはかなり少ないのだろう。園内にはミニSL周回路があって、子供たちを乗せて園内を一周している。梅の古木があったり、枝垂梅があり、種々様々な梅の木を楽しむことが出来る。また展望台からは梅林全体が見下ろすことが出来て全体の雰囲気を知ることができる。土産物屋や、飲食所、休み所、屋台なと梅祭り期間ということで大々的に営業していた。

越生梅林に向う街道
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越生梅林

越生町では町全域で盛んにウメの栽培が行われているが、越辺川の清流沿いにある園内には、約2ヘクタールの広大な面積を誇る “越生梅林” がみごと。群馬の秋間梅林、神奈川の曽我梅林と東京の吉野梅郷とともに関東四大梅林の一つにも数えられ、九州太宰府天満宮を分祀した際、菅原道真公にちなんで梅を植えたことが起源とされている。樹齢約400年前の古木をはじめとして、四方に伸びる枝に白い花をつける “白加賀”を主に、梅木の数も約1000本にのぼる。また、越生町全体では約2万5000本の梅が咲き、町全体が梅の香りに包まれるほど。(花の名所案内)

越生梅林054_convert_20120326205136 越生梅林入口

越生梅林049_convert_20120326210705 梅林入口付近

越生梅林029_convert_20120326205347 展望台より

越生梅林033_convert_20120326210003 展望台より

越生梅林046_convert_20120326213556 枝垂れ梅

越生梅林025_convert_20120326205259

越生梅林017_convert_20120326205221 古木・越生野梅

越生梅林042_convert_20120326213516 古木・越生野梅

越生梅林050_convert_20120326210314 越辺川の対岸から

越生梅林060_convert_20120326210208

越生梅林070_convert_20120326210735

 梅まつり期間は当初2月11日から3月20日まだったが、梅の開花状況の遅れにより、3月31日まで延長することとなったため、土産物屋や飲食店が開いていていて、賑わいを見せていた。少しは人がいないと雰囲気が出ない。梅林を出て越辺川を渡り対岸から梅林を眺める。梅林のバス停を少し行くと梅園神社ガある。そこからの梅林の景色もなかなかいい。帰りは越生駅行きのバスで帰ることにした。県道沿いの梅を見ながら、バスの時間を待った。

梅まつり期間中のバス時刻表を見てみると、梅林から越生駅に向うバスは、平日は10:32、11時なし、12時なし、13:28、14:26、15:40、16時なしという本数だった。1時間に1本あるという状態にもなっていない。梅まつり期間でもこれだけ本数が少ないので普段はもっと少ないのだろう。

運よく13時28分のパスが来る所だったのでそれに乗るこちが出来た。バスの乗客は、越生梅林では10数人乗ったが外の停留所からの利用は全くなかった。やはり田舎ではマイカーで動く外ないのだろう。それでますますバスが必要でなくなり、本数が減り、それによってまた乗客が減るという循環で、バスは衰退していくのだろう。

越生駅から坂戸駅への列車の本数は結構多い。学校があって学生の利用客が多いということだろう。越生を出発した時には乗客は半分位だったが途中で学生がどっと乗ってきてかなり込み合ってきた。坂戸から池袋までの急行はそれなり本数が出ていて、スムーズに帰ることが出来た。

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 飲食場所、土産物屋、売店と展望台

梅園神社
            
梅園神社はもともと小杉天神といい、数百年前に筑紫の太宰府天満宮より分祀されたという。享保元年(1716)建立といわれ、古いもので観応元年(1350)、その他にも合わせて25枚の棟札が保存されている。間口9尺、奥行5尺の流造りの柿葺で、明治40年(1907)に堂山の近戸権現、上谷の三島社を合祀して梅園神社と改称した。古来より学問の神として広く知られ、向学の人々から崇敬されている。

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 梅園神社鳥居                        梅園神社本殿

(参考資料: 越生町観光協会HPより・越生駅周辺の散策スポット)

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

「再稼働を許さない さようなら原発1000万人アクション」

3月24日(土)
3.11一年目にあたり、各地で反原発の集会が行なわれている。東京では今日、日比谷野音で「再稼働を許さない さようなら原発1000万人アクション」の集会が行われ、その後銀座方面と六本木方面に向けてのデモ(パレード)が行なわれる。この集会は、2月28日を最終集約として取り組まれてきた「さようなら原発1000万人署名」が、5月までの継続が決まりまったこと受け、署名運動の一層の推進をめざして行なわれるものである。

家を出る時には雨は止んでいた。一昨日赤血球の点滴を行い、昨日からステロイド剤(デキサメタゾン)を服用しているせいか疲れを感じない。集会への参加とデモに行く体力は十分あった。

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集会はオープニングセレモニーとして古今亭菊千代さんが司会をし、トーク&ライブを山本コウタローさんが行なった。 開会はまず主催者挨拶として集会呼びかけ人である鎌田慧さんが行なった。その後の発言として、賛同人挨拶を辛淑玉さん、福島現地報告、署名集約報告、各地、各団体の取り組み報告、閉会挨拶を呼びかけ人である落合恵子さんが行なった。集会の参加者は主催者発表6400人だった。

集会場の様子

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3・24集会003_convert_20120324172424  3・24集会004_convert_20120325194511
         
今後の運動提起とパレード指示が行われ14時45分にサヨコさんのライブ演奏をバックにパレードが出発した。パレードは市民団体と労働組合関係との2コースに分かれた。市民団体関係のパレードのコースは、中幸門を出て、東電本社前で抗議行動を行い銀座日航方テル前を左折し、外堀通りを行き、数寄屋橋交差点、鍛冶橋、東京駅前を通り解散地点である常盤橋公園に至る。一方労働組合関係のコースは中幸門を出て六本木方面に向かい、解散地点であるJ桧町公園に至る。私は市民団体のコースに行った。

パレード出発前の様子
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デモに行くと何時も思うのだが、交通規制の関係と言って許可条件を色々指定する。何千名のデモ集団だろうが、150名位のグループ分けさせる。それぞれ5列縦隊で道路の左側に沿って歩く。そしてそのグループの間隔をひたすら離す。10分位しないと次のグループが来ない。歩行者から見れば150名のデモとしか思えない。これでは集団示威行進の意味がない。またデモの先頭をパトカーが誘導するが、そのスピードがかなり速い。早く終らしたいという意図が見え見えだ。少し列が伸びるとせっついて前に詰めさせようとする。体調が良かったからついて行けたが、何時ものウォーキングの速度の2倍近くに思えるほどだ。

パレードの様子
3・24集会028_convert_20120324172710  3・24集会029_convert_20120324172756
 外堀通りを進む                      鍛冶橋を通過中                         

3・24集会033_convert_20120324172914  3・24集会035_convert_20120324172822
 鍛冶橋から東京駅に向う

3・24集会038_convert_20120324172850  3・24集会037_convert_20120324205902
 東京駅前を通過中

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

哲学堂梅林

3月22日(木)
IgMが上がって、血球の数値が下がって赤血球の点滴をせざるを得なかった。これからの治療にもうベンダムスチンは使えない。どうにかなるだろうと思っていても、やはり気分は落ち込む。14時に病院を後にした。こういった気分の時は、直接家に帰るよりは、梅見にでも行って気分を紛らわせた方がいい。

時間的に遠くには行けない。帰り道を少し遠回りすれば行ける哲学堂の梅林が丁度いいだろう。新井薬師駅から歩いて10分もかからない。あいにくの曇リ空だが気温は高いので寒さは全く感じない。

哲学堂は昔西落合に住んでいた時には歩いて5分位だったので休日の散歩コースだった。今でも自転車で行ける距離なので何度か行ったことがある。しかし梅の満開の時期に行ったことはない。公園も風景もまた違ったものとして感じられるだろう。

