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京都めぐり2日目・嵯峨野

10月14日(火)
竹林の道
天龍寺の山門を出て左に曲がりしばらく行くと、竹林の入口がある。竹林は山陰線に並ぶようにして天龍寺の北門の方に続いている。かなりの人が出ている。時々人力車が通る。竹林の間を走る人力車はよく旅行パンフレットで見かける光景だ。どちらかというと行列を作って竹林の中を歩いている感じだ。風情も何もあったものではない。

野宮神社
竹林を5分ばかり行って、引き返すと野宮神社がある。人力車の人が説明していた。鳥居は樹皮がついたままの「黒木の鳥居」で、古代の鳥居の形式を伝えているという珍しいものだという。境内には苔を用いた美しい庭園として有名な「野宮じゅうたん苔」がある。縁結びや、進学の神様として知られており、若い女性や修学旅行生に人気があるということで、修学旅行の生徒を含めてかなりの人出で賑わっていた。ここまでが一般的な観光コースでここからさらに化野念仏寺の方に向かう人は少ない。大部分の人はここからまた渡月橋のほうに引き返していく。

京都150 野宮神社入口の鳥居

野宮神社から、踏切を渡り7,8分いくと常寂光院があるがここは寄らなかった。ここら辺から念仏寺にいたるコースは、周りが木々に囲まれ、嵯峨野の落ち着いた静かな風景を感じさせる。

落柿舎
最初に訪れたのは落柿舎である。江戸期の俳人、芭蕉の門人である向井去来の閑居跡で去来が在庵の時は玄関横に蓑笠を吊した故事の通り、今も蓑笠が吊るされている。松尾芭蕉も何度か訪れ嵯峨日記を記す。庭の柿を売る契約をしたのちに、柿がすべて台風で落ちてしまったためこう呼ばれている。畑と林に囲まれた藁葺きの小さな庵だ。昔は全く人里離なれた孤立した所だったのだろう。

二尊院(小倉山二尊教院華台寺・天台宗山門派)
小降りだった雨が少し激しくなってきた。立派な山門が目に入る。小倉山二尊院と書いてある。この総門は伏見城の薬医門を移築したものとされるものだという。門からなだらかな坂が続いていて、塀に囲まれた境内に至る。勅使門と黒門があり境内に入る。広い庭の向こうに本堂がある。本堂の裏は小倉山だ。観光客は5,6人しかおらず、雨が降っていることもあって、あたりは静まり返っている。本堂からの庭の眺めはなかなかのものだ。何本かの木が紅葉している。やはりこの寺院も紅葉の名所らしい。

京都157 二尊院本堂

本堂の横に弁財天堂があり、そこから急な階段が5~60段あり、登りきった所に、寺院を再興した湛空上人廟がある。階段の周辺は墓所なっており、古くからの墓が数多く並んでいる。急で滑りやすい坂道を降りてまた本堂に戻った。

略歴:平安時代初期(834~47)に嵯峨天皇が慈覚大師を開祖として建立したのが起こりです。その後荒廃しましたが、法然上人らによって再興 されました。応仁の乱によって堂宇伽藍が全焼しましたが、本堂・唐門は約30年後再建されました。本堂右に釈迦如来像、左に阿弥陀如来像の二本尊(ともに平安末期の作で重要文化財)を安置しており、二尊院の名もここから名付けられました。

祇王寺(尼寺・大覚寺の塔頭・真言宗)

祇王寺は小倉山麓にあり、楓と竹に囲まれたささやかな草庵である。今までの広い寺院を見てきたが、ここはきわめて狭いが、誰もいない苔むした庭は現在という時間を忘れ去るような、静けさに包まれていた。

giouji_convert_20081022110345.jpg 祇王寺庭園 

平清盛と二人の白拍子の女性の物語がこの寺の背景にある。今まで清盛から寵愛を受けていた祇王は仏御前の出現によって、館を追い出されることになった。その後、祇王、妹の祇女、その母、そしてやがて自分も同じようなるだろうと感じた仏御前の4人は仏門に入ったという歴史がある。

仏間には本尊の大日如来と、清盛と4人の木像が安置されている。こういった祇王寺の歴史が、仏間で、テープによって解説されていた。静かな空間の中に、突然修学旅行の高校生40名入ってきた。狭い庭なので、あたり一面人だらけになる。といったことで、祇王寺を後にした。

