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ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』における「生をめぐる考察」

2月15日(金)
witt.jpg「世界は論理的空間における事実の総和である」
この言葉で始まる『論理哲学論考』は言語論理学の本であるといえる。しかし論理学と倫理学が哲学の双璧であるように、ヴィトゲンシュタインもこの本のごく一部(論考5・6、6・4、6・5番台)に「生の思想」を表現している。これを彼は倫理の問題として考えている。彼は第1次世界大戦に参戦し、そこで生死の狭間を垣間見ることによって、生きることの意味を探り始めたのである。

『論理哲学論考』の全体について語ることはその難解さゆえ不可能だ。しかしその中に書かれている生についての言葉の数々は、我々が世界との関係でどのような存在であり、どのような生を形成しえるのかを示唆するものである。

「科学上のありとあらゆる問題に解決が与えられたとしてもなお、人生(生)の問題はいささか も片付かないことを我々は感じている。」(論考6・52)といったところから思考は出発する。

世界と生
「世界の意味は世界を超えた所に求められるに違いない。世界の中のすべてはあるがままにあり生起するがままに生起する。」(論考6・41)
「世界とは私の世界である、という事実は、私が理解する唯一の言語の限界がとりもなおさず私の世界の限界を意味するという、その点に現れる。」
世界と生は一である。
「私とはわたくしの世界にほかならない。」(論考5・62)

 ここで語られているのは、生と世界が一つとなるような特別な生のあり方、すなわちそれは、生きることに意味があるような生のあり方であり、世界に意味があるような世界のあり方である。。そしてこの特別な生、特別な世界が成立する条件が倫理である。そしてその倫理については次のように語る。「倫理は世界に関わらない。倫理は論理と同じく、世界の条件でなければならない。」(草稿p261)

自我について
「私は運命から独立しうる。2つの神的なもの、すなわち世界と私の独立した自我が存在する。」(草稿p257)
「自我とは深い秘密に満ちたものである。」(草稿1916.8.6)

 独立した自由な私とは、圧倒的な世界と運命の力の前で、全く無力でありながらも自己の独立を保ち続ける存在である。そしてそのことが生と世界を意味あるものとする。同時にそのように生きることを通しながら、自分に対して確固たる自我の確立を図っていくのである。その時、自らを絶対的唯一者として自覚するのである。

唯一無二の自分の生
「もっぱら私の生は比類ないものであるという意識から、宗教、学問、そして芸術が生じる。」
「そしてこの意識が生そのものである。」(草稿p265)
「芸術作品とは永遠の相の下に見られた対象である。そして良い生とは永遠の相の下に見られた世界である。ここに芸術と倫理の連関がある。」(草稿p273)
「“永遠の相の下に”世界を直感するとは、世界を―限られた―全体として直視することにほかならない。」(論考6・45)
「倫理は先験的だ。(倫理と美的感覚とは一体である。)」(論考6・42)

 自分の生が比類のないものであると自覚することは、他者との比較を通して見出していくものではなく、自ら唯一無二なものとして生きることに他ならない。我々はたった一つの生を一回しか生きられない、その限りにおいて自分の生は唯一無二のものである。自分の生をありのまま見るということとは、事物、存在を単なる道具や対象としてではなく、一個の芸術作品として見る見方と共通するものを持っている。それはあるものを多くのものの一つとしてではなく、一つの世界として唯一のものとして見る見方である。

現在を生きる
「同時に死に際しても世界は変化せず。終息する。」
「死は人生の出来事にあらず。人は死を体験せぬ。永遠が時間の無限の持続のことではなく、無時間性のことと解されるなら、現在のうちに生きる者は、永遠に生きる。」(論考6・431)

 死は生の対極ではない。死は認識しえぬものとして人間の意識の中には存在しえない。存在し得ないものについて語ることも出来ないし、恐れたりすることもない。知りえぬ彼岸の世界などに惑わされるのではなく、きっぱりと語りえぬものとして決別し、今をいかに生きるかを追及すべきなのだ。生と世界に意味があると考え、そのように生きることを徹底的に追求していくことを通して今という時間を「永遠に生きる」ことが可能となるのだ。瞬間の中に永遠は瞬き現れる。

語りえないこと
「時間・空間のうちに生きる生の謎の解決は、時間空間の彼方に求められるのだ。」(論考6・431)
「言い表すすべのない答えに対しは、また問いを言い表す術を知らぬ。”これが謎だ“といえるものは存在しない。そもそもある問いが立てられるものなら、それに答えを与えることも可能である。」(論考6・5)
語りえぬものについては、沈黙しなければならない。」(論考6・54)

 結局ヴィトゲンシュタインは「生に対する考察」の結論として「倫理を言葉にしえぬことは明らかである」(論考6・421)と語り、多くの問題提起をしながらも語りえぬこととして封印してしまうのだ。そして「言い表せぬものが存在することは確かである。それは自ずと現れ出でる。それは神秘である。」(論考6・522)と締めくくっている。生きる意味は人に教えることも、人から教わることも出来ない。人はそれを自らの生において発見しなければならない。それを発見した時「生の問い」そのものは消滅する。

参考文献
『ウィトゲンシュタインはこう考えた』鬼界彰夫著・講談社現代新書
『草稿1914-1916年』の引用は上記文献より
『論理哲学論考』からの引用は坂井秀寿訳・法政大学出版局より

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

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