哲学堂梅林007_convert_20120323211620  哲学堂梅林002_convert_20120323205821  

哲学堂梅林022_convert_20120323213943  哲学堂梅林013_convert_20120323211730

哲学堂梅林014_convert_20120323211701  哲学堂梅林016_convert_20120323212020

公園の梅は思ったとおり満開だった。平日の3時頃だったので梅林も公園全体も閑散としていた。梅林では散歩する老人2,3人とすれ違った位だ。紅梅と白梅が配置よく咲いていて、ピンクの梅も混ざり合いながら白から赤のクラデーションを作り上げ、雰囲気を盛り上げていた。重々しい曇り空だった。梅はそんなことには無関係に、遅れた分を取り戻そうとするように今を盛りに花を咲かせていた。山茱萸 (さんしゅゆ)の木が1本あり、それが黄色い花を付け、白と赤の世界に鮮やかな彩を与えていた。春黄金花と呼ぶが、名にぴったりの花だ。

哲学堂梅林015_convert_20120323211842 梅林の中の東屋

哲学堂梅林018ED_convert_20120323211913 東屋からの風景

哲学堂梅林024ED_convert_20120323211950

哲学堂梅林025ED_convert_20120323212202 妙正寺川対岸より梅林を見る

梅林は妙正寺川を渡った哲学堂公園の中でも離れた一画にある。梅林から哲学堂公園に戻ってくる。哲学堂公園には色々見物がある、四聖堂、六賢台、宇宙館がある中央広場のベンチでは年寄りの仲間同士か4,5人たむろしていた。ひっそりと穏やかな時間が過ぎ去って行くようだった。

哲学堂梅林035_convert_20120323214513 六賢台と梅

六賢台: ここに東洋的六賢人として、日本の聖徳太子・菅原道真、中国の荘子・朱子、印度の龍樹(リュウジュ)・迦昆羅(カピラ)を祀っている。

哲学堂梅林034_convert_20120323212244 鬼神窟と梅

鬼神窟: 別名霊明閣とも呼ばれる。正確には2階部分のみを霊明閣と呼ぶ。その内室を接神室(せつしんしつ)、楼上を霊明閣と呼ぶ。この鬼神窟はサークル活動などの集会所として利用する事が可能。

哲学堂梅林038_convert_20120323212324 哲理門と梅

哲理門: 別名「妖怪門」とも呼ぶ。本堂の正門に当たり、左右の天狗と幽霊は、もと、この地に天狗松と幽霊梅があったことにちなむとともに、前者を物質界、後者を精神界に存する不可思議の象徴とみなしたものである。

哲学堂梅林043_convert_20120323215354 哲学堂梅林042_convert_20120323215455
 宇宙館と幽霊梅

宇宙館:
哲学とは宇宙の真理を研究する学問であって、その講話または講習を開かんがために設けられた講義室である。

幽霊梅:
井上博士の庭から移された梅です。井上博士が住んでいた家の梅に幽霊が出たと騒がれたことがあり、その梅をこちらに移植した。

建物などへの説明文は、建物の傍の立看板に記されている。(「哲学に由来する空間をもつ哲学堂公園紹介サイト」参照)

テーマ : 思ったこと・感じたこと
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血液内科の診療

3月22日(木)
検査結果
IgM   6395(3/22)←5138(3/15)←4715(3/8)←5187(3/1)←4730(2/23)
総蛋白  10.4←9.2←9.9←9.2
白血球  2400←2900←2500←2100
好中球  1060←1600←1340←890
赤血球  227←240←240←287
ヘモグロビン  7.6←8.0←8.0←9.5
網赤血球  4←8←7←4
血小板  2.8←4.4←4.7←8.4


全ての値が最悪だ。IgMは上昇し、血球はすべて減少している。ベンダムスチンの影響がまだ続いていると考えられる。ベンダムスチンは全く効果を見せず、副作用だけ身体に与え続けている。抗がん剤が効果を発揮しているならば、ある程度の副作用は止むを得ないし、耐えようとも思う。一時あれほど効果的だったのにどうしたことだろう。薬が効く効かないは個人差が激しく、基準というものも統計数字としてしか示されない。

ヘモグロビンが8.0を下回ってしまった。これは輸血する外ない。血小板もかなり少ないが出血傾向がある訳ではないので、今日の所は輸血はしない。好中球もG‐CSFの注射をするかしないかぎりぎりの所だったが、今回はしないことにした。

2週間ほど前から、味覚と嗅覚に異常が生じている。いつもある種の味と匂いが口の中でする。その味と匂いのため食事の味が損なわれることはなはだしい。料理の味付けにも支障が生じるようになって来ている。1ケ月位前から眼のアレルギーによる涙やかゆみを抑えるために、抗ヒスタミンの点眼薬を1日4回点眼するようになった。この目薬が口の中に降りてきて特異な味を生じさせるのかとも思った。

主治医に相談した所ベンダムスチンによって胃の状態に問題が生じてきているのだろう、胃カメラを飲むといことまでする必要はないが、胃薬を飲んでおいた方がいいということで処方してもらった。「つくしAM散」という薬で、胃酸を中和する「制酸薬」、消化を助ける「消化薬」、食欲を増進する「薬用植物(生薬)」などが配合されていて、胃もたれ、食欲不振、胸やけ、吐き気などの胃腸症状に広く用いられている。この薬をしばらく飲んで様子をみようということにした。

IgMが一週間で1200上昇した。赤血球や血小板が少ないのでベンダムスチンは使用できない。また効果も期待出来ない。これだけ数値が下がっているので血球にあまり影響の与えることない薬を使うほかない。 結局サリドマイド100mg/毎日、レナデックス(デキサメタゾン)40mg/月4日間服用するというかってやった方法でしのいでいくという事にした。

診療後、2時間かけて赤血球の点滴を行った。9時30分に病院に着き、終ったのが14時だった。輸血をしたにしては早く終った。最近はIgMの数値が出ていなくても診療に呼ばれる。診療が終った時点で輸血や治療薬の点滴の準備が出来る。IgMの数値が出るまで診療を待っていると輸血を始めるのが遅くなってしまう。、数値は輸血の時に知らせてくれることになっている。輸血などがない時には後で電話で聞くこともあるが、治療方針を出さなければならない時は、待っていて数値が出たらまた診療室に呼ばれる。

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T大学付属病院患者・家族会

3月20日(火)
 3月17日奇数月の第三土曜日定例のT大学付属病院患者・家族会に出かけた。自分が通院している病院の患者会にはいつも参加しているが、別の病院の患者会の様子もたまには見てみようと思ってT大病院の患者会に出席した。この病院の患者会にはかって3度ばかり参加したことがある。

原発性マクログロブリン血症の患者がこの病院の患者会に来て、「非常に珍しい病気なので情報が少ない。同じ病気の人を知らないか」と聞いてきた。患者会の責任者の人が早速私の所に電話してその旨連絡してくれた。最初は電話で話をして、原発性マクログロブリン血症に関する手持ちの資料を送った。65,6歳の人で、パソコンがうまく使えないというのでコピーして送った。

それを読んでもらってから疑問点などがあるかもしれないので話の場を設定しようと思ったが、患者会で会おうということで、その後3度ばかり患者会で話をした。MP療法から始めたということだ。もっとも無難な治療法だろう。その後彼は横浜に住んでいるので通院以外になかなか患者会まで参加するという風にならず、結局患者会に来なくなって、私もそれに歩調を合わせるように参加しなくなった。一度彼がこの病院に入院している時に患者会に参加するというので私も行ったことがあるが、その後1年位行ってなかった。

 家を出る時雨は止んでいたが、最寄の駅に降りた時には、再びかなり強く降りだした。参加者が少ないのではないかと思ったが10名ほど来ていた。骨髄異型性症候群の人で2年前に発症しいよいよ移植(ミニ移植)をする状態になって入院を待っているという65歳位の父親に同行し妻と娘が一緒に来ていた。こういった家族関係はきわめた好ましい気がする。