化野念仏寺(華西山東漸院念仏寺・浄土宗)
あだし野という言葉は、徒然草の「あだし野の露消ゆる時なく鳥部山の煙立ちさらで・・」という一節で印象に残っている。墓場の露と、火葬場の煙というものに例えて人生のはかなさを指している。そのあだし野の原風景を現在に残している場所として、一度は行ってみたいと思っていたところだ。

京都172 念仏寺の石仏群

境内には人っ子一人いなかった。あたりは薄暗く墓場の雰囲気は十分堪能できる。まず目に付くのは仏舎利塔で、中が納骨堂になっている。しばらく行くと墓地になり、その一角におびただしい数の石仏・石塔が並べられている。これは昔あだしの一帯に葬られた人々のお墓である。

何百年という歳月を経て無縁仏と化し、あだし野の山野に散乱埋没していたのを集めたものである。賽の河原に模して「西院の河原」と名付けられた。この石仏の数の多さに圧倒させられる。長い歴史、死者の歴史を感じさせられ、薄暗い空の下で数限りなく横たわる様々な死に対面しているような気分にさせられた。

略歴:「あだしの」は「化野」と記す。「あだし」とははかない、むなしいとの意で、又「化」の字は「生」が化して「死」となり、この世に再び生まれ化る事や、極楽浄土に往来する願いなどを意図している。この地は古来より葬送の地で、初めは風葬であったが、後世土葬となり人々が石仏を奉り、永遠の別離を悲しんだ所である。

大覚寺に向かう・寂庵
念仏寺から来た道を少し戻り、八体地蔵尊が並んだT字路を、大覚寺方面に向かう。「嵯峨野めぐり」と書いた矢印が立てられている。少し行くと「寂庵」と書いた看板がある。4,50mばかり歩いていくと、瀬戸内と書いた表札があった。ここがそうなのだろう。高い塀に囲まれていて中は分からないが、建物の横の壁だけ見える。確かにそれほど大きな建物ではない。

しかし想像していたのとは全く違っていた。そもそも嵯峨野の中でも寂庵のある場所のイメージが全く違っている。野宮神社から念仏寺までは寺院が並んでいて、木々に覆われもの淋しい雰囲気があったが、大覚寺方面の道は明るく開けていて、畑や田んぼが少しはあるが、どちらかというと高級住宅地といった感じで、そこそこ大きな一軒家が並んでいるといった雰囲気で、俗世を避け、瞑想にふける日々を送るといった雰囲気では全くない。寂庵もその中の1軒といった感じだ。バス停も近く出し、京福電鉄の嵐山まで歩いて2,30分位で行ける距離だろう。

大覚寺(旧嵯峨御所・真言宗大覚寺派の大本山)
京都183 大覚寺本堂

寂庵から20分位で大覚寺に着いた。ここは池を中心とした広大な面積を占める庭園を抱え、20数棟の建物を配している。受付から最初に行くのが「宸殿」で、そこには狩野山楽の筆による豪華な襖絵、紅梅・牡丹の図を始め桃山時代を代表する金碧画が飾られていた。庭は白石で敷き詰められ、「左近の梅、右近の橘」が配されている。

宸殿から渡り廊下を通って五大堂に行く。ここは江戸時代中期(天明年間)創建され、現在は大覚寺の本堂となっている。不動明王を中心とする五大明王を安置する。 大沢池に面する東面には、池に張り出すように広いぬれ縁があり、そこからは大沢池を中心とし、山々を背景とした、自然を十分に取り込んだ眺望がすばらしい。中国の「洞庭湖」を模して作られたことから庭湖と屋ばれる。日本最古の庭苑池だといわれる。

さらに御影堂(心経前殿)や桃山時代の書院造りである正寝殿など見所には事欠かない。この寺院の正式名称は「旧嵯峨御所大覚寺門跡」という。門跡寺院とは天皇または皇族が住職に就かれた寺院のことだという。

京都187 大沢池

大覚寺の前には広い駐車場がある。車はほとんど止まっていなかったが、紅葉の季節には駐車しきれないのだろう。京都駅行きの1時間1本のバスの時刻が迫ってきたので、大覚寺を後にした。

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

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