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「障害者」の問題

1月21日(月)
「親たちの世代が作り出している一元的価値観の呪縛。カナシバリのように子供たちを一本の軌道に押し込めようとする圧力。その圧力に無意識にでも開放を求める子供の生命のエネルギーがぶつかって、その壁を突き破る時、衝撃的事件は起きる。」

「管理主義教育は今川焼きかタイ焼き、同じ材料をこねて、校則という焼き板の上で同じあんこを詰め一定時間焼くと出来る・・・そんな教育であっていい訳はない。その体制に反抗したりついていけない子供は裁かれる。」(斉藤茂男『死角からの報告』より)

「障害者」の問題
 「障害者」が隔離政策によって通常の教育体制(普通学級)から排除され隔離されてきている。1979年に実施された養護学校義務化によって、障害児が養護学校で学ぶ制度が確立した。これに対して、障害者による全国的な反対運動が進められ、各地域の学校への就学を求める闘いがおこなわれてきた。

教育の場における隔離と能力主義に反対する障害者の運動は、障害児と健常児が共に学び、共に育つことの意味を訴えてきた。この義務化によって「障害者」の隔離収容、健常者との分断の中で教育における社会的弱者との共生、共存の回路を切断し、より一層の差別構造を作り出してきた。

「障害者」が隔離され切捨てられていくということは、普通児の目に触れなくなるため「障害者」もまた同じ人間であるという認識を健常者が子供のうちから肌で知ることが出来なくなり、人間の多様性知り、教育体制の中の一元的価値観を越えていくものを見出していくことを不可能にしていくのである。

「障害児」を隔離すればまず健常者の子供たちが誤った道を歩んでしまうのである。教師が勉強の出来ない子やテストの悪い子に向かって「いつもそうだと特殊学級にやってしまうよ」と言うと聞いた。教育が能力主義、能率主義に落ち込むとき、人間をその尺度でしか見えない子供たちを作り出していく。競争と競争意識の結晶過程に派生する「低能力者」排除2意識を根底的に変えていかなければならない。

 普通学級で「障害児」を受け入れたことによって授業が遅れたとしても、「障害児」との共生が子供たちに与える影響は計り知れないだろう。『長谷川くんきらいや』(長谷川集平・スバル書房)の中にあるような日常的ふれあい関係が大切だと思う。

この競争社会の中で受験という一元的価値観に絶えず引き込まれていこうとする状況の中で、「障害者」の存在意義を、彼らとの共生の中で見出していけたならば、生産第一主義に裏打ちされた労働力商品としての価値で人間を識別していく、そういった呪縛から子供たちを解き放つ大きな力となるのではないだろうか。

「勉強が出来る子、大人にとって素直な子」のための教育ではない。子供の多様性と困難性と、不可解性と正面から対決することが一元化された価値観を突破する道である。健常者は「障害者」と関係を強めていくことを通して生産力万能主義的な価値体系を根底から批判していく力を得ることができるだろう。

精神「病者」の一人は「・・・言うならば、(健常者の言う)主体的人間とは自然や他者と全く対立し、それらを支配し、それから収奪しようとする者であり、自然の抑圧と人間(他者)の物格化をもたらし、それこそが人間の疎外形態といえるでしょう。」と現実社会での人間の主体的行動についての疎外された状態について語っている。

知とは本来共生の手段であった。しかし今日では排除の手段となっている。共生に向けた知の獲得を目指していかなければならない。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

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