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いがらしみきお 『 I 』

2月3日(金)
31_convert_20120201084320.jpg 友人がこの本を読んでどう思うか聞かせてほしいと言いながら、いがらしみきおの『 I 』という漫画を貸してくれた。漫画家についてはあまリ詳しくはない。いがらしみきお作品は今まで読んだことはなかった。一緒に貸してもらった『羊の木』はすんなりと読めた。原作が山上たつひこで、昔、漫画雑誌に連載されていた『光る風』を読んだことがある作家のだったので興味が持てた。その原作をいがらしみきおは自分の世界の中で作り上げてきている。

『羊の木』と違って『 I 』の方は、簡単には作者の意図がつかみづらい。もちろん何が書いてあるか考えることに意味があるのではない。読んだ時に不協和音的な感覚を味わったり、おぞましいと感じたりすることの中に作品の意味がこめられている。最初は自らの存在とは異質の世界の物語だと思って読んでいても、やがてはその世界と同一地平にいる自分に気が付かされるのである。生きている自分そのものとは一体何なのかを問わざるを得なくなってくる。

STORY : 宮城県の田舎町に生まれ、身寄りのないイサオ。生まれた時に母親が死んだ。彼は生まれた時から自意識があり庭の片隅に神らしきもの姿を見る。イサオは叔父の手で育てられるが、虐待され豚小屋の隣で生活し小学校にも行かしてもらえなかった。その叔父がある日その辺では一番高い神木の杉の木の天辺で首をつって死んでいた。

また彼をいじめていたガキ大将が、交通事故で死んだ。周りの人はイサオが何らかの力を持っているのではないかと疑いを持ってみるようになった。さらにイサオは恩師の臨終の場で、人の魂を己に乗り移らせたかのような不思議な力を見せた。

こういった中で、雅彦は次第にイサオに 惹かれていった。雅彦は医者の息子で比較的裕福な暮らしをしていた。しかし小学生の頃から、自分が生きていることの意味についてひそかに深く悩んでいた。雅彦の祖母がイサオの所に通っていることを雅彦は聞いた。イサオは彼女が死にたがっているという。

ある日用水路に頭を突っ込んで死んでいる祖母の姿があった。雅彦はそれがイサオのやったことだと思って問い詰めるが、死にたい人を死なせることは罪なのかといわれる。「貴様は神様か、人殺しだ。自分のやっていることわかりもしないくせに、何が苦しくないようにしてやっただよ」雅彦は怒りイサオを殴りつける。

やがて雅彦は中学を卒業する。高校入試の日に二人で旅に出ることを決意する。目的は雅彦にとっては、「オレは何になればいいのだ」という言葉に表現されるように、自分の今生きている世界、そして生きている自分そのものとは一体何なのかを探る旅であり、イサオにとっては産まれた瞬間に目撃したという神様のような存在=トモイを探すこと。これが、二人の長い旅の始まりだった。

「 何故生まれてきたのか、何故生きていくのか、何故死んでしまうのか誰も知らないままだ。何も知らないまま生きて、夜が来るように死を迎える」本の中に書かれたこの一節が物語り全体を貫くテーマとなっている。

「死にたいと思っている人を死なせるというのは間違っている」といった主張は意味を持たない。ここでは尊厳死を扱っているのではない。死と生の間にあるものは何なのかそれを考えなければならない。この作品は、生と死の意味を問うものだ。そして同時に人生、祈り、奇跡、そして宗教といったものにも波及してくる。

イサオが人の「死」を叶える場面をみたとき、それが果たして正しいのかどうかを問うことに意味があるのではない。現在において死はどのように表現されているのだろう。「あんたは癌で、後何年生きられるか」といったことがパーセンテージなどの具体的な数字で表現されている。死ぬ時期は医療上の現在のレベルによって規定される。そこには死にたいとかとか生きたいとかいった個人な欲求は存在しない。コントロールされた死があるだけである。薬の効果によって寿命が左右されていく。死が意味を持たなければ生もまた意味を失う。どのような死を迎えるのかが、その人の生のあり方を表している。

この本のテーマとして「東北の地で神様を探す」と書かれている。人の生死は人知の及ぶ所ではない。生死を司るのは神の領域だ。イサオはその領域に踏み込んでしまったのか。「見ればそうなる」「誰も見てない所に神様はいた。」この言葉の中に作者の世界観が表現されている。

『 I 』は世界の成立ちを描こうとしている。「誰かが見ること世界は始まる。生き物は見るために生まれて来たのかもしれない。みんなが見ることによってこの世界は創り上げられているのだろう。だから誰も見ていないところには何もない。誰も見ていないところ。そこは真っ暗で神様しかいなのかもしれない。」と書かれている。

自己意識(自我)の過剰な発現の中で、自分が「見ていない」世界は存在しない。しかし一方、イサオによって「見て」いないときには世界は「闇」で、そこに「神」がいるという答えに出会う。「イサオは闇の向こうに神様がいると思ったそうだそして向こうに行ってみると言った。イサオは神様に合えたのだろうか。」物語はここで終わり答えはない。

神は心の闇の中にある。それは未知である不可知である。それは信仰の問題で、存在の問題ではない。神が存在するか否かについて、人は語ることは出来ない。「語りえぬことには沈黙を守るしかない」のである。同時に死についても語りえない、人は死を経験できない。ただ必ずいつかは死ぬという事を知っているだけである。

人は死を知ることはできない。たとえイサオのように、人の心の中に入り込み死を操ることが出来たとしても、「死とは何か」についての答えが得られるわけではない。そのことによって、神に近づけたわけではない。雅彦の旅が「自分を探す旅」であるように、イサオの旅は「神様を探す旅」であった。そしてその旅は終りなき旅なのである。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

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