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生きることの証

5月6日(日)
「生きるとはそれじたいが現に証なのではない。生きるとは、生きる主体が生きている事をどうにかして証そうとすることである。ひとの尊厳の根はそこにある」(『棺一基』大道寺将司全句集・辺見庸序文より)

 5月1日に退院した。白血球が1000、好中球が200の状態での退院は通常ない。家まで車で帰り、次の診療日7日までは外出しないようにと釘をさされた。退院できたというのは連休前ということが大きく影響したのだろう。3日から6日までは看護師も医者も休みを取りたいだろう。多くの患者が先週末から退院している。それでも看護師に聞くと3分の2位の患者が残っているということだった。

5月7日に血液内科の診療がある。赤血球が5月1日の検査では7.6しかなかったので上がってなければ輸血をすることにはなっている。しかし一番の問題はIgMの数値がどう出るかである。下がっていればしばらく様子をみようということで、一週間後の診療日が指定されるだろう。上がっていたら医者は言うだろう。もはや治療法はないと。そして無駄な治療をしないで緩和ケア病棟に行ったほうがいいとも言うかも知れない。

確かに1ケ月近く入院して治療効果が現れないとしたら、何のための入院治療だったろうか、辛い思いをしただけではないか、それにやるだけのことをやってだめだったんだから諦めもつくだろうと言われるかもしれない。

 これ以降の治療をどうするか、治療を止めるのかは自分で判断することなのであって、医者であっても他人から「死の選択」を言われたくはない。医者が大分前に家族を呼んで、緩和ケア病棟について説明した。そこでは単に痛み止めを投与するという終末期医療をするだけでなく、輸血やその他の治療も全くしないわけではないということだ。

しかし結局の所原発性マクログロブリン血症患者にとっての死は、治療しなければ必然的に増えていく血中蛋白の増加によって血液濃度が上昇しそれに伴う循環器や脳の血管の異常によるものか、形質細胞腫瘍の増加による、正常細胞の減少がもたらす感染症や体力の消耗、出血傾向などによるものかが待っているという事になる。

医者が「もはや治療法はない」といった時のどう対応するかということになる。何もしないでIgMが上昇するのを放置するという心境にはなれない。治療法は自分で探す他ない。確かに寝たきりになってしまうような治療をやりたいとは思わない。しかし「生への可能性」が少しでもあるならばそれに挑戦してみようとは思う。それに伴って生ずる感染症で命を落とすとしても、何もしないで死を迎えるよりはずっと納得できる様な気がする。

 冒頭に引用した辺見庸の言葉の中の「生きる主体が生きている事をどうにかして証そうとすること」とは「死にむかう生」ではなく「あくまでも生を求めるための生」を生き抜くことこそが自らの主体が生きていることを証すことになるのではないかとも思うのである。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

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No title

生きましょう!ずっと祈ります。

No title

みりさん励まし有難う。実際には文章で書くほど気分的には深刻ではなく、いつものように何とかなるだろうと楽観的に考えています。それに誰でもいつかは最後が来るのであって、それはどうあがいても逃れられないものなので静かに受け入れるほかありません。それまで何をするのかが重要であって、長く生きることに意味がある訳ではないので、そういった気持ちで日々生きていくだけだと思っています。

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素晴らしいです。ありがとうございます!でも生きて欲しい。
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がん治療とは長く細い道を辿ら
なければならない。その先に希
望があると信じながら。

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