患者と家族の関係は、ある意味で難しい。重い病気になって初めて、家族や周囲の人たちの優しさに、人を愛すること、そして、生命の素晴らしさに気づくことがある。多くの患者は家族の支えが病気に打ち勝つ力を与えてくれたと言っている。

家族はしかし患者の苦しみや痛みを分からない。腫れ物に触れるように扱ったり、何でも患者の言うように振舞ってしまう。それが家族のストレスになることもある。しかし一方患者にとってはそれが家族の負担になっているのではないかと、かえって苛立ちを覚えることになることもある。

お互い出来ること出来ない事をはっきりさせ、患者は体調が悪く家族の付き添いを負担に感じることもある。そういった時には、折角来てくれているのに悪いと思って言いたいことも言えなくなるような関係では長続きはしない。お互い意見が食い違うことがあっても素直に言い合えるような関係が必要なのだろう。

20歳位息子に朝9時から夜8時頃まで毎日付き添っている母親がいた。名古屋から出てきて患者家族専用の施設に泊まっている。息子も母親に気晴らしにどこかに出かけてきなよというが、家にいると心配で付き添いをしていた方が楽だという。こういった関係は当事者どうしでないと理解できない面があるのは確かだ。

 医者との関係も難しい。医者に『上手に“痛い”が言える本』という本をももの木で協力して出版したことがある。確かに2,3分の診療時間で医者に病気に関する質問をしっかりと聞ける患者は少ない。そういった状態だと治療にとって一番重要な医者との信頼関係を築くのがなかなか難しい。

悪性リンパ腫の65歳の患者の人からは「R‐CHOP療法を何クールかやったが、医者からはこの病気の治療は将来的にどうなるのか説明がない。将来が不安だ」といった話があった。また別の移植をやった患者が副作用に苦しめられていた時に、主治医にそれを訴えても何もしてくれなかった。緩和ケアチームの看護師に知合いがいたのでその伝で副作用への対処をしてもらった。

慢性骨髄単球性白血病(骨髄異形成/骨髄増殖性疾患)の患者が参加していた。慢性骨髄性白血病であればグリベックの服用で済むはずだった。しかし単球という名称が中に入ったため、全く違った治療が要求された。化学療法を行いその後同種造血幹細胞移植を行なった。

問題はその後のGVHDと思われる副作用の激しさだった。3度死にかけたという。下血が続き何日間も1日2リットルの輸血をした。そうなると鉄分が増えその薬も点滴した。次には脾臓が問題を起こし手術をしたかったが血小板が少なく出来ず、吸引で取りだした。3回目は身体中湿疹ができなかなか治らなかった。

こういった経過を経て今は帯状疱疹神経痛でリリカ・カプセルを服用している。このような苦しい闘病生活を語った患者もいた。こういった苦しい経験は思い出したくないとも思うが、むしろ語ることによって心の重荷が開放される一種のカタルシスの効果があると思う。患者会はこういった意味も持っているのだろう。

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小石川後楽園

3月15日(木)
病院は11時30分に終った。眼科と血液内科の2ケ所の診療にしては早く終った。最近は2週間一度の眼科の検査の予約を木曜日の血液内科の診療の前に入れてもらっている。9時に病院に着いて採血し、9時半に眼科の予約をしておいて、それまでに受付表を眼科窓口に出すと10時過ぎには診療は終る。

10時30分に血液内科の予約を入れてもらっている。9時には採血が終わっているので遅くとも11時までにはIgMの値が分かる。この流れでいけば11時過ぎには全て終了する。輸血をする時はその後かなりの時間を要する。

終末からまた雨になる。春の気配を感じさせる陽気だ。風はあるが南風なのだろう寒さを感じさせない。遅れに遅れた都内の梅もいよいよ満開の時期を迎えているだろう。病院から一番近い梅見の場所といえば小石川後楽園だ。南北線で2駅目が後楽園で、駅から10分も歩けば小石川後楽園の入口に着く。

庭園の梅林はやはり趣が違う。曽我梅林のような広大な梅の畑が続いている風景とは全く違った印象を受ける。梅林には約120本の紅梅・白梅がある。数は少ないが、大名屋敷の一画に観賞用として色彩のバランスも考えながら植えられた梅林は、情緒を感じさせる。そういったものとして梅の花を楽しむことが出来る。

小石川後楽園は、水戸藩上屋敷の庭園で初代徳川頼房が造園に着手し、二代光圀の時代に完成した回遊式泉水庭園である。随所に中国の名所を名づけた景勝を配し、中国趣味豊かなものとなっており、園内の中央に大泉水、その左右に小池が配されて湖・山・川・田園などの景観が表現されている。梅林で満開の梅の赤白ピンクの色彩の乱舞を楽しんだ後は、穏やかな静かさにつつまれた庭園をゆったりと散策すれば、心休まる時間を作り出してくれる。

小石川後楽園の梅園
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小石川後楽園の風景
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 蓬莱島                            白糸の滝

小石川後楽園009_convert_20120315223111  小石川後楽園013_convert_20120315223209  
 九八屋(江戸時代の酒亭)                不老水(水が枯れることがない井戸)

小石川後楽園041_convert_20120315223145  小石川後楽園042_convert_20120315223459 
 松原                              瘞鷂(エイヨウ)碑

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 内庭                              寝覚の滝

大泉水と蓬莱島: 後楽園の大泉水は「琵琶湖」をイメージしている。中国の「神仙思想」に基づく作庭だ。東方はるか彼方の海上に蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)と呼ぶ島がある。そこには神仙人が住んでいる理想郷だと説く。その島は亀や鶴の形をしていると信じていた。先端の大きな鏡石はその庭師・徳大寺佐兵衛にちなみ「徳大寺石」と名づけられ、弁財天を祀った祠がある。

内庭: 水戸藩の書院の庭としてあった所で、昔は唐門をへだてて、大泉水のある「後園」と分かれていた。江戸時代は「うちの御庭」と呼ばれた、池を中心にした純日本式の庭園。昔の姿をそのままとどめている。

瘞鷂(エイヨウ)碑: 七代治紀は将軍家から賜った鷹を大切にしていた。鷹は治紀が没した4年後に亡くなったため、八代斉脩がこれを哀しみ立てた碑。  (「公園へ行こう」より)

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眼科、血液内科の診療

3月15日(木)
検査結果
IgM   5138(3/15)←4715(3/8)←5187(3/1)←4730(2/23)←4004(2/16)
白血球  2900←2500←2100←3300
好中球  1600←1340←890←1380
赤血球  240←240←287←298
ヘモグロビン  8.0←8.0←9.5←9.9
網赤血球  8←7←4←11
血小板  4.4←4.7←8.4←12.3


■ 眼の症状は花粉症のような気がする。アレルギーの原因を調べてないので正確には分からない。分かった所で自然界にあるものだからなかなか避けるわけにはいかないだろう。かゆく涙が出てくる。抗ヒスタミンの目薬を定期的にさしているが一向に効き目がない。

以前年2,3度目にアレルギーの症状が現れたことがあるが、必ずしも花粉の季節ではなかった。その時は症状がそれ程強くなく、眼がかゆい位だった。その時近所の眼科医に行ったが、眼科医からは、抗がん剤治療の併用療法でステロイドを使っているので、それ程症状が重くならないのではないかといわれた。

今までの治療では、ベルケイドやサリドマイドを使用する時デキサメタゾンを併用していた。去年に12月からベンダムスチン使用するようになってからステロイドは併用していない。それが今回の目に表れたアレルギー症状が結構強く現れた原因なのかもしれない。どちらにしても花粉がアレルギーの原因だったならば、花粉の季節が終るまで抗ヒスタミン目薬の点眼で症状を抑えるといった対処療法しかない。

