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身体性の問題 (つづき)

12月22日(水)
 「身体性、感性に基をおくと連帯性、運動性という方向から遠くなりませんか。」といった質問が昨日書いた「辺見庸の身体性」という文章に対して送られてきました。難しい問題ですね。

教育人間学の東宏之が自分がサッカーで骨折した時の体験を話してくれたことがあります。「病気をしたり怪我をしたりすると、回復し職場に戻った時に、それまであまり親しくなかった人まで、“どうですか”と声をかけてくる。“病を語る、身体を語ることでもたらされる関係”は人間関係をスムーズにしていく。そのことは気持ちを語る、心を語ることの具体的きっかけになる。身体という共通の基盤に立って話せるからだ。」

身体という共通の基盤に立っての話ということで言えば、患者会の運動はその最も典型的なものです。血液がんという共通の体験を通して、全く知らないもの同士が、同じ言語で語り合い、悩みや苦しみや生き方への共感を得る事が出来ます。そういった意味での身体を通した連帯や運動は様々な所にあるでしょう。

しかし一方血液がんでない人は家族といえども、患者の苦しみや悩みを理解できないということもまた事実です。身体という共通の基盤があったとしても各人の身体的経験はあまりにも個別的なものであることには違いありません。どこで共通の基盤を見出していけるのでしょうか。

身体的共通基盤となりうるものはあるのでしょうか。それは生と死の問題です。四苦八苦という言葉がありますが、四苦は生老病死であり、それは全ての身体が抱えた逃れられない宿命でしょう。

がんで余命宣告を受け「死」に向き合わざる得ない人、死刑執行を待つ人、そこに心情的違いはなでしょう。我々は死刑廃止運動をするときに、他者の「死」と向き合わざるを得ないのです。そしてそれを耐えられないものとして否定したいと思います。そういった身体的な嫌悪感こそが運動の共通の認識にならなければ本当の連帯も作れないし運動の内容も薄められてしまうでしょう。

 身体的、感性的なものは一般的には個人的、個別的なものになりがちだと考えられています。しかし死刑廃止運動の基盤は死・殺人への嫌悪感を基にしているということでの共通の基盤があると思います。「人の死は、それによって心のあわだちが襲ってくるものだ。」それを感じる感性こそがが運動の基盤になるでしょう。

感情や意志よりも知性、理性の働きに優位を求める主知主義的立場は政治的運動体にとっては極めて一般的でしょう。しかしそれは共同幻想を維持する事になり個々の主体は失われてしまいます。

しかし死刑廃止運動のあり方を考える時、それは単なる政治運動ではないということです。国会での政治的な駆け引きの問題として扱われるものではないということです。そういった場面もありえますが、運動の根の所で死・殺人への嫌悪感という身体的律動を的確に表現しなければなりません。

生身の人間を殺す事に耐えられない感性を共同幻想の中に拡散させてはなりません。そういった感性的基盤を持った死刑廃止運動が必要なのではないでしょうか。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

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