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カフカ 『変身』

3月8日(日)
hensin_kafuka.jpg「ある朝、グレゴール・ザムザがなにか気懸かりな夢から目を覚ますと、自分が寝床の中で一匹の強大な毒虫に変わっているのを発見した」という書き出しで始まる『変身』によってカフカは何を語ろうとしたのか。あらゆる解釈が可能なのがカフカの作品の特徴である。

労働過程とそこからの逸脱
虫になったグレゴールは、自分の仕事について振り返る。
「やれやれ俺は何という辛気臭い商売を選んでしまったのだろう。年がら年中、旅、旅だ。・・・外交販売に付きまとう苦労はまた格別なのだ。その上旅の苦労という奴があって、そればかりはどうにもならない。列車連絡の心配、不規則でお粗末な食事。それに人づき合いが永続きしたためしがない・・・親でもいなかったらとっくの昔に辞表を出しているところなんだ。」

そう思いながら時計を見ると6時30分であった。5時の列車に乗らなければいけないのに寝過ごしてしまった事に気がつく。グレゴールは両親と妹の3人を養うためやりたくない仕事を仕方なくこなしている。そして、心の中にある仕事への嫌悪感が寝坊という結果になり、同時に身体的に虫に変身してしまうのである。

市民社会の中でその秩序を維持する一環としての労働過程の拒絶はとりもなおさず市民生活を営む権利を奪われる事に繋がる。それは人間として生きる権利を奪われる事にもなる。つまり虫に転落するのだ。同時に、一切収入を得られないグレゴールに対する家族の対応も市民社会の論理に貫かれ、さらに自ら働かなければならないという重圧の中で、グレゴールに対する憎しみは積もってくる。グレゴールはわずかばかりの餌を与えられ人目に触れぬよう部屋に軟禁される。

稼ぐ事が出来ないグレゴールを両親や妹は家族の一員としてみる事を放棄する。最初は「彼」と読んでいた虫に対しても「それ」と呼ぶようになり、やがて彼の死によって家族は緊張感から開放される。そして家族はサンサンと陽が射し込む郊外へ、電車に乗りピクニックへ出かけるのである。そこで妹は大きく伸びをする。

日常性と非日常性
家族から見れば、平凡な生活を唯続ける事、それが価値観であるが、グレゴールから見れば、その平凡な生活のなかで、仕事を続ける苦悩や家族との断絶を感じている。この二重生活の緊張感の中で、主人公はある日出勤を中止し、そのことによって日常生活にとって負(毒)そのものである存在、即ち毒虫に変身する。日常性の均衡が破れるときそこに非日常性が噴出してくる。

『変身』は平凡なセールスマンのグレゴールが体験する非現実的な世界がきわめてリアルに描かれ、人は何時、市民社会の日常的営みから追放され非日常の深淵に落ち込んでいってしまうかもしれないといった現代人の不安と孤独を深く表現している。

カフカがこの作品を書いたのは29歳の時。作家としては無名だったため、役所勤めをしながら執筆活動を続けていました。しかし文学と仕事の二重生活で肉体的にも精神的にも疲れていたと言われている。つまり「変身」の主人公ザムザは、当時のカフカの心そのものだったと言えるだろう。

現代社会の中の人間存在
現代社会における人間は市民社会の維持のため餌を与えられ死なない程度に飼い殺しされ実存的存在である。グレゴールが感じるのは家族として凝縮されて描写されている社会に対しての不条理性である。身体が毒虫に変じただけで、部屋に幽閉されるようにして生きざるを得ないという社会、世界に対しての不条理性なのだ。

毒虫はどこにでも現れる。その疎外された魂としての毒虫が感じるものは社会に対しての、あるいは世界に対しての徹底した違和の感情だ。毒虫は、その違和感の中で長く生きることは出来ない。簡単に滅びていくだろう。

そして毒虫は滅びた後、人々はその記憶を簡単に消し去り、安閑として生き続け、日常生活を送っていくことだろう。このことが出来ることこそ、日常に潜む本当の不条理性なのではないか。グレゴールの死後、家族が揃ってピクニックに出かけることが出来ること、それがこの社会のひとつの闇を示している。

カフカの家族関係、とりわけ父親との
グレゴールの部屋は、3面に全部で3つのドアがあり、それぞれ父、母、妹が彼を起こして仕事に行かせようとノックをする。この描写に見られるのはカフカの両親に対する心の重荷を表している。カフカは両親の愛を息苦しいものとして、また家庭生活を戦場として語っていた。「私は両親をいつも迫害者として感じてきました。」と手紙の中で言っている。

父親が文学を有害なものとみなす立場から、それに淫して他を顧みない息子を毒虫,あるいはそうとしかとれないような言葉で呼ぶというようなことはなかったのだろうか。

「毒虫」という言葉で表現されたのは、カフカ一家の論争の中で、今は家族全体の利益を損なうものとして激しく糾弾されたであろう、文学に熱中し、その交友関係などで浪費し、他を顧みない長男フランツのことではないか。

結局グレゴール自身は皆に疎まれ、その存在事態を否定されている。嫌われながらも餌を与えられ死なない程度に飼い殺しされていく。カフカは家族に愛されず誰からも疎まれている自らの存在を毒虫として表現し、『変身』の中で自らの心情を語ったのではないか。

翻訳:高橋義孝訳『カフカ全集Ⅲ』新潮社
参考文献:坂内正『カフカ解読』新潮選書
       リッチー・ロバートソン『カフカ』岩波書店
       ゲァハート・シェーパース『もう一人のカフカ』同学社

テーマ : 思ったこと・感じたこと
ジャンル : 日記

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