■ 血液内科の診療で血液検査結果を見た。IgMが折角先週減少したのに元に戻ってしまった。先週の減少は何だったのだろうか。ベンダムスチンの投与をするかどうか判断が難しい所だ。ヘモグロビンも血小板も少ない。ベンダムスチンの量もどうするか考えなければならない。

180mgを2回やるのか。この場合血球の減少があるだろうから入院する外ない。180mgを1回やるのか。ただこれでは今まで2度やって効果がなかったので、またやっても効果が期待できない。120mgを2回やるのか。幾つかの選択肢がある。ただベンダムスチンをやると体力の消耗が激しいので量を減らしたいとは思うが効果が出る量でなければ意味がない。

今日の血小板とヘモグロビンの状態からいってベンダムスチンの投与は難しい。来週までに量について考えてくるということで、ベンダムスチンの投与は行わないことになった。

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曽我梅林

3月12日(火)
以前から曽我梅林に行って見たかった。その規模の大きさは外の梅林と比べて桁外れに広い。今年は梅の開花が遅れている。3週間から1ケ月遅れだということだ。曽我梅林のホームページで開花状況を見ていたが中々咲かない。3月8日のホームページで一斉に咲き始めたという書いてあり写真も掲載されていた。これでやっと見に行ける状況になった。梅まつりは3月6日終る。終ってから咲き始めたという何とも困ったものだ。

1月28日から始まった梅まつり期間中毎週土日には、別所梅林の中にある野外ステージを中心に、郷土芸能の寿獅子舞や小田原ちょうちん踊り、流鏑馬(やぶさめ)など様々なイベントが行なわれていたが、花が咲いていない枯れ枝の下でやっていたことになる。今日当たり梅見には丁度いいだろう。天気予報は一日中晴れで富士山が見えるかもしれない。梅まつりも終ったことだし、それ程込み合ってもいないだろう。行き当たりばったりの所もあるが結局次のようなコースを巡った。

下曽我駅→原梅林→別所梅林→下曽我バス停(見晴台入口)→法蓮寺→満江御前の墓→見晴台→二宮尊徳遺髪塚→公民館(旧満江御前屋敷)→東光院→尾崎一雄文学碑→宗我神社→城前寺→下曽我駅

曽我梅林: 小田原の中心街から北東へ約7kmの丘陵に ある曽我梅林は、中河原、別所、原梅林の総称で、約3万5000本の白梅があります。毎年2月、霊峰富士と箱根の山々を背景に咲き誇る姿は、まるでバックにそびえる富士の霞のごとき美しさ。温暖な気候と梅酒・梅干用である主力品種の“十郎” が早咲きのせいも手伝って、熱海につぐ早い開花が特徴。別所梅林では、特産の十郎をはじめ、白加賀、南高、杉田、枝垂れ梅等、数多くの品種を栽培しているため、長い期間にわたって梅の花を楽しむことができる。(花の名所案内より)

原、別所梅林
池袋から国府津まで湘南新宿ラインで行き、国府津から御殿場線で一駅目の下曽我駅で降りる。御殿場線は1時間一本なので時間を合わせて行く必要がある。国府津や小田原から梅まつり期間中は臨時便がかなり出ていたらしいがそれも終っている。駅から5分位歩くと原梅林の白梅の林が連なっている。梅まつり終了後は農作業が始まるため畑の中へは入れないが、歩道、農道からの観梅はできる。土産物品の販売の方もテントに縮小し品目も絞って、11日までは営業していたがそれも既に終っている。

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原梅林では十郎をはじめ、白加賀、南高、杉田などの白梅が中心で所々に紅梅がアクセントとして植えられているといった感じだ。花は満開で花見には一番いい時期に来ることが出来た。原梅林に隣接して別所梅林がある、種類は原梅林と同じで梅林は真っ白く染められた風景を作っている。別所梅林のふじみ食堂周辺が富士山を背景に梅の写真を撮る撮影スポットであると案内図に書いてあった。しかし天気は良かったが富士山周辺だけに雲がかかり見ることができなかった。別所梅林を梅を観賞しながら回ったが、白梅ばかりで同じような風景が続く。

見晴台行ってみる事にした。着く頃には富士山が見えるかもしれない。下別所バス停の横の道から登り道になる。見晴台まで徒歩20分とある。途中法蓮寺、満江御前墓などを経て見晴台に向って登っていく。かなりの急坂で、登りはかなり体力的に厳しい。休み休みやっとのことで見晴台に着いた。苦労して30分以上かかってしまった。途中の眺望もなかなかいい。富士山は結局姿を表すことはなかった。見晴台からは別所梅林や原梅林の全景が見渡せるだけでなく、相模湾や箱根連山、足柄平野が一望できた。

法蓮寺(千葉山 日蓮宗)
慶長19年(1614)の創建、開山は大乗院日相大徳。本尊は塔中の妙蓮華経を中心とし左右に釈迦牟尼仏、多宝仏の二仏、それに釈尊の脇士上行等の 四菩薩が付き従う、一塔両尊四士である。また、安永3年(1774)酒匂の漁夫によって、海中より 引き揚げられ出現した毘沙門天像があり、霊夢をあらわし、開運の霊験あらたかとして 毘沙門堂が建てられた。

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 法蓮寺本堂                          法蓮寺毘沙門堂

曽我兄弟の母、満江御前の墓
墓石は卵形の自然石で曽我兄弟の母、満江御前の墓と伝えられており、武藤家の子孫がこの墓の供養を現在も続けている。

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 満江御前の墓                        墓から箱根連山を望む 

見晴台
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曽我梅林002_convert_20120314225509  曽我梅林117_convert_20120314225634
 相模湾方面                         箱根連山方面

二宮尊徳遺髪塚
尊徳の母よしの実家は、旧曽我別所村の川久保太兵衛宅であった。太兵衛の次男、民次郎は下野の国の桜町(栃木県二宮町)仕活時代尊徳に仕え、尊徳の死後、その遺髪を得て、曽我へ帰った。この遺髪塚は、民次郎の遺言により孫の興三郎が、昭和13年に建立。

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 二宮尊徳遺髪塚                      公民館(旧満江御前屋敷)前の看板

見晴台からの下りは別所梅林バス停方面に行った。かなりの急坂を下った。途中今は公民館なっている旧満江御前屋敷や二宮尊徳遺髪塚に寄った。下りは体力的には全く問題なかったが、見晴台への登りがかなり身体に負担をかけたようだ。中河原梅林まで2kmある。往復1時間を歩く元気はなかった。下曽我駅周辺の神社仏閣を回ることにした。東光院→尾崎一雄文学碑→宗我神社→城前寺→下曽我駅というコースを巡った。

宗我神社の大鳥居は県道72号線から少し入った所にある。しかしその鳥居から神社の本殿まで10分程の道を登らなければならない。そんなに距離があるとは思わなかった。城前寺は幼稚園が併設されていて、境内は幼稚園児の遊び場になっていて入ることは出来ない。境内裏の墓地には入ることができる。

この寺は曽我兄弟ゆかりの寺だということだ。曾我兄弟の仇討ちは赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討ちに並ぶ、日本三大仇討ちの一つである。後に『曾我物語』としてまとめられ、江戸時代になると能・浄瑠璃・歌舞伎・浮世絵などの題材に取り上げられ、民衆の人気を得た。観光協会では「曽我の里散策コース」をつくり、曽我兄弟の関連施設を回るようなコースを設定している。

下曽我駅に着いたら丁度小田原行きのバスが出発する所だった。御殿場線は1時間1本なので何時来るかわからないので、そのバスに乗って小田原駅まで行って、帰りは小田急線で帰ることにした。ロマンスカーは30分おきに出ている。往きはJRを利用したが池袋から下曽我まで普通列車で1620円かかった。小田急線だと特急料金を含めてもあまり変わらない。普通の急行で行けば節約できるがJRで行ったと考えてロマンスカーを利用することにした。新宿まで途中町田に止まっただけで1時間10分で着いた。

