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「考える」ということ

2月9日(土)
パンセ パスカルの『パンセ』の中の有名な一説がある。「人間はひとくきの葦に過ぎない。自然のなかで最も弱いものである。だがそれは考える葦である。彼を押しつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。

だがたとえ宇宙が彼を押しつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。・・・だからわれわれの尊厳のすべては、考えることの中にある。」
(前田陽一他訳・中公文庫)

 考えることは人間固有のものである。確かにそれは他の生物と人間を区別する最も重大なものだろう。しかし考えるということによって生み出された思想が逆に人間の尊厳を奪っていくことも事実である。人間がひたすら戦争を繰り返し、互いに殺しあうのも、宗教の違いによって争いを繰り返すのも、イデオロギーや観念の相違という思想的なものを根拠にしている。

経済的な理由である場合でも、それを正当化する思想を背景としながら戦いの正当性を主張する。思想家、哲学者が多くの場合、戦争に加担し、人々を戦争に駆り立てていく役割をしているのが歴史的事実としてある。

ルカーチはドイツの実存主義哲学者ハイデッカーを前ファシズム的と規定する。ハイデッカーの問題提起の核心が、ドイツの知識人の一部を「熱狂的にヒットラーの仲間入り」させ、他の一部を「ヒットラー主義に対する精神的抵抗に際しほとんど無化」したような精神的雰囲気の醸成に深く寄与した。

つまりハイデッカーの影響を受けた青年たちは「死に直面して」「原初的思惟」を実現し、存在者という非本質的な次元においてのみ虐殺し、略奪し、陵辱したに過ぎないというわけなのだ。

 日本においても多くの思想家、哲学者が前の戦争で、その精神的支柱を作り出すために積極的に貢献していった。自らの思想を戦争遂行のための手段として改変し喧伝していったのだ。日本で最も著名な二人の哲学者もまた戦争を肯定し、戦争の意味を思想的に確立して行ったのだ。

田辺元は言う。「仰々天皇の御位置は単に民族の支配者、種族の首長に止まっていらせられるのではない。一君万民、君民一体という言葉が表しているように、個人は国家の統一の中で自発的な生命を発揮するように不可分的に組織されている。・・・そして国家の理念を御体現あらせられているのが天皇であると解釈する。」(『歴史的事実』)ここでは、日本の天皇制国家の神的絶対的性格を疑いない大前提として語っている。

西田幾多郎も同様に「我が国の歴史において皇室は何処までも無の有であった、矛盾的自己同一であった。」(『日本文化の問題』)「皇室は過去未来を包む絶対的現在として、我々は之において生まれ、働き、死して行くのである。」(『国家理由の問題』)と語っている。

 天皇制についてどういった思想を持とうがそれは自由だ。しかし戦争の真只中「天皇の赤子として戦って死ね」といった時代に彼らの思想は、天皇制国家の絶対的定立を通し、自由な個人を国家の下に従属させ埋没させ、天皇のために殉ずる安心立命の境地を青年与え安んじて戦地に赴かせたのである。多くの学徒が御用哲学者の「思想」にたぶらかされ死んでいったのだろう。

観念論者の語る絶対こそ危険なのである。観念の世界で作った「絶対」のイデオロギーを現実に適用しようとする。永遠、絶対のベールによって歴史を固定化し、個人を否定していくのである。絶対者の下への従属的個人を定立するのである。

「彼らの哲学は人間の経済的、政治的奴隷状態の上に築かれ、これを受け入れこれを維持するのに貢献している。この哲学の教えるもの書くものは、実際隷属状態にあるものを失望させ道を踏み誤らせて、彼らの反抗を散り散りにしている。」(ポール・ニザン『番犬たち』)

「観念論は実在する客観的な私の外部にある鎖を、純粋に主観的な私の内に存在する鎖に変形し、一切の外的感覚世界の闘争を、単なる観念の闘争に変質させる技術を教えるのである。」(マルクス『聖家族』)

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

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