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豊島区散歩-2 熊谷守一美術館

1月25日(金)
 ベルケード療法第3回目をやったのが18日で、それ以降1週間経っているので少しずつ薬が切れ体調は回復に向かっているが、まだ長時間歩くことは難しい。そこで往復30分位のところで散歩に丁度いい場所はないかと思った。探せばあるもので、入院中は文京区の観光案内で探し病院周辺を探索したが、今度は自宅周辺で幾つかの観光名所を豊島区の観光案内で探した。

 近所にいながら全く気がつかなかった。仕事が忙しかった頃は当然だが、退院後1年間の自宅療養の時も、西武線沿線の緑地保全地域を中心に回り、池袋周辺の名所旧跡に行くことはなかった。体調の関係で長距離を歩くのは無理だが近所ならどうにかなる。体調に従っていると一日中家の中にいて一歩も外に出ないということになってしまう。すると余計体調に影響してくる。

 ということで池袋周辺探訪を始めようと思う。周辺探訪シリーズ2というわけだ。第1回目は1月22日の「長崎アトリエ村」ということで今日2回目は「熊谷守一美術館」である。
 
熊谷守一美術館
 熊谷守一美術館は椎名町駅から10分くらいの所にあり、散歩の時近くを通ったことは何度かあるが全くその存在を知らなかった。熊谷守一はという名前は聞いたことがある位で、白猫の絵はどこかで見たことがあるその位の知識しかなかった。

 この美術館は、守一氏が45年間住み続けた豊島区千早の旧宅跡に、1985年(昭和60年)5月、次女の榧(かや)氏により個人美術館として開設された。2007年(平成19年)11月、榧氏より守一作品153点の寄贈を受け、豊島区立熊谷守一美術館としてなった。

池袋周辺002_convert_20101126164901  池袋周辺003_convert_20101126165015
 美術館建物                         美術館入口

 美術館はコンクリート打ちっぱなしの3階建ての建物で、正面の壁には熊谷守一の蟻の絵がレリーフとして彫られている。1階が喫茶店になっていて次女榧(かや)さんの陶芸作品が飾られ、守一の書籍、画集が売られている。展示場は1階が油絵関係で絶筆「アゲ羽蝶」や守一の「自画像」、よく知られている「白猫」等が展示され、2階には墨絵と書が飾られている。3階は誰でも展示できる貸しギャラリーになっている。

 風が強く寒く曇っていて、冷たいコンクリートの壁に囲まれ、落ち葉が吹き寄せられ建物の中にまで進入していたせいでどんよりとした雰囲気が漂っていた。入り口にあるけやきとつげは旧居宅にあったものを残してあるということだ。入館者は普段の日なのもあって私一人だ。但し1階の喫茶店に店員(美術館の受付兼任)と客と合わせて3人いたので閑散とした感じではなかった。

熊谷守一の作品
 彼の絵は「写実画から出発し、表現主義的な画風を挟み、やがて洋画の世界で『熊谷様式』ともいわれる独特な様式-極端なまでに単純化された形、それらを囲む輪郭線、平面的な画面の構成をもった抽象度の高い具象画スタイル-を確立した。」ものである。
 
 彼が好んで描いていた題材は、子ども、小さな虫、庭に咲く花、猫など普段の何気ない風景が多い。これらを見つめ続けることにより創り出された「かたち」と、持って生まれたまなざしが決定する「いろ」。この二つを駆使しては独自の様式を展開し、ぎりぎりまでそぎ落とした線で描きだされたかたちと明快な色彩が、絶妙な調和を作り出している。。

 轢死体を目にしたことをきっかけに、人の死や重い題材も扱った。4歳で死んだ息子の死に顔を描いたもの、戦後、結核の病で失った長女の野辺の送りの帰り「ヤキバノカエリ」といった作品も残している。

池袋周辺001_convert_20101126164810  kuma_convert_20101126172624.jpg
 美術館の壁に書かれた作品                白猫