東光院(真言三宝宗)
剣沢の東にあった南谷(なんこく)寺で文禄2(1593)年に現在地へ移転した。徳本の名号碑ほか石造物群がある。

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 東光院参道と山門                     東光院本堂  

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 徳本の名号碑               延命地蔵

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 東光院石造物群

尾崎一雄文学碑
尾崎一雄は、宗我神社の神主の息子で、小田原中学をを卒業。1937年(昭和12年)第5回芥川賞を受賞。作品は生まれ育った下曽我を題材にしたものが多いそうで、文学碑は「虫のいろいろ」の一節が刻まれている。

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 宗我神社の大鳥居                     尾崎一雄文学碑

宗我神社
長元元年(1028年)、宗我播磨守保慶が祖先宗我都比古命の御霊を分霊し当所に下り宗我都比古神社の神号を請い、併せて武内宿祢命をも祀り、社を創建した。九百年前頃、曽我祐信に依って神社として今の祭神(小澤大明神、宗我都比古、宗我都比女)を再興した。明治初年の神仏分離に依って宗我都比古、宗我都比女を主祭神にして、永く当地曽我郷の総鎮守産土神として祭祀される。

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 宗我神社鳥居                        宗我神社本殿

曽我兄弟の敵討ち
源頼朝が、1193年(建久4年)に行った富士裾野の巻狩りで、曾我兄弟による仇討ち事件が起こった。曾我十郎祐成と五郎時致兄弟は、親の仇である工藤祐経を見事討ちとった。祐経を殺害したあと、兄の十郎祐成は仁田忠常に討たれ、五郎時致は捕らえられた。

城前寺(浄土宗芝増上寺の宗寺)
城前寺(じょうぜんじ)は曽我兄弟の菩提寺です。建久4(1193)年、兄弟が仇討ちに成功して世を去った後、叔父の宇佐美禅師が遺骨をこの地に運び庵を結んで菩提を弔ったのがこの寺のはじまりといわれている。境内には十郎・五郎の兄弟のほか、継父祐信、母満江供養墓があり曽我兄弟および虎御前の木造等、兄弟ゆかりの品々が伝わっている。この寺では毎年5月28日に「傘焼き祭」が行われる。5月28日は曽我兄弟の討ち入りの日で、深夜に仇を襲撃したため兄弟は傘を燃やして松明にしたという故事が残っている。これにちなんで兄弟の霊を慰めるのが「傘焼き祭り」である。

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 城前寺本堂

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 曽我兄弟遺跡

(参考資料:小田原市観光協会HP・観光スポット、曽我別所梅まつり観光協会公式HP)

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3.11東京大行進 -追悼と脱原発への誓いを新たに-

3月11日(日)
3月になってから、曇りか雨で真冬の寒さが続いていたといった状態だった。久しぶりに晴れた感じがする。気温もぐっと上がった。3.11反原発の集会とデモが日比谷公園で行なわれる。この陽気なら屋外集会やデモも大丈夫だろうと思って出かけた。日比谷公園は2つの集会の会場となっている。

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一つは首都圏反原発連合が主催する「東京大行進」で、日比谷公会堂の裏の広場で集会を行い中幸門からでデモに出発する。この集会への参加が目的だが、早めに着いたので噴水前特設ステージで10日、11日と朝からやっている「3・11東日本大震災 市民のつどい Peace On Earth」を見に行った。

多くのアーティストや科学者らが参加したライブとトークによる「Peace On Earth」の集会場は、あまりにも人が多く特設ステージの傍には近寄れない。声だけが聞こえる。ミュージシャンの坂本龍一さんが話をしていた。「3・11以降、それまで露呈しなかった日本社会の問題が見えるようになってきた。未来世代のことも考え、持続可能な社会をつくろう」と呼び掛けた。

地震が起きた46分には坂本龍一さん、ルナシーのSUGIZOさん、アジアン・カンフー・ジェネレーションの後藤正文さんらがステージに上がり、参加者と黙祷(もくとう)を捧げた。今日の新聞によると主催者発表4万5千人だと書いてあった。

「3.11東日本大震災 市民のつどい」は特設ステージでのイベントと同時に、第二花壇の周辺と日比谷公会堂前のにれの木広場にはテントが所狭しと並び、集会趣旨に賛同した団体の物品販売や飲食の屋台も多数出ていた。デモに出発する前の腹ごしらえに丁度いい。

日比谷公会堂裏で行なわれた「東京大行進」の集会は、平野太一(首都圏反原発連合)の司会進行で行なわれた。発言は「3・11再稼働反対!全国アクション」、「さようなら原発1000万人アクション/平和フォーラム」、「いわき放射能市民測定室たらちね/いわきアクション!ママの会」などからなされた。追悼の歌唱としてステファノ・ロドラ(テノール歌手)がヘンデルの「ラルゴ(オン・ブラ・マイフ)」を歌った。14時46分に黙祷が行なわれ、デモの出発準備にかかる。

デモコースは日比谷公園中幸門~内幸町~東電本社前~日航ホテル前左折~数寄屋橋交差点左折~日比谷左折~内幸町~西新橋右折~虎ノ門右折~霞ヶ関2丁目右折~経済産業省前~日比谷公園西幸門内解散(約3.4キロ)というものだった。外堀通りを数寄屋橋交差点に向う沿道には日曜日の買い物客が多く、デモへの関心を感じ取ることが出来た。

人数が多くデモには時間がかかった。デモが終ったころにはかなり寒くなってきた。この後に「国会囲もうヒューマンチェーン」が行なわれることになっていたが、これには参加しなかった。デモなど何年ぶりかといった感じだ。速度はかなり遅いので疲れはしないが、久しぶりに歩いたのでこれ以上の参加は難しいと思った。このデモには14000人が参加し銀座、日比谷の街を歩いた。

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3.11東京大行進 -追悼と脱原発への誓いを新たに-
集会開始:14:00 黙祷:14:46 デモ出発:15:00
集合場所:日比谷公園中幸門(日比谷公会堂裏)
主催:首都圏反原発連合 協力:3.11再稼働反対!全国アクション、さようなら原発1000万人アクション

2011年3月11日14時46分、東日本大震災が発生した。この震災は、地震と津波によって2万人近い死者・行方不明者を出したばかりでなく、福島第一原子力発電所の爆発・メルトダウンによって、深刻な原発事故に発展した。・・・現在も進行する未曾有の「原発震災」の始まりとなったあの「3.11」から1年。私たち首都圏反原発連合は、犠牲者への追悼と脱原発への誓いを新たにするべく、都内にてデモ行進を行う。黙祷と共にデモをスタートし、終了後は、国会議事堂を追悼と抗議のキャンドルで包囲するアクションに合流する。(集会、デモの呼びかけ文より)

5_convert_20120312112742.jpg  8_convert_20120312112455.jpg 東京電力本社

3・11原発ゼロへ!国会囲もうヒューマンチェーン
日比谷公園西幸門内でデモ流れ解散後、公園内を通り霞門に移動。霞門から国会議事堂へ移動し「国会囲もうヒューマンチェーン」に参加する。3月11日には福島現地で大集会が行われ、世界各地でも原発NOのヒューマンチェーンが取り組まれる。東京でも、再稼働ではなく「脱原発」を政治決断させるためのアクションに取り組む。

3・11東日本大震災 市民のつどい Peace On Earth
日時:3/10(土)、11(日)各日11:00~19:00
場所:日比谷公園 噴水前特設ステージ
主催:3・11 東日本大震災 市民のつどい
共催:土と平和の祭典、アースデイ東京タワー、アースガーデン

