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授業での話(案)-3

3月18日(火)
「いのちの授業」での話(案)-3・続き

10、ガンと生きる
7times.jpgツール・ド・フランスの自転車競技で、がんの闘病生活を挟んで、前人未到の7連覇を達成したランス・アームストロング(写真右)がこう言いました「断言していい、ガンは僕の人生に起こった最良のことだ。」死と向かい合ってはじめて、彼は気づくことができたのです。周囲の人たちの優しさに、人を愛すること。そして、生命の素晴らしさに。仕事でしかなかった自転車は、限りある生命を燃やす「生きがい」へと変わっていきました。(『ただマイヨ・ジョーヌのためでなく』)

皆さんも命を燃やせる仕事に出会っているかも知れない。しかしそれに踏み込めないでいるのかもしれない。人生に限りがあると気付く前に皆さんが命を燃やせる仕事を出来ているかどうか気付いて欲しい。

ガン体験者が語る次のような言葉は自分が置かれた現実を見つめなおす時の励ましの言葉だ。
「人の命は明日をも知れないと実感してからは一日一日が密度の濃い時間に変わりました。」(小林茂登子『あたりまえの日に帰りたい』)
「病によって以前全く想像していなかった世界の中に導き入れられた。私は毎日のように今日も生きていて良かったと思う。」(阿部幸子『病棟の光と翳』)
「がんのおかげで今日という日のやり直しのきかないことを嫌というほど思い知った。だから時間を自分の手の中にしっかりと握って生きる。」(ワット隆子『がん患者に送る87の勇気』)
今日1日が実は想いということに気付かせてくれる。そして私を励ましてくれる。

黒沢明監督がガンで余命を宣告された公務員の残りの人生を描きました『生きる』という映画です。この映画が問いかけているものは「人間いかに生きるか」でした。監督はこの映画の趣旨を「あの映画で僕が自分に問いかけたのは『どうしたら心安らかに死ぬことが出来るか』だった。答えは『いつもベストを尽くして生きていく』ということだった。死を思うことは生を問うことなのだ。」と言っています。ベストを尽くすことが心安らかに死ぬために必要なのかもしれません。

何時死ぬか分からないという人生を限りあるものとして考えれば、日々一日一日の大切さを知ることになります。それによりまた違った人生が開けてきます。そこから生きることの意味を見出していけるでしょう。

11、生きることの意味をかみしめる時間
今の社会の中で労働者は病気にでもならなければ休むことも出来ないほど働かされています。その状態に対していいか悪いか考える余裕もなく日々追いまくられるような人生を送らされているのです。家と会社の往復以外どこかに出掛けることもなく、家には寝るだけに帰るような生活を強いられています。四季の移り変わりや自然の恵みを 味わうこともなく働き詰めの人生でしかありません。

病気になるということは、そういった日常性から突然自分の意思とは全く無関係に強引に切断されてしまうことなのです。特にガンなどのように長期治療を必要とし、死と隣り合わせの病にかかった場合特にそうなります。これは宿命として受けとめるほかありません。この状態をどう受け止め自らの生き方として転換できるかが問われているのです。

病気になって始めて今まで何気なく送っていた自分の人生を振り返る機会を得ることが出来るのです。生きていることの意味を実感できるようになっていきます。それは惰性で生きている時間でもなく、外部から強制される時間でもなく、時間に追い立てられることもない自分だけの時間なのです。

その中で何を見出していけるのか。いのちとは何かを否が応でも思い起こさせるものなのです。生きていることの一瞬一瞬が意味を持ってきます。感性が外界に対して研ぎ澄まされ、かっては何気なく素通りし、見過ごしてきた事物が生きたものとして立ち現れてくる。

IMG00001854.jpg私は入院中早朝、毎日病院の外壁沿いの遊歩道を散歩していました。歩きながら思うのは毎日毎日大気の状態が違うということです。香りやにおいの違いを感じられるのです。新鮮な形で大気が味わえる。時々海の匂いが混じったりしていると感動します。病院に収容されているという束縛感の中で外の空気は特別な味を与えてくれるのかもしれません。感受性を豊かにしてくれるのでしょう。

