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鎌田實 『がんばらない』

10月30日(日)
古本屋で見つける
4_convert_20111030163046.jpg鎌田實さんのことは、以前病院の図書室にあった『雪とパイナップル』を読んで名前は知っていたが、どういった考え方を持っている人かは知らなかった。9月25日に行われた「健康ぶんきょう21・講演&対談“いのちを想いあう”」の集会に参加して鎌田さんの講演を聴きその人となりを知ることになった。

偶然、鎌田さんの本を古本屋で見つけて買った。『がんばらない』と『あきらめない』という本だ。本はなるべく図書館で借りるようにしているが、買わざるを得ない本も結構あり自室の本箱からあふれ出してくるから、定期的に昔の本を古本屋に売りに行く。ブックオフとかフタバ書店とかが近くにあるのでそこを利用する。文庫本だと一冊5円、単行本でも10円、良くても20円位でしか売れないが捨てることは気がとがめるので売るわけだ。

古本売場で文庫本が5~600冊ワゴンセールで一冊105円で売っていた。5円で仕入れて105円で売るということだ。5冊買うと半額になる。その中に鎌田實さんの本を見つけた。2冊買いその外の3冊は藤沢周平の本があったので買った。

柳田邦男の『がん50人の勇気』
鎌田さんの『がんばらない』という本は全く普通の人が如何に心安らかに死んでいくかを扱ったものである。昔、柳田邦男の『がん50人の勇気』という本を読んだことがある。約20年以上前の段階でのドキュメントで、現在とは違いガンの告知はされなかったことが一般的だったが、自分の死期を自覚して、如何に最期の時を精一杯生きたかを記録したものである。

朝永振一郎、大沸次郎、平塚らいてふ、亀井勝一郎、中山義秀、尾崎士郎、江田三郎、市川団十郎、小津安二郎、林武、伊東深水、高橋和巳、矢内原忠雄ら、柳田邦男の取り上げた人達は小説家、画家、映画監督、俳優、役者、学者、中には哲学者もいる。彼らは社会的エリートであり、最後まで矜持を捨て切れなかったのだろう。それが良い死に方とか見事な死に方として感じられるのかもしれない。

しかし社会的に業績をあげた人達の「良い死に方の記録」はやはり我々の死とはどこか無縁のものとして、「これらの人のようなどこまで見事な死に方」として賛美されることに強い違和感を覚えたものだった。色々な死への迎え方がある。がんによる死が悲惨なものばかりとは限らない。淡々と、雄々しく、ひょうひょうと、精一杯明るく受け入れることもある。それは全ての人が直面することになる現実である。

死は誰にでも平等に訪れるものであり、それを激しい葛藤を繰り返しながらどう受け止めるのかの中にその人の生き様があり、死への心構えがある。それは他人が賛美したり卑下したりする種類のものではない。死は生の結果であり、今までの生き方の凝縮した姿を表す。重要なのは迷いや煩悶を繰り返しながら、最終的に死を受け入れ安らかな死を迎えることが出来るかどうかであって、それは見事だとか、良い死に方などといわれるたぐいのものではない。

鎌田實の『がんばらない』
鎌田實さんの本は医者が患者の最後を紹介する本である。それも悲惨な体験としてではなく、さりげなく死の体験が取り上げられている。そこには無心の慰めが感じられる。この本には柳田邦男の本に出てくるような有名人は出てこない。

登場するのは家族思いの主婦なお子さん、彼女は「病人になりきらないこと」「家にいたい」「最後まで自分らしくしていたい」と在宅ホスピスケアをしてもらって最後まで家で仕事をしていた。スケート選手で高校3年の時悪性リンパ腫と診断された研治くん、頑固一徹な鎌田さんの父親岩次郎さん、誰が来ても「お茶を飲んでけ」というもてなし好きな山根ばあ、駄洒落で人を笑わす禅宗の和尚さんなど、多くの人を医者は見送るが、皆市井でささやかに生きてきた人達である。

萩野アンナの解説に次のように書いてあった。「思わぬ病を得、動揺し、逆らえない運命を悟ると、それぞれが見事に人生の幕を引いてみせる。天寿をマットウといわれる年齢でも、死の受容は、本人にも家族にも難しい。自立という言葉に私たちは振り回されすぎたのかもしれない。人は人によって支えられる。寄りかかりながらも寄りかかり過ぎない。その按配をわきまえる以上の自立は、幻想でしかあり得ない。」

人間らしい最後を迎えることは如何にして可能だろうか。それは鎌田實さんが院長をやっている諏訪中央病院であるからこそ可能だったのかもしれない。医者と看護師と患者がお互いに信頼関係を築き支えあうことが患者の心の安定を可能にする。

死への限られた時間を宣言されてからの、それぞれの生き方は、それまでの生き方を反映するものある。最後の時をどう生きるか、何を残すか残さないか。どのような人でも死と向かい会わざるを得ないという人間の普遍的課題にどのよう対応するのか。どのように患者に満たされた死への時間を提供してあげることが出来るのか。それは結局本人の心構えだが、死への時間が迫る中で、その心の動揺を支える柱は必要だろう。家族、仲間はもちろんだが、医師、看護師の役割も大きい。

死の受容と煩悶
前立腺がんの患者である禅寺の住職は「死ぬ事をまるで隣の家へでも行くみたいな心境で、詩にうたった禅僧たちがいる。生死をこえた死にざま、果たして隣に行くみたいに行けるかと自問自答するこのごろである・・・」と亡くなる前年に書いている。

がんの告知を受けたとき彼は受容しているものとばかり思っていた。しかし彼は「精神的不安というか、万事にアセリを感じる」という。死に向けた迷いと動揺を誰でも繰り返す。やがて死を受け入れる心構えが出来る。それは個々人の感性の問題だが、それに止まるものではない。周囲の人達との関係の中で作られていくものでもある。

鎌田さんは言う「医療の中で〈今この病人にはどんな援助が必要か〉と常に思いをめぐらしてきた。それぞれ〈時〉の徴を見抜く感性をもっていたいと思う。」「21世紀の人類にとって最も大きな問題は、情報長寿社会のなかの、人間のさびしさではないだろうか。物や金や情報よりも大切なものがあるはずだ。忘れていた魂の心くばりをぼくたちの乾いた心にとり戻したいと思う。」

こういった視点で鎌田さんは苦悩する現代医療システムの中で、病院のドクターや看護師さんや多様な職種のスタッフたちがそれぞれ専門性を生かして病んでいる人々を全力で支えていこうとしてることの意味を強く訴える。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

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がん治療とは長く細い道を辿ら
なければならない。その先に希
望があると信じながら。

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