3.11東日本大震災から丸一年となる週末、東京の真ん中日比谷公園に、心ある市民がつどい被害に遭われた方々を追悼し、これからの未来を共有する場を作る。3月11日14時46分には特設ステージ前において、ここに集う皆様と共に犠牲になられた方々に黙祷を捧げる。さらに2日間にわたり、市民アピールやトーク&音楽プログラムなど、ここに集う市民の誰もがそれぞれの在り方と共に参加できる、幅広い交わりの場づくりを目指している。(Peace On Earth呼びかけ文より)

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院内患者家族交流会(おしゃべり会)

3月9日(金)
 再び真冬のような寒さが戻って来た。おまけに雨がかなり強く降っている。参加者が少ないことは止むを得ないだろう。それでも話は途切れることなくそれぞれが自分の病状や現状の問題点を話しあった。

レナリドマイド使用者における2次がん発生のリスクが外の抗がん剤よりも高いと言われるが、レナリドミドの治療効果は2次がんのリスクを凌駕するし、骨髄腫の進行のリスクは2次がんと診断されるリスクよりも何十倍も高い。そう考えれば2次がんのリスクを心配するよりも自分のがん治療に効果的な薬を選んだほうがいい。血液がん患者が別のがんに罹る確率は、放射線治療や抗がん剤治療による免疫力の低下があったとしても、特に血液がんだったからといって多いわけではないということだ。

血液がん患者の多くが、血液がんそれ自体は5年以上再発しなければ完治したといえるかもしれないが、様々な病気を発症している。私に関しても今はどうしたわけおさ治まっているが形質細胞腫瘍が抹消血に見られるということで形質細胞性白血病ではないかといわれたことがあった。今のIgM型骨髄腫が形質細胞性白血病に転化した場合治療が極めて難しいといわれた。

長い間再発せず血液がんは治ったと思ってほっとしたのもつかの間、また別の難病に襲われた患者は知っているだけでも3人いる。

・皮膚筋炎・多発性筋炎(皮膚筋炎では上まぶたに、腫れた紫色の皮疹や、関節の背面などに紅斑がみられる。肺には間質性肺炎という炎症がみられる。その他、倦怠感、発熱などの全身症状や、関節痛、レイノー症状がみられることもある。)

・重症筋無力症(骨格筋の易疲労性や筋力低下を来し、症状の日内変動を特徴とする、自己抗体によって神経筋接合部の情報伝達が障害される病気。)

・パーキンソン病(片側の手や足がふるえる、動きがのろくぎこちなくなる、歩き方が遅くなる、手足の筋肉が硬くなり、姿勢反射障害が起こる。)

今日の交流会に来た女性は交流会の恒常メンバーなのだが、彼女は1月4日の診断のとき慢性腎不全だといわれ、腎臓内科の方に回された。そこで医者の診断受け、栄養士から食事療法の指導を受けた。慢性腎不全に関しての治療薬は特になく食事療法をする外ない。塩分と蛋白質に関して1日の摂取量が決められその範囲内で食事をしなければならない。一方カロリーは通常と変わりなく摂取しなければならないという注文なのだ。

彼女は急性リンパ性白血病で移植を受けてから5年たっている。しかしまだGVHDの症状が口の中に出ている。味覚や嗅覚障害があり、口内炎や口の渇きに対して未だ免疫抑制剤とステロイドのプレドニンを途切れることなく服用し続けている。

クレアチニンの値は随分前から1.2だった。男性の基準値を見ていたので少し多いかなと位にしか思っていなかった。しかし女性の場合0.4~0.8mg/dだということに気がついて医者に相談した。去年までは1.2という値を見ていながら血液内科の医者からは何もいわれなかった。今年になって急に治療を開始しようという事になった。

料理が好きでよく交流会に自分で作った焼き菓子やクッキーを持ってきてくれた。美味しい物を食べるのが一番の楽しみだという彼女が食事制限をしなければならないということはどれ程辛いことだろう。また料理も家族の分と自分の分2種類作らなければならないといった手間もある。

食事療法のポイントは、1)カロリーを十分とる、2)蛋白質の制限-標準体重当たり1日0.6-0.7g(60kgの人で60×0.6-0.7=36-42g)、3)塩分制限、4)カリウム、リンの制限、5)適切な水分量をとる。標準体重を保持できるような十分なカロリーをとりながら、蛋白制限を守ることは非常にむずかしい。栄養不良に陥る危険があるので、エネルギー源として糖質と脂質で補うことになるが、彼女の場合ステロイドを服用している関係上高脂血症の傾向がある。主に糖質で補うほかない。

その外様々な治療後の後遺症ともいうべき副作用に悩まされている人は多い。倦怠感からは当分抜けきれない。退院後半年位で職場復帰をした人もいるかと思えば、3,4年たっても体がだるく家事をするので精一杯という人もいる。ベルケイドやサリドマイドによる末梢神経障害が薬をやめて2年近くになるのに直らず、手足の痺れに悩まされている人もいる。

手足の筋肉が痙攣したり、つったりして持っているものを落としたりする、など血液がんの元患者は何らかの後遺症をかかえている。こういった後遺症が残っていると就職もままならない。それでなくとも就職難の中で、血液がんの患者であったという事を明らかにして就職しようとすることはますます困難になって来ている。こういった話しながら交流会は進行していった。

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監獄人権センターの連続講座

3月8日(木)
昨日18時30分から監獄人権センターの連続講座の第5回目が、渋谷の伊藤塾東京校で行なわれた。講座は全5回で今日が最終日となる。この連続講座は「犯罪をおかした人の更生に弁護士・市民はなに ができるか?~受刑者をめぐる現状と課題から探る~」という内容で様々な視点から受刑者処遇の実態、出獄者の現状にせまっていき、そこから被収容者の人権救済をどのようにして実現していくのかを探ろうという企画である。主催はNPO法人監獄人権センターと伊藤塾で、後援は法学館憲法研究所である。

1月28日に第4回が行なわれたが都合で参加できなかった。内容としては、獄中者の人権擁護のため弁護として何ができるのか実践例をあげながら、刑事弁護人としてのかかわり、国家賠償訴訟の代理人としてのかかわりについて、監獄人権センター事務局長の田鎖麻衣子(弁護士)さんが話した。

今回の第5回は2部構成になっていて、1部は田鎖さんから「刑事施設の中から行ない得る人権救済・不服申出の仕組み」についてパワーポイントを使いながらの講演が行なわれた。2部は「ワークショップ-受刑者からの相談に答えてみよう!」というもので、監獄人権センターに来た獄中者からの相談にどう答えるのかについて、集会参加者を5つのグループに分け、それぞれ少人数で話し合い、相談への答えを探っていくというものだった。

講演内容-不服申し立てのための想定可能な手段

A、刑事被収容者処遇法上の手続き
1、不服申し立て

◆ 審査申請-対象・法157条に掲げられた一定の刑事施設の長の措置(自弁物品の使用または摂取の不許可。指名医による診断の不許可又は中止。書籍など閲覧の禁止又は制限など16項目)
矯正管区による調査-裁決-裁決に不服の場合再審査請求が出来る。(30日以内)

◆ 事実申告-自己に対する刑事施設職員による行為で、身体に対する違法な有形力の行使・違法又は不当な捕縛、手錠又は拘束衣の使用、違法又は不当な保護室への収容。
矯正管区による事実の有無の確認-通知-通知内容に不服の場合法務大臣に対する事実の申告。(30日以内)

◆ 外部有識者による審査 審査の申請―再審査の申請、事実の申告-法務大臣に対する事実の申告。

◆ 不服検討委員会-弁護士(日弁連推薦)、学者、医者など5名のよる刑事施設の被収容者の不服審査に関する調査検討会。
対象:「再審査の申請」及び「事実申告」のうち被収容者の不服に理由がないと判断しようとするもの
事実上の存在:意見に拘束力なし、独自事務局なし、独自調査の能力なし

◆ 苦情の申出(法務大臣、施設長、監査官に訴えが出来る)

