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高麗ハイキング・高麗山聖天院(続き)

10月4日(土)
高麗神社方面に向かう
巾着田を後にして、県道に出ると左が高麗駅で、右に行ってすぐ左に曲がると日和田山、高麗神社方面と表示があった。まだ一時前なのでそちらにも寄ってみようと思った。せいぜい10分かそこいらで着くと思って歩き出した。途中高麗駅方面に行く団体とすれ違ったりして、間もなく着くかなと思って歩いていった。所々の電柱には「高麗神社この先」と看板が下がっている。10分位して、日和田山の麓に到着した。自然公園風になっていって、家族連れがお弁当を広げている。

さらに歩き続ける。結局40分かかった。観光案内のパンフレットを持ってくれば覚悟して歩いたのだが、もうすぐだろうと思いながら歩いたのでかえって疲れる。

聖天院山門、高麗王廟
shodenin-21.jpg高麗神社の少し手前に聖天院がある。小高い山全体を使って作られた寺院だ。山の斜面に本堂はじめ幾つかの建物が垣間見られる。広い駐車場がある。何時こんなに車が来るのだろう。

入口に「天下大将軍」「地下女将軍」と書かれたチャンスンがある。高麗駅にこれと同じ文字が赤い柱に書かれていた。チャンスンとは、集落の入口や道端に立てられた木像や石像で、村の守護神、境界標識、里程標などの役目を果たす民間信仰の一つである。

チャンスンの柱の間を通り、山門に至る。この門には雷門と言う大きな提灯がぶら下がっている。浅草寺の雷門の提灯と同じだ。山門の左右には風神・雷神が奉られている。

雷門の右隣に「高句麗若光王陵」と書かれた黒御影の大きな碑が建っている。「高麗王廟」の額がかかった建物があり、若光の墓とされる多重石塔がその中に納められている。大きな四角い石を積み重ねたものだ。朝鮮の王を祭る墓としてはかなり質素なものだという気がした。その横に池と築山がある。何故こんな所に日本庭園があるか不明だ。

境内に入る

山門から階段を登り、中門に到着する。そこで拝観料を払って、境内に入る。そこに聖天院の略歴が記載されていた。

高麗山 聖天院 勝楽寺
聖天院は、霊亀(れいき) 2年(716)国難を避け日本に渡来した高句麗(こうくり)人1799人の首長高麗王若光(こまおうじやつこう)、侍念僧勝楽、弟子聖雲を始めとする一族の菩提寺として奈良時代に創建された。僧勝楽により開基、聖雲と弘仁により落成され、本尊には王が守護仏として故国より将来した歓喜天(聖天尊)を紀った、故に聖天院勝楽寺と称する。

この聖天院は「本堂や堂宇の老朽化がすすみその改築が迫られていた。そこで裏山を整地して新しい本堂を建立することになった。完成までに7年の歳月を要し、平成12年(2000)に完成した。旧本堂跡地には、中門と塀を新しく建立し、阿弥陀堂を移築したり、庭園を拡張するなどの整備もおこなった」というもので、本堂は建ってからまだ日が浅く、新品同様と言うわけだ。

境内に入って最初に目に入るのは、よく整備された日本庭園だ。中央に池を配し、山の木立を背景にしながら、刈り込んだ木々が池の周りを取り囲んでいる。イメージとしては、六義園や芝離宮などの武家屋敷の庭園を感じさせる造りだ。庭園の右側には書院や庫裏があり、左には阿弥陀堂がある。

阿弥陀堂の横にかなり急な階段があり、途中コンクリート製の風神雷神の像が左右に設置されている。階段を上りきると鐘楼があり高麗王若光の石像が立っている。

本堂とその周辺
shodenin-91.jpg2000年に落成した真新しい本堂が目の前に現れる。裏山の山腹を整地して総ケヤキ造りの豪華なものだ。本堂に本尊として安置されているのは、1580年に鎌倉仏師の大蔵法眼が彫り上げた寺宝の不動明王座像である。山を切り開き、本堂を作るという膨大な費用はどこから出たのだろうか。信徒からの寄進なのだろう。信仰の力に何時も驚かされる。

本堂の前は広場になっており、赤い欄干に囲まれ、見晴台となっている。山門から中門、中門から本堂へとかなりの階段を登ってきた。見晴台からは、周辺が一望できる。

本堂の右側に石灰岩が露出した箇所があり、その形が雪を懐いた山に似ているところから、寺では「雪山」と呼んでいる場所があった。

慰霊塔と八角亭

鐘楼の裏から、慰霊塔の方に向かう道がある。在日韓民族無縁仏の慰霊塔だった。第二次世界大戦で死亡した韓国人が、無縁仏のまま供養もされずに放置されてきた。それらの無縁仏の供養を願う在日韓国人の篤信者たちによって、平成12年(2000)1月にこの塔が建立された。日本の朝鮮支配36年間を象徴して、塔は36段階で造られていて、高さは16m。塔の下部は納骨堂になっている。石塔としては日本最大であるという。

日本人が忘れかけている侵略と植民地支配の歴史を韓国人は、しっかりと記憶の中に焼き付けている。加害者は自らやったことを忘れる。しかし被害者は決して忘れることはない。この塔の36段階という中にその想いが凝縮しているように思える。

その想いは、慰霊塔のそばにある、休憩所となっている八角亭にも表れている。3.1独立運動の開始を告げる、独立宣言が読み上げられたのが、バコダ公園の八角亭であり、韓国人にとっては記念すべき建物である。韓国の同胞によって、韓国の建材を使用して施工されたものである。

高麗の歴史
聖天院は、高麗における朝鮮人の歴史を知る上で重要な建造物であった。高麗の歴史に関して、続日本紀によれば「今から1300年前唐と新羅の連合軍による高句麗滅亡によってわが国に渡来した高句麗人のうち甲斐、駿河、相模、上総、下総、常陸、下野7ヶ国の高句麗人1,799人を716年(霊亀2年)に武蔵国に移し、高麗郡を置いた。

高麗王若光は高麗郡の長として、広野を開き産業を興し民生を安定し大いに治績を治めた。」とある。高句麗が滅亡した688年の日本は飛鳥時代、天武天皇は、中央集権的な国家体制の整備に努めていた頃である。

当時の日本はかなり朝鮮人には寛容だったような気がする。高句麗の亡命者を一箇所に集め土地を与え郡として認可している。そして高句麗の王を郡の長に任命している。彼らの持つ技術は日本の産業の発展に大きく寄与することになった。聖天院の歴史から、次々と日本と朝鮮の歴史が紐解かれていくのが興味深い。(続く)

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