花を愛でる心、木々の葉の移り変わり、雲の形、空の色すべてが鮮やかに感性に反響してくるのです。仕事をしていた時には見過ごしていた自然の移り変わり、空気の味に変化が感じられるようになって来るのです。仕事に翻弄され鈍磨しきっていた感受性が、病気での入院の中で再びよみがえってきました。ガンを経験した人達も自然との感動的ふれあいについて次のように書いています。

「森の中はモミの木の芳香に満ちていて、山を吹き抜ける風にススキがなびいている。名もなくひっそりと遠慮深く咲いている野草たち、何て自然は美しいのだろう。私は生きている喜びを体で感じていた。」(カットバッサー俊子『私は肝移植で救われた』)
「まぶしいほどの太陽の光、あふれる緑、流れる雲、小さなクローバーを踏みしめながらさわやかな風を頬に感じ、中庭にたたずんでいると、とめどなく涙が溢れ出て来ました。この気持ちは生きてこそ味わえるもの、人生に生きる意味や価値を求めてきた私ですが、すべての前に生きるということの意味の深さを知りました。」(小林茂登子・前掲書)
「日常生活のさりげない暮らしが光のシャワーを浴びたようにきらきらしています。」(イデア・フォー編『再発後を生きる』)

12、抗がん剤治療とQOL(生活の質)とのバランス
どのように生きるかで問題となるのは、抗がん剤治療とQOL(生活の質)の兼ね合いです。がん治療というのは如何に生きるかを根底的に問うものである。自分で自らの生き方との兼ね合いで治療法も選択していくほかありません。抗がん剤で体力を消耗しふらふらになりながら5年生きるのか、抗がん剤を使わず2年で死ぬのか。そういった判断が問われることもあるのです。

「薬」は、一般に「効果」と「薬物有害反応(副作用)」の2つの作用があります。通常、私たちが薬として使っているものは、効果のほうがずっと強くて、薬物有害反応がほとんどないか、軽度です。しかし抗がん剤の場合は、効果と薬物有害反応が同じくらいという場合もありますし、また効果よりも薬物有害反応のほうが多い場合もあります。したがって、普通の薬と違って非常に使いにくいものです。こういった薬・抗がん剤を使わざるを得ない状態にいながらどのようにして生活の質を保っていけるのでしょうか。

がん細胞を抑制しながら、しかも生活の質を落とさず通常に近い生活を送れるようにするにはどうしたらいいのか。それには医者と相談し意見を交換し合い、治療方針をその話し合いの中で決めるしかない。そのような関係を医者とどう作っていけるかが重要です。確かに医療知識を盾に強引に 標準医療を進めて行く医者もいるかも知れません。しかし大部分の医者はむしろ患者に納得してもらった医療を施したいものだと思います。

医者任せにならないためには、患者は自己防衛策ではありませんが、一定の自分の病気に対する知識が必要となると思います。そうでなければ医者と対等の話が出来ないことになりかねません。もちろん医者によりますが。同時に選択した結果の責任はご自身で背負うという覚悟が無ければ、自分の望む治療は受けることは出来ません。選択には責任が伴います。自分の生き方に自分で責任を取るそういった生き方が問われているのです。

抗がん剤による体力消耗に対してはステロイド剤を使います。それによって普通の日常生活を送れる体力を維持することが出来ます。しかし一方でステロイドによって高血糖、高脂血症、骨粗しょう症などの副作用の恐れがあります。抗がん剤やステロイド剤の量を体調に合わせて微妙に調節し、生活の質を維持しながら治療を続けるという綱渡りのような日々を過ごしていかなければなりません。これができるのは自らの生への執着でしかないでしょう。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

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Author:yosimine
がん治療とは長く細い道を辿ら
なければならない。その先に希
望があると信じながら。

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