2、刑事施設視察委員会
・ 全ての刑事施設(刑務所・拘置所)に設置
◆ 設置
・ 刑事施設を視察し、その運営に関し意見を述べる。
・ 施設長は委員会に対して情報提供義務を負う。
・ 委員会と被収容者とのコミュニケーションは秘密保障
◆ 留意点
・ 個別事象の救済機関ではない。
・ 弁護士会推薦の弁護士、医師会推薦の医者を含む。
・ 意見に拘束力なし(尊重義務のみ)
・ 活動レベルは委員会による差が激しい。

B、弁護士会への人権救済申立
時間がかかる、生の情報を入手できない、コミュニケーションの秘密性保障なし、勧告・警告などに拘束力なし。施設に対して外部からの監視の目がある事を知らせる意義はある。

C、矯正局への通報
審査の申請、事実の申告等が、利用できない場合(対象外、期間経過など)、適さない場合(\緊急性のある場合、施設ぐるみの問題がある場合など)

D、法務局への人権救済申立

被収容の人権救済は前進したのか

明治時代(明治41年)に作られた旧態依然とした監獄法によって、長い間施設の管理と獄中者への支配を行ってきた。名古屋刑務所事件(2002年に発覚)を契機に設置された「行刑改革会議」の提言を受け旧監獄法は百年ぶりに改正された。2006年5月24日に施行された「刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律」(刑事被収容者処遇法)である。

この法律は、代用監獄の存置など重大な欠陥を残しながらも、刑事施設視察委員会の創設、受刑者と親族以外との外部交通の拡大、応答義務のある不服申立制度の新設など、日本の刑務所改革に向け重要な一歩を踏み出したものである。

しかし法律の施行当初の被収容者への様々な制限の緩和はやがて、現場の幹部刑務官の間で新法に対する組織的な抵抗が始まり、それが大臣訓令・矯正局長通達に及んでいる。その顕著な例が2007年6月以降の受刑者の外部交通権の後退である。

この法律は附則41条で施行後5年以内(2011年5月23日まで)に見直し再改正を行うことになっている。視察委員会の権限・事務局機能の整備、第三者による不服審査委員会の創設、不服申立ての裁決の公開による先例化、刑務作業の準賃金制と健康保険の適用及び医療スタッフの厚生労働省への移管による刑務所医療の抜本的改革も、見直し法改正の重要なテーマである。しかし結局法施行5年後の見直しでは、若干の規則及び訓令通達の見直しにとどまり、法改正は行なわれなかった。

受刑者から監獄人権センターにあてた相談件数は、名古屋刑務所事件が発覚した2002年には年間100件に満たなかったが、被収容者処遇法が成立した2005年以降は毎年1500件前後となっている。この法律によって被収容者の人権救済は拡大したのだろうか。不服申立てに対して、かっては苦情の申出は法務大臣、施設長、監査官、日弁連人権擁護委員会、それ以外は裁判所に提訴するほかなかった。

不服申立てのために審査申請(対象16項目)や事実の申告など制度化され、刑事施設視察委員会などの設置などがあって窓口は広がっている。しかしそういった情報は当局は知らせないし、様々な不利益処遇を強制してくる。そういった意味では不服申し立てを行う際には、何を期待するのか、何時の出来事か、釈放までに残された期間は、アクションの副次的効果はなどの事情を勘案し、可能な手段を選択していくほかない。

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血液内科の診療

3月8日(木)
検査結果
IgM   4715(3/8)←5187(3/1)←4730(2/23)←4004(2/16)

白血球  2500←2100←3300←3300
好中球  1340←890←1380←1450
赤血球  240←287←298←311
ヘモグロビン  8.0←9.5←9.9←10.3
網赤血球  7←4←11←17
血小板  4.7←8.4←12.3←16.4


2月1日、と23日にベンダムスチン180mgの点滴投与をしたが、全く効果が見られず1月25日以降IgMはひたすら上がり続けた。しかしどうしたことか、今日の検査結果ではIgMが下降した。今になってベンダムスチンが効いて来たのだろうか。他ににどんな薬も使っていないのでそれ以外考えられないが何とも不思議な効果の発揮の仕方だ。

ベンダムスチンが効果を見せるのと平行して、今まで基準値に近いほど上昇していた血球の値が下がり始めた。ヘモグロビンは輸血ぎりぎりの8.0になった。ただ網赤血球が7あるので次回は少しは上がっているだろう。また血小板が4.7と下降した。ベンダムスチンの効果は骨髄抑制を伴って現れる。それにしてもあまりにも急激な変化だ。いったい身体の中で何が起こっているのだろうか。

次回の診療日は3月15日だが、その時にIgMが下がっていれば何の治療もしない。IgMが上がっていたらベンダムスチン180mgの点滴を行うということにした。効果の現れ方があまりにも変則的なので、状況を見ながら臨機応変に対応するほかない。

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柳田真講演 「福島原発事故1ケ年と今後の方向」

3月5日(月)
3月3日の18時から「スペース21」の総会と講演会がタンポポ舎の集会場で行われた。「スペース21」とは反原発、沖縄問題、日朝、日韓連帯の活動、非正規労働者支援などを行なっている市民団体だ。この団体を担っている友人からメールで集会参加の要請があった。最近は何処の集会でも個別的な誘いなどはない。団体のホームページを見て、行きたければ勝手に行くという風になっている。また集会に行った時に受けとったチラシを見て関心があれば行く。

反原発の集会やデモがかなり頻繁に行われているのは知っていたし、経産省本館横で9/11から原発反対テントひろばを設置し、24時間体制で泊りこみ、交流、議論、行動の場になっている。気にはなっているが屋外の集会やデモがほとんどなので体調的になかなか行く機会がない。たんぽぽ舎の柳田真さんの講演があるというので夜の外出は体調的に厳しいと思ったが出かけることにした。

第1部は総会、議案審議が行なわれる。第2部が講演会である。1時間の講演とその後30分の質疑応答の時間が用意されている。講演内容を要約して報告する。

講演: 「福島原発事故1ケ年と今後の方向」柳田真(たんぽぽ舎共同代表)
―今後どうしたら原発を廃止できるか、正念場の2012年、2つ目の大惨事を防ごう―


1、最初に原発を理解するための基本資料が紹介された。
1)「源八おじさんとタマ」You Tubeでシリーズ6まであり、原発推進側の言う嘘を漫画動画で表現している。①原発がなくても電気は足りる、②原発は様々な過程でCO2を排出する。CO2が温暖化の原因であるという説の問題点。③放射性廃棄物の処理が出来ない。④多くの原子力発電所が活断層の上にある。⑤津波の危険。⑥原発建設基準は安全性よりもコストによって決まる。
2)「フクシマで明らかになったこと」(2011年5月柳田氏執筆)
3)「本当に環境にやさしい電気とは?」(環境とエネルギーを考える研究会編、大竹財団発行)のパンフレット。
①原発はCO2を出し、放射性廃棄物を残す。②原発の問題点、地震、事故、放射性廃棄物。③原発分がなくても日本の電力は足りている。④それでも原発を推進するのはなぜ?⑤再生可能エネルギーを
4)「原発がどんなものか知ってほしい」(平井憲夫著・20年間原子力発電所の現場で働いていた1級プラント配管技能士)

2、「フクシマで明らかになったこと~原発の本質、推進派の構造、メディアの大問題、今後の希望~」
講演は彼自身が執筆した文書に沿っての話しから始まった。
1)原発4基が過酷事故、続く深刻な事態、
現地の敷地内では原子炉本体、発電関連設備の電源がなく、陸地、海とも放射線モニーターがない。1号機・水素爆発、2号機・格納容器破損(放射能放出)、3号機・水素爆発、4号機・大火災・ウラン燃料破損。

