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辺見庸・講演会 「死刑と日常」-2

4月6日(日)

辺見庸の講演-2

死刑が執行された
2月1日午後のニュースで3人に対する死刑が執行されたと放映された。私には獄中の死刑確定囚で交流している人がいる。彼からしばらく前に再審が棄却されたという報告を聞いていた。ニュースを聞いた時、彼が執行されたのではないかという思いがよぎった。その途端、体の右半身が硬直し動かなくなってしまった。極度の緊張感が体を麻痺させたのだ。後で彼でないことが分かった。知り合いだと全く感じ方が違うと思った。

死刑執行とは無味乾燥なものではない。強烈な音と匂いに満ちている。被造物の最後の音と匂いなのだ。ロープの軋む音、頚骨の折れる音、舌骨の砕ける音、鼻血、失禁、脱糞、射精、音が響き、匂いが立ち込める。ロープを首に掛ける時2人の刑務官が行う。足元の床板を落とすボタンは5人で同時に押す。誰のボタンで床板が落ちたか分からない。責任を分散させる。床が落ちてから平均14分位痙攣する。医務官が死んでいるか確認する。「絶脈」「心臓停止」と叫ぶ。刑務官の責任者が「本日の執行無事終了」と叫ぶ。乱調を排除し、日常性が全てを包んでいる。

「ダンス・イン・ザ・ダーク」の死刑執行の場面は凄い。頚骨の折れる音が聞こえる。自分の子供のために死ぬことになるのだが、執行に対して死にたくないと叫ぶ。騒ぎ抵抗する。係員はボードに彼女を縛り付け執行を行う。何事もなかったかのように。

死刑とは何か
1_convert_20080406215249.jpg2006年12月25日クリスマスの日に死刑が執行された。欧米の新聞は蛮人の国と非難した。執行された4人の内の一人は75歳の高齢で病人であり、車椅子がなければ自力では歩けない。この自分では立てない老人を両脇から抱え縄を首にかけ執行することが可能である倫理はどこにあるのか。これは法律かモラルか。こういったことを考えるきっかけが我々の日常の中にないのではないか。人としてのモラルはどこにあるのか。時間的連続性が人間である。これを絶つ権利は何処にあるのか。

執行された4人に対して憎しみ、悪意があったのか。刑場に狂気はあったのか、情欲、殺意、情動、悪意、倒錯はあったのか。何もなかった。執行は予定通り行われた。情動のない殺人である。通常の殺人にあるものがない。No bodyが殺人を行っている。

年間何十万頭の犬が殺されている。犬をガス室に連れて行く。何の情動も殺意もない、有用が無用かで判断される。都合のいい愛だ。犬が殺されるのを見ると泣けてくる。責任を追わなくていいからだ。死刑執行では涙を流すことは出来ない。

死刑と日常性
鳩山法相は犬好きで知られ、ポメラニアンを溺愛している。自然との共生を政治信条としている。動物愛護議員連盟の会長である。その彼が次々と死刑執行書にサインしている。これはパラノイア(偏執狂)であり、メニアックだ。パラノイアを規範としている。何故それを許すのか。日常性の中で死刑は薄められ無化し、簡単に諧調を取り戻す。復元力が強い。日常性の中で比較すべき外がない。社会が日常の中で自省、対象化できない構造になっている。本当の愛がない。愛は集団でなすものではない。

日本は日常の中で死刑が根付いている。日常の中で自分を映す鏡がない。鏡に私というものが映っていない。「空気が読めない」この言葉は、他者を日常性の中に埋没させるものであり、世間の論理を強要するものであり、理由のない諧調を作り出すものだ。それはファシズム的主体の形成である。日常の中で自覚的に練り上げられた言語がない。身体を掛けたような言語世界がない。ぬえ(色々な動物が組み合わされた怪物)のようなファシズムであり、それを創るのは主体のない我々の日常なのだ。

世間との闘い
君が代斉唱の時、起立しなかったということで根津さんという教員が停職6ケ月の処分を受けた。彼女は「正しいと思ったことは一人でもやる。それが生徒への教育方針だ。」という。彼女は孤立無援で闘ったのだ。一昨年処分された教職員は98名という。あまりにも少なすぎる。組合には個人がない、個人の主体性、個性がない。そこに愛がない。根津さんは日本的日常と闘っている。我々が闘わざるをえないものは世間である。しかしそれは絶望的で孤独な闘いだ。

新聞、テレビは99%世間である。多くの進歩的といわれる作家たちは半身を世間に埋め込み、半身でリベラルなことをいう。戦後民主主義は世間ではなかったのか。文学や詩は世間を超克しえなかった。世間は大暴走し始めている。

世間の力の波及
JR岡山駅で駅員を突き落とした被疑者の父親が記者会見で謝罪していた。何故父親が謝罪の記者会見をしなければならないのか。これは世間を受けたマスコミが、世間に強いられた父親にインタビューしたということである。ここまで世間の力が波及してきている。

2003年に鴻池という文部官僚が「被疑者だけでなく、その親も市中引き回しの上、打ち首にすればいい」と発言し問題発言としてたたかれた。しかし5年後の今日、かっては陰でいわれていたことが、メディアが世間と合体し公然と言うようになった。世間がネットで拡大している。世間は加重し、個人的愛は薄くなってきている。鳩山法相の「自動的に死刑執行を、乱数表で、ベルトコンベアー方式で」といった発言が世間の怒りとならない。死刑存続賛成が8割を占めている。彼が世間を背負っているのだ。

光市母子殺人事件の弁護士に対してネットで「公共の敵」と扇動した発言があった。また「あの弁護士は許せないと思ったら懲戒請求するべきだ」という弁護士としては自殺行為である発言を弁護士がした。その弁護士が知事になるという世間というものの恐ろしい実態を見る思いがする。彼こそマスコミが、テレビが生み出した排出物だ。弁護士は弁護困難な人間に愛を傾けることこそ真骨頂だろう。

世間は社会とは違う。日本には本当に社会などあったのだろうか。世間のままではないか。社会が社会で、個人が個人であったためしがない。今の社会を支配しているのは世間である。世間では本音と建前を区別し、個を陥没させ、無私が期待される。学校、マスコミ、テレビが世間を背負っている。(次回に続く)

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

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