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授業での話(案)-4

3月19日(水)
「いのちの授業」での話(案)-4・続き

13、死とはなにか
人は死を経験できないし、死とは何かを語ることは出来ません。しかし生を語ることは出来ます。その生の中で死に向かい合うことは出来ます。全ての人にとって生とは死への限られた時間でしかありません。その限られた時間の中で、自らが生まれてきた意味を問い続けながら死を迎えるのです。回答が出るか出ないか分からない問いを発しながら、日々答えを模索し続けながらやがて最後の時を迎えていくのです。人生の目標とは何でしょう。こう考える時思い浮かべるのが、ドイツの哲学者イマニュエル・カントが死の間際に言った言葉「Es ist Gud=これでよい」という言葉です。

220px-Immanuel_Kant_(portrait).jpgカント(写真左)は一生独身で、毎日同じ時間に家を出て大学で授業を行い、同じ時間に帰ってきていました。カントが通る時間にあわせて町の人は時計を合わせたというくらい正確だったらしい。一見面白みのない生活のように思えるが彼の頭脳の中は輝くばかりの思想に満ち溢れていたのです。生きる意味は千差万別です。状況に流されない確固たるものを自らの中に打ち立てられれば生きる意味はおのずとあふれ出てくるでしょう。

人は何故山に登るのか、その登山が厳しければ厳しいほど、頂上に着いたときの感動は大きい。人生も又同じで人は目標に向かっての達成感を得るために苦労しているのでしょう。そしてその達成感の中で死は意味を持ってくるのです。そのとき死は自分自身にとっての、今までよく頑張ったねといった勲章に変わるのです。そのときもはや死は恐怖でも、未知なる物でもなく、自分を迎え入れる揺りかごとなるのでしょう。

現実としての死、それはどんな人にもいつか平等に訪れる現実です。人や生き物たちがこの世に生をうけ、その生をまっとうした後に訪れる死について少しでも理解した時何が見えるでしょうか。自分の命はもちろん、自分の愛する人や隣人、身近な動物や植物たちの命がとてもかけがえのない尊いものとして見えてくるのだと思います。自らの生について考えると、必然的に他人の生に対する配慮が生まれてくるものなのです。

14、限られた人生をいかに生きるか
余命が 限られているということはどういうことでしょう。限られた命をどのように生きたらいいのでしょう。私は余命が限られています。しかし余命が限られているのは私だけではありません。死は突然誰にでも偶然に、しかい宿命として襲ってくるのです。統計的には3人に一人がガンで死んでいます。誰でも何時がんになるか分からないし、交通事故や不慮の死に見舞われるかもしれません。その限りでは誰でも命には限りがあり何時死ぬのか分かりません。

命が限られているということを知ることは、嫌が応でも今をいかに生きていくかを問うことになるのです。それを知れば悔いのない人生を送りたいと思うのです。漫然と生きてきた自分の生き方を見つめ直す事になります。死があるからこそ生の輝きを見出すことが出来るのでしょう。そういった意味で、命を語ることは、死を見つめることであり、そのことを通して生の意味を再認識することだと思います。

余命を宣告されたがん患者にとって、死とは何か、生とは何か、どのようにしたら生を全うできるのか、どのように死を受け入れるのか、限られた命をどのように燃焼させていくのか、生きるということは時間の長さでは測れないものです。人は今を生きることが出来るだけです。未来は今になることによって経験できる時間です。その今をいかに生きるかが問われているのです。

死は生きているもの全てに訪れる自然であたりまえのことです。それぞれのなすべきことを終えて迎える死は、穏やかであり、恐れることではないものでしょう。「死」について思いを馳せる時、あたりまえのようにそこにあった自分の生が再び鮮やかによみがえってきて、それがとても尊いものであることに気づかせてくれます。がん患者にとってはこのことの認識は生きる希望をあたえてくれるものでしょう。

15、今の社会の中で命についてどう考えるのか
先ほど申し上げたとおり「命の問題」それは当然のことながら私たちがん患者だけの問題ではありません。現代社会はまさに、争いや疑惑や不信に満ちた暗闇の中に漂っていえるでしょう。

国内では我が子に虐待を繰り返し、無抵抗な子どもを死に追いやる親や、親を殺す子供たち、いじめなどによる自殺や、小さな子供が被害を受けてしまう事件、利己的で身勝手な行動としての殺人、年間3万位を超える自殺者、次々と死者が生み出されてきています。

somali10.jpg今の国際社会に起こっている人の間にある限りない格差とそれに伴う悲劇はさらに過酷なものです。日々食事も与えられず、そして誰からも看取られずに死んでいく多くの貧窮のどん底にいるも人々がいます。日本では毎年11兆円の食糧が残飯として廃棄されています。その一方で世界では毎日2万3千人が餓死し、8億人が飢えています。戦争による「人と人との争いによる死」が繰り返され、「犠牲となり失われていく一般市民の膨大ないのちの死」が大国の利害とエゴイズムにより強制されています。(写真・ソマリアの子供・1992年)

いのちには限界があることを知りながら自然に死を迎え入れて静かに旅立っていく命と、様々な要因で不本意に奪われていく命があります。現代社会がこういった状態だからこそむしろ命の重大さについて考えてみなければならないのではないでしょうか。今のこの世の中に生きている一員としての責務として考えることが求められているのです。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

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がん治療とは長く細い道を辿ら
なければならない。その先に希
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