2)事故の原因は原発を推進してきた「原子力村」にあり

原子力村とは原子力利権帝国
①東電・電力会社、②原子力保安院・安全委員会、③政府・官邸、④専門家、⑤財界、⑥報道、⑦過酷事故を無視した裁判官
住民の危険性への指摘を無視したため事故は起こった。原発事故後の対応が後手に回り、最初に廃炉を決意して対応しなかったため事故が拡大。今回は2重の人災である。

3)原発(原子力)の本質は放射能問題(汚染問題)
セシウム137やヨウ素131、ストロンチウム90などは体内の臓器や骨などに止まり放射能を放出し続ける。内部被爆でがん、白血病の原因になる。空気と土地と食べ物が何百年以上も放射能汚染され続ける。

4)事故の本質から見る「今後の見通し」

①福島原発4基がもっている放射能はチェルノブイリの3倍といわれている。チェルノブイリを上回る放射能放出の可能性がある。
②今後福島原発を襲うかもしれない余震、地震。
③現地作業員の累積被爆が拡大し、制限オーバーで現場で働ける熟練者が減ってくる心配。
④食品摂取基準の改悪が心配。東日本を中心に放射能が拡散し食べられる物が減少する。

5)第二のフクシマを発生させるな

気象庁の発表ではM7級(阪神大震災クラス)の地震、余震の発生が今後ありうるとしている。日本は1995年阪神大震災以来、地震活動期(活発期)に入ったようでもしM7級の地震が起こった時、日本の原発は耐えられるだろうか。第二のフクシマを発生させないため、今後全ての原発を停止すべきだ。第二のフクシマが発生したら日本はもつだろうか。

6)原発なしでも電気は大丈夫

これまで原発推進派は火力を半分以上も休ませて原発のフル活動を目指してきた。IAE(国際エネルギー機関)ですら「日本は原子力発電の不足を補うだけの石油火力発電による余剰を有している。日本は2009年には火力発電能力の30%しか使用していない」といった声明を出した。

7)テレビ、新聞の報道のおかしさ、原子力村からの圧力の大きさ
原発事故による放射能汚染のため、復興が支援がボランティアが妨げられている。海に大量の汚染水を流していて世界中から非難を浴びている。それなのにテレビも新聞も、この核心点を報道しない。原発震災という単語も使わない。原子力村の圧力が働いている。しかしその原子力利権共同体構造も原発事故の深刻さを全国民に知れるにつれてほころび始めている。

2011.3.11大震災以前の日本の原発の状況
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3、原発廃止運動の現状・課題

4月には全ての原発が稼動を停止するのに合わせ、原発の全面廃止を求めていかなければならない。しかし野田政権は原発の再稼動や原発輸出を積極的に推し進めようとしている。それを後押しするのが、原子力利権帝国の力だ。電力会社、財界、電気会社、マスコミなどがフクシマ事故の責任を放棄し再び国民を危険にさらそうとしている。

推進派の主張の間違いについて、今回の大惨事で原発の本当の姿が分かった。特に女性の声が大きい。昨年の4月10日の高円寺デモ「素人の乱」は1万5千人が集まった。原発反対自治体議員・市民連盟も結成された。2.11には1万2千人が集まり沿道の反応もよかった。

3.11には福島現地集会や日比谷公園での集会さらに全国的に反原発の集会が行なわれる。反原発の署名活動も行なっており、現在500万人が署名している。また東京都と大阪府で住民投票を行うべく署名運動を行なっている。大阪では既に必要数が集まり、府長に提出している。橋本は自分が原発に反対なのだから住民投票は必要ないと言って行おうとしない。東京では既に必要数を大きく超え30万人以上が署名した。

4、運動の方向性

ドイツでは反原発の30万人デモが行われ、原発推進を掲げていたメルケル首相は運転中の古い原発7基を止めた、今後10年でドイツの全原発を廃止するという答申が出されている。日本でどのようにしてドイツのような厚い層の人々、活動者群を作るのかが問われている。電気料金値上げ論の傲慢さ、インチキを許すな。福島の運動とどう連携していけるのか。

反対運動の点検、総括、方向性としては
・ 原発の捉え方
・ 即時廃止か段階的廃止か
・ 代替論は必要か・自然エネルギー論
・ CO2温暖化論の果たした悪影響、間違い
・ 地域に根ざした運動を作る運動・組織論
こういった問題を論議しながらも共同行動を積み重ね、広範な大衆運動として反原発闘争を推し進めていかなければならない。

■ 『原発がどんなものか知ってほしい』(平井憲夫著)から印象邸な一文を引用したい。彼が泊原発の隣の共和町で講演し質問を求めた所、会場の中学2年の女の子が次のように言った。

「今夜この会場に集まっている大人たちは大うそつきのええかっこしばかりだ。私はその顔を見に来たんだ。今の大人たちは、特にここにいる大人たちは農薬問題、ゴルフ場問題、原発問題、何かと言えば子供たちのためと言って運動するふりばかりしている。原子力発電所の周辺、イギリスのセラフィールドで白血病の子供が生まれる確立が高いというのは、本を読んで知っている。私も女の子です。年頃になったら結婚もするでしょう。私子供を生んでも大丈夫なんですか?」と。

泣きながら300人の大人たちに聞いているのです。でも誰も答えてあげられない。「たとえ電気がなくなってもいいから、私は原発はいやだ。私が大人で子供がいたら命がけでから打を張ってでも原発を止めている。」彼女は泣きながら訴えた。

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眼科、血液内科の診療

3月1日(木)
検査結果
IgM   5187(3/!)←4730(2/23)←4004(2/16)←3114(2/9)
白血球  2100←3300←3300←2400
好中球  890←1380←1450←990
赤血球  287←298←311←267←300
ヘモグロビン  9.5←9.9←10.3←8.9
網赤血球  4←11←17←23←17
血小板  8.4←12.3←16.4←12.5


■ 血液内科の診療の前に眼科の診療があった。半月位前から花粉症のように目がかゆくなり、涙が出てくる状態になった。以前にもなったことがあるが、2間位で治っていた。必ずしも花粉の季節になるわけではないので何のアレルギーか分からない。2週間前の眼科診療の時にアレルギーを抑える目薬を処方してもらたっがほとんど効き目がなかった。別な薬(リボスチン・ヒスタミンH1拮抗薬)を頼んだ。通常のアレルギーの症状を抑える薬のほかにステロイド(フルメトロン・抗炎症薬)を処方してもらった。

左眼の眼圧が下がってきている。前回7だったのが、今回5となっている。また眼球が柔らかくなってきている。医者に聞くとサイトメガロウイルスの炎症によって房水を作る機能が低下しているのだろうということで、こちらの方も眼薬(アストロピン)を9処方してもらった。眼科は定期検査だけのはずだったが色々問題が起こってくる。

■ 血液内科の診療までかなりの待ち時間があった。IgMの検査数値が出るまでに2時間もかかってしまったからだ。早い日と遅い日がある。今日の診療日最大の関心事は先週木曜日に点滴したベンダムスチンが効果を発揮しているかどうかだった。しかし残念ながらIgMはひたすら上昇を続けている。

何で効果が出なくなったのか担当医も首をかしげている。180mgを2日間連続してやるほかないのか。しかし180mgで効果が出ていない状態では連続投与に期待は持てない。それに先週木曜日に点滴したベンダムスチンの副作用として体力消耗が激しい。入院時の過眠程ではないが家にいるとすぐ横になりたくなる。また入院時病院食を完食できなった時期があるがその時程ではないが胃もたれもある。半分の量で倦怠感がかなり強い。通常量を投与したら寝ている時間が多くなるだろう。最低限のQOLは維持したい。

もうベンダムスチンは諦めて、サリドマイドやベルケイドに復帰してもらうほかないかもしれない。1年程使用していないので薬物耐性もないだろう。次回3月8日の診療日にIgMの数値を見て新たな治療方針を出していくことになった。

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がん治療とは長く細い道を辿ら
なければならない。その先に希
望があると信じながら。

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