FC2ブログ

食卓

11月4日(日)
食卓とは
 昨日の夕食にカードが添えられていた。「本日は秋らしい食材を使った料理をご用意しました。どうぞ賞味ください」というものだ。メニューは秋刀魚塩焼き(おろし・レモン添え)、きのこご飯、さつま芋甘煮、菊花浸し、のっぺい汁、フルーツというものだった。この病院の食事は味もよく、品数も多く、暖かいので助かっている。季節の折々には特徴的なメニューが用意される。誕生日にはバースデーカードとデザートプリンが出た。色々考えた料理だ。

 ただ病院食というのは当然だが、食卓を囲むというものではなく、ベッドに腰掛け、テーブルに食事のトレーを置き、各人が一人ずつばらばらに、話し合うこともなく黙々と食事をするということになる。ここには食事を通した社会性の獲得はない。もちろんこれは病院というものの関係性の必然的有り様なのだが。

『家族ゲーム』における食卓
D110480999.jpg 昔見た『家族ゲーム』という森田芳光監督の映画の中で、食事テーブルが横にのみ長い長方形で、家族はそれに横一列に並んで食事をするシーンがたびたび登場する。これは食卓を囲むということの中におる家族のコミュニュケーション、家族の絆といったことが希薄で関係性がばらばらな家族の有り様を表現しているのだろう。そこには会話もなく、お互いに関係を持とうという意思もない。ただ食物を咀嚼する行為を繰り返しているだけだ。

 この映画は核家族化、校内暴力、偏差値教育といったことをテーマにしているが、食事場面に象徴されるのは現在の人間関係ではないだろうか。今子供たちは夜も塾に行き、父親は連日の残業で遅くなり、家族で食卓を皆で囲むことは稀になって来ているのだろう。そうなれば家族間の会話もひとりでに少なくなり、やがてはなくなり、意思疎通が出来なくなってしまうだろう。家族と食卓の持つ意味をもう一度考えてみよう。

『魔の山』における食卓
 食事の形態に社会的意味を持たせ、分析した文章がある。トーマス・マンの2つの小説を比較しそこにおける食事の風景が市民社会に対する関係の仕方を明らかにするものとして次のように書かれている。
 『ブッデンブローク家の人々』の世界から『魔の山』の世界の変化をもっともよくあらわしているのが、食事の場面の描写である。

 『ブッデンブローク家の人々』で描かれている「風景の間」でおこなわれる会食は一週間おきに家族が集まるものであり儀式的な性格を強く帯びている。またそこには家族の他に取引のある商人仲間や牧師など他の人々も呼ばれている。そこでは会話が重要な役割を果し、その話題は取引に関する話から政治にいたるまで幅広いものであり、半ば公的な機能を併せ持ったものである。
 
 『魔の山』に登場するサナトリウムは、全体的には「無時間性と義務を忘れた反市民的世界」「密封されたレトルト的世界」として、登場人物は「生活の現実から遊離したところに生ずる不毛な抽象性に支配」されている。そこでのハンス・カストルプは、時間を浪費することによって、節約やたゆまざる勤勉といった市民社会の規範から離れてしまっていることを明らかにしている。彼はここに滞在する人々と豪華な食卓を囲むことになるが、その食事は完全にその社会的な機能を失っているものである。

 サナトリウムの人々は、さまざまな国、さまざまな階層の出身であり、ブッデンブローグ家の「風景の間」に集う人々とは異なっている。したがって「ここでは同じテーブルの人たちのほかに知りあいをつくることはなかなか容易でない」のである。 (『魔の山の市民』島田了)

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

yosimine

Author:yosimine
がん治療とは長く細い道を辿ら
なければならない。その先に希
望があると信じながら。

最近の記事
カレンダー
08 | 2020/09 | 10
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 - - -
ブログ内検索
最近のコメント
最近のトラックバック
カテゴリー
リンク
月別アーカイブ
RSSフィード