熊谷守一(1880年 - 1977年)の略歴:
1880年4月2日 岐阜県恵那郡付知村(現在の中津川市付知町)に岐阜市の初代市長熊谷孫六郎の三男として生まれる。
1900年 東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画家選科に入学。長原孝太郎、黒田清輝らの指導をうける。
1905-1906年 樺太調査隊に参加。北海の島々を廻り、各地の風光、地形の記録やスケッチなどをする。
1909年 第三回文展に「ローソク」を出品し、褒状を受ける。
1910年-1915年 実母の死を機に帰郷。裏木曽の山中生活を営む。
1916年 才を惜しむ友人の説得により再び上京。第2回二科展に「女」出展。後に二科展が解散されるまで毎年出品。
1932年 豊島区長崎町(現在のの千早)に移り住み、生涯にわたりここで生活する。
1938年 日動画廊で野間仁根と二人展を、藤田嗣治と野間仁根と日本画三人展を開く。名古屋丸善において、熊谷守一新作毛筆画展を開く。
1944年 軍の圧力により二科会は解散させられる。
1964年 パリのダヴィット・エ・ガルニエ画廊主催で熊谷守一大個展が開かれ、好評を博す。
1968年 文化勲章受章者に内定したが辞退する。
1972年 勲三等叙勲の内示があるが辞退する。
1976年 郷里の岐阜県恵那郡付知町に熊谷守一記念館が設立される。洋画商展出品の「アゲ羽蝶」が絶筆となる。
1977年8月1日 肺炎で死去。享年97。
 
能谷守一の言葉:
 川には川にあった生き物が住む。上流には上流の下流には下流の生き物がいる。自分の分際を忘れるより、自分の分際を守って生きた方が、世の中によいと私は思うのです。自分自身を失っては何にもなりません。自分にできないことを世の中にあわせたってどうしようもない。川に落ちて流されるのと同じ事で何にもならない。

 気にいらぬことがあっても、それに逆らわず、退き退き生きてきました。時には枯木も生きているんです。若木だけが生きているんじゃないんです。

エピソード1:
 守一が晩年を過ごした千早町の家(今の美術館)は伝説的な存在である。約80坪ほどの敷地で、南側半分が庭になっており、草木がのび放題にのびた野生の王国これこそが守一の生き方を表していた。守一はこの庭をよく歩き回った。庭の木陰で昼寝をしたり、日なたぼっこを楽しんだ。ただ自由に自分の時間を楽しむことだけを望んで生き、絵は観察という遊びの延長であった。名声やお金に対する欲はおろか、”すばらしい芸術を描こう”という気持ちもなかった。

 守一は貧しさすらも受け入れた。闘う意志がないのだから、黙って受け入れるしかなかった。こうした受け身の生き方は、彼のものの考え方や見方と無関係ではないだろう。

 人生は望むものではなく、様々な因果の重なりで与えられるものと・・・そうした考えを絵に表すには長い時間が必要だった。守一がそれを達成できたのは、人生が終わりに近づいたころである。生きることと描くことが、そのときようやく重なりあったのだった。(熊谷守一記念館ホームページより)

エピソード2:
 彼は「雑草園」のように草の茂った庭にでて蟻やカマキリを観察し、草や花に見入っていた。そのために彼は手製の腰掛けを20個作って踏み石のように庭に配置し、それに順番に腰を下ろしながらあくことなく虫けらどもを眺め続けた。有名なエピソードがある。彼は蟻を観察しているうちに、蟻が左側の二番目の足から歩き始め、どうのような順序で足を動かして歩行するか「発見」したというのだ・・・・。

 生き物たちは、長年の観察に裏付けられ、固有の相を正確に描き取られている。初めて、熊谷守一の絵を見たときに感じたのも、生き物たちの生態的な動きが、一種の瞬間像として実に正確に捉えられていることへの驚きだった。(静かな生活より)

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

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Author:yosimine
がん治療とは長く細い道を辿ら
なければならない。その先に希
望があると信じながら。

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