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湯島天神、神田明神、湯島聖堂

2月21日(木)
湯島天神-梅はまだだった。
l_00001558IMG1.jpg湯島天神は梅の名所ということだ。まだ2,3分咲きであると見頃情報にはあったが、病院に行った帰り道に近かったということもあって足を伸ばした。千代田線の湯島駅を根津方面に降り地上に出ると、不忍通りと春日通りの交差点に出る。

春日通を本郷方面に向かって100m程坂を上がって行くと崖沿いのゆるやかな石段がありそれが女坂であり、春日通を神田方面に少し行くと右側・境内東側に急な石段がありそれが男坂である。

湯島天神は江戸時代初期から梅の名所で、行楽を兼ねた参詣人でにぎわい、その周辺には岡場所かあった。また、幕府公認の富くじが江戸時代の中頃からの境内で興行されるようになると、神田・日本橋に近いこともあって一年中かなりの賑わいぶりであったという。

平日の昼下がりだというのに境内は屋台が立ち並びかなりの人手で賑わっていた。「学問の神様」への合格祈願に受験生が来ているのだろうかと思ったが、若い人はあまりおらず、梅見見物の高齢者が多かった。しかし、ここの梅は残念ながら白梅が咲いている木が何本かある位で、ほとんどが蕾のままでまだ花をつけていなかった。

例年梅祭りは2月8日から3月8日だという。今年の冬は寒かったせいで開花時期が遅れているのだろう。そういったことで梅を見るということがないので、境内をぶらっと一周して湯島天神を後にした。帰りは御茶ノ水駅に出ようと坂を下っていった。坂下の天神下界隈は関東大震災・大平洋戦争の戦災の被害を免れた一角で、木造の古い家並みが残っており、下町の雰囲気を漂わせている。

湯島天神の歴史
雄略天皇の勅命により御宇2年(458)創建と伝わる古社。天手力雄命(あめのたぢからをのみこと)と菅原道具公を祀る。のちに太田道濯が再建、徳川家康が江戸城に入る時、泰平永き世 が続き文教大いに賑わうようにと豊島郡湯島郷内に5石の朱印地を寄進し信仰した。以後林道春・松永尺五・堀杏庵・僧堯恵・新井白石などの学者・文人の参拝がたえることなかったという。

湯島天満宮の由来
道真が亡くなった後、平安京で雷などの天変が相次ぎ、清涼殿への落雷で大納言の藤原清貴が亡くなったことから、道真は雷の神である天神(火雷天神)と同一視されるようになった。「天満」の名は、道真が死後に送られた神号の「天満(そらみつ)大自在天神」から来たといわれ、「道真の怨霊が雷神となり、それが天に満ちた」ことがその由来という。道真が生前優れた学者であったことから天神は「学問の神様」ともされ、今なお多くの受験生が合格祈願に詣でる。

菅原道真と梅
道真は延喜元年(901年)、従二位に叙せられたが、斉世親王を皇位に就け醍醐天皇から簒奪を謀ったと誣告され、罪を得て大宰権帥(だざいごんのそち)に左遷される。道真は延喜3年(903年)、大宰府で没し同地に葬られた(現在の太宰府天満宮)。道真が京の都を去る時に「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」と和歌を詠み、その梅が大宰府に移動したという飛梅伝説ができたことから、梅がシンボルになっていることが多い。 


神田明神
不忍通りを蔵前通り方面に向かっていき、通りを渡ると高台への坂があり、そこが神田明神だった。

「創建は730(天平2)年といわれる。祭神は大己貴命であるが、12世紀初頭に、現在の皇居に居館を設けた江戸氏の氏神と伝えられる江戸大明神を合祀した。さらに朝敵の汚名をきせられながらも坂東の民衆に敬愛されてきた平将門(?~940)の霊を、いつしか 境内鎮守の明神として祀るようになり、江戸の産土神・氏神として代々の領主や民衆に信仰されるようになった。」という由緒ある神社だ。

東京に長年住んでいながら、湯島聖堂もそうだが、御茶ノ水駅は何度も利用しているのに全く立ち寄ったことがない。逆に東京に住みの東京知らずということになるのだろう。何時でも行けると思うと結局は行けない。境内をざっと見学した。神田祭りはさぞ盛大だろう。パネル写真がいろいろ飾られていた。

湯島聖堂
聖橋に着くとその手前が湯島聖堂((国史跡)だった。御茶ノ水駅の目の前歩いて1分、しかし行ったことがない。そういったものなのだろう。初めて見る古色蒼然とした建物、階段が工事中で下から登ってはいけなかったし、建物の中は土日しか公開されないということで見ることは出来なかったが、江戸時代からの学問所の建物がそのまま残っているという貴重なものだ。かって全国から学問を究めるために集まった若者がどういった夢を抱きながらこの門をくぐったかと思うと感慨深いものがある。

湯島聖堂の歴史
1790(寛政2)年、武士の学問を重視した老中松平定信は、儒学のなかで朱子学を正学とし、他の学派を異学とする寛政異学の禁を定めて、朱子学の振興 をはかった。柴野栗山・岡田寒泉ら林家の系統以外の学者を教官に登用し、1797(寛政9)年には聖堂西隣の学寮・宿舎を建てるなど、施設の整備拡充をはかり、幕府の正式の学校とした。やがて昌平坂学問所と名づけられ、直参の弟子のほか、諸藩の俊才が青雲の志を抱いて集まる最高の